原げん 書しょ の導入どうにゅう
科学かがく とは何なに か
現代げんだい と科学かがく
入試にゅうし では、「科学かがく 」に関かん する文章ぶんしょう がしばしば出題しゅつだい される。その理由りゆう は、多おお くの受験じゅけん 生せい が「科学かがく とは何なに か」を知し らないからだ。
こう言い うと、「現代げんだい 社会しゃかい が科学かがく の成果せいか によって成な り立た っていることも、科学技術かがくぎじゅつ が環境かんきょう 破壊はかい や戦争せんそう 兵器へいき を生う み出だ したことも、クローンや臓器ぞうき 移植いしょく などで科学技術かがくぎじゅつ が新あら たな倫理的りんりてき な問題もんだい を引ひ き起お こしたことも知し っている」と思おも う人ひと がいるかもしれない。
しかし、入試にゅうし の「科学かがく 論ろん 」では、もっと本質的ほんしつてき なことが問と われる。つまり、「そもそも科学かがく とはいったい何なに なのか」ということだ。これがわからないと、なぜ科学かがく とその応用おうよう としての科学技術かがくぎじゅつ が現在げんざい のように発展はってん し、そして多おお くの問題もんだい を引ひ き起お こしたのかが理解りかい できない。そのため、「科学かがく とは何なに か」が出題しゅつだい されるのである。
近代きんだい 科学かがく の特徴とくちょう
それでは「科学かがく とは何なに か」について学まな んでいこう。科学かがく の最大さいだい の特徴とくちょう は、「機械論きかいろん 」という考かんが え方かた だ。機械論きかいろん とは、「自然しぜん も生物せいぶつ も、すべて物質ぶっしつ からできた機械きかい である。すべての物体ぶったい は機械きかい だから、一ひと つ一ひと つの部品ぶひん から成な り立た っている。分解ぶんかい して細こま かく調しら べれば、対象たいしょう を完全かんぜん に理解りかい できるはずだ」というものである。
現在げんざい のような科学かがく を、古代こだい や中世ちゅうせい の科学かがく と区別くべつ して「近代きんだい 科学かがく 」と言い う。近代きんだい 以前いぜん の人々ひとびと は、物体ぶったい に魂たましい があると考かんが えたり、神かみ の力ちから によって世界せかい が成な り立た っていると考かんが えたりしていた。科学かがく が今いま のような客観的きゃっかんてき な学問がくもん として発達はったつ したのは、近代きんだい に入はい り、宗教しゅうきょう の力ちから が弱じゃく まるにつれて、次第しだい に機械論きかいろん 的てき な見方みかた が強きょう まっていったためだ。
近代きんだい 科学かがく の研究けんきゅう 方法ほうほう
近代きんだい 以降いこう の科学かがく の驚おどろ くべき発展はってん は、その研究けんきゅう の方法ほうほう に理由りゆう がある。第一だいいち に、「実際じっさい に証明しょうめい や検証けんしょう ができることだけを研究けんきゅう する」という態度たいど 〈=実証じっしょう 主義しゅぎ 〉 が挙あ げられる。したがって、証明しょうめい や検証けんしょう ・実験じっけん ができない領域りょういき の事柄ことがら は、研究けんきゅう の対象外たいしょうがい とされた。
第だい 二に に、実験じっけん の結果けっか から原因げんいん を考かんが え、その因果いんが 関係かんけい を法則ほうそく として導みちび くという方法ほうほう を取と る。その法則ほうそく 化か には数学すうがく が使つか われ、実験じっけん 結果けっか を数値すうち データとして処理しょり する。それによって、客観的きゃっかんてき で正確せいかく な科学的かがくてき 知識ちしき が得とく られる。
第だい 三さん に近代きんだい 科学かがく は、物事ものごと をそれ以上いじょう 分わ けられない要素ようそ にまで細こま かく分わ けて(還元かんげん して)分析ぶんせき し、それらを再構成さいこうせい して対象たいしょう を理解りかい する。これを要素ようそ (還元かんげん )主義しゅぎ と言い う。部分ぶぶん 部分ぶぶん を理解りかい すれば全体ぜんたい を理解りかい できるというこの考かんが え方かた は、現代げんだい では限界げんかい も指摘してき されているものの、近代きんだい 科学かがく を強力きょうりょく に推すい し進すす めた原理げんり の一ひと つである。
科学かがく の制度せいど 化か
十九じゅうきゅう 世紀せいき に入はい り、科学技術かがくぎじゅつ の発達はったつ が産業さんぎょう の発展はってん に不可欠ふかけつ なものとなると、科学かがく の基礎きそ 研究けんきゅう や科学技術かがくぎじゅつ 開発かいはつ が国家こっか や企業きぎょう の支援しえん で行おこな われるようになっていった。すなわち、科学技術かがくぎじゅつ に関かん する研究けんきゅう ・開発かいはつ が個人的こじんてき な知的ちてき 探求たんきゅう を目的もくてき としたものではなく、企業きぎょう や国家こっか によって制度せいど 化か され、大規模だいきぼ かつ組織的そしきてき に行おこな われるようになったのだ。その結果けっか 、科学かがく や科学技術かがくぎじゅつ が社会しゃかい に及およ ぼす影響えいきょう はきわめて大おお きくなり、一いち 面めん では科学かがく や科学技術かがくぎじゅつ は人々ひとびと の生活せいかつ を便利べんり で豊ゆた かにしたが、反面はんめん では地球ちきゅう 的てき 規模きぼ の環境かんきょう 破壊はかい や世界的せかいてき な大戦たいせん 争そう を引ひ き起お こすようになっていった。
問と い直なお される近代きんだい 科学かがく
二十にじゅう 世紀せいき 以降いこう 、近代きんだい 科学かがく は多おお くの批判ひはん にさらされ、そのあり方かた が問と い直なお されている。たとえば、「科学かがく は時代じだい が進すす めば進すす むほど、新あら たな真理しんり を発見はっけん して進歩しんぽ する」という従来じゅうらい の科学かがく 観かん がくつがえされ、「科学かがく もまた時代じだい や社会しゃかい の知的ちてき 状況じょうきょう 、科学者かがくしゃ たちの物もの の見方みかた などに拘束こうそく される」という考かんが え方かた が出で てきた。これに従じゅう えば、近代きんだい 科学かがく は真理しんり 追究ついきゅう の一本いっぽん 道みち を歩あゆ んできたわけではなく、ある特定とくてい の「考かんが え方かた の枠組わくぐ み」の中なか で発展はってん してきたものであることがわかる。
また、近代きんだい 科学かがく の特徴とくちょう である「機械論きかいろん 的てき 自然しぜん 観かん 」や「要素ようそ 主義しゅぎ 」は自然しぜん を操作そうさ ・支配しはい の対象たいしょう としてとらえるため、結果けっか として自然しぜん 破壊はかい につながってしまった。その反省はんせい もあり、自然しぜん 環境かんきょう や生態系せいたいけい を有機ゆうき 的てき ・全体ぜんたい 的てき にとらえようとするエコロジーの思想しそう も強きょう まってきている。今後こんご は、高度こうど な科学技術かがくぎじゅつ を自然しぜん 環境かんきょう や生態系せいたいけい を保護ほご するために用もち いていくような、人間にんげん と自然しぜん との共生きょうせい のあり方かた が求もと められていると言い えよう。
今いま まで見み てきたように、科学かがく も万能ばんのう ではない。科学かがく とはどのようなものかを理解りかい した上うえ で、科学かがく と人間にんげん のよりよい関係かんけい について考かんが えることが必要ひつよう だ。
Section 05
仮説かせつ /検証けんしょう
45 ★★★
仮説かせつ
かせつ [0] か せ つ 平板へいばん 型がた
語ご 構成こうせい
仮かり かりに + 説せつ とく・のべる
定義ていぎ
ある現象げんしょう を説明せつめい するために、仮かり に立た てる説せつ 。
『現代げんだい 文ぶん キーワード読解どっかい 』1-1 ☑45
使用しよう の境界きょうかい 現象げんしょう を説明せつめい するために仮かり に立た てる説せつ 。まだ確たし かめられていないことが前提ぜんてい 。確たし かめ終お わったら法則ほうそく ・理論りろん と呼よ ぶ。
用法ようほう 「仮説かせつ を立た てる」「仮説かせつ を検証けんしょう する」という動詞どうし の組く み合あ わせが固定こてい している。評ひょう 論文ろんぶん では、二十にじゅう 世紀せいき 以降いこう の科学かがく 観かん を述の べる箇所かしょ で「理論りろん は仮説かせつ にすぎない」 という形かたち で現あらわ れる。ここでの含意がんい は、理論りろん が永遠えいえん の真理しんり ではなく、実験じっけん と合あ わなければ捨す てられる暫定ざんてい 物ぶつ だということ。「仮説かせつ にすぎない」は日常にちじょう では相手あいて の主張しゅちょう を退しりぞ ける言い い方かた になるが、科学かがく 論ろん の文脈ぶんみゃく では科学かがく の性格せいかく そのものの記述きじゅつ なので、否定ひてい の意味いみ に読よ まないこと。
用例ようれい
重力じゅうりょく のこれらの性質せいしつ の原因げんいん を、私わたし はいまだ現象げんしょう から導みちび き出だ せていない。そして私わたし は仮説かせつ をつくらない。アイザック・ニュートン『プリンキピア』第だい 二に 版はん ・一般いっぱん 注ちゅう (1713)/訳やく は本ほん 教材きょうざい
万有引力ばんゆういんりょく の法則ほうそく を打う ち立た てた当人とうにん が、「なぜ引力いんりょく が働はたら くのか」については何なに も言い わない と宣言せんげん している。ここでニュートンが退しりぞ けている「仮説かせつ 」は、現象げんしょう から確たし かめようのない思おも いつき のことである。引力いんりょく がどう働はたら くかは計算けいさん できる。なぜ働はたら くかは計算けいさん できない。だから後者こうしゃ については黙だま る、という徹底てってい ぶりだ。注意ちゅうい したいのは、この態度たいど が科学かがく から仮説かせつ を追放ついほう したのではない ことである。追放ついほう されたのは検証けんしょう にかけられない仮説かせつ だけで、検証けんしょう にかけられる仮説かせつ はむしろこのあと科学かがく の中心ちゅうしん になっていく。46 の検証けんしょう と対たい で読よ むべき一節いっせつ である。
枯木こぼく に花はな 咲さ くを怪かい しむより、生木なまき に花はな 咲さ くを怪かい しむべし。三浦みうら 梅園ばいえん 『多賀たが 墨すみ 卿きょう 君きみ にこたふる書しょ 』(1777)
枯か れ木き に花はな が咲さ けば誰だれ でも驚おどろ く。だが本当ほんとう に問と うべきは、生い きた木き に花はな が咲さ くという「当あ たり前まえ 」のほう だ、という。仮説かせつ はここから生う まれる。説明せつめい を必要ひつよう としていると気き づかれた瞬間しゅんかん に、はじめて現象げんしょう は説明せつめい の対象たいしょう になる 。リンゴが落お ちるのは当あ たり前まえ だと思おも っているかぎり、万有引力ばんゆういんりょく の仮説かせつ は立た てようがない。1-1 の 14 で見み た自明じめい 性せい の問題もんだい が、ここでは科学かがく の出発点しゅっぱつてん として現あらわ れている。仮説かせつ を立た てる力ちから とは、当あ たり前まえ を当あ たり前まえ でなくする力ちから のことである 。
二十にじゅう 世紀せいき 以降いこう の科学かがく 観かん では、理論りろん は仮説かせつ にすぎないとされる。
ここでの「にすぎない」を否定ひてい に読よ まないこと 。日常にちじょう では相手あいて の主張しゅちょう を退しりぞ ける言い い方かた だが、ここでは科学かがく の性格せいかく そのものの記述きじゅつ である。理論りろん は永遠えいえん の真理しんり ではなく、実験じっけん と合あ わなければ捨す てられる暫定ざんてい 物ぶつ だ、と言い っている。捨す てられる用意ようい があることが、科学かがく が科学かがく である条件じょうけん になった という主張しゅちょう である。
△まだ仮説かせつ の段階だんかい なので信用しんよう できない。
科学かがく 論ろん の文脈ぶんみゃく では、すべての理論りろん が仮説かせつ の段階だんかい にある 。したがってこの言い い方かた は、何なに も言い っていないに等ひと しい。問と うべきは仮説かせつ かどうかではなく、どこまで検証けんしょう を経へ てきたか である。「まだ検証けんしょう が十分じゅうぶん でない」なら通とお る。
派生はせい 形けい
仮説的かせつてき [0] 「仮説かせつ の」で足た りることが多おお い。あえて使つか うと「確定かくてい していない」という留保りゅうほ が前面ぜんめん に出で る ため、「仮説かせつ 的てき な結論けつろん 」は結論けつろん を弱よわ める言い い方かた になる。
作業仮説さぎょうかせつ [4] 真偽しんぎ より先さき へ進すす めるかどうか で置お く仮説かせつ 。「作業さぎょう 」の二字にじ が、この仮説かせつ が目的もくてき ではなく道具どうぐ であることを示しめ している。
仮定かてい [0] 近ちか い語ご だが、検証けんしょう にかけない点てん が違ちが う。「仮かり にこうだとすれば」と置お いて議論ぎろん を進すす めるためのもので、真偽しんぎ は問と わない。仮説かせつ は確たし かめる、仮定かてい は確たし かめない — この一点いってん で分わ かれる。
コロケーション
仮説かせつ を立た てる固定こてい した動詞どうし 「作つく る」でも「考かんが える」でもなく「立た てる」と言い う。立た てるのは、倒たお れうるものに使つか う動詞どうし である。柱はしら を立た て、旗はた を立た て、説せつ を立た てる。いずれも支ささ えを失うしな えば倒たお れる。この動詞どうし の選択せんたく に、仮説かせつ が暫定ざんてい 物ぶつ であるという性格せいかく が現あらわ れている 。「真理しんり を立た てる」とは言い わない。
仮説かせつ を検証けんしょう する一いち 対たい の手続てつづ き立た てることと確たし かめることが対たい になっている。立た てただけでは科学かがく にならない 。ここが日常にちじょう 語ご の「推測すいそく 」との決定的けっていてき な違ちが いで、推測すいそく は確たし かめる義務ぎむ を負お わないが、仮説かせつ は最初さいしょ から確たし かめられるために立た てられる。確たし かめようのないものは仮説かせつ と呼よ ばない — ニュートンの一節いっせつ はそれを言い っている。
作業さぎょう 仮説かせつ 道具どうぐ としての仮説かせつ 真しん であることを主張しゅちょう せず、研究けんきゅう を進すす めるための足場あしば として仮かり に置お く仮説かせつ 。「とりあえずこう考かんが えて先さき へ進すす む」という構かま えである。真偽しんぎ より使つか い勝手かって で選えら ばれる点てん が特徴とくちょう で、この形かたち を知し っておくと、48 のパラダイムが「正ただ しさ」ではなく「研究けんきゅう を進すす められるか」で選えら ばれることも理解りかい しやすい。
仮説かせつ にすぎない二ふた つの読よ み日常にちじょう では相手あいて の主張しゅちょう を退しりぞ ける言い い方かた 、科学かがく 論ろん では科学かがく の性格せいかく の記述きじゅつ 。同おな じ五ご 文字もじ が正反対せいはんたい の役割やくわり を果は たす。見分みわ け方ほう は単純たんじゅん で、特定とくてい の説せつ を指さ していれば前者ぜんしゃ 、理論りろん 一般いっぱん を指さ していれば後者こうしゃ である。入試にゅうし でこの句く が傍線ぼうせん を引ひ かれたら、まずどちらかを決き める。
格かく 中なか 書か き言葉ことば ・会話かいわ の両方りょうほう で使つか える。
類るい 語ご と差さ
推測すいそく たぶんこうだろうと考かんが える 日常にちじょう 語ご 。検証けんしょう にかけることを前提ぜんてい としない。仮説かせつ は検証けんしょう の手続てつづ きとセット。
理論りろん 体系化たいけいか された説明せつめい 検証けんしょう を経へ て受う け入い れられた段階だんかい 。仮説かせつ はその手前てまえ 。
前提ぜんてい 議論ぎろん の出発点しゅっぱつてん に置お くもの疑うたが わずに置お く。仮説かせつ は疑うたが って確たし かめる対象たいしょう 。
モデル 単純化たんじゅんか した写うつ し現象げんしょう を扱あつか いやすくした図式ずしき 。仮説かせつ は真偽しんぎ を問と える主張しゅちょう であるのに対たい し、モデルは道具どうぐ 。
EN hypothesisZH 假说(仮説, jiǎshuō)
46 ★★★
検証けんしょう
けんしょう [0] け ん しょ う 平板へいばん 型がた
定義ていぎ
実際じっさい に調しら べて証明しょうめい すること。実験じっけん や事実じじつ の観察かんさつ によって、仮説かせつ の真偽しんぎ を確たし かめること。
『現代げんだい 文ぶん キーワード読解どっかい 』1-1 ☑46
使用しよう の境界きょうかい 実験じっけん や観察かんさつ によって仮説かせつ の真偽しんぎ を確たし かめること。確たし かめる手続てつづ きを踏ふ まないものは検証けんしょう と呼よ ばない。
用法ようほう 「検証けんしょう 」は近年きんねん 、行政ぎょうせい やメディアで「事後じご の点検てんけん 」 の意い でも広ひろ く使つか われる(政策せいさく の検証けんしょう 、事故じこ の検証けんしょう )。科学かがく 論ろん の文脈ぶんみゃく ではあくまで〈仮説かせつ の真偽しんぎ を実験じっけん で確たし かめる手続てつづ き〉であり、この二に 層そう を読よ み分わ ける。あわせて反証はんしょう を押お さえておく。検証けんしょう は正ただ しいことを示しめ し、反証はんしょう は誤あやま りを示しめ す。二十にじゅう 世紀せいき の科学かがく 哲学てつがく は、検証けんしょう できることではなく反証はんしょう できることを科学かがく の条件じょうけん とした点てん で、原げん 書しょ の記述きじゅつ より一歩いっぽ 先さき に進すす んでいる。
用例ようれい
かの図ず に照て らし合ごう はせ見み しに、一いち として其そ の図ず に聊いささ かも違い ふことなき品々しなじな なり。……この日ひ 、ふと思おも ひつきしは、この実験じっけん のあらん上うえ は、この書しょ を翻訳ほんやく せば必かなら ず人ひと の身み の理り も明みん らむべし。杉田すぎた 玄白げんぱく 『蘭学らんがく 事始ことはじめ 』(1815・明和めいわ 八はち 年ねん 〈1771〉の腑分ふわ けを回想かいそう して)
玄白げんぱく らは小塚原こづかっぱら で腑分ふわ けを見学けんがく し、オランダの解剖かいぼう 書しょ の図ず と一ひと つひとつ突つ き合あ わせた。そしてひとつも違ちが わなかった 。ここで起お きているのが検証けんしょう である。注目ちゅうもく したいのは、彼かれ らが翻訳ほんやく より先さき に照合しょうごう をした ことだ。書物しょもつ が正ただ しいかどうかを、書物しょもつ の外そと にある事実じじつ で確たし かめた。長なが く読よ まれてきた漢方かんぽう の書しょ と食く い違ちが っていたのは、権威けんい ではなく事実じじつ の側がわ が判定はんてい した からである。1-1 の 10 で見み た「権威けんい に従したが う」構かま えが、この日ひ 、事実じじつ に従したが う構かま えへ入い れ替か わった。近代きんだい 日本にほん の科学かがく は、この照合しょうごう の一日いちにち から始はじ まったと言い ってよい 。
知ち を致いた すは物もの に格かく るに在あ り。『大学だいがく 』経一けいいち 章しょう
知ち を極きわ めるには、物もの にじかに当あ たれ、という。「格かく る(いたる)」は、対象たいしょう のところまで自分じぶん が行い く ことを意味いみ する。座すわ って考かんが えるのではなく、出で かけていって確たし かめる。この四字よじ (格かく 物ぶつ 致知ちち )は、東ひがし アジアにおける検証けんしょう の思想しそう の源みなもと にあたる。ただし朱子学しゅしがく の「格かく 物ぶつ 」は、事物じぶつ の理り を窮きわ めるという内面ないめん の作業さぎょう に傾かたむ いていった。実験じっけん によって仮説かせつ の真偽しんぎ を判定はんてい するという意味いみ での検証けんしょう は、手続てつづ きが定さだ まってはじめて成立せいりつ する 。玄白げんぱく らの照合しょうごう が画期的かっきてき だったのは、正ただ しさの判定はんてい を個人こじん の洞察どうさつ から手続てつづ きへ移うつ した点てん にある。
事故じこ の原因げんいん について、記録きろく をたどって検証けんしょう が行おこな われた。
近年きんねん ひろく使つか われる、事後じご の点検てんけん という意味いみ での用法ようほう である。政策せいさく の検証けんしょう 、事故じこ の検証けんしょう 。科学かがく 論ろん の文脈ぶんみゃく での検証けんしょう (仮説かせつ の真偽しんぎ を実験じっけん で確たし かめる手続てつづ き)とは層そう が違ちが う ので、評ひょう 論文ろんぶん ではどちらの意味いみ で使つか われているかを前後ぜんご から決き める必要ひつよう がある。
×この仮説かせつ は検証けんしょう できないので科学的かがくてき に正ただ しい。
逆ぎゃく である。検証けんしょう も反証はんしょう もできない主張しゅちょう は、科学かがく の枠わく の外そと に置お かれる 。二十にじゅう 世紀せいき の科学かがく 哲学てつがく は、正ただ しさを示しめ せることではなく誤あやま りを示しめ す道みち が開ひら かれていること を科学かがく の条件じょうけん とした。反証はんしょう できないことは強つよ みではなく、科学かがく であることの放棄ほうき である。
原げん 書しょ の反はん 意い 語ご ・関連かんれん 語ご 関せき 反証はんしょう /45 仮説かせつ
派生はせい 形けい
検証可能性けんしょうかのうせい [0] 科学かがく と科学かがく でないものを分わ ける基準きじゅん として二十にじゅう 世紀せいき の科学かがく 哲学てつがく が立た てた概念がいねん 。のちに反証はんしょう 可能性かのうせい へ引ひ き継つ がれる。「可能性かのうせい 」が付つ くことで、実際じっさい に検証けんしょう されたかどうかではなく、道みち が開ひら かれているかどうか を問と う形かたち になる。
追検証ついけんしょう [0] 「追つい 」は後あと から追お いかけること。他人たにん が繰く り返かえ せること を要求ようきゅう する形かたち で、科学かがく が個人こじん の資質ししつ から独立どくりつ するための仕掛しか けである。
反証はんしょう [0] 対たい になる語ご 。誤あやま りであることを示しめ す 。検証けんしょう が無限むげん の確認かくにん を要よう するのに対たい し、反証はんしょう は一いち 例れい で足た りる。この非対称ひたいしょう が、科学かがく の条件じょうけん を検証けんしょう から反証はんしょう へ移うつ した 。
コロケーション
検証けんしょう と反証はんしょう 非対称ひたいしょう な二ふた つ検証けんしょう は正ただ しいことを示しめ し 、反証はんしょう は誤あやま りであることを示しめ す 。この二ふた つは対等たいとう ではない。「白鳥はくちょう はすべて白しろ い」を検証けんしょう するには白鳥はくちょう を無限むげん に確たし かめねばならないが、反証はんしょう には黒くろ い白鳥はくちょう が一羽いちわ いれば足た りる 。ポパー以降いこう 、科学かがく の要件ようけん が反証はんしょう 可能性かのうせい に置お かれたのはこの非対称ひたいしょう ゆえで、53 の帰納きのう の問題もんだい と地続じつづ きである。
検証けんしょう 可能性かのうせい 線せん を引ひ く基準きじゅん 確たし かめる道みち があるかどうか で、科学かがく と科学かがく でないものを分わ ける考かんが え方かた 。注意ちゅうい したいのは、これが正ただ しさの基準きじゅん ではなく、科学かがく であることの基準きじゅん だという点てん だ。確たし かめられない主張しゅちょう が誤あやま りだと言い っているのではない。科学かがく の手続てつづ きでは扱あつか えない と言い っている。52 の実証じっしょう 主義しゅぎ が切き り捨す てたものも、まさにここである。
追つい 検証けんしょう 他人たにん が繰く り返かえ す別べつ の研究者けんきゅうしゃ が同おな じ手続てつづ きを踏ふ んで確たし かめること。一人ひとり の観察かんさつ は科学かがく にならない という要請ようせい がここに表あらわ れている。玄白げんぱく らが腑分ふわ けを「見み た」だけなら証言しょうげん だが、同おな じ照合しょうごう を誰だれ がやっても同おな じ結果けっか になるなら知識ちしき である。誰だれ でも繰く り返かえ せることが、事実じじつ を権威けんい から独立どくりつ させる 。
検証けんしょう を経へ る時間じかん の含ふく み「経へ る」は時間じかん をかけて通とお り抜ぬ ける動詞どうし である。一度いちど で終お わるものではないという含ふく みがここにある。仮説かせつ は検証けんしょう を経へ るたびに少すこ しずつ確たし からしさを増ま すが、完全かんぜん に証明しょうめい されることはない 。45 で見み た「理論りろん は仮説かせつ にすぎない」は、この終お わりのなさを言い い換か えたものである。
格かく 中なか 書か き言葉ことば ・会話かいわ の両方りょうほう で使つか える。
類るい 語ご と差さ
実証じっしょう 事実じじつ にもとづいて証明しょうめい する根拠こんきょ を経験けいけん 的てき 事実じじつ に置お くこと。検証けんしょう は仮説かせつ を確たし かめる手続てつづ きそのもの。
反証はんしょう 誤あやま りであることを示しめ す検証けんしょう と対たい をなす。ポパー以降いこう 、科学かがく の要件ようけん は反証はんしょう できることだとされる。
論証ろんしょう 論理ろんり によって示しめ す三さん 段だん 論法ろんぽう のように理屈りくつ で導みちび く。検証けんしょう は事実じじつ に当あ てる。
確認かくにん そのとおりだと確たし かめる 日常にちじょう 語ご 。真偽しんぎ を問と う構かま えを含ふく まない。
EN verificationZH 检验(検証, jiǎnyàn)
解説かいせつ ── 仮説かせつ ・検証けんしょう
近代きんだい の科学かがく は、まず何なに らかのデータに基もと づいて仮説かせつ を立た て、仮説かせつ を確たし かめるために、観察かんさつ ・計算けいさん ・実験じっけん などによって検証けんしょう する。検証けんしょう されて正ただ しければ、仮説かせつ は法則ほうそく や理論りろん として受う け入い れられるようになるが、実験じっけん や証明しょうめい が失敗しっぱい すると、その仮説かせつ は却下きゃっか され、修正しゅうせい を加くわ えられて新あたら しい仮説かせつ が立た てられる。客観的きゃっかんてき な法則ほうそく や理論りろん を見み つけ出だ そうとするこのような研究けんきゅう の方法ほうほう は、近代きんだい 科学かがく によって確立かくりつ され、その後ご 、科学かがく 以外いがい の学問がくもん にも広ひろ く影響えいきょう を与あた えた。
また、「反証はんしょう 」という言葉ことば も合あ わせて覚おぼ えておこう。これは、仮説かせつ や法則ほうそく が虚偽きょぎ ・誤あやま りであることを証明しょうめい することを言い う。
対立たいりつ の軸じく
仮説かせつ /検証けんしょう の軸じく = 確たし かめる前まえ か後あと か
仮説かせつ 現象げんしょう を説明せつめい するために仮かり に立た てる説せつ 。
確たし かめる前まえ か後あと か
検証けんしょう 実験じっけん や観察かんさつ で仮説かせつ の真偽しんぎ を確たし かめる手続てつづ き。
科学研究のプロセス 観察とデータの蓄積から仮説を立て、検証を経て法則化に至る流れと、検証に失敗した場合に仮説へ戻る循環を示した図。
観察
データの蓄積
仮説
仮に立てる説
検証
実験・観察
法則
理論
失敗すれば却下し、修正して立て直す
実証主義
確かめられることだけを研究する。証明・検証・実験ができない領域は対象外に置かれた。
この切り捨てが、のちの批判を招く
科学かがく 研究けんきゅう のプロセス ── 検証けんしょう に失敗しっぱい したら戻もど る
入試にゅうし 文ぶん
十九じゅうきゅう 世紀せいき には、理論りろん の樹立じゅりつ こそ科学かがく の目的もくてき であり、実験じっけん はその検証けんしょう であって、検証けんしょう された理論りろん は自然しぜん の永遠えいえん の真理しんり であると信しん じられていたが、二十にじゅう 世紀せいき には、実験じっけん 結果けっか こそが信しん じられるものであって、理論りろん は実験じっけん のための仮説かせつ に過す ぎず、実験じっけん と合あ わない理論りろん は捨す てられるだけでなく、別べつ の理論りろん も可能かのう であり、要よう するに理論りろん は近似きんじ 的てき なものに過す ぎないと考かんが えられるようになった。 ある現象げんしょう をどのように理解りかい するかは「解釈かいしゃく 」の問題もんだい なのであって、どのように解釈かいしゃく されようと、実験じっけん において得とく られたインプットとアウトプットとの関係かんけい こそが信しん じられるものであるということになると、科学かがく とは一定いってい の条件じょうけん のもとで、どのように働はたら きかけるとどのように応答おうとう するかという、操作そうさ とその効果こうか の間あいだ の関係かんけい を見み 出だ す仕事しごと になる。
出典しゅってん 坂本さかもと 賢三けんぞう 『先端せんたん 技術ぎじゅつ のゆくえ』 / 出題しゅつだい 法ほう 政せい 大学だいがく ・経営けいえい 学部がくぶ
読解どっかい のポイント十九じゅうきゅう 世紀せいき の科学かがく =実験じっけん によって検証けんしょう された理論りろん は永遠えいえん の真理しんり 二十にじゅう 世紀せいき の科学かがく =理論りろん は実験じっけん のための仮説かせつ に過す ぎない要約ようやく 十九じゅうきゅう 世紀せいき には、理論りろん の樹立じゅりつ が科学かがく の目的もくてき であり、実験じっけん はその検証けんしょう の手段しゅだん に過す ぎなかったが、二十にじゅう 世紀せいき には、理論りろん は仮説かせつ に過す ぎず、実験じっけん の操作そうさ とその効果こうか の関係かんけい を見み 出だ すことが科学かがく の仕事しごと となった。
語ご 法ほう の観察かんさつ 十九じゅうきゅう 世紀せいき と二十にじゅう 世紀せいき を対比たいひ する構文こうぶん が一文いちぶん の中なか で完結かんけつ している。「〜が、〜」の逆接ぎゃくせつ が時代じだい の切き れ目め になっている。
検証と反証の非対称を示した図 「白鳥はすべて白い」という一般命題は、白い白鳥をいくら数えても証明できないが、黒い白鳥が一羽いれば覆る、という非対称を示す。
「白鳥はすべて白い」を確かめる 検証 VERIFY 千羽数えても 証明されない 次の一羽が反例に なりうるから 反証 FALSIFY 一羽で足りる 「すべて」は 一つの例外で崩れる この非対称ゆえに、科学の要件は 「確かめられること」から「誤りを示せること」へ移った
検証けんしょう は無限むげん に要い り、反証はんしょう は一ひと つで足た りる
Section 08
科学かがく の中立ちゅうりつ 性せい /科学かがく の制度せいど 化か /因果いんが /実証じっしょう
49 ★★
科学の中立性かがくのちゅうりつせい
かがくのちゅうりつせい [0] か が く の ちゅ う り つ せ い 平板へいばん 型がた
語ご 構成こうせい
中立ちゅうりつ どちらにも属ぞく さない + 性せい そのような性質せいしつ
定義ていぎ
科学かがく そのものは善ぜん でも悪あく でもないという考かんが え方かた 。
『現代げんだい 文ぶん キーワード読解どっかい 』1-1 ☑49
原げん 書しょ の解説かいせつ
科学かがく の中立ちゅうりつ 性せい とは、科学かがく それ自体じたい は価値かち 的てき に中立ちゅうりつ であるということ。たとえば、科学かがく が大規模だいきぼ な戦争せんそう に利用りよう されたとしても、それは利用りよう する人間にんげん の問題もんだい であり、科学かがく 自体じたい に罪つみ はないという考かんが え方かた である。
しかし、科学かがく の成果せいか が人類じんるい 規模きぼ の生活せいかつ や生死せいし を左右さゆう する現在げんざい 、科学者かがくしゃ は研究けんきゅう 成果せいか の負ふ の影響えいきょう まで考かんが える倫理りんり 観かん が必要ひつよう だという意見いけん も多おお い。
使用しよう の境界きょうかい 科学かがく それ自体じたい は善ぜん でも悪あく でもないとする立場たちば 。使つか う人間にんげん の責任せきにん だという主張しゅちょう とセットで現あらわ れる。
用法ようほう 「科学かがく に罪つみ はない、悪わる いのは使つか う人間にんげん だ」という主張しゅちょう の名前なまえ である。評ひょう 論文ろんぶん ではこの主張しゅちょう を紹介しょうかい したうえで疑うたが う という運はこ びがほとんどで、そのまま肯定こうてい されることは少すく ない。疑うたが いの根拠こんきょ は、研究けんきゅう の方向ほうこう そのものが軍事ぐんじ や経済けいざい の要請ようせい で決き まっている(=科学かがく の制度せいど 化か )という事実じじつ である。したがって中立ちゅうりつ 性せい と制度せいど 化か は必かなら ず対たい で読よ む。原発げんぱつ ・核兵器かくへいき ・遺伝子いでんし 操作そうさ が具体例ぐたいれい として続つづ くことが多おお い。
用例ようれい
聖人せいじん 生しょう じて大盗たいとう 起お こる。……斗と 斛こく を為つく りて之これ を量りょう れば、則そく ち斗と 斛こく と并ならび せて之これ を窃ぬす む。権衡けんこう を為つく りて之これ を称しょう れば、則そく ち権衡けんこう と并ならび せて之これ を窃ぬす む。『荘子そうし 』胠篋篇
聖人せいじん が現あらわ れたからこそ大泥棒おおどろぼう も現あらわ れた、という。枡ます を作つく って量りょう れば、泥どろ 棒ぼう は枡ます ごと盗ぬす む。秤はかり を作つく って計けい れば、秤はかり ごと盗ぬす む。ここが鋭するど い。盗ぬす まれるのは中身なかみ ではなく、公正こうせい を保証ほしょう していた道具どうぐ そのもの なのだ。「科学かがく に罪つみ はない、悪わる いのは使つか う人間にんげん だ」という主張しゅちょう は、科学かがく を枡ます や秤はかり の側がわ に置お いている。しかし荘子そうし の見立みた てでは、枡ます が作つく られたこと自体じたい が、枡ます ごと奪うば うという盗ぬす み方ほう を生う んだ 。道具どうぐ が無な ければその盗ぬす みは成な り立た たない。中立ちゅうりつ に見み えるものが、新あたら しい力ちから の形かたち をあらかじめ用意ようい してしまう — 中立ちゅうりつ 性せい への疑うたが いは、この構図こうず の上うえ に立た てられる。
真しん の文明ぶんめい は山やま を荒あら さず川かわ を荒あら さず村むら を破やぶ らず人ひと を殺ころ さざるべし。田中たなか 正造しょうぞう の日記にっき (1912)
足尾あしお 銅山どうざん の鉱毒こうどく と生涯しょうがい をかけて闘たたか った人ひと の言葉ことば である。注目ちゅうもく したいのは、文明ぶんめい の定義ていぎ そのものを書か き換か えている点てん だ。当時とうじ の文明ぶんめい とは、鉱山こうざん を掘ほ り、製錬せいれん 所しょ を建だ て、産業さんぎょう を興おこ すことだった。田中たなか 正造しょうぞう はそれを否定ひてい していない。その結果けっか として山やま と川かわ と村むら と人ひと が損そこ なわれるなら、それは文明ぶんめい ではない と言い っている。つまり技術ぎじゅつ の外そと に評価ひょうか の基準きじゅん を置お いた のである。「科学かがく は中立ちゅうりつ で、使つか い方かた が問題もんだい だ」という言い い方かた は、評価ひょうか の基準きじゅん を技術ぎじゅつ の外そと に置お くところまでは同おな じだ。違ちが うのは、田中たなか が「では誰だれ がその外そと の基準きじゅん を守まも るのか」まで引ひ き受う けた ことである。中立ちゅうりつ 性せい の主張しゅちょう は、しばしばそこで止と まる。
科学かがく は中立ちゅうりつ だという主張しゅちょう は、研究けんきゅう の方向ほうこう が誰だれ の要請ようせい で決き まるかを問と わずに済す ませてしまう。
評ひょう 論文ろんぶん における疑うたが いの立た て方ほう である。何なに を研究けんきゅう するかの選択せんたく が、すでに価値かち 判断はんだん である という指摘してき だ。軍事ぐんじ と経済けいざい の要請ようせい が研究費けんきゅうひ を配分はいぶん している以上いじょう 、成果せいか だけを中立ちゅうりつ と呼よ ぶことはできない。この反論はんろん の根拠こんきょ が 50 の制度せいど 化か なので、二に 語ご は必かなら ず対たい で読よ む 。
×研究者けんきゅうしゃ は中立ちゅうりつ 性せい を守まも り、私情しじょう を交こう えず観察かんさつ した。
研究者けんきゅうしゃ の態度たいど の話はなし なら「価値かち 自由じゆう 」「客観きゃっかん 性せい 」 である。科学かがく の中立ちゅうりつ 性せい は知ち そのものが善ぜん でも悪あく でもないという主張しゅちょう で、倫理的りんりてき な善悪ぜんあく についての性質せいしつ を指さ す。人ひと の構かま えの話はなし か、知ち の性格せいかく の話はなし か で語ご を選えら び分わ けたい。
派生はせい 形けい
価値中立性かちちゅうりつせい [0] どの面めん について中立ちゅうりつ なのかを特定とくてい する 形かたち 。学術がくじゅつ 文ぶん ではこちらが選えら ばれる。「中立ちゅうりつ 性せい 」だけでは政治的せいじてき 中立ちゅうりつ と紛まぎ れる。
中立的ちゅうりつてき [0] 形容けいよう の形かたち 。「中立ちゅうりつ である」と断定だんてい せずにその性質せいしつ だけを言い える ため、主張しゅちょう を弱よわ めたいときに使つか われる。「中立的ちゅうりつてき に見み える」はほぼ疑うたが いの前置まえお きである。
価値自由かちじゆう ウェーバーの語ご 。研究者けんきゅうしゃ が価値かち 判断はんだん を持も ち込こ まない という態度たいど への要請ようせい である。知ち の性格せいかく についての主張しゅちょう である中立ちゅうりつ 性せい とは層そう が違ちが う。人ひと に向む けた要請ようせい か、知ち についての記述きじゅつ か — この区別くべつ が付つ くと、両者りょうしゃ を混ま ぜた議論ぎろん に気き づける。
コロケーション
科学かがく に罪つみ はない主張しゅちょう の要約ようやく この語ご が名指なざ している主張しゅちょう そのものである。評ひょう 論文ろんぶん では紹介しょうかい したうえで疑うたが う という運はこ びがほとんどで、そのまま肯定こうてい されることは少すく ない。注意ちゅうい したいのは、疑うたが うことが「科学かがく は有罪ゆうざい だ」を意味いみ しない ことだ。問と われているのは、罪つみ の有無うむ を問と える場所ばしょ に科学かがく を置お いてよいのか という一段いちだん 手前てまえ のことである。
価値かち 中立ちゅうりつ 性せい 学術がくじゅつ 語ご の形かたち 「価値かち 」を冠かんむり すると、どの面めん について中立ちゅうりつ なのかが特定とくてい される 。中立ちゅうりつ とだけ言い えば政治的せいじてき な中立ちゅうりつ とも読よ めるが、この形かたち なら善悪ぜんあく の評価ひょうか についての中立ちゅうりつ だと分わ かる。語ご を長なが くして曖昧あいまい さを削けず る、43 の要素ようそ 還元かんげん 主義しゅぎ と同おな じ手て つきである。
研究者けんきゅうしゃ の倫理りんり 中立ちゅうりつ 性せい の裏返うらがえ し科学かがく の成果せいか が人類じんるい 規模きぼ の生死せいし を左右さゆう する現在げんざい 、研究者けんきゅうしゃ は負ふ の影響えいきょう まで考かんが える責任せきにん を負お う という主張しゅちょう 。これは中立ちゅうりつ 性せい を認みと めたうえで責任せきにん だけを人ひと に戻もど す立場たちば と、中立ちゅうりつ 性せい そのものを否定ひてい する立場たちば の二ふた つに分わ かれる。評ひょう 論文ろんぶん がどちらを取と っているかは、責任せきにん の所在しょざい を研究者けんきゅうしゃ 個人こじん に置お くか制度せいど に置お くかで見分みわ けられる。
デュアルユース同おな じ知ち の二ふた つの顔かお 同一どういつ の研究けんきゅう が民みん 生せい にも軍事ぐんじ にも使つか える、という問題もんだい 。中立ちゅうりつ 性せい の主張しゅちょう がもっとも強つよ く見み える場面ばめん であり、同時どうじ にもっとも弱よわ く見み える場面ばめん でもある。技術ぎじゅつ に善悪ぜんあく が書か き込こ まれていないのは確たし かだが、どちらの用途ようと が資金しきん を出だ したかは書か き込こ まれている 。50 の制度せいど 化か がここで効き く。
格かく 硬かた ・学術がくじゅつ 論文ろんぶん ・評ひょう 論ろん でのみ使つか う。会話かいわ では不自然ふしぜん 。
類るい 語ご と差さ
価値かち 自由じゆう 価値かち 判断はんだん を持も ち込こ まないウェーバーの語ご 。研究者けんきゅうしゃ の態度たいど についての要請ようせい 。中立ちゅうりつ 性せい は知ち そのものの性格せいかく についての主張しゅちょう 。
客観きゃっかん 性せい 主観しゅかん から独立どくりつ している認識にんしき の性質せいしつ 。中立ちゅうりつ 性せい は倫理的りんりてき な善悪ぜんあく についての性質せいしつ 。別べつ の軸じく 。
公平こうへい どちらにも偏かたよ らない 日常にちじょう 語ご 。人ひと の扱あつか いについて言い う。
無色むしょく 透明とうめい 色いろ がついていない比喩的ひゆてき な言い い換か え。学術がくじゅつ 文ぶん では使つか わない。
EN value-neutrality of scienceZH 科学的中立性(科学の中立性, kēxué de zhōnglìxìng)
50 ★★
科学の制度化かがくのせいどか
かがくのせいどか [0] か が く の せ い ど か 平板へいばん 型がた
語ご 構成こうせい
制度せいど 定さだ められたしくみ+ 化か そうなる
定義ていぎ
科学かがく 研究けんきゅう が専門せんもん 化か し、大学だいがく や企業きぎょう で組織的そしきてき に研究けんきゅう が行おこな われるようになること。
『現代げんだい 文ぶん キーワード読解どっかい 』1-1 ☑50
原げん 書しょ の解説かいせつ
科学かがく はもともと個人こじん の興味きょうみ に従したが って探究たんきゅう される営いとな みであった。それが本格的ほんかくてき に制度せいど 化か されたのは、十九じゅうきゅう 世紀せいき 以降いこう においてである。科学者かがくしゃ が専門職せんもんしょく 業ぎょう になり、大学だいがく や企業きぎょう の組織そしき によって科学かがく 研究けんきゅう が大規模だいきぼ に行おこな われるようになった。
科学かがく が制度せいど 化か されるようになった背景はいけい には、二十にじゅう 世紀せいき になって技術革新ぎじゅつかくしん が資本しほん 主義しゅぎ の存続そんぞく に不可欠ふかけつ となったこと、科学かがく 研究けんきゅう が高度こうど 化か ・複雑化ふくざつか したため研究けんきゅう 設備せつび に多た 額がく の費用ひよう がかかり、組織的そしきてき な研究けんきゅう が求もと められるようになったことなどが挙あ げられる。
使用しよう の境界きょうかい 研究けんきゅう が個人こじん の探究たんきゅう から離はな れ、大学だいがく や企業きぎょう で組織的そしきてき に行おこな われるようになること。研究者けんきゅうしゃ が職業しょくぎょう になった点てん が要点ようてん 。
用法ようほう 十九じゅうきゅう 世紀せいき 以降いこう の変化へんか を指さ す歴史的れきしてき な語ご である。含意がんい は二ふた つあり、①研究けんきゅう の高度こうど 化か で設備せつび に多た 額がく の費用ひよう がかかり個人こじん では担にな えなくなった、②国家こっか と企業きぎょう が研究けんきゅう を支ささ えるため、研究けんきゅう の方向ほうこう が国家こっか と企業きぎょう の利益りえき に従したが うようになった。②が科学かがく の中立ちゅうりつ 性せい への反論はんろん になる。評ひょう 論文ろんぶん では「科学かがく が社会しゃかい に及およ ぼす影響えいきょう が巨大きょだい になった」という記述きじゅつ に続つづ けて、環境かんきょう 破壊はかい と大戦たいせん 争そう が挙あ げられる。制度せいど 化か は中立ちゅうりつ でいられなくなる過程かてい だと読よ むと、章しょう 全体ぜんたい がつながる。
用例ようれい
われらの基金ききん の目的もくてき は、諸しょ 原因げんいん の知識ちしき と、事物じぶつ の隠かく れた運動うんどう の知識ちしき を得え ること、そして人間にんげん の支配しはい の境さかい を押お し広ひろ げて、あらゆる可能かのう なことを成な し遂と げることにある。フランシス・ベーコン『ニュー・アトランティス』(1627)/訳やく は本ほん 教材きょうざい
架空かくう の島しま に置お かれた研究けんきゅう 機関きかん 「ソロモンの家いえ 」の説明せつめい である。書か かれたのは十七じゅうなな 世紀せいき だが、近代きんだい の研究所けんきゅうしょ の設計図せっけいず がすでにここにある 。個人こじん の好奇心こうきしん ではなく、基金ききん があり、目的もくてき が定さだ められ、分業ぶんぎょう で運営うんえい される組織そしき として科学かがく が描えが かれている。注目ちゅうもく したいのは目的もくてき の書か き方かた だ。「知識ちしき を得え ること」だけでは終お わらず、「人間にんげん の支配しはい の境さかい を押お し広ひろ げて」 と続つづ く。知し ることと支配しはい することが、最初さいしょ から一ひと つの目的もくてき として結むす ばれている。制度せいど 化か とは、この結むす びつきに予算よさん と組織そしき が付つ いた状態じょうたい のことである。十九じゅうきゅう 世紀せいき に現実げんじつ になるまで、二百年にひゃくねん かかった。
学問がくもん とは、ただむつかしき字じ を知し り、解かい し難なん き古文こぶん を読よ み、和歌わか を楽らく しみ、詩し を作つく るなど、世上せじょう に実じつ のなき文学ぶんがく を言い うにあらず。……専もっぱ ら勤つと むべきは人間にんげん 普通ふつう 日用にちよう に近ちか き実学じつがく なり。福沢ふくざわ 諭吉ゆきち 『学問がくもん のすゝめ』初編しょへん (1872)
学問がくもん を「実じつ のあるもの」へ寄よ せる 宣言せんげん である。和歌わか や漢かん 詩し は「実じつ のなき文学ぶんがく 」として脇わき へ置お かれ、日常にちじょう の役やく に立た つ実学じつがく が中心ちゅうしん に据す えられた。ここで起お きているのは、学問がくもん の値打ねう ちを、学問がくもん の外そと にある尺度しゃくど で測はか りはじめる という転換てんかん である。役やく に立た つかどうかは、学問がくもん の内側うちがわ からは決き まらない。社会しゃかい が決き める。したがってこの一節いっせつ は、学問がくもん が社会しゃかい の要請ようせい に従したが う道みち を開ひら いてもいる 。制度せいど 化か の二ふた つの含ふく み — 費用ひよう がかかるから組織そしき が要い る、組織そしき が支ささ えるから方向ほうこう が決き まる — の後者こうしゃ の芽め が、日本にほん ではここにある 。
科学かがく の制度せいど 化か によって、研究けんきゅう の方向ほうこう は国家こっか と企業きぎょう の利益りえき に従したが うようになった。
49 の中立ちゅうりつ 性せい への反論はんろん がこれである 。研究けんきゅう 設備せつび に多た 額がく の費用ひよう がかかるようになり、個人こじん では担にな えなくなった。国家こっか と企業きぎょう が支ささ えるようになれば、支ささ える側がわ の関心かんしん が何なに を研究けんきゅう するかを決き める 。成果せいか だけを取と り出だ して中立ちゅうりつ と呼よ んでも、その成果せいか が選えら ばれた理由りゆう は中立ちゅうりつ ではない 。
△学会がっかい の運営うんえい が制度せいど 化か して手続てつづ きばかりになった。
手続てつづ きが目的もくてき になってしまった状態じょうたい は「官僚かんりょう 化か 」 と呼よ ぶ。制度せいど 化か は研究けんきゅう が組織的そしきてき に行おこな われるようになること で、それ自体じたい は弊害へいがい を意味いみ しない。ただし官僚かんりょう 化か は制度せいど 化か の弊害へいがい として現あらわ れるので、1-1 の 16 自己じこ 目的もくてき 化か がここで接続せつぞく する 。手段しゅだん だった手続てつづ きが、それ自体じたい を目的もくてき にしはじめる。
原げん 書しょ の反はん 意い 語ご ・関連かんれん 語ご 関せき 78
派生はせい 形けい
制度化せいどか [0] 「化か 」が過程かてい を指さ す。ある営いとな みが社会しゃかい の仕組しく みに組く み込こ まれていく 変化へんか で、科学かがく に限かぎ らず使つか える。「福祉ふくし の制度せいど 化か 」「差別さべつ の制度せいど 化か 」も同おな じ作つく りである。
職業化しょくぎょうか 制度せいど 化か の一いち 側面そくめん 。生せい 業ぎょう になるということは、やめられなくなるということでもある 。好奇心こうきしん で始はじ めた探究たんきゅう が、生活せいかつ を支ささ える仕事しごと に変か わったとき何なに が起お きるか — この問と いが制度せいど 化か 批判ひはん の一ひと つの核かく になる。
官僚化かんりょうか 制度せいど 化か の弊害へいがい を名指なざ す語ご 。手続てつづ きが自己じこ 目的もくてき になる 。1-1 の 16 と直接ちょくせつ つながるので、あわせて読よ むと制度せいど 論ろん の見取みと り図ず が立た つ。
コロケーション
科学者かがくしゃ という職業しょくぎょう 十九じゅうきゅう 世紀せいき の発明はつめい 「科学者かがくしゃ (scientist)」という語ご が作つく られたのは十九じゅうきゅう 世紀せいき である。それ以前いぜん 、科学かがく は職業しょくぎょう ではなかった 。語ご が無な かったということは、その身分みぶん が社会しゃかい のなかに無な かったということだ。制度せいど 化か とは、まず名な を持も つことから始はじ まる — 1-1 の 22 で見み た概念化がいねんか が、ここでは社会的しゃかいてき な身分みぶん について起お きている。
研究費けんきゅうひ と研究けんきゅう の方向ほうこう 因果いんが の線せん 制度せいど 化か を批判ひはん する議論ぎろん は、必かなら ずこの線せん を通とお る。設備せつび が高額こうがく になるほど、資金しきん を出だ す側がわ の意い 向こう が強つよ くなる 。大型おおがた 加速器かそくき も宇宙うちゅう 望遠鏡ぼうえんきょう も、個人こじん の好奇心こうきしん では建た たない。注意ちゅうい したいのは、これが研究者けんきゅうしゃ の堕落だらく として語かた られていない ことだ。構造こうぞう の記述きじゅつ であり、1-1 の 21 の疎そ 外がい と同おな じ形かたち をしている。
産さん 学がく 連携れんけい 制度せいど 化か の現在げんざい 形けい 大学だいがく と企業きぎょう が組く んで研究けんきゅう を進すす める仕組しく み。制度せいど 化か がさらに一歩いっぽ 進すす んだ形かたち として評ひょう 論文ろんぶん に現あらわ れる。成果せいか が早はや く社会しゃかい に届とど くという利り 点てん と、短期たんき に成果せいか の出で る研究けんきゅう へ資源しげん が偏かたよ る という難点なんてん が同時どうじ に語かた られる。基礎きそ 研究けんきゅう の擁護論ようごろん は、たいていここを起点きてん にしている。
官僚かんりょう 化か 制度せいど 化か の影かげ 手続てつづ きを整ととの えるうちに、手続てつづ きを守まも ること自体じたい が目的もくてき になる 。制度せいど 化か の弊害へいがい を名指なざ す語ご である。皮肉ひにく なのは、官僚かんりょう 化か を防ふせ ぐために作つく られる点検てんけん の仕組しく みが、また新あたら しい手続てつづ きを増ふ やす ことだ。1-1 の 35 で見み た「恣意しい を排はい する仕掛しか けが形式けいしき 主義しゅぎ と批判ひはん される」構図こうず と同おな じ往復おうふく にある。
格かく 硬かた ・学術がくじゅつ 論文ろんぶん ・評ひょう 論ろん でのみ使つか う。会話かいわ では不自然ふしぜん 。
類るい 語ご と差さ
組織化そしきか まとまりを作つく る 形かたち の話はなし 。制度せいど 化か は社会しゃかい の仕組しく みに組く み込こ まれることまで含ふく む。
職業しょくぎょう 化か 生せい 業ぎょう になる制度せいど 化か の一いち 側面そくめん 。科学者かがくしゃ が専門職せんもんしょく になった。
産業さんぎょう 化か 産業さんぎょう として成な り立た つ経済けいざい の側がわ 。制度せいど 化か は国家こっか の支援しえん も含ふく む。
官僚かんりょう 化か 手続てつづ きが自己じこ 目的もくてき になる制度せいど 化か の弊害へいがい を言い う語ご 。ここで☑16 自己じこ 目的もくてき 化か と接続せつぞく する。
EN institutionalisation of scienceZH 科学的制度化(科学の制度化, kēxué de zhìdùhuà)
51 ★★
因果いんが ⚠
いんが [1] い ん が 頭高あたまだか 型がた
語ご 構成こうせい
因もと もと・原因げんいん + 果か み・結果けっか
定義ていぎ
原因げんいん と結果けっか 。
『現代げんだい 文ぶん キーワード読解どっかい 』1-1 ☑51
原げん 書しょ の解説かいせつ
近代きんだい 科学かがく は自然しぜん の事象じしょう を因果いんが 関係かんけい としてとらえるが、その根底こんてい には、「世よ の中なか の事象じしょう にはすべて原因げんいん と結果けっか がある」という考かんが え方かた 〈=因果いんが 律りつ 〉 がある。
たとえば
喫煙きつえん と肺はい ガンには因果いんが 関係かんけい がある、という指摘してき がある。
使用しよう の境界きょうかい 原因げんいん と結果けっか の結むす びつき。前後ぜんご して起お きただけでは因果いんが ではない。一方いっぽう が他方たほう を生しょう じさせている必要ひつよう がある。
用法ようほう 評ひょう 論文ろんぶん では単独たんどく より「因果いんが 関係かんけい 」「因果いんが 律りつ 」 の形かたち で現あらわ れる。近代きんだい 科学かがく の根底こんてい に〈世よ の中なか の事象じしょう にはすべて原因げんいん と結果けっか がある〉という前提ぜんてい があり、これを因果いんが 律りつ と呼よ ぶ。この前提ぜんてい があるからこそ自然しぜん が法則ほうそく 化か でき、操作そうさ できるようになった。仏教ぶっきょう 語ご の「因果いんが 」(因果応報いんがおうほう )とは系統けいとう が違ちが うので、文脈ぶんみゃく で見分みわ ける。読解どっかい 上じょう の急所きゅうしょ は相関そうかん との混同こんどう で、「喫煙きつえん と肺はい ガンには因果いんが 関係かんけい がある」と「相関そうかん がある」は主張しゅちょう の強つよ さが違ちが う。
用例ようれい
明日あす 太陽たいよう が昇しょう らないということは、昇のぼ るということに劣おと らず理解りかい 可能かのう な命題めいだい であり、いささかの矛盾むじゅん も含ふく んではいない。デイヴィッド・ヒューム『人間にんげん 知性ちせい 研究けんきゅう 』第だい 四よん 章しょう (1748)/訳やく は本ほん 教材きょうざい
毎まい 朝あさ 太陽たいよう は昇のぼ ってきた。だから明日あす も昇のぼ る — この推論すいろん は論理ろんり ではない 、とヒュームは言い う。「明日あす は昇しょう らない」と言い っても、どこにも矛盾むじゅん は生しょう じないからだ。ここで暴ぼう かれているのは、因果いんが が事物じぶつ のなかに見み えているのではない という事実じじつ である。私わたし たちが見み ているのは、Aのあとに B が続つづ くという繰く り返かえ しだけ だ。「A が B を生しょう じさせている」という結むす びつきは、繰く り返かえ しを見み た側がわ の心こころ のなかで作つく られる。因果いんが と相関そうかん の区別くべつ がむずかしいのは、そもそも私わたし たちが相関そうかん しか観察かんさつ できないから である。近代きんだい 科学かがく が因果いんが 律りつ を前提ぜんてい に置お いたことの重おも さが、ここから分わ かる。
もろもろの事こと がらは心こころ にもとづき、心こころ を主しゅ とし、心こころ によってつくり出だ される。汚よご れた心こころ で語かた り、または行ぎょう なうならば、苦くる しみはその人ひと につき従したが う — 車くるま をひく牛うし の足跡あしあと に、車輪しゃりん がついて行い くように。『法句ほっく 経へ (ダンマパダ)』第一だいいち 偈げ /訳やく は本ほん 教材きょうざい
仏教ぶっきょう のいう因果いんが である。牛うし の足跡あしあと に車輪しゃりん が従したが うという比喩ひゆ が正確せいかく で、原因げんいん と結果けっか のあいだに一分いっぷん の隙すき も認みと めていない 。しかし科学かがく の因果いんが とは、決定的けっていてき に違ちが うところがある。ここでの原因げんいん は「心こころ 」であって、物もの ではない 。そして結果けっか は「苦くる しみ」であって、測はか れる量りょう ではない。科学かがく の因果いんが 律りつ が誰だれ が観察かんさつ しても同おな じになる関係かんけい を扱あつか うのに対たい し、こちらはその人ひと に還かん ってくる関係かんけい を扱あつか う。「因果応報いんがおうほう 」という日常にちじょう 語ご がこの系統けいとう から来き ているので、評ひょう 論文ろんぶん で「因果いんが 」に出会であ ったら、まずどちらの系統けいとう かを決き める 必要ひつよう がある。
喫煙きつえん と肺はい がんのあいだには因果いんが 関係かんけい がある。
「相関そうかん がある」と比くら べてみたい。相関そうかん は「一緒いっしょ に動うご く」としか言い っていない が、因果いんが は「一方いっぽう が他方たほう を生しょう じさせている」 と言い っている。主張しゅちょう の強つよ さがまるで違ちが う。相関そうかん から因果いんが へ進すす むには、第だい 三さん の要因よういん を消け し、時間じかん の前後ぜんご を確たし かめ、仕組しく みを示しめ す という手続てつづ きが要い る。読解どっかい では、その手続てつづ きが本文ほんぶん にあるかを見み る。
×アイスの売上うりあげ と水難すいなん 事故じこ は一緒いっしょ に増ふ えるので因果いんが 関係かんけい がある。
どちらも気温きおん が高たか い ときに増ふ えるだけで、一方いっぽう が他方たほう を生しょう じさせてはいない。これは相関そうかん である。因果いんが と相関そうかん の取と り違ちが えは、この語ご の読解どっかい における最大さいだい の落お とし穴あな で、評ひょう 論文ろんぶん でも統計とうけい を扱あつか う文章ぶんしょう でも必かなら ず問と われる。「共通きょうつう の原因げんいん が別べつ にないか」を毎回まいかい いちど疑うたが ってみるとよい。
派生はせい 形けい
因果関係いんがかんけい [4] もっとも多おお い形かたち 。「関係かんけい がある/ない」で議論ぎろん できる ようになる。ただし一いち 対たい 一いち に切き り出だ す形かたち なので、要因よういん が絡から み合あ う対象たいしょう では窮屈きゅうくつ になる。
因果律いんがりつ [2] 「律りつ 」は法則ほうそく を指さ す。個々ここ の因果いんが 関係かんけい ではなく、すべての事象じしょう に原因げんいん があるという原理げんり を名指なざ す。前提ぜんてい であって発見はっけん ではない、というのが要点ようてん である。
因果的いんがてき [0] 形容けいよう の形かたち 。「因果いんが 的てき に説明せつめい する」 で原因げんいん による説明せつめい を意味いみ する。42 の目的論もくてきろん 的てき な説明せつめい (何なに のために)と対たい にして使つか うと、説明せつめい の型かた の違ちが いが際さい 立た つ。
因縁いんねん [0] 仏教ぶっきょう 語ご 。人ひと の力ちから を超こ えた結むす びつき を指さ し、科学かがく の因果いんが とは別べつ 系統けいとう である。「因もと 」が直接ちょくせつ の原因げんいん 、「縁えん 」が間接かんせつ の条件じょうけん で、二ふた つを分わ けている点てん は現代げんだい の「要因よういん 」の考かんが え方かた に近ちか い。
コロケーション
因果いんが 律りつ 近代きんだい 科学かがく の前提ぜんてい 世よ の中なか の事象じしょう にはすべて原因げんいん と結果けっか がある という前提ぜんてい 。注意ちゅうい したいのは、これが証明しょうめい された法則ほうそく ではない ことだ。ヒュームが示しめ したとおり、経験けいけん からこの前提ぜんてい を導みちび くことはできない。それでも置お かれるのは、置お かなければ自然しぜん を法則ほうそく 化か できない からである。42 の機械論きかいろん 的てき 自然しぜん 観かん は、この前提ぜんてい の上うえ にしか立た たない。
因果いんが 関係かんけい 一いち 対たい 一いち に結むす ぶもっとも多おお い形かたち 。「関係かんけい 」が付つ くことで、原因げんいん と結果けっか を一組ひとくみ として取と り出だ す ことになる。ここに単純化たんじゅんか が入はい り込こ む。現実げんじつ には要因よういん は複数ふくすう あり、互たが いに影響えいきょう し合あ っている。44 の複雑系ふくざつけい が問題もんだい にするのは、まさにこの一いち 対たい 一いち に切き り出だ せなさ である。
因果いんが と相関そうかん 読解どっかい の急所きゅうしょ 相関そうかん があっても因果いんが があるとは限かぎ らない 。逆ぎゃく に、因果いんが があれば相関そうかん は必かなら ずある。この非対称ひたいしょう を押お さえておくと、統計とうけい を根拠こんきょ にした主張しゅちょう を読よ むときに足あし が止と まる。「一緒いっしょ に動うご いている」から「生しょう じさせている」へ跳と ぶ箇所かしょ が、文章ぶんしょう のいちばん弱よわ いところであることが多おお い。
因果応報いんがおうほう 別べつ 系統けいとう の語ご 仏教ぶっきょう 語ご で、行おこな いの善悪ぜんあく が本人ほんにん に報むく いとして返かえ る という考かんが え。科学かがく の因果いんが とは系統けいとう が違ちが う。見分みわ け方ほう は簡単かんたん で、善悪ぜんあく が関かか わっていれば仏教ぶっきょう 系けい 、測はか れる量りょう が関かか わっていれば科学かがく 系けい である。評ひょう 論文ろんぶん で両方りょうほう が同おな じ段落だんらく に出で てくるときは、筆者ひっしゃ がその重かさ なりを主題しゅだい にしている。
格かく 中なか 書か き言葉ことば ・会話かいわ の両方りょうほう で使つか える。
類るい 語ご と差さ
相関そうかん 一緒いっしょ に変動へんどう する統計とうけい の語ご 。因果いんが と混同こんどう されやすい最大さいだい の相手あいて 。相関そうかん があっても因果いんが があるとは限かぎ らない。
因縁いんねん 前世ぜんせい からの結むす びつき仏教ぶっきょう 語ご 。人ひと の力ちから を超こ えた結むす びつきを指さ し、科学かがく の因果いんが とは別べつ 系統けいとう 。
必然ひつぜん 法則ほうそく によってそうなる因果いんが があれば必然ひつぜん になる。因果いんが は関係かんけい 、必然ひつぜん は様態ようたい を言い う。
要因よういん 結果けっか に関かか わる要素ようそ 複数ふくすう ありうる。因果いんが は原因げんいん と結果けっか を一いち 対たい 一いち に結むす ぶ言い い方かた 。
EN causalityZH 因果(因果・報い, yīnguǒ)
日中にっちゅう のズレ
中国語ちゅうごくご の 因果いんが (yīnguǒ)は仏教ぶっきょう 語ご としての因果応報いんがおうほう の含ふく みが強つよ く、日常にちじょう では「因果報应」の形かたち で使つか われる。
科学かがく の文脈ぶんみゃく で「原因げんいん と結果けっか 」を言い うときは 因果关系(yīnguǒ guānxì) と関係かんけい の語ご を伴ともな うのが通例つうれい 。
52 ★
実証じっしょう
じっしょう [0] じ っ しょ う 平板へいばん 型がた
語ご 構成こうせい
実じつ まこと・じっさい + 証しょう あかす
定義ていぎ
経験けいけん 的てき な事実じじつ に基もと づいて、理論りろん や主張しゅちょう を証明しょうめい したり説明せつめい したりすること。
『現代げんだい 文ぶん キーワード読解どっかい 』1-1 ☑52
原げん 書しょ の解説かいせつ
主張しゅちょう の根拠こんきょ を事実じじつ に求もと めるのが、実証じっしょう である。それに対たい して、三さん 段だん 論法ろんぽう のように論理的ろんりてき に説明せつめい することは論証ろんしょう と言い う。
近代きんだい 科学かがく は実験じっけん と観察かんさつ を重おも んじ、理論りろん や知識ちしき の根拠こんきょ をもっぱら経験けいけん 的てき 事実じじつ に限定げんてい した。こうした立場たちば を実証じっしょう 主義しゅぎ と言い い、他ほか の学問がくもん 分野ぶんや に大おお きな影響えいきょう を与あた えた。社会しゃかい 科学かがく の分野ぶんや でも、統計とうけい データに基もと づいた研究けんきゅう は実証じっしょう 主義しゅぎ の立場たちば と言い える。
使用しよう の境界きょうかい 経験けいけん 的てき な事実じじつ にもとづいて証明しょうめい すること。論理ろんり だけで導みちび くのは論証ろんしょう であって実証じっしょう ではない。
用法ようほう 「実証じっしょう 主義しゅぎ 」という立場たちば 名めい で出で ることが多おお い。中身なかみ は確たし かめられることだけを研究けんきゅう する という態度たいど で、その結果けっか 、証明しょうめい も実験じっけん もできない領域りょういき は研究けんきゅう の対象外たいしょうがい に置お かれた。この切き り捨す てが後あと の批判ひはん を招まね く。統計とうけい データにもとづく社会しゃかい 科学かがく の研究けんきゅう も実証じっしょう 主義しゅぎ の系列けいれつ にある。読解どっかい では、論証ろんしょう との対たい をつかんでおくと設問せつもん に強つよ い。実証じっしょう は事実じじつ 、論証ろんしょう は論理ろんり 。「実証的じっしょうてき 」は肯定的こうていてき な評価ひょうか 語ご として使つか えるが、「実証じっしょう 主義しゅぎ 的てき 」と書か くと限界げんかい を指摘してき する含ふく みが出で やすい。
用例ようれい
聞き かざるは之これ を聞き くに若わか かず、聞き くは之これ を見み るに若わか かず、見み るは之これ を知し るに若わか かず、知し るは之これ を行ぎょう ふに若わか かず。『荀子じゅんし 』儒效篇じゅこうへん
聞き かないより聞き くほうがよい、聞き くより見み るほうがよい、見み るより分わ かるほうがよい、分わ かるより行おこな うほうがよい。知ち の確たし かさを、対象たいしょう との距離きょり で並なら べた一節いっせつ である。ここに実証じっしょう の考かんが え方かた の骨格こっかく がある。伝聞でんぶん は弱よわ く、直接ちょくせつ の観察かんさつ は強つよ い 。注目ちゅうもく したいのは、階梯かいてい が「見み る」で終お わっていないことだ。見み たうえで分わ かり、分わ かったうえで行おこな う。行おこな ってみてはじめて、その理解りかい が本物ほんもの かどうかが試ため される 。実験じっけん という手続てつづ きが実証じっしょう の中心ちゅうしん にあるのは、まさにこの最後さいご の段だん のためである。観察かんさつ は起お きたことを受う け取と るだけだが、実験じっけん は自分じぶん から働はたら きかけて、世界せかい に答こた えさせる 。
科学者かがくしゃ はあたまが悪わる くなくてはいけない。寺田てらだ 寅彦とらひこ 『科学者かがくしゃ とあたま』(1933)
物理学ぶつりがく 者しゃ が書か いた、一見いっけん すると乱らん 暴ぼう な一句いっく である。寺田てらだ の言い う「あたまのいい人ひと 」は、先さき の見通みとお しが利り きすぎて、途中とちゅう の事実じじつ を飛と ばしてしまう人ひと のことだ。結論けつろん が読よ めるので、確たし かめずに進すす む。ところが自然しぜん は、しばしば見通みとお しの外そと にあるところで面白おもしろ いことをしている 。足あし の遅おそ い人ひと だけが、道端みちばた の宝物たからもの に気き づく。これは実証じっしょう という構かま えの、もっとも実際的じっさいてき な説明せつめい になっている。実証じっしょう とは、自分じぶん の推論すいろん より事実じじつ を上うえ に置お くと決き めておくこと である。46 で見み た杉田すぎた 玄白げんぱく らの照合しょうごう が意味いみ を持も ったのも、彼かれ らが漢方かんぽう の書しょ よりも目め の前まえ の身体しんたい を上うえ に置お いたからだった。
統計とうけい データにもとづく研究けんきゅう は、実証じっしょう 主義しゅぎ の系列けいれつ にある。
実証じっしょう 主義しゅぎ は、確たし かめられることだけを研究けんきゅう の対象たいしょう にする という方法ほうほう の限定げんてい である。ここまでは慎重しんちょう で、健全けんぜん な構かま えに見み える。問題もんだい はその先さき で、証明しょうめい も実験じっけん もできない領域りょういき が研究けんきゅう の外そと に置お かれた ことにある。外そと に置お かれたものは、やがて「存在そんざい しない」かのように扱あつか われはじめる。この切き り捨す てが後あと の批判ひはん を招まね いた 。
×前提ぜんてい が正ただ しいので結論けつろん も正ただ しい。よって実証じっしょう された。
前提ぜんてい から筋道すじみち で導みちび くのは「論証ろんしょう 」 である。実証じっしょう は経験けいけん 的てき な事実じじつ に当あ てて確たし かめる こと。実証じっしょう は事実じじつ 、論証ろんしょう は論理ろんり — この対たい を押お さえておくと設問せつもん に強つよ い。なお 54 の演繹えんえき は論証ろんしょう の側がわ に、53 の帰納きのう は実証じっしょう の側がわ に立た っている。
原げん 書しょ の反はん 意い 語ご ・関連かんれん 語ご 関せき 論証ろんしょう /実証じっしょう 主義しゅぎ
派生はせい 形けい
実証的じっしょうてき [0] 肯定的こうていてき な評価ひょうか 語ご として安定あんてい して使つか える。「思弁しべん 的てき 」「観念かんねん 的てき 」の反対はんたい に置お かれ、事実じじつ に支ささ えられているという含ふく みを持も つ。
実証主義じっしょうしゅぎ [0] 「主義しゅぎ 」が付つ くと、方法ほうほう の限定げんてい が立場たちば になる 。評価ひょうか は文脈ぶんみゃく しだいで、慎重しんちょう さを褒ほ める場合ばあい と切き り捨す てを咎とが める場合ばあい がある。12 の合理化ごうりか と同おな じ両義性りょうぎせい を持も つ。
実証性じっしょうせい [0] 性質せいしつ として取と り出だ す形かたち 。「実証じっしょう 性せい が高たか い/乏とぼ しい」と程度ていど で論ろん じられる ようになる。実証じっしょう は本来ほんらい あるかないかだが、この形かたち にすると度合どあ いで語かた れる。
論証ろんしょう [0] 対たい 語ご 。論理ろんり によって示しめ す 。三さん 段だん 論法ろんぽう のように筋道すじみち で導みちび くもので、事実じじつ に当あ てる実証じっしょう とは根拠こんきょ の置お き場所ばしょ が違ちが う。この対たい で覚おぼ える のが読解どっかい 上じょう もっとも効率こうりつ がよい。
コロケーション
実証じっしょう と論証ろんしょう 根拠こんきょ の置お き場所ばしょ 実証じっしょう は事実じじつ に当あ て、論証ろんしょう は論理ろんり で導みちび く 。この対たい がこの語ご の読解どっかい の中心ちゅうしん にある。面白おもしろ いのは、両者りょうしゃ が互たが いの弱点じゃくてん を補おぎなえ い合あ っている ことだ。論証ろんしょう は確実かくじつ だが新あたら しい事実じじつ を生う まない。実証じっしょう は新あたら しい事実じじつ を生う むが確実かくじつ にならない。54 の演繹えんえき と 53 の帰納きのう の非対称ひたいしょう と、まったく同おな じ構図こうず がここにある。
実証的じっしょうてき 肯定こうてい の評価ひょうか 語ご ほぼ褒ほ め言葉ことば として使つか える 珍めずら しい形かたち 。「実証的じっしょうてき な研究けんきゅう 」は、思おも いつきではなく事実じじつ に支ささ えられているという評価ひょうか になる。ところが「実証じっしょう 主義しゅぎ 的てき 」と書か くと限界げんかい を指摘してき する含ふく み が出で やすい。「主義しゅぎ 」が入はい ることで、確たし かめられないものを外はず したという切き り捨す ての面めん が前まえ へ出で るからである。
実証じっしょう 主義しゅぎ 限定げんてい という方法ほうほう 確たし かめられることだけを扱あつか う という態度たいど 。47 の科学かがく 主義しゅぎ とここで正確せいかく に分わ かれる。実証じっしょう 主義しゅぎ は科学かがく が扱あつか えない領域りょういき があることを認みと める 。科学かがく 主義しゅぎ は認みと めない。同おな じく科学かがく を重おも んじながら、一方いっぽう は謙虚けんきょ で一方いっぽう は傲慢ごうまん になる — その分わ かれ目め が、限定げんてい するか拡張かくちょう するかにある。
実証じっしょう データ実務じつむ の言葉ことば 調査ちょうさ ・行政ぎょうせい ・経営けいえい の文書ぶんしょ で多た 用よう される形かたち 。数字すうじ が付つ いていれば実証じっしょう だ という思おも い込こ みが紛まぎ れ込こ みやすい場所ばしょ でもある。データがどう集あつ められたか、何なに が数かぞ えられ何なに が数かぞ えられなかったかを問と わなければ、実証じっしょう の形かたち をした思おも い込こ み にしかならない。52 と 51 を続つづ けて読よ むと、この落お とし穴あな が見み える。
格かく 硬かた 書か き言葉ことば 。会話かいわ では不自然ふしぜん 。
類るい 語ご と差さ
論証ろんしょう 論理ろんり によって示しめ す三さん 段だん 論法ろんぽう のように筋道すじみち で導みちび く。実証じっしょう は事実じじつ に当あ てる。この対たい が要点ようてん 。
検証けんしょう 仮説かせつ の真偽しんぎ を確たし かめる手続てつづ き。実証じっしょう は根拠こんきょ の置お き方ほう を指さ す。
立証りっしょう 証拠しょうこ を挙あ げて示しめ す法律ほうりつ で多おお く使つか う。実証じっしょう は学術がくじゅつ ・研究けんきゅう の語ご 。
例れい 証しょう 例れい を挙あ げて示しめ す一いち 例れい では足た りない。実証じっしょう は反復はんぷく 可能かのう な事実じじつ を要求ようきゅう する。
EN empirical proof / positivismZH 实证(実証, shízhèng)
中立性と制度化 科学は善でも悪でもないとする中立性の主張に対し、制度化によって研究の方向が国家と企業に決められるという反論を示した図。
科学の中立性
科学それ自体は善でも悪でもない
悪いのは使う人間である
反論
科学の制度化
国家と企業が研究を支える
研究の方向そのものが決められる
もはや中立ではいられない
制度化の背景
研究が高度化・複雑化し、設備に多額の費用がかかる
技術革新が資本主義の存続に不可欠になる
二つの語は、必ず対で読む
中立ちゅうりつ 性せい の主張しゅちょう と、制度せいど 化か による反論はんろん
因果と相関の違いを示した図 上段は原因が結果を生じさせる因果、下段は共通の原因によって二つが同時に動くだけの相関を示す。
一緒に動くことと、生じさせることは違う 因果 喫煙 肺がん 一方が他方を生じさせている 相関 気温が高い アイスの売上 水難事故 一緒に増える 二つのあいだに矢印は無い。共通の原因が別にある 相関があっても因果があるとは限らない。 ただし因果があれば、相関は必ずある
矢印やじるし がどこに引ひ けるかを見み る