— 意匠いしょう
鳴りやまない無 無数の微小な光点が明滅し続ける暗い場。真空のゆらぎを表す意匠図 タップで拡大かくだい
図ず 01取と り除のぞ けるものを全部ぜんぶ 取と り除のぞ いた後あと に、それでも残のこ るもの。この図ず は測定そくてい データではなく意匠いしょう である。ただし、ここに描えが かれた「震ふる え続つづ ける無む 」は、以降いこう の章しょう で扱あつか う実験じっけん がすべて実在じつざい を確たし かめてきたものである。 意匠図いしょうず につき出典しゅってん なし(データの図示ずし ではない)
眠ねむ りに落お ちる瞬間しゅんかん を、覚おぼ えている人ひと はいない。
どれだけ意識いしき を張は り詰つ めて待ま ち構かま えても、その一線いっせん を越こ える瞬間しゅんかん だけは、誰だれ も観測かんそく できない。気き づいたときにはもう朝あさ で、その間かん の数時間すうじかん は、なかったことになっている。夢ゆめ を見み た夜よる は、まだましなのかもしれない。少すく なくともそこには、途切とぎ れながらも何なに かがあった。
手術室しゅじゅつしつ では、それがもっと速はや く起お きる。麻酔科医ますいかい が薬くすり を流なが し込こ み、患者かんじゃ に10から逆ぎゃく に数かぞ えてもらう。10、9、8——たいていの人ひと は、7まで行い かない。
そして戻もど ってくる。数時間すうじかん 後ご 、何事なにごと もなかったかのように。手術しゅじゅつ は終お わっている。時計とけい の針はり は進すす んでいる。体からだ には切開せっかい の跡あと が残のこ っている。それなのに、本人ほんにん の側がわ には、何なに も残のこ っていない。痛いた みも、退屈たいくつ も、恐怖きょうふ もない。空白くうはく ですらない。空白くうはく というのは「何なに もなかった時間じかん 」を覚おぼ えているということだが、そういう覚おぼ え方ほう すら、そこにはない。
臨床りんしょう の窓まど 麻酔ますい は「眠ねむ らせる」のではない
全身ぜんしん 麻酔ますい は、深ふか い睡眠すいみん とは別べつ のものである。睡眠すいみん 中ちゅう の脳波のうは には周期的しゅうきてき な波なみ の起伏きふく があり、呼よ びかけや痛いた みで人ひと は目覚めざ める。深ふか い全身ぜんしん 麻酔ますい では、脳波のうは はしばしばバースト・サプレッション と呼よ ばれる形かたち になる ── 電気でんき 活動かつどう がほとんど平坦へいたん になり、そこへときどき短みじか い活動かつどう の塊かたまり が挟はさ まる。眠ねむ りというより、活動かつどう が間欠かんけつ 的てき に停止ていし した状態じょうたい に近ちか い。
そして、ごく稀まれ に起お きることがある。術中じゅっちゅう 覚醒かくせい 。不動ふどう と鎮痛ちんつう は効き いているのに、意識いしき だけが戻もど ってしまう状態じょうたい である。動うご くことも声こえ を出だ すこともできないまま、手術しゅじゅつ の音おと が聞き こえる。頻度ひんど は、数かぞ え方かた で2桁にけた ちがう。患者かんじゃ からの自発的じはつてき な報告ほうこく を集あつ めた英国えいこく の大規模だいきぼ 調査ちょうさ (NAP5, 2014)では麻酔ますい およそ2万にまん 件けん に一件いっけん 。手術しゅじゅつ 後ご に決き まった質問しつもん を繰く り返かえ す面接めんせつ (ブライス法ほう )で拾ひろ うと、1,000件けん あたり一いち 〜2件にけん まで上あ がる。差さ は現象げんしょう の頻度ひんど ではなく、「あった」と数かぞ える基準きじゅん の差さ である。
この現象げんしょう が示しめ しているのは、麻酔科医ますいかい が日々ひび 扱あつか っているものが「意識いしき のスイッチ」ではなく、四よっ つの別々べつべつ の作用さよう の束たば だということである(それが何なに かは、第だい 3章さんしょう の踏ふ み台だい で開ひら く)。
その数時間すうじかん 、あなたはどこにいたのだろう。
踏ふ み台だい この文章ぶんしょう で「意識いしき 」と呼よ んでいるもの
意識いしき という語ご は、少すく なくとも三みっ つの別々べつべつ のことを指さ して使つか われる。この三みっ つを混ま ぜたまま話はな すと、議論ぎろん はほぼ確実かくじつ に空転くうてん する。
一ひと つめは覚醒かくせい 。目め が覚さ めているか、眠ねむ っているか。脳幹のうかん という、脳のう の下した のほうにある古ふる い部分ぶぶん が担にな っている。二ふた つめは気き づきの内容ないよう 。いま何なに を見み て、何なに を感かん じているか。大脳皮質だいのうひしつ の広ひろ い範囲はんい が関かか わる。三みっ つめは自己じこ 。その体験たいけん が「自分じぶん のもの」として感かん じられていること。
この三みっ つは別々べつべつ に壊こわ れる。覚醒かくせい しているのに内容ないよう が無な い状態じょうたい (無動むどう 性せい 無言むごん )も、内容ないよう はあるのに自分じぶん のものに感かん じられない状態じょうたい (離人症りじんしょう )もある。この文章ぶんしょう がこれから扱あつか うのは、主おも に二ふた つめ ── なぜ「内容ないよう 」というものが、そもそも在あ るのか という問と いである。
誰だれ も、自分じぶん の不在ふざい を経験けいけん できない
この問と いには、奇妙きみょう な非対称性ひたいしょうせい がある。
あなたは、他人たにん が意識いしき を失うしな うところを何度なんど でも観察かんさつ できる。呼吸こきゅう が深ふか くなり、まぶたが落お ち、呼よ びかけへの反応はんのう が消き える。脳波のうは を取と れば、波形はけい が変か わる瞬間しゅんかん まで記録きろく できる。外そと から見み れば、意識いしき が消き えることは観測かんそく 可能かのう な出来事できごと である。
ところが、自分自身じぶんじしん の意識いしき が消き える瞬間しゅんかん だけは、原理げんり 的てき に観測かんそく できない。観測かんそく する主体しゅたい が、まさに消き えるものだからである。人ひと は自分じぶん の不在ふざい に立た ち会あ えない。
私わたし たちは毎晩まいばん それを繰く り返かえ している。人生じんせい のおよそ三分さんぶん の一いち を、立た ち会あ うことのできない状態じょうたい で過す ごしている。これほど身近みじか で、これほど頻繁ひんぱん で、これほど誰だれ にも避さ けられない現象げんしょう について、私わたし たちはほとんど何なに も知し らない。
脳のう を全部ぜんぶ 知し っても、まだ足た りない
人間にんげん の脳のう には、おおよそ860億おく 個こ の神経細胞しんけいさいぼう がある。一ひと つひとつが数千すうせん の他ほか の細胞さいぼう とつながり、電気でんき と化学かがく 物質ぶっしつ で信号しんごう をやりとりしている。この配線はいせん は、少すこ しずつ解と き明あ かされてきた。どの領域りょういき が言語げんご に関かか わるか。どの経路けいろ が記憶きおく を固定こてい するか。どの物質ぶっしつ が眠ねむ りを誘さそ うか。
踏ふ み台だい 860億おく という数かず の実感じっかん
神経細胞しんけいさいぼう (ニューロン)は、信号しんごう を受う け取と る枝えだ (樹状じゅじょう 突起とっき )と、信号しんごう を送おく り出だ す一本いっぽん の長なが い線せん (軸索じくさく )を持も った細胞さいぼう である。軸索じくさく の先さき は次つぎ の細胞さいぼう との接点せってん (シナプス)になっていて、そこで化学かがく 物質ぶっしつ を放ほう り投な げて信号しんごう を渡わた す。
860億おく 個こ 。1秒いちびょう に1個いっこ ずつ数かぞ えて、2,700年ねん かかる。そしてそれぞれが平均へいきん で数千すうせん のシナプスを持も つから、接点せってん の総数そうすう は100兆ちょう から1,000兆ちょう の桁けた になる。脳のう の重おも さは体重たいじゅう の2パーセントほどしかないのに、エネルギーは全体ぜんたい の20パーセントを使つか う。
ただし ── ここが大事だいじ なところだが ── 数かず が多おお いことは、それ自体じたい では何なに の説明せつめい にもならない 。世界せかい 最大さいだい のスーパーコンピュータも膨大ぼうだい な素子そし を持も つが、それが何なに かを感かん じているとは誰だれ も言い わない。数かず の話はなし が説明せつめい になるためには、「どういう数かぞ え方かた をしたときの数かず か」が要い る。第だい 5章ごしょう で、その試こころ みの一ひと つ(統合とうごう 情報じょうほう 理論りろん )に触ふ れる。
仮かり に、この配線図はいせんず が完全かんぜん に解明かいめい されたとしよう。すべての細胞さいぼう 、すべての接続せつぞく 、すべての化学かがく 反応はんのう が、余あま すところなく記述きじゅつ された未来みらい を想像そうぞう してほしい。
そのとき、私わたし たちは意識いしき を理解りかい したことになるだろうか。
ならない、と考かんが える人々ひとびと がいる。彼かれ らの論拠ろんきょ は、この文章ぶんしょう の第だい 5章ごしょう で扱あつか う。先さき に言い っておくと、その論拠ろんきょ は非常ひじょう に強つよ い。今いま のところ、誰だれ もそれを崩くず せていない。
だから、この文章ぶんしょう は遠回とおまわ りをする。意識いしき の話はなし から始はじ めるのではなく、まったく別べつ の場所ばしょ から始はじ める。
何なに もない場所ばしょ から。
この先さき で持も ち帰かえ れるもの
読よ み終お えると、自分じぶん の言葉ことば で言い える
真空しんくう が「空から っぽ」でないことを、どんな実験じっけん がどうやって確たし かめたのか。
その真空しんくう のゆらぎが、物質ぶっしつ の性質せいしつ を実際じっさい に変か えるとはどういうことか。
意識いしき を量子りょうし 力学りきがく で説明せつめい しようとする試こころ みが、いまどこまで来き て、どこで止と まっているのか。
ある主張しゅちょう を科学かがく として扱あつか ってよいかを、自分じぶん で判定はんてい するための四よっ つの物差ものさ し。
読よ み終お えても、答こた えは出で ない
なぜ情報処理じょうほうしょり に体験たいけん が伴ともな うのか。第だい 5章ごしょう でこの壁かべ の形かたち だけを確たし かめる。
意識いしき が量子りょうし 現象げんしょう かどうか。第だい 3・4・8章はっしょう で三さん 方向ほうこう から見み るが、決着けっちゃく しない。
全ぜん 11章じゅういっしょう 。確たし かめられたことと、まだ確たし かめられていないことは混ま ぜない。
章しょう ごとに、扱あつか っている確たし かさの段だん を帯おび で示しめ す。章しょう の終お わりには、その章しょう が答こた えていない問と いを置お く。
前提ぜんてい が要い るところには踏ふ み台だい を挟はさ む ── 急いそ ぐ人ひと は飛と ばしてよい。
— 構造こうぞう
この文章の地図 ── 確かさの段は、章ごとにこう動く 棒の上端と下端は、その章が扱った段の幅。丸はその段の図が在ることを示す この文章の地図 ── 確かさの段は、章ごとにこう動く 棒の上端と下端は、その章が扱った段の幅。丸はその段の図が在ることを示す 段1 確立 段2 最前線 段3 仮説 段4 逸話 段の外 序 Ⅰ Ⅱ 幕間 Ⅲ Ⅳ Ⅴ Ⅵ Ⅶ Ⅷ 終 第一部 問いを 立てる 第二部 確かめられたこと 第三部 まだ確かめられて いないこと 第四部 疑いの作法と、その先 段はその章の格ではない。その章が扱う証拠の種類である。 第7章と第8章で段1へ戻るのは、疑い方そのものが確立した話だからである。 段4(逸話)の行が空なのは、この文章が逸話を根拠に使っていないからである。 タップで拡大かくだい
図ず 02章しょう の並なら びには理由りゆう がある。確たし かさの段だん が、こう動うご いていく。第だい 1章いっしょう と第だい 2章にしょう は段だん 1と段だん 2だけで進すす む。第だい 3章さんしょう から段だん 3が入はい り、第だい 5章ごしょう で物理ぶつり の言葉ことば が届とど かない場所ばしょ に触ふ れる。第だい 7章ななしょう と第だい 8章はっしょう でふたたび段だん 1へ戻もど るのは、疑うたが い方ほう そのものが確立かくりつ した話はなし だからである。棒ぼう の上端じょうたん と下端したば は、その章しょう が扱あつか った段だん の幅はば を表あらわ す。この頁ページ の図ず に付つ けた段だん を数かぞ え上あ げたもの(構造こうぞう 図ず )
臨床りんしょう の窓まど 意識いしき が「ある」かどうかを、外そと から決き められるか
交通事故こうつうじこ や心こころ 停止ていし のあと、目め は開ひら くのに反応はんのう が返かえ ってこない患者かんじゃ がいる。植物しょくぶつ 状態じょうたい (遷延せんえん 性せい 意識いしき 障害しょうがい )と呼よ ばれてきた状態じょうたい である。覚醒かくせい はしている。しかし内容ないよう が無な いように見み える。
2006年ねん 、この見立みた てを揺ゆ さぶる報告ほうこく が出で た。植物しょくぶつ 状態じょうたい と診断しんだん されていた患者かんじゃ に「テニスをしているところを想像そうぞう してください」と語かた りかけながら、脳のう の活動かつどう を機能的きのうてき 磁気じき 共鳴きょうめい 画像がぞう (fMRI)で撮と る。健常者けんじょうしゃ が同おな じ課題かだい をしたときと同おな じ運動うんどう 関連かんれん 領域りょういき が、同おな じように活動かつどう した。「家いえ の中なか を歩ある くところを想像そうぞう してください」では、空間くうかん に関かか わる別べつ の領域りょういき が活動かつどう した。体からだ は一いち ミリも動うご かないまま、指示しじ に従したが っていたことになる。
その後ご の研究けんきゅう で、この方法ほうほう によって「はい/いいえ」で答こた えられる患者かんじゃ が一定いってい 数すう いることが分わ かってきた。診断しんだん 名めい は最小さいしょう 意識いしき 状態じょうたい という区分くぶん を新あら たに要よう することになった。
ここから引ひ き出だ せる教訓きょうくん は一ひと つである。反応はんのう が無な いことは、体験たいけん が無な いことの証明しょうめい にならない。 この文章ぶんしょう が扱あつか う問と いの難むずか しさは、第一だいいち に、外そと から見み えるものと内側うちがわ で起お きていることが、原理げんり 的てき にずれうるという点てん にある。
この章しょう が答こた えていないこと
意識いしき が「消き える」とき、消き えたのは意識いしき そのものなのか、それとも意識いしき を受う け取と る何なに かなのか。
この二ふた つは、実験じっけん で区別くべつ できるのだろうか。
何なに もない場所ばしょ を作つく りたければ、まず空気くうき を抜ぬ く。次つぎ に光ひかり を消け す。それでも足た りない。原子げんし が持も つ最後さいご の熱ねつ まで奪うば うために、絶対零度ぜったいれいど まで冷ひ やす。
ここまでやれば、そこには何なに も残のこ らないはずだった。
踏ふ み台だい 絶対零度ぜったいれいど とは何なに か。なぜ、それより下した が無な いのか
まず温度おんど から。温度おんど とは「熱あつ い・冷つめ たい」という感覚かんかく に付つ けた名前なまえ ではない。粒子りゅうし がどれだけ激はげ しく動うご き回まわ っているかを表あらわ す量りょう である。熱あつ いお湯ゆ の分子ぶんし は速はや く飛と び回まわ り、冷つめ たい水みず の分子ぶんし はゆっくり動うご く。冷ひ やすとは、その動うご きを奪うば うことである。
ならば、動うご きがゼロになったところが下限かげん になる。その点てん を 0 と定さだ めた目盛めも りがケルビン(K) で、摂氏せっし でいえば −273.15 ℃ にあたる。この −273.15 ℃ を下回したまわ れないのは、「そこより寒さむ い場所ばしょ が無な い」からではなく、そこより遅おそ い運動うんどう が無な い からである。
しかも、そこに到達とうたつ すること自体じたい ができない。熱ねつ を捨す てるには「もっと冷つめ たいもの」が要い るが、絶対零度ぜったいれいど より冷つめ たいものは存在そんざい しない。近ちか づくほど一歩いっぽ の値段ねだん が上あ がっていき、無限むげん の手間てま がかかる(熱ねつ 力学りきがく 第だい 三さん 法則ほうそく )。実験室じっけんしつ が到達とうたつ しているのは1億いちおく 分ぶん の1ケルビンといった値あたい までである。
そして、この章しょう が扱あつか うのはその先さき の話はなし になる。仮かり に 0 K に到達とうたつ できたとしても、震ふる えは残のこ る。 それが零れい 点てん エネルギーであり、理由りゆう は温度おんど ではなく、量子りょうし 力学りきがく そのものの側がわ にある。
残のこ った。
踏ふ み台だい この章しょう に出で てくるものの、大おお きさの見当けんとう
この章しょう では「原子げんし 」「電子でんし 」「場ば 」といった言葉ことば が続つづ けて出で てくる。先さき に、それぞれの大おお きさを一いち 枚まい で押お さえておく。
物質ぶっしつ を割わ っていくと分子ぶんし になり、分子ぶんし を割わ ると原子げんし になる。原子げんし の真ま ん中なか には原子核げんしかく があり、そのまわりに電子でんし がいる。原子げんし の大おお きさは1億いちおく 分ぶん の1センチほど。その中心ちゅうしん にある原子核げんしかく は、さらにその10万じゅうまん 分ぶん の1しかない。原子げんし を東京とうきょう ドームの大おお きさに拡ひろ げると、原子核げんしかく はマウンドに置お いたビー玉だま くらいになる。原子げんし の中身なかみ は、ほとんど何なに も無な い空間くうかん である。
電子でんし はその「ほとんど何なに も無な い空間くうかん 」にいる。ただし惑星わくせい のように回まわ っているのではない ── そのあたりは、この先さき の踏ふ み台だい で開ひら く。
1 確立かくりつ した物理学ぶつりがく
大きさの階段 人のからだから原子核まで、十倍ずつ小さくなる階段を七段で示した図。微小管は上から三段目にあたる 大きさの階段 ── 十倍ずつ降りていく ひと目盛りで十分の一。人から原子核までは15段ある。 人のからだ 1 m 10⁰ m 神経細胞のからだ 20 μm = 0.00002 m 10⁻⁵ m 微小管の太さ 25 nm 10⁻⁸ m タンパク質ひとつ 5 nm 10⁻⁹ m 水の分子 0.3 nm 10⁻¹⁰ m 原子 0.1 nm 10⁻¹⁰ m 原子核 0.000005 nm 10⁻¹⁵ m 本文に出てくる「微小管」は、上から三段目。細胞よりずっと小さく、原子よりずっと大きい。 量子の効果がふつう問題になるのは、いちばん下の二段である。 タップで拡大かくだい
図ず 03まず、大おお きさの見当けんとう をつける。 この文章ぶんしょう には、細胞さいぼう ・タンパク質しつ ・分子ぶんし ・原子げんし が次々つぎつぎ に出で てくる。それぞれがどれくらい違ちが う大おお きさなのかを、先さき に一いち 枚まい で持も っておくと、あとの話はなし がすべて置お きやすくなる。 標準的ひょうじゅんてき な生物学せいぶつがく ・物理学ぶつりがく の教科書きょうかしょ レベル
ブランコは、止と まれない
子こ どものころ、公園こうえん のブランコを完全かんぜん に止と めようとしたことがあるだろうか。手て で押お さえれば止と まる。手て を離はな すと、たいていまた少すこ し揺ゆ れる。
古典的こてんてき な物理学ぶつりがく では、これは技術ぎじゅつ の問題もんだい にすぎない。理想的りそうてき な条件じょうけん を整ととの えれば、振ふ り子こ は完全かんぜん に静止せいし できる。エネルギーはゼロになる。
1 確立かくりつ した物理学ぶつりがく
温度と絶対零度 室温・液体窒素・絶対零度の三つの箱で粒子の暴れ方を比べ、絶対零度でも運動が完全には止まらないことを示した図 温度とは、粒子がどれだけ暴れているかである 室温 300 K(27℃) 液体窒素 77 K(−196℃) 絶対零度 0 K(−273.15℃) 激しく飛び回る ゆっくりになる それでも、止まらない 温度は「熱い・冷たい」という感覚の名ではない。粒子の運動の激しさそのものである。 運動が完全に止まった状態を 0 K と定め、そこから測る目盛りがケルビン(K)。 ところが量子力学では、完全な静止が禁じられている。0 K とは、 「そこまでは冷やせるが、そこで止まりはしない」という下限である。 タップで拡大かくだい
図ず 04絶対零度ぜったいれいど は、寒さむ さの果は てではなく、運動うんどう の果は てである。温度おんど は粒子りゅうし の運動うんどう の激はげ しさを表あらわ す量りょう である。運動うんどう が完全かんぜん に止と まった状態じょうたい を0 K と定さだ めるが、量子りょうし 力学りきがく はその完全かんぜん な静止せいし を禁きん じている。「絶対零度ぜったいれいど まで冷ひ やしても震ふる えが残のこ る」とは、この意味いみ である。熱ねつ 力学りきがく 第だい 三さん 法則ほうそく および標準的ひょうじゅんてき な量子りょうし 力学りきがく の帰結きけつ (教科書きょうかしょ レベル)
量子りょうし 力学りきがく (量子力学 / quantum mechanics) では、そうならない。
踏ふ み台だい 不ふ 確定かくてい 性せい 原理げんり は「測はか り方ほう が下手へた 」という話はなし ではない
よくある説明せつめい はこうである ── 「電子でんし を見み るには光ひかり を当あ てるしかないが、光ひかり が当あ たれば電子でんし は蹴飛けと ばされる。だから正確せいかく には測はか れない」。この説明せつめい は、間違まちが ってはいないが、肝心かんじん なところを外はず している。
正ただ しくはこうである。電子でんし は、はっきりした位置いち と、はっきりした速はや さを、同時どうじ には持も っていない。測はか る前まえ から持も っていないのだから、上手じょうず に測はか れば分わ かるという種類しゅるい の話はなし ではない。
イメージとしては、波なみ を思おも うとよい。一いち か所しょ にぎゅっと立た った波なみ は「どこにあるか」がはっきりする代か わりに、「どんな波長はちょう か(=どれくらいの速はや さか)」が言い えなくなる。逆ぎゃく に、どこまでも同おな じ波長はちょう で続つづ く波なみ は、波長はちょう がはっきりする代か わりに、「どこにあるか」が言い えない。位置いち と速はや さは、同おな じものの表ひょう と裏うら なのである。
完全かんぜん な静止せいし とは、「ここにいる」と「速はや さゼロ」が同時どうじ に決き まっている状態じょうたい のことだ。表ひょう と裏うら の両方りょうほう を同時どうじ にはっきりさせろ、という要求ようきゅう にあたる。だから、この世界せかい では起お こらない。
理由りゆう は、不ふ 確定かくてい 性せい 原理げんり (不确定性原理 / uncertainty principle) にある。この原理げんり は、粒子りゅうし の位置いち と運動量うんどうりょう を同時どうじ に正確せいかく に確定かくてい させることを禁きん じている。完全かんぜん な静止せいし とは、位置いち が確定かくてい し、かつ運動量うんどうりょう がゼロで確定かくてい している状態じょうたい のことだ。つまり、両方りょうほう が同時どうじ に決き まってしまう。それは、この原理げんり に反はん する。
だから、振動しんどう は止と まらない。最もっと も低ひく いエネルギー状態じょうたい にあってさえ、系けい は震ふる え続つづ ける。この消け せない残のこ りを零れい 点てん エネルギー(零点能 / zero-point energy) という。
1 確立かくりつ した物理学ぶつりがく
不確定性原理 位置のぼやけと速さのぼやけの積が一定より小さくならないことを、三つの長方形の面積で示した図 位置をはっきりさせるほど、速さがぼやける (面積は一定より小さくできない) 位置がはっきり 速さがぼやける ほどほど ほどほど 位置がぼやける 速さがはっきり 横=位置のぼやけ 縦=速さのぼやけ これは「測定が下手だから」ではない。粒子がそもそも、位置と速さの両方を同時には 持っていないという意味である。だから「完全に静止した状態」── 位置が一点に決まり、 かつ速さがゼロに決まっている状態 ── は、この世界に存在しない。 真空が震え続ける理由は、突きつめればこの一点にある。 タップで拡大かくだい
図ず 05ぼやけの面積めんせき は、それ以上いじょう 小ちい さくできない。 不ふ 確定かくてい 性せい 原理げんり は「測はか るのが下手へた だから分わ からない」という話はなし ではない。位置いち と速はや さの両方りょうほう が同時どうじ に確定かくてい した状態じょうたい そのものが存在そんざい しない、という主張しゅちょう である。完全かんぜん な静止せいし はその状態じょうたい にあたるため、実現じつげん しない。ハイゼンベルク (1927)。標準的ひょうじゅんてき な量子りょうし 力学りきがく の帰結きけつ
1 確立かくりつ した物理学ぶつりがく
下がりきれない床 古典力学では底で静止できる放物線ポテンシャルが、量子力学では最低準位が底から半エイチバーオメガだけ浮いていることを並べて示した概念図 古典力学 量子力学 E = 0 止まれる E₀ E₁ E₂ E₃ ½ℏω 止まれない ℏ は自然界の最小単位に関わる定数。ω は振動の速さ。掛け合わせた値の半分が、どうしても消えない。 タップで拡大かくだい
図ず 06宇宙うちゅう には、下さ がりきれない床ゆか がある。古典こてん 力学りきがく なら、振ふ り子こ は完全かんぜん に静止せいし できる。量子りょうし 力学りきがく では、不ふ 確定かくてい 性せい 原理げんり により「位置いち も速度そくど も同時どうじ に確定かくてい する」状態じょうたい が禁きん じられる。完全かんぜん な静止せいし はその状態じょうたい にあたるため、実現じつげん できない。残のこ るエネルギーが零れい 点てん エネルギーである。標準的ひょうじゅんてき な量子りょうし 力学りきがく の帰結きけつ (教科書きょうかしょ レベル)
これは奇説きせつ ではない。大学だいがく の量子りょうし 力学りきがく の教科書きょうかしょ に、最初さいしょ のほうで出で てくる。調和ちょうわ 振動子しんどうし という最もっと も基本的きほんてき な問題もんだい を解と けば、最低さいてい 準位じゅんい のエネルギーが二分にぶん の一いち エイチバー・オメガという有限ゆうげん の値あたい になる。何十なんじゅう 年ねん も、世界中せかいじゅう の学生がくせい が同おな じ計算けいさん をして同おな じ答こた えにたどり着つ いてきた。
もう一段いちだん 深ふか く ── 「二分にぶん の一いち エイチバー・オメガ」の読よ み下くだ し
記号きごう に見み えるが、言い っていることは短みじか い。ℏ(エイチバー)はプランク定数ていすう を 2π で割わ った値あたい で、自然界しぜんかい で「これ以下いか には刻きざ めない」量りょう を決き める定数ていすう である。ω(オメガ)は振動しんどう の速はや さ ── 1秒いちびょう に何回なんかい 揺ゆ れるかを表あらわ す。
したがって ℏω は「その振動しんどう 1回いっかい ぶんの、最小さいしょう のエネルギーの単位たんい 」にあたる。光ひかり でいえば光子こうし 1個いっこ ぶんのエネルギーがこれである。式しき が言い っているのは、その半分はんぶん だけは、どうやっても取と り除のぞ けない ということだけだ。
半分はんぶん という端数はすう が出で るのは、振動しんどう が「位置いち の揺ゆ れ」と「速はや さの揺ゆ れ」の二ふた つを抱かか えていて、その両方りょうほう に不ふ 確定かくてい 性せい のぶんが割わ り当あ てられるからである。片方かたほう だけを消け すことはできず、両方りょうほう をいちばん小ちい さくした状態じょうたい が、この半分はんぶん になる。
式しき で書か くと E₀ = ½ ℏω となる。E₀ はいちばん低ひく いエネルギー、ℏ は「これ以下いか には刻きざ めない」量りょう を決き める定数ていすう 、ω は1秒いちびょう あたりの揺ゆ れの回数かいすう である。意義いぎ は右辺うへん にゼロが無な いことにある ── 振動しんどう が在あ るかぎり、エネルギーはゼロにならない。
この節せつ の元もと になっている不ふ 確定かくてい 性せい 原理げんり も、式しき にすれば一行いちぎょう である。Δx · Δp ≥ ℏ⁄2 。Δx は位置いち のぼやけの幅はば 、Δp は運動量うんどうりょう (速はや さ×質量しつりょう )のぼやけの幅はば 。意義いぎ は、二ふた つの掛か け算ざん に下限かげん があることにある ── 片方かたほう を小ちい さくすれば、必かなら ずもう片方かたほう が大おお きくなる。両方りょうほう を同時どうじ にゼロにはできない。だから完全かんぜん な静止せいし が無な い。
問題もんだい は、この「震ふる え」が、何なに もない空間くうかん そのものにも当あ てはまるということである。
踏ふ み台だい 「場ば 」とは何なに か。そして、粒子りゅうし とは何なに か
ここが、この文章ぶんしょう でいちばん大おお きな段差だんさ かもしれない。ゆっくり上あ がる。
古ふる い描像びょうぞう では、世界せかい は「粒つぶ 」でできていた。電子でんし という小ちい さな玉たま があり、光ひかり という小ちい さな玉たま がある。しかし20世紀にじっせいき の物理学ぶつりがく が到達とうたつ した描像びょうぞう は違ちが う。世界せかい の基本きほん にあるのは粒つぶ ではなく、場ば である。
場ば とは、空間くうかん のあらゆる点てん に一ひと つずつ値あたい が割わ り当あ てられている、という状態じょうたい のことをいう。天気予報てんきよほう の気温きおん の図ず を思おも えばよい ── 地図ちず 上じょう のどの点てん にも気温きおん という数かず が付つ いている。あれが場ば である。電磁場でんじば なら、どの点てん にも電場でんば と磁場じば の値あたい が付つ いている。
この場ば を量子りょうし 力学りきがく の規則きそく で扱あつか うと、場ば は「空間くうかん じゅうに敷し きつめられた無数むすう のばね」の集あつ まりとして記述きじゅつ される。そしてばねが一ひと つ跳は ね上あ がった状態じょうたい を、私わたし たちは「粒子りゅうし が1個いっこ ある」と呼よ んでいる 。電子でんし は電子でんし 場ば のふるえであり、光ひかり は電磁場でんじば のふるえである。
ここまで来く ると、次つぎ の一段いちだん は短みじか い。ばねは量子りょうし 力学りきがく に従したが うから、完全かんぜん には静止せいし できない(不ふ 確定かくてい 性せい 原理げんり )。だから一ひと つも跳は ねていない状態じょうたい ── つまり真空しんくう ── でも、ばねは震ふる え続つづ ける 。これが零れい 点てん エネルギーの正体しょうたい である。
電磁場でんじば を量子りょうし 力学りきがく 的てき に扱あつか うと、場ば は無数むすう の振動子しんどうし の集あつ まりとして記述きじゅつ される。振動子しんどうし である以上いじょう 、零れい 点てん エネルギーを持も つ。したがって——何なに も入はい っていない空間くうかん は、震ふる えている。
真空しんくう とは、何なに もない場所ばしょ の名前なまえ ではない。取と り除のぞ けるものを全部ぜんぶ 取と り除のぞ いた後あと に、それでも残のこ るものの名前なまえ である。
1 確立かくりつ した物理学ぶつりがく
場とは何か 空間に敷きつめられたばねの格子として場を描き、一つが跳ね上がった状態が粒子、何も跳ねていない状態が真空であることを示した図 場とは、空間じゅうに敷きつめられた「ばね」の集まりである ここが一つ跳ね上がった状態を 「粒子が1個ある」と呼ぶ どこも跳ねていない状態が「真空」 それでも、ばねは小刻みに震えている 電子も光も、「小さな粒」ではなく「場のふるえ」として記述される。これが場の量子論である。 ばねは量子力学に従うから、完全に静止できない(不確定性原理)。 だから何も跳ねていない真空でも、ばねは震え続ける。これが零点エネルギーの正体である。 タップで拡大かくだい
図ず 07粒子りゅうし とは、場ば が一ひと つ跳は ね上あ がった状態じょうたい のことである。現代げんだい の物理学ぶつりがく では、電子でんし も光ひかり も「小ちい さな玉たま 」ではなく「場ば のふるえ」として記述きじゅつ される。この見方みかた に立た つと、真空しんくう とは「場ば が一ひと つも跳は ねていない状態じょうたい 」であり、それでも場ば そのものは震ふる え続つづ ける、ということになる。場ば の量子論りょうしろん の標準的ひょうじゅんてき な描像びょうぞう (教科書きょうかしょ レベル)
二に 枚まい の板いた が、勝手かって に近ちか づく
理論りろん がそう言い っているだけなら、まだ議論ぎろん の余地よち がある。だが、この「震ふる え」は物もの を動うご かす。
1948年ねん 、オランダの物理学ぶつりがく 者しゃ ヘンドリック・カシミール(亨德里克·卡西米尔 / Hendrik Casimir) が、奇妙きみょう な予言よげん をした。真空中しんくうちゅう に二に 枚まい の金属きんぞく 板いた を非常ひじょう に近ちか づけて向む かい合あ わせると、両者りょうしゃ のあいだに引力いんりょく が生しょう じる、というものである。板いた は帯電たいでん していない。磁石じしゃく でもない。あいだには何なに もない。それでも引ひ き合あ う。
仕組しく みは、驚おどろ くほど単純たんじゅん だ。
二に 枚まい の板いた のあいだには、その隙間すきま にちょうど収おさ まる波長はちょう の振動しんどう しか存在そんざい できない。ギターの弦げん と同おな じである。弦げん の両端りょうたん は固定こてい されているから、そこが節せつ になる波なみ しか鳴な らない。板いた の外側そとがわ には、そういう制限せいげん がない。あらゆる波長はちょう が存在そんざい できる。
もう一段いちだん 深ふか く ── なぜ「収おさ まる波長はちょう しか存在そんざい できない」のか
弦げん をイメージするのがいちばん早はや い。ギターの弦げん は両端りょうたん が固定こてい されているから、端はし が動うご くような揺ゆ れ方ほう はできない。結果けっか として、弦げん の長なが さにちょうど半はん 波長はちょう の整数せいすう 倍ばい が収おさ まる揺ゆ れ方ほう だけが残のこ る。これが基音きおん と倍音ばいおん になる。
金属きんぞく 板いた のあいだの電磁場でんじば も同おな じ条件じょうけん を負お う。金属きんぞく の表面ひょうめん では電場でんば が特定とくてい の向む きを取と れないため、そこが「節せつ 」になる波なみ だけが生い き残のこ る。板いた の間隔かんかく が狭せま いほど、収おさ まる波長はちょう の種類しゅるい は減へ っていく。
外側そとがわ にはこの制限せいげん がない。だから板いた の内ない と外そと で、存在そんざい できる「震ふる えの種類しゅるい の数かず 」に差さ ができる。その差さ が圧力あつりょく の差さ として現あらわ れ、板いた を内側うちがわ へ押お す。板いた を押お しているのは、そこに「無な い」波なみ である。
結果けっか として、外側そとがわ のほうが内側うちがわ より「混こ んでいる」。この密度みつど の差さ が圧力あつりょく の差さ を生う み、板いた を内側うちがわ へ押お す。
1 確立かくりつ した物理学ぶつりがく
カシミール効果 向かい合う二枚の板のあいだには隙間に収まる波長の波しか存在できず、外側には制限がない。この密度差が板を引き寄せることを示した概念図 入れる波:3種類 入れる波:無数 入れる波:無数 d 外の圧力 > 内の圧力 → 板は引き寄せられる タップで拡大かくだい
図ず 08二に 枚まい の板いた は、何なん にも押お されていないのに、近ちか づく。板いた の間あいだ には、その隙間すきま にちょうど収おさ まる波なみ しか存在そんざい できない。外側そとがわ には制限せいげん がない。この密度みつど の差さ が圧力あつりょく 差さ を生う み、板いた を引ひ き寄よ せる。1948年ねん にカシミールが予言よげん し、1997年ねん にラモローらが精密せいみつ に測定そくてい した。Casimir (1948); Lamoreaux, Phys Rev Lett 78, 5 (1997)
このカシミール効果こうか (卡西米尔效应 / Casimir effect) は、1997年ねん にスティーブ・ラモロー によって精密せいみつ に測定そくてい された。予言よげん から半はん 世紀せいき 近ちか く後あと のことである。効果こうか は微弱びじゃく だが、確たし かにそこにあった。
何なに もないはずのものが、物もの を動うご かした。
「無む 」を、光ひかり で叩たた いて聴き く
カシミール効果こうか は、真空しんくう のゆらぎを間接かんせつ 的てき に示しめ す。板いた が動うご いたことから、その原因げんいん を推お し量はか る。もっと直接的ちょくせつてき に、ゆらぎそのものを測はか ることはできないだろうか。
2022年ねん 、チューリッヒ工科大学こうかだいがく のグループがそれをやった。
踏ふ み台だい フェムト秒びょう という時間じかん の長なが さ
この先さき 、195 フェムト秒びょう 、470 フェムト秒びょう という数字すうじ が出で てくる。一いち フェムト秒びょう は1,000兆ちょう 分ぶん の1秒いちびょう ── 10⁻¹⁵ 秒びょう である。
実感じっかん するために、比ひ を取と る。一いち フェムト秒びょう と1秒いちびょう の比ひ は、およそ1秒いちびょう と3,200万まん 年ねん の比ひ に等ひと しい。光ひかり は1秒いちびょう で地球ちきゅう を七なな 周しゅう 半はん するが、一いち フェムト秒びょう のあいだには 0.3 マイクロメートル ── 細菌さいきん 1個いっこ ぶんほどしか進すす めない。
この時間じかん の短みじか さが、実験じっけん の要かなめ になる。470 フェムト秒びょう だけ離はな れた二に 点てん は、光ひかり の速はや さをもってしても互たが いに信号しんごう を送おく れない。その「絶対ぜったい に連絡れんらく が取と れない」配置はいち を作つく ることが、この実験じっけん の目的もくてき だからである。
彼かれ らが用もち いたのは、電気でんき 光学こうがく サンプリングという手法しゅほう である。極きわ めて短みじか いレーザーパルスを真空中しんくうちゅう に送おく り込こ み、パルスが受う ける微小びしょう な変化へんか から、その場所ばしょ の場ば のゆらぎを読よ み取と る。真空しんくう を、光ひかり で叩たた いて音おと を聴き くようなものだ。
Settembrini, Lindel, Herter, Buhmann & Faist, Nat Commun 13, 3383 (2022), doi:10.1038/s41467-022-31081-1
実験じっけん の解剖かいぼう ── 真空しんくう のゆらぎを、光ひかり で測はか る(2022年ねん )
何なに を知し りたかったか真空しんくう そのものが震ふる えているという理論りろん の予測よそく を、間接かんせつ 的てき にではなく直接ちょくせつ 、しかも「因果いんが 的てき に切き り離はな された二に 点てん のあいだ」で確たし かめられるか。
どうやったか 極きわ めて短みじか いレーザーパルスを非線形ひせんけい 結晶けっしょう に通とお す。結晶けっしょう の中なか では、その場ば に電場でんば があると光ひかり の偏かたよ りがわずかにねじれる(電気でんき 光学こうがく 効果こうか )。そこで、パルスの偏かたよ りのねじれ方ほう を測はか れば、そのパルスが通とお った瞬間しゅんかん ・その場所ばしょ の電場でんば が読よ める。これを二本にほん のパルスで、時間じかん をずらして行おこな う。
何なに が出で たか二本にほん のパルスが読よ み取と った値あたい のあいだに、相関そうかん があった。二本にほん は 470 フェムト秒びょう の飛行ひこう 時間じかん だけ隔へだ てられており、これは光ひかり でも往復おうふく できない隔へだ たりである。
ここまでは言い える 真空しんくう という一ひと つの場ば が、因果いんが 的てき に切き り離はな された二に 点てん のあいだにも構造こうぞう を持も っている、ということ。理論りろん (場ば の量子論りょうしろん )が予測よそく していた性質せいしつ が、測定そくてい で確たし かめられた。
ここからは言い えない 情報じょうほう が送おく れる、という意味いみ にはならない。どちらの点てん で何なに が出で るかは完全かんぜん にランダムで、送おく り手て が選えら べない。相関そうかん は、両方りょうほう の記録きろく を後あと から突つ き合あ わせたときにだけ姿すがた を現あらわ す。
彼かれ らが検出けんしゅつ したものが、この実験じっけん を単たん なる測定そくてい 以上いじょう のものにしている。
使つか われたのは195フェムト秒びょう ——一いち フェムト秒びょう は1,000兆ちょう 分ぶん の1秒いちびょう である——という短みじか さの二本にほん のパルスで、両者りょうしゃ は470フェムト秒びょう の飛行ひこう 時間じかん だけ隔へだ てられていた。この隔へだ たりは、光ひかり ですら片方かたほう からもう片方かたほう へ届とど かない配置はいち になっている。特殊とくしゅ 相対性理論そうたいせいりろん の言葉ことば でいえば、二に 点てん は光円錐こうえんすい (光锥 / light cone) の外側そとがわ にある。因果いんが 的てき に切き り離はな されている。
その二に 点てん のあいだに、相関そうかん があった。
2 最前線さいぜんせん ・査読さどく 済ずみ
光円錐の外側 光でも行き来できない二点が真空を介して相関していることを、ミンコフスキー図の上に示した概念図。情報は送れないという注記を伴う 時間 空間 因果的に到達可能 光でも届かない領域 測定点 A パルス長 195 fs 測定点 B パルス長 195 fs 隔たり = 飛行時間 470 fs 1 fs は 1000兆分の1秒 この相関を使って情報を送ることはできない。 相関が確認できるのは、両方の測定結果を 後から突き合わせたときだけである。 タップで拡大かくだい
図ず 09光ひかり でも届とど かない距離きょり を隔へだ てて、真空しんくう はつながっている。量子りょうし 場ば 理論りろん によれば、実在じつざい する励起れいき をすべて取と り除のぞ いた基底きてい 状態じょうたい としての空虚くうきょ な空間くうかん は、空そら ではなく真空しんくう ゆらぎに満み たされている。この揺ゆ らぐ場ば は、特殊とくしゅ 相対性理論そうたいせいりろん において因果いんが 的てき に切き り離はな された時空じくう 点てん のあいだにも相関そうかん を持も つ。著者ちょしゃ らは電気でんき 光学こうがく サンプリングを用もち い、195フェムト秒びょう の2本にほん のレーザーパルスを470フェムト秒びょう の飛行ひこう 時間じかん だけ隔へだ てて配置はいち し、真空しんくう に由来ゆらい する相関そうかん を検出けんしゅつ した。これは因果いんが 的てき な伝達でんたつ ではない。真空しんくう という一ひと つの場ば が、もともと持も っている構造こうぞう である。Settembrini, Lindel, Herter, Buhmann & Faist, Nat Commun 13, 3383 (2022), doi:10.1038/s41467-022-31081-1
踏ふ み台だい 光円錐こうえんすい ── 因果いんが の届とど く範囲はんい
相対性理論そうたいせいりろん が置お いた制限せいげん は、たった一ひと つである。どんな影響えいきょう も、光ひかり より速はや くは伝つた わらない。
ある一点いってん から出発しゅっぱつ して、光ひかり の速はや さで進すす んで到達とうたつ できる範囲はんい を、時間じかん と空間くうかん の図ず の上うえ に描えが くと円錐えんすい の形かたち になる。これが光円錐こうえんすい である。円錐えんすい の内側うちがわ は「その点てん から影響えいきょう を及およ ぼせる範囲はんい 」、外側そとがわ は「どうやっても届とど かない範囲はんい 」になる。
二ふた つの出来事できごと が互たが いの光円錐こうえんすい の外そと にあるとき、その二ふた つは因果いんが 的てき に切き り離はな されている という。一方いっぽう が他方たほう の原因げんいん になることは、原理げんり 的てき にありえない。
この実験じっけん の面白おもしろ さは、「原因げんいん になりえない二に 点てん のあいだに、それでも相関そうかん があった」という一点いってん にある。因果いんが ではないのに関係かんけい がある ── それは、二に 点てん がもともと一ひと つの場ば の別々べつべつ の場所ばしょ だからである。
誤解ごかい しないでほしい。これは超ちょう 光速こうそく の通信つうしん ではない。信号しんごう は送おく られていない。二ふた つの点てん はもともと一ひと つの場ば の一部いちぶ であり、その場ば が最初さいしょ から持も っている構造こうぞう が、相関そうかん として現あらわ れている。海うみ の離はな れた二に か所しょ の水面すいめん が、同おな じ一ひと つの海うみ のふるまいとして関係かんけい しているのと似に ている。片方かたほう を揺ゆ らして他方たほう に合図あいず を送おく ることはできない。
だが、それでもなお、この結果けっか は静しず かに衝撃的しょうげきてき である。何なに も入はい っていない空間くうかん の、光ひかり でも行い き来き できない二に 点てん が、無関係むかんけい ではない。
別べつ の道みち から、同おな じ場所ばしょ へ
一ひと つの実験室じっけんしつ が一ひと つの手法しゅほう で得とく た結果けっか は、まだ幻まぼろし かもしれない。装置そうち の癖くせ 、測定そくてい 系けい のノイズ、解釈かいしゃく の誤あやま り。可能性かのうせい はいくらでもある。
だから、二ふた つのことが続つづ いた。
一ひと つは、同おな じグループによる2026年ねん の仕事しごと である。真空しんくう 由来ゆらい のゆらぎと、光源こうげん そのものが出だ す放射ほうしゃ とを、実験的じっけんてき に分離ぶんり してみせた。「それは装置そうち のノイズではないのか」という、この分野ぶんや に対たい する最もっと も自然しぜん で最もっと も手強てごわ い反論はんろん に、正面しょうめん から答こた えたことになる。
もう一ひと つは、まったく別べつ の道みち からの接近せっきん だった。カナダのシェルブルック大学だいがく のグループは、光ひかり を使つか わない。極きょく 低温ていおん の抵抗器ていこうき とトンネル接合せつごう を用もち い、電子でんし の輸送ゆそう に現あらわ れるノイズの三次さんじ の相関そうかん から、接合せつごう が受う けている真空しんくう ゆらぎを読よ み取と る。検出けんしゅつ 系けい が不可避ふかひ 的てき に持も ち込こ むノイズに埋うず もれない形かたち で、真空しんくう のゆらぎを測はか る方法ほうほう である。
光学こうがく の道みち と、電子でんし 回路かいろ の道みち 。使つか う装置そうち も、測はか る対象たいしょう も、理論的りろんてき な枠組わくぐ みの見み え方かた も違ちが う。それが同おな じ結論けつろん に至いた った。
一ひと つの手法しゅほう で見み えたものは、まだ幻まぼろし かもしれない。二ふた つの違ちが う道みち から同おな じものが見み えたとき、それは実在じつざい になる。
この章しょう が答こた えていないこと
真空しんくう が振動しんどう しているとして、それは「空から っぽ」の反対語はんたいご なのか、それとも「空から っぽ」の正体しょうたい なのか。
この振動しんどう は、実験じっけん 装置そうち の外そと にも——たとえば、あなたの頭蓋骨ずがいこつ の中なか にも——満み ちているのだろうか。
物質ぶっしつ の性質せいしつ を変か えたければ、何なに かを当あ てるのが常識じょうしき だった。熱ねつ を当あ てる。光ひかり を当あ てる。磁場じば をかける。電流でんりゅう を流なが す。何なに かを与あた えれば、何なに かが変か わる。
物質ぶっしつ の性質せいしつ を変か えたければ、何なに かを当あ てるのが常識じょうしき だった。熱ねつ を当あ てる。光ひかり を当あ てる。磁場じば をかける。電流でんりゅう を流なが す。何なに かを与あた えれば、何なに かが変か わる。近年きんねん の実験じっけん は、その常識じょうしき の外側そとがわ にある。
彼かれ らは、何なに も当あ てていない。試料しりょう を鏡かがみ と鏡かがみ のあいだに置お いただけである。閉と じ込こ めたのは光ひかり ではない。光ひかり がいない状態じょうたい ——真空しんくう そのものである。
そして物質ぶっしつ は、性質せいしつ を変か えた。
踏ふ み台だい この章しょう に意識いしき は出で てこない。では、なぜここに在あ るのか
さきに白状はくじょう しておく。この章しょう に出で てくるのは、絶対零度ぜったいれいど の近ちか くまで冷ひ やされた半導体はんどうたい と、超伝導ちょうでんどう 体からだ の薄片はくへん だけである。論文ろんぶん の著者ちょしゃ たちは意識いしき について一言ひとこと も書か いていないし、そのつもりも無な い。
では、何なに のためにこの研究けんきゅう をしているのか。 物質ぶっしつ の性質せいしつ を、外そと から何なに かを当あ てずに変か えられるなら、それは新あたら しい設計せっけい の道具どうぐ になる。たとえば、より高たか い温度おんど で超伝導ちょうでんどう を起お こせないか。量子りょうし コンピュータの素子そし を壊こわ れにくくできないか。この分野ぶんや が追お いかけているのは、そういう工学こうがく の目標もくひょう である。
では、なぜこの文章ぶんしょう に要い るのか。 三みっ つある。
一ひと つめ。第だい 1章いっしょう は「真空しんくう が震ふる えている」ところまでで止と まっていた。この章しょう はその震ふる えが実際じっさい に物もの を動うご かす ところまで進すす む。震ふる えているだけのものは、何なに も説明せつめい しない。物もの を動うご かすなら、話はなし が変か わる。
二ふた つめ。第だい 3章さんしょう から先さき で出で てくる「脳のう の中なか の量子りょうし 」という話はなし は、すべて一点いってん にかかっている ── 量子りょうし や真空しんくう のゆらぎは、大おお きくて暖あたた かい物体ぶったい に対たい しても効き くのか。 この章しょう は、その一点いってん を、脳のう ではない場所ばしょ で、はじめて実験じっけん で見み せた例れい である。
三みっ つめ。同時どうじ にこの章しょう は、距離きょり も見み せる 。ここで効き いたのは、絶対零度ぜったいれいど のすぐ上うえ まで冷ひ やした、原子げんし 数個すうこ ぶんの厚あつ みしかない、極きわ めて整ととの った試料しりょう である。脳のう は摂氏せっし 37度さんじゅうななど で、水みず びたしで、乱雑らんざつ である。その隔へだ たりを忘わす れないために、この章しょう は要い る。
この三みっ つを頭あたま に置お いて読よ むと、この章しょう が「意識いしき の話はなし ではないのに、意識いしき の話はなし の土台どだい になる」という位置いち にいることが見み えてくる。
踏ふ み台だい 共振器きょうしんき とは何なに か
この章しょう の主役しゅやく は「共振器きょうしんき 」である。ふだんの言葉ことば に直なお すと、特定とくてい の震ふる え方ほう だけを許ゆる す入い れもの ということになる。
身近みじか な例れい がいくつもある。風呂場ふろば で歌うた うと特定とくてい の高たか さの声こえ だけがよく響ひび く。あれは風呂場ふろば という箱はこ が、その高たか さの音波おんぱ だけをきれいに収おさ めるからである。音叉おんさ が一ひと つの高たか さだけを鳴な らすのも、ギターの弦げん が決き まった音おと を出だ すのも、同おな じ理屈りくつ になる。
電磁波でんじは でも同おな じことが起お きる。鏡かがみ と鏡かがみ で挟はさ んだ空間くうかん には、その間隔かんかく に収おさ まる波長はちょう の光ひかり しか存在そんざい できない。電子でんし レンジの中なか で食品しょくひん が場所ばしょ によって温あたた まり方ほう が違ちが うのは、庫内こない が共振器きょうしんき になっていて、波なみ の強つよ いところと弱よわ いところができるからである。
ここまでは「入い れた光ひかり をどう整ととの えるか」という話はなし に聞き こえる。この章しょう が扱あつか うのは、その次つぎ の一段いちだん である ── 光ひかり を一ひと つも入い れなくても、入い れものの形かたち を変か えれば「震ふる えの種類しゅるい 」は変か わる。真空しんくう のゆらぎもまた、収おさ まる種類しゅるい が決き まっているからである。
鏡かがみ を近ちか づけると、無む の形かたち が変か わる
前章ぜんしょう で見み たカシミール効果こうか を思おも い出だ してほしい。二に 枚まい の板いた のあいだには、その隙間すきま に収おさ まる波長はちょう しか存在そんざい できなかった。
これは裏返うらがえ せば、こういうことである。鏡かがみ の配置はいち を変か えれば、そこに存在そんざい できる真空しんくう のゆらぎの種類しゅるい が変か わる。
共振器きょうしんき ——鏡かがみ や金属きんぞく で囲かこ まれた小ちい さな空間くうかん ——を設計せっけい することで、その内部ないぶ の真空しんくう 場ば を意図的いとてき に整形せいけい できる。この考かんが え方かた をキャビティ量子りょうし 電気でんき 力学りきがく (腔量子电动力学 / cavity QED) という。
言葉ことば にすると奇妙きみょう に響ひび く。無む を設計せっけい する、という言い い方かた は、詩し の中なか でしか許ゆる されないもののように聞き こえる。
その言葉ことば が、比喩ひゆ ではなくなった。
踏ふ み台だい 「何なに も当あ てていないのに変か わる」とは、どういうことか
ここが、この章しょう でいちばん飲の み込こ みにくいところだと思おも う。ゆっくり行い く。
ふつう、物もの に何なに かをさせたければ、光ひかり でも熱ねつ でも電気でんき でも、何なに かを送おく り込こ む 。送おく り込こ まれたものがエネルギーを運はこ び、それが物もの を変か える。この章しょう の実験じっけん は、そこを一ひと つも使つか っていない。光子こうし は1個いっこ も入い れていない。
代か わりに使つか っているのが、第だい 1章いっしょう で見み た零れい 点てん エネルギーである。真空しんくう のゆらぎは、光子こうし が現あらわ れてはすぐ消き える ことの繰く り返かえ しとして書か ける。現あらわ れてすぐ消き えるので外そと へ取と り出だ せない。だから仮想かそう 光子こうし と呼よ ばれる。
取と り出だ せないものに何なに ができるのか、と思おも うところだが、できることが一ひと つある。二ふた つの電子でんし のあいだを行い き来き すれば、力ちから になる。 カシミール効果こうか で二に 枚まい の板いた が引ひ き合あ ったのも、突つ きつめれば同おな じ理屈りくつ である。
そして鏡かがみ は、行い き来き できる仮想かそう 光子こうし の種類しゅるい を選えら び直なお す 。第だい 1章いっしょう で見み たとおり、鏡かがみ と鏡かがみ のあいだには収おさ まる波長はちょう しか存在そんざい できない。だから鏡かがみ を近ちか づけると、電子でんし どうしのあいだを行い き来き する仮想かそう 光子こうし の顔かお ぶれが変か わり、電子でんし どうしの引ひ き合あ い方ほう が変か わる 。
この章しょう の実験じっけん が測はか ったのは、まさにそれである。何なに も送おく り込こ まずに、送おく り込こ む相手あいて のほうの「地ち 」を変か えた。
1 確立かくりつ した物理学ぶつりがく
仮想光子が力を運ぶ 鏡が無いときと在るときで、二つの電子のあいだを行き来する仮想光子の種類が変わり、そのために電子どうしに働く力が変わることを示した図 何も当てていないのに力が変わる、その仕組み 真空のゆらぎは「現れてすぐ消える光子」として書ける。取り出せないので仮想光子という 鏡が無いとき あらゆる種類のゆらぎが行き来する 電子 電子 力の強さ:ふつう 鏡があるとき 隙間に収まる種類だけが行き来する 電子 電子 鏡 鏡 力の強さ:変わる 仮想光子は、現れてすぐ消えるので外へ取り出せない。それでも、二つの電子のあいだを 行き来すれば力になる。鏡は、行き来できる仮想光子の種類を選び直す。 だから「光を一つも当てていないのに、電子どうしの引き合い方が変わる」ということが起きる。 これがこの章の実験で実際に測られたものである。 タップで拡大かくだい
図ず 10何なに も当あ てていないのに力ちから が変か わる、その仕組しく み。真空しんくう のゆらぎは「現あらわ れてすぐ消き える光子こうし 」として書か ける。取と り出だ せないので仮想かそう 光子こうし という。取と り出だ せなくても、二ふた つの電子でんし のあいだを行い き来き すれば力ちから になる。鏡かがみ は、行い き来き できる仮想かそう 光子こうし の種類しゅるい を選えら び直なお す。場ば の量子論りょうしろん の標準的ひょうじゅんてき な描像びょうぞう (教科書きょうかしょ レベル)
量子りょうし ホール効果こうか に、つまみが付つ いた
2025年ねん 、Nature に一本いっぽん の論文ろんぶん が載の った。チューリッヒ工科大学こうかだいがく を中心ちゅうしん とするグループの仕事しごと である。
踏ふ み台だい 二次元にじげん 電子でんし ガスと、量子りょうし ホール効果こうか
「二次元にじげん の電子でんし の海うみ 」というのは比喩ひゆ ではない。性質せいしつ の違ちが う半導体はんどうたい を層状そうじょう に重かさ ねると、その境目さかいめ に電子でんし が薄うす い膜まく のように溜た まる。厚あつ みは原子げんし 数個すうこ ぶんしかなく、電子でんし は面めん の中なか では自由じゆう に動うご けるが、面めん に垂直すいちょく な方向ほうこう へは動うご けない。実質的じっしつてき に二次元にじげん の世界せかい に住す む電子でんし の集団しゅうだん ── これが二次元にじげん 電子でんし ガスである。
この面めん に垂直すいちょく な向む きから強つよ い磁場じば をかけると、奇妙きみょう なことが起お きる。電流でんりゅう と垂直すいちょく 向む きに現あらわ れる電圧でんあつ (ホール電圧でんあつ )から求もと めた抵抗ていこう が、磁場じば を強つよ くしても連続れんぞく に変か わらず、階段かいだん 状じょう の、とびとびの値あたい だけ を取と るようになる。
踏ふ み板いた の高たか さは、電子でんし の電荷でんか とプランク定数ていすう だけで決き まる。試料しりょう の形かたち にも、不純物ふじゅんぶつ の量りょう にもよらない。あまりに正確せいかく なので、いまでは電気でんき 抵抗ていこう の標準器ひょうじゅんき として使つか われている。
さらに磁場じば を強つよ くすると、「電子でんし が三分さんぶん の1個いっこ 」「五分ごぶん の3個さんこ 」に相当そうとう するような場所ばしょ にも段だん が現あらわ れる。これが分数ぶんすう 量子りょうし ホール効果こうか で、電子でんし どうしの強つよ い反発はんぱつ が集団しゅうだん で作つく り出だ す、とりわけ繊細せんさい な状態じょうたい である。第だい 2章にしょう の実験じっけん が動うご かしたのは、この繊細せんさい なほうの状態じょうたい だった。
彼かれ らは、半導体はんどうたい の中なか に閉と じ込こ められた極きわ めて質しつ の高たか い二次元にじげん の電子でんし の海うみ を用意ようい した。強つよ い磁場じば をかけると、この電子でんし の海うみ は量子りょうし ホール効果こうか (量子霍尔效应 / quantum Hall effect) と呼よ ばれる状態じょうたい に入はい る。電気でんき 抵抗ていこう が階段かいだん 状じょう に量子化りょうしか され、電子でんし どうしが強つよ く相関そうかん し合あ う、物性ぶっせい 物理学ぶつりがく で最もっと も精密せいみつ に調しら べられてきた舞台ぶたい の一ひと つである。
その上うえ に、分割ぶんかつ リング共振器きょうしんき を「浮う かせた」。
1 確立かくりつ した物理学ぶつりがく
量子ホール効果 磁場を強くするとホール抵抗が連続的にではなく階段状に変化することを、古典物理の予想する直線と並べて示した図 磁場を強くしていくと、電気抵抗が「階段」になる 磁場の強さ → ホール抵抗 古典物理の予想(まっすぐ) ν=4 ν=3 ν=2 ν=1 分数のところにも段がある 踏み板の高さは、電子1個の電荷と、量子力学の基本定数だけで決まる。試料の形にも 不純物にもよらない。だから量子ホール効果は、抵抗の標準器として使われている。 タップで拡大かくだい
図ず 11なめらかに変か わるはずのものが、階段かいだん になる。 二次元にじげん に閉と じ込こ めた電子でんし に強つよ い磁場じば をかけると、ホール抵抗ていこう が連続れんぞく ではなく階段かいだん 状じょう の値あたい だけを取と る。踏ふ み板いた の高たか さは基本きほん 定数ていすう だけで決き まり、試料しりょう の形かたち にも不純物ふじゅんぶつ にもよらない。第だい 2章にしょう の実験じっけん は、この階段かいだん の高たか さそのものではなく、階段かいだん が生しょう じる背景はいけい の相互作用そうごさよう を、真空しんくう 場ば で動うご かしている。von Klitzing et al., Phys Rev Lett 45, 494 (1980)。分数ぶんすう 量子りょうし ホール効果こうか は Tsui, Störmer & Gossard (1982)
2 最前線さいぜんせん ・査読さどく 済ずみ
浮遊する共振器 分割リング共振器を半導体試料の上に浮かせ、ギャップから漏れ出す場が二次元電子ガスに届く距離まで近づける実験配置の模式図 二次元電子ガス(2DEG) ホールバー(半導体試料) 分割リング共振器(CSRR) ギャップ 50 μm d = 0.35 〜 1,200 μm(可変) 光は当てていない。近づけただけである。 タップで拡大かくだい
図ず 12光ひかり を当あ てるのではなく、真空しんくう の形かたち を変か える。金属きんぞく の分割ぶんかつ リング共振器きょうしんき を試料しりょう の上うえ に浮う かせる。共振器きょうしんき のギャップから漏も れ出だ す場ば が試料しりょう に届とど く距離きょり まで近ちか づけると、真空しんくう 場ば との結合けつごう が生う まれる。金属きんぞく を近ちか づけることによる静電せいでん 遮蔽しゃへい の影響えいきょう が無視むし できる距離きょり で測定そくてい されている。同上どうじょう (Enkner et al., Nature 641, 884 (2025) Fig. 1 に基もと づく模式もしき 化か )
共振器きょうしんき は試料しりょう に触ふ れていない。光ひかり を照射しょうしゃ してもいない。ただ、距離きょり を変か えられるようにしただけである。
そして、距離きょり を変か えた。
2 最前線さいぜんせん ・査読さどく 済ずみ
真空のダイヤル 分割リング共振器と二次元電子ガスの距離を1200マイクロメートルから0.35マイクロメートルまで縮めると、真空場との結合強度が0%から32%へ連続的に増える実測値のグラフ 同じ試料。同じ温度。同じ磁場。変えたのは、鏡までの距離だけ。 非結合 超強結合 0% 10% 20% 30% 40% 1000 100 10 1 0.1 距離 d / μm(対数目盛。右へ行くほど近い) 結合強度 1200 35 17.85 6.43 2.45 1.23 0.35 ≈ 0% 32% 37% 共振器は光を放射していない。近づけただけである。 横軸は対数目盛のため、起点は 0 ではない。いちばん右の白丸は外挿の値である。 タップで拡大かくだい
図ず 13つまみは、距離きょり だった。 分割ぶんかつ リング共振器きょうしんき を二次元にじげん 電子でんし ガスの上うえ に「浮う かせ」、その距離きょり を変か えるだけで、真空しんくう 場ば との結合けつごう 強度きょうど が0%から32%まで連続的れんぞくてき に変化へんか した。この結合けつごう の変化へんか に伴ともな い、奇数きすう 充填じゅうてん 因子いんし での交換こうかん 分裂ぶんれつ が減少げんしょう し、充填じゅうてん 因子いんし 4/3・5/3・7/5 の分数ぶんすう 量子りょうし ホールギャップが増大ぞうだい した。共振器きょうしんき は外部がいぶ から光ひかり を照射しょうしゃ していない。Enkner et al., "Tunable vacuum-field control of fractional and integer quantum Hall phases", Nature 641, 884–889 (2025), doi:10.1038/s41586-025-08894-3
踏ふ み台だい 「結合けつごう の強つよ さ 32 パーセント」とは、何なに が 32 パーセントなのか
この先さき 、0 %から 32 %へという数字すうじ が出で てくる。何なに かの効率こうりつ でも、何なに かの割合わりあい でもない。物質ぶっしつ のふるまいと場ば のふるまいが、どれだけ一体いったい になっているか の目盛めも りである。
数かぞ え方かた はこうである。電子でんし と真空しんくう 場ば が「やりとり」する強つよ さをエネルギーに直なお し、それを、もともとの振動しんどう 1回いっかい ぶんのエネルギーで割わ る。この比ひ が結合けつごう の強つよ さになる。
ふつうの分子ぶんし と光ひかり なら、この比ひ は1万いちまん 分ぶん の1にも満み たない。だから私わたし たちは「光ひかり 」と「物質ぶっしつ 」を別々べつべつ のものとして数かぞ えていられる。比ひ が1割いちわり を超こ えると、そうはいかなくなる。どこまでが物質ぶっしつ で、どこからが場ば なのかが言い えなくなる。 この領域りょういき を超ちょう 強きょう 結合けつごう という。
大事だいじ なのは、この領域りょういき ではいちばん低ひく いエネルギーの状態じょうたい そのものが書か き換か わる ことである。光ひかり を入い れて何なに かを起お こすのではない。何なに も入い れていないときの「地ち 」が別べつ のものになる。だから、光ひかり を一ひと つも当あ てずに物質ぶっしつ の性質せいしつ が変か わる。
報告ほうこく された 32 %は、その超ちょう 強きょう 結合けつごう の領域りょういき にしっかり入はい っている。
1 確立かくりつ した物理学ぶつりがく
結合の強さの目盛り 物質と場の結合の強さを対数目盛で示し、弱い結合・強い結合・超強結合の三つの領域と、この章の実験が到達した32%の位置を示した図 結合の強さ ── 物質と場が、どれだけ一体になっているか 目盛りは「結合のエネルギー ÷ もとの振動のエネルギー」。大きいほど、二つを別々のものとして数えられなくなる 弱い結合 光と物質を 別々に数えてよい 強い結合 行ったり来たりが 見えはじめる 超強結合 基底状態そのものが 書き換わる 0.01% 0.1% 1% 10% 100% 結合の強さ(対数目盛) ふつうの分子と光 よく整えたレーザーと原子 32% この章の実験 この目盛りは「どちらがどれだけ相手に口を出しているか」を表す。 1割を超えると、物質と場を別々のものとして扱えなくなる。光を一つも入れていないのに 性質が変わるのは、この領域に入ったからである。 タップで拡大かくだい
図ず 14「結合けつごう が 32 %」とは、何なに が 32 %なのか。 物質ぶっしつ のふるまいと場ば のふるまいが、どれだけ一体いったい になっているかの目盛めも りである。1割いちわり を超こ えると二ふた つを別々べつべつ に数かぞ えられなくなり、基底きてい 状態じょうたい そのものが書か き換か わる。光ひかり を一ひと つも入い れていないのに性質せいしつ が変か わるのは、この領域りょういき に入はい ったからである。空洞くうどう 量子りょうし 電気でんき 力学りきがく の標準的ひょうじゅんてき な区分くぶん (教科書きょうかしょ レベル)
1,200マイクロメートル離はな れていたとき、電子でんし の海うみ と真空しんくう 場ば の結合けつごう は、ほぼゼロだった。35マイクロメートルまで近ちか づけると、約やく 10パーセント。6.4マイクロメートルで18パーセント。1.2マイクロメートルで27パーセント。そして最短さいたん の0.35マイクロメートルで、32パーセントに達たっ した。
結合けつごう の強つよ さが、距離きょり のつまみ一ひと つで、なめらかに変か わっていく。
同おな じ試料しりょう 。同おな じ温度おんど 。同おな じ磁場じば 。変か えたのは、鏡かがみ までの距離きょり だけ。
実験じっけん の解剖かいぼう ── 真空しんくう との結合けつごう を、距離きょり で回まわ す(2025年ねん )
何なに を知し りたかったか真空しんくう 場ば との結合けつごう の強つよ さを、外そと から連続的れんぞくてき に変か えられるか。そして、結合けつごう を変か えると物質ぶっしつ の状態じょうたい そのものが変か わるか。
どうやったか 二次元にじげん 電子でんし ガスの試料しりょう の上うえ に、金属きんぞく の小ちい さな輪わ (分割ぶんかつ リング共振器きょうしんき )を接触せっしょく させずに浮う かせる。輪わ には切き れ目め があり、そこから電磁場でんじば が漏も れ出だ す。試料しりょう と輪わ の距離きょり を 1,200 マイクロメートルから 0.35 マイクロメートルまで段階的だんかいてき に縮ちぢ めながら、電子でんし の海うみ のふるまいを測はか る。光ひかり は一度いちど も照射しょうしゃ していない。
何なに が出で たか距離きょり を縮ちぢ めるにつれ、真空しんくう 場ば との結合けつごう の強つよ さが 0 %から 32 %までなめらかに増ふ えた。それに伴ともな って、分数ぶんすう 量子りょうし ホール状態じょうたい のエネルギーギャップが増大ぞうだい した ── つまり、その繊細せんさい な状態じょうたい がより壊こわ れにくくなった 。
ここまでは言い える 真空しんくう 場ば との結合けつごう の強つよ さは、外部がいぶ から連続的れんぞくてき に制御せいぎょ できる量りょう である。そして、その結合けつごう の強つよ さは物質ぶっしつ の電子でんし 状態じょうたい に実際じっさい に影響えいきょう する。
ここからは言い えない 意識いしき について、何なに も。これは絶対零度ぜったいれいど に近ちか い温度おんど の半導体はんどうたい で起お きたことであり、常温じょうおん の生体せいたい で同おな じことが起お きるという含意がんい は、この実験じっけん には無な い。
踏ふ み台だい この一段落いちだんらく を、ふつうの言葉ことば に開ひら く
この次つぎ の一段落いちだんらく は、この章しょう でいちばん専門語せんもんご が濃こ い。先さき に一語いちご ずつ渡わた しておく。
充填じゅうてん 因子いんし 。強つよ い磁場じば をかけると、電子でんし が座すわ れる「席せき 」の数かず が磁場じば の強つよ さで決き まる。その席せき に対たい して、電子でんし が何なに 割わり 座すわ っているかが充填じゅうてん 因子いんし (ν)である。ν=1 でちょうど満席まんせき 。4/3 や 5/3といった分数ぶんすう のところに現あらわ れる状態じょうたい は、電子でんし が単独たんどく ではなく集団しゅうだん で新あたら しいふるまいを作つく っている しるしで、とりわけ繊細せんさい である。
エネルギーギャップ 。その状態じょうたい を壊こわ すのに要い るエネルギーの段差だんさ である。深ふか いほど、熱ねつ でゆすられても壊こわ れない。つまり「ギャップが増大ぞうだい した」は「壊こわ れにくくなった」 と読よ む。
交換こうかん 分裂ぶんれつ 。電子でんし のスピンの向む きの違ちが いによって生しょう じるエネルギーの差さ である。これが減へ ったということは、向む きによる差さ が縮ちぢ んだということ。
まとめると、次つぎ の一段落いちだんらく はこう言い っている ── 鏡かがみ を近ちか づけたら、いちばん壊こわ れやすい状態じょうたい が、かえって壊こわ れにくくなった。真空しんくう 場ば との結合けつごう を強つよ めることが、繊細せんさい な量子りょうし 状態じょうたい を守まも る側がわ に働はたら いた、ということである。
1 確立かくりつ した物理学ぶつりがく
エネルギーギャップ エネルギーギャップを谷の深さで表し、共振器を近づけると谷が深くなる(状態が壊れにくくなる)ことを示した図 エネルギーギャップ ── その状態を壊すのに要る段差 段差が深いほど、熱でゆすられても壊れにくい 共振器が遠いとき ギャップ 小 共振器が近いとき ギャップ 大 第2章の実験で増えたのは、右の段差のほうである 充填因子は、磁場が用意した「席」に対して電子が何割座っているかを表す量である。 ν=1 でちょうど満席。4/3 や 5/3といった分数のところに現れる状態は、 電子が単独ではなく集団で作る、とりわけ繊細なものである。 その繊細な状態の段差が深くなった ── つまり、壊れにくくなった。 タップで拡大かくだい
図ず 15「ギャップが増ふ えた」は「壊こわ れにくくなった」と読よ む。 エネルギーギャップとは、その状態じょうたい を壊こわ すのに要い る段差だんさ である。深ふか いほど熱ねつ でゆすられても壊こわ れない。第だい 2章にしょう で深ふか くなったのは、分数ぶんすう 量子りょうし ホール状態じょうたい というとりわけ繊細せんさい な状態じょうたい の段差だんさ である。 標準的ひょうじゅんてき な物性ぶっせい 物理学ぶつりがく の教科書きょうかしょ レベル
そして、電子でんし たちのふるまいが変か わった。奇数きすう の充填じゅうてん 因子いんし における交換こうかん 分裂ぶんれつ が減少げんしょう し、4/3、5/3、7/5という分数ぶんすう 量子りょうし ホール状態じょうたい のエネルギーギャップが増大ぞうだい した。分数ぶんすう 量子りょうし ホール状態じょうたい というのは、電子でんし どうしの相関そうかん がとりわけ強つよ く効き いている、繊細せんさい で壊こわ れやすい状態じょうたい である。それが、真空しんくう 場ば との結合けつごう が強つよ まるにつれて、むしろ強固きょうこ になった。
著者ちょしゃ らの解析かいせき によれば、この効果こうか は、真空しんくう の電場でんば 勾配こうばい が強つよ い領域りょういき で仮想的かそうてき な共振器きょうしんき 光子こうし が媒介ばいかい する、実効じっこう 的てき な長距離ちょうきょり の引力いんりょく 相互作用そうごさよう に由来ゆらい する。金属きんぞく を近ちか づけたことによる静電せいでん 的てき な遮蔽しゃへい の影響えいきょう は、無視むし できる距離きょり で測定そくてい されている。
電気でんき 抵抗ていこう ゼロが、真空しんくう で揺ゆ らぐ
2026年ねん 、同おな じ Nature に、さらに踏ふ み込こ んだ報告ほうこく が載の った。コロンビア大学だいがく を中心ちゅうしん とする国際的こくさいてき なグループの仕事しごと である。
対象たいしょう は超伝導ちょうでんどう (超导 / superconductivity) だった。
踏ふ み台だい 超伝導ちょうでんどう と「超流動ちょうりゅうどう 密度みつど 」
ふつうの金属きんぞく に電気でんき が流なが れると、電子でんし はあちこちにぶつかって散ち る。不純物ふじゅんぶつ 、格子こうし の歪ゆが み、熱ねつ による揺ゆ れ。この散乱さんらん が電気でんき 抵抗ていこう の正体しょうたい である。
低温ていおん にすると、ある種しゅ の物質ぶっしつ で不思議ふしぎ なことが起お きる。電子でんし が2個にこ ずつ組くみ を作つく るのである(クーパー対たい )。本来ほんらい は反発はんぱつ し合あ う電子でんし どうしが、結晶けっしょう 格子こうし のわずかな歪ゆが みを介かい して、間接かんせつ 的てき に引ひ き合あ う。そして組くみ になった電子でんし は、全部ぜんぶ が足並あしな みを揃そろ えて一ひと つの巨大きょだい な波なみ としてふるまうようになる。
揃そろ った波なみ は、一部いちぶ だけが散ち らされるということができない。全部ぜんぶ が同時どうじ に散ち らされない限かぎ り、流なが れは止と まらない。これが電気でんき 抵抗ていこう ゼロ の正体しょうたい である。
この文章ぶんしょう に出で てくる超流動ちょうりゅうどう 密度みつど とは、その「揃そろ った組くみ 」にどれだけの電子でんし が参加さんか しているかの目安めやす である。半分はんぶん に抑制よくせい されたということは、揃そろ って動うご く電子でんし が半分はんぶん に減へ ったということ。物質ぶっしつ の中なか でいちばん協調きょうちょう している状態じょうたい が、鏡かがみ を近ちか づけただけで崩くず れた ── この報告ほうこく が驚おどろ かれるのは、そこである。
超伝導ちょうでんどう は、物質ぶっしつ が到達とうたつ しうる最もっと も集団的しゅうだんてき な状態じょうたい である。無数むすう の電子でんし が個々ここ の振ふ る舞ま いをやめ、一ひと つの巨大きょだい な量子りょうし 状態じょうたい として揃そろ う。電気でんき 抵抗ていこう が完全かんぜん に消き える。物質ぶっしつ の中なか で起お きる出来事できごと のうち、最もっと も多数たすう の粒子りゅうし が最もっと も深ふか く協調きょうちょう している現象げんしょう と言い っていい。
彼かれ らは、分子ぶんし 性せい の超伝導ちょうでんどう 体からだ を、六方ろっぽう 晶しょう 窒化ちっか ホウ素そ という結晶けっしょう と接触せっしょく させた。この結晶けっしょう は、赤外せきがい 領域りょういき に「双曲そうきょく モード」と呼よ ばれる特殊とくしゅ な電磁でんじ モードを持も つ。そしてその周波数しゅうはすう が、超伝導ちょうでんどう 体からだ の分子ぶんし 内ない にある炭素たんそ どうしの二に 重じゅう 結合けつごう の伸縮しんしゅく 振動しんどう ——超伝導ちょうでんどう の発現はつげん に関与かんよ しているとされる振動しんどう ——と、ちょうど一致いっち する。
共鳴きょうめい する共振器きょうしんき を、超伝導ちょうでんどう 体からだ に押お し当あ てたことになる。
1 確立かくりつ した物理学ぶつりがく
超伝導とは ふつうの金属では電子が散乱されて抵抗が生まれるのに対し、超伝導では電子が対を組んで揃って動くため抵抗が消えることを並べた図 ふつうの金属 超伝導 電子は不純物や熱の揺れに当たって散る = 電気抵抗 電子が2個ずつ組み(クーパー対)、全部が揃って動く = 電気抵抗ゼロ 「超流動密度」とは、この揃った組にどれだけの電子が参加しているかの目安である。 半分に抑制されたということは、揃って動く電子が半分に減ったということ。 第2章の実験は、鏡を近づけただけで、この「揃い方」が界面近くで崩れたと報告している。 タップで拡大かくだい
図ず 16抵抗ていこう がゼロになるのは、電子でんし が組く んで揃そろ うからである。超伝導ちょうでんどう では電子でんし が2個にこ ずつ組くみ (クーパー対たい )を作つく り、全体ぜんたい が一ひと つの量子りょうし 状態じょうたい として揃そろ う。「超流動ちょうりゅうどう 密度みつど 」は、この揃そろ った組くみ にどれだけの電子でんし が参加さんか しているかの目安めやす である。第だい 2章にしょう で半減はんげん したと報告ほうこく されているのは、この量りょう である。Bardeen, Cooper & Schrieffer, Phys Rev 108, 1175 (1957)
2 最前線さいぜんせん ・査読さどく 済ずみ
暗い共振器 共鳴条件を満たす組み合わせでのみ界面近傍の超流動密度が半分以下に抑制され、非共鳴の対照では起きず、転移温度を超えると消えることを示した実測の図 界面近傍の超流動密度 bare κ-ET(対照) 100%(基準) hBN/κ-ET(共鳴) ≤ 50% RuCl₃/κ-ET(非共鳴) 変化なし hBN/BSCCO(非共鳴) 変化なし 温度を上げると効果は消える 2 6 10 14 温度 / K 効果の大きさ Tc ≈ 12 K 増強ではない。抑制である。界面近傍に限られる効果である。 タップで拡大かくだい
図ず 17外そと から光ひかり を一ひと つも入い れない共振器きょうしんき が、超伝導ちょうでんどう を変か えた。著者ちょしゃ らはこれを「外部がいぶ 光子こうし のない暗くら い共振器きょうしんき 」と呼よ ぶ。共鳴きょうめい 条件じょうけん を満み たす組く み合あ わせでのみ界面かいめん 近傍きんぼう の超流動ちょうりゅうどう 密度みつど が抑制よくせい され、非ひ 共鳴きょうめい の対照たいしょう 試料しりょう では起お きなかった。効果こうか は超伝導ちょうでんどう 転移てんい 温度おんど を超こ えると消失しょうしつ する。増強ぞうきょう ではなく抑制よくせい であり、界面かいめん 近傍きんぼう に限かぎ られる点てん は留意りゅうい が必要ひつよう である。Keren et al., "Cavity-altered superconductivity", Nature 650, 864 (2026), doi:10.1038/s41586-025-10062-6
結果けっか 、界面かいめん の近ちか くで超流動ちょうりゅうどう 密度みつど が少すく なくとも半分はんぶん に抑制よくせい された。超流動ちょうりゅうどう 密度みつど とは、超伝導ちょうでんどう を担にな っている電子でんし がどれだけ揃そろ っているかの指標しひょう である。それが半減はんげん した。
対照たいしょう 実験じっけん が、この結果けっか を支ささ えている。共鳴きょうめい 条件じょうけん を満み たさない組く み合あ わせ——別べつ の結晶けっしょう を当あ てた場合ばあい 、別べつ の超伝導ちょうでんどう 体からだ を使つか った場合ばあい ——では、この抑制よくせい は現あらわ れなかった。そして効果こうか は、超伝導ちょうでんどう 転移てんい 温度おんど を超こ えると消き える。
著者ちょしゃ らは、自分じぶん たちが用もち いた共振器きょうしんき をこう呼よ んでいる。外部がいぶ 光子こうし のない、暗くら い共振器きょうしんき 。
ちょっと待ま ってほしい
この実験じっけん で起お きたのは、超伝導ちょうでんどう の抑制よくせい である。強化きょうか ではない。「真空しんくう が超伝導ちょうでんどう を強つよ めた」という要約ようやく は誤あやま りである。また、観測かんそく されたのは界面かいめん 近傍きんぼう の効果こうか であって、試料しりょう 全体ぜんたい の性質せいしつ が書か き換か わったわけではない。真空しんくう 場ば が物質ぶっしつ の集団的しゅうだんてき な状態じょうたい に触ふ れうることは示しめ されたが、それをどこまで一般化いっぱんか できるかは、これからの問題もんだい である。
実験じっけん の解剖かいぼう ── 外そと から光ひかり を入い れない共振器きょうしんき で、超伝導ちょうでんどう を変か える(2026年ねん )
何なに を知し りたかったか真空しんくう 場ば との結合けつごう は、物質ぶっしつ の「最もっと も集団的しゅうだんてき な状態じょうたい 」にも届とど くのか。
どうやったか 分子ぶんし 性せい の超伝導ちょうでんどう 体からだ (κ-ET)に、六方ろっぽう 晶しょう 窒化ちっか ホウ素そ (hBN)という結晶けっしょう を接触せっしょく させる。この結晶けっしょう は赤外せきがい 領域りょういき に特殊とくしゅ な電磁でんじ モードを持も ち、その周波数しゅうはすう が超伝導ちょうでんどう 体からだ の分子ぶんし 内ない 振動しんどう とちょうど一致いっち するように選えら ばれている。共鳴きょうめい する共振器きょうしんき を押お し当あ てた状態じょうたい を作つく り、界面かいめん 近ちか くの超流動ちょうりゅうどう 密度みつど を測はか る。外部がいぶ から光子こうし は一ひと つも入い れない。
何なに が出で たか界面かいめん 近傍きんぼう で超流動ちょうりゅうどう 密度みつど が少すく なくとも半分はんぶん に抑制よくせい された。共鳴きょうめい しない組く み合あ わせ(別べつ の結晶けっしょう 、別べつ の超伝導ちょうでんどう 体からだ )では起お きなかった。効果こうか は超伝導ちょうでんどう 転移てんい 温度おんど を超こ えると消き えた。
ここまでは言い える 真空しんくう 場ば との結合けつごう が、物質ぶっしつ の集団的しゅうだんてき な量子りょうし 状態じょうたい に影響えいきょう しうること。対照たいしょう 実験じっけん が揃そろ っており、「共鳴きょうめい 条件じょうけん 」という明確めいかく な条件じょうけん 付つ きで効果こうか が出で ている点てん が強つよ い。
ここからは言い えない 効果こうか が試料しりょう 全体ぜんたい に及およ ぶとは言い えない(界面かいめん 近傍きんぼう に限かぎ られる)。そして抑制よくせい であって増強ぞうきょう ではない 。ここを取と り違ちが えると、報告ほうこく の意味いみ が反転はんてん してしまう。
これは一ひと つの偶然ぐうぜん ではない
二本にほん の論文ろんぶん だけなら、まだ様子ようす を見み るべきかもしれない。だが、これは点てん ではなく面めん になりつつある。
2025年ねん には、原子げんし 一層いっそう ずつを積つ み重かさ ねたファンデルワールス・ヘテロ構造こうぞう に共振器きょうしんき 電気でんき 力学りきがく を適用てきよう する仕事しごと が Nature Physics に載の った。2026年ねん には、量子りょうし ホール系けい に現あらわ れるストライプ状じょう の秩序ちつじょ を共振器きょうしんき で制御せいぎょ する報告ほうこく が、同おな じ雑誌ざっし に出で た。
真空しんくう 場ば を設計せっけい して物質ぶっしつ を操あやつ るという発想はっそう は、いくつかの独立どくりつ したグループが、異こと なる材料ざいりょう 系けい で、それぞれに追お いかけている領域りょういき になった。
ここまでの話はなし に、意識いしき は一度いちど も出で てこない。これらの論文ろんぶん は、意識いしき について一言ひとこと も語かた っていない。冷ひ やされた半導体はんどうたい と、超伝導ちょうでんどう 体からだ の薄片はくへん 。それだけである。
それでも、この章しょう をここに置お く理由りゆう が一ひと つある。
これらの実験じっけん が証明しょうめい したのは、「無む 」は不活ふかつ 性せい ではない、ということである。
踏ふ み台だい ここから意識いしき まで、どれだけ離はな れているか
章しょう の終お わりに、隔へだ たりのほうを見み ておく。近ちか さだけを見み て進すす むと、必かなら ず後あと で転ころ ぶ。
温度おんど が1万いちまん 倍ばい の桁けた でちがう。 この章しょう の実験じっけん は絶対零度ぜったいれいど のすぐ上うえ 、摂氏せっし でいえばマイナス273度ど の世界せかい で行おこな われている。脳のう は摂氏せっし 37度さんじゅうななど である。熱ねつ は量子りょうし 的てき な揃そろ いを壊こわ す側がわ に働はたら くので、この差さ は小ちい さくない。
相手あいて が別物べつもの である。 こちらは不純物ふじゅんぶつ を極限きょくげん まで減へ らした結晶けっしょう の、原子げんし 数個すうこ ぶんの厚あつ み。あちらは水みず と脂質ししつ とタンパク質しつ が詰つ まった、絶た えず動うご いている細胞さいぼう である。
効き いた範囲はんい も限かぎ られている。超伝導ちょうでんどう の実験じっけん で変か わったのは界面かいめん のごく近ちか くだけで、試料しりょう 全体ぜんたい の性質せいしつ が書か き換か わったわけではない。
では、この章しょう は意識いしき と無関係むかんけい かというと、そうではない。消き えなかったものが一ひと つある。真空しんくう 場ば との結合けつごう の強つよ さは、距離きょり という一ひと つのつまみで連続れんぞく に変か えられる量りょう である ── この事実じじつ そのものは、温度おんど にも材料ざいりょう にも依よ らない。結合けつごう を作つく るのは、鏡かがみ の幾何きか だからである。
そして第だい 3章さんしょう は、その「鏡かがみ 」の形かたち をした構造こうぞう が、神経しんけい の中なか に在あ る という話はなし から始はじ まる。神経線維しんけいせんい を包つつ む鞘さや の断面だんめん は、同心円どうしんえん 状じょう に何百なんびゃく 層そう も巻ま かれた円筒えんとう ── つまり、共振器きょうしんき の形かたち をしている。
つながるかどうかは、まだ誰だれ も知し らない。だが、つながりうる形かたち はしている。この章しょう が置お かれているのは、そのためである。
— 構造こうぞう
この章の実験と脳の隔たり 温度・相手・乱れ・効いた範囲の四つで、この章の実験と生きた脳がどれだけ離れているかを並べた図 この章の実験と、あなたの脳の隔たり 真空場が物質を変えたのは事実である。その事実が脳まで届くかは、まだ何も言えない この章の実験 あなたの脳 温度 0.01〜0.05 K(希釈冷凍機の領域) 310 K(摂氏37度) 1万倍の桁 相手 原子数個ぶんの厚みの、極めて整った結晶 水と脂質とタンパク質が詰まった細胞 別物 乱れ 不純物を極限まで減らしてある 分子が絶えず衝突している 桁違い 効いた範囲 界面のごく近く わかっていない 未知 それでも、この章が消さなかったものが一つある。 真空場との結合は、距離という一つのつまみで連続に変えられる量である ── この事実は 温度にも材料にも依らない。第3章は、その「鏡」の形をした構造が 神経の中に在る、という話から始まる。 タップで拡大かくだい
図ず 18真空しんくう 場ば が物質ぶっしつ を変か えた。その事実じじつ は、脳のう まで届とど くのか。温度おんど で1万いちまん 倍ばい の桁けた 、相手あいて は結晶けっしょう と細胞さいぼう 、乱みだ れは桁違けたちが い。この章しょう の実験じっけん と生い きた脳のう のあいだには、それだけの隔へだ たりがある。それでも消き えない事実じじつ が一ひと つある ── 真空しんくう 場ば との結合けつごう は、距離きょり という一ひと つのつまみで連続れんぞく に変か えられる量りょう である。本文ほんぶん が扱あつか う実験じっけん 条件じょうけん と、標準的ひょうじゅんてき な生理学せいりがく の値あたい を並なら べたもの(構造こうぞう 図ず )
この章しょう が答こた えていないこと
真空しんくう 場ば が物質ぶっしつ の相そう を変か えられるのなら、その影響えいきょう が及およ ぶ「物質ぶっしつ 」の範囲はんい はどこまでなのか。
絶対零度ぜったいれいど 近ちか くまで冷ひ やされた半導体はんどうたい と、37度さんじゅうななど の脳のう 。この二ふた つのあいだにある距離きょり は、どれくらいなのだろうか。
第だい 二に 部ぶ 確たし かめられたこと
全ぜん 11 章しょう のうち 4 章しょう 目め
Interlude
ここまでが、事実じじつ です
ここまでに書か いたことは、すべて査読さどく を通とお り、複数ふくすう の研究室けんきゅうしつ で確たし かめられ、あるいは一流いちりゅう の学術がくじゅつ 誌し に掲載けいさい された仕事しごと である。真空しんくう が振動しんどう していること。その振動しんどう が測定そくてい できること。その振動しんどう が物質ぶっしつ の性質せいしつ を変か えること。
もし、この文章ぶんしょう がここで終お わったとしても、あなたが受う け取と るものは十分じゅうぶん にある。私わたし たちが「無む 」と呼よ んできた場所ばしょ は、無む ではなかった。それだけで、世界せかい の見み え方かた は少すこ し変か わる。
ここから先さき は、性質せいしつ が変か わる。
次つぎ の章しょう から扱あつか うのは、まだ答こた えの出で ていない問と いである。理論りろん の計算けいさん だけがあって、観測かんそく がないもの。一ひと つの実験室じっけんしつ からしか報告ほうこく されていないもの。強つよ い反論はんろん のほうが、いまのところ優勢ゆうせい であるもの。そして、実験じっけん では決着けっちゃく のつきようがない、哲学てつがく の領域りょういき に属ぞく するもの。
それらを、ここまでの話はなし と混ま ぜない。どの段だん にいるかを、そのつど示しめ す。段だん をまたぐときは、またぐと書か く。
— 構造こうぞう
エビデンスの階段 確立した物理学・最前線の査読済研究・反証可能な仮説・逸話の四段を、下ほど広い階段として描いた構造図。最上段の先には床がない TIER 1 確立した物理学 零点エネルギー カシミール効果 TIER 2 最前線の査読済研究 真空場による物質相の制御 微小管の麻酔実験 TIER 3 科学的仮説 反証可能な形での提案 ネーヴェン予想 ミエリン双光子 ZPF 仮説 TIER 4 逸話・未検証 再現なし・出典が弱い 虫の知らせ 体験談 まだ、床がない 確実さの階層は、段の面積で示す。札の色では示さない。 下の段ほど広い。この頁の記述量の比率とも一致させてある。 タップで拡大かくだい
図ず 19どの段だん にいるかを、そのつど示しめ す。 同おな じ「科学かがく の話はなし 」と呼よ ばれるものの中なか に、確実かくじつ さの違ちが う四よっ つの段だん がある。この文章ぶんしょう では、それぞれの主張しゅちょう がどの段だん にあるかを常つね に表示ひょうじ する。段だん をまたぐときは、またぐと書か く。本作ほんさく の編集へんしゅう 上じょう の枠組わくぐ みにつき出典しゅってん なし(外部がいぶ の分類ぶんるい 体系たいけい ではない)
1 確立かくりつ した物理学ぶつりがく 査読さどく 済ずみ ・再現さいげん 済ずみ ・教科書きょうかしょ レベル。断定形だんていけい で記述きじゅつ できる。
2 最前線さいぜんせん ・査読さどく 済ずみ 一流いちりゅう 誌し に載の り、解釈かいしゃく や再現さいげん は進行中しんこうちゅう 。「〜が示しめ された」までを書か く。
3 仮説かせつ ・反証はんしょう 可能かのう 反証はんしょう 可能かのう な形かたち で提案ていあん されている。正ただ しいという意味いみ ではない。
4 逸話いつわ ・未検証みけんしょう 再現さいげん がなく、出典しゅってん も弱よわ い。物語ものがたり としてだけ扱あつか い、裏付うらづ けには使つか わない。
信しん じるかどうかを決き めるのは、この文章ぶんしょう ではない。
第だい 三さん 部ぶ まだ確たし かめられていないこと
全ぜん 11 章しょう のうち 5 章しょう 目め
Ⅲ 第だい 3章さんしょう
同おな じキセノン。違ちが うのは、原子核げんしかく の自転じてん だけ
毎年まいとし 数億すうおく 件けん おこなわれている麻酔ますい の、分子ぶんし の標的ひょうてき がまだ決き まっていない。
進行インジケータ この章が扱う確実さの段を示す帯 TIER 1 確立 TIER 2 最前線 TIER 3 仮説 TIER 4 逸話
この章しょう の道みち すじ
麻酔ますい がなぜ効き くのか、実じつ はまだ完全かんぜん にはわかっていない。
踏ふ み台だい 主体しゅたい を失うしな うことは、死し と何なに が違ちが うのか
この章しょう に入はい る前まえ に、麻酔ますい という体験たいけん そのものを見み ておきたい。これは人生じんせい でいちばん奇妙きみょう な数時間すうじかん である。
眠ねむ りには、経過けいか が残のこ る。夢ゆめ を見み る。途中とちゅう で目め が覚さ める。朝あさ には「長なが く寝ね た」「よく眠ねむ れなかった」という感かん じがある。麻酔ますい には、それが無な い。空白くうはく があるのではない。空白くうはく というのは「何なに も起お きなかった時間じかん 」を覚おぼ えているということだが、その覚おぼ え方ほう すら無な い。十じゅう から数かぞ え始はじ めて、七なな で切き れ、次つぎ の瞬間しゅんかん には数時間すうじかん が過す ぎている。
この構造こうぞう は、2,300年ねん 前まえ の一行いちぎょう と正確せいかく に重かさ なる。エピクロスはこう書か いた ── 「死し は我々われわれ にとって無む である。我々われわれ が在あ るとき死し は無な く、死し が在あ るとき我々われわれ は無な い」。 麻酔ますい は、その命題めいだい を体験たいけん できる形かたち で差さ し出だ す、おそらく唯一ゆいいつ の機会きかい である。ただし ── 帰かえ ってこられる。
では、なぜ帰かえ ってこられるのか。 揮発性きはつせい の麻酔薬ますいやく は、分子ぶんし どうしの弱よわ い力ちから でタンパク質しつ に緩ゆる く付つ いているだけで、化学かがく 結合けつごう を作つく らない。濃度のうど を下さ げれば外はず れる。シナプスの接続せつぞく も、記憶きおく の痕跡こんせき も、麻酔ますい のあいだ保たも たれている。止と まっていたのは過程かてい だけである。
ここから、この文章ぶんしょう の中心ちゅうしん にある区別くべつ が出で てくる。過程かてい が止と まることと、過程かてい を生う む構造こうぞう が壊こわ れることは、別べつ である。麻酔ますい は前者ぜんしゃ 、死し は後者こうしゃ にあたる。酸素さんそ が数分間すうふんかん 届とど かなければ細胞さいぼう は不可逆ふかぎゃく に壊こわ れる ── だから麻酔科医ますいかい がいちばん恐おそ れているのは、麻酔ますい そのものではなく、酸素さんそ が届とど かないことである。
そして、この区別くべつ は第だい 6章ろくしょう の問と いと同おな じ形かたち をしている。壊こわ れた受信機じゅしんき と、電源でんげん を切き られた受信機じゅしんき 。外そと から見み れば、どちらも何なに も返かえ さない。
ロックは記憶きおく を人格じんかく の同一性どういつせい の基準きじゅん に置お いた。麻酔ますい は記憶きおく に穴あな を開あ ける。それでも私わたし たちは、目覚めざ めた人ひと を同おな じ人ひと として扱あつか う。穴あな が空あ いても同一性どういつせい は切き れない ── という直観ちょっかん のほうが、私わたし たちの中なか では強つよ い。この直観ちょっかん が正ただ しいのかどうかは、実験じっけん では決着けっちゃく しない。第だい 5章ごしょう の壁かべ の、すぐ手前てまえ である。
— 構造こうぞう
止まることと、壊れること 麻酔では構造が保たれたまま過程だけが止まり戻ってくるのに対し、死では構造そのものが失われて戻らないことを示した図 過程が止まることと、過程を生む構造が壊れること 外から見た「反応が無い」は同じでも、中で起きていることは違う 麻酔 構造は在る。過程だけが止まっている 死 構造そのものが失われる 戻る 戻らない 揮発性の麻酔薬は、分子どうしの弱い力で緩く付くだけで、化学結合を作らない。 濃度を下げれば外れる。シナプスの接続も記憶の痕跡も、麻酔のあいだ保たれている。 対して酸素が数分間届かなければ、細胞は不可逆に壊れる。 だから麻酔科医がいちばん恐れているのは、麻酔そのものではなく、酸素が届かないことである。 この区別は、第6章の問いと同じ形をしている ── 壊れた受信機と、電源を切られた受信機。 タップで拡大かくだい
図ず 20麻酔ますい と死し は、外そと から見み た姿すがた が似に ている。中身なかみ は違ちが う。麻酔薬ますいやく は化学かがく 結合けつごう を作つく らずに緩ゆる く付つ くだけで、濃度のうど を下さ げれば外はず れる。シナプスの接続せつぞく も記憶きおく の痕跡こんせき も保たも たれている。止と まっているのは過程かてい だけである。死し は、その過程かてい を生う む構造こうぞう そのものが失うしな われることをいう。標準的ひょうじゅんてき な麻酔科ますいか 学がく ・病態びょうたい 生理学せいりがく の帰結きけつ (構造こうぞう 図ず )
臨床りんしょう の窓まど 帰かえ ってくるとき ── 覚醒かくせい は、再起動さいきどう ではなく再構成さいこうせい である
麻酔ますい から覚さ めるとき、脳のう は一斉いっせい に戻もど るのではない。
画像がぞう で追お った研究けんきゅう では、まず脳幹のうかん ・視床ししょう ・視床ししょう 下部かぶ ・前まえ 帯状回たいじょうかい といった深ふか いところの構造こうぞう が先さき に戻もど り 、大脳皮質だいのうひしつ の広ひろ い活動かつどう はその後あと から追お いついてくる。意識いしき の「核かく 」は深ふか いところにある ── そう言い う研究者けんきゅうしゃ もいる。
だから、覚さ めたばかりの人ひと は目め を開あ けていても話はなし が通つう じない時間じかん がある。呼吸こきゅう が戻もど り、目め が開ひら き、名前なまえ に反応はんのう し、会話かいわ が成な り立た ち、あとで覚おぼ えている ── これらは同時どうじ には戻もど らない。順番じゅんばん があり、それぞれに時間じかん がかかる。
術後じゅつご せん妄もう は、高齢こうれい の患者かんじゃ では珍めずら しくない。時間じかん や場所ばしょ が分わ からなくなり、幻覚げんかく を見み たり、点滴てんてき を抜ぬ いてしまったりする。手術しゅじゅつ の種類しゅるい によって、十人じゅうにん に一人ひとり から半数はんすう 近ちか くまで報告ほうこく がある。多おお くは数日すうじつ で戻もど るが、戻もど りきらない人ひと もいる。
さらに術後じゅつご 認知にんち 機能きのう 障害しょうがい という、数かず 週しゅう から数すう か月げつ にわたって記憶きおく や集中しゅうちゅう がうまく働はたら かない状態じょうたい がある。原因げんいん は麻酔薬ますいやく だけではない ── 手術しゅじゅつ そのものが起お こす炎症えんしょう 、痛いた み、眠ねむ れない病室びょうしつ という環境かんきょう の総体そうたい が効き いている。
ここから一ひと つ言い える。麻酔ますい からの回復かいふく は、スイッチを入い れ直なお すことではない。組く み立た て直なお すことである。組く み立た て直なお しには時間じかん がかかり、うまくいかないこともある。
そして、この事実じじつ は第だい 4章よんしょう 以降いこう の問と いに臨床りんしょう の側がわ から制約せいやく を与あた える。もし意識いしき が単一たんいつ のスイッチなら、戻もど り方ほう も一ひと つのはずである。実際じっさい には、戻もど り方ほう は部品ぶひん ごとに違ちが う。
手術しゅじゅつ は毎日まいにち 、世界中せかいじゅう で行おこな われている。150年ねん 以上いじょう の実績じっせき がある。年間ねんかん に数億すうおく 件けん 。これほど繰く り返かえ され、これほど信頼しんらい されている医療いりょう 行為こうい も少すく ない。
それでも、教科書きょうかしょ のある一点いってん だけが、奇妙きみょう に歯切はぎ れが悪わる い。麻酔ますい ガスが体からだ のどこに作用さよう して意識いしき を消け しているのか、その分子ぶんし レベルの標的ひょうてき が、まだ確定かくてい していないのである。
踏ふ み台だい 「麻酔ますい がかかる」とは、何なに が起お きることか
麻酔科医ますいかい が扱あつか っているのは、一ひと つのスイッチではない。少すく なくとも四よっ つの、別々べつべつ に起お こせることの束たば である。
鎮静ちんせい (呼よ びかけに反応はんのう しなくなる)、健忘けんぼう (あとで覚おぼ えていない)、鎮痛ちんつう (痛いた みの信号しんごう に体からだ が反応はんのう しない)、不動ふどう (手術しゅじゅつ 中ちゅう に動うご き出だ さない)。この四よっ つは別々べつべつ の薬くすり で別々べつべつ に起お こせるし、作用さよう する場所ばしょ も同おな じとは限かぎ らない。
たとえば不動ふどう は、脳のう ではなく脊髄せきずい のレベルでかなりの部分ぶぶん が決き まる。健忘けんぼう には海馬かいば という記憶きおく の中枢ちゅうすう が深ふか く関かか わる。「意識いしき が消き える」に最もっと も近ちか いのは鎮静ちんせい だが、それでも意識いしき そのものを直接ちょくせつ 測はか る方法ほうほう は存在そんざい しない 。測はか れるのは、呼よ びかけへの反応はんのう 、体からだ の動うご き、脳波のうは の形かたち といった外そと から見み えるものだけである。
この章しょう の実験じっけん が測はか る「立た ち直なお り反射はんしゃ の消失しょうしつ 」も、その外そと から見み える指標しひょう の一ひと つにすぎない。そこは値引ねび きせずに読よ む必要ひつよう がある。
油あぶら に溶と けるものは、意識いしき を消け す
古ふる くから知し られている法則ほうそく が一ひと つある。マイヤー・オーバートン相関そうかん と呼よ ばれるものだ。
1 確立かくりつ した物理学ぶつりがく
麻酔の四つの成分 鎮静・健忘・鎮痛・不動という四つの別々の作用の束として麻酔を示した図 「麻酔がかかる」は、四つの別々のことの束である 鎮静 眠っているように見える 呼びかけへの反応が消える 健忘 覚えていない 起きたあと、その間の記憶がない 鎮痛 痛みを感じない 侵害刺激に体が反応しない 不動 動かない 手術中に動き出さない この四つは、別々の薬で別々に起こせる。作用する場所も同じとは限らない。 第3章で測っている「立ち直り反射の消失」は、このうち鎮静と不動に関わる指標である。 「意識が消えた瞬間」を直接測る方法は、いまのところ存在しない。 タップで拡大かくだい
図ず 21「麻酔ますい がかかる」は、四よっ つの別々べつべつ のことの束たば である。 鎮静ちんせい ・健忘けんぼう ・鎮痛ちんつう ・不動ふどう は、別々べつべつ の薬くすり で別々べつべつ に起お こせる。作用さよう する場所ばしょ も同おな じとは限かぎ らない。第だい 3章さんしょう で測はか る立た ち直なお り反射はんしゃ の消失しょうしつ は、このうち鎮静ちんせい と不動ふどう に関かか わる指標しひょう であって、「意識いしき が消き えた瞬間しゅんかん 」そのものではない。標準的ひょうじゅんてき な麻酔科ますいか 学がく の教科書きょうかしょ レベル
踏ふ み台だい 麻酔ますい の深ふか さは、どうやって測はか られているのか
ここで一ひと つ、麻酔科ますいか の物差ものさ しを渡わた しておく。この章しょう の数字すうじ を読よ むのに要い る。
吸入きゅうにゅう 麻酔薬ますいやく の強つよ さはMAC という単位たんい で表あらわ す。皮膚ひふ を切き ったときに、半数はんすう の人ひと が体からだ を動うご かさなくなる濃度のうど が 1.0 MAC である。薬くすり が違ちが えば必要ひつよう な濃度のうど も違ちが うので、それぞれの薬くすり の 1.0 MAC を単位たんい にして比くら べる。
ここが大事だいじ なところだが ── MAC は体動たいどう で定義ていぎ されている。意識いしき を測はか ってはいない。 呼よ びかけに応おう じなくなる濃度のうど (MAC-awake)は、その3割さんわり から4割よんわり 程度ていど で、ずっと低ひく い。つまり、意識いしき が無な くなってから、さらに三さん 倍ばい ほど深ふか くしないと体からだ は動うご きを止と めない 。
この差さ そのものが、四よっ つの成分せいぶん が別々べつべつ であることの証拠しょうこ になっている。不動ふどう は主おも に脊髄せきずい で決き まり、健忘けんぼう には海馬かいば が深ふか く関かか わり、鎮静ちんせい には視床ししょう と大脳皮質だいのうひしつ が関かか わる。効き いている場所ばしょ が違ちが うのだから、消き える濃度のうど も違ちが う。
この章しょう の実験じっけん が測はか る立た ち直なお り反射はんしゃ の消失しょうしつ は、その物差ものさ しの上うえ では鎮静ちんせい と不動ふどう のあいだにある。いずれにせよ外そと から見み える指標しひょう であって、体験たいけん そのものではない。
1 確立かくりつ した物理学ぶつりがく
麻酔の深さ 健忘・鎮静・立ち直り反射の消失・不動・自律反応の抑制が、それぞれ違う濃度で、違う場所で起きることを示した図 麻酔は、濃度を上げるにつれて別々に消えていく 横軸は吸入麻酔薬の濃度。1.0 MAC = 半数が切開で動かなくなる濃度 0.0 0.5 1.0 1.5 濃度 / MAC 健忘 あとで覚えていない 海馬 鎮静 呼びかけに応じない(MAC-awake) 視床・大脳皮質 立ち直り反射の消失 この章の実験が測るもの 前庭系・運動系 不動 切開で動かない(MAC の定義) 主に脊髄 自律反応の抑制 切開で血圧・脈が上がらない 脳幹 成分ごとに消える濃度が違い、効いている場所も違う。「麻酔がかかる」は一つの出来事ではない。 そして MAC は、切開に対する体動で定義されている。意識を測っているのではない。 この章の実験が測る立ち直り反射も、外から見える指標の一つにすぎない ── ここは、 値引きせずに読む必要がある。 タップで拡大かくだい
図ず 22「麻酔ますい がかかる」は、一ひと つの出来事できごと ではない。 健忘けんぼう ・鎮静ちんせい ・立た ち直なお り反射はんしゃ の消失しょうしつ ・不動ふどう ・自律じりつ 反応はんのう の抑制よくせい は、それぞれ違ちが う濃度のうど で、違ちが う場所ばしょ で起お きる。MAC は切開せっかい に対たい する体動たいどう で定義ていぎ されており、意識いしき を測はか ってはいない。この章しょう の実験じっけん が測はか る立た ち直なお り反射はんしゃ も、外そと から見み える指標しひょう の一ひと つである。標準的ひょうじゅんてき な麻酔科ますいか 学がく の教科書きょうかしょ レベル。MAC-awake の比ひ は Stoelting et al., Anesthesiology 33, 5 (1970)。不動ふどう の脊髄せきずい 性せい は Rampil, Anesthesiology 80, 606 (1994)
臨床りんしょう の窓まど 全身ぜんしん 麻酔ますい の最中さいちゅう に、指示しじ に従したが う患者かんじゃ がいる
「外そと から見み える指標しひょう 」の限界げんかい を、いちばん鋭するど く突つ いた手技しゅぎ がある。孤立こりつ 前腕ぜんわん 法ほう という。
手順てじゅん は素朴そぼく である。麻酔ますい を始はじ める前まえ に、片腕かたうで の付つ け根ね に血圧計けつあつけい のカフを巻ま いて締し めておく。すると、そのあと投与とうよ される筋すじ 弛緩薬しかんやく がその腕うで の先さき へ届とど かない。体からだ じゅうの筋肉きんにく が動うご かなくなっても、その腕うで だけは動うご かせる 。
そのうえで、麻酔ますい 中ちゅう に声こえ をかける ── 「聞き こえていたら、私わたし の手て を握にぎ ってください」。
2017年ねん の国際こくさい 共同研究きょうどうけんきゅう では、気管きかん 挿管そうかん の直後ちょくご にこの声こえ かけを行おこな い、260人にん のうち12人じゅうににん (4.6 %)が握にぎ り返かえ した 。ふつうの指標しひょう の上うえ では、この人ひと たちは十分じゅうぶん に麻酔ますい がかかっている。そして、そのほとんどは後あと で何なに も覚おぼ えていない 。
つまり、外そと とつながっている意識いしき が、記憶きおく に残のこ らないまま存在そんざい しうる。
ここが序章じょしょう と正面しょうめん から響ひび き合あ う。序章じょしょう では「反応はんのう が無な いことは、体験たいけん が無な いことの証明しょうめい にならない」と書か いた。逆ぎゃく もまた真しん である ── 覚おぼ えていないことは、体験たいけん が無な かったことの証明しょうめい にならない。
麻酔科ますいか の現場げんば では、これは麻酔ますい の深ふか さの管理かんり という実務じつむ の問題もんだい として扱あつか われる。哲学てつがく の側がわ から見み ると、もっと重おも い。この文章ぶんしょう が最後さいご まで手放てばな せない問と いが、ここにも同おな じ形かたち で顔かお を出だ している ── 外そと から見み えるものと、内側うちがわ で起お きていることは、原理げんり 的てき にずれうる。
もう一段いちだん 深ふか く ── 報告ほうこく に頼たよ らずに意識いしき を測はか る ── 摂動せつどう 複雑性ふくざつせい 指標しひょう
では、報告ほうこく にも体動たいどう にも頼たよ らずに測はか る方法ほうほう は無な いのか。いま最もっと も成功せいこう している試こころ みを一ひと つ置お いておく。
まず、いま麻酔ますい 器き に付つ いている脳波のうは の指標しひょう について。これは脳波のうは の形かたち から「深ふか さ」を 0 から 100 の数字すうじ にする装置そうち で、実務じつむ では役やく に立た っている。ただし薬くすり の種類しゅるい でずれる 。ケタミンで麻酔ますい をかけると、意識いしき が無な いのに高たか い値あたい が出で る。亜あ 酸化さんか 窒素ちっそ でも合あ わない。脳波のうは の形かたち は、薬くすり の指紋しもん であって、意識いしき の物差ものさ しではない。
別べつ の道みち がある。頭あたま の外そと から磁気じき で脳のう を一発いっぱつ 叩たた き(経へ 頭蓋ずがい 磁気じき 刺激しげき )、返かえ ってくる脳波のうは の反応はんのう がどれだけ入い り組く んでいるか を「圧縮あっしゅく のしにくさ」として数字すうじ にする。これを摂動せつどう 複雑性ふくざつせい 指標しひょう という。
覚醒かくせい しているときは、反応はんのう が脳のう の広ひろ い範囲はんい へ広ひろ がり、形かたち が入い り組く み、長なが く続つづ く。深ふか い睡眠すいみん や麻酔ますい の最中さいちゅう は、反応はんのう がその場ば で止と まり、単純たんじゅん で、すぐ消き える。報告ほうこく されている値あたい はおおよそ ── 覚醒かくせい 0.44〜0.67、ノンレム睡眠すいみん 0.18〜0.28、プロポフォールやキセノンによる麻酔ますい 0.13〜0.31、植物しょくぶつ 状態じょうたい 0.19〜0.31、最小さいしょう 意識いしき 状態じょうたい 0.32〜0.49。経験けいけん 的てき な境目さかいめ は 0.31 とされている。
この方法ほうほう の値打ねう ちは、言葉ことば を出だ せない人ひと にも使つか える ところにある。序章じょしょう で見み た、反応はんのう が無な いのに指示しじ に従したが っていた患者かんじゃ たち ── あの人ひと たちが「実じつ は在あ る」ことは、この方向ほうこう からも支持しじ されている。
ただし、値引ねび きせずに書か いておく。ここで測はか っているのは情報じょうほう の統合とうごう の度合どあ い であって、体験たいけん そのものではない。統合とうごう が高たか いから体験たいけん がある、という橋はし は、まだ渡わた されていない。第だい 5章ごしょう の壁かべ は、測定そくてい の側がわ から近ちか づいても動うご かない。
2 最前線さいぜんせん ・査読さどく 済ずみ
報告に頼らずに意識を測る 経頭蓋磁気刺激に対する脳波の反応の複雑さを数値化した摂動複雑性指標が、覚醒・睡眠・麻酔・植物状態・最小意識状態でどの値を取るかを示した図 報告に頼らずに、意識を外から測る 頭の外から磁気で脳を一発叩き、返ってくる反応の入り組み方を数字にする 覚醒しているとき 反応は広がり、入り組み、長く続く 麻酔中・深い睡眠 反応はその場で止まり、単純で、すぐ消える 入り組み方を圧縮のしにくさで数える ── これが摂動複雑性指標である 麻酔中 0.13〜0.31 深い睡眠 0.18〜0.28 植物状態 0.19〜0.31 最小意識状態 0.32〜0.49 覚醒 0.44〜0.67 経験的な境目 0.31 0.0 0.2 0.4 0.6 麻酔器に付いている脳波の指標は、薬の種類でずれる ── ケタミンでは意識が無くても高い値が出る。 脳波の形は薬の指紋であって、意識の物差しではない。この指標は報告を求めずに線を引ける点が違う。 ただし、ここで測っているのは情報の統合の度合いであって、体験そのものではない。 第5章の壁は、測定の側から近づいても動かない。 タップで拡大かくだい
図ず 23言葉ことば を求もと めずに、意識いしき の有無うむ に線せん を引ひ けるか。頭あたま の外そと から磁気じき で脳のう を一発いっぱつ 叩たた き、返かえ ってくる脳波のうは の反応はんのう がどれだけ入い り組く んでいるかを数字すうじ にする。覚醒かくせい 時じ は広ひろ がって長なが く続つづ き、麻酔ますい 中ちゅう や深ふか い睡眠すいみん ではその場ば で止と まって単純たんじゅん に消き える。報告ほうこく を求もと めないので、言葉ことば を出だ せない患者かんじゃ にも使つか える。Casali et al., Sci Transl Med 5, 198ra105 (2013); Casarotto et al., Ann Neurol 80, 718 (2016)
麻酔ますい 作用さよう を持も つ分子ぶんし は、化学的かがくてき にはまるで似に ていない。希き ガスもあれば、有機ゆうき 溶媒ようばい に近ちか いものもある。構造こうぞう も、反応はんのう 性せい も、分子量ぶんしりょう もばらばらである。それなのに、麻酔ますい の強つよ さは一ひと つの量りょう とよく相関そうかん する。脂質ししつ への溶と けやすさ である。オリーブ油ゆ に溶と けやすい分子ぶんし ほど、よく効き く。
この相関そうかん は、麻酔薬ますいやく が特定とくてい の鍵穴かぎあな にはまる鍵かぎ として働はたら いているのではなく、もっと非ひ 特異とくい 的てき な物理的ぶつりてき 相互作用そうごさよう によって作用さよう していることを示唆しさ する。だとすれば、標的ひょうてき は一ひと つかもしれない。多様たよう な分子ぶんし が、多様たよう な受容体じゅようたい に別々べつべつ に作用さよう しているのではなく、共通きょうつう の一いち か所しょ を叩たた いているのかもしれない。
踏ふ み台だい 「鍵かぎ と鍵穴かぎあな 」という考かんが え方かた と、その限界げんかい
薬くすり が効き く仕組しく みの標準的ひょうじゅんてき な説明せつめい は、鍵かぎ と鍵穴かぎあな である。細胞さいぼう の表面ひょうめん には受容体じゅようたい というタンパク質しつ が並なら んでいて、特定とくてい の形かたち の分子ぶんし だけがそこにはまり、スイッチを入い れる。形かたち が合あ わなければ何なに も起お きない。だからふつう、効き く薬くすり どうしは形かたち が似に ている 。
ところが麻酔薬ますいやく は似に ていない。キセノン(原子げんし 1個いっこ )、亜あ 酸化さんか 窒素ちっそ (原子げんし 3個さんこ )、イソフルラン(そこそこ複雑ふくざつ な分子ぶんし )── 形かたち も反応はんのう 性せい も分子量ぶんしりょう もばらばらなのに、どれも意識いしき を消け す。鍵かぎ と鍵穴かぎあな の話はなし としては、これは相当そうとう に奇妙きみょう である。
そこで、共通きょうつう するものを探さが すと一ひと つだけ見み つかる。油あぶら への溶と けやすさ である。これが100年ねん 以上いじょう 前まえ から知し られるマイヤー・オーバートン相関そうかん で、「麻酔薬ますいやく は鍵穴かぎあな にはまるのではなく、脂あぶら っぽい場所ばしょ へ入はい り込こ んで何なに かを変か えている」ことを示唆しさ してきた。
ただし現代げんだい の理解りかい はもう少すこ し込こ み入い っている。GABA-A 受容体じゅようたい をはじめとするイオンチャネルへの作用さよう は実際じっさい に確たし かめられており、これらが麻酔ますい 作用さよう の大おお きな部分ぶぶん を担にな うことは疑うたが われていない。未解決みかいけつ なのは、そのどれもが「意識いしき が消き える」という一点いってん を説明せつめい しきれていない ことのほうである。
候補こうほ は長なが らく探さが されてきた。神経しんけい のイオンチャネル、受容体じゅようたい 、ミトコンドリア、シナプスのタンパク質しつ 。2008年ねん に至いた る一連いちれん の徹底てってい した研究けんきゅう で、膜まく 受容体じゅようたい やイオンチャネルは、単一たんいつ の標的ひょうてき としては除外じょがい された。
踏ふ み台だい GABA-A 受容体じゅようたい とは何なに か
この先さき で何度なんど か出で てくる名前なまえ なので、ここで開ひら いておく。
神経細胞しんけいさいぼう は、興奮こうふん させる信号しんごう と、止と める信号しんごう の両方りょうほう を受う け取と っている。止と める側がわ の主役しゅやく がGABA (ギャバ)という物質ぶっしつ で、それを受う け取と る鍵穴かぎあな が GABA-A 受容体じゅようたい である。
作つく りはこうだ。五いつ つのタンパク質しつ が輪わ になって膜まく を貫つらぬ く筒つつ を作つく り、真ま ん中なか が塩化物えんかぶつ イオンの通とお り道みち になっている。GABA が輪わ の外側そとがわ に付つ くと孔あな が開ひら き、マイナスの電気でんき を持も つ塩化物えんかぶつ イオンが細胞さいぼう の中なか へ流なが れ込こ む。中なか がマイナスに傾かたむ くので、その細胞さいぼう は発火はっか しにくくなる。これが「止と める」の中身なかみ である。
麻酔薬ますいやく は、GABA と同おな じ場所ばしょ には付つ かない。別べつ の場所ばしょ に付つ いて、GABA の効き きを長引ながび かせる。睡眠薬すいみんやく のベンゾジアゼピンも、また別べつ の場所ばしょ に付つ いて同おな じことをする。アルコールもここに触さわ る。眠ねむ くなる薬くすり の多おお くが、この一ひと つの受容体じゅようたい に集あつ まっている。
そして、麻酔ますい の四よっ つの成分せいぶん が別々べつべつ であることを分子ぶんし の側がわ から示しめ した実験じっけん がある。受容体じゅようたい を作つく るタンパク質しつ のうち β3 と呼よ ばれるもののアミノ酸さん を一ひと つだけ 置お き換か えたマウスでは、エトミデートという麻酔薬ますいやく の「不動ふどう 」だけが効き かなくなった。β2 を置お き換か えると、今度こんど は「鎮静ちんせい 」だけが効き かなくなった。同おな じ受容体じゅようたい の中なか で、成分せいぶん が分わ かれている。
ただし、これで話はなし が終お わらないのがこの章しょう の主題しゅだい である。キセノン・亜あ 酸化さんか 窒素ちっそ ・ケタミンは、GABA-A をほとんど触さわ らない。これらは別べつ の受容体じゅようたい (NMDA 受容体じゅようたい )を塞ふさ ぐことで効き く。「麻酔薬ますいやく の標的ひょうてき 」は一ひと つではない。 だからこそ、共通きょうつう の一点いってん を探さが す試こころ みが続つづ いている。
1 確立かくりつ した物理学ぶつりがく
GABA-A 受容体 五つのタンパク質が輪になって塩化物イオンの通り道を作る構造と、GABA・ベンゾジアゼピン・麻酔薬がそれぞれ違う場所に付くことを示した図 GABA-A 受容体 ── 脳の「止める」側のスイッチ 五つのタンパク質が輪になって作る筒。真ん中は塩化物イオンの通り道になっている 上から見たところ α β α β γ Cl⁻ 真ん中の孔を塩化物イオンが通る 横から見たところ 細胞の外 細胞の中 膜 Cl⁻ が入る マイナスが入るので、細胞は発火しにくくなる GABA が付く場所 α と β の境目 ベンゾジアゼピンが付く場所 α と γ の境目 麻酔薬が付く場所 β の、膜の中の側 同じ受容体でも、付く場所が違えば効き方が違う。β3 の一アミノ酸を置き換えたマウスでは エトミデートの「不動」だけが消え、β2 を置き換えると「鎮静」だけが消えた。 一つの受容体の中で、麻酔の成分が分かれている。 タップで拡大かくだい
図ず 24GABA-A 受容体じゅようたい は、脳のう の「止と める」側がわ のスイッチである。 五いつ つのタンパク質しつ が輪わ になって作つく る筒つつ で、真ま ん中なか を塩化物えんかぶつ イオンが通とお る。マイナスが入はい るので細胞さいぼう は発火はっか しにくくなる。GABA・ベンゾジアゼピン・麻酔薬ますいやく は、同おな じ受容体じゅようたい の違ちが う場所ばしょ に付つ く。サブユニットを一いち アミノ酸さん だけ置お き換か えたマウスでは、麻酔ますい の成分せいぶん が別々べつべつ に消き えた。標準的ひょうじゅんてき な薬理学やくりがく の教科書きょうかしょ レベル。ノックインマウスは Jurd et al., FASEB J 17, 250 (2003); Reynolds et al., J Neurosci 23, 8608 (2003)
除外じょがい されずに残のこ ったものの一ひと つが、微小管びしょうかん (微管 / microtubule) である。
1 確立かくりつ した物理学ぶつりがく
細胞骨格と微小管 細胞の中で核から放射状に伸びる微小管、その側面のチューブリンの並び、輪切りにしたときの13本の筒構造を三段階で示した図 ① 細胞の中 ② 微小管を横から ③ 輪切りにすると 核 微小管は核から放射状に伸び、 細胞の形を保ち、物を運ぶレールになる α と β の2種のタンパク質が交互に並ぶ 長さは数 μm から数十 μm この一粒がチューブリン。 一粒の大きさは 4〜5 nm ほどしかない 空洞 外径 約25 nm 13本の筋(プロトフィラメント)が 筒を作っている 微小管は「細胞の骨組み」であり「物流のレール」でもある。神経細胞では、軸索の端まで物を運ぶ のはこのレールの上を歩く輸送タンパク質である。抗がん剤の一部(タキサン系)は、このレールを 固めて細胞分裂を止める薬である。第3章の実験は、その「固める」性質を麻酔の実験に借りている。 タップで拡大かくだい
図ず 25微小管びしょうかん は、細胞さいぼう の骨組ほねぐ みであり、物流ぶつりゅう のレールでもある。αとβという2種にしゅ のタンパク質しつ が交互こうご に並なら んで筋すじ を作つく り、その筋すじ が13本じゅうさんぼん 、筒つつ の形かたち に並なら ぶ。外径がいけい は約やく 25ナノメートル。神経細胞しんけいさいぼう では軸索じくさく の端はし まで物もの を運はこ ぶレールとして働はたら く。タキサン系けい の抗こう がん剤ざい は、このレールを固かた めて細胞さいぼう 分裂ぶんれつ を止と める薬くすり である。 標準的ひょうじゅんてき な細胞さいぼう 生物学せいぶつがく の教科書きょうかしょ レベル。13プロトフィラメント構造こうぞう は Tilney et al., J Cell Biol 59, 267 (1973) ほか
踏ふ み台だい 微小管びしょうかん とは何なに か ── 見み たことのない人ひと のために
細胞さいぼう を袋ふくろ だと思おも っている人ひと は多おお い。実際じっさい には、細胞さいぼう の中なか には骨組ほねぐ みが張は り巡めぐ らされている。これを細胞さいぼう 骨格こっかく といい、太ふと さの違ちが う三さん 種類しゅるい がある。そのいちばん太ふと いものが微小管びしょうかん である。
作つく りはこうだ。αチューブリンとβチューブリンという二に 種類しゅるい のタンパク質しつ が交互こうご につながって一本いっぽん の筋すじ を作つく る。その筋すじ が13本じゅうさんぼん 、輪わ になって並なら び、中なか が空洞くうどう の筒つつ になる。外径がいけい は約やく 25ナノメートル。髪かみ の毛け の3,000分ぶん の1ほどの太ふと さである。
役割やくわり は二ふた つある。一ひと つは骨組ほねぐ み 。細胞さいぼう の形かたち を保たも ち、分裂ぶんれつ のときは染色体せんしょくたい を両側りょうがわ へ引ひ っ張ぱ る。もう一ひと つは物流ぶつりゅう のレール 。キネシンやダイニンという「歩ある く」タンパク質しつ がこの筒つつ の上うえ を移動いどう し、荷物にもつ を運はこ ぶ。
神経細胞しんけいさいぼう では、この二ふた つめが決定的けっていてき になる。軸索じくさく は1メートル近ちか くにもなることがあり、細胞さいぼう 体からだ で作つく られたタンパク質しつ をその先端せんたん まで運はこ ぶには、レールが要い る。微小管びしょうかん は、神経細胞しんけいさいぼう の中なか でいちばん長なが い距離きょり を支ささ えている構造物こうぞうぶつ である。
そして、抗こう がん剤ざい のタキサン系けい (パクリタキセルなど)は、このレールを固かた めて動うご かなくすることで細胞さいぼう 分裂ぶんれつ を止と める薬くすり である。第だい 3章さんしょう の実験じっけん は、その「固かた める」性質せいしつ を借か りてきた。
微小管びしょうかん は、細胞さいぼう の骨格こっかく をなす管状かんじょう の構造物こうぞうぶつ だ。すべての細胞さいぼう にある。細胞さいぼう 分裂ぶんれつ で染色体せんしょくたい を引ひ っ張ぱ る役やく も担にな う。ただし神経細胞しんけいさいぼう では、物質ぶっしつ の輸送ゆそう や可塑性かそせい という、より特殊とくしゅ な役割やくわり を持も っている。麻酔ますい ガスは、この微小管びしょうかん に実際じっさい に結合けつごう することが確たし かめられている。
踏ふ み台だい 乳にゅう がんとタキサン ── なぜ、ここで臨床りんしょう の報告ほうこく が出で てくるのか
この次つぎ に出で てくるのは、乳にゅう がんの患者かんじゃ の話はなし である。唐突とうとつ に見み えるかもしれないので、先さき につないでおく。
がん とは、細胞さいぼう 分裂ぶんれつ の歯止はど めが壊こわ れた細胞さいぼう が増ふ え続つづ ける病気びょうき である。乳にゅう がん は、乳房ちぶさ の中なか で母乳ぼにゅう を作つく る組織そしき やその管くだ から生しょう じるもので、日本にほん の女性じょせい がかかるがんの中なか でいちばん多おお い。治療ちりょう は手術しゅじゅつ ・放射線ほうしゃせん ・薬くすり を組く み合あ わせる。
薬くすり のうち、いわゆる抗こう がん剤ざい は「よく分裂ぶんれつ している細胞さいぼう 」を狙ねら い撃う つ。その一群いちぐん がタキサン系けい (パクリタキセル、ドセタキセルなど)で、イチイの樹皮じゅひ から見み つかった化合物かごうぶつ を元もと にしている。そして、この薬くすり の効き き方ほう が、この章しょう の主題しゅだい とそのまま重かさ なる ── タキサンは微小管びしょうかん を固かた める。
細胞さいぼう が分裂ぶんれつ するとき、染色体せんしょくたい は微小管びしょうかん という紐ひも に引ひ かれて両側りょうがわ へ分わ けられる。その紐ひも が固かた まって伸の び縮ちぢ みできなくなると、細胞さいぼう は分裂ぶんれつ の途中とちゅう で止と まり、やがて死し ぬ。これがタキサンの効き き方ほう である。
副作用ふくさよう の出で 方ほう も、微小管びしょうかん の話はなし そのものになっている。手足てあし の先さき がしびれる(末梢まっしょう 神経しんけい 障害しょうがい )のは、神経細胞しんけいさいぼう の中なか で荷物にもつ を運はこ ぶレールが固かた まるからで、いちばん長なが い神経しんけい から先さき に障害しょうがい される。髪かみ が抜ぬ けるのは、毛根もうこん の細胞さいぼう がよく分裂ぶんれつ しているからである。
ここまで来く ると、次つぎ の報告ほうこく の意味いみ がわかる。タキサンを受う けた患者かんじゃ は、体からだ じゅうの微小管びしょうかん が薬くすり で固かた められた状態じょうたい にある。 その人ひと たちで麻酔ますい が効き きにくいなら、「麻酔ますい ガスの標的ひょうてき は微小管びしょうかん かもしれない」という話はなし と、辻褄つじつま が合あ う。
抗こう がん剤ざい を受う けた患者かんじゃ は、麻酔ますい が効き きにくい
奇妙きみょう な臨床りんしょう 報告ほうこく がある。
タキサン系けい の抗こう がん剤ざい は、微小管びしょうかん を安定化あんていか させる薬くすり である。この治療ちりょう を受う けた乳にゅう がん患者かんじゃ は、手術しゅじゅつ 中ちゅう の切開せっかい に対たい する血圧けつあつ の上昇じょうしょう が有意ゆうい に大おお きく、より多おお くの鎮痛薬ちんつうやく を必要ひつよう とした——そういう報告ほうこく が2015年ねん に出で ている。
ちょっと待ま ってほしい
この報告ほうこく には限界げんかい がある。同おな じ研究けんきゅう で、心拍数しんぱくすう や麻酔薬ますいやく の投与とうよ 量りょう には有意ゆうい な差さ が出で ていない。患者かんじゃ ごとに病態びょうたい も、使つか われた麻酔薬ますいやく も、受う けたタキサン治療ちりょう の内容ないよう も違ちが う。臨床りんしょう のデータからは、確たし かな結論けつろん を引ひ き出だ しにくい。示唆しさ にとどまる、というのが正確せいかく なところである。
示唆しさ にとどまるものを、確たし かめるにはどうすればいいか。
条件じょうけん を揃そろ えて、動物どうぶつ でやってみるしかない。
69秒ろくじゅうきゅうびょう
米国べいこく ウェルズリー大学だいがく のグループが、それをやった。
雄おす のラットに、微小管びしょうかん を安定化あんていか させる薬くすり ——エポチロンBという、脳のう に届とど くタイプのもの——を体重たいじゅう 一いち キログラムあたり0.75ミリグラム、皮下ひか に投与とうよ する。対照たいしょう の日ひ には、薬くすり の入はい っていない溶媒ようばい だけを同おな じように打う つ。
そして4パーセントのイソフルランを吸す わせ、立た ち直なお り反射はんしゃ (翻正反射 / righting reflex) が消き えるまでの時間じかん を測はか る。ラットを仰向あおむ けにしても自分じぶん で起お き上あ がれなくなる、その瞬間しゅんかん までの秒数びょうすう である。意識いしき 消失しょうしつ の指標しひょう として、麻酔ますい 研究けんきゅう で広ひろ く使つか われている。
踏ふ み台だい なぜ「ひっくり返かえ して起お き上あ がるか」を測はか るのか
動物どうぶつ に「いま意識いしき がありますか」と尋たず ねることはできない。だから代か わりのものを測はか る。
立た ち直なお り反射はんしゃ (righting reflex)は、仰向あおむ けにされた動物どうぶつ が自分じぶん で起お き上あ がる反応はんのう である。これには、体からだ の傾かたむ きを感かん じ取と り(前庭ぜんてい 系けい )、手足てあし を協調きょうちょう させて(運動系うんどうけい )、それを実行じっこう に移うつ すだけの覚醒かくせい が要い る。麻酔ますい を深ふか くしていくと、この反応はんのう は決き まった深ふか さで消き える。
この指標しひょう が使つか われる理由りゆう は三みっ つある。観察かんさつ 者しゃ の主観しゅかん が入はい りにくいこと。種しゅ を越こ えて比較ひかく できること。そして、ヒトで「意識いしき が無な くなった」と判断はんだん される麻酔ますい の深ふか さと、おおよそ対応たいおう することである。
ただし限界げんかい も明確めいかく である。これが測はか っているのは「反応はんのう の消失しょうしつ 」であって、「体験たいけん の消失しょうしつ 」ではない。 序章じょしょう の踏ふ み台だい で見み た植物しょくぶつ 状態じょうたい の患者かんじゃ のように、反応はんのう が無な くても体験たいけん がある可能性かのうせい は、原理げんり 的てき に排除はいじょ できない。この距離きょり を意識いしき しながら読よ むと、この実験じっけん の値打ねう ちと限界げんかい の両方りょうほう が見み えてくる。
2 最前線さいぜんせん ・査読さどく 済ずみ
69秒 微小管安定化薬を投与したラットは麻酔で意識を失うまでの時間が平均69秒延び、8匹中7匹で延長した。1匹は逆に短くなったことも省かずに描いた推定プロット 69 秒 微小管を固めたラットが、意識を失うまでに余計に要した時間 投与前 エポチロンB 投与後 潜時(上ほど長い) 1匹だけ逆行 差 0 平均差 +69 秒 95% 信頼区間 平均差の推定 N = 8 / p = 0.0016 / Cohen's d = 1.9 / 8匹中7匹で延長 / 外れ値除去後 p = 0.005 個体ごとの位置は模式。平均差・p 値・効果量・延長した個体数は原報告の実測値である。 タップで拡大かくだい
図ず 26微小管びしょうかん を固かた めると、意識いしき が消き えるのが69秒ろくじゅうきゅうびょう 遅おく れた。微小管びしょうかん 安定化薬あんていかやく エポチロンBを投与とうよ したラットは、イソフルラン麻酔下ますいか で立た ち直なお り反射はんしゃ を失うしな うまでの時間じかん が平均へいきん 69秒ろくじゅうきゅうびょう 延の びた(N=8、p=0.0016、Cohen's d=1.9)。8匹はっぴき 中ちゅう 7匹ひき で延長えんちょう がみられた。この差さ は反復はんぷく 曝露ばくろ による耐性たいせい では説明せつめい できない。ただし個体こたい 数すう は少すく なく、この結果けっか は「麻酔ますい が微小管びしょうかん に作用さよう している」ことを支持しじ するが、「意識いしき が量子りょうし 現象げんしょう である」ことを証明しょうめい するものではない。Khan et al., "Microtubule-Stabilizer Epothilone B Delays Anesthetic-Induced Unconsciousness in Rats", eNeuro 11(8) (2024), doi:10.1523/ENEURO.0291-24.2024
微小管びしょうかん を固かた めたラットは、意識いしき を失うしな うまでに平均へいきん で69秒ろくじゅうきゅうびょう 余計よけい にかかった。8匹はっぴき 中ちゅう 7匹ひき で潜時せんじ が延の びた。統計的とうけいてき な有意ゆうい 性せい は高たか く、効果こうか 量りょう も大おお きい。
反復はんぷく して麻酔ますい をかけたことによる慣な れではないか、という疑うたが いは、著者ちょしゃ ら自身じしん が潰つぶ している。薬くすり を投与とうよ する前まえ の期間きかん の潜時せんじ は、むしろわずかに短みじか くなる傾向けいこう にあった。慣な れの寄与きよ を最大限さいだいげん に見積みつ もっても、69秒ろくじゅうきゅうびょう には届とど かない。
実験じっけん の解剖かいぼう ── 微小管びしょうかん を固かた めると、意識いしき が消き えるのが遅おく れるか(2024年ねん )
何なに を知し りたかったか麻酔ますい ガスの作用点さようてん が微小管びしょうかん であるなら、微小管びしょうかん を先さき に固かた めておけば麻酔ますい は効き きにくくなるはずである。その予測よそく は当あ たるか。
どうやったか 雄おす のラットに、微小管びしょうかん を安定化あんていか させる薬くすり (エポチロンB、脳のう に届とど くタイプ)を体重たいじゅう 1 kg あたり 0.75 mg 皮下ひか 投与とうよ する。対照たいしょう の日ひ には溶媒ようばい だけを同おな じように投与とうよ する。同おな じ個体こたい で日ひ を変か えて両方りょうほう を行おこな い、4 %のイソフルランを吸す わせて立た ち直なお り反射はんしゃ が消き えるまでの秒数びょうすう を測はか る。主しゅ 実験じっけん 群ぐん は 8 匹ひき 。
何なに が出で たか薬くすり を投与とうよ した日ひ は、意識いしき 消失しょうしつ までに平均へいきん 69 秒びょう 余計よけい にかかった。8 匹ひき 中ちゅう 7 匹ひき で潜時せんじ が延の びた。p = 0.0016、効果こうか 量りょう Cohen's d = 1.9。外はず れ値ち を除のぞ いても有意ゆうい 性せい は保たも たれた(p = 0.005)。反復はんぷく 麻酔ますい による慣な れでは説明せつめい できないことも、投与とうよ 前期ぜんき 間かん の傾かたむ きから示しめ されている。
ここまでは言い える 麻酔ますい ガスが微小管びしょうかん に作用さよう して意識いしき 消失しょうしつ を引ひ き起お こしている、という仮説かせつ を支持しじ する。同おな じ個体こたい で比較ひかく しているため、個体差こたいさ の影響えいきょう を受う けにくい設計せっけい である。
ここからは言い えない 意識いしき が量子りょうし 現象げんしょう であること。微小管びしょうかん が硬かた くなれば、量子りょうし 的てき な性質せいしつ とは無関係むかんけい に細胞さいぼう のふるまいは変か わりうる。この実験じっけん は作用点さようてん の話はなし であって、作用さよう の性質せいしつ の話はなし ではない。
細胞さいぼう の中なか の管くだ を少すこ し硬かた くしただけで、意識いしき が消き えるまでの時間じかん が変か わった。
ちょっと待ま ってほしい
8匹はっぴき は少すく ない。そして8匹はっぴき のうち1匹いっぴき は、逆ぎゃく に潜時せんじ が短みじか くなっている。この実験じっけん が支持しじ するのは「麻酔ますい ガスが微小管びしょうかん に作用さよう して意識いしき 消失しょうしつ を引ひ き起お こしている」という主張しゅちょう までであって、「意識いしき が量子りょうし 的てき な現象げんしょう である」ことではない。微小管びしょうかん が硬かた くなれば、量子りょうし 的てき な性質せいしつ とは無関係むかんけい に、細胞さいぼう のふるまいは変か わりうる。ここは、まだ段だん を上あ がっていない。
数字すうじ の読よ み方かた
p = 0.0016 は「この結果けっか がまぐれで出で る確率かくりつ 」ではない。正ただ しくは「本当ほんとう は差さ が無な いと仮定かてい したとき、これほど大おお きな差さ が偶然ぐうぜん に出で る確率かくりつ 」である。1,000回かい に2回にかい 未満みまん 。小ちい さい。ただし p 値あたい は、差さ の大おお きさ については何なに も言い わない。
Cohen's d = 1.9 が言い うのは、そちらである。これは「差さ が、ばらつきの何個なんこ ぶんか」を表あらわ す。0.2 で小しょう 、0.5 で中なか 、0.8 で大だい というのが慣例かんれい の目安めやす だから、式しき で書か くと d =(M₁ − M₂)/ s 。M₁ と M₂ は二ふた つの群ぐん の平均へいきん 、s は群ぐん の中なか のばらつき(標準偏差ひょうじゅんへんさ )である。差さ を、ばらつきという物差ものさ しで割わ っている。1.9 はかなり大おお きい。二ふた つの群ぐん の分布ぶんぷ がほとんど重かさ ならない、という程度ていど の差さ である。
N = 8 は少すく ない。ここが、この研究けんきゅう のいちばん弱よわ いところである。効果こうか が大おお きいことと、確たし かめた個体こたい が少すく ないことは両立りょうりつ する。「効果こうか は大おお きい。ただし、まだ 8 匹ひき で見み ただけ」── この二ふた つを同時どうじ に頭あたま に置お けるかどうかが、研究けんきゅう を読よ むということである。
1 確立かくりつ した物理学ぶつりがく
p 値と効果量 p 値がまぐれの確率を、効果量が差の大きさを表すという別々の意味を持つことを二つの分布図で示した図 同じ「差があった」でも、二つの別々のことを見る p 値 ── まぐれの確率 実際に 出た差 「差が無い」と仮定したときの、差のばらつき p = 0.0016 は「まぐれなら1,000回に2回未満」 効果量(Cohen's d)── 差の大きさ d d = 1.9 は「二つの山がほとんど重ならない」 p 値が小さくても、差そのものが小さければ意味は薄い。効果量が大きくても、個体数が少なければ まぐれの可能性は残る。二つは別々のことを言っている ── だから両方を見る。 そして N = 8 は少ない。第3章の実験は「効果は大きいが、確かめた個体は少ない」という位置にある。 この二つを同時に頭に置けるかどうかが、研究を読むということである。 タップで拡大かくだい
図ず 27p 値あたい は「まぐれの確率かくりつ 」、効果こうか 量りょう は「差さ の大おお きさ」。別べつ の話はなし である。 p 値あたい が小ちい さくても差さ そのものが小ちい さければ意味いみ は薄うす く、効果こうか 量りょう が大おお きくても個体こたい 数すう が少すく なければまぐれの余地よち は残のこ る。第だい 3章さんしょう の実験じっけん は「効果こうか は大おお きいが、確たし かめた個体こたい は少すく ない」という位置いち にある。 標準的ひょうじゅんてき な統計学とうけいがく の教科書きょうかしょ レベル。d の目安めやす は Cohen (1988)
電子でんし は同おな じ。違ちが うのは、核かく が回まわ っているかどうか
もう一ひと つ、性質せいしつ のまるで違ちが う報告ほうこく がある。こちらは、段だん を一ひと つ上あ がる。
キセノンは、それ自体じたい が麻酔ますい ガスとして使つか われる希き ガスである。この元素げんそ には、いくつかの同位体どういたい がある。同位体どういたい どうしは、電子でんし の数かず も配置はいち も完全かんぜん に同おな じで、化学的かがくてき な性質せいしつ は区別くべつ がつかない。違ちが うのは原子核げんしかく の中身なかみ 、そしてその結果けっか としての核かく スピン(核自旋 / nuclear spin) ——核かく が持も つ自転じてん のような量子りょうし 的てき 性質せいしつ ——だけである。
踏ふ み台だい 同位体どういたい と核かく スピン
原子核げんしかく は陽子ようし と中性子ちゅうせいし でできている。陽子ようし の数かず がその元素げんそ を決き め(陽子ようし 54個ごじゅうよんこ ならキセノン)、中性子ちゅうせいし の数かず は同おな じ元素げんそ の中なか でも違ちが いうる。この中性子ちゅうせいし の数かず だけが違ちが うものを同位体どういたい という。
化学かがく 反応はんのう に関かか わるのは電子でんし だけだから、同位体どういたい どうしの化学的かがくてき 性質せいしつ はほぼ完全かんぜん に同おな じである。味あじ も匂にお いも反応はんのう も区別くべつ がつかない。
ただし一ひと つだけ違ちが うものがある。核かく スピン である。陽子ようし と中性子ちゅうせいし の数かず の組く み合あ わせによって、原子核げんしかく 全体ぜんたい が「自転じてん しているような」量子りょうし 的てき 性質せいしつ を持も ったり、持も たなかったりする。キセノン132は核かく スピン 0、キセノン129は 1/2、キセノン131は 3/2 になる。
核かく スピンは、私わたし たちの日常にちじょう にも顔かお を出だ している。MRI(磁気じき 共鳴きょうめい 画像がぞう )は、体内たいない の水素すいそ 原子核げんしかく の核かく スピンが磁場じば の中なか で示しめ すふるまいを画像がぞう にした装置そうち である。つまり核かく スピンは、実在じつざい し、外そと から操作そうさ でき、信号しんごう として読よ み出だ せる量りょう である。
そして核かく スピンがゼロでない核かく は、量子りょうし ビットとして使つか える ── この事実じじつ が、次つぎ の話はなし の入口いりぐち になっている。
マウスを用もち いた実験じっけん で、核かく スピンが半整数はんせいすう である同位体どういたい のほうが、麻酔ますい としての効き きが弱よわ いという結果けっか が報告ほうこく されている。
3 仮説かせつ ・反証はんしょう 可能かのう
原子核の自転 キセノンの同位体は電子殻も化学的性質も同一で、違うのは核スピンだけであること、核スピンを持つ同位体ほど麻酔効力が低いという報告を並べた概念図 ¹³²Xe 核スピン 0 ¹³⁴Xe 核スピン 0 ¹³¹Xe 核スピン 3/2 ¹²⁹Xe 核スピン 1/2 電子殻は四つとも完全に同一 LRR-ED50(キセノン単独) ¹³²Xe 70 % ¹³⁴Xe 72 % ¹³¹Xe 99 % ¹²⁹Xe 105 % 大きいほど、効きが弱い 電子は同じ。化学反応も同じ。違うのは、核が回っているかどうか マウス80匹を四群に分けた半数効果量の比較(Li et al., Anesthesiology 129, 271 (2018))。原著者自身が「作用機序についてわかることは少ない」と記している。 タップで拡大かくだい
図ず 28電子でんし は同おな じ。違ちが うのは、核かく が回まわ っているかどうかだけ。キセノンの同位体どういたい を用もち いた麻酔ますい 実験じっけん で、核かく スピンを持も つ同位体どういたい のほうが麻酔ますい 効力こうりょく が低ひく いという報告ほうこく がある。核かく スピンが量子りょうし ビットとして働はたら き、より大おお きな重かさ ね合あ わせの形成けいせい に寄与きよ することで麻酔ますい 作用さよう に拮抗きっこう している可能性かのうせい が指摘してき されている。ただし原げん 報告ほうこく は少数しょうすう のマウスでの半数はんすう 効果こうか 量りょう の比較ひかく であり、著者ちょしゃ 自身じしん がこの結果けっか から作用さよう 機序きじょ についてわかることは少すく ないと述の べている。 Li et al., Anesthesiology 129, 271 (2018)。Neven et al., Entropy 26, 460 (2024) が引用いんよう
電子でんし は同おな じ。化学かがく 反応はんのう も同おな じ。違ちが うのは、核かく が回まわ っているかどうかだけ。
核かく スピンはゼロでない限かぎ り、量子りょうし ビットとして振ふ る舞ま いうる。もし意識いしき が量子りょうし 的てき な重かさ ね合あ わせに関係かんけい しているなら、核かく スピンを持も つ同位体どういたい は重かさ ね合あ わせの形成けいせい に寄与きよ し、麻酔ますい 作用さよう に逆さか らう方向ほうこう に働はたら くかもしれない——そういう解釈かいしゃく が提案ていあん されている。
ちょっと待ま ってほしい
この報告ほうこく は、同位体どういたい 4種よんしゅ について、マウス80匹ひき の半数はんすう 効果こうか 量りょう を比くら べたものにすぎない。そしてこれを紹介しょうかい している論文ろんぶん 自身じしん が、この結果けっか からは作用さよう 機序きじょ についてわかることは少すく ない、と明記めいき している。単独たんどく では量子りょうし 説せつ の証拠しょうこ にならない。ここに挙あ げたのは、証拠しょうこ としてではなく、問と いの形かたち として である。
神経しんけい を包つつ む絶縁体ぜつえんたい は、断面図だんめんず で見み ると共振器きょうしんき の形かたち をしている
ここまでは、意識いしき を消け す側がわ からの接近せっきん だった。逆ぎゃく から近ちか づいた仕事しごと もある。
上海大学しゃんはいだいがく と四川しせん 大学だいがく のグループが、2024年ねん に Physical Review E に発表はっぴょう した論文ろんぶん である。彼かれ らが目め をつけたのは、ミエリン鞘さや (髓鞘 / myelin sheath) だった。
踏ふ み台だい 神経しんけい が信号しんごう を送おく るしくみと、ミエリンの役目やくめ
神経細胞しんけいさいぼう の信号しんごう は、電線でんせん を流なが れる電流でんりゅう とはかなり違ちが う。軸索じくさく の膜まく には、イオンを通とお す小ちい さな穴あな (イオンチャネル)が並なら んでいて、それが順番じゅんばん に開ひら くことで、電気でんき 的てき な変化へんか が波なみ のように伝つた わっていく。これが活動かつどう 電位でんい である。
この方式ほうしき は正確せいかく だが、遅おそ い。穴あな を一ひと つずつ開あ けていくからである。素そ のままの軸索じくさく では、信号しんごう は秒速びょうそく 1 メートル前後ぜんご しか進すす まない。
そこでミエリンが登場とうじょう する。グリア細胞さいぼう が軸索じくさく に何なに 重じゅう にも巻ま きついて作つく る脂質ししつ の鞘さや で、電気でんき を通とお さない被覆ひふく として働はたら く。この被覆ひふく には一定いってい 間隔かんかく で切き れ目め があり(ランビエ絞輪こうりん )、電気でんき 的てき な変化へんか は、切き れ目め から切き れ目め へ跳と ぶように進すす む 。これを跳躍ちょうやく 伝導でんどう という。速度そくど は秒速びょうそく 100 メートルを超こ える。
多発たはつ 性せい 硬化こうか 症しょう という病気びょうき は、このミエリンが免疫めんえき によって壊こわ される病気びょうき である。被覆ひふく が壊こわ れると信号しんごう は遅おく れ、あるいは届とど かなくなり、視力しりょく 低下ていか や麻痺まひ やしびれが起お きる。ミエリンが「速はや さのための仕組しく み」であることは、それが失うしな われたときに何なに が起お きるかで確たし かめられている。
第だい 3章さんしょう がこれから紹介しょうかい するのは、この被覆ひふく を「絶縁体ぜつえんたい 」ではなく「円筒えんとう 形けい の共振器きょうしんき 」として見直みなお した計算けいさん である。同おな じものを別べつ の枠組わくぐ みで見み ると、別べつ の性質せいしつ が見み えてくる ── その一いち 例れい として読よ むとよい。
ミエリン鞘さや は、神経線維しんけいせんい を包つつ む脂質ししつ の鞘さや である。学校がっこう では「絶縁体ぜつえんたい 」として習なら う。電気でんき 信号しんごう が漏も れないようにする被覆ひふく であり、信号しんごう を速はや く伝つた えるための仕組しく みである、と。
断面図だんめんず を見み ると、それは同心円どうしんえん 状じょう に何百なんびゃく 層そう も巻ま かれた、長なが さ百ひゃく マイクロメートルほどの円筒えんとう である。
1 確立かくりつ した物理学ぶつりがく
神経細胞と跳躍伝導 細胞体から伸びる軸索がミエリン鞘に包まれ、その切れ目であるランビエ絞輪を信号が跳んで進むことを示した図 信号は、ミエリンの切れ目を跳んで進む 細胞体 (信号を受ける) ミエリン鞘 ランビエ絞輪 ランビエ絞輪 ランビエ絞輪 ランビエ絞輪 電気の変化は、絞輪から絞輪へ跳ぶ(跳躍伝導) 軸索の先はシナプス。 次の細胞へ化学物質で渡す ミエリンは「絶縁体」として教わる。電気が漏れないようにする被覆であり、 そのおかげで信号は跳ぶように速く進む。 ミエリンの無い神経が秒速 1 m 前後なのに対し、ある神経は秒速 100 m を超える。 第3章で紹介する計算は、この被覆を「絶縁体」ではなく「円筒形の共振器」として見直したものである。 同じものを別の枠組みで見ると別の性質が見える ── その一例として読むとよい。 タップで拡大かくだい
図ず 29ミエリンは被覆ひふく であり、そのおかげで信号しんごう は跳と ぶ。 軸索じくさく を包つつ む脂質ししつ の鞘さや には一定いってい 間隔かんかく で切き れ目め (ランビエ絞輪こうりん )があり、電気でんき の変化へんか は絞輪こうりん から絞輪こうりん へ跳と んで進すす む。これを跳躍ちょうやく 伝導でんどう という。第だい 3章さんしょう で紹介しょうかい する計算けいさん は、この被覆ひふく を「絶縁体ぜつえんたい 」ではなく「円筒えんとう 形けい の共振器きょうしんき 」として見直みなお したものである。標準的ひょうじゅんてき な神経しんけい 生理学せいりがく の教科書きょうかしょ レベル
物理学ぶつりがく 者しゃ は、この形かたち を別べつ のものとして見み た。
3 仮説かせつ ・反証はんしょう 可能かのう
ミエリン鞘という共振器 神経を包むミエリン鞘の断面が同心円状の円筒であり、空洞量子電気力学の枠組みでは共振器として扱えることを示した概念図。生体内での観測はないという注記を伴う ① ニューロン全体 ② ミエリン鞘の断面 ③ リン脂質の尾部 軸索とミエリン鞘 同心円状に数百層。円筒は共振器である 長さ 約100 μm / 厚さ 1〜2 μm C–H 結合の振動が光源になりうる もつれた光子対が生成されうる(計算) これは計算結果である。生きた脳の中でこの光子対が 観測されたという報告は、現時点で存在しない。 タップで拡大かくだい
図ず 30神経しんけい を包つつ む絶縁体ぜつえんたい は、断面図だんめんず で見み ると共振器きょうしんき の形かたち をしている。上海大学しゃんはいだいがく らのグループは、ミエリン鞘さや の円筒えんとう 構造こうぞう を空洞くうどう 量子りょうし 電気でんき 力学りきがく の枠組わくぐ みで解析かいせき した。脂質ししつ 分子ぶんし の尾部びぶ にある炭素たんそ –水素すいそ 結合けつごう の振動しんどう から、カスケード放出ほうしゅつ によってもつれた光子こうし 対たい が相当そうとう 数すう 生成せいせい されうるという計算結果けいさんけっか を得とく ている。神経しんけい の同期どうき という未解明みかいめい の問題もんだい に、量子りょうし 的てき な情報じょうほう 伝達でんたつ という説明せつめい を与あた える可能性かのうせい を示しめ すものだが、生体内せいたいない での観測かんそく は行おこな われていない。Liu, Chen & Ao, Phys Rev E 110, 024402 (2024), doi:10.1103/PhysRevE.110.024402
円筒えんとう は、共振器きょうしんき である。第だい 2章にしょう で、鏡かがみ と鏡かがみ のあいだに真空しんくう 場ば を閉と じ込こ めた装置そうち を見み た。あれと同おな じ幾何きか が、神経線維しんけいせんい の一本いっぽん 一本いっぽん に、無数むすう に並なら んでいる。
彼かれ らはキャビティ量子りょうし 電気でんき 力学りきがく の枠組わくぐ みで計算けいさん した。ミエリンを構成こうせい する脂質ししつ 分子ぶんし の尾部びぶ には、炭素たんそ と水素すいそ の結合けつごう が大量たいりょう にある。この結合けつごう の振動しんどう が、円筒状えんとうじょう の空洞くうどう の中なか でカスケード的てき に光子こうし を放出ほうしゅつ し、量子りょうし もつれ(量子纠缠 / quantum entanglement) の状態じょうたい にある光子こうし 対たい を、相当そうとう 数すう 生う み出だ しうる——それが計算けいさん の結論けつろん だった。
なぜこれが意識いしき の話はなし になるのか。
彼かれ らが冒頭ぼうとう に置お いている問題もんだい 意識いしき は、こうである。脳のう の働はたら きは、何なに 百万ひゃくまん という神経細胞しんけいさいぼう が同時どうじ に足並あしな みを揃そろ えることに依存いぞん している。ところが、その精密せいみつ な同期どうき がどうやって実現じつげん されているのか、その仕組しく みは解明かいめい されていない。電気でんき 信号しんごう の伝達でんたつ 速度そくど では、説明せつめい のつかない速はや さがある。
もし脳のう が、自前じまえ でもつれた光子こうし 対たい を作つく れるのなら、それが同期どうき の資源しげん になっているのではないか。
実験じっけん の解剖かいぼう ── ミエリン鞘さや は、もつれ光子こうし 対たい を作つく れるか(2024年ねん ・計算けいさん のみ)
何なに を知し りたかったか脳内のうない の広ひろ い範囲はんい が一斉いっせい に同期どうき する現象げんしょう は、電気でんき 信号しんごう の伝導でんどう 速度そくど だけでは説明せつめい が苦くる しい。別べつ の資源しげん があるとしたら何なに か。ミエリン鞘さや の円筒えんとう 構造こうぞう は、その資源しげん を作つく れる形かたち をしているか。
どうやったか 実験じっけん ではない。計算けいさん である。 ミエリン鞘さや の円筒えんとう を空洞くうどう 量子りょうし 電気でんき 力学りきがく の枠組わくぐ みでモデル化か し、脂質ししつ 分子ぶんし の尾部びぶ にある炭素たんそ –水素すいそ 結合けつごう の振動しんどう がその空洞くうどう の中なか でどう振ふ る舞ま うかを解と いた。
何なに が出で たか振動しんどう がカスケード的てき に光子こうし を放出ほうしゅつ し、もつれた光子こうし 対たい が相当そうとう 数すう 生成せいせい されうる、という結論けつろん が得とく られた。
ここまでは言い える ミエリン鞘さや の幾何きか が、理論りろん 上じょう そういう放出ほうしゅつ を許ゆる す形かたち をしているということ。査読さどく を通とお った物理学ぶつりがく の論文ろんぶん であり、計算けいさん そのものは真面目まじめ なものである。
ここからは言い えない 生い きた脳のう でそれが起お きているということ。生体内せいたいない での観測かんそく 報告ほうこく は、現時点げんじてん で一件いっけん も無な い。 「脳内のうない で量子りょうし もつれが発見はっけん された」という要約ようやく は、事実じじつ に反はん する。
ちょっと待ま ってほしい
これは計算結果けいさんけっか である。生い きた脳のう の中なか で、このもつれた光子こうし 対たい が観測かんそく されたという報告ほうこく は、現時点げんじてん で存在そんざい しない。査読さどく を通とお った物理学ぶつりがく の論文ろんぶん であり、計算けいさん そのものは真面目まじめ なものだが、示しめ されたのは「理論りろん 上じょう そうなりうる」というところまでである。「脳内のうない で量子りょうし もつれが発見はっけん された」と要約ようやく することは、事実じじつ に反はん する。
踏ふ み台だい 痛いた みとは何なに か ── 2,000年ねん かけて、在あ る場所ばしょ が変か わった
この章しょう の主題しゅだい は麻酔ますい だった。麻酔ますい が消け すもののうち、いちばん厄介やっかい なものを最後さいご に見み ておく。痛いた み である。
アリストテレスは、痛いた みを感覚かんかく に数かぞ えなかった。彼かれ にとって痛いた みは魂たましい の受動じゅどう であり、快かい の反対はんたい にある心こころ の状態じょうたい だった。触覚しょっかく や視覚しかく と同おな じ列れつ には並なら んでいない。
1664年ねん 、デカルトが図ず を一いち 枚まい 描えが く。足あし の裏うら の火ひ から、細ほそ い糸いと が背中せなか を通とお って脳のう へ上あ がり、鐘かね の紐ひも を引ひ くように脳のう の中なか で弁べん が開ひら く。この図ず が痛いた みを機械きかい にした。以後いご 300年ねん 、痛いた みは傷きず の量りょう を測はか る計器けいき として扱あつか われる。傷きず が大おお きければ痛いた みも大おお きい。それだけの話はなし のはずだった。
ところが、計器けいき では説明せつめい できないことが積つ み上あ がっていく。第だい 二次にじ 大戦たいせん の野戦やせん 病院びょういん で、ビーチャーは重傷じゅうしょう の兵士へいし の多おお くがモルヒネを求もと めないことに気き づいた。同おな じ傷きず でも、市民しみん の患者かんじゃ ははるかに強つよ く痛いた みを訴うった えた。違ちが いは傷きず ではなく、その傷きず が本人ほんにん にとって何なに を意味いみ するかにあった── 前線ぜんせん から離はな れられる、という意味いみ に。
無な い足あし が痛いた む幻肢痛げんしつう もあった。切断せつだん された足あし からは、そもそも信号しんごう が来こ ない。計器けいき モデルでは、痛いた みようがない。
1965年ねん 、メルザックとウォールがゲートコントロール理論りろん を出だ す。脊髄せきずい の入口いりぐち に「門もん 」があり、触覚しょっかく を運はこ ぶ太ふと い線維せんい がそれを閉と じ、痛いた みを運はこ ぶ細ほそ い線維せんい が開あ ける。さらに、脳のう の側がわ からも門もん を開あ け閉し めできる。痛いた みは、伝つた わってくるものではなく、作つく られるものになった。 ぶつけたところをさすると楽らく になるのは、太ふと い線維せんい が門もん を閉と じているからである。
メルザックはさらに進すす んでニューロマトリクス を言い う。痛いた みを生う むのは脳のう の中なか の網あみ であり、身体しんたい からの入力にゅうりょく が無な くてもその網あみ は鳴な りうる。幻肢痛げんしつう は、これで説明せつめい がつく。
1 確立かくりつ した物理学ぶつりがく
痛みの三つのモデル デカルトの伝達モデル、ゲートコントロール理論、ニューロマトリクスという三つの痛みのモデルを並べた図 痛みは「伝わるもの」から「作られるもの」になった 300年かけて、痛みが在る場所が変わっていった デカルト 1664 傷の量が、そのまま脳へ伝わる 脳 足 紐 ゲートコントロール 1965 脊髄に門がある。開閉できる 脳 門 脳から 開け閉め 太い線維 (閉じる) 細い線維 (開ける) ニューロマトリクス 1990年代 入力が無くても、脳が生む 身体からの入力 無し デカルトの図は、痛みを機械にした。以後300年、痛みは「傷の量を測る計器」として扱われる。 ところが計器では説明できないことが積み上がった ── 重傷なのに痛まない兵士、無い足が痛む幻肢痛。 ゲートコントロール理論は、脊髄と脳が信号そのものを書き換えていることを示した。 さすると痛みが和らぐのは、太い線維が門を閉じるからである。 タップで拡大かくだい
図ず 31痛いた みは「伝つた わるもの」から「作つく られるもの」になった。デカルトの図ず は痛いた みを機械きかい にし、以後いご 300年ねん 、痛いた みは傷きず の量りょう を測はか る計器けいき として扱あつか われた。ゲートコントロール理論りろん は、脊髄せきずい と脳のう が信号しんごう そのものを書か き換か えていることを示しめ した。メルザックのニューロマトリクスは、入力にゅうりょく が無な くても脳のう が痛いた みを生う みうるところまで進すす んだ。 Descartes, "Traité de l'homme" (1664); Melzack & Wall, Science 150, 971 (1965); Melzack, Trends Neurosci 13, 88 (1990)
もう一段いちだん 深ふか く ── 痛いた みを感かん じない人ひと たち ── 遺伝子いでんし が教おし えたこと
痛いた みが配線はいせん であることの、いちばん強つよ い証拠しょうこ は臨床りんしょう から来き た。
先天性せんてんせい 無痛むつう 症しょう という病気びょうき がある。生う まれつき痛いた みを一切いっさい 感かん じない。赤あか ん坊ぼう のうちに舌した や指ゆび を噛か み切き り、骨折こっせつ や関節かんせつ の破壊はかい に気き づかないまま歩ある き続つづ け、若わか くして命いのち を落お とすこともある。痛いた みが無な いことは、幸運こううん ではない。
2006年ねん 、その原因げんいん の一ひと つが特定とくてい された。SCN9A という遺伝子いでんし が作つく るナトリウムチャネル(Nav1.7)が働はたら かなくなる変異へんい である。痛いた みの信号しんごう を運はこ ぶ神経しんけい が、信号しんごう を立た ち上あ げられない。この人ひと たちは同時どうじ に、匂にお いも分わ からない。
面白おもしろ いのは逆向ぎゃくむ きである。同おな じ遺伝子いでんし が働はたら きすぎる変異へんい では、手足てあし が灼や けるように痛いた み続つづ ける病気びょうき になる。一ひと つの遺伝子いでんし の、一ひと つのつまみの向む きだけで、痛いた みが無な くなりも、止と まらなくもなる。
ただし ── この遺伝子いでんし は、「痛いた いという感かん じ」がなぜ伴ともな うのかには答こた えていない。 信号しんごう が立た ち上あ がるかどうかを決き めているだけである。第だい 5章ごしょう の壁かべ は、ここにも同おな じ形かたち で在あ る。
臨床りんしょう の窓まど 痛いた いのに、痛いた くない ── 痛覚つうかく 失認しつにん という状態じょうたい
痛覚つうかく 失認しつにん という、哲学てつがく の教科書きょうかしょ に載の ってもよさそうな状態じょうたい がある。島しま 皮質ひしつ という部位ぶい を損傷そんしょう した患者かんじゃ に見み られる。
針はり で刺さ すと、その人ひと は「痛いた い」と正確せいかく に答こた える。場所ばしょ も、強つよ さも、鋭するど さも言い える。それなのに嫌いや がらない 。手て を引ひ っ込こ めない。笑わら っていることさえある。痛いた みの感覚かんかく は残のこ り、嫌いや さ だけが外はず れている。
同おな じことは、もっとありふれた場面ばめん でも起お きる。モルヒネを使つか った患者かんじゃ はしばしばこう言い う ── 「痛いた みはあります。でも、気き になりません」。難治なんち 性せい の痛いた みに対たい して帯状回たいじょうかい を切き る手術しゅじゅつ でも、同おな じ報告ほうこく が繰く り返かえ されてきた。
つまり痛いた みは、少すく なくとも二ふた つの部品ぶひん でできている。どこがどう痛いた むかという部品ぶひん と、それが嫌いや であるという部品ぶひん 。 別々べつべつ に壊こわ れるのだから、別々べつべつ の部品ぶひん である。
ここが哲学てつがく に効き いてくる。クリプキは「痛いた み=神経しんけい の発火はっか 」という同一どういつ 説せつ を、痛いた みの本質ほんしつ はその感かん じ方ほう にあるという理由りゆう で退しりぞ けた。痛覚つうかく 失認しつにん は、その「感かん じ方ほう 」がさらに二ふた つに割わ れることを示しめ している。割わ れたあと、どちらが体験たいけん の本体ほんたい なのか。
そして麻酔ますい の鎮痛ちんつう が消け しているのは、このうちどちらなのか。完全かんぜん には決き まっていない。全身ぜんしん 麻酔ますい 中ちゅう でも、侵害しんがい 刺激しげき に対たい する反応はんのう は脳のう の中なか に残のこ っていることが測はか られている。
踏ふ み台だい いまの定義ていぎ と、痛いた みは何なに のためにあるのか
国際こくさい 疼痛とうつう 学会がっかい は2020年ねん に定義ていぎ を改あらた めた。「実際じっさい の組織そしき 損傷そんしょう もしくは組織そしき 損傷そんしょう が起お こりうる状態じょうたい に付随ふずい する、あるいはそれに似に た、不快ふかい な感覚かんかく かつ情動じょうどう 体験たいけん 」。
定義ていぎ の本体ほんたい は、そこに付つ けられた注記ちゅうき のほうにある。痛いた みは常つね に個人的こじんてき な体験たいけん である。痛いた みと侵害しんがい 受容じゅよう は別べつ の現象げんしょう である。言葉ことば で言い えないことは、痛いた みが無な いことの証明しょうめい にならない。三みっ つめは、赤あか ん坊ぼう や認知症にんちしょう の人ひと や動物どうぶつ のために書か かれている ── そして、序章じょしょう で見み た植物しょくぶつ 状態じょうたい の患者かんじゃ のためにも。
何なに のためにあるのか。組織そしき が壊こわ れることを避さ けるための警報けいほう である。無痛むつう 症しょう の人ひと が短命たんめい であることが、その値打ねう ちを裏うら から示しめ している。ただし、警報けいほう として作つく られている以上いじょう 、警報けいほう だけが鳴な り続つづ けることもある。傷きず も神経しんけい の損傷そんしょう も無な いのに痛いた みが続つづ く型かた があり、痛覚つうかく 変調へんちょう 性せい 疼痛とうつう と呼よ ばれている。線維せんい 筋痛きんつう 症しょう などがここに入はい る。痛いた みが「作つく られるもの」であることの、臨床りんしょう での帰結きけつ である。
ここまでを、この文章ぶんしょう の主題しゅだい に接続せつぞく しておく。痛いた みは、哲学てつがく がクオリアを論ろん じるときにいちばん最初さいしょ に持も ち出だ す例れい である。赤あか の赤あか さは言葉ことば にしにくいが、痛いた みの痛いた さは誰だれ にでも分わ かる。その痛いた さを、麻酔ますい は消け す。消き えたあと、そこに何なに が残のこ っているのか。
この問と いは、第だい 5章ごしょう でもう1度いちど 、別べつ の言い い方かた で戻もど ってくる。
この章しょう が答こた えていないこと
微小管びしょうかん を固かた めると麻酔ますい が効き きにくくなる。これは量子りょうし 的てき な現象げんしょう なのか、それとも単たん に細胞さいぼう 骨格こっかく が硬かた くなっただけなのか。
理論りろん 計算けいさん で「生成せいせい されうる」と示しめ されたものは、生い きた脳のう の中なか でも生成せいせい されているのか。それを確たし かめる方法ほうほう はあるのか。
第だい 三さん 部ぶ まだ確たし かめられていないこと
全ぜん 11 章しょう のうち 6 章しょう 目め
Ⅳ 第だい 4章よんしょう
世界せかい が枝分えだわ かれする音おと
潰つぶ れる瞬間しゅんかん か、生う まれる瞬間しゅんかん か。二人ふたり は同おな じ回路かいろ の正反対せいはんたい を指さ している。
進行インジケータ この章が扱う確実さの段を示す帯 TIER 1 確立 TIER 2 最前線 TIER 3 仮説 TIER 4 逸話
この章しょう の道みち すじ
意識いしき と量子りょうし 力学りきがく を結むす びつける話はなし には、長なが い前史ぜんし がある。その中心ちゅうしん にいたのは、ロジャー・ペンローズ(罗杰·彭罗斯 / Roger Penrose) だった。
踏ふ み台だい 重かさ ね合あ わせ・量子りょうし ビット・もつれ ── 三さん 語ご だけ先さき に渡わた す
この章しょう は三みっ つの語ご で出来でき ている。順じゅん に、いちばん短みじか い道みち で渡わた す。
重かさ ね合あ わせ 。よくある説明せつめい は「0 でもあり 1 でもある状態じょうたい 」だが、これは誤解ごかい を招まね く。「本当ほんとう はどちらかに決き まっていて、人間にんげん が知し らないだけ」という意味いみ に読よ めてしまうからである。正ただ しくは、二ふた つの可能性かのうせい が波なみ として同時どうじ に在あ り、互たが いに干渉かんしょう する状態じょうたい のことをいう。干渉かんしょう するというのが決定的けっていてき で、足た し合あ わさって打う ち消き えたり強つよ め合あ ったりする ── これは「知し らないだけ」では絶対ぜったい に起お こらない。
量子りょうし ビット 。その重かさ ね合あ わせを保たも てる、二ふた つの状態じょうたい を持も つ小ちい さな系けい のことである。電子でんし のスピンでも、原子核げんしかく のスピンでも、超伝導ちょうでんどう 回路かいろ でも作つく れる。古典こてん のビットが 0 か 1 のどちらかしか取と れないのに対たい し、量子りょうし ビットは重かさ ね合あ わせを取と れる。
もつれ 。二ふた つ以上いじょう の量子りょうし ビットが、「個々ここ の状態じょうたい を別々べつべつ に書か き下くだ せない」形かたち で結むす びついた状態じょうたい をいう。片方かたほう を測はか ると、もう片方かたほう の結果けっか も同時どうじ に決き まる。ただし ── ここは第だい 7章ななしょう の中心ちゅうしん になるが ── それを使つか って情報じょうほう を送おく ることはできない。
この三みっ つが分わ かれば、この章しょう はもう読よ める。
彼かれ の考かんが えでは、重かさ ね合あ わせ(叠加态 / superposition) が潰つぶ れる瞬間しゅんかん ——世界せかい が一ひと つの答こた えに決き まる瞬間しゅんかん ——が、意識いしき の一瞬いっしゅん に対応たいおう する。量子りょうし の状態じょうたい が複数ふくすう の可能性かのうせい を同時どうじ に抱かか えている状態じょうたい から、一ひと つに確定かくてい する。その波束はそく の収縮しゅうしゅく (波函数坍缩 / wave function collapse) こそが、体験たいけん の最小単位さいしょうたんい だという主張しゅちょう である。
2024年ねん 、この構図こうず がひっくり返かえ された。
1 確立かくりつ した物理学ぶつりがく
重ね合わせとは何でないか 重ね合わせを「知らないだけ」とする誤解と、波として干渉する実際のふるまいを左右に並べた図 「重ね合わせ」は、どちらか分からないことではない ✗ よくある誤解 「本当はどちらかに決まっているが、 見るまで人間が知らないだけ」 表 裏 = ただの確率。伏せたコインと同じ ○ 実際に起きていること 「両方が同時に在り、互いに干渉する」 = 足し合わさって消えたり強まったりする 見分ける方法がある。二つの道を通した後で重ねると、 「知らないだけ」なら結果は単に混ざるが、 「重ね合わせ」なら縞模様(干渉縞)が出る。実験は縞が出ることを繰り返し示してきた。 重ね合わせが「壊れる」とは、この縞が消えること ── つまり干渉できなくなることを指す。 それがデコヒーレンスであり、第8章の論争の中心にある。 タップで拡大かくだい
図ず 32重かさ ね合あ わせは、伏ふ せたコインではない。「どちらか決き まっているが知し らないだけ」なら、二ふた つの道みち を通とお した結果けっか は単たん に混ま ざる。「重かさ ね合あ わせ」なら干渉縞かんしょうじま が出で る。実験じっけん は縞しま が出で ることを繰く り返かえ し示しめ してきた。重かさ ね合あ わせが壊こわ れるとは、この縞しま が消き えることを指さ す。 二に 重じゅう スリット実験じっけん および標準的ひょうじゅんてき な量子りょうし 力学りきがく (教科書きょうかしょ レベル)
まず、著者ちょしゃ 名めい を見み てほしい
論文ろんぶん の名な は「量子りょうし 過程かてい が意識いしき 体験たいけん を生う むという予想よそう の検証けんしょう 」。掲載誌けいさいし は Entropy 。
筆頭ひっとう 著者ちょしゃ はハートムート・ネーヴェン(哈特穆特·内文 / Hartmut Neven) 。グーグルの量子りょうし AI部門ぶもん を率ひき いる人物じんぶつ である。共著者きょうちょしゃ には、量子りょうし 光学こうがく のディルク・バウメースター 、嗅覚きゅうかく の量子りょうし 説せつ で知し られるルカ・トゥリン 、脳のう オルガノイド研究けんきゅう のケネス・コージク 。
そして、クリストフ・コッホ(克里斯托夫·科赫 / Christof Koch) 。
コッホは意識いしき 研究けんきゅう の中心ちゅうしん にいる人物じんぶつ である。長なが らくフランシス・クリック と共同研究きょうどうけんきゅう を行おこな い、統合とうごう 情報じょうほう 理論りろん の主要しゅよう な擁護ようご 者しゃ として知し られる。意識いしき を科学かがく の対象たいしょう にするという営いとな みを、40年よんじゅうねん にわたって牽引けんいん してきた側がわ の人間にんげん だ。
つまりこれは、学界がっかい の周縁しゅうえん から出で てきた論文ろんぶん ではない。
ペンローズの、真逆まぎゃく
彼かれ らの予想よそう は、こうである。
意識いしき の一瞬いっしゅん は、重かさ ね合あ わせが潰つぶ れるときに生う まれるのではない。重かさ ね合あ わせが生う まれる ときに生しょう じている。
3 仮説かせつ ・反証はんしょう 可能かのう
潰れる音か、生まれる音か 一本の量子回路の上で、ペンローズは測定=収縮の瞬間を、ネーヴェンらは重ね合わせが形成される瞬間を、それぞれ意識と呼んだことを示した概念図 |0⟩ |0⟩ |0⟩ H M ① ② ③ ネーヴェン 世界が枝分かれする音 ここが体験 ペンローズ 世界が一つに決まる音 ここが意識の一瞬 同じ回路。同じ物理。名指す瞬間だけが、正反対 ① 重ね合わせの形成 ② もつれの拡散 ③ 測定=収縮 タップで拡大かくだい
図ず 33同おな じ回路かいろ の、正反対せいはんたい の瞬間しゅんかん 。ペンローズは、重かさ ね合あ わせが収縮しゅうしゅく する瞬間しゅんかん が意識いしき の一瞬いっしゅん に対応たいおう すると考かんが えた。ネーヴェンらの2024年ねん の提案ていあん はこれを反転はんてん させ、重かさ ね合あ わせが形成けいせい される瞬間しゅんかん こそが体験たいけん だとする。この提案ていあん はエヴェレットの多た 世界せかい 解釈かいしゃく に立脚りっきゃく しており、より大おお きな重かさ ね合あ わせほど豊ゆた かな体験たいけん に対応たいおう すると予想よそう する。検証けんしょう 提案ていあん を伴ともな う仮説かせつ であり、結果けっか はまだ出で ていない。 Neven, Zalcman, Read, Kosik, van der Molen, Bouwmeester, Bodnia, Turin & Koch, Entropy 26, 460 (2024), doi:10.3390/e26060460
この立場たちば は、量子りょうし 力学りきがく の多た 世界せかい 解釈かいしゃく (多世界诠释 / many-worlds interpretation) に立脚りっきゃく している。世界せかい は観測かんそく のたびに一ひと つに決き まるのではなく、可能性かのうせい の分ぶん だけ枝分えだわ かれしていく——エヴェレット が1957年ねん に提出ていしゅつ した解釈かいしゃく である。
その枝分えだわ かれこそが、体験たいけん だという。
踏ふ み台だい 「解釈かいしゃく 」とは何なに を争あらそ っているのか
量子りょうし 力学りきがく には奇妙きみょう な事情じじょう がある。計算けいさん の手順てじゅん と、実験じっけん の予測よそく は、完全かんぜん に確定かくてい している。 100年ねん 間かん 、一度いちど も外はず したことがない。それなのに、「その計算けいさん は何なに を記述きじゅつ しているのか」については、専門家せんもんか のあいだで合意ごうい が無な い。
争点そうてん はいつも同おな じ一点いってん にある。波なみ として広ひろ がっていた可能性かのうせい が、測はか ると一ひと つの結果けっか になる ── あの瞬間しゅんかん に何なに が起お きているのか。
コペンハーゲン解釈かいしゃく は「波なみ が縮ちぢ む」と言い い、その仕組しく みは問と わない。多た 世界せかい 解釈かいしゃく は「波なみ は縮ちぢ まない。可能性かのうせい の数かず だけ世界せかい が枝分えだわ かれし、観測かんそく 者しゃ もそれぞれの枝えだ に一人ひとり ずついる」と言い う。ボーム解釈かいしゃく は「粒子りゅうし は常つね に決き まった位置いち を持も ち、波なみ がそれを導みちび いている」と言い う。客観的きゃっかんてき 収縮しゅうしゅく の理論りろん は「一定いってい の大おお きさを超こ えると、物理ぶつり 法則ほうそく として自然しぜん に縮ちぢ む」と言い う。
どれを取と っても実験じっけん の予測よそく は同おな じである。だから解釈かいしゃく と呼よ ばれる。そして、この章しょう の予想よそう は多た 世界せかい 解釈かいしゃく に立脚りっきゃく し、ペンローズの立場たちば は客観的きゃっかんてき 収縮しゅうしゅく の系統けいとう にある。 二人ふたり が正反対せいはんたい を向む いているのは、この土台どだい の違ちが いでもある。
帰結きけつ は明快めいかい で、そして奇妙きみょう である。抱かか えている可能性かのうせい が多おお いほど、つまり重かさ ね合あ わせが大おお きいほど、体験たいけん は豊ゆた かになる。より広ひろ い状態じょうたい 空間くうかん に広ひろ がっている系けい ほど、より豊ゆた かに感かん じている。
ペンローズは、世界せかい が一ひと つに決き まる音おと を意識いしき だと考かんが えた。ネーヴェンらは、世界せかい が枝分えだわ かれしていく音おと を意識いしき だと考かんが えた。同おな じ量子りょうし 回路かいろ の、正反対せいはんたい の瞬間しゅんかん を、二人ふたり は指差ゆびさ している。
1 確立かくりつ した物理学ぶつりがく
量子力学の解釈の見取り図 コペンハーゲン・多世界・ボーム・客観的収縮という四つの解釈を並べ、実験の予測は同じで物語だけが違うことを示した図 同じ数式に、いくつもの読み方がある 実験の予測はどれも同じ。違うのは「何が起きているか」の物語である コペンハーゲン解釈 観測すると波が一つに縮む。縮む仕組みは問わない 最も広く教えられている 多世界解釈 波は縮まない。可能性の数だけ世界が枝分かれする 第4章の予想はここに立つ ボーム解釈 粒子は常に決まった位置を持ち、波がそれを導く 決定論を保つ 客観的収縮理論 一定の大きさを超えると、物理法則として自然に縮む ペンローズの立場はこの系統 どれが正しいかは、いまのところ実験で決められない。だから「解釈」と呼ばれる。第4章の予想は 多世界解釈を前提にしている ── そのことは、予想の強さでも弱さでもなく、前提として押さえておく。 タップで拡大かくだい
図ず 34同おな じ数式すうしき に、いくつもの読よ み方かた がある。実験じっけん の予測よそく はどの解釈かいしゃく でも同おな じで、違ちが うのは「何なに が起お きているか」の物語ものがたり である。だから解釈かいしゃく と呼よ ばれる。第だい 4章よんしょう の予想よそう は多た 世界せかい 解釈かいしゃく に立脚りっきゃく しており、ペンローズの立場たちば は客観的きゃっかんてき 収縮しゅうしゅく の系統けいとう にある。二人ふたり が正反対せいはんたい を向む いているのは、この土台どだい の違ちが いでもある。量子りょうし 力学りきがく の解釈かいしゃく をめぐる標準的ひょうじゅんてき な整理せいり (教科書きょうかしょ レベル)
この予想よそう の、いちばん厄介やっかい な問と い
彼かれ ら自身じしん が、論文ろんぶん の中なか で立た ち止ど まっている箇所かしょ がある。
重かさ ね合あ わせが複数ふくすう の量子りょうし ビットにまたがっているとき、そのうちの一ひと つが測定そくてい されたら、体験たいけん はどう分配ぶんぱい されるのか。最初さいしょ に測定そくてい された量子りょうし ビットだけが体験たいけん を持も つのか。それとも、もつれ合あ っていた全体ぜんたい が持も つのか。
この問と いに、彼かれ らはまだ答こた えを持も っていない。持も っていないことを、書か いている。
間違まちが っていると証明しょうめい できる形かたち で書か かれている
仮説かせつ が価値かち を持も つのは、それが正ただ しいからではない。間違まちが っていると証明しょうめい できる形かたち をしているから である。
この論文ろんぶん の重おも みは、そこにある。彼かれ らは装置そうち の図ず を描えが いた。
3 仮説かせつ ・反証はんしょう 可能かのう
Q1—B—Q2 二つの量子ビットを生体基質でつなぎ、その基質が量子チャネルとしてもつれを媒介するかを調べる検証提案の構成図 Q1 量子ビット Q2 量子ビット 生体基質 B 候補:微小管/受容体タンパク質/単一神経細胞/脳オルガノイド B は量子チャネルとして働き、 Q1 と Q2 のあいだにもつれを媒介できるか? 脳オルガノイド:直径 2〜3 mm / 約10万ニューロン タップで拡大かくだい
図ず 35この予想よそう は、間違まちが っていると証明しょうめい できる形かたち で書か かれている。 二ふた つの量子りょうし ビットを生体せいたい 基質きしつ で結むす び、その基質きしつ が量子りょうし チャネルとして機能きのう するかを調しら べる構成こうせい が提案ていあん されている。基質きしつ の候補こうほ として微小管びしょうかん 、受容体じゅようたい タンパク質しつ 、単一たんいつ 神経細胞しんけいさいぼう 、脳のう オルガノイドが挙あ げられている。並行へいこう して、直径ちょっけい 2〜3ミリメートル・約やく 10万じゅうまん 個こ のニューロンを含ふく む脳のう オルガノイドを「麻酔ますい にかける」実験じっけん も計画けいかく されている。約やく 10年じゅうねん の計画けいかく であり、結果けっか はまだ報告ほうこく されていない。同上どうじょう (Neven et al., Entropy 26, 460 (2024))
二ふた つの量子りょうし ビットを用意ようい する。そのあいだを、生物せいぶつ 由来ゆらい の物質ぶっしつ でつなぐ。そして問と う——この生体せいたい 物質ぶっしつ は、量子りょうし 的てき な通とお り道みち として働はたら き、二ふた つの量子りょうし ビットのあいだにもつれを媒介ばいかい できるか。
つなぐ物質ぶっしつ の候補こうほ として挙あ げられているのは、微小管びしょうかん 、ロドプシンのような受容体じゅようたい タンパク質しつ 、単一たんいつ の神経細胞しんけいさいぼう 、そして脳のう オルガノイド(脑类器官 / brain organoid) である。
踏ふ み台だい 脳のう オルガノイドとは何なに か。そして、なぜ落お ち着つ かない話はなし なのか
ヒトの皮膚ひふ の細胞さいぼう などを初期化しょきか して、あらゆる細胞さいぼう になれる状態じょうたい に戻もど したものを iPS 細胞さいぼう という。これを特定とくてい の条件じょうけん で培養ばいよう すると、細胞さいぼう は自分じぶん で組織化そしきか を始はじ め、脳のう に似に た構造こうぞう の塊かたまり を作つく る。これが脳のう オルガノイドである。
直径ちょっけい は二に 〜三さん ミリメートル。神経細胞しんけいさいぼう は10万じゅうまん 個こ ほど。大脳皮質だいのうひしつ に似に た層そう 構造こうぞう ができることもあり、同期どうき した電気でんき 活動かつどう ── 未熟みじゅく な脳波のうは に似に たパターン ── を示しめ すことが報告ほうこく されている。
ここで多おお くの人ひと が落お ち着つ かなくなる。それは何なに かを感かん じているのか。
現在げんざい の一般的いっぱんてき な見解けんかい は「まず、していない」である。感覚かんかく 入力にゅうりょく が無な く、体からだ が無な く、意識いしき に関かか わるとされる大規模だいきぼ なネットワーク構造こうぞう も無な い。しかしこの見解けんかい は「無な いと証明しょうめい された」ものではなく、「そう考かんが える理由りゆう がある」という段階だんかい にとどまる。実際じっさい 、研究けんきゅう 倫理りんり の側がわ ではすでに真剣しんけん な議論ぎろん が始はじ まっている。
第だい 4章よんしょう の計画けいかく が「オルガノイドを麻酔ますい にかける」というとき、その実験じっけん は二に 重じゅう の意味いみ を持も つことになる。量子りょうし 仮説かせつ の検証けんしょう であると同時どうじ に、「意識いしき があるかどうか分わ からないもの」を実験じっけん 対象たいしょう にすることの是非ぜひ という問と いを、正面しょうめん から引ひ き受う けることになる。
脳のう オルガノイドとは、ヒトの人工じんこう 多能たのう 性せい 幹細胞かんさいぼう から育そだ てた、脳のう の組織そしき の塊かたまり である。直径ちょっけい にして2〜3ミリメートル。中なか には10万じゅうまん 個こ ほどの神経細胞しんけいさいぼう があり、構造化こうぞうか された、でたらめではない電気でんき 活動かつどう を示しめ す。活動かつどう 電位でんい も出で る。
彼かれ らはこれを「麻酔ますい にかける」計画けいかく を立た てている。前章ぜんしょう で見み たキセノン同位体どういたい の実験じっけん を、今度こんど は統計的とうけいてき な信頼性しんらいせい を確保かくほ できる形かたち でやり直なお す、という趣旨しゅし である。
ちょっと待ま ってほしい
これは検証けんしょう 提案ていあん であって、検証けんしょう 結果けっか ではない。およそ10年じゅうねん の計画けいかく として語かた られており、現時点げんじてん で結論けつろん は報告ほうこく されていない。この章しょう に書か かれているのは、実験じっけん の設計図せっけいず であって、実験じっけん の答こた えではない。
もし、この予想よそう が正ただ しかったら
彼かれ らの構想こうそう には、さらに先さき がある。
もし重かさ ね合あ わせの大おお きさが体験たいけん の豊ゆた かさに対応たいおう するのなら、人間にんげん の脳のう を外部がいぶ の量子りょうし プロセッサと干渉性かんしょうせい を保たも ったまま結合けつごう させることで、結合けつごう 系けい はより大おお きな状態じょうたい 空間くうかん に広ひろ がることになる。すなわち——体験たいけん を拡張かくちょう できる。
論文ろんぶん には、その構想こうそう 図ず が載の っている。
突飛とっぴ に聞き こえるかもしれない。ただ、この構想こうそう が突飛とっぴ であることと、この予想よそう が検証けんしょう 可能かのう であることは、別べつ の話はなし である。彼かれ らが提案ていあん しているのは、脳のう と機械きかい の接続せつぞく ではない。まず、10万じゅうまん 個こ の神経細胞しんけいさいぼう の塊かたまり が、二ふた つの量子りょうし ビットのあいだに何なに かを媒介ばいかい するかどうかを見み る、という地味じみ な実験じっけん である。
そこで何なに も起お きなければ、この予想よそう は死し ぬ。彼かれ らはその形かたち で書か いた。
実験じっけん の解剖かいぼう ── 生体せいたい 物質ぶっしつ は、量子りょうし チャネルになれるか(2024年ねん ・提案ていあん )
何なに を知し りたかったか「量子りょうし 過程かてい が意識いしき 体験たいけん を生う む」という予想よそう を、どうすれば間違まちが っていると証明しょうめい できるか。その手順てじゅん そのものを設計せっけい する。
どうやったか 結果けっか ではなく設計図せっけいず である。二ふた つの量子りょうし ビット Q1・Q2 を用意ようい し、そのあいだを生体せいたい 由来ゆらい の物質ぶっしつ B でつなぐ。そして、B を介かい して Q1 と Q2 のあいだにもつれが媒介ばいかい されるかを測はか る。B の候補こうほ は微小管びしょうかん 、受容体じゅようたい タンパク質しつ 、単一たんいつ 神経細胞しんけいさいぼう 、脳のう オルガノイド。並行へいこう して、脳のう オルガノイドを麻酔ますい にかける実験じっけん も計画けいかく されている。
何なに が出で たかまだ何なに も出で ていない。 約やく 10年じゅうねん の計画けいかく として語かた られている。
ここまでは言い える この予想よそう が反証はんしょう 可能かのう な形かたち をしていること。「B を通とお してもつれが媒介ばいかい されない」という結果けっか が出で れば、予想よそう の根幹こんかん が崩くず れる ── そういう形かたち で書か かれているという事実じじつ そのものが、この論文ろんぶん の値打ねう ちである。
ここからは言い えない 予想よそう が正ただ しいということ。そして仮かり に媒介ばいかい が確認かくにん されても、それは「生体せいたい 物質ぶっしつ が量子りょうし チャネルになれる」ことを示しめ すだけで、「それが体験たいけん である」ことは示しめ さない。この距離きょり は、第だい 5章ごしょう で扱あつか う。
この章しょう が答こた えていないこと
重かさ ね合あ わせが体験たいけん だとすると、量子りょうし コンピュータのチップは何なに かを感かん じていることになる。それは受う け入い れられる帰結きけつ だろうか。
10万じゅうまん 個こ の神経細胞しんけいさいぼう の塊かたまり を「麻酔ますい にかける」実験じっけん で何なに かが起お きたとして、それは意識いしき の証拠しょうこ になるのだろうか。そもそもオルガノイドに意識いしき はあるのか。
ここで、いったん物理ぶつり から離はな れる。
なぜなら、これまで積つ み上あ げてきたものが、ある一点いってん で必かなら ず壁かべ に突つ き当あ たるからだ。その壁かべ には名前なまえ がついている。1995年ねん 、デイヴィッド・チャーマーズ(大卫·查尔默斯 / David Chalmers) という哲学者てつがくしゃ が付つ けた名前なまえ である。
踏ふ み台だい クオリアという語ご
この章しょう で扱あつか われている「体験たいけん 」「感かん じ」を、哲学てつがく ではクオリア と呼よ ぶ。
定義ていぎ しようとすると難むずか しいが、指さ し示しめ すのは易やさ しい。熟じゅく したトマトを見み たときの、あの赤あか さそのもの。歯は が痛いた むときの、あの痛いた さそのもの。コーヒーの匂にお いの、あの匂にお いそのもの。それがどんなふうであるか という、その「ふう」がクオリアである。
ここで一ひと つ、区別くべつ を入い れておくと見通みとお しがよくなる。哲学者てつがくしゃ ネド・ブロックは、意識いしき を二ふた つに分わ けた。アクセス意識いしき ── 情報じょうほう が利用りよう でき、報告ほうこく でき、行動こうどう を導みちび ける状態じょうたい 。そして現象げんしょう 意識いしき ── それがどんなふうに感かん じられるか。
前者ぜんしゃ は測はか れる。報告ほうこく させればよい。後者こうしゃ は、報告ほうこく を通とお してしか外そと から確たし かめられない。そして報告ほうこく する仕組しく みそのものは、前者ぜんしゃ に属ぞく する。この非対称ひたいしょう が、この章しょう のすべての難むずか しさの源みなもと である。
「易やさ しい問題もんだい 」は、易やさ しくない
チャーマーズは、意識いしき をめぐる問と いを二ふた つの群ぐん に分わ けた。
一方いっぽう をイージープロブレム(易问题 / easy problems) と呼よ ぶ。認知にんち 科学かがく の標準的ひょうじゅんてき な手法しゅほう が、そのまま通用つうよう しそうな問題もんだい 群ぐん である。計算けいさん のしくみ、あるいは神経しんけい のしくみによって説明せつめい できる見込みこ みが立た っている問と い。たとえば——
脳のう はどうやって刺激しげき を見分みわ けるのか。どうやって複数ふくすう の感覚かんかく を一ひと つに統合とうごう するのか。どうやって注意ちゅうい を向む ける先さき を選えら ぶのか。どうやって自分じぶん の内部ないぶ 状態じょうたい を報告ほうこく するのか。どうやって覚醒かくせい と睡眠すいみん を切き り替か えるのか。
「易やさ しい」という語ご に、油断ゆだん してはいけない。これらはどれも、途方とほう もなく難むずか しい。何十なんじゅう 年ねん も研究けんきゅう されて、まだ解と けていないものばかりである。
それでも「易やさ しい」と呼よ ばれるのは、解と き方かた が分わ かっているから だ。仕組しく みを特定とくてい し、経路けいろ を追お い、モデルを立た てて検証けんしょう する。時間じかん と資源しげん をかければ、いつか届とど く。そういう種類しゅるい の難むずか しさである。
それでも残のこ る一ひと つ
仮かり に、これらがすべて解と けたとしよう。
脳のう が刺激しげき をどう識別しきべつ し、情報じょうほう をどう統合とうごう し、注意ちゅうい をどう向む け、状態じょうたい をどう報告ほうこく するか。そのすべてが、細胞さいぼう レベル、分子ぶんし レベルで完全かんぜん に記述きじゅつ された未来みらい を想像そうぞう してほしい。序章じょしょう で置お いた仮定かてい である。
そのとき、一ひと つだけ答こた えの出で ていない問と いが残のこ る。
なぜ、その情報処理じょうほうしょり には「感かん じ」が伴ともな うのか。
— 構造こうぞう
説明のギャップ 説明のめどが立っている問題群の広い台地と、体験の問いだけが立つ細い孤峰のあいだに、底の見えない断崖があることを示した概念図 イージープロブレム 刺激を識別する 情報を統合する 注意を向ける 自分の状態を報告する 覚醒と睡眠を切り替える どれも極めて難しい。 だが、解き方は分かっている 説明のギャップ (解释鸿沟 / explanatory gap) 渡す橋は、まだ無い ハードプロブレム なぜ、それが 「感じられる」のか なぜ、この情報処理は 暗闇の中で行われないのか 機能はすべて説明できた。体験だけが残った。 タップで拡大かくだい
図ず 36心拍しんぱく は説明せつめい できた。痛いた みが痛いた いことだけが、残のこ った。1995年ねん 、デイヴィッド・チャーマーズは意識いしき の問題もんだい を二ふた つに分わ けた。認知にんち 科学かがく の標準的ひょうじゅんてき な手法しゅほう で、計算けいさん 的てき あるいは神経的しんけいてき なメカニズムによって説明せつめい できそうな問題もんだい 群ぐん と、それらの手法しゅほう では歯は が立た たない問題もんだい である。前者ぜんしゃ をすべて解と いた後あと にも、なぜその機能きのう の遂行すいこう に体験たいけん が伴ともな うのかという問と いが残のこ る。この隔へだ たりは「説明せつめい のギャップ」と呼よ ばれる。 Chalmers, "Facing Up to the Problem of Consciousness", Journal of Consciousness Studies 2(3), 200–219 (1995)
これがハードプロブレム(难问题 / hard problem) である。
踏ふ み台だい 三みっ つの思考しこう 実験じっけん ── 壁かべ の形かたち を確たし かめる道具どうぐ
ハードプロブレムがなぜ「難むずか しい」と言い えるのか。それを確たし かめるために、哲学てつがく は三みっ つの道具どうぐ を用意ようい してきた。どれも実験室じっけんしつ では試ため せないが、論点ろんてん を鋭するど く切き り出だ す。
哲学的てつがくてき ゾンビ。 あなたと分子ぶんし レベルまで同一どういつ で、同おな じように振ふ る舞ま い、「痛いた い」とも言い うが、内側うちがわ には何なに の体験たいけん も無な い存在そんざい 。これを想像そうぞう できてしまうなら、物理的ぶつりてき な事実じじつ をすべて揃そろ えても体験たいけん は決き まらないことになる。── 反論はんろん は「そんなものは実じつ は想像そうぞう できていない」である。
逆転ぎゃくてん クオリア。 あなたが赤あか を見み るときの体験たいけん と、私わたし が赤あか を見み るときの体験たいけん が入い れ替か わっているとする。呼よ び方かた も反応はんのう もすべて同おな じなので、外そと からは永久えいきゅう に区別くべつ がつかない。── これが本当ほんとう に可能かのう なら、体験たいけん は機能きのう から独立どくりつ していることになる。
メアリーの部屋へや 。 白黒しろくろ の部屋へや で育そだ った科学者かがくしゃ メアリーは、色覚しきかく について物理的ぶつりてき に知し りうることをすべて知し っている。波長はちょう も、網膜もうまく の反応はんのう も、脳のう の処理しょり も。ある日ひ 、彼女かのじょ は外そと へ出で て、はじめて赤あか いトマトを見み る。彼女かのじょ は何なに か新あたら しいことを知し ったか。 ── 「知し った」と答こた えるなら、物理的ぶつりてき 事実じじつ だけでは足た りない。
どれも決着けっちゃく していない。ただし、これらが示しめ しているものははっきりしている ── 機能きのう の記述きじゅつ をどれだけ積つ み上あ げても、体験たいけん そのものは記述きじゅつ の中なか に現あらわ れてこない、という構造こうぞう である。
チャーマーズは、こう問と いかけた。なぜ、この情報処理じょうほうしょり はすべて「暗闇くらやみ の中なか で」行おこな われないのか。
3 仮説かせつ ・反証はんしょう 可能かのう
メアリーの部屋 色覚の物理的事実をすべて知っているが色を見たことのない研究者が初めて赤を見るとき何か新しいことを知るのか、という思考実験の図 知識をすべて持っていても、まだ知らないことがあるか 白と黒しかない部屋 ? メアリーは色覚のすべてを知っている 波長・網膜・神経・脳の反応 ── 物理的事実の全部 ただし、赤を見たことは一度もない 外へ はじめて赤いトマトを見る メアリーは何か新しいことを知ったか? 「知った」と答えるなら、物理では足りない この思考実験(フランク・ジャクソン, 1982)は、ハードプロブレムを一枚の絵にしたものである。 反論も強い ── 「知る」には事実を知ることと、できるようになることの2種があり、 メアリーが得たのは後者にすぎない、という応答がある。決着はついていない。 ただし論点ははっきりしている。機能の記述をどれだけ積んでも、 体験そのものは記述の中に現れない。 タップで拡大かくだい
図ず 37物理的ぶつりてき 事実じじつ をすべて知し っても、まだ知し らないことがあるか。色覚しきかく について物理的ぶつりてき に知し りうることをすべて知し っているが、色いろ を見み たことのない研究者けんきゅうしゃ が、はじめて赤あか を見み る。彼女かのじょ は何なに か新あたら しいことを知し ったか。「知し った」と答こた えるなら、物理的ぶつりてき 事実じじつ だけでは足た りないことになる。有力ゆうりょく な反論はんろん もあり、決着けっちゃく はついていない。Frank Jackson, "Epiphenomenal Qualia", Philosophical Quarterly 32, 127–136 (1982)
機能きのう だけを見み るなら、暗闇くらやみ のままで十分じゅうぶん なはずである。刺激しげき を識別しきべつ し、適切てきせつ に反応はんのう し、状態じょうたい を報告ほうこく する装置そうち は、内側うちがわ に何なに の感かん じも持も たなくても、原理げんり 的てき には作つく れる。実際じっさい 、私わたし たちはそういう装置そうち を毎日まいにち たくさん作つく っている。
それなのに、あなたが指ゆび を切き ったとき、そこには痛いた みがある。単たん に「損傷そんしょう 信号しんごう を検出けんしゅつ し、回避かいひ 行動こうどう を選択せんたく した」という記述きじゅつ では取と り逃に がされてしまう何なに かが、確たし かにある。
機能きのう の記述きじゅつ と、体験たいけん のあいだには、隔へだ たりがある。この隔へだ たりは説明せつめい のギャップ(解释鸿沟 / explanatory gap) と呼よ ばれる。呼よ び名な そのものは、ジョゼフ・レヴィン が1983年ねん に用もち いたものである。
心臓しんぞう がなぜ拍動はくどう するかは、説明せつめい できた。呼吸こきゅう も、消化しょうか も、免疫めんえき も、遺伝いでん も。生物学せいぶつがく は、機能きのう の説明せつめい において、驚おどろ くべき成功せいこう を収おさ めてきた。
痛いた みが痛いた いことだけが、まだ説明せつめい できていない。
踏ふ み台だい いま真剣しんけん に検討けんとう されている、意識いしき の理論りろん
「意識いしき の科学かがく など無な い」と思おも われがちだが、そんなことはない。検証けんしょう 可能かのう な予測よそく を出だ し、実験じっけん で殴なぐ り合あ っている理論りろん が複数ふくすう ある。主おも なものを四よっ つだけ、名前なまえ と中身なかみ を渡わた しておく。
統合とうごう 情報じょうほう 理論りろん (IIT)。意識いしき とは、系けい が持も つ情報じょうほう の「分わ けられなさ」だとする。ばらばらに切き り分わ けたとき失うしな われる情報じょうほう の量りょう を Φ(ファイ)という指標しひょう で定義ていぎ し、これが大おお きいほど意識いしき が豊ゆた かだと考かんが える。大脳皮質だいのうひしつ の後方こうほう 領域りょういき を意識いしき の中心ちゅうしん と予測よそく する。
大域たいいき 作業さぎょう 空間くうかん 理論りろん (GNWT)。脳のう の中なか の情報処理じょうほうしょり はふだん局所きょくしょ 的てき だが、ある閾値しきいち を超こ えると情報じょうほう が脳のう 全体ぜんたい へ「放送ほうそう 」される。その放送ほうそう が起お きたとき、それが意識いしき される、とする。前頭ぜんとう 前野まえの と頭頂葉とうちょうよう の役割やくわり を重おも く見み る。
高階こうかい 表象ひょうしょう 理論りろん (HOT)。 「見み ている」だけでは足た りず、「自分じぶん がいま見み ている」という一段いちだん 上じょう の表象ひょうしょう が伴ともな ってはじめてそれが意識いしき になる、とする。
予測よそく 処理しょり 。脳のう は絶た えず次つぎ に来く る入力にゅうりょく を予測よそく し、予測よそく とのずれだけを上うえ へ送おく っている。知覚ちかく とは、この予測よそく そのものである、とする。幻覚げんかく や妄想もうそう を、予測よそく の重おも みづけの異常いじょう として統一とういつ 的てき に扱あつか える点てん が強つよ い。
2025年ねん には、統合とうごう 情報じょうほう 理論りろん と大域たいいき 作業さぎょう 空間くうかん 理論りろん の予測よそく を事前じぜん 登録とうろく した上うえ で直接ちょくせつ ぶつける大規模だいきぼ な共同研究きょうどうけんきゅう の結果けっか が発表はっぴょう された。どちらの理論りろん も一部いちぶ の予測よそく を外はず した ── つまり、この分野ぶんや は決着けっちゃく していないが、決着けっちゃく をつけようとしている。
ただし、注意ちゅうい しておく。これら四よっ つはいずれも、イージープロブレムの側がわ で戦たたか っている 。どれも「なぜそれに体験たいけん が伴ともな うのか」には答こた えていない。
量子りょうし 力学りきがく は、この壁かべ を越こ えるのか
ここが、この文章ぶんしょう でいちばん正直しょうじき に書か かなければならない箇所かしょ である。
これまでの章しょう で、私わたし たちは真空しんくう のゆらぎを測はか り、それが物質ぶっしつ を変か えることを見み て、脳のう の中なか にも量子りょうし 的てき な現象げんしょう がありうるという計算けいさん を見み て、重かさ ね合あ わせこそが体験たいけん だという予想よそう を見み てきた。
それらは、ハードプロブレムを解と くだろうか。
解と かない。
— 構造こうぞう
壁は動かない 説明の層を入れ子に増やしても、その外側には同じ問いが4度繰り返し現れることを示した概念図 ゼロポイントフィールドで説明する 量子的重ね合わせで説明する 情報統合で説明する 神経発火で説明する では、なぜ それには体験が伴うのか? では、なぜ それには体験が伴うのか? では、なぜ それには体験が伴うのか? では、なぜ それには体験が伴うのか? 壁の位置は、変わらない 説明の層を増やしても、最後の問いは形を変えずに残る タップで拡大かくだい
図ず 38説明せつめい の層そう を増ふ やしても、最後さいご の問と いは形かたち を変か えずに残のこ る。量子りょうし 的てき な機構きこう を持も ち出だ しても、「なぜ量子りょうし 過程かてい には体験たいけん が伴ともな うのか」という同おな じ問と いが再帰さいき する。この構造こうぞう ゆえに、ネーヴェンらは自みずか らの主張しゅちょう を理論りろん ではなく「予想よそう 」と呼よ んでいる。本ほん 頁ページ で扱あつか ってきた物理学ぶつりがく は、ハードプロブレムを解と いてはいない。ただ、壁かべ がどこにあるかを、以前いぜん より鮮明せんめい にしている。Chalmers (1995) のハードプロブレムの定義ていぎ から導みちび かれる論証ろんしょう の図示ずし 。特定とくてい の論文ろんぶん の図ず に基もと づくものではない
仮かり に、ネーヴェンらの予想よそう が実験じっけん で支持しじ されたとしよう。重かさ ね合あ わせが形成けいせい されるたびに体験たいけん が生しょう じている、という対応たいおう 関係かんけい が、統計的とうけいてき に確たし かめられたとする。
そのとき、同おな じ問と いが、そのままの形かたち で戻もど ってくる。
——では、なぜ重かさ ね合あ わせの形成けいせい には体験たいけん が伴ともな うのか。
神経しんけい 発火はっか で説明せつめい しようとしたときと、まったく同おな じ構造こうぞう である。説明せつめい の層そう を一ひと つ深ふか くしても、最後さいご の問と いは形かたち を変か えずに残のこ る。量子りょうし 力学りきがく は物理ぶつり の言葉ことば であり、物理ぶつり の言葉ことば は機能きのう と構造こうぞう を記述きじゅつ する。ハードプロブレムは、機能きのう と構造こうぞう をすべて記述きじゅつ し終お えた後あと に残のこ るものとして定義ていぎ されている。定義上ていぎじょう 、越こ えられない。
ネーヴェンらは、このことを知し っている。だから彼かれ らは、自分じぶん たちの主張しゅちょう を理論りろん とは呼よ ばず、予想よそう と呼よ んでいる。対応たいおう 関係かんけい を見み つけることと、その対応たいおう 関係かんけい を説明せつめい することは、別べつ だからである。
3 仮説かせつ ・反証はんしょう 可能かのう
意識の理論の地図 統合情報理論・大域作業空間理論・高階表象理論・予測処理という四つの主要な理論を4枚のカードで並べた図 いま真剣に検討されている、意識の理論の見取り図 統合情報理論(IIT) 情報がどれだけ分けられない形で まとまっているかが意識の量 Φ という指標を定義する 脳の後方が中心だと予測 大域作業空間理論(GNWT) 情報が脳全体へ「放送」された とき、それが意識される 前頭前野と頭頂葉が中心 注意と報告の説明に強い 高階表象理論(HOT) 「自分がいま見ている」という 一段上の表象が伴ったとき、 それが意識になる 前頭前野を重く見る 予測処理 脳は絶えず次を予測し、 ずれだけを上へ送る。 体験とはその予測の中身である 知覚・幻覚・妄想を一つの枠で扱う タップで拡大かくだい
図ず 39意識いしき には、真剣しんけん に検討けんとう されている理論りろん が複数ふくすう ある。統合とうごう 情報じょうほう 理論りろん は情報じょうほう の分わ けられなさを、大域たいいき 作業さぎょう 空間くうかん 理論りろん は脳のう 全体ぜんたい への放送ほうそう を、高階こうかい 表象ひょうしょう 理論りろん は一段いちだん 上じょう の表象ひょうしょう を、予測よそく 処理しょり は予測よそく とのずれを中心ちゅうしん に置お く。どれもイージープロブレムの側がわ で成果せいか を挙あ げつつあるが、なぜそれに体験たいけん が伴ともな うのかには答こた えていない。Tononi (2004); Dehaene & Changeux (2011); Lau & Rosenthal (2011); Friston (2010)。理論間りろんかん の直接ちょくせつ 対決たいけつ として Cogitate Consortium, Nature 642 (2025)
それでも問と う価値かち がある理由りゆう
では、これまでの章しょう は無駄むだ だったのだろうか。
そうではない、と考かんが える理由りゆう が二ふた つある。
一ひと つ。壁かべ を越こ えられなくても、壁かべ の位置いち は変か わる 。どこまでが物理ぶつり で語かた れて、どこから語かた れなくなるのか。その境界線きょうかいせん が精密せいみつ になっていくこと自体じたい が、進歩しんぽ である。かつて「生命せいめい とは何なに か」は同おな じように神秘的しんぴてき な問と いだった。生気論せいきろん が退しりぞ いた後あと 、問と いは消き えたのではなく、答こた えられる形かたち に変か わった。
二ふた つ。チャーマーズ自身じしん が、悲観論者ひかんろんしゃ ではない。彼かれ は、この問題もんだい が永久えいきゅう に解と けないままだと信しん じる理由りゆう はない、と書か いている。難むずか しい問題もんだい は難むずか しい問題もんだい である、ただそれだけのことだ、と。
壁かべ があることを認みと めることと、壁かべ の前まえ で立た ち去さ ることは、違ちが う。
臨床りんしょう の窓まど 壊こわ れ方ほう を見み ると、意識いしき が一枚岩いちまいいわ でないことが分わ かる
哲学てつがく の議論ぎろん は抽象的ちゅうしょうてき に聞き こえるが、臨床りんしょう の現場げんば では、その論点ろんてん が症例しょうれい として目め の前まえ に現あらわ れる。
盲もう 視し 。視覚野しかくや を損傷そんしょう した患者かんじゃ が「何なに も見み えない」と言い う。それなのに、「左右さゆう どちらに光ひかり があるか、当あ てずっぽうでいいから答こた えて」と促うなが すと、偶然ぐうぜん を大おお きく超こ える正答せいとう 率りつ で当あ てる。情報じょうほう は届とど いている。届とど いていないのは、見み えるという体験たいけん だけ である。
半側はんそく 空間くうかん 無視むし 。右みぎ の頭頂葉とうちょうよう を損傷そんしょう すると、左側ひだりがわ を無視むし するようになる。皿さら の左ひだり 半分はんぶん を食た べ残のこ し、顔かお の左ひだり 半分はんぶん だけ髭ひげ を剃そ る。重要じゅうよう なのは、患者かんじゃ が「左ひだり が見み えない」と訴うった えないことである。左ひだり という場所ばしょ そのものが、世界せかい から消き えている ので、欠か けていることに気き づけない。
アントン症候群しょうこうぐん 。 皮質ひしつ 性せい の失明しつめい があるのに、本人ほんにん は見み えていると言い い張は る。部屋へや の様子ようす を尋たず ねると、あり合あ わせの内容ないよう を答こた える。見み る機能きのう が壊こわ れると同時どうじ に、見み えていないことを検出けんしゅつ する機能きのう まで壊こわ れている 。
離人症りじんしょう 。知覚ちかく も思考しこう も保たも たれているのに、それが自分じぶん のものに感かん じられない。「自分じぶん がガラス越ご しに世界せかい を見み ているようだ」「自分じぶん の手て が自分じぶん の手て に思おも えない」と訴うった える。体験たいけん の持も ち主ぬし という感覚かんかく だけが外はず れる状態じょうたい である。
これらが示しめ しているのは一ひと つのことである。意識いしき は「ある/ない」の単一たんいつ のスイッチではない。気き づき・注意ちゅうい ・自己じこ 感かん ・報告ほうこく する力ちから は、別々べつべつ に壊こわ れる。この事実じじつ は、意識いしき を一ひと つのものとして説明せつめい しようとする理論りろん すべてに宿題しゅくだい を出だ している。
2 最前線さいぜんせん ・査読さどく 済ずみ
壊れ方から見える意識の部品 盲視・半側空間無視・アントン症候群・離人症・閉じ込め症候群を並べ、意識が別々に壊れる複数の部品からなることを示した図 壊れ方を見ると、意識が一枚岩でないことが分かる 盲視 見えていないと言う。それでも当てられる 見えるという体験だけが抜け落ちる 半側空間無視 左half が無いのではなく、左が「在ることを忘れる」 注意の場が片側だけ畳まれる アントン症候群 見えていないのに、見えていると言い張る 見えていないことに気づく仕組みが壊れる 離人症 自分の体験が、自分のものに感じられない 体験の持ち主という感覚だけが外れる 閉じ込め症候群 意識はある。動けるのは眼だけ 外から見た反応と、内側の体験がずれる 意識は「ある/ない」の一つのスイッチではない。気づき・注意・自己感・報告する力は、別々に壊れる。 この事実は、意識をひとかたまりとして説明しようとする理論すべてに宿題を出している。 タップで拡大かくだい
図ず 40意識いしき は、ばらばらに壊こわ れる。見み えていないと言い いながら当あ てられる盲もう 視し 。左ひだり が在あ ることを忘わす れる半側はんそく 空間くうかん 無視むし 。見み えていないのに見み えていると言い い張は るアントン症候群しょうこうぐん 。自分じぶん の体験たいけん が自分じぶん のものに感かん じられない離人症りじんしょう 。気き づき・注意ちゅうい ・自己じこ 感かん ・報告ほうこく する力ちから は、別々べつべつ に壊こわ れる。Weiskrantz (1986); Heilman & Valenstein (1979); Anton (1899); Sierra & Berrios (1998) ほか、標準的ひょうじゅんてき な神経学しんけいがく ・精神せいしん 医学いがく の知見ちけん
この章しょう が答こた えていないこと
もし量子りょうし 過程かてい に体験たいけん が伴ともな うのだとして、なぜ伴ともな うのか。この「なぜ」は、どんな実験じっけん でも答こた えられないのではないか。
それとも、この問と いの立た て方ほう そのものが、どこか間違まちが っているのだろうか。
第だい 四部しぶ 疑うたが いの作法さほう と、その先さき
全ぜん 11 章しょう のうち 8 章しょう 目め
Ⅵ 第だい 6章ろくしょう
1898年ねん 、ジェイムズはプリズムの話はなし をした
脳のう は意識いしき を作つく っているのか、受う け取と っているのか。プリズムの話はなし から始はじ まる。
進行インジケータ この章が扱う確実さの段を示す帯 TIER 1 確立 TIER 2 最前線 TIER 3 仮説 TIER 4 逸話
この章しょう の道みち すじ
脳のう が意識いしき を作つく っているのではなく、受う け取と っているのかもしれない――この考かんが えは、最近さいきん のものではない。
120年ねん 以上いじょう 前まえ 、ある心理しんり 学者がくしゃ がハーヴァードの講堂こうどう で、プリズムの話はなし をした。
プリズムは、色いろ を作つく らない
ウィリアム・ジェイムズ(威廉·詹姆斯 / William James) は、アメリカ心理学しんりがく の父ちち と呼よ ばれる人物じんぶつ である。1898年ねん 、彼かれ はインガソル講義こうぎ という場ば で「人間にんげん の不死ふし 」と題だい した講演こうえん を行おこな った。
そこで彼かれ が提出ていしゅつ したのは、単純たんじゅん だが厄介やっかい な指摘してき だった。
思考しこう は脳のう の機能きのう である――この言明げんめい を私わたし たちは疑うたが わない。だが「機能きのう 」という語ご には、複数ふくすう の意味いみ がありうる。工場こうじょう が製品せいひん を生う み出だ すような生産的せいさんてき な機能きのう もあれば、何なに かを通とお し、選えら び、形かたち づくる透過とうか 的てき な機能きのう もある。私わたし たちは前者ぜんしゃ だけを考かんが える義務ぎむ を負お っていない、とジェイムズは言い った。
彼かれ が持も ち出だ した比喩ひゆ が、プリズムである。
3 仮説かせつ ・反証はんしょう 可能かのう
プリズム プリズムを壊せば色は消えるが、色はプリズムが作ったのではない。脳の損傷と意識の関係も、生産説と透過説のどちらとも等しく整合することを示した概念図。透過説の弱点も併記する 白色光 プリズムは、色を作ったのか? 壊せば、色は消える。だが、色はプリズムが作ったのではない 脳を壊す → 意識が損なわれる この観測は、次の二つと 等しく整合する A. 脳が意識を作っている B. 脳が意識を透過させている ただし、これは透過説の 弱点でもある。二つを区別する 観測が示せない限り、 透過説は反証もできない。 タップで拡大かくだい
図ず 41ラジオを壊こわ せば音楽おんがく は止と まる。だが、ラジオが作曲さっきょく したわけではない。 ジェイムズが1898年ねん に指摘してき したのは、データが足た りないということではなかった。同おな じデータが二ふた つの正反対せいはんたい の説明せつめい と等ひと しく整合せいごう する、ということである。ただしこれは透過とうか 説せつ にとって強つよ みであると同時どうじ に、最大さいだい の弱点じゃくてん でもある。何なに でも説明せつめい できる説明せつめい は、科学的かがくてき には弱よわ い。 William James, "Human Immortality: Two Supposed Objections to the Doctrine"(インガソル講義こうぎ , 1898)のプリズムの比喩ひゆ に基もと づく
白色光はくしょくこう がプリズムを通とお ると、七色なないろ に分わ かれる。プリズムを壊こわ せば、色いろ は現あらわ れなくなる。では、プリズムが色いろ を作つく っていたのだろうか。作つく ってはいない。色いろ はもともと白色光はくしょくこう の中なか にあり、プリズムはそれを分わ けて見み せただけである。
この見方みかた を透過とうか 説せつ (传递理论 / transmission theory) という。
ラジオを壊こわ しても、放送ほうそう は止と まらない
ジェイムズの指摘してき の本当ほんとう の切き れ味あじ は、比喩ひゆ そのものではなく、その論理ろんり 構造こうぞう にある。
脳のう を損傷そんしょう すると、意識いしき が損そこ なわれる。これは疑うたが いようのない観測かんそく 事実じじつ である。前頭葉ぜんとうよう を傷きず つければ人格じんかく が変か わる。視覚野しかくや を失うしな えば見み えなくなる。麻酔ますい をかければ意識いしき が消き える。
この観測かんそく は、脳のう が意識いしき を生産せいさん していることの証拠しょうこ だと、ふつうは考かんが えられている。
だが、同おな じ観測かんそく は、脳のう が意識いしき を透過とうか させていることとも、まったく等ひと しく整合せいごう する。ラジオを壊こわ せば音楽おんがく は止と まる。壊こわ れ方ほう に応おう じて、特定とくてい の周波数しゅうはすう だけが受信じゅしん できなくなることもある。それでも、ラジオが交響曲こうきょうきょく を作曲さっきょく したわけではない。
ジェイムズが指摘してき したのは、データが足た りないということではなかった。同おな じデータが、二ふた つの正反対せいはんたい の説明せつめい と、等ひと しく整合せいごう するということだった。
減へ らす脳のう
似に た結論けつろん に、別べつ の道みち から到達とうたつ した人ひと がいる。
アンリ・ベルクソン(亨利·柏格森 / Henri Bergson) は、1896年ねん の『物質ぶっしつ と記憶きおく 』で、脳のう を「生せい への注意ちゅうい の器官きかん 」と呼よ んだ。脳のう の主しゅ たる働はたら きは、生う み出だ すことではなく削そ ぎ落お とすこと だという。意識いしき の広大こうだい な場ば から、いま生い き延の びるために必要ひつよう なものだけを選えら び出だ す。記憶きおく は脳のう に貯蔵ちょぞう されているのではなく、脳のう は行動こうどう に関係かんけい する記憶きおく だけを選えら んで呼よ び出だ しているのだ、と。
半はん 世紀せいき 後ご 、オルダス・ハクスリー(阿道司·赫胥黎 / Aldous Huxley) がこの考かんが えを引ひ き継つ いだ。1954年ねん の『知覚ちかく の扉とびら 』で、彼かれ は脳のう と神経系しんけいけい を減量げんりょう 弁べん (减压阀 / reducing valve) と呼よ んだ。生物せいぶつ として生い き延の びるために、大おお いなる心こころ は、この弁べん を通とお して絞しぼ り込こ まれる。世界せかい のすべてを一度いちど に感かん じてしまえば、生物せいぶつ は行動こうどう できない。だから脳のう は、閉と じる装置そうち なのだ、と。
3 仮説かせつ ・反証はんしょう 可能かのう
受信機仮説の系譜 脳が意識を透過させているという考えの系譜を年表で示し、2000年のデコヒーレンス批判だけを線の下に逆向きの矢印で置いた図 1896 ベルクソン『物質と記憶』 脳は生への注意の器官 1898 ジェイムズ『人間の不死』 透過的機能・母なる海 1954 ハクスリー『知覚の扉』 減量弁(Mind at Large) 2022 田坂広志『死は存在しない』 ZPF に意識が記録される 2024 ネーヴェンら 重ね合わせ形成=体験 2000 テグマーク デコヒーレンス批判 系譜に対する、最も強い反証 一方向に積み上がる図に見えて、途中に反証が挟まっている。 タップで拡大かくだい
図ず 42この考かんが えは新あたら しくない。物理学ぶつりがく が追お いついてきただけかもしれない。 脳のう が意識いしき を生産せいさん するのではなく透過とうか させているという考かんが えは、19世紀末せいきまつ に生う まれた。ジェイムズはこれを透過とうか 的てき 機能きのう と呼よ び、意識いしき の「母はは なる海うみ 」という語ご を用もち いた。ハクスリーはこれを減量げんりょう 弁べん と呼よ び直なお した。ただし、この系譜けいふ には反証はんしょう も含ふく まれる。2000年ねん のテグマークによる批判ひはん は、この方向ほうこう の議論ぎろん に最もっと も強つよ い制約せいやく を課か している。Bergson『物質ぶっしつ と記憶きおく 』(1896)/James『人間にんげん の不死ふし 』(1898)/Huxley『知覚ちかく の扉とびら 』(1954)/田坂たさか 広志ひろし 『死し は存在そんざい しない』(2022)/Neven et al., Entropy 26, 460 (2024)/Tegmark, Phys Rev E 61, 4194 (2000)
そしてジェイムズは、その講義こうぎ の中なか で、意識いしき について一ひと つの言葉ことば を使つか っている。
母はは なる海うみ 。
個々ここ の心こころ は、その海うみ から切き り出だ された一部いちぶ にすぎない、という含ふく みである。
120年ねん 後ご 、海うみ という言葉ことば が物理学ぶつりがく に現あらわ れる
現代げんだい の日本にほん で、この系譜けいふ を引ひ き継つ いでいる仮説かせつ がある。
田坂たさか 広志ひろし (田坂广志 / Hiroshi Tasaka) は、2022年ねん の著書ちょしょ 『死し は存在そんざい しない』において、ゼロポイントフィールド(零点场 / zero-point field) ――第だい 1章いっしょう で見み た、真空しんくう のゆらぎに満み たされた場ば ――に、宇宙うちゅう のすべての情報じょうほう が記録きろく されているという仮説かせつ を提示ていじ している。個人こじん の意識いしき もそこに記録きろく され、肉体にくたい の死後しご も情報じょうほう として残のこ る、という構想こうそう である。
第だい 1章いっしょう で確たし かめたとおり、ゼロポイントフィールドそのものは実在じつざい する。測定そくてい されている。ここまでは事実じじつ である。
だが、そこに情報じょうほう が記録きろく されるという主張しゅちょう は、まったく別べつ の段だん にある。
ちょっと待ま ってほしい
この仮説かせつ を検証けんしょう する具体的ぐたいてき な実験じっけん 手順てじゅん は、現時点げんじてん で提案ていあん されていない。物理学ぶつりがく の側がわ から見み れば、「場ば に情報じょうほう が記録きろく される」という言明げんめい が何なに を意味いみ するのか――どのような測定そくてい をすれば、記録きろく があると言い え、ないと言い えるのか――が定義ていぎ されていない。これは Tier 3 の下限かげん 、Tier 4 との境界きょうかい に位置いち する。 魅力的みりょくてき な構想こうそう であることと、検証けんしょう 可能かのう であることは、別べつ である。
この考かんが えの、最大さいだい の弱点じゃくてん
ここで、透過とうか 説せつ そのものに対たい して、いちばん厳きび しい問と いを立た てておかなければならない。
ジェイムズの論理ろんり は美うつく しい。同おな じデータが二ふた つの説明せつめい と整合せいごう する、という指摘してき は正ただ しい。
だが、それは透過とうか 説せつ にとって強つよ みであると同時どうじ に、最大さいだい の弱点じゃくてん でもある 。
踏ふ み台だい なぜ「何なに でも説明せつめい できる」と弱よわ いのか
直感ちょっかん に反はん するかもしれない。説明せつめい できる範囲はんい が広ひろ いほど、よい理論りろん に思おも える。だが科学かがく では逆ぎゃく になる。
カール・ポパーが立た てた基準きじゅん はこうである。科学的かがくてき な主張しゅちょう とは、「こうなったら間違まちが いだ」と言い える主張しゅちょう である。 これを反証はんしょう 可能性かのうせい という。
「明日あす は雨あめ が降ふ るか降ふ らないかのどちらかだ」は、絶対ぜったい に外はず れないが、何なに も言い っていない。「明日あす の降水こうすい 確率かくりつ は 80 %」は外はず れうるから、意味いみ がある。外はず れる可能性かのうせい を引ひ き受う けることが、情報じょうほう を持も つということなのである。
透過とうか 説せつ の困こま りどころは、まさにここにある。脳のう を壊こわ すと意識いしき が損そこ なわれる → 受信機じゅしんき が壊こわ れたから。脳のう の活動かつどう と体験たいけん が対応たいおう する → 受信じゅしん の仕方しかた が変か わるから。どんな観測かんそく 結果けっか が出で ても説明せつめい できてしまう。 それは強つよ さのように見み えて、「この観測かんそく が出で たら私わたし は間違まちが いです」と言い えないということである。
ちなみに、この基準きじゅん はこの文章ぶんしょう にも向む けられる。第だい 4章よんしょう の予想よそう が高たか く評価ひょうか されるのは、内容ないよう が正ただ しそうだからではない。「何なに が出で たら死し ぬか」を書か いてあるから である。
何なに でも説明せつめい できてしまう説明せつめい は、科学的かがくてき には弱よわ い。
どんな観測かんそく 結果けっか が出で ても「それは受信機じゅしんき の側がわ の問題もんだい だ」と言い えてしまうなら、この説せつ を否定ひてい する観測かんそく は原理げんり 的てき に存在そんざい しないことになる。前章ぜんしょう で見み たとおり、間違まちが っていると証明しょうめい できない主張しゅちょう は、科学かがく の土俵どひょう に乗の らない。
さらに、この100年ねん で状況じょうきょう は変か わった。記憶きおく 研究けんきゅう の進展しんてん である。記憶きおく 痕跡こんせき ――特定とくてい の記憶きおく に対応たいおう する神経細胞しんけいさいぼう の集団しゅうだん ――を人為的じんいてき に活性化かっせいか させると記憶きおく が想起そうき され、抑制よくせい すると想起そうき されない。この操作そうさ 的てき な対応たいおう 関係かんけい は、ベルクソンの「脳のう は選えら ぶだけで貯蔵ちょぞう しない」という見立みた てよりも、素直すなお に貯蔵ちょぞう と検索けんさく のしくみとして読よ める。
踏ふ み台だい 記憶きおく 痕跡こんせき (エングラム)研究けんきゅう とは何なに をしたのか
この一段落いちだんらく は、透過とうか 説せつ にとって最もっと も重おも い反証はんしょう である。だから、何なに がどう示しめ されたのかを具体的ぐたいてき に見み ておく。
使つか われたのは光ひかり 遺伝学いでんがく という手法しゅほう である。光ひかり を当あ てると活動かつどう する(あるいは活動かつどう が止と まる)タンパク質しつ を特定とくてい の神経細胞しんけいさいぼう に作つく らせ、脳のう に細ほそ い光ひかり ファイバーを入い れて、狙ねら った細胞さいぼう 集団しゅうだん だけをミリ秒びょう 単位たんい でオン・オフできる ようにする。
そのうえで、こういう実験じっけん ができる。マウスにある部屋へや で電気でんき ショックを与あた え、恐怖きょうふ の記憶きおく を作つく る。このとき活動かつどう していた海馬かいば の細胞さいぼう 集団しゅうだん に印しるし を付つ けておく。後日ごじつ 、まったく別べつ の安全あんぜん な部屋へや で、その細胞さいぼう 集団しゅうだん だけを光ひかり で活性化かっせいか する 。するとマウスは、何なに も起お きていないのに恐怖きょうふ の反応はんのう (すくみ)を示しめ す。
逆ぎゃく もできる。思おも い出だ させる場面ばめん でその集団しゅうだん を抑おさ えると、思おも い出だ さなくなる。さらに、別々べつべつ の記憶きおく の細胞さいぼう 集団しゅうだん を人為的じんいてき に結むす びつけて、起お きなかった出来事できごと の記憶きおく を作つく る ことまで報告ほうこく されている。
ここまで来く ると、「脳のう は記憶きおく を貯蔵ちょぞう していない。選えら んで呼よ び出だ しているだけだ」という見立みた ては相当そうとう に苦くる しくなる。呼よ び出だ す先さき が脳のう の外そと にあるのなら、脳内のうない の細胞さいぼう 集団しゅうだん を操作そうさ するだけで記憶きおく が生う まれたり消き えたりする理由りゆう が説明せつめい できない。
透過とうか 説せつ を退しりぞ けるのに、哲学的てつがくてき な議論ぎろん は要い らなかった。要い ったのは、光ひかり ファイバーだった。
透過とうか 説せつ は、まだ死し んでいない。だが、優勢ゆうせい でもない。
それでも、この章しょう を置お いた理由りゆう が一ひと つある。
この仮説かせつ は新あたら しくない。物理学ぶつりがく のほうが、120年ねん かけて、同おな じ比喩ひゆ にたどり着つ いただけかもしれない。
1898年ねん に「母はは なる海うみ 」と呼よ ばれたもの。2020年代ねんだい の物理学ぶつりがく が「真空しんくう の海うみ 」と呼よ びはじめたもの。二ふた つが同おな じものである保証ほしょう は、どこにもない。ただ、二ふた つが同おな じものではないと確たし かめる方法ほうほう も、まだない。
この章しょう が答こた えていないこと
生産せいさん 説せつ と透過とうか 説せつ を区別くべつ できる観測かんそく は、原理げんり 的てき に存在そんざい するのだろうか。
存在そんざい しないとすれば、この二ふた つは異こと なる主張しゅちょう なのだろうか。それとも、同おな じことの言い い換か えなのだろうか。
第だい 四部しぶ 疑うたが いの作法さほう と、その先さき
全ぜん 11 章しょう のうち 9 章しょう 目め
Ⅶ 第だい 7章ななしょう
同おな じ数字すうじ を見み て、二人ふたり は正反対せいはんたい の結論けつろん を出だ した
一流いちりゅう の二人ふたり が、同おな じ数字すうじ から正反対せいはんたい の結論けつろん を導みちび いた。どちらを採と るか。
進行インジケータ この章が扱う確実さの段を示す帯 TIER 1 確立 TIER 2 最前線 TIER 3 仮説 TIER 4 逸話
この章しょう の道みち すじ
1995年ねん 、アメリカ中央ちゅうおう 情報局じょうほうきょく は、20年にじゅうねん 以上いじょう 続つづ いた一ひと つの計画けいかく に終止符しゅうしふ を打う った。
計画けいかく の名な はスターゲイト 。遠隔えんかく 透視とうし (遥视 / remote viewing) ――目め を閉と じたまま、行おこな ったことのない場所ばしょ を言い い当あ てる能力のうりょく ――を諜報ちょうほう に使つか えるかどうかを調しら べる計画けいかく だった。
総額そうがく は約やく 2,000万まん ドル。40名よんじゅうめい 以上いじょう が関かか わり、遠隔えんかく 透視とうし 者しゃ は20名にじゅうめい を超こ えた。始はじ まりは1970年代ねんだい 初頭しょとう 、スタンフォード研究所けんきゅうしょ の物理学ぶつりがく 者しゃ たちによる研究けんきゅう である。彼かれ らの初期しょき の報告ほうこく は、1974年ねん の Nature に載の っている。
冷戦れいせん が終お わり、予算よさん に厳きび しい目め が向む けられるようになった。議会ぎかい の指示しじ を受う け、CIA は外部機関がいぶきかん に評価ひょうか を委託いたく した。
評価者ひょうかしゃ は二人ふたり 。統計学とうけいがく 者しゃ と、心理学しんりがく 者しゃ である。
二人ふたり は、同おな じデータを読よ んだ
1 確立かくりつ した物理学ぶつりがく
同じ数字、二つの結論 一つのデータの塊から左右へ分岐し、統計学者と心理学者が正反対の結論に達したことを、左右まったく対等な大きさと色で示した構造図 スターゲイト計画 1972–1995 約2,000万ドル / 遠隔透視者 23名前後 ジェシカ・アッツ 統計学者・カリフォルニア大学デイヴィス校 異常な効果は実在し、再現可能 効果量は複数の研究室で一貫 偶然による確率は極めて小さい レイ・ハイマン 心理学者・オレゴン大学 統計的な証拠が説得力を持つことは認める だが実験計画における方法論的な欠陥が 完全には排除されていない 一致したのは一点だけ ── 情報は曖昧すぎて現場では使えない CIA が採用したのはハイマンの結論。計画は終了し、科学的な問いは開いたまま閉じられた。 機密解除後、約89,000ページが CREST で公開されている。 タップで拡大かくだい
図ず 43二人ふたり の一流いちりゅう が、同おな じ数字すうじ を見み て、正反対せいはんたい の結論けつろん を書か いた。1995年ねん 、CIAはスターゲイト計画けいかく の評価ひょうか を外部機関がいぶきかん に委託いたく した。統計学とうけいがく 者しゃ アッツは、異常いじょう な効果こうか は実在じつざい し再現さいげん 可能かのう であり、偶然ぐうぜん による確率かくりつ は極きわ めて小ちい さいと結論けつろん した。心理しんり 学者がくしゃ ハイマンは、統計的とうけいてき 証拠しょうこ が説得力せっとくりょく を持も つことは認みと めつつ、方法論ほうほうろん 的てき 欠陥けっかん が完全かんぜん には排除はいじょ されていないと論ろん じた。両者りょうしゃ が一致いっち したのは、仮かり に実在じつざい したとしても得とく られる情報じょうほう は現場げんば で使つか えない、という一点いってん だけだった。CIAはハイマンの結論けつろん を採用さいよう し、計画けいかく を終了しゅうりょう した。 American Institutes for Research 評価ひょうか 報告ほうこく (1995)。文書ぶんしょ は CIA CREST データベースで公開こうかい
ジェシカ・アッツ統計学とうけいがく 者しゃ ・カリフォルニア大学だいがく デイヴィス校こう
異常いじょう な効果こうか は実在じつざい し、再現さいげん 可能かのう である。効果こうか 量りょう は複数ふくすう の研究室けんきゅうしつ で一貫いっかん しており、これらの結果けっか が偶然ぐうぜん によって生しょう じた確率かくりつ は、極きわ めて小ちい さい。
レイ・ハイマン心理学しんりがく 者しゃ ・オレゴン大学だいがく
統計的とうけいてき な証拠しょうこ が説得力せっとくりょく を持も つことは認みと める。だが、実験じっけん 計画けいかく における方法論ほうほうろん 的てき な欠陥けっかん が、完全かんぜん には排除はいじょ されていない。
同おな じ報告書ほうこくしょ の中なか に、この二ふた つが並なら んで載の っている。
二人ふたり が一致いっち したのは、ただ一点いってん だけだった。仮かり に遠隔えんかく 透視とうし が実在じつざい したとしても、得とく られる情報じょうほう は曖昧あいまい すぎて、現場げんば では使つか えない。
CIA はハイマンの結論けつろん を採用さいよう し、計画けいかく を終了しゅうりょう した。
科学的かがくてき な問と いは、答こた えの出で ないまま閉と じられた。機密きみつ は解除かいじょ され、およそ89,000ページの文書ぶんしょ が公開こうかい されている。誰だれ でも読よ める。隠かく されてはいない。
二人ふたり とも一流いちりゅう だった。二人ふたり とも誠実せいじつ だった。二人ふたり とも同おな じ数字すうじ を見み た。そして正反対せいはんたい の結論けつろん を書か いた。
この章しょう の主題しゅだい は、超能力ちょうのうりょく ではない。証拠しょうこ を読よ むということが、実際じっさい にはどういう営いとな みなのか である。
踏ふ み台だい 研究けんきゅう を疑うたが うための、四よっ つの物差ものさ し
この章しょう は「証拠しょうこ を読よ む」ことそのものが主題しゅだい である。だから、読よ むための道具どうぐ を先さき に渡わた しておく。第だい 8章はっしょう で改あらた めて出で てくるが、ここで使つか うほうが早はや い。
追試ついし (再現さいげん )。別べつ のチームが、別べつ の場所ばしょ で、別べつ の手て つきで、同おな じ結果けっか に到達とうたつ したか。一ひと つの研究室けんきゅうしつ からしか出で ていない結果けっか は、どれほど鮮あざ やかでも、まだ一歩いっぽ 目め である。心理学しんりがく では2010年代ねんだい に大規模だいきぼ な追試ついし の試こころ みが行おこな われ、有名ゆうめい な結果けっか の相当そうとう 数すう が再現さいげん しなかった(再現性さいげんせい の危機きき と呼よ ばれる)。
事前じぜん 登録とうろく 。何なに を測はか るか、どう解析かいせき するかを、データを見み る前まえ に公開こうかい の場所ばしょ へ登録とうろく してあるか。これが無な いと、結果けっか を見み てから解析かいせき 方法ほうほう を選えら べてしまう。たいていのデータからは、探さが せば何なに かが出で てくる。
出版しゅっぱん バイアス。 「差さ が出で た」研究けんきゅう は論文ろんぶん になり、「出で なかった」研究けんきゅう は引ひ き出だ しに眠ねむ る。その結果けっか 、世よ に出で た論文ろんぶん だけを眺なが めると、効果こうか が実際じっさい より大おお きく見み える。
利益りえき 相反そうはん 。 その結論けつろん によって、誰だれ が何なに を得え るのか。資金しきん の出で どころ、著者ちょしゃ の立場たちば 、概要がいよう 欄らん に並なら ぶ有料ゆうりょう の講座こうざ 。内容ないよう の当否とうひ とは別べつ に、差さ し引ひ いて聞き く材料ざいりょう になる。
もう一ひと つの、割わ れた研究けんきゅう
2025年ねん 、スペインのコミージャス教皇きょうこう 庁ちょう 大学だいがく の統計学とうけいがく 者しゃ が、一本いっぽん の論文ろんぶん を発表はっぴょう した。掲載誌けいさいし は査読さどく を伴ともな う国際こくさい 誌し である。
一卵性いちらんせい 双生児そうせいじ を106組くみ 、合あ わせて212名めい 。半分はんぶん を対照たいしょう 群ぐん 、半分はんぶん を実験じっけん 群ぐん に分わ ける。
刺激しげき には、IBM の量子りょうし コンピュータが使つか われた。二に 種類しゅるい の量子りょうし 回路かいろ が用意ようい される。一方いっぽう は二ふた つの量子りょうし ビットが量子りょうし もつれ の状態じょうたい にある回路かいろ 。もう一方いっぽう は、ほとんど同おな じ作つく りでありながら、もつれだけがない回路かいろ 。この回路かいろ が吐は き出だ す〇と一いち の並なら びによって、画面上がめんじょう の点てん の動うご きが決き まる。
被験者ひけんしゃ は、点てん が次つぎ にどちらへ動うご くかを予測よそく する。一人ひとり あたり144試行しこう 。自分じぶん がどちらの回路かいろ の刺激しげき を受う けているかは、知し らされない。
結果けっか 、実験じっけん 群ぐん では正答せいとう 率りつ の分散ぶんさん の13.5パーセントが、もつれの有無うむ によって説明せつめい された。著者ちょしゃ が新あら たに導入どうにゅう した指標しひょう では、双子ふたご の反応はんのう の分散ぶんさん 増加ぞうか を最大さいだい 31.6パーセントまで捉とら えている。加くわ えて、神経しんけい 可塑性かそせい に関かか わる物質ぶっしつ の指標しひょう にも、群間ぐんかん で差さ が測定そくてい された。
数字すうじ の読よ み方かた
「分散ぶんさん の13.5パーセントを説明せつめい した」 とは何なに か。
たくさんの人ひと に同おな じ課題かだい をやらせると、成績せいせき はばらつく。そのばらつき(分散ぶんさん )が何なん によって生しょう じているかを、要因よういん ごとに割わ り振ふ ったのがこの数字すうじ である。「もつれの有無うむ 」という要因よういん が、ばらつき全体ぜんたい の 13.5 %を占し めた、という意味いみ になる。
大おお きいのか小ちい さいのか。心理学しんりがく の研究けんきゅう としては、決けっ して小ちい さくない。個人差こじんさ の大おお きい認知にんち 課題かだい で、一ひと つの操作そうさ が1割いちわり を超こ える分散ぶんさん を説明せつめい するのは、それなりに強つよ い効果こうか である。
ただし、二ふた つ注意ちゅうい がある。一ひと つ ── 説明せつめい 率りつ が高たか いことは、その要因よういん が原因げんいん である ことを意味いみ しない。見落みお とした別べつ の要因よういん が、両方りょうほう に影響えいきょう していた可能性かのうせい は残のこ る。二ふた つ ── これは一ひと つの研究室けんきゅうしつ が1度いちど 出だ した数字すうじ である。他ほか のチームが同おな じ数字すうじ を出だ すまで、確定かくてい ではない。
ちょっと待ま ってほしい
この研究けんきゅう には、三みっ つの限定げんてい が必要ひつよう である。
一ひと つ。他ほか のチームによる追試ついし が、まだ行おこな われていない。一度いちど きりの結果けっか は、どれほど鮮あざ やかでも、確定かくてい ではない。
二ふた つ。専門せんもん 事典じてん による評価ひょうか は、この研究けんきゅう について、量子りょうし 意識いしき 仮説かせつ を直接ちょくせつ 支持しじ するものではなく、もつれによって生成せいせい されたような量子りょうし 的てき 構造こうぞう を持も つ情報じょうほう が、特定とくてい の認知にんち 過程かてい に影響えいきょう しうることを示唆しさ するにとどまる、としている。双子ふたご の脳のう の中なか でもつれが起お きた、という話はなし ではない。
三みっ つ。この著者ちょしゃ の研究けんきゅう 領域りょういき は、超常ちょうじょう 現象げんしょう の統計的とうけいてき 研究けんきゅう である。それ自体じたい が結果けっか を否定ひてい する理由りゆう にはならないが、読者どくしゃ が知し っておくべき文脈ぶんみゃく ではある。
もつれには、伝つた えたいことが乗の らない
ここで、物理学ぶつりがく の側がわ から、決定的けっていてき な制約せいやく を置お いておかなければならない。
量子りょうし もつれは確たし かに距離きょり を無視むし する。どれだけ離はな れていても、片方かたほう の測定そくてい 結果けっか が決き まれば、もう片方かたほう も同時どうじ に決き まる。アインシュタイン がこれを不気味ぶきみ だと呼よ び、最後さいご まで認みと めたがらなかったことは有名ゆうめい である。
だが、これを通信つうしん に使つか うことはできない。
1 確立かくりつ した物理学ぶつりがく
乗せられない矢印 量子もつれは距離を無視して相関を残すが、そこに送り手の意図を割り込ませる手段がないことを示した概念図 観測者 A 観測者 B 相関:ある 情報の伝達:不可能 A が得る結果は完全にランダムで、A 自身にも選べない。 B の手元に現れるのも、ランダムな並びだけである。 相関が姿を現すのは、二人が後から結果を突き合わせたときだけ。 通信不可定理(无通信定理 / no-communication theorem) タップで拡大かくだい
図ず 44距離きょり は無視むし できる。それでも、伝つた えたいことだけは乗の らない。量子りょうし もつれによって情報じょうほう や意思いし を送おく ることは、現在げんざい の物理学ぶつりがく では原理げんり 的てき に不可能ふかのう とされている。これは通信つうしん 不可ふか 定理ていり と呼よ ばれる。もつれは二ふた つの結果けっか のあいだに一致いっち を残のこ すだけで、そこに送おく り手て の意図いと を割わ り込こ ませる手段しゅだん がない。「テレパシーの量子りょうし 的てき 説明せつめい 」は、この一点いってん で成立せいりつ しない。通信つうしん 不可ふか 定理ていり (no-communication theorem)。量子りょうし 情報じょうほう 理論りろん の標準的ひょうじゅんてき な帰結きけつ であり、教科書きょうかしょ に記載きさい されている
理由りゆう は単純たんじゅん である。あなたが手元てもと で得え る結果けっか は完全かんぜん にランダムで、あなた自身じしん にも選えら べない。遠とお くの相手あいて の手元てもと に現あらわ れるのも、でたらめに見み える並なら びだけである。そこにあなたの意図いと を割わ り込こ ませる手段しゅだん が、どこにもない。相関そうかん が姿すがた を現あらわ すのは、二人ふたり が後あと から結果けっか を突つ き合あ わせたときだけだ。
これは通信つうしん 不可ふか 定理ていり (无通信定理 / no-communication theorem) と呼よ ばれる、れっきとした帰結きけつ である。
量子りょうし もつれによるテレパシー、という説明せつめい は、この一点いってん で成立せいりつ しない。
それでも人ひと は、この話はなし をやめない
遠とお く離はな れた人ひと に何なに かが起お きた夜よる 、理由りゆう もなく目め が覚さ める。急きゅう に誰だれ かの顔かお が浮う かんで、胸むね がざわつく。
こういう体験たいけん は、世界中せかいじゅう のあらゆる文化ぶんか に、それぞれの呼よ び名な を持も って存在そんざい している。日本にほん では「虫むし の知し らせ」と呼よ ばれてきた。
踏ふ み台だい 確証かくしょう バイアスと、大おお きな数かず の効き き方ほう
ここで働はたら いている二ふた つの仕組しく みを分わ けておく。
確証かくしょう バイアス。人ひと は、自分じぶん の期待きたい に合あ う出来事できごと を選えら んで覚おぼ える。意図的いとてき に嘘うそ をつくのではない ── 記憶きおく に残のこ る強つよ さが最初さいしょ から違ちが うのである。「胸騒むなさわ ぎがして何なに も起お きなかった夜よる 」は、翌朝よくあさ には出来事できごと ですらなくなっている。記録きろく が残のこ らないので、本人ほんにん はその頻度ひんど を見積みつ もることができない。
大おお きな数かず 。極きわ めて起お こりにくいことでも、試行しこう の回数かいすう が十分じゅうぶん に多おお ければ、必かなら ず起お きる。世界中せかいじゅう で毎晩まいばん 何十なんじゅう 億おく 人ひと が眠ねむ り、そのうち一定いってい 数すう が誰だれ かのことを思おも う。同おな じ夜よる に、その誰だれ かの身み に何なに かが起お きる確率かくりつ は、一人ひとり あたりでは極小きょくしょう でも、全体ぜんたい としては毎晩まいばん どこかで起お きるほど大おお きい 。
この二ふた つを掛か け合あ わせると、「ときどき驚おどろ くほどよく当あ たる」という体験たいけん は、何なに も特別とくべつ な仕組しく みを持も ち出だ さずに説明せつめい できる。
ただし ── この章しょう の最後さいご が言い うのは、そこから先さき である。説明せつめい できることと、無な かったことになることは、別べつ だという点てん である。
統計とうけい は、これをきれいに説明せつめい する。
1 確立かくりつ した物理学ぶつりがく
忘れられた50夜 胸騒ぎがして何も起きなかった夜が薄く50個、本当に何かが起きた夜が明るく1個。当たった一夜だけが記憶に残ることを示した概念図 胸騒ぎがして、何も起きなかった夜 50 胸騒ぎがして、本当に何かが起きた夜 1 記憶に残るのは、この一つだけである ただし —— 説明されることと、 なかったことになることは、違う 51 という数は例示であって、観測値ではない。 タップで拡大かくだい
図ず 45当あ たった一夜いちや は残のこ り、外はず れた50夜ごじゅうや は消き えていく。確証かくしょう バイアスとは、期待きたい に合あ う出来事できごと だけが記憶きおく に残のこ る心こころ の傾かたむ きである。世界中せかいじゅう で毎晩まいばん 何十なんじゅう 億おく 人ひと が眠ねむ れば、誰だれ かの胸騒むなさわ ぎと誰だれ かの身み に起お きた出来事できごと が同おな じ夜よる に重かさ なることは、必かなら ず起お きる。この説明せつめい は正ただ しい。ただしこの説明せつめい は、なぜ人ひと がその一夜いちや を忘わす れられないのかという問と いには答こた えていない。確証かくしょう バイアス(confirmation bias)。認知にんち 心理学しんりがく の標準的ひょうじゅんてき な知見ちけん であり、教科書きょうかしょ に記載きさい されている。図中ずちゅう の51という数かず は例示れいじ であって観測値かんそくち ではない
胸騒むなさわ ぎがして、何なに も起お きなかった夜よる のことを、人ひと は覚おぼ えていない。翌朝よくあさ には忘わす れている。胸騒むなさわ ぎがして、本当ほんとう に何なに かが起お きた夜よる だけが、鮮明せんめい に残のこ る。当あ たった1回いっかい が記憶きおく を占し め、外はず れた50回ごじっかい は静しず かに消き えていく。確証かくしょう バイアス(确认偏误 / confirmation bias) と呼よ ばれる、人間にんげん の心こころ の傾かたむ きである。
そして、母数ぼすう が効き く。世界中せかいじゅう で毎晩まいばん 、何十なんじゅう 億おく 人ひと が眠ねむ りにつく。それだけの数かず があれば、誰だれ かの胸騒むなさわ ぎと誰だれ かの身み に起お きたことが同おな じ夜よる に重かさ なることは、必かなら ず起お きる。起お きないほうが不自然ふしぜん である。
この説明せつめい は正ただ しい。おそらく、こうした体験たいけん の大半たいはん は、これで尽つ きる。
ただ、一ひと つだけ、この説明せつめい が答こた えていないことがある。
なぜ人ひと は、その一夜いちや を忘わす れられないのか。なぜ、統計とうけい を聞き かされてもなお、あの夜よる のことを誰だれ かに話はな したくなるのか。
説明せつめい されることと、なかったことになることは、違ちが う。
この章しょう が答こた えていないこと
同おな じデータから正反対せいはんたい の結論けつろん が出で るとき、私わたし たちはどちらを採と るべきなのか。何なに を基準きじゅん にして。
「気き のせいだ」と説明せつめい のついた体験たいけん は、体験たいけん でなくなるのだろうか。
ここまで読よ んできて、いくらか心こころ が傾かたむ いた人ひと がいるかもしれない。
だから、この部屋へや を用意ようい した。
ここには、これまでの章しょう に対たい する最もっと も強つよ い反論はんろん を並なら べる。手加減てかげん はしない。
この部屋へや を通とお らない仮説かせつ を、信しん じてはいけない。
脳のう は、温あたた かすぎる
2000年ねん 、マックス・テグマーク(马克斯·泰格马克 / Max Tegmark) が一本いっぽん の論文ろんぶん を発表はっぴょう した。タイトルは「脳のう の過程かてい における量子りょうし デコヒーレンスの重要性じゅうようせい 」。
踏ふ み台だい デコヒーレンスは「壊こわ れる」のか「漏も れる」のか
この章しょう の主役しゅやく の語ご である。正確せいかく に押お さえておくと、論争ろんそう の中身なかみ がはっきり見み える。
重かさ ね合あ わせが「壊こわ れる」というと、波なみ が消滅しょうめつ するイメージを持も ちやすい。実際じっさい に起お きているのは、そうではない。重かさ ね合あ わせの情報じょうほう が、周囲しゅうい へ写うつ し取と られる のである。
空気くうき の分子ぶんし が一ひと つぶつかる。その分子ぶんし は、ぶつかった相手あいて がどちらの状態じょうたい にいたかの情報じょうほう をわずかに持も ち去さ る。光子こうし が1個いっこ 当あ たっても同おな じことが起お きる。こうして情報じょうほう が外そと へ漏も れていくと、もとの系けい だけを見み るかぎり干渉縞かんしょうじま が確たし かめられなくなる。波なみ は消き えていない。追お いかけられなくなっただけである。
だから量子りょうし コンピュータは極きょく 低温ていおん で真空しんくう の中なか に置お かれる。周囲しゅうい に写うつ し取と る相手あいて を減へ らすためである。
そして脳のう は、その正反対せいはんたい の環境かんきょう にある。摂氏せっし 37度さんじゅうななど 。水みず びたし。イオンが飛と び交か い、分子ぶんし が絶た えず衝突しょうとつ している。写うつ し取と る相手あいて だらけ ── これがテグマークの議論ぎろん の出発点しゅっぱつてん になる。
デコヒーレンス(退相干 / decoherence) とは、量子りょうし 的てき な重かさ ね合あ わせが周囲しゅうい との相互作用そうごさよう によって壊こわ れ、古典的こてんてき なふるまいに落お ちてしまう現象げんしょう である。量子りょうし コンピュータを作つく るのが難むずか しい最大さいだい の理由りゆう も、これだ。極きょく 低温ていおん にして、外界がいかい から徹底的てっていてき に遮断しゃだん しなければ、重かさ ね合あ わせは即座そくざ に失うしな われる。
脳のう は、その正反対せいはんたい の環境かんきょう である。摂氏せっし 37度さんじゅうななど 。水みず びたし。イオンが飛と び交か い、分子ぶんし が絶た えず衝突しょうとつ している。
1 確立かくりつ した物理学ぶつりがく
デコヒーレンス 孤立した系では干渉縞が出るのに対し、周囲の分子と絡むと重ね合わせの情報が漏れて干渉が確かめられなくなることを示した図 「壊れる」とは、周りに写し取られてしまうこと 周りから切り離されている 二つの波が重なったまま = 干渉縞が出る 周りの分子がぶつかる 重ね合わせの情報が周りへ漏れる = 干渉縞が消える 時間 大事なのは、波が「無くなる」のではないという点である。重ね合わせの情報が周りの分子へ写し取られ、 もとの系だけを見るかぎり干渉が確かめられなくなる。これがデコヒーレンスである。 暖かく、水びたしで、分子がぶつかり続ける脳は、この写し取りが極めて速く進む環境である。 どれくらい速いか ── その見積もりが第8章の論争の中心になる。 タップで拡大かくだい
図ず 46壊こわ れるとは、消き えることではない。周まわ りに写うつ し取と られることである。重かさ ね合あ わせの情報じょうほう が周囲しゅうい の分子ぶんし へ漏も れると、もとの系けい だけを見み るかぎり干渉かんしょう が確たし かめられなくなる。これがデコヒーレンスである。暖あたた かく水みず びたしの脳のう は、この写うつ し取と りが極きわ めて速はや く進すす む環境かんきょう にあたる。Zurek, Rev Mod Phys 75, 715 (2003) ほか、標準的ひょうじゅんてき な量子論りょうしろん の帰結きけつ
テグマークは、この環境かんきょう で量子りょうし 状態じょうたい がどれだけ保たも つかを計算けいさん した。答こた えは、微小管びしょうかん において10のマイナス13乗じゅうさんじょう 秒びょう 。神経しんけい 発火はっか そのものの重かさ ね合あ わせに至いた っては、10のマイナス20乗にじゅうじょう 秒びょう 。
一方いっぽう 、ニューロンが実際じっさい に働はたら く時間じかん スケールは、10のマイナス3乗さんじょう 秒びょう から10のマイナス1乗いちじょう 秒びょう である。
— データの図示ずし
7桁と、残る3桁 脳内で量子状態が保たれる時間の推定を対数軸に並べ、修正によって7桁伸びてもなお、神経が働く時間には3桁届かないことを示したデータ図 10⁻²⁰ 10⁻¹⁶ 10⁻¹² 10⁻⁸ 10⁻⁴ 10⁻¹ 量子状態が保たれる時間 / 秒(対数目盛。左ほど短い) デコヒーレンスで消えるまで(2000年の推定) 修正後の推定(ヘイガンら 2002) ニューロンが実際に働く時間 7桁 熱平衡の仮定・分離幅・相互作用の種類を修正すると 残る3桁 論争は続いている。McKemmish ら(2009)はテグマーク側を支持した。 7桁を取り返しても、まだ3桁足りない タップで拡大かくだい
図ず 477桁ななけた を取と り返かえ しても、まだ3桁さんけた 足た りない。テグマークは2000年ねん 、脳内のうない の量子りょうし 状態じょうたい が保たも たれる時間じかん を10⁻¹³〜10⁻²⁰秒びょう と見積みつ もった。神経しんけい が実際じっさい に働はたら く時間じかん は10⁻³〜10⁻¹秒びょう であり、量子りょうし 効果こうか が関与かんよ する余地よち はないという結論けつろん だった。これに対たい しヘイガンらは、テグマークが熱ねつ 平衡へいこう を仮定かてい し、重かさ ね合あ わせの分離ぶんり 幅はば を大おお きく取と りすぎ、双極子そうきょくし ではなく電荷でんか 同士どうし の相互作用そうごさよう を用もち いた点てん を指摘してき した。修正しゅうせい すると干渉かんしょう 時間じかん は7桁ななけた 伸の びる。それでもなお、神経しんけい の時間じかん スケールには3桁さんけた 届とど かない。 Tegmark, Phys Rev E 61, 4194 (2000); Hagan, Hameroff & Tuszynski, Phys Rev E 65, 061901 (2002); McKemmish et al., Phys Rev E 80, 021912 (2009)
桁けた が、まるで足た りない。
数字すうじ の読よ み方かた
この章しょう は「桁けた 」の話はなし だけで進すす む。慣な れていない人ひと のために、読よ み方かた を置お く。
10のマイナス13乗じゅうさんじょう 秒びょう は、1秒いちびょう を1万いちまん 分ぶん の1にして、さらに1万いちまん 分ぶん の1にして、もう1度いちど 10万じゅうまん 分ぶん の1にした長なが さである。短みじか すぎて実感じっかん できないので、比ひ だけ覚おぼ えるとよい。
1桁いっけた 違ちが うと、十じゅう 倍ばい 違ちが う。7桁ななけた 違ちが えば1,000万まん 倍ばい 。3桁さんけた 違ちが えば千せん 倍ばい 。テグマークが出だ した 10⁻¹³ 秒びょう と、神経しんけい が働はたら く 10⁻³ 秒びょう の隔へだ たりは10桁じっけた ── 100億おく 倍ばい である。
ヘイガンらが取と り返かえ したのが7桁ななけた 。それでもなお、3桁さんけた ── 千せん 倍ばい ── の隔へだ たりが残のこ る。ニューロンが1回いっかい 発火はっか するあいだに、量子りょうし 状態じょうたい が1,000回かい 失うしな われる計算けいさん になる。「惜お しい」ではない。まだ千せん 倍ばい である。
結論けつろん として彼かれ が書か いたのは、こうである。認知にんち に関かか わる脳のう の自由度じゆうど は、量子りょうし 系けい ではなく古典こてん 系けい として考かんが えるべきであり、現在げんざい の古典的こてんてき な神経しんけい 回路かいろ シミュレーションのやり方かた に、根本的こんぽんてき な誤あやま りはない。
反論はんろん :計算けいさん の前提ぜんてい が違ちが う
2002年ねん 、スコット・ヘイガン 、スチュアート・ハメロフ 、ジャック・トゥシンスキー が反論はんろん を書か いた。
彼かれ らの指摘してき は、テグマークの計算けいさん そのものではなく、その前提ぜんてい に向む けられている。
一ひと つ。テグマークは熱ねつ 平衡へいこう 状態じょうたい を仮定かてい している。それは生い きている組織そしき ではなく、死し んだ組織そしき の条件じょうけん である。
二ふた つ。重かさ ね合あ わせの分離ぶんり 幅はば を大おお きく取と りすぎている。彼かれ が想定そうてい したのは、微小管びしょうかん の全長ぜんちょう にわたって走はし る励起れいき の重かさ ね合あ わせであり、これは元もと の仮説かせつ が想定そうてい している構造こうぞう とは異こと なる。
三みっ つ。相互作用そうごさよう を電荷でんか と電荷でんか のものとして扱あつか っているが、双極子そうきょくし どうしの相互作用そうごさよう として扱あつか うべきである。
これらを修正しゅうせい すると、干渉かんしょう が保たも たれる時間じかん は10のマイナス5乗ごじょう から10のマイナス4乗よんじょう 秒びょう に伸の びる。マイクロ秒びょう の領域りょういき である。
7桁ななけた 。取と り返かえ した。
それでも、3桁さんけた 足た りない
ところが、これで決着けっちゃく はつかない。
マイクロ秒びょう は、ミリ秒びょう より3桁さんけた 短みじか い。ニューロンが1回いっかい 発火はっか するあいだに、量子りょうし 状態じょうたい は1,000回かい 失うしな われている計算けいさん になる。
7桁ななけた を取と り戻もど してもなお、届とど いていない。
この差さ を埋う める提案ていあん は、いくつか出だ されている。量子りょうし ゼノン効果こうか ――観測かんそく を高速こうそく で繰く り返かえ すことで状態じょうたい の崩壊ほうかい を遅おく らせる現象げんしょう ――を使つか えば、連続れんぞく した干渉性かんしょうせい がなくても機能きのう しうるという議論ぎろん 。あるいは、意識いしき が毎秒まいびょう 何度なんど も選択せんたく を行おこな うのであれば、マイクロ秒びょう の窓まど でも足た りるという議論ぎろん 。
もう一段いちだん 深ふか く ── 量子りょうし ゼノン効果こうか とは何なに か
名前なまえ はゼノンのパラドックス(飛と んでいる矢や は、各かく 瞬間しゅんかん には静止せいし している)から取と られている。
量子りょうし 力学りきがく では、状態じょうたい が変化へんか していく途中とちゅう で測定そくてい を行おこな うと、状態じょうたい はもとの値あたい へ「引ひ き戻もど される」。そして測定そくてい を極きわ めて短みじか い間隔かんかく で繰く り返かえ すと、状態じょうたい はほとんど変化へんか できなくなる 。見み つめ続つづ けられた鍋なべ は煮に え立た たない、というわけである。
これは思考しこう 実験じっけん ではなく、実験じっけん で確たし かめられている現象げんしょう である(イオントラップなどで実証じっしょう されている)。
脳のう への応用おうよう として提案ていあん されているのは、「環境かんきょう との頻繁ひんぱん な相互作用そうごさよう が、ある条件下じょうけんか では逆ぎゃく に状態じょうたい を保たも たせる方向ほうこう に働はたら きうる」という筋すじ である。ただし、それが実際じっさい の脳のう で成な り立た つかどうかは示しめ されていない。この章しょう の主旨しゅし からすれば、これは反論はんろん に対たい する反論はんろん の候補こうほ であって、決着けっちゃく ではない。
一方いっぽう で、2004年ねん にはローザ とファーベル が、環境かんきょう によるデコヒーレンスだけで十分じゅうぶん に説明せつめい がつくと論ろん じた。2009年ねん にはマケミッシュ らが、テグマーク側がわ を支持しじ する分析ぶんせき を発表はっぴょう している。
論争ろんそう は、26年にじゅうろくねん 経た った今いま も続つづ いている。
決着けっちゃく していない、と書か けることは弱よわ さではない。決着けっちゃく していないのに決着けっちゃく したと書か くことが、弱よわ さである。
「量子りょうし 」という語ご について
もう一ひと つ、この分野ぶんや の外側そとがわ にある危険きけん について書か いておきたい。
「量子りょうし 」という語ご は、いま最もっと も濫用らんよう されている科学かがく 用語ようご の一ひと つである。量子りょうし 的てき な癒いや し。量子りょうし 的てき な引ひ き寄よ せ。量子りょうし 的てき な意識いしき の覚醒かくせい 。書店しょてん にも、動画どうが にも、こうした言葉ことば が並なら んでいる。
これらの多おお くに共通きょうつう するのは、語ご が説明せつめい として機能きのう していない ことである。「量子りょうし 的てき 」と言い うことで、何なに かを説明せつめい した気分きぶん になれる。だが、そこには検証けんしょう できる主張しゅちょう が含ふく まれていない。どんな観測かんそく をすれば正ただ しいと言い え、どんな観測かんそく をすれば間違まちが いと言い えるのか――それが書か かれていない文章ぶんしょう は、どれほど科学的かがくてき な語彙ごい で飾かざ られていても、科学かがく ではない。
この文章ぶんしょう で扱あつか ってきた仮説かせつ ――ネーヴェンらの予想よそう も、ミエリンの計算けいさん も――が、それらと違ちが うのは、内容ないよう が正ただ しいからではない。間違まちが っている可能性かのうせい の形かたち が、書か かれているから である。
あなたが今後こんご 、何なに を信しん じるかについて
この文章ぶんしょう を離はな れた後あと にも使つか える道具どうぐ を、四よっ つだけ渡わた しておきたい。
一ひと つ。反証はんしょう 可能性かのうせい (可证伪性 / falsifiability) 。その主張しゅちょう は、どうなったら間違まちが いだと分わ かるのか。それが言い えない主張しゅちょう は、正ただ しいとも間違まちが っているとも言い えない。
二ふた つ。追試ついし 。別べつ のチームが、別べつ の手て つきで、同おな じ結果けっか に到達とうたつ しているか。一ひと つの研究室けんきゅうしつ からしか出で ていない結果けっか は、どれほど鮮あざ やかでも、まだ一歩いっぽ 目め である。
三みっ つ。事前じぜん 登録とうろく 。何なに を測はか るかを、データを見み る前まえ に宣言せんげん しているか。結果けっか を見み てから解析かいせき 方法ほうほう を選えら べば、たいていのデータからは何なに かが出で てくる。
四よっ つ。利益りえき 相反そうはん 。その結論けつろん によって、誰だれ が何なに を得え るのか。有料ゆうりょう の講座こうざ が概要がいよう 欄らん にある話はなし は、そのことを差さ し引ひ いて聞き く必要ひつよう がある。
この四よっ つは、この文章ぶんしょう にも向む けられるべきものである。
この章しょう が答こた えていないこと
3桁さんけた の差さ は、埋う まらない壁かべ なのか、それともまだ誰だれ も見み つけていない機構きこう があるのか。
「まだ分わ かっていない」と「間違まちが っている」を、どう区別くべつ すればいいのか。
ここまで、確たし かめられたことと、まだ確たし かめられていないことを、分わ けて書か いてきた。
最後さいご に一ひと つだけ、分わ けられないものが残のこ る。
踏ふ み台だい 「観測かんそく 問題もんだい 」とは何なに が問題もんだい なのか
量子りょうし 力学りきがく の教科書きょうかしょ には、二に 種類しゅるい の規則きそく が並なら んで書か いてある。
一ひと つめ ── 誰だれ も見み ていないとき、状態じょうたい はシュレディンガー方程式ほうていしき に従したが ってなめらかに、決定論けっていろん 的てき に変化へんか していく。二ふた つめ ── 測定そくてい すると、状態じょうたい は確率かくりつ 的てき に一ひと つの結果けっか へ飛と ぶ。
ここで当然とうぜん の疑問ぎもん が出で る。「測定そくてい 」とは何なに か。 装置そうち も原子げんし でできている。観測かんそく 者しゃ の体からだ も原子げんし でできている。それらもまた一ひと つめの規則きそく に従したが うはずである。ならば、どこで二ふた つめの規則きそく に切き り替か わるのか。その境目さかいめ を決き めるものが、理論りろん の中なか に書か かれていない。
これが観測かんそく 問題もんだい である。解釈かいしゃく の争あらそ いは、突つ きつめればこの一点いってん をめぐっている。コペンハーゲン解釈かいしゃく は境目さかいめ を置お き、多た 世界せかい 解釈かいしゃく は境目さかいめ を消け し(すべて一ひと つめの規則きそく にする)、客観的きゃっかんてき 収縮しゅうしゅく の理論りろん は境目さかいめ を物理ぶつり 法則ほうそく として書か き込こ もうとする。
そして終章しゅうしょう が触ふ れる2026年ねん の枠組わくぐ みは、また別べつ の方向ほうこう を向む いている。観測かんそく 者しゃ を系けい の外そと に置お くのをやめ、記述きじゅつ の内側うちがわ に組く み込こ む とどうなるかを問と うている。「意識いしき が現実げんじつ を作つく る」という話はなし ではない。観測かんそく 者しゃ を含ふく めたとき、情報じょうほう の記述きじゅつ がどう変か わるかという、数学すうがく の問題もんだい である。
観測かんそく する者もの は、外そと にいない
量子りょうし 力学りきがく では長なが らく、観測かんそく 者しゃ は系けい の外側そとがわ にいるものとして扱あつか われてきた。世界せかい が向む こう側がわ にあり、こちら側がわ に記録きろく 装置そうち がある。装置そうち が世界せかい を測はか り、結果けっか を書か き留と める。
2026年ねん に提案ていあん された一ひと つの枠組わくぐ みは、この構図こうず を変か える。観測かんそく 者しゃ を、情報処理じょうほうしょり の内側うちがわ に組く み込こ むのである。観測かんそく する者もの は、外部がいぶ の記録きろく 装置そうち ではなく、観測かんそく される系けい の一部いちぶ として扱あつか われる。その人ひと がすでに持も っている信念しんねん や期待きたい が、何なに がどう分類ぶんるい され、どう確定かくてい するかに関かか わってくる。
ちょっと待ま ってほしい
これは理論的りろんてき な枠組わくぐ みの提案ていあん であり、実験じっけん による検証けんしょう はこれからである。「観測かんそく 者しゃ の心こころ が現実げんじつ を作つく る」という通俗的つうぞくてき な主張しゅちょう の裏うら づけとして読よ むことは、誤読ごどく である。この枠組わくぐ みが扱あつか っているのは、観測かんそく 者しゃ を含ふく めたときに情報じょうほう の記述きじゅつ がどう変か わるか、という数学的すうがくてき な問題もんだい である。
円環えんかん
3 仮説かせつ ・反証はんしょう 可能かのう
円環 観測する者と観測される世界を円周の上に置き、入れ子の円でどこまでも外側に出られないことを示した意匠図 観測する者 観測される世界 外側は、ない タップで拡大かくだい
図ず 48問と いを立た てている当とう のものが、問と いの答こた えでもある。従来じゅうらい の量子りょうし 力学りきがく では、観測かんそく 者しゃ は系けい の外部がいぶ にある記録きろく 装置そうち として扱あつか われてきた。2026年ねん に提案ていあん された枠組わくぐ みは、観測かんそく 者しゃ を情報処理じょうほうしょり の内側うちがわ に組く み込こ む。これは仮説かせつ であり、検証けんしょう はこれからである。ただし、この構図こうず が指さ し示しめ す事態じたい そのものは、実験じっけん の成否せいひ とは別べつ に残のこ る。あなたが世界せかい を見み るとき、その世界せかい の中なか にあなたが含ふく まれている。Hoorn & Ho, "Observer effect modulates classification in a quantum epistemic framework", Sci Rep (2026), doi:10.1038/s41598-026-46604-9
それでも、この構図こうず が指さ し示しめ している事態じたい そのものは、実験じっけん の成否せいひ とは別べつ に残のこ る。
あなたが世界せかい を見み る。見み られた世界せかい の中なか に、あなたが含ふく まれている。あなたの脳のう を調しら べようとするとき、調しら べているのもまた、その脳のう である。意識いしき を説明せつめい しようとしている当とう のものが、説明せつめい されるべき対象たいしょう そのものだ。
この円環えんかん には、外側そとがわ がない。どこにも降お り立た てる場所ばしょ がない。物理学ぶつりがく が400年ねん かけて磨みが いてきた「対象たいしょう を外そと から眺なが める」という方法ほうほう が、この一点いってん でだけ、使つか えなくなる。
第だい 5章ごしょう の壁かべ が、なぜあれほど手強てごわ いのか。理由りゆう の一端いったん は、おそらくここにある。
三みっ つの「空から っぽ」
この文章ぶんしょう は、三みっ つの空から っぽを順番じゅんばん に訪たず ねてきた。
一ひと つ目め は、真空しんくう だった。取と り除のぞ けるものを全部ぜんぶ 取と り除のぞ いても、そこは震ふる え続つづ けていた。その震ふる えは、物質ぶっしつ の相そう を変か えるほどの強つよ さを持も っていた。空から っぽではなかった。
二ふた つ目め は、脳のう だった。単たん なる電気でんき 信号しんごう の回路かいろ だと思おも われてきたその内側うちがわ に、共振器きょうしんき の形かたち をした構造こうぞう があり、麻酔ますい ガスが結合けつごう する管くだ があり、原子核げんしかく の自転じてん が意識いしき の消き え方ほう を左右さゆう するかもしれないという報告ほうこく があった。まだ何なに も確定かくてい していない。それでも、空から っぽの箱はこ ではなさそうである。
三みっ つ目め は。
自我じが という、いちばん近ちか くにあって、いちばん覗のぞ き込こ めない空から っぽである。
ここについては、この文章ぶんしょう は何なに も確定かくてい 的てき なことを言い えない。言い えないということを、できるだけ正確せいかく に書か いてきたつもりである。
今夜こんや 、また消き える
何なに もない場所ばしょ を作つく ろうとして、人類じんるい は失敗しっぱい した。取と り除のぞ けるものを全部ぜんぶ 取と り除のぞ いても、そこは震ふる え続つづ けていた。
その震ふる えは、物質ぶっしつ の性質せいしつ を変か えるほどの強つよ さを持も っていた。それは実験じっけん で確たし かめられた。ここまでは、疑うたが いようがない。
その震ふる えが、あなたの頭蓋骨ずがいこつ の中なか にも届とど いているのか。届とど いているとして、それが「感かん じる」ということと何なに か関係かんけい があるのか。
それは、まだ誰だれ も知し らない。
知し らないということを、この文章ぶんしょう は隠かく さずに書か いた。段だん を示しめ し、注記ちゅうき を置お き、反論はんろん のための部屋へや を用意ようい した。読よ み終お えたあなたの手元てもと に残のこ るのは、答こた えではなく、答こた えの出で ていない場所ばしょ の地図ちず である。
踏ふ み台だい この先さき の10年じゅうねん で、何なに が確たし かめられるのか
この文章ぶんしょう は、答こた えの出で ていない場所ばしょ の地図ちず だと書か いた。地図ちず には、これから道みち が引ひ かれる予定よてい の場所ばしょ も描えが いてある。最後さいご にそこを見み ておく。
1. 生体せいたい の物質ぶっしつ は、量子りょうし のチャネルになれるか。 第だい 4章よんしょう で見み た設計図せっけいず がこれである。2つの量子りょうし ビットのあいだを微小管びしょうかん や神経細胞しんけいさいぼう や脳のう オルガノイドでつなぎ、もつれが媒介ばいかい されるかを測はか る。媒介ばいかい されなければ、予想よそう はそこで死し ぬ。約やく 10年じゅうねん の計画けいかく として書か かれている。
2. ミエリンの光子こうし 対たい を、生い きた組織そしき で見み る。 第だい 3章さんしょう の計算けいさん は、理論りろん 上じょう そういう放出ほうしゅつ が起お こりうるところまでしか言い っていない。単一たんいつ 光子こうし の検出器けんしゅつき と相関そうかん の測定そくてい は、すでに手元てもと にある技術ぎじゅつ である。出で れば、計算けいさん は事実じじつ になる。出で なければ、計算けいさん は計算けいさん のままで終お わる。
3. キセノンの同位体どういたい を、数かず を揃そろ えてやり直なお す。 マウス80匹ひき ・同位体どういたい 4種よんしゅ では足た りない。事前じぜん 登録とうろく して、数かず を揃そろ えて、別べつ の研究室けんきゅうしつ でやる。再現さいげん すれば、あの報告ほうこく は段だん を1つ上あ がる。
4. 真空しんくう 場ば との結合けつごう を、暖あたた かく乱みだ れた系けい へ運はこ ぶ。 第だい 2章にしょう の実験じっけん は絶対零度ぜったいれいど のすぐ上うえ だった。温度おんど を上あ げ、乱みだ れを増ふ やし、水みず を入い れていく。どこで効果こうか が消き えるのか ── その境目さかいめ が見み つかれば、半導体はんどうたい から脳のう までの距離きょり が、はじめて数字すうじ になる。 これは意識いしき の話はなし ではなく物性ぶっせい の話はなし として進すす む。だからこそ進すす む。
5. 意識いしき の理論りろん どうしを、事前じぜん 登録とうろく して戦たたか わせる。 2025年ねん の大規模だいきぼ な共同研究きょうどうけんきゅう では、統合とうごう 情報じょうほう 理論りろん と大域たいいき 作業さぎょう 空間くうかん 理論りろん のどちらも予測よそく を一部いちぶ 外はず した。決着けっちゃく はしない。だが外はず れた予測よそく の数かず だけ、壁かべ の形かたち が精確せいかく になる。
6. 報告ほうこく に頼たよ らない指標しひょう を、言葉ことば を持も たない相手あいて へ。 第だい 3章さんしょう で見み た摂動せつどう 複雑性ふくざつせい 指標しひょう を、動物どうぶつ や赤あか ん坊ぼう や脳のう オルガノイドへ広ひろ げる。ここは、装置そうち より先さき に倫理りんり の側がわ の準備じゅんび が要い る。
3 仮説かせつ ・反証はんしょう 可能かのう
この先の10年に置かれる装置 どれも「何が出れば前へ進み、何が出れば死ぬか」が先に書かれている この先の10年に置かれる装置 どれも「何が出れば前へ進み、何が出れば死ぬか」が先に書かれている 1 生体の物質は、量子のチャネルになれるか 2つの量子ビットのあいだで、もつれが媒介されれば前へ。されなければ予想は死ぬ 2 ミエリンの光子対を、生きた組織で見る 計算はある。観測はゼロ。相関を持った光子対が検出されれば、計算は事実になる 3 キセノンの同位体を、数を揃えてやり直す 事前登録して、別の研究室で。再現すれば段が1つ上がる 4 真空場との結合を、暖かく乱れた系へ運ぶ どこまで温度を上げても効果が残るのか。その境目が、脳までの距離を数字にする 5 意識の理論どうしを、事前登録して戦わせる 決着はしない。だが外れた予測の数だけ、壁の形が精確になる 6 報告に頼らない指標を、言葉を持たない相手へ 動物、赤ん坊、脳オルガノイド。倫理の側の準備が、先に要る どれも、外れ方が先に書いてある。それがこの一覧の値打ちである。 10年後、この6つのうちいくつが残っているかは、誰にも分からない。 分からないまま、装置はもう組まれ始めている。 タップで拡大かくだい
図ず 49この先さき の10年じゅうねん に、実際じっさい に置お かれることになる装置そうち の一覧いちらん 。 どれも「何なに が出で れば前まえ へ進すす み、何なに が出で れば死し ぬか」が先さき に書か かれている。それがこの一覧いちらん の値打ねう ちであって、内容ないよう が正ただ しそうかどうかではない。10年後ねんご にいくつ残のこ っているかは、誰だれ にも分わ からない。 本文ほんぶん が扱あつか った論文ろんぶん が自みずか ら掲かか げている検証けんしょう 計画けいかく を並なら べたもの
踏ふ み台だい 宇宙うちゅう は、自分じぶん を見み る目め を持も ってしまった
100年ねん 前まえ 、生命せいめい は特別とくべつ な力ちから で動うご いていると考かんが えられていた。生気論せいきろん という。分子ぶんし 生物学せいぶつがく がそれを溶と かした。問と いは消き えなかった ── 答こた えられる形かたち になった。
意識いしき について、私わたし たちがいまいる場所ばしょ は、生気論せいきろん が退場たいじょう する少すこ し手前てまえ あたりなのかもしれない。あるいは、まったく違ちが う場所ばしょ なのかもしれない。それを決き めるのは、この先さき の10年じゅうねん に置お かれる装置そうち である。
ただ、一ひと つだけ、はっきりしたことがある。
私わたし たちはいま、宇宙うちゅう のいちばん底そこ にある層そう ── 真空しんくう のゆらぎ ── と、自分じぶん にとっていちばん確たし かなもの ── いま感かん じているこの感かん じ ── を、同おな じ一ひと つの記述きじゅつ の中なか に置お けるかどうかを、初はじ めて実験じっけん の言葉ことば で問と える場所ばしょ に立た っている。
100年ねん 前まえ なら、この問と いは詩し か宗教しゅうきょう のものだった。いまは、共振器きょうしんき までの距離きょり と、麻酔ますい ガスの濃度のうど と、光子こうし の相関そうかん という形かたち をしている。答こた えは出で ていない。だが問と いが装置そうち の形かたち に翻訳ほんやく された ということは、それだけで一ひと つの達成たっせい である。
真空しんくう は空そら ではなかった。脳のう は空箱からばこ ではなかった。三みっ つめの空そら については、まだ何なに も言い えない。それでも ── 「言い えない」ということを、これだけ精確せいかく に言い えるようになった。 精確せいかく な「わからない」は、次つぎ の実験じっけん の設計図せっけいず である。
宇宙うちゅう は138億おく 年ねん かけて、自分じぶん を見み る目め を持も った。その目め が何なに でできているのかを、いま目め 自身じしん が調しら べている。この円環えんかん に外側そとがわ は無な い ── 終章しゅうしょう はそう書か いた。だが外側そとがわ が無な いことは、内側うちがわ を調しら べられないことを意味いみ しない。
今夜こんや もあなたは消き える。そして明日あす の朝あさ 、また戻もど ってくる。戻もど ってこられる理由りゆう を、私わたし たちはまだ本当ほんとう には知し らない。知し らないまま、毎晩まいばん それを繰く り返かえ している。これほど身近みじか で、これほど大おお きな謎なぞ は、ほかにない。
崖がけ から落お とすつもりはなかった。ただ、縁えん まで案内あんない したかった。
そこから先さき へ行い くかどうかは、あなたが決き めることである。
今夜こんや も、あなたは眠ねむ る。まぶたが落お ちて、意識いしき が途切とぎ れる。その瞬間しゅんかん を、あなたは見届みとど けられない。明日あす の朝あさ 、また戻もど ってくる。
どこから戻もど ってくるのかを、まだ誰だれ も説明せつめい できていない。