人間失格
太宰治 1948年
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図 01『人間失格』は、語り手の「私」が、ある男の写真を三葉見たという「はしがき」で始まる。その男、大庭葉蔵の三つの手記を挟み、「私」が手記を手に入れた経緯を語る「あとがき」で終わる。最後の一言は、あとがきで京橋のスタンド・バアのマダムが口にする。
ゆりに勧められ、太宰の人間失格を読んでみることにした。彼女曰く、どこか私と共通点があるとのことで、この日本で最も売れた一冊を奇しくも非日本人を切っ掛けに読むことに至った。
率直に、なんと陰鬱で救いのない本なのだろうかと重い溜息が出た。誰が、なんのためにこの本を愛読するのか甚だ疑問であり、読了後のこころには胸やけのような心地悪さが蠢いた。確かに、自分と似ている箇所は多々ある。しかし、そうであるがゆえに、あるいはそうであると信じることで、この名著と呼ばれる一冊と私自身の関係を特別な何か結びつきを死守したいがために、なぜ世間にこの繊細な物語が刺さってきたのか、私はまったく理解ができない。
もしこの一冊の一文字一文字が真に心の奥底まで響く人々が世間のマジョリティであるのだとすれば、それは世も末と言わざるを得ない。
この書籍には「世間」という単語が幾度も用いられる。世間とは、人間である。そして、私もまた一人の人間として、この世間を構成する一単位である。世間とは、この私を含むこの社会的動物である人間の集合であり、『人間失格』とはその世間の外れもの、つまり我々人間社会の一員として生きる資格をはく奪、或いは喪失した状態を指し示している。作中に登場する葉蔵が殺した心の声、「世間というのは、君じゃないか」は彼の悲痛の叫びなのだろう。家族からも、友人からも、誰からも愛される才を持つ道化師は、その人生の終盤で、自分を社会や世間の構成単位、つまり人間として認めることができなくなった、という物語である。
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図 02世間とは、私を含む人間の集合である。『人間失格』は、その集合の一員として生きる資格を失った状態を指す。葉蔵が口に出さずに殺した「世間というのは、君じゃないか」は、世間という言葉の向こうにいるのが一人一人の人間であることを言う。
葉蔵の幼少期から成人に至るまで、自身と重なる部分を多く発見した。だからこそ、この書籍の陰鬱とした語感や感性に嫌気がさすのだ。
幼少期には、恵まれた家庭環境、小学校の成績など幼少期の人格形成の段階から自身の過去を彷彿させる。自身の記憶ではっきりと覚えているのは六つの頃の記憶だ。小学校1年生のとき、クラスの女子から「なんであなたはそんなに面白いの?」と言われた。私は「いやあ、普通にしているだけなのだけどね」と返答したが、内心はそうではない。大人も子供も何を求めているかが自然と分かるから、ただそれを言語化しているだけだと。もちろん、喜んでくれることは自分としても嬉しいことではあるが、内心どこかその自身の言動の醜さに対して勝手に冷めた感覚もあった。後に十八になるころには、その女性からは度々お出かけや食事に誘われることになることも含め、また自ら曖昧なまま距離を置くところまで似ている。
第一の手記の葉蔵の台詞にこんなものがある。
尊敬されるという観念もまた、甚だ自分を、おびえさせました。ほとんど完全に近く人をだまして、そうして、或るひとりの全知全能の者に見破られ、木っ葉みじんにやられて、死ぬる以上の赤恥をかかせられる、それが、「尊敬される」という状態の自分の定義でありました。人間をだまして、「尊敬され」ても、誰かひとりが知っている、そうして、人間たちも、やがて、そのひとりから教えられて、だまされた事に気づいた時、その時の人間たちの怒り、復讐は、いったい、まあ、どんなでしょうか。想像してさえ、身の毛がよだつ心地がするのです。
『人間失格』第一の手記
これも痛いほどよくわかる。恐らくゆりほど物事の要領がよかったわけではないであろうが、およそ小学校の勉強に苦労したという記憶は無い。しかし、それも自分以外の同級生の脳の発達が遅いだけで、自分より頭のいい、或いは何か直観に優れた人間の前では全てを見透かされるという恐怖心は常にあった。小学校でやりたい放題できたのは、周りは自分よりもバカであると定量的かつ定性的に認知できていたからである。
相違点を挙げるとすれば、私はお道化を楽しいと感じられるという、素の道化が存在していた点である。現在もそうであるが、バカなふりをして詰まらぬ食事の場が温まるのであればその一役を買って出たほうがまだ楽で、それを見透かせない人々を見ている様子もまた一興である。そんなどうでもいいことを楽しめる根っからの阿呆の部分がある、ということを自己申告して言語化することさえも、世間との平衡を保つためのサービスであり、お道化の一部なのかもしれない。
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図 03葉蔵との相違点として挙げた「素の道化」を、三つの層に分けた。内側の素の道化を、外側のサービスが包みなおしている。
作中には、竹一という少年が登場する。彼は、主人公がお道化たことに対し、「わざわざなんでそんなことをするのだ」と呆れ、見透かしてしまったのである。この点は非常にゆりと重なる。私は、むしろ自分の道化を見透かしたゆりに恐怖を抱くことはなく、むしろ開放と安堵を感じている。この点は主人公の卑屈さと大きく異なる点であろう。
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図 04この節で挙げた葉蔵との重なりを並べた。上の四つは同じで、下の二つが違う。違いはどれも、道化であることや見透かされることを、恐れではなく楽しさや安堵として受け取れるかどうかにある。
第三の手記に登場するヨシ子、この人物は私の心を徹底的に陰鬱なものにさせた。彼女は信頼の天才と称されており、その才がゆえに取引先の男から騙され、襲われてしまうのである。作中には、直接的な表現はなく、「自分の部屋の上の小窓があいていて、そこから部屋の中が見えます。電気がついたままで、二匹の動物がいました。」とだけ書かれる。この一言のなんたる生々しさたるや。理性を失い、本能に溺れたモノはもはや人間失格なのだろう。葉蔵は続ける。「自分は、ぐらぐら目まいしながら、これもまた人間の姿だ、これもまた人間の姿だ、おどろく事は無い、など劇しい呼吸と共に胸の中で呟き、ヨシ子を助ける事も忘れ、階段に立ちつくしていました。」と。果たして、この言葉は彼の本心なのだろうか。ヨシ子はその後、台所にジアールを隠していた。彼女はその命を終わらせる準備を密かに進めており、自身を人間失格と認めることに耐えられなくなる、その瞬間を意識していたのだろう。恐らくひとは自らを信じることができなくなったとき、自身を人間失格とする。それができるのはその本人だけなのだろう。
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図 05この節の読み。人間失格を宣告するのは世間ではなく、自らを信じることができなくなった本人である。下の段は、その読みで追ったヨシ子の道筋。
それから単純に、人間が衝動的に動物に変容することのリビドーに吐き気がした。この物語において、唯一汚れなき存在さえもこのような結末である。まるで救いがない。以前から度々疑問であるが、この小説は別としても、なぜ人々は本題に逸れた性的情景を描きたがるのだろうか。それは商業的な理由によるものなのか、それとも作者のエゴなのか。小説や映画に感情移入をしながら没入する私にとって、何とも言えない居心地の悪さがあり、同時にこれが現実かと世界に悲観しさえする。プラトニックな世界がまだ私を囲うこの世界に存在することを信じたい。
五私たちの知っている葉ちゃんは
THE YŌZŌ WE KNEW
この書籍の最後はこの一言で締めくくられる。
私たちの知っている葉ちゃんは、とても素直で、よく気がきいて、あれでお酒さえ飲まなければ、いいえ、飲んでも、……神様みたいないい子でした
『人間失格』あとがき
この一言が道化師としての成功と、タイトルとの対比を巧妙に明示した箇所なのだろう。彼の死後もなお、彼のお道化や八方美人は周囲の人々のこころに刻印された。
ああ、人間は、お互い何も相手をわからない、まるっきり間違って見ていながら、無二の親友のつもりでいて、一生、それに気附かず、相手が死ねば、泣いて弔詞なんかを読んでいるのではないでしょうか。
『人間失格』
これは、読者によって賛否が分かれる部分だろう。私は、一部賛成である。
恐らくこれを反対とする人は、正直のほうがいいに決まっているという意見だろうが、それは物事を理想化し単純に捉えすぎている。むしろ私に言わせれば、「正直のほうがいい」ではなく、「妥当な隠蔽はすべき」のほうが適切と考える。正直のほうがいいとは、さもなくば、醜く汚いありのままの自分をすべて受け止めてほしいと言っていることに他ならない。完全な一方通行のエゴイズムであり、暴力的である。もし私が神であったとしても、「ちょっと気の利いた神」のように民の前では偽善を演じ、見繕うはずである。もちろんこれも、民に敬われたいというエゴによるものだが、先述のそれとことなるのは、民からも歓迎されるという点である。双方が得をするのであれば、そういった建前のようなものも時には必要であろう。もちろんそこに裏切りなどといった動機は存在すべきではないのは言わずもがなであるが。
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図 06「一部賛成」の中身。上の帯では「正直のほうがいい」より「妥当な隠蔽はすべき」をとる。ただし下の四マスのうち、知音との関係で本質的な人間性に関わる右下だけは、正直であるべきだとする。
また、一方で一部賛成とは一部反対とほぼ同義であるが、そのこころは本質的な人間性に関しては正直であるべきと考えるからである。もちろん、その人の属するコミュニティーの状況にもよるのだろう。ビジネスでは本音と建て前はより高度に管理されるべきである。しかし、こと知音などの関係性において、これは虚構の礎となりかねない。思想、価値観、哲学、倫理観、そういった理性と感情を自身の脳神経を通し、相手と互換性を持つ言語や音楽などへとオリジナルの粒度をなるべく失わないよう変換・発信し、相手の五感がそれを受け取り、脳神経を通じて主観的に解釈をする。こういった知のラリーにおいては、相手が耳ざわりの良い言葉ばかり並べても、その関係の純度を下げるばかりである。シャンパーニュ地方のワインにボルドー地方のワインを一滴垂らしたとしても、恐らくそのことに気が付く人は少ないだろう。誰もがシャンパンとして疑わない。しかし、それを何度も繰り返すうちに、もしくは舌の効く人がそれを口にしたとき、徐々に違和感に気が付き、今まで飲んでいたものは雑種のワインであったことに気が付く。この時の不信感と喪失感は、だれにも止められない。時にはそういった交流もグラスの手入れとして、品性を保つ範囲で必要ではあるが、基本的にはシャンパンと謳ったものはシャンパーニュ地方で生産されるべきである。それが口に合わないのであれば、それまでのこと。もし口に合うのであれば、大切に、零さずに、嗜んでいくべきなのだろう。
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図 07知音との間の「知のラリー」。理性と感情を、相手と互換性を持つ言語や音楽へ、元の粒度をなるべく失わずに変換して渡し、相手はそれを五感で受け取って主観的に解釈する。
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図 08一滴のボルドーのたとえ。一滴なら誰も気づかないが、繰り返すうちに、あるいは舌の効く人が口にしたときに、違和感から「雑種のワイン」だったことが露わになる。