原げん 書しょ の導入どうにゅう
キーワードの覚おぼ え方ほう
キーワードは「グループ化か 」して覚おぼ える
この章しょう では、テーマや分野ぶんや にかかわらず、現代げんだい 文ぶん の問題もんだい 文ぶん に頻繁ひんぱん に登場とうじょう するキーワードを取と り上あ げている。現代げんだい 文ぶん を苦手にがて と感かん じている人ひと は、まずは本章ほんしょう のキーワードをしっかりとマスターしてほしい。
さて、このようなキーワードを効率こうりつ よく習得しゅうとく するには、どうしたらよいだろうか。ここで二ふた つのコツ を紹介しょうかい する。
一ひと つ目め のコツは、似に たようなキーワードをグループ化か する というものだ。キーワードの中なか には、辞書じしょ 的てき な意味いみ は異こと なるが、ある状況じょうきょう や現象げんしょう に対たい して、同おな じようなニュアンスに使つか われるものがある。
たとえば「普遍ふへん 」と「抽象ちゅうしょう 」は、〈共通きょうつう して当あ てはまる〉 という点てん で共通きょうつう しているし、「普遍ふへん 」「絶対ぜったい 」「一元いちげん 」は、〈唯一ゆいいつ それだけ〉 〈例外れいがい を認みと めない〉 という類似るいじ 点てん がある。このように、複数ふくすう のキーワードをグループとして覚おぼ えることで、キーワードに対たい する理解りかい が深ふか まるはずだ。
同おな じように、「虚構きょこう (フィクション)」と「恣意しい 」、「パラドックス(逆説ぎゃくせつ )」「アイロニー」「ディレンマ」、「自己じこ 目的もくてき 化か 」と「倒錯とうさく 」などもグループで捉とら えられる。
「反はん 意い 語ご 」の知識ちしき は設問せつもん 解法かいほう にも役やく 立た つ
二ふた つ目め のコツは、反はん 意い 語ご をセットで覚おぼ えるようにすること だ。たとえば「相対そうたい 」という語ご は、「他ほか との比較ひかく で成な り立た つ」という辞書じしょ 的てき な定義ていぎ を覚おぼ えると同時どうじ に、〈絶対ぜったい の逆ぎゃく 〉 のように理解りかい すると、語ご のイメージがより明確めいかく に把握はあく できるだろう。
また反はん 意い 語ご の知識ちしき は、文章ぶんしょう 読解どっかい だけでなく、設問せつもん を解と く際さい にも有効ゆうこう である。選択肢せんたくし 問題もんだい では、傍線ぼうせん 部ぶ 領域りょういき に含ふく まれるキーワードの反はん 意い 語ご を考かんが えることが、解答かいとう のヒントになることが多おお くあるし、記述きじゅつ 問題もんだい でも、反はん 意い 語ご の知識ちしき は表現ひょうげん のバリエーションを広ひろ げることになる。
Macro — 語ご の布置ふち
四よっ つの基本きほん 語ご が張は る平面へいめん
普遍・特殊・具体・抽象の二軸配置 横軸を個別から共通、縦軸を知覚可から知覚不可とし、四語を四象限に配置した図。
INDIVIDUAL
COMMON
NOT PERCEIVABLE
PERCEIVABLE
特殊
普遍
具体
抽象
2 1 3 4
例外の有無
知覚の可否
個別 一般
具象 概念
絶対 / 相対 主観 / 客観
周辺語は本章の外へ続く 横軸よこじく 個別こべつ ⟷ 共通きょうつう / 縦軸たてじく 知覚ちかく 可か ⟷ 知覚ちかく 不可ふか
この章しょう の最初さいしょ の四よん 語ご は、二本にほん の軸じく が交まじ わる平面へいめん の上うえ に置お かれる。横軸よこじく は例外れいがい を許ゆる すか 、縦軸たてじく は知覚ちかく できるか である。二ふた つの軸じく は独立どくりつ しているので、四よっ つの組く み合あ わせがそのまま四よん 語ご になる。周辺しゅうへん に置お いた語ご は本章ほんしょう の外そと へ続つづ き、章しょう を追お うごとにこの平面へいめん が埋う まっていく。
Section 01
普遍ふへん /特殊とくしゅ
1 ★★★
普遍ふへん ⚠
ふへん [0] ふ へ ん 平板へいばん 型がた
語ご 構成こうせい
普ひろし あまねく・広ひろ く + 遍ぺん あまねく・すべてに
同義どうぎ の字じ を重かさ ねた熟語じゅくご 。二字にじ がともに〈すべてに行い き渡わた る〉を表あらわ す。
定義ていぎ
いついかなる時代じだい や場所ばしょ でも、当あ てはまること。
『現代げんだい 文ぶん キーワード読解どっかい 』1-1 ☑1
原げん 書しょ の解説かいせつ
普遍ふへん とは、例外れいがい なく当あ てはまるということである。たとえば、「すべての物質ぶっしつ には質量しつりょう がある」ことや「1+1=2」というのは、変か わることのない普遍的ふへんてき 真実しんじつ である。
なお、普遍ふへん には「一般いっぱん 」という類るい 義ぎ 語ご があり、同おな じような意味いみ で用もち いられることも多おお いが、こちらは〈大体だいたい 当あ てはまる〉 ということ。「普遍ふへん 」に例外れいがい はないが、「一般いっぱん 」には例外れいがい があると理解りかい しておけばよい。
使用しよう の境界きょうかい 例外れいがい を一ひと つも許ゆる さない。例外れいがい があるなら「一般いっぱん 」を使つか う。「ほとんどの場合ばあい に当あ てはまる」を「普遍的ふへんてき 」と書か くのは不可ふか 。
用法ようほう 主張しゅちょう の強度きょうど が最もっと も高たか い語ご である。書か いた時点じてん で反例はんれい を一ひと つも認みと めないと宣言せんげん することになる。そのため評ひょう 論文ろんぶん では〈普遍ふへん を装そう う特殊とくしゅ 〉という批判ひはん の型かた が頻出ひんしゅつ する。ある文化ぶんか の価値かち 観かん を「普遍的ふへんてき 」と称しょう することは、他ほか を測はか る基準きじゅん として自みずか らを立た てることであり、原げん 書しょ の入試にゅうし 文ぶん もその構図こうず を扱あつか う。副詞ふくし 的てき に「普遍的ふへんてき に」と使つか うと硬かた いので、話はなし の流なが れでは「あらゆる時代じだい を通つう じて」に置お き換か わることが多おお い。
用例ようれい
天てん は人ひと の上うえ に人ひと を造つく らず人ひと の下した に人ひと を造つく らずと云い えり。福沢ふくざわ 諭吉ゆきち 『学問がくもん のすゝめ』初編しょへん (1872)
この一文いちぶん に「普遍ふへん 」の語ご は無な い。しかし述の べていることは普遍ふへん そのもの である。「人ひと の上うえ 」「人ひと の下した 」という例外れいがい を、天てん が一ひと つも造つく らなかったと言い い切き っている。ここで福沢ふくざわ が「多おお くの人ひと は」「おおむね人ひと は」と書か いていたら、身分制みぶんせい を否定ひてい する力ちから は消き える。例外れいがい を一ひと つも認みと めないからこそ、既存きそん の身分みぶん 秩序ちつじょ を丸まる ごと無効むこう にできる 。普遍ふへん という語ご の強つよ さは、この「言い い切き り」の強つよ さと同おな じものである。
ゆく河かわ の流なが れは絶た えずして、しかももとの水みず にあらず。淀よど みに浮うき ぶうたかたは、かつ消き えかつ結むす びて、久きゅう しくとゞまりたる例れい なし。鴨長明かものちょうめい 『方丈ほうじょう 記き 』冒頭ぼうとう (1212)
「久きゅう しくとゞまりたる例れい なし」— 例れい が無な い、つまり例外れいがい が無な い 。長明ちょうめい はまず河かわ という一ひと つの具体ぐたい から始はじ め、泡あわ へ移うつ り、やがて人ひと と住じゅう まいへ及およ ぼしていく。この運はこ びは特殊とくしゅ から普遍ふへん へ登のぼ る手て つき そのもので、評ひょう 論文ろんぶん がもっとも好この む型かた である。なお現代語げんだいご で「万物ばんぶつ は流転るてん するのが普遍的ふへんてき な真理しんり だ」と書か けば同おな じ内容ないよう になるが、長明ちょうめい は「例れい なし」という否定ひてい 形けい で言い った。普遍ふへん は肯定こうてい でも否定ひてい でも立た てられる。
人権じんけん は普遍的ふへんてき な価値かち である。
国くに や文化ぶんか による例外れいがい を認みと めない、という立場たちば 表明ひょうめい になる。もし「一般的いっぱんてき な価値かち 」と書か けば、そうでない社会しゃかい の存在そんざい を認みと めたことになり、主張しゅちょう は一段いちだん 弱じゃく まる。この一語いちご の差さ が、そのまま論ろん の強度きょうど の差さ になる 。
×ほとんどの国くに で普遍的ふへんてき に見み られる。
「ほとんど」は例外れいがい の存在そんざい を認みと める語ご 、「普遍ふへん 」は認みと めない語ご 。同おな じ文ぶん の中なか で正面しょうめん から衝突しょうとつ している。「広ひろ く見み られる」「一般的いっぱんてき に見み られる」が正ただ しい。入試にゅうし ではこの型かた の言い い換か えが選択肢せんたくし の識別しきべつ 点てん になる 。
原げん 書しょ の反はん 意い 語ご ・関連かんれん 語ご 反はん 2 特殊とくしゅ / 関せき 一般いっぱん
派生はせい 形けい
普遍的ふへんてき [0] 「的てき 」は名詞めいし を連体れんたい ・連れん 用よう に開ひら く接尾せつび 辞じ 。同時どうじ に断定だんてい をわずかに緩ゆる める働はたら きがある。「普遍ふへん の真理しんり 」より「普遍的ふへんてき な真理しんり 」のほうが柔やわ らかいのは、「的てき 」が「〜の性質せいしつ を帯お びた」という一段いちだん のクッションを挟はさ むため。
普遍性ふへんせい [0] 「性せい 」は性質せいしつ を名詞めいし として取と り出だ す接尾せつび 辞じ 。これによって「普遍性ふへんせい を持も つ/欠か く/認みと める」のように、有無うむ を論ろん じたり主語しゅご ・目的語もくてきご に据す えたりできるようになる。議論ぎろん の俎上そじょう に載の せるための形かたち 。
普遍化ふへんか [0] 「化か 」は状態じょうたい の変化へんか を表あらわ す 。つまり「もとは普遍ふへん でなかったものを普遍ふへん にする」という運動うんどう が含ふく まれる。ここから「自分じぶん の経験けいけん を安易あんい に普遍ふへん 化か する」のような批判的ひはんてき 用法ようほう が生う まれる — 変化へんか させた主体しゅたい の恣意しい を問と える形かたち だからである。
普遍主義ふへんしゅぎ [0] 「主義しゅぎ 」は立場たちば ・イデオロギーの名な にする接尾せつび 辞じ 。名な がついた瞬間しゅんかん 、それは反対はんたい の立場たちば (相対そうたい 主義しゅぎ ・特殊とくしゅ 主義しゅぎ )を持も つ一ひと つの党派とうは になる。評ひょう 論文ろんぶん で「普遍ふへん 主義しゅぎ 」と書か かれていたら、すでに批判ひはん の対象たいしょう として枠わく に入い れられている と読よ んでよい。
コロケーション
普遍的ふへんてき な真理しんり 同義どうぎ の重かさ ね「真理しんり 」はそれ自体じたい すでに例外れいがい を許ゆる さない語ご である。そこへ「普遍的ふへんてき な」を重かさ ねるのは、論理的ろんりてき には冗長じょうちょう になりうる。それでもこの形かたち が定着ていちゃく しているのは、「あなたにとっての真理しんり 」という相対そうたい 化か された用法ようほう が広ひろ まったため で、「普遍的ふへんてき な」はその相対そうたい 化か を封ふう じ直なお す補強ほきょう として働はたら く。
普遍性ふへんせい を持も つ属性ぞくせい の帰属きぞく 「持も つ」は本来ほんらい 、所有しょゆう できるものに使つか う動詞どうし である。それを抽象ちゅうしょう 名詞めいし に接続せつぞく することで、普遍性ふへんせい を「その対象たいしょう に備そなえ わった性質せいしつ 」として扱あつか える ようになる。「この作品さくひん は普遍性ふへんせい を持も つ」と言い えば、評価ひょうか する側がわ の主観しゅかん ではなく作品さくひん の側がわ の性質せいしつ として語かた れる — この転換てんかん が、批評ひひょう でこの形かたち が多た 用よう される理由りゆう である。
人類じんるい 普遍ふへん の価値かち 限定げんてい つきの普遍ふへん 「人類じんるい 」を冠かんむり する時点じてん で、対象たいしょう は人類じんるい に限定げんてい されている。厳密げんみつ には「人類じんるい という範囲はんい の内部ないぶ での普遍ふへん 」であって、無条件むじょうけん の普遍ふへん ではない。この語ご がしばしば政治的せいじてき な場面ばめん で用もち いられるのは、その限定げんてい を意識いしき させずに絶対ぜったい 性せい の響ひび きだけを借か りられるから である。評ひょう 論文ろんぶん がこの語ご を槍玉やりだま に挙あ げるときは、たいていこの点てん を突つ いている。
普遍ふへん 妥当性だとうせい 哲学てつがく の術語じゅつご カント以来いらい の哲学てつがく 用語ようご で、「誰だれ が判断はんだん しても同おな じ結論けつろん になること」を指さ す。日常にちじょう 語ご の「普遍ふへん 」より射程しゃてい が狭せま く、判断はんだん の正ただ しさに限かぎ って使つか う 。美び や道徳どうとく の議論ぎろん で現あらわ れたら、「主観的しゅかんてき なはずのものに客観きゃっかん 性せい を認みと められるか」という問と いが背後はいご にある。
格かく 硬かた ・学術がくじゅつ 論文ろんぶん ・評ひょう 論ろん でのみ使つか う。会話かいわ では不自然ふしぜん 。
類るい 語ご と差さ
一般いっぱん 例外れいがい を許ゆる す「一般いっぱん に」は「多おお くの場合ばあい 」であって全部ぜんぶ ではない。反例はんれい が出で ても命題めいだい は生い き残のこ る。普遍ふへん は反例はんれい 一ひと つで崩くず れる。この差さ が入試にゅうし の設問せつもん になる。
通つう 有ゆう 共通きょうつう して持も っている複数ふくすう のものが同おな じ性質せいしつ を分わ け持も っている状態じょうたい 。全体ぜんたい に行い き渡わた っているかは問と わない。「日本人にほんじん に通つう 有ゆう の感覚かんかく 」は日本人にほんじん 以外いがい を排除はいじょ しない。
不変ふへん 時間軸じかんじく で変か わらない変化へんか の有無うむ だけを言い う。範囲はんい は問と わない。「不変ふへん の真理しんり 」は時間じかん について、「普遍ふへん の真理しんり 」は場所ばしょ と対象たいしょう について言い う。
汎用はんよう 用途ようと が広ひろ い使つか える範囲はんい の広こう さを言い う技術ぎじゅつ 語ご 。原理げんり の話はなし ではないので評ひょう 論文ろんぶん の概念がいねん 語ご としては使つか えない。
EN universalZH 普遍(あまねく行き渡る・よくある, pǔbiàn)
日中にっちゅう のズレ
中国語ちゅうごくご の 普遍ふへん (pǔbiàn)は頻度ひんど を表あらわ す。「よくある」「広ひろ く見み られる」。
原げん 書しょ は「一般いっぱん 」と「普遍ふへん 」を、例外れいがい があるか無な いか で分わ けている。中国語ちゅうごくご の「普遍ふへん 」は、その線せん の「一般いっぱん 」の側がわ に立た っている。
日本語にほんご の評ひょう 論文ろんぶん で「普遍ふへん 」と書か いたとき、例外れいがい は一ひと つも許ゆる されない。
2 ★★★
特殊とくしゅ
とくしゅ [0] と く しゅ 平板へいばん 型がた
語ご 構成こうせい
特とく とりわけ・きわだつ + 殊こと ことなる
定義ていぎ
他ほか のものとは異こと なること。限かぎ られた部分ぶぶん や状況じょうきょう にしか当あ てはまらないこと。
『現代げんだい 文ぶん キーワード読解どっかい 』1-1 ☑2
原げん 書しょ の解説かいせつ
特殊とくしゅ とは普遍ふへん の反対はんたい であるから、例外的れいがいてき であること、限かぎ られたものにしか当あ てはまらないことを言い う。
たとえば、「日本にほん 的てき 経営けいえい の特殊とくしゅ 性せい 」と言い えば、日本にほん の経営けいえい だけに見み られる事情じじょう のことである(反対はんたい に、「日本にほん 的てき 経営けいえい の普遍性ふへんせい 」と言い えば、日本にほん 的てき な経営けいえい ノウハウが世界中せかいじゅう で通用つうよう することを意味いみ する)。
使用しよう の境界きょうかい 「他ほか と異こと なる」だけでは足た りない。適用てきよう の範囲はんい が限かぎ られていることを含ふく む。単たん に珍めずら しいだけなら「特異とくい 」「異例いれい 」を使つか う。
用法ようほう 評ひょう 論文ろんぶん では「普遍ふへん 」との対たい で使つか われ、単独たんどく では「特別とくべつ な」の意い で日常にちじょう 語ご としても使つか われる。日常にちじょう の「特殊とくしゅ な趣味しゅみ 」は珍めずら しさを言い うが、評ひょう 論ろん の「特殊とくしゅ 」は適用範囲てきようはんい の限定げんてい を言い う。この二ふた つの層そう が同おな じ語ご に同居どうきょ している。「特殊とくしゅ 化か 」は生物学せいぶつがく では機能きのう が特定とくてい の役割やくわり に絞しぼ られることを指さ し、評ひょう 論ろん の文脈ぶんみゃく と重心じゅうしん が違ちが う。「日本にほん 的てき 経営けいえい の特殊とくしゅ 性せい 」のように〈○○の特殊とくしゅ 性せい 〉の形かたち が最もっと も多おお い。
用例ようれい
人間にんげん は誰だれ でも猛獣もうじゅう 使し であり、その猛獣もうじゅう に当とう るのが、各人かくじん の性せい 情じょう だと云い うことだ。己おのれ の場合ばあい 、この尊大そんだい な羞恥心しゅうちしん が猛獣もうじゅう だった。虎とら だったのだ。中島なかじま 敦あつし 『山月さんげつ 記き 』(1942)
李徴りちょう は自分じぶん の身み に起お きたことを語かた りながら、「人間にんげん は誰だれ でも」と普遍ふへん の側がわ へ一度いちど 上あ げてから 、「己おのれ の場合ばあい 」と特殊とくしゅ へ降お りる 。この上下じょうげ 運動うんどう が独白どくはく に説得力せっとくりょく を与あた えている。特殊とくしゅ は単独たんどく では「珍めずら しい話はなし 」で終お わる。普遍ふへん の枠わく を先さき に示しめ し、その中なか の一いち 例れい として自分じぶん を置お くとき、特殊とくしゅ ははじめて他人たにん に届とど く。特殊とくしゅ と普遍ふへん は対立たいりつ するだけでなく、往復おうふく することで論ろん になる 。
日本にほん 的てき 経営けいえい の特殊とくしゅ 性せい が論ろん じられてきた。
「日本にほん だけに当あ てはまる」という限定げんてい の主張しゅちょう 。ここで注意ちゅうい すべきは、特殊とくしゅ を語かた るには比較ひかく の基準きじゅん が要い る こと。何なに と比くら べて特殊とくしゅ なのかが示しめ されないまま「日本にほん は特殊とくしゅ だ」と言い うとき、暗黙あんもく の基準きじゅん (多おお くは西洋せいよう )が普遍ふへん の位置いち に据す えられている。原げん 書しょ の入試にゅうし 文ぶん が突つ いているのはまさにこの構図こうず である。
この症例しょうれい は特殊とくしゅ だ。
医学いがく ・法学ほうがく など、規則きそく と例外れいがい を扱あつか う分野ぶんや での用法ようほう 。「一般的いっぱんてき な処置しょち が当あ てはまらない」という実務じつむ 的てき な判断はんだん を含ふく む。評ひょう 論ろん の「特殊とくしゅ 」が価値かち の問題もんだい であるのに対たい し、こちらは適用範囲てきようはんい の問題もんだい にとどまる。
△彼かれ は特殊とくしゅ な趣味しゅみ を持も っている。
日常にちじょう 語ご では「風かぜ 変か わりな」の意い で使つか われ、しばしばやや否定的ひていてき な含ふく み を帯お びる。評ひょう 論文ろんぶん の「特殊とくしゅ 」にこの含ふく みは無な く、「適用範囲てきようはんい が限かぎ られている」という中立ちゅうりつ の記述きじゅつ である。同おな じ語ご で二ふた つの層そう が同居どうきょ しているので、どちらの層そう で使つか われているかを文脈ぶんみゃく から見極みきわ める必要ひつよう がある。
原げん 書しょ の反はん 意い 語ご ・関連かんれん 語ご 反はん 1 普遍ふへん / 関せき 一般いっぱん
派生はせい 形けい
特殊性とくしゅせい [0] 性質せいしつ として取と り出だ した形かたち 。「特殊とくしゅ 性せい を持も つ/論ろん じる/否定ひてい する」と、議論ぎろん の対象たいしょう として据す えられる ようになる。「日本にほん の特殊とくしゅ 性せい 」のように、地域ちいき や集団しゅうだん を冠かんむり して使つか われることが多おお い。
特殊化とくしゅか [0] 一般的いっぱんてき なものを個別こべつ の条件じょうけん に合あ わせて絞しぼ り込こ む変化へんか 。生物学せいぶつがく では「機能きのう が特定とくてい の役割やくわり に絞しぼ られる」ことを指さ し、評ひょう 論ろん の文脈ぶんみゃく とは重心じゅうしん が違ちが う 。専門語せんもんご と一般いっぱん 語ご が同おな じ形かたち を共有きょうゆう している例れい である。
特殊的とくしゅてき [0] 「特殊とくしゅ な」に比くら べて使用しよう 頻度ひんど は低ひく い。哲学てつがく の翻訳ほんやく 文体ぶんたい で「普遍的ふへんてき /特殊とくしゅ 的てき 」と対たい にするときに現あらわ れる。対句ついく を揃そろ えるための形かたち と考かんが えてよい。
コロケーション
特殊とくしゅ な事情じじょう 限定げんてい の言い い訳やく 「事情じじょう 」は理由りゆう を指さ す語ご 。そこへ「特殊とくしゅ な」を付つ けると、一般いっぱん の規則きそく が適用てきよう されないことの弁明べんめい になる。「特殊とくしゅ な事情じじょう があった」は、規則きそく 違反いはん を認みと めつつ責任せきにん を減げん じる型かた の言い い方かた で、議論ぎろん の場ば では「では、その特殊とくしゅ 性せい は誰だれ が判定はんてい するのか」が反論はんろん 点てん になる。
特殊とくしゅ 性せい を強調きょうちょう する差異さい の政治せいじ 「強調きょうちょう する」は行為こうい を表あらわ す動詞どうし 。つまり特殊とくしゅ 性せい は発見はっけん されるものではなく、誰だれ かが強調きょうちょう する(=作つく り出だ す)もの として語かた られている。この形かたち が現あらわ れたら、筆者ひっしゃ は特殊とくしゅ 性せい そのものより「強調きょうちょう する側がわ の意図いと 」を問題もんだい にしていることが多おお い。
特殊とくしゅ から普遍ふへん へ論ろん の運動うんどう 学問がくもん の手続てつづ きそのものを指さ す定型ていけい 句く 。個別こべつ の事例じれい を集あつ め、共通きょうつう する構造こうぞう を取と り出だ す帰納きのう の運動うんどう を表あらわ す。「へ」という方向ほうこう を示しめ す助詞じょし が、この句く の要かなめ である。逆向ぎゃくむ きの「普遍ふへん から特殊とくしゅ へ」は演繹えんえき を指さ し、両者りょうしゃ はしばしば対たい で置お かれる。
特殊とくしゅ 解かい 数学すうがく からの転用てんよう 数学すうがく では、一般いっぱん 解かい のうち条件じょうけん を満み たす個別こべつ の解かい を指さ す。評ひょう 論ろん に転用てんよう されると「一般いっぱん 論ろん では割わ り切き れない個別こべつ の答こた え」の意い になる。術語じゅつご を借か りる書か き手て は、その分野ぶんや の厳密げんみつ さの響ひび きも一緒いっしょ に借か りている ことに注意ちゅうい したい。
格かく 中なか 書か き言葉ことば ・会話かいわ の両方りょうほう で使つか える。
類るい 語ご と差さ
個別こべつ 一ひと つ一ひと つを取と り出だ す全体ぜんたい から切き り離はな して一ひと つずつ見み る視点してん 。他ほか と比くら べて違ちが うかは問と わない。「個別こべつ に対応たいおう する」は一件いっけん ずつという意味いみ で、珍めずら しさを含ふく まない。
固有こゆう そのものだけが持も つ 他ほか に無な いことを積極的せっきょくてき に言い う。「日本にほん 固有こゆう の植物しょくぶつ 」は日本にほん にしかないという断定だんてい 。特殊とくしゅ は範囲はんい が限かぎ られていることを言い うだけで、他ほか に無な いとまでは言い わない。
例外れいがい 規則きそく から外はず れる規則きそく が先さき にあって、そこから外はず れたものを指さ す。規則きそく の存在そんざい が前提ぜんてい 。特殊とくしゅ は規則きそく を前提ぜんてい としない。
特異とくい 際立きわだ って異こと なる異常いじょう さ・珍めずら しさに重心じゅうしん 。理学りがく では「特異点とくいてん 」のように使つか う。評ひょう 論文ろんぶん で「特異とくい な事例じれい 」と書か くと価値かち 判断はんだん が混ま ざりやすい。
EN particularZH 特殊(特別な・特殊な, tèshū)
対立たいりつ の軸じく
普遍ふへん /特殊とくしゅ の軸じく = 例外れいがい の有無うむ
普遍ふへん 例外れいがい は一ひと つも無な い。すべてに当あ てはまる。
例外れいがい の有無うむ
特殊とくしゅ 限かぎ られた範囲はんい にしか当あ てはまらない。
入試にゅうし 文ぶん
いくつかの点てん で、日本にほん のやり方かた がアメリカのやり方かた とはちがうことは、たしかに否定ひてい できない。しかし、そのことを根拠こんきょ にして日本にほん を「2 特殊とくしゅ 」だと批判ひはん するためには、アメリカのやり方かた が――それだけがとくに「1 普遍ふへん 」だということを、前提ぜんてい にしなければならないだろう。それは傲慢ごうまん だと、率直そっちょく にいって私わたし は考かんが える。ここで皮肉ひにく なのは、長年ながねん にわたる日本人にほんじん の主張しゅちょう を、アメリカ側がわ がいわば逆手さかて に取と っている感かん がある点てん ではないだろうか。日本にほん ・日本人にほんじん だけがとくに「特殊とくしゅ 」だと長年ながねん いい続つづ けてきたのは、ほかならぬ日本人にほんじん 自身じしん ではないのか――と。
出典しゅってん 飯田いいだ 経夫つねお 『経済学けいざいがく 誕生たんじょう 』 / 出題しゅつだい 大阪学院大学おおさかがくいんだいがく ・経済学部けいざいがくぶ / 原げん 書しょ p.16
読解どっかい のポイント〈アメリカ=普遍ふへん 〉 → 批判ひはん 傲慢ごうまん な考かんが え方かた 〈日本にほん =特殊とくしゅ 〉 → 皮肉ひにく なのは 日本人にほんじん 自身じしん が日本にほん を「特殊とくしゅ 」だと主張しゅちょう してきたこと → アメリカが逆手さかて に取と っている要約ようやく アメリカが、自分じぶん たちが「普遍ふへん 」であることを前提ぜんてい に日本にほん を「特殊とくしゅ 」だと批判ひはん するのは傲慢ごうまん だが、皮肉ひにく なことに、それは日本人にほんじん 自身じしん が日本にほん を「特殊とくしゅ 」だと言い いつづけてきたためであり、アメリカはそれを逆手さかて に取と っている。
語ご 法ほう の観察かんさつ 反はん 語形ごけい 「〜ではないだろうか」が、断定だんてい を避さ けながら断定だんてい と同おな じ働はたら きをしている。評ひょう 論文ろんぶん では主張しゅちょう の強度きょうど を落お とさずに反論はんろん の余地よち を残のこ すためにこの形かたち が使つか われる。
普遍・一般・特殊を例外の許容度で並べた図 左から普遍(例外ゼロ)、一般(例外あり)、特殊(限られた場合のみ)を一本の帯の上に並べ、主張の強さが右へ行くほど弱まることを示す。
普遍 一般 特殊 例外ゼロ 例外あり 限られた場合のみ NO EXCEPTION THIS CASE ONLY 右へ行くほど、言い切れる範囲は狭く、主張は弱くなる 「例外を認めるか」の一本で三語は並ぶ 普遍と書いた瞬間、反例ひとつで主張は崩れる
例外れいがい の許容きょよう 度ど で並なら べた三さん 語ご
Section 02
具体ぐたい /抽象ちゅうしょう
3 ★★★
具体ぐたい
ぐたい [0] ぐ た い 平板へいばん 型がた
語ご 構成こうせい
具ぐ そなえる・かたちをもつ + 体からだ からだ・すがた
定義ていぎ
物事ものごと が知覚ちかく し得え る形かたち や内容ないよう をもっていること。現実げんじつ にもとづいていること。
『現代げんだい 文ぶん キーワード読解どっかい 』1-1 ☑3
原げん 書しょ の解説かいせつ
形かたち があって見み たり触さわ ったりできるものは、みな具体的ぐたいてき なもの だ。また「具体的ぐたいてき に話はな す」とは、聞き いている人々ひとびと の現実げんじつ にして話はな すということである。評ひょう 論ろん の文章ぶんしょう に出で てくる「具体例ぐたいれい 」を考かんが えるとわかりやすいだろう。
関連かんれん 語ご には、「具象ぐしょう 」や「具ぐ 現げん 」がある。「具象ぐしょう 」とは形かたち があること、「具ぐ 現げん 」とは形かたち を伴ともな ってはっきり表あらわ れることの意い である。
使用しよう の境界きょうかい 知覚ちかく できる形かたち や内容ないよう を伴ともな うこと。詳くわ しいだけでは具体ぐたい ではない。目め の前まえ に据す えられるかどうかが線せん 。
用法ようほう 「具体的ぐたいてき に言い うと」は評ひょう 論文ろんぶん でも会話かいわ でも、前まえ の抽象的ちゅうしょうてき な述の べ方ほう を言い い換か えて例れい を挙あ げる合図あいず になる。読解どっかい では、この語ご が出で た直後ちょくご に例示れいじ が来く ると予測よそく できる。逆ぎゃく に「具体性ぐたいせい を欠か く」は批判ひはん の定型ていけい で、〈言い っていることが確たし かめられない〉という意味いみ になる。「具体化ぐたいか 」はビジネス文脈ぶんみゃく では〈計画けいかく を実行じっこう 段階だんかい に落お とす〉ことを指さ し、評ひょう 論ろん の〈形かたち を与あた える〉とは重心じゅうしん が違ちが う。
用例ようれい
春はる はあけぼの。やうやう白しろ くなりゆく山やま ぎは、少すこ し明みん りて、紫むらさき だちたる雲くも のほそくたなびきたる。清少納言せいしょうなごん 『枕草子まくらのそうし 』第一だいいち 段だん (1001頃ころ )
ここには「美うつく しい」も「趣おもむき がある」も書か かれていない。あるのは白しろ くなる・明みん るむ・雲くも が細ほそ くたなびく という、すべて目め で捉とら えられる事実じじつ だけである。それでも読者どくしゃ は美び を受う け取と る。これが具体ぐたい の力ちから で、抽象ちゅうしょう 語ご で「美うつく しい」と言い うより、知覚ちかく できる形かたち を置お くほうが強つよ く伝つた わる ことがある。評ひょう 論文ろんぶん が「具体的ぐたいてき に述の べよ」と要求ようきゅう するのは、この効果こうか を求もと めてのことでもある。
吾輩わがはい は猫ねこ である。名前なまえ はまだ無な い。どこで生せい れたか頓とん と見当けんとう がつかぬ。夏目なつめ 漱石そうせき 『吾輩わがはい は猫ねこ である』冒頭ぼうとう (1905)
「名前なまえ はまだ無な い」— 名前なまえ とは、個体こたい を他ほか から切き り分わ けて指さ すためのもっとも基本的きほんてき な具体化ぐたいか の装置そうち である。それが無な いと宣言せんげん することで、この猫ねこ は「どこの誰だれ でもない一いち 匹ひき 」=具体ぐたい を欠か いた存在そんざい として立た ち上あ がる。語かた り手て が終始しゅうし 社会しゃかい を俯瞰ふかん できるのは、この初期設定しょきせってい のためである。
もっと具体的ぐたいてき に話はな してください。
日常にちじょう でもっとも多おお い用法ようほう 。求もと められているのは詳つまびらか しさではなく、検証けんしょう できる形かたち である。「頑張がんば ります」が具体的ぐたいてき でないのは、長なが さが足た りないからではなく、達成たっせい したかどうかを確たし かめる手て がかりが無な いからである。
×具体ぐたい な例れい を挙あ げる。
「具体ぐたい 」は名詞めいし であって形容けいよう 動詞どうし ではない。連体れんたい 修飾しゅうしょく には「具体的ぐたいてき な」を用もち いる。「具体例ぐたいれい 」という複合ふくごう 名詞めいし なら成立せいりつ する ので、「具体例ぐたいれい を挙あ げる」と書か けばよい。
原げん 書しょ の反はん 意い 語ご ・関連かんれん 語ご 反はん 4 抽象ちゅうしょう / 関せき 具象ぐしょう /具ぐ 現げん
派生はせい 形けい
具体的ぐたいてき [0] 実際じっさい に使つか われるのはほぼこの形かたち である。「具体ぐたい 」単独たんどく は「具体ぐたい と抽象ちゅうしょう 」のように対たい 概念がいねん として並なら べるときにしか現あらわ れない 。名詞めいし のまま連体れんたい 修飾しゅうしょく に使つか えない点てん で、「普遍ふへん 」とは振ふ る舞ま いが違ちが う。
具体性ぐたいせい [0] 「具体性ぐたいせい に欠か ける」「具体性ぐたいせい を帯お びる」のように、程度ていど を論ろん じられる形かたち 。具体ぐたい か抽象ちゅうしょう かは本来ほんらい 〇か×かではなく連続れんぞく 量りょう であり、この形かたち はその連続れんぞく 性せい を扱あつか うために要い る。
具体化ぐたいか [0] 変化へんか を表あらわ す。抽象ちゅうしょう の側がわ から具体ぐたい の側がわ へ移うつ す運動うんどう 。「抽象ちゅうしょう 化か 」と正確せいかく に対たい をなす 数少かずすく ない形かたち で、二ふた つを並なら べると論ろん の往復おうふく がそのまま図ず になる。
具体例ぐたいれい [0] 「具体ぐたい 」が名詞めいし のまま複合ふくごう 語ご をつくった形かたち 。「具体的ぐたいてき な例れい 」と同義どうぎ だが、複合ふくごう 名詞めいし のほうが術語じゅつご らしく、硬かた い文体ぶんたい に馴染なじ む 。設問せつもん 文ぶん が「具体例ぐたいれい を挙あ げよ」と書か くのはこのため。
コロケーション
具体的ぐたいてき に話はな す検証けんしょう 可能性かのうせい の要求ようきゅう 「具体的ぐたいてき に」が求もと めているのは情報量じょうほうりょう ではなく確たし かめられる形かたち である。「たくさん努力どりょく した」を「毎まい 朝あさ 六ろく 時じ に起お きて二時間にじかん 解と いた」に替か えると具体ぐたい になるのは、後者こうしゃ が真偽しんぎ を確たし かめられるから。この基準きじゅん を握にぎ っておくと、記述きじゅつ 問題もんだい での減点げんてん が減へ る。
具体例ぐたいれい を挙あ げる主張しゅちょう への支ささ え「挙あ げる」は上うえ へ差さ し出だ す動作どうさ の語ご 。主張しゅちょう という高たか い位置いち に対たい して、下した から支ささ えとして差さ し出だ す という像ぞう が残のこ っている。評ひょう 論文ろんぶん の構造上こうぞうじょう 、具体例ぐたいれい は必かなら ず主張しゅちょう とセットで現あらわ れる — 例れい だけの段落だんらく があれば、その前後ぜんご に必かなら ず主張しゅちょう がある。
具体化ぐたいか する設計せっけい から実物じつぶつ へ構想こうそう ・計画けいかく など、まだ形かたち を持も たないものを形かたち にする変化へんか 。「計画けいかく が具体化ぐたいか する」は自動詞じどうし 的てき 、「計画けいかく を具体化ぐたいか する」は他動詞たどうし 的てき で、前者ぜんしゃ は事態じたい の成な り行い き、後者こうしゃ は誰だれ かの働はたら きかけ を含意がんい する。主語しゅご の有無うむ に注意ちゅうい して読よ むとよい。
血肉けつにく を持も った具体ぐたい 比喩ひゆ としての具体ぐたい 「血肉けつにく 」という身体しんたい の語ご を借か りることで、抽象ちゅうしょう =生せい 気き のないもの、具体ぐたい =生い きているもの という価値かち づけが持も ち込こ まれる。この対比たいひ 自体じたい が一ひと つの立場たちば であり、中立ちゅうりつ の記述きじゅつ ではないことを見抜みぬ けるかが読解どっかい の分わ かれ目め になる。
格かく 中なか 書か き言葉ことば ・会話かいわ の両方りょうほう で使つか える。
類るい 語ご と差さ
具象ぐしょう 形かたち を伴ともな ってはっきり表あらわ れる美び 術じゅつ で「具象ぐしょう 画が 」のように使つか う。輪郭りんかく がはっきりしていることに重心じゅうしん 。具体ぐたい は知覚ちかく 可能かのう かどうか、具象ぐしょう は形かたち が見み えるかどうか。
具ぐ 現げん 形かたち にして実現じつげん するまだ無な いものを形かたち にする動うご きを言い う。「理念りねん を具ぐ 現あらわ する」。具体化ぐたいか と近ちか いが、こちらは理想りそう が現実げんじつ になるという含ふく みが強つよ い。
個別こべつ 一ひと つ一ひと つを取と り出だ す数かず の話はなし 。具体ぐたい は感覚かんかく の話はなし 。具体的ぐたいてき だが一般的いっぱんてき なもの(水みず は液体えきたい である)もありうる。
実際じっさい 現げん に行おこな われている観念かんねん や計画けいかく に対たい して、現実げんじつ に起お きている側がわ を指さ す。「実際じっさい には」は前言ぜんげん を訂正ていせい する接続せつぞく としても働はたら く。
EN concreteZH 具体(具体的な, jùtǐ)
4 ★★★
抽象ちゅうしょう
ちゅうしょう [0] ちゅ う しょ う 平板へいばん 型がた
語ご 構成こうせい
抽ちゅう ひきぬく + 象ぞう かたち・すがた
〈形かたち を抜ぬ き出だ す〉。抜ぬ き出だ す以上いじょう 、残のこ りは捨す てられる。抽象ちゅうしょう と捨象しゃしょう は同おな じ操作そうさ の表裏ひょうり である。
定義ていぎ
個々ここ の物事ものごと から、それらに共通きょうつう する性質せいしつ を抜ぬ き出だ すこと。
『現代げんだい 文ぶん キーワード読解どっかい 』1-1 ☑4
原げん 書しょ の解説かいせつ
抽象ちゅうしょう とは、個々ここ の具体的ぐたいてき な物事ものごと に共通きょうつう する性質せいしつ を一般化いっぱんか して、思考しこう を働はたら かせること。物事ものごと を抽象ちゅうしょう 化か するときには、共通きょうつう していない部分ぶぶん は切き り捨す てられ、このことを「捨象しゃしょう 」と言い う。抽象ちゅうしょう は必かなら ず捨象しゃしょう を伴ともな う。
たとえば
私わたし たちの周まわ りには、ポチとかシロとかいう、具体的ぐたいてき なイヌがいる。そこから、〈人ひと になつきやすい〉 〈ワンワン吠ほ える〉 などといった、イヌの共通点きょうつうてん を見み 出だ すことを「抽象ちゅうしょう (抽象ちゅうしょう 化か )」と言い う。
使用しよう の境界きょうかい 共通きょうつう する性質せいしつ を抜ぬ き出だ すこと。必かなら ず捨象しゃしょう を伴ともな う。「わかりにくい」の意い で使つか うのは口語こうご 的てき 用法ようほう 。
用法ようほう 日常にちじょう 語ご の「抽象的ちゅうしょうてき 」は「わかりにくい」「中身なかみ がない」という否定的ひていてき な評価ひょうか 語ご として使つか われるが、評ひょう 論文ろんぶん では〈共通きょうつう する性質せいしつ を抜ぬ き出だ した〉という中立ちゅうりつ の記述きじゅつ 語ご である。この二ふた つを混同こんどう すると設問せつもん を落お とす。学術がくじゅつ 文ぶん では「抽象ちゅうしょう 度ど が高たか い/低ひく い」という段階だんかい 表現ひょうげん がよく使つか われ、上あ げれば適用範囲てきようはんい が広ひろ がり、下さ げれば具体的ぐたいてき な事例じれい に近ちか づく。「抽象ちゅうしょう して」という動詞どうし 形けい はほとんど使つか わず、「抽象ちゅうしょう 化か して」の形かたち が標準ひょうじゅん 。
用例ようれい
ただ、己おのれ の乏とぼ しい詩し 業ぎょう が、長安ちょうあん 風流ふうりゅう 人士じんし の机つくえ の上うえ に置お かれている様さま を夢想むそう するだけで、洞窟どうくつ の中なか に横よこ たわって見み る夢ゆめ に、快こころよ い喜よろこ びを覚おぼ えるのだ。臆病おくびょう な自尊心じそんしん と、尊大そんだい な羞恥心しゅうちしん と。中島なかじま 敦あつし 『山月さんげつ 記き 』(1942)
「臆病おくびょう な自尊心じそんしん 」「尊大そんだい な羞恥心しゅうちしん 」— どちらも目め には見み えない心こころ の働はたら きを、名詞めいし として取と り出だ して名な づけた ものである。しかも本来ほんらい ぶつかり合あ う語ご (臆病おくびょう と自尊じそん 、尊大そんだい と羞恥しゅうち )を接合せつごう している。抽象ちゅうしょう 名詞めいし にしたからこそ、この矛盾むじゅん を一ひと つの塊かたまり として掴つか め、李徴りちょう は自分じぶん の破滅はめつ の原因げんいん を名指なざ すことができた。抽象ちゅうしょう とは、名な づけることで扱あつか えるようにする操作そうさ である — その典型てんけい がここにある。
古池ふるいけ や蛙かわず 飛と びこむ水みず の音おと 松尾まつお 芭蕉ばしょう (1686)
一見いっけん すると具体ぐたい しかない。古池ふるいけ 、蛙かわず 、水みず の音おと 。しかしこの句く が数百すうひゃく 年ねん 読よ まれてきたのは、読者どくしゃ がそこから「静寂せいじゃく 」という抽象ちゅうしょう を取と り出だ す からである。芭蕉ばしょう は「静しず かだ」と書か かなかった。書か いていれば、それは一ひと つの解釈かいしゃく に閉と じてしまう。具体ぐたい だけを置お き、抽象ちゅうしょう 化か の作業さぎょう を読者どくしゃ に委ゆだ ねた — これが具体ぐたい と抽象ちゅうしょう の関係かんけい のもっとも洗練せんれん された使つか い方かた の一ひと つである。
議論ぎろん が抽象ちゅうしょう 的てき で、何なに を言い っているのか分わ からない。
抽象ちゅうしょう は本来ほんらい 「共通きょうつう 性せい を取と り出だ す」有用ゆうよう な操作そうさ だが、取と り出だ しすぎると元もと の事物じぶつ との接点せってん が切き れる。この批判ひはん が指さ しているのは、抽象ちゅうしょう そのものではなく「具体ぐたい へ戻もど る道みち が示しめ されていないこと」 である。
個々ここ の事例じれい から共通きょうつう する構造こうぞう を抽象ちゅうしょう する。
動詞どうし としての用法ようほう 。「捨象しゃしょう 」と対たい になる。抽象ちゅうしょう とは「抜ぬ き出だ す」と「捨す てる」を同時どうじ に行おこな う操作そうさ であり、何なに を抜ぬ き出だ したかと同おな じだけ、何なに を捨す てたかが問と われる。評ひょう 論文ろんぶん が抽象ちゅうしょう を批判ひはん するときは、たいてい「捨す てられたもの」の側がわ から書か かれている。
派生はせい 形けい
抽象的ちゅうしょうてき [0] 評ひょう 論ろん でもっとも多おお い形かたち 。文脈ぶんみゃく しだいで賛否さんぴ が反転はんてん する点てん に注意ちゅうい したい。「抽象的ちゅうしょうてき な思考しこう 力りょく 」は褒ほ め言葉ことば 、「抽象的ちゅうしょうてき な説明せつめい 」は批判ひはん である。語ご そのものに価値かち は無な く、価値かち は文脈ぶんみゃく が与あた える。
抽象性ちゅうしょうせい [0] 性質せいしつ として取と り出だ した形かたち 。「抽象ちゅうしょう 性せい が高たか い/を帯お びる」と程度ていど を論ろん じられる。「具体性ぐたいせい 」と対たい にして使つか うと、論ろん の位置いち を測はか る物差ものさ しになる 。
抽象化ちゅうしょうか [0] 運動うんどう を表あらわ す形かたち 。「具体化ぐたいか 」と正確せいかく に逆ぎゃく を向む く。この二に 語ご が同おな じ文ぶん に現あらわ れたら、筆者ひっしゃ は思考しこう の往復おうふく 運動うんどう そのものを主題しゅだい にしている 。
捨象しゃしょう [0] 厳密げんみつ には派生はせい 形けい ではなく、抽象ちゅうしょう と対たい をなす別語べつご 。抽象ちゅうしょう が「抜ぬ き出だ す」側がわ 、捨象しゃしょう が「捨す てる」側がわ で、一ひと つの操作そうさ の二ふた つの面めん を指さ す。この語ご を知し っているかどうかで、抽象ちゅうしょう の理解りかい の解像度かいぞうど が変か わる。
コロケーション
抽象ちゅうしょう 化か する共通きょうつう 性せい の取と り出だ し複数ふくすう のものから共通きょうつう する性質せいしつ だけを取と り出だ し、残のこ りを捨す てる操作そうさ 。「捨象しゃしょう 」と表裏ひょうり 一体いったい で、レモン一いち 個こ から「重おも さ」を取と り出だ せば、色いろ も味あじ も産地さんち も捨す てられている。原げん 書しょ の入試にゅうし 文ぶん (力学りきがく と経済学けいざいがく のレモン)はこの往復おうふく を主題しゅだい にしている。
抽象ちゅうしょう 度ど が高たか い階層かいそう としての抽象ちゅうしょう 「度ど 」が付つ くことで、抽象ちゅうしょう は〇か×かではなく階段かいだん になる 。「レモン → 果物くだもの → 食品しょくひん → 物質ぶっしつ 」と上のぼ るごとに抽象ちゅうしょう 度ど が上あ がり、当あ てはまる範囲はんい は広ひろ がるが、内容ないよう は薄うす くなる。この反比例はんぴれい を掴つか んでおくと、論ろん の階層かいそう を意識いしき して読よ めるようになる。
抽象的ちゅうしょうてき な議論ぎろん しばしば批判ひはん の語ご この形かたち が現あらわ れたら、多おお くの場合ばあい は否定的ひていてき な評価ひょうか が伴ともな う。ただし批判ひはん されているのは抽象ちゅうしょう そのものではない 。数学すうがく も物理学ぶつりがく も高度こうど に抽象的ちゅうしょうてき だが、批判ひはん されない。問題もんだい は「具体ぐたい へ戻もど る経路けいろ が示しめ されていないこと」であり、ここを取と り違ちが えると設問せつもん を外はず す。
抽象ちゅうしょう 画が 美び 術じゅつ での用法ようほう 対象たいしょう の再現さいげん をやめ、形かたち と色いろ そのものを扱あつか う絵画かいが 。評ひょう 論ろん の「抽象ちゅうしょう 」が共通きょうつう 性せい の抽出ちゅうしゅつ であるのに対たい し、美び 術じゅつ のそれは具体的ぐたいてき 対象たいしょう からの離脱りだつ を指さ し、重心じゅうしん が違ちが う。同おな じ語ご が分野ぶんや をまたぐとき、この種しゅ のずれは頻繁ひんぱん に起お こる。
格かく 硬かた 書か き言葉ことば 。会話かいわ では不自然ふしぜん 。
類るい 語ご と差さ
一般化いっぱんか 個々ここ を包つつ む形かたち にまとめる結論けつろん の適用範囲てきようはんい を広ひろ げる操作そうさ 。抽象ちゅうしょう 化か は性質せいしつ を抜ぬ き出だ す操作そうさ 。抽象ちゅうしょう 化か した結果けっか として一般化いっぱんか ができる、という順序じゅんじょ になる。
捨象しゃしょう 共通きょうつう しない部分ぶぶん を切き り捨す てる抽象ちゅうしょう と同おな じ操作そうさ を反対はんたい 側がわ から見み た語ご 。抜ぬ き出だ せば必かなら ず捨す てる。原げん 書しょ はこの対たい を強調きょうちょう している。
概念がいねん 抜ぬ き出だ された意味いみ 内容ないよう 抽象ちゅうしょう は操作そうさ 、概念がいねん はその結果けっか 。「抽象ちゅうしょう 概念がいねん 」という熟語じゅくご は、操作そうさ の結果けっか として得とく られた意味いみ 内容ないよう を指さ す。
観念かんねん 的てき 現実げんじつ から離はな れている批判ひはん 語ご 。「抽象的ちゅうしょうてき 」も日常にちじょう では批判ひはん に使つか われるが、本来ほんらい は中立ちゅうりつ な操作そうさ の名な 。この混同こんどう が評ひょう 論文ろんぶん の設問せつもん になる。
EN abstractZH 抽象(抽象的な, chōuxiàng)
対立たいりつ の軸じく
具体ぐたい /抽象ちゅうしょう の軸じく = 知覚ちかく できるか
具体ぐたい 形かたち や内容ないよう を伴ともな い、知覚ちかく できる。
知覚ちかく できるか
抽象ちゅうしょう 共通きょうつう する性質せいしつ を抜ぬ き出だ す。捨象しゃしょう を伴ともな う。
抽象と捨象 具体的なレモンから重さを抜き出し、色や産地を捨てて抽象概念に至る過程を示した図。
一個のレモン
GUTAI
操作
抜き出す
切り捨てる
共通する性質
重さ・体積・位置
共通しない性質
色・味・産地・値段
抽象
CHUSHO
捨象
抽象と捨象は同じ操作の表裏である
抽象ちゅうしょう と捨象しゃしょう ── 抜ぬ き出だ せば必かなら ず捨す てる
入試にゅうし 文ぶん
科学かがく は、3 具体的ぐたいてき な経験けいけん の一いち 面めん を4 抽象ちゅうしょう し、抽象ちゅうしょう 化か された経験けいけん は、他ほか の同類どうるい の経験けいけん と関係かんけい づけられて分類ぶんるい される。このように抽象ちゅうしょう 化か され、分類ぶんるい された経験けいけん は、原則げんそく として、一定いってい の条件じょうけん のもとで繰く り返かえ されるはずのものである。従したが って科学かがく は、法則ほうそく の1 普遍性ふへんせい について語かた ることができるのである。たとえば一いち 個こ の具体的ぐたいてき なレモンは、その質量しつりょう ・容積ようせき ・位置いち ・運動うんどう 等とう に27 還元かんげん されることによって、(その他ほか の性質せいしつ 、たとえば色いろ や味あじ や産地さんち や値段ねだん などを捨象しゃしょう することによって、)9 対象たいしょう となり、またその効用こうよう や生産せいさん 費ひ や小売価格こうりかかく などに還元かんげん されることによって、(その他ほか の性質せいしつ 、たとえば位置いち や運動量うんどうりょう などを捨象しゃしょう することによって、)経済学けいざいがく の対象たいしょう となる。力学りきがく や経済学けいざいがく は具体的ぐたいてき なレモンについてではなく、抽象ちゅうしょう 化か された対象たいしょう について、その対象たいしょう が従したが う法則ほうそく をしらべるのである。
出典しゅってん 加藤かとう 周しゅう 一いち 『文学ぶんがく とは何なに か』 / 出題しゅつだい センター追試ついし 験げん (国語こくご Ⅰ・Ⅱ) / 原げん 書しょ p.18
読解どっかい のポイント科学かがく = 具体的ぐたいてき な経験けいけん の一いち 面めん を抽象ちゅうしょう 、分類ぶんるい = 一定いってい の条件じょうけん のもとで繰く り返かえ される = 法則ほうそく の普遍性ふへんせい 要約ようやく 力学りきがく や経済学けいざいがく といった科学かがく は、具体的ぐたいてき な対象たいしょう ではなく、抽象ちゅうしょう 化か された対象たいしょう について、その対象たいしょう が従したが う普遍的ふへんてき な法則ほうそく をしらべる。
語ご 法ほう の観察かんさつ 受身うけみ 「〜される」が連続れんぞく する。行為こうい 者しゃ が消き えることで、個々ここ の操作そうさ が人ひと の手て を離はな れた法則ほうそく として提示ていじ される。
Section 03
秩序ちつじょ (コスモス)/混沌こんとん (カオス)
5 ★★★
秩序(コスモス)ちつじょ
ちつじょ [1] ち つ じょ 頭高あたまだか 型がた
語ご 構成こうせい
秩ちつ 順序じゅんじょ ・次第しだい + 序じょ ならび・順じゅん
定義ていぎ
整然せいぜん とまとまっている状態じょうたい 。
『現代げんだい 文ぶん キーワード読解どっかい 』1-1 ☑5
原げん 書しょ の解説かいせつ
順序じゅんじょ や決き まりによって、物事ものごと が整然せいぜん とまとまっている状態じょうたい を秩序ちつじょ と言い う。言語げんご や文化ぶんか を扱あつか った文章ぶんしょう では、右みぎ の例れい 文ぶん のように、〈人間にんげん は言語げんご や文化ぶんか を用もち いることで、世界せかい を秩序ちつじょ あるものとしてとらえることができるようになった〉 という内容ないよう によく登場とうじょう する。これは、他ほか の動物どうぶつ と比くら べて本ほん 能のう の力ちから が弱よわ い人間にんげん は、世界せかい と直接的ちょくせつてき な関係かんけい を結むす ぶことができないため、言語げんご や文化ぶんか を用もち いて世界せかい を整理せいり するということを意味いみ している。
使用しよう の境界きょうかい 整然せいぜん としているだけでなく、順序じゅんじょ や決き まりによって整ととの っていること。偶然ぐうぜん そろっているのは秩序ちつじょ ではない。
用法ようほう 評ひょう 論文ろんぶん では「コスモス」と併記へいき され、〈人間にんげん が言語げんご や文化ぶんか によって世界せかい に与あた えるもの〉として扱あつか われる。つまり秩序ちつじょ は世界せかい に元もと からあるのではなく、与あた えられるという発想はっそう が前提ぜんてい になる。この含ふく みが原げん 書しょ の入試にゅうし 文ぶん の骨格こっかく である。日常にちじょう 語ご では「治安ちあん 」に近ちか い意味いみ でも使つか われるが、評ひょう 論ろん では〈区別くべつ が立た っている状態じょうたい 〉と読よ むほうが通とお る。「秩序ちつじょ づける」という動詞どうし 形けい が学術がくじゅつ 文ぶん で使つか われる。
用例ようれい
名な 正ただ しからざれば則そく ち言げん 順じゅん はず、言げん 順じゅん はざれば則そく ち事こと 成せい らず、事こと 成せい らざれば則そく ち礼楽れいがく 興おこ らず、礼楽れいがく 興おこ らざれば則そく ち刑罰けいばつ 中ちゅう らず、刑罰けいばつ 中ちゅう らざれば則そく ち民みん 手足てあし を措お く所しょ 無な し。『論語ろんご 』子路しろ 篇へん
名な づけの誤あやま りから始はじ まって、言葉ことば が通とお らなくなり、仕事しごと が成せい らず、儀ぎ 礼れい と音楽おんがく が興おこ らず、刑罰けいばつ が的てき を外はず し、最後さいご に民みん は手足てあし の置お き場ば すら失うしな う — 五ご 段だん の連鎖れんさ で社会しゃかい が崩くず れていく。ここで語かた られているのは、秩序ちつじょ が言葉ことば の側がわ から立た ち上あ がっている ということである。世界せかい にあらかじめ秩序ちつじょ があって、それを言葉ことば が後あと から写うつ しとるのではない。名な が正ただ しく割わ り当あ てられていることが、そのまま秩序ちつじょ の実質じっしつ なのだ。原げん 書しょ のいう〈人間にんげん は言語げんご や文化ぶんか を用もち いて世界せかい を秩序ちつじょ あるものとして捉とら える〉とは、この構図こうず をそのまま述の べたものである。そして崩くず れが「言げん 」から始はじ まり「手足てあし 」で終お わる のがうまい。抽象ちゅうしょう の側がわ の乱みだ れが、最後さいご は身体しんたい の置お き場ば というもっとも具体的ぐたいてき なところに現あらわ れる。
いづれの御時おおんとき にか、女御にょうご 、更衣こうい あまたさぶらひたまひけるなかに、いとやむごとなき際さい にはあらぬが、すぐれて時とき めきたまふありけり。紫式部むらさきしきぶ 『源氏げんじ 物語ものがたり 』桐壺きりつぼ ・冒頭ぼうとう (1008頃ころ )
「際きは (きは)」— 身分みぶん の序列じょれつ 、すなわち秩序ちつじょ である。日本にほん 最大さいだい の物語ものがたり が、秩序ちつじょ の記述きじゅつ から始はじ まり、その秩序ちつじょ が破やぶ られたところで動うご き出だ す ことに注目ちゅうもく したい。高たか くはない身分みぶん の更衣こうい が、序列じょれつ を越こ えて寵愛ちょうあい を受う ける。それだけで宮廷きゅうてい は揺ゆ れ、物語ものがたり は動うご きはじめる。ここから分わ かるのは、秩序ちつじょ とは「そこから外はず れたときに何なに が起お こるかがあらかじめ決き まっている」配置はいち だということである。偶然ぐうぜん そろっているだけの並なら びなら、外はず れても何なに も起お こらない。破やぶ られたときに反応はんのう が返かえ ってくるかどうかが、秩序ちつじょ かどうかの試金石しきんせき になる 。
言語げんご は世界せかい に秩序ちつじょ を与あた える枠組わくぐ みである。
「世界せかい には秩序ちつじょ がある」ではなく「与あた える」と書か いた点てん が要よう である。前者ぜんしゃ なら秩序ちつじょ は世界せかい の側がわ の性質せいしつ になり、後者こうしゃ なら人間にんげん の側がわ の作業さぎょう になる。評ひょう 論文ろんぶん が秩序ちつじょ を論ろん じるときは、ほぼ例外れいがい なく後者こうしゃ の立場たちば に立た つ 。この一語いちご の向む きを取と り違ちが えると、文章ぶんしょう 全体ぜんたい の主張しゅちょう が逆ぎゃく に読よ める。
×たまたま同おな じ色いろ の本ほん が並なら んでいて秩序ちつじょ が生う まれた。
偶然ぐうぜん そろっただけのものは秩序ちつじょ ではない。秩序ちつじょ は順序じゅんじょ や決き まりに支ささ えられている ことを含意がんい するので、根拠こんきょ のない一致いっち に使つか うと語ご がすべる。「整然せいぜん と見み える」「そろっている」が正ただ しい。逆ぎゃく にいえば、秩序ちつじょ と書か いた瞬間しゅんかん 、読者どくしゃ は「では何なに がそれを支ささ えているのか」を探さが しにいく 。
派生はせい 形けい
秩序的ちつじょてき [0] 状態じょうたい を形容けいよう する形かたち 。ただし実際じっさい の文ぶん では「秩序ちつじょ ある」「秩序ちつじょ だった」のほうが多おお い。「的てき 」を付つ けると「秩序ちつじょ に似に た性質せいしつ を帯お びている」という一段いちだん 弱よわ い言い い方かた になる ため、断定だんてい を避さ けたい場面ばめん で選えら ばれる。
無秩序むちつじょ [2] 接頭辞せっとうじ 「無む 」は、あるはずのものが無な いことを言い う。したがって無秩序むちつじょ は「秩序ちつじょ が先さき にあること」を前提ぜんてい にした語ご で、ここが混沌こんとん との決定的けっていてき な違ちが いになる。混沌こんとん は秩序ちつじょ が与あた えられる前まえ の状態じょうたい も指ゆび せるが、無秩序むちつじょ は指ゆび せない。
秩序化ちつじょか [0] 「化か 」は状態じょうたい ではなく移うつ り変か わる過程かてい を名詞めいし にする。「秩序ちつじょ 」が結果けっか を、「秩序ちつじょ 化か 」がそこへ至いた る運動うんどう を指さ すので、筆者ひっしゃ が過程かてい を主題しゅだい にしているかどうかがこの一いち 字じ で読よ める。
コロケーション
秩序ちつじょ を保たも つ維持いじ の動詞どうし 「保たも つ」は、放ほう っておけば失うしな われるものにしか使つか わない。体温たいおん は保たも つが、石いし の重おも さは保たも つとは言い わない。したがってこの結むす びつきは、秩序ちつじょ が自然しぜん の状態じょうたい ではなく、力ちから を加くわ え続つづ けてはじめて続つづ くもの だという前提ぜんてい を、動詞どうし の側がわ からそっと持も ち込こ んでいる。評ひょう 論文ろんぶん で「秩序ちつじょ を保たも つ」が出で てきたら、「誰だれ が、何なに を費つい やして保たも っているのか」が次つぎ の論点ろんてん になる。
秩序ちつじょ が乱みだ れる自動詞じどうし の選択せんたく 「乱みだ す」ではなく「乱みだ れる」を選えら ぶと、乱らん した主体しゅたい が文ぶん から消き える 。「若者わかもの が秩序ちつじょ を乱みだ す」は名指なざ しだが、「秩序ちつじょ が乱みだ れる」は誰だれ のせいでもない天てん 災さい のように響ひび く。同おな じ事態じたい を指さ しながら責任せきにん の所在しょざい だけが消き えるので、この形かたち は行政ぎょうせい や報道ほうどう の文章ぶんしょう に好よしみ まれる。評ひょう 論文ろんぶん がこの言い い回まわ しを引用いんよう するときは、たいていその隠蔽いんぺい を批判ひはん するために引ひ いている。
秩序ちつじょ づける学術がくじゅつ 文ぶん の動詞どうし 名詞めいし に「づける」を付つ けて他動詞たどうし をつくる形かたち で、「意味いみ づける」「関係かんけい づける」と同おな じ作つく りである。「秩序ちつじょ がある」ではなく「秩序ちつじょ づける」と書か けるかどうかが、この語ご を状態じょうたい 語ご として使つか っているか操作そうさ 語ご として使つか っているかの分わ かれ目め になる。原げん 書しょ の入試にゅうし 文ぶん が扱あつか うのは後者こうしゃ 、すなわち人間にんげん の側がわ の操作そうさ としての秩序ちつじょ である。
既存きそん の秩序ちつじょ 批判ひはん の前置まえお き「既存きそん の」は、それが昔むかし からあったという事実じじつ を述の べるだけでなく、「たまたま今いま そうなっているにすぎない」という含ふく み を伴ともな う。この一語いちご を冠かんむり した時点じてん で、筆者ひっしゃ はその秩序ちつじょ を〈自然しぜん でも永遠えいえん でもないもの〉として枠わく に入い れており、多おお くの場合ばあい そのあとに批判ひはん か相対そうたい 化か が続つづ く。「現在げんざい の秩序ちつじょ 」と書か けばこの含ふく みは出で ない。
格かく 中なか 書か き言葉ことば ・会話かいわ の両方りょうほう で使つか える。
類るい 語ご と差さ
規律きりつ 行為こうい を律りつ する決き まり人ひと の振ふ る舞ま いを縛しば る側がわ に重心じゅうしん がある。「規律きりつ が厳きび しい」は行為こうい の話はなし 。秩序ちつじょ は状態じょうたい の話はなし 。
体系たいけい 部分ぶぶん が全体ぜんたい をなす組く み立た て要素ようそ の関係かんけい が階層かいそう をなしていることを言い う。時間的じかんてき な順序じゅんじょ は含ふく まない。秩序ちつじょ は時間じかん の前後ぜんご も含ふく みうる。
統制とうせい 外そと から統とう べて制せい する力ちから による整ととの えを含ふく む。「統制とうせい された社会しゃかい 」は否定的ひていてき に響ひび く。「秩序ちつじょ ある社会しゃかい 」は中立ちゅうりつ か肯定こうてい 。
調和ちょうわ 要素ようそ がよく釣つ り合あ う美的びてき な釣つ り合あ いに重心じゅうしん 。規則きそく があるかは問と わない。秩序ちつじょ は規則きそく を含意がんい する。
EN cosmos / orderZH 秩序(秩序, zhìxù)
6 ★★★
混沌(カオス)こんとん
こんとん [0] こ ん と ん 平板へいばん 型がた
語ご 構成こうせい
混こん まじる + 沌とん くらい・分わ かれていない
定義ていぎ
物事ものごと がバラバラな状態じょうたい 。
『現代げんだい 文ぶん キーワード読解どっかい 』1-1 ☑6
原げん 書しょ の解説かいせつ
混沌こんとん は秩序ちつじょ の反対はんたい の意味いみ で、物事ものごと が整理せいり されないままバラバラになっている状態じょうたい のことを言い う。「頭あたま の中なか が混沌こんとん としている」というのは、いろいろな考かんが えや思念しねん がぐちゃぐちゃになっているということ。
たとえば
言葉ことば を知し らない生う まれたばかりの赤あか ちゃんにとって、外界がいかい は混沌こんとん としたものとして映うつ っている。それは単たん に物もの の区別くべつ がないだけでなく、善悪ぜんあく の区別くべつ もない状態じょうたい だ。人ひと は、そういった混沌こんとん とした世界せかい を、言語げんご や身体しんたい を通つう じて理解りかい し、秩序ちつじょ あるものとしてとらえていくようになる。
使用しよう の境界きょうかい 物事ものごと が整理せいり されていない状態じょうたい 。散さん らかっているのではなく、区別くべつ が立た っていないこと。
用法ようほう 「混沌こんとん としている」の形かたち で使つか うのが最もっと も多おお く、名詞めいし 単独たんどく では「混沌こんとん に陥おちい る」「混沌こんとん の中なか から秩序ちつじょ が生う まれる」のように、秩序ちつじょ との対たい で現あらわ れる。言葉ことば を知し らない赤あか ん坊ぼう には世界せかい が混沌こんとん として映うつ る、という説明せつめい が原げん 書しょ にあり、〈善悪ぜんあく の区別くべつ も物もの の区別くべつ もない状態じょうたい 〉というのが評ひょう 論ろん での中身なかみ である。混沌こんとん は〈情報じょうほう が多おお すぎる〉ことではなく〈区別くべつ が無な い〉こと。この点てん を「複雑ふくざつ 」と混同こんどう しない。
用例ようれい
古こ に天地てんち 未いま だ剖わか れず、陰陽おんみょう 分ぶん れざりしとき、渾こん 沌とん れたること鶏にわとり 子こ の如ごと くして、溟涬めいけい にして牙きば を含ふく めり。『日本にほん 書しょ 紀き 』巻かん 第一だいいち ・神代じんだい 上じょう (720)
この一文いちぶん は混沌こんとん の定義ていぎ そのものになっている。「未いま だ剖わか れず」「分ぶん れざりし」— 語かた られているのは散さん らかっていることではなく、境目さかいめ が入はい っていないこと である。そのうえで「鶏にわとり 子こ (にわとりの卵たまご )の如ごと し」という比喩ひゆ が効き いている。卵たまご は乱雑らんざつ ではない。むしろ丸まる くまとまっている。それでも黄き 身み と白しろ 身み がまだ分わ かれていないという一点いってん で混沌こんとん なのだ。混沌こんとん を「ぐちゃぐちゃ」と読よ むと、この比喩ひゆ の意味いみ が取と れなくなる 。さらに「牙きざし (きざし)を含ふく めり」— 混沌こんとん はすでに秩序ちつじょ の芽め を内ない に抱かか えている。
日ひ に一いち 竅きょう を鑿うが ちて、七日なのか にして渾こん 沌とん 死し す。『荘子そうし 』内篇ないへん ・応おう 帝てい 王おう
南海なんかい の帝てい と北海ほっかい の帝てい が、恩おん 返かえ しに渾こん 沌とん へ目め ・耳みみ ・鼻はな ・口くち の七なな つの穴あな を一日いちにち ひとつずつ開あ けてやったところ、七日なのか 目め に渾こん 沌とん は死し んだ、という寓話ぐうわ の結むす びである。穴あな を開あ けるとは区別くべつ を入い れることであり、区別くべつ が完成かんせい した時点じてん で混沌こんとん は混沌こんとん でなくなる 。荘子そうし はここで、善意ぜんい による整理せいり が対象たいしょう そのものを殺ころ しうると言い っている。評ひょう 論文ろんぶん が近代きんだい の分節ぶんせつ 化か を批判ひはん するとき下敷したじ きにしているのは、しばしばこの型かた の発想はっそう である。
言葉ことば を知し らない子こ には、外界がいかい は混沌こんとん として映うつ る。
原げん 書しょ の説明せつめい をそのまま文ぶん にしたもの。子こ どもに見み えている情報量じょうほうりょう が多おお いという話はなし ではなく、「これは犬いぬ 」「これは猫ねこ 」という切き れ目め が入はい っていない という話はなし である。言葉ことば を得え ることは、世界せかい に線せん を引ひ いて秩序ちつじょ を得え ることであり、同時どうじ に混沌こんとん を失うしな うことでもある。
×売上うりあげ のデータが混沌こんとん としている。
混沌こんとん は世界せかい のあり方かた を語かた る重おも い概念がいねん 語ご で、整理せいり されていない書類しょるい や数字すうじ には釣つ り合あ わない。「錯綜さくそう している」「整理せいり されていない」で足た りる 。ここで混沌こんとん を使つか うと、書か き手て が語ご の重おも さを測はか れていないことが露呈ろてい する。
派生はせい 形けい
混沌としたこんとんとした [0] 実質的じっしつてき にこの語ご の連体形れんたいけい はこれ一ひと つで、「混沌こんとん な」とは言い えない。形容けいよう 動詞どうし になりきらなかった漢語かんご で、「堂々どうどう とした」「悠然ゆうぜん とした」の仲間なかま にとどまっている。
渾沌こんとん [0] 『荘子そうし 』『日本にほん 書しょ 紀き 』で用もち いられる本来ほんらい の表記ひょうき 。「渾こん 」は水みず がまじりあうさまで、混沌こんとん よりも「溶と け合あ っている」語ご 感かん が強つよ い 。現代げんだい 文ぶん では「混沌こんとん 」に統一とういつ されるが、古典こてん を引ひ く文脈ぶんみゃく ではこの字じ が出で るので読よ めるようにしておきたい。
混沌たるこんとんたる [0] 文語ぶんご の連体形れんたいけい が残のこ った形かたち 。「〜たる」は現代語げんだいご では格かく 式しき と古こ さを一挙いっきょ に持も ち込こ む装置そうち として働はたら く。「混沌こんとん たる現代げんだい 」と書か けば、書か き手て が事態じたい を歴史的れきしてき な尺度しゃくど で眺なが めていることが、語尾ごび だけで伝つた わる。
コロケーション
混沌こんとん としたタルト型かた の連体れんたい 「混沌こんとん だ」とは言い えず「混沌こんとん とした」と言い うのは、この語ご がもともと状態じょうたい を描えが く擬態ぎたい 的てき な漢語かんご だからである。「渾然こんぜん とした」「判然はんぜん としない」と同おな じ作つく りで、「と」が付つ くことで名詞めいし ではなく様子ようす を表あらわ す。文語ぶんご 調ちょう に寄よ せると「混沌こんとん たる」となり、硬かた さが一段いちだん 上あ がるぶん、評ひょう 論文ろんぶん の書か き出だ しで好よしみ まれる。
混沌こんとん に陥おちい る落下らっか の比喩ひゆ 「陥おちい る」は高たか い所しょ から低ひく い所しょ へ落お ちる動詞どうし である。つまりこの形かたち は、もとは秩序ちつじょ という高こう みにいたことを前提ぜんてい にしている 。『日本にほん 書しょ 紀き 』の混沌こんとん は秩序ちつじょ より前まえ にあるものだったから、本来ほんらい この動詞どうし とは結むす びつかない。同おな じ語ご が、時間じかん の前まえ に置お かれることも後あと に置お かれることもある — その振ふ れ幅はば がこの一句いっく と次つぎ の一句いっく の差さ である。
混沌こんとん の中なか から生成せいせい の定型ていけい 神話しんわ ・文化ぶんか 論ろん でくり返かえ される型かた で、混沌こんとん を欠如けつじょ ではなく母胎ぼたい として扱あつか う 。「無秩序むちつじょ の中なか から」とは言い い換か えられない。無秩序むちつじょ は失うしな われた状態じょうたい なので、そこから何なに かが生う まれる語ご 感かん を持も たないからである。この一点いってん だけで、混沌こんとん と無秩序むちつじょ が別語べつご であることが確たし かめられる。
原初げんしょ の混沌こんとん 時間じかん の指定してい 「原初げんしょ 」は歴史れきし の起点きてん を指さ す語ご で、この結むす びつきは混沌こんとん を秩序ちつじょ 以前いぜん へ明確めいかく に位置いち づける 。評ひょう 論文ろんぶん では、近代きんだい が失うしな ったものを語かた るときの起点きてん として置お かれることが多おお い。ただし原初げんしょ の混沌こんとん は誰だれ も見み ていないので、これは常つね に秩序ちつじょ の側がわ から遡さかのぼ って想像そうぞう された混沌こんとん である — この点てん を突つ く論ろん のほうが、じつは入試にゅうし には出で やすい。
格かく 硬かた 書か き言葉ことば 。会話かいわ では不自然ふしぜん 。
類るい 語ご と差さ
無秩序むちつじょ 秩序ちつじょ が失うしな われた秩序ちつじょ を前提ぜんてい として、その欠如けつじょ を言い う。混沌こんとん は秩序ちつじょ が与あた えられる前まえ の状態じょうたい も指ゆび せる。
混乱こんらん 一度いちど あった秩序ちつじょ が崩くず れた時間的じかんてき な前後ぜんご がある。混乱こんらん は事後じご 、混沌こんとん は事前じぜん でも事後じご でもよい。
渾然こんぜん 境目さかいめ なく一ひと つになっている境界きょうかい の無む さを肯定的こうていてき に言い うことができる。「渾然こんぜん 一体いったい 」。混沌こんとん は否定的ひていてき に響ひび く場面ばめん が多おお い。
曖昧あいまい 境目さかいめ がはっきりしない判断はんだん や意味いみ についての語ご 。物事ものごと の状態じょうたい そのものには使つか わない。
EN chaosZH 混沌(混沌, hùndùn)
対立たいりつ の軸じく
秩序ちつじょ (コスモス)/混沌こんとん (カオス) の軸じく = 規則きそく 性せい の有無うむ
秩序ちつじょ (コスモス)順序じゅんじょ や決き まりによって整ととの っている。
規則きそく 性せい の有無うむ
混沌こんとん (カオス)区別くべつ が立た たず、整理せいり されていない。
動物と人間における秩序の与えられ方 動物は本能によってあらかじめ秩序を与えられ、人間は本能を失い混沌から文化によって秩序を創り出すという対比図。
ANIMAL
本能
予め与える
秩序
迷いや不安がない。選択の余地がない。
HUMAN
本能を失う
混沌
言語・文化
秩序
秩序は世界の側にあるのではなく、人間が与える
文化を持つ生物と呼ばれる理由がここにある
秩序ちつじょ は与あた えられるものか、創つく り出だ すものか
入試にゅうし 文ぶん
人間にんげん 以外いがい の動物どうぶつ は普通ふつう 〈本ほん 能のう 〉の赴おもむ くままに行動こうどう するとき、そこに迷まよ いや不安ふあん はない。彼かれ らにとっては、世界せかい は予よ め5 秩序ちつじょ を与あた えられているのであって、自みずか らがそれを創つく り出だ す必要ひつよう はないからである。つまり、選択せんたく の余地よち がないのである。それに対たい して人間にんげん は、そのような〈本ほん 能のう 〉の導みちび きを失うしな い、したがって、6 混沌こんとん と化か した世界せかい に対たい して、素手すで で働はたら きかけることができず、73 文化ぶんか という146 装置そうち を創つく り出だ すことによって、再ふたた び秩序ちつじょ をとり戻もど してきたのである。人間にんげん がしばしば、文化ぶんか を持も った生物せいぶつ と呼よ ばれる理由りゆう はそこにある。
出典しゅってん 池上いけがみ 嘉彦よしひこ ・山中さんちゅう 桂一けいいち ・唐須教光からすのりみつ 『文化ぶんか 記号きごう 論ろん 』 / 出題しゅつだい 早稲田大学わせだだいがく ・法学部ほうがくぶ 、上智大学じょうちだいがく ・法学部ほうがくぶ など / 原げん 書しょ p.20
読解どっかい のポイント動物どうぶつ = 本ほん 能のう を持も つ → 予よ め秩序ちつじょ が与あた えられている人間にんげん = 本ほん 能のう の導みちび きがない → 文化ぶんか によって混沌こんとん とした世界せかい に秩序ちつじょ を与あた える要約ようやく 動物どうぶつ は本ほん 能のう によって秩序ちつじょ を与あた えられているが、人間にんげん は本ほん 能のう の導みちび きを失うしな っているため、混沌こんとん とした世界せかい に対たい して文化ぶんか という装置そうち を創つく り出だ すことによって再ふたた び秩序ちつじょ を取と り戻もど してきた。
語ご 法ほう の観察かんさつ 文末ぶんまつ の「〜のである」が前文ぜんぶん の理由りゆう づけを担にな う。記述きじゅつ を説明せつめい へ転てん じる標識ひょうしき として働はたら いている。
Section 04
必然ひつぜん /偶然ぐうぜん
7 ★★★
必然ひつぜん
ひつぜん [0] ひ つ ぜ ん 平板へいばん 型がた
定義ていぎ
必かなら ずそうなること。それ以外いがい にはあり得とく ないこと。出来事できごと が法則ほうそく 性せい ・因果いんが 性せい によっていること。
『現代げんだい 文ぶん キーワード読解どっかい 』1-1 ☑7
使用しよう の境界きょうかい 法則ほうそく 性せい ・因果いんが 性せい によってそうなること。「当然とうぜん 」は納得なっとく の話はなし 、「必然ひつぜん 」は因果いんが の話はなし 。
用法ようほう 「歴史れきし の必然ひつぜん 」のように、後あと から振ふ り返かえ って因果いんが を見み 出だ す用法ようほう が評ひょう 論文ろんぶん に多おお い。これは〈そうなるしかなかった〉という事後じご の解釈かいしゃく であり、予測よそく ではない。原げん 書しょ の入試にゅうし 文ぶん は、人間にんげん の理解りかい を超こ えた出来事できごと を古代人こだいじん が「神意しんい 」「因縁いんねん 」「運命うんめい 」として別種べっしゅ の必然ひつぜん と見み なした、という構図こうず を扱あつか う。つまり必然ひつぜん と偶然ぐうぜん の線せん は、人間にんげん が因果いんが を見み 通とお せるかどうかで動うご く。この可か 動どう 性せい が評ひょう 論ろん の焦点しょうてん になる。
用例ようれい
祇園ぎおん 精舎しょうじゃ の鐘かね の声こえ 、諸行無常しょぎょうむじょう の響ひび きあり。娑羅さら 双樹そうじゅ の花はな の色いろ 、盛者必衰じょうしゃひっすい の理り をあらはす。おごれる人ひと も久ひさ しからず、ただ春はる の夜よる の夢ゆめ のごとし。『平家へいけ 物語ものがたり 』巻かん 第一だいいち ・祇園ぎおん 精舎しょうじゃ (13世紀じゅうさんせいき 前半ぜんはん )
「理ことわり (ことわり)」は、そうなるほかない筋道すじみち — つまり必然ひつぜん である。注目ちゅうもく したいのは、作者さくしゃ が「盛者じょうしゃ は必かなら ず衰おとろ える」で終お わらせず、「おごれる人ひと も久ひさ しからず」と因果いんが の中身なかみ まで書か き添そ えた点てん である。驕おご りが滅ほろ びを呼よ ぶ、という機構きこう が示しめ されてはじめて、衰退すいたい は運命うんめい ではなく必然ひつぜん になる。そしてこの一文いちぶん は、平家へいけ が滅ほろ んだあとに書か かれている。必然ひつぜん は多おお くの場合ばあい 、事後じご に見出みいだ される — 「歴史れきし の必然ひつぜん 」という言い い回まわ しが評ひょう 論文ろんぶん で警戒けいかい される理由りゆう がここにある。
四季しき は、なほ、定てい まれるついであり。死期しき は序じょ を待ま たず。吉田兼好よしだけんこう 『徒然草つれづれぐさ 』第だい 百五十ひゃくごじゅう 五ご 段だん (1330頃ころ )
春夏はるなつ 秋あき 冬ふゆ には決き まった順序じゅんじょ がある、しかし死し はその順番じゅんばん を待ま ってくれない、という一節いっせつ 。ここで兼好けんこう は必然ひつぜん と偶然ぐうぜん を一行いちぎょう のうちで対比たいひ している 。人ひと が死し ぬこと自体じたい は避さ けようがない(必然ひつぜん )。だがいつ来く るかは因果いんが をたどれない(偶然ぐうぜん )。「必かなら ずそうなる」と「いつそうなるか」を分わ けて考かんが えられるかどうかが、この二に 語ご を使つか い分わ ける鍵かぎ で、兼好けんこう は前者ぜんしゃ を「定てい まれる」、後者こうしゃ を「序じょ を待ま たず」と別べつ の言葉ことば で書か き分わ けている 。
産業さんぎょう 構造こうぞう の変化へんか を見み れば、この衰退すいたい は必然的ひつぜんてき な帰結きけつ である。
「必然的ひつぜんてき な帰結きけつ 」と書か いた以上いじょう 、筆者ひっしゃ はその結論けつろん へ至いた る因果いんが の連鎖れんさ を示しめ す義務ぎむ を負お う 。示しめ さずにこの語ご だけを置お くと、断定だんてい の響ひび きを借か りただけの空そら 語ご になる。逆ぎゃく に読解どっかい の側がわ から言い えば、この語ご を見み つけたら「その因果いんが はどこに書か かれているか」を探さが すのが正ただ しい手順てじゅん である。
△約束やくそく を破やぶ ったのだから責せ められるのは必然ひつぜん だ。
責せ められるのは規範きはん がそう定さだ めているから であって、物事ものごと の因果いんが がそう動うご くからではない。ここは「当然とうぜん 」が正ただ しい。必然ひつぜん は因果いんが の記述きじゅつ 、当然とうぜん は納得なっとく や規範きはん の表明ひょうめい — この二に 語ご のすり替か えは入試にゅうし の選択肢せんたくし が最もっと も好この む罠わな である。
原げん 書しょ の反はん 意い 語ご ・関連かんれん 語ご 反はん 8 偶然ぐうぜん / 関せき 蓋然がいぜん
派生はせい 形けい
必然的ひつぜんてき [0] 「的てき 」は名詞めいし を形容けいよう の位置いち へ動うご かすはたらきをする。ここでは「必然ひつぜん という性質せいしつ を帯お びた」という一段いちだん の緩ゆる み が生しょう じ、「必然ひつぜん である」と言い い切き るより主張しゅちょう が柔やわ らかくなる。書か き手て が断定だんてい を避さ けたいときに選えら ばれる。
必然性ひつぜんせい [0] 「性せい 」は性質せいしつ を名詞めいし として取と り出だ す。これによって「ある/ない」だけでなく「高たか い/低ひく い」と程度ていど で論ろん じられる ようになる。必然ひつぜん そのものは程度ていど を持も たないので、これは接尾せつび 辞じ が語ご の論理ろんり を変か えている例れい である。
蓋然がいぜん [0] 派生はせい 形けい ではなく、必然ひつぜん と偶然ぐうぜん のあいだを埋う める第だい 三さん の語ご 。起お こる確たし からしさを度合どあ いで言い えるとき に使つか う。必然ひつぜん (100 パーセント)と偶然ぐうぜん (度合どあ いすら言い えない)の間あいだ にこの語ご を置お けると、三さん 語ご の関係かんけい が一本いっぽん の線せん の上うえ に並なら ぶ。
コロケーション
歴史れきし の必然ひつぜん 事後じご の解釈かいしゃく 起お きたことを、起お きるほかなかったこととして語かた り直なお す言い い方かた である。予測よそく に使つか われることはほとんど無な く、ほぼ必かなら ず過去かこ を向む いて使つか われる 。ここに危あや うさがある — 実際じっさい に起お きた一ひと つの筋道すじみち だけを見み て、ありえた別べつ の筋道すじみち をまとめて視野しや から外はず してしまう からだ。評ひょう 論文ろんぶん がこの語ご を引ひ くときは、その視野しや の狭きょう さを突つ くために引ひ いていることが多おお い。
必然性ひつぜんせい を欠か く否定ひてい 形けい の重おも み「必然性ひつぜんせい がない」と言い えば単たん なる否定ひてい だが、「欠か く」を使つか うとあるべきものが足た りていない という評価ひょうか になる。批評ひひょう で「この場面ばめん には必然性ひつぜんせい が欠か けている」と書か けば、それは作品さくひん の欠陥けっかん を指摘してき したことになる 。物語ものがたり 論ろん において必然性ひつぜんせい が価値かち 語ご として働はたら くのは、この動詞どうし の選択せんたく によるところが大おお きい。
偶然ぐうぜん と必然ひつぜん 対たい の提示ていじ 評ひょう 論文ろんぶん でこの二に 語ご が並なら んだら、筆者ひっしゃ はほぼ確実かくじつ に「その境目さかいめ は動うご く」という主張しゅちょう へ向む かっている 。因果いんが が見み 通つう せれば必然ひつぜん 、見み 通つう せなければ偶然ぐうぜん — つまり境目さかいめ は世界せかい の側がわ ではなく人間にんげん の認識にんしき の側がわ にある。原げん 書しょ の入試にゅうし 文ぶん が、古代人こだいじん の言い う「神意しんい 」「因縁いんねん 」を別種べっしゅ の必然ひつぜん として扱あつか うのも、この可か 動どう 性せい を示しめ すためである。
必然的ひつぜんてき に導みちび かれる論理ろんり の接続せつぞく 数学すうがく や論理学ろんりがく から来き た言い い方かた で、前提ぜんてい が真しん なら結論けつろん も必かなら ず真しん である という関係かんけい を指さ す。日常にちじょう 語ご の必然ひつぜん より射程しゃてい が狭せま く、厳密げんみつ である。この形かたち が現あらわ れたら、筆者ひっしゃ は因果いんが ではなく推論すいろん の話はなし をしている可能性かのうせい が高たか い。「原因げんいん があるから起お きる」と「前提ぜんてい があるから言い える」の混同こんどう に注意ちゅうい したい。
格かく 硬かた 書か き言葉ことば 。会話かいわ では不自然ふしぜん 。
類るい 語ご と差さ
当然とうぜん そうあるべきだと認みと められる 話者わしゃ の納得なっとく や規範きはん を含ふく む。「当然とうぜん だ」は評価ひょうか 。「必然ひつぜん だ」は因果いんが の記述きじゅつ 。この差さ が設問せつもん になる。
蓋然がいぜん 確たし からしさの度合どあ い必然ひつぜん と偶然ぐうぜん の間あいだ を埋う める語ご 。「雨あめ になる蓋然性がいぜんせい が高たか い」のように確率かくりつ で言い える場合ばあい に使つか う。
宿命しゅくめい 避さ けられない定さだ め人ひと の生せい に限かぎ って使つか い、情緒じょうちょ を伴ともな う。因果いんが の説明せつめい はしない。
不可避ふかひ 避さ けようがない結果けっか の側がわ だけを言い う。原因げんいん を問と わない。必然ひつぜん は原因げんいん があることを含意がんい する。
EN necessityZH 必然(必然, bìrán)
8 ★★★
偶然ぐうぜん
ぐうぜん [0] ぐ う ぜ ん 平板へいばん 型がた
語ご 構成こうせい
偶ぐう たまたま・思おも いがけず + 然さ そうである
定義ていぎ
因果いんが 関係かんけい がわからず、予測よそく できないことが起お こること。思おも いがけないこと。
『現代げんだい 文ぶん キーワード読解どっかい 』1-1 ☑8
使用しよう の境界きょうかい 因果いんが 関係かんけい が分わ からず予測よそく できないこと。確率かくりつ が低ひく いこととは違ちが う。確率かくりつ が言い えるなら蓋然がいぜん の話はなし になる。
用法ようほう 日常にちじょう 語ご としても評ひょう 論語ろんご としても使つか えるが、評ひょう 論ろん では〈因果いんが が見み えない〉という認識論にんしきろん の話はなし になる。原げん 書しょ の入試にゅうし 文ぶん は、くじ引ひ きに人間にんげん の理解りかい を超こ えた合理性ごうりせい を感かん じ取と る感覚かんかく を扱あつか っており、偶然ぐうぜん と必然ひつぜん の境界きょうかい が人間にんげん の認識にんしき 能力のうりょく に依存いぞん することを示しめ す。「偶然ぐうぜん 性せい 」は哲学てつがく で、そうでなくてもよかったという様態ようたい を指さ す。「偶然ぐうぜん にも」は幸運こううん に近ちか い含ふく みを持も つが、「偶然ぐうぜん に」は中立ちゅうりつ 。
用例ようれい
今日きょう はその事こと をなさんと思おも へど、あらぬ急きゅう ぎまづ出で で来き て紛まぎ れ暮く らし、待ま つ人ひと は障さわ りありて、頼たの めぬ人ひと は来き たり。……かねてのあらまし、皆みな 違い ひゆくかと思おも ふに、おのづから違い はぬ事こと もあれば、いよいよ物もの は定さだ めがたし。吉田兼好よしだけんこう 『徒然草つれづれぐさ 』第だい 百ひゃく 八十はちじゅう 九きゅう 段だん (1330頃ころ )
予定よてい はことごとく外はず れる、しかしたまに外はず れないこともある、だからいよいよ見通みとお しが立た たない — という運はこ びが見事みごと である。すべて外はず れるなら、それは「必かなら ず外はず れる」という一ひと つの法則ほうそく になってしまう 。ときどき当あ たるからこそ因果いんが がつかめない。兼好けんこう はここを正確せいかく に踏ふ んでいる。なお兼好けんこう は「偶然ぐうぜん 」とは書か かず「定さだ めがたし」と書か いた。偶然ぐうぜん は因果いんが が見み えないこと を言い う漢語かんご であり、「定さだ めがたし」はこちらが定さだ められないこと を言い う和わ 語ご である。同おな じ事態じたい を、世界せかい の側がわ から言い うか人ひと の側がわ から言い うかの違ちが いがここにある。
運命うんめい は偶然ぐうぜん よりも必然ひつぜん である。芥川あくたがわ 龍之介りゅうのすけ 『侏儒しゅじゅ の言葉ことば 』(1923–27)
わずか一行いちぎょう だが、三みっ つの語ご の関係かんけい を組く み替か えてしまう一文いちぶん である。運命うんめい といえばふつう「思おも いがけず降お りかかるもの」、つまり偶然ぐうぜん の側がわ に置お かれる。芥川あくたがわ はそれを必然ひつぜん の側がわ へ引ひ き寄よ せた。続つづ く「『運命うんめい は性格せいかく の中なか にある』」という句く がその根拠こんきょ で、外そと から降ふ ってくるように見み える出来事できごと は、じつはその人ひと の性格せいかく という原因げんいん から出で ている という見立みた てである。偶然ぐうぜん と必然ひつぜん の境目さかいめ が、世界せかい の側がわ ではなく「原因げんいん をどこまで見み 通とお せるか」で動うご く ことを、これほど短みじか く示しめ した例れい は少すく ない。
二ふた つの事件じけん の類似るいじ は偶然ぐうぜん の一致いっち にすぎない。
「にすぎない」と結むす ぶことで、因果いんが 関係かんけい の存在そんざい を明確めいかく に否定ひてい している 。「必然性ひつぜんせい はない」と言い い換か えても内容ないよう は変か わらない。評ひょう 論文ろんぶん では、安易あんい に因果いんが を読よ み取とり ろうとする通説つうせつ を退しりぞ けるときにこの形かたち が使つか われる。
×さいころで六ろく が出で るのは偶然ぐうぜん である。
さいころの目め は六分ろっぷん の一いち という確率かくりつ が言い える 。確率かくりつ が言い えるということは、因果いんが の構造こうぞう がすでに分わ かっているということで、これは偶然ぐうぜん ではなく蓋然がいぜん の話はなし である。「六ろく が出で るかどうかは偶然ぐうぜん に左右さゆう される」なら通とお る。偶然ぐうぜん は、確率かくりつ が低ひく いことではなく、確率かくりつ すら見み 積せき もれないこと だと押お さえたい。
原げん 書しょ の反はん 意い 語ご ・関連かんれん 語ご 反はん 7 必然ひつぜん / 関せき 蓋然がいぜん
派生はせい 形けい
偶然的ぐうぜんてき [0] 「偶然ぐうぜん の」で足た りる場面ばめん が多おお く、あえて「的てき 」を使つか うのは必然的ひつぜんてき ・蓋然的がいぜんてき と並なら べて対照たいしょう させたいとき である。三さん 語ご を「的てき 」でそろえると、文ぶん の上うえ で同おな じ資格しかく の語ご として扱あつか えるようになる。
偶然性ぐうぜんせい [0] 性質せいしつ を取と り出だ す形かたち 。「偶然ぐうぜん が起お きた」ではなく「偶然ぐうぜん 性せい を帯お びている」と言い えるようになる のが要点ようてん で、出来事できごと ではなく世界せかい のあり方かた そのものを論ろん じる位置いち へ語ご を引ひ き上あ げる。
偶発ぐうはつ [0] 「発はつ 」が付つ いて出来事できごと が起お きる瞬間しゅんかん に焦点しょうてん が移うつ る。「偶ぐう 発はつ 的てき な事故じこ 」とは言い うが「偶ぐう 発はつ 的てき な存在そんざい 」とは言い わない。偶然ぐうぜん が状態じょうたい や様態ようたい にも及およ ぶのに対たい し、偶ぐう 発はつ は事件じけん にしか使つか えない点てん で射程しゃてい が狭せま い。
コロケーション
偶然ぐうぜん の一致いっち 因果いんが の否定ひてい もっとも頻度ひんど の高たか い形かたち で、「似に ているが、つながってはいない」 と言い うためにある。人間にんげん の認識にんしき は似に たものを見み るとすぐ原因げんいん を探さが しにいくので、この結むす びつきはその働はたら きに待ま ったをかける装置そうち として機能きのう する。科学かがく の文章ぶんしょう でも批評ひひょう でも、この一句いっく のあとには必かなら ず「本当ほんとう にそうか」の検討けんとう が続つづ く。
偶然ぐうぜん に頼たよ る主体しゅたい の放棄ほうき 「頼たよ る」は本来ほんらい 、あてになるものに向む ける動詞どうし である。偶然ぐうぜん はあてにならないものの代表だいひょう なので、この結むす びつきには語ご の内側うちがわ に矛盾むじゅん が畳たた み込こ まれている 。そこから自然しぜん に非難ひなん の色いろ が生しょう じ、「計画けいかく 性せい がない」という評価ひょうか がこの一語いちご で伝つた わる。同おな じ事態じたい を肯定的こうていてき に言い うなら「偶然ぐうぜん に開ひら かれている」となる。
まったくの偶然ぐうぜん 程度ていど の強調きょうちょう 偶然ぐうぜん は本来ほんらい ゼロか一いち かで、程度ていど を持も たない。それでも「まったくの」を付つ けるのは、読者どくしゃ が心こころ のどこかで因果いんが を疑うたが っているから である。つまりこの強調きょうちょう は語ご の意味いみ を強つよ めているのではなく、読者どくしゃ の側がわ の疑うたが いを打う ち消け している 。強調きょうちょう 表現ひょうげん の多おお くはこのように、語ご ではなく読よ み手て に向む けられている。
偶然ぐうぜん 性せい 哲学てつがく の術語じゅつご 「そうでなくてもよかった」という様態ようたい を指さ す哲学てつがく 用語ようご で、出来事できごと が起お きたか否いな かではなく、その出来事できごと が必かなら ずしもそうである必要ひつよう はなかった ことを言い う。九鬼くき 周造しゅうぞう 以降いこう 、日本にほん の思想しそう 文ぶん でこの語ご は「私わたし がこの私わたし であることに理由りゆう はない」という問と いと結むす びついてきた。日常にちじょう 語ご の「偶然ぐうぜん 」より一段いちだん 深ふか いところで使つか われる。
格かく 中なか 書か き言葉ことば ・会話かいわ の両方りょうほう で使つか える。
類るい 語ご と差さ
蓋然がいぜん 起お こる確たし からしさを度合どあ いで言い う確率かくりつ が計算けいさん できる場合ばあい に使つか う。「サイコロで5が出で る」は蓋然がいぜん の話はなし 。偶然ぐうぜん は確率かくりつ すら言い えない場合ばあい 。
僥倖ぎょうこう 思おも いがけない幸運こううん 結果けっか が良よ い場合ばあい に限かぎ る。価値かち 中立ちゅうりつ ではない。
恣意しい 根拠こんきょ なく決き める決き める側がわ に主体しゅたい がある。偶然ぐうぜん には主体しゅたい がない。この差さ は重要じゅうよう で、制度せいど 批判ひはん では「恣意的しいてき 」を使つか う。
たまたま 偶然ぐうぜん に口語こうご 。評ひょう 論文ろんぶん では使つか わない。同おな じ内容ないよう を書か くなら「偶然ぐうぜん にも」「偶然ぐうぜん にして」。
EN contingency / chanceZH 偶然(偶然, ǒurán)
解説かいせつ ── 必然ひつぜん ・偶然ぐうぜん
必然性ひつぜんせい ・現実げんじつ 性せい (=現げん にそうであること)・可能性かのうせい (=あり得え ること)・偶然ぐうぜん 性せい というように、何なに かが起お こる確たし からしさの度合どあ いを表現ひょうげん する語ご はいろいろある。「陽ひ が当あ たれば気温きおん が上あ がる」というのは必然ひつぜん だが、「サイコロを振ふ って5が出で る」のは偶然ぐうぜん でしかない。ただし、5が出で るのは六分ろっぷん の一いち という確率かくりつ で起お こることまではわかる。また、必然ひつぜん と偶然ぐうぜん の間あいだ で起お こることの確たし からしさを表あらわ す蓋然がいぜん という語ご もある。「明日あす 、雨あめ になる確率かくりつ が70%という場合ばあい は、「雨あめ になる蓋然性がいぜんせい が高たか い」と言い う。
たとえば ── 必然ひつぜん ・偶然ぐうぜん
我々われわれ の世界せかい で起お きる出来事できごと の多おお くは、必然ひつぜん と偶然ぐうぜん がからみ合あ っている。男女だんじょ の愛情あいじょう 過程かてい によって人間にんげん が誕生たんじょう するという fact は、ごくありふれた必然的ひつぜんてき 法則ほうそく に属ぞく する。しかし、どの男性だんせい とどの女性じょせい が巡めぐ り合あ うかということは、運命うんめい 的てき 巡めぐ り合あ いであり、偶然ぐうぜん に属ぞく する。
対立たいりつ の軸じく
必然ひつぜん /偶然ぐうぜん の軸じく = 因果いんが が見み えるか
必然ひつぜん 法則ほうそく 性せい ・因果いんが 性せい によってそうなる。
因果いんが が見み えるか
偶然ぐうぜん 因果いんが が分わ からず、予測よそく できない。
入試にゅうし 文ぶん
「くじ引ひ き」つまり「人々ひとびと の権利けんり や義務ぎむ について優先度ゆうせんど が判定はんてい できないような場合ばあい には、8 偶然ぐうぜん 的てき なメカニズムによって決定けってい する」ということは、多おお くの社会しゃかい において(場合ばあい によっては暗黙あんもく の)ルールとなっているように思おも われる。 しかしなぜこのようなルールが存在そんざい しているかということを考かんが えると、そこには人々ひとびと が理解りかい できない、でたらめと思おも われる95 現象げんしょう の中なか には、人間にんげん の理解りかい を超こ えた12 合理性ごうりせい (つまり「神意しんい 」)が存在そんざい しているという感覚かんかく が残のこ されているように思おも われる。古代こだい の人々ひとびと は、宇宙うちゅう に5 秩序ちつじょ が存在そんざい することを発見はっけん し、したがって、7 必然ひつぜん 性せい がものごとを支配しはい することを認みと めたが、同時どうじ に人間にんげん が理解りかい できないことも起お こることは認みと めざるを得とく なかった。しかしそれを些細ささい な乱みだ れとして無視むし してしまうことができない場合ばあい は、それを何なに か不可解ふかかい な「必然性ひつぜんせい 」の表あらわ れとして、「神意しんい 」「因縁いんねん 」「運命うんめい 」などと解釈かいしゃく したのであった。 それはある意味いみ では偶然ぐうぜん を別種べっしゅ の「必然ひつぜん 」と見み なすものであり、「偶然ぐうぜん 」の存在そんざい を否定ひてい するものであった。
出典しゅってん 竹内たけうち 啓けい 『偶然ぐうぜん とは何なに か─その積極的せっきょくてき 意味いみ 』 / 出題しゅつだい 金沢大学かなざわだいがく / 原げん 書しょ p.22
読解どっかい のポイントくじ引ひ き = 人間にんげん の理解りかい を超こ えた合理性ごうりせい が存在そんざい しているという感覚かんかく 古代こだい の人々ひとびと → 人間にんげん が理解りかい できないことも起お こることを認みと めた(「神意しんい 」「天てん 縁えん 」「運命うんめい 」) → 偶然ぐうぜん を別種べっしゅ の「必然ひつぜん 」と見み なした要約ようやく くじ引ひ きには、人間にんげん の理解りかい を超こ えた合理性ごうりせい が存在そんざい しているという感覚かんかく がある。古代こだい の人々ひとびと は偶然ぐうぜん を別種べっしゅ の「必然ひつぜん 」と見み なし、偶然ぐうぜん の存在そんざい を否定ひてい した。
語ご 法ほう の観察かんさつ 「〜ように思おも われる」が一般いっぱん の感覚かんかく を代だい 弁べん する形かたち で置お かれ、筆者ひっしゃ 自身じしん の判断はんだん とは区別くべつ されている。
必然・蓋然・偶然を因果の見通しやすさで並べた図 因果が完全に見通せる側を必然、確率が言える範囲を蓋然、因果がたどれない側を偶然とし、境界が人間の認識の広がりで動くことを示す。
境目は世界の側ではなく、人の認識の側にある 因果がどこまで見通せるかで、線は左右に動く CAUSE VISIBLE CAUSE HIDDEN 必然 蓋然 偶然 そうなるほかない 確からしさが言える 因果がたどれない 7 8 因果が見えるほど必然が広がり、見えないほど偶然が広がる 古代の人が「神意」と呼んだのは、この線の外側だった
因果いんが の見通みとお しやすさで動うご く境界きょうかい
Section 05
対象たいしょう
9 ★★★
対象たいしょう ⚠
たいしょう [0] た い しょ う 平板へいばん 型がた
語ご 構成こうせい
対たい むかいあう + 象ぞう かたち・すがた
「象ぞう 」がつく熟語じゅくご には印象いんしょう ・抽象ちゅうしょう ・現象げんしょう ・表象ひょうしょう がある。「象ぞう 」は〈かたち・ありさま〉を表あらわ す。
定義ていぎ
意識いしき や意志いし の作用さよう が向む けられるもの。行為こうい の目標もくひょう となるもの。
『現代げんだい 文ぶん キーワード読解どっかい 』1-1 ☑9
原げん 書しょ の解説かいせつ
たとえば、庭にわ に咲さ いている花はな の性質せいしつ や特徴とくちょう をよく理解りかい しようとするなら、その花はな を切き り取と り、目め の前まえ に据す えなければならない。この時とき 花はな は、理解りかい しようとする我々われわれ と向む かい合あ うことになる。このように、我々われわれ と向む かい合あ って我々われわれ の意識いしき が向む けられるものが、対象たいしょう の本来ほんらい の意味いみ で、この時とき の花はな は観察かんさつ したり研究けんきゅう したりするためのものである。そのため、ただぼんやり眺なが めているだけの花はな は、厳密げんみつ には対象たいしょう とは言い えない。
なお、評ひょう 論ろん の文章ぶんしょう では対象たいしょう 化か という言葉ことば もよく登場とうじょう し、「自然しぜん を対象たいしょう 化か する」などと使つか う。花はな に見み 入はい り、美うつく しさと感動かんどう して眺なが めている状態じょうたい は、花はな についての客観的きゃっかんてき な観察かんさつ や理解りかい という過程かてい が含ふく まれないため、「対象たいしょう 化か 」とは言い えない。花はな の種類しゅるい ・性質せいしつ について主観しゅかん を交こう えずに調しら べ、分析ぶんせき することが必要ひつよう となる。
コラム
「象ぞう 」がつく熟語じゅくご には、対象たいしょう の他ほか に「印象いんしょう 」「抽象ちゅうしょう 」「現象げんしょう 」「表象ひょうしょう 」などがある。「象ぞう 」は「像ぞう 」と同おな じく〈かたち・ありさま〉 という意味いみ で〈形態けいたい 〉 のイメージに近ちか い。対象たいしょう は〈自分じぶん と向む かい合あ った形態けいたい 〉 、印象いんしょう は〈感覚かんかく に強つよ く印しるし づけられた形態けいたい 〉 といった解釈かいしゃく ができるだろう。
使用しよう の境界きょうかい 意識いしき や意志いし の作用さよう が向む けられるもの。ぼんやり眺なが めているだけでは対象たいしょう にならない。観察かんさつ ・理解りかい の過程かてい が要い る。
用法ようほう 同音どうおん の「対称たいしょう 」「対照たいしょう 」との書か き分わ けが問と われる。「対象たいしょう 化か する」は評ひょう 論文ろんぶん の重要じゅうよう 動詞どうし で、〈それまで一体いったい だったものを切き り離はな して観察かんさつ の側がわ に置お く〉ことを指さ す。庭にわ の花はな を眺なが めているだけなら対象たいしょう ではなく、性質せいしつ を調しら べようと切き り取と った時とき に対象たいしょう になる、という原げん 書しょ の説明せつめい がそのまま用法ようほう である。「自然しぜん を対象たいしょう 化か する」は近代きんだい 批判ひはん の定型ていけい 句く で、人間にんげん が世界せかい の支配しはい 者しゃ として立た つ構図こうず を含意がんい する。
用例ようれい
ここに茶ちゃ わんが一ひと つあります。中なか には熱あつ い湯ゆ がいっぱいはいっております。ただそれだけではなんの面白味おもしろみ もない話はなし ですが、よく気き をつけて見み ていると、だんだんにいろいろの微細びさい な現象げんしょう が目め につき、さまざまの疑問ぎもん が起お こって来く るはずです。寺田てらだ 寅彦とらひこ 『茶碗ちゃわん の湯ゆ 』(1922)
「ここに茶ちゃ わんが一ひと つあります」— この一文いちぶん が対象たいしょう 化か の全ぜん 過程かてい を含ふく んでいる。茶碗ちゃわん の湯ゆ は、それまで手て に取と って飲の むものだった。それを目め の前まえ に据す え、飲の むのをやめて眺なが めた瞬間しゅんかん に、茶碗ちゃわん は生活せいかつ の道具どうぐ から観察かんさつ の対象たいしょう へ移うつ る 。原げん 書しょ が「庭にわ の花はな を切き り取と って目め の前まえ に据す える」と説明せつめい したのと同おな じ操作そうさ が、ここでは湯気ゆげ を立た てる茶碗ちゃわん で行おこな われている。さらに寺田てらだ は「よく気き をつけて見み ていると」と条件じょうけん を置お いた。ぼんやり眺なが めているだけでは対象たいしょう にならない という境界きょうかい が、この一句いっく で正確せいかく に引ひ かれている。
「松まつ の事こと は松まつ に習なら へ、竹たけ の事こと は竹たけ に習なら へ」と師し の詞し のありしも、私意しい をはなれよといふ事こと なり。服部はっとり 土芳どほう 『三さん 冊子さっし 』(1702・芭蕉ばしょう の教おし えを記しる す)
こちらは対象たいしょう 化か しない見方みかた の側がわ からの言葉ことば である。松まつ を観察かんさつ の台だい に載の せて分析ぶんせき するのではなく、松まつ の側がわ に入はい って松まつ に教きょう われ、という。「私意しい をはなれよ」— 見み る主体しゅたい を消け せ、というのだから、主体しゅたい と客体きゃくたい を向む かい合あ わせる対象たいしょう 化か とは正反対せいはんたい を向む いている。この二ふた つの引用いんよう を並なら べると、「自然しぜん を対象たいしょう 化か する」という評ひょう 論ろん の定型ていけい 句く が何なに を批判ひはん しているのかが見み えてくる 。批判ひはん されているのは観察かんさつ そのものではなく、観察かんさつ のために世界せかい の外側そとがわ へ立た つという構かま えのほうである。
近代きんだい 科学かがく は自然しぜん を対象たいしょう 化か することで、それを操作そうさ 可能かのう なものに変か えた。
「対象たいしょう 化か する」と「操作そうさ 可能かのう にする」が一続ひとつづ きの動作どうさ として書か かれている点てん が重要じゅうよう である。切き り離はな して向む かい合あ わせることは、そのまま相手あいて を扱あつか えるものへ変か えること でもある。近代きんだい 批判ひはん の文章ぶんしょう がこの語ご を鍵かぎ にするのは、この一歩いっぽ の含ふく みを一語いちご で示しめ せるからだ。
×この図ず 形けい は左右さゆう が対象たいしょう になっている。
この場合ばあい は「対称たいしょう 」。同音どうおん の三さん 語ご — 対象たいしょう (向む かい合あ うもの)・対称たいしょう (釣つ り合あ い)・対照たいしょう (引ひ き比くら べ) — は書か き分わ けが直接ちょくせつ 問と われる。「象ぞう 」はかたち、「称しょう 」ははかり、「照しょう 」はてらす、と字じ の意味いみ から辿たど ると取と り違ちが えにくい 。
原げん 書しょ の反はん 意い 語ご ・関連かんれん 語ご 関せき 89 /90
派生はせい 形けい
対象的たいしょうてき [0] 同音どうおん の「対称的たいしょうてき 」「対照的たいしょうてき 」と衝突しょうとつ するため、実際じっさい にはほとんど使つか われない 。書か き手て はふつう「対象たいしょう としての」「対象たいしょう の側がわ の」と言い い換か えて衝突しょうとつ を避さ ける。使つか われない派生はせい 形けい があること自体じたい が、同音どうおん 語ご の圧力あつりょく を示しめ している。
対象化たいしょうか [0] 評ひょう 論文ろんぶん における最重要さいじゅうよう の動詞どうし 形けい 。「化か 」が付つ くことで状態じょうたい ではなく操作そうさ になり、「誰だれ が」「何なに を」対象たいしょう 化か したのかを問と えるようになる。対象たいしょう という名詞めいし を覚おぼ えても、この動詞どうし 形けい が読よ めなければ評ひょう 論文ろんぶん には届とど かない 。
対象化されるたいしょうかされる 受う け身み にすると、対象たいしょう 化か する側がわ が文ぶん から消き える 。「女性じょせい が対象たいしょう 化か される」という言い い方かた が批判ひはん の語ご として力ちから を持も つのは、まさに見み る主体しゅたい が姿すがた を隠かく したまま相手あいて だけを客体きゃくたい の位置いち に置お く構図こうず を、文ぶん の形かたち そのものが写うつ しとっているからである。
コロケーション
自然しぜん を対象たいしょう 化か する近代きんだい 批判ひはん の定型ていけい 評ひょう 論文ろんぶん でもっともよく現あらわ れる形かたち で、人間にんげん が自然しぜん の一部いちぶ であることをやめ、外そと に立た って自然しぜん を眺なが める位置いち に移うつ った という歴史的れきしてき 転換てんかん を指さ す。「自然しぜん を研究けんきゅう する」では、この位置いち の移動いどう が出で ない。対象たいしょう 化か という語ご が担にな っているのは知識ちしき の量りょう ではなく立た ち位置いち の変化へんか であり、そこに批判ひはん が乗の せられる。
研究けんきゅう の対象たいしょう 限定げんてい の枠わく 「〜の対象たいしょう 」という形かたち は、対象たいしょう であることが一時的いちじてき で、限定げんてい された資格しかく であること を示しめ す。同おな じ花はな が、研究けんきゅう の対象たいしょう にも鑑賞かんしょう の対象たいしょう にもなりうる。つまり対象たいしょう とは物もの の種類しゅるい ではなく、こちらの向む け方ほう によって与あた えられる役割やくわり である。この一句いっく はその可変かへん 性せい を、「の」一ひと つで表あらわ している。
対象たいしょう とする範囲はんい の宣言せんげん 論文ろんぶん や制度せいど の文ぶん で「本稿ほんこう は〜を対象たいしょう とする」と書か くとき、そこで行おこな われているのは扱あつか う範囲はんい の切き り出だ し である。切き り出だ すとは、同時どうじ に切き り捨す てる ことでもある。「何なに を対象たいしょう とするか」を読よ むときは、常つね に「何なに が外そと に置お かれたか」を裏返うらがえ して読よ むと、論ろん の枠組わくぐ みが見み えてくる。
対象たいしょう 化か されない領域りょういき 批判ひはん の余白よはく 否定ひてい 形けい で使つか うことで、観察かんさつ の枠わく に載の らないもの を名指なざ す。身体しんたい の感覚かんかく 、なじんだ道具どうぐ 、母語ぼご — ふだんそれと意識いしき せず使つか っているものは対象たいしょう 化か されていない。対象たいしょう 化か した瞬間しゅんかん にその自然しぜん さが失うしな われるので、この語ご は「失うしな われたもの」を語かた る文脈ぶんみゃく で否定ひてい 形けい をとる ことが多おお い。
格かく 硬かた 書か き言葉ことば 。会話かいわ では不自然ふしぜん 。
類るい 語ご と差さ
客体きゃくたい 主体しゅたい に対たい して立た つもの主体しゅたい との関係かんけい を明示めいじ する哲学てつがく 語ご 。対象たいしょう は日常にちじょう 語ご としても使つか えるが、客体きゃくたい は学術がくじゅつ 語ご のみ。
客観きゃっかん 主観しゅかん から独立どくりつ した側面そくめん 視点してん の性質せいしつ を言い う。「客観的きゃっかんてき に見み る」は態度たいど 。対象たいしょう はものそのもの。
標的ひょうてき 行為こうい が狙ねら う先さき 攻撃こうげき ・達成たっせい の目標もくひょう に限かぎ る。認識にんしき ではなく行為こうい の語ご 。
題材だいざい 扱あつか う素材そざい 作品さくひん や研究けんきゅう が取と り上あ げる素材そざい 。認識にんしき の向む かう先さき という含ふく みはない。
EN objectZH 对象(相手・恋人, duìxiàng)
日中にっちゅう のズレ
中国語ちゅうごくご の 对象(duìxiàng)は「相手あいて 」、とくに「恋人こいびと 」 の意い で日常的にちじょうてき に使つか う(找对象)。
日本語にほんご の「対象たいしょう 」にこの用法ようほう はない。
対象化の過程 眺めているだけの状態から、切り離して観察の側に置く対象化を経て対象となる過程を示した図。
ぼんやり眺める
主観が混じっている
切り離す
対象化する
観察・理解の過程が入る
対象
主観と向かい合う
花に見入り、美しいと感動する
花の種類・性質を調べ分析する
近代科学は自然を対象化した ── この構図が近代批判の起点になる
眺なが めることと、対象たいしょう 化か すること
入試にゅうし 文ぶん
西洋せいよう の近代きんだい 思想しそう は、93 認識にんしき する「我われ 」を中心ちゅうしん におき(89 主観しゅかん )、この我わ が、9 対象たいしょう (90 客観きゃっかん )を捉とら える、という主観しゅかん ―客観きゃっかん の軸じく に添そ って構成こうせい された。この軸じく の意味いみ は、主観しゅかん が対象たいしょう を支配しはい することであって、その逆ぎゃく ではない。「我われ 」がその対象たいしょう を対象たいしょう として成な り立た たせている、という考かんが えである。主観しゅかん が対象たいしょう を構成こうせい するとともに、「対象たいしょう 」というあり方かた が、主観しゅかん の存在そんざい を聖せい 化か する。そこで、主観しゅかん =人間にんげん は、対象たいしょう =世界せかい の支配しはい 者しゃ となる。 しかし、近年きんねん 、この人間にんげん 中心ちゅうしん 主義しゅぎ に対たい する批判ひはん と反省はんせい の意識いしき はいよいよ強つよ くなってきている。例たと えば、ドイツの哲学者てつがくしゃ ゲルノート・ベーメは、雰囲気ふんいき というあり方かた に注目ちゅうもく している。より正確せいかく に言い うならば、もののあり方かた の根底こんてい 、対象たいしょう 的てき な側面そくめん よりも雰囲気ふんいき 的てき な側面そくめん に注目ちゅうもく している。意識いしき は対象たいしょう を支配しはい するが、雰囲気ふんいき にはわれわれの方ほう が包つつみ まれる。
出典しゅってん 佐々木ささき 健けん 一いち 『日本にほん 的てき 感かん 性せい 』 / 出題しゅつだい 中央ちゅうおう 大学だいがく ・文学ぶんがく 部ぶ / 原げん 書しょ p.24
読解どっかい のポイント西洋せいよう の近代きんだい 思想しそう =人間にんげん 中心ちゅうしん 主義しゅぎ 人間にんげん 中心ちゅうしん 主義しゅぎ に対たい する批判ひはん と反省はんせい 要約ようやく 西洋せいよう の近代きんだい 思想しそう では、人間にんげん は対象たいしょう (=世界せかい )の支配しはい 者しゃ となった。だが、人間にんげん 中心ちゅうしん 主義しゅぎ への批判ひはん と反省はんせい から、もののあり方かた の対象たいしょう 的てき な側面そくめん よりも、雰囲気ふんいき 的てき な側面そくめん が注目ちゅうもく されている。
語ご 法ほう の観察かんさつ 「しかし、近年きんねん 」で時代じだい の転換てんかん を示しめ し、主観しゅかん /客観きゃっかん の対立たいりつ を時間軸じかんじく の対立たいりつ に置お き換か えている。
Section 06
権威けんい /権力けんりょく
10 ★★★
権威けんい
けんい [1] け ん い 頭高あたまだか 型がた
語ご 構成こうせい
権けん ちから・はたらき + 威い おごそかさ・おそれさせる力ちから
定義ていぎ
人々ひとびと がそれに価値かち を認みと めて、自発的じはつてき に同意どうい し服従ふくじゅう することを促うなが す力ちから 。
『現代げんだい 文ぶん キーワード読解どっかい 』1-1 ☑10
使用しよう の境界きょうかい 相手あいて が価値かち を認みと めて自発的じはつてき に従したが う力ちから 。強制きょうせい を伴ともな えば権力けんりょく 。人ひと を指さ して「この分野ぶんや の権威けんい 」とも言い う。
用法ようほう 二ふた つの用法ようほう がある。①人々ひとびと が価値かち を認みと めて自発的じはつてき に従したが う力ちから (制度せいど ・知識ちしき ・伝統でんとう が持も つ)、②その分野ぶんや で最もっと も優すぐ れている人ひと (「物理学ぶつりがく の権威けんい 」)。評ひょう 論文ろんぶん では①が中心ちゅうしん で、権力けんりょく との対比たいひ で出で る。「権威けんい づける」「権威けんい を借か りる」は、自分じぶん の主張しゅちょう に外部がいぶ の信頼しんらい を貼は り付つ ける行為こうい を指さ し、批判的ひはんてき に使つか われる。「権威けんい 的てき 」は否定ひてい 語ご で、上うえ から押お しつける態度たいど を意味いみ する。近代きんだい では憲法けんぽう という権威けんい が国家こっか 権力けんりょく に正統性せいとうせい を与あた える、という構図こうず が定型ていけい 。
用例ようれい
そもそも国政こくせい は、国民こくみん の厳粛げんしゅく な信しん 託たく によるものであつて、その権威けんい は国民こくみん に由来ゆらい し、その権力けんりょく は国民こくみん の代表だいひょう 者しゃ がこれを行使こうし し、その福利ふくり は国民こくみん がこれを享受きょうじゅ する。日本にほん 国こく 憲法けんぽう 前文ぜんぶん (1946)
この一文いちぶん は、権威けんい と権力けんりょく を一ひと つの文ぶん の中なか で明確めいかく に切き り分わ けている 。権威けんい は「国民こくみん に由来ゆらい し」、権力けんりょく は「代表だいひょう 者しゃ がこれを行使こうし し」。つまり権威けんい は正統性せいとうせい の出で どころ、権力けんりょく は現げん に振ふ るわれる力ちから であり、前者ぜんしゃ があるからこそ後者こうしゃ が許ゆる される、という順序じゅんじょ で書か かれている。なぜこの語順ごじゅん なのかを考かんが えたい。権力けんりょく を先さき に置お けば、力ちから が先さき にあってあとから理由りゆう づけされた文ぶん になる。権威けんい を先さき に置お いたことで、力ちから は借か り物もの にすぎないという構図こうず が確定かくてい する。評ひょう 論文ろんぶん が「近代きんだい 国家こっか では憲法けんぽう という権威けんい が権力けんりょく に正統性せいとうせい を与あた える」と書か くとき、下敷したじ きにしているのはまさにこの一文いちぶん である。
少すこ しのことにも、先達せんだつ はあらまほしきことなり。吉田兼好よしだけんこう 『徒然草つれづれぐさ 』第だい 五十ごじゅう 二に 段だん (1330頃ころ )
仁和寺にんなじ の法師ほうし が念願ねんがん の石清水八幡宮いわしみずはちまんぐう へ参まい ったが、麓ふもと の付属ふぞく の社しゃ だけを拝おが んで「これで全部ぜんぶ だ」と思おも い込こ んで帰かえ った、という話はなし の結むす びである。ここでいう「先達せんだつ 」は、その道みち をすでに歩ある いた案内あんない 者しゃ — 権威けんい の第だい 二に の用法ようほう 、すなわち「その分野ぶんや で最もっと も通つう じている人ひと 」 にあたる。注目ちゅうもく したいのは、兼好けんこう が権威けんい を従したが うべきものとしてではなく、欠か けると取と り返かえ しがつかないものとして書か いた点てん である。法師ほうし を止と める力ちから は誰だれ も振ふ るっていない。ただ知し っている人ひと がそばにいなかった だけで、一生いっしょう に一度いちど の参詣さんけい が空振からぶ りに終お わる。権威けんい が強制きょうせい を伴ともな わずに働はたら く力ちから であることが、この一段いちだん でよく分わ かる。
自説じせつ を権威けんい づけるために、彼かれ は古典こてん から引用いんよう を重かさ ねた。
「権威けんい づける」は、自分じぶん の外そと にある信頼しんらい を自分じぶん の主張しゅちょう に貼は りつける行為こうい を指さ す。内容ないよう そのものが強つよ くなるわけではないので、この語ご が使つか われるときはほぼ必かなら ず批判ひはん の色いろ を帯お びる。「補強ほきょう する」なら中立ちゅうりつ 、「権威けんい づける」なら「中身なかみ ではなく看板かんばん で押お している」という含ふく み が加くわ わる。
×警察けいさつ の権威けんい によって強制きょうせい 的てき に排除はいじょ された。
強制きょうせい が伴ともな った時点じてん で、それは権威けんい ではなく権力けんりょく である。権威けんい は相手あいて が価値かち を認みと めて自発的じはつてき に従したが うときにだけ働はたら く。ここは「警察けいさつ の権力けんりょく によって」あるいは「公こう 権力けんりょく によって」が正ただ しい。「従じゅう わせたのか、従したが ったのか」を問と えば、二に 語ご はほとんどの場合ばあい すぐに分わ かれる 。
派生はせい 形けい
権威的けんいてき [0] 「的てき 」が付つ くと実質じっしつ から態度たいど へ重心じゅうしん が移うつ る 。そのため「権威けんい ある研究けんきゅう 」は褒ほ め言葉ことば 、「権威けんい 的てき な研究者けんきゅうしゃ 」は批判ひはん になる。接尾せつび 辞じ ひとつで評価ひょうか が反転はんてん するので、選択肢せんたくし の識別しきべつ 点てん として狙ねら われやすい。
権威づけるけんいづける 名詞めいし +「づける」で他動詞たどうし をつくる形かたち 。権威けんい を「与あた えられるもの」として扱あつか えるようになる点てん が重要じゅうよう で、ここから「権威けんい は自然しぜん に備そなえ わるのではなく、誰だれ かが付与ふよ するものだ」という見方みかた へ道みち が開ひら く。評ひょう 論文ろんぶん の権威けんい 批判ひはん はほぼこの線せん で進すす む。
権威主義けんいしゅぎ 「主義しゅぎ 」は、ある態度たいど を原理げんり の位置いち まで押お し上あ げる。権威けんい に従したが うことそれ自体じたい を正ただ しさの基準きじゅん にする立場たちば を指さ し、政治せいじ 体制たいせい を評ひょう するときは「権威けんい 主義しゅぎ 体制たいせい 」と民みん 主しゅ 主義しゅぎ の対たい 義ぎ として使つか われる。個人こじん の態度たいど から体制たいせい の名な まで一語いちご で届とど く、射程しゃてい の広ひろ い形かたち である。
コロケーション
権威けんい を借か りる外部がいぶ からの調達ちょうたつ 「借か りる」は、自分じぶん の持も ち物もの ではないものに使つか う動詞どうし である。したがってこの結むす びつきは、語かた られている内容ないよう そのものには力ちから が無な いことを、動詞どうし の側がわ から告白こくはく している ことになる。「虎とら の威い を借か る狐きつね 」の構図こうず がそのまま漢語かんご になった形かたち で、評ひょう 論文ろんぶん で見み かけたら、直後ちょくご に「しかし」が来く る と思おも ってよい。
権威けんい が失墜しっつい する高たか さの比喩ひゆ 「失墜しっつい 」は高たか い所しょ から落お ちること。権威けんい が上下じょうげ の位置いち として想像そうぞう されている ことがこの語ご に表あらわ れている。興味深きょうみぶか いのは、権威けんい が失うしな われるとき「消き える」ではなく「落お ちる」と言い う点てん である。権威けんい は同意どうい によって支ささ えられているので、同意どうい が引ひ かれた瞬間しゅんかん に、支ささ えを失うしな って落お ちる — この語ご はその瞬間しゅんかん の力学りきがく を写うつ している。
権威けんい 的てき な態度たいど 否定ひてい の形容けいよう 「権威けんい ある態度たいど 」なら肯定こうてい にも読よ めるが、「権威けんい 的てき な態度たいど 」はほぼ必かなら ず否定ひてい になる。「的てき 」が付つ くことで「権威けんい であること」から「権威けんい らしく振ふ る舞ま うこと」へ意味いみ がずれる からである。実質じっしつ がないのに形かたち だけ真似まね ている、という含ふく みが生しょう じ、そこに批判ひはん が乗の る。同おな じ接尾せつび 辞じ が、語ご によって評価ひょうか の向む きを変か える好例こうれい である。
その分野ぶんや の権威けんい 人ひと を指さ す用法ようほう ここでの権威けんい は力ちから ではなく人ひと である。力ちから を指さ す用法ようほう と人ひと を指さ す用法ようほう が同おな じ語ご に同居どうきょ しているのは、その人ひと が「歩ある く権威けんい 」として扱あつか われている からで、知識ちしき が身体しんたい に宿やど ったものとして語かた られている。英語えいご の authority にも同おな じ二に 重じゅう 性せい があり、翻訳ほんやく 語ご としてこの語ご が定着ていちゃく した理由りゆう の一ひと つでもある。
格かく 中なか 書か き言葉ことば ・会話かいわ の両方りょうほう で使つか える。
類るい 語ご と差さ
権力けんりょく 強制きょうせい して従じゅう わせる従したが う側がわ の同意どうい を必要ひつよう としない。権威けんい は同意どうい を必要ひつよう とする。この一点いってん で分わ かれる。
威い 信しん 信頼しんらい に支ささ えられた威い 対たい 外的がいてき な評価ひょうか に重心じゅうしん がある。「国家こっか の威い 信しん 」。個人こじん の専門性せんもんせい には使つか わない。
名声めいせい 広ひろ く知し られた評価ひょうか 知し られていることが中心ちゅうしん で、従じゅう わせる力ちから は含ふく まない。
オーソリティ 権威けんい 外来語がいらいご 。学術がくじゅつ ・技術ぎじゅつ の分野ぶんや で人ひと を指さ す時とき に使つか う。制度せいど 的てき な権威けんい には使つか いにくい。
EN authorityZH 权威(権威, quánwēi)
11 ★★★
権力けんりょく
けんりょく [1] け ん りょ く 頭高あたまだか 型がた
語ご 構成こうせい
権けん ちから・はたらき + 力ちから ちから
定義ていぎ
人々ひとびと を強制きょうせい し服従ふくじゅう させる時とき に働はたら き、人々ひとびと の納得なっとく や承認しょうにん を必要ひつよう としない力ちから 。
『現代げんだい 文ぶん キーワード読解どっかい 』1-1 ☑11
使用しよう の境界きょうかい 強制きょうせい して服従ふくじゅう させる力ちから 。納得なっとく や承認しょうにん を必要ひつよう としない。近代きんだい 国家こっか では憲法けんぽう という権威けんい が権力けんりょく の正統性せいとうせい を裏うら づける。
用法ようほう 評ひょう 論文ろんぶん では「権力けんりょく 」がほぼ常つね に批判ひはん の対象たいしょう として現あらわ れる。「権力けんりょく の座ざ 」「権力けんりょく 構造こうぞう 」「権力けんりょく に抗こう する」といった結むす びつきが多おお い。フーコー以降いこう は、国家こっか に集あつ まるものだけでなく日常にちじょう のあらゆる関係かんけい に働はたら くものとして論ろん じられ、「まなざしの権力けんりょく 」「知ち と権力けんりょく 」のような表現ひょうげん が出で る。この場合ばあい の権力けんりょく は強制きょうせい ではなく、人ひと を自みずか ら従したが うようにさせる仕組しく みを指さ すので、原げん 書しょ の定義ていぎ より広ひろ い。読解どっかい では、どちらの意味いみ で使つか われているかを文脈ぶんみゃく で判定はんてい する。
用例ようれい
力ちから を以もっ て人ひと を服ふく する者もの は、心服しんぷく に非ひ ざるなり、力ちから 贍た らざればなり。徳とく を以もっ て人ひと を服ふく する者もの は、中心ちゅうしん 悦よろこ びて誠まこと に服ふく するなり。『孟子もうし 』公孫丑上こうそんちゅうじょう
力ちから で従じゅう わせた場合ばあい 、相手あいて が従したが っているのは力ちから が足た りないからにすぎない 、と孟子もうし は言い う。この「力ちから 贍た らざればなり」の一句いっく が鋭するど い。従したが っている姿すがた は同おな じでも、力ちから が尽つ きた瞬間しゅんかん に服従ふくじゅう が消き えるかどうか で二ふた つは分わ かれる。徳とく による服従ふくじゅう は「中心ちゅうしん 悦よろこ びて」— 内側うちがわ から同意どうい しているので、強制きょうせい が止や んでも続つづ く。これは権力けんりょく と権威けんい の違ちが いを、「支ささ えを外はず したときに何なに が残のこ るか」という一点いってん で測はか る方法ほうほう を示しめ しており、二に 語ご の判別はんべつ に迷まよ ったときの実際的じっさいてき な物差ものさ しになる。
太上だいじょう は下之有しもこれあ るを知し るのみ。其そ の次つぎ は親した しみて之これ を誉ほまれ む。其そ の次つぎ は之これ を畏おそ る。其そ の次つぎ は之これ を侮あなど る。『老子ろうし 』第だい 十七じゅうなな 章しょう
最上さいじょう の為ため 政せい 者しゃ は、民みん が「いる」ことを知し っているだけ。次つぎ は親した しんで褒ほ め、次つぎ は畏い れ、次つぎ は侮あなど る — と四よん 段だん に落お としていく。この序列じょれつ で「畏おそ る」が三さん 番目ばんめ に置お かれているのが重要じゅうよう である。恐おそ れられている状態じょうたい は、老子ろうし にとってすでに二に 段だん の下落げらく なのだ。恐怖きょうふ によって従じゅう わせる力ちから 、すなわち権力けんりょく は、ここでは統治とうち の失敗しっぱい の徴候ちょうこう として扱あつか われている。評ひょう 論文ろんぶん で権力けんりょく がほぼ常つね に批判ひはん の対象たいしょう として現あらわ れるのは、この種しゅ の見方みかた が東西とうざい を問と わず古ふる くから積つ み重かさ なっているためで、その語ご 感かん は日本語にほんご の「権力けんりょく 」にも染そめ みついている。
教室きょうしつ では、教師きょうし のまなざしそれ自体じたい が権力けんりょく として働はたら いている。
フーコー以降いこう の用法ようほう で、誰だれ も命令めいれい していないのに人ひと が自みずか ら従したが う仕組しく み を権力けんりょく と呼よ ぶ。見み られているかもしれないと思おも うだけで振ふ る舞ま いが変か わる — その変化へんか を起お こす力ちから を指さ している。これは原げん 書しょ の定義ていぎ (強制きょうせい して服従ふくじゅう させる力ちから )より広ひろ い。読解どっかい では、強制きょうせい の意い か仕組しく みの意い かを文脈ぶんみゃく で判定はんてい する必要ひつよう がある。
△彼かれ の発言はつげん には権力けんりょく がある。
発言はつげん が人ひと の判断はんだん を動うご かすことは、強制きょうせい ではない。ここは「影響力えいきょうりょく がある」 が正ただ しい。権力けんりょく は、従じゅう わない自由じゆう が実質的じっしつてき に無な いときに使つか う語ご である。影響力えいきょうりょく ・権威けんい ・権力けんりょく を、「断ことわ れるか」「納得なっとく しているか」の二ふた つの問と いで仕分しわ けると混同こんどう しにくい 。
派生はせい 形けい
権力的けんりょくてき [0] 「権力けんりょく の」で足た りることが多おお く、あえて「的てき 」を使つか うのは権力けんりょく そのものではなくその振ふ る舞ま い方ほう を評ひょう するとき である。「権力けんりょく 的てき な物もの 言い い」は、実際じっさい の権力けんりょく を持も たない者もの にも使つか える。
権力者けんりょくしゃ 「者もの 」が付つ いて力ちから が人格じんかく に宿やど る 。ここで批判ひはん の矛ほこ 先さき は仕組しく みから個人こじん へ戻もど るので、「権力けんりょく 構造こうぞう 」と同おな じ文脈ぶんみゃく で使つか うと論ろん の焦点しょうてん がぶれる。個人こじん を撃う つのか配置はいち を撃う つのかで、語ご を選えら び分わ けたい 。
権力闘争けんりょくとうそう 「闘争とうそう 」が付つ くと、権力けんりょく は奪うば い合あ われる有限ゆうげん の資源しげん として扱あつか われる。誰だれ かが得え れば誰だれ かが失うしな う、という前提ぜんてい がここに入はい り込こ む。関係かんけい としての権力けんりょく 観かん では権力けんりょく は総量そうりょう を持も たないので、この語ご はやはり古ふる い権力けんりょく 観かん に属ぞく している。
コロケーション
権力けんりょく に抗こう する対抗たいこう の姿勢しせい 「抗こう する」は、押お してくるものに対たい して押お し返かえ す動詞どうし である。つまりこの結むす びつきは、権力けんりょく が一方向いちほうこう に働はたら く圧力あつりょく として想像そうぞう されている ことを示しめ している。フーコー以降いこう の「網あみ の目め のように張ば りめぐらされた権力けんりょく 」観かん に立た てば、そもそも外そと に出で て押お し返かえ す場所ばしょ が無な いので、この言い い方かた は成な り立た ちにくい。どの権力けんりょく 観かん に立た つ文章ぶんしょう かは、この動詞どうし の選択せんたく にも表あらわ れる 。
権力けんりょく 構造こうぞう 関係かんけい としての権力けんりょく 「構造こうぞう 」が付つ くことで、権力けんりょく は誰だれ か個人こじん の持も ち物もの ではなく、関係かんけい の配置はいち になる。「王おう が権力けんりょく を持も つ」なら王おう を倒たお せば終お わるが、「権力けんりょく 構造こうぞう がある」なら王おう を替か えても同おな じ配置はいち が残のこ る。この一語いちご が加くわ わるだけで、批判ひはん の矛ほこ 先さき が人ひと から仕組しく みへ移うつ る — 現代げんだい の評ひょう 論文ろんぶん がこの形かたち を好この むのはそのためである。
知ち と権力けんりょく 接続せつぞく 詞し の一語いちご 本来ほんらい は無関係むかんけい に見み える二ふた つを「と」で結むす ぶことで、知ち は中立ちゅうりつ ではない という主張しゅちょう が一行いちぎょう も費つい やさずに立た ち上あ がる。何なに を知ち として認みと めるかを決き めるのも力ちから であり、その力ちから に支ささ えられて知ち は知ち でありうる。並置へいち そのものが議論ぎろん になっている珍めずら しい形かたち で、見出みだ しに置お かれることが多おお い。
権力けんりょく の正統性せいとうせい 暴力ぼうりょく との境界きょうかい 正統性せいとうせい を欠か いた強制きょうせい は、権力けんりょく ではなく暴力ぼうりょく と呼よ ばれる。つまりこの結むす びつきは、権力けんりょく という語ご がすでに一定いってい の承認しょうにん を含ふく んでいる ことを露あら わにする。権威けんい が同意どうい を必要ひつよう としないはずの権力けんりょく に、それでも正統性せいとうせい という形かたち で同意どうい が要い る — この捻ひね れが、権威けんい と権力けんりょく を単純たんじゅん な対義語たいぎご として扱あつか えない理由りゆう である。
格かく 中なか 書か き言葉ことば ・会話かいわ の両方りょうほう で使つか える。
類るい 語ご と差さ
権威けんい 自発的じはつてき な同意どうい を得え る同意どうい の有無うむ で分わ かれる。権力けんりょく は同意どうい がなくても働はたら く。
支配しはい 継続けいぞく して従じゅう わせる状態じょうたい の継続けいぞく に重心じゅうしん 。権力けんりょく は力ちから そのもの、支配しはい はその力ちから が及およ んでいる状態じょうたい 。
暴力ぼうりょく 正統性せいとうせい を欠か いた強制きょうせい 正統性せいとうせい の有無うむ で分わ かれる。権力けんりょく が正統性せいとうせい を失うしな えば暴力ぼうりょく と呼よ ばれる。
影響力えいきょうりょく 相手あいて の判断はんだん を動うご かす力ちから 強制きょうせい を含ふく まない。「発言はつげん に影響力えいきょうりょく がある」は権力けんりょく ではない。
EN powerZH 权力(権力, quánlì)
解説かいせつ ── 権威けんい ・権力けんりょく
権威けんい あるものは人々ひとびと から崇拝すうはい 、尊敬そんけい される対象たいしょう となる。また、「物理学ぶつりがく の権威けんい 」などのように、知識ちしき や技術ぎじゅつ を誰だれ よりも極きわ めている人ひと のことも、権威けんい (オーソリティ)と言い う。
権力けんりょく は、支配しはい する者もの と支配しはい される者もの とが分わ かれ、命令めいれい ―服従ふくじゅう の関係かんけい が成立せいりつ した社会しゃかい で発生はっせい するものである。さらに、権力けんりょく の最もっと も組織化そしきか されたものが国家こっか 権力けんりょく である。〈権力けんりょく 〉 に正統性せいとうせい を与あた えるのは〈権威けんい 〉 で、近代きんだい 国家こっか においては、憲法けんぽう という〈権威けんい 〉 が国家こっか 権力けんりょく の正統性せいとうせい を裏うら づけている。
コラム ── 権威けんい ・権力けんりょく
幕末ばくまつ において、〈権力けんりょく 〉 を持も っていたのは幕府ばくふ 、一方いっぽう で〈権威けんい 〉 があったのは朝廷ちょうてい (天皇てんのう )であり、両者りょうしゃ は分裂ぶんれつ していたが、明治めいじ 維い 新しん によって後者こうしゃ (天皇てんのう )が権力けんりょく と権威けんい の両方りょうほう をもつことになった。西洋せいよう においては、世俗せぞく 的てき 権力けんりょく をもつ国家こっか (国王こくおう )と宗教的しゅうきょうてき な権威けんい のある教会きょうかい が対立たいりつ し、両者りょうしゃ が対立たいりつ する中なか で近代きんだい 市民しみん 階級かいきゅう が登場とうじょう した。
対立たいりつ の軸じく
権威けんい /権力けんりょく の軸じく = 服従ふくじゅう が自じ 発はつ か強制きょうせい か
権威けんい 価値かち を認みと めて自発的じはつてき に従したが う。
服従ふくじゅう が自じ 発はつ か強制きょうせい か
権力けんりょく 強制きょうせい して服従ふくじゅう させる。
権威と権力の関係 権威が自発的な同意にもとづき、権力が強制にもとづくこと、そして権威が権力に正統性を与える関係を示した図。
権威
価値を認めて従う
自発的な同意 ── 必要
権力
強制して従わせる
自発的な同意 ── 不要
正統性を与える
近代では憲法
失えば ── ただの評価
失えば ── 暴力
正統性を
政治学の対象は国家にかぎられない ── 教会・大学・組合にも権威と権力がある
権威けんい が権力けんりょく に正統性せいとうせい を与あた える
入試にゅうし 文ぶん
政治学せいじがく の9 対象たいしょう は国家こっか にかぎられないという主張しゅちょう は、国家こっか は、教会きょうかい や大学だいがく あるいは組合くみあい などと比くら べて、何なに ら特殊とくしゅ な組織そしき ではないという主張しゅちょう と重かさ なっていた。すべての集団しゅうだん や社会しゃかい は、その内ない に統一とういつ 的てき な決定けってい 作成さくせい (意思決定いしけってい )の機構きこう をもつ。決定けってい 作成さくせい 機構きこう は、成員せいいん の服従ふくじゅう を獲得かくとく するために規約きやく や定款ていかん にのっとりまた適切てきせつ な指導性しどうせい を発揮はっき するという「10 権威けんい 」を樹立じゅりつ するとともに、非ひ 服従ふくじゅう 者しゃ に対たい しては何なに らかの制裁せいさい 措置そち をとる力ちから すなわち「11 権力けんりょく 」をもつ。この意味いみ で、国家こっか と他ほか の集団しゅうだん (社会しゃかい )との差さ は、程度ていど の問題もんだい でしかないというのである。イギリスの政治学せいじがく 者しゃ E・バーカーやH・J・ラスキなどによって積極的せっきょくてき に展開てんかい されたこの主張しゅちょう は、政治的せいじてき 31 多元たげん 主義しゅぎ (political pluralism 多元的たげんてき 国家こっか 論ろん とも訳やく されている)と呼よ ばれているが、それは、国家こっか 論ろん と等とう 視し されていた政治学せいじがく をより一般的いっぱんてき な社会しゃかい 理論りろん へ接続せつぞく させようという努力どりょく であると同時どうじ に、126 ナショナリズム の推進すいしん の下もと で25 絶対ぜったい 化か されるようになった国家こっか 権力けんりょく を抑制よくせい し、教会きょうかい ・大学だいがく ・組合くみあい などの社会しゃかい 集団しゅうだん の自由じゆう を確保かくほ しようという思想しそう の結けつ 実じつ でもあった。
出典しゅってん 高畠通敏たかばたけみちとし 『政治学せいじがく への道みち 案内あんない 』 / 出題しゅつだい 大阪市立大学おおさかしりつだいがく / 原げん 書しょ p.26
読解どっかい のポイント主張〈政治学の対象は国家にかぎられない〉
↓
すべての集団や社会は権威と権力をもつ=政治的多元主義
↓
・一般的な社会理論へ接続
・国家権力を抑制し、社会集団の自由を確保 要約ようやく すべての集団しゅうだん や社会しゃかい は権威けんい と権力けんりょく をもつので政治学せいじがく の対象たいしょう は国家こっか にかぎられない、とする政治的せいじてき 多元たげん 主義しゅぎ は、政治学せいじがく を一般的いっぱんてき な社会しゃかい 理論りろん へ接続せつぞく させ、国家こっか 権力けんりょく を抑制よくせい して社会しゃかい 集団しゅうだん の自由じゆう を確保かくほ しようとする思想しそう の結けつ 実じつ でもあった。
語ご 法ほう の観察かんさつ 「すなわち」「この意味いみ で」が定義ていぎ の言い い換か えを重かさ ねる。同おな じ対象たいしょう を別べつ の語ご で言い い直なお しながら概念がいねん を絞しぼ り込こ む型かた 。
Section 07
合理ごうり /非合理ひごうり
12 ★★★
合理ごうり
ごうり [1] ご う り 頭高あたまだか 型がた
語ご 構成こうせい
合ごう かなう + 理り ことわり・すじみち
定義ていぎ
論理ろんり や道理どうり のかない、筋道すじみち だっていること。
『現代げんだい 文ぶん キーワード読解どっかい 』1-1 ☑12
原げん 書しょ の解説かいせつ
近代きんだい は、合理的ごうりてき であることに大おお きな価値かち が置お かれていた時代じだい だった。すなわち、科学的かがくてき な思考しこう に代表だいひょう されるような筋道すじみち だった考かんが え方かた が重視じゅうし され、迷信めいしん や魔術まじゅつ などは非合理ひごうり なものとして社会しゃかい から排除はいじょ された。
また、「合理ごうり 」には〈無駄むだ がない〉 という意味いみ もある。たとえば「経営けいえい の合理化ごうりか 」とは、経済的けいざいてき 効率こうりつ を上あ げるために、無駄むだ を省しょう こうとすることを指さ す。入試にゅうし では、「合理化ごうりか 」や「合理性ごうりせい 」は批判ひはん に取と り上あ げられることが多おお い。
使用しよう の境界きょうかい 論理ろんり や道理どうり にかなうこと。「合理化ごうりか 」は経済的けいざいてき 効率こうりつ を上あ げる意い でも使つか い、入試にゅうし では批判的ひはんてき に取と り上あ げられることが多おお い。
用法ようほう 「合理化ごうりか 」に二ふた つの意味いみ が同居どうきょ している点てん が重要じゅうよう である。①経済的けいざいてき な効率こうりつ を上あ げる(経営けいえい の合理化ごうりか =人員じんいん 削減さくげん を含ふく む)、②自分じぶん に都合つごう よく理由りゆう をつける(心理学しんりがく の防衛ぼうえい 機き 制せい )。評ひょう 論文ろんぶん では①を近代きんだい の負ふ の面めん として批判ひはん し、②を人間にんげん の弱よわ さとして扱あつか う。どちらも肯定的こうていてき ではない。一方いっぽう 「合理的ごうりてき 」は肯定こうてい 語ご として使つか える。同おな じ語幹ごかん で評価ひょうか の方向ほうこう が変か わるので、活用かつよう 形けい まで見み て判定はんてい する。
用例ようれい
智ち に働はたら けば角かど が立た つ。情じょう に棹さお させば流なが される。意地いじ を通つう せば窮屈きゅうくつ だ。とかくに人ひと の世よ は住す みにくい。夏目なつめ 漱石そうせき 『草枕くさまくら 』冒頭ぼうとう (1906)
「智ち に働はたら けば角かど が立た つ」— 筋すじ を通つう せば通とお すほど人ひと の間あいだ に角かど ができる という一句いっく が、合理ごうり という語ご の限界げんかい をそのまま言い い当あ てている。合理ごうり は正ただ しさの基準きじゅん であって、人ひと と人ひと のあいだで働はたら くようには最初さいしょ から作つく られていない 。漱石そうせき はこの一文いちぶん を「智ち 」「情じょう 」「意地いじ 」の三みっ つで組く み立た てた。智ち が合理ごうり 、情じょう が非合理ひごうり 、意地いじ はそのどちらでもない意志いし である。三みっ つのどれを取と っても住す みにくい、と書か くことで、合理ごうり か非合理ひごうり かという二に 択たく そのものを退しりぞ けている 。近代きんだい の合理主義ごうりしゅぎ を正面しょうめん から否定ひてい するのではなく、住す みにくさという体感たいかん の側がわ から相対そうたい 化か した — この手て つきが、評ひょう 論文ろんぶん が漱石そうせき を近代きんだい 批判ひはん の文脈ぶんみゃく で引ひ きつづける理由りゆう である。
文明ぶんめい が進すす めば進すす むほど天然てんねん の暴ぼう 威い による災さい 害がい がその劇烈げきれつ の度ど を増ま す。寺田てらだ 寅彦とらひこ 『天てん 災さい と国防こくぼう 』(1934)
物理学ぶつりがく 者しゃ が書か いた一行いちぎょう だが、内容ないよう は合理化ごうりか の逆説ぎゃくせつ そのものである。文明ぶんめい とは無駄むだ を削けず り、効率こうりつ を上あ げ、仕組しく みを合理的ごうりてき に組く み上あ げていく過程かてい にほかならない。ところが削けず られた無駄むだ のなかには、いざというときに衝撃しょうげき を吸収きゅうしゅう していた余裕よゆう が含ふく まれていた。合理化ごうりか が進すす むほど系けい はぴんと張ば りつめ、一点いってん が破やぶ れると全体ぜんたい が崩くず れる。寺田てらだ がこの逆説ぎゃくせつ を災さい 害がい という具体ぐたい を通とお して示しめ したのは、抽象的ちゅうしょうてき な近代きんだい 批判ひはん では動うご かない読者どくしゃ を、数字すうじ と経験けいけん の側がわ から動うご かすため だったと読よ める。
経営けいえい の合理化ごうりか によって、三さん 年ねん で人員じんいん は三さん 割わり 減へ った。
「合理化ごうりか 」がここでは効率こうりつ を上あ げること を指さ しており、「道理どうり にかなう」という本来ほんらい の意味いみ からは離はな れている。注意ちゅうい したいのは、この語ご が削減さくげん という結果けっか を肯定的こうていてき な響ひび きで包つつみ んでしまう点てん である。「人員じんいん 削減さくげん 」と書か けば痛いた みが見み えるが、「合理化ごうりか 」と書か けば見み えない。入試にゅうし でこの語ご が批判的ひはんてき に扱あつか われるのは、この包つつみ み込こ みの機能きのう ゆえである。
△失敗しっぱい の原因げんいん を運うん のせいにするのは合理的ごうりてき ではない。
ここで言い いたいのはおそらく「合理化ごうりか (自分じぶん に都合つごう よく理由りゆう をつけること)だ」 のほうである。同おな じ語幹ごかん でありながら、「合理的ごうりてき 」は肯定こうてい 語ご 、「合理化ごうりか 」は文脈ぶんみゃく しだいで批判ひはん 語ご になる。活用かつよう 形けい まで見み ないと評価ひょうか の向む きを取と り違ちが える 、この語ご の扱あつか いにくさがよく出で る例れい である。
派生はせい 形けい
合理的ごうりてき [0] この語幹ごかん でほぼ唯一ゆいいつ 、安定あんてい して肯定こうてい 語ご として使つか える形かたち 。ただし何なに を基準きじゅん にした合理ごうり かは示しめ さないので、書か き手て はこの一語いちご で基準きじゅん を問と われずに正ただ しさを主張しゅちょう できる 。便利べんり であることと危あや ういことが同おな じところから来き ている。
合理性ごうりせい [0] 性質せいしつ として取と り出だ す形かたち で、「高たか い/低ひく い」と程度ていど で論ろん じられる ようになる。「経済けいざい 合理性ごうりせい 」「手続てつづ き的てき 合理性ごうりせい 」のように前まえ に基準きじゅん を冠かんむり して使つか えるのが強つよ みで、合理的ごうりてき の空白くうはく をここで埋う めることができる。
合理化ごうりか [0] 「化か 」が過程かてい を指さ す。結果けっか ではなく進行中しんこうちゅう の運動うんどう を名指なざ す ので、「まだ途中とちゅう である」「さらに進すす められる」という含ふく みを伴ともな う。この終お わりの無む さが、合理化ごうりか 批判ひはん の文章ぶんしょう がしばしば「際さい 限げん のなさ」を主題しゅだい に据す える理由りゆう になっている。
非合理ひごうり [2] 否定ひてい の派生はせい ではあるが、「不合理ふごうり 」とはまったく別語べつご である。「非ひ 」は理り の枠わく の外そと 、「不ふ 」は枠わく の内ない で基準きじゅん を満み たさないこと。この一いち 字じ の差さ が設問せつもん になる ので、13 の項こう と合あ わせて必かなら ず対たい で覚おぼ えたい。
コロケーション
合理化ごうりか 二ふた つの顔かお 同おな じ三さん 字じ が、経済けいざい では効率こうりつ 化か を、心理学しんりがく では都合つごう のよい理由りゆう づけ を指さ す。一見いっけん 無関係むかんけい だが、根ね はつながっている。どちらも「筋すじ が通とお っている」という外見がいけん をあとから与あた える作業さぎょう だからである。人員じんいん 削減さくげん にも、自分じぶん の失敗しっぱい にも、合理ごうり という衣ころも を着き せれば納得なっとく の形かたち が整ととの う。この語ご が批判ひはん されるのは、整ととの えているのが中身なかみ ではなく見み え方かた だから である。
合理的ごうりてき な判断はんだん 肯定こうてい の定型ていけい ほとんど無条件むじょうけん に褒ほ め言葉ことば として通用つうよう する希少きしょう な結むす びつきで、それだけに何なに を基準きじゅん に合理ごうり としたのかが問と われないまま通とお り過す ぎやすい 。利益りえき を基準きじゅん にすれば非ひ 情じょう な判断はんだん も合理的ごうりてき になり、共同体きょうどうたい の存続そんぞく を基準きじゅん にすれば逆ぎゃく の結論けつろん が合理的ごうりてき になる。合理ごうり は基準きじゅん を指定してい しないと空そら 回まわ りする語ご で、その空白くうはく が評ひょう 論文ろんぶん の狙ねら い所しょ になる。
合理主義ごうりしゅぎ 時代じだい の名な 「主義しゅぎ 」が付つ くと、個々ここ の判断はんだん ではなく時代じだい 全体ぜんたい の構かま えを指さ す名な になる。近代きんだい を「合理主義ごうりしゅぎ の時代じだい 」と呼よ ぶとき、そこには科学かがく の勝利しょうり と、迷信めいしん や魔術まじゅつ の排除はいじょ という二ふた つの出来事できごと がひとまとめに畳たた み込こ まれている。評ひょう 論文ろんぶん が扱あつか うのはたいてい後者こうしゃ の側がわ — 排除はいじょ されたものの行方ゆくえ である。
合理性ごうりせい を欠か く評価ひょうか の否定ひてい 「合理的ごうりてき でない」より一段いちだん 強つよ い言い い方かた である。「欠か く」は、あるべきものが足た りない という含ふく みを持も つからで、つまりこの形かたち は合理性ごうりせい があって当然とうぜん だ という前提ぜんてい の上うえ に立た っている。同おな じ内容ないよう を「非合理ひごうり である」と書か けば、理り の枠わく の外そと にあるという中立ちゅうりつ の記述きじゅつ に変か わる — ここが 13 の項こう と直接ちょくせつ つながる。
格かく 中なか 書か き言葉ことば ・会話かいわ の両方りょうほう で使つか える。
類るい 語ご と差さ
論理的ろんりてき 筋すじ の運はこ びが正ただ しい推論すいろん の形式けいしき についての語ご 。前提ぜんてい が妥当だとう かは問と わない。合理ごうり は内容ないよう の妥当だとう さも含ふく む。
効率的こうりつてき 無駄むだ がない投入とうにゅう と産出さんしゅつ の比ひ の話はなし 。道理どうり にかなうかは問と わない。「合理化ごうりか 」がこの意味いみ に寄よ ると批判ひはん の対象たいしょう になる。
理性的りせいてき 感情かんじょう に流なが されない主体しゅたい の態度たいど についての語ご 。合理ごうり は事柄ことがら の性質せいしつ についての語ご 。
筋すじ が通とお る矛盾むじゅん がない口語こうご 的てき な言い い換か え。評ひょう 論文ろんぶん では「整合せいごう 的てき である」を使つか う。
EN rationalZH 合理(合理的な, hélǐ)
13 ★★★
非合理ひごうり
ひごうり [2] ひ ご う り 中高なかだか 型がた
語ご 構成こうせい
非ひ あらず + 合理ごうり すじみちにかなう
「非ひ 」は理り の枠わく の外そと 、「不ふ 」は理り の枠わく の内ない での否定ひてい である。
定義ていぎ
理性りせい や論理ろんり ではとらえきれないこと。
『現代げんだい 文ぶん キーワード読解どっかい 』1-1 ☑13
原げん 書しょ の解説かいせつ
非合理ひごうり 的てき なものの代表だいひょう 例れい は、人間にんげん の感情かんじょう だ。我々われわれ の喜怒哀楽きどあいらく は、理屈りくつ ではとらえきれない面めん がある。
なお、「不合理ふごうり 」は、〈理屈りくつ に合あ っていない〉 〈筋すじ が通とお っていない〉 ということ。たとえば、入試にゅうし で同おな じ点てん をとった二人ふたり のうち、一方いっぽう は合格ごうかく で他方たほう が不ふ 合格ごうかく というのは、「非合理ひごうり 」ではなく「不合理ふごうり 」である。
使用しよう の境界きょうかい 理性りせい や論理ろんり では捉とら えきれないこと。「不合理ふごうり 」は理り の枠わく 内ない で判断はんだん されて筋すじ が通とお らないこと。両者りょうしゃ は別語べつご 。
用法ようほう 「非ひ 」と「不ふ 」の使つか い分わ けが設問せつもん になる。「非ひ 」は理り の枠わく の外そと にあること、「不ふ 」は枠わく の内ない にあって基準きじゅん を満み たさないこと。人間にんげん の感情かんじょう は理り では測はか れないので非合理ひごうり であり、間違まちが っているのではない。評ひょう 論文ろんぶん では、近代きんだい が非合理ひごうり なものを社会しゃかい から排除はいじょ した、という構図こうず で使つか われる。そのうえで非合理ひごうり を切き り捨す てた近代きんだい を批判ひはん する、という二に 段だん の議論ぎろん に入はい る。東洋とうよう を非合理ひごうり 、西洋せいよう を合理ごうり とする単純たんじゅん な対比たいひ を「浅薄せんぱく 」と評ひょう する文章ぶんしょう が原げん 書しょ の入試にゅうし 文ぶん である。
用例ようれい
はたらけど はたらけど猶なお わが生活せいかつ 楽らく にならざり ぢつと手て を見み る石いし 川かわ 啄木たくぼく 『一握いちあく の砂すな 』(1910)
この三さん 行ぎょう のなかに、不合理ふごうり と非合理ひごうり が一ひと つずつ入はい っている 。働はたら いても働はたら いても暮く らしが楽らく にならない — これは理り に照て らして筋すじ が通とお らないのだから不合理ふごうり である。努力どりょく と報酬ほうしゅう が対応たいおう するはずだという理り の内側うちがわ で、その対応たいおう が破やぶ れている。ところが結むす びの「ぢつと手て を見み る」は違ちが う。抗議こうぎ でも分析ぶんせき でもなく、ただ手て を見み ている。この動作どうさ には理由りゆう が無な い 。理由りゆう が無な いのに、読よ む者もの にはそれ以外いがい ありえないと感かん じられる — これが非合理ひごうり 、すなわち理り では捉とら えきれないが確たし かにあるものの姿すがた である。啄木たくぼく が説明せつめい を一切いっさい 足た さずに三さん 行ぎょう で切き ったのは、説明せつめい すればそれは理り の側がわ へ移うつ ってしまうからだ。
花はな はさかりに、月つき はくまなきをのみ見み るものかは。吉田兼好よしだけんこう 『徒然草つれづれぐさ 』第だい 百ひゃく 三十さんじゅう 七なな 段だん (1330頃ころ )
満開まんかい の花はな や曇くも りない月つき だけが見み るべきものだろうか、いや違ちが う、という反はん 語ご である。合理的ごうりてき に考かんが えれば、花はな は満開まんかい が最もっと も美うつく しく、月つき は満月まんげつ が最もっと も明あか るい。兼好けんこう はその合理ごうり をはっきり退しりぞ けている 。しかも「散さん った花はな のほうが美うつく しい」と別べつ の基準きじゅん を立た てるのではなく、待ま つ心こころ 、惜お しむ心こころ という測はか れないもの を持も ち出だ してくる。ここが要点ようてん である。非合理ひごうり は、合理ごうり と競合きょうごう する別べつ の理屈りくつ ではない。理屈りくつ という土俵どひょう そのものに乗の らないもの を指さ す。だから兼好けんこう の主張しゅちょう は反論はんろん できない — 反論はんろん するには理屈りくつ が要い るが、彼かれ は理屈りくつ で言い っていないからだ。
近代きんだい は非合理ひごうり なものを社会しゃかい の外そと へ排除はいじょ することで成立せいりつ した。
評ひょう 論文ろんぶん でもっとも多おお い型かた である。注意ちゅうい したいのは、ここでの非合理ひごうり が間違まちが ったものではない という点てん 。感情かんじょう も、信仰しんこう も、慣習かんしゅう も、理り で測はか れないというだけで誤あやま りではない。「排除はいじょ した」と書か いた時点じてん で、筆者ひっしゃ はその排除はいじょ を問と い直なお す側がわ に立た っている 。
×同おな じ点数てんすう なのに一方いっぽう だけ合格ごうかく するのは非合理ひごうり だ。
これは理り の枠わく のなかで筋すじ が通とお らない話はなし なので「不合理ふごうり 」 が正ただ しい。非合理ひごうり はそもそも理り で測はか る対象たいしょう ではないことを言い う。「間違まちが っている」と言い いたいなら不合理ふごうり 、「理り では届とど かない」と言い いたいなら非合理ひごうり — この判別はんべつ ができるかどうかが、この二に 語ご の理解りかい の全部ぜんぶ である。
原げん 書しょ の反はん 意い 語ご ・関連かんれん 語ご 反はん 12 合理ごうり / 関せき 不合理ふごうり
派生はせい 形けい
非合理的ひごうりてき [0] 名詞めいし 「非合理ひごうり 」でも形容けいよう の位置いち に立た てるため、この形かたち は必須ひっす ではない。あえて使つか うのは「合理的ごうりてき /非ひ 合理的ごうりてき 」と形かたち をそろえて対比たいひ したいとき である。対たい にする意図いと が語尾ごび に出で る。
非合理性ひごうりせい 性質せいしつ として取と り出だ すと、「非合理ひごうり 性せい が高たか い」と程度ていど で言い える ようになる。ただし非合理ひごうり は本来ほんらい 、理り の外そと にあるかどうかというゼロか一いち かの区別くべつ なので、この形かたち は厳密げんみつ には語ご の論理ろんり をゆるめている。
不合理ふごうり [2] 派生はせい 形けい ではなく、対たい で覚おぼ えるべき別語べつご 。「非ひ 」は枠わく の外そと 、「不ふ 」は枠わく の内ない 。同おな じ「合理ごうり 」を否定ひてい していながら、否定ひてい の届とど く範囲はんい がまったく違ちが う。この一いち 字じ を読よ み分わ けられるかどうかが、この節せつ の設問せつもん の核心かくしん である。
コロケーション
非合理ひごうり なもの名指なざ しの形かたち 「非合理ひごうり な感情かんじょう 」「非合理ひごうり な信仰しんこう 」と具体ぐたい を続つづ けず、あえて「もの」でとどめる形かたち が評ひょう 論文ろんぶん には多おお い。これは個々ここ の中身なかみ ではなく、合理ごうり の外側そとがわ という位置いち そのものを主題しゅだい にしている からである。中身なかみ を特定とくてい した瞬間しゅんかん 、それは分類ぶんるい され理り の側がわ に半分はんぶん 入はい ってしまう。「もの」という空白くうはく が、外側そとがわ であることを保たも っている 。
非合理ひごうり の復権ふっけん 近代きんだい 批判ひはん の合図あいず 「復権ふっけん 」は、いったん奪うば われた地位ちい を取と り戻もど すこと。つまりこの語ご は「かつて追放ついほう された」という歴史れきし を前提ぜんてい にしている 。追放ついほう したのは近代きんだい の合理主義ごうりしゅぎ であり、取と り戻もど そうとするのは二十にじゅう 世紀せいき 以降いこう の思想しそう である。この一語いちご が現あらわ れたら、文章ぶんしょう は合理ごうり /非合理ひごうり という対立たいりつ そのものを組く み替か える方向ほうこう へ進すす む と読よ んでよい。
不合理ふごうり な制度せいど 「不ふ 」との対照たいしょう こちらは理り の枠わく の内側うちがわ での欠陥けっかん を指さ す。制度せいど は理り によって作つく られたものだから、理り に照て らして評価ひょうか できる。だから「不合理ふごうり な制度せいど 」は言い えても「非合理ひごうり な制度せいど 」はほとんど言い えない。結むす びつく相手あいて の語ご を見み れば、「非ひ 」と「不ふ 」はかなりの確度かくど で見分みわ けられる 。
非合理ひごうり 主義しゅぎ 立場たちば の名な 非合理ひごうり を積極的せっきょくてき に価値かち として掲かか げる立場たちば を指さ す。ただしこの語ご は使つか い方かた が難むずか しい。非合理ひごうり を主張しゅちょう として体系たいけい 立た てた瞬間しゅんかん 、それは理屈りくつ になってしまうからである。語ご そのものが自己じこ 矛盾むじゅん をはらんでいる ため、評ひょう 論文ろんぶん では距離きょり を置お いた記述きじゅつ 語ご として用もち いられることが多おお い。
格かく 硬かた 書か き言葉ことば 。会話かいわ では不自然ふしぜん 。
類るい 語ご と差さ
不合理ふごうり 理り に照て らして筋すじ が通とお らない理り の枠わく の内側うちがわ での否定ひてい 。「同どう 点てん の二人ふたり で一方いっぽう が合格ごうかく 、他方たほう が不ふ 合格ごうかく 」は不合理ふごうり 。喜怒哀楽きどあいらく は非合理ひごうり だが不合理ふごうり ではない。
不ふ 条じょう 理り 意味いみ づけそのものを拒こば む人間にんげん が世界せかい に意味いみ を求もと めても応こた えがないという状況じょうきょう を指さ す。文学ぶんがく ・実存じつぞん 主義しゅぎ の語ご 。
非ひ 科学的かがくてき 方法ほうほう が科学かがく でない手続てつづ きについての語ご 。結論けつろん の当否とうひ は問と わない。
理不尽りふじん 筋すじ が通とお らず納得なっとく できない話者わしゃ の憤ふん りを含ふく む。評ひょう 論ろん の記述きじゅつ 語ご としては使つか えない。
EN irrationalZH 非合理(非合理, fēihélǐ)
対立たいりつ の軸じく
合理ごうり /非合理ひごうり の軸じく = 筋道すじみち が通とお るか
合理ごうり 論理ろんり や道理どうり にかなう。
筋道すじみち が通とお るか
非合理ひごうり 理性りせい や論理ろんり では捉とら えきれない。
合理・不合理・非合理の位置関係 理の枠の内側に合理と不合理があり、枠の外側に非合理があることを示した図。
理 ── すじみちの枠
合理
筋道が通る
科学・論理・効率
不合理
筋道が通らない
同点で合否が分かれる
非合理
理では測れない ── 喜怒哀楽・信仰・美
間違っているのではない。枠の外にある。
不 = 枠の内での否定
非 = 枠の外
「非ひ 」は理り の枠わく の外そと 、「不ふ 」は枠わく の内ない
入試にゅうし 文ぶん
東洋とうよう と西洋せいよう とを比較ひかく して、その68 差異さい を指摘してき しようという試こころ みは、すでに多少たしょう なされ、そのなかで多おお くの相違そうい 点てん が明あき らかにされたと考かんが えられている。たとえば、「13 非合理ひごうり 的てき 」対たい 「12 合理的ごうりてき 」、「総合そうごう 的てき 」対たい 「分析ぶんせき 的てき 」、「静的せいてき 」対たい 「動的どうてき 」、などの対立たいりつ 点てん は、その最もっと もポピュラーなものと言い えよう。そして、こちらの諸しょ 点てん は、そのまま額面がくめん 通とお りに受う け取と るには危険きけん な要素ようそ を、たしかに含ふく んでいると思おも われる。それぞれを切き り離はな して一ひと つずつ取と り上あ げてみる限かぎ り、そうした対立たいりつ 的てき な諸しょ 点てん は、ことのごく一面的いちめんてき なところだけを、浅薄せんぱく につかんでいるとしか言い えない、という評ひょう 言げん は、十分じゅうぶん な説得力せっとくりょく をもっている。
出典しゅってん 村上むらかみ 陽一郎よういちろう 『近代きんだい 科学かがく を超こ えて』 / 出題しゅつだい 武蔵大学むさしだいがく ・人文学じんぶんがく 部ぶ / 原げん 書しょ p.30
読解どっかい のポイント東洋と西洋の比較
│
├─ 東洋=非合理的、総合的、静的
│
└─ 西洋=合理的、分析的、動的
→ 対立的な諸点は、一目的なところだけを浅薄につかんでいる 要約ようやく 「非合理ひごうり 的てき 」対たい 「合理的ごうりてき 」といった東洋とうよう と西洋せいよう の対立たいりつ 点てん は、ことの一いち 面めん を浅薄せんぱく にとらえているにすぎないので、そのまま額面がくめん 通とお り受う け入い れるのは危険きけん だ。
語ご 法ほう の観察かんさつ 「〜と言い えよう」「〜と思おも われる」で断定だんてい を緩ゆる めた末すえ に、最後さいご で「危険きけん な要素ようそ 」と評価ひょうか を下くだ す。緩和かんわ の後あと に置お かれた断定だんてい が強つよ く働はたら く。
Section 08
自明じめい /懐疑かいぎ
14 ★★
自明じめい
じめい [0] じ め い 平板へいばん 型がた
定義ていぎ
とくに証明しょうめい ・説明せつめい などをしなくても明あき らかなこと。
『現代げんだい 文ぶん キーワード読解どっかい 』1-1 ☑14
使用しよう の境界きょうかい 証明しょうめい や説明せつめい をしなくても明あき らかなこと。「明白めいはく 」は見み れば分わ かること、「自明じめい 」は問と われないまま通とお っていること。
用法ようほう 評ひょう 論文ろんぶん では「自明じめい 性せい を疑うたが う」「自明じめい とされてきた」という形かたち が圧倒的あっとうてき に多おお く、自明じめい であること自体じたい が批判ひはん の対象たいしょう になる。〈疑うたが われないまま通とお っている〉ことは〈正ただ しい〉ことではない、という構かま えが前提ぜんてい にある。原げん 書しょ の入試にゅうし 文ぶん は、日常にちじょう 世界せかい が自明じめい 性せい に支ささ えられていること、そしてその自明じめい 性せい への驚おどろ きこそが知的ちてき な懐疑かいぎ の出発点しゅっぱつてん であることを述の べる。「自明じめい の理り 」は成せい 句く で、証明しょうめい の要い らない原理げんり を指さ す。
用例ようれい
悟さと りといふ事こと は如何いかん なる場合ばあい にも平気へいき で死し ぬる事こと かと思おも つて居い たのは間あいだ 違い ひで、悟さと りといふ事こと は如何いかん なる場合ばあい にも平気へいき で生い きて居い る事こと であつた。正岡まさおか 子規しき 『病牀びょうしょう 六ろく 尺さし 』(1902)
結核けっかく で寝ね たきりの子規しき が、死し の前年ぜんねん に書か いた一節いっせつ である。ここで壊こわ れているのは「悟さと りとは平気へいき で死し ぬことだ」という自明じめい 性せい である。子規しき はそれを長なが いあいだ疑うたが わずに前提ぜんてい としてきた。疑うたが わなかったのは、それが正ただ しかったからではなく、問と われる機会きかい が無な かったから だ。自明じめい 性せい の本質ほんしつ はここにある — 証明しょうめい されて通とお っているのではなく、問と われないまま通とお っている 。そして自明じめい 性せい は、たいてい理屈りくつ ではなく身み に起お きた出来事できごと によって破やぶ れる。子規しき の場合ばあい 、それは平気へいき で死し ねない自分じぶん を発見はっけん したことだった。
この御社おんしゃ の獅子しし の立た てられやう、さだめてならひあることに侍はべ らん、ちと承うけたまわ らばや、と言げん はれければ、……「さがなき童わらべ どもの仕つかまつ りける、奇怪きっかい に候そうら ふことなり」とて、さし寄よ りて、据すえ ゑ直なお して往い にければ、上人しょうにん の感涙かんるい いたづらになりにけり。吉田兼好よしだけんこう 『徒然草つれづれぐさ 』第だい 二百にひゃく 三十さんじゅう 六ろく 段だん (1330頃ころ )
獅子しし と狛犬こまいぬ が背中せなか 合あ わせに立た っているのを見み た上人しょうにん が、深ふか い謂いわ れがあるに違ちが いないと感涙かんるい にむせぶ。ところが尋たず ねてみれば、子こ どものいたずらだった、という話はなし である。上人しょうにん が疑うたが わなかったのは獅子しし の向む きではなく、「神社じんじゃ に置お かれたものには意味いみ がある」という前提ぜんてい のほうだ。その前提ぜんてい は証明しょうめい されたことが一度いちど も無な い。それでも上人しょうにん の中なか では揺ゆ らがなかったので、意味いみ は事実じじつ から読よ み取と られたのではなく、前提ぜんてい から流なが し込こ まれた 。兼好けんこう が「感涙かんるい いたづらになりにけり」と感情かんじょう の側がわ の空転くうてん で締し めたのがうまい。自明じめい 性せい が破やぶ れるとき失うしな われるのは知識ちしき ではなく、そこに注そそ いでいた感情かんじょう のほうなのである。
国家こっか という枠組わくぐ みは、いまや自明じめい のものとして疑うたが われることがない。
「自明じめい のもの」と書か いた時点じてん で、筆者ひっしゃ はすでにそれを疑うたが う側がわ に立た っている 。ほんとうに自明じめい なものについて、人ひと は「自明じめい だ」とわざわざ言い わない。この語ご が現あらわ れること自体じたい が、自明じめい 性せい が破やぶ れかけている徴候ちょうこう である — 評ひょう 論文ろんぶん を読よ むときの実際的じっさいてき な合図あいず になる。
△証拠しょうこ 写真しゃしん があるのだから彼かれ の関与かんよ は自明じめい だ。
証拠しょうこ を見み れば分わ かることは「明白めいはく 」 である。自明じめい は、証拠しょうこ を見み るまでもなく、そもそも問と いが立た てられないまま通とお っていることを言い う。「見み れば分わ かる」のが明白めいはく 、「見み ようとすら思おも わない」のが自明じめい 。評ひょう 論文ろんぶん で問と われるのは後者こうしゃ のほうである。
派生はせい 形けい
自明性じめいせい [0] 性質せいしつ として取と り出だ す形かたち で、「自明じめい である」という状態じょうたい そのものを議論ぎろん の対象たいしょう に置お ける ようになる。この形かたち が無な ければ「自明じめい 性せい を疑うたが う」という評ひょう 論文ろんぶん の基本きほん 動作どうさ が書か けない。接尾せつび 辞じ ひとつが思考しこう の型かた を可能かのう にしている例れい である。
自明視じめいし 「視し 」はそう見み なす という主体しゅたい の働はたら きを加くわ える。「自明じめい である」が状態じょうたい の記述きじゅつ なのに対たい し、「自明じめい 視し する」は誰だれ かがそう扱あつか っている という行為こうい の記述きじゅつ になる。責任せきにん の所在しょざい が文ぶん に戻もど ってくるので、批判ひはん の文章ぶんしょう で選えら ばれる。
不自明ふじめい 使用しよう 頻度ひんど は低ひく いが、数学すうがく や論理学ろんりがく では「証明しょうめい を要よう する」 という意味いみ で明確めいかく に使つか われる。日常にちじょう 語ご では「自明じめい ではない」と言い い換か えるのが普通ふつう で、この形かたち が出で てきたら学術的がくじゅつてき な文脈ぶんみゃく だと見当けんとう がつく。
コロケーション
自明じめい 性せい を疑うたが う知ち の出発点しゅっぱつてん 評ひょう 論文ろんぶん でもっとも頻度ひんど の高たか い形かたち である。疑うたが うべきものが「間違まちが い」ではなく「自明じめい 性せい 」だ という点てん が要よう で、疑うたが いは対象たいしょう の真偽しんぎ ではなく、それが問と われずに通とお っているという状態じょうたい に向む けられる。だから自明じめい 性せい を疑うたが ったあとで、結論けつろん として同おな じ内容ないよう が正ただ しいと分わ かってもかまわない。変か わったのは内容ないよう ではなく、それが証明しょうめい を経へ たものになったこと である。
自明じめい とされてきた受う け身み と時間じかん 受う け身み にすることで「誰だれ がそう決き めたのか分わ からない」 という状態じょうたい が言い い表あらわ される。さらに「〜てきた」が付つ いて時間じかん の厚あつ みが加くわ わり、長なが く続つづ いたぶんだけ問と い直なお しにくくなっている様子ようす まで出で る。能動態のうどうたい にできない のがこの語ご の特徴とくちょう で、「彼かれ が自明じめい とした」とは普通ふつう 言い わない。主語しゅご を持も たないことこそ自明じめい 性せい の条件じょうけん だからである。
自明じめい の理り 成せい 句く 証明しょうめい を必要ひつよう としない原理げんり を指さ す成せい 句く で、数学すうがく の公理こうり に近ちか い位置いち にある。「自明じめい 性せい 」が批判ひはん の対象たいしょう になるのに対たい し、この形かたち は肯定的こうていてき な意味いみ で安定あんてい している 。同おな じ語ご を含ふく みながら評価ひょうか が逆ぎゃく を向む くのは、「理り 」が付つ くことで論理ろんり 体系たいけい の内部ないぶ の話はなし に限定げんてい されるから である。体系たいけい の外そと に出で た瞬間しゅんかん 、それは疑うたが われる自明じめい 性せい に戻もど る。
日常にちじょう の自明じめい 性せい 現象学げんしょうがく の術語じゅつご 毎日まいにち の暮く らしが問と い直なお されずに滑なめ らかに進すす んでいる、その滑なめ らかさ自体じたい を指さ す。この滑なめ らかさは無知むち ではなく、生い きるために必要ひつよう な条件じょうけん である。すべてを疑うたが っていては歩ある くこともできない。評ひょう 論文ろんぶん がこの語ご を使つか うとき、狙ねら いは自明じめい 性せい を壊こわ すことではなく、それに支ささ えられていたと気き づかせること にある。
格かく 硬かた 書か き言葉ことば 。会話かいわ では不自然ふしぜん 。
類るい 語ご と差さ
明白めいはく はっきりしている 証拠しょうこ が見み えている状態じょうたい 。自明じめい は証拠しょうこ を見み なくても通とお っている状態じょうたい 。
当然とうぜん そうあるべき 規範きはん や納得なっとく を含ふく む。自明じめい は認識にんしき の話はなし で、規範きはん を含ふく まない。
前提ぜんてい 議論ぎろん の出発点しゅっぱつてん に置お かれる議論ぎろん の構造上こうぞうじょう の位置いち を言い う。自明じめい なものは前提ぜんてい になりやすいが、前提ぜんてい は自明じめい でなくてもよい。
周しゅう 知ち 広ひろ く知し られている知し られている範囲はんい の話はなし 。真偽しんぎ や証明しょうめい の話はなし ではない。
EN self-evidentZH 自明(自明, zìmíng)
15 ★★
懐疑かいぎ
かいぎ [1] か い ぎ 頭高あたまだか 型がた
定義ていぎ
物事ものごと の意味いみ ・価値かち ・存在そんざい などについて、疑うたが いをもつこと。
『現代げんだい 文ぶん キーワード読解どっかい 』1-1 ☑15
使用しよう の境界きょうかい 意味いみ ・価値かち ・存在そんざい そのものに疑うたが いを持も つこと。事実じじつ の真偽しんぎ を疑うたが うだけなら「疑問ぎもん 」。
用法ようほう 「懐疑かいぎ 的てき 」は日常にちじょう でも使つか えるが、名詞めいし 「懐疑かいぎ 」は硬かた い。デカルトの「方法ほうほう 的てき 懐疑かいぎ 」に代表だいひょう されるように、疑うたが うこと自体じたい を方法ほうほう として使つか う立場たちば が哲学てつがく にある。この場合ばあい の懐疑かいぎ は目的もくてき ではなく手段しゅだん であり、疑うたが いえないものに至いた るための手続てつづ きである。評ひょう 論文ろんぶん では「自明じめい 性せい への懐疑かいぎ 」の形かたち で出で て、日常にちじょう を成な り立た たせている前提ぜんてい を問と い直なお す知的ちてき 作業さぎょう を指さ す。単たん なる不信ふしん や否定ひてい とは区別くべつ される。
用例ようれい
信しん の世界せかい に偽詐ぎさ 多おお く、疑ぎ の世界せかい に真理しんり 多た し。福沢ふくざわ 諭吉ゆきち 『学問がくもん のすゝめ』十五じゅうご 編へん (1876)
信しん じる側がわ にこそ偽いつわ りが多おお く、疑うたが う側がわ にこそ真理しんり が多おお い — 対句ついく をきれいに反転はんてん させた一行いちぎょう である。福沢ふくざわ はこのあと、疑うたが うことをやみくもに勧すす めているのではないと断ことわ る。信しん じるにせよ疑うたが うにせよ、その判断はんだん を自分じぶん で下くだ すことが学問がくもん なのだ という筋すじ である。ここで「疑ぎ 」が置お かれているのは信しん の反対はんたい 側がわ ではなく、信しん の手前てまえ だと読よ める。疑うたが いを経へ ていない信しん は、信しん ではなく単たん に問と われなかっただけのもの — すなわち自明じめい 性せい にすぎない。14 の項こう と 15 の項こう が同おな じ節せつ に置お かれている理由りゆう が、この一句いっく でつながる。
これを知し るをこれを知し ると為い し、知し らざるを知し らずと為い す。是ぜ れ知し るなり。『論語ろんご 』為い 政せい 篇へん
知し っていることを知し っているとし、知し らないことを知し らないとする、それが知し るということだ、という。ここで定義ていぎ されている「知ち 」は、知識ちしき の量りょう ではなく、自分じぶん の知識ちしき の境界きょうかい を正確せいかく に把握はあく していること である。懐疑かいぎ が単たん なる不信ふしん と分わ かれるのはまさにこの点てん で、懐疑かいぎ とは、どこまでが確たし かでどこからが不確ふたし かかを見み きわめようとする作業さぎょう にほかならない。デカルトが疑うたが いを方法ほうほう として用もち いたのも同おな じ構かま えで、疑うたが いは目的もくてき ではなく疑うたが いえないものへ至いた るための手続てつづ き だった。
日常にちじょう 世界せかい の懐疑かいぎ は、その自明じめい 性せい への驚おどろ きから始はじ まる。
懐疑かいぎ の出発点しゅっぱつてん が疑うたが いではなく驚おどろ き である、と書か いている点てん に注意ちゅうい したい。疑ぎ おうと決き めて疑うたが えるものではなく、「なぜこうなっているのだろう」と足あし を止と めさせる出来事できごと が先さき にある 。原げん 書しょ の入試にゅうし 文ぶん が扱あつか うのはこの順序じゅんじょ で、知的ちてき な懐疑かいぎ は方法ほうほう である前まえ にまず経験けいけん である。
×彼かれ の証言しょうげん の細部さいぶ に懐疑かいぎ を持も った。
個別こべつ の事実じじつ について確たし かめたいのは「疑問ぎもん 」 であって懐疑かいぎ ではない。懐疑かいぎ は、意味いみ ・価値かち ・存在そんざい といった根本こんぽん のほうへ及およ ぶ ときに使つか う。「細部さいぶ に疑問ぎもん を持も った」なら通とお る。射程しゃてい の広こう さでこの二に 語ご を分わ ける と覚おぼ えておきたい。
派生はせい 形けい
懐疑的かいぎてき [0] この語幹ごかん で唯一ゆいいつ 、日常にちじょう 語ご として通用つうよう する形かたち 。ただし会話かいわ では「乗の り気き でない」まで意味いみ が薄うす れる ため、評ひょう 論文ろんぶん で使つか うときは前後ぜんご で射程しゃてい を示しめ す必要ひつよう がある。「価値かち そのものに懐疑かいぎ 的てき である」のように、何なん に向む かう懐疑かいぎ かを添そ えるとぶれない。
懐疑主義かいぎしゅぎ 「主義しゅぎ 」が付つ くと、疑うたが うこと自体じたい が立場たちば になる。方法ほうほう 的てき 懐疑かいぎ が出口でぐち を持も つのに対たい し、こちらは出口でぐち を持も たない 。古代こだい ギリシアのピュロン以来いらい の系譜けいふ を指さ す学術がくじゅつ 語ご で、日常にちじょう の「疑うたが い深ふか い」とは無関係むかんけい である。
懐疑論かいぎろん 「論ろん 」は主張しゅちょう の体系たいけい を指さ す。「知し りうるものは無な い」という主張しゅちょう を掲かか げるが、そう主張しゅちょう すること自体じたい が一ひと つの知ち の主張しゅちょう になってしまう — という自己じこ 言及げんきゅう の難点なんてん を最初さいしょ から抱かか えている。18 のパラドックスの項こう と合あ わせて読よ むと、この構造こうぞう がはっきりする。
コロケーション
方法ほうほう 的てき 懐疑かいぎ デカルトの手続てつづ き 「方法ほうほう 的てき 」が付つ くことで、懐疑かいぎ が目的もくてき から手段しゅだん へ格下かくさ げされる 。疑うたが うために疑うたが うのではなく、どうしても疑うたが いきれないものを見み つけるために疑うたが う。だからこの懐疑かいぎ には出口でぐち があり、「我われ 思おも う、ゆえに我われ あり」という到達点とうたつてん が最初さいしょ から想定そうてい されている 。出口でぐち のない懐疑かいぎ (懐疑かいぎ 主義しゅぎ )とはここで分わ かれる。
懐疑かいぎ 的てき な態度たいど 日常にちじょう への降下こうか 名詞めいし の「懐疑かいぎ 」は硬かた いが、この形かたち にすると日常にちじょう の会話かいわ でも使つか える。ただし日常にちじょう 語ご になったぶん意味いみ が浅あさ くなる点てん に注意ちゅうい したい。「懐疑かいぎ 的てき だ」はしばしば「乗の り気き でない」程度ていど の意味いみ で使つか われ、存在そんざい や価値かち を問と う本来ほんらい の重おも さを失うしな っている。評ひょう 論文ろんぶん の「懐疑かいぎ 」と会話かいわ の「懐疑かいぎ 的てき 」は別語べつご として扱あつか うくらいでちょうどよい 。
自明じめい 性せい への懐疑かいぎ 節せつ の主題しゅだい そのもの14 と 15 を一本いっぽん の線せん でつなぐ形かたち である。疑うたが いの向む かう先さき が事実じじつ ではなく「疑うたが われずに通とお っている」という状態じょうたい である点てん が要よう で、ここが「疑問ぎもん 」との決定的けっていてき な違ちが いになる。疑問ぎもん は答こた えが出で れば消き えるが、懐疑かいぎ は答こた えが出で たあとも「なぜそれを問と わずにいたのか」を残のこ す 。
懐疑かいぎ に陥おちい る出口でぐち の喪失そうしつ 「陥おちい る」が示しめ すとおり、抜ぬ け出だ せない状態じょうたい として否定的ひていてき に語かた られる形かたち である。方法ほうほう 的てき 懐疑かいぎ には出口でぐち があるが、こちらは出口でぐち が見み えない。同おな じ懐疑かいぎ が、手続てつづ きとして使つか えば知ち の出発点しゅっぱつてん になり、態度たいど として固かた まれば行い き止ど まりになる — その分わ かれ目め は、疑うたが いのあとに何なに を置お くかで決き まる。
格かく 硬かた ・学術がくじゅつ 論文ろんぶん ・評ひょう 論ろん でのみ使つか う。会話かいわ では不自然ふしぜん 。
類るい 語ご と差さ
疑問ぎもん 分わ からない点てん を問と う個別こべつ の点てん についての問と い。懐疑かいぎ は全体ぜんたい や根本こんぽん に及およ ぶ。
不信ふしん 信しん じられない相手あいて や制度せいど に対たい する感情かんじょう 。懐疑かいぎ は認識にんしき の態度たいど で、感情かんじょう を含ふく まない。
批判ひはん 根拠こんきょ を吟味ぎんみ する吟味ぎんみ して分わ ける作業さぎょう 。否定ひてい を意味いみ しない。懐疑かいぎ は疑うたが いを持も ち続つづ ける態度たいど 。
猜疑さいぎ 悪意あくい を疑うたが う人ひと の意図いと に向む かう。学術がくじゅつ 文ぶん では使つか わない。
EN doubt / scepticismZH 怀疑(疑う, huáiyí)
解説かいせつ ── 自明じめい ・懐疑かいぎ
我々われわれ の日常にちじょう 世界せかい は、ある意味いみ で自明じめい 性せい によって支ささ えられていると言い うことができよう。たとえば「言葉ことば が相手あいて に通つう じる」というのは、日常的にちじょうてき な場面ばめん では自明じめい のことだ。しかし同時どうじ に、「言葉ことば が相手あいて に通つう じる」ことを完全かんぜん に証明しょうめい することはできない。そもそも〈言葉ことば が通つう じる〉 とはどのようなことなのか。
こうした考かんが えをもつ時とき 、すでに我々われわれ は「懐疑かいぎ 的てき 思考しこう 」の一歩いっぽ を踏ふ み出だ している。そして、常識じょうしき とされることを一いち たび疑うたが ってみると、簡単かんたん に説明せつめい できないことがあまりに多おお いことに驚おどろ くに違ちが いない。
たとえば ── 自明じめい ・懐疑かいぎ
近代きんだい 以前いぜん において、神かみ の存在そんざい は自明じめい であったが、近代きんだい 哲学てつがく の祖そ であるデカルト(1596~1650年ごじゅうねん )は神かみ の存在そんざい を懐疑かいぎ し、その存在そんざい を論理的ろんりてき に証明しょうめい しようとした。
対立たいりつ の軸じく
自明じめい /懐疑かいぎ の軸じく = 証明しょうめい を要よう するか
自明じめい 証明しょうめい も説明せつめい もなく明あき らか。
証明しょうめい を要よう するか
懐疑かいぎ 意味いみ ・価値かち ・存在そんざい そのものを疑うたが う。
入試にゅうし 文ぶん
思考しこう の驚おどろ きは、14 自明じめい 性せい への驚おどろ きである。「当あ たり前まえ にあること」「日常的にちじょうてき に慣な れ親した しんでいること」に驚おどろ くことが、真実しんじつ に知性ちせい と思考しこう の驚おどろ きである。何なに もないことではなくて、むしろあることが問題もんだい である。これは知的ちてき 15 懐疑かいぎ とよぶことができる。普通ふつう 、人ひと はないことに驚おどろ くが、むしろ反対はんたい になぜないのではなくてなぜあるのだろうかと驚おどろ くべきである。あることは自明じめい であるからこそ、あることに驚おどろ くことを考かんが えるのが本来ほんらい の驚おどろ きなのである。これを日常にちじょう 性せい からの離脱りだつ という。懐疑かいぎ すなわち知的ちてき に疑うたが うことは、日常的にちじょうてき な態度たいど からの離脱りだつ 、あるいは日常的にちじょうてき なものの考かんが え方かた を停止ていし することである。この離脱りだつ や停止ていし のために知性ちせい の酷こく 使し がある。知性ちせい の酷こく 使し と激はげ しい精神せいしん 労働ろうどう なしには、人ひと は真実しんじつ に驚おどろ くことはできない。
出典しゅってん 今いま 村むら 仁司ひとし 『近代きんだい の思想しそう 構造こうぞう 』 / 出題しゅつだい 早稲田大学わせだだいがく ・教育学きょういくがく 部ぶ / 原げん 書しょ p.32
読解どっかい のポイント自明じめい 性せい への驚おどろ き = 知性ちせい と思考しこう の驚おどろ き = 知的ちてき 懐疑かいぎ = 日常にちじょう 性せい からの離脱りだつ 要約ようやく 日常的にちじょうてき な自明じめい 性せい に対たい する驚おどろ きこそ、知的ちてき 懐疑かいぎ であるが、真しん に驚おどろ くためには人ひと は知性ちせい を酷こく 使し しなければならない。
語ご 法ほう の観察かんさつ 同どう 語ご 反復はんぷく に見み える「驚おどろ きへの驚おどろ き」が、対象たいしょう を一段いちだん 上じょう へ繰く り上あ げる操作そうさ になっている。メタレベルへの移動いどう が一語いちご で行おこな われている。
自明性の層と、それを破る驚きの図 日常が自明性の層に支えられていること、その層に驚きが穴を開けたところから知的懐疑が始まることを示す。
疑われないまま通っている ── それが自明 日常世界 自明性の層 ── 証明されていないが、問われてもいない 明白 見れば分かる 自明 見ようとすら思わない 驚き 知的懐疑は、疑おうと決めることからは始まらない 足を止めさせる出来事が先にある(14 → 15)
自明じめい 性せい と、それを破やぶ る驚おどろ き
Section 09
自己じこ 目的もくてき 化か /倒錯とうさく
16 ★★
自己目的化じこもくてきか
じこもくてきか [0] じ こ も く て き か 平板へいばん 型がた
語ご 構成こうせい
自己じこ みずから + 目的もくてき めざすところ + 化か なる
定義ていぎ
本来ほんらい は手段しゅだん であるべきものが目的もくてき とすりかわり、手段しゅだん 自体じたい が目的もくてき となってしまうこと。
『現代げんだい 文ぶん キーワード読解どっかい 』1-1 ☑16
原げん 書しょ の解説かいせつ
ある行動こうどう が自己じこ 目的もくてき 化か することは、プラスの場合ばあい とマイナスの場ば との両方りょうほう がある。たとえば本来ほんらい 、大学だいがく 合格ごうかく の手段しゅだん にすぎない受験じゅけん 勉強べんきょう が自己じこ 目的もくてき 化か すると、いざ合格ごうかく したあとに、目的もくてき 喪失そうしつ という事態じたい を招まね きかねない。これは自己じこ 目的もくてき 化か がマイナスに働はたら く例れい である。
一方いっぽう 、最初さいしょ は生活せいかつ の手段しゅだん と割わ り切き っていた仕事しごと に熱中ねっちゅう し、仕事しごと そのものに楽らく しみを見み 出だ す。これは仕事しごと が自己じこ 目的もくてき 化か したと言い えるが、仕事しごと が生い きがいとなることはむしろプラスと考かんが えてもよいだろう。
使用しよう の境界きょうかい 本来ほんらい は手段しゅだん であったものが、それ自体じたい を目的もくてき とするようになること。プラスに働はたら く場合ばあい もある。
用法ようほう 原げん 書しょ はこの語ご をプラスとマイナスの両面りょうめん で説明せつめい する。マイナスの例れい は、大学だいがく 合格ごうかく の手段しゅだん だった受験じゅけん 勉強べんきょう がそれ自体じたい の目的もくてき になり、合格ごうかく 後ご に目的もくてき を失うしな うこと。プラスの例れい は、生活せいかつ の手段しゅだん だった仕事しごと そのものに楽らく しみを見み 出だ すこと。評ひょう 論文ろんぶん では組織そしき 批判ひはん に使つか われることが多おお く、「制度せいど が自己じこ 目的もくてき 化か する」「研究けんきゅう が自己じこ 目的もくてき 化か する」の形かたち が定型ていけい 。倒錯とうさく と違ちが って、この語ご 自体じたい には価値かち 判断はんだん が含ふく まれていない。
用例ようれい
これを知し る者もの はこれを好この む者もの に如し かず。これを好この む者もの はこれを楽らく しむ者もの に如し かず。『論語ろんご 』雍よう 也なり 篇へん
知し る・好この む・楽らく しむの三さん 段だん が、そのまま手段しゅだん から目的もくてき へ移うつ っていく階段かいだん になっている。知し るは、何なに かのために身み につける段階だんかい 。好この むは、それ自体じたい に心こころ が向む きはじめた段階だんかい 。そして楽らく しむは、もはや外そと に理由りゆう を要よう さない段階だんかい である。孔子こうし はこの最後さいご を最上さいじょう に置お いた。つまりここでは、自己じこ 目的もくてき 化か が到達点とうたつてん として語かた られている 。評ひょう 論文ろんぶん で自己じこ 目的もくてき 化か が組織そしき 批判ひはん の語ご として現あらわ れるのを見み 慣な れていると、この一句いっく は意外いがい に映うつ る。だが原げん 書しょ がわざわざ「プラスの場合ばあい もある」と断ことわ るのは、まさにこの側面そくめん を落お とさないためである。
われらは世界せかい のまことの幸福こうふく を索さく ねよう 求道きゅうどう すでに道みち である宮沢賢治みやざわけんじ 『農民のうみん 芸術げいじゅつ 概がい 論ろん 綱要こうよう 』(1926)
「求道きゅうどう すでに道みち である」— 探さが すという手段しゅだん が、そのまま探さが し当あ てるべき目的もくてき になっている。七なな 文字もじ で自己じこ 目的もくてき 化か のプラスの面めん を言い い切き った一句いっく である。ここで賢治けんじ が「求道きゅうどう は道みち に至いた る」と書か かなかったことに注意ちゅうい したい。そう書か けば、道みち は探索たんさく の先さき にある別べつ のものになり、探索たんさく は道みち に到達とうたつ するまでの手段しゅだん に格下かくさ げされる 。「すでに」の一語いちご がその落差らくさ を消け した。同おな じ構造こうぞう を否定的ひていてき に言い えば「手段しゅだん が目的もくてき にすりかわった」になる。すりかわりを堕落だらく と見み るか成就じょうじゅ と見み るかは、語ご の側がわ ではなく書か き手て の立場たちば が決き めている 。
評価ひょうか のための書類しょるい 作つく りが自己じこ 目的もくてき 化か し、本来ほんらい の業務ぎょうむ を圧迫あっぱく している。
組織そしき 批判ひはん でもっとも多おお い型かた である。「書類しょるい が増ふ えた」ではなく「自己じこ 目的もくてき 化か した」と書か くことで、量りょう の問題もんだい ではなく手段しゅだん と目的もくてき の関係かんけい が入い れ替か わったという構造こうぞう の問題もんだい になる。この語ご の力ちから は、個々ここ の無駄むだ を責せ めずに仕組しく みそのものを撃う てる点てん にある。
△手段しゅだん が目的もくてき にすりかわるという自己じこ 目的もくてき 化か は、断だん じて許ゆる されない。
「断だん じて許ゆる されない」という強つよ い価値かち 判断はんだん を伴ともな うなら、選えら ぶべきは「倒錯とうさく 」 のほうである。自己じこ 目的もくてき 化か は、原げん 書しょ が強調きょうちょう するとおりそれ自体じたい には価値かち 判断はんだん を含ふく まない 。仕事しごと が生い きがいになるのも自己じこ 目的もくてき 化か だからだ。否定ひてい したいときに中立ちゅうりつ 語ご を使つか うと、主張しゅちょう と語ご の重おも さがずれる 。
コロケーション
制度せいど が自己じこ 目的もくてき 化か する主語しゅご のとれる形かたち この語ご がとる主語しゅご は、人ひと ではなく仕組しく みであることが圧倒的あっとうてき に多おお い 。「彼かれ が自己じこ 目的もくてき 化か した」とはほとんど言い わない。なぜかといえば、すりかわりは誰だれ かが決き めて起お こすものではなく、続つづ けているうちにいつのまにか起お きるもの だからである。主語しゅご に人ひと を置お けないという文法ぶんぽう 上じょう の性質せいしつ が、そのままこの語ご の意味いみ の中身なかみ を証明しょうめい している。
手段しゅだん の目的もくてき 化か 言い い換か えの精度せいど ほぼ同義どうぎ だが、こちらは「自己じこ 」が抜ぬ けている ぶん、外そと から目的もくてき を与あた えられた場合ばあい も含ふく んでしまう。自己じこ 目的もくてき 化か は、他ほか ならぬそれ自身じしん が自分じぶん の目的もくてき になる という再帰さいき の構造こうぞう を「自己じこ 」の二字にじ で押お さえている。再帰さいき であることは、18 の自己じこ 言及げんきゅう のパラドックスとも遠とお く響ひび き合あ っている。
研究けんきゅう の自己じこ 目的もくてき 化か 両義りょうぎ の見本みほん この一句いっく だけでは、褒ほ めているのか批判ひはん しているのか決き まらない。役やく に立た たなくなったという批判ひはん にも、役やく 立た ちから自由じゆう になったという称賛しょうさん にもなる。純粋じゅんすい 数学すうがく の弁護べんご はまさに後者こうしゃ の線せん で書か かれてきた。同おな じ結むす びつきが評価ひょうか の両りょう 極きょく を行い き来き する ので、読解どっかい では前後ぜんご の一文いちぶん まで読よ まないと向む きが決き まらない。
目的もくてき 喪失そうしつ すりかわりの後あと 自己じこ 目的もくてき 化か していたものが完了かんりょう してしまったとき、次つぎ に置お くべき目的もくてき が残のこ っていない という事態じたい である。受験じゅけん 勉強べんきょう が自己じこ 目的もくてき 化か した者もの が合格ごうかく の翌日よくじつ に立た ちすくむ、という原げん 書しょ の例れい がこれにあたる。つまり自己じこ 目的もくてき 化か のマイナスは、その最中さいちゅう ではなく終お わったあとに現あらわ れる 。この時間差じかんさ が、批判ひはん を難むずか しくしている。
格かく 硬かた ・学術がくじゅつ 論文ろんぶん ・評ひょう 論ろん でのみ使つか う。会話かいわ では不自然ふしぜん 。
類るい 語ご と差さ
倒錯とうさく 順序じゅんじょ がひっくり返かえ る常つね に否定的ひていてき 。自己じこ 目的もくてき 化か はプラスに働はたら くこともある。この差さ が原げん 書しょ の要点ようてん 。
形式けいしき 化か 中身なかみ が抜ぬ けて形かたち だけ残のこ る形かたち と中身なかみ の関係かんけい 。自己じこ 目的もくてき 化か は手段しゅだん と目的もくてき の関係かんけい 。
空洞化くうどうか 実質じっしつ が失うしな われる結果けっか の状態じょうたい を言い う。原因げんいん の構造こうぞう は言い わない。
目的もくてき の転移てんい 目的もくてき がずれる社会学しゃかいがく の用語ようご 。自己じこ 目的もくてき 化か とほぼ同おな じ構造こうぞう を指さ す。
EN becoming an end in itselfZH 自我目的化(自己目的化, zìwǒ mùdìhuà)
17 ★★
倒錯とうさく
とうさく [0] と う さ く 平板へいばん 型がた
語ご 構成こうせい
倒とう たおれる・さかさま + 錯さく まじる・くいちがう
定義ていぎ
本来ほんらい のあるべき順序じゅんじょ や秩序ちつじょ がひっくり返かえ り、混乱こんらん すること。
『現代げんだい 文ぶん キーワード読解どっかい 』1-1 ☑17
原げん 書しょ の解説かいせつ
「自己じこ 目的もくてき 化か 」と意味いみ が重かさ なる部分ぶぶん もあるが、倒錯とうさく の方ほう は否定的ひていてき な意味いみ 合あ いを込こ めて使つか うケースがほとんどである。
たとえば
本来ほんらい 、国民こくみん の利益りえき を最優先さいゆうせん に考かんが えなければならない政治せいじ 家か が、自己じこ の名誉めいよ 欲よく を優先ゆうせん して政治せいじ 活動かつどう を行おこな うことは、「自己じこ 目的もくてき 化か 」ではなく「倒錯とうさく 」という言葉ことば がふさわしい。
使用しよう の境界きょうかい 本来ほんらい あるべき順序じゅんじょ や秩序ちつじょ がひっくり返かえ り混乱こんらん すること。否定的ひていてき な意味いみ 合あ いでのみ使つか う。
用法ようほう 「本ほん 末まつ 転倒てんとう 」という成せい 句く と内容ないよう が重かさ なるが、「倒錯とうさく 」はより硬かた く、価値かち の体系たいけい そのものが反転はんてん していることを指さ す。「価値かち の倒錯とうさく 」「倒錯とうさく した欲望よくぼう 」のように、当人とうにん がそれを正ただ しいと思おも っている点てん が含ふく まれる。単たん なる誤あやま りではなく、秩序ちつじょ が入い れ替か わったまま安定あんてい してしまっている状態じょうたい を言い う。性せい 的てき な文脈ぶんみゃく での用法ようほう があるため、日常にちじょう 会話かいわ では避さ けられる。評ひょう 論文ろんぶん では制度せいど 批判ひはん ・近代きんだい 批判ひはん で使つか われる。
用例ようれい
名利みょうり に使し はれて、閑しず かなる暇ひま なく、一生いっしょう を苦くる しむるこそ、愚おろ かなれ。吉田兼好よしだけんこう 『徒然草つれづれぐさ 』第だい 三十さんじゅう 八はち 段だん (1330頃ころ )
「名利みょうり に使し はれて」— この受う け身み が一句いっく の要かなめ である。名声めいせい も利益りえき も、本来ほんらい は人ひと が自分じぶん の生せい を豊ゆた かにするために使つか う道具どうぐ だったはずだ。それが逆ぎゃく に人ひと を使つか っている。主語しゅご と目的語もくてきご が入い れ替か わったまま元もと に戻もど らない 、これが倒錯とうさく の姿すがた である。兼好けんこう はこれを「愚おろ かなれ」と断だん じた。自己じこ 目的もくてき 化か なら「そういうこともある」で済す むが、倒錯とうさく には必かなら ず価値かち 判断はんだん が伴ともな う — その判断はんだん を含ふく めて一語いちご なのだ という点てん で、この一文いちぶん は二に 語ご の違ちが いを実演じつえん している。
礼れい は忠信ちゅうしん の薄うす きにして、乱らん の首くび なり。『老子ろうし 』第だい 三十さんじゅう 八章はっしょう
礼儀れいぎ 作法さほう とは、まごころと信しん 義ぎ が薄うす れたところに現あらわ れるもので、乱みだ れのはじまりだ、という。礼れい はもともとまごころを外そと に表あらわ すための手段しゅだん だった。ところが手段しゅだん の側がわ だけが精密せいみつ に整ととの えられ、中身なかみ が抜ぬ けたまま形式けいしき が自立じりつ してしまう。老子ろうし が鋭するど いのは、これを衰退すいたい の結果けっか ではなく「乱らん の首はじまり (はじまり)」と呼よ んだ点てん である。形式けいしき が中身なかみ を追お い越こ したその時点じてん で、すでに崩くず れは始はじ まっている。倒錯とうさく が「単たん なる誤あやま り」ではなく反転はんてん したまま安定あんてい してしまった秩序ちつじょ を指さ すことが、ここからよく分わ かる。
効率こうりつ を上あ げるための会議かいぎ が増ふ えすぎて、価値かち の倒錯とうさく が起お きている。
「本ほん 末まつ 転倒てんとう 」でも内容ないよう は伝つた わるが、倒錯とうさく を選えら ぶと個々ここ の判断はんだん ミスではなく価値かち の体系たいけい そのものが反転はんてん している という含ふく みになる。成せい 句く は事態じたい を軽かる く名指なざ し、漢語かんご は構造こうぞう を名指なざ す。硬かた さの差さ は、そのまま射程しゃてい の差さ である 。
△二人ふたり の立場たちば が倒錯とうさく した。
単たん に前後ぜんご や上下じょうげ が入い れ替か わっただけなら「逆転ぎゃくてん 」 が正ただ しい。倒錯とうさく は、当人とうにん がそれを正ただ しいと思おも ったまま反転はんてん が固定こてい している ことを言い う。つまり気き づかれていないことが条件じょうけん である。「立場たちば が逆転ぎゃくてん した」なら誰だれ の目め にも明あき らかで、それは倒錯とうさく とは呼よ ばない。
派生はせい 形けい
倒錯的とうさくてき [0] 「的てき 」が付つ くと状態じょうたい の記述きじゅつ から性質せいしつ の評価ひょうか へ移うつ る 。「倒錯とうさく した制度せいど 」は起お きたことの記述きじゅつ だが、「倒錯とうさく 的てき な制度せいど 」はその制度せいど の性質せいしつ を言い う。後者こうしゃ のほうが、いつからそうなったかを問と わずに済す むぶん批判ひはん として強つよ い。
倒錯性とうさくせい [0] 性質せいしつ として取と り出だ す形かたち 。「倒錯とうさく 性せい を孕はら む」「倒錯とうさく 性せい が露あら わになる」 と程度ていど や現あらわ れ方ほう を論ろん じられるようになる。反転はんてん はゼロか一いち かのはずだが、この形かたち にすると度合どあ いで語かた れてしまう — 接尾せつび 辞じ が語ご の論理ろんり をゆるめる例れい として、12 の合理性ごうりせい と同おな じ働はたら きをしている。
転倒てんとう [0] 派生はせい 形けい ではなく、対たい にして覚おぼ えたい近ちか い語ご 。物理的ぶつりてき な転ころ び方ほう にも使つか える ぶん、倒錯とうさく より軽かる く、価値かち 判断はんだん も薄うす い。「本ほん 末まつ 転倒てんとう 」が成せい 句く として広ひろ く通用つうよう するのに対たい し、「本ほん 末まつ 倒錯とうさく 」とは言い わない — 成せい 句く は日常にちじょう 語ご の側がわ の語ご を選えら ぶ という一般いっぱん 則そく がここにも現あらわ れている。
コロケーション
価値かち の倒錯とうさく 体系たいけい の反転はんてん 個々ここ の判断はんだん ではなく順位じゅんい づけの体系たいけい ごと ひっくり返かえ っている、という言い い方かた である。手段しゅだん が目的もくてき の上うえ に来く る、形式けいしき が中身なかみ の上うえ に来く る、数字すうじ が実態じったい の上うえ に来く る — いずれも一ひと つひとつは小ちい さな入い れ替か えだが、全体ぜんたい が同おな じ向む きに傾かたむ くと、その内部ないぶ にいる者もの には傾かたむ きが見み えなくなる 。評ひょう 論文ろんぶん がこの語ご で批判ひはん するのは、その見み えなさのほうである。
倒錯とうさく した欲望よくぼう 当人とうにん の確信かくしん 注意ちゅうい したいのは、この形かたち が「間違まちが った欲望よくぼう 」を意味いみ しない 点てん である。当人とうにん にとってそれは正ただ しい欲望よくぼう であり、だからこそ倒錯とうさく なのだ。外そと から見み て反転はんてん しているが内ない から見み れば整ととの っている — この視点してん の食く い違ちが いが語ご の中心ちゅうしん にある 。なお性せい 的てき な文脈ぶんみゃく での使用しよう が定着ていちゃく しているため、日常にちじょう 会話かいわ では避さ けられる語ご でもある。
本ほん 末まつ 転倒てんとう 成せい 句く との距離きょり 「本ほん 」と「末まつ 」というもともと備そなえ わった順位じゅんい を前提ぜんてい にした成せい 句く である。木き の根ね と枝えだ 先さき だから、どちらが本ほん かは疑うたが いようがない。倒錯とうさく はここが違ちが う。何なに が本ほん で何なに が末まつ かを決き めているのは価値かち の体系たいけい のほう で、その体系たいけい 自体じたい が反転はんてん しうる。成せい 句く が事実じじつ の誤あやま りを指さ すのに対たい し、漢語かんご は判断はんだん の枠組わくぐ みを指さ す。
倒錯とうさく 的てき な構造こうぞう 批判ひはん の道具どうぐ 化か 「的てき 」と「構造こうぞう 」を重かさ ねることで、個人こじん の性せい 向こう から社会しゃかい の仕組しく みへ焦点しょうてん が移うつ る 。誰だれ かが倒錯とうさく しているのではなく、その中なか にいれば誰だれ でも倒錯とうさく する配置はいち になっている 、という主張しゅちょう になる。近代きんだい 批判ひはん ・制度せいど 批判ひはん がこの形かたち をとるのは、責任せきにん を個人こじん に負お わせずに批判ひはん を届とど かせるためである。
格かく 硬かた 書か き言葉ことば 。会話かいわ では不自然ふしぜん 。
類るい 語ご と差さ
自己じこ 目的もくてき 化か 手段しゅだん が目的もくてき になる構造こうぞう は重かさ なるが、こちらは価値かち 中立ちゅうりつ 。倒錯とうさく は常つね に否定ひてい 。
逆転ぎゃくてん 前後ぜんご が入い れ替か わる中立ちゅうりつ 語ご 。混乱こんらん の含ふく みがない。「立場たちば が逆転ぎゃくてん する」。
転倒てんとう 上下じょうげ がさかさまになる物理的ぶつりてき にも使つか う。「本ほん 末まつ 転倒てんとう 」は倒錯とうさく と近ちか い成せい 句く 。
錯誤さくご 思おも い違ちが い認識にんしき の誤あやま り。順序じゅんじょ の反転はんてん ではない。
EN inversion / perversionZH 倒错(倒錯, dàocuò)
対立たいりつ の軸じく
自己じこ 目的もくてき 化か /倒錯とうさく の軸じく = 何なに が入い れ替か わるか
自己じこ 目的もくてき 化か 手段しゅだん が目的もくてき にすりかわる。
何なに が入い れ替か わるか
倒錯とうさく 本来ほんらい の順序じゅんじょ や秩序ちつじょ がひっくり返かえ る。
手段と目的の反転 本来の手段から目的への順序が、自己目的化と倒錯によって反転する構造を示した図。
本来
受験勉強
手段
大学合格
目的
反転後
受験勉強
手段=目的
自己目的化
それ自体が目的になる。価値中立。
マイナス ── 合格後に目的を失う
プラス ── 仕事そのものが生きがいになる
倒錯 = 同じ反転が常に否定的に評価される場合の呼び名
手段しゅだん と目的もくてき の反転はんてん
入試にゅうし 文ぶん
専門せんもん の細分さいぶん 化か についていえば、研究けんきゅう が精緻せいち をきわめるにつれておのずから領域りょういき の細分さいぶん 化か ・分業ぶんぎょう をもたらし、あまつさえおとらず細分さいぶん 化か された新あら たな研究けんきゅう 領域りょういき を増殖ぞうしょく する傾かたむ きのあることは、文科もんか 系けい の諸しょ 科学かがく といえども理工系りこうけい のそれとあまりかわるところがない。こうして細分さいぶん 化か されますます精緻せいち にされた研究けんきゅう が、16 自己じこ 目的もくてき 化か されて、「知し るために知し る」ことの一種いっしゅ 17 倒錯とうさく した戯画ぎが を呈てい する危険きけん を内ない 蔵ぞう することは、これも基本的きほんてき に文ぶん 系けい 、理系りけい の区別くべつ を問と わないことである。これからの領域りょういき で緻密ちみつ で非ひ の打う ちところ一ひと つない論文ろんぶん を書か いてはみたが、その研究けんきゅう に何なに の意味いみ があるのか考かんが えてみれば本当ほんとう のところは自分じぶん でもわからない、というわけである。研究けんきゅう ・教育きょういく にたずさわる側がわ に、知識ちしき の細分さいぶん 化か 、というよりもより正確せいかく にいえば知識ちしき の細分さいぶん 化か にともなうその133 フェティシズム化か の危険きけん (と誘惑ゆうわく )があるとすれば、教育きょういく を受う ける側がわ には知識ちしき の断片だんぺん 化か というこれまたよく似に た一種いっしゅ の倒錯とうさく がつきまとう。
出典しゅってん 坂部さかべ 恵めぐみ 『〈インフォルマチオ〉としての人文学じんぶんがく 』 / 出題しゅつだい 関西学院大学かんせいがくいんだいがく ・社会学しゃかいがく 部ぶ / 原げん 書しょ p.34
読解どっかい のポイント研究けんきゅう は手段しゅだん (何なに かに役やく 立た つための研究けんきゅう )研究けんきゅう の自己じこ 目的もくてき 化か (知し るために知し る)文ぶん 系けい 理系りけい を問と わず、専門せんもん の細分さいぶん 化か が進行しんこう することで、研究けんきゅう は自己じこ 目的もくてき 化か され、「知し るために知し る」という倒錯とうさく に陥おちい りやすい。要約ようやく 文ぶん 系けい 理系りけい を問と わず、専門せんもん の細分さいぶん 化か が進すす むことで、研究けんきゅう は自己じこ 目的もくてき 化か され、「知し るために知し る」という倒錯とうさく に陥おちい りやすい。
語ご 法ほう の観察かんさつ 「というよりもより正確せいかく にいえば」で自みずか らの語ご を訂正ていせい する。精度せいど を上あ げていく過程かてい そのものを読者どくしゃ に見み せる型かた 。
Section 10
パラドックス(逆説ぎゃくせつ )
18 ★★
パラドックス(逆説ぎゃくせつ )
パラドックス [3] パ ラ ド ッ ク ス 中高なかだか 型がた
語ご 構成こうせい
逆ぎゃく さかさま + 説せつ とく・のべる
漢語かんご 形けい は「逆説ぎゃくせつ (ぎゃくせつ)」。同義語どうぎご に「逆ぎゃく 理り 」がある。
定義ていぎ
①一見いっけん すると真理しんり に背そむ いているように見み えて、実じつ は一いち 面めん の真理しんり を言い い表あらわ している表現ひょうげん 。
『現代げんだい 文ぶん キーワード読解どっかい 』1-1 ☑18
原げん 書しょ の解説かいせつ
例れい 文ぶん のように「パラドックス」とも言い う。クレタ島人しまびと の言葉ことば は②の意味いみ で用もち いられ、自己じこ (クレタ島人しまびと )が自己じこ (クレタ島人しまびと )について語かた る時とき に生しょう じる「自己じこ 言及げんきゅう のパラドックス 」ともよばれている。評ひょう 論ろん では、②よりも①の意い で用もち いられることの方ほう が多おお いが、いま一ひと つその内容ないよう がつかみにくいかもしれないので、例れい を挙あ げて説明せつめい しよう。
たとえば、「豊ゆた かになればなるほど、逆説的ぎゃくせつてき に欠乏けつぼう を感かん じてしまう」といった表現ひょうげん がなぜ逆説ぎゃくせつ なのか。常識的じょうしきてき に考かんが えると、豊ゆた かになれば人々ひとびと の欠乏けつぼう 感かん は埋う められるはずだ。しかし実際じっさい は、豊ゆた かになることで、逆ぎゃく に「足た りないもの」を意識いしき するようになってしまう。これが典型的てんけいてき な逆説ぎゃくせつ 表現ひょうげん 。
この例れい からもわかるように、逆説ぎゃくせつ 表現ひょうげん は、常識的じょうしきてき な結論けつろん (豊ゆた かになれば、人ひと は欠乏けつぼう を感かん じなくなる)に背そむ くことで成立せいりつ する。したがって、傍線ぼうせん 部ぶ 解釈かいしゃく 問題もんだい などで「逆説ぎゃくせつ 」の説明せつめい を問と う問題もんだい に対たい しては、〈逆ぎゃく でなかったらどうなのか〉 (常識的じょうしきてき な結論けつろん だとするとどうなのか)を考かんが えることで、解答かいとう に近ちか づけるはずだ。
| 常識じょうしき | = 欠乏けつぼう 感かん は埋う められる |
| :---: | :---: |
| 豊ゆた かになる | \updownarrow |
| 逆説ぎゃくせつ | = 欠乏けつぼう を感かん じてしまう |
使用しよう の境界きょうかい ①一見いっけん 真理しんり に背そむ いて見み えて、実じつ は一いち 面めん の真理しんり を言い い当あ てている表現ひょうげん 。②解と きがたい矛盾むじゅん を抱かか えた表現ひょうげん や事態じたい 。評ひょう 論文ろんぶん では①が多おお い。
用法ようほう 読解どっかい 上じょう は①の用法ようほう が要点ようてん になる。「豊ゆた かになればなるほど欠乏けつぼう 感かん が強つよ まる」のように、常識的じょうしきてき な結論けつろん に背そむ く形かたち で一いち 面めん の真理しんり を言い い当あ てる表現ひょうげん である。傍線ぼうせん 部ぶ 解釈かいしゃく の設問せつもん では、〈常識じょうしき ならどうなるか〉を先さき に立た て、それに背そむ く形かたち で答こた えを組く むと解と ける。②は自己じこ 言及げんきゅう によって前提ぜんてい と帰結きけつ が矛盾むじゅん する型かた で、「クレタ島人しまびと は嘘うそ つきだ」とクレタ島人しまびと が言い った場合ばあい が典型てんけい 。漢語かんご 形けい は「逆説ぎゃくせつ 」で、「逆説的ぎゃくせつてき に言い えば」の形かたち が評ひょう 論文ろんぶん の接続せつぞく 表現ひょうげん として頻出ひんしゅつ する。
用例ようれい
秘ひ すれば花はな なり、秘ひ せずば花はな なるべからず。世阿弥ぜあみ 『風姿ふうし 花伝かでん 』別紙べっし 口伝くでん (1400頃ころ )
隠かく すからこそ花はな になる、隠かく さなければ花はな ではありえない — 典型的てんけいてき な逆説ぎゃくせつ である。常識じょうしき では、見み せてこそ美び は美び として伝つた わる。世阿弥ぜあみ はその常識じょうしき に正面しょうめん から背そむ いた。そして背そむ いたうえで、一いち 面めん の真理しんり を言い い当あ てている。観客かんきゃく が受う ける感動かんどう は、演えん じられたものだけ から来く るのではなく、「まだ何なに かあるらしい」という予期よき からも来く る。手て の内うち を明みん かせばその予期よき が消き える。原げん 書しょ のすすめる手順てじゅん どおり〈逆ぎゃく でなかったらどうなのか〉を立た ててみると、「見み せれば花はな になる」— たしかにそう思おも っていた、と読者どくしゃ に気き づかせる。逆説ぎゃくせつ は、読者どくしゃ の常識じょうしき を先さき に立た ち上うえ がらせてから折おり る 。
大だい 直ちょく は屈くっ するが若わか く、大巧たいこう は拙せつ なるが若わか く、大だい 弁べん は訥とつ なるが若わか し。『老子ろうし 』第だい 四十よんじゅう 五ご 章しょう
本当ほんとう にまっすぐなものは曲ま がって見み え、本当ほんとう に巧たく みなものは拙つたな く見み え、本当ほんとう の雄弁ゆうべん は口くち ごもって見み える。三みっ つの逆説ぎゃくせつ を畳たた みかけた一節いっせつ である。ここで効き いているのは「若わか し(〜のようだ)」 という一語いちご である。老子ろうし は「大巧たいこう は拙せつ である」とは言い っていない。拙つたな く「見み える」と言い っている のだ。この一語いちご があるおかげで、文ぶん は矛盾むじゅん せずに済す んでいる。逆説ぎゃくせつ と単たん なる矛盾むじゅん を分わ ける境目さかいめ がここにあり、逆説ぎゃくせつ は必かなら ず、見み かけと実質じっしつ のあいだに一段いちだん の落差らくさ を用意ようい している 。その落差らくさ を見み つけることが、逆説ぎゃくせつ を解と くということである。
豊ゆた かになればなるほど、逆説的ぎゃくせつてき に人ひと は欠乏けつぼう を感かん じるようになる。
原げん 書しょ が挙あ げる典型例てんけいれい 。解と き方かた は決き まっている — まず〈逆ぎゃく でなかったらどうか〉を立た てる 。常識じょうしき では「豊ゆた かになれば欠乏けつぼう 感かん は埋う まる」。それに背そむ く形かたち が本文ほんぶん の主張しゅちょう だから、答こた えは「常識じょうしき の否定ひてい 」+「そうなる理由りゆう 」 の二に 段だん で組く む。理由りゆう はたいてい、選択肢せんたくし が増ふ えると比較ひかく の対象たいしょう も増ふ えるから、という形かたち で本文ほんぶん 中ちゅう に置お かれている。
×彼かれ の説明せつめい は前まえ と後あと で食く い違ちが っていてパラドックス だ。
ただ食く い違ちが っているだけなら「矛盾むじゅん 」 である。パラドックスは、成な り立た たないように見み えながら一いち 面めん の真理しんり を含ふく む という二に 重じゅう 性せい が要い る。真理しんり を含ふく まない食く い違ちが いは、ただの誤あやま りにすぎない。「それでも正ただ しいところがあるか」を問と えば、この二に 語ご はきれいに分わ かれる 。
派生はせい 形けい
逆説的ぎゃくせつてき [0] 副詞ふくし 化か して「逆説的ぎゃくせつてき に」の形かたち で使つか うのが圧倒的あっとうてき に多おお い。名詞めいし のパラドックスが事柄ことがら を指さ すのに対たい し、この形かたち は述の べ方ほう を指さ す 。同おな じ事態じたい でも、逆説ぎゃくせつ として述の べるかどうかは書か き手て が選えら べる — その選択せんたく の余地よち がこの形かたち に現あらわ れている。
逆理ぎゃくり ②の意味いみ 、すなわち論理的ろんりてき に解と けない矛盾むじゅん だけを指さ す。数学すうがく ・論理学ろんりがく の術語じゅつご で、「ラッセルの逆ぎゃく 理り 」のように使つか う。①の意味いみ では決けっ して使つか えないので、この語ご が出で てきたら文章ぶんしょう は論理学ろんりがく の側がわ に立た っている。
背理はいり 道理どうり に背そむ くこと。「背理法はいりほう 」はある命題めいだい を否定ひてい すると矛盾むじゅん が導みちび かれることを示しめ して、もとの命題めいだい を証明しょうめい する 方法ほうほう である。逆説ぎゃくせつ が真理しんり を含ふく みながら常識じょうしき に背そむ くのに対たい し、背理はいり は矛盾むじゅん を積極的せっきょくてき に作つく り出だ して利用りよう する — 矛盾むじゅん を目的地もくてきち にするか道具どうぐ にするか の違ちが いがある。
コロケーション
逆説的ぎゃくせつてき に言い えば接続せつぞく の定型ていけい 評ひょう 論文ろんぶん でもっとも頻度ひんど の高たか い形かたち で、これから常識じょうしき に背そむ くことを言い う、という予告よこく として働はたら く。予告よこく があることが重要じゅうよう である。予告よこく なしに常識じょうしき に背そむ けば読者どくしゃ は読よ み違ちが えるが、この一句いっく が置お かれると、読者どくしゃ は自分じぶん の常識じょうしき をいったん脇わき へ置お いて構かま える 。接続せつぞく 表現ひょうげん でありながら、読よ み手て の姿勢しせい を作つく り替か えている。
自己じこ 言及げんきゅう のパラドックス②の型かた 「クレタ島人しまびと は嘘うそ つきだ」とクレタ島人しまびと が言い う型かた で、語かた る者もの が語かた られる対象たいしょう に含ふく まれてしまう ときに生しょう じる。①が「一いち 面めん の真理しんり 」を含ふく むのに対たい し、②は真偽しんぎ が決き まらない。同おな じ語ご で呼よ ばれているが、性格せいかく はかなり違ちが う。評ひょう 論文ろんぶん に出で るのはほぼ①のほう だが、「この理論りろん は自身じしん にも当あ てはまるのか」という問と いが立た つ場面ばめん では②が顔かお を出だ す。
逆説ぎゃくせつ を孕はら む内包ないほう の動詞どうし 「孕はら む」は、外そと から加くわ わったのではなく内側うちがわ に最初さいしょ から抱かか えている ことを言い う。「近代きんだい は自みずか らの内ない に逆説ぎゃくせつ を孕はら んでいた」と書か けば、矛盾むじゅん が失敗しっぱい や事故じこ ではなく成な り立た ちそのものに組く み込こ まれていた ことになる。この動詞どうし ひとつで、批判ひはん は「やり方かた が悪わる かった」から「そもそもそういうものだった」へ深ふか まる。
逆説ぎゃくせつ めいたぼかしの接尾せつび 辞じ 「めく」は、そう見み えるがそうと決き めきれない、という含ふく みを添そ える。逆説ぎゃくせつ だと断言だんげん する責任せきにん を負お わずに、逆説ぎゃくせつ の効果こうか だけを借か りる言い い方かた である。随筆ずいひつ や評ひょう 論ろん の柔やわ らかい部分ぶぶん でよく使つか われるが、論証ろんしょう の中心ちゅうしん では使つか えない。「めいた」が出で てきたら、そこは主張しゅちょう ではなく風景ふうけい の描写びょうしゃ だと読よ み分わ けたい。
格かく 中なか 書か き言葉ことば ・会話かいわ の両方りょうほう で使つか える。
類るい 語ご と差さ
逆ぎゃく 理り 論理的ろんりてき に解と けない矛盾むじゅん ②の意味いみ だけを指さ す。「クレタ島人しまびと は嘘うそ つきだ」の型かた 。
ディレンマ 二ふた つとも選えら べない選択せんたく の場面ばめん に限かぎ る。パラドックスは表現ひょうげん や論理ろんり の性質せいしつ 。
アイロニー 真しん 意い と逆ぎゃく を言い う話者わしゃ の意図いと がある。パラドックスは事柄ことがら の構造こうぞう で、意図いと を含ふく まない。
矛盾むじゅん 両立りょうりつ しない単たん に成な り立た たないこと。パラドックスは〈成な り立た たないのに真理しんり を含ふく む〉点てん が違ちが う。
EN paradoxZH 悖论(パラドックス, bèilùn)
自己言及のパラドックス クレタ島人が「クレタ島人は嘘つきだ」と言った場合に、前提と帰結が循環して真偽が定まらない構造を示した図。
クレタ島人が「クレタ島人は嘘つきだ」と言う
前提 ── 嘘つきだとする
帰結 ── 嘘つきでなくなる
前提 ── 嘘つきでないとする
帰結 ── 嘘つきになる
どちらを前提にしても矛盾する ── 内容の真偽を判定できない
自己じこ 言及げんきゅう によって真偽しんぎ が定さだ まらない
入試にゅうし 文ぶん
〈ことば〉が〈もの〉の反映はんえい であると言い うためには、当然とうぜん 、〈ことば〉と〈もの〉は対応たいおう していなければならないという前提ぜんてい が必要ひつよう です。ところが、この前提ぜんてい に対たい する反証はんしょう は、いとも簡単かんたん に見み つけることができます。たとえば、かの嘘うそ つきの18 パラドックス 「クレタ島人しまびと は嘘うそ つきだ」とクレタ島人しまびと が言い ったがそれです。 この逆ぎゃく 理り の逆ぎゃく 理り たるゆえんは、「自家撞着じかどうちゃく 」ということで説明せつめい されます。もし、このことばを発はっ したクレタ島人しまびと が嘘うそ つきだったとすれば、「クレタ島人しまびと は嘘うそ つきだ」ということばも嘘うそ のはずですから、結局けっきょく 、その人ひと を含ふく むクレタ島人しまびと は嘘うそ つきではないことになってしまいます。その人ひと が嘘うそ つきではなかったとすれば、「クレタ島人しまびと は嘘うそ つきだ」ということは本当ほんとう のはずなので、その人ひと は嘘うそ つきになってしまいます。要よう するに、これはのち前提ぜんてい と帰結きけつ とが矛盾むじゅん を起お こすようにできていることばで、それゆえ、その内容ないよう の論理的ろんりてき 真偽しんぎ を判定はんてい すること自体じたい が不可能ふかのう なのです。
出典しゅってん 滝浦たきうら 真人まさと の文章ぶんしょう / 出題しゅつだい 早稲田大学わせだだいがく ・教育学きょういくがく 部ぶ / 原げん 書しょ p.36
読解どっかい のポイント前提ぜんてい =言葉ことば を発はっ したクレタ島人しまびと を嘘うそ つきとすると前提ぜんてい =言葉ことば を発はっ したクレタ島人しまびと が嘘うそ つきでないとすると要約ようやく 「クレタ島人しまびと は嘘うそ つきだ」とクレタ島人しまびと が言い った」というパラドックスは、論理的ろんりてき 真偽しんぎ の判定はんてい が不可能ふかのう であり、〈ことば〉が〈もの〉を反映はんえい しているということの反証はんしょう になっている。
語ご 法ほう の観察かんさつ 「です・ます」体からだ 。前提ぜんてい と帰結きけつ を交互こうご に置お き、読者どくしゃ に推論すいろん を辿たど らせる。文体ぶんたい が論理ろんり の運はこ びに合あ わせて選えら ばれている。
Section 11
虚構きょこう (フィクション)
19 ★★
虚構(フィクション)きょこう
きょこう [0] きょ こ う 平板へいばん 型がた
語ご 構成こうせい
虚きょ むなしい・実じつ がない + 構こう くみたてる
定義ていぎ
つくりごと。
『現代げんだい 文ぶん キーワード読解どっかい 』1-1 ☑19
原げん 書しょ の解説かいせつ
英語えいご の「フィクション 」の訳語やくご 。文学ぶんがく の世界せかい では、作者さくしゃ の想像力そうぞうりょく が加くわ わっていることを虚構きょこう と言い うが、評ひょう 論ろん で登場とうじょう する「虚構きょこう 」は、〈想像そうぞう 〉 や〈つくり話はなし 〉 の意い は薄うす れ、〈明確めいかく な起源きげん や根拠こんきょ がない〉 〈特定とくてい の時代じだい の人間にんげん が勝手かって に線引せんび きしてつくったもの〉 というニュアンスで使つか われることが多おお い。
なお、ノンフィクションとは、事実じじつ に基もと づいていることを言い う。
たとえば
「家父かふ 長ちょう 制せい (=家長かちょう の男性だんせい が家族かぞく の中なか で最高さいこう の権限けんげん をもっているあり方かた )」は、決けっ して時代じだい を貫つらぬ く普遍的ふへんてき なものではない。そのため、現代げんだい では、一種いっしゅ の虚構きょこう の制度せいど である。
```
文学ぶんがく 作品さくひん での「虚構きょこう 」
└─ 作者さくしゃ の想像力そうぞうりょく により、事実じじつ でないものをつくり上あ げること
↕ 〈想像そうぞう 〉 〈つくり話はなし 〉 の意い が薄うす れる
評ひょう 論文ろんぶん での「虚構きょこう 」
└─ 事実じじつ に基もと づいていない、つくりごと
```
使用しよう の境界きょうかい 事実じじつ に基もと づかないつくりごと。評ひょう 論文ろんぶん では〈想像そうぞう 〉〈つくり話はなし 〉の意い が薄うす れ、〈明確めいかく な起源きげん や根拠こんきょ がない〉の意い で使つか う。
用法ようほう 文学ぶんがく の「虚構きょこう 」は作者さくしゃ の想像力そうぞうりょく による創造そうぞう を意味いみ するが、評ひょう 論文ろんぶん の「虚構きょこう 」は〈事実じじつ に基もと づかない、根拠こんきょ のない組く み立た て〉を指さ し、想像力そうぞうりょく の含ふく みが薄うす れる。「家父かふ 長ちょう 制せい は一種いっしゅ の虚構きょこう である」のように、制度せいど や慣習かんしゅう を批判ひはん する語ご として使つか われるのが特徴とくちょう 。この場合ばあい 、虚構きょこう は嘘うそ ではなく、多おお くの人ひと が共有きょうゆう している構築物こうちくぶつ という含ふく みになる。「虚構きょこう と真実しんじつ 」という対たい は、ウソとマコトの対たい とは別べつ で、詩し と真実しんじつ (ゲーテ)の側がわ に近ちか い、という議論ぎろん が原げん 書しょ の入試にゅうし 文ぶん にある。
用例ようれい
男おとこ もすなる日記にっき といふものを、女おんな もしてみむとてするなり。紀き 貫之つらゆき 『土佐とさ 日記にっき 』冒頭ぼうとう (935頃ころ )
日本にほん の散文さんぶん で、もっとも早はや く、もっともはっきりと虚構きょこう が宣言せんげん された一行いちぎょう である。書か いているのは男おとこ である貫之つらゆき だが、文中ぶんちゅう の「私わたし 」は女おんな ということになっている。注目ちゅうもく したいのは、虚構きょこう が物語ものがたり の中身なかみ ではなく「語かた り手て 」の側がわ に置お かれている点てん だ。書か かれる出来事できごと は実際じっさい の旅たび の記録きろく で、嘘うそ ではない。嘘うそ なのは、それを誰だれ が語かた っているかという枠わく のほうである。ここに評ひょう 論文ろんぶん で言い う虚構きょこう の性格せいかく がすでに現あらわ れている — 虚構きょこう とは内容ないよう の真偽しんぎ ではなく、人ひと が引ひ いた枠わく のこと なのだ。そしてこの枠わく があったからこそ、漢文かんぶん の型かた に縛しば られない仮名かな の文体ぶんたい が生う まれた。虚構きょこう は制約せいやく ではなく、可能性かのうせい を開ひら く装置そうち でもある 。
芸げい というものは実じつ と虚きょ との皮膜ひまく の間あいだ にあるものなり。近ちか 松まつ 門左衛門もんざえもん の芸げい 論ろん ・穂積ほづみ 以貫いかん 『難波なんば 土産みやげ 』(1738)所収しょしゅう
「皮膜ひにく (ひにく)の間あいだ 」— 皮かわ と肉にく のあいだ、つまり薄うす くて分ぶん かちがたい境目さかいめ に芸げい はある、という。完全かんぜん な事実じじつ でも完全かんぜん な作つく り事こと でもいけない。ここで近ちか 松まつ は虚構きょこう と嘘うそ をはっきり切き り分わ けている 。嘘うそ は事実じじつ の代か わりに置お かれるが、虚構きょこう は事実じじつ に寄よ り添そ ったまま、事実じじつ がそのままでは届とど かせられないものを届とど かせる。原げん 書しょ が「虚構きょこう は嘘うそ ではない」「騙だま す意図いと を含ふく まない」とくり返かえ し注意ちゅうい するのは、この区別くべつ が読解どっかい の要かなめ になるからである。なお現代げんだい の評ひょう 論文ろんぶん が「家父かふ 長ちょう 制せい は虚構きょこう である」と書か くときの虚構きょこう も、嘘うそ という意味いみ ではなく、多おお くの人ひと が共有きょうゆう している組く み立た て という意味いみ で使つか われている。
国民こくみん という単位たんい は、近代きんだい が作つく り出だ した一種いっしゅ の虚構きょこう である。
評ひょう 論文ろんぶん の典型的てんけいてき な用法ようほう 。「嘘うそ だ」と言い っているのではない 。明確めいかく な起源きげん も自然しぜん の根拠こんきょ も無な く、ある時代じだい の人間にんげん が線せん を引ひ いてこしらえたものだ、と言い っている。虚構きょこう であることは、力ちから が無な いことも、価値かち が無な いことも意味いみ しない 。多おお くの人ひと が共有きょうゆう していれば、虚構きょこう は現実げんじつ として働はたら く — この含ふく みを落お とすと、文章ぶんしょう の主張しゅちょう がただの否定ひてい に読よ めてしまう。
×彼かれ の証言しょうげん はまったくの虚構きょこう で、法廷ほうてい を欺あざむ いた。
欺あざむ く意図いと があるなら、それは「嘘うそ 」「偽証ぎしょう 」 である。虚構きょこう は騙だま す意図いと を含ふく まない。土佐とさ 日記にっき の「私わたし は女おんな です」は虚構きょこう だが、誰だれ も貫之つらゆき が騙だま したとは言い わない。読よ み手て と書か き手て のあいだに「これは作つく り物もの です」という了りょう 解かい があるかどうか — そこが虚構きょこう と嘘うそ を分わ ける線せん である。
原げん 書しょ の反はん 意い 語ご ・関連かんれん 語ご 反はん 現実げんじつ / 関せき 35 恣意しい
派生はせい 形けい
虚構的きょこうてき [0] 「虚構きょこう の」で足た りるため使用しよう 頻度ひんど は低ひく い。あえて用もち いるのは、虚構きょこう そのものではなく「虚構きょこう に似に た性質せいしつ 」を指さ したいとき である。「虚構きょこう 的てき な安定あんてい 」と書か けば、安定あんてい それ自体じたい は現実げんじつ に働はたら いていることを認みと めたうえで、その根拠こんきょ の薄うす さだけを問題もんだい にできる。
虚構性きょこうせい [0] 性質せいしつ として取と り出だ す形かたち で、「虚構きょこう 性せい を帯お びる」「虚構きょこう 性せい が高たか い」と程度ていど で論ろん じられる ようになる。虚構きょこう か現実げんじつ かという二に 択たく を崩くず せるので、両者りょうしゃ の境目さかいめ を主題しゅだい にする文章ぶんしょう ではほぼ必かなら ずこの形かたち が使つか われる。
仮構かこう 「仮かり に組く み立た てる」という行為こうい の側がわ に重心じゅうしん がある語ご 。虚構きょこう が出来でき 上あ がった産物さんぶつ も指ゆび せるのに対たい し、こちらは組く み立た てる働はたら きを指さ す。「仮構かこう された共同体きょうどうたい 」と書か けば、誰だれ かが組く み立た てたという行為こうい の痕跡こんせき が文ぶん に残のこ る点てん が違ちが う。
コロケーション
一種いっしゅ の虚構きょこう 断定だんてい を和やわ らげる「虚構きょこう である」と言い い切き らず「一種いっしゅ の」を挟はさ むのは、読者どくしゃ の反発はんぱつ をあらかじめ受う け止と めるため である。制度せいど や共同体きょうどうたい を虚構きょこう と呼よ ばれれば、それに属ぞく している読者どくしゃ は否定ひてい されたように感かん じる。「一種いっしゅ の」が入はい ると、虚構きょこう という枠組わくぐ みの一いち 例れい として位置いち づける言い い方かた に変か わり、断罪だんざい の響ひび きが消き える。評ひょう 論文ろんぶん はこの緩衝材かんしょうざい をかなり意識的いしきてき に使つか う。
虚構きょこう と現実げんじつ 対たい の落お とし穴あな 一見いっけん すると素直すなお な対たい だが、評ひょう 論文ろんぶん でこの対たい が出で るときは、たいていその対立たいりつ 自体じたい が疑うたが われようとしている 。虚構きょこう が共有きょうゆう されれば人ひと はそれに従したが って動うご き、制度せいど が回まわ り、結果けっか として現実げんじつ が作つく られる。つまり虚構きょこう は現実げんじつ の反対はんたい 側がわ ではなく、現実げんじつ を成な り立た たせている側がわ にいる。この反転はんてん を予感よかん しながら読よ むと、論ろん の運はこ びが追お いやすい。
虚構きょこう 性せい を暴あば く批評ひひょう の身振みぶ り「暴あば く」は隠かく されていたものを引ひ きずり出だ す動詞どうし である。したがってこの形かたち は、虚構きょこう が虚構きょこう と気き づかれずに通用つうよう していた ことを前提ぜんてい にする。14 の自明じめい 性せい と同おな じ構造こうぞう で、問と われないまま通とお っていたものを問と いの場ば へ引ひ き出だ す作業さぎょう だ。ただし暴ぼう いたあとに何なに を置お くのかまで書か けていない文章ぶんしょう は、たいてい批判ひはん として弱よわ い。
虚きょ 実じつ 皮膜ひまく 創作そうさく 論ろん の術語じゅつご 近ちか 松まつ に由来ゆらい する成せい 句く で、虚きょ と実じつ のどちらにも寄よ りきらない薄うす い層そう に芸げい が宿やど るという考かんが えを指さ す。評ひょう 論文ろんぶん ではそのまま芸術げいじゅつ 論ろん の文脈ぶんみゃく で現あらわ れる。「虚構きょこう 」を単たん なる作つく り事こと と理解りかい していると、この語ご が出で た瞬間しゅんかん に読解どっかい が止と まる。虚構きょこう が事実じじつ と共存きょうぞん しうる ことを押お さえておきたい。
格かく 硬かた 書か き言葉ことば 。会話かいわ では不自然ふしぜん 。
類るい 語ご と差さ
仮構かこう かりに組く み立た てる 組く み立た てる行為こうい に重心じゅうしん 。虚構きょこう は結果けっか としての産物さんぶつ も指さ す。
擬制ぎせい 法ほう が事実じじつ と見み なす法学ほうがく の語ご 。事実じじつ でないことを制度せいど 上じょう の事実じじつ として扱あつか う。「法人ほうじん 」がその例れい 。
恣意しい 根拠こんきょ なく決き める決定けってい に主体しゅたい がある。虚構きょこう は共有きょうゆう された構築物こうちくぶつ 。
嘘うそ 事実じじつ に反はん する言明げんめい 相手あいて を騙だま す意図いと を含ふく む。虚構きょこう は騙だま す意図いと を含ふく まない。原げん 書しょ もこの点てん を区別くべつ する。
EN fictionZH 虚构(虚構, xūgòu)
入試にゅうし 文ぶん
19 フィクション 論ろん の観点かんてん からいうと、「19 虚構きょこう と真実しんじつ 」というのはいくらか文学的ぶんがくてき なテーマ設定せってい である。というのも、そこには「虚偽きょぎ (ウソ)」が含ふく まれていないからだ。図式ずしき 的てき な言い い方かた になるが、日常にちじょう 世界せかい での対立たいりつ 項こう は虚偽きょぎ と事実じじつ (ないし事実じじつ )、つまりウソとマコトである。それに対たい して虚構きょこう はフィクションであり、これは原則げんそく として真偽しんぎ の埒外らちがい にあるとされる(フィクションについては真偽しんぎ を問題もんだい にすべきではない。フィクションは架空かくう であっても騙だま すことを目的もくてき としない、云々うんぬん )。だから、「虚構きょこう と真実しんじつ 」は、むしろゲーテのいう「詩し と真実しんじつ 」に近ちか いのテーマではないか(「文学的ぶんがくてき 」という理由りゆう はそこにある)。相手あいて の場合ばあい 「真実しんじつ 」は、「事実じじつ 」の同義語どうぎご としてではなく、むしろ「真理しんり 」の意味いみ に解かい すべきではないか。現在げんざい 「フィクション論ろん 漬つ け」になっている私わたし などはこんなふうに考かんが えるのだが、どうだろうか。
出典しゅってん 大浦おおうら 康介こうすけ 『虚構きょこう の知恵ちえ ・ウソの効用こうよう 』 / 出題しゅつだい 関西大学かんさいだいがく ・法学部ほうがくぶ ・経済学部けいざいがくぶ ・政策創造学部せいさくそうぞうがくぶ など / 原げん 書しょ p.38
読解どっかい のポイント\neq 虚偽きょぎ と真実しんじつ (ないし事実じじつ ) キウソとマコト 虚構きょこう には「虚偽きょぎ (ウソ)」が含ふく まれていない要約ようやく 「虚構きょこう と真実しんじつ 」は、虚偽きょぎ と真実しんじつ (事実じじつ )やウソとマコトということではない。虚構きょこう はフィクションで、「虚偽きょぎ (ウソ)」が含ふく まれないからだ。「虚構きょこう と真実しんじつ 」は「詩し と真実しんじつ (ここでは真理しんり )」の方ほう に近ちか い。
語ご 法ほう の観察かんさつ 「〜ではないか」「どうだろうか」で問と いを重かさ ね、結論けつろん を保留ほりゅう したまま論ろん を進すす める。
事実・虚構・嘘を二軸で分けた図 縦軸に「事実に基づくか」、横軸に「騙す意図があるか」をとり、虚構が嘘と別の象限に立つことを示す。
虚構は嘘ではない ── 分ける軸は「騙す意図」 事実に基づく NO DECEPTION DECEPTION 事実の記録 ノンフィクション 捏造 事実を装った偽り 虚構 つくりごとという 了解が共有されている 嘘 相手を欺く意図がある 事実に基づかない 土佐日記の「私は女です」は虚構であって嘘ではない
事実じじつ に基もと づくか/騙だま す意図いと があるか
Section 12
イデオロギー/疎そ 外がい
20 ★★
イデオロギー
イデオロギー [3] イ デ オ ロ ギ ー 中高なかだか 型がた
定義ていぎ
人々ひとびと の考かんが え方かた や行動こうどう を根底こんてい で制限せいげん している信念しんねん や思想しそう 。
『現代げんだい 文ぶん キーワード読解どっかい 』1-1 ☑20
原げん 書しょ の解説かいせつ
まずイデオロギー は、否定的ひていてき な意味いみ 合あ いで使つか われることが多おお いことを覚おぼ えておこう。特定とくてい の考かんが え方かた に凝こ り固かた まっているわけだから、〈頑固がんこ で融通ゆうずう がきかない〉 というイメージだ。
もう一ひと つ押お さえておきたいのは、政治せいじ の文脈ぶんみゃく では、社会しゃかい 主義しゅぎ ・共産主義きょうさんしゅぎ ・資本しほん 主義しゅぎ などに対たい して使つか われることが多おお いということ。第だい 二次にじ 世界せかい 大戦たいせん 後ご の冷戦れいせん 時代じだい 、アメリカに代表だいひょう される西にし 側がわ 諸国しょこく の資本しほん 主義しゅぎ とソビエト連邦れんぽう (現在げんざい のロシアなど)に代表だいひょう される東ひがし 側がわ 諸国しょこく の社会しゃかい 主義しゅぎ との間あいだ に、大おお きな思想しそう 的てき 対立たいりつ があった。これを、資本しほん 主義しゅぎ と社会しゃかい 主義しゅぎ との「イデオロギーの対立たいりつ 」と言い う。思想しそう がイデオロギー化か すると、そのイデオロギーが他ほか のあらゆる思想しそう よりも優すぐ れたものだと思おも い込こ んでしまう。イデオロギーにはこうした排他的はいたてき で柔軟性じゅうなんせい に欠か けた面めん があり、対立たいりつ を引ひ き起お こしやすい。
コラム
政治的せいじてき ・思想しそう 的てき なイデオロギーは、現実げんじつ が不当ふとう であることを喚起かんき することで、人々ひとびと の共感きょうかん を集あつ めていく。資本しほん 主義しゅぎ が〈自由じゆう 〉 を、社会しゃかい 主義しゅぎ が〈解放かいほう 〉 を唱とな え、それが受う け入い れられたのは、人々ひとびと が置お かれている現実げんじつ が〈不ふ 自由じゆう 〉 であったり、〈束縛そくばく 〉 であったりしたからだ。しかし、掲かか げた課題かだい が達成たっせい されれば、イデオロギーの力ちから は失効しっこう する。たとえば、産業さんぎょう 化か に成功せいこう した先進国せんしんこく では、かつてのような貧困ひんこん や抑圧よくあつ は存在そんざい しないので、イデオロギーの力ちから は弱じゃく まる。こうした事情じじょう を指さ して「イデオロギーの終焉しゅうえん (しゅうえん)」と呼よ ぶ論ろん 者しゃ もいる。
使用しよう の境界きょうかい 人々ひとびと の考かんが え方かた や行動こうどう を根底こんてい で制限せいげん している信念しんねん や思想しそう 。政治せいじ の文脈ぶんみゃく では否定的ひていてき に使つか うことが多おお い。
用法ようほう 「思想しそう がイデオロギー化か する」と言い うと、その思想しそう が他ほか より優すぐ れたものだと思おも い込こ まれ、排他的はいたてき で柔軟性じゅうなんせい を欠か いた状態じょうたい になることを意味いみ する。この動詞どうし 化か した形かたち が評ひょう 論文ろんぶん で最もっと も批判的ひはんてき に働はたら く。第だい 二次にじ 大だい 戦後せんご の冷戦れいせん は資本しほん 主義しゅぎ と社会しゃかい 主義しゅぎ の「イデオロギーの対立たいりつ 」として語かた られ、これが代表だいひょう 例れい になる。マルクス以降いこう は、支配しはい 階級かいきゅう の利益りえき を普遍的ふへんてき な価値かち として見み せる仕組しく みを指さ す用法ようほう もあり、この場合ばあい は当人とうにん に自覚じかく がないことが含意がんい される。
用例ようれい
君子くんし は和わ して同どう ぜず、小人しょうじん は同おな じて和わ せず。『論語ろんご 』子路しろ 篇へん
「同どう ずる」は、違ちが いを消け して一ひと つに揃そろ うこと。「和わ する」は、違ちが いを残のこ したまま釣つ り合あ うこと。孔子こうし はこの二ふた つを正反対せいはんたい に置お いた。イデオロギーが批判ひはん されるときに問題もんだい にされているのは、ほぼ常つね に「同どう ずる」ほうの働はたら きである 。特定とくてい の考かんが えが集団しゅうだん を覆おお い、異こと なる声こえ を差異さい としてではなく誤あやま りとして扱あつか いはじめる。原げん 書しょ が「排他的はいたてき で柔軟性じゅうなんせい に欠か けた面めん がある」と説明せつめい するのはまさにこの状態じょうたい を指さ す。注意ちゅうい したいのは、孔子こうし が「同どう ずる」を思想しそう の内容ないよう によって非難ひなん していない点てん である。何なに を信しん じるかではなく、信しん じ方ほう が違ちが いを許ゆる すかどうか が分わ かれ目め になっている。
「然さ し是ぜ からは日本にほん も段々だんだん 発展はってん するでせう」と弁護べんご した。すると、かの男おとこ は、すましたもので、「亡ほろ びるね」と言げん つた。夏目なつめ 漱石そうせき 『三四郎さんしろう 』(1908)
日露にちろ 戦争せんそう に勝か って一等国いっとうこく になったのだからこれからは発展はってん するだろう、という三四郎さんしろう に対たい し、見知みし らぬ男おとこ が「亡ほろ びるね」と返かえ す。この短みじか い応酬おうしゅう が示しめ しているのは、三四郎さんしろう の側がわ が疑うたが いもせず立た っていた前提ぜんてい のほうである。「日本にほん は発展はってん する」は、当時とうじ の彼かれ にとって意見いけん ではなく空気くうき だった。それが意見いけん にすぎないと分わ かるのは、否定ひてい する声こえ が横よこ に置お かれた瞬間しゅんかん である。イデオロギーは、外そと から一言ひとこと 差さ し込こ まれてはじめて姿すがた を現あらわ す — それまでは思想しそう ではなく、ただの現実げんじつ に見み えている。マルクス以降いこう の用法ようほう が「当人とうにん に自覚じかく がない」ことを含意がんい するのは、この見み えなさを言い っている。
中立ちゅうりつ を装そう う言説げんせつ こそ、もっとも強力きょうりょく なイデオロギー として働はたら く。
評ひょう 論文ろんぶん の定型ていけい 的てき な主張しゅちょう である。「これは思想しそう だ」と名乗なの っているものは警戒けいかい されるが、「これは事実じじつ だ」「これは常識じょうしき だ」と名な 乗の らないものは疑うたが われないまま浸透しんとう する 。だから批判ひはん の矛ほこ 先さき は、声高こわだか な主張しゅちょう よりも自然しぜん に見み えるもの へ向む かう。14 の自明じめい 性せい 、19 の虚構きょこう と、同おな じ問題もんだい 圏けん にある。
△彼かれ の人生じんせい 観かん は独特どくとく なイデオロギー だ。
個人こじん の内面ないめん にとどまるものは「世界観せかいかん 」「信条しんじょう 」 である。イデオロギーは、集団しゅうだん の考かんが え方かた や行動こうどう を根底こんてい で制限せいげん する という社会的しゃかいてき な働はたら きを持も つときに使つか う。一人ひとり だけが持も つイデオロギーというものは、原則げんそく として無な い。働はたら く範囲はんい が個人こじん か集団しゅうだん か で選えら び分わ けたい。
原げん 書しょ の反はん 意い 語ご ・関連かんれん 語ご 関せき 82
コロケーション
イデオロギーの対立たいりつ 冷戦れいせん の記憶きおく 資本しほん 主義しゅぎ と社会しゃかい 主義しゅぎ の対立たいりつ を指さ す言い い方かた として定着ていちゃく した。この結むす びつきが重おも いのは、対立たいりつ していたのが利害りがい ではなく「世界せかい はどうあるべきか」の像ぞう だった からである。利害りがい は妥協だきょう できるが、像ぞう は妥協だきょう できない。イデオロギーが対立たいりつ を引ひ き起お こしやすいと言い われる理由りゆう は、争点そうてん が交渉こうしょう 可能かのう な水準すいじゅん に無な い というこの一点いってん に尽つ きる。
イデオロギー化か する動詞どうし 形けい の批判ひはん 思想しそう が他ほか のあらゆる思想しそう より優すぐ れていると思おも い込こ まれた状態じょうたい へ移うつ る ことを指さ す。重要じゅうよう なのは、この動詞どうし が思想しそう の中身なかみ ではなく扱あつか われ方ほう の変化へんか を言い っている点てん である。どんな思想しそう もイデオロギー化か しうるし、批判ひはん のための思想しそう さえ例外れいがい ではない。評ひょう 論文ろんぶん でこの語ご がもっとも鋭するど く働はたら くのは、その反転はんてん を指摘してき する場面ばめん である。
支配しはい 的てき イデオロギーマルクス以降いこう 支配しはい 階級かいきゅう の利益りえき をあたかも社会しゃかい 全体ぜんたい の普遍的ふへんてき な価値かち であるかのように見み せる仕組しく み を指さ す。1 の項こう で見み た「普遍ふへん を装そう う特殊とくしゅ 」と、これはまったく同おな じ構図こうず である。特殊とくしゅ な立場たちば を普遍ふへん の言葉ことば で語かた ること — キーワードどうしが遠とお くでつながる典型てんけい なので、1 に戻もど って読よ み直なお すとよい。
脱だつ イデオロギー中立ちゅうりつ という主張しゅちょう イデオロギーから自由じゆう になった、という宣言せんげん である。ところがこの宣言せんげん そのものが「中立ちゅうりつ はありうる」という一ひと つの立場たちば に立た っている。イデオロギーの外そと に出で たと言い う声こえ も、やはりどこかに立た って発はっ せられている。この自己じこ 言及げんきゅう の構造こうぞう は 18 の②と同型どうけい で、評ひょう 論文ろんぶん がこの語ご を扱あつか うときは、ほぼ必かなら ずその点てん を突つ いている。
格かく 硬かた 書か き言葉ことば 。会話かいわ では不自然ふしぜん 。
類るい 語ご と差さ
ドグマ 疑うたが いを許ゆる さない教義きょうぎ 内容ないよう の固定こてい に重心じゅうしん 。イデオロギーは集団しゅうだん の行動こうどう を規定きてい する働はたら きに重心じゅうしん 。
思想しそう 体系化たいけいか された考かんが え中立ちゅうりつ 語ご 。イデオロギーには〈凝こ り固かた まっている〉否定的ひていてき な含ふく みがある。
世界観せかいかん 世界せかい の捉とら え方ほう 全体ぜんたい 個人こじん にも使つか える。イデオロギーは集団的しゅうだんてき ・政治的せいじてき 。
信条しんじょう 個人こじん が信しん じて守まも る原則げんそく 個人こじん の内面ないめん 。イデオロギーは社会的しゃかいてき な機能きのう を持も つ。
EN ideologyZH 意识形态(イデオロギー, yìshí xíngtài)
21 ★★
疎外そがい ⚠
そがい [0] そ が い 平板へいばん 型がた
語ご 構成こうせい
疎そ うとい・とおざける + 外そと そと
定義ていぎ
①仲間なかま はずれにすること。
『現代げんだい 文ぶん キーワード読解どっかい 』1-1 ☑21
原げん 書しょ の解説かいせつ
疎そ 外がい は、日常的にちじょうてき な用法ようほう としては「俺おれ だけを疎そ 外はず して」というように、〈仲間なかま はずれにする〉 という意味いみ で用もち いられるが、評ひょう 論ろん で多おお く使つか われるのは②の方ほう であり、こちらは人間にんげん 疎そ 外がい とも言い う。
たとえば、本来ほんらい 、自分じぶん の感かん 性せい を込こ めるものであった物もの づくりという行為こうい も、人間にんげん のつくり上あ げた分業ぶんぎょう システムのもとでは、単たん なる一いち 工程こうてい を担にな う生産せいさん 活動かつどう になってしまう。そこでは、合理性ごうりせい や効率こうりつ 性せい が優先ゆうせん されるため、生産せいさん する人間にんげん の感かん 性せい や思おも いは、不要ふよう なものとして疎そ 外はず される。
このような疎そ 外がい (人間にんげん 疎そ 外がい )は、「人間にんげん が」「人間にんげん のつくり出だ したものに」仲間なかま はずれにされるということである。
コラム
現代げんだい の「経済けいざい 社会しゃかい 」は我々われわれ 人間にんげん が豊ゆた かに生活せいかつ するために作つく り出だ したものである。しかし我々われわれ は、就職しゅうしょく に苦労くろう し、やっと入はい った会社かいしゃ では仕事しごと に追お われ、疲労ひろう を押お して働はたら き、リストラにおびえ、給料きゅうりょう や労働ろうどう 条件じょうけん に不満ふまん を持も つ。このように、現代げんだい の経済けいざい システムにも、人間にんげん を疎そ 外はず しているという一いち 面めん があると言い える。
使用しよう の境界きょうかい ①仲間なかま はずれにすること。②人間にんげん が自みずか ら作つく り出だ したものが逆ぎゃく に人間にんげん を支配しはい し「人間にんげん らしさ」を奪うば うこと。評ひょう 論文ろんぶん では②。
用法ようほう 日常にちじょう 語ご では①(仲間なかま はずれ)だが、評ひょう 論文ろんぶん ではほぼ②で使つか われる。②の構造こうぞう が要点ようてん で、〈人間にんげん が作つく った〉ものが〈逆ぎゃく に人間にんげん を支配しはい する〉という反転はんてん が含ふく まれる。分業ぶんぎょう システム、経済けいざい システム、機械きかい 、制度せいど がその例れい 。したがって疎そ 外がい は誰だれ かの悪意あくい によるものではなく、人間にんげん の営いとな みそのものから生しょう じる。「疎そ 外がい 感かん 」だけは①の系列けいれつ で、心理的しんりてき な語ご として日常にちじょう でも使つか う。この二ふた つが同おな じ語幹ごかん で別べつ の層そう にある点てん に注意ちゅうい する。
用例ようれい
機械きかい ある者もの は必かなら ず機き 事こと あり。機き 事こと ある者もの は必かなら ず機き 心こころ あり。機き 心こころ 胸中きょうちゅう に存あり すれば、則そく ち純白じゅんぱく 備そなえ わらず。『荘子そうし 』天地てんち 篇へん
畑はたけ に水みず をやるのに便利べんり な仕掛しか けを勧すす められた老人ろうじん が、それを断ことわ って言い う言葉ことば である。機械きかい を持も てば機械きかい に合あ った仕事しごと のしかたが生う まれ、それに合あ った心こころ が生う まれる 。順序じゅんじょ が大切たいせつ だ。人ひと が機械きかい を使つか うところから始はじ まって、最後さいご には機械きかい のほうが人ひと の心こころ の形かたち を決き めている 。これが疎そ 外がい の第だい 二に の意味いみ — 「人間にんげん が」「人間にんげん の作つく り出だ したものに」仲間なかま はずれにされるという反転はんてん そのものである。注目ちゅうもく すべきは、この反転はんてん に悪意あくい も強制きょうせい も一切いっさい 登場とうじょう しない点てん だ。誰だれ も老人ろうじん を支配しはい しようとしていない。便利べんり さを受う け取と るだけで反転はんてん は起お きる。疎そ 外がい が誰だれ かの責任せきにん にできない理由りゆう が、二千年にせんねん 前まえ の一節いっせつ に尽つ くされている。
曾か つてわれらの師父しふ たちは乏とぼ しいながら可成かなり 楽らく しく生い きてゐたそこには芸術げいじゅつ も宗教しゅうきょう もあったいまわれらにはただ労働ろうどう が 生存せいぞん があるばかりである宮沢賢治みやざわけんじ 『農民のうみん 芸術げいじゅつ 概がい 論ろん 綱要こうよう 』序論じょろん (1926)
「ただ労働ろうどう が 生存せいぞん があるばかりである」— 労働ろうどう から芸術げいじゅつ が剥は がれ落お ちた と賢治けんじ は言い っている。原げん 書しょ が挙あ げる例れい と正確せいかく に重かさ なる。本来ほんらい は自分じぶん の感かん 性せい を込こ める行為こうい だった物もの づくりが、分業ぶんぎょう のもとでは一いち 工程こうてい を担にな うだけの生産せいさん 活動かつどう になる。そこでは合理性ごうりせい と効率こうりつ が優先ゆうせん され、作つく る者もの の感かん 性せい は不要ふよう なものとして押お し出だ される 。賢治けんじ が「乏とぼ しいながら」とわざわざ断ことわ ったのが効き いている。疎そ 外がい は貧まず しさの問題もんだい ではない 。豊ゆた かになりながら失うしな われるものがある、という指摘してき であり、ここは 18 の逆説ぎゃくせつ の構造こうぞう とも重かさ なっている。16 の項こう で引ひ いた「求道きゅうどう すでに道みち である」は、同おな じ文章ぶんしょう がこの疎そ 外がい に対たい して差さ し出だ した答こた えのほうである。
効率こうりつ のために設計せっけい された仕組しく みが、いつのまにか働はたら く者もの を疎そ 外がい している。
評ひょう 論文ろんぶん の典型的てんけいてき な形かたち である。主語しゅご が人ひと ではなく仕組しく みである ことに注意ちゅうい したい。疎そ 外がい は誰だれ かが誰だれ かを仲間なかま はずれにする行為こうい ではなく、人ひと が作つく ったものが自立じりつ して人ひと を支配しはい する構造こうぞう を指さ す。だから「〜が疎そ 外はず する」の主語しゅご には、制度せいど ・システム・機械きかい ・市場しじょう といった人工物じんこうぶつ が置お かれるのがふつうである。
×新しん 入はい りの彼かれ は先輩せんぱい たちから疎そ 外がい されている構造的こうぞうてき な問題もんだい だ。
仲間なかま はずれの意い (①)と構造こうぞう の意い (②)が一文いちぶん のなかで混ま ざってしまっている 。先輩せんぱい たちという人間にんげん が主語しゅご なら、それは①であり「排除はいじょ 」「疎そ 外がい 感かん 」の系列けいれつ の話はなし である。「構造的こうぞうてき 」と言い うなら主語しゅご は仕組しく みでなければならない。この語ご は二ふた つの層そう を持も つので、どちらで使つか っているかを一文いちぶん の中なか で統一とういつ する 必要ひつよう がある。
派生はせい 形けい
疎外感そがいかん [3] 「感かん 」が付つ くと構造こうぞう の話はなし から心理しんり の話はなし へ完全かんぜん に移うつ る 。この形かたち だけが日常にちじょう 語ご として通用つうよう しており、会話かいわ で使つか われる疎そ 外がい はほぼこれである。評ひょう 論文ろんぶん の疎そ 外がい と地続じつづ きに見み えて層そう が違ちが うので、同おな じ語幹ごかん に引ひ きずられて読よ むと誤読ごどく する 。
人間疎外にんげんそがい [0] ②の意味いみ であることを語形ごけい で確定かくてい させる複合ふくごう 語ご 。「疎そ 外がい 」だけでは①と紛まぎ れるため、学術がくじゅつ 文ぶん はこの形かたち を選えら ぶ 。語ご を長なが くすることで曖昧あいまい さを削けず る、術語じゅつご づくりのごく標準的ひょうじゅんてき な手て つきである。
疎外するそがいする サ変動へんどう 詞し 。①では人ひと が主語しゅご に立た つが、②では制度せいど ・機械きかい ・システムといった人工物じんこうぶつ が主語しゅご に立た つ 。主語しゅご に何なに が来く るかを見み るだけで、どちらの意味いみ で使つか われているかがほぼ判定はんてい できる — この語ご の読解どっかい 上じょう もっとも実用的じつようてき な手て がかりである。
コロケーション
人間にんげん 疎そ 外がい ②の指定してい 「人間にんげん 」を冠かんむり することで、①(仲間なかま はずれ)ではなく②(自作じさく 物ぶつ による支配しはい )だ と明示めいじ する働はたら きがある。興味深きょうみぶか いのは、疎そ 外はず する側がわ もされる側がわ も人間にんげん だという点てん で、この語ご は人間にんげん が人間にんげん を人間にんげん から遠とお ざける という三重さんじゅう の関係かんけい を四よん 文字もじ に畳たた んでいる。評ひょう 論文ろんぶん でこの形かたち が出で たら、文脈ぶんみゃく は必かなら ず近代きんだい の労働ろうどう や技術ぎじゅつ のほうへ向む かう。
疎そ 外がい 感かん ①の系列けいれつ 同おな じ語幹ごかん でありながら、こちらは心理しんり の語ご で、日常にちじょう 会話かいわ でも使つか える。②が構造こうぞう の記述きじゅつ であるのに対たい し、これは当人とうにん が感かん じている状態じょうたい を言い う。②の疎そ 外がい は、しばしば疎そ 外がい 感かん を伴ともな わない — 仕組しく みに組く み込こ まれていることに気き づかないまま快適かいてき に働はたら くこともできるからだ。この食く い違ちが いこそ、②を論ろん じる意味いみ がある理由りゆう である。
自己じこ 疎そ 外がい 再帰さいき の形かたち 自分じぶん が作つく ったものによって、自分じぶん が自分自身じぶんじしん から遠とお ざけられる状態じょうたい を指さ す。「自己じこ 」が付つ くことで、疎そ 外がい の輪わ が閉と じる。16 の自己じこ 目的もくてき 化か と同おな じく、再帰さいき の構造こうぞう が語ご の中心ちゅうしん にある 。外そと に敵てき を見み つけられないという点てん で、この形かたち はもっとも解と きにくい疎そ 外がい を名指なざ している。
物象ぶっしょう 化か 対たい で使つか う語ご 人ひと と人ひと との関係かんけい が、あたかも物もの の性質せいしつ であるかのように現あらわ れる ことを指さ す。賃金ちんぎん は本来ほんらい 、雇やとい う者もの と働はたら く者もの の関係かんけい だが、「この仕事しごと の値段ねだん 」という物もの の属性ぞくせい のように見み える。疎そ 外がい が人ひと が押お し出だ される側がわ を、物象ぶっしょう 化か が関係かんけい が物もの に見み える側がわ を言い う。同おな じ事態じたい の二ふた つの面めん なので、評ひょう 論文ろんぶん ではしばしば並なら べて現あらわ れる。
格かく 硬かた ・学術がくじゅつ 論文ろんぶん ・評ひょう 論ろん でのみ使つか う。会話かいわ では不自然ふしぜん 。
類るい 語ご と差さ
排除はいじょ 外そと へ出だ す行為こうい の記述きじゅつ 。疎そ 外がい ②は構造こうぞう の記述きじゅつ で、誰だれ かが意図いと して行おこな うのではない。
孤立こりつ つながりを失うしな う 状態じょうたい 。疎そ 外がい ②は自分じぶん が作つく ったものに支配しはい されるという因果いんが を含ふく む。
物象ぶっしょう 化か 人ひと と人ひと の関係かんけい がものとして現あらわ れる疎そ 外がい と対たい で使つか われるマルクスの語ご 。関係かんけい が物もの の性質せいしつ のように見み えることを指さ す。
非ひ 人間にんげん 化か 人間にんげん らしさが失うしな われる結果けっか の記述きじゅつ 。疎そ 外がい は原因げんいん の構造こうぞう (自作じさく 物ぶつ による支配しはい )を含ふく む。
EN alienationZH 异化(疎外, yìhuà)
日中にっちゅう のズレ
哲学てつがく 語ご としての「疎そ 外がい 」は、中国語ちゅうごくご では 异化(yìhuà) 。
中国語ちゅうごくご の 疏远(shūyuǎn)は日常にちじょう 語ご で「よそよそしくする」。日本語にほんご の「疎そ 外がい 」②の意味いみ は含ふく まない。
疎外の循環を示した図 人が仕組みを作り、仕組みが自立し、やがて作り手である人を支配して人らしさを押し出す、という循環を示す。
人間が、人間の作り出したものに、仲間はずれにされる 人 感性を込める 仕組み 分業・制度・機械 つくる 効率と合理性が優先され、感性は不要として押し出される ① 仲間はずれにすること 主語は人。日常語。心理の層 ──「疎外感」 ② 人間疎外 主語は仕組み。評論語。構造の層 ── 悪意も強制も要らない
疎そ 外がい の循環じゅんかん と、二ふた つの層そう
Section 13
概念がいねん /観念かんねん /理念りねん /絶対ぜったい /相対そうたい
22 ★★
概念がいねん
がいねん [1] が い ね ん 頭高あたまだか 型がた
語ご 構成こうせい
概がい おおむね・あらまし + 念ねん おもい
定義ていぎ
言葉ことば や対象たいしょう の意味いみ 内容ないよう のこと。
『現代げんだい 文ぶん キーワード読解どっかい 』1-1 ☑22
使用しよう の境界きょうかい 言葉ことば や対象たいしょう の意味いみ 内容ないよう 。頭あたま の中なか の像ぞう ではない。一般性いっぱんせい ・客観きゃっかん 性せい がある。個人こじん の思おも い込こ みは「観念かんねん 」。
用法ようほう 「概念がいねん 」は〈言葉ことば が指さ し示しめ す意味いみ 内容ないよう 〉であり、一般性いっぱんせい と客観きゃっかん 性せい を持も つ。だから「抽象ちゅうしょう 概念がいねん 」という結むす びつきが自然しぜん になる。評ひょう 論文ろんぶん では「〜という概念がいねん 」の形かたち で、その語ご が指さ す内容ないよう 全体ぜんたい を取と り出だ す時とき に使つか う。「概念的がいねんてき に理解りかい する」は、具体例ぐたいれい を通とお さずに意味いみ 内容ないよう だけで把握はあく することを言い い、否定的ひていてき に響ひび くこともある。「概念がいねん を規定きてい する」「概念がいねん を拡張かくちょう する」のように、輪郭りんかく を操作そうさ する動詞どうし と結むす びつく。
用例ようれい
筌うえ は魚さかな を得え る所以ゆえん なり、魚さかな を得とく て筌うえ を忘わす る。……言げん は意い を得え る所以ゆえん なり、意い を得とく て言げん を忘わす る。『荘子そうし 』外物がいぶつ 篇へん
筌うえ (うえ)は魚さかな を捕と る仕掛しか けで、魚さかな が捕と れたら忘わす れてよい。同おな じように言葉ことば は意味いみ を捕と らえる仕掛しか けにすぎない、という。ここで荘子そうし は言葉ことば と意味いみ 内容ないよう を明確めいかく に切き り離はな している 。概念がいねん とは、まさにこの「意い 」の側がわ — 言葉ことば が指さ し示しめ す意味いみ 内容ないよう のことである。注意ちゅうい したいのは、切き り離はな せると言い った時点じてん で、意味いみ 内容ないよう は言葉ことば から独立どくりつ して立た つもの になっている点てん だ。独立どくりつ して立た つからこそ、他人たにん と共有きょうゆう でき、別べつ の言葉ことば で言い い直なお すこともできる。概念がいねん に一般性いっぱんせい と客観きゃっかん 性せい があるという性質せいしつ は、この独立どくりつ からまっすぐ導みちび かれる。頭あたま の中なか にとどまって出で てこない像ぞう (=観念かんねん )とは、ここで分わ かれる。
名な に固かた より宜ぎ しき無な し。之の に約やく して以もっ て命いのち づく。約定やくじょう まり俗ぞく 成な る、之これ を宜ぎ と謂い ふ。『荀子じゅんし 』正名せいめい 篇へん
ある名な がその物もの にふさわしい理由りゆう は、もともと備そなえ わっているのではない。取と り決き めて名な づけ、その取と り決き めが定着ていちゃく したときにはじめて「ふさわしい」と呼よ ばれる のだ、という。「約定やくじょう まり俗ぞく 成な る(約定やくじょう 俗ぞく 成せい )」の四字よじ が要よう である。ここから、概念がいねん の客観きゃっかん 性せい がどこから来く るかが分わ かる。自然しぜん が保証ほしょう しているのではなく、共有きょうゆう されているという事実じじつ が保証ほしょう している 。だから概念がいねん は書か き換か えられる。評ひょう 論文ろんぶん で「〜という概念がいねん は近代きんだい の産物さんぶつ である」といった言い い方かた が成な り立た つのは、この性格せいかく ゆえである。5 の項こう で見み た『論語ろんご 』の正名せいめい が〈名な が正ただ しくあること〉を秩序ちつじょ の条件じょうけん としたのに対たい し、荀子じゅんし はその「正ただ しさ」の根拠こんきょ が慣習かんしゅう にある と一歩いっぽ 踏ふ み込こ んでいる。
「個人こじん 」という概念がいねん は、近代きんだい のヨーロッパで形かたち をとったものである。
「〜という概念がいねん 」は評ひょう 論文ろんぶん の基本きほん 形けい で、その語ご が指さ す意味いみ 内容ないよう を、語ご ごと丸まる ごと取と り出だ して観察かんさつ の台だい に載の せる 働はたら きをする。9 の項こう でいう対象たいしょう 化か が、ここでは言葉ことば に対たい して行おこな われている。「個人こじん が近代きんだい に生う まれた」と書か くと人ひと が生う まれた話はなし になるが、「個人こじん という概念がいねん が」と書か けば、人ひと を個人こじん として捉とら える枠組わくぐ みのほうが生う まれた という正確せいかく な主張しゅちょう になる。
×彼かれ の頭あたま の中なか には奇妙きみょう な概念がいねん があった。
頭あたま の中なか だけにあって共有きょうゆう されていないものは「観念かんねん 」 である。概念がいねん は言葉ことば の意味いみ 内容ないよう であり、他人たにん と分ぶん かち持も てることがその条件じょうけん になる。一人ひとり だけが抱かか えている概念がいねん というものは、原則げんそく として無な い。「他人たにん に説明せつめい できるか」を問と えば、概念がいねん と観念かんねん はほぼ確実かくじつ に分わ かれる 。
派生はせい 形けい
概念的がいねんてき [0] 肯定こうてい にも否定ひてい にも転ころ ぶ やっかいな形かたち 。「概念的がいねんてき な整理せいり 」は褒ほ め言葉ことば 、「概念的がいねんてき な議論ぎろん 」はしばしば「具体ぐたい を欠か いた議論ぎろん 」という批判ひはん になる。1 の項こう で見み た「抽象的ちゅうしょうてき 」とまったく同おな じ振ふ る舞ま いをする。
概念化がいねんか [0] 「化か 」が操作そうさ を指さ す。ばらばらの経験けいけん を、名な を持も つひとつのまとまりへ仕立した てる作業さぎょう である。「ハラスメント」という語ご ができた瞬間しゅんかん に、それまで我慢がまん するしかなかった出来事できごと が語かた れるものへ変か わった — 概念化がいねんか はそういう力ちから を持も つ。
概念装置がいねんそうち 「装置そうち 」が付つ くことで、概念がいねん が理解りかい のための道具どうぐ として扱あつか われる 。真理しんり かどうかではなく、それを使つか うと何なに が見み えるようになるかで評価ひょうか する見方みかた で、社会しゃかい 科学かがく の文章ぶんしょう に多おお い。道具どうぐ である以上いじょう 、場面ばめん ごとに取と り替か えてよい という含ふく みも伴ともな う。
コロケーション
概念がいねん を規定きてい する輪郭りんかく を引ひ く「規定きてい 」は範囲はんい を定さだ めること。概念がいねん にはどこまでがそれでどこからが違ちが うか という境目さかいめ があり、それを言葉ことば で引ひ くのがこの作業さぎょう である。論文ろんぶん が冒頭ぼうとう でこれを行おこな うのは儀ぎ 礼れい ではない。境目さかいめ を引ひ かないまま議論ぎろん を進すす めると、同おな じ語ご で別べつ のものを論ろん じてしまう からで、評ひょう 論文ろんぶん の読解どっかい でも、筆者ひっしゃ がどこで境さかい を引ひ いたかを押お さえるのが第一だいいち 歩ほ になる。
抽象ちゅうしょう 概念がいねん 重かさ なりの理由りゆう 4 の抽象ちゅうしょう と結むす びつくのは偶然ぐうぜん ではない。概念がいねん は複数ふくすう の個別こべつ から共通点きょうつうてん を抜ぬ き出だ して作つく られるので、作つく られ方ほう そのものが抽象ちゅうしょう という操作そうさ だからである。したがって「抽象ちゅうしょう 概念がいねん 」は厳密げんみつ には重複ちょうふく 表現ひょうげん に近ちか い。それでも定着ていちゃく しているのは、とりわけ具体ぐたい から遠とお い概念がいねん を区別くべつ して呼よ びたい場面ばめん があるためで、「正義せいぎ 」「自由じゆう 」といった語ご がこれにあたる。
概念的がいねんてき に理解りかい する評価ひょうか の揺ゆ れ具体例ぐたいれい を通とお さず意味いみ 内容ないよう だけで把握はあく することを言い う。褒ほ め言葉ことば にも批判ひはん にもなる点てん が扱あつか いにくい。効率こうりつ よく核心かくしん をつかんだ、とも読よ めるし、実感じっかん を欠か いた上うえ 滑すべ りの理解りかい だ、とも読よ める。判定はんてい はほぼ前後ぜんご の文脈ぶんみゃく で決き まるが、評ひょう 論文ろんぶん では後者こうしゃ 、すなわち批判ひはん として現あらわ れることが多おお い 。3 の具体ぐたい の項こう と合あ わせて読よ むと理由りゆう が分わ かる。
概念がいねん の拡張かくちょう 境目さかいめ の移動いどう 規定きてい によって引ひ いた境目さかいめ を、あとから広ひろ げて別べつ の対象たいしょう まで含ふく める 操作そうさ である。「家族かぞく 」という概念がいねん を血縁けつえん の外そと へ広ひろ げる、「労働ろうどう 」を賃金ちんぎん の外そと へ広ひろ げる — 評ひょう 論文ろんぶん の主要しゅよう な仕事しごと のひとつがこれで、28 の敷衍ふえん とも接せっ している。広ひろ げられた概念がいねん は、もとの語ご の重おも みを新あたら しい対象たいしょう へ運はこ び込こ む — そこに論ろん の力ちから が生う まれる。
格かく 硬かた 書か き言葉ことば 。会話かいわ では不自然ふしぜん 。
類るい 語ご と差さ
観念かんねん 頭あたま の中なか にある像ぞう 主観しゅかん に属ぞく する。概念がいねん は共有きょうゆう されるもの。この差さ が確認かくにん テストの設問せつもん になる。
理念りねん こうあるべきという考かんが え 当為とうい (すべき)を含ふく む。概念がいねん は記述きじゅつ のみ。
定義ていぎ 意味いみ を限定げんてい した言い い方かた 言葉ことば での限定げんてい 。概念がいねん は限定げんてい される対象たいしょう そのもの。
コンセプト 概念がいねん 外来語がいらいご 。企画きかく ・設計せっけい の中心ちゅうしん 的てき な考かんが えという実務じつむ 的てき な用法ようほう が強つよ い。
EN conceptZH 概念(概念, gàiniàn)
23 ★★
観念かんねん
かんねん [1] か ん ね ん 頭高あたまだか 型がた
定義ていぎ
人間にんげん の、頭あたま の中なか の考かんが えのこと。
『現代げんだい 文ぶん キーワード読解どっかい 』1-1 ☑23
使用しよう の境界きょうかい 頭あたま の中なか にある像ぞう や意識いしき 内容ないよう 。〈個人的こじんてき な思おも い込こ み〉〈先入観せんにゅうかん 〉の響ひび きを含ふく みうる。概念がいねん とは客観きゃっかん 性せい の有無うむ で分わ かれる。
用法ようほう 「観念かんねん 的てき 」は評ひょう 論文ろんぶん でほぼ常つね に批判ひはん 語ご で、〈現実げんじつ から離はな れて頭あたま の中なか だけで組く み立た てられている〉ことを意味いみ する。「観念論かんねんろん 」は哲学てつがく の立場たちば 名めい (実在じつざい よりも意識いしき を先さき に置お く)で、批判ひはん 語ご としての「観念かんねん 的てき 」とは別べつ 。「固定こてい 観念かんねん 」「罪つみ の観念かんねん 」のように複合ふくごう 語ご で使つか われることが多おお く、単独たんどく の「観念かんねん 」は硬かた い。「観念かんねん する」という別語べつご (あきらめる)があるので、動詞どうし 形けい では使つか わない。
用例ようれい
貫之つらゆき は下手へた な歌うた よみにて古今ここん 集しゅう はくだらぬ集しゅう に有之候これありそうろう 。正岡まさおか 子規しき 『歌うた よみに与よ ふる書しょ 』(1898)
千せん 年ねん ものあいだ和歌わか の規範きはん とされてきた『古今ここん 集しゅう 』を、一行いちぎょう で切き って捨す てた有名ゆうめい な冒頭ぼうとう である。子規しき がここで壊こわ しているのは歌うた の良よ し悪あ しではない。「古今ここん 集しゅう は優すぐ れている」という疑うたが われないまま受う け継つ がれてきた像ぞう — すなわち固定こてい 観念かんねん のほうである。注目ちゅうもく したいのは、子規しき がまず乱らん 暴ぼう なほど断定だんてい した という手て つきだ。観念かんねん は理屈りくつ で少すこ しずつ削けず っても揺ゆ るがない。積つ み上あ がった時間じかん そのものが支ささ えになっているからで、それを外はず すには同おな じ大おお きさの断定だんてい をぶつけるしかない 。14 の自明じめい 性せい が出来事できごと によって破やぶ れたのに対たい し、こちらは言葉ことば の暴力ぼうりょく によって破やぶ られている 。
経験けいけん するといふのは事実じじつ 其その 儘まま に知し るの意い である。全まった く自己じこ の細工さいく を棄き てて、事実じじつ に従したが うて知し るのである。西田にしだ 幾多郎きたろう 『善ぜん の研究けんきゅう 』(1911)
「自己じこ の細工さいく 」— これが観念かんねん のことだと読よ める。私わたし たちは何なに かを見み るとき、すでに頭あたま の中なか にある像ぞう に当あ てはめて見み ている。西田にしだ はそれをいったん全部ぜんぶ 外はず せ、と言い う。観念かんねん を捨す てたところに残のこ るものを、彼かれ は「純粋じゅんすい 経験けいけん 」と呼よ んだ 。ここから、観念かんねん という語ご の性格せいかく がはっきりする。観念かんねん は事実じじつ の前まえ に立た ちはだかるもの であって、事実じじつ から取と り出だ されたものではない。だから「観念かんねん 的てき 」は評ひょう 論文ろんぶん でほぼ常つね に批判ひはん 語ご になる。一方いっぽう 、22 の概念がいねん は事実じじつ から抜ぬ き出だ されたものだから、この批判ひはん を受う けない。どちらを向む いているか — 事実じじつ から出で てきたのか、事実じじつ へ被ひ せているのか で二に 語ご は分わ かれる。
その議論ぎろん は観念かんねん 的てき にすぎ、現場げんば で何なに が起お きているかに触ふ れていない。
評ひょう 論文ろんぶん における「観念かんねん 的てき 」の典型的てんけいてき な使つか われ方ほう である。間違まちが っているとは言い っていない点てん に注意ちゅうい したい。筋すじ は通とお っているかもしれないが、頭あたま の中なか だけで組く み立た てられていて事実じじつ と噛か み合あ っていない、という批判ひはん である。「非ひ 論理的ろんりてき だ」とはまったく別べつ の指摘してき なので、設問せつもん ではこの区別くべつ が問と われる。
×共有きょうゆう された観念かんねん として定義ていぎ を確認かくにん しておこう。
共有きょうゆう され、定義ていぎ され、客観きゃっかん 性せい を持も つのは「概念がいねん 」 のほうである。観念かんねん は個人こじん の内側うちがわ にある像ぞう で、定義ていぎ になじまない。「共有きょうゆう 」「定義ていぎ 」「規定きてい 」といった語ご が近ちか くにあれば、選えら ぶべきは概念がいねん である。確認かくにん テストで直接ちょくせつ 問と われる区別くべつ なので、この組く み合あ わせごと覚おぼ えておきたい。
原げん 書しょ の反はん 意い 語ご ・関連かんれん 語ご 関せき 65
派生はせい 形けい
観念的かんねんてき [0] 評ひょう 論文ろんぶん ではほぼ常つね に批判ひはん 語ご として働はたら く、珍めずら しく評価ひょうか の固定こてい した「的てき 」形かたち である。「概念的がいねんてき 」が肯定こうてい にも転ころ ぶのと対照的たいしょうてき で、この差さ はそのまま二に 語ご の意味いみ の差さ に由来ゆらい している。
固定観念こていかんねん [0] 複合ふくごう 語ご になることで、批判ひはん の対象たいしょう がはっきり名指なざ しできる ようになる。「観念かんねん を捨す てよ」では何なに を指さ すか分わ からないが、「固定こてい 観念かんねん を捨す てよ」なら分わ かる。語ご を長なが くして曖昧あいまい さを削けず る手て つきは、21 の「人間にんげん 疎そ 外がい 」と同おな じである。
観念論かんねんろん [0] 「論ろん 」が付つ くと立場たちば の名な になる。唯物論ゆいぶつろん の対たい として使つか われる術語じゅつご で、日常にちじょう 語ご の「観念かんねん 的てき 」とは無関係むかんけい 。英語えいご ではどちらも idealism / ideal に近ちか い形かたち をとるため、翻訳ほんやく の場面ばめん で混乱こんらん が起お きやすい。
観念するかんねんする まったく別語べつご で、「あきらめる」の意い 。仏教ぶっきょう 語ご の「観念かんねん (心こころ を集中しゅうちゅう して仏ほとけ を念ねん じる)」から転てん じたもので、名詞めいし の観念かんねん とは系統けいとう が違ちが う。この語幹ごかん で動詞どうし 形けい を使つか うと必かなら ずこちらに読よ まれる ので、評ひょう 論文ろんぶん では動詞どうし にしない。
コロケーション
固定こてい 観念かんねん 時間じかん の堆積たいせき 「固定こてい 」は動うご かないこと。観念かんねん そのものは動うご きうるが、長なが く問と われないと固かた まる という含ふく みがここにある。興味深きょうみぶか いのは、固かた まった理由りゆう がふつう正ただ しさではなく反復はんぷく だという点てん である。くり返かえ し目め にしたものを人ひと は疑うたが わなくなる。14 の自明じめい 性せい ときわめて近ちか い場所ばしょ にあるが、自明じめい 性せい が社会しゃかい の側がわ の状態じょうたい を指さ すのに対たい し、こちらは個人こじん の内側うちがわ の状態じょうたい を指さ す。
観念かんねん 的てき な議論ぎろん 批判ひはん の定型ていけい ほぼ固定こてい した批判ひはん の言い い回まわ しで、「現実げんじつ から離はな れて頭あたま の中なか だけで組く み立た てられている」 ことを意味いみ する。効き くのは、この批判ひはん が論ろん の中身なかみ に踏ふ み込こ まずに済す む からでもある。それゆえ乱用らんよう されやすい。評ひょう 論文ろんぶん を読よ むときは、筆者ひっしゃ がこの語ご を使つか ったあとに実際じっさい に現実げんじつ の側がわ の材料ざいりょう を出だ しているかどうかを見み ておくとよい。
観念論かんねんろん 立場たちば の名な 批判ひはん 語ご の「観念かんねん 的てき 」とはまったく別物べつもの である。意識いしき のほうを実在じつざい より先さき に置お く哲学てつがく の立場たちば を指さ し、唯物論ゆいぶつろん と対たい になる。この語ご が現あらわ れたら文章ぶんしょう は哲学史てつがくし の話はなし をしている。同おな じ語幹ごかん で、片方かたほう は罵倒ばとう 語ご 、もう片方かたほう は中立ちゅうりつ の学術がくじゅつ 語ご — こういう分裂ぶんれつ は漢語かんご ではしばしば起お こる。
罪つみ の観念かんねん 内面化ないめんか された規範きはん 「罪つみ という概念がいねん 」とは言い わず「罪つみ の観念かんねん 」と言い うのは、それが定義ていぎ され共有きょうゆう されたものというより、一人ひとり ひとりの内側うちがわ に住す みついたもの だからである。宗教しゅうきょう 論ろん や文化ぶんか 論ろん でこの形かたち が多おお いのは、規範きはん が知識ちしき としてではなく感かん じ方ほう として身み についている層そう を指さ したいときに使つか えるためだ。
格かく 硬かた 書か き言葉ことば 。会話かいわ では不自然ふしぜん 。
類るい 語ご と差さ
概念がいねん 言葉ことば の意味いみ 内容ないよう 共有きょうゆう される客観的きゃっかんてき な内容ないよう 。観念かんねん は個人こじん の内側うちがわ にある。
表象ひょうしょう 心こころ に思おも い浮う かべられた像ぞう 心理学しんりがく ・哲学てつがく の語ご 。像ぞう であることに重心じゅうしん 。観念かんねん は判断はんだん や信念しんねん も含ふく む。
先入観せんにゅうかん あらかじめ持も っている偏かたよ り 否定的ひていてき な語ご 。観念かんねん はそこまで否定的ひていてき とは限かぎ らない。
イメージ 思おも い浮う かぶ姿すがた 外来語がいらいご で日常的にちじょうてき 。観念かんねん より軽かる く、判断はんだん を含ふく まない。
EN idea / notionZH 观念(観念, guānniàn)
24 ★★
理念りねん
りねん [1] り ね ん 頭高あたまだか 型がた
定義ていぎ
ある物事ものごと についての、こうあるべきだという根本こんぽん の考かんが え。
『現代げんだい 文ぶん キーワード読解どっかい 』1-1 ☑24
使用しよう の境界きょうかい こうあるべきだという根本こんぽん の考かんが え。実践じっせん において目指めざ す究極きゅうきょく の目標もくひょう 。「理想りそう 」より使命しめい 感かん ・義務ぎむ 感かん が強つよ い。
用法ようほう 「掲かか げる」との結むす びつきが強つよ く、「理念りねん を掲かか げる」がほぼ固定こてい した言い い方かた になる。組織そしき や制度せいど が公おおやけ に示しめ す原則げんそく を指さ すため、「理念りねん と現実げんじつ の乖離かいり 」という批判ひはん の型かた が生う まれる。理念りねん は実現じつげん していないことが前提ぜんてい で、それでも目指めざ すべきものとして立た てられる。だから「単たん なる飾かざ り」と批判ひはん されることもある。「理想りそう 」との違ちが いは、理想りそう が望のぞ ましさの話はなし であるのに対たい し、理念りねん は〈そうすべき〉という当為とうい を含ふく む点てん にある。
用例ようれい
大学だいがく の道みち は、明徳めいとく を明あき らかにするに在あ り、民みん に親した しむに在あ り、至し 善ぜん に止と まるに在あ り。『大学だいがく 』経一けいいち 章しょう
学問がくもん というものが何なに のためにあるのかを、三みっ つの「在あ り」で言い い切き った一文いちぶん である。これは記述きじゅつ ではなく当為とうい — 「こうあるべきだ」という宣言せんげん である。ここが理念りねん という語ご の核心かくしん にあたる。「大学だいがく ではこういうことが行おこな われている」と書か けば概念がいねん の話はなし になるが、「〜に在あ り」と書か けば、まだ実現じつげん していなくても、それでも目指めざ すべきものとして立た てられる 。そして三みっ つ目め の「至し 善ぜん に止と まる」が効き いている。至し 善ぜん は到達点とうたつてん であり、そこに止と まれと言い う。理念りねん が実践じっせん の究極きゅうきょく 目標もくひょう であって、途中とちゅう の方針ほうしん ではない ことが、この語順ごじゅん に表あらわ れている。
一いち 、広こう ク会議かいぎ ヲ興きょう シ万まん 機き 公こう 論ろん ニ決けつ スヘシ五ご 箇条かじょう の御誓文ごせいもん (1868)
明治めいじ 政府せいふ が発足ほっそく にあたって掲かか げた五ご 箇条かじょう の第一だいいち である。掲かか げられた時点じてん で、この国くに に「広こう ク会議かいぎ 」など無な かった 。それでも掲かか げられている — ここに理念りねん という語ご のすべてがある。理念りねん は実現じつげん していないことを前提ぜんてい として立た てられる 。だからこそ「理念りねん と現実げんじつ の乖離かいり 」という批判ひはん の型かた が必かなら ず生う まれるのだが、その批判ひはん は理念りねん を無意味むいみ にはしない。乖離かいり を指摘してき できるのは、理念りねん という物差ものさ しがすでに立た っているから である。「単たん なる飾かざ りだ」という批判ひはん と、「飾かざ りにされているのが問題もんだい だ」という批判ひはん はまったく別べつ のもので、評ひょう 論文ろんぶん が問と うのはたいてい後者こうしゃ のほうである。
創業そうぎょう 以来いらい の理念りねん を掲かか げつつ、実際じっさい の運用うんよう はそこから遠とお く離はな れている。
「掲かか げる」との結むす びつきが固定こてい していることに注意ちゅうい したい。理念りねん は必かなら ず外そと へ向む けて示しめ される 。内心ないしん にとどまるものは信条しんじょう であって理念りねん ではない。示しめ されるからこそ照合しょうごう が可能かのう になり、乖離かいり という批判ひはん が成な り立た つ 。この一文いちぶん の後半こうはん は、その照合しょうごう を行おこな っている。
△彼かれ の理念りねん は、いつか自分じぶん の店みせ を持も つことだった。
個人こじん が思おも い描えが く望のぞ ましい状態じょうたい は「理想りそう 」 である。理念りねん は、組織そしき や制度せいど が公おおやけ に示しめ す根本こんぽん の原則げんそく で、「そうすべきだ」という義務ぎむ の色いろ を帯お びる。「理想りそう を追お う」と「理念りねん を掲かか げる」— 動詞どうし が違ちが うことが、そのまま語ご の違ちが いを示しめ している 。
原げん 書しょ の反はん 意い 語ご ・関連かんれん 語ご 関せき 理想りそう /イデア
派生はせい 形けい
理念的りねんてき [0] 使用しよう 頻度ひんど は高たか くない。あえて使つか うと「現実げんじつ にはそうなっていないが」という留保りゅうほ が前面ぜんめん に出で る ため、「理念りねん 的てき には正ただ しい」はしばしば実質的じっしつてき な否定ひてい として働はたら く。褒ほ めながら退しりぞ ける、便利べんり で狡ずる い形かたち である。
教育理念きょういくりねん [0] 分野ぶんや 名めい を冠かんむり する複合ふくごう 語ご がとりわけ多おお いのがこの語ご の特徴とくちょう で、「企業きぎょう 理念りねん 」「建学けんがく の理念りねん 」なども同おな じ作つく りである。理念りねん は必かなら ず「何なん についての理念りねん か」を要求ようきゅう する ためで、単独たんどく で立た てるとほとんど中身なかみ を持も たない。
イデー ドイツ語ご Idee の音訳おんやく で、哲学てつがく 書しょ の翻訳ほんやく 文体ぶんたい に現あらわ れる。理念りねん ・観念かんねん ・イデアがすべてこの一語いちご に対応たいおう しうる ため、訳語やくご を見み ただけでは元もと の含ふく みが決き まらない。哲学てつがく 系けい の評ひょう 論文ろんぶん で読よ みにくさを感かん じたら、この重かさ なりを疑うたが ってみるとよい。
コロケーション
理念りねん を掲かか げるほぼ固定こてい した形かたち 「掲かか げる」は旗はた や看板かんばん を高たか い所しょ に示しめ す動詞どうし である。見み えるようにすることが理念りねん の条件じょうけん だという事実じじつ が、この動詞どうし の選択せんたく に表あらわ れている。「理念りねん を持も つ」とも言い えるが弱よわ い。持も つだけでは照合しょうごう できないからで、掲かか げてはじめて、それを守まも っているかどうかを他人たにん が問と える ようになる。
理念りねん と現実げんじつ の乖離かいり 批判ひはん の型かた 理念りねん が実現じつげん していないことを衝しょう く形かたち だが、よく考かんが えるとこの批判ひはん は理念りねん を否定ひてい していない 。乖離かいり を測はか れるということは、理念りねん のほうを正ただ しい位置いち として認みと めている ということだからだ。本当ほんとう に理念りねん を否定ひてい する批判ひはん は「その理念りねん 自体じたい が誤あやま りだ」と言い う。乖離かいり の指摘してき と理念りねん の否定ひてい を読よ み分わ けられるか が、評ひょう 論文ろんぶん の設問せつもん でしばしば分わ かれ目め になる。
基本きほん 理念りねん 法令ほうれい の言葉ことば 法律ほうりつ の条文じょうぶん に置お かれる定型ていけい で、個々ここ の条項じょうこう がそこから導みちび かれる出発点しゅっぱつてん を示しめ す。面白おもしろ いのは、基本きほん 理念りねん それ自体じたい はたいてい何なに の義務ぎむ も課か さないことである。それでも置お かれるのは、後あと の解釈かいしゃく が迷まよ ったときに立た ち返かえ る場所ばしょ を用意ようい しておくためで、理念りねん が「上位じょうい にある原則げんそく 」だという性格せいかく がよく出で ている。
理念りねん 型がた 社会学しゃかいがく の術語じゅつご ヴェーバーの用語ようご で、現実げんじつ には存在そんざい しないが、現実げんじつ を測はか るために組く み立た てられた純粋じゅんすい な型かた を指さ す。ここでの理念りねん は「べき」ではなく「純粋じゅんすい な」の意い で、日常にちじょう 語ご の理念りねん とは別べつ の使つか い方かた になっている。同おな じ語ご が学術がくじゅつ 文脈ぶんみゃく でずれる例れい として、23 の「観念論かんねんろん 」と並なら べて覚おぼ えておきたい。
格かく 硬かた 書か き言葉ことば 。会話かいわ では不自然ふしぜん 。
類るい 語ご と差さ
理想りそう 望のぞ ましい最高さいこう の状態じょうたい 願望がんぼう の側がわ 。理念りねん は義務ぎむ ・使命しめい の側がわ 。「理想りそう を追お う」と「理念りねん を掲かか げる」の差さ 。
目的もくてき めざすところ 到達点とうたつてん 。理念りねん はその根拠こんきょ となる考かんが えで、より上位じょうい にある。
イデア 感覚かんかく を超こ えた真しん の姿すがた プラトンの語ご 。存在論そんざいろん の概念がいねん で、実践じっせん の指針ししん ではない。
方針ほうしん 進すす め方ほう の定さだ め具体的ぐたいてき な行動こうどう 指針ししん 。理念りねん はその上位じょうい にある原則げんそく 。
EN ideal / IdeeZH 理念(理念, lǐniàn)
25 ★★
絶対ぜったい
ぜったい [0] ぜ っ た い 平板へいばん 型がた
語ご 構成こうせい
絶ぜつ たつ・断た ち切き る + 対たい むかいあう
〈対たい (むかいあうもの)を絶た つ〉。比くら べる相手あいて を断た ち切き った状態じょうたい を表あらわ す。
定義ていぎ
他ほか に比較ひかく するものや対立たいりつ するものがないこと。他ほか のものに制約せいやく ・制限せいげん されないこと。
『現代げんだい 文ぶん キーワード読解どっかい 』1-1 ☑25
原げん 書しょ の解説かいせつ
絶対ぜったい とは、比くら べるものや代だい わるものがないことを言い う。そのため、神かみ や独裁政治どくさいせいじ をする王おう を「絶対ぜったい 者しゃ 」と言い う場合ばあい 、それは代替だいたい が不可能ふかのう な唯一ゆいいつ の存在そんざい であることを意味いみ している。
さらに、「絶対ぜったい 化か する」「絶対ぜったい 視し する」と使つか われる場合ばあい 、〈他ほか を認みと めない〉 というニュアンスがある。
たとえば
「自己じこ を絶対ぜったい 視し する」と言い えば、自分じぶん 以外いがい の意見いけん を認みと めないことである。
使用しよう の境界きょうかい 比較ひかく するものや対立たいりつ するものがないこと。「必かなら ず」の意い の副詞ふくし 的てき 用法ようほう (絶対ぜったい に行い く)は口語こうご 。評ひょう 論文ろんぶん では使つか わない。
用法ようほう 日常にちじょう 語ご の副詞ふくし 用法ようほう (絶対ぜったい に無理むり 、絶対ぜったい 勝か つ)が非常ひじょう に強つよ いため、評ひょう 論文ろんぶん で名詞めいし ・形容けいよう 動詞どうし として出で た時とき に読よ み違ちが えやすい。評ひょう 論ろん では〈比較ひかく の相手あいて を持も たない〉という関係かんけい の否定ひてい である。「絶対ぜったい 化か する」「絶対ぜったい 視し する」は否定ひてい 語ご で、〈他ほか を認みと めない〉という含ふく みを持も つ。神かみ や独裁者どくさいしゃ を「絶対ぜったい 者しゃ 」と呼よ ぶのは、代替だいたい が不可能ふかのう な唯一ゆいいつ の存在そんざい という意味いみ 。相対そうたい と対たい で出で るので、必かなら ず対たい の側がわ を探さが して読よ む。
用例ようれい
たとひ法然ほうねん 聖人せいじん にすかされまゐらせて、念仏ねんぶつ して地獄じごく におちたりとも、さらに後悔こうかい すべからず候そうら ふ。唯円ゆいえん 『歎異抄たんにしょう 』第だい 二に 条じょう (13世紀じゅうさんせいき 後半こうはん )
たとえ師し に騙だま されて地獄じごく に落お ちたとしても後悔こうかい はしない、と親鸞しんらん が言い ったと伝つた える一節いっせつ である。ここには比較ひかく の相手あいて がいない 。ふつう信頼しんらい は「他ほか より確たし からしいから」という比較ひかく に支ささ えられているが、この言い い方かた はその支ささ えを自分じぶん から断た ち切き っている 。地獄じごく に落お ちるという最悪さいあく の結果けっか さえ、判断はんだん を覆くつがえ す材料ざいりょう にならないと言い い切き っているからだ。「絶ぜつ 」は断た ち切き る、「対たい 」は向む かい合あ うもの — 向む かい合あ わせて比くら べる相手あいて を断た ち切き ること が絶対ぜったい の字義じぎ である。この一節いっせつ は、その字義じぎ を状況じょうきょう として演えん じている。なお日常にちじょう 語ご の「絶対ぜったい に」(絶対ぜったい に行い く)は単たん なる強調きょうちょう で、この構造こうぞう を持も たない。評ひょう 論文ろんぶん で出会であ う絶対ぜったい は、ほぼ必かなら ずこちらの「比較ひかく の断絶だんぜつ 」のほうである 。
私わたし はこの自己じこ 本ほん 位い という言葉ことば を自分じぶん の手て に握にぎ ってから大変たいへん 強つよ くなりました。夏目なつめ 漱石そうせき 『私わたし の個人こじん 主義しゅぎ 』(1914)
西洋人せいようじん の評価ひょうか をそのまま自分じぶん の判断はんだん にしていた「他人たにん 本ほん 位い 」の状態じょうたい を脱だつ した、と漱石そうせき は語かた る。他人たにん 本ほん 位い とは、自分じぶん の位置いち を常つね に他ほか との比較ひかく でしか決き められない状態じょうたい — つまり徹底てってい して相対的そうたいてき な立た ち方かた である。漱石そうせき はそこから、比較ひかく に依よ らない足場あしば へ移うつ った。注意ちゅうい したいのは、彼かれ が「自分じぶん が正ただ しい」と言い ったのではない ことだ。正ただ しさを他人たにん に決き めさせるのをやめた、と言い っている。絶対ぜったい とは「唯一ゆいいつ 正ただ しい」ことではなく、「比較ひかく の外そと に立た つ」こと である — この区別くべつ ができると、「絶対ぜったい 化か する」がなぜ批判ひはん 語ご になるのかも見み えてくる。比較ひかく の外そと に置お いた瞬間しゅんかん 、そのものは検証けんしょう を受う けつけなくなるからだ。
近代きんだい 以前いぜん の社会しゃかい には、疑うたが いようのない絶対ぜったい 的てき な規範きはん があった。
26 の相対そうたい と対たい で読よ むべき文ぶん である。「疑うたが いようのない」が絶対ぜったい の説明せつめい になっている 点てん に注意ちゅうい したい。疑うたが うには、比くら べる別べつ の基準きじゅん が要い る。比くら べる相手あいて が無な ければ、そもそも疑うたが うという操作そうさ が成な り立た たない 。絶対ぜったい が揺ゆ らぐのは、間違まちが いが見み つかったからではなく、並なら べられる別べつ の基準きじゅん が現あらわ れたから である。
×この方法ほうほう が絶対ぜったい に一番いちばん 早はや い。
口語こうご の副詞ふくし 用法ようほう で、意味いみ は「必かなら ず」。評ひょう 論文ろんぶん では使つか わない 。しかもこの用法ようほう があまりに強つよ いために、名詞めいし ・形容けいよう 動詞どうし として出で てきた絶対ぜったい を「必かなら ず」の意い で読よ み違ちが える事故じこ が起お こる。「絶対的ぜったいてき な価値かち 」を「必かなら ずある価値かち 」と読よ んでしまうたぐいである。評ひょう 論文ろんぶん の絶対ぜったい を見み たら、まず「比較ひかく の相手あいて がない」と置お き換か えてみる とよい。
派生はせい 形けい
絶対的ぜったいてき [0] 評ひょう 論文ろんぶん でもっとも多おお い形かたち 。「絶対ぜったい に」という口語こうご の副詞ふくし と形かたち が近ちか いので読よ み違ちが えやすい 。「絶対的ぜったいてき に正ただ しい」は「必かなら ず正ただ しい」ではなく「比較ひかく の相手あいて なしに正ただ しい」である。この読よ み替か えができるかどうかが分わ かれ目め になる。
絶対性ぜったいせい [0] 性質せいしつ として取と り出だ す形かたち 。「絶対ぜったい 性せい を主張しゅちょう する」「絶対ぜったい 性せい が揺ゆ らぐ」 と議論ぎろん の対象たいしょう に置お けるようになる。絶対ぜったい はゼロか一いち かのはずだが、この形かたち にすると程度ていど で語かた れてしまう — 12 の合理性ごうりせい 、17 の倒錯とうさく 性せい と同おな じ緩ゆる みである。
絶対化ぜったいか [0] 過程かてい を指さ す形かたち で、「もとは絶対ぜったい ではなかった」という含ふく みを必かなら ず伴ともな う 。この含ふく みがあるからこそ批判ひはん 語ご として働はたら く。26 の「相対そうたい 化か 」と正確せいかく に逆ぎゃく を向む いており、評ひょう 論文ろんぶん ではこの二に 語ご の綱引つなひ きとして議論ぎろん が組く み立た てられることが多おお い。
絶対者ぜったいしゃ [3] 「者もの 」で人格じんかく 化か する。神かみ ・独裁者どくさいしゃ を指さ すが、比較ひかく する相手あいて を持も たない存在そんざい という一点いってん で両者りょうしゃ は同おな じ資格しかく に置お かれている。神かみ と独裁者どくさいしゃ が同おな じ語ご で呼よ べてしまうこと自体じたい が、この語ご の政治的せいじてき な鋭するど さである。
コロケーション
絶対ぜったい 化か する検証けんしょう の遮断しゃだん 「化か 」が付つ いて操作そうさ になる。何なに かを絶対ぜったい の位置いち へ置お くことだが、その結果けっか として起お きるのは比較ひかく の相手あいて を取と り払はら うこと である。比較ひかく できなければ検証けんしょう もできない。だからこの語ご はほぼ必かなら ず批判ひはん として使つか われる。「他ほか を認みと めない」という含ふく みは、態度たいど の傲慢ごうまん さから来く るのではなく、比較ひかく を断た つという操作そうさ そのものから来き ている 。
絶対ぜったい 者しゃ 代替だいたい の不可能ふかのう 性せい 神かみ や独裁者どくさいしゃ を指さ す。ここで言い われているのは「いちばん偉えら い」ではなく「代か わりがいない」 ということである。序列じょれつ の頂点ちょうてん なら、倒たお れれば次つぎ が繰く り上あ がる余地よち がある。絶対ぜったい 者しゃ にはそれが無な い。唯一ゆいいつ であることと代替だいたい 不可能ふかのう であることは別べつ の性質せいしつ で、この語ご は後者こうしゃ を指さ している。
絶対的ぜったいてき な価値かち 検証けんしょう を拒こば む形かたち 相対的そうたいてき な価値かち なら「何なに と比くら べて」を問と えるが、この形かたち は問と えない。問と えないという性質せいしつ が、そのままこの語ご の強つよ さであり弱よわ さでもある 。人権じんけん をこう呼よ べば、文化ぶんか の違ちが いを理由りゆう にした例外れいがい を封ふう じられる。一方いっぽう で、誰だれ がそれを絶対ぜったい と決き めたのかを問と う道みち も同時どうじ に塞ふさ がれる — 評ひょう 論文ろんぶん はたいていこの後者こうしゃ の側がわ から入はい ってくる。
絶対ぜったい 評価ひょうか 実務じつむ 語ご の対たい 定さだ められた基準きじゅん に照て らして評価ひょうか する方式ほうしき で、集団しゅうだん 内ない の位置いち で決き める相対そうたい 評価ひょうか と対たい になる。評ひょう 論ろん 用法ようほう と同おな じ構造こうぞう が実務じつむ の言葉ことば にそのまま現あらわ れている点てん が面白おもしろ い。絶対ぜったい 評価ひょうか では他ほか の受験じゅけん 者しゃ が何なに 点てん でも自分じぶん の評価ひょうか は動うご かない — まさに比較ひかく の相手あいて を断た つ ということである。抽象的ちゅうしょうてき な語ご を理解りかい しにくいときは、こういう実務じつむ 語ご から入はい ると輪郭りんかく がつかめる。
格かく 中なか 書か き言葉ことば ・会話かいわ の両方りょうほう で使つか える。
類るい 語ご と差さ
唯一ゆいいつ ただ一ひと つ 数かず の話はなし 。絶対ぜったい は関係かんけい の話はなし (比較ひかく する相手あいて がない)。
普遍ふへん 例外れいがい がない適用範囲てきようはんい の話はなし 。絶対ぜったい は比較ひかく の可否かひ の話はなし 。両者りょうしゃ は別べつ の軸じく 。
無条件むじょうけん 条件じょうけん に依よ らない条件じょうけん についての語ご 。絶対ぜったい はより広ひろ く、代替だいたい の不可能ふかのう 性せい を含ふく む。
究極きゅうきょく 最終さいしゅう の段階だんかい の終お わり。絶対ぜったい は段階だんかい を前提ぜんてい としない。
EN absoluteZH 绝对(絶対, juéduì)
26 ★★
相対そうたい
そうたい [0] そ う た い 平板へいばん 型がた
語ご 構成こうせい
相そう あい・たがいに + 対たい むかいあう
定義ていぎ
他ほか との比較ひかく や関係かんけい において成な り立た つこと。
『現代げんだい 文ぶん キーワード読解どっかい 』1-1 ☑26
原げん 書しょ の解説かいせつ
相対そうたい は絶対ぜったい の反はん 意い 語ご で、〈それだけが唯一ゆいいつ ではない〉 というイメージでとらえるとわかりやすい。たとえば、昔むかし は道徳どうとく や宗教しゅうきょう の力ちから が強つよ く、絶対的ぜったいてき な規範きはん があったが、現代げんだい では道徳どうとく も宗教しゅうきょう も力ちから が弱よわ くなり、善悪ぜんあく の基準きじゅん が人ひと それぞれ違ちが ってきている(相対そうたい 化か している )。
たとえば
成績せいせき 評価ひょうか を5段階ごだんかい でつける時とき 、絶対ぜったい 評価ひょうか では、80点てん 以上いじょう は「5」と決き めていれば、クラス全員ぜんいん が5でも構こう わない。一方いっぽう 、相対そうたい 評価ひょうか では、比較ひかく による評価ひょうか なので、一定いってい の割合わりあい で5・4・3・2・1を振ふ り分わ けて成績せいせき がつけられる。
使用しよう の境界きょうかい 他ほか との比較ひかく や関係かんけい において成な り立た つこと。「それだけが唯一ゆいいつ ではない」と捉とら えると分わ かりやすい。
用法ようほう 「相対そうたい 化か する」が評ひょう 論文ろんぶん の重要じゅうよう 動詞どうし で、〈唯一ゆいいつ 絶対ぜったい と思おも われていたものを、比較ひかく 可能かのう なものの一ひと つとして見直みなお す〉ことを指さ す。近代きんだい 批判ひはん ・文化ぶんか 論ろん で頻出ひんしゅつ し、多おお くは肯定的こうていてき に使つか われる。ただし「すべては相対的そうたいてき である」という主張しゅちょう 自体じたい が自己じこ 言及げんきゅう の問題もんだい を抱かか えるため、相対そうたい 主義しゅぎ への批判ひはん も定型ていけい になっている。「相対そうたい 評価ひょうか 」は集団しゅうだん の中なか の位置いち で決き める評価ひょうか 方式ほうしき で、絶対ぜったい 評価ひょうか と対たい になる実務じつむ 語ご 。この実務じつむ 用法ようほう と評ひょう 論ろん 用法ようほう は同おな じ構造こうぞう を持も つ。
用例ようれい
毛嬙・麗れい 姫ひめ は、人ひと の美び とする所しょ なり。魚さかな は之これ を見み て深ふか く入はい り、鳥とり は之これ を見み て高たか く飛と び、麋鹿びろく は之これ を見み て決驟けっしゅう す。四よん 者しゃ 孰じゅく か天下てんか の正せい 色いろ を知し らんや。『荘子そうし 』斉せい 物ぶつ 論ろん 篇へん
絶世ぜっせい の美女びじょ とされる毛嬙や麗れい 姫ひめ も、魚さかな は見み れば水底すいてい へ逃に げ、鳥とり は空そら へ飛と び去さ り、鹿しか は駆か け出だ す。この四よん 者しゃ のうち、いったい誰だれ が「天下てんか の正ただ しい美び 」 を知し っているのか、という。相対そうたい の考かんが えを、これ以上いじょう ないほど短みじか く示しめ した一節いっせつ である。注意ちゅうい したいのは、荘子そうし が「美び は存在そんざい しない」と言い っていない ことだ。人ひと にとって毛嬙は確たし かに美うつく しい。否定ひてい されているのは美び ではなく、その美び を人ひと 以外いがい にも通用つうよう する基準きじゅん として立た てること である。相対そうたい 化か とは、対象たいしょう を消け すことではなく基準きじゅん を「複数ふくすう あるうちの一ひと つ」の位置いち へ戻もど すこと だ — この区別くべつ を落お とすと、相対そうたい 主義しゅぎ は「何なに も正ただ しくない」という乱らん 暴ぼう な主張しゅちょう に見み えてしまう。
道徳どうとく は便宜べんぎ の異名いみょう である。「左側ひだりがわ 通行つうこう 」と似に たものである。芥川あくたがわ 龍之介りゅうのすけ 『侏儒しゅじゅ の言葉ことば 』(1923–27)
左側ひだりがわ 通行つうこう に正ただ しさは無な い。みんながそうしていれば衝突しょうとつ が減へ る、というだけの取と り決き め である。右側みぎがわ 通行つうこう の国くに へ行い けば、そちらが正ただ しくなる。芥川あくたがわ は道徳どうとく をこれと同列どうれつ に置お いた。つまり道徳どうとく を絶対ぜったい の位置いち から取と り決き めの位置いち へ引ひ き下お ろした — これが相対そうたい 化か という操作そうさ の見本みほん である。ただし芥川あくたがわ はここで「だから道徳どうとく を破やぶ ってよい」とは言い っていない。左側ひだりがわ 通行つうこう を破やぶ れば事故じこ が起お きる のだから、取と り決き めであることと守まも るべきであることは両立りょうりつ する。相対そうたい 化か された規範きはん がなお拘束力こうそくりょく を持も ちうるというこの含ふく みを読よ み落お とすと、文章ぶんしょう 全体ぜんたい が虚無きょむ 的てき な主張しゅちょう に見み えてしまう。
西洋せいよう の価値かち 観かん を相対そうたい 化か することから、文化ぶんか 人類学じんるいがく の仕事しごと は始はじ まった。
評ひょう 論文ろんぶん における「相対そうたい 化か する」の代表的だいひょうてき な用法ようほう で、唯一ゆいいつ 絶対ぜったい と思おも われていたものを、比較ひかく 可能かのう なものの一ひと つとして見直みなお す ことを指さ す。多おお くの場合ばあい 肯定的こうていてき に使つか われる点てん が、批判ひはん 語ご である「絶対ぜったい 化か する」と対照的たいしょうてき である。「否定ひてい する」ではなく「一ひと つとして見直みなお す」だから、相対そうたい 化か されたものは消き えずに残のこ る。
△この製品せいひん は相対的そうたいてき に高たか い。
「比較的ひかくてき 高たか い」と言い いたいなら「比較的ひかくてき 」 のほうが自然しぜん である。「相対的そうたいてき に」は何なに を基準きじゅん にしたかを明示めいじ する場面ばめん で使つか う。「前年比ぜんねんひ では相対的そうたいてき に高たか い」なら通とお る。基準きじゅん を言い えるかどうか で、この二に 語ご は分わ かれる。
原げん 書しょ の反はん 意い 語ご ・関連かんれん 語ご 反はん 25 絶対ぜったい / 関せき 76
派生はせい 形けい
相対的そうたいてき [0] 「比較的ひかくてき 」と混同こんどう されやすい のが最大さいだい の注意ちゅうい 点てん 。「比較的ひかくてき 」は程度ていど を弱よわ める副詞ふくし だが、「相対的そうたいてき に」は基準きじゅん との関係かんけい を明示めいじ する語ご である。基準きじゅん を言い えない場面ばめん でこの形かたち を使つか うと、意味いみ のない飾かざ りになる。
相対性そうたいせい [0] 性質せいしつ として取と り出だ す形かたち 。「相対性理論そうたいせいりろん 」という物理学ぶつりがく の用語ようご がこの形かたち を有名ゆうめい にしたが、そちらは「観測かんそく 者しゃ によって測定値そくていち が変か わる」という厳密げんみつ な意味いみ で、評ひょう 論文ろんぶん の相対性そうたいせい より射程しゃてい がずっと狭せま い。比喩ひゆ として持も ち出だ す文章ぶんしょう には注意ちゅうい したい。
相対化そうたいか [0] 評ひょう 論文ろんぶん の中心ちゅうしん 動詞どうし 。「絶対ぜったい 化か 」と正確せいかく に逆ぎゃく を向む く 。面白おもしろ いのは、絶対ぜったい 化か がほぼ常つね に批判ひはん 語ご であるのに対たい し、こちらはほぼ常つね に肯定こうてい 語ご だという非対称ひたいしょう で、現代げんだい の評ひょう 論ろん がどちらの向む きを善ぜん しとしているかがここに表あらわ れている 。
相対主義そうたいしゅぎ [0] 「主義しゅぎ 」が付つ いて立場たちば の名な になる。相対そうたい 化か が操作そうさ であるのに対たい し、こちらはその操作そうさ をすべてに適用てきよう すべきだという主張しゅちょう である。操作そうさ と主張しゅちょう の区別くべつ が付つ いていないと、相対そうたい 主義しゅぎ 批判ひはん をそのまま相対そうたい 化か 批判ひはん と読よ み違ちが えてしまう。
コロケーション
相対そうたい 化か する評ひょう 論ろん の主要しゅよう 動詞どうし 絶対ぜったい の位置いち にあったものを、並なら べられるものの一ひと つへ戻もど す操作そうさ である。戻もど すのであって壊こわ すのではない、という点てん がこの語ご の要かなめ になる。近代きんだい 批判ひはん ・文化ぶんか 論ろん で頻出ひんしゅつ し、9 の「対象たいしょう 化か する」と並なら んで評ひょう 論文ろんぶん の二に 大だい 動詞どうし と言い ってよい。対象たいしょう 化か が切き り離はな して観察かんさつ の台だい に載の せる操作そうさ 、相対そうたい 化か が並なら べて比くら べられるようにする操作そうさ である。
相対そうたい 主義しゅぎ 自己じこ 言及げんきゅう の難所なんしょ 「すべては相対的そうたいてき である」という主張しゅちょう がその主張しゅちょう 自体じたい にも当あ てはまってしまう 、という難点なんてん を最初さいしょ から抱かか えている。すべてが相対的そうたいてき なら、この主張しゅちょう も相対的そうたいてき にすぎない。18 の②、自己じこ 言及げんきゅう のパラドックスとまったく同おな じ構造こうぞう で、相対そうたい 主義しゅぎ 批判ひはん はほぼ必かなら ずここを衝しょう く 。評ひょう 論文ろんぶん でこの語ご を見み たら、筆者ひっしゃ がこの難点なんてん をどう処理しょり しているかを追お うと論ろん の骨ほね が見み える。
文化ぶんか 相対そうたい 主義しゅぎ 限定げんてい された相対そうたい 文化ぶんか を優劣ゆうれつ で測はか らないという立場たちば で、相対そうたい の考かんが えを文化ぶんか という領域りょういき に限かぎ って適用てきよう した ものである。限定げんてい されているぶん自己じこ 言及げんきゅう の難点なんてん を回避かいひ しやすい。ただし「どの文化ぶんか の慣習かんしゅう も批判ひはん できない」という別べつ の困難こんなん が生しょう じるので、人権じんけん をめぐる議論ぎろん では1 の普遍ふへん と正面しょうめん から衝突しょうとつ する 。この衝突しょうとつ が評ひょう 論文ろんぶん の頻出ひんしゅつ テーマである。
相対そうたい 評価ひょうか 実務じつむ 語ご の対たい 集団しゅうだん の中なか での位置いち によって決き める評価ひょうか 方式ほうしき 。自分じぶん の答案とうあん が変か わらなくても、他人たにん の出来でき しだいで評価ひょうか が動うご く 。これが相対そうたい という語ご の意味いみ をもっとも直接ちょくせつ に体験たいけん させてくれる例れい である。25 の絶対ぜったい 評価ひょうか と並なら べると、抽象的ちゅうしょうてき な二に 語ご の違ちが いが身体しんたい の感覚かんかく で分わ かる。
格かく 中なか 書か き言葉ことば ・会話かいわ の両方りょうほう で使つか える。
類るい 語ご と差さ
比較的ひかくてき 比くら べたうえでの程度ていど 副詞ふくし 。「比較的ひかくてき 高たか い」は程度ていど の話はなし 。「相対的そうたいてき に高たか い」は基準きじゅん との関係かんけい を明示めいじ する。
文化ぶんか 相対そうたい 主義しゅぎ 文化ぶんか を優劣ゆうれつ で測はか らない立場たちば 相対そうたい の考かんが えを文化ぶんか に適用てきよう した立場たちば 名めい 。評ひょう 論文ろんぶん の頻出ひんしゅつ 語ご 。
客観的きゃっかんてき 主観しゅかん から独立どくりつ している視点してん の性質せいしつ 。相対そうたい は関係かんけい の性質せいしつ 。別べつ の軸じく なので対たい にならない。
流りゅう 動的どうてき 変か わりやすい変化へんか の話はなし 。相対そうたい は基準きじゅん の話はなし で、変化へんか を含意がんい しない。
EN relativeZH 相对(相対, xiāngduì)
解説かいせつ ── 概念がいねん ・観念かんねん ・理念りねん
概念がいねん とは、〈抽象的ちゅうしょうてき な意味いみ 内容ないよう 〉 のこと。「抽象ちゅうしょう 」であるから、一般性いっぱんせい や客観きゃっかん 性せい がある。これを強調きょうちょう するために、「抽象ちゅうしょう 概念がいねん 」ともよく言い う。
観念かんねん は、具体的ぐたいてき な事実じじつ から離はな れた、頭あたま の中なか にある物事ものごと のイメージや意識いしき 内容ないよう のことである。観念かんねん には、〈個人的こじんてき な思おも い込こ み〉 とか、〈先入観せんにゅうかん 〉 という意味いみ 合あ いも含ふく むことがある。「固定こてい 観念かんねん 」という言い い方かた の響ひび きを考かんが えるとわかりやすい。
理念りねん とは、何なに かを実践じっせん する際さい に究極きゅうきょく の目標もくひょう として掲かか げられるものである。たとえば学校がっこう の「教育きょういく 理念りねん 」は、学校教育がっこうきょういく が本来ほんらい 目指めざ す究極きゅうきょく の目標もくひょう のことである。「理想りそう 」と比くら べて、使命しめい 感かん や義務ぎむ 感かん というニュアンスが強つよ い。
対立たいりつ の軸じく
絶対ぜったい /相対そうたい の軸じく = 比較ひかく 対象たいしょう の有無うむ
絶対ぜったい 比較ひかく するものや対立たいりつ するものがない。
比較ひかく 対象たいしょう の有無うむ
相対そうたい 他ほか との比較ひかく や関係かんけい において成な り立た つ。
概念・観念・理念の区別 客観と主観、記述と当為という二つの軸で概念・観念・理念を分けた図。
概念
言葉の意味内容
客観・共有される
観念
頭の中にある像
主観・個人に属する
理念
こうあるべきという考え
当為・目指すもの
記述 ── そうである
当為 ── そうすべきである
自由という概念を規定する
固定観念にとらわれる
建学の理念を掲げる
概念と観念の差は客観性、理念との差は当為の有無
客観きゃっかん ・主観しゅかん ・当為とうい の三さん 分ぶん
Section 14
還元かんげん /敷衍ふえん /一元いちげん /二元にげん /多元たげん
27 ★★
還元かんげん
かんげん [0] か ん げ ん 平板へいばん 型がた
語ご 構成こうせい
還かん かえる・もどす + 元もと もと
定義ていぎ
元もと に戻もど すこと、分解ぶんかい すること。
『現代げんだい 文ぶん キーワード読解どっかい 』1-1 ☑27
原げん 書しょ の解説かいせつ
還元かんげん とは、一般的いっぱんてき には〈元もと に戻もど すこと、返かえ すこと〉 を意味いみ する。ただし、科学かがく の分野ぶんや においては、〈細こま かく分解ぶんかい すること、最もっと も基礎的きそてき な部分ぶぶん にまで戻もど して分析ぶんせき すること〉 の意い となる。
たとえば
「企業きぎょう が利益りえき を社会しゃかい に還元かんげん する」といった場合ばあい は、ある企業きぎょう が事業じぎょう で得とく た利益りえき を、環境かんきょう 保護ほご や貧まず しい人ひと に寄き 付ふ することなどを意味いみ する。これは、社会しゃかい から利益りえき を得とく た企業きぎょう が、その利益りえき を社会しゃかい に「返かえ す」ということである。
使用しよう の境界きょうかい もとに戻もど すこと、返かえ すこと。科学かがく では最もっと も基礎的きそてき な部分ぶぶん まで分解ぶんかい して分析ぶんせき すること。日常にちじょう 語ご と学術がくじゅつ 語ご で重心じゅうしん が違ちが う。
用法ようほう 二ふた つの層そう がある。①日常にちじょう ・実務じつむ の〈返かえ す〉(利益りえき を社会しゃかい に還元かんげん する)。②科学かがく の〈最もっと も基礎的きそてき な部分ぶぶん まで分解ぶんかい して説明せつめい する〉(生命せいめい 現象げんしょう を分子ぶんし に還元かんげん する)。評ひょう 論文ろんぶん では②が中心ちゅうしん で、しばしば批判的ひはんてき に扱あつか われる。全体ぜんたい を要素ようそ に還元かんげん すると、全体ぜんたい にしかない性質せいしつ が失うしな われる、という議論ぎろん につながる。「還元かんげん 主義しゅぎ 」はこの方法ほうほう を唯一ゆいいつ とする立場たちば の名な で、批判ひはん 語ご として使つか われることが多おお い。「〜に還元かんげん できない」という否定ひてい 形けい が評ひょう 論文ろんぶん の頻出ひんしゅつ 表現ひょうげん 。
用例ようれい
凡ぼん そ文学的ぶんがくてき 内容ないよう の形式けいしき は(F+f)なることを要よう す。Fは焦点しょうてん 的てき 印象いんしょう 又また は観念かんねん を意味いみ し、fはこれに附ふ 着ちゃく する情緒じょうちょ を意味いみ す。夏目なつめ 漱石そうせき 『文学ぶんがく 論ろん 』(1907)
文学ぶんがく とは何なに かという問と いに、漱石そうせき は数式すうしき の形かたち で答こた えようとした 。これは還元かんげん の、きわめて純度じゅんど の高たか い実例じつれい である。複雑ふくざつ きわまりない対象たいしょう を、F(認識にんしき の要素ようそ )と f(情緒じょうちょ の要素ようそ )というもっとも基礎的きそてき な二ふた つまで分解ぶんかい して説明せつめい しよう とした。注目ちゅうもく したいのは、漱石そうせき 自身じしん がこの試こころ みをのちに満足まんぞく のいくものとは考かんが えなかったことである。要素ようそ に分わ けた瞬間しゅんかん に、要素ようそ の並なら びには還元かんげん できないものがこぼれ落お ちる — それが分わ かるためには、いったん徹底てってい して還元かんげん してみるしかない。還元かんげん 主義しゅぎ 批判ひはん が説得力せっとくりょく を持も つのは、こういう真剣しんけん な還元かんげん の試こころ みが先さき にあったからである。
わたくしといふ現象げんしょう は仮定かてい された有機ゆうき 交こう 流りゅう 電燈でんとう の ひとつの青あお い照明しょうめい です宮沢賢治みやざわけんじ 『春はる と修羅しゅら 』序じょ (1924)
「わたくし」を電燈でんとう という物理ぶつり 現象げんしょう にまで還元かんげん してみせた三さん 行ぎょう である。心こころ も意識いしき も出で てこない。あるのは電流でんりゅう と光ひかり だけだ。ところがこの三さん 行ぎょう は、読よ むと還元かんげん されたことによってかえって「わたくし」が鮮明せんめい になる という奇妙きみょう な効果こうか を持も つ。仕掛しか けは「仮定かてい された」の一語いちご にある。賢治けんじ は「わたくしは電燈でんとう である」と断定だんてい していない。そう仮定かてい してみせている だけだ。ここが科学かがく の還元かんげん と詩し の還元かんげん の分わ かれ目め で、還元かんげん を方法ほうほう として使つか うか、唯一ゆいいつ の説明せつめい として掲かか げるか の違ちが いがそのまま、還元かんげん と還元かんげん 主義しゅぎ の違ちが いになる。
生命せいめい 現象げんしょう を分子ぶんし の働はたら きに還元かんげん して説明せつめい する。
科学かがく における②の用法ようほう である。「最もっと も基礎的きそてき な部分ぶぶん まで戻もど して分析ぶんせき する」 という手続てつづ きを指さ し、それ自体じたい は中立ちゅうりつ な方法ほうほう である。評ひょう 論文ろんぶん がこれを批判ひはん するのは、方法ほうほう が方法ほうほう にとどまらず「それがすべてだ」という主張しゅちょう に変か わったとき で、そこから先さき が還元かんげん 主義しゅぎ と呼よ ばれる。
×利益りえき は社会しゃかい に還元かんげん すべきだという分子ぶんし 生物学せいぶつがく の立場たちば 。
①の〈返かえ す〉と②の〈分解ぶんかい する〉が一文いちぶん の中なか でつながってしまっている 。同おな じ語ご でありながら、日常にちじょう ・実務じつむ の層そう と科学かがく の層そう で重心じゅうしん がまったく違ちが う。「戻もど す先さき 」が持も ち主ぬし なら①、構成要素こうせいようそ なら② と、戻もど る先さき を見み れば判別はんべつ できる。
原げん 書しょ の反はん 意い 語ご ・関連かんれん 語ご 関せき 43
派生はせい 形けい
還元的かんげんてき [0] 「還元かんげん 的てき な説明せつめい 」の形かたち でほぼ批判ひはん 語ご として働はたら く。「還元かんげん による説明せつめい 」なら中立ちゅうりつ だが、「的てき 」が付つ くと「還元かんげん で片付かたづ けようとする傾かたむ き」という態度たいど の評価ひょうか に変か わる。23 の「観念かんねん 的てき 」と同おな じ振ふ る舞ま いである。
還元主義かんげんしゅぎ [0] 立場たちば の名な 。方法ほうほう を唯一ゆいいつ の道みち と定さだ めた瞬間しゅんかん に、方法ほうほう は主義しゅぎ になる 。この移うつ り方ほう は 12 の合理主義ごうりしゅぎ 、26 の相対そうたい 主義しゅぎ とまったく同おな じ形かたち をしており、「主義しゅぎ 」という接尾せつび 辞じ の働はたら きを覚おぼ えるのにちょうどよい三さん 点てん セットになる。
創発そうはつ 派生はせい 形けい ではなく、還元かんげん の限界げんかい を名指なざ すために用意ようい された対たい の語ご 。部分ぶぶん には無な かった性質せいしつ が全体ぜんたい になったときに現あらわ れること を指さ す。「〜に還元かんげん できない」という否定ひてい 形けい が主張しゅちょう するものに名な を与あた えた語ご で、この一語いちご を知し っていると議論ぎろん の見取みと り図ず が一段いちだん はっきりする。
コロケーション
〜に還元かんげん できない否定ひてい 形けい の主力しゅりょく 評ひょう 論文ろんぶん でこの語ご が現あらわ れるとき、過か 半はん は否定ひてい 形けい である 。「心こころ は脳のう に還元かんげん できない」「作品さくひん は作者さくしゃ の意図いと に還元かんげん できない」— いずれも全体ぜんたい にしかない性質せいしつ がある という主張しゅちょう だ。肯定こうてい 形けい が方法ほうほう の記述きじゅつ であるのに対たい し、否定ひてい 形けい は主張しゅちょう になる。この語ご を見み たら、まず否定ひてい が付つ いているかどうかを見み る のが実際的じっさいてき である。
還元かんげん 主義しゅぎ 方法ほうほう から立場たちば へ「主義しゅぎ 」が付つ いて、還元かんげん という方法ほうほう を唯一ゆいいつ の説明せつめい の道みち とする立場たちば になる。批判ひはん 語ご として使つか われることが多おお いが、注意ちゅうい したいのは還元かんげん そのものは批判ひはん されていない点てん だ。分解ぶんかい して調しら べるのは科学かがく の基本きほん であり、問題もんだい はそれ以外いがい の説明せつめい を認みと めなくなることにある。方法ほうほう への批判ひはん と立場たちば への批判ひはん を取と り違ちが えないこと が読解どっかい の要かなめ になる。
利益りえき を社会しゃかい に還元かんげん する①の定型ていけい こちらは〈返かえ す〉の系列けいれつ で、実務じつむ ・広報こうほう の言葉ことば である。「返かえ す」ではなく「還元かんげん する」と言い うのは、もともとそこから得とく たものだ という含ふく みを添そ えられるからだ。施ほどこ しではなく返却へんきゃく だという構図こうず になり、企業きぎょう の言葉ことば として使つか いやすくなる。語ご の選択せんたく が立場たちば の表明ひょうめい になっている例れい である。
要素ようそ 還元かんげん 手続てつづ きの名な 全体ぜんたい を部分ぶぶん の集あつ まりとして扱あつか い、部分ぶぶん の性質せいしつ から全体ぜんたい を説明せつめい する手続てつづ きを指さ す。近代きんだい 科学かがく の成功せいこう はほぼこの方法ほうほう によっている。それでも評ひょう 論文ろんぶん がここを衝しょう くのは、部分ぶぶん に分わ けた時点じてん で消き える関係かんけい がある からで、水素すいそ と酸素さんそ の性質せいしつ をいくら調しら べても水みず の湿しつ り気き は出で てこない、という比喩ひゆ がよく使つか われる。
格かく 硬かた 書か き言葉ことば 。会話かいわ では不自然ふしぜん 。
類るい 語ご と差さ
分解ぶんかい 部分ぶぶん に分わ ける分わ けるだけ。還元かんげん は〈最もっと も基礎的きそてき なところまで〉という到達点とうたつてん を含ふく む。
帰着きちゃく 結局けっきょく そこに行い き着つ く結論けつろん の話はなし 。還元かんげん は方法ほうほう の話はなし 。
要素ようそ 論ろん 全体ぜんたい を要素ようそ の集あつ まりと見み る立場たちば 名めい 。還元かんげん はその立場たちば が用もち いる操作そうさ 。
返還へんかん 返かえ して戻もど す所有権しょゆうけん の移動いどう 。還元かんげん ①の意味いみ に近ちか いが、法的ほうてき ・事務的じむてき な語ご 。
EN reductionZH 还原(還元, huányuán)
28 ★★
敷衍ふえん ⚠
ふえん [0] ふ え ん 平板へいばん 型がた
語ご 構成こうせい
敷しき しく・のべ広ひろ げる + 衍えん あまる・広ひろ がる
二字にじ がともに〈広ひろ げる〉を表あらわ す。読よ みそのものが入試にゅうし で問と われる語ご である。
定義ていぎ
意味いみ ・趣旨しゅし を押お し広ひろ げて説明せつめい すること。
『現代げんだい 文ぶん キーワード読解どっかい 』1-1 ☑28
原げん 書しょ の解説かいせつ
敷衍ふえん は定義ていぎ そのままの意味いみ の他ほか に、例れい などを挙あ げて説明せつめい すること、わかりやすく言い い換か えたり詳くわ しく説明せつめい したりすること、などの意味いみ がある。読よ みも問題もんだい になることが多おお いのでチェックしておこう。
たとえば
「食しょく の問題もんだい を生活せいかつ 全体ぜんたい に敷衍ふえん して論ろん じる」というように、ある具体的ぐたいてき な問題もんだい や事柄ことがら を、より広ひろ いテーマや分野ぶんや の中なか に位置いち づける場合ばあい に使つか われることが多おお い。
使用しよう の境界きょうかい 意味いみ ・趣旨しゅし を押お し広ひろ げて説明せつめい すること。言い い換か え・例示れいじ ・詳述しょうじゅつ を伴ともな う。要約ようやく とは逆ぎゃく の操作そうさ 。
用法ようほう 「敷衍ふえん すれば」「敷衍ふえん して言い えば」の形かたち で接続せつぞく 表現ひょうげん として使つか われ、直前ちょくぜん の定義ていぎ や命題めいだい をより広ひろ い場面ばめん に当あ てはめて説明せつめい することを予告よこく する。「食しょく の問題もんだい を生活せいかつ 全体ぜんたい に敷衍ふえん して論ろん じる」のように、具体的ぐたいてき な事柄ことがら をより広ひろ いテーマの中なか に位置いち づける用法ようほう が多おお い。読解どっかい では、この語ご の後あと に来く る内容ないよう が前まえ の内容ないよう の適用範囲てきようはんい の拡張かくちょう であると予測よそく できる。読よ みそのものが入試にゅうし で問と われる語ご で、書か き取と りでも出で る。
用例ようれい
一隅いちぐう を挙あ げて三隅みすみ を以もっ て反はん らざれば、則そく ち復ふく せざるなり。『論語ろんご 』述而じゅつじ 篇へん
四角しかく い机つくえ の一ひと つの角かど を示しめ したとき、残のこ る三みっ つの角かど を自分じぶん で返かえ してこないような相手あいて には、もう教おし えない、という。ここで孔子こうし が学まな ぶ側がわ に求もと めているのが、まさに敷衍ふえん である。一ひと つの事例じれい で示しめ された筋道すじみち を、示しめ されていない場面ばめん へ自分じぶん で押お し広ひろ げる — その働はたら きができるかどうかを、孔子こうし は学まな びの条件じょうけん とした。注目ちゅうもく したいのは、広ひろ げる方向ほうこう が最初さいしょ から決き まっている点てん だ。机つくえ の角かど は四よっ つあり、一隅いちぐう から三隅みすみ へは自然しぜん に届とど く。敷衍ふえん が単たん なる思おも いつきの拡張かくちょう と違ちが うのは、もとの筋道すじみち がそのまま通用つうよう する範囲はんい まで しか広ひろ げられないからである。
国内こくない の山村さんそん にして遠とお 野の より更さら に物もの 深ふか き所しょ には又また 無数むすう の山神やまのかみ 山人さんじん の伝でん 説せつ あるべし。願ねが はくは之これ を語かた りて平地へいち 人ひと を戦慄せんりつ せしめよ。柳田やなぎだ 国男くにお 『遠とお 野の 物語ものがたり 』序じょ (1910)
遠とお 野の という一ひと つの土地とち の話はなし を集あつ めた本ほん の序じょ で、柳田やなぎだ は「遠とお 野の より更さら に物もの 深ふか き所しょ 」にも同おな じものがあるはずだ と書か く。これが敷衍ふえん の身振みぶ りそのものである。扱あつか っているのは一いち 地方ちほう の伝でん 説せつ という徹底てってい して具体的ぐたいてき な材料ざいりょう だが、その材料ざいりょう を日本にほん の山村さんそん 全体ぜんたい というより広ひろ い場ば へ位置いち づけ直なお している 。重要じゅうよう なのは、柳田やなぎだ がここで抽象ちゅうしょう 化か していない ことだ。遠とお 野の の話はなし は遠とお 野の の話はなし のまま残のこ る。抽象ちゅうしょう が具体ぐたい を捨す てて共通点きょうつうてん だけを取と り出だ すのに対たい し、敷衍ふえん は具体ぐたい を保たも ったまま適用範囲てきようはんい を広ひろ げる — この違ちが いが二に 語ご の分わ かれ目め で、4 の項こう と並なら べて読よ むとはっきりする。
敷衍ふえん すれば、この構図こうず は食しょく の問題もんだい にとどまらず生活せいかつ 全体ぜんたい に当あ てはまる。
接続せつぞく 表現ひょうげん としての典型的てんけいてき な使つか い方かた である。「これから適用範囲てきようはんい を広ひろ げます」という予告よこく として働はたら くので、読解どっかい ではこの語ご の後あと に来く る内容ないよう が前まえ の内容ないよう の拡張かくちょう である と予測よそく できる。新あたら しい主張しゅちょう が始はじ まるのではない。同おな じ主張しゅちょう が、より広ひろ い場所ばしょ へ運はこ ばれる のである。
×前半ぜんはん の議論ぎろん を敷衍ふえん すると、要よう するに三さん 点てん にまとめられる。
まとめるのは「要約ようやく 」 で、敷衍ふえん とは逆ぎゃく の操作そうさ である。敷衍ふえん は広ひろ げる、要約ようやく は縮ちぢ める。「敷衍ふえん すれば」の後あと に短みじか い文ぶん が来き たら、ほぼ確実かくじつ に誤ご 用よう だと思おも ってよい。なお読よ み(ふえん)そのものが入試にゅうし で直接ちょくせつ 問と われる語ご でもある。「敷しき 」も「衍えん 」ものべ広ひろ げる 意い で、字義じぎ からも方向ほうこう は明あき らかである。
派生はせい 形けい
敷衍的ふえんてき [0] 使用しよう 頻度ひんど は低ひく い。「敷衍ふえん して」「敷衍ふえん すれば」という動詞どうし ・接続せつぞく の形かたち で使つか われるのが圧倒的あっとうてき で、この語ご は性質せいしつ より動うご きを指さ す語ご だといえる。「的てき 」形かたち が育そだ たなかったこと自体じたい が、その性格せいかく を示しめ している。
演繹えんえき [0] 派生はせい 形けい ではないが、字面じづら が似に ていて混同こんどう されやすい語ご 。「衍えん 」と「演えん 」はどちらも「のべる」の意い を含ふく むが、演繹えんえき は一般いっぱん から個別こべつ を導みちび く論理ろんり の手続てつづ き で、敷衍ふえん は適用範囲てきようはんい を押お し広ひろ げる説明せつめい の身振みぶ り である。論理ろんり か説明せつめい か、という層そう の違ちが いがある。
付会ふかい 敷衍ふえん が行い きすぎたときの語ご 。本来ほんらい つながらないものを無理むり につなげること を言い い、「牽強けんきょう 付ふ 会かい 」の形かたち で使つか う。もとの筋道すじみち が通用つうよう する範囲はんい を超こ えた瞬間しゅんかん 、敷衍ふえん は付ふ 会かい になる — この境目さかいめ を意識いしき すると、『論語ろんご 』の「三隅みすみ 」がなぜ四隅よすみ ではなく三隅みすみ なのかも腑ふ に落お ちてくる。
コロケーション
敷衍ふえん すれば接続せつぞく の予告よこく この語ご のもっとも実用的じつようてき な形かたち 。直前ちょくぜん の命題めいだい を、より広ひろ い場面ばめん に当あ てはめて説明せつめい する という予告よこく として働はたら く。読解どっかい 上じょう の利り 点てん は大おお きい。この一語いちご が出で た時点じてん で、続つづ く部分ぶぶん が新しん 情報じょうほう ではなく既出きしゅつ 内容ないよう の適用てきよう 拡張かくちょう だと分わ かる ので、読よ む速度そくど を上あ げてよい箇所かしょ が判別はんべつ できる。
敷衍ふえん して言い えば柔やわ らかい変形へんけい 「すれば」より一段いちだん くだけた形かたち で、講演こうえん 体からだ や随筆ずいひつ に多おお い。「言い えば」が加くわ わることで、広ひろ げるのは事柄ことがら ではなく述の べ方ほう だ という含ふく みが生しょう じる。同おな じ内容ないよう を別べつ の言い い方かた で広ひろ く述の べ直なお す、という了りょう 解かい が読者どくしゃ と共有きょうゆう される。
議論ぎろん を敷衍ふえん する他動詞たどうし の形かたち 目的語もくてきご をとると、広ひろ げる対象たいしょう がはっきりする 。ここで広ひろ げられるのは論ろん そのものであって、結論けつろん ではない点てん に注意ちゅうい したい。結論けつろん を広ひろ げれば飛躍ひやく になり、論ろん の筋すじ を広ひろ げれば敷衍ふえん になる 。入試にゅうし で「敷衍ふえん の説明せつめい 」が問と われるときは、たいていこの区別くべつ が採点さいてん の分わ かれ目め になっている。
敷衍ふえん と展開てんかい 方向ほうこう の違ちが い展開てんかい が論ろん を前まえ へ進すす める のに対たい し、敷衍ふえん は横よこ へ広ひろ げる 。展開てんかい では新あたら しい段階だんかい に入はい るが、敷衍ふえん では段階だんかい は変か わらず適用範囲てきようはんい だけが増ふ える。縦たて に進すす むか横よこ に広ひろ がるか という図ず で捉とら えておくと、「詳述しょうじゅつ 」「換言かんげん 」「補足ほそく 」との違ちが いも同おな じ図ず の上うえ に置お ける。
格かく 硬かた ・学術がくじゅつ 論文ろんぶん ・評ひょう 論ろん でのみ使つか う。会話かいわ では不自然ふしぜん 。
類るい 語ご と差さ
詳述しょうじゅつ 詳くわ しく述の べる量りょう を増ふ やすこと。敷衍ふえん は適用範囲てきようはんい を広ひろ げることも含ふく む。
展開てんかい 論ろん を先さき へ進すす める前まえ へ進すす む動うご き。敷衍ふえん は横よこ へ広ひろ げる動うご き。
換言かんげん 言い い換か える同おな じ内容ないよう を別べつ の語ご で言い う。敷衍ふえん は内容ないよう を広ひろ げる。
補足ほそく 足た りない分ぶん を加くわ える不足ふそく を埋う める。敷衍ふえん は不足ふそく がなくても行おこな える。
EN amplification / elaborationZH 敷衍(いい加減にごまかす, fūyǎn)
日中にっちゅう のズレ
中国語ちゅうごくご の 敷衍ふえん (fūyǎn)は「おざなりにする」「いい加減かげん に済す ませる」(敷衍ふえん 了りょう 事こと )。
日本語にほんご の「敷衍ふえん 」は「押お し広ひろ げて詳くわ しく説明せつめい する」。ほぼ逆ぎゃく の含意がんい を持も つ。
29 ★
一元いちげん
いちげん [0] い ち げ ん 平板へいばん 型がた
語ご 構成こうせい
一いち ひとつ + 元もと もと・根本こんぽん
定義ていぎ
物事ものごと の根本こんぽん が一ひと つであること。
『現代げんだい 文ぶん キーワード読解どっかい 』1-1 ☑29
原げん 書しょ の解説かいせつ
評ひょう 論文ろんぶん では、「一元論いちげんろん 」「二元にげん 論ろん 」「多元論たげんろん 」という使つか われ方ほう で登場とうじょう することが多おお い。一元論いちげんろん とは、「神かみ によって世界せかい は成な り立た っている」のように、一ひと つの原理げんり によって物事ものごと を説明せつめい する考かんが え方かた のこと。二元にげん 論ろん とは、「光ひかり と闇やみ 」「善ぜん と悪あく 」のように、二ふた つの正反対せいはんたい の原理げんり によって物事ものごと を説明せつめい する考かんが え方かた である。また、多元論たげんろん とは、いくつもの原理げんり によって物事ものごと を説明せつめい する考かんが え方かた である。
多元たげん は「多元的たげんてき 」という使つか われ方ほう も多おお く、物事ものごと の根本こんぽん がいくつもある様子ようす を表あらわ す。たとえば、世界せかい にはさまざまな民族みんぞく や宗教しゅうきょう があるので、共存きょうぞん するためには多元的たげんてき な社会しゃかい を認みと める必要ひつよう がある。
使用しよう の境界きょうかい 物事ものごと の根本こんぽん が一ひと つであること。「神かみ によって世界せかい は成な り立た っている」のような立場たちば が一元論いちげんろん 。
用法ようほう 「一元論いちげんろん 」という哲学てつがく の立場たちば 名めい として出で るのが基本きほん で、単独たんどく の「一元いちげん 」はまれ。実務じつむ では「一元化いちげんか 」(窓口まどぐち の一元化いちげんか 、管理かんり の一元化いちげんか )が最もっと も多おお く、これは〈ばらばらの窓口まどぐち を一ひと つにまとめる〉という意味いみ で、哲学てつがく の一元論いちげんろん とは層そう が違ちが う。評ひょう 論文ろんぶん で「一元的いちげんてき 」と出で た場合ばあい は、多おお くを一ひと つの原理げんり で説明せつめい しようとする姿勢しせい を指さ し、しばしば批判的ひはんてき に扱あつか われる。多元たげん との対たい で読よ む。
用例ようれい
道みち は一いち を生しょう じ、一いち は二に を生しょう じ、二に は三さん を生しょう じ、三さん は万物ばんぶつ を生せい ず。『老子ろうし 』第だい 四十よんじゅう 二に 章しょう
一元論いちげんろん の骨格こっかく を四よん 句く で示しめ した一節いっせつ である。万物ばんぶつ のすべてが、たどっていけばただ一ひと つの根ね に行い き着つ く。注目ちゅうもく したいのは、ここで数かず が増ふ えていく向む きに語かた られている点てん である。一元論いちげんろん は「多おお くのものを一ひと つに減へ らす」立場たちば だと思おも われがちだが、そうではない。一ひと つの根本こんぽん から、いかにして多様たよう が出で てくるかを説明せつめい する立場たちば なのだ。だから一元論いちげんろん は多様性たようせい を否定ひてい しない。否定ひてい するのは多様性たようせい が「複数ふくすう の独立どくりつ した根ね 」を持も つこと のほうである。この区別くべつ ができると、31 の多元たげん との対立たいりつ 点てん がはっきりする。争あらそ われているのは現あらわ れの数かず ではなく、根ね の数かず である。
一いち 即そく 一切いっさい 、一切いっさい 即そく 一いち 。『華厳けごん 経へ 』の教理きょうり を要約ようやく した句く
一いち がそのまま一切いっさい であり、一切いっさい がそのまま一いち である、という。一元論いちげんろん のもっとも徹底てってい した形かたち で、根本こんぽん が一ひと つであるだけでなく、一ひと つ一ひと つの現あらわ れがそのまま根本こんぽん でもある と言い っている。ここまで来く ると、一いち と多た の区別くべつ そのものが崩くず れる。評ひょう 論文ろんぶん で「一元的いちげんてき 」が批判ひはん 語ご として使つか われるのは、この徹底てってい ゆえである — すべてを一ひと つの原理げんり で説明せつめい しきる姿勢しせい は、説明せつめい できない残のこ りを認みと めない姿勢しせい と紙一重かみひとえ だからだ。同おな じ思想しそう が、宗教しゅうきょう では悟さと りの表現ひょうげん になり、政治せいじ では全体ぜんたい 主義しゅぎ の言い い分ぶん になりうる。どちらに転ころ ぶかを決き めるのは、原理げんり の中身なかみ ではなくそれを人ひと に強し いるかどうかである。
すべてを経済けいざい で説明せつめい しようとする一元いちげん 的てき な見方みかた は、かえって多おお くを見落みお とす。
評ひょう 論文ろんぶん における「一元的いちげんてき 」の典型てんけい で、批判ひはん 語ご として働はたら いている 。注意ちゅうい したいのは、経済けいざい で説明せつめい することが間違まちが いだと言い っているのではない点てん だ。「すべてを」と「それだけで」が問題もんだい にされている 。27 の還元かんげん 主義しゅぎ とほとんど同おな じ構造こうぞう で、説明せつめい の道具どうぐ を唯一ゆいいつ の道具どうぐ に格かく 上あ げしたところに批判ひはん が向む かう。
×窓口まどぐち を一元いちげん 化か する哲学的てつがくてき 立場たちば を一元論いちげんろん という。
実務じつむ 語ご の「一元化いちげんか 」(ばらばらのものを一ひと つにまとめる)と、哲学てつがく の「一元論いちげんろん 」(一ひと つの原理げんり で説明せつめい する)がつながってしまっている 。同おな じ語幹ごかん だが層そう が違ちが う。まとめるのは組織そしき の話はなし 、説明せつめい するのは原理げんり の話はなし である。実務じつむ 語ご のほうが日常にちじょう では圧倒的あっとうてき に多おお いので、評ひょう 論文ろんぶん で出会であ ったときに引ひ きずられやすい。
派生はせい 形けい
一元的いちげんてき [0] 評ひょう 論文ろんぶん ではほぼ批判ひはん 語ご 。「多元的たげんてき 」がほぼ肯定こうてい 語ご であるのと正確せいかく に対たい をなしている。語ご の評価ひょうか が現代げんだい の思潮しちょう を映うつ している例れい で、百年ひゃくねん 前まえ の文章ぶんしょう では逆ぎゃく の評価ひょうか だったこともある。
一元論いちげんろん [0] 「論ろん 」が立場たちば の名な を作つく る。二元にげん 論ろん ・多元論たげんろん と三みっ つ並なら べて根本こんぽん の数かず で分類ぶんるい する枠組わくぐ み ができあがる。この枠組わくぐ みそのものが西洋せいよう 哲学史てつがくし の整理せいり 法ほう なので、評ひょう 論文ろんぶん で出で たら背景はいけい に哲学史てつがくし があると見み てよい。
一元化いちげんか [0] 「化か 」が過程かてい を指さ すが、こちらは哲学てつがく ではなく実務じつむ の語ご 。一元論いちげんろん から派生はせい したのではなく、「一ひと つにまとめる」という別べつ の意味いみ で育そだ った形かたち である。同おな じ語幹ごかん に二ふた つの系統けいとう が同居どうきょ している。
コロケーション
一元論いちげんろん 立場たちば の名な 「論ろん 」が付つ いて世界せかい の説明せつめい のしかた を指さ す名な になる。神かみ による世界せかい の説明せつめい 、物質ぶっしつ による世界せかい の説明せつめい — 内容ないよう はまるで違ちが うが、「一ひと つの原理げんり ですべてを説明せつめい する」という形かたち において同おな じ である。評ひょう 論文ろんぶん が扱あつか うのはこの形かたち のほうなので、一元論いちげんろん と聞き いて宗教しゅうきょう だけを思おも い浮う かべると読よ み違ちが える。
一元的いちげんてき な価値かち 観かん 批判ひはん の定型ていけい ものさしが一本いっぽん しかない という批判ひはん である。偏差へんさ 値ち だけで人ひと を測はか る、売上うりあげ だけで組織そしき を測はか る — いずれも一元的いちげんてき な価値かち 観かん と呼よ ばれる。面白おもしろ いのは、この批判ひはん がものさしの中身なかみ ではなく本数ほんすう を問題もんだい にしている 点てん だ。だから「もっと良よ いものさしに替か えよ」ではなく「もう一本いっぽん 増ふ やせ」が答こた えになる。31 の多元たげん へまっすぐつながる。
一元化いちげんか 実務じつむ の言葉ことば 窓口まどぐち の一元化いちげんか 、管理かんり の一元化いちげんか 。散ち らばっていた機能きのう を一いち か所しょ に集あつ める ことを言い う。こちらは効率こうりつ の話はなし で、ふつう肯定的こうていてき に使つか われる。同おな じ語幹ごかん が、実務じつむ では褒ほ め言葉ことば 、評ひょう 論ろん では批判ひはん 語ご という正反対せいはんたい の評価ひょうか を持も つ。12 の合理化ごうりか と同おな じねじれである。
一元的いちげんてき 支配しはい 政治せいじ の語彙ごい 権力けんりょく が一いち か所しょ に集あつ まり、対抗たいこう する中心ちゅうしん が存在そんざい しない状態じょうたい を指さ す。31 の政治的せいじてき 多元たげん 主義しゅぎ がまさにこれを避さ けるために立た てられた立場たちば なので、この二に 語ご は正面しょうめん から対立たいりつ する。11 の権力けんりょく の項こう と合あ わせて読よ むと、「一元いちげん /多元たげん 」が抽象論ちゅうしょうろん ではなく具体的ぐたいてき な政治せいじ の問題もんだい であることが分わ かる。
格かく 硬かた 書か き言葉ことば 。会話かいわ では不自然ふしぜん 。
類るい 語ご と差さ
単一たんいつ ただ一ひと つ 数かず だけの話はなし 。一元いちげん は〈根本こんぽん が一ひと つ〉という説明せつめい 原理げんり の話はなし 。
統一とういつ 一ひと つにまとめるまとめる動作どうさ 。一元いちげん は状態じょうたい ・立場たちば 。
絶対ぜったい 比くら べるものがない比較ひかく の可否かひ 。一元いちげん は根本こんぽん の数かず 。別べつ の軸じく 。
画一かくいつ すべて同おな じ形かたち 多様性たようせい の欠如けつじょ を否定的ひていてき に言い う。一元いちげん は中立ちゅうりつ 。
EN monismZH 一元(一元, yīyuán)
30 ★
二元にげん
にげん [0] に げ ん 平板へいばん 型がた
語ご 構成こうせい
二に ふたつ + 元もと もと・根本こんぽん
定義ていぎ
物事ものごと を二ふた つの原理げんり に分わ けること。
『現代げんだい 文ぶん キーワード読解どっかい 』1-1 ☑30
使用しよう の境界きょうかい 物事ものごと を二ふた つの原理げんり に分わ けること。「光ひかり と闇やみ 」「善ぜん と悪あく 」のように正反対せいはんたい の二に 原理げんり で世界せかい を説明せつめい する考かんが え方かた 。
用法ようほう 「心身しんしん 二元にげん 論ろん 」(デカルト)が代表だいひょう 例れい で、精神せいしん と物体ぶったい を別べつ の原理げんり とする立場たちば を指さ す。評ひょう 論文ろんぶん では「二元にげん 論ろん 的てき な発想はっそう 」がしばしば批判ひはん の対象たいしょう になり、〈世界せかい を単純たんじゅん に二ふた つに割わ って理解りかい してしまう〉という含ふく みで使つか われる。「二に 項こう 対立たいりつ 」という語ご が構造こうぞう 分析ぶんせき の用語ようご として広ひろ く使つか われるため、評ひょう 論文ろんぶん ではこちらの方ほう が頻度ひんど が高たか い。二元にげん 論ろん を批判ひはん した先さき に多元論たげんろん があるという流なが れが定型ていけい 。
用例ようれい
一いち 陰いん 一いち 陽よう 、之これ を道みち と謂い ふ。『易経えききょう 』繋辞けいじ 上じょう 伝でん
陰いん と陽ひ が交互こうご に現あらわ れること、それが道みち である、という。二元にげん 論ろん のもっとも古ふる い形かたち のひとつだが、西洋せいよう の心身しんしん 二元にげん 論ろん とは決定的けっていてき に違ちが う点てん がある。陰いん と陽よう は対立たいりつ しているが、切き り離はな されていない 。「一いち 陰いん 一いち 陽よう 」— 交互こうご に入い れ替か わるのだから、両者りょうしゃ は同おな じ一本いっぽん の運動うんどう の二ふた つの面めん である。一方いっぽう 、デカルトの心身しんしん 二元にげん 論ろん では精神せいしん と物体ぶったい は互たが いに独立どくりつ した別べつ の原理げんり とされ、それゆえ「では両者りょうしゃ はどうつながるのか」という難問なんもん が生う まれた。二ふた つに分わ けたあと、その二ふた つをつなぎ直なお せるかどうか — ここが二元にげん 論ろん の分わ かれ目め であり、評ひょう 論文ろんぶん が「二元にげん 論ろん 的てき な発想はっそう 」を批判ひはん するときも、つなぎ直なお せなくなった二元にげん を指さ している。
色即是空しきそくぜくう 、空即是色くうそくぜしき 。『般若はんにゃ 心経しんぎょう 』
形かたち あるものはそのまま空そら であり、空そら はそのまま形かたち あるものである。二元にげん を立た てておいて、その場ば で境界きょうかい を消け してみせる一句いっく である。ここで大切たいせつ なのは、色いろ と空そら という区別くべつ をいったん立た てなければ この文ぶん が書か けないことだ。区別くべつ を立た て、そのうえで区別くべつ が実体じったい を持も たないと言い う。評ひょう 論文ろんぶん における二元にげん 論ろん 批判ひはん も、多おお くはこの手順てじゅん を踏ふ む。二に 項こう 対立たいりつ を発見はっけん し、それを提示ていじ し、そのうえで対立たいりつ が作つく られたものだと示しめ す 。対立たいりつ を最初さいしょ から無な いことにしてしまうと、何なに を批判ひはん しているのか読者どくしゃ に伝つた わらない。批判ひはん は、批判ひはん される構図こうず をまず立た てるところから始はじ まる。
東洋とうよう と西洋せいよう という二元にげん 論ろん 的てき な図式ずしき は、それ自体じたい が近代きんだい の産物さんぶつ である。
評ひょう 論文ろんぶん でもっとも多おお い型かた のひとつ。二元にげん 論ろん を否定ひてい するのではなく、その由来ゆらい を問と うている点てん に注意ちゅうい したい。「間違まちが いだ」と言い うのではなく「いつ作つく られたか」を問と う。19 の虚構きょこう 、26 の相対そうたい 化か と同おな じ手て つきで、自然しぜん に見み えていた枠組わくぐ みを歴史れきし の中なか に置お き直なお す作業さぎょう である。
△所得しょとく が二元にげん 化か して中間ちゅうかん 層そう が消き えた。
こちらは「二に 極きょく 化か 」 である。分布ぶんぷ が二ふた つの極きょく に偏かたよ ることを言い い、説明せつめい の原理げんり の数かず とは関係かんけい がない。二元にげん は原理げんり の話はなし 、二に 極きょく 化か は分布ぶんぷ の話はなし 。語幹ごかん が似に ていても、扱あつか っている対象たいしょう の層そう がまったく違ちが う。
原げん 書しょ の反はん 意い 語ご ・関連かんれん 語ご 関せき 91
派生はせい 形けい
二元的にげんてき [0] 「二元にげん 論ろん 的てき 」の形かたち で使つか われることのほうが多おお い。「論ろん 」を挟はさ むと立場たちば としての主張しゅちょう を、挟はさ まないと単たん なる二分にぶん の構かま え を指さ す。批判ひはん の的まと が主張しゅちょう なのか癖くせ なのかで使つか い分わ ける。
二元論にげんろん [0] 一元論いちげんろん ・多元論たげんろん と対たい にして覚おぼ える。数かず だけが違ちが って形かたち は同おな じ という整理せいり ができると、評ひょう 論文ろんぶん が三みっ つのうちどこに立た っているかを素そ 早はや く判定はんてい できるようになる。
二項対立にこうたいりつ 厳密げんみつ には別語べつご だが、評ひょう 論文ろんぶん では二元にげん 論ろん とほぼ同義どうぎ に使つか われる 。違ちが いは、二元にげん 論ろん が世界せかい について語かた り、二に 項こう 対立たいりつ がテクストについて語かた ることである。批判ひはん の対象たいしょう が思想しそう か文章ぶんしょう か で見分みわ けるとよい。
コロケーション
心身しんしん 二元にげん 論ろん 代表だいひょう 例れい デカルトに由来ゆらい し、精神せいしん と物体ぶったい を別べつ の原理げんり とする立場たちば を指さ す。この分割ぶんかつ が近代きんだい 科学かがく を可能かのう にした — 物体ぶったい の側がわ を精神せいしん から切き り離はな せたからこそ、数量すうりょう として扱あつか えるようになった。9 の対象たいしょう 化か と同おな じ出来事できごと を、別べつ の角度かくど から言い っている。批判ひはん されるようになったのは、成功せいこう しすぎたから である。
二に 項こう 対立たいりつ 構造こうぞう 分析ぶんせき の術語じゅつご 評ひょう 論文ろんぶん では二元にげん 論ろん よりこちらの頻度ひんど が高たか い 。「二元にげん 論ろん 」が世界せかい の成な り立た ちについての主張しゅちょう であるのに対たい し、「二に 項こう 対立たいりつ 」はテクストの中なか に見出みいだ される対たい の配置はいち を指さ す方法論ほうほうろん の語ご である。文化ぶんか /自然しぜん 、男おとこ /女おんな 、中心ちゅうしん /周縁しゅうえん — これらを見み つけ、どちらが上位じょうい に置お かれているかを問と う のが構造こうぞう 分析ぶんせき の基本きほん 手順てじゅん になる。
二元にげん 論ろん を超こ える批判ひはん の身振みぶ り「否定ひてい する」ではなく「超こ える」と言い うのが定型ていけい である。二元にげん 論ろん が捉とら えたものを捨す てずに、その先さき へ進すす む という含ふく みがここにある。心こころ と体からだ の区別くべつ そのものは有用ゆうよう だから、区別くべつ を消け すのではなく区別くべつ が絶対ぜったい でないことを示しめ す 。多おお くの場合ばあい 、行い き先さき は 31 の多元論たげんろん である。
善悪ぜんあく 二元にげん 論ろん 価値かち の二に 分ぶん 世界せかい を善ぜん と悪あく の二ふた つの原理げんり で説明せつめい する立場たちば 。評ひょう 論文ろんぶん でこの語ご が出で るときは、ほぼ必かなら ず批判的ひはんてき である。理由りゆう は明快めいかい で、この図式ずしき では自分じぶん が必かなら ず善ぜん の側がわ に置お かれる からだ。外そと を悪あく と名指なざ す枠組わくぐ みは、同時どうじ に内ない を無条件むじょうけん に正当化せいとうか してしまう。20 のイデオロギーの項こう と直結ちょっけつ する。
格かく 硬かた 書か き言葉ことば 。会話かいわ では不自然ふしぜん 。
類るい 語ご と差さ
対立たいりつ 向む かい合あ って争あらそ う争あらそ いの関係かんけい 。二元にげん は説明せつめい 原理げんり の数かず で、争あらそ いを含ふく まない。
二に 項こう 対立たいりつ 二ふた つの項こう で論ろん を組く み立た てる構造こうぞう 分析ぶんせき の用語ようご 。二元にげん 論ろん より方法論ほうほうろん に寄よ る。評ひょう 論文ろんぶん では同義どうぎ に近ちか く使つか われる。
一元いちげん 根本こんぽん が一ひと つ根本こんぽん の数かず が違ちが う。二元にげん 論ろん 批判ひはん は一元論いちげんろん か多元論たげんろん に向む かう。
二に 極きょく 化か 二ふた つの極きょく に分わ かれる分布ぶんぷ の話はなし 。原理げんり の話はなし ではない。
EN dualismZH 二元(二元, èryuán)
31 ★
多元たげん
たげん [0] た げ ん 平板へいばん 型がた
語ご 構成こうせい
多た おおい + 元もと もと・根本こんぽん
定義ていぎ
物事ものごと の根本こんぽん が複数ふくすう あること。
『現代げんだい 文ぶん キーワード読解どっかい 』1-1 ☑31
使用しよう の境界きょうかい 物事ものごと の根本こんぽん が複数ふくすう あること。「多様たよう 」は現あらわ れ方ほう の話はなし 、「多元たげん 」は根本こんぽん の数かず の話はなし 。
用法ようほう 「多元的たげんてき な社会しゃかい 」「価値かち の多元たげん 化か 」の形かたち で、複数ふくすう の民族みんぞく ・宗教しゅうきょう ・価値かち 観かん が共存きょうぞん する状態じょうたい を肯定的こうていてき に述の べる用法ようほう が多おお い。政治学せいじがく の「政治的せいじてき 多元たげん 主義しゅぎ 」は、国家こっか 権力けんりょく を抑制よくせい して社会しゃかい 集団しゅうだん の自由じゆう を確保かくほ しようとする立場たちば を指さ し、原げん 書しょ の「権威けんい /権力けんりょく 」の入試にゅうし 文ぶん がこの語ご を扱あつか う。「多様たよう 」との違ちが いは、多様たよう が現象げんしょう の種類しゅるい の多おお さであるのに対たい し、多元たげん は根本こんぽん の原理げんり が複数ふくすう あるという主張しゅちょう であること。この差さ が確認かくにん テストの区別くべつ になる。
用例ようれい
和わ は羹あつもの の如ごと し。……若わか し水みず を以もっ て水みず を済ずみ はば、誰だれ か能のう く之これ を食しょく らはん。『春秋しゅんじゅう 左氏さし 伝でん 』昭公しょうこう 二十にじゅう 年ねん ・晏子あんし の言げん
「和わ 」とは吸す い物もの のようなものだ、と晏子あんし は言い う。塩しお も梅うめ も魚さかな も、それぞれ違ちが う味あじ を持も ったまま入はい るから吸す い物もの になる。水みず に水みず を足た しても、誰だれ がそれを飲の むだろうか 。ここで示しめ されているのが多元たげん の考かんが え方かた である。重要じゅうよう なのは、晏子あんし が「違ちが いを残のこ したまま一ひと つの料理りょうり になる」 と言い っている点てん だ。違ちが いを消け して一ひと つにするのは「同どう 」であって「和わ 」ではない。多元的たげんてき な社会しゃかい とは、複数ふくすう の原理げんり がそのまま複数ふくすう のまま共存きょうぞん する社会しゃかい であり、一ひと つに溶と け合あ った社会しゃかい ではない。20 の項こう で引ひ いた『論語ろんご 』の「和わ して同どう ぜず」は、この晏子あんし の議論ぎろん を背景はいけい に持も っている。
多摩たま 川かわ にさらす手て 作つく りさらさらに何なに そこの児こ のここだ愛あい しき『万葉集まんようしゅう 』巻かん 十四じゅうよん ・東歌あずまうた (8世紀はっせいき )
『万葉集まんようしゅう 』には、天皇てんのう の歌うた も、名な も知し れぬ東国とうごく の農民のうみん の歌うた も、防人さきもり の歌うた も、同おな じ資格しかく で並なら んでいる。この一いち 首くび も作者さくしゃ は分わ からない。注目ちゅうもく したいのは、編者へんしゃ がそれらを身分みぶん の順じゅん に並なら べ直なお さなかった ことである。多様たよう なだけなら、多おお くの種類しゅるい の歌うた を集あつ めればよい。多元たげん とは、それぞれの歌うた が別々べつべつ の根ね から生は えていることを認みと める ことだ。宮廷きゅうてい の美び 意識いしき という一ひと つの原理げんり で東歌あずまうた を測はか れば、それは多様たよう ではあっても多元たげん ではない。『古今ここん 集しゅう 』以降いこう 、和歌わか が一ひと つの規範きはん に整ととの えられていく流なが れと引ひ き比くら べると、この違ちが いがはっきりする。
複数ふくすう の民族みんぞく と宗教しゅうきょう が共存きょうぞん するには、多元たげん 的てき な社会しゃかい を認みと める必要ひつよう がある。
原げん 書しょ の説明せつめい をそのまま文ぶん にしたもの。「多様たよう な社会しゃかい 」と書か いた場合ばあい との差さ を確たし かめたい。多様たよう なら、一ひと つの枠わく の中なか にいろいろな人ひと がいるだけで足た りる 。多元たげん と書か けば、その枠わく 自体じたい が複数ふくすう あることを認みと める ことになる。一段いちだん 踏ふ み込こ んだ主張しゅちょう であり、それゆえ実現じつげん ははるかに難むずか しい。
×商品しょうひん の種類しゅるい が多元たげん 的てき で選えら ぶのに困こま る。
種類しゅるい の多おお さは「多様たよう 」 である。多元たげん は根本こんぽん の原理げんり が複数ふくすう ある という主張しゅちょう で、現あらわ れ方ほう の話はなし ではない。「根ね が複数ふくすう か、枝えだ が複数ふくすう か」 を問と えば二に 語ご は分わ かれる。確認かくにん テストで直接ちょくせつ 問と われる区別くべつ なので、この言い い方かた ごと覚おぼ えておきたい。
派生はせい 形けい
多元的たげんてき [0] ほぼ肯定こうてい 語ご として働はたら く。「一元的いちげんてき 」がほぼ批判ひはん 語ご であるのと対たい をなす。ただし肯定こうてい 語ご であるがゆえに中身なかみ を問と われないまま使つか われやすい ので、評ひょう 論文ろんぶん では「何なに が複数ふくすう だと言い っているのか」を確たし かめながら読よ みたい。
多元論たげんろん [0] 一元論いちげんろん ・二元にげん 論ろん と並なら ぶ立場たちば の名な 。二元にげん 論ろん を批判ひはん した先さき に多元論たげんろん がある という流なが れが定型ていけい で、評ひょう 論文ろんぶん の議論ぎろん はしばしばこの順序じゅんじょ で進すす む。
多元主義たげんしゅぎ [0] 「主義しゅぎ 」が付つ いてすべきだという主張しゅちょう になる。多元論たげんろん が世界せかい の説明せつめい であるのに対たい し、こちらは社会しゃかい の設計せっけい 思想しそう である。26 の相対そうたい 主義しゅぎ と同おな じく、説明せつめい と主張しゅちょう の区別くべつ がここでも効き いてくる。
コロケーション
多元的たげんてき な社会しゃかい 肯定こうてい の定型ていけい 複数ふくすう の民族みんぞく ・宗教しゅうきょう ・価値かち 観かん がそれぞれの原理げんり を保たも ったまま共存きょうぞん する 社会しゃかい を指さ す。ほぼ常つね に肯定的こうていてき に使つか われるが、同時どうじ にもっとも難むずか しい状態じょうたい でもある。共通きょうつう の物差ものさ しが無な いのだから、対立たいりつ が起お きたとき何なに を基準きじゅん に裁さば くのかが定さだ まらない。評ひょう 論文ろんぶん が多元たげん を論ろん じるときの真しん の争点そうてん はここで、1 の普遍ふへん と正面しょうめん からぶつかる 。
価値かち の多元たげん 化か 歴史れきし の記述きじゅつ 「化か 」が付つ いてすでに進行しんこう した変化へんか を指さ す。規範きはん や宗教しゅうきょう の力ちから が弱じゃく まり、善悪ぜんあく の基準きじゅん が人ひと それぞれになった — これは主張しゅちょう ではなく事実じじつ の記述きじゅつ として書か かれる。26 の相対そうたい 化か と重かさ なるが、相対そうたい 化か が「一ひと つの基準きじゅん を相対的そうたいてき な位置いち へ戻もど す」操作そうさ 、多元たげん 化か が「基準きじゅん そのものが増ふ える」変化へんか である点てん が違ちが う。
政治的せいじてき 多元たげん 主義しゅぎ 権力けんりょく の抑制よくせい 国家こっか 権力けんりょく を抑おさ え、社会しゃかい の中なか に複数ふくすう の集団しゅうだん が独立どくりつ の力ちから を持も つことを保証ほしょう しようとする立場たちば 。原げん 書しょ の「権威けんい /権力けんりょく 」の入試にゅうし 文ぶん が扱あつか う語ご である。10・11 の項こう と結むす んで読よ みたい。権力けんりょく が一元化いちげんか しないことそのものが自由じゆう の条件じょうけん だ という主張しゅちょう で、抽象的ちゅうしょうてき な多元論たげんろん が政治せいじ 制度せいど の設計せっけい に直結ちょっけつ する場面ばめん である。
多元たげん と多様たよう 境目さかいめ の確認かくにん 評ひょう 論文ろんぶん でこの二に 語ご が並なら べられたら、筆者ひっしゃ はその違ちが いを説明せつめい しようとしている 。多様たよう は現あらわ れの種類しゅるい の多おお さ、多元たげん は原理げんり の数かず 。「多様性たようせい を認みと める」と言い いながら一ひと つの物差ものさ しで測はか っている という批判ひはん がしばしばこの区別くべつ の上うえ に立た てられるので、見み かけたら論ろん の核心かくしん である可能性かのうせい が高たか い。
格かく 硬かた 書か き言葉ことば 。会話かいわ では不自然ふしぜん 。
類るい 語ご と差さ
多様たよう 種類しゅるい が多おお い現あらわ れ方ほう の話はなし 。多元たげん は説明せつめい 原理げんり の数かず 。「多様たよう な社会しゃかい 」と「多元的たげんてき な社会しゃかい 」は含意がんい が違ちが う。
複数ふくすう 一ひと つより多おお い数かず だけの話はなし 。原理げんり の話はなし ではない。
相対そうたい 比較ひかく の中なか で成な り立た つ比較ひかく の可否かひ 。多元たげん は根本こんぽん の数かず 。多元論たげんろん は相対そうたい 主義しゅぎ に接続せつぞく しやすい。
複合ふくごう 複数ふくすう が組く み合あ わさる結合けつごう の状態じょうたい 。多元たげん は独立どくりつ した複数ふくすう の原理げんり 。
EN pluralismZH 多元(多元, duōyuán)
対立たいりつ の軸じく
還元かんげん /敷衍ふえん の軸じく = 広ひろ げるか縮ちぢ めるか
還元かんげん もとに戻もど す。基礎的きそてき な部分ぶぶん まで分解ぶんかい する。
広ひろ げるか縮ちぢ めるか
敷衍ふえん 意味いみ を押お し広ひろ げて詳くわ しく説明せつめい する。
一元いちげん /多元たげん の軸じく = 根本こんぽん の数かず
一元いちげん 物事ものごと の根本こんぽん が一ひと つ。
根本こんぽん の数かず
多元たげん 物事ものごと の根本こんぽん が複数ふくすう 。
一元・二元・多元 世界を説明する根本の原理の数が一つ、二つ、複数である三つの立場を示した図。
一元
根本が一つ
神によって世界は成る
二元
正反対の二原理
光と闇・善と悪・心と身体
多元
根本が複数
多民族・多宗教の共存
「多様」は現れ方の数、「多元」は根本の数
根本こんぽん の原理げんり はいくつあるか
還元と敷衍の方向を示した図 還元が対象を最も基礎的な部分まで縮める操作、敷衍が適用範囲を横へ広げる操作であることを、逆向きの矢印で示す。
同じ「説明する」でも、向きが正反対である 還元 REDUCTION 生命現象 細胞 分子 最も基礎的な部分まで戻す 全体にしかない性質はこぼれ落ちる 敷衍 AMPLIFICATION 食 生活 全体 筋道はそのまま、当てはまる場を広げる 具体は捨てない。抽象とはここが違う 広げすぎれば付会になる
還元かんげん は縮ちぢ め、敷衍ふえん は広ひろ げる
Section 15
アイロニー/ディレンマ/情念じょうねん (パトス)/恣意しい
32 ★
アイロニー
アイロニー [1] ア イ ロ ニ ー 頭高あたまだか 型がた
定義ていぎ
皮肉ひにく ・反はん 語ご 。
『現代げんだい 文ぶん キーワード読解どっかい 』1-1 ☑32
原げん 書しょ の解説かいせつ
アイロニー とは、本当ほんとう の気持きも ちとは反対はんたい のことを言い って真しん 意い を相手あいて に悟さと らせる言い い方かた のことで、文章ぶんしょう の表現ひょうげん において、表面ひょうめん の意味いみ とは逆ぎゃく の意味いみ を裏うら に込こ める用法ようほう である。多おお くは嘲笑ちょうしょう や軽蔑けいべつ を表あらわ す。また、イロニーとも言い う。
たとえば
遅刻ちこく してきた人ひと に「ずいぶん早はや いですね」と声こえ をかけるのは、「遅おそ い」ことを非難ひなん したい気持きも ちを込こ めた皮肉ひにく である。
使用しよう の境界きょうかい 本当ほんとう の気持きも ちとは反対はんたい のことを言い って真しん 意い を悟さと らせる言い い方かた 。多おお くは嘲笑ちょうしょう や軽蔑けいべつ を表あらわ す。単たん なる冗談じょうだん ではない。
用法ようほう 表面ひょうめん の意味いみ と真しん 意い が反対はんたい になる表現ひょうげん で、日本語にほんご では「皮肉ひにく 」がほぼ同義どうぎ だが、「アイロニー」は文学ぶんがく ・批評ひひょう の用語ようご として使つか われる。「歴史れきし のアイロニー」のように、意図いと と結果けっか が反対はんたい になった事態じたい を指さ す用法ようほう もあり、この場合ばあい は話者わしゃ の意図いと を含ふく まない。原げん 書しょ の確認かくにん テストは、遅刻ちこく した人ひと に「ずいぶん早はや いですね」と言い う例れい を挙あ げる。読解どっかい では、表面ひょうめん の語ご をそのまま取と ると逆ぎゃく の意味いみ になる箇所かしょ を見み つける作業さぎょう になる。
用例ようれい
めでたさも中なか くらゐなりおらが春はる 小林こばやし 一茶いっさ 『おらが春はる 』(1819)
新しん 年ねん の句く である。正月しょうがつ を詠よ むなら「めでたい」と言い うのが約束事やくそくごと で、一茶いっさ もいちおう「めでたさ」と言い っている。ところが「中なか くらゐ」と付つ けた。祝いわ いの言葉ことば の形かたち をとりながら、祝いわ っていない のである。ここがアイロニーの核心かくしん で、表面ひょうめん の語ご を裏切うらぎ るのは別べつ の語ご ではなく、語ご と語ご のあいだの落差らくさ だ。「めでたくない」と直接ちょくせつ 言い えば、それはただの不満ふまん になる。いったん祝いわ いの言葉ことば を口くち にしてからそれを半分はんぶん に値あたい 切き ることで、祝いわ わねばならないという世間せけん の約束やくそく ごと自体じたい が軽かる く笑わら われる 。一茶いっさ がこの年とし に幼おさな い娘むすめ を亡な くしていることを知し ると、この「中なか くらゐ」の重おも さがさらに変か わる。
役人やくにん の子こ はにぎにぎをよく覚おぼ え『誹風はいふう 柳多留やなぎだる 』(1765〜)
赤あか ん坊ぼう が手て を握にぎ ったり開ひら いたりする「にぎにぎ」の仕草しぐさ を、賄賂わいろ を受う け取と る手て つきに重かさ ねた川柳せんりゅう である。これは風刺ふうし であってアイロニーではない 。両者りょうしゃ の違ちが いを見み るのにちょうどよい。アイロニーは表面ひょうめん の意味いみ と真しん 意い が逆ぎゃく になる言い い方かた だが、この句く は逆ぎゃく になっていない。言い っていることと言い いたいことは同おな じ方向ほうこう — 役人やくにん は汚きたな い である。違ちが うのは、それを笑わら いの形かたち にくるんで社会しゃかい の欠点けってん へ向む けている という点てん だ。対象たいしょう が社会しゃかい ・制度せいど に向む かい、笑わら いを武器ぶき にするのが風刺ふうし 。表面ひょうめん と裏うら の意味いみ が反転はんてん するのがアイロニー 。この二ふた つは日本語にほんご ではしばしば「皮肉ひにく 」に混ま ぜられるが、仕組しく みはまったく違ちが う。
三十分さんじっぷん 遅おく れてきた人ひと に、「ずいぶんお早はや いですね」と言い うのはアイロニー である。
原げん 書しょ の確認かくにん テストが挙あ げる例れい である。成立せいりつ の条件じょうけん を確たし かめておきたい。相手あいて が遅おく れたことを双方そうほう が知し っている必要ひつよう がある。知し らなければ、それはただの間違まちが いか嘘うそ になる。つまりアイロニーは共有きょうゆう された事実じじつ の上うえ にしか立た たない 。この点てん で、読者どくしゃ の常識じょうしき に頼たよ る 18 の逆説ぎゃくせつ と仕組しく みがよく似に ている。
×自由じゆう を求もと めた革命かくめい が独裁どくさい を生う んだのは、話者わしゃ のアイロニー によるものだ。
意図いと と結果けっか が反対はんたい になった事態じたい は「歴史れきし のアイロニー」 と呼よ ばれるが、そこに話者わしゃ の意図いと は無な い 。誰だれ も皮肉ひにく を言い っていないのに、出来事できごと の側がわ が皮肉ひにく な形かたち をとっている。語かた り手て のアイロニーと事態じたい のアイロニーを混ま ぜない こと。前者ぜんしゃ は修辞しゅうじ 、後者こうしゃ は構造こうぞう である。
原げん 書しょ の反はん 意い 語ご ・関連かんれん 語ご 関せき シニカル
派生はせい 形けい
イロニー ドイツ語ご Ironie の音訳おんやく で、哲学てつがく ・文学ぶんがく 理論りろん の文脈ぶんみゃく で使つか われる 。英語えいご 由来ゆらい の「アイロニー」より硬かた く、ロマン主義しゅぎ のイロニー、ソクラテスのイロニーといった術語じゅつご として現あらわ れることが多おお い。訳やく し分わ けではなく、どの学問がくもん の系譜けいふ から来き た文章ぶんしょう かの目印めじるし になる。
アイロニカル 形容詞けいようし 形けい 。「アイロニカルな態度たいど 」は表現ひょうげん ではなく構かま えを指さ す ため、「シニカル」に近ちか づく。ただしシニカルが冷ひ ややかさだけを言い うのに対たい し、こちらは反転はんてん の仕掛しか けを含ふく む点てん でなお本ほん 義ぎ を保たも っている。
反語はんご [0] 別語べつご だが日本語にほんご の修辞しゅうじ 法ほう として近ちか い。疑問ぎもん の形かたち で断定だんてい を表あらわ す用法ようほう (「誰だれ が知し ろうか」=誰だれ も知し らない)を含ふく む点てん がアイロニーより広ひろ い。古文こぶん の読解どっかい で必須ひっす の語ご でもあり、形かたち が疑問ぎもん ・意味いみ が断定だんてい という反転はんてん の構造こうぞう は共通きょうつう している。
コロケーション
歴史れきし のアイロニー意図いと なき反転はんてん 話者わしゃ の意図いと を含ふく まない用法ようほう である。自由じゆう を求もと めた運動うんどう が抑圧よくあつ を生う み、効率こうりつ を求もと めた改革かいかく が非ひ 効率こうりつ を招まね く。誰だれ も皮肉ひにく を言い っていないのに、結果けっか が皮肉ひにく な形かたち をとる。17 の倒錯とうさく とよく似に た構図こうず だが、倒錯とうさく が「反転はんてん したまま固定こてい した状態じょうたい 」を指さ すのに対たい し、アイロニーは「意図いと と結果けっか の食く い違ちが い」そのもの を指さ す。見み ている場所ばしょ が違ちが う。
アイロニカルな笑わら い距離きょり の取と り方かた 対象たいしょう を否定ひてい しきらず、半歩はんぽ 離はな れたところから眺なが める笑わら いである。否定ひてい するには、否定ひてい する側がわ の正ただ しさを立た てねばならない。アイロニーはそれをしない。だからこの笑わら いは批判ひはん より弱よわ く、しかし逃に げ道みち が少すく ない 。批判ひはん なら反論はんろん できるが、距離きょり を取と られただけでは反論はんろん のしようがないからである。
自己じこ アイロニー内ない へ向む く反転はんてん 自分自身じぶんじしん に向む けられたアイロニー。一茶いっさ の「めでたさも中なか くらゐ」がまさにこれで、笑わら っている自分じぶん も笑わら われる側がわ に含ふく まれている 。外そと へ向む けたアイロニーがしばしば傲慢ごうまん に響ひび くのに対たい し、この形かたち は語かた り手て を安全あんぜん な場所ばしょ に置お かない。近代きんだい 小説しょうせつ がこの形かたち を好よしみ んだのは、語かた り手て を特権的とっけんてき な位置いち から降お ろすため である。
皮肉ひにく と風刺ふうし 隣となり り合あ う二に 語ご 皮肉ひにく は個別こべつ の場面ばめん で、相手あいて を刺さ す ために使つか う。風刺ふうし は社会しゃかい や制度せいど に向む けて、笑わら いの形かたち で欠点けってん を突つ く 。アイロニーは、どちらの場面ばめん でも使つか える言い い方かた の仕組しく みの名な である。この三さん 語ご は日本語にほんご で混ま ざりやすいので、対象たいしょう ・手段しゅだん ・仕組しく みという三みっ つの軸じく で分わ けておくとよい。
格かく 中なか 書か き言葉ことば ・会話かいわ の両方りょうほう で使つか える。
類るい 語ご と差さ
皮肉ひにく 遠とお 回まわ しに刺さ す日本語にほんご の日常にちじょう 語ご 。アイロニーとほぼ同義どうぎ だが、より口語こうご 的てき で刺さ す意図いと が明確めいかく 。
反はん 語ご 反対はんたい の形かたち で言い う修辞しゅうじ 法ほう の名な 。疑問ぎもん 形けい で断定だんてい を表あらわ す用法ようほう (誰だれ が知し ろうか=誰だれ も知し らない)も含ふく む。
シニカル 冷ひ ややかに構かま える態度たいど についての語ご 。アイロニーは表現ひょうげん についての語ご 。
風刺ふうし 社会しゃかい の欠点けってん を笑わら いで突つ く対象たいしょう が社会しゃかい ・制度せいど 。アイロニーは個別こべつ の場面ばめん でも使つか える。
EN ironyZH 讽刺(皮肉・風刺, fěngcì)
33 ★
ディレンマ
ディレンマ [2] デ ィ レ ン マ 中高なかだか 型がた
定義ていぎ
二ふた つの相反そうはん する事柄ことがら の板いた ばさみになること。
『現代げんだい 文ぶん キーワード読解どっかい 』1-1 ☑33
原げん 書しょ の解説かいせつ
ディレンマ とは、両立りょうりつ しない二ふた つのことの間あいだ にはさまれて、身み 動うご きが取と れない状況じょうきょう に苦くる しむことである。たとえば、「甘あま いものは食た べたいが、ダイエットもしタイ」というような、同時どうじ に実現じつげん することができない二ふた つの物事ものごと の間あいだ にはさまれて苦くる しむことを言い う。
あるいは、「自由じゆう にしなさい」と言い われた者もの も、ディレンマの状況じょうきょう にある。なぜなら、自由じゆう に行動こうどう したら「命令めいれい に従したが っている」という状態じょうたい になるので自由じゆう に反はん してしまうし、反対はんたい に命令めいれい に背そむ くことで自由じゆう を獲得かくとく しようとしても、「不ふ 自由じゆう でいる」ことになるからだ。
使用しよう の境界きょうかい 両立りょうりつ しない二ふた つのことの間あいだ にはさまれて身み 動うご きが取と れないこと。単たん に迷まよ うことではない。どちらを選えら んでも失うしな うものがある。
用法ようほう 「ジレンマ」の表記ひょうき も広ひろ く使つか われる。原げん 書しょ は「甘あま いものは食た べたいがダイエットもしたい」を例れい に挙あ げる。重要じゅうよう なのは〈どちらを選えら んでも損失そんしつ が出で る〉構造こうぞう であり、単たん に迷まよ っているだけならディレンマではない。「自由じゆう にしなさい」と言い われた者もの が、命令めいれい に従じゅう えば自由じゆう に振ふ る舞ま えるが命令めいれい に従したが っている、という自己じこ 言及げんきゅう 型がた のディレンマもあり、パラドックスと接続せつぞく する。評ひょう 論文ろんぶん では「近代きんだい のディレンマ」のように、構造的こうぞうてき に解決かいけつ 不能ふのう な事態じたい を指さ す。
用例ようれい
人ひと 亦また 言げん へる有ゆう り、進しん 退たい 維こ れ谷たに まれり、と。『詩経しきょう 』大雅たいが ・桑柔そうじゅう
「進退維谷しんたいこれきわまれり (しんたいこれきわまれり)」— 進すす むこともできず退しりぞ くこともできない。「進しん 退たい 窮きわ まる」という日本語にほんご の出で どころである。この四字よじ が正確せいかく に写うつ しているのは、選択肢せんたくし が無な いのではなく、どちらの選択肢せんたくし も塞ふさ がっている という状態じょうたい である。ここがディレンマの要点ようてん だ。道みち が一本いっぽん も無な いなら、それは絶望ぜつぼう であって板いた ばさみではない。二ふた つの道みち がはっきり見み えていて、そのどちらへ進すす んでも失うしな うものがある — だから身み 動うご きが取と れない。単たん に迷まよ っているのとは違ちが う。迷まよ いは情報じょうほう が足た りないだけで、情報じょうほう が揃そろ えば解と ける。ディレンマは情報じょうほう が揃そろ っているからこそ動うご けない 。
精神せいしん 的てき に向上心こうじょうしん のないものは、ばかだ。夏目なつめ 漱石そうせき 『こころ』(1914)
「先生せんせい 」がかつて友人ゆうじん の K に投な げつけた言葉ことば である。K は道みち を求もと める人ひと であり、同時どうじ に一人ひとり の女性じょせい に恋こい をしていた。この一言ひとこと は、K が自分じぶん で自分じぶん に課か していた規範きはん をそのまま利用りよう して突つ き刺さ している 。恋こい を選えら べば自みずか らの道みち に背そむ き、道みち を選えら べば心こころ を殺ころ す。どちらを選えら んでも、K は K でなくなる 。これがディレンマの本来ほんらい の重おも さである。甘あま いものとダイエットの例れい (原げん 書しょ )が同おな じ構造こうぞう をずっと軽かる い場面ばめん で示しめ しているのに対たい し、ここでは失うしな われるものが本人ほんにん の存立そんりつ そのもの にまで届とど いている。そして「先生せんせい 」がこの言葉ことば を選えら んだこと自体じたい が、のちに彼かれ 自身じしん のディレンマを生う むことになる。
「自由じゆう にしなさい」と命めい じられた者もの は、ディレンマ に陥おちい る。
原げん 書しょ が挙あ げる自己じこ 言及げんきゅう 型がた の例れい である。自由じゆう に振ふ る舞ま えば命令めいれい に従したが っている ことになり、命令めいれい に背そむ けば不ふ 自由じゆう になる 。どちらへ進すす んでも自由じゆう から遠とお ざかる。18 のパラドックスと接せっ する場面ばめん で、命令めいれい の内容ないよう が命令めいれい という形式けいしき と衝突しょうとつ している ためにこの構造こうぞう が生しょう じる。
△どの店みせ で食た べるか決き められずディレンマ だ。
選えら ばなかったほうを失うしな うだけなら、それはただの迷まよ い である。ディレンマはどちらを選えら んでも手放てばな したくないものを手放てばな すことになる 構造こうぞう を指さ す。「選えら んだ側がわ でも何なに かを失うしな うか」 を問と えば判別はんべつ できる。失うしな わないなら、それは単たん なる選択せんたく にすぎない。
コロケーション
ディレンマに陥おちい る落下らっか の比喩ひゆ 「陥おちい る」が使つか われるのは、自分じぶん から入はい るものではない からである。状況じょうきょう のほうが先さき にあって、そこへ落お ちる。この動詞どうし の選択せんたく に、ディレンマが本人ほんにん の判断力はんだんりょく の問題もんだい ではない という了りょう 解かい が現あらわ れている。「決断けつだん 力りょく がない」という非難ひなん とこの語ご が両立りょうりつ しないのは、そのためだ。
近代きんだい のディレンマ構造的こうぞうてき な行い き詰づ まり個人こじん ではなく時代じだい や制度せいど が抱かか える ディレンマを指さ す。自由じゆう を広ひろ げれば格差かくさ が開ひら き、平等びょうどう を進すす めれば自由じゆう が縮ちぢ む — といった型かた である。重要じゅうよう なのは、これが誰だれ かの失敗しっぱい ではない という点てん だ。解決かいけつ できないことが構造こうぞう から出で てくる ので、評ひょう 論文ろんぶん はしばしば「解決かいけつ 」ではなく「どう引ひ き受う けるか」を問と うところへ進すす む。
二律背反にりつはいはん カントの語ご 原語げんご はアンチノミー。二ふた つの原理げんり がどちらも成な り立た つのに同時どうじ には成な り立た たない という論理ろんり の問題もんだい を指さ す。ディレンマとの違ちが いは、選択せんたく の苦くる しみを含ふく まない ことである。二律背反にりつはいはん は誰だれ も選えら ばなくても存在そんざい するが、ディレンマは選えら ばねばならない者もの がいて初はじ めて成立せいりつ する。
トレードオフ量りょう の交換こうかん 経済けいざい ・工学こうがく の語ご で、一方いっぽう を得え れば他方たほう を失うしな うという量的りょうてき な交換こうかん 関係かんけい を指さ す。ディレンマと似に ているが、トレードオフには身み 動うご きが取と れないという含ふく みが無な い 。むしろ「どこで釣つ り合あ わせるか」を計算けいさん できることが前提ぜんてい になっている。計算けいさん できればトレードオフ、できなければディレンマ と考かんが えるとよい。
格かく 中なか 書か き言葉ことば ・会話かいわ の両方りょうほう で使つか える。
類るい 語ご と差さ
板いた ばさみ二者にしゃ の間あいだ で苦くる しむ口語こうご 。人間にんげん 関係かんけい の場面ばめん に偏かたよ る。ディレンマは論理的ろんりてき な構造こうぞう も指さ す。
二律背反にりつはいはん 二ふた つの原理げんり が同時どうじ に成な り立た たないカントの用語ようご (アンチノミー)。論理ろんり の話はなし で、選択せんたく の苦くる しみは含ふく まない。
トレードオフ 一方いっぽう を取と れば他方たほう を失うしな う経済けいざい ・工学こうがく の語ご 。量的りょうてき な交換こうかん 関係かんけい を指さ し、身み 動うご きが取と れない含ふく みはない。
葛藤かっとう 心こころ の中なか で対立たいりつ する内面ないめん の争あらそ い。ディレンマは選択肢せんたくし の構造こうぞう 。
EN dilemmaZH 困境(ディレンマ, kùnjìng)
34 ★
情念(パトス)じょうねん
じょうねん [0] じょ う ね ん 平板へいばん 型がた
語ご 構成こうせい
情じょう こころのうごき + 念ねん おもい
語源ごげん 的てき に受動性じゅどうせい を意味いみ する。感情かんじょう → 情動じょうどう → 情念じょうねん の順じゅん に激はげ しさが増ま す。
定義ていぎ
理性りせい では抑おさ えることのできない強つよ い感情かんじょう 。激情げきじょう 。
『現代げんだい 文ぶん キーワード読解どっかい 』1-1 ☑34
原げん 書しょ の解説かいせつ
人間にんげん の喜怒哀楽きどあいらく というものは、何なに らかの刺激しげき を外そと から受う けて初はじ めて生う まれてくるものであるため、情念じょうねん を意味いみ するパトス やパッションも、語源ごげん 的てき には受動性じゅどうせい を表あらわ す。
感情かんじょう → 情動じょうどう → 情念じょうねん というように、心こころ の動うご きの激はげ しさは増ま していき、理性りせい や知性ちせい では抑おさ えられなくなったのが情念じょうねん とされるが、こうした激情げきじょう とも言い える反応はんのう は、一時的いちじてき なものにすぎない。これに対たい して、持続的じぞくてき な内面ないめん 性せい はエートスと呼よ ばれている(たとえば、日本人にほんじん は勤勉きんべん で礼儀れいぎ 正ただ しい、など)。
使用しよう の境界きょうかい 理性りせい では抑おさ えられない強つよ い感情かんじょう 。激情げきじょう 。一時的いちじてき なものであって、持続じぞく する内面ないめん 性せい は「エートス」。
用法ようほう 「パトス」と併記へいき されるのが定型ていけい で、ギリシア語ご の語源ごげん は受動性じゅどうせい を意味いみ する。つまり情念じょうねん は自分じぶん が起お こすものではなく、外そと から刺激しげき を受う けて生しょう じるものだという含ふく みがある。この受動性じゅどうせい が「理性りせい で抑おさ えられない」という性質せいしつ の根拠こんきょ になる。ロゴス(理性りせい ・言葉ことば )と対たい で使つか われ、西洋せいよう 思想史しそうし の枠組わくぐ みを背負せお う。日本語にほんご の日常にちじょう 会話かいわ ではほとんど使つか わず、文学ぶんがく ・思想しそう の文脈ぶんみゃく に限かぎ られる。「情念じょうねん 的てき 」という形容けいよう 動詞どうし も硬かた い。
用例ようれい
やまと歌うた は、人ひと の心こころ を種しゅ として、万まん の言げん の葉は とぞなれりける。世よ の中なか にある人ひと 、ことわざ繁しげ きものなれば、心こころ に思おも ふことを、見み るもの聞き くものにつけて、言げん ひ出だ せるなり。紀き 貫之つらゆき 『古今和歌集こきんわかしゅう 』仮名かな 序じょ (905)
注目ちゅうもく したいのは「見み るもの聞き くものにつけて」という一句いっく である。心こころ はひとりでに動うご くのではなく、見み たもの聞き いたものに触ふ れて動うご く と言い っている。この受動性じゅどうせい こそ、パトスという語ご の語源ごげん が指さ し示しめ すものだ。ギリシア語ご のパトスも、英語えいご の passion も、もとは「受う けること」を意味いみ する 。受じゅ 難なん (Passion)が同おな じ語ご から来き ているのは偶然ぐうぜん ではない。情念じょうねん が理性りせい で抑おさ えられないのは、意志いし が弱よわ いからではなくそもそも自分じぶん が起お こしたものではないから である。外そと から受う けたものを、内ない から止と めることはできない。貫之つらゆき が歌うた の起お こりをこう書か いたことで、和歌わか は最初さいしょ から「受う け身み の心こころ の記録きろく 」として定義ていぎ された ことになる。
この世よ のなごり、夜よる もなごり、死し にに行い く身み をたとふれば、あだしが原げん の道みち の霜しも 、一足ひとあし づつに消き えてゆく、夢ゆめ の夢ゆめ こそあはれなれ。近ちか 松まつ 門左衛門もんざえもん 『曾根崎心中そねざきしんじゅう 』道行みちゆき (1703)
心中しんじゅう へ向む かう二人ふたり の道行みちゆき である。ここで描えが かれているのは、理性りせい ではもはや止と められない地点ちてん まで来き た心こころ である。一歩いっぽ ごとに霜しも が消き えるという比喩ひゆ が効き いている。取と り返かえ しがつかないことを、説明せつめい ではなく足あし の運はこ びという身体しんたい の速度そくど で示しめ している。情念じょうねん が理性りせい で抑おさ えられないという性質せいしつ は、こうして時間じかん の不可逆性ふかぎゃくせい として表あらわ される。なお原げん 書しょ はこの種しゅ の激情げきじょう を「一時的いちじてき なもの」 と位置いち づけ、持続じぞく する内面ないめん 性せい であるエートスと区別くべつ している。一時的いちじてき だからこそ、それが人生じんせい を決き めてしまうことの不ふ 条じょう 理り が際さい 立た つ — この落差らくさ が浄瑠璃じょうるり の主題しゅだい そのものである。
ロゴスとパトス、すなわち理性りせい と情念じょうねん の対立たいりつ は、西洋せいよう 思想しそう の基本きほん の枠組わくぐ みである。
「パトス」と併記へいき されるのが定型ていけい であることを示しめ す文ぶん 。この語ご はほぼ必かなら ず西洋せいよう 思想史しそうし の枠わく を背負せお って現あらわ れる 。ロゴス(理性りせい ・言葉ことば )が能のう 動どう 、パトス(情念じょうねん )が受動じゅどう という役割やくわり 分担ぶんたん が最初さいしょ から組く み込こ まれており、13 の合理ごうり /非合理ひごうり の対たい とも重かさ なる。
△彼かれ は仕事しごと に対たい する情念じょうねん を持も ち続つづ けている。
持続じぞく する内面ないめん のあり方かた は「エートス」 の領域りょういき である。情念じょうねん は一時的いちじてき な激情げきじょう を指さ す。「持も ち続つづ ける」という表現ひょうげん とこの語ご は本来ほんらい そりが合あ わない。「情熱じょうねつ 」なら通とお る 。日常にちじょう 語ご と評ひょう 論語ろんご で射程しゃてい が違ちが う典型例てんけいれい なので、会話かいわ の感覚かんかく のまま使つか うと外はず す。
原げん 書しょ の反はん 意い 語ご ・関連かんれん 語ご 反はん 103 /108
派生はせい 形けい
情念的じょうねんてき [0] 硬かた い形かたち で、使用しよう 頻度ひんど は低ひく い。「情熱じょうねつ 的てき 」とはまったく違ちが う 点てん に注意ちゅうい したい。情熱じょうねつ 的てき が肯定的こうていてき な活かつ 力りょく を指さ すのに対たい し、こちらは理性りせい の制御せいぎょ を離はな れている という含ふく みを保たも っている。
パトス ギリシア語ご の音訳おんやく 。語源ごげん は「受う けること」 で、受じゅ 難なん ・受動じゅどう ・情念じょうねん がすべてこの一語いちご から分わ かれた。英語えいご passion、フランス語ご passion も同どう 系けい で、情熱じょうねつ と受じゅ 難なん が同おな じ語ご である ことがこの語ご の性格せいかく をよく示しめ している。
エートス パトスの対たい 語ご 。持続的じぞくてき な内面ないめん 性せい ・習慣しゅうかん を指さ す。語源ごげん は「習慣しゅうかん づけられた場所ばしょ 」で、英語えいご ethic(倫理りんり )の元もと でもある。倫理りんり が習慣しゅうかん から来き ている というこの語源ごげん は、36 の自律じりつ を考かんが えるときにも効き いてくる。
コロケーション
ロゴスとパトス対たい の定型ていけい ギリシア以来いらい の理性りせい と情念じょうねん の対たい 。この対たい が強力きょうりょく なのは、能のう 動どう と受動じゅどう という文法ぶんぽう 上じょう の対立たいりつ をそのまま人間にんげん の内側うちがわ に持も ち込こ んでいる からである。ロゴスは語かた る、パトスは受う ける。西洋せいよう 思想しそう がロゴスの側がわ を上位じょうい に置お いてきた歴史れきし があり、評ひょう 論文ろんぶん はしばしばその序列じょれつ を問と い直なお すためにこの対たい を持も ち出だ す。
情念じょうねん に駆か られる受動じゅどう の動詞どうし 「駆か られる」は受う け身み の形かたち である。情念じょうねん を主語しゅご に立た てて、人ひと を目的語もくてきご の位置いち に置お く ことになる。「情念じょうねん を抱いだ く」とも言い えるが、こちらは所有しょゆう の形かたち なので受動性じゅどうせい が消き える。どちらの動詞どうし を選えら ぶかで、書か き手て が情念じょうねん をどう捉とら えているかが分わ かる — 駆か られるなら外そと から来き たもの、抱いだ くなら内ない にあるものである。
情念じょうねん の哲学てつがく 思想史しそうし の語彙ごい デカルト『情念じょうねん 論ろん 』以降いこう 、情念じょうねん を理性りせい の敵てき としてではなく考察こうさつ の対象たいしょう として扱あつか う系譜けいふ を指さ す。ここでの情念じょうねん は否定的ひていてき な意味いみ を帯お びていない。9 の対象たいしょう 化か がここでも起お きている — 抑おさ えるべきものだった情念じょうねん が、観察かんさつ されるものへ移うつ った のである。
エートスとパトス時間じかん の対たい 持続じぞく する内面ないめん 性せい と一時的いちじてき な激情げきじょう の対たい 。「日本人にほんじん は勤勉きんべん で礼儀れいぎ 正ただ しい」はエートス、「怒いか りに我われ を忘わす れる」はパトスである。この二に 語ご を分わ けられると、文化ぶんか 論ろん の記述きじゅつ がどちらの層そう を語かた っているか が見分みわ けられる。国民こくみん 性せい の議論ぎろん はエートス、群衆ぐんしゅう の熱狂ねっきょう はパトスの層そう に属ぞく する。
格かく 硬かた ・学術がくじゅつ 論文ろんぶん ・評ひょう 論ろん でのみ使つか う。会話かいわ では不自然ふしぜん 。
類るい 語ご と差さ
激情げきじょう 激はげ しい感情かんじょう の高こう まり感情かんじょう の強つよ さのみ。情念じょうねん は理性りせい で抑おさ えられないという含ふく みを持も つ。
感情かんじょう 心こころ の動うご き全般ぜんぱん 中立ちゅうりつ で最もっと も広ひろ い。情念じょうねん はその中なか の激はげ しく受動じゅどう 的てき なもの。
エートス 持続的じぞくてき な内面ないめん 性せい ・習慣しゅうかん パトスと対たい になるギリシア語ご 。日本人にほんじん の勤勉きんべん さ・礼儀れいぎ 正ただ しさなどを指さ す。
情動じょうどう 刺激しげき に対たい する短みじか い反応はんのう 心理学しんりがく の語ご 。感情かんじょう →情動じょうどう →情念じょうねん の順じゅん に激はげ しさが増ま すと整理せいり できる。
EN pathos / passionZH 激情(激しい感情, jīqíng)
35 ★
恣意しい
しい [1] し い 頭高あたまだか 型がた
語ご 構成こうせい
恣し ほしいまま + 意い こころ・おもい
「恣し 」の訓読くんどく みは「ほしいまま」。読よ みが問と われる語ご である。
定義ていぎ
自分じぶん 勝手かって であること。明確めいかく な根拠こんきょ がないこと。
『現代げんだい 文ぶん キーワード読解どっかい 』1-1 ☑35
原げん 書しょ の解説かいせつ
「恣し 」の訓読くんどく みは「ほしいまま」であり、自分じぶん 勝手かって であることを表あらわ す。自分じぶん 勝手かって であるから、明確めいかく な根拠こんきょ もない。たとえば「制度せいど の恣意性しいせい 」「言語げんご の恣意性しいせい 」といったように用もち いられるが、これらの用法ようほう は、〈明確めいかく な根拠こんきょ をもたず、主観的しゅかんてき である〉 と捉とら えると理解りかい しやすい。
使用しよう の境界きょうかい 明確めいかく な根拠こんきょ を持も たず主観しゅかん で決き めること。「自由じゆう 」とは違ちが う。自由じゆう には理由りゆう がありうるが、恣意しい には根拠こんきょ がない。
用法ようほう 「恣意的しいてき 」の形かたち で使つか われるのがほとんどで、制度せいど ・法ほう ・運用うんよう への批判ひはん 語ご として働はたら く。「法ほう が恣意的しいてき に運用うんよう されれば、それは法ほう 治ち ではなく人治じんち である」という構図こうず が原げん 書しょ に現あらわ れる。もう一ひと つの重要じゅうよう 用法ようほう が言語学げんごがく の「言語げんご の恣意性しいせい 」(ソシュール)で、音おと と意味いみ の結むす びつきに必然的ひつぜんてき な理由りゆう がないことを指さ す。この場合ばあい は批判ひはん ではなく中立ちゅうりつ の記述きじゅつ である。「自由じゆう 」との区別くべつ が要点ようてん で、自由じゆう には理由りゆう があってよいが、恣意しい には理由りゆう がない。
用例ようれい
法ほう は貴とうと きに阿おもね らず、縄なわ は曲きょく れるに撓たわ まず。『韓非かんぴ 子こ 』有ゆう 度ど 篇へん
法ほう は身分みぶん の高たか い者もの にへつらわず、墨縄すみなわ は曲ま がった材木ざいもく に合あ わせて曲ま がったりしない、という。恣意しい の正反対せいはんたい を述の べた一文いちぶん である。墨縄すみなわ の比喩ひゆ が的確てきかく だ。大工だいく の使つか う墨縄すみなわ は、材ざい がどう曲ま がっていようとつねに同おな じまっすぐな線せん を引ひ く 。相手あいて を見み て線せん を変か えたら、それはもう基準きじゅん ではない。恣意的しいてき な運用うんよう とは、この線せん が相手あいて によって動うご く ことを指さ す。「法ほう が恣意的しいてき に運用うんよう されれば、それは法ほう 治ち ではなく人治じんち である」という原げん 書しょ の構図こうず は、二千年にせんねん 以上いじょう 前まえ にすでにこの形かたち で立た てられている。
趙ちょう 高こう 、乱らん を為い さんと欲ほ し、群臣ぐんしん の聴き かざるを恐おそ れ、乃すなわ ち先さき ず験げん を設せつ く。鹿しか を持じ して二世にせい に献けん じて曰いわく く、馬うま なり、と。『史記しき 』秦しん 始し 皇こう 本紀ほんぎ
宦官かんがん の趙ちょう 高こう が、鹿しか を差さ し出だ して「これは馬うま だ」と言い う。皇帝こうてい が笑わら って「鹿しか ではないか」と言い うと、趙ちょう 高こう は周囲しゅうい に問と う。鹿しか と答こた えた者もの は後あと に殺ころ された 。ここで趙ちょう 高こう が試ため したのは、根拠こんきょ が完全かんぜん に無な い主張しゅちょう にどれだけの者もの が従したが うか である。恣意しい の恐おそ ろしさがよく分わ かる。根拠こんきょ が無な いことは、この場面ばめん では弱点じゃくてん ではなく力ちから である 。根拠こんきょ があれば、その根拠こんきょ を検討けんとう して反論はんろん できる。根拠こんきょ が無な ければ、従したが うか従じゅう わないかしか残のこ らない。11 の権力けんりょく の項こう と結むす んで読よ みたい。恣意性しいせい は権力けんりょく の欠陥けっかん ではなく、権力けんりょく が権力けんりょく であることを試ため す道具どうぐ にもなる。
ソシュールのいう言語げんご の恣意しい 性せい とは、音おと と意味いみ の結むす びつきに必然的ひつぜんてき な理由りゆう が無な いということである。
ここでの恣意しい は批判ひはん ではなく中立ちゅうりつ の記述きじゅつ である。「犬いぬ 」という音おと がなぜあの動物どうぶつ を指さ すのかに理由りゆう は無な い。別べつ の言語げんご では別べつ の音おと があてられている。理由りゆう が無な いという事実じじつ そのものを述の べている だけで、誰だれ かを責せ めてはいない。22 の項こう で引ひ いた荀子じゅんし の「名な に固かた より宜ぎ しき無な し」は、ほぼ同おな じことを二千年にせんねん 前まえ に述の べたものである。
×参加さんか は恣意しい に任にん されている。
どれを選えら んでもよいという意味いみ なら「任意にんい 」 である。恣意しい は決き める側がわ に根拠こんきょ が無な い ことを言い い、ほぼ常つね に否定的ひていてき に響ひび く。「自由じゆう 」との区別くべつ も要点ようてん で、自由じゆう には理由りゆう があってよいが、恣意しい には理由りゆう が無な い 。自由じゆう と恣意しい を同おな じものと考かんが えると、評ひょう 論文ろんぶん の自由じゆう 論ろん がまるごと読よ めなくなる。
派生はせい 形けい
恣意的しいてき [0] 実際じっさい の用法ようほう はほとんどこの形かたち 。制度せいど ・法ほう ・運用うんよう への批判ひはん 語ご として働はたら くが、言語学げんごがく の「恣意的しいてき な記号きごう 」だけは中立ちゅうりつ である。同おな じ形かたち が文脈ぶんみゃく で評価ひょうか を変か える ので、分野ぶんや を見み てから読よ むこと。
恣意性しいせい [0] 性質せいしつ として取と り出だ す形かたち で、「言語げんご の恣意性しいせい 」「制度せいど の恣意性しいせい 」のように対象たいしょう を冠かんむり して使つか う のが定型ていけい 。批判ひはん にも記述きじゅつ にも使つか える柔やわ らかさがあるため、評ひょう 論文ろんぶん ではこちらの形かたち が好よしみ まれる。
恣ほしいまま 訓読くんどく み。「ほしいままにする」 という和わ 語ご の形かたち で古文こぶん にも現あらわ れる。漢語かんご の「恣意しい 」が硬かた く抽象的ちゅうしょうてき なのに対たい し、こちらは身体的しんたいてき な欲よく のままという語ご 感かん を残のこ す。字義じぎ から入はい ると、この語ご がなぜ否定的ひていてき に響ひび くのかが腑ふ に落お ちる。
コロケーション
恣意的しいてき な運用うんよう 制度せいど 批判ひはん の定型ていけい 規則きそく そのものではなくその使つか い方かた を批判ひはん する 形かたち である。ここが鋭するど い。規則きそく が悪わる いと言い えば規則きそく を直なお せばよいが、運用うんよう が恣意的しいてき だと言い えば直なお すべきは規則きそく ではなく権限けんげん のあり方かた だということになる。「法ほう 治ち ではなく人治じんち 」という原げん 書しょ の言い い方かた は、まさにこの水準すいじゅん を指さ している。
言語げんご の恣意性しいせい 中立ちゅうりつ の用法ようほう ソシュールの用語ようご で、音おと と意味いみ の結むす びつきに必然性ひつぜんせい が無な い ことを指さ す。この用法ようほう だけは批判ひはん ではない。むしろこの恣意性しいせい があるからこそ、言語げんご ごとに世界せかい の切き り分わ け方ほう が違ちが いうる 。5 の秩序ちつじょ 、26 の相対そうたい と直結ちょっけつ する重要じゅうよう な出発点しゅっぱつてん で、文化ぶんか 相対そうたい 主義しゅぎ の理論的りろんてき な支ささ えのひとつでもある。
恣意しい と自由じゆう 境目さかいめ の確認かくにん 評ひょう 論文ろんぶん でこの二に 語ご が並なら んだら、筆者ひっしゃ は両者りょうしゃ を区別くべつ しようとしている 。自由じゆう は、理由りゆう を持も ってよいし、他者たしゃ に説明せつめい することもできる。恣意しい は説明せつめい できない。「なぜそうしたのか」に答こた えられるかどうか が境目さかいめ である。36 の自律じりつ とも接せっ していて、自みずか ら規則きそく を与あた えるのが自律じりつ 、規則きそく なしに決き めるのが恣意しい になる。
恣意しい を排はい する制度設計せいどせっけい の言葉ことば 手続てつづ きを定さだ め、記録きろく を残のこ し、基準きじゅん を公開こうかい する — いずれも決定けってい から恣意しい を抜ぬ くための仕掛しか け である。面白おもしろ いのは、これらの仕掛しか けがしばしば形式けいしき 主義しゅぎ と批判ひはん される ことだ。16 の自己じこ 目的もくてき 化か がここで顔かお を出だ す。恣意しい を防ふせ ぐための手続てつづ きがそれ自体じたい を目的もくてき にしはじめる — この往復おうふく が制度せいど 論ろん の難所なんしょ である。
格かく 硬かた ・学術がくじゅつ 論文ろんぶん ・評ひょう 論ろん でのみ使つか う。会話かいわ では不自然ふしぜん 。
類るい 語ご と差さ
任意にんい どれを選えら んでもよい 選択せんたく の自由じゆう を認みと める中立ちゅうりつ 語ご 。「任意にんい で参加さんか 」。恣意しい は否定的ひていてき 。
主観的しゅかんてき 個人こじん の見方みかた による視点してん の性質せいしつ 。恣意しい は決定けってい の根拠こんきょ のなさ。
独断どくだん 一人ひとり で決き めてしまう手続てつづ きの問題もんだい (他者たしゃ を排除はいじょ した)。恣意しい は根拠こんきょ の問題もんだい 。
気き まま思おも うままに振ふ る舞ま う口語こうご 。評ひょう 論文ろんぶん では使つか わない。
EN arbitrarinessZH 恣意(勝手気まま, zìyì)
アイロニーの反転とディレンマの行き止まりを並べた図 上段は表面の意味と真意が逆を向くアイロニーの構造、下段はどちらの道を選んでも失うものがあるディレンマの構造を示す。
アイロニー 表面と真意が逆を向く 「ずいぶんお早いですね」 遅刻を咎めている 成立の条件 ── 遅れたことを双方が知っている 共有された事実が無ければ、ただの間違いになる ディレンマ どちらを選んでも失う 我 甘いものを食べる = 痩せることを失う ダイエットする = 甘いものを失う 道が無いのではない。二本ともはっきり見えていて、塞がっている 迷いは情報が足りないだけ。ディレンマは情報が揃っていても動けない
アイロニーの反転はんてん と、ディレンマの行い き止ど まり
Section 16
自律じりつ /他律たりつ /顕在けんざい /潜在せんざい /モチーフ
36 ★
自律じりつ
じりつ [0] じ り つ 平板へいばん 型がた
語ご 構成こうせい
自じ みずから + 律りつ のり・おさめる
定義ていぎ
自分じぶん で自分じぶん を律りつ すること。それだけで成立せいりつ していること。
『現代げんだい 文ぶん キーワード読解どっかい 』1-1 ☑36
原げん 書しょ の解説かいせつ
自律じりつ とは自分じぶん で自分じぶん をコントロールすることで、他ほか からの支配しはい ・制約せいやく などを受う けずに、自分自身じぶんじしん の考かんが えに従したが って判断はんだん し、行動こうどう することである。似に た言葉ことば に「自立じりつ 」があるが、こちらは他ほか に依存いぞん せず、自力じりき で物事ものごと を成な し遂と げることの意い である。
使用しよう の境界きょうかい 他ほか からの支配しはい ・制約せいやく を受う けず、自分じぶん の考かんが えに従したが って判断はんだん し行動こうどう すること。「自立じりつ 」は他ほか に依存いぞん せず自力じりき で成な し遂と げること。別語べつご 。
用法ようほう 「自立じりつ 」との書か き分わ けが設問せつもん になる。自律じりつ は〈自分じぶん で自分じぶん に規則きそく を与あた える〉こと、自立じりつ は〈他ほか に依存いぞん しない〉こと。カント倫理学りんりがく では自律じりつ が道徳どうとく の根拠こんきょ に置お かれ、他律的たりつてき な行為こうい は道徳的どうとくてき 価値かち を持も たないとされる。この背景はいけい があるため、評ひょう 論文ろんぶん の「自律じりつ 」は肯定こうてい 語ご として働はたら く。原げん 書しょ は「他律的たりつてき な自律性じりつせい 」という表現ひょうげん を扱あつか い、これは形容けいよう 矛盾むじゅん (自律じりつ しているのに外そと から律りつ されている)だと指摘してき する。「自律じりつ 神経しんけい 」は医学いがく 用語ようご で、意識いしき に依よ らずに働はたら く神経系しんけいけい を指さ す。
用例ようれい
仁義礼智じんぎれいち は、外そと より我われ を鑠しゃく るに非ひ ざるなり、我われ 固かた より之これ を有ゆう するなり。『孟子もうし 』告子こくし 上じょう
仁義礼智じんぎれいち という徳とく は、外そと から溶と かし込こ まれたものではなく、もともと自分じぶん が持も っているものだ、という。規範きはん の出で どころを内側うちがわ に置お いた宣言せんげん である。これが自律じりつ の考かんが え方かた の核心かくしん にあたる。「鑠しゃく る(とかす)」という動詞どうし が選えら ばれているのが鋭するど い。金属きんぞく を溶と かして型かた に流なが し込こ むように、外そと から人ひと を形かたち づくる やり方かた を退しりぞ けている。カント倫理学りんりがく が自律じりつ を道徳どうとく の根拠こんきょ に置お き、他律的たりつてき な行為こうい には道徳的どうとくてき 価値かち を認みと めなかったのも同おな じ構かま えである。正ただ しいことをしたかどうかではなく、それを自分じぶん の内うち なる法ほう として行おこな ったかどうか が問と われる。評ひょう 論文ろんぶん の「自律じりつ 」が肯定こうてい 語ご として働はたら く背景はいけい には、この東西とうざい に共通きょうつう する考かんが え方かた がある。
一身いっしん 独立どくりつ して一国いっこく 独立どくりつ す。福沢ふくざわ 諭吉ゆきち 『学問がくもん のすゝめ』三さん 編へん (1874)
有名ゆうめい な一句いっく だが、ここで言い われているのは「自律じりつ 」ではなく「自立じりつ 」である 。福沢ふくざわ が求もと めたのは、他ほか に依存いぞん せず自力じりき で立た つことだった。経済的けいざいてき に、また気き 概がい の上うえ で、他人たにん にぶら下さ がらないこと。一方いっぽう 、自律じりつ は自分じぶん で自分じぶん に規則きそく を与あた える ことを指さ す。この二ふた つは重かさ なるが同おな じではない 。経済的けいざいてき に自立じりつ していても、判断はんだん の基準きじゅん をすべて他人たにん 任にん せにしているなら自律じりつ ではない。逆ぎゃく に、人ひと の世話せわ になりながら判断はんだん は自分じぶん で下くだ している人ひと は自律じりつ している。依存いぞん の有無うむ が自立じりつ 、規範きはん の出で どころが自律じりつ 。書か き分わ けが設問せつもん になるので、この一句いっく を「自立じりつ の側がわ の名文めいぶん 」として覚おぼ えておくと取と り違ちが えにくい。
指示しじ どおりにこなすのが他律的たりつてき だとすれば、自みずか ら課題かだい を見み つけるのが自律じりつ 的てき である。
原げん 書しょ の対比たいひ をそのまま文ぶん にしたもの。行動こうどう の中身なかみ ではなく、基準きじゅん がどこから来き たかで分わ かれている点てん に注意ちゅうい したい。同おな じ仕事しごと を同おな じようにこなしていても、その仕事しごと の意味いみ を自分じぶん で立た てているかどうか で自律じりつ にも他律たりつ にもなる。外そと から見み ただけでは判別はんべつ できないのがこの語ご の難むずか しさである。
×親おや 元もと を離はな れて生活せいかつ 費ひ を稼かせ いでいるので自律じりつ している。
これは「自立じりつ 」 である。他ほか に依存いぞん せず自力じりき で成な し遂と げることを言い う。「経済的けいざいてき に自立じりつ 」とは言い うが「経済的けいざいてき に自律じりつ 」とは言い わない — この言い い回まわ しの偏かたよ りが、二に 語ご の守備しゅび 範囲はんい を教おし えてくれる。同音どうおん であるうえに意味いみ も近ちか いので、書か き取と りで直接ちょくせつ 問と われる。
派生はせい 形けい
自律的じりつてき [0] 評ひょう 論文ろんぶん ではほぼ肯定こうてい 語ご 。ただし近年きんねん は「自律的じりつてき に働はたら け」という命令めいれい の形かたち で使つか われる場面ばめん が増ふ え、そこでは「他律的たりつてき な自律性じりつせい 」の矛盾むじゅん が生しょう じる。肯定こうてい 語ご だからこそ、要求ようきゅう の言葉ことば として使つか いやすいという皮肉ひにく がある。
自律性じりつせい [0] 性質せいしつ として取と り出だ す形かたち 。「芸術げいじゅつ の自律性じりつせい 」のように、人ひと 以外いがい にも使つか える のがこの形かたち の強つよ みである。芸術げいじゅつ が政治せいじ や宗教しゅうきょう の道具どうぐ であることをやめ、それ自体じたい の原理げんり で成な り立た つようになった — という近代きんだい 芸術げいじゅつ 論ろん の中心ちゅうしん 概念がいねん になる。
自立じりつ [0] 同音どうおん の別語べつご 。他ほか に依存いぞん せず自力じりき で成な し遂と げる こと。「律りつ 」は規則きそく 、「立りつ 」は立た つこと — 字じ を見み れば意味いみ の違ちが いは明あき らか である。迷まよ ったら訓くん で読よ み下くだ してみるとよい。自みずか ら律りつ する/自みずか ら立た つ。
コロケーション
自律的じりつてき な判断はんだん 基準きじゅん の所在しょざい 判断はんだん の根拠こんきょ が自分じぶん の内ない にある ことを言い う。注意ちゅうい したいのは、これが「他人たにん の意見いけん を聞き かない」という意味いみ ではない点てん だ。聞き いたうえで、採と るかどうかを自分じぶん の基準きじゅん で決き めれば自律じりつ である。独断どくだん (他者たしゃ を排除はいじょ して決き める)とは別べつ で、35 の恣意しい (そもそも基準きじゅん が無な い)とも違ちが う。基準きじゅん があり、それが自分じぶん のものであること — この二ふた つが揃そろ って自律じりつ になる。
他律的たりつてき な自律性じりつせい 形容けいよう 矛盾むじゅん 原げん 書しょ が取と り上あ げる表現ひょうげん である。自律じりつ しているはずなのに、その自律じりつ が外そと から与あた えられている。「自由じゆう にしなさい」と命めい じられた者もの と同おな じ構造こうぞう で、33 のディレンマ、18 のパラドックスと同おな じ場所ばしょ にある。矛盾むじゅん した言い い方かた をわざわざ使つか うのは、現代げんだい の自律じりつ がしばしばこの形かたち をとっているから だ — 自主性じしゅせい を発揮はっき せよと制度せいど が要求ようきゅう する、という場面ばめん である。
自律じりつ と自立じりつ 書か き分わ けの要かなめ 規範きはん の出で どころか、依存いぞん の有無うむ か 。この一点いってん で分わ かれる。実際じっさい の文章ぶんしょう では両方りょうほう が同時どうじ に問題もんだい になることが多おお いので、書か き手て がどちらの軸じく を論ろん じているか を見み きわめる必要ひつよう がある。「精神せいしん 的てき な自立じりつ 」という言い い方かた がしばしば自律じりつ の意味いみ で使つか われるのも、混乱こんらん の一因いちいん になっている。
自律じりつ 神経しんけい 別べつ 系統けいとう の術語じゅつご 医学いがく 用語ようご で、意識いしき に依よ らずに働はたら く神経系しんけいけい を指さ す。ここでの「自律じりつ 」は「意志いし から独立どくりつ して」という意味いみ で、倫理学りんりがく の自律じりつ とはほとんど逆ぎゃく を向む いている 。倫理りんり の自律じりつ が意志いし の働はたら きを指さ すのに対たい し、こちらは意志いし が届とど かない領域りょういき を指さ す。同おな じ漢語かんご が分野ぶんや をまたぐとこうも変か わるという例れい として面白おもしろ い。
格かく 中なか 書か き言葉ことば ・会話かいわ の両方りょうほう で使つか える。
類るい 語ご と差さ
自立じりつ 他ほか に頼たよ らず自力じりき で成な す依存いぞん の有無うむ 。自律じりつ は規範きはん の出で どころ。「経済的けいざいてき に自立じりつ 」は自律じりつ とは言い わない。
主体しゅたい 的てき 自分じぶん から関かか わる関かか わり方ほう の姿勢しせい 。自律じりつ は判断はんだん の根拠こんきょ が自分じぶん にあること。
自発的じはつてき 促うなが されずに行おこな うきっかけの話はなし 。自律じりつ は基準きじゅん の話はなし 。
自じ 治ち 自分じぶん たちで治ち める集団しゅうだん についての語ご 。自律じりつ は個人こじん にも集団しゅうだん にも使つか える。
EN autonomyZH 自律(自己を律する, zìlǜ)
37 ★
他律たりつ
たりつ [0] た り つ 平板へいばん 型がた
語ご 構成こうせい
他ほか ほか + 律りつ のり・おさめる
定義ていぎ
他ほか からの命令めいれい ・強制きょうせい に従したが って行動こうどう すること。
『現代げんだい 文ぶん キーワード読解どっかい 』1-1 ☑37
原げん 書しょ の解説かいせつ
他律たりつ は、自律じりつ とは反対はんたい に、自みずか らの意志いし ではなく、他ほか から強制きょうせい されて行動こうどう すること。ルールや命令めいれい を破やぶ って罰ばつ を受う けるのが嫌いや なので、言い われたことや定さだ められたことに渋々しぶしぶ 従したが う、というイメージで捉とら えるとわかりやすい。
たとえば
親おや や先生せんせい に「勉強べんきょう しなさい」と言い われるから勉強べんきょう する、というのは他律的たりつてき な状態じょうたい である。
使用しよう の境界きょうかい 他ほか からの命令めいれい ・強制きょうせい に従したが って行動こうどう すること。罰ばつ を避さ けるために渋々しぶしぶ 従したが う状態じょうたい 。
用法ようほう 「他律的たりつてき 」の形かたち で使つか うのが基本きほん で、単独たんどく の名詞めいし はまれ。自律じりつ との対たい でのみ現あらわ れるため、必かなら ず対たい の側がわ を探さが して読よ む。カント倫理学りんりがく の枠組わくぐ みでは、他律的たりつてき な行為こうい は結果けっか として正ただ しくても道徳的どうとくてき 価値かち を持も たないとされ、この背景はいけい が評ひょう 論文ろんぶん の否定的ひていてき な含ふく みを支ささ えている。「親おや や先生せんせい に勉強べんきょう しなさいと言い われるから勉強べんきょう する」が原げん 書しょ の例れい で、外そと から与あた えられた規則きそく に渋々しぶしぶ 従したが っている状態じょうたい を指さ す。指示しじ 通とお りに仕事しごと をこなすのは他律的たりつてき 、自みずか ら課題かだい を発見はっけん するのは自律的じりつてき 、という対比たいひ になる。
用例ようれい
之これ を道みち くに政せい を以もっ てし、之これ を斉せい ふるに刑けい を以もっ てすれば、民みん 免めん れて恥はじ なし。之これ を道みち くに徳とく を以もっ てし、之これ を斉せい ふるに礼れい を以もっ てすれば、恥はじ ありて且かつ つ格かく し。『論語ろんご 』為い 政せい 篇へん
法令ほうれい で導みちび き刑罰けいばつ で整ととの えれば、民みん は罰ばつ を免めん れようとするだけで恥はじ じる心こころ を持も たない 。徳とく で導みちび き礼れい で整ととの えれば、恥はじ じる心こころ を持も ち、しかも自みずか ら正ただ しくなる、という。前半ぜんはん が他律たりつ 、後半こうはん が自律じりつ の記述きじゅつ である。「免めん れて恥はじ なし」の五字ごじ が的確てきかく だ。他律たりつ のもとでは、人ひと は規則きそく を守まも るのではなく罰ばつ を避さ ける 。だから見み 張ば りがいなくなれば守まも らなくなる。原げん 書しょ が「罰ばつ を受う けるのが嫌いや なので渋々しぶしぶ 従したが う」と説明せつめい するのはこの状態じょうたい である。重要じゅうよう なのは、他律たりつ の行為こうい は結果けっか として正ただ しくても道徳的どうとくてき 価値かち を持も たない というカント倫理学りんりがく の判断はんだん が、ここで孔子こうし とほぼ同おな じ理路りろ で語かた られている点てん だ。
我々われわれ 青年せいねん を囲繞いじょう する空気くうき は、今いま やもう少すこ しも流りゅう 動どう しなくなつた。強きょう 権けん の勢力せいりょく は普ひろし く国内こくない に行亙ゆきわた つてゐる。石いし 川かわ 啄木たくぼく 『時代じだい 閉塞へいそく の現状げんじょう 』(1910)
大逆たいぎゃく 事件じけん の年とし に書か かれた評ひょう 論ろん である。「囲繞いじょう する空気くうき 」— 外そと から与あた えられた枠わく が、もはや空気くうき のように意識いしき されなくなっている状態じょうたい を啄木たくぼく は書か いた。ここが他律たりつ のいちばん厄介やっかい な形かたち である。命令めいれい が命令めいれい として見み えているうちは、渋々しぶしぶ であれ従したが っていると自覚じかく できる。ところが枠わく が空気くうき になると、従したが っているという自覚じかく すら消き える 。そのとき人ひと は、自律じりつ しているつもりで他律たりつ している。20 のイデオロギー、14 の自明じめい 性せい と同おな じ場所ばしょ にある問題もんだい で、他律たりつ は必かなら ずしも不ふ 自由じゆう の実感じっかん を伴ともな わない 。
罰ばつ を避さ けるために規則きそく を守まも るのは、他律たりつ 的てき な行為こうい にとどまる。
カント倫理学りんりがく の枠組わくぐ みを踏ふ まえた文ぶん である。行為こうい の中身なかみ は正ただ しい点てん に注意ちゅうい したい。規則きそく は守まも られている。それでも道徳的どうとくてき 価値かち を認みと められないのは、従したが う理由りゆう が外そと にある からである。評ひょう 論文ろんぶん の他律たりつ が否定的ひていてき に響ひび く背景はいけい には、この「正ただ しくても価値かち がない」という厳きび しい判断はんだん がある。
△彼かれ は指示しじ を待ま つばかりで他律たりつ だ。
名詞めいし 単独たんどく で使つか うのはほとんど無な い。「他律的たりつてき だ」 とするのが自然しぜん である。この語ご は自律じりつ との対たい でのみ意味いみ が定さだ まる ため、単独たんどく で立た てると輪郭りんかく がぼやける。読解どっかい でも、他律たりつ が出で てきたら必かなら ず対たい の自律じりつ がどこにあるかを探さが す のが正ただ しい手順てじゅん になる。
派生はせい 形けい
他律的たりつてき [0] 実際じっさい の用法ようほう はほぼこの形かたち 。単独たんどく の名詞めいし 「他律たりつ 」はまれ で、それ自体じたい がこの語ご の性格せいかく を示しめ している。他律たりつ は状態じょうたい というより、自律じりつ と比くら べたときに現あらわ れる位置いち だからである。
他律性たりつせい [0] 性質せいしつ として取と り出だ すことで、個人こじん だけでなく制度せいど や芸術げいじゅつ にも使つか える ようになる。「芸術げいじゅつ の他律たりつ 性せい 」は、芸術げいじゅつ が外部がいぶ の要請ようせい に従属じゅうぞく している状態じょうたい を指さ し、近代きんだい 芸術げいじゅつ 論ろん の中心ちゅうしん 的てき な争点そうてん になる。
自律じりつ [0] 対たい 語ご 。この二に 語ご はどちらか一方いっぽう だけでは意味いみ が立た たない 。評ひょう 論文ろんぶん で片方かたほう が出で たら、もう片方かたほう が必かなら ずどこかにある — あるいは、あえて書か かれていないことが論点ろんてん になっている。
コロケーション
他律的たりつてき な行為こうい カントの判断はんだん 結果けっか が正ただ しくても道徳的どうとくてき 価値かち を持も たない とされる。この判断はんだん は直感ちょっかん に反はん するので、評ひょう 論文ろんぶん では丁寧ていねい に説明せつめい されることが多おお い。理由りゆう はこうだ — 外そと から与あた えられた規則きそく に従したが っているだけなら、規則きそく が変か われば行為こうい も変か わる 。つまりその人ひと は正ただ しさに従したが っているのではなく、規則きそく に従したが っているにすぎない。36 の自律じりつ の項こう と必かなら ず対たい で読よ みたい。
他律たりつ から自律じりつ へ教育きょういく の物語ものがたり 教育きょういく 論ろん でくり返かえ される型かた である。外そと から与あた えられた規則きそく を、やがて自分じぶん のものにする という筋書すじが き。ただしこの移行いこう がどう起お こるのかは簡単かんたん に説明せつめい できない。外そと から来き たものがいつ「自分じぶん のもの」になるのか という問と いは、「他律的たりつてき な自律性じりつせい 」という矛盾むじゅん 表現ひょうげん が生う まれる場所ばしょ でもある。
他律たりつ 性せい 性質せいしつ としての把握はあく 「他律的たりつてき だ」が状態じょうたい の記述きじゅつ であるのに対たい し、こちらはその性質せいしつ を議論ぎろん の対象たいしょう に置お く 形かたち である。「芸術げいじゅつ の他律たりつ 性せい 」と言い えば、芸術げいじゅつ が政治せいじ や宗教しゅうきょう や市場しじょう の要請ようせい に従したが っていることを指さ し、36 の「芸術げいじゅつ の自律性じりつせい 」と正面しょうめん から対たい になる。人ひと 以外いがい に使つか えるようになる のがこの接尾せつび 辞じ の効き きどころである。
受動じゅどう と他律たりつ 似に て非ひ なる二に 語ご 受動じゅどう は働はたら きかけを受う ける側がわ という向む きの話はなし である。他律たりつ は基準きじゅん がどこから来き たか という話はなし 。働はたら きかけを受う けても、それを自分じぶん の基準きじゅん で受う けとめるなら他律たりつ ではない。向む きと出で どころ という別べつ の軸じく だと押お さえておくと、34 の情念じょうねん (受動じゅどう 的てき だが他律たりつ ではない)とも整理せいり がつく。
格かく 硬かた 書か き言葉ことば 。会話かいわ では不自然ふしぜん 。
類るい 語ご と差さ
受動じゅどう 的てき 働はたら きかけを受う ける側がわ 反応はんのう の向む き。他律たりつ は基準きじゅん の出で どころが外そと にあること。
従属じゅうぞく 従したが って属ぞく する関係かんけい の状態じょうたい 。他律たりつ は行動こうどう の根拠こんきょ 。
強制きょうせい 力ちから で従じゅう わせる働はたら きかける側がわ の行為こうい 。他律たりつ は従したが う側がわ の状態じょうたい 。
依存いぞん 頼たよ って成な り立た つ支ささ えの話はなし 。他律たりつ は規範きはん の話はなし 。
EN heteronomyZH 他律(他律, tālǜ)
38 ★
顕在けんざい
けんざい [0] け ん ざ い 平板へいばん 型がた
定義ていぎ
はっきりと形かたち に現あらわ れて存在そんざい すること。
『現代げんだい 文ぶん キーワード読解どっかい 』1-1 ☑38
使用しよう の境界きょうかい はっきりと形かたち に現あらわ れて存在そんざい すること。「顕在化けんざいか した」は、それまで見み えなかったものが表面ひょうめん に出で たことを言い う。
用法ようほう 単独たんどく の「顕在けんざい 」はまれで、「顕在化けんざいか する」「顕在けんざい 的てき な」の形かたち が実際じっさい の用法ようほう である。潜在せんざい との対たい でのみ意味いみ が定さだ まるので、必かなら ず対たい の側がわ を探さが す。「問題もんだい が顕在化けんざいか した」は、それまであったが見み えていなかったものが表ひょう に出で たという意味いみ で、新あら たに発生はっせい したのではない。この点てん が読解どっかい の要点ようてん になる。マーケティングの「顕在けんざい 需要じゅよう /潜在せんざい 需要じゅよう 」は実務じつむ 用語ようご で、顧客こきゃく が自覚じかく している需要じゅよう と自覚じかく していない需要じゅよう を指さ す。
用例ようれい
君きみ に疾しつ 有ゆう り、腠理に在あ り。治ち せざれば将しょう に深ふか からんとす。……今いま 、骨髄こつずい に在あ り、臣しん 是ぜ を以もっ て請こ ふこと無む きなり。『韓非かんぴ 子こ 』喩ゆ 老ろう 篇へん ・扁鵲へんじゃく と蔡さい 桓公かんこう
名医めいい の扁鵲へんじゃく が、王おう の病やまい が皮膚ひふ にあるうちに治療ちりょう を勧すす めるが、王おう は「病やまい など無な い」と退しりぞ ける。病やまい は皮膚ひふ から筋肉きんにく へ、筋肉きんにく から胃い 腸ちょう へ、そして骨髄こつずい へと進すす み、王おう が痛いた みを感かん じたときには手て 遅おく れになっていた 。この説話せつわ が正確せいかく に示しめ しているのは、顕在化けんざいか とは新あら たに発生はっせい することではない という一点いってん である。病やまい は最初さいしょ からあった。変か わったのは病やまい の有無うむ ではなく、見み えるかどうか だけだ。「問題もんだい が顕在化けんざいか した」という文ぶん を読よ むとき、ここを取と り違ちが えると論旨ろんし がまるごとずれる。筆者ひっしゃ はたいてい「前まえ からあったのに見み ていなかった」 と言い おうとしている。
また同おな じころかとよ、おびたたしく大だい 地震じしん ふること侍はべ りき。……月つき 日ひ 重かさ なり、年とし 経へ にし後あと は、言葉ことば にかけて言げん ひ出で づる人ひと だになし。鴨長明かものちょうめい 『方丈ほうじょう 記き 』(1212)
元暦げんりゃく の大だい 地震じしん の記述きじゅつ である。山やま は崩くず れ海うみ は溢あふ れ、人々ひとびと は世よ のはかなさを口々くちぐち に語かた り、いっとき心こころ の濁にご りも薄うす らいだように見み えた 。ところが年とし が経へ つと、口くち に出だ す者もの すらいなくなる。ここには顕在けんざい と潜在せんざい の往復おうふく がそのまま書か かれている。災さい 害がい によって顕在化けんざいか した無常むじょう の感覚かんかく が、ふたたび潜在せんざい へ沈しず んでいく 。長明ちょうめい が鋭するど いのは、沈しず んだのは感覚かんかく であって事実じじつ ではない と分わ かっている点てん だ。無常むじょう はずっとそこにある。顕在けんざい /潜在せんざい という対たい が世界せかい の側がわ ではなく人ひと の側がわ の状態じょうたい を指さ している ことが、この一節いっせつ からよく分わ かる。
長なが く抱かか えてきた矛盾むじゅん が、人手ひとで 不足ふそく によって一挙いっきょ に顕在けんざい 化か した。
「顕在化けんざいか 」の典型的てんけいてき な使つか い方かた である。矛盾むじゅん は前まえ から存在そんざい していた 。人手ひとで 不足ふそく はそれを生う んだのではなく、見み えるようにしただけ である。この読よ み方かた ができると、筆者ひっしゃ が原因げんいん として何なに を指さ しているのかを取と り違ちが えずに済す む。読解どっかい でしばしば設問せつもん になる箇所かしょ である。
△不正ふせい が顕在けんざい した。
単独たんどく の名詞めいし 用法ようほう はほとんど無な く、「顕在化けんざいか した」 とするのが自然しぜん である。また、隠かく されていたものが暴ぼう かれたのなら「露呈ろてい した」 のほうが的確てきかく になる。顕在化けんざいか は自然しぜん に表ひょう へ出で てくる場合ばあい も含ふく む ため、隠蔽いんぺい の含ふく みを出だ したいときには弱よわ い。
派生はせい 形けい
顕在的けんざいてき [0] 「顕在けんざい 的てき な需要じゅよう 」「顕在けんざい 的てき な機能きのう 」のように潜在的せんざいてき と対たい にして使つか う のが基本きほん 。単独たんどく で使つか うと、なぜわざわざこの語ご を選えら んだのかが読者どくしゃ に伝つた わらない。対たい の相手あいて が文中ぶんちゅう にあるかを確たし かめたい 。
顕在化けんざいか [0] この語ご の実質的じっしつてき な本体ほんたい 。状態じょうたい ではなく移行いこう を指さ す ので、「いつ」「何なん によって」が必かなら ず問と える。この二ふた つを本文ほんぶん から拾ひろ えるかどうかが、設問せつもん の答こた えを決き めることが多おお い。
顕現けんげん [0] 近ちか い語ご だが、目め に見み えない何なに かが姿すがた をとって現あらわ れる という含ふく みを持も つ。宗教しゅうきょう ・哲学てつがく の文脈ぶんみゃく で使つか われ、「神かみ の顕けん 現げん 」のように言い う。顕在化けんざいか が中立ちゅうりつ の記述きじゅつ であるのに対たい し、こちらは現あらわ れること自体じたい に意味いみ が与あた えられている 。
コロケーション
顕在化けんざいか する実質的じっしつてき な本体ほんたい この語ご はほぼこの形かたち でしか使つか われない。「化か 」が付つ いて、潜在せんざい から顕在けんざい への移行いこう そのものを指さ す 。大切たいせつ なのは、この動詞どうし が発生はっせい を意味いみ しない ことである。「問題もんだい が発生はっせい した」と「問題もんだい が顕在化けんざいか した」では、責任せきにん の所在しょざい も対処たいしょ の仕方しかた も変か わる。前者ぜんしゃ なら原因げんいん を止と めればよいが、後者こうしゃ ならなぜ今いま まで見み えなかったのか を問と わねばならない。
顕在けんざい 的てき な需要じゅよう 実務じつむ の対たい マーケティングの語ご で、顧客こきゃく が自分じぶん で自覚じかく している需要じゅよう を指さ す。潜在せんざい 需要じゅよう と対たい になる。抽象的ちゅうしょうてき な二に 語ご が、ここでは「本人ほんにん が言葉ことば にできるか」 という明快めいかい な基準きじゅん で分わ けられている。評ひょう 論文ろんぶん の顕在けんざい /潜在せんざい も、この基準きじゅん を当あ てはめると輪郭りんかく がつかみやすい。
顕在けんざい と潜在せんざい 対たい でのみ立た つこの二に 語ご はどちらか一方いっぽう では意味いみ が定さだ まらない 。「顕在けんざい している」と言い えるのは、潜在せんざい していた時期じき があったからで、最初さいしょ から見み えていたものにこの語ご は使つか わない。読解どっかい では必かなら ず対たい の側がわ を探さが す — いつまで潜在せんざい していたのか、何なん によって顕在化けんざいか したのかが、そのまま論ろん の骨格こっかく になる。
表面化ひょうめんか 日常にちじょう 語ご の隣人りんじん ほぼ同義どうぎ だが、「表面ひょうめん 」という比喩ひゆ を残のこ しているぶん日常にちじょう 語ご に近ちか い 。顕在化けんざいか は硬かた く、潜在せんざい との対たい を含意がんい する ため学術がくじゅつ 文ぶん で選えら ばれる。「対立たいりつ が表面化ひょうめんか した」は事実じじつ の報告ほうこく 、「対立たいりつ が顕在化けんざいか した」はそれ以前いぜん から対立たいりつ があったという分析ぶんせき を含ふく む。
格かく 硬かた 書か き言葉ことば 。会話かいわ では不自然ふしぜん 。
類るい 語ご と差さ
表面化ひょうめんか 表ひょう に出で る日常にちじょう 語ご 寄よ り。顕在化けんざいか とほぼ同義どうぎ だが、顕在化けんざいか はより硬かた く、潜在せんざい との対たい を含意がんい する。
露呈ろてい 隠かく れていたものがあらわになる隠かく されていたという含ふく みがある。否定的ひていてき に響ひび く。
明示めいじ はっきり示しめ す 示しめ す主体しゅたい がいる。顕在化けんざいか は自然しぜん に現あらわ れる場合ばあい も含ふく む。
発現はつげん 性質せいしつ が現あらわ れ出で る生物学せいぶつがく ・医学いがく の語ご 。遺伝子いでんし や症状しょうじょう について使つか う。
EN manifestZH 显在(顕在, xiǎnzài)
39 ★
潜在せんざい
せんざい [0] せ ん ざ い 平板へいばん 型がた
定義ていぎ
内ない にひそんで外そと や表面ひょうめん に現あらわ れないこと。
『現代げんだい 文ぶん キーワード読解どっかい 』1-1 ☑39
使用しよう の境界きょうかい 内ない にひそんで外そと や表面ひょうめん に現あらわ れないこと。無な いのではなく、まだ現あらわ れていない。本人ほんにん にも気き づかれていない状態じょうたい を含ふく む。
用法ようほう 「潜在的せんざいてき 」「潜在せんざい 能力のうりょく 」「潜在せんざい 意識いしき 」の形かたち で日常的にちじょうてき にも使つか われる。要点ようてん は〈無な いのではなく、すでに在ざい って現あらわ れていない〉ことで、この点てん が「可能性かのうせい 」との違ちが いになる。したがって「潜在せんざい 能力のうりょく を引ひ き出だ す」は、無な いものを作つく るのではなく、在あ るものを表ひょう に出だ すという意味いみ になる。「潜在せんざい 意識いしき 」はフロイト以降いこう の心理学しんりがく の語ご で、本人ほんにん が自覚じかく していない意識いしき の層そう を指さ す。顕在けんざい との対たい で読よ み、どちらが問題もんだい にされているかを見み る。
用例ようれい
其そ の安やす きは持じ し易えき く、其そ の未いま だ兆ちょう さざるは謀はか り易えき し。……合ごう 抱かかえ の木き も毫末ごうまつ より生しょう じ、九きゅう 層そう の台だい も累るい 土つち より起き り、千里せんり の行ぎょう も足下あしもと より始はじ まる。『老子ろうし 』第だい 六ろく 十四じゅうよん 章しょう
兆ちょう しが現あらわ れる前まえ なら手て を打う ちやすい、という前半ぜんはん と、両手りょうて で抱かか えるほどの大木たいぼく も細ほそ い芽め から育そだ つ、という後半こうはん 。潜在せんざい という語ご のもっとも正確せいかく な説明せつめい がここにある。要点ようてん は「毫末ごうまつ (細ほそ い毛先けさき )」である。大木たいぼく はまだ無な いのではない。毫末ごうまつ として、すでに在あ る 。ここが「可能性かのうせい 」との決定的けっていてき な違ちが いだ。可能性かのうせい は実現じつげん の見込みこ みを言い うが、潜在せんざい はすでに在ざい って現あらわ れていない ことを言い う。「潜在せんざい 能力のうりょく を引ひ き出だ す」という言い い方かた が「作つく り出だ す」ではなく「引ひ き出だ す」なのは、この含ふく みによる。38 の扁鵲へんじゃく の話はなし と同おな じ構図こうず を、老子ろうし は病やまい ではなく成長せいちょう の側がわ から述の べている。
惻隠そくいん の心こころ は、仁ひとし の端はし なり。羞悪しゅうお の心こころ は、義ぎ の端はし なり。……凡ぼん そ我われ に四よん 端はし 有あ る者もの 、皆みな 拡ひろ げて之これ を充みつる たすことを知し らば、火ひ の始はじ めて然さ え、泉いずみ の始はじ めて達たっ するが若わか し。『孟子もうし 』公孫丑上こうそんちゅうじょう
人ひと には四よっ つの徳とく の「端はし (はし・きざし)」がそなわっている、という。「端はし 」という一いち 字じ が潜在せんざい を指さ している 。徳とく そのものはまだ現あらわ れていないが、その糸口いとぐち はすでに内ない にある。そして「拡ひろ げて之これ を充みつる たす」— 広ひろ げて満み たすことによって顕在化けんざいか する 。火ひ が燃も えはじめ、泉いずみ が湧わ きはじめる、という比喩ひゆ がうまい。火種ひだね は最初さいしょ からあった のであり、外そと から火ひ を持も ってきたのではない。36 の項こう で引ひ いた「外そと より我われ を鑠しゃく るに非ひ ざるなり」と同おな じ主張しゅちょう の別べつ の言い い方かた で、自律じりつ と潜在せんざい が同おな じ構図こうず から出で ている ことが分わ かる。規範きはん も能力のうりょく も、外そと から入い れるのではなく内ない にあるものを開ひら くのだ、という見方みかた である。
教育きょういく の役割やくわり は、学まな ぶ者もの の潜在せんざい 能力のうりょく を引ひ き出だ すことにある。
「引ひ き出だ す」という動詞どうし に注目ちゅうもく したい。無な いものを作つく るのではなく、在あ るものを表ひょう に出だ す という含ふく みである。ラテン語ご の educere(引ひ き出だ す)がeducation の語源ごげん だという説せつ がくり返かえ し語かた られるのも、この含ふく みを支ささ えたいからである。教育きょういく 観かん そのものがこの一語いちご に賭か けられている 。
×努力どりょく すれば成功せいこう する潜在せんざい 性せい がある。
これは「可能性かのうせい 」 である。成功せいこう はまだどこにも存在そんざい していない。潜在せんざい はすでに在ざい って現あらわ れていない ものに使つか う。「潜在的せんざいてき な力ちから がある」なら通とお る — 力ちから は本人ほんにん の内ない にすでにあるからだ。「今いま どこかに在あ るか」を問と えば二に 語ご は分わ かれる 。
派生はせい 形けい
潜在的せんざいてき [0] もっとも多おお い形かたち 。「潜在的せんざいてき な〜」で対象たいしょう を限定げんてい する のが基本きほん で、顕在けんざい 的てき と対たい にして使つか う。日常にちじょう 語ご としても通用つうよう するため、評ひょう 論文ろんぶん では「可能性かのうせい がある」の言い い換か えとして流なが されやすい 点てん に注意ちゅうい したい。
潜在意識せんざいいしき [0] 心理学しんりがく の複合ふくごう 語ご 。厳密げんみつ には「無意識むいしき 」と区別くべつ される場合ばあい がある が、日本語にほんご では混用こんよう されることが多おお い。評ひょう 論文ろんぶん で出で たら、筆者ひっしゃ がどちらの意味いみ で使つか っているかを前後ぜんご から確たし かめる必要ひつよう がある。
潜勢せんせい 「潜勢力せんせいりょく 」の形かたち で用もち いられる硬かた い語ご 。アリストテレスの「デュナミス(可能かのう 態たい )」の訳語やくご として哲学てつがく 書しょ に現あらわ れる。現実げんじつ 態たい (エネルゲイア)と対たい になり、潜在せんざい と顕在けんざい の哲学的てつがくてき な源流げんりゅう にあたる。この背景はいけい を知し っていると、哲学てつがく 系けい の評ひょう 論文ろんぶん で足あし が止と まらない。
コロケーション
潜在せんざい 能力のうりょく 引ひ き出だ す対象たいしょう 本人ほんにん にも気き づかれていない力ちから を指さ す。この語ご が広ひろ く使つか われるのは、失敗しっぱい を能力のうりょく の欠如けつじょ ではなく未み 発現はつげん として説明せつめい できる からである。慰なぐさ めにも励はげ ましにもなるが、同時どうじ に反証はんしょう できない という弱点じゃくてん も抱かか えている。現あらわ れていないだけだ、と言い われれば誰だれ も否定ひてい できない。
潜在せんざい 意識いしき 心理学しんりがく の語ご フロイト以降いこう の語ご で、本人ほんにん が自覚じかく していない意識いしき の層そう を指さ す。ここで重要じゅうよう なのは、自覚じかく がないだけで働はたら いてはいる ということだ。意識いしき されないものが行動こうどう を決き めているという主張しゅちょう は、20 のイデオロギー、21 の疎そ 外がい と同おな じ形かたち をしている — 自分じぶん の外そと にあるものが自分じぶん を動うご かしている という構図こうず である。
潜在的せんざいてき な対立たいりつ 見み えない緊張きんちょう 評ひょう 論文ろんぶん でよく現あらわ れる形かたち で、まだ表ひょう に出で ていないがすでに存在そんざい している対立たいりつ を指さ す。「対立たいりつ の可能性かのうせい がある」とはまるで違ちが う。可能性かのうせい なら無な いかもしれないが、潜在的せんざいてき なら在あ る 。筆者ひっしゃ がこの語ご を選えら んだ時点じてん で、対立たいりつ の存在そんざい 自体じたい は主張しゅちょう されている と読よ まねばならない。
潜在せんざい と可能かのう 境目さかいめ の確認かくにん 確認かくにん テストで問と われる区別くべつ 。潜在せんざい はすでに在ざい って現あらわ れていない、可能性かのうせい はまだ無な いが実現じつげん しうる 。「潜在せんざい 需要じゅよう 」は顧客こきゃく の中なか にすでにある欲求よっきゅう で、「成功せいこう の可能性かのうせい 」はまだどこにもない。「今いま それはどこにあるか」と問と えるかどうか で判別はんべつ する。
格かく 中なか 書か き言葉ことば ・会話かいわ の両方りょうほう で使つか える。
類るい 語ご と差さ
内在ないざい 内側うちがわ に含ふく まれている含ふく まれていることを言い うだけで、現あらわ れていないとは限かぎ らない。
伏在ふくざい 隠かく れて存在そんざい する硬かた い語ご 。危険きけん や問題もんだい について使つか うことが多おお い。
可能性かのうせい 実現じつげん しうる状態じょうたい 実現じつげん の見込みこ み。潜在せんざい はすでに在ざい って現あらわ れていないこと。この差さ が重要じゅうよう 。
暗黙あんもく 言葉ことば にされていない言語化げんごか の有無うむ 。「暗黙あんもく の了りょう 解かい 」。潜在せんざい は存在そんざい の様態ようたい 。
EN latentZH 潜在(潜在, qiánzài)
40 ★
モチーフ
モチーフ [1] モ チ ー フ 頭高あたまだか 型がた
定義ていぎ
芸術げいじゅつ 作品さくひん において、芸術げいじゅつ 家か の表現ひょうげん の動機どうき となった題材だいざい や考かんが え・思想しそう 。
『現代げんだい 文ぶん キーワード読解どっかい 』1-1 ☑40
原げん 書しょ の解説かいせつ
モチーフ とは、芸術げいじゅつ 作品さくひん などをつくり出だ す時とき に原げん 動どう 力りょく となった題材だいざい や思想しそう のことで、その作品さくひん の根本こんぽん や中核ちゅうかく をなすことから、「主題しゅだい 」や「テーマ」などと同おな じ意味いみ で使つか われることもある。
使用しよう の境界きょうかい 芸術げいじゅつ 作品さくひん において、表現ひょうげん の動機どうき となった題材だいざい や考かんが え・思想しそう 。「主題しゅだい 」「テーマ」と同義どうぎ で使つか われることもある。
用法ようほう 三みっ つの層そう で使つか われる。①創作そうさく の動機どうき となった題材だいざい や思想しそう (最もっと も基本きほん )、②作品さくひん の中なか で繰く り返かえ し現あらわ れる要素ようそ (音楽おんがく の主題しゅだい 、文学ぶんがく の反復はんぷく イメージ)、③手芸しゅげい ・工芸こうげい で図ず 案あん の単位たんい 。評ひょう 論文ろんぶん では①②が中心ちゅうしん で、「この作品さくひん のモチーフは死し である」のように使つか う。「主題しゅだい 」と言い い換か えられる場合ばあい が多おお いが、モチーフは複数ふくすう あってよく、主題しゅだい は通常つうじょう 一ひと つという差さ がある。原げん 書しょ は「主題しゅだい 」「テーマ」と同義どうぎ で使つか われることもあると述の べる。
用例ようれい
西行さいぎょう の和歌わか における、宗祇そうぎ の連歌れんが における、雪舟せっしゅう の絵え における、利り 休きゅう が茶ちゃ における、其そ の貫道かんどう する物もの は一いち なり。松尾まつお 芭蕉ばしょう 『笈きゅう の小しょう 文ぶん 』(1690頃ころ )
和歌わか ・連歌れんが ・絵え ・茶ちゃ — ジャンルはまるで違ちが うのに、それらを貫つらぬ いているものは一ひと つだ と芭蕉ばしょう は言い う。この「貫道かんどう する物もの 」が、モチーフのもっとも深ふか い層そう にあたる。注意ちゅうい したいのは、芭蕉ばしょう が「同おな じ題材だいざい を扱あつか っている」とは言い っていない ことだ。西行さいぎょう は歌うた を詠えい み、雪舟せっしゅう は墨すみ を使つか う。共通きょうつう なのは題材だいざい ではなく、作つく らせている当とう のもの である。モチーフが「題材だいざい 」と「動機どうき 」の両方りょうほう を意味いみ しうるのは、この二ふた つが作つく り手て にとって分ぶん かちがたく結むす びついているからで、何なに を選えら ぶかと、なぜ選えら ぶかは同おな じ一ひと つのこと なのである。
折節おりふし の移うつ り変へん るこそ、ものごとにあはれなれ。吉田兼好よしだけんこう 『徒然草つれづれぐさ 』第だい 十九じゅうきゅう 段だん (1330頃ころ )
季節きせつ の移うつ り変か わりこそ、何なん につけてもしみじみと心こころ を打う つ、という。この一句いっく のあと、兼好けんこう は春はる から冬ふゆ までの景けい 物ぶつ を延々えんえん と書か き連つら ねていく。四季しき という、くり返かえ し戻もど ってくる型かた がここでの主題しゅだい である。モチーフの第だい 二に の層そう — 作品さくひん の中なか で反復はんぷく して現あらわ れる要素ようそ がこれにあたる。重要じゅうよう なのは、反復はんぷく が退屈たいくつ にならない ことだ。毎年まいとし 同おな じ春はる が来く るのに、そのつど「あはれ」が新あたら しい。音楽おんがく で主題しゅだい がくり返かえ されるたびに違ちが って聞き こえるのと同おな じ仕組しく みで、モチーフは同一どういつ であることによってではなく、戻もど ってくることによって働はたら く 。
この作品さくひん のモチーフ は、一貫いっかん して〈失うしな われた場所ばしょ への帰還きかん 〉である。
①の用法ようほう 、すなわち創作そうさく の動機どうき となった題材だいざい や思想しそう である。「主題しゅだい 」と言い い換か えられる場面ばめん だが、差さ がある。主題しゅだい は通常つうじょう 一ひと つ、モチーフは複数ふくすう あってよい 。「この作品さくひん のモチーフは死し と水みず と母はは である」とは言い えるが、「主題しゅだい は死し と水みず と母はは である」とは言い いにくい。この数かず の違ちが いが、二に 語ご を分わ ける実際的じっさいてき な目印めじるし になる。
×会議かいぎ のモチーフ は来期らいき の予算よさん だ。
会議かいぎ で扱あつか う事柄ことがら は「議題ぎだい 」「テーマ」 である。モチーフは芸術げいじゅつ 作品さくひん について使つか う語ご で、創作そうさく の動機どうき という含ふく みを負お っている。動機どうき を持も たない実務じつむ の話題わだい には合あ わない。「誰だれ かがそれに促うなが されて何なに かを作つく ったか」 を問と えば、使つか えるかどうかが決き まる。
コロケーション
作品さくひん のモチーフ①の基本きほん 形けい 創作そうさく の原げん 動どう 力りょく となった題材だいざい や思想しそう を指さ す。「題材だいざい 」との違ちが いは動機どうき を含ふく むかどうかで、題材だいざい はただ選えら ばれたもの、モチーフは選えら ばせたもの である。同おな じ「花はな 」でも、描えが くために置お かれた花はな は題材だいざい 、描えが かずにいられなくさせた花はな はモチーフになる。この向む きの違ちが いが語ご の中心ちゅうしん にある。
反復はんぷく されるモチーフ②の用法ようほう 作品さくひん の中なか でくり返かえ し現あらわ れる要素ようそ を指さ す。音楽おんがく の主題しゅだい 、文学ぶんがく における反復はんぷく イメージ。ここでのモチーフは動機どうき ではなく構造こうぞう の単位たんい である。批評ひひょう がこの用法ようほう を好この むのは、作者さくしゃ の意図いと を問と わずに作品さくひん の内側うちがわ だけで論ろん じられる からで、「作者さくしゃ はこう考かんが えた」と言い わずに済す む。
モチーフと主題しゅだい 数かず の違ちが い 主題しゅだい は通常つうじょう 一ひと つ、モチーフは複数ふくすう あってよい 。この差さ はそのまま階層かいそう の差さ でもある。複数ふくすう のモチーフが編あ み合あ わさって一ひと つの主題しゅだい を形かたち づくる、という関係かんけい になりやすい。評ひょう 論文ろんぶん で両方りょうほう が出で てきたら、どちらが上位じょうい に置お かれているか を見み ると論ろん の構造こうぞう がつかめる。
通奏つうそう 低てい 音おん 比喩ひゆ としての隣人りんじん もとはバロック音楽おんがく の用語ようご で、曲きょく を通つう じて鳴な り続つづ ける低てい 音おん 部ぶ を指さ す。評ひょう 論文ろんぶん では「この時代じだい の通奏つうそう 低てい 音おん は不安ふあん である」のように、表ひょう には出で ないが全体ぜんたい を支ささ えている要素ようそ を指さ す比喩ひゆ として使つか われる。モチーフが表ひょう に現あらわ れる要素ようそ であるのに対たい し、こちらは39 の潜在せんざい に近ちか い位置いち にある。対たい で覚おぼ えると射程しゃてい が広ひろ がる。
格かく 中なか 書か き言葉ことば ・会話かいわ の両方りょうほう で使つか える。
類るい 語ご と差さ
主題しゅだい 作品さくひん の中心ちゅうしん となる考かんが え作品さくひん 全体ぜんたい を貫つらぬ く一ひと つの考かんが え。モチーフは複数ふくすう あってよく、繰く り返かえ し現あらわ れる要素ようそ も指さ す。
テーマ 扱あつか う題材だいざい 最もっと も広ひろ い。主題しゅだい とほぼ同義どうぎ で使つか われる。
題材だいざい 素材そざい として選えら ばれたもの素材そざい そのもの。動機どうき という含ふく みはない。
動機どうき 行為こうい を起お こさせるものモチーフの語源ごげん 的てき な意味いみ 。音楽おんがく では最小さいしょう の旋律せんりつ 単位たんい を指さ す。
EN motifZH 主题(主題, zhǔtí)
解説かいせつ ── 顕在けんざい ・潜在せんざい
「その事件じけん によって、ある問題もんだい が顕在化けんざいか した」のように、外見がいけん 的てき に見み えなかったり気き づかれていなかったりしたことが表面ひょうめん に現あらわ れることを、「顕在化けんざいか 」と言い う。
潜在せんざい は顕在けんざい の逆ぎゃく で、まだ表面化ひょうめんか されず、気き づかれていない状態じょうたい のこと。たとえば、まだ発揮はっき されていない、本人ほんにん にも気き づかれていない能力のうりょく のことを「潜在せんざい 能力のうりょく 」と言い う。
対立たいりつ の軸じく
自律じりつ /他律たりつ の軸じく = 律りつ する主体しゅたい が内ない か外そと か
自律じりつ 自分じぶん の考かんが えに従したが って判断はんだん し行動こうどう する。
律りつ する主体しゅたい が内ない か外そと か
他律たりつ 他ほか からの命令めいれい ・強制きょうせい に従したが って行動こうどう する。
顕在けんざい /潜在せんざい の軸じく = 表面ひょうめん に現あらわ れているか
顕在けんざい はっきり形かたち に現あらわ れて存在そんざい する。
表面ひょうめん に現あらわ れているか
潜在せんざい 内ない にひそんで表面ひょうめん に現あらわ れない。
自律と他律、顕在と潜在 規範の出どころが内か外かで自律と他律を分け、表面に現れているかで顕在と潜在を分けた図。
自律
規範が内から出る
他律
規範が外から来る
表面
潜在
顕在
無いのではない。まだ現れていない。
顕在化する = 前から在ったものが表面に出る(新たに発生したのではない)
規範きはん の出で どころと、表面ひょうめん との関係かんけい
Output
産出さんしゅつ
やるなら ── 自分じぶん の関心かんしん 領域りょういき から一ひと つ選えら び、次つぎ のいずれかを一段落いちだんらく で書か く。
その領域りょういき で「普遍ふへん 」と呼よ ばれているものに、例外れいがい はあるか
その領域りょういき で、手段しゅだん が目的もくてき に入い れ替か わっている例れい はあるか
Blank
「すべては相対的そうたいてき である」——この命題めいだい 自体じたい は、絶対ぜったい か、相対そうたい か。