Note 11

『人間にんげん失格しっかく』を読よんで [ 道化どうけと世間せけんと、妥当だとうな隠蔽いんぺい ]

「正直しょうじきのほうがいい」ではなく、「妥当だとうな隠蔽いんぺいはすべき」である。ただし知ち音おんとの知ちのラリーにおいては、本質的ほんしつてきな人間にんげん性せいに関せきして正直しょうじきであるべきだ。シャンパンと謳うたったものは、シャンパーニュ地方ちほうで生産せいさんされるべきである。

全ぜん 6 節せつ図版ずはん 8出典しゅってん 0初出しょしゅつ 2026-09-28更新こうしん 2026-09-28

人間にんげん失格しっかく

太宰治だざいおさむ 1948年ねん

『人間失格』の三葉の写真と構成 一葉目 ── 幼年 笑っている子供 二葉目 ── 学生 美貌の学生の、作った笑顔 三葉目 ── 年齢不詳 表情の無い顔 語り手「私」 大庭葉蔵の手記 語り手「私」 はしがき 第一の手記 第二の手記 第三の手記 あとがき 最後の一言
図ず 01『人間にんげん失格しっかく』は、語かたり手ての「私わたし」が、ある男おとこの写真しゃしんを三さん葉は見みたという「はしがき」で始はじまる。その男おとこ、大だい庭にわ葉は蔵ぞうの三みっつの手記しゅきを挟はさみ、「私わたし」が手記しゅきを手てに入いれた経緯けいいを語かたる「あとがき」で終おわる。最後さいごの一言ひとことは、あとがきで京きょう橋はしのスタンド・バアのマダムが口くちにする。
一いち

はじめに

INTRODUCTION

ゆりに勧すすめられ、太宰だざいの人間にんげん失格しっかくを読よんでみることにした。彼女かのじょ曰いわくく、どこか私わたしと共通点きょうつうてんがあるとのことで、この日本にほんで最もっとも売うれた一冊いっさつを奇きしくも非ひ日本人にほんじんを切きっ掛かけに読よむことに至いたった。

率直そっちょくに、なんと陰鬱いんうつで救すくいのない本ほんなのだろうかと重おもい溜息ためいきが出でた。誰だれが、なんのためにこの本ほんを愛読あいどくするのか甚はなはだ疑問ぎもんであり、読了後どくりょうごのこころには胸むねやけのような心地ここち悪わるさが蠢うごめいた。確たしかに、自分じぶんと似にている箇所かしょは多々たたある。しかし、そうであるがゆえに、あるいはそうであると信しんじることで、この名な著ちょと呼よばれる一冊いっさつと私わたし自身じしんの関係かんけいを特別とくべつな何なにか結むすびつきを死し守まもるしたいがために、なぜ世間せけんにこの繊細せんさいな物語ものがたりが刺とげさってきたのか、私わたしはまったく理解りかいができない。

もしこの一冊いっさつの一文字いちもじ一文字いちもじが真しんに心こころの奥おく底そこまで響ひびく人々ひとびとが世間せけんのマジョリティであるのだとすれば、それは世よも末まつと言いわざるを得とくない。

二に

タイトル

TITLE

この書籍しょせきには「世間せけん」という単語たんごが幾度いくども用もちいられる。世間せけんとは、人間にんげんである。そして、私わたしもまた一人ひとりの人間にんげんとして、この世間せけんを構成こうせいする一いち単位たんいである。世間せけんとは、この私わたしを含ふくむこの社会的しゃかいてき動物どうぶつである人間にんげんの集合しゅうごうであり、『人間にんげん失格しっかく』とはその世間せけんの外はずれもの、つまり我々われわれ人間にんげん社会しゃかいの一員いちいんとして生いきる資格しかくをはく奪だつ、或あるいは喪失そうしつした状態じょうたいを指さし示しめしている。作中さくちゅうに登場とうじょうする葉は蔵ぞうが殺ころした心こころの声こえ、「世間せけんというのは、君きみじゃないか」は彼かれの悲痛ひつうの叫さけびなのだろう。家族かぞくからも、友人ゆうじんからも、誰だれからも愛あいされる才さいを持もつ道化どうけ師しは、その人生じんせいの終盤しゅうばんで、自分じぶんを社会しゃかいや世間せけんの構成こうせい単位たんい、つまり人間にんげんとして認みとめることができなくなった、という物語ものがたりである。

世間という集合と、そこから外れること 世間 = 人間の集合 私 ── 一単位 人間失格 生きる資格の、はく奪/喪失 「世間というのは、君じゃないか」 葉蔵が殺した心の声 ── 悲痛の叫び
図ず 02世間せけんとは、私わたしを含ふくむ人間にんげんの集合しゅうごうである。『人間にんげん失格しっかく』は、その集合しゅうごうの一員いちいんとして生いきる資格しかくを失うしなった状態じょうたいを指さす。葉は蔵ぞうが口くちに出ださずに殺ころした「世間せけんというのは、君きみじゃないか」は、世間せけんという言葉ことばの向むこうにいるのが一人ひとり一人ひとりの人間にんげんであることを言いう。
三さん

類似性るいじせい

RESEMBLANCE

葉は蔵ぞうの幼おさな少しょう期きから成人せいじんに至いたるまで、自身じしんと重かさなる部分ぶぶんを多おおく発見はっけんした。だからこそ、この書籍しょせきの陰鬱いんうつとした語ご感かんや感かん性せいに嫌いや気きがさすのだ。

幼おさな少しょう期きには、恵めぐまれた家庭かてい環境かんきょう、小学校しょうがっこうの成績せいせきなど幼おさな少しょう期きの人格じんかく形成けいせいの段階だんかいから自身じしんの過去かこを彷彿ほうふつさせる。自身じしんの記憶きおくではっきりと覚おぼえているのは六むっつの頃ころの記憶きおくだ。小学校しょうがっこう1年生ねんせいのとき、クラスの女子じょしから「なんであなたはそんなに面白おもしろいの?」と言いわれた。私わたしは「いやあ、普通ふつうにしているだけなのだけどね」と返答へんとうしたが、内心ないしんはそうではない。大人おとなも子供こどもも何なにを求もとめているかが自然しぜんと分わかるから、ただそれを言語化げんごかしているだけだと。もちろん、喜よろこんでくれることは自分じぶんとしても嬉うれしいことではあるが、内心ないしんどこかその自身じしんの言げん動どうの醜みにくさに対たいして勝手かってに冷さめた感覚かんかくもあった。後あとに十八じゅうはちになるころには、その女性じょせいからは度々たびたびお出でかけや食事しょくじに誘さそわれることになることも含ふくめ、また自みずから曖昧あいまいなまま距離きょりを置おくところまで似にている。

第一だいいちの手記しゅきの葉は蔵ぞうの台詞せりふにこんなものがある。

尊敬そんけいされるという観念かんねんもまた、甚はなはだ自分じぶんを、おびえさせました。ほとんど完全かんぜんに近ちかく人ひとをだまして、そうして、或あるひとりの全ぜん知ち全能ぜんのうの者ものに見み破やぶられ、木きっ葉はみじんにやられて、死しぬる以上いじょうの赤あか恥はじをかかせられる、それが、「尊敬そんけいされる」という状態じょうたいの自分じぶんの定義ていぎでありました。人間にんげんをだまして、「尊敬そんけいされ」ても、誰だれかひとりが知しっている、そうして、人間にんげんたちも、やがて、そのひとりから教おしえられて、だまされた事ことに気きづいた時とき、その時ときの人間にんげんたちの怒いかり、復讐ふくしゅうは、いったい、まあ、どんなでしょうか。想像そうぞうしてさえ、身みの毛けがよだつ心地ここちがするのです。

『人間にんげん失格しっかく』第一だいいちの手記しゅき

これも痛いたいほどよくわかる。恐おそらくゆりほど物事ものごとの要かなめ領りょうがよかったわけではないであろうが、およそ小学校しょうがっこうの勉強べんきょうに苦労くろうしたという記憶きおくは無ない。しかし、それも自分じぶん以外いがいの同どう級きゅう生せいの脳のうの発達はったつが遅おそいだけで、自分じぶんより頭あたまのいい、或あるいは何なにか直観ちょっかんに優すぐれた人間にんげんの前まえでは全すべてを見透みすかされるという恐怖きょうふ心こころは常つねにあった。小学校しょうがっこうでやりたい放題ほうだいできたのは、周まわりは自分じぶんよりもバカであると定量的ていりょうてきかつ定てい性せい的てきに認知にんちできていたからである。

相違そうい点てんを挙あげるとすれば、私わたしはお道化どうけを楽たのしいと感かんじられるという、素その道化どうけが存在そんざいしていた点てんである。現在げんざいもそうであるが、バカなふりをして詰つまらぬ食事しょくじの場ばが温おんまるのであればその一いち役やくを買かって出でたほうがまだ楽らくで、それを見透みすかせない人々ひとびとを見みている様子ようすもまた一いち興きょうである。そんなどうでもいいことを楽らくしめる根ねっからの阿呆あほうの部分ぶぶんがある、ということを自己申告じこしんこくして言語化げんごかすることさえも、世間せけんとの平衡へいこうを保たもつためのサービスであり、お道化どうけの一部いちぶなのかもしれない。

お道化の三層 世間との平衡を保つためのサービス 「阿呆の部分がある」と自己申告して言語化することさえ、ここに入るのかもしれない 場を温める役を買って出る バカなふりで詰まらぬ食事の場が温まるなら、そのほうがまだ楽 素の道化 どうでもいいことを楽しめる、根っからの阿呆の部分 外側の層が、いちばん内側を包みなおす ── どこまでが素で、どこからがサービスかは決めきれない
図ず 03葉は蔵ぞうとの相違そうい点てんとして挙あげた「素その道化どうけ」を、三みっつの層そうに分わけた。内側うちがわの素その道化どうけを、外側そとがわのサービスが包つつみみなおしている。

作中さくちゅうには、竹たけ一いちという少年しょうねんが登場とうじょうする。彼かれは、主人公しゅじんこうがお道化どうけたことに対たいし、「わざわざなんでそんなことをするのだ」と呆あきれ、見み透すかしてしまったのである。この点てんは非常ひじょうにゆりと重かさなる。私わたしは、むしろ自分じぶんの道化どうけを見み透すかしたゆりに恐怖きょうふを抱いだくことはなく、むしろ開放かいほうと安堵あんどを感かんじている。この点てんは主人公しゅじんこうの卑屈ひくつさと大おおきく異ことなる点てんであろう。

葉蔵と私 ── 似ているところと、似ていないところ 観点 葉蔵 私 判定 幼少期 恵まれた家庭、良い成績 恵まれた家庭環境、小学校の成績 共通 道化 人の求めるものを察して、道化を演じる 求めているものが自然と分かり、言語化する 共通 恐れ 尊敬されるほど、見破られるのが怖い 直観に優れた人間に見透かされる恐怖 共通 距離 好意を向けられても、曖昧なまま離れる 誘われても、自ら曖昧なまま距離を置く 共通 道化の手触り 人間への必死の求愛 素の道化があり、楽しいと感じられる 相違 見透かす者 竹一 ── 恐怖と卑屈 ゆり ── 開放と安堵 相違 似ているのは、見えているもの。違うのは、それをどう受け取るか。
図ず 04この節せつで挙あげた葉は蔵ぞうとの重かさなりを並ならべた。上うえの四よっつは同おなじで、下したの二ふたつが違ちがう。違ちがいはどれも、道化どうけであることや見透みすかされることを、恐おそれではなく楽らくしさや安堵あんどとして受うけ取とれるかどうかにある。
四よん

信しんじるということ

TRUST

第だい三さんの手記しゅきに登場とうじょうするヨシ子こ、この人物じんぶつは私わたしの心こころを徹底的てっていてきに陰鬱いんうつなものにさせた。彼女かのじょは信頼しんらいの天才てんさいと称しょうされており、その才さいがゆえに取引とりひき先さきの男おとこから騙だまされ、襲おそわれてしまうのである。作中さくちゅうには、直接的ちょくせつてきな表現ひょうげんはなく、「自分じぶんの部屋へやの上うえの小窓こまどがあいていて、そこから部屋へやの中なかが見みえます。電気でんきがついたままで、二に匹ひきの動物どうぶつがいました。」とだけ書かかれる。この一言ひとことのなんたる生々なまなましさたるや。理性りせいを失うしない、本ほん能のうに溺おぼれたモノはもはや人間にんげん失格しっかくなのだろう。葉は蔵ぞうは続つづける。「自分じぶんは、ぐらぐら目めまいしながら、これもまた人間にんげんの姿すがただ、これもまた人間にんげんの姿すがただ、おどろく事ことは無ない、など劇げきしい呼吸こきゅうと共ともに胸むねの中なかで呟つぶやき、ヨシ子こを助たすける事ことも忘わすれ、階段かいだんに立たちつくしていました。」と。果はたして、この言葉ことばは彼かれの本心ほんしんなのだろうか。ヨシ子こはその後ご、台所だいどころにジアールを隠かくしていた。彼女かのじょはその命いのちを終おわらせる準備じゅんびを密みつかに進すすめており、自身じしんを人間にんげん失格しっかくと認みとめることに耐たえられなくなる、その瞬間しゅんかんを意識いしきしていたのだろう。恐おそらくひとは自みずからを信しんじることができなくなったとき、自身じしんを人間にんげん失格しっかくとする。それができるのはその本人ほんにんだけなのだろう。

人間失格を宣告するのは誰か 世間が宣告する? 世間 ひと 本人が宣告する 自らを 信じられない 自身を人間失格とする ヨシ子 信頼の天才 その才がゆえに騙され、襲われる 台所にジアールを隠す ── 終わらせる準備 それができるのは、その本人だけなのだろう
図ず 05この節せつの読よみ。人間にんげん失格しっかくを宣告せんこくするのは世間せけんではなく、自みずからを信しんじることができなくなった本人ほんにんである。下したの段だんは、その読よみで追おったヨシ子この道筋みちすじ。

それから単純たんじゅんに、人間にんげんが衝動しょうどう的てきに動物どうぶつに変容へんようすることのリビドーに吐はき気けがした。この物語ものがたりにおいて、唯一ゆいいつ汚よごれなき存在そんざいさえもこのような結末けつまつである。まるで救すくいがない。以前いぜんから度々たびたび疑問ぎもんであるが、この小説しょうせつは別べつとしても、なぜ人々ひとびとは本題ほんだいに逸それた性せい的てき情じょう景けいを描えがきたがるのだろうか。それは商業しょうぎょう的てきな理由りゆうによるものなのか、それとも作者さくしゃのエゴなのか。小説しょうせつや映画えいがに感情移入かんじょういにゅうをしながら没入ぼつにゅうする私わたしにとって、何なにとも言いえない居心地いごこちの悪わるさがあり、同時どうじにこれが現実げんじつかと世界せかいに悲観ひかんしさえする。プラトニックな世界せかいがまだ私わたしを囲かこうこの世界せかいに存在そんざいすることを信しんじたい。

五ご

私わたしたちの知しっている葉はちゃんは

THE YŌZŌ WE KNEW

この書籍しょせきの最後さいごはこの一言ひとことで締しめくくられる。

私わたしたちの知しっている葉はちゃんは、とても素直すなおで、よく気きがきいて、あれでお酒さけさえ飲のまなければ、いいえ、飲のんでも、……神かみ様さまみたいないい子こでした

『人間にんげん失格しっかく』あとがき

この一言ひとことが道化どうけ師しとしての成功せいこうと、タイトルとの対比たいひを巧妙こうみょうに明示めいじした箇所かしょなのだろう。彼かれの死後しごもなお、彼かれのお道化どうけや八はち方ほう美び人ひとは周囲しゅういの人々ひとびとのこころに刻印こくいんされた。

ああ、人間にんげんは、お互たがい何なにも相手あいてをわからない、まるっきり間違まちがって見みていながら、無む二にの親おや友とものつもりでいて、一生いっしょう、それに気き附ふかず、相手あいてが死しねば、泣ないて弔詞ちょうしなんかを読よんでいるのではないでしょうか。

『人間にんげん失格しっかく』

これは、読者どくしゃによって賛否さんぴが分わかれる部分ぶぶんだろう。私わたしは、一部いちぶ賛成さんせいである。

恐おそらくこれを反対はんたいとする人ひとは、正直しょうじきのほうがいいに決きまっているという意見いけんだろうが、それは物事ものごとを理想化りそうかし単純たんじゅんに捉とらえすぎている。むしろ私わたしに言いわせれば、「正直しょうじきのほうがいい」ではなく、「妥当だとうな隠蔽いんぺいはすべき」のほうが適切てきせつと考かんがえる。正直しょうじきのほうがいいとは、さもなくば、醜みにくく汚きたないありのままの自分じぶんをすべて受うけ止とめてほしいと言いっていることに他ほかならない。完全かんぜんな一方いっぽう通行つうこうのエゴイズムであり、暴力ぼうりょく的てきである。もし私わたしが神かみであったとしても、「ちょっと気きの利りいた神かみ」のように民みんの前まえでは偽善ぎぜんを演えんじ、見み繕つくろうはずである。もちろんこれも、民みんに敬うやまわれたいというエゴによるものだが、先述せんじゅつのそれとことなるのは、民みんからも歓迎かんげいされるという点てんである。双方そうほうが得とくをするのであれば、そういった建前たてまえのようなものも時ときには必要ひつようであろう。もちろんそこに裏切うらぎりなどといった動機どうきは存在そんざいすべきではないのは言いわずもがなであるが。

正直と、妥当な隠蔽 「正直のほうがいい」 「妥当な隠蔽はすべき」 醜い自分をすべて受け止めてほしい ── 一方通行のエゴイズム、暴力的 「ちょっと気の利いた神」の建前 ── 双方が得をする。裏切りの動機は無い 振る舞い(建前) 本質的な人間性 思想・価値観・哲学・倫理観 ビジネス 知音 本音と建前を より高度に管理する 属するコミュニティーの 状況による 品性を保つ範囲の建前は グラスの手入れとして時に必要 正直であるべき 虚構の礎にしない 「一部賛成」とは「一部反対」とほぼ同義 ── 右下の一マスだけは、隠さない
図ず 06「一部いちぶ賛成さんせい」の中身なかみ。上うえの帯おびでは「正直しょうじきのほうがいい」より「妥当だとうな隠蔽いんぺいはすべき」をとる。ただし下したの四よんマスのうち、知ち音おんとの関係かんけいで本質的ほんしつてきな人間にんげん性せいに関かかわる右みぎ下しただけは、正直しょうじきであるべきだとする。

また、一方いっぽうで一部いちぶ賛成さんせいとは一部いちぶ反対はんたいとほぼ同義どうぎであるが、そのこころは本質的ほんしつてきな人間にんげん性せいに関せきしては正直しょうじきであるべきと考かんがえるからである。もちろん、その人ひとの属ぞくするコミュニティーの状況じょうきょうにもよるのだろう。ビジネスでは本音ほんねと建だて前まえはより高度こうどに管理かんりされるべきである。しかし、こと知ち音おんなどの関係かんけい性せいにおいて、これは虚構きょこうの礎いしずえとなりかねない。思想しそう、価値かち観かん、哲学てつがく、倫理りんり観かん、そういった理性りせいと感情かんじょうを自身じしんの脳のう神経しんけいを通とおし、相手あいてと互換性ごかんせいを持もつ言語げんごや音楽おんがくなどへとオリジナルの粒度りゅうどをなるべく失うしなわないよう変換へんかん・発信はっしんし、相手あいての五ご感かんがそれを受うけ取とり、脳のう神経しんけいを通つうじて主観的しゅかんてきに解釈かいしゃくをする。こういった知ちのラリーにおいては、相手あいてが耳みみざわりの良よい言葉ことばばかり並ならべても、その関係かんけいの純度じゅんどを下さげるばかりである。シャンパーニュ地方ちほうのワインにボルドー地方ちほうのワインを一いち滴てき垂たらしたとしても、恐おそらくそのことに気きが付つく人ひとは少すくないだろう。誰だれもがシャンパンとして疑うたがわない。しかし、それを何度なんども繰くり返かえすうちに、もしくは舌したの効きく人ひとがそれを口くちにしたとき、徐々じょじょに違和感いわかんに気きが付つき、今いままで飲のんでいたものは雑ざつ種しゅのワインであったことに気きが付つく。この時ときの不信ふしん感かんと喪失そうしつ感かんは、だれにも止とめられない。時ときにはそういった交こう流りゅうもグラスの手て入いれとして、品ひん性せいを保たもつ範囲はんいで必要ひつようではあるが、基本的きほんてきにはシャンパンと謳うたったものはシャンパーニュ地方ちほうで生産せいさんされるべきである。それが口くちに合あわないのであれば、それまでのこと。もし口くちに合あうのであれば、大切たいせつに、零れいさずに、嗜たしなんでいくべきなのだろう。

知のラリー 私 相手 理性と感情 思想・価値観・哲学・倫理観 脳神経 言語・音楽へ変換 粒度をなるべく失わない 五感 脳神経 主観的に解釈する 返球 ── ラリーは往復する 耳ざわりの良い言葉ばかり並べると 変換の段で粒度が落ち、関係の純度が下がっていく
図ず 07知ち音おんとの間あいだの「知ちのラリー」。理性りせいと感情かんじょうを、相手あいてと互換性ごかんせいを持もつ言語げんごや音楽おんがくへ、元もとの粒度りゅうどをなるべく失うしなわずに変換へんかんして渡わたし、相手あいてはそれを五ご感かんで受うけ取とって主観的しゅかんてきに解釈かいしゃくする。
シャンパンに垂らす一滴のボルドー シャンパーニュ 謳ったとおりのもの 一滴 気が付く人は少ない 何度も繰り返す 誰もがまだシャンパンと疑わない 舌の効く人が口にする 雑種のワインだったと気が付く 不信感と喪失感 だれにも止められない シャンパンと謳ったものは、シャンパーニュ地方で生産されるべきである
図ず 08一いち滴てきのボルドーのたとえ。一いち滴てきなら誰だれも気きづかないが、繰くり返かえすうちに、あるいは舌したの効きく人ひとが口くちにしたときに、違和感いわかんから「雑ざつ種しゅのワイン」だったことが露あらわになる。