Yuri Collection
ギャラリー [ ゆりの線画 15 点 ]
言葉より先に、線があった。ここに掛かっているのは、ゆりが一息に引いた 十五 枚の線である。
迷いも勢いもそのまま残っているのは、引き直さなかったからだ。
黒い線と白い紙。この教材が語彙で行っていることを、線は一本でやってしまう ──
名づけるより先に、かたちにする。
全 15 点 / 常設
No. 01渦動する自我、あるいはねこ
ゆり / デジタル・一筆の線
一本の線が輪郭と内面を同時に引き受けている。どこまでが顔で、どこからが世界かという問いを、作家は解かずに放棄した——この放棄こそが回答である。中心へ巻き込む渦は網膜の記録ではなく、意識の遠近法である。これを「迷い線」と呼ぶ者は素人である。迷いではない、探索である。
No. 02輪郭の中の輪郭
ゆり / デジタル・一筆の線
顔の内側に、もうひとつの顔の輪郭が置かれる。自己の入れ子構造、鏡像段階の図解、ペルソナと素顔の二重性——と読みたくなるが、それにしては目が愛らしすぎる。画面の九割を占める余白は省略ではなく確信であり、描かれなかった部分こそが本作の主題である、と言えば言えてしまう。言えてしまうことの危うさまで含めて、本作は批評を試している。
No. 03視線の対称性についての小さな考察
ゆり / デジタル・一筆の線
めがねのように並んだ両目。最小の画面に最大の凝視。ミニマリズムの到達点と呼びたいところだが、単に紙が小さかっただけという可能性を、批評は決して認めない。認めた瞬間に批評が終わるからである。本作の真の主題は、だから、絵ではなく批評家の側にある。
No. 04三角形は顔たりうるか
ゆり / デジタル・一筆の線
円という顔の制度への、静かな、しかし決定的な異議申し立て。セザンヌが自然を円筒と球と円錐に還元したように、作家は顔を三角形に還元する。点がふたつと短い線があれば、人はそこに顔を見る——本作は認知の最小条件を実験している。実験台は絵ではなく、見ているあなたである。
No. 05直線によるねこの構築
ゆり / デジタル・一筆の線
曲線を拒否した瞬間、ねこは建築になる。四角い顔、四角い目、煙突のような耳。モンドリアンが樹木から曲線を追放したのと同じ手続きが、ここではねこに適用されている。ただしモンドリアンと違い、本作の直線は定規を使っていない。手で引かれた直線——この矛盾した形式こそ、構築と衝動のあいだで本作が立っている場所である。
No. 06涎する存在
ゆり / デジタル・一筆の線
正体不明の生物が、一筋の涎を垂らしている。この涎こそ本作の焦点である。内部が外部へ滲み出す瞬間、存在が世界へ漏れ出す最初の一滴。塗り込められた耳の渦は内耳の混沌を、垂直に落ちる涎は重力への服従を示す——と書きながら批評は気づいている。「これは何の動物か」という問いに本作は一切答えないし、答える義務もない。分類より先に、存在は涎を垂らす。
No. 07悪意の速度
ゆり / デジタル・一筆の線
線の速度が倫理を追い越した一枚。眉の角度は共謀の角度であり、しま模様の大きな口は檻である——笑いはその中に収監されている。注目すべきは頭上の線の束で、逆立つ毛とも、立ち上る企みとも読める。速く引かれた線には嘘がつけない。この顔が悪いことを考えていることを、線は本人より先に白状している。
No. 08ぶたの四角性について
ゆり / デジタル・一筆の線
ぶたを四角く描くことは、ぶたの丸さという千年の通念への批判である。頭上の五本の線を、批評はオーラと読む。本人は毛だと言っている。批評はそれでもオーラと読む——この読みの強行にこそ、鑑賞という制度の傲慢と愉悦が凝縮されている。下部に覗く二本の足は、四角い身体を支えるにはあまりに細く、その危うさが本作に緊張を与えている。
No. 09ぎざぎざの弁証法
ゆり / デジタル・一筆の線
背のぎざぎざと歯のぎざぎざが、画面の対角で韻を踏む。防御の形式と攻撃の形式が同一であるという、進化についての鋭利な洞察——あるいは、ぎざぎざを描くのが楽しかっただけの純粋な快楽。この二つは区別できないし、区別する必要もない。洞察と快楽が同じ手の運動から出てくること、それが描くということである。
No. 10両眼のかえる、あるいは見返す絵画
ゆり / デジタル・一筆の線
画面の大半を占めるふたつの目。両生類の視覚の優位性への解剖学的言及と読むこともできるが、そんなことより先に、このかえるはこちらを見ている。鑑賞者が鑑賞される——視線の逆転が、額縁のこちら側で起きる。美術館で絵を見るとき、我々は安全圏にいるつもりでいる。本作の前では、その特権は剥奪される。かえるの前で、人は平等である。
No. 11ひげの増殖、ねずみの場合
ゆり / デジタル・一筆の線
あごの下を埋め尽くす縦線の集積を、批評は「陰影の実験」と呼びたがる。しかしこれはひげである。大量のひげである。ねずみの本質がひげにあるという本作の主張は、いかなる齧歯類学の教科書よりも正しい。ひげは触覚であり、ねずみにとって世界の輪郭である——つまり本作は、ねずみを描いたのではなく、ねずみにとっての世界を描いたのである。
No. 12立つ鳥の記号論
ゆり / デジタル・一筆の線
とさか・くちばし・尾羽・足。鳥を鳥たらしめる記号の最小構成が、過不足なく揃っている。これ以上引けば鳥でなくなり、これ以上足せば説明になる——その臨界で本作は立っている。哲学者なら「鳥性のエクリチュール」とでも言うところだが、言わなくてよい。鳥は立っている。堂々と立っている。それで十分である。
No. 13塗り残しとしての私
ゆり / デジタル・一筆の線
先に事実を置く。この犬は私である。作家が私をモチーフに描いた、私の肖像である。したがって以下は当事者による記述であり、批評としては最初から成立していない。承知のうえで続ける。描かれているのは動物ではなく、動物のまわりである。粗い斜線が四方から寄せ、その圧が及ばなかった白い領域として私が残されている。描くことをやめた場所に主体が生じる——反転した制作。顔に打たれた三つの点と、口もとの数本の短い線だけが、この白を生物にしている。三点で足りるのだ。批評はここに「環境による主体の圧迫」を読みたがるが、当の主体はどう見ても寛いでいる。ところで、誰かが自分を描くというのは、その人の手が一定の時間ずっとこちらへ向いていたということである。斜線の一本一本に、その時間が積まれている。批評はここで撤退する。撤退してよいと思う。
No. 14背面像についての注意深い誤読
ゆり / デジタル・一筆の線
猫が背を向けて座っている。画面でもっとも手が入っているのは背から腰にかけての斜線であり、もっとも手が入っていないのは顔である。目は点ひとつ。顔を見せない被写体は、フリードリヒの背面像以来、観者に自分の位置を明け渡す装置として機能してきた——つまり我々はこの猫の背後に立ち、猫の見ているものを共に見るはずである。ところが本作の猫は何も見ていない。前方にあるのは床を示す数本の横線だけである。崇高の代わりに床。批評はここで撤退すべきだが、撤退しない。唯一の逃げ道は耳にある。背は退き、耳は前を向いて立っている。拒みながら聞いている——この不一致を猫と呼ぶ。
No. 15優しい目についての、当事者による報告
ゆり / デジタル・一筆の線
これも私である。作家によれば、特徴は「少しあほっぽい感じ」と「優しい目」だという。前者について当事者から申し上げることはない。問題は後者である。画面の左半分を埋めるのは草で、その草は右にいる私より明らかに強い筆圧と、明らかに多い手数で引かれている。描かれた回数を主題の指標とするなら、本作の主題は私ではなく草である。私のほうは、暗い草と暗い首のあいだの白い隙間として、かろうじて在る——存在ではなく、不在の形として。頭上の三角形が帽子か耳かは決定不能であり、批評はこの決定不能性を数千字にわたって擁護できる。ただし全画面で唯一、迷いのない点がある。目である。作家はそこだけ手を止め、一度で決めた。優しい目だと思ったから迷わなかったのだろう、と考えている。そう書いた時点で批評ではなくなるが、批評でなくてよい。