Chapter 1-1

基本きほん

[ 原げん書しょ 第だい1部いちぶ 第だい1章いっしょう 基本きほん ]

語ご数すう 40 / 節せつ 16 / 1節いっせつ 約やく10〜15分ぶん

原げん書しょの導入どうにゅう

キーワードの覚おぼえ方ほう

キーワードは「グループ化か」して覚おぼえる

この章しょうでは、テーマや分野ぶんやにかかわらず、現代げんだい文ぶんの問題もんだい文ぶんに頻繁ひんぱんに登場とうじょうするキーワードを取とり上あげている。現代げんだい文ぶんを苦手にがてと感かんじている人ひとは、まずは本章ほんしょうのキーワードをしっかりとマスターしてほしい。

さて、このようなキーワードを効率こうりつよく習得しゅうとくするには、どうしたらよいだろうか。ここで二ふたつのコツを紹介しょうかいする。

一ひとつ目めのコツは、似にたようなキーワードをグループ化かするというものだ。キーワードの中なかには、辞書じしょ的てきな意味いみは異ことなるが、ある状況じょうきょうや現象げんしょうに対たいして、同おなじようなニュアンスに使つかわれるものがある。

たとえば「普遍ふへん」と「抽象ちゅうしょう」は、〈共通きょうつうして当あてはまる〉という点てんで共通きょうつうしているし、「普遍ふへん」「絶対ぜったい」「一元いちげん」は、〈唯一ゆいいつそれだけ〉〈例外れいがいを認みとめない〉という類似るいじ点てんがある。このように、複数ふくすうのキーワードをグループとして覚おぼえることで、キーワードに対たいする理解りかいが深ふかまるはずだ。

同おなじように、「虚構きょこう(フィクション)」と「恣意しい」、「パラドックス(逆説ぎゃくせつ)」「アイロニー」「ディレンマ」、「自己じこ目的もくてき化か」と「倒錯とうさく」などもグループで捉とらえられる。

「反はん意い語ご」の知識ちしきは設問せつもん解法かいほうにも役やく立たつ

二ふたつ目めのコツは、反はん意い語ごをセットで覚おぼえるようにすることだ。たとえば「相対そうたい」という語ごは、「他ほかとの比較ひかくで成なり立たつ」という辞書じしょ的てきな定義ていぎを覚おぼえると同時どうじに、〈絶対ぜったいの逆ぎゃく〉のように理解りかいすると、語ごのイメージがより明確めいかくに把握はあくできるだろう。

また反はん意い語ごの知識ちしきは、文章ぶんしょう読解どっかいだけでなく、設問せつもんを解とく際さいにも有効ゆうこうである。選択肢せんたくし問題もんだいでは、傍線ぼうせん部ぶ領域りょういきに含ふくまれるキーワードの反はん意い語ごを考かんがえることが、解答かいとうのヒントになることが多おおくあるし、記述きじゅつ問題もんだいでも、反はん意い語ごの知識ちしきは表現ひょうげんのバリエーションを広ひろげることになる。

Macro — 語ごの布置ふち

四よっつの基本きほん語ごが張はる平面へいめん

普遍・特殊・具体・抽象の二軸配置横軸を個別から共通、縦軸を知覚可から知覚不可とし、四語を四象限に配置した図。 INDIVIDUAL COMMON NOT PERCEIVABLE PERCEIVABLE 特殊 普遍 具体 抽象 2134 例外の有無 知覚の可否 個別一般 具象概念 絶対 / 相対主観 / 客観 周辺語は本章の外へ続く
横軸よこじく 個別こべつ ⟷ 共通きょうつう / 縦軸たてじく 知覚ちかく可か ⟷ 知覚ちかく不可ふか

この章しょうの最初さいしょの四よん語ごは、二本にほんの軸じくが交まじわる平面へいめんの上うえに置おかれる。横軸よこじくは例外れいがいを許ゆるすか、縦軸たてじくは知覚ちかくできるかである。二ふたつの軸じくは独立どくりつしているので、四よっつの組くみ合あわせがそのまま四よん語ごになる。周辺しゅうへんに置おいた語ごは本章ほんしょうの外そとへ続つづき、章しょうを追おうごとにこの平面へいめんが埋うまっていく。

Index — 16 sections

節せつ

  1. 01普遍ふへん/特殊とくしゅ
  2. 02具体ぐたい/抽象ちゅうしょう
  3. 03秩序ちつじょ(コスモス)/混沌こんとん(カオス)
  4. 04必然ひつぜん/偶然ぐうぜん
  5. 05対象たいしょう
  6. 06権威けんい/権力けんりょく
  7. 07合理ごうり/非合理ひごうり
  8. 08自明じめい/懐疑かいぎ
  9. 09自己じこ目的もくてき化か/倒錯とうさく
  10. 10パラドックス(逆説ぎゃくせつ)
  11. 11虚構きょこう(フィクション)
  12. 12イデオロギー/疎そ外がい
  13. 13概念がいねん/観念かんねん/理念りねん/絶対ぜったい/相対そうたい
  14. 14還元かんげん/敷衍ふえん/一元いちげん/二元にげん/多元たげん
  15. 15アイロニー/ディレンマ/情念じょうねん(パトス)/恣意しい
  16. 16自律じりつ/他律たりつ/顕在けんざい/潜在せんざい/モチーフ
Section 01

普遍ふへん/特殊とくしゅ

1★★★

普遍ふへん⚠

ふへん[0]平板へいばん型がた

語ご構成こうせい
普ひろしあまねく・広ひろく+遍ぺんあまねく・すべてに

同義どうぎの字じを重かさねた熟語じゅくご。二字にじがともに〈すべてに行いき渡わたる〉を表あらわす。

定義ていぎ

いついかなる時代じだいや場所ばしょでも、当あてはまること。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑1
原げん書しょの解説かいせつ

普遍ふへんとは、例外れいがいなく当あてはまるということである。たとえば、「すべての物質ぶっしつには質量しつりょうがある」ことや「1+1=2」というのは、変かわることのない普遍的ふへんてき真実しんじつである。

なお、普遍ふへんには「一般いっぱん」という類るい義ぎ語ごがあり、同おなじような意味いみで用もちいられることも多おおいが、こちらは〈大体だいたい当あてはまる〉ということ。「普遍ふへん」に例外れいがいはないが、「一般いっぱん」には例外れいがいがあると理解りかいしておけばよい。

使用しようの境界きょうかい

例外れいがいを一ひとつも許ゆるさない。例外れいがいがあるなら「一般いっぱん」を使つかう。「ほとんどの場合ばあいに当あてはまる」を「普遍的ふへんてき」と書かくのは不可ふか。

用法ようほう

主張しゅちょうの強度きょうどが最もっとも高たかい語ごである。書かいた時点じてんで反例はんれいを一ひとつも認みとめないと宣言せんげんすることになる。そのため評ひょう論文ろんぶんでは〈普遍ふへんを装そうう特殊とくしゅ〉という批判ひはんの型かたが頻出ひんしゅつする。ある文化ぶんかの価値かち観かんを「普遍的ふへんてき」と称しょうすることは、他ほかを測はかる基準きじゅんとして自みずからを立たてることであり、原げん書しょの入試にゅうし文ぶんもその構図こうずを扱あつかう。副詞ふくし的てきに「普遍的ふへんてきに」と使つかうと硬かたいので、話はなしの流ながれでは「あらゆる時代じだいを通つうじて」に置おき換かわることが多おおい。

用例ようれい
  • 天てんは人ひとの上うえに人ひとを造つくらず人ひとの下したに人ひとを造つくらずと云いえり。福沢ふくざわ諭吉ゆきち『学問がくもんのすゝめ』初編しょへん(1872)
    この一文いちぶんに「普遍ふへん」の語ごは無ない。しかし述のべていることは普遍ふへんそのものである。「人ひとの上うえ」「人ひとの下した」という例外れいがいを、天てんが一ひとつも造つくらなかったと言いい切きっている。ここで福沢ふくざわが「多おおくの人ひとは」「おおむね人ひとは」と書かいていたら、身分制みぶんせいを否定ひていする力ちからは消きえる。例外れいがいを一ひとつも認みとめないからこそ、既存きそんの身分みぶん秩序ちつじょを丸まるごと無効むこうにできる。普遍ふへんという語ごの強つよさは、この「言いい切きり」の強つよさと同おなじものである。
  • ゆく河かわの流ながれは絶たえずして、しかももとの水みずにあらず。淀よどみに浮うきぶうたかたは、かつ消きえかつ結むすびて、久きゅうしくとゞまりたる例れいなし。鴨長明かものちょうめい『方丈ほうじょう記き』冒頭ぼうとう(1212)
    「久きゅうしくとゞまりたる例れいなし」— 例れいが無ない、つまり例外れいがいが無ない。長明ちょうめいはまず河かわという一ひとつの具体ぐたいから始はじめ、泡あわへ移うつり、やがて人ひとと住じゅうまいへ及およぼしていく。この運はこびは特殊とくしゅから普遍ふへんへ登のぼる手てつきそのもので、評ひょう論文ろんぶんがもっとも好このむ型かたである。なお現代語げんだいごで「万物ばんぶつは流転るてんするのが普遍的ふへんてきな真理しんりだ」と書かけば同おなじ内容ないようになるが、長明ちょうめいは「例れいなし」という否定ひてい形けいで言いった。普遍ふへんは肯定こうていでも否定ひていでも立たてられる。
  • 人権じんけんは普遍的ふへんてきな価値かちである。 国くにや文化ぶんかによる例外れいがいを認みとめない、という立場たちば表明ひょうめいになる。もし「一般的いっぱんてきな価値かち」と書かけば、そうでない社会しゃかいの存在そんざいを認みとめたことになり、主張しゅちょうは一段いちだん弱じゃくまる。この一語いちごの差さが、そのまま論ろんの強度きょうどの差さになる。
  • ×ほとんどの国くにで普遍的ふへんてきに見みられる。 「ほとんど」は例外れいがいの存在そんざいを認みとめる語ご、「普遍ふへん」は認みとめない語ご。同おなじ文ぶんの中なかで正面しょうめんから衝突しょうとつしている。「広ひろく見みられる」「一般的いっぱんてきに見みられる」が正ただしい。入試にゅうしではこの型かたの言いい換かえが選択肢せんたくしの識別しきべつ点てんになる。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

反はん 2 特殊とくしゅ / 関せき 一般いっぱん

派生はせい形けい
  • 普遍的ふへんてき[0]「的てき」は名詞めいしを連体れんたい・連れん用ように開ひらく接尾せつび辞じ。同時どうじに断定だんていをわずかに緩ゆるめる働はたらきがある。「普遍ふへんの真理しんり」より「普遍的ふへんてきな真理しんり」のほうが柔やわらかいのは、「的てき」が「〜の性質せいしつを帯おびた」という一段いちだんのクッションを挟はさむため。
  • 普遍性ふへんせい[0]「性せい」は性質せいしつを名詞めいしとして取とり出だす接尾せつび辞じ。これによって「普遍性ふへんせいを持もつ/欠かく/認みとめる」のように、有無うむを論ろんじたり主語しゅご・目的語もくてきごに据すえたりできるようになる。議論ぎろんの俎上そじょうに載のせるための形かたち。
  • 普遍化ふへんか[0]「化か」は状態じょうたいの変化へんかを表あらわす。つまり「もとは普遍ふへんでなかったものを普遍ふへんにする」という運動うんどうが含ふくまれる。ここから「自分じぶんの経験けいけんを安易あんいに普遍ふへん化かする」のような批判的ひはんてき用法ようほうが生うまれる — 変化へんかさせた主体しゅたいの恣意しいを問とえる形かたちだからである。
  • 普遍主義ふへんしゅぎ[0]「主義しゅぎ」は立場たちば・イデオロギーの名なにする接尾せつび辞じ。名ながついた瞬間しゅんかん、それは反対はんたいの立場たちば(相対そうたい主義しゅぎ・特殊とくしゅ主義しゅぎ)を持もつ一ひとつの党派とうはになる。評ひょう論文ろんぶんで「普遍ふへん主義しゅぎ」と書かかれていたら、すでに批判ひはんの対象たいしょうとして枠わくに入いれられていると読よんでよい。
コロケーション
  • 普遍的ふへんてきな真理しんり同義どうぎの重かさね「真理しんり」はそれ自体じたいすでに例外れいがいを許ゆるさない語ごである。そこへ「普遍的ふへんてきな」を重かさねるのは、論理的ろんりてきには冗長じょうちょうになりうる。それでもこの形かたちが定着ていちゃくしているのは、「あなたにとっての真理しんり」という相対そうたい化かされた用法ようほうが広ひろまったためで、「普遍的ふへんてきな」はその相対そうたい化かを封ふうじ直なおす補強ほきょうとして働はたらく。
  • 普遍性ふへんせいを持もつ属性ぞくせいの帰属きぞく「持もつ」は本来ほんらい、所有しょゆうできるものに使つかう動詞どうしである。それを抽象ちゅうしょう名詞めいしに接続せつぞくすることで、普遍性ふへんせいを「その対象たいしょうに備そなえわった性質せいしつ」として扱あつかえるようになる。「この作品さくひんは普遍性ふへんせいを持もつ」と言いえば、評価ひょうかする側がわの主観しゅかんではなく作品さくひんの側がわの性質せいしつとして語かたれる — この転換てんかんが、批評ひひょうでこの形かたちが多た用ようされる理由りゆうである。
  • 人類じんるい普遍ふへんの価値かち限定げんていつきの普遍ふへん「人類じんるい」を冠かんむりする時点じてんで、対象たいしょうは人類じんるいに限定げんていされている。厳密げんみつには「人類じんるいという範囲はんいの内部ないぶでの普遍ふへん」であって、無条件むじょうけんの普遍ふへんではない。この語ごがしばしば政治的せいじてきな場面ばめんで用もちいられるのは、その限定げんていを意識いしきさせずに絶対ぜったい性せいの響ひびきだけを借かりられるからである。評ひょう論文ろんぶんがこの語ごを槍玉やりだまに挙あげるときは、たいていこの点てんを突ついている。
  • 普遍ふへん妥当性だとうせい哲学てつがくの術語じゅつごカント以来いらいの哲学てつがく用語ようごで、「誰だれが判断はんだんしても同おなじ結論けつろんになること」を指さす。日常にちじょう語ごの「普遍ふへん」より射程しゃていが狭せまく、判断はんだんの正ただしさに限かぎって使つかう。美びや道徳どうとくの議論ぎろんで現あらわれたら、「主観的しゅかんてきなはずのものに客観きゃっかん性せいを認みとめられるか」という問といが背後はいごにある。
格かく硬かた・学術がくじゅつ

論文ろんぶん・評ひょう論ろんでのみ使つかう。会話かいわでは不自然ふしぜん。

類るい語ごと差さ
  • 一般いっぱん例外れいがいを許ゆるす「一般いっぱんに」は「多おおくの場合ばあい」であって全部ぜんぶではない。反例はんれいが出でても命題めいだいは生いき残のこる。普遍ふへんは反例はんれい一ひとつで崩くずれる。この差さが入試にゅうしの設問せつもんになる。
  • 通つう有ゆう共通きょうつうして持もっている複数ふくすうのものが同おなじ性質せいしつを分わけ持もっている状態じょうたい。全体ぜんたいに行いき渡わたっているかは問とわない。「日本人にほんじんに通つう有ゆうの感覚かんかく」は日本人にほんじん以外いがいを排除はいじょしない。
  • 不変ふへん時間軸じかんじくで変かわらない変化へんかの有無うむだけを言いう。範囲はんいは問とわない。「不変ふへんの真理しんり」は時間じかんについて、「普遍ふへんの真理しんり」は場所ばしょと対象たいしょうについて言いう。
  • 汎用はんよう用途ようとが広ひろい使つかえる範囲はんいの広こうさを言いう技術ぎじゅつ語ご。原理げんりの話はなしではないので評ひょう論文ろんぶんの概念がいねん語ごとしては使つかえない。

ENuniversal
ZH普遍(あまねく行き渡る・よくある, pǔbiàn)

日中にっちゅうのズレ

中国語ちゅうごくごの 普遍ふへん(pǔbiàn)は頻度ひんどを表あらわす。「よくある」「広ひろく見みられる」。

原げん書しょは「一般いっぱん」と「普遍ふへん」を、例外れいがいがあるか無ないかで分わけている。中国語ちゅうごくごの「普遍ふへん」は、その線せんの「一般いっぱん」の側がわに立たっている。

日本語にほんごの評ひょう論文ろんぶんで「普遍ふへん」と書かいたとき、例外れいがいは一ひとつも許ゆるされない。

2★★★

特殊とくしゅ

とくしゅ[0]平板へいばん型がた

語ご構成こうせい
特とくとりわけ・きわだつ+殊ことことなる
定義ていぎ

他ほかのものとは異ことなること。限かぎられた部分ぶぶんや状況じょうきょうにしか当あてはまらないこと。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑2
原げん書しょの解説かいせつ

特殊とくしゅとは普遍ふへんの反対はんたいであるから、例外的れいがいてきであること、限かぎられたものにしか当あてはまらないことを言いう。

たとえば、「日本にほん的てき経営けいえいの特殊とくしゅ性せい」と言いえば、日本にほんの経営けいえいだけに見みられる事情じじょうのことである(反対はんたいに、「日本にほん的てき経営けいえいの普遍性ふへんせい」と言いえば、日本にほん的てきな経営けいえいノウハウが世界中せかいじゅうで通用つうようすることを意味いみする)。

使用しようの境界きょうかい

「他ほかと異ことなる」だけでは足たりない。適用てきようの範囲はんいが限かぎられていることを含ふくむ。単たんに珍めずらしいだけなら「特異とくい」「異例いれい」を使つかう。

用法ようほう

評ひょう論文ろんぶんでは「普遍ふへん」との対たいで使つかわれ、単独たんどくでは「特別とくべつな」の意いで日常にちじょう語ごとしても使つかわれる。日常にちじょうの「特殊とくしゅな趣味しゅみ」は珍めずらしさを言いうが、評ひょう論ろんの「特殊とくしゅ」は適用範囲てきようはんいの限定げんていを言いう。この二ふたつの層そうが同おなじ語ごに同居どうきょしている。「特殊とくしゅ化か」は生物学せいぶつがくでは機能きのうが特定とくていの役割やくわりに絞しぼられることを指さし、評ひょう論ろんの文脈ぶんみゃくと重心じゅうしんが違ちがう。「日本にほん的てき経営けいえいの特殊とくしゅ性せい」のように〈○○の特殊とくしゅ性せい〉の形かたちが最もっとも多おおい。

用例ようれい
  • 人間にんげんは誰だれでも猛獣もうじゅう使しであり、その猛獣もうじゅうに当とうるのが、各人かくじんの性せい情じょうだと云いうことだ。己おのれの場合ばあい、この尊大そんだいな羞恥心しゅうちしんが猛獣もうじゅうだった。虎とらだったのだ。中島なかじま敦あつし『山月さんげつ記き』(1942)
    李徴りちょうは自分じぶんの身みに起おきたことを語かたりながら、「人間にんげんは誰だれでも」と普遍ふへんの側がわへ一度いちど上あげてから、「己おのれの場合ばあい」と特殊とくしゅへ降おりる。この上下じょうげ運動うんどうが独白どくはくに説得力せっとくりょくを与あたえている。特殊とくしゅは単独たんどくでは「珍めずらしい話はなし」で終おわる。普遍ふへんの枠わくを先さきに示しめし、その中なかの一いち例れいとして自分じぶんを置おくとき、特殊とくしゅははじめて他人たにんに届とどく。特殊とくしゅと普遍ふへんは対立たいりつするだけでなく、往復おうふくすることで論ろんになる。
  • 日本にほん的てき経営けいえいの特殊とくしゅ性せいが論ろんじられてきた。 「日本にほんだけに当あてはまる」という限定げんていの主張しゅちょう。ここで注意ちゅういすべきは、特殊とくしゅを語かたるには比較ひかくの基準きじゅんが要いること。何なにと比くらべて特殊とくしゅなのかが示しめされないまま「日本にほんは特殊とくしゅだ」と言いうとき、暗黙あんもくの基準きじゅん(多おおくは西洋せいよう)が普遍ふへんの位置いちに据すえられている。原げん書しょの入試にゅうし文ぶんが突ついているのはまさにこの構図こうずである。
  • この症例しょうれいは特殊とくしゅだ。 医学いがく・法学ほうがくなど、規則きそくと例外れいがいを扱あつかう分野ぶんやでの用法ようほう。「一般的いっぱんてきな処置しょちが当あてはまらない」という実務じつむ的てきな判断はんだんを含ふくむ。評ひょう論ろんの「特殊とくしゅ」が価値かちの問題もんだいであるのに対たいし、こちらは適用範囲てきようはんいの問題もんだいにとどまる。
  • △彼かれは特殊とくしゅな趣味しゅみを持もっている。 日常にちじょう語ごでは「風かぜ変かわりな」の意いで使つかわれ、しばしばやや否定的ひていてきな含ふくみを帯おびる。評ひょう論文ろんぶんの「特殊とくしゅ」にこの含ふくみは無なく、「適用範囲てきようはんいが限かぎられている」という中立ちゅうりつの記述きじゅつである。同おなじ語ごで二ふたつの層そうが同居どうきょしているので、どちらの層そうで使つかわれているかを文脈ぶんみゃくから見極みきわめる必要ひつようがある。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

反はん 1 普遍ふへん / 関せき 一般いっぱん

派生はせい形けい
  • 特殊性とくしゅせい[0]性質せいしつとして取とり出だした形かたち。「特殊とくしゅ性せいを持もつ/論ろんじる/否定ひていする」と、議論ぎろんの対象たいしょうとして据すえられるようになる。「日本にほんの特殊とくしゅ性せい」のように、地域ちいきや集団しゅうだんを冠かんむりして使つかわれることが多おおい。
  • 特殊化とくしゅか[0]一般的いっぱんてきなものを個別こべつの条件じょうけんに合あわせて絞しぼり込こむ変化へんか。生物学せいぶつがくでは「機能きのうが特定とくていの役割やくわりに絞しぼられる」ことを指さし、評ひょう論ろんの文脈ぶんみゃくとは重心じゅうしんが違ちがう。専門語せんもんごと一般いっぱん語ごが同おなじ形かたちを共有きょうゆうしている例れいである。
  • 特殊的とくしゅてき[0]「特殊とくしゅな」に比くらべて使用しよう頻度ひんどは低ひくい。哲学てつがくの翻訳ほんやく文体ぶんたいで「普遍的ふへんてき/特殊とくしゅ的てき」と対たいにするときに現あらわれる。対句ついくを揃そろえるための形かたちと考かんがえてよい。
コロケーション
  • 特殊とくしゅな事情じじょう限定げんていの言いい訳やく「事情じじょう」は理由りゆうを指さす語ご。そこへ「特殊とくしゅな」を付つけると、一般いっぱんの規則きそくが適用てきようされないことの弁明べんめいになる。「特殊とくしゅな事情じじょうがあった」は、規則きそく違反いはんを認みとめつつ責任せきにんを減げんじる型かたの言いい方かたで、議論ぎろんの場ばでは「では、その特殊とくしゅ性せいは誰だれが判定はんていするのか」が反論はんろん点てんになる。
  • 特殊とくしゅ性せいを強調きょうちょうする差異さいの政治せいじ「強調きょうちょうする」は行為こういを表あらわす動詞どうし。つまり特殊とくしゅ性せいは発見はっけんされるものではなく、誰だれかが強調きょうちょうする(=作つくり出だす)ものとして語かたられている。この形かたちが現あらわれたら、筆者ひっしゃは特殊とくしゅ性せいそのものより「強調きょうちょうする側がわの意図いと」を問題もんだいにしていることが多おおい。
  • 特殊とくしゅから普遍ふへんへ論ろんの運動うんどう学問がくもんの手続てつづきそのものを指さす定型ていけい句く。個別こべつの事例じれいを集あつめ、共通きょうつうする構造こうぞうを取とり出だす帰納きのうの運動うんどうを表あらわす。「へ」という方向ほうこうを示しめす助詞じょしが、この句くの要かなめである。逆向ぎゃくむきの「普遍ふへんから特殊とくしゅへ」は演繹えんえきを指さし、両者りょうしゃはしばしば対たいで置おかれる。
  • 特殊とくしゅ解かい数学すうがくからの転用てんよう数学すうがくでは、一般いっぱん解かいのうち条件じょうけんを満みたす個別こべつの解かいを指さす。評ひょう論ろんに転用てんようされると「一般いっぱん論ろんでは割わり切きれない個別こべつの答こたえ」の意いになる。術語じゅつごを借かりる書かき手ては、その分野ぶんやの厳密げんみつさの響ひびきも一緒いっしょに借かりていることに注意ちゅういしたい。
格かく中なか

書かき言葉ことば・会話かいわの両方りょうほうで使つかえる。

類るい語ごと差さ
  • 個別こべつ一ひとつ一ひとつを取とり出だす全体ぜんたいから切きり離はなして一ひとつずつ見みる視点してん。他ほかと比くらべて違ちがうかは問とわない。「個別こべつに対応たいおうする」は一件いっけんずつという意味いみで、珍めずらしさを含ふくまない。
  • 固有こゆうそのものだけが持もつ他ほかに無ないことを積極的せっきょくてきに言いう。「日本にほん固有こゆうの植物しょくぶつ」は日本にほんにしかないという断定だんてい。特殊とくしゅは範囲はんいが限かぎられていることを言いうだけで、他ほかに無ないとまでは言いわない。
  • 例外れいがい規則きそくから外はずれる規則きそくが先さきにあって、そこから外はずれたものを指さす。規則きそくの存在そんざいが前提ぜんてい。特殊とくしゅは規則きそくを前提ぜんていとしない。
  • 特異とくい際立きわだって異ことなる異常いじょうさ・珍めずらしさに重心じゅうしん。理学りがくでは「特異点とくいてん」のように使つかう。評ひょう論文ろんぶんで「特異とくいな事例じれい」と書かくと価値かち判断はんだんが混まざりやすい。

ENparticular
ZH特殊(特別な・特殊な, tèshū)

対立たいりつの軸じく

普遍ふへん/特殊とくしゅ の軸じく = 例外れいがいの有無うむ

普遍ふへん例外れいがいは一ひとつも無ない。すべてに当あてはまる。
例外れいがいの有無うむ
特殊とくしゅ限かぎられた範囲はんいにしか当あてはまらない。
入試にゅうし文ぶん

いくつかの点てんで、日本にほんのやり方かたがアメリカのやり方かたとはちがうことは、たしかに否定ひていできない。しかし、そのことを根拠こんきょにして日本にほんを「2特殊とくしゅ」だと批判ひはんするためには、アメリカのやり方かたが――それだけがとくに「1普遍ふへん」だということを、前提ぜんていにしなければならないだろう。それは傲慢ごうまんだと、率直そっちょくにいって私わたしは考かんがえる。ここで皮肉ひにくなのは、長年ながねんにわたる日本人にほんじんの主張しゅちょうを、アメリカ側がわがいわば逆手さかてに取とっている感かんがある点てんではないだろうか。日本にほん・日本人にほんじんだけがとくに「特殊とくしゅ」だと長年ながねんいい続つづけてきたのは、ほかならぬ日本人にほんじん自身じしんではないのか――と。

出典しゅってん 飯田いいだ経夫つねお『経済学けいざいがく誕生たんじょう』 / 出題しゅつだい 大阪学院大学おおさかがくいんだいがく・経済学部けいざいがくぶ / 原げん書しょ p.16

読解どっかいのポイント
  • 〈アメリカ=普遍ふへん〉 → 批判ひはん 傲慢ごうまんな考かんがえ方かた
  • 〈日本にほん=特殊とくしゅ〉 → 皮肉ひにくなのは 日本人にほんじん自身じしんが日本にほんを「特殊とくしゅ」だと主張しゅちょうしてきたこと → アメリカが逆手さかてに取とっている
要約ようやく

アメリカが、自分じぶんたちが「普遍ふへん」であることを前提ぜんていに日本にほんを「特殊とくしゅ」だと批判ひはんするのは傲慢ごうまんだが、皮肉ひにくなことに、それは日本人にほんじん自身じしんが日本にほんを「特殊とくしゅ」だと言いいつづけてきたためであり、アメリカはそれを逆手さかてに取とっている。

語ご法ほうの観察かんさつ

反はん語形ごけい「〜ではないだろうか」が、断定だんていを避さけながら断定だんていと同おなじ働はたらきをしている。評ひょう論文ろんぶんでは主張しゅちょうの強度きょうどを落おとさずに反論はんろんの余地よちを残のこすためにこの形かたちが使つかわれる。

普遍・一般・特殊を例外の許容度で並べた図左から普遍(例外ゼロ)、一般(例外あり)、特殊(限られた場合のみ)を一本の帯の上に並べ、主張の強さが右へ行くほど弱まることを示す。 普遍一般特殊例外ゼロ例外あり限られた場合のみNO EXCEPTIONTHIS CASE ONLY右へ行くほど、言い切れる範囲は狭く、主張は弱くなる「例外を認めるか」の一本で三語は並ぶ普遍と書いた瞬間、反例ひとつで主張は崩れる
例外れいがいの許容きょよう度どで並ならべた三さん語ご
Section 02

具体ぐたい/抽象ちゅうしょう

3★★★

具体ぐたい

ぐたい[0]平板へいばん型がた

語ご構成こうせい
具ぐそなえる・かたちをもつ+体からだからだ・すがた
定義ていぎ

物事ものごとが知覚ちかくし得える形かたちや内容ないようをもっていること。現実げんじつにもとづいていること。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑3
原げん書しょの解説かいせつ

形かたちがあって見みたり触さわったりできるものは、みな具体的ぐたいてきなものだ。また「具体的ぐたいてきに話はなす」とは、聞きいている人々ひとびとの現実げんじつにして話はなすということである。評ひょう論ろんの文章ぶんしょうに出でてくる「具体例ぐたいれい」を考かんがえるとわかりやすいだろう。

関連かんれん語ごには、「具象ぐしょう」や「具ぐ現げん」がある。「具象ぐしょう」とは形かたちがあること、「具ぐ現げん」とは形かたちを伴ともなってはっきり表あらわれることの意いである。

使用しようの境界きょうかい

知覚ちかくできる形かたちや内容ないようを伴ともなうこと。詳くわしいだけでは具体ぐたいではない。目めの前まえに据すえられるかどうかが線せん。

用法ようほう

「具体的ぐたいてきに言いうと」は評ひょう論文ろんぶんでも会話かいわでも、前まえの抽象的ちゅうしょうてきな述のべ方ほうを言いい換かえて例れいを挙あげる合図あいずになる。読解どっかいでは、この語ごが出でた直後ちょくごに例示れいじが来くると予測よそくできる。逆ぎゃくに「具体性ぐたいせいを欠かく」は批判ひはんの定型ていけいで、〈言いっていることが確たしかめられない〉という意味いみになる。「具体化ぐたいか」はビジネス文脈ぶんみゃくでは〈計画けいかくを実行じっこう段階だんかいに落おとす〉ことを指さし、評ひょう論ろんの〈形かたちを与あたえる〉とは重心じゅうしんが違ちがう。

用例ようれい
  • 春はるはあけぼの。やうやう白しろくなりゆく山やまぎは、少すこし明みんりて、紫むらさきだちたる雲くものほそくたなびきたる。清少納言せいしょうなごん『枕草子まくらのそうし』第一だいいち段だん(1001頃ころ)
    ここには「美うつくしい」も「趣おもむきがある」も書かかれていない。あるのは白しろくなる・明みんるむ・雲くもが細ほそくたなびくという、すべて目めで捉とらえられる事実じじつだけである。それでも読者どくしゃは美びを受うけ取とる。これが具体ぐたいの力ちからで、抽象ちゅうしょう語ごで「美うつくしい」と言いうより、知覚ちかくできる形かたちを置おくほうが強つよく伝つたわることがある。評ひょう論文ろんぶんが「具体的ぐたいてきに述のべよ」と要求ようきゅうするのは、この効果こうかを求もとめてのことでもある。
  • 吾輩わがはいは猫ねこである。名前なまえはまだ無ない。どこで生せいれたか頓とんと見当けんとうがつかぬ。夏目なつめ漱石そうせき『吾輩わがはいは猫ねこである』冒頭ぼうとう(1905)
    「名前なまえはまだ無ない」— 名前なまえとは、個体こたいを他ほかから切きり分わけて指さすためのもっとも基本的きほんてきな具体化ぐたいかの装置そうちである。それが無ないと宣言せんげんすることで、この猫ねこは「どこの誰だれでもない一いち匹ひき」=具体ぐたいを欠かいた存在そんざいとして立たち上あがる。語かたり手てが終始しゅうし社会しゃかいを俯瞰ふかんできるのは、この初期設定しょきせっていのためである。
  • もっと具体的ぐたいてきに話はなしてください。 日常にちじょうでもっとも多おおい用法ようほう。求もとめられているのは詳つまびらかしさではなく、検証けんしょうできる形かたちである。「頑張がんばります」が具体的ぐたいてきでないのは、長ながさが足たりないからではなく、達成たっせいしたかどうかを確たしかめる手てがかりが無ないからである。
  • ×具体ぐたいな例れいを挙あげる。 「具体ぐたい」は名詞めいしであって形容けいよう動詞どうしではない。連体れんたい修飾しゅうしょくには「具体的ぐたいてきな」を用もちいる。「具体例ぐたいれい」という複合ふくごう名詞めいしなら成立せいりつするので、「具体例ぐたいれいを挙あげる」と書かけばよい。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

反はん 4 抽象ちゅうしょう / 関せき 具象ぐしょう/具ぐ現げん

派生はせい形けい
  • 具体的ぐたいてき[0]実際じっさいに使つかわれるのはほぼこの形かたちである。「具体ぐたい」単独たんどくは「具体ぐたいと抽象ちゅうしょう」のように対たい概念がいねんとして並ならべるときにしか現あらわれない。名詞めいしのまま連体れんたい修飾しゅうしょくに使つかえない点てんで、「普遍ふへん」とは振ふる舞まいが違ちがう。
  • 具体性ぐたいせい[0]「具体性ぐたいせいに欠かける」「具体性ぐたいせいを帯おびる」のように、程度ていどを論ろんじられる形かたち。具体ぐたいか抽象ちゅうしょうかは本来ほんらい〇か×かではなく連続れんぞく量りょうであり、この形かたちはその連続れんぞく性せいを扱あつかうために要いる。
  • 具体化ぐたいか[0]変化へんかを表あらわす。抽象ちゅうしょうの側がわから具体ぐたいの側がわへ移うつす運動うんどう。「抽象ちゅうしょう化か」と正確せいかくに対たいをなす数少かずすくない形かたちで、二ふたつを並ならべると論ろんの往復おうふくがそのまま図ずになる。
  • 具体例ぐたいれい[0]「具体ぐたい」が名詞めいしのまま複合ふくごう語ごをつくった形かたち。「具体的ぐたいてきな例れい」と同義どうぎだが、複合ふくごう名詞めいしのほうが術語じゅつごらしく、硬かたい文体ぶんたいに馴染なじむ。設問せつもん文ぶんが「具体例ぐたいれいを挙あげよ」と書かくのはこのため。
コロケーション
  • 具体的ぐたいてきに話はなす検証けんしょう可能性かのうせいの要求ようきゅう「具体的ぐたいてきに」が求もとめているのは情報量じょうほうりょうではなく確たしかめられる形かたちである。「たくさん努力どりょくした」を「毎まい朝あさ六ろく時じに起おきて二時間にじかん解といた」に替かえると具体ぐたいになるのは、後者こうしゃが真偽しんぎを確たしかめられるから。この基準きじゅんを握にぎっておくと、記述きじゅつ問題もんだいでの減点げんてんが減へる。
  • 具体例ぐたいれいを挙あげる主張しゅちょうへの支ささえ「挙あげる」は上うえへ差さし出だす動作どうさの語ご。主張しゅちょうという高たかい位置いちに対たいして、下したから支ささえとして差さし出だすという像ぞうが残のこっている。評ひょう論文ろんぶんの構造上こうぞうじょう、具体例ぐたいれいは必かならず主張しゅちょうとセットで現あらわれる — 例れいだけの段落だんらくがあれば、その前後ぜんごに必かならず主張しゅちょうがある。
  • 具体化ぐたいかする設計せっけいから実物じつぶつへ構想こうそう・計画けいかくなど、まだ形かたちを持もたないものを形かたちにする変化へんか。「計画けいかくが具体化ぐたいかする」は自動詞じどうし的てき、「計画けいかくを具体化ぐたいかする」は他動詞たどうし的てきで、前者ぜんしゃは事態じたいの成なり行いき、後者こうしゃは誰だれかの働はたらきかけを含意がんいする。主語しゅごの有無うむに注意ちゅういして読よむとよい。
  • 血肉けつにくを持もった具体ぐたい比喩ひゆとしての具体ぐたい「血肉けつにく」という身体しんたいの語ごを借かりることで、抽象ちゅうしょう=生せい気きのないもの、具体ぐたい=生いきているものという価値かちづけが持もち込こまれる。この対比たいひ自体じたいが一ひとつの立場たちばであり、中立ちゅうりつの記述きじゅつではないことを見抜みぬけるかが読解どっかいの分わかれ目めになる。
格かく中なか

書かき言葉ことば・会話かいわの両方りょうほうで使つかえる。

類るい語ごと差さ
  • 具象ぐしょう形かたちを伴ともなってはっきり表あらわれる美び術じゅつで「具象ぐしょう画が」のように使つかう。輪郭りんかくがはっきりしていることに重心じゅうしん。具体ぐたいは知覚ちかく可能かのうかどうか、具象ぐしょうは形かたちが見みえるかどうか。
  • 具ぐ現げん形かたちにして実現じつげんするまだ無ないものを形かたちにする動うごきを言いう。「理念りねんを具ぐ現あらわする」。具体化ぐたいかと近ちかいが、こちらは理想りそうが現実げんじつになるという含ふくみが強つよい。
  • 個別こべつ一ひとつ一ひとつを取とり出だす数かずの話はなし。具体ぐたいは感覚かんかくの話はなし。具体的ぐたいてきだが一般的いっぱんてきなもの(水みずは液体えきたいである)もありうる。
  • 実際じっさい現げんに行おこなわれている観念かんねんや計画けいかくに対たいして、現実げんじつに起おきている側がわを指さす。「実際じっさいには」は前言ぜんげんを訂正ていせいする接続せつぞくとしても働はたらく。

ENconcrete
ZH具体(具体的な, jùtǐ)

4★★★

抽象ちゅうしょう

ちゅうしょう[0]平板へいばん型がた

語ご構成こうせい
抽ちゅうひきぬく+象ぞうかたち・すがた

〈形かたちを抜ぬき出だす〉。抜ぬき出だす以上いじょう、残のこりは捨すてられる。抽象ちゅうしょうと捨象しゃしょうは同おなじ操作そうさの表裏ひょうりである。

定義ていぎ

個々ここの物事ものごとから、それらに共通きょうつうする性質せいしつを抜ぬき出だすこと。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑4
原げん書しょの解説かいせつ

抽象ちゅうしょうとは、個々ここの具体的ぐたいてきな物事ものごとに共通きょうつうする性質せいしつを一般化いっぱんかして、思考しこうを働はたらかせること。物事ものごとを抽象ちゅうしょう化かするときには、共通きょうつうしていない部分ぶぶんは切きり捨すてられ、このことを「捨象しゃしょう」と言いう。抽象ちゅうしょうは必かならず捨象しゃしょうを伴ともなう。

たとえば

私わたしたちの周まわりには、ポチとかシロとかいう、具体的ぐたいてきなイヌがいる。そこから、〈人ひとになつきやすい〉〈ワンワン吠ほえる〉などといった、イヌの共通点きょうつうてんを見み出だすことを「抽象ちゅうしょう(抽象ちゅうしょう化か)」と言いう。

使用しようの境界きょうかい

共通きょうつうする性質せいしつを抜ぬき出だすこと。必かならず捨象しゃしょうを伴ともなう。「わかりにくい」の意いで使つかうのは口語こうご的てき用法ようほう。

用法ようほう

日常にちじょう語ごの「抽象的ちゅうしょうてき」は「わかりにくい」「中身なかみがない」という否定的ひていてきな評価ひょうか語ごとして使つかわれるが、評ひょう論文ろんぶんでは〈共通きょうつうする性質せいしつを抜ぬき出だした〉という中立ちゅうりつの記述きじゅつ語ごである。この二ふたつを混同こんどうすると設問せつもんを落おとす。学術がくじゅつ文ぶんでは「抽象ちゅうしょう度どが高たかい/低ひくい」という段階だんかい表現ひょうげんがよく使つかわれ、上あげれば適用範囲てきようはんいが広ひろがり、下さげれば具体的ぐたいてきな事例じれいに近ちかづく。「抽象ちゅうしょうして」という動詞どうし形けいはほとんど使つかわず、「抽象ちゅうしょう化かして」の形かたちが標準ひょうじゅん。

用例ようれい
  • ただ、己おのれの乏とぼしい詩し業ぎょうが、長安ちょうあん風流ふうりゅう人士じんしの机つくえの上うえに置おかれている様さまを夢想むそうするだけで、洞窟どうくつの中なかに横よこたわって見みる夢ゆめに、快こころよい喜よろこびを覚おぼえるのだ。臆病おくびょうな自尊心じそんしんと、尊大そんだいな羞恥心しゅうちしんと。中島なかじま敦あつし『山月さんげつ記き』(1942)
    「臆病おくびょうな自尊心じそんしん」「尊大そんだいな羞恥心しゅうちしん」— どちらも目めには見みえない心こころの働はたらきを、名詞めいしとして取とり出だして名なづけたものである。しかも本来ほんらいぶつかり合あう語ご(臆病おくびょうと自尊じそん、尊大そんだいと羞恥しゅうち)を接合せつごうしている。抽象ちゅうしょう名詞めいしにしたからこそ、この矛盾むじゅんを一ひとつの塊かたまりとして掴つかめ、李徴りちょうは自分じぶんの破滅はめつの原因げんいんを名指なざすことができた。抽象ちゅうしょうとは、名なづけることで扱あつかえるようにする操作そうさである — その典型てんけいがここにある。
  • 古池ふるいけや蛙かわず飛とびこむ水みずの音おと松尾まつお芭蕉ばしょう(1686)
    一見いっけんすると具体ぐたいしかない。古池ふるいけ、蛙かわず、水みずの音おと。しかしこの句くが数百すうひゃく年ねん読よまれてきたのは、読者どくしゃがそこから「静寂せいじゃく」という抽象ちゅうしょうを取とり出だすからである。芭蕉ばしょうは「静しずかだ」と書かかなかった。書かいていれば、それは一ひとつの解釈かいしゃくに閉とじてしまう。具体ぐたいだけを置おき、抽象ちゅうしょう化かの作業さぎょうを読者どくしゃに委ゆだねた — これが具体ぐたいと抽象ちゅうしょうの関係かんけいのもっとも洗練せんれんされた使つかい方かたの一ひとつである。
  • 議論ぎろんが抽象ちゅうしょう的てきで、何なにを言いっているのか分わからない。 抽象ちゅうしょうは本来ほんらい「共通きょうつう性せいを取とり出だす」有用ゆうような操作そうさだが、取とり出だしすぎると元もとの事物じぶつとの接点せってんが切きれる。この批判ひはんが指さしているのは、抽象ちゅうしょうそのものではなく「具体ぐたいへ戻もどる道みちが示しめされていないこと」である。
  • 個々ここの事例じれいから共通きょうつうする構造こうぞうを抽象ちゅうしょうする。 動詞どうしとしての用法ようほう。「捨象しゃしょう」と対たいになる。抽象ちゅうしょうとは「抜ぬき出だす」と「捨すてる」を同時どうじに行おこなう操作そうさであり、何なにを抜ぬき出だしたかと同おなじだけ、何なにを捨すてたかが問とわれる。評ひょう論文ろんぶんが抽象ちゅうしょうを批判ひはんするときは、たいてい「捨すてられたもの」の側がわから書かかれている。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

反はん 3 具体ぐたい / 関せき 22 概念がいねん

派生はせい形けい
  • 抽象的ちゅうしょうてき[0]評ひょう論ろんでもっとも多おおい形かたち。文脈ぶんみゃくしだいで賛否さんぴが反転はんてんする点てんに注意ちゅういしたい。「抽象的ちゅうしょうてきな思考しこう力りょく」は褒ほめ言葉ことば、「抽象的ちゅうしょうてきな説明せつめい」は批判ひはんである。語ごそのものに価値かちは無なく、価値かちは文脈ぶんみゃくが与あたえる。
  • 抽象性ちゅうしょうせい[0]性質せいしつとして取とり出だした形かたち。「抽象ちゅうしょう性せいが高たかい/を帯おびる」と程度ていどを論ろんじられる。「具体性ぐたいせい」と対たいにして使つかうと、論ろんの位置いちを測はかる物差ものさしになる。
  • 抽象化ちゅうしょうか[0]運動うんどうを表あらわす形かたち。「具体化ぐたいか」と正確せいかくに逆ぎゃくを向むく。この二に語ごが同おなじ文ぶんに現あらわれたら、筆者ひっしゃは思考しこうの往復おうふく運動うんどうそのものを主題しゅだいにしている。
  • 捨象しゃしょう[0]厳密げんみつには派生はせい形けいではなく、抽象ちゅうしょうと対たいをなす別語べつご。抽象ちゅうしょうが「抜ぬき出だす」側がわ、捨象しゃしょうが「捨すてる」側がわで、一ひとつの操作そうさの二ふたつの面めんを指さす。この語ごを知しっているかどうかで、抽象ちゅうしょうの理解りかいの解像度かいぞうどが変かわる。
コロケーション
  • 抽象ちゅうしょう化かする共通きょうつう性せいの取とり出だし複数ふくすうのものから共通きょうつうする性質せいしつだけを取とり出だし、残のこりを捨すてる操作そうさ。「捨象しゃしょう」と表裏ひょうり一体いったいで、レモン一いち個こから「重おもさ」を取とり出だせば、色いろも味あじも産地さんちも捨すてられている。原げん書しょの入試にゅうし文ぶん(力学りきがくと経済学けいざいがくのレモン)はこの往復おうふくを主題しゅだいにしている。
  • 抽象ちゅうしょう度どが高たかい階層かいそうとしての抽象ちゅうしょう「度ど」が付つくことで、抽象ちゅうしょうは〇か×かではなく階段かいだんになる。「レモン → 果物くだもの → 食品しょくひん → 物質ぶっしつ」と上のぼるごとに抽象ちゅうしょう度どが上あがり、当あてはまる範囲はんいは広ひろがるが、内容ないようは薄うすくなる。この反比例はんぴれいを掴つかんでおくと、論ろんの階層かいそうを意識いしきして読よめるようになる。
  • 抽象的ちゅうしょうてきな議論ぎろんしばしば批判ひはんの語ごこの形かたちが現あらわれたら、多おおくの場合ばあいは否定的ひていてきな評価ひょうかが伴ともなう。ただし批判ひはんされているのは抽象ちゅうしょうそのものではない。数学すうがくも物理学ぶつりがくも高度こうどに抽象的ちゅうしょうてきだが、批判ひはんされない。問題もんだいは「具体ぐたいへ戻もどる経路けいろが示しめされていないこと」であり、ここを取とり違ちがえると設問せつもんを外はずす。
  • 抽象ちゅうしょう画が美び術じゅつでの用法ようほう対象たいしょうの再現さいげんをやめ、形かたちと色いろそのものを扱あつかう絵画かいが。評ひょう論ろんの「抽象ちゅうしょう」が共通きょうつう性せいの抽出ちゅうしゅつであるのに対たいし、美び術じゅつのそれは具体的ぐたいてき対象たいしょうからの離脱りだつを指さし、重心じゅうしんが違ちがう。同おなじ語ごが分野ぶんやをまたぐとき、この種しゅのずれは頻繁ひんぱんに起おこる。
格かく硬かた

書かき言葉ことば。会話かいわでは不自然ふしぜん。

類るい語ごと差さ
  • 一般化いっぱんか個々ここを包つつむ形かたちにまとめる結論けつろんの適用範囲てきようはんいを広ひろげる操作そうさ。抽象ちゅうしょう化かは性質せいしつを抜ぬき出だす操作そうさ。抽象ちゅうしょう化かした結果けっかとして一般化いっぱんかができる、という順序じゅんじょになる。
  • 捨象しゃしょう共通きょうつうしない部分ぶぶんを切きり捨すてる抽象ちゅうしょうと同おなじ操作そうさを反対はんたい側がわから見みた語ご。抜ぬき出だせば必かならず捨すてる。原げん書しょはこの対たいを強調きょうちょうしている。
  • 概念がいねん抜ぬき出だされた意味いみ内容ないよう抽象ちゅうしょうは操作そうさ、概念がいねんはその結果けっか。「抽象ちゅうしょう概念がいねん」という熟語じゅくごは、操作そうさの結果けっかとして得とくられた意味いみ内容ないようを指さす。
  • 観念かんねん的てき現実げんじつから離はなれている批判ひはん語ご。「抽象的ちゅうしょうてき」も日常にちじょうでは批判ひはんに使つかわれるが、本来ほんらいは中立ちゅうりつな操作そうさの名な。この混同こんどうが評ひょう論文ろんぶんの設問せつもんになる。

ENabstract
ZH抽象(抽象的な, chōuxiàng)

対立たいりつの軸じく

具体ぐたい/抽象ちゅうしょう の軸じく = 知覚ちかくできるか

具体ぐたい形かたちや内容ないようを伴ともない、知覚ちかくできる。
知覚ちかくできるか
抽象ちゅうしょう共通きょうつうする性質せいしつを抜ぬき出だす。捨象しゃしょうを伴ともなう。
抽象と捨象具体的なレモンから重さを抜き出し、色や産地を捨てて抽象概念に至る過程を示した図。 一個のレモン GUTAI 操作 抜き出す 切り捨てる 共通する性質 重さ・体積・位置 共通しない性質 色・味・産地・値段 抽象 CHUSHO 捨象 抽象と捨象は同じ操作の表裏である
抽象ちゅうしょうと捨象しゃしょう ── 抜ぬき出だせば必かならず捨すてる
入試にゅうし文ぶん

科学かがくは、3具体的ぐたいてきな経験けいけんの一いち面めんを4抽象ちゅうしょうし、抽象ちゅうしょう化かされた経験けいけんは、他ほかの同類どうるいの経験けいけんと関係かんけいづけられて分類ぶんるいされる。このように抽象ちゅうしょう化かされ、分類ぶんるいされた経験けいけんは、原則げんそくとして、一定いっていの条件じょうけんのもとで繰くり返かえされるはずのものである。従したがって科学かがくは、法則ほうそくの1普遍性ふへんせいについて語かたることができるのである。たとえば一いち個この具体的ぐたいてきなレモンは、その質量しつりょう・容積ようせき・位置いち・運動うんどう等とうに27還元かんげんされることによって、(その他ほかの性質せいしつ、たとえば色いろや味あじや産地さんちや値段ねだんなどを捨象しゃしょうすることによって、)9対象たいしょうとなり、またその効用こうようや生産せいさん費ひや小売価格こうりかかくなどに還元かんげんされることによって、(その他ほかの性質せいしつ、たとえば位置いちや運動量うんどうりょうなどを捨象しゃしょうすることによって、)経済学けいざいがくの対象たいしょうとなる。力学りきがくや経済学けいざいがくは具体的ぐたいてきなレモンについてではなく、抽象ちゅうしょう化かされた対象たいしょうについて、その対象たいしょうが従したがう法則ほうそくをしらべるのである。

出典しゅってん 加藤かとう周しゅう一いち『文学ぶんがくとは何なにか』 / 出題しゅつだい センター追試ついし験げん(国語こくごⅠ・Ⅱ) / 原げん書しょ p.18

読解どっかいのポイント
  • 科学かがく = 具体的ぐたいてきな経験けいけんの一いち面めんを抽象ちゅうしょう、分類ぶんるい = 一定いっていの条件じょうけんのもとで繰くり返かえされる = 法則ほうそくの普遍性ふへんせい
要約ようやく

力学りきがくや経済学けいざいがくといった科学かがくは、具体的ぐたいてきな対象たいしょうではなく、抽象ちゅうしょう化かされた対象たいしょうについて、その対象たいしょうが従したがう普遍的ふへんてきな法則ほうそくをしらべる。

語ご法ほうの観察かんさつ

受身うけみ「〜される」が連続れんぞくする。行為こうい者しゃが消きえることで、個々ここの操作そうさが人ひとの手てを離はなれた法則ほうそくとして提示ていじされる。

Section 03

秩序ちつじょ(コスモス)/混沌こんとん(カオス)

5★★★

秩序(コスモス)ちつじょ

ちつじょ[1]頭高あたまだか型がた

語ご構成こうせい
秩ちつ順序じゅんじょ・次第しだい+序じょならび・順じゅん
定義ていぎ

整然せいぜんとまとまっている状態じょうたい。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑5
原げん書しょの解説かいせつ

順序じゅんじょや決きまりによって、物事ものごとが整然せいぜんとまとまっている状態じょうたいを秩序ちつじょと言いう。言語げんごや文化ぶんかを扱あつかった文章ぶんしょうでは、右みぎの例れい文ぶんのように、〈人間にんげんは言語げんごや文化ぶんかを用もちいることで、世界せかいを秩序ちつじょあるものとしてとらえることができるようになった〉という内容ないようによく登場とうじょうする。これは、他ほかの動物どうぶつと比くらべて本ほん能のうの力ちからが弱よわい人間にんげんは、世界せかいと直接的ちょくせつてきな関係かんけいを結むすぶことができないため、言語げんごや文化ぶんかを用もちいて世界せかいを整理せいりするということを意味いみしている。

使用しようの境界きょうかい

整然せいぜんとしているだけでなく、順序じゅんじょや決きまりによって整ととのっていること。偶然ぐうぜんそろっているのは秩序ちつじょではない。

用法ようほう

評ひょう論文ろんぶんでは「コスモス」と併記へいきされ、〈人間にんげんが言語げんごや文化ぶんかによって世界せかいに与あたえるもの〉として扱あつかわれる。つまり秩序ちつじょは世界せかいに元もとからあるのではなく、与あたえられるという発想はっそうが前提ぜんていになる。この含ふくみが原げん書しょの入試にゅうし文ぶんの骨格こっかくである。日常にちじょう語ごでは「治安ちあん」に近ちかい意味いみでも使つかわれるが、評ひょう論ろんでは〈区別くべつが立たっている状態じょうたい〉と読よむほうが通とおる。「秩序ちつじょづける」という動詞どうし形けいが学術がくじゅつ文ぶんで使つかわれる。

用例ようれい
  • 名な正ただしからざれば則そくち言げん順じゅんはず、言げん順じゅんはざれば則そくち事こと成せいらず、事こと成せいらざれば則そくち礼楽れいがく興おこらず、礼楽れいがく興おこらざれば則そくち刑罰けいばつ中ちゅうらず、刑罰けいばつ中ちゅうらざれば則そくち民みん手足てあしを措おく所しょ無なし。『論語ろんご』子路しろ篇へん
    名なづけの誤あやまりから始はじまって、言葉ことばが通とおらなくなり、仕事しごとが成せいらず、儀ぎ礼れいと音楽おんがくが興おこらず、刑罰けいばつが的てきを外はずし、最後さいごに民みんは手足てあしの置おき場ばすら失うしなう — 五ご段だんの連鎖れんさで社会しゃかいが崩くずれていく。ここで語かたられているのは、秩序ちつじょが言葉ことばの側がわから立たち上あがっているということである。世界せかいにあらかじめ秩序ちつじょがあって、それを言葉ことばが後あとから写うつしとるのではない。名なが正ただしく割わり当あてられていることが、そのまま秩序ちつじょの実質じっしつなのだ。原げん書しょのいう〈人間にんげんは言語げんごや文化ぶんかを用もちいて世界せかいを秩序ちつじょあるものとして捉とらえる〉とは、この構図こうずをそのまま述のべたものである。そして崩くずれが「言げん」から始はじまり「手足てあし」で終おわるのがうまい。抽象ちゅうしょうの側がわの乱みだれが、最後さいごは身体しんたいの置おき場ばというもっとも具体的ぐたいてきなところに現あらわれる。
  • いづれの御時おおんときにか、女御にょうご、更衣こういあまたさぶらひたまひけるなかに、いとやむごとなき際さいにはあらぬが、すぐれて時ときめきたまふありけり。紫式部むらさきしきぶ『源氏げんじ物語ものがたり』桐壺きりつぼ・冒頭ぼうとう(1008頃ころ)
    「際きは(きは)」— 身分みぶんの序列じょれつ、すなわち秩序ちつじょである。日本にほん最大さいだいの物語ものがたりが、秩序ちつじょの記述きじゅつから始はじまり、その秩序ちつじょが破やぶられたところで動うごき出だすことに注目ちゅうもくしたい。高たかくはない身分みぶんの更衣こういが、序列じょれつを越こえて寵愛ちょうあいを受うける。それだけで宮廷きゅうていは揺ゆれ、物語ものがたりは動うごきはじめる。ここから分わかるのは、秩序ちつじょとは「そこから外はずれたときに何なにが起おこるかがあらかじめ決きまっている」配置はいちだということである。偶然ぐうぜんそろっているだけの並ならびなら、外はずれても何なにも起おこらない。破やぶられたときに反応はんのうが返かえってくるかどうかが、秩序ちつじょかどうかの試金石しきんせきになる。
  • 言語げんごは世界せかいに秩序ちつじょを与あたえる枠組わくぐみである。 「世界せかいには秩序ちつじょがある」ではなく「与あたえる」と書かいた点てんが要ようである。前者ぜんしゃなら秩序ちつじょは世界せかいの側がわの性質せいしつになり、後者こうしゃなら人間にんげんの側がわの作業さぎょうになる。評ひょう論文ろんぶんが秩序ちつじょを論ろんじるときは、ほぼ例外れいがいなく後者こうしゃの立場たちばに立たつ。この一語いちごの向むきを取とり違ちがえると、文章ぶんしょう全体ぜんたいの主張しゅちょうが逆ぎゃくに読よめる。
  • ×たまたま同おなじ色いろの本ほんが並ならんでいて秩序ちつじょが生うまれた。 偶然ぐうぜんそろっただけのものは秩序ちつじょではない。秩序ちつじょは順序じゅんじょや決きまりに支ささえられていることを含意がんいするので、根拠こんきょのない一致いっちに使つかうと語ごがすべる。「整然せいぜんと見みえる」「そろっている」が正ただしい。逆ぎゃくにいえば、秩序ちつじょと書かいた瞬間しゅんかん、読者どくしゃは「では何なにがそれを支ささえているのか」を探さがしにいく。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

反はん 6 混沌こんとん(カオス) / 関せき 67

派生はせい形けい
  • 秩序的ちつじょてき[0]状態じょうたいを形容けいようする形かたち。ただし実際じっさいの文ぶんでは「秩序ちつじょある」「秩序ちつじょだった」のほうが多おおい。「的てき」を付つけると「秩序ちつじょに似にた性質せいしつを帯おびている」という一段いちだん弱よわい言いい方かたになるため、断定だんていを避さけたい場面ばめんで選えらばれる。
  • 無秩序むちつじょ[2]接頭辞せっとうじ「無む」は、あるはずのものが無ないことを言いう。したがって無秩序むちつじょは「秩序ちつじょが先さきにあること」を前提ぜんていにした語ごで、ここが混沌こんとんとの決定的けっていてきな違ちがいになる。混沌こんとんは秩序ちつじょが与あたえられる前まえの状態じょうたいも指ゆびせるが、無秩序むちつじょは指ゆびせない。
  • 秩序化ちつじょか[0]「化か」は状態じょうたいではなく移うつり変かわる過程かていを名詞めいしにする。「秩序ちつじょ」が結果けっかを、「秩序ちつじょ化か」がそこへ至いたる運動うんどうを指さすので、筆者ひっしゃが過程かていを主題しゅだいにしているかどうかがこの一いち字じで読よめる。
コロケーション
  • 秩序ちつじょを保たもつ維持いじの動詞どうし「保たもつ」は、放ほうっておけば失うしなわれるものにしか使つかわない。体温たいおんは保たもつが、石いしの重おもさは保たもつとは言いわない。したがってこの結むすびつきは、秩序ちつじょが自然しぜんの状態じょうたいではなく、力ちからを加くわえ続つづけてはじめて続つづくものだという前提ぜんていを、動詞どうしの側がわからそっと持もち込こんでいる。評ひょう論文ろんぶんで「秩序ちつじょを保たもつ」が出でてきたら、「誰だれが、何なにを費ついやして保たもっているのか」が次つぎの論点ろんてんになる。
  • 秩序ちつじょが乱みだれる自動詞じどうしの選択せんたく「乱みだす」ではなく「乱みだれる」を選えらぶと、乱らんした主体しゅたいが文ぶんから消きえる。「若者わかものが秩序ちつじょを乱みだす」は名指なざしだが、「秩序ちつじょが乱みだれる」は誰だれのせいでもない天てん災さいのように響ひびく。同おなじ事態じたいを指さしながら責任せきにんの所在しょざいだけが消きえるので、この形かたちは行政ぎょうせいや報道ほうどうの文章ぶんしょうに好よしみまれる。評ひょう論文ろんぶんがこの言いい回まわしを引用いんようするときは、たいていその隠蔽いんぺいを批判ひはんするために引ひいている。
  • 秩序ちつじょづける学術がくじゅつ文ぶんの動詞どうし名詞めいしに「づける」を付つけて他動詞たどうしをつくる形かたちで、「意味いみづける」「関係かんけいづける」と同おなじ作つくりである。「秩序ちつじょがある」ではなく「秩序ちつじょづける」と書かけるかどうかが、この語ごを状態じょうたい語ごとして使つかっているか操作そうさ語ごとして使つかっているかの分わかれ目めになる。原げん書しょの入試にゅうし文ぶんが扱あつかうのは後者こうしゃ、すなわち人間にんげんの側がわの操作そうさとしての秩序ちつじょである。
  • 既存きそんの秩序ちつじょ批判ひはんの前置まえおき「既存きそんの」は、それが昔むかしからあったという事実じじつを述のべるだけでなく、「たまたま今いまそうなっているにすぎない」という含ふくみを伴ともなう。この一語いちごを冠かんむりした時点じてんで、筆者ひっしゃはその秩序ちつじょを〈自然しぜんでも永遠えいえんでもないもの〉として枠わくに入いれており、多おおくの場合ばあいそのあとに批判ひはんか相対そうたい化かが続つづく。「現在げんざいの秩序ちつじょ」と書かけばこの含ふくみは出でない。
格かく中なか

書かき言葉ことば・会話かいわの両方りょうほうで使つかえる。

類るい語ごと差さ
  • 規律きりつ行為こういを律りつする決きまり人ひとの振ふる舞まいを縛しばる側がわに重心じゅうしんがある。「規律きりつが厳きびしい」は行為こういの話はなし。秩序ちつじょは状態じょうたいの話はなし。
  • 体系たいけい部分ぶぶんが全体ぜんたいをなす組くみ立たて要素ようその関係かんけいが階層かいそうをなしていることを言いう。時間的じかんてきな順序じゅんじょは含ふくまない。秩序ちつじょは時間じかんの前後ぜんごも含ふくみうる。
  • 統制とうせい外そとから統とうべて制せいする力ちからによる整ととのえを含ふくむ。「統制とうせいされた社会しゃかい」は否定的ひていてきに響ひびく。「秩序ちつじょある社会しゃかい」は中立ちゅうりつか肯定こうてい。
  • 調和ちょうわ要素ようそがよく釣つり合あう美的びてきな釣つり合あいに重心じゅうしん。規則きそくがあるかは問とわない。秩序ちつじょは規則きそくを含意がんいする。

ENcosmos / order
ZH秩序(秩序, zhìxù)

6★★★

混沌(カオス)こんとん

こんとん[0]平板へいばん型がた

語ご構成こうせい
混こんまじる+沌とんくらい・分わかれていない
定義ていぎ

物事ものごとがバラバラな状態じょうたい。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑6
原げん書しょの解説かいせつ

混沌こんとんは秩序ちつじょの反対はんたいの意味いみで、物事ものごとが整理せいりされないままバラバラになっている状態じょうたいのことを言いう。「頭あたまの中なかが混沌こんとんとしている」というのは、いろいろな考かんがえや思念しねんがぐちゃぐちゃになっているということ。

たとえば

言葉ことばを知しらない生うまれたばかりの赤あかちゃんにとって、外界がいかいは混沌こんとんとしたものとして映うつっている。それは単たんに物ものの区別くべつがないだけでなく、善悪ぜんあくの区別くべつもない状態じょうたいだ。人ひとは、そういった混沌こんとんとした世界せかいを、言語げんごや身体しんたいを通つうじて理解りかいし、秩序ちつじょあるものとしてとらえていくようになる。

使用しようの境界きょうかい

物事ものごとが整理せいりされていない状態じょうたい。散さんらかっているのではなく、区別くべつが立たっていないこと。

用法ようほう

「混沌こんとんとしている」の形かたちで使つかうのが最もっとも多おおく、名詞めいし単独たんどくでは「混沌こんとんに陥おちいる」「混沌こんとんの中なかから秩序ちつじょが生うまれる」のように、秩序ちつじょとの対たいで現あらわれる。言葉ことばを知しらない赤あかん坊ぼうには世界せかいが混沌こんとんとして映うつる、という説明せつめいが原げん書しょにあり、〈善悪ぜんあくの区別くべつも物ものの区別くべつもない状態じょうたい〉というのが評ひょう論ろんでの中身なかみである。混沌こんとんは〈情報じょうほうが多おおすぎる〉ことではなく〈区別くべつが無ない〉こと。この点てんを「複雑ふくざつ」と混同こんどうしない。

用例ようれい
  • 古こに天地てんち未いまだ剖わかれず、陰陽おんみょう分ぶんれざりしとき、渾こん沌とんれたること鶏にわとり子この如ごとくして、溟涬めいけいにして牙きばを含ふくめり。『日本にほん書しょ紀き』巻かん第一だいいち・神代じんだい上じょう(720)
    この一文いちぶんは混沌こんとんの定義ていぎそのものになっている。「未いまだ剖わかれず」「分ぶんれざりし」— 語かたられているのは散さんらかっていることではなく、境目さかいめが入はいっていないことである。そのうえで「鶏にわとり子こ(にわとりの卵たまご)の如ごとし」という比喩ひゆが効きいている。卵たまごは乱雑らんざつではない。むしろ丸まるくまとまっている。それでも黄き身みと白しろ身みがまだ分わかれていないという一点いってんで混沌こんとんなのだ。混沌こんとんを「ぐちゃぐちゃ」と読よむと、この比喩ひゆの意味いみが取とれなくなる。さらに「牙きざし(きざし)を含ふくめり」— 混沌こんとんはすでに秩序ちつじょの芽めを内ないに抱かかえている。
  • 日ひに一いち竅きょうを鑿うがちて、七日なのかにして渾こん沌とん死しす。『荘子そうし』内篇ないへん・応おう帝てい王おう
    南海なんかいの帝ていと北海ほっかいの帝ていが、恩おん返かえしに渾こん沌とんへ目め・耳みみ・鼻はな・口くちの七ななつの穴あなを一日いちにちひとつずつ開あけてやったところ、七日なのか目めに渾こん沌とんは死しんだ、という寓話ぐうわの結むすびである。穴あなを開あけるとは区別くべつを入いれることであり、区別くべつが完成かんせいした時点じてんで混沌こんとんは混沌こんとんでなくなる。荘子そうしはここで、善意ぜんいによる整理せいりが対象たいしょうそのものを殺ころしうると言いっている。評ひょう論文ろんぶんが近代きんだいの分節ぶんせつ化かを批判ひはんするとき下敷したじきにしているのは、しばしばこの型かたの発想はっそうである。
  • 言葉ことばを知しらない子こには、外界がいかいは混沌こんとんとして映うつる。 原げん書しょの説明せつめいをそのまま文ぶんにしたもの。子こどもに見みえている情報量じょうほうりょうが多おおいという話はなしではなく、「これは犬いぬ」「これは猫ねこ」という切きれ目めが入はいっていないという話はなしである。言葉ことばを得えることは、世界せかいに線せんを引ひいて秩序ちつじょを得えることであり、同時どうじに混沌こんとんを失うしなうことでもある。
  • ×売上うりあげのデータが混沌こんとんとしている。 混沌こんとんは世界せかいのあり方かたを語かたる重おもい概念がいねん語ごで、整理せいりされていない書類しょるいや数字すうじには釣つり合あわない。「錯綜さくそうしている」「整理せいりされていない」で足たりる。ここで混沌こんとんを使つかうと、書かき手てが語ごの重おもさを測はかれていないことが露呈ろていする。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

反はん 5 秩序ちつじょ(コスモス)

派生はせい形けい
  • 混沌としたこんとんとした[0]実質的じっしつてきにこの語ごの連体形れんたいけいはこれ一ひとつで、「混沌こんとんな」とは言いえない。形容けいよう動詞どうしになりきらなかった漢語かんごで、「堂々どうどうとした」「悠然ゆうぜんとした」の仲間なかまにとどまっている。
  • 渾沌こんとん[0]『荘子そうし』『日本にほん書しょ紀き』で用もちいられる本来ほんらいの表記ひょうき。「渾こん」は水みずがまじりあうさまで、混沌こんとんよりも「溶とけ合あっている」語ご感かんが強つよい。現代げんだい文ぶんでは「混沌こんとん」に統一とういつされるが、古典こてんを引ひく文脈ぶんみゃくではこの字じが出でるので読よめるようにしておきたい。
  • 混沌たるこんとんたる[0]文語ぶんごの連体形れんたいけいが残のこった形かたち。「〜たる」は現代語げんだいごでは格かく式しきと古こさを一挙いっきょに持もち込こむ装置そうちとして働はたらく。「混沌こんとんたる現代げんだい」と書かけば、書かき手てが事態じたいを歴史的れきしてきな尺度しゃくどで眺ながめていることが、語尾ごびだけで伝つたわる。
コロケーション
  • 混沌こんとんとしたタルト型かたの連体れんたい「混沌こんとんだ」とは言いえず「混沌こんとんとした」と言いうのは、この語ごがもともと状態じょうたいを描えがく擬態ぎたい的てきな漢語かんごだからである。「渾然こんぜんとした」「判然はんぜんとしない」と同おなじ作つくりで、「と」が付つくことで名詞めいしではなく様子ようすを表あらわす。文語ぶんご調ちょうに寄よせると「混沌こんとんたる」となり、硬かたさが一段いちだん上あがるぶん、評ひょう論文ろんぶんの書かき出だしで好よしみまれる。
  • 混沌こんとんに陥おちいる落下らっかの比喩ひゆ「陥おちいる」は高たかい所しょから低ひくい所しょへ落おちる動詞どうしである。つまりこの形かたちは、もとは秩序ちつじょという高こうみにいたことを前提ぜんていにしている。『日本にほん書しょ紀き』の混沌こんとんは秩序ちつじょより前まえにあるものだったから、本来ほんらいこの動詞どうしとは結むすびつかない。同おなじ語ごが、時間じかんの前まえに置おかれることも後あとに置おかれることもある — その振ふれ幅はばがこの一句いっくと次つぎの一句いっくの差さである。
  • 混沌こんとんの中なかから生成せいせいの定型ていけい神話しんわ・文化ぶんか論ろんでくり返かえされる型かたで、混沌こんとんを欠如けつじょではなく母胎ぼたいとして扱あつかう。「無秩序むちつじょの中なかから」とは言いい換かえられない。無秩序むちつじょは失うしなわれた状態じょうたいなので、そこから何なにかが生うまれる語ご感かんを持もたないからである。この一点いってんだけで、混沌こんとんと無秩序むちつじょが別語べつごであることが確たしかめられる。
  • 原初げんしょの混沌こんとん時間じかんの指定してい「原初げんしょ」は歴史れきしの起点きてんを指さす語ごで、この結むすびつきは混沌こんとんを秩序ちつじょ以前いぜんへ明確めいかくに位置いちづける。評ひょう論文ろんぶんでは、近代きんだいが失うしなったものを語かたるときの起点きてんとして置おかれることが多おおい。ただし原初げんしょの混沌こんとんは誰だれも見みていないので、これは常つねに秩序ちつじょの側がわから遡さかのぼって想像そうぞうされた混沌こんとんである — この点てんを突つく論ろんのほうが、じつは入試にゅうしには出でやすい。
格かく硬かた

書かき言葉ことば。会話かいわでは不自然ふしぜん。

類るい語ごと差さ
  • 無秩序むちつじょ秩序ちつじょが失うしなわれた秩序ちつじょを前提ぜんていとして、その欠如けつじょを言いう。混沌こんとんは秩序ちつじょが与あたえられる前まえの状態じょうたいも指ゆびせる。
  • 混乱こんらん一度いちどあった秩序ちつじょが崩くずれた時間的じかんてきな前後ぜんごがある。混乱こんらんは事後じご、混沌こんとんは事前じぜんでも事後じごでもよい。
  • 渾然こんぜん境目さかいめなく一ひとつになっている境界きょうかいの無むさを肯定的こうていてきに言いうことができる。「渾然こんぜん一体いったい」。混沌こんとんは否定的ひていてきに響ひびく場面ばめんが多おおい。
  • 曖昧あいまい境目さかいめがはっきりしない判断はんだんや意味いみについての語ご。物事ものごとの状態じょうたいそのものには使つかわない。

ENchaos
ZH混沌(混沌, hùndùn)

対立たいりつの軸じく

秩序ちつじょ(コスモス)/混沌こんとん(カオス) の軸じく = 規則きそく性せいの有無うむ

秩序ちつじょ(コスモス)順序じゅんじょや決きまりによって整ととのっている。
規則きそく性せいの有無うむ
混沌こんとん(カオス)区別くべつが立たたず、整理せいりされていない。
動物と人間における秩序の与えられ方動物は本能によってあらかじめ秩序を与えられ、人間は本能を失い混沌から文化によって秩序を創り出すという対比図。 ANIMAL 本能 予め与える 秩序 迷いや不安がない。選択の余地がない。 HUMAN 本能を失う 混沌 言語・文化 秩序 秩序は世界の側にあるのではなく、人間が与える 文化を持つ生物と呼ばれる理由がここにある
秩序ちつじょは与あたえられるものか、創つくり出だすものか
入試にゅうし文ぶん

人間にんげん以外いがいの動物どうぶつは普通ふつう〈本ほん能のう〉の赴おもむくままに行動こうどうするとき、そこに迷まよいや不安ふあんはない。彼かれらにとっては、世界せかいは予よめ5秩序ちつじょを与あたえられているのであって、自みずからがそれを創つくり出だす必要ひつようはないからである。つまり、選択せんたくの余地よちがないのである。それに対たいして人間にんげんは、そのような〈本ほん能のう〉の導みちびきを失うしない、したがって、6混沌こんとんと化かした世界せかいに対たいして、素手すでで働はたらきかけることができず、73文化ぶんかという146装置そうちを創つくり出だすことによって、再ふたたび秩序ちつじょをとり戻もどしてきたのである。人間にんげんがしばしば、文化ぶんかを持もった生物せいぶつと呼よばれる理由りゆうはそこにある。

出典しゅってん 池上いけがみ嘉彦よしひこ・山中さんちゅう桂一けいいち・唐須教光からすのりみつ『文化ぶんか記号きごう論ろん』 / 出題しゅつだい 早稲田大学わせだだいがく・法学部ほうがくぶ、上智大学じょうちだいがく・法学部ほうがくぶなど / 原げん書しょ p.20

読解どっかいのポイント
  • 動物どうぶつ = 本ほん能のうを持もつ → 予よめ秩序ちつじょが与あたえられている
  • 人間にんげん = 本ほん能のうの導みちびきがない → 文化ぶんかによって混沌こんとんとした世界せかいに秩序ちつじょを与あたえる
要約ようやく

動物どうぶつは本ほん能のうによって秩序ちつじょを与あたえられているが、人間にんげんは本ほん能のうの導みちびきを失うしなっているため、混沌こんとんとした世界せかいに対たいして文化ぶんかという装置そうちを創つくり出だすことによって再ふたたび秩序ちつじょを取とり戻もどしてきた。

語ご法ほうの観察かんさつ

文末ぶんまつの「〜のである」が前文ぜんぶんの理由りゆうづけを担になう。記述きじゅつを説明せつめいへ転てんじる標識ひょうしきとして働はたらいている。

Section 04

必然ひつぜん/偶然ぐうぜん

7★★★

必然ひつぜん

ひつぜん[0]平板へいばん型がた

語ご構成こうせい
必ひつかならず+然さそうである
定義ていぎ

必かならずそうなること。それ以外いがいにはあり得とくないこと。出来事できごとが法則ほうそく性せい・因果いんが性せいによっていること。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑7
使用しようの境界きょうかい

法則ほうそく性せい・因果いんが性せいによってそうなること。「当然とうぜん」は納得なっとくの話はなし、「必然ひつぜん」は因果いんがの話はなし。

用法ようほう

「歴史れきしの必然ひつぜん」のように、後あとから振ふり返かえって因果いんがを見み出だす用法ようほうが評ひょう論文ろんぶんに多おおい。これは〈そうなるしかなかった〉という事後じごの解釈かいしゃくであり、予測よそくではない。原げん書しょの入試にゅうし文ぶんは、人間にんげんの理解りかいを超こえた出来事できごとを古代人こだいじんが「神意しんい」「因縁いんねん」「運命うんめい」として別種べっしゅの必然ひつぜんと見みなした、という構図こうずを扱あつかう。つまり必然ひつぜんと偶然ぐうぜんの線せんは、人間にんげんが因果いんがを見み通とおせるかどうかで動うごく。この可か動どう性せいが評ひょう論ろんの焦点しょうてんになる。

用例ようれい
  • 祇園ぎおん精舎しょうじゃの鐘かねの声こえ、諸行無常しょぎょうむじょうの響ひびきあり。娑羅さら双樹そうじゅの花はなの色いろ、盛者必衰じょうしゃひっすいの理りをあらはす。おごれる人ひとも久ひさしからず、ただ春はるの夜よるの夢ゆめのごとし。『平家へいけ物語ものがたり』巻かん第一だいいち・祇園ぎおん精舎しょうじゃ(13世紀じゅうさんせいき前半ぜんはん)
    「理ことわり(ことわり)」は、そうなるほかない筋道すじみち — つまり必然ひつぜんである。注目ちゅうもくしたいのは、作者さくしゃが「盛者じょうしゃは必かならず衰おとろえる」で終おわらせず、「おごれる人ひとも久ひさしからず」と因果いんがの中身なかみまで書かき添そえた点てんである。驕おごりが滅ほろびを呼よぶ、という機構きこうが示しめされてはじめて、衰退すいたいは運命うんめいではなく必然ひつぜんになる。そしてこの一文いちぶんは、平家へいけが滅ほろんだあとに書かかれている。必然ひつぜんは多おおくの場合ばあい、事後じごに見出みいだされる — 「歴史れきしの必然ひつぜん」という言いい回まわしが評ひょう論文ろんぶんで警戒けいかいされる理由りゆうがここにある。
  • 四季しきは、なほ、定ていまれるついであり。死期しきは序じょを待またず。吉田兼好よしだけんこう『徒然草つれづれぐさ』第だい百五十ひゃくごじゅう五ご段だん(1330頃ころ)
    春夏はるなつ秋あき冬ふゆには決きまった順序じゅんじょがある、しかし死しはその順番じゅんばんを待まってくれない、という一節いっせつ。ここで兼好けんこうは必然ひつぜんと偶然ぐうぜんを一行いちぎょうのうちで対比たいひしている。人ひとが死しぬこと自体じたいは避さけようがない(必然ひつぜん)。だがいつ来くるかは因果いんがをたどれない(偶然ぐうぜん)。「必かならずそうなる」と「いつそうなるか」を分わけて考かんがえられるかどうかが、この二に語ごを使つかい分わける鍵かぎで、兼好けんこうは前者ぜんしゃを「定ていまれる」、後者こうしゃを「序じょを待またず」と別べつの言葉ことばで書かき分わけている。
  • 産業さんぎょう構造こうぞうの変化へんかを見みれば、この衰退すいたいは必然的ひつぜんてきな帰結きけつである。 「必然的ひつぜんてきな帰結きけつ」と書かいた以上いじょう、筆者ひっしゃはその結論けつろんへ至いたる因果いんがの連鎖れんさを示しめす義務ぎむを負おう。示しめさずにこの語ごだけを置おくと、断定だんていの響ひびきを借かりただけの空そら語ごになる。逆ぎゃくに読解どっかいの側がわから言いえば、この語ごを見みつけたら「その因果いんがはどこに書かかれているか」を探さがすのが正ただしい手順てじゅんである。
  • △約束やくそくを破やぶったのだから責せめられるのは必然ひつぜんだ。 責せめられるのは規範きはんがそう定さだめているからであって、物事ものごとの因果いんががそう動うごくからではない。ここは「当然とうぜん」が正ただしい。必然ひつぜんは因果いんがの記述きじゅつ、当然とうぜんは納得なっとくや規範きはんの表明ひょうめい — この二に語ごのすり替かえは入試にゅうしの選択肢せんたくしが最もっとも好このむ罠わなである。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

反はん 8 偶然ぐうぜん / 関せき 蓋然がいぜん

派生はせい形けい
  • 必然的ひつぜんてき[0]「的てき」は名詞めいしを形容けいようの位置いちへ動うごかすはたらきをする。ここでは「必然ひつぜんという性質せいしつを帯おびた」という一段いちだんの緩ゆるみが生しょうじ、「必然ひつぜんである」と言いい切きるより主張しゅちょうが柔やわらかくなる。書かき手てが断定だんていを避さけたいときに選えらばれる。
  • 必然性ひつぜんせい[0]「性せい」は性質せいしつを名詞めいしとして取とり出だす。これによって「ある/ない」だけでなく「高たかい/低ひくい」と程度ていどで論ろんじられるようになる。必然ひつぜんそのものは程度ていどを持もたないので、これは接尾せつび辞じが語ごの論理ろんりを変かえている例れいである。
  • 蓋然がいぜん[0]派生はせい形けいではなく、必然ひつぜんと偶然ぐうぜんのあいだを埋うめる第だい三さんの語ご。起おこる確たしからしさを度合どあいで言いえるときに使つかう。必然ひつぜん(100 パーセント)と偶然ぐうぜん(度合どあいすら言いえない)の間あいだにこの語ごを置おけると、三さん語ごの関係かんけいが一本いっぽんの線せんの上うえに並ならぶ。
コロケーション
  • 歴史れきしの必然ひつぜん事後じごの解釈かいしゃく起おきたことを、起おきるほかなかったこととして語かたり直なおす言いい方かたである。予測よそくに使つかわれることはほとんど無なく、ほぼ必かならず過去かこを向むいて使つかわれる。ここに危あやうさがある — 実際じっさいに起おきた一ひとつの筋道すじみちだけを見みて、ありえた別べつの筋道すじみちをまとめて視野しやから外はずしてしまうからだ。評ひょう論文ろんぶんがこの語ごを引ひくときは、その視野しやの狭きょうさを突つくために引ひいていることが多おおい。
  • 必然性ひつぜんせいを欠かく否定ひてい形けいの重おもみ「必然性ひつぜんせいがない」と言いえば単たんなる否定ひていだが、「欠かく」を使つかうとあるべきものが足たりていないという評価ひょうかになる。批評ひひょうで「この場面ばめんには必然性ひつぜんせいが欠かけている」と書かけば、それは作品さくひんの欠陥けっかんを指摘してきしたことになる。物語ものがたり論ろんにおいて必然性ひつぜんせいが価値かち語ごとして働はたらくのは、この動詞どうしの選択せんたくによるところが大おおきい。
  • 偶然ぐうぜんと必然ひつぜん対たいの提示ていじ評ひょう論文ろんぶんでこの二に語ごが並ならんだら、筆者ひっしゃはほぼ確実かくじつに「その境目さかいめは動うごく」という主張しゅちょうへ向むかっている。因果いんがが見み通つうせれば必然ひつぜん、見み通つうせなければ偶然ぐうぜん — つまり境目さかいめは世界せかいの側がわではなく人間にんげんの認識にんしきの側がわにある。原げん書しょの入試にゅうし文ぶんが、古代人こだいじんの言いう「神意しんい」「因縁いんねん」を別種べっしゅの必然ひつぜんとして扱あつかうのも、この可か動どう性せいを示しめすためである。
  • 必然的ひつぜんてきに導みちびかれる論理ろんりの接続せつぞく数学すうがくや論理学ろんりがくから来きた言いい方かたで、前提ぜんていが真しんなら結論けつろんも必かならず真しんであるという関係かんけいを指さす。日常にちじょう語ごの必然ひつぜんより射程しゃていが狭せまく、厳密げんみつである。この形かたちが現あらわれたら、筆者ひっしゃは因果いんがではなく推論すいろんの話はなしをしている可能性かのうせいが高たかい。「原因げんいんがあるから起おきる」と「前提ぜんていがあるから言いえる」の混同こんどうに注意ちゅういしたい。
格かく硬かた

書かき言葉ことば。会話かいわでは不自然ふしぜん。

類るい語ごと差さ
  • 当然とうぜんそうあるべきだと認みとめられる話者わしゃの納得なっとくや規範きはんを含ふくむ。「当然とうぜんだ」は評価ひょうか。「必然ひつぜんだ」は因果いんがの記述きじゅつ。この差さが設問せつもんになる。
  • 蓋然がいぜん確たしからしさの度合どあい必然ひつぜんと偶然ぐうぜんの間あいだを埋うめる語ご。「雨あめになる蓋然性がいぜんせいが高たかい」のように確率かくりつで言いえる場合ばあいに使つかう。
  • 宿命しゅくめい避さけられない定さだめ人ひとの生せいに限かぎって使つかい、情緒じょうちょを伴ともなう。因果いんがの説明せつめいはしない。
  • 不可避ふかひ避さけようがない結果けっかの側がわだけを言いう。原因げんいんを問とわない。必然ひつぜんは原因げんいんがあることを含意がんいする。

ENnecessity
ZH必然(必然, bìrán)

8★★★

偶然ぐうぜん

ぐうぜん[0]平板へいばん型がた

語ご構成こうせい
偶ぐうたまたま・思おもいがけず+然さそうである
定義ていぎ

因果いんが関係かんけいがわからず、予測よそくできないことが起おこること。思おもいがけないこと。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑8
使用しようの境界きょうかい

因果いんが関係かんけいが分わからず予測よそくできないこと。確率かくりつが低ひくいこととは違ちがう。確率かくりつが言いえるなら蓋然がいぜんの話はなしになる。

用法ようほう

日常にちじょう語ごとしても評ひょう論語ろんごとしても使つかえるが、評ひょう論ろんでは〈因果いんがが見みえない〉という認識論にんしきろんの話はなしになる。原げん書しょの入試にゅうし文ぶんは、くじ引ひきに人間にんげんの理解りかいを超こえた合理性ごうりせいを感かんじ取とる感覚かんかくを扱あつかっており、偶然ぐうぜんと必然ひつぜんの境界きょうかいが人間にんげんの認識にんしき能力のうりょくに依存いぞんすることを示しめす。「偶然ぐうぜん性せい」は哲学てつがくで、そうでなくてもよかったという様態ようたいを指さす。「偶然ぐうぜんにも」は幸運こううんに近ちかい含ふくみを持もつが、「偶然ぐうぜんに」は中立ちゅうりつ。

用例ようれい
  • 今日きょうはその事ことをなさんと思おもへど、あらぬ急きゅうぎまづ出でで来きて紛まぎれ暮くらし、待まつ人ひとは障さわりありて、頼たのめぬ人ひとは来きたり。……かねてのあらまし、皆みな違いひゆくかと思おもふに、おのづから違いはぬ事こともあれば、いよいよ物ものは定さだめがたし。吉田兼好よしだけんこう『徒然草つれづれぐさ』第だい百ひゃく八十はちじゅう九きゅう段だん(1330頃ころ)
    予定よていはことごとく外はずれる、しかしたまに外はずれないこともある、だからいよいよ見通みとおしが立たたない — という運はこびが見事みごとである。すべて外はずれるなら、それは「必かならず外はずれる」という一ひとつの法則ほうそくになってしまう。ときどき当あたるからこそ因果いんががつかめない。兼好けんこうはここを正確せいかくに踏ふんでいる。なお兼好けんこうは「偶然ぐうぜん」とは書かかず「定さだめがたし」と書かいた。偶然ぐうぜんは因果いんがが見みえないことを言いう漢語かんごであり、「定さだめがたし」はこちらが定さだめられないことを言いう和わ語ごである。同おなじ事態じたいを、世界せかいの側がわから言いうか人ひとの側がわから言いうかの違ちがいがここにある。
  • 運命うんめいは偶然ぐうぜんよりも必然ひつぜんである。芥川あくたがわ龍之介りゅうのすけ『侏儒しゅじゅの言葉ことば』(1923–27)
    わずか一行いちぎょうだが、三みっつの語ごの関係かんけいを組くみ替かえてしまう一文いちぶんである。運命うんめいといえばふつう「思おもいがけず降おりかかるもの」、つまり偶然ぐうぜんの側がわに置おかれる。芥川あくたがわはそれを必然ひつぜんの側がわへ引ひき寄よせた。続つづく「『運命うんめいは性格せいかくの中なかにある』」という句くがその根拠こんきょで、外そとから降ふってくるように見みえる出来事できごとは、じつはその人ひとの性格せいかくという原因げんいんから出でているという見立みたてである。偶然ぐうぜんと必然ひつぜんの境目さかいめが、世界せかいの側がわではなく「原因げんいんをどこまで見み通とおせるか」で動うごくことを、これほど短みじかく示しめした例れいは少すくない。
  • 二ふたつの事件じけんの類似るいじは偶然ぐうぜんの一致いっちにすぎない。 「にすぎない」と結むすぶことで、因果いんが関係かんけいの存在そんざいを明確めいかくに否定ひていしている。「必然性ひつぜんせいはない」と言いい換かえても内容ないようは変かわらない。評ひょう論文ろんぶんでは、安易あんいに因果いんがを読よみ取とりろうとする通説つうせつを退しりぞけるときにこの形かたちが使つかわれる。
  • ×さいころで六ろくが出でるのは偶然ぐうぜんである。 さいころの目めは六分ろっぷんの一いちという確率かくりつが言いえる。確率かくりつが言いえるということは、因果いんがの構造こうぞうがすでに分わかっているということで、これは偶然ぐうぜんではなく蓋然がいぜんの話はなしである。「六ろくが出でるかどうかは偶然ぐうぜんに左右さゆうされる」なら通とおる。偶然ぐうぜんは、確率かくりつが低ひくいことではなく、確率かくりつすら見み積せきもれないことだと押おさえたい。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

反はん 7 必然ひつぜん / 関せき 蓋然がいぜん

派生はせい形けい
  • 偶然的ぐうぜんてき[0]「偶然ぐうぜんの」で足たりる場面ばめんが多おおく、あえて「的てき」を使つかうのは必然的ひつぜんてき・蓋然的がいぜんてきと並ならべて対照たいしょうさせたいときである。三さん語ごを「的てき」でそろえると、文ぶんの上うえで同おなじ資格しかくの語ごとして扱あつかえるようになる。
  • 偶然性ぐうぜんせい[0]性質せいしつを取とり出だす形かたち。「偶然ぐうぜんが起おきた」ではなく「偶然ぐうぜん性せいを帯おびている」と言いえるようになるのが要点ようてんで、出来事できごとではなく世界せかいのあり方かたそのものを論ろんじる位置いちへ語ごを引ひき上あげる。
  • 偶発ぐうはつ[0]「発はつ」が付ついて出来事できごとが起おきる瞬間しゅんかんに焦点しょうてんが移うつる。「偶ぐう発はつ的てきな事故じこ」とは言いうが「偶ぐう発はつ的てきな存在そんざい」とは言いわない。偶然ぐうぜんが状態じょうたいや様態ようたいにも及およぶのに対たいし、偶ぐう発はつは事件じけんにしか使つかえない点てんで射程しゃていが狭せまい。
コロケーション
  • 偶然ぐうぜんの一致いっち因果いんがの否定ひていもっとも頻度ひんどの高たかい形かたちで、「似にているが、つながってはいない」と言いうためにある。人間にんげんの認識にんしきは似にたものを見みるとすぐ原因げんいんを探さがしにいくので、この結むすびつきはその働はたらきに待まったをかける装置そうちとして機能きのうする。科学かがくの文章ぶんしょうでも批評ひひょうでも、この一句いっくのあとには必かならず「本当ほんとうにそうか」の検討けんとうが続つづく。
  • 偶然ぐうぜんに頼たよる主体しゅたいの放棄ほうき「頼たよる」は本来ほんらい、あてになるものに向むける動詞どうしである。偶然ぐうぜんはあてにならないものの代表だいひょうなので、この結むすびつきには語ごの内側うちがわに矛盾むじゅんが畳たたみ込こまれている。そこから自然しぜんに非難ひなんの色いろが生しょうじ、「計画けいかく性せいがない」という評価ひょうかがこの一語いちごで伝つたわる。同おなじ事態じたいを肯定的こうていてきに言いうなら「偶然ぐうぜんに開ひらかれている」となる。
  • まったくの偶然ぐうぜん程度ていどの強調きょうちょう偶然ぐうぜんは本来ほんらいゼロか一いちかで、程度ていどを持もたない。それでも「まったくの」を付つけるのは、読者どくしゃが心こころのどこかで因果いんがを疑うたがっているからである。つまりこの強調きょうちょうは語ごの意味いみを強つよめているのではなく、読者どくしゃの側がわの疑うたがいを打うち消けしている。強調きょうちょう表現ひょうげんの多おおくはこのように、語ごではなく読よみ手てに向むけられている。
  • 偶然ぐうぜん性せい哲学てつがくの術語じゅつご「そうでなくてもよかった」という様態ようたいを指さす哲学てつがく用語ようごで、出来事できごとが起おきたか否いなかではなく、その出来事できごとが必かならずしもそうである必要ひつようはなかったことを言いう。九鬼くき周造しゅうぞう以降いこう、日本にほんの思想しそう文ぶんでこの語ごは「私わたしがこの私わたしであることに理由りゆうはない」という問といと結むすびついてきた。日常にちじょう語ごの「偶然ぐうぜん」より一段いちだん深ふかいところで使つかわれる。
格かく中なか

書かき言葉ことば・会話かいわの両方りょうほうで使つかえる。

類るい語ごと差さ
  • 蓋然がいぜん起おこる確たしからしさを度合どあいで言いう確率かくりつが計算けいさんできる場合ばあいに使つかう。「サイコロで5が出でる」は蓋然がいぜんの話はなし。偶然ぐうぜんは確率かくりつすら言いえない場合ばあい。
  • 僥倖ぎょうこう思おもいがけない幸運こううん結果けっかが良よい場合ばあいに限かぎる。価値かち中立ちゅうりつではない。
  • 恣意しい根拠こんきょなく決きめる決きめる側がわに主体しゅたいがある。偶然ぐうぜんには主体しゅたいがない。この差さは重要じゅうようで、制度せいど批判ひはんでは「恣意的しいてき」を使つかう。
  • たまたま偶然ぐうぜんに口語こうご。評ひょう論文ろんぶんでは使つかわない。同おなじ内容ないようを書かくなら「偶然ぐうぜんにも」「偶然ぐうぜんにして」。

ENcontingency / chance
ZH偶然(偶然, ǒurán)

解説かいせつ ── 必然ひつぜん・偶然ぐうぜん

必然性ひつぜんせい・現実げんじつ性せい(=現げんにそうであること)・可能性かのうせい(=あり得えること)・偶然ぐうぜん性せいというように、何なにかが起おこる確たしからしさの度合どあいを表現ひょうげんする語ごはいろいろある。「陽ひが当あたれば気温きおんが上あがる」というのは必然ひつぜんだが、「サイコロを振ふって5が出でる」のは偶然ぐうぜんでしかない。ただし、5が出でるのは六分ろっぷんの一いちという確率かくりつで起おこることまではわかる。また、必然ひつぜんと偶然ぐうぜんの間あいだで起おこることの確たしからしさを表あらわす蓋然がいぜんという語ごもある。「明日あす、雨あめになる確率かくりつが70%という場合ばあいは、「雨あめになる蓋然性がいぜんせいが高たかい」と言いう。

たとえば ── 必然ひつぜん・偶然ぐうぜん

我々われわれの世界せかいで起おきる出来事できごとの多おおくは、必然ひつぜんと偶然ぐうぜんがからみ合あっている。男女だんじょの愛情あいじょう過程かていによって人間にんげんが誕生たんじょうするという fact は、ごくありふれた必然的ひつぜんてき法則ほうそくに属ぞくする。しかし、どの男性だんせいとどの女性じょせいが巡めぐり合あうかということは、運命うんめい的てき巡めぐり合あいであり、偶然ぐうぜんに属ぞくする。

対立たいりつの軸じく

必然ひつぜん/偶然ぐうぜん の軸じく = 因果いんがが見みえるか

必然ひつぜん法則ほうそく性せい・因果いんが性せいによってそうなる。
因果いんがが見みえるか
偶然ぐうぜん因果いんがが分わからず、予測よそくできない。
入試にゅうし文ぶん

「くじ引ひき」つまり「人々ひとびとの権利けんりや義務ぎむについて優先度ゆうせんどが判定はんていできないような場合ばあいには、8偶然ぐうぜん的てきなメカニズムによって決定けっていする」ということは、多おおくの社会しゃかいにおいて(場合ばあいによっては暗黙あんもくの)ルールとなっているように思おもわれる。
しかしなぜこのようなルールが存在そんざいしているかということを考かんがえると、そこには人々ひとびとが理解りかいできない、でたらめと思おもわれる95現象げんしょうの中なかには、人間にんげんの理解りかいを超こえた12合理性ごうりせい(つまり「神意しんい」)が存在そんざいしているという感覚かんかくが残のこされているように思おもわれる。
古代こだいの人々ひとびとは、宇宙うちゅうに5秩序ちつじょが存在そんざいすることを発見はっけんし、したがって、7必然ひつぜん性せいがものごとを支配しはいすることを認みとめたが、同時どうじに人間にんげんが理解りかいできないことも起おこることは認みとめざるを得とくなかった。しかしそれを些細ささいな乱みだれとして無視むししてしまうことができない場合ばあいは、それを何なにか不可解ふかかいな「必然性ひつぜんせい」の表あらわれとして、「神意しんい」「因縁いんねん」「運命うんめい」などと解釈かいしゃくしたのであった。
それはある意味いみでは偶然ぐうぜんを別種べっしゅの「必然ひつぜん」と見みなすものであり、「偶然ぐうぜん」の存在そんざいを否定ひていするものであった。

出典しゅってん 竹内たけうち啓けい『偶然ぐうぜんとは何なにか─その積極的せっきょくてき意味いみ』 / 出題しゅつだい 金沢大学かなざわだいがく / 原げん書しょ p.22

読解どっかいのポイント
  • くじ引ひき = 人間にんげんの理解りかいを超こえた合理性ごうりせいが存在そんざいしているという感覚かんかく
  • 古代こだいの人々ひとびと → 人間にんげんが理解りかいできないことも起おこることを認みとめた(「神意しんい」「天てん縁えん」「運命うんめい」) → 偶然ぐうぜんを別種べっしゅの「必然ひつぜん」と見みなした
要約ようやく

くじ引ひきには、人間にんげんの理解りかいを超こえた合理性ごうりせいが存在そんざいしているという感覚かんかくがある。古代こだいの人々ひとびとは偶然ぐうぜんを別種べっしゅの「必然ひつぜん」と見みなし、偶然ぐうぜんの存在そんざいを否定ひていした。

語ご法ほうの観察かんさつ

「〜ように思おもわれる」が一般いっぱんの感覚かんかくを代だい弁べんする形かたちで置おかれ、筆者ひっしゃ自身じしんの判断はんだんとは区別くべつされている。

必然・蓋然・偶然を因果の見通しやすさで並べた図因果が完全に見通せる側を必然、確率が言える範囲を蓋然、因果がたどれない側を偶然とし、境界が人間の認識の広がりで動くことを示す。 境目は世界の側ではなく、人の認識の側にある因果がどこまで見通せるかで、線は左右に動くCAUSE VISIBLECAUSE HIDDEN必然蓋然偶然そうなるほかない確からしさが言える因果がたどれない78因果が見えるほど必然が広がり、見えないほど偶然が広がる古代の人が「神意」と呼んだのは、この線の外側だった
因果いんがの見通みとおしやすさで動うごく境界きょうかい
Section 05

対象たいしょう

9★★★

対象たいしょう⚠

たいしょう[0]平板へいばん型がた

語ご構成こうせい
対たいむかいあう+象ぞうかたち・すがた

「象ぞう」がつく熟語じゅくごには印象いんしょう・抽象ちゅうしょう・現象げんしょう・表象ひょうしょうがある。「象ぞう」は〈かたち・ありさま〉を表あらわす。

定義ていぎ

意識いしきや意志いしの作用さようが向むけられるもの。行為こういの目標もくひょうとなるもの。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑9
原げん書しょの解説かいせつ

たとえば、庭にわに咲さいている花はなの性質せいしつや特徴とくちょうをよく理解りかいしようとするなら、その花はなを切きり取とり、目めの前まえに据すえなければならない。この時とき花はなは、理解りかいしようとする我々われわれと向むかい合あうことになる。このように、我々われわれと向むかい合あって我々われわれの意識いしきが向むけられるものが、対象たいしょうの本来ほんらいの意味いみで、この時ときの花はなは観察かんさつしたり研究けんきゅうしたりするためのものである。そのため、ただぼんやり眺ながめているだけの花はなは、厳密げんみつには対象たいしょうとは言いえない。

なお、評ひょう論ろんの文章ぶんしょうでは対象たいしょう化かという言葉ことばもよく登場とうじょうし、「自然しぜんを対象たいしょう化かする」などと使つかう。花はなに見み入はいり、美うつくしさと感動かんどうして眺ながめている状態じょうたいは、花はなについての客観的きゃっかんてきな観察かんさつや理解りかいという過程かていが含ふくまれないため、「対象たいしょう化か」とは言いえない。花はなの種類しゅるい・性質せいしつについて主観しゅかんを交こうえずに調しらべ、分析ぶんせきすることが必要ひつようとなる。

コラム

「象ぞう」がつく熟語じゅくごには、対象たいしょうの他ほかに「印象いんしょう」「抽象ちゅうしょう」「現象げんしょう」「表象ひょうしょう」などがある。「象ぞう」は「像ぞう」と同おなじく〈かたち・ありさま〉という意味いみで〈形態けいたい〉のイメージに近ちかい。対象たいしょうは〈自分じぶんと向むかい合あった形態けいたい〉、印象いんしょうは〈感覚かんかくに強つよく印しるしづけられた形態けいたい〉といった解釈かいしゃくができるだろう。

使用しようの境界きょうかい

意識いしきや意志いしの作用さようが向むけられるもの。ぼんやり眺ながめているだけでは対象たいしょうにならない。観察かんさつ・理解りかいの過程かていが要いる。

用法ようほう

同音どうおんの「対称たいしょう」「対照たいしょう」との書かき分わけが問とわれる。「対象たいしょう化かする」は評ひょう論文ろんぶんの重要じゅうよう動詞どうしで、〈それまで一体いったいだったものを切きり離はなして観察かんさつの側がわに置おく〉ことを指さす。庭にわの花はなを眺ながめているだけなら対象たいしょうではなく、性質せいしつを調しらべようと切きり取とった時ときに対象たいしょうになる、という原げん書しょの説明せつめいがそのまま用法ようほうである。「自然しぜんを対象たいしょう化かする」は近代きんだい批判ひはんの定型ていけい句くで、人間にんげんが世界せかいの支配しはい者しゃとして立たつ構図こうずを含意がんいする。

用例ようれい
  • ここに茶ちゃわんが一ひとつあります。中なかには熱あつい湯ゆがいっぱいはいっております。ただそれだけではなんの面白味おもしろみもない話はなしですが、よく気きをつけて見みていると、だんだんにいろいろの微細びさいな現象げんしょうが目めにつき、さまざまの疑問ぎもんが起おこって来くるはずです。寺田てらだ寅彦とらひこ『茶碗ちゃわんの湯ゆ』(1922)
    「ここに茶ちゃわんが一ひとつあります」— この一文いちぶんが対象たいしょう化かの全ぜん過程かていを含ふくんでいる。茶碗ちゃわんの湯ゆは、それまで手てに取とって飲のむものだった。それを目めの前まえに据すえ、飲のむのをやめて眺ながめた瞬間しゅんかんに、茶碗ちゃわんは生活せいかつの道具どうぐから観察かんさつの対象たいしょうへ移うつる。原げん書しょが「庭にわの花はなを切きり取とって目めの前まえに据すえる」と説明せつめいしたのと同おなじ操作そうさが、ここでは湯気ゆげを立たてる茶碗ちゃわんで行おこなわれている。さらに寺田てらだは「よく気きをつけて見みていると」と条件じょうけんを置おいた。ぼんやり眺ながめているだけでは対象たいしょうにならないという境界きょうかいが、この一句いっくで正確せいかくに引ひかれている。
  • 「松まつの事ことは松まつに習ならへ、竹たけの事ことは竹たけに習ならへ」と師しの詞しのありしも、私意しいをはなれよといふ事ことなり。服部はっとり土芳どほう『三さん冊子さっし』(1702・芭蕉ばしょうの教おしえを記しるす)
    こちらは対象たいしょう化かしない見方みかたの側がわからの言葉ことばである。松まつを観察かんさつの台だいに載のせて分析ぶんせきするのではなく、松まつの側がわに入はいって松まつに教きょうわれ、という。「私意しいをはなれよ」— 見みる主体しゅたいを消けせ、というのだから、主体しゅたいと客体きゃくたいを向むかい合あわせる対象たいしょう化かとは正反対せいはんたいを向むいている。この二ふたつの引用いんようを並ならべると、「自然しぜんを対象たいしょう化かする」という評ひょう論ろんの定型ていけい句くが何なにを批判ひはんしているのかが見みえてくる。批判ひはんされているのは観察かんさつそのものではなく、観察かんさつのために世界せかいの外側そとがわへ立たつという構かまえのほうである。
  • 近代きんだい科学かがくは自然しぜんを対象たいしょう化かすることで、それを操作そうさ可能かのうなものに変かえた。 「対象たいしょう化かする」と「操作そうさ可能かのうにする」が一続ひとつづきの動作どうさとして書かかれている点てんが重要じゅうようである。切きり離はなして向むかい合あわせることは、そのまま相手あいてを扱あつかえるものへ変かえることでもある。近代きんだい批判ひはんの文章ぶんしょうがこの語ごを鍵かぎにするのは、この一歩いっぽの含ふくみを一語いちごで示しめせるからだ。
  • ×この図ず形けいは左右さゆうが対象たいしょうになっている。 この場合ばあいは「対称たいしょう」。同音どうおんの三さん語ご — 対象たいしょう(向むかい合あうもの)・対称たいしょう(釣つり合あい)・対照たいしょう(引ひき比くらべ) — は書かき分わけが直接ちょくせつ問とわれる。「象ぞう」はかたち、「称しょう」ははかり、「照しょう」はてらす、と字じの意味いみから辿たどると取とり違ちがえにくい。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

関せき 89/90

派生はせい形けい
  • 対象的たいしょうてき[0]同音どうおんの「対称的たいしょうてき」「対照的たいしょうてき」と衝突しょうとつするため、実際じっさいにはほとんど使つかわれない。書かき手てはふつう「対象たいしょうとしての」「対象たいしょうの側がわの」と言いい換かえて衝突しょうとつを避さける。使つかわれない派生はせい形けいがあること自体じたいが、同音どうおん語ごの圧力あつりょくを示しめしている。
  • 対象化たいしょうか[0]評ひょう論文ろんぶんにおける最重要さいじゅうようの動詞どうし形けい。「化か」が付つくことで状態じょうたいではなく操作そうさになり、「誰だれが」「何なにを」対象たいしょう化かしたのかを問とえるようになる。対象たいしょうという名詞めいしを覚おぼえても、この動詞どうし形けいが読よめなければ評ひょう論文ろんぶんには届とどかない。
  • 対象化されるたいしょうかされる受うけ身みにすると、対象たいしょう化かする側がわが文ぶんから消きえる。「女性じょせいが対象たいしょう化かされる」という言いい方かたが批判ひはんの語ごとして力ちからを持もつのは、まさに見みる主体しゅたいが姿すがたを隠かくしたまま相手あいてだけを客体きゃくたいの位置いちに置おく構図こうずを、文ぶんの形かたちそのものが写うつしとっているからである。
コロケーション
  • 自然しぜんを対象たいしょう化かする近代きんだい批判ひはんの定型ていけい評ひょう論文ろんぶんでもっともよく現あらわれる形かたちで、人間にんげんが自然しぜんの一部いちぶであることをやめ、外そとに立たって自然しぜんを眺ながめる位置いちに移うつったという歴史的れきしてき転換てんかんを指さす。「自然しぜんを研究けんきゅうする」では、この位置いちの移動いどうが出でない。対象たいしょう化かという語ごが担になっているのは知識ちしきの量りょうではなく立たち位置いちの変化へんかであり、そこに批判ひはんが乗のせられる。
  • 研究けんきゅうの対象たいしょう限定げんていの枠わく「〜の対象たいしょう」という形かたちは、対象たいしょうであることが一時的いちじてきで、限定げんていされた資格しかくであることを示しめす。同おなじ花はなが、研究けんきゅうの対象たいしょうにも鑑賞かんしょうの対象たいしょうにもなりうる。つまり対象たいしょうとは物ものの種類しゅるいではなく、こちらの向むけ方ほうによって与あたえられる役割やくわりである。この一句いっくはその可変かへん性せいを、「の」一ひとつで表あらわしている。
  • 対象たいしょうとする範囲はんいの宣言せんげん論文ろんぶんや制度せいどの文ぶんで「本稿ほんこうは〜を対象たいしょうとする」と書かくとき、そこで行おこなわれているのは扱あつかう範囲はんいの切きり出だしである。切きり出だすとは、同時どうじに切きり捨すてることでもある。「何なにを対象たいしょうとするか」を読よむときは、常つねに「何なにが外そとに置おかれたか」を裏返うらがえして読よむと、論ろんの枠組わくぐみが見みえてくる。
  • 対象たいしょう化かされない領域りょういき批判ひはんの余白よはく否定ひてい形けいで使つかうことで、観察かんさつの枠わくに載のらないものを名指なざす。身体しんたいの感覚かんかく、なじんだ道具どうぐ、母語ぼご — ふだんそれと意識いしきせず使つかっているものは対象たいしょう化かされていない。対象たいしょう化かした瞬間しゅんかんにその自然しぜんさが失うしなわれるので、この語ごは「失うしなわれたもの」を語かたる文脈ぶんみゃくで否定ひてい形けいをとることが多おおい。
格かく硬かた

書かき言葉ことば。会話かいわでは不自然ふしぜん。

類るい語ごと差さ
  • 客体きゃくたい主体しゅたいに対たいして立たつもの主体しゅたいとの関係かんけいを明示めいじする哲学てつがく語ご。対象たいしょうは日常にちじょう語ごとしても使つかえるが、客体きゃくたいは学術がくじゅつ語ごのみ。
  • 客観きゃっかん主観しゅかんから独立どくりつした側面そくめん視点してんの性質せいしつを言いう。「客観的きゃっかんてきに見みる」は態度たいど。対象たいしょうはものそのもの。
  • 標的ひょうてき行為こういが狙ねらう先さき攻撃こうげき・達成たっせいの目標もくひょうに限かぎる。認識にんしきではなく行為こういの語ご。
  • 題材だいざい扱あつかう素材そざい作品さくひんや研究けんきゅうが取とり上あげる素材そざい。認識にんしきの向むかう先さきという含ふくみはない。

ENobject
ZH对象(相手・恋人, duìxiàng)

日中にっちゅうのズレ

中国語ちゅうごくごの 对象(duìxiàng)は「相手あいて」、とくに「恋人こいびと」の意いで日常的にちじょうてきに使つかう(找对象)。

日本語にほんごの「対象たいしょう」にこの用法ようほうはない。

対象化の過程眺めているだけの状態から、切り離して観察の側に置く対象化を経て対象となる過程を示した図。 ぼんやり眺める 主観が混じっている 切り離す 対象化する 観察・理解の過程が入る 対象 主観と向かい合う 花に見入り、美しいと感動する 花の種類・性質を調べ分析する 近代科学は自然を対象化した ── この構図が近代批判の起点になる
眺ながめることと、対象たいしょう化かすること
入試にゅうし文ぶん

西洋せいようの近代きんだい思想しそうは、93認識にんしきする「我われ」を中心ちゅうしんにおき(89主観しゅかん)、この我わが、9対象たいしょう(90客観きゃっかん)を捉とらえる、という主観しゅかん―客観きゃっかんの軸じくに添そって構成こうせいされた。この軸じくの意味いみは、主観しゅかんが対象たいしょうを支配しはいすることであって、その逆ぎゃくではない。「我われ」がその対象たいしょうを対象たいしょうとして成なり立たたせている、という考かんがえである。主観しゅかんが対象たいしょうを構成こうせいするとともに、「対象たいしょう」というあり方かたが、主観しゅかんの存在そんざいを聖せい化かする。そこで、主観しゅかん=人間にんげんは、対象たいしょう=世界せかいの支配しはい者しゃとなる。
しかし、近年きんねん、この人間にんげん中心ちゅうしん主義しゅぎに対たいする批判ひはんと反省はんせいの意識いしきはいよいよ強つよくなってきている。例たとえば、ドイツの哲学者てつがくしゃゲルノート・ベーメは、雰囲気ふんいきというあり方かたに注目ちゅうもくしている。より正確せいかくに言いうならば、もののあり方かたの根底こんてい、対象たいしょう的てきな側面そくめんよりも雰囲気ふんいき的てきな側面そくめんに注目ちゅうもくしている。意識いしきは対象たいしょうを支配しはいするが、雰囲気ふんいきにはわれわれの方ほうが包つつみまれる。

出典しゅってん 佐々木ささき健けん一いち『日本にほん的てき感かん性せい』 / 出題しゅつだい 中央ちゅうおう大学だいがく・文学ぶんがく部ぶ / 原げん書しょ p.24

読解どっかいのポイント
  • 西洋せいようの近代きんだい思想しそう=人間にんげん中心ちゅうしん主義しゅぎ
  • 人間にんげん中心ちゅうしん主義しゅぎに対たいする批判ひはんと反省はんせい
要約ようやく

西洋せいようの近代きんだい思想しそうでは、人間にんげんは対象たいしょう(=世界せかい)の支配しはい者しゃとなった。だが、人間にんげん中心ちゅうしん主義しゅぎへの批判ひはんと反省はんせいから、もののあり方かたの対象たいしょう的てきな側面そくめんよりも、雰囲気ふんいき的てきな側面そくめんが注目ちゅうもくされている。

語ご法ほうの観察かんさつ

「しかし、近年きんねん」で時代じだいの転換てんかんを示しめし、主観しゅかん/客観きゃっかんの対立たいりつを時間軸じかんじくの対立たいりつに置おき換かえている。

Section 06

権威けんい/権力けんりょく

10★★★

権威けんい

けんい[1]頭高あたまだか型がた

語ご構成こうせい
権けんちから・はたらき+威いおごそかさ・おそれさせる力ちから
定義ていぎ

人々ひとびとがそれに価値かちを認みとめて、自発的じはつてきに同意どういし服従ふくじゅうすることを促うながす力ちから。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑10
使用しようの境界きょうかい

相手あいてが価値かちを認みとめて自発的じはつてきに従したがう力ちから。強制きょうせいを伴ともなえば権力けんりょく。人ひとを指さして「この分野ぶんやの権威けんい」とも言いう。

用法ようほう

二ふたつの用法ようほうがある。①人々ひとびとが価値かちを認みとめて自発的じはつてきに従したがう力ちから(制度せいど・知識ちしき・伝統でんとうが持もつ)、②その分野ぶんやで最もっとも優すぐれている人ひと(「物理学ぶつりがくの権威けんい」)。評ひょう論文ろんぶんでは①が中心ちゅうしんで、権力けんりょくとの対比たいひで出でる。「権威けんいづける」「権威けんいを借かりる」は、自分じぶんの主張しゅちょうに外部がいぶの信頼しんらいを貼はり付つける行為こういを指さし、批判的ひはんてきに使つかわれる。「権威けんい的てき」は否定ひてい語ごで、上うえから押おしつける態度たいどを意味いみする。近代きんだいでは憲法けんぽうという権威けんいが国家こっか権力けんりょくに正統性せいとうせいを与あたえる、という構図こうずが定型ていけい。

用例ようれい
  • そもそも国政こくせいは、国民こくみんの厳粛げんしゅくな信しん託たくによるものであつて、その権威けんいは国民こくみんに由来ゆらいし、その権力けんりょくは国民こくみんの代表だいひょう者しゃがこれを行使こうしし、その福利ふくりは国民こくみんがこれを享受きょうじゅする。日本にほん国こく憲法けんぽう 前文ぜんぶん(1946)
    この一文いちぶんは、権威けんいと権力けんりょくを一ひとつの文ぶんの中なかで明確めいかくに切きり分わけている。権威けんいは「国民こくみんに由来ゆらいし」、権力けんりょくは「代表だいひょう者しゃがこれを行使こうしし」。つまり権威けんいは正統性せいとうせいの出でどころ、権力けんりょくは現げんに振ふるわれる力ちからであり、前者ぜんしゃがあるからこそ後者こうしゃが許ゆるされる、という順序じゅんじょで書かかれている。なぜこの語順ごじゅんなのかを考かんがえたい。権力けんりょくを先さきに置おけば、力ちからが先さきにあってあとから理由りゆうづけされた文ぶんになる。権威けんいを先さきに置おいたことで、力ちからは借かり物ものにすぎないという構図こうずが確定かくていする。評ひょう論文ろんぶんが「近代きんだい国家こっかでは憲法けんぽうという権威けんいが権力けんりょくに正統性せいとうせいを与あたえる」と書かくとき、下敷したじきにしているのはまさにこの一文いちぶんである。
  • 少すこしのことにも、先達せんだつはあらまほしきことなり。吉田兼好よしだけんこう『徒然草つれづれぐさ』第だい五十ごじゅう二に段だん(1330頃ころ)
    仁和寺にんなじの法師ほうしが念願ねんがんの石清水八幡宮いわしみずはちまんぐうへ参まいったが、麓ふもとの付属ふぞくの社しゃだけを拝おがんで「これで全部ぜんぶだ」と思おもい込こんで帰かえった、という話はなしの結むすびである。ここでいう「先達せんだつ」は、その道みちをすでに歩あるいた案内あんない者しゃ — 権威けんいの第だい二にの用法ようほう、すなわち「その分野ぶんやで最もっとも通つうじている人ひと」にあたる。注目ちゅうもくしたいのは、兼好けんこうが権威けんいを従したがうべきものとしてではなく、欠かけると取とり返かえしがつかないものとして書かいた点てんである。法師ほうしを止とめる力ちからは誰だれも振ふるっていない。ただ知しっている人ひとがそばにいなかっただけで、一生いっしょうに一度いちどの参詣さんけいが空振からぶりに終おわる。権威けんいが強制きょうせいを伴ともなわずに働はたらく力ちからであることが、この一段いちだんでよく分わかる。
  • 自説じせつを権威けんいづけるために、彼かれは古典こてんから引用いんようを重かさねた。 「権威けんいづける」は、自分じぶんの外そとにある信頼しんらいを自分じぶんの主張しゅちょうに貼はりつける行為こういを指さす。内容ないようそのものが強つよくなるわけではないので、この語ごが使つかわれるときはほぼ必かならず批判ひはんの色いろを帯おびる。「補強ほきょうする」なら中立ちゅうりつ、「権威けんいづける」なら「中身なかみではなく看板かんばんで押おしている」という含ふくみが加くわわる。
  • ×警察けいさつの権威けんいによって強制きょうせい的てきに排除はいじょされた。 強制きょうせいが伴ともなった時点じてんで、それは権威けんいではなく権力けんりょくである。権威けんいは相手あいてが価値かちを認みとめて自発的じはつてきに従したがうときにだけ働はたらく。ここは「警察けいさつの権力けんりょくによって」あるいは「公こう権力けんりょくによって」が正ただしい。「従じゅうわせたのか、従したがったのか」を問とえば、二に語ごはほとんどの場合ばあいすぐに分わかれる。
派生はせい形けい
  • 権威的けんいてき[0]「的てき」が付つくと実質じっしつから態度たいどへ重心じゅうしんが移うつる。そのため「権威けんいある研究けんきゅう」は褒ほめ言葉ことば、「権威けんい的てきな研究者けんきゅうしゃ」は批判ひはんになる。接尾せつび辞じひとつで評価ひょうかが反転はんてんするので、選択肢せんたくしの識別しきべつ点てんとして狙ねらわれやすい。
  • 権威づけるけんいづける名詞めいし+「づける」で他動詞たどうしをつくる形かたち。権威けんいを「与あたえられるもの」として扱あつかえるようになる点てんが重要じゅうようで、ここから「権威けんいは自然しぜんに備そなえわるのではなく、誰だれかが付与ふよするものだ」という見方みかたへ道みちが開ひらく。評ひょう論文ろんぶんの権威けんい批判ひはんはほぼこの線せんで進すすむ。
  • 権威主義けんいしゅぎ「主義しゅぎ」は、ある態度たいどを原理げんりの位置いちまで押おし上あげる。権威けんいに従したがうことそれ自体じたいを正ただしさの基準きじゅんにする立場たちばを指さし、政治せいじ体制たいせいを評ひょうするときは「権威けんい主義しゅぎ体制たいせい」と民みん主しゅ主義しゅぎの対たい義ぎとして使つかわれる。個人こじんの態度たいどから体制たいせいの名なまで一語いちごで届とどく、射程しゃていの広ひろい形かたちである。
コロケーション
  • 権威けんいを借かりる外部がいぶからの調達ちょうたつ「借かりる」は、自分じぶんの持もち物ものではないものに使つかう動詞どうしである。したがってこの結むすびつきは、語かたられている内容ないようそのものには力ちからが無ないことを、動詞どうしの側がわから告白こくはくしていることになる。「虎とらの威いを借かる狐きつね」の構図こうずがそのまま漢語かんごになった形かたちで、評ひょう論文ろんぶんで見みかけたら、直後ちょくごに「しかし」が来くると思おもってよい。
  • 権威けんいが失墜しっついする高たかさの比喩ひゆ「失墜しっつい」は高たかい所しょから落おちること。権威けんいが上下じょうげの位置いちとして想像そうぞうされていることがこの語ごに表あらわれている。興味深きょうみぶかいのは、権威けんいが失うしなわれるとき「消きえる」ではなく「落おちる」と言いう点てんである。権威けんいは同意どういによって支ささえられているので、同意どういが引ひかれた瞬間しゅんかんに、支ささえを失うしなって落おちる — この語ごはその瞬間しゅんかんの力学りきがくを写うつしている。
  • 権威けんい的てきな態度たいど否定ひていの形容けいよう「権威けんいある態度たいど」なら肯定こうていにも読よめるが、「権威けんい的てきな態度たいど」はほぼ必かならず否定ひていになる。「的てき」が付つくことで「権威けんいであること」から「権威けんいらしく振ふる舞まうこと」へ意味いみがずれるからである。実質じっしつがないのに形かたちだけ真似まねている、という含ふくみが生しょうじ、そこに批判ひはんが乗のる。同おなじ接尾せつび辞じが、語ごによって評価ひょうかの向むきを変かえる好例こうれいである。
  • その分野ぶんやの権威けんい人ひとを指さす用法ようほうここでの権威けんいは力ちからではなく人ひとである。力ちからを指さす用法ようほうと人ひとを指さす用法ようほうが同おなじ語ごに同居どうきょしているのは、その人ひとが「歩あるく権威けんい」として扱あつかわれているからで、知識ちしきが身体しんたいに宿やどったものとして語かたられている。英語えいごの authority にも同おなじ二に重じゅう性せいがあり、翻訳ほんやく語ごとしてこの語ごが定着ていちゃくした理由りゆうの一ひとつでもある。
格かく中なか

書かき言葉ことば・会話かいわの両方りょうほうで使つかえる。

類るい語ごと差さ
  • 権力けんりょく強制きょうせいして従じゅうわせる従したがう側がわの同意どういを必要ひつようとしない。権威けんいは同意どういを必要ひつようとする。この一点いってんで分わかれる。
  • 威い信しん信頼しんらいに支ささえられた威い対たい外的がいてきな評価ひょうかに重心じゅうしんがある。「国家こっかの威い信しん」。個人こじんの専門性せんもんせいには使つかわない。
  • 名声めいせい広ひろく知しられた評価ひょうか知しられていることが中心ちゅうしんで、従じゅうわせる力ちからは含ふくまない。
  • オーソリティ権威けんい外来語がいらいご。学術がくじゅつ・技術ぎじゅつの分野ぶんやで人ひとを指さす時ときに使つかう。制度せいど的てきな権威けんいには使つかいにくい。

ENauthority
ZH权威(権威, quánwēi)

11★★★

権力けんりょく

けんりょく[1]頭高あたまだか型がた

語ご構成こうせい
権けんちから・はたらき+力ちからちから
定義ていぎ

人々ひとびとを強制きょうせいし服従ふくじゅうさせる時ときに働はたらき、人々ひとびとの納得なっとくや承認しょうにんを必要ひつようとしない力ちから。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑11
使用しようの境界きょうかい

強制きょうせいして服従ふくじゅうさせる力ちから。納得なっとくや承認しょうにんを必要ひつようとしない。近代きんだい国家こっかでは憲法けんぽうという権威けんいが権力けんりょくの正統性せいとうせいを裏うらづける。

用法ようほう

評ひょう論文ろんぶんでは「権力けんりょく」がほぼ常つねに批判ひはんの対象たいしょうとして現あらわれる。「権力けんりょくの座ざ」「権力けんりょく構造こうぞう」「権力けんりょくに抗こうする」といった結むすびつきが多おおい。フーコー以降いこうは、国家こっかに集あつまるものだけでなく日常にちじょうのあらゆる関係かんけいに働はたらくものとして論ろんじられ、「まなざしの権力けんりょく」「知ちと権力けんりょく」のような表現ひょうげんが出でる。この場合ばあいの権力けんりょくは強制きょうせいではなく、人ひとを自みずから従したがうようにさせる仕組しくみを指さすので、原げん書しょの定義ていぎより広ひろい。読解どっかいでは、どちらの意味いみで使つかわれているかを文脈ぶんみゃくで判定はんていする。

用例ようれい
  • 力ちからを以もって人ひとを服ふくする者ものは、心服しんぷくに非ひざるなり、力ちから贍たらざればなり。徳とくを以もって人ひとを服ふくする者ものは、中心ちゅうしん悦よろこびて誠まことに服ふくするなり。『孟子もうし』公孫丑上こうそんちゅうじょう
    力ちからで従じゅうわせた場合ばあい、相手あいてが従したがっているのは力ちからが足たりないからにすぎない、と孟子もうしは言いう。この「力ちから贍たらざればなり」の一句いっくが鋭するどい。従したがっている姿すがたは同おなじでも、力ちからが尽つきた瞬間しゅんかんに服従ふくじゅうが消きえるかどうかで二ふたつは分わかれる。徳とくによる服従ふくじゅうは「中心ちゅうしん悦よろこびて」— 内側うちがわから同意どういしているので、強制きょうせいが止やんでも続つづく。これは権力けんりょくと権威けんいの違ちがいを、「支ささえを外はずしたときに何なにが残のこるか」という一点いってんで測はかる方法ほうほうを示しめしており、二に語ごの判別はんべつに迷まよったときの実際的じっさいてきな物差ものさしになる。
  • 太上だいじょうは下之有しもこれあるを知しるのみ。其その次つぎは親したしみて之これを誉ほまれむ。其その次つぎは之これを畏おそる。其その次つぎは之これを侮あなどる。『老子ろうし』第だい十七じゅうなな章しょう
    最上さいじょうの為ため政せい者しゃは、民みんが「いる」ことを知しっているだけ。次つぎは親したしんで褒ほめ、次つぎは畏いれ、次つぎは侮あなどる — と四よん段だんに落おとしていく。この序列じょれつで「畏おそる」が三さん番目ばんめに置おかれているのが重要じゅうようである。恐おそれられている状態じょうたいは、老子ろうしにとってすでに二に段だんの下落げらくなのだ。恐怖きょうふによって従じゅうわせる力ちから、すなわち権力けんりょくは、ここでは統治とうちの失敗しっぱいの徴候ちょうこうとして扱あつかわれている。評ひょう論文ろんぶんで権力けんりょくがほぼ常つねに批判ひはんの対象たいしょうとして現あらわれるのは、この種しゅの見方みかたが東西とうざいを問とわず古ふるくから積つみ重かさなっているためで、その語ご感かんは日本語にほんごの「権力けんりょく」にも染そめみついている。
  • 教室きょうしつでは、教師きょうしのまなざしそれ自体じたいが権力けんりょくとして働はたらいている。 フーコー以降いこうの用法ようほうで、誰だれも命令めいれいしていないのに人ひとが自みずから従したがう仕組しくみを権力けんりょくと呼よぶ。見みられているかもしれないと思おもうだけで振ふる舞まいが変かわる — その変化へんかを起おこす力ちからを指さしている。これは原げん書しょの定義ていぎ(強制きょうせいして服従ふくじゅうさせる力ちから)より広ひろい。読解どっかいでは、強制きょうせいの意いか仕組しくみの意いかを文脈ぶんみゃくで判定はんていする必要ひつようがある。
  • △彼かれの発言はつげんには権力けんりょくがある。 発言はつげんが人ひとの判断はんだんを動うごかすことは、強制きょうせいではない。ここは「影響力えいきょうりょくがある」が正ただしい。権力けんりょくは、従じゅうわない自由じゆうが実質的じっしつてきに無ないときに使つかう語ごである。影響力えいきょうりょく・権威けんい・権力けんりょくを、「断ことわれるか」「納得なっとくしているか」の二ふたつの問といで仕分しわけると混同こんどうしにくい。
派生はせい形けい
  • 権力的けんりょくてき[0]「権力けんりょくの」で足たりることが多おおく、あえて「的てき」を使つかうのは権力けんりょくそのものではなくその振ふる舞まい方ほうを評ひょうするときである。「権力けんりょく的てきな物もの言いい」は、実際じっさいの権力けんりょくを持もたない者ものにも使つかえる。
  • 権力者けんりょくしゃ「者もの」が付ついて力ちからが人格じんかくに宿やどる。ここで批判ひはんの矛ほこ先さきは仕組しくみから個人こじんへ戻もどるので、「権力けんりょく構造こうぞう」と同おなじ文脈ぶんみゃくで使つかうと論ろんの焦点しょうてんがぶれる。個人こじんを撃うつのか配置はいちを撃うつのかで、語ごを選えらび分わけたい。
  • 権力闘争けんりょくとうそう「闘争とうそう」が付つくと、権力けんりょくは奪うばい合あわれる有限ゆうげんの資源しげんとして扱あつかわれる。誰だれかが得えれば誰だれかが失うしなう、という前提ぜんていがここに入はいり込こむ。関係かんけいとしての権力けんりょく観かんでは権力けんりょくは総量そうりょうを持もたないので、この語ごはやはり古ふるい権力けんりょく観かんに属ぞくしている。
コロケーション
  • 権力けんりょくに抗こうする対抗たいこうの姿勢しせい「抗こうする」は、押おしてくるものに対たいして押おし返かえす動詞どうしである。つまりこの結むすびつきは、権力けんりょくが一方向いちほうこうに働はたらく圧力あつりょくとして想像そうぞうされていることを示しめしている。フーコー以降いこうの「網あみの目めのように張ばりめぐらされた権力けんりょく」観かんに立たてば、そもそも外そとに出でて押おし返かえす場所ばしょが無ないので、この言いい方かたは成なり立たちにくい。どの権力けんりょく観かんに立たつ文章ぶんしょうかは、この動詞どうしの選択せんたくにも表あらわれる。
  • 権力けんりょく構造こうぞう関係かんけいとしての権力けんりょく「構造こうぞう」が付つくことで、権力けんりょくは誰だれか個人こじんの持もち物ものではなく、関係かんけいの配置はいちになる。「王おうが権力けんりょくを持もつ」なら王おうを倒たおせば終おわるが、「権力けんりょく構造こうぞうがある」なら王おうを替かえても同おなじ配置はいちが残のこる。この一語いちごが加くわわるだけで、批判ひはんの矛ほこ先さきが人ひとから仕組しくみへ移うつる — 現代げんだいの評ひょう論文ろんぶんがこの形かたちを好このむのはそのためである。
  • 知ちと権力けんりょく接続せつぞく詞しの一語いちご本来ほんらいは無関係むかんけいに見みえる二ふたつを「と」で結むすぶことで、知ちは中立ちゅうりつではないという主張しゅちょうが一行いちぎょうも費ついやさずに立たち上あがる。何なにを知ちとして認みとめるかを決きめるのも力ちからであり、その力ちからに支ささえられて知ちは知ちでありうる。並置へいちそのものが議論ぎろんになっている珍めずらしい形かたちで、見出みだしに置おかれることが多おおい。
  • 権力けんりょくの正統性せいとうせい暴力ぼうりょくとの境界きょうかい正統性せいとうせいを欠かいた強制きょうせいは、権力けんりょくではなく暴力ぼうりょくと呼よばれる。つまりこの結むすびつきは、権力けんりょくという語ごがすでに一定いっていの承認しょうにんを含ふくんでいることを露あらわにする。権威けんいが同意どういを必要ひつようとしないはずの権力けんりょくに、それでも正統性せいとうせいという形かたちで同意どういが要いる — この捻ひねれが、権威けんいと権力けんりょくを単純たんじゅんな対義語たいぎごとして扱あつかえない理由りゆうである。
格かく中なか

書かき言葉ことば・会話かいわの両方りょうほうで使つかえる。

類るい語ごと差さ
  • 権威けんい自発的じはつてきな同意どういを得える同意どういの有無うむで分わかれる。権力けんりょくは同意どういがなくても働はたらく。
  • 支配しはい継続けいぞくして従じゅうわせる状態じょうたいの継続けいぞくに重心じゅうしん。権力けんりょくは力ちからそのもの、支配しはいはその力ちからが及およんでいる状態じょうたい。
  • 暴力ぼうりょく正統性せいとうせいを欠かいた強制きょうせい正統性せいとうせいの有無うむで分わかれる。権力けんりょくが正統性せいとうせいを失うしなえば暴力ぼうりょくと呼よばれる。
  • 影響力えいきょうりょく相手あいての判断はんだんを動うごかす力ちから強制きょうせいを含ふくまない。「発言はつげんに影響力えいきょうりょくがある」は権力けんりょくではない。

ENpower
ZH权力(権力, quánlì)

解説かいせつ ── 権威けんい・権力けんりょく

権威けんいあるものは人々ひとびとから崇拝すうはい、尊敬そんけいされる対象たいしょうとなる。また、「物理学ぶつりがくの権威けんい」などのように、知識ちしきや技術ぎじゅつを誰だれよりも極きわめている人ひとのことも、権威けんい(オーソリティ)と言いう。

権力けんりょくは、支配しはいする者ものと支配しはいされる者ものとが分わかれ、命令めいれい―服従ふくじゅうの関係かんけいが成立せいりつした社会しゃかいで発生はっせいするものである。さらに、権力けんりょくの最もっとも組織化そしきかされたものが国家こっか権力けんりょくである。〈権力けんりょく〉に正統性せいとうせいを与あたえるのは〈権威けんい〉で、近代きんだい国家こっかにおいては、憲法けんぽうという〈権威けんい〉が国家こっか権力けんりょくの正統性せいとうせいを裏うらづけている。

コラム ── 権威けんい・権力けんりょく

幕末ばくまつにおいて、〈権力けんりょく〉を持もっていたのは幕府ばくふ、一方いっぽうで〈権威けんい〉があったのは朝廷ちょうてい(天皇てんのう)であり、両者りょうしゃは分裂ぶんれつしていたが、明治めいじ維い新しんによって後者こうしゃ(天皇てんのう)が権力けんりょくと権威けんいの両方りょうほうをもつことになった。西洋せいようにおいては、世俗せぞく的てき権力けんりょくをもつ国家こっか(国王こくおう)と宗教的しゅうきょうてきな権威けんいのある教会きょうかいが対立たいりつし、両者りょうしゃが対立たいりつする中なかで近代きんだい市民しみん階級かいきゅうが登場とうじょうした。

対立たいりつの軸じく

権威けんい/権力けんりょく の軸じく = 服従ふくじゅうが自じ発はつか強制きょうせいか

権威けんい価値かちを認みとめて自発的じはつてきに従したがう。
服従ふくじゅうが自じ発はつか強制きょうせいか
権力けんりょく強制きょうせいして服従ふくじゅうさせる。
権威と権力の関係権威が自発的な同意にもとづき、権力が強制にもとづくこと、そして権威が権力に正統性を与える関係を示した図。 権威 価値を認めて従う 自発的な同意 ── 必要 権力 強制して従わせる 自発的な同意 ── 不要 正統性を与える 近代では憲法 失えば ── ただの評価 失えば ── 暴力 正統性を 政治学の対象は国家にかぎられない ── 教会・大学・組合にも権威と権力がある
権威けんいが権力けんりょくに正統性せいとうせいを与あたえる
入試にゅうし文ぶん

政治学せいじがくの9対象たいしょうは国家こっかにかぎられないという主張しゅちょうは、国家こっかは、教会きょうかいや大学だいがくあるいは組合くみあいなどと比くらべて、何なにら特殊とくしゅな組織そしきではないという主張しゅちょうと重かさなっていた。すべての集団しゅうだんや社会しゃかいは、その内ないに統一とういつ的てきな決定けってい作成さくせい(意思決定いしけってい)の機構きこうをもつ。決定けってい作成さくせい機構きこうは、成員せいいんの服従ふくじゅうを獲得かくとくするために規約きやくや定款ていかんにのっとりまた適切てきせつな指導性しどうせいを発揮はっきするという「10権威けんい」を樹立じゅりつするとともに、非ひ服従ふくじゅう者しゃに対たいしては何なにらかの制裁せいさい措置そちをとる力ちからすなわち「11権力けんりょく」をもつ。この意味いみで、国家こっかと他ほかの集団しゅうだん(社会しゃかい)との差さは、程度ていどの問題もんだいでしかないというのである。イギリスの政治学せいじがく者しゃE・バーカーやH・J・ラスキなどによって積極的せっきょくてきに展開てんかいされたこの主張しゅちょうは、政治的せいじてき31多元たげん主義しゅぎ(political pluralism 多元的たげんてき国家こっか論ろんとも訳やくされている)と呼よばれているが、それは、国家こっか論ろんと等とう視しされていた政治学せいじがくをより一般的いっぱんてきな社会しゃかい理論りろんへ接続せつぞくさせようという努力どりょくであると同時どうじに、126ナショナリズムの推進すいしんの下もとで25絶対ぜったい化かされるようになった国家こっか権力けんりょくを抑制よくせいし、教会きょうかい・大学だいがく・組合くみあいなどの社会しゃかい集団しゅうだんの自由じゆうを確保かくほしようという思想しそうの結けつ実じつでもあった。

出典しゅってん 高畠通敏たかばたけみちとし『政治学せいじがくへの道みち案内あんない』 / 出題しゅつだい 大阪市立大学おおさかしりつだいがく / 原げん書しょ p.26

読解どっかいのポイント
主張〈政治学の対象は国家にかぎられない〉
↓
すべての集団や社会は権威と権力をもつ=政治的多元主義
↓
・一般的な社会理論へ接続
・国家権力を抑制し、社会集団の自由を確保
要約ようやく

すべての集団しゅうだんや社会しゃかいは権威けんいと権力けんりょくをもつので政治学せいじがくの対象たいしょうは国家こっかにかぎられない、とする政治的せいじてき多元たげん主義しゅぎは、政治学せいじがくを一般的いっぱんてきな社会しゃかい理論りろんへ接続せつぞくさせ、国家こっか権力けんりょくを抑制よくせいして社会しゃかい集団しゅうだんの自由じゆうを確保かくほしようとする思想しそうの結けつ実じつでもあった。

語ご法ほうの観察かんさつ

「すなわち」「この意味いみで」が定義ていぎの言いい換かえを重かさねる。同おなじ対象たいしょうを別べつの語ごで言いい直なおしながら概念がいねんを絞しぼり込こむ型かた。

Section 07

合理ごうり/非合理ひごうり

12★★★

合理ごうり

ごうり[1]頭高あたまだか型がた

語ご構成こうせい
合ごうかなう+理りことわり・すじみち
定義ていぎ

論理ろんりや道理どうりのかない、筋道すじみちだっていること。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑12
原げん書しょの解説かいせつ

近代きんだいは、合理的ごうりてきであることに大おおきな価値かちが置おかれていた時代じだいだった。すなわち、科学的かがくてきな思考しこうに代表だいひょうされるような筋道すじみちだった考かんがえ方かたが重視じゅうしされ、迷信めいしんや魔術まじゅつなどは非合理ひごうりなものとして社会しゃかいから排除はいじょされた。

また、「合理ごうり」には〈無駄むだがない〉という意味いみもある。たとえば「経営けいえいの合理化ごうりか」とは、経済的けいざいてき効率こうりつを上あげるために、無駄むだを省しょうこうとすることを指さす。入試にゅうしでは、「合理化ごうりか」や「合理性ごうりせい」は批判ひはんに取とり上あげられることが多おおい。

使用しようの境界きょうかい

論理ろんりや道理どうりにかなうこと。「合理化ごうりか」は経済的けいざいてき効率こうりつを上あげる意いでも使つかい、入試にゅうしでは批判的ひはんてきに取とり上あげられることが多おおい。

用法ようほう

「合理化ごうりか」に二ふたつの意味いみが同居どうきょしている点てんが重要じゅうようである。①経済的けいざいてきな効率こうりつを上あげる(経営けいえいの合理化ごうりか=人員じんいん削減さくげんを含ふくむ)、②自分じぶんに都合つごうよく理由りゆうをつける(心理学しんりがくの防衛ぼうえい機き制せい)。評ひょう論文ろんぶんでは①を近代きんだいの負ふの面めんとして批判ひはんし、②を人間にんげんの弱よわさとして扱あつかう。どちらも肯定的こうていてきではない。一方いっぽう「合理的ごうりてき」は肯定こうてい語ごとして使つかえる。同おなじ語幹ごかんで評価ひょうかの方向ほうこうが変かわるので、活用かつよう形けいまで見みて判定はんていする。

用例ようれい
  • 智ちに働はたらけば角かどが立たつ。情じょうに棹さおさせば流ながされる。意地いじを通つうせば窮屈きゅうくつだ。とかくに人ひとの世よは住すみにくい。夏目なつめ漱石そうせき『草枕くさまくら』冒頭ぼうとう(1906)
    「智ちに働はたらけば角かどが立たつ」— 筋すじを通つうせば通とおすほど人ひとの間あいだに角かどができるという一句いっくが、合理ごうりという語ごの限界げんかいをそのまま言いい当あてている。合理ごうりは正ただしさの基準きじゅんであって、人ひとと人ひとのあいだで働はたらくようには最初さいしょから作つくられていない。漱石そうせきはこの一文いちぶんを「智ち」「情じょう」「意地いじ」の三みっつで組くみ立たてた。智ちが合理ごうり、情じょうが非合理ひごうり、意地いじはそのどちらでもない意志いしである。三みっつのどれを取とっても住すみにくい、と書かくことで、合理ごうりか非合理ひごうりかという二に択たくそのものを退しりぞけている。近代きんだいの合理主義ごうりしゅぎを正面しょうめんから否定ひていするのではなく、住すみにくさという体感たいかんの側がわから相対そうたい化かした — この手てつきが、評ひょう論文ろんぶんが漱石そうせきを近代きんだい批判ひはんの文脈ぶんみゃくで引ひきつづける理由りゆうである。
  • 文明ぶんめいが進すすめば進すすむほど天然てんねんの暴ぼう威いによる災さい害がいがその劇烈げきれつの度どを増ます。寺田てらだ寅彦とらひこ『天てん災さいと国防こくぼう』(1934)
    物理学ぶつりがく者しゃが書かいた一行いちぎょうだが、内容ないようは合理化ごうりかの逆説ぎゃくせつそのものである。文明ぶんめいとは無駄むだを削けずり、効率こうりつを上あげ、仕組しくみを合理的ごうりてきに組くみ上あげていく過程かていにほかならない。ところが削けずられた無駄むだのなかには、いざというときに衝撃しょうげきを吸収きゅうしゅうしていた余裕よゆうが含ふくまれていた。合理化ごうりかが進すすむほど系けいはぴんと張ばりつめ、一点いってんが破やぶれると全体ぜんたいが崩くずれる。寺田てらだがこの逆説ぎゃくせつを災さい害がいという具体ぐたいを通とおして示しめしたのは、抽象的ちゅうしょうてきな近代きんだい批判ひはんでは動うごかない読者どくしゃを、数字すうじと経験けいけんの側がわから動うごかすためだったと読よめる。
  • 経営けいえいの合理化ごうりかによって、三さん年ねんで人員じんいんは三さん割わり減へった。 「合理化ごうりか」がここでは効率こうりつを上あげることを指さしており、「道理どうりにかなう」という本来ほんらいの意味いみからは離はなれている。注意ちゅういしたいのは、この語ごが削減さくげんという結果けっかを肯定的こうていてきな響ひびきで包つつみんでしまう点てんである。「人員じんいん削減さくげん」と書かけば痛いたみが見みえるが、「合理化ごうりか」と書かけば見みえない。入試にゅうしでこの語ごが批判的ひはんてきに扱あつかわれるのは、この包つつみみ込こみの機能きのうゆえである。
  • △失敗しっぱいの原因げんいんを運うんのせいにするのは合理的ごうりてきではない。 ここで言いいたいのはおそらく「合理化ごうりか(自分じぶんに都合つごうよく理由りゆうをつけること)だ」のほうである。同おなじ語幹ごかんでありながら、「合理的ごうりてき」は肯定こうてい語ご、「合理化ごうりか」は文脈ぶんみゃくしだいで批判ひはん語ごになる。活用かつよう形けいまで見みないと評価ひょうかの向むきを取とり違ちがえる、この語ごの扱あつかいにくさがよく出でる例れいである。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

反はん 13 非合理ひごうり / 関せき 121

派生はせい形けい
  • 合理的ごうりてき[0]この語幹ごかんでほぼ唯一ゆいいつ、安定あんていして肯定こうてい語ごとして使つかえる形かたち。ただし何なにを基準きじゅんにした合理ごうりかは示しめさないので、書かき手てはこの一語いちごで基準きじゅんを問とわれずに正ただしさを主張しゅちょうできる。便利べんりであることと危あやういことが同おなじところから来きている。
  • 合理性ごうりせい[0]性質せいしつとして取とり出だす形かたちで、「高たかい/低ひくい」と程度ていどで論ろんじられるようになる。「経済けいざい合理性ごうりせい」「手続てつづき的てき合理性ごうりせい」のように前まえに基準きじゅんを冠かんむりして使つかえるのが強つよみで、合理的ごうりてきの空白くうはくをここで埋うめることができる。
  • 合理化ごうりか[0]「化か」が過程かていを指さす。結果けっかではなく進行中しんこうちゅうの運動うんどうを名指なざすので、「まだ途中とちゅうである」「さらに進すすめられる」という含ふくみを伴ともなう。この終おわりの無むさが、合理化ごうりか批判ひはんの文章ぶんしょうがしばしば「際さい限げんのなさ」を主題しゅだいに据すえる理由りゆうになっている。
  • 非合理ひごうり[2]否定ひていの派生はせいではあるが、「不合理ふごうり」とはまったく別語べつごである。「非ひ」は理りの枠わくの外そと、「不ふ」は枠わくの内ないで基準きじゅんを満みたさないこと。この一いち字じの差さが設問せつもんになるので、13 の項こうと合あわせて必かならず対たいで覚おぼえたい。
コロケーション
  • 合理化ごうりか二ふたつの顔かお同おなじ三さん字じが、経済けいざいでは効率こうりつ化かを、心理学しんりがくでは都合つごうのよい理由りゆうづけを指さす。一見いっけん無関係むかんけいだが、根ねはつながっている。どちらも「筋すじが通とおっている」という外見がいけんをあとから与あたえる作業さぎょうだからである。人員じんいん削減さくげんにも、自分じぶんの失敗しっぱいにも、合理ごうりという衣ころもを着きせれば納得なっとくの形かたちが整ととのう。この語ごが批判ひはんされるのは、整ととのえているのが中身なかみではなく見みえ方かただからである。
  • 合理的ごうりてきな判断はんだん肯定こうていの定型ていけいほとんど無条件むじょうけんに褒ほめ言葉ことばとして通用つうようする希少きしょうな結むすびつきで、それだけに何なにを基準きじゅんに合理ごうりとしたのかが問とわれないまま通とおり過すぎやすい。利益りえきを基準きじゅんにすれば非ひ情じょうな判断はんだんも合理的ごうりてきになり、共同体きょうどうたいの存続そんぞくを基準きじゅんにすれば逆ぎゃくの結論けつろんが合理的ごうりてきになる。合理ごうりは基準きじゅんを指定していしないと空そら回まわりする語ごで、その空白くうはくが評ひょう論文ろんぶんの狙ねらい所しょになる。
  • 合理主義ごうりしゅぎ時代じだいの名な「主義しゅぎ」が付つくと、個々ここの判断はんだんではなく時代じだい全体ぜんたいの構かまえを指さす名なになる。近代きんだいを「合理主義ごうりしゅぎの時代じだい」と呼よぶとき、そこには科学かがくの勝利しょうりと、迷信めいしんや魔術まじゅつの排除はいじょという二ふたつの出来事できごとがひとまとめに畳たたみ込こまれている。評ひょう論文ろんぶんが扱あつかうのはたいてい後者こうしゃの側がわ — 排除はいじょされたものの行方ゆくえである。
  • 合理性ごうりせいを欠かく評価ひょうかの否定ひてい「合理的ごうりてきでない」より一段いちだん強つよい言いい方かたである。「欠かく」は、あるべきものが足たりないという含ふくみを持もつからで、つまりこの形かたちは合理性ごうりせいがあって当然とうぜんだという前提ぜんていの上うえに立たっている。同おなじ内容ないようを「非合理ひごうりである」と書かけば、理りの枠わくの外そとにあるという中立ちゅうりつの記述きじゅつに変かわる — ここが 13 の項こうと直接ちょくせつつながる。
格かく中なか

書かき言葉ことば・会話かいわの両方りょうほうで使つかえる。

類るい語ごと差さ
  • 論理的ろんりてき筋すじの運はこびが正ただしい推論すいろんの形式けいしきについての語ご。前提ぜんていが妥当だとうかは問とわない。合理ごうりは内容ないようの妥当だとうさも含ふくむ。
  • 効率的こうりつてき無駄むだがない投入とうにゅうと産出さんしゅつの比ひの話はなし。道理どうりにかなうかは問とわない。「合理化ごうりか」がこの意味いみに寄よると批判ひはんの対象たいしょうになる。
  • 理性的りせいてき感情かんじょうに流ながされない主体しゅたいの態度たいどについての語ご。合理ごうりは事柄ことがらの性質せいしつについての語ご。
  • 筋すじが通とおる矛盾むじゅんがない口語こうご的てきな言いい換かえ。評ひょう論文ろんぶんでは「整合せいごう的てきである」を使つかう。

ENrational
ZH合理(合理的な, hélǐ)

13★★★

非合理ひごうり

ひごうり[2]中高なかだか型がた

語ご構成こうせい
非ひあらず+合理ごうりすじみちにかなう

「非ひ」は理りの枠わくの外そと、「不ふ」は理りの枠わくの内ないでの否定ひていである。

定義ていぎ

理性りせいや論理ろんりではとらえきれないこと。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑13
原げん書しょの解説かいせつ

非合理ひごうり的てきなものの代表だいひょう例れいは、人間にんげんの感情かんじょうだ。我々われわれの喜怒哀楽きどあいらくは、理屈りくつではとらえきれない面めんがある。

なお、「不合理ふごうり」は、〈理屈りくつに合あっていない〉〈筋すじが通とおっていない〉ということ。たとえば、入試にゅうしで同おなじ点てんをとった二人ふたりのうち、一方いっぽうは合格ごうかくで他方たほうが不ふ合格ごうかくというのは、「非合理ひごうり」ではなく「不合理ふごうり」である。

使用しようの境界きょうかい

理性りせいや論理ろんりでは捉とらえきれないこと。「不合理ふごうり」は理りの枠わく内ないで判断はんだんされて筋すじが通とおらないこと。両者りょうしゃは別語べつご。

用法ようほう

「非ひ」と「不ふ」の使つかい分わけが設問せつもんになる。「非ひ」は理りの枠わくの外そとにあること、「不ふ」は枠わくの内ないにあって基準きじゅんを満みたさないこと。人間にんげんの感情かんじょうは理りでは測はかれないので非合理ひごうりであり、間違まちがっているのではない。評ひょう論文ろんぶんでは、近代きんだいが非合理ひごうりなものを社会しゃかいから排除はいじょした、という構図こうずで使つかわれる。そのうえで非合理ひごうりを切きり捨すてた近代きんだいを批判ひはんする、という二に段だんの議論ぎろんに入はいる。東洋とうようを非合理ひごうり、西洋せいようを合理ごうりとする単純たんじゅんな対比たいひを「浅薄せんぱく」と評ひょうする文章ぶんしょうが原げん書しょの入試にゅうし文ぶんである。

用例ようれい
  • はたらけど
    はたらけど猶なおわが生活せいかつ楽らくにならざり
    ぢつと手てを見みる石いし川かわ啄木たくぼく『一握いちあくの砂すな』(1910)
    この三さん行ぎょうのなかに、不合理ふごうりと非合理ひごうりが一ひとつずつ入はいっている。働はたらいても働はたらいても暮くらしが楽らくにならない — これは理りに照てらして筋すじが通とおらないのだから不合理ふごうりである。努力どりょくと報酬ほうしゅうが対応たいおうするはずだという理りの内側うちがわで、その対応たいおうが破やぶれている。ところが結むすびの「ぢつと手てを見みる」は違ちがう。抗議こうぎでも分析ぶんせきでもなく、ただ手てを見みている。この動作どうさには理由りゆうが無ない。理由りゆうが無ないのに、読よむ者ものにはそれ以外いがいありえないと感かんじられる — これが非合理ひごうり、すなわち理りでは捉とらえきれないが確たしかにあるものの姿すがたである。啄木たくぼくが説明せつめいを一切いっさい足たさずに三さん行ぎょうで切きったのは、説明せつめいすればそれは理りの側がわへ移うつってしまうからだ。
  • 花はなはさかりに、月つきはくまなきをのみ見みるものかは。吉田兼好よしだけんこう『徒然草つれづれぐさ』第だい百ひゃく三十さんじゅう七なな段だん(1330頃ころ)
    満開まんかいの花はなや曇くもりない月つきだけが見みるべきものだろうか、いや違ちがう、という反はん語ごである。合理的ごうりてきに考かんがえれば、花はなは満開まんかいが最もっとも美うつくしく、月つきは満月まんげつが最もっとも明あかるい。兼好けんこうはその合理ごうりをはっきり退しりぞけている。しかも「散さんった花はなのほうが美うつくしい」と別べつの基準きじゅんを立たてるのではなく、待まつ心こころ、惜おしむ心こころという測はかれないものを持もち出だしてくる。ここが要点ようてんである。非合理ひごうりは、合理ごうりと競合きょうごうする別べつの理屈りくつではない。理屈りくつという土俵どひょうそのものに乗のらないものを指さす。だから兼好けんこうの主張しゅちょうは反論はんろんできない — 反論はんろんするには理屈りくつが要いるが、彼かれは理屈りくつで言いっていないからだ。
  • 近代きんだいは非合理ひごうりなものを社会しゃかいの外そとへ排除はいじょすることで成立せいりつした。 評ひょう論文ろんぶんでもっとも多おおい型かたである。注意ちゅういしたいのは、ここでの非合理ひごうりが間違まちがったものではないという点てん。感情かんじょうも、信仰しんこうも、慣習かんしゅうも、理りで測はかれないというだけで誤あやまりではない。「排除はいじょした」と書かいた時点じてんで、筆者ひっしゃはその排除はいじょを問とい直なおす側がわに立たっている。
  • ×同おなじ点数てんすうなのに一方いっぽうだけ合格ごうかくするのは非合理ひごうりだ。 これは理りの枠わくのなかで筋すじが通とおらない話はなしなので「不合理ふごうり」が正ただしい。非合理ひごうりはそもそも理りで測はかる対象たいしょうではないことを言いう。「間違まちがっている」と言いいたいなら不合理ふごうり、「理りでは届とどかない」と言いいたいなら非合理ひごうり — この判別はんべつができるかどうかが、この二に語ごの理解りかいの全部ぜんぶである。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

反はん 12 合理ごうり / 関せき 不合理ふごうり

派生はせい形けい
  • 非合理的ひごうりてき[0]名詞めいし「非合理ひごうり」でも形容けいようの位置いちに立たてるため、この形かたちは必須ひっすではない。あえて使つかうのは「合理的ごうりてき/非ひ合理的ごうりてき」と形かたちをそろえて対比たいひしたいときである。対たいにする意図いとが語尾ごびに出でる。
  • 非合理性ひごうりせい性質せいしつとして取とり出だすと、「非合理ひごうり性せいが高たかい」と程度ていどで言いえるようになる。ただし非合理ひごうりは本来ほんらい、理りの外そとにあるかどうかというゼロか一いちかの区別くべつなので、この形かたちは厳密げんみつには語ごの論理ろんりをゆるめている。
  • 不合理ふごうり[2]派生はせい形けいではなく、対たいで覚おぼえるべき別語べつご。「非ひ」は枠わくの外そと、「不ふ」は枠わくの内ない。同おなじ「合理ごうり」を否定ひていしていながら、否定ひていの届とどく範囲はんいがまったく違ちがう。この一いち字じを読よみ分わけられるかどうかが、この節せつの設問せつもんの核心かくしんである。
コロケーション
  • 非合理ひごうりなもの名指なざしの形かたち「非合理ひごうりな感情かんじょう」「非合理ひごうりな信仰しんこう」と具体ぐたいを続つづけず、あえて「もの」でとどめる形かたちが評ひょう論文ろんぶんには多おおい。これは個々ここの中身なかみではなく、合理ごうりの外側そとがわという位置いちそのものを主題しゅだいにしているからである。中身なかみを特定とくていした瞬間しゅんかん、それは分類ぶんるいされ理りの側がわに半分はんぶん入はいってしまう。「もの」という空白くうはくが、外側そとがわであることを保たもっている。
  • 非合理ひごうりの復権ふっけん近代きんだい批判ひはんの合図あいず「復権ふっけん」は、いったん奪うばわれた地位ちいを取とり戻もどすこと。つまりこの語ごは「かつて追放ついほうされた」という歴史れきしを前提ぜんていにしている。追放ついほうしたのは近代きんだいの合理主義ごうりしゅぎであり、取とり戻もどそうとするのは二十にじゅう世紀せいき以降いこうの思想しそうである。この一語いちごが現あらわれたら、文章ぶんしょうは合理ごうり/非合理ひごうりという対立たいりつそのものを組くみ替かえる方向ほうこうへ進すすむと読よんでよい。
  • 不合理ふごうりな制度せいど「不ふ」との対照たいしょうこちらは理りの枠わくの内側うちがわでの欠陥けっかんを指さす。制度せいどは理りによって作つくられたものだから、理りに照てらして評価ひょうかできる。だから「不合理ふごうりな制度せいど」は言いえても「非合理ひごうりな制度せいど」はほとんど言いえない。結むすびつく相手あいての語ごを見みれば、「非ひ」と「不ふ」はかなりの確度かくどで見分みわけられる。
  • 非合理ひごうり主義しゅぎ立場たちばの名な非合理ひごうりを積極的せっきょくてきに価値かちとして掲かかげる立場たちばを指さす。ただしこの語ごは使つかい方かたが難むずかしい。非合理ひごうりを主張しゅちょうとして体系たいけい立たてた瞬間しゅんかん、それは理屈りくつになってしまうからである。語ごそのものが自己じこ矛盾むじゅんをはらんでいるため、評ひょう論文ろんぶんでは距離きょりを置おいた記述きじゅつ語ごとして用もちいられることが多おおい。
格かく硬かた

書かき言葉ことば。会話かいわでは不自然ふしぜん。

類るい語ごと差さ
  • 不合理ふごうり理りに照てらして筋すじが通とおらない理りの枠わくの内側うちがわでの否定ひてい。「同どう点てんの二人ふたりで一方いっぽうが合格ごうかく、他方たほうが不ふ合格ごうかく」は不合理ふごうり。喜怒哀楽きどあいらくは非合理ひごうりだが不合理ふごうりではない。
  • 不ふ条じょう理り意味いみづけそのものを拒こばむ人間にんげんが世界せかいに意味いみを求もとめても応こたえがないという状況じょうきょうを指さす。文学ぶんがく・実存じつぞん主義しゅぎの語ご。
  • 非ひ科学的かがくてき方法ほうほうが科学かがくでない手続てつづきについての語ご。結論けつろんの当否とうひは問とわない。
  • 理不尽りふじん筋すじが通とおらず納得なっとくできない話者わしゃの憤ふんりを含ふくむ。評ひょう論ろんの記述きじゅつ語ごとしては使つかえない。

ENirrational
ZH非合理(非合理, fēihélǐ)

対立たいりつの軸じく

合理ごうり/非合理ひごうり の軸じく = 筋道すじみちが通とおるか

合理ごうり論理ろんりや道理どうりにかなう。
筋道すじみちが通とおるか
非合理ひごうり理性りせいや論理ろんりでは捉とらえきれない。
合理・不合理・非合理の位置関係理の枠の内側に合理と不合理があり、枠の外側に非合理があることを示した図。 理 ── すじみちの枠 合理 筋道が通る 科学・論理・効率 不合理 筋道が通らない 同点で合否が分かれる 非合理 理では測れない ── 喜怒哀楽・信仰・美 間違っているのではない。枠の外にある。 不 = 枠の内での否定 非 = 枠の外
「非ひ」は理りの枠わくの外そと、「不ふ」は枠わくの内ない
入試にゅうし文ぶん

東洋とうようと西洋せいようとを比較ひかくして、その68差異さいを指摘してきしようという試こころみは、すでに多少たしょうなされ、そのなかで多おおくの相違そうい点てんが明あきらかにされたと考かんがえられている。たとえば、「13非合理ひごうり的てき」対たい「12合理的ごうりてき」、「総合そうごう的てき」対たい「分析ぶんせき的てき」、「静的せいてき」対たい「動的どうてき」、などの対立たいりつ点てんは、その最もっともポピュラーなものと言いえよう。そして、こちらの諸しょ点てんは、そのまま額面がくめん通とおりに受うけ取とるには危険きけんな要素ようそを、たしかに含ふくんでいると思おもわれる。それぞれを切きり離はなして一ひとつずつ取とり上あげてみる限かぎり、そうした対立たいりつ的てきな諸しょ点てんは、ことのごく一面的いちめんてきなところだけを、浅薄せんぱくにつかんでいるとしか言いえない、という評ひょう言げんは、十分じゅうぶんな説得力せっとくりょくをもっている。

出典しゅってん 村上むらかみ陽一郎よういちろう『近代きんだい科学かがくを超こえて』 / 出題しゅつだい 武蔵大学むさしだいがく・人文学じんぶんがく部ぶ / 原げん書しょ p.30

読解どっかいのポイント
東洋と西洋の比較
│
├─ 東洋=非合理的、総合的、静的
│
└─ 西洋=合理的、分析的、動的
→ 対立的な諸点は、一目的なところだけを浅薄につかんでいる
要約ようやく

「非合理ひごうり的てき」対たい「合理的ごうりてき」といった東洋とうようと西洋せいようの対立たいりつ点てんは、ことの一いち面めんを浅薄せんぱくにとらえているにすぎないので、そのまま額面がくめん通とおり受うけ入いれるのは危険きけんだ。

語ご法ほうの観察かんさつ

「〜と言いえよう」「〜と思おもわれる」で断定だんていを緩ゆるめた末すえに、最後さいごで「危険きけんな要素ようそ」と評価ひょうかを下くだす。緩和かんわの後あとに置おかれた断定だんていが強つよく働はたらく。

Section 08

自明じめい/懐疑かいぎ

14★★

自明じめい

じめい[0]平板へいばん型がた

語ご構成こうせい
自じおのずから+明みんあきらか
定義ていぎ

とくに証明しょうめい・説明せつめいなどをしなくても明あきらかなこと。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑14
使用しようの境界きょうかい

証明しょうめいや説明せつめいをしなくても明あきらかなこと。「明白めいはく」は見みれば分わかること、「自明じめい」は問とわれないまま通とおっていること。

用法ようほう

評ひょう論文ろんぶんでは「自明じめい性せいを疑うたがう」「自明じめいとされてきた」という形かたちが圧倒的あっとうてきに多おおく、自明じめいであること自体じたいが批判ひはんの対象たいしょうになる。〈疑うたがわれないまま通とおっている〉ことは〈正ただしい〉ことではない、という構かまえが前提ぜんていにある。原げん書しょの入試にゅうし文ぶんは、日常にちじょう世界せかいが自明じめい性せいに支ささえられていること、そしてその自明じめい性せいへの驚おどろきこそが知的ちてきな懐疑かいぎの出発点しゅっぱつてんであることを述のべる。「自明じめいの理り」は成せい句くで、証明しょうめいの要いらない原理げんりを指さす。

用例ようれい
  • 悟さとりといふ事ことは如何いかんなる場合ばあいにも平気へいきで死しぬる事ことかと思おもつて居いたのは間あいだ違いひで、悟さとりといふ事ことは如何いかんなる場合ばあいにも平気へいきで生いきて居いる事ことであつた。正岡まさおか子規しき『病牀びょうしょう六ろく尺さし』(1902)
    結核けっかくで寝ねたきりの子規しきが、死しの前年ぜんねんに書かいた一節いっせつである。ここで壊こわれているのは「悟さとりとは平気へいきで死しぬことだ」という自明じめい性せいである。子規しきはそれを長ながいあいだ疑うたがわずに前提ぜんていとしてきた。疑うたがわなかったのは、それが正ただしかったからではなく、問とわれる機会きかいが無なかったからだ。自明じめい性せいの本質ほんしつはここにある — 証明しょうめいされて通とおっているのではなく、問とわれないまま通とおっている。そして自明じめい性せいは、たいてい理屈りくつではなく身みに起おきた出来事できごとによって破やぶれる。子規しきの場合ばあい、それは平気へいきで死しねない自分じぶんを発見はっけんしたことだった。
  • この御社おんしゃの獅子ししの立たてられやう、さだめてならひあることに侍はべらん、ちと承うけたまわらばや、と言げんはれければ、……「さがなき童わらべどもの仕つかまつりける、奇怪きっかいに候そうらふことなり」とて、さし寄よりて、据すえゑ直なおして往いにければ、上人しょうにんの感涙かんるいいたづらになりにけり。吉田兼好よしだけんこう『徒然草つれづれぐさ』第だい二百にひゃく三十さんじゅう六ろく段だん(1330頃ころ)
    獅子ししと狛犬こまいぬが背中せなか合あわせに立たっているのを見みた上人しょうにんが、深ふかい謂いわれがあるに違ちがいないと感涙かんるいにむせぶ。ところが尋たずねてみれば、子こどものいたずらだった、という話はなしである。上人しょうにんが疑うたがわなかったのは獅子ししの向むきではなく、「神社じんじゃに置おかれたものには意味いみがある」という前提ぜんていのほうだ。その前提ぜんていは証明しょうめいされたことが一度いちども無ない。それでも上人しょうにんの中なかでは揺ゆらがなかったので、意味いみは事実じじつから読よみ取とられたのではなく、前提ぜんていから流ながし込こまれた。兼好けんこうが「感涙かんるいいたづらになりにけり」と感情かんじょうの側がわの空転くうてんで締しめたのがうまい。自明じめい性せいが破やぶれるとき失うしなわれるのは知識ちしきではなく、そこに注そそいでいた感情かんじょうのほうなのである。
  • 国家こっかという枠組わくぐみは、いまや自明じめいのものとして疑うたがわれることがない。 「自明じめいのもの」と書かいた時点じてんで、筆者ひっしゃはすでにそれを疑うたがう側がわに立たっている。ほんとうに自明じめいなものについて、人ひとは「自明じめいだ」とわざわざ言いわない。この語ごが現あらわれること自体じたいが、自明じめい性せいが破やぶれかけている徴候ちょうこうである — 評ひょう論文ろんぶんを読よむときの実際的じっさいてきな合図あいずになる。
  • △証拠しょうこ写真しゃしんがあるのだから彼かれの関与かんよは自明じめいだ。 証拠しょうこを見みれば分わかることは「明白めいはく」である。自明じめいは、証拠しょうこを見みるまでもなく、そもそも問といが立たてられないまま通とおっていることを言いう。「見みれば分わかる」のが明白めいはく、「見みようとすら思おもわない」のが自明じめい。評ひょう論文ろんぶんで問とわれるのは後者こうしゃのほうである。
派生はせい形けい
  • 自明性じめいせい[0]性質せいしつとして取とり出だす形かたちで、「自明じめいである」という状態じょうたいそのものを議論ぎろんの対象たいしょうに置おけるようになる。この形かたちが無なければ「自明じめい性せいを疑うたがう」という評ひょう論文ろんぶんの基本きほん動作どうさが書かけない。接尾せつび辞じひとつが思考しこうの型かたを可能かのうにしている例れいである。
  • 自明視じめいし「視し」はそう見みなすという主体しゅたいの働はたらきを加くわえる。「自明じめいである」が状態じょうたいの記述きじゅつなのに対たいし、「自明じめい視しする」は誰だれかがそう扱あつかっているという行為こういの記述きじゅつになる。責任せきにんの所在しょざいが文ぶんに戻もどってくるので、批判ひはんの文章ぶんしょうで選えらばれる。
  • 不自明ふじめい使用しよう頻度ひんどは低ひくいが、数学すうがくや論理学ろんりがくでは「証明しょうめいを要ようする」という意味いみで明確めいかくに使つかわれる。日常にちじょう語ごでは「自明じめいではない」と言いい換かえるのが普通ふつうで、この形かたちが出でてきたら学術的がくじゅつてきな文脈ぶんみゃくだと見当けんとうがつく。
コロケーション
  • 自明じめい性せいを疑うたがう知ちの出発点しゅっぱつてん評ひょう論文ろんぶんでもっとも頻度ひんどの高たかい形かたちである。疑うたがうべきものが「間違まちがい」ではなく「自明じめい性せい」だという点てんが要ようで、疑うたがいは対象たいしょうの真偽しんぎではなく、それが問とわれずに通とおっているという状態じょうたいに向むけられる。だから自明じめい性せいを疑うたがったあとで、結論けつろんとして同おなじ内容ないようが正ただしいと分わかってもかまわない。変かわったのは内容ないようではなく、それが証明しょうめいを経へたものになったことである。
  • 自明じめいとされてきた受うけ身みと時間じかん受うけ身みにすることで「誰だれがそう決きめたのか分わからない」という状態じょうたいが言いい表あらわされる。さらに「〜てきた」が付ついて時間じかんの厚あつみが加くわわり、長ながく続つづいたぶんだけ問とい直なおしにくくなっている様子ようすまで出でる。能動態のうどうたいにできないのがこの語ごの特徴とくちょうで、「彼かれが自明じめいとした」とは普通ふつう言いわない。主語しゅごを持もたないことこそ自明じめい性せいの条件じょうけんだからである。
  • 自明じめいの理り成せい句く証明しょうめいを必要ひつようとしない原理げんりを指さす成せい句くで、数学すうがくの公理こうりに近ちかい位置いちにある。「自明じめい性せい」が批判ひはんの対象たいしょうになるのに対たいし、この形かたちは肯定的こうていてきな意味いみで安定あんていしている。同おなじ語ごを含ふくみながら評価ひょうかが逆ぎゃくを向むくのは、「理り」が付つくことで論理ろんり体系たいけいの内部ないぶの話はなしに限定げんていされるからである。体系たいけいの外そとに出でた瞬間しゅんかん、それは疑うたがわれる自明じめい性せいに戻もどる。
  • 日常にちじょうの自明じめい性せい現象学げんしょうがくの術語じゅつご毎日まいにちの暮くらしが問とい直なおされずに滑なめらかに進すすんでいる、その滑なめらかさ自体じたいを指さす。この滑なめらかさは無知むちではなく、生いきるために必要ひつような条件じょうけんである。すべてを疑うたがっていては歩あるくこともできない。評ひょう論文ろんぶんがこの語ごを使つかうとき、狙ねらいは自明じめい性せいを壊こわすことではなく、それに支ささえられていたと気きづかせることにある。
格かく硬かた

書かき言葉ことば。会話かいわでは不自然ふしぜん。

類るい語ごと差さ
  • 明白めいはくはっきりしている証拠しょうこが見みえている状態じょうたい。自明じめいは証拠しょうこを見みなくても通とおっている状態じょうたい。
  • 当然とうぜんそうあるべき規範きはんや納得なっとくを含ふくむ。自明じめいは認識にんしきの話はなしで、規範きはんを含ふくまない。
  • 前提ぜんてい議論ぎろんの出発点しゅっぱつてんに置おかれる議論ぎろんの構造上こうぞうじょうの位置いちを言いう。自明じめいなものは前提ぜんていになりやすいが、前提ぜんていは自明じめいでなくてもよい。
  • 周しゅう知ち広ひろく知しられている知しられている範囲はんいの話はなし。真偽しんぎや証明しょうめいの話はなしではない。

ENself-evident
ZH自明(自明, zìmíng)

15★★

懐疑かいぎ

かいぎ[1]頭高あたまだか型がた

語ご構成こうせい
懐ふところいだく+疑ぎうたがい
定義ていぎ

物事ものごとの意味いみ・価値かち・存在そんざいなどについて、疑うたがいをもつこと。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑15
使用しようの境界きょうかい

意味いみ・価値かち・存在そんざいそのものに疑うたがいを持もつこと。事実じじつの真偽しんぎを疑うたがうだけなら「疑問ぎもん」。

用法ようほう

「懐疑かいぎ的てき」は日常にちじょうでも使つかえるが、名詞めいし「懐疑かいぎ」は硬かたい。デカルトの「方法ほうほう的てき懐疑かいぎ」に代表だいひょうされるように、疑うたがうこと自体じたいを方法ほうほうとして使つかう立場たちばが哲学てつがくにある。この場合ばあいの懐疑かいぎは目的もくてきではなく手段しゅだんであり、疑うたがいえないものに至いたるための手続てつづきである。評ひょう論文ろんぶんでは「自明じめい性せいへの懐疑かいぎ」の形かたちで出でて、日常にちじょうを成なり立たたせている前提ぜんていを問とい直なおす知的ちてき作業さぎょうを指さす。単たんなる不信ふしんや否定ひていとは区別くべつされる。

用例ようれい
  • 信しんの世界せかいに偽詐ぎさ多おおく、疑ぎの世界せかいに真理しんり多たし。福沢ふくざわ諭吉ゆきち『学問がくもんのすゝめ』十五じゅうご編へん(1876)
    信しんじる側がわにこそ偽いつわりが多おおく、疑うたがう側がわにこそ真理しんりが多おおい — 対句ついくをきれいに反転はんてんさせた一行いちぎょうである。福沢ふくざわはこのあと、疑うたがうことをやみくもに勧すすめているのではないと断ことわる。信しんじるにせよ疑うたがうにせよ、その判断はんだんを自分じぶんで下くだすことが学問がくもんなのだという筋すじである。ここで「疑ぎ」が置おかれているのは信しんの反対はんたい側がわではなく、信しんの手前てまえだと読よめる。疑うたがいを経へていない信しんは、信しんではなく単たんに問とわれなかっただけのもの — すなわち自明じめい性せいにすぎない。14 の項こうと 15 の項こうが同おなじ節せつに置おかれている理由りゆうが、この一句いっくでつながる。
  • これを知しるをこれを知しると為いし、知しらざるを知しらずと為いす。是ぜれ知しるなり。『論語ろんご』為い政せい篇へん
    知しっていることを知しっているとし、知しらないことを知しらないとする、それが知しるということだ、という。ここで定義ていぎされている「知ち」は、知識ちしきの量りょうではなく、自分じぶんの知識ちしきの境界きょうかいを正確せいかくに把握はあくしていることである。懐疑かいぎが単たんなる不信ふしんと分わかれるのはまさにこの点てんで、懐疑かいぎとは、どこまでが確たしかでどこからが不確ふたしかかを見みきわめようとする作業さぎょうにほかならない。デカルトが疑うたがいを方法ほうほうとして用もちいたのも同おなじ構かまえで、疑うたがいは目的もくてきではなく疑うたがいえないものへ至いたるための手続てつづきだった。
  • 日常にちじょう世界せかいの懐疑かいぎは、その自明じめい性せいへの驚おどろきから始はじまる。 懐疑かいぎの出発点しゅっぱつてんが疑うたがいではなく驚おどろきである、と書かいている点てんに注意ちゅういしたい。疑ぎおうと決きめて疑うたがえるものではなく、「なぜこうなっているのだろう」と足あしを止とめさせる出来事できごとが先さきにある。原げん書しょの入試にゅうし文ぶんが扱あつかうのはこの順序じゅんじょで、知的ちてきな懐疑かいぎは方法ほうほうである前まえにまず経験けいけんである。
  • ×彼かれの証言しょうげんの細部さいぶに懐疑かいぎを持もった。 個別こべつの事実じじつについて確たしかめたいのは「疑問ぎもん」であって懐疑かいぎではない。懐疑かいぎは、意味いみ・価値かち・存在そんざいといった根本こんぽんのほうへ及およぶときに使つかう。「細部さいぶに疑問ぎもんを持もった」なら通とおる。射程しゃていの広こうさでこの二に語ごを分わけると覚おぼえておきたい。
派生はせい形けい
  • 懐疑的かいぎてき[0]この語幹ごかんで唯一ゆいいつ、日常にちじょう語ごとして通用つうようする形かたち。ただし会話かいわでは「乗のり気きでない」まで意味いみが薄うすれるため、評ひょう論文ろんぶんで使つかうときは前後ぜんごで射程しゃていを示しめす必要ひつようがある。「価値かちそのものに懐疑かいぎ的てきである」のように、何なんに向むかう懐疑かいぎかを添そえるとぶれない。
  • 懐疑主義かいぎしゅぎ「主義しゅぎ」が付つくと、疑うたがうこと自体じたいが立場たちばになる。方法ほうほう的てき懐疑かいぎが出口でぐちを持もつのに対たいし、こちらは出口でぐちを持もたない。古代こだいギリシアのピュロン以来いらいの系譜けいふを指さす学術がくじゅつ語ごで、日常にちじょうの「疑うたがい深ふかい」とは無関係むかんけいである。
  • 懐疑論かいぎろん「論ろん」は主張しゅちょうの体系たいけいを指さす。「知しりうるものは無ない」という主張しゅちょうを掲かかげるが、そう主張しゅちょうすること自体じたいが一ひとつの知ちの主張しゅちょうになってしまう — という自己じこ言及げんきゅうの難点なんてんを最初さいしょから抱かかえている。18 のパラドックスの項こうと合あわせて読よむと、この構造こうぞうがはっきりする。
コロケーション
  • 方法ほうほう的てき懐疑かいぎデカルトの手続てつづき「方法ほうほう的てき」が付つくことで、懐疑かいぎが目的もくてきから手段しゅだんへ格下かくさげされる。疑うたがうために疑うたがうのではなく、どうしても疑うたがいきれないものを見みつけるために疑うたがう。だからこの懐疑かいぎには出口でぐちがあり、「我われ思おもう、ゆえに我われあり」という到達点とうたつてんが最初さいしょから想定そうていされている。出口でぐちのない懐疑かいぎ(懐疑かいぎ主義しゅぎ)とはここで分わかれる。
  • 懐疑かいぎ的てきな態度たいど日常にちじょうへの降下こうか名詞めいしの「懐疑かいぎ」は硬かたいが、この形かたちにすると日常にちじょうの会話かいわでも使つかえる。ただし日常にちじょう語ごになったぶん意味いみが浅あさくなる点てんに注意ちゅういしたい。「懐疑かいぎ的てきだ」はしばしば「乗のり気きでない」程度ていどの意味いみで使つかわれ、存在そんざいや価値かちを問とう本来ほんらいの重おもさを失うしなっている。評ひょう論文ろんぶんの「懐疑かいぎ」と会話かいわの「懐疑かいぎ的てき」は別語べつごとして扱あつかうくらいでちょうどよい。
  • 自明じめい性せいへの懐疑かいぎ節せつの主題しゅだいそのもの14 と 15 を一本いっぽんの線せんでつなぐ形かたちである。疑うたがいの向むかう先さきが事実じじつではなく「疑うたがわれずに通とおっている」という状態じょうたいである点てんが要ようで、ここが「疑問ぎもん」との決定的けっていてきな違ちがいになる。疑問ぎもんは答こたえが出でれば消きえるが、懐疑かいぎは答こたえが出でたあとも「なぜそれを問とわずにいたのか」を残のこす。
  • 懐疑かいぎに陥おちいる出口でぐちの喪失そうしつ「陥おちいる」が示しめすとおり、抜ぬけ出だせない状態じょうたいとして否定的ひていてきに語かたられる形かたちである。方法ほうほう的てき懐疑かいぎには出口でぐちがあるが、こちらは出口でぐちが見みえない。同おなじ懐疑かいぎが、手続てつづきとして使つかえば知ちの出発点しゅっぱつてんになり、態度たいどとして固かたまれば行いき止どまりになる — その分わかれ目めは、疑うたがいのあとに何なにを置おくかで決きまる。
格かく硬かた・学術がくじゅつ

論文ろんぶん・評ひょう論ろんでのみ使つかう。会話かいわでは不自然ふしぜん。

類るい語ごと差さ
  • 疑問ぎもん分わからない点てんを問とう個別こべつの点てんについての問とい。懐疑かいぎは全体ぜんたいや根本こんぽんに及およぶ。
  • 不信ふしん信しんじられない相手あいてや制度せいどに対たいする感情かんじょう。懐疑かいぎは認識にんしきの態度たいどで、感情かんじょうを含ふくまない。
  • 批判ひはん根拠こんきょを吟味ぎんみする吟味ぎんみして分わける作業さぎょう。否定ひていを意味いみしない。懐疑かいぎは疑うたがいを持もち続つづける態度たいど。
  • 猜疑さいぎ悪意あくいを疑うたがう人ひとの意図いとに向むかう。学術がくじゅつ文ぶんでは使つかわない。

ENdoubt / scepticism
ZH怀疑(疑う, huáiyí)

解説かいせつ ── 自明じめい・懐疑かいぎ

我々われわれの日常にちじょう世界せかいは、ある意味いみで自明じめい性せいによって支ささえられていると言いうことができよう。たとえば「言葉ことばが相手あいてに通つうじる」というのは、日常的にちじょうてきな場面ばめんでは自明じめいのことだ。しかし同時どうじに、「言葉ことばが相手あいてに通つうじる」ことを完全かんぜんに証明しょうめいすることはできない。そもそも〈言葉ことばが通つうじる〉とはどのようなことなのか。

こうした考かんがえをもつ時とき、すでに我々われわれは「懐疑かいぎ的てき思考しこう」の一歩いっぽを踏ふみ出だしている。そして、常識じょうしきとされることを一いちたび疑うたがってみると、簡単かんたんに説明せつめいできないことがあまりに多おおいことに驚おどろくに違ちがいない。

たとえば ── 自明じめい・懐疑かいぎ

近代きんだい以前いぜんにおいて、神かみの存在そんざいは自明じめいであったが、近代きんだい哲学てつがくの祖そであるデカルト(1596~1650年ごじゅうねん)は神かみの存在そんざいを懐疑かいぎし、その存在そんざいを論理的ろんりてきに証明しょうめいしようとした。

対立たいりつの軸じく

自明じめい/懐疑かいぎ の軸じく = 証明しょうめいを要ようするか

自明じめい証明しょうめいも説明せつめいもなく明あきらか。
証明しょうめいを要ようするか
懐疑かいぎ意味いみ・価値かち・存在そんざいそのものを疑うたがう。
入試にゅうし文ぶん

思考しこうの驚おどろきは、14自明じめい性せいへの驚おどろきである。「当あたり前まえにあること」「日常的にちじょうてきに慣なれ親したしんでいること」に驚おどろくことが、真実しんじつに知性ちせいと思考しこうの驚おどろきである。何なにもないことではなくて、むしろあることが問題もんだいである。これは知的ちてき15懐疑かいぎとよぶことができる。普通ふつう、人ひとはないことに驚おどろくが、むしろ反対はんたいになぜないのではなくてなぜあるのだろうかと驚おどろくべきである。あることは自明じめいであるからこそ、あることに驚おどろくことを考かんがえるのが本来ほんらいの驚おどろきなのである。これを日常にちじょう性せいからの離脱りだつという。懐疑かいぎすなわち知的ちてきに疑うたがうことは、日常的にちじょうてきな態度たいどからの離脱りだつ、あるいは日常的にちじょうてきなものの考かんがえ方かたを停止ていしすることである。この離脱りだつや停止ていしのために知性ちせいの酷こく使しがある。知性ちせいの酷こく使しと激はげしい精神せいしん労働ろうどうなしには、人ひとは真実しんじつに驚おどろくことはできない。

出典しゅってん 今いま村むら仁司ひとし『近代きんだいの思想しそう構造こうぞう』 / 出題しゅつだい 早稲田大学わせだだいがく・教育学きょういくがく部ぶ / 原げん書しょ p.32

読解どっかいのポイント
  • 自明じめい性せいへの驚おどろき = 知性ちせいと思考しこうの驚おどろき = 知的ちてき懐疑かいぎ = 日常にちじょう性せいからの離脱りだつ
要約ようやく

日常的にちじょうてきな自明じめい性せいに対たいする驚おどろきこそ、知的ちてき懐疑かいぎであるが、真しんに驚おどろくためには人ひとは知性ちせいを酷こく使ししなければならない。

語ご法ほうの観察かんさつ

同どう語ご反復はんぷくに見みえる「驚おどろきへの驚おどろき」が、対象たいしょうを一段いちだん上じょうへ繰くり上あげる操作そうさになっている。メタレベルへの移動いどうが一語いちごで行おこなわれている。

自明性の層と、それを破る驚きの図日常が自明性の層に支えられていること、その層に驚きが穴を開けたところから知的懐疑が始まることを示す。 疑われないまま通っている ── それが自明日常世界自明性の層 ── 証明されていないが、問われてもいない明白見れば分かる自明見ようとすら思わない驚き知的懐疑は、疑おうと決めることからは始まらない足を止めさせる出来事が先にある(14 → 15)
自明じめい性せいと、それを破やぶる驚おどろき
Section 09

自己じこ目的もくてき化か/倒錯とうさく

16★★

自己目的化じこもくてきか

じこもくてきか[0]平板へいばん型がた

語ご構成こうせい
自己じこみずから+目的もくてきめざすところ+化かなる
定義ていぎ

本来ほんらいは手段しゅだんであるべきものが目的もくてきとすりかわり、手段しゅだん自体じたいが目的もくてきとなってしまうこと。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑16
原げん書しょの解説かいせつ

ある行動こうどうが自己じこ目的もくてき化かすることは、プラスの場合ばあいとマイナスの場ばとの両方りょうほうがある。たとえば本来ほんらい、大学だいがく合格ごうかくの手段しゅだんにすぎない受験じゅけん勉強べんきょうが自己じこ目的もくてき化かすると、いざ合格ごうかくしたあとに、目的もくてき喪失そうしつという事態じたいを招まねきかねない。これは自己じこ目的もくてき化かがマイナスに働はたらく例れいである。

一方いっぽう、最初さいしょは生活せいかつの手段しゅだんと割わり切きっていた仕事しごとに熱中ねっちゅうし、仕事しごとそのものに楽らくしみを見み出だす。これは仕事しごとが自己じこ目的もくてき化かしたと言いえるが、仕事しごとが生いきがいとなることはむしろプラスと考かんがえてもよいだろう。

使用しようの境界きょうかい

本来ほんらいは手段しゅだんであったものが、それ自体じたいを目的もくてきとするようになること。プラスに働はたらく場合ばあいもある。

用法ようほう

原げん書しょはこの語ごをプラスとマイナスの両面りょうめんで説明せつめいする。マイナスの例れいは、大学だいがく合格ごうかくの手段しゅだんだった受験じゅけん勉強べんきょうがそれ自体じたいの目的もくてきになり、合格ごうかく後ごに目的もくてきを失うしなうこと。プラスの例れいは、生活せいかつの手段しゅだんだった仕事しごとそのものに楽らくしみを見み出だすこと。評ひょう論文ろんぶんでは組織そしき批判ひはんに使つかわれることが多おおく、「制度せいどが自己じこ目的もくてき化かする」「研究けんきゅうが自己じこ目的もくてき化かする」の形かたちが定型ていけい。倒錯とうさくと違ちがって、この語ご自体じたいには価値かち判断はんだんが含ふくまれていない。

用例ようれい
  • これを知しる者ものはこれを好このむ者ものに如しかず。これを好このむ者ものはこれを楽らくしむ者ものに如しかず。『論語ろんご』雍よう也なり篇へん
    知しる・好このむ・楽らくしむの三さん段だんが、そのまま手段しゅだんから目的もくてきへ移うつっていく階段かいだんになっている。知しるは、何なにかのために身みにつける段階だんかい。好このむは、それ自体じたいに心こころが向むきはじめた段階だんかい。そして楽らくしむは、もはや外そとに理由りゆうを要ようさない段階だんかいである。孔子こうしはこの最後さいごを最上さいじょうに置おいた。つまりここでは、自己じこ目的もくてき化かが到達点とうたつてんとして語かたられている。評ひょう論文ろんぶんで自己じこ目的もくてき化かが組織そしき批判ひはんの語ごとして現あらわれるのを見み慣なれていると、この一句いっくは意外いがいに映うつる。だが原げん書しょがわざわざ「プラスの場合ばあいもある」と断ことわるのは、まさにこの側面そくめんを落おとさないためである。
  • われらは世界せかいのまことの幸福こうふくを索さくねよう 求道きゅうどうすでに道みちである宮沢賢治みやざわけんじ『農民のうみん芸術げいじゅつ概がい論ろん綱要こうよう』(1926)
    「求道きゅうどうすでに道みちである」— 探さがすという手段しゅだんが、そのまま探さがし当あてるべき目的もくてきになっている。七なな文字もじで自己じこ目的もくてき化かのプラスの面めんを言いい切きった一句いっくである。ここで賢治けんじが「求道きゅうどうは道みちに至いたる」と書かかなかったことに注意ちゅういしたい。そう書かけば、道みちは探索たんさくの先さきにある別べつのものになり、探索たんさくは道みちに到達とうたつするまでの手段しゅだんに格下かくさげされる。「すでに」の一語いちごがその落差らくさを消けした。同おなじ構造こうぞうを否定的ひていてきに言いえば「手段しゅだんが目的もくてきにすりかわった」になる。すりかわりを堕落だらくと見みるか成就じょうじゅと見みるかは、語ごの側がわではなく書かき手ての立場たちばが決きめている。
  • 評価ひょうかのための書類しょるい作つくりが自己じこ目的もくてき化かし、本来ほんらいの業務ぎょうむを圧迫あっぱくしている。 組織そしき批判ひはんでもっとも多おおい型かたである。「書類しょるいが増ふえた」ではなく「自己じこ目的もくてき化かした」と書かくことで、量りょうの問題もんだいではなく手段しゅだんと目的もくてきの関係かんけいが入いれ替かわったという構造こうぞうの問題もんだいになる。この語ごの力ちからは、個々ここの無駄むだを責せめずに仕組しくみそのものを撃うてる点てんにある。
  • △手段しゅだんが目的もくてきにすりかわるという自己じこ目的もくてき化かは、断だんじて許ゆるされない。 「断だんじて許ゆるされない」という強つよい価値かち判断はんだんを伴ともなうなら、選えらぶべきは「倒錯とうさく」のほうである。自己じこ目的もくてき化かは、原げん書しょが強調きょうちょうするとおりそれ自体じたいには価値かち判断はんだんを含ふくまない。仕事しごとが生いきがいになるのも自己じこ目的もくてき化かだからだ。否定ひていしたいときに中立ちゅうりつ語ごを使つかうと、主張しゅちょうと語ごの重おもさがずれる。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

関せき 17 倒錯とうさく

コロケーション
  • 制度せいどが自己じこ目的もくてき化かする主語しゅごのとれる形かたちこの語ごがとる主語しゅごは、人ひとではなく仕組しくみであることが圧倒的あっとうてきに多おおい。「彼かれが自己じこ目的もくてき化かした」とはほとんど言いわない。なぜかといえば、すりかわりは誰だれかが決きめて起おこすものではなく、続つづけているうちにいつのまにか起おきるものだからである。主語しゅごに人ひとを置おけないという文法ぶんぽう上じょうの性質せいしつが、そのままこの語ごの意味いみの中身なかみを証明しょうめいしている。
  • 手段しゅだんの目的もくてき化か言いい換かえの精度せいどほぼ同義どうぎだが、こちらは「自己じこ」が抜ぬけているぶん、外そとから目的もくてきを与あたえられた場合ばあいも含ふくんでしまう。自己じこ目的もくてき化かは、他ほかならぬそれ自身じしんが自分じぶんの目的もくてきになるという再帰さいきの構造こうぞうを「自己じこ」の二字にじで押おさえている。再帰さいきであることは、18 の自己じこ言及げんきゅうのパラドックスとも遠とおく響ひびき合あっている。
  • 研究けんきゅうの自己じこ目的もくてき化か両義りょうぎの見本みほんこの一句いっくだけでは、褒ほめているのか批判ひはんしているのか決きまらない。役やくに立たたなくなったという批判ひはんにも、役やく立たちから自由じゆうになったという称賛しょうさんにもなる。純粋じゅんすい数学すうがくの弁護べんごはまさに後者こうしゃの線せんで書かかれてきた。同おなじ結むすびつきが評価ひょうかの両りょう極きょくを行いき来きするので、読解どっかいでは前後ぜんごの一文いちぶんまで読よまないと向むきが決きまらない。
  • 目的もくてき喪失そうしつすりかわりの後あと自己じこ目的もくてき化かしていたものが完了かんりょうしてしまったとき、次つぎに置おくべき目的もくてきが残のこっていないという事態じたいである。受験じゅけん勉強べんきょうが自己じこ目的もくてき化かした者ものが合格ごうかくの翌日よくじつに立たちすくむ、という原げん書しょの例れいがこれにあたる。つまり自己じこ目的もくてき化かのマイナスは、その最中さいちゅうではなく終おわったあとに現あらわれる。この時間差じかんさが、批判ひはんを難むずかしくしている。
格かく硬かた・学術がくじゅつ

論文ろんぶん・評ひょう論ろんでのみ使つかう。会話かいわでは不自然ふしぜん。

類るい語ごと差さ
  • 倒錯とうさく順序じゅんじょがひっくり返かえる常つねに否定的ひていてき。自己じこ目的もくてき化かはプラスに働はたらくこともある。この差さが原げん書しょの要点ようてん。
  • 形式けいしき化か中身なかみが抜ぬけて形かたちだけ残のこる形かたちと中身なかみの関係かんけい。自己じこ目的もくてき化かは手段しゅだんと目的もくてきの関係かんけい。
  • 空洞化くうどうか実質じっしつが失うしなわれる結果けっかの状態じょうたいを言いう。原因げんいんの構造こうぞうは言いわない。
  • 目的もくてきの転移てんい目的もくてきがずれる社会学しゃかいがくの用語ようご。自己じこ目的もくてき化かとほぼ同おなじ構造こうぞうを指さす。

ENbecoming an end in itself
ZH自我目的化(自己目的化, zìwǒ mùdìhuà)

17★★

倒錯とうさく

とうさく[0]平板へいばん型がた

語ご構成こうせい
倒とうたおれる・さかさま+錯さくまじる・くいちがう
定義ていぎ

本来ほんらいのあるべき順序じゅんじょや秩序ちつじょがひっくり返かえり、混乱こんらんすること。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑17
原げん書しょの解説かいせつ

「自己じこ目的もくてき化か」と意味いみが重かさなる部分ぶぶんもあるが、倒錯とうさくの方ほうは否定的ひていてきな意味いみ合あいを込こめて使つかうケースがほとんどである。

たとえば

本来ほんらい、国民こくみんの利益りえきを最優先さいゆうせんに考かんがえなければならない政治せいじ家かが、自己じこの名誉めいよ欲よくを優先ゆうせんして政治せいじ活動かつどうを行おこなうことは、「自己じこ目的もくてき化か」ではなく「倒錯とうさく」という言葉ことばがふさわしい。

使用しようの境界きょうかい

本来ほんらいあるべき順序じゅんじょや秩序ちつじょがひっくり返かえり混乱こんらんすること。否定的ひていてきな意味いみ合あいでのみ使つかう。

用法ようほう

「本ほん末まつ転倒てんとう」という成せい句くと内容ないようが重かさなるが、「倒錯とうさく」はより硬かたく、価値かちの体系たいけいそのものが反転はんてんしていることを指さす。「価値かちの倒錯とうさく」「倒錯とうさくした欲望よくぼう」のように、当人とうにんがそれを正ただしいと思おもっている点てんが含ふくまれる。単たんなる誤あやまりではなく、秩序ちつじょが入いれ替かわったまま安定あんていしてしまっている状態じょうたいを言いう。性せい的てきな文脈ぶんみゃくでの用法ようほうがあるため、日常にちじょう会話かいわでは避さけられる。評ひょう論文ろんぶんでは制度せいど批判ひはん・近代きんだい批判ひはんで使つかわれる。

用例ようれい
  • 名利みょうりに使しはれて、閑しずかなる暇ひまなく、一生いっしょうを苦くるしむるこそ、愚おろかなれ。吉田兼好よしだけんこう『徒然草つれづれぐさ』第だい三十さんじゅう八はち段だん(1330頃ころ)
    「名利みょうりに使しはれて」— この受うけ身みが一句いっくの要かなめである。名声めいせいも利益りえきも、本来ほんらいは人ひとが自分じぶんの生せいを豊ゆたかにするために使つかう道具どうぐだったはずだ。それが逆ぎゃくに人ひとを使つかっている。主語しゅごと目的語もくてきごが入いれ替かわったまま元もとに戻もどらない、これが倒錯とうさくの姿すがたである。兼好けんこうはこれを「愚おろかなれ」と断だんじた。自己じこ目的もくてき化かなら「そういうこともある」で済すむが、倒錯とうさくには必かならず価値かち判断はんだんが伴ともなう — その判断はんだんを含ふくめて一語いちごなのだという点てんで、この一文いちぶんは二に語ごの違ちがいを実演じつえんしている。
  • 礼れいは忠信ちゅうしんの薄うすきにして、乱らんの首くびなり。『老子ろうし』第だい三十さんじゅう八章はっしょう
    礼儀れいぎ作法さほうとは、まごころと信しん義ぎが薄うすれたところに現あらわれるもので、乱みだれのはじまりだ、という。礼れいはもともとまごころを外そとに表あらわすための手段しゅだんだった。ところが手段しゅだんの側がわだけが精密せいみつに整ととのえられ、中身なかみが抜ぬけたまま形式けいしきが自立じりつしてしまう。老子ろうしが鋭するどいのは、これを衰退すいたいの結果けっかではなく「乱らんの首はじまり(はじまり)」と呼よんだ点てんである。形式けいしきが中身なかみを追おい越こしたその時点じてんで、すでに崩くずれは始はじまっている。倒錯とうさくが「単たんなる誤あやまり」ではなく反転はんてんしたまま安定あんていしてしまった秩序ちつじょを指さすことが、ここからよく分わかる。
  • 効率こうりつを上あげるための会議かいぎが増ふえすぎて、価値かちの倒錯とうさくが起おきている。 「本ほん末まつ転倒てんとう」でも内容ないようは伝つたわるが、倒錯とうさくを選えらぶと個々ここの判断はんだんミスではなく価値かちの体系たいけいそのものが反転はんてんしているという含ふくみになる。成せい句くは事態じたいを軽かるく名指なざし、漢語かんごは構造こうぞうを名指なざす。硬かたさの差さは、そのまま射程しゃていの差さである。
  • △二人ふたりの立場たちばが倒錯とうさくした。 単たんに前後ぜんごや上下じょうげが入いれ替かわっただけなら「逆転ぎゃくてん」が正ただしい。倒錯とうさくは、当人とうにんがそれを正ただしいと思おもったまま反転はんてんが固定こていしていることを言いう。つまり気きづかれていないことが条件じょうけんである。「立場たちばが逆転ぎゃくてんした」なら誰だれの目めにも明あきらかで、それは倒錯とうさくとは呼よばない。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

関せき 16 自己じこ目的もくてき化か

派生はせい形けい
  • 倒錯的とうさくてき[0]「的てき」が付つくと状態じょうたいの記述きじゅつから性質せいしつの評価ひょうかへ移うつる。「倒錯とうさくした制度せいど」は起おきたことの記述きじゅつだが、「倒錯とうさく的てきな制度せいど」はその制度せいどの性質せいしつを言いう。後者こうしゃのほうが、いつからそうなったかを問とわずに済すむぶん批判ひはんとして強つよい。
  • 倒錯性とうさくせい[0]性質せいしつとして取とり出だす形かたち。「倒錯とうさく性せいを孕はらむ」「倒錯とうさく性せいが露あらわになる」と程度ていどや現あらわれ方ほうを論ろんじられるようになる。反転はんてんはゼロか一いちかのはずだが、この形かたちにすると度合どあいで語かたれてしまう — 接尾せつび辞じが語ごの論理ろんりをゆるめる例れいとして、12 の合理性ごうりせいと同おなじ働はたらきをしている。
  • 転倒てんとう[0]派生はせい形けいではなく、対たいにして覚おぼえたい近ちかい語ご。物理的ぶつりてきな転ころび方ほうにも使つかえるぶん、倒錯とうさくより軽かるく、価値かち判断はんだんも薄うすい。「本ほん末まつ転倒てんとう」が成せい句くとして広ひろく通用つうようするのに対たいし、「本ほん末まつ倒錯とうさく」とは言いわない — 成せい句くは日常にちじょう語ごの側がわの語ごを選えらぶという一般いっぱん則そくがここにも現あらわれている。
コロケーション
  • 価値かちの倒錯とうさく体系たいけいの反転はんてん個々ここの判断はんだんではなく順位じゅんいづけの体系たいけいごとひっくり返かえっている、という言いい方かたである。手段しゅだんが目的もくてきの上うえに来くる、形式けいしきが中身なかみの上うえに来くる、数字すうじが実態じったいの上うえに来くる — いずれも一ひとつひとつは小ちいさな入いれ替かえだが、全体ぜんたいが同おなじ向むきに傾かたむくと、その内部ないぶにいる者ものには傾かたむきが見みえなくなる。評ひょう論文ろんぶんがこの語ごで批判ひはんするのは、その見みえなさのほうである。
  • 倒錯とうさくした欲望よくぼう当人とうにんの確信かくしん注意ちゅういしたいのは、この形かたちが「間違まちがった欲望よくぼう」を意味いみしない点てんである。当人とうにんにとってそれは正ただしい欲望よくぼうであり、だからこそ倒錯とうさくなのだ。外そとから見みて反転はんてんしているが内ないから見みれば整ととのっている — この視点してんの食くい違ちがいが語ごの中心ちゅうしんにある。なお性せい的てきな文脈ぶんみゃくでの使用しようが定着ていちゃくしているため、日常にちじょう会話かいわでは避さけられる語ごでもある。
  • 本ほん末まつ転倒てんとう成せい句くとの距離きょり「本ほん」と「末まつ」というもともと備そなえわった順位じゅんいを前提ぜんていにした成せい句くである。木きの根ねと枝えだ先さきだから、どちらが本ほんかは疑うたがいようがない。倒錯とうさくはここが違ちがう。何なにが本ほんで何なにが末まつかを決きめているのは価値かちの体系たいけいのほうで、その体系たいけい自体じたいが反転はんてんしうる。成せい句くが事実じじつの誤あやまりを指さすのに対たいし、漢語かんごは判断はんだんの枠組わくぐみを指さす。
  • 倒錯とうさく的てきな構造こうぞう批判ひはんの道具どうぐ化か「的てき」と「構造こうぞう」を重かさねることで、個人こじんの性せい向こうから社会しゃかいの仕組しくみへ焦点しょうてんが移うつる。誰だれかが倒錯とうさくしているのではなく、その中なかにいれば誰だれでも倒錯とうさくする配置はいちになっている、という主張しゅちょうになる。近代きんだい批判ひはん・制度せいど批判ひはんがこの形かたちをとるのは、責任せきにんを個人こじんに負おわせずに批判ひはんを届とどかせるためである。
格かく硬かた

書かき言葉ことば。会話かいわでは不自然ふしぜん。

類るい語ごと差さ
  • 自己じこ目的もくてき化か手段しゅだんが目的もくてきになる構造こうぞうは重かさなるが、こちらは価値かち中立ちゅうりつ。倒錯とうさくは常つねに否定ひてい。
  • 逆転ぎゃくてん前後ぜんごが入いれ替かわる中立ちゅうりつ語ご。混乱こんらんの含ふくみがない。「立場たちばが逆転ぎゃくてんする」。
  • 転倒てんとう上下じょうげがさかさまになる物理的ぶつりてきにも使つかう。「本ほん末まつ転倒てんとう」は倒錯とうさくと近ちかい成せい句く。
  • 錯誤さくご思おもい違ちがい認識にんしきの誤あやまり。順序じゅんじょの反転はんてんではない。

ENinversion / perversion
ZH倒错(倒錯, dàocuò)

対立たいりつの軸じく

自己じこ目的もくてき化か/倒錯とうさく の軸じく = 何なにが入いれ替かわるか

自己じこ目的もくてき化か手段しゅだんが目的もくてきにすりかわる。
何なにが入いれ替かわるか
倒錯とうさく本来ほんらいの順序じゅんじょや秩序ちつじょがひっくり返かえる。
手段と目的の反転本来の手段から目的への順序が、自己目的化と倒錯によって反転する構造を示した図。 本来 受験勉強 手段 大学合格 目的 反転後 受験勉強 手段=目的 自己目的化 それ自体が目的になる。価値中立。 マイナス ── 合格後に目的を失う プラス ── 仕事そのものが生きがいになる 倒錯 = 同じ反転が常に否定的に評価される場合の呼び名
手段しゅだんと目的もくてきの反転はんてん
入試にゅうし文ぶん

専門せんもんの細分さいぶん化かについていえば、研究けんきゅうが精緻せいちをきわめるにつれておのずから領域りょういきの細分さいぶん化か・分業ぶんぎょうをもたらし、あまつさえおとらず細分さいぶん化かされた新あらたな研究けんきゅう領域りょういきを増殖ぞうしょくする傾かたむきのあることは、文科もんか系けいの諸しょ科学かがくといえども理工系りこうけいのそれとあまりかわるところがない。こうして細分さいぶん化かされますます精緻せいちにされた研究けんきゅうが、16自己じこ目的もくてき化かされて、「知しるために知しる」ことの一種いっしゅ17倒錯とうさくした戯画ぎがを呈ていする危険きけんを内ない蔵ぞうすることは、これも基本的きほんてきに文ぶん系けい、理系りけいの区別くべつを問とわないことである。これからの領域りょういきで緻密ちみつで非ひの打うちところ一ひとつない論文ろんぶんを書かいてはみたが、その研究けんきゅうに何なにの意味いみがあるのか考かんがえてみれば本当ほんとうのところは自分じぶんでもわからない、というわけである。
研究けんきゅう・教育きょういくにたずさわる側がわに、知識ちしきの細分さいぶん化か、というよりもより正確せいかくにいえば知識ちしきの細分さいぶん化かにともなうその133フェティシズム化かの危険きけん(と誘惑ゆうわく)があるとすれば、教育きょういくを受うける側がわには知識ちしきの断片だんぺん化かというこれまたよく似にた一種いっしゅの倒錯とうさくがつきまとう。

出典しゅってん 坂部さかべ恵めぐみ『〈インフォルマチオ〉としての人文学じんぶんがく』 / 出題しゅつだい 関西学院大学かんせいがくいんだいがく・社会学しゃかいがく部ぶ / 原げん書しょ p.34

読解どっかいのポイント
  • 研究けんきゅうは手段しゅだん(何なにかに役やく立たつための研究けんきゅう)
  • 研究けんきゅうの自己じこ目的もくてき化か(知しるために知しる)
  • 文ぶん系けい理系りけいを問とわず、専門せんもんの細分さいぶん化かが進行しんこうすることで、研究けんきゅうは自己じこ目的もくてき化かされ、「知しるために知しる」という倒錯とうさくに陥おちいりやすい。
要約ようやく

文ぶん系けい理系りけいを問とわず、専門せんもんの細分さいぶん化かが進すすむことで、研究けんきゅうは自己じこ目的もくてき化かされ、「知しるために知しる」という倒錯とうさくに陥おちいりやすい。

語ご法ほうの観察かんさつ

「というよりもより正確せいかくにいえば」で自みずからの語ごを訂正ていせいする。精度せいどを上あげていく過程かていそのものを読者どくしゃに見みせる型かた。

Section 10

パラドックス(逆説ぎゃくせつ)

18★★

パラドックス(逆説ぎゃくせつ)

パラドックス[3]中高なかだか型がた

語ご構成こうせい
逆ぎゃくさかさま+説せつとく・のべる

漢語かんご形けいは「逆説ぎゃくせつ(ぎゃくせつ)」。同義語どうぎごに「逆ぎゃく理り」がある。

定義ていぎ

①一見いっけんすると真理しんりに背そむいているように見みえて、実じつは一いち面めんの真理しんりを言いい表あらわしている表現ひょうげん。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑18
原げん書しょの解説かいせつ

例れい文ぶんのように「パラドックス」とも言いう。クレタ島人しまびとの言葉ことばは②の意味いみで用もちいられ、自己じこ(クレタ島人しまびと)が自己じこ(クレタ島人しまびと)について語かたる時ときに生しょうじる「自己じこ言及げんきゅうのパラドックス」ともよばれている。評ひょう論ろんでは、②よりも①の意いで用もちいられることの方ほうが多おおいが、いま一ひとつその内容ないようがつかみにくいかもしれないので、例れいを挙あげて説明せつめいしよう。

たとえば、「豊ゆたかになればなるほど、逆説的ぎゃくせつてきに欠乏けつぼうを感かんじてしまう」といった表現ひょうげんがなぜ逆説ぎゃくせつなのか。常識的じょうしきてきに考かんがえると、豊ゆたかになれば人々ひとびとの欠乏けつぼう感かんは埋うめられるはずだ。しかし実際じっさいは、豊ゆたかになることで、逆ぎゃくに「足たりないもの」を意識いしきするようになってしまう。これが典型的てんけいてきな逆説ぎゃくせつ表現ひょうげん。

この例れいからもわかるように、逆説ぎゃくせつ表現ひょうげんは、常識的じょうしきてきな結論けつろん(豊ゆたかになれば、人ひとは欠乏けつぼうを感かんじなくなる)に背そむくことで成立せいりつする。したがって、傍線ぼうせん部ぶ解釈かいしゃく問題もんだいなどで「逆説ぎゃくせつ」の説明せつめいを問とう問題もんだいに対たいしては、〈逆ぎゃくでなかったらどうなのか〉(常識的じょうしきてきな結論けつろんだとするとどうなのか)を考かんがえることで、解答かいとうに近ちかづけるはずだ。

| 常識じょうしき | = 欠乏けつぼう感かんは埋うめられる | | :---: | :---: | | 豊ゆたかになる | \updownarrow | | 逆説ぎゃくせつ | = 欠乏けつぼうを感かんじてしまう |

使用しようの境界きょうかい

①一見いっけん真理しんりに背そむいて見みえて、実じつは一いち面めんの真理しんりを言いい当あてている表現ひょうげん。②解ときがたい矛盾むじゅんを抱かかえた表現ひょうげんや事態じたい。評ひょう論文ろんぶんでは①が多おおい。

用法ようほう

読解どっかい上じょうは①の用法ようほうが要点ようてんになる。「豊ゆたかになればなるほど欠乏けつぼう感かんが強つよまる」のように、常識的じょうしきてきな結論けつろんに背そむく形かたちで一いち面めんの真理しんりを言いい当あてる表現ひょうげんである。傍線ぼうせん部ぶ解釈かいしゃくの設問せつもんでは、〈常識じょうしきならどうなるか〉を先さきに立たて、それに背そむく形かたちで答こたえを組くむと解とける。②は自己じこ言及げんきゅうによって前提ぜんていと帰結きけつが矛盾むじゅんする型かたで、「クレタ島人しまびとは嘘うそつきだ」とクレタ島人しまびとが言いった場合ばあいが典型てんけい。漢語かんご形けいは「逆説ぎゃくせつ」で、「逆説的ぎゃくせつてきに言いえば」の形かたちが評ひょう論文ろんぶんの接続せつぞく表現ひょうげんとして頻出ひんしゅつする。

用例ようれい
  • 秘ひすれば花はななり、秘ひせずば花はななるべからず。世阿弥ぜあみ『風姿ふうし花伝かでん』別紙べっし口伝くでん(1400頃ころ)
    隠かくすからこそ花はなになる、隠かくさなければ花はなではありえない — 典型的てんけいてきな逆説ぎゃくせつである。常識じょうしきでは、見みせてこそ美びは美びとして伝つたわる。世阿弥ぜあみはその常識じょうしきに正面しょうめんから背そむいた。そして背そむいたうえで、一いち面めんの真理しんりを言いい当あてている。観客かんきゃくが受うける感動かんどうは、演えんじられたものだけから来くるのではなく、「まだ何なにかあるらしい」という予期よきからも来くる。手ての内うちを明みんかせばその予期よきが消きえる。原げん書しょのすすめる手順てじゅんどおり〈逆ぎゃくでなかったらどうなのか〉を立たててみると、「見みせれば花はなになる」— たしかにそう思おもっていた、と読者どくしゃに気きづかせる。逆説ぎゃくせつは、読者どくしゃの常識じょうしきを先さきに立たち上うえがらせてから折おりる。
  • 大だい直ちょくは屈くっするが若わかく、大巧たいこうは拙せつなるが若わかく、大だい弁べんは訥とつなるが若わかし。『老子ろうし』第だい四十よんじゅう五ご章しょう
    本当ほんとうにまっすぐなものは曲まがって見みえ、本当ほんとうに巧たくみなものは拙つたなく見みえ、本当ほんとうの雄弁ゆうべんは口くちごもって見みえる。三みっつの逆説ぎゃくせつを畳たたみかけた一節いっせつである。ここで効きいているのは「若わかし(〜のようだ)」という一語いちごである。老子ろうしは「大巧たいこうは拙せつである」とは言いっていない。拙つたなく「見みえる」と言いっているのだ。この一語いちごがあるおかげで、文ぶんは矛盾むじゅんせずに済すんでいる。逆説ぎゃくせつと単たんなる矛盾むじゅんを分わける境目さかいめがここにあり、逆説ぎゃくせつは必かならず、見みかけと実質じっしつのあいだに一段いちだんの落差らくさを用意よういしている。その落差らくさを見みつけることが、逆説ぎゃくせつを解とくということである。
  • 豊ゆたかになればなるほど、逆説的ぎゃくせつてきに人ひとは欠乏けつぼうを感かんじるようになる。 原げん書しょが挙あげる典型例てんけいれい。解とき方かたは決きまっている — まず〈逆ぎゃくでなかったらどうか〉を立たてる。常識じょうしきでは「豊ゆたかになれば欠乏けつぼう感かんは埋うまる」。それに背そむく形かたちが本文ほんぶんの主張しゅちょうだから、答こたえは「常識じょうしきの否定ひてい」+「そうなる理由りゆう」の二に段だんで組くむ。理由りゆうはたいてい、選択肢せんたくしが増ふえると比較ひかくの対象たいしょうも増ふえるから、という形かたちで本文ほんぶん中ちゅうに置おかれている。
  • ×彼かれの説明せつめいは前まえと後あとで食くい違ちがっていてパラドックスだ。 ただ食くい違ちがっているだけなら「矛盾むじゅん」である。パラドックスは、成なり立たたないように見みえながら一いち面めんの真理しんりを含ふくむという二に重じゅう性せいが要いる。真理しんりを含ふくまない食くい違ちがいは、ただの誤あやまりにすぎない。「それでも正ただしいところがあるか」を問とえば、この二に語ごはきれいに分わかれる。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

関せき 33 ディレンマ

派生はせい形けい
  • 逆説的ぎゃくせつてき[0]副詞ふくし化かして「逆説的ぎゃくせつてきに」の形かたちで使つかうのが圧倒的あっとうてきに多おおい。名詞めいしのパラドックスが事柄ことがらを指さすのに対たいし、この形かたちは述のべ方ほうを指さす。同おなじ事態じたいでも、逆説ぎゃくせつとして述のべるかどうかは書かき手てが選えらべる — その選択せんたくの余地よちがこの形かたちに現あらわれている。
  • 逆理ぎゃくり②の意味いみ、すなわち論理的ろんりてきに解とけない矛盾むじゅんだけを指さす。数学すうがく・論理学ろんりがくの術語じゅつごで、「ラッセルの逆ぎゃく理り」のように使つかう。①の意味いみでは決けっして使つかえないので、この語ごが出でてきたら文章ぶんしょうは論理学ろんりがくの側がわに立たっている。
  • 背理はいり道理どうりに背そむくこと。「背理法はいりほう」はある命題めいだいを否定ひていすると矛盾むじゅんが導みちびかれることを示しめして、もとの命題めいだいを証明しょうめいする方法ほうほうである。逆説ぎゃくせつが真理しんりを含ふくみながら常識じょうしきに背そむくのに対たいし、背理はいりは矛盾むじゅんを積極的せっきょくてきに作つくり出だして利用りようする — 矛盾むじゅんを目的地もくてきちにするか道具どうぐにするかの違ちがいがある。
コロケーション
  • 逆説的ぎゃくせつてきに言いえば接続せつぞくの定型ていけい評ひょう論文ろんぶんでもっとも頻度ひんどの高たかい形かたちで、これから常識じょうしきに背そむくことを言いう、という予告よこくとして働はたらく。予告よこくがあることが重要じゅうようである。予告よこくなしに常識じょうしきに背そむけば読者どくしゃは読よみ違ちがえるが、この一句いっくが置おかれると、読者どくしゃは自分じぶんの常識じょうしきをいったん脇わきへ置おいて構かまえる。接続せつぞく表現ひょうげんでありながら、読よみ手ての姿勢しせいを作つくり替かえている。
  • 自己じこ言及げんきゅうのパラドックス②の型かた「クレタ島人しまびとは嘘うそつきだ」とクレタ島人しまびとが言いう型かたで、語かたる者ものが語かたられる対象たいしょうに含ふくまれてしまうときに生しょうじる。①が「一いち面めんの真理しんり」を含ふくむのに対たいし、②は真偽しんぎが決きまらない。同おなじ語ごで呼よばれているが、性格せいかくはかなり違ちがう。評ひょう論文ろんぶんに出でるのはほぼ①のほうだが、「この理論りろんは自身じしんにも当あてはまるのか」という問といが立たつ場面ばめんでは②が顔かおを出だす。
  • 逆説ぎゃくせつを孕はらむ内包ないほうの動詞どうし「孕はらむ」は、外そとから加くわわったのではなく内側うちがわに最初さいしょから抱かかえていることを言いう。「近代きんだいは自みずからの内ないに逆説ぎゃくせつを孕はらんでいた」と書かけば、矛盾むじゅんが失敗しっぱいや事故じこではなく成なり立たちそのものに組くみ込こまれていたことになる。この動詞どうしひとつで、批判ひはんは「やり方かたが悪わるかった」から「そもそもそういうものだった」へ深ふかまる。
  • 逆説ぎゃくせつめいたぼかしの接尾せつび辞じ「めく」は、そう見みえるがそうと決きめきれない、という含ふくみを添そえる。逆説ぎゃくせつだと断言だんげんする責任せきにんを負おわずに、逆説ぎゃくせつの効果こうかだけを借かりる言いい方かたである。随筆ずいひつや評ひょう論ろんの柔やわらかい部分ぶぶんでよく使つかわれるが、論証ろんしょうの中心ちゅうしんでは使つかえない。「めいた」が出でてきたら、そこは主張しゅちょうではなく風景ふうけいの描写びょうしゃだと読よみ分わけたい。
格かく中なか

書かき言葉ことば・会話かいわの両方りょうほうで使つかえる。

類るい語ごと差さ
  • 逆ぎゃく理り論理的ろんりてきに解とけない矛盾むじゅん②の意味いみだけを指さす。「クレタ島人しまびとは嘘うそつきだ」の型かた。
  • ディレンマ二ふたつとも選えらべない選択せんたくの場面ばめんに限かぎる。パラドックスは表現ひょうげんや論理ろんりの性質せいしつ。
  • アイロニー真しん意いと逆ぎゃくを言いう話者わしゃの意図いとがある。パラドックスは事柄ことがらの構造こうぞうで、意図いとを含ふくまない。
  • 矛盾むじゅん両立りょうりつしない単たんに成なり立たたないこと。パラドックスは〈成なり立たたないのに真理しんりを含ふくむ〉点てんが違ちがう。

ENparadox
ZH悖论(パラドックス, bèilùn)

自己言及のパラドックスクレタ島人が「クレタ島人は嘘つきだ」と言った場合に、前提と帰結が循環して真偽が定まらない構造を示した図。 クレタ島人が「クレタ島人は嘘つきだ」と言う 前提 ── 嘘つきだとする 帰結 ── 嘘つきでなくなる 前提 ── 嘘つきでないとする 帰結 ── 嘘つきになる どちらを前提にしても矛盾する ── 内容の真偽を判定できない
自己じこ言及げんきゅうによって真偽しんぎが定さだまらない
入試にゅうし文ぶん

〈ことば〉が〈もの〉の反映はんえいであると言いうためには、当然とうぜん、〈ことば〉と〈もの〉は対応たいおうしていなければならないという前提ぜんていが必要ひつようです。ところが、この前提ぜんていに対たいする反証はんしょうは、いとも簡単かんたんに見みつけることができます。たとえば、かの嘘うそつきの18パラドックス「クレタ島人しまびとは嘘うそつきだ」とクレタ島人しまびとが言いったがそれです。
この逆ぎゃく理りの逆ぎゃく理りたるゆえんは、「自家撞着じかどうちゃく」ということで説明せつめいされます。もし、このことばを発はっしたクレタ島人しまびとが嘘うそつきだったとすれば、「クレタ島人しまびとは嘘うそつきだ」ということばも嘘うそのはずですから、結局けっきょく、その人ひとを含ふくむクレタ島人しまびとは嘘うそつきではないことになってしまいます。その人ひとが嘘うそつきではなかったとすれば、「クレタ島人しまびとは嘘うそつきだ」ということは本当ほんとうのはずなので、その人ひとは嘘うそつきになってしまいます。要ようするに、これはのち前提ぜんていと帰結きけつとが矛盾むじゅんを起おこすようにできていることばで、それゆえ、その内容ないようの論理的ろんりてき真偽しんぎを判定はんていすること自体じたいが不可能ふかのうなのです。

出典しゅってん 滝浦たきうら真人まさとの文章ぶんしょう / 出題しゅつだい 早稲田大学わせだだいがく・教育学きょういくがく部ぶ / 原げん書しょ p.36

読解どっかいのポイント
  • 前提ぜんてい=言葉ことばを発はっしたクレタ島人しまびとを嘘うそつきとすると
  • 前提ぜんてい=言葉ことばを発はっしたクレタ島人しまびとが嘘うそつきでないとすると
要約ようやく

「クレタ島人しまびとは嘘うそつきだ」とクレタ島人しまびとが言いった」というパラドックスは、論理的ろんりてき真偽しんぎの判定はんていが不可能ふかのうであり、〈ことば〉が〈もの〉を反映はんえいしているということの反証はんしょうになっている。

語ご法ほうの観察かんさつ

「です・ます」体からだ。前提ぜんていと帰結きけつを交互こうごに置おき、読者どくしゃに推論すいろんを辿たどらせる。文体ぶんたいが論理ろんりの運はこびに合あわせて選えらばれている。

Section 11

虚構きょこう(フィクション)

19★★

虚構(フィクション)きょこう

きょこう[0]平板へいばん型がた

語ご構成こうせい
虚きょむなしい・実じつがない+構こうくみたてる
定義ていぎ

つくりごと。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑19
原げん書しょの解説かいせつ

英語えいごの「フィクション」の訳語やくご。文学ぶんがくの世界せかいでは、作者さくしゃの想像力そうぞうりょくが加くわわっていることを虚構きょこうと言いうが、評ひょう論ろんで登場とうじょうする「虚構きょこう」は、〈想像そうぞう〉や〈つくり話はなし〉の意いは薄うすれ、〈明確めいかくな起源きげんや根拠こんきょがない〉〈特定とくていの時代じだいの人間にんげんが勝手かってに線引せんびきしてつくったもの〉というニュアンスで使つかわれることが多おおい。

なお、ノンフィクションとは、事実じじつに基もとづいていることを言いう。

たとえば

「家父かふ長ちょう制せい(=家長かちょうの男性だんせいが家族かぞくの中なかで最高さいこうの権限けんげんをもっているあり方かた)」は、決けっして時代じだいを貫つらぬく普遍的ふへんてきなものではない。そのため、現代げんだいでは、一種いっしゅの虚構きょこうの制度せいどである。

```

文学ぶんがく作品さくひんでの「虚構きょこう」 └─ 作者さくしゃの想像力そうぞうりょくにより、事実じじつでないものをつくり上あげること ↕ 〈想像そうぞう〉〈つくり話はなし〉の意いが薄うすれる 評ひょう論文ろんぶんでの「虚構きょこう」 └─ 事実じじつに基もとづいていない、つくりごと

```

使用しようの境界きょうかい

事実じじつに基もとづかないつくりごと。評ひょう論文ろんぶんでは〈想像そうぞう〉〈つくり話はなし〉の意いが薄うすれ、〈明確めいかくな起源きげんや根拠こんきょがない〉の意いで使つかう。

用法ようほう

文学ぶんがくの「虚構きょこう」は作者さくしゃの想像力そうぞうりょくによる創造そうぞうを意味いみするが、評ひょう論文ろんぶんの「虚構きょこう」は〈事実じじつに基もとづかない、根拠こんきょのない組くみ立たて〉を指さし、想像力そうぞうりょくの含ふくみが薄うすれる。「家父かふ長ちょう制せいは一種いっしゅの虚構きょこうである」のように、制度せいどや慣習かんしゅうを批判ひはんする語ごとして使つかわれるのが特徴とくちょう。この場合ばあい、虚構きょこうは嘘うそではなく、多おおくの人ひとが共有きょうゆうしている構築物こうちくぶつという含ふくみになる。「虚構きょこうと真実しんじつ」という対たいは、ウソとマコトの対たいとは別べつで、詩しと真実しんじつ(ゲーテ)の側がわに近ちかい、という議論ぎろんが原げん書しょの入試にゅうし文ぶんにある。

用例ようれい
  • 男おとこもすなる日記にっきといふものを、女おんなもしてみむとてするなり。紀き貫之つらゆき『土佐とさ日記にっき』冒頭ぼうとう(935頃ころ)
    日本にほんの散文さんぶんで、もっとも早はやく、もっともはっきりと虚構きょこうが宣言せんげんされた一行いちぎょうである。書かいているのは男おとこである貫之つらゆきだが、文中ぶんちゅうの「私わたし」は女おんなということになっている。注目ちゅうもくしたいのは、虚構きょこうが物語ものがたりの中身なかみではなく「語かたり手て」の側がわに置おかれている点てんだ。書かかれる出来事できごとは実際じっさいの旅たびの記録きろくで、嘘うそではない。嘘うそなのは、それを誰だれが語かたっているかという枠わくのほうである。ここに評ひょう論文ろんぶんで言いう虚構きょこうの性格せいかくがすでに現あらわれている — 虚構きょこうとは内容ないようの真偽しんぎではなく、人ひとが引ひいた枠わくのことなのだ。そしてこの枠わくがあったからこそ、漢文かんぶんの型かたに縛しばられない仮名かなの文体ぶんたいが生うまれた。虚構きょこうは制約せいやくではなく、可能性かのうせいを開ひらく装置そうちでもある。
  • 芸げいというものは実じつと虚きょとの皮膜ひまくの間あいだにあるものなり。近ちか松まつ門左衛門もんざえもんの芸げい論ろん・穂積ほづみ以貫いかん『難波なんば土産みやげ』(1738)所収しょしゅう
    「皮膜ひにく(ひにく)の間あいだ」— 皮かわと肉にくのあいだ、つまり薄うすくて分ぶんかちがたい境目さかいめに芸げいはある、という。完全かんぜんな事実じじつでも完全かんぜんな作つくり事ことでもいけない。ここで近ちか松まつは虚構きょこうと嘘うそをはっきり切きり分わけている。嘘うそは事実じじつの代かわりに置おかれるが、虚構きょこうは事実じじつに寄より添そったまま、事実じじつがそのままでは届とどかせられないものを届とどかせる。原げん書しょが「虚構きょこうは嘘うそではない」「騙だます意図いとを含ふくまない」とくり返かえし注意ちゅういするのは、この区別くべつが読解どっかいの要かなめになるからである。なお現代げんだいの評ひょう論文ろんぶんが「家父かふ長ちょう制せいは虚構きょこうである」と書かくときの虚構きょこうも、嘘うそという意味いみではなく、多おおくの人ひとが共有きょうゆうしている組くみ立たてという意味いみで使つかわれている。
  • 国民こくみんという単位たんいは、近代きんだいが作つくり出だした一種いっしゅの虚構きょこうである。 評ひょう論文ろんぶんの典型的てんけいてきな用法ようほう。「嘘うそだ」と言いっているのではない。明確めいかくな起源きげんも自然しぜんの根拠こんきょも無なく、ある時代じだいの人間にんげんが線せんを引ひいてこしらえたものだ、と言いっている。虚構きょこうであることは、力ちからが無ないことも、価値かちが無ないことも意味いみしない。多おおくの人ひとが共有きょうゆうしていれば、虚構きょこうは現実げんじつとして働はたらく — この含ふくみを落おとすと、文章ぶんしょうの主張しゅちょうがただの否定ひていに読よめてしまう。
  • ×彼かれの証言しょうげんはまったくの虚構きょこうで、法廷ほうていを欺あざむいた。 欺あざむく意図いとがあるなら、それは「嘘うそ」「偽証ぎしょう」である。虚構きょこうは騙だます意図いとを含ふくまない。土佐とさ日記にっきの「私わたしは女おんなです」は虚構きょこうだが、誰だれも貫之つらゆきが騙だましたとは言いわない。読よみ手てと書かき手てのあいだに「これは作つくり物ものです」という了りょう解かいがあるかどうか — そこが虚構きょこうと嘘うそを分わける線せんである。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

反はん 現実げんじつ / 関せき 35 恣意しい

派生はせい形けい
  • 虚構的きょこうてき[0]「虚構きょこうの」で足たりるため使用しよう頻度ひんどは低ひくい。あえて用もちいるのは、虚構きょこうそのものではなく「虚構きょこうに似にた性質せいしつ」を指さしたいときである。「虚構きょこう的てきな安定あんてい」と書かけば、安定あんていそれ自体じたいは現実げんじつに働はたらいていることを認みとめたうえで、その根拠こんきょの薄うすさだけを問題もんだいにできる。
  • 虚構性きょこうせい[0]性質せいしつとして取とり出だす形かたちで、「虚構きょこう性せいを帯おびる」「虚構きょこう性せいが高たかい」と程度ていどで論ろんじられるようになる。虚構きょこうか現実げんじつかという二に択たくを崩くずせるので、両者りょうしゃの境目さかいめを主題しゅだいにする文章ぶんしょうではほぼ必かならずこの形かたちが使つかわれる。
  • 仮構かこう「仮かりに組くみ立たてる」という行為こういの側がわに重心じゅうしんがある語ご。虚構きょこうが出来でき上あがった産物さんぶつも指ゆびせるのに対たいし、こちらは組くみ立たてる働はたらきを指さす。「仮構かこうされた共同体きょうどうたい」と書かけば、誰だれかが組くみ立たてたという行為こういの痕跡こんせきが文ぶんに残のこる点てんが違ちがう。
コロケーション
  • 一種いっしゅの虚構きょこう断定だんていを和やわらげる「虚構きょこうである」と言いい切きらず「一種いっしゅの」を挟はさむのは、読者どくしゃの反発はんぱつをあらかじめ受うけ止とめるためである。制度せいどや共同体きょうどうたいを虚構きょこうと呼よばれれば、それに属ぞくしている読者どくしゃは否定ひていされたように感かんじる。「一種いっしゅの」が入はいると、虚構きょこうという枠組わくぐみの一いち例れいとして位置いちづける言いい方かたに変かわり、断罪だんざいの響ひびきが消きえる。評ひょう論文ろんぶんはこの緩衝材かんしょうざいをかなり意識的いしきてきに使つかう。
  • 虚構きょこうと現実げんじつ対たいの落おとし穴あな一見いっけんすると素直すなおな対たいだが、評ひょう論文ろんぶんでこの対たいが出でるときは、たいていその対立たいりつ自体じたいが疑うたがわれようとしている。虚構きょこうが共有きょうゆうされれば人ひとはそれに従したがって動うごき、制度せいどが回まわり、結果けっかとして現実げんじつが作つくられる。つまり虚構きょこうは現実げんじつの反対はんたい側がわではなく、現実げんじつを成なり立たたせている側がわにいる。この反転はんてんを予感よかんしながら読よむと、論ろんの運はこびが追おいやすい。
  • 虚構きょこう性せいを暴あばく批評ひひょうの身振みぶり「暴あばく」は隠かくされていたものを引ひきずり出だす動詞どうしである。したがってこの形かたちは、虚構きょこうが虚構きょこうと気きづかれずに通用つうようしていたことを前提ぜんていにする。14 の自明じめい性せいと同おなじ構造こうぞうで、問とわれないまま通とおっていたものを問といの場ばへ引ひき出だす作業さぎょうだ。ただし暴ぼういたあとに何なにを置おくのかまで書かけていない文章ぶんしょうは、たいてい批判ひはんとして弱よわい。
  • 虚きょ実じつ皮膜ひまく創作そうさく論ろんの術語じゅつご近ちか松まつに由来ゆらいする成せい句くで、虚きょと実じつのどちらにも寄よりきらない薄うすい層そうに芸げいが宿やどるという考かんがえを指さす。評ひょう論文ろんぶんではそのまま芸術げいじゅつ論ろんの文脈ぶんみゃくで現あらわれる。「虚構きょこう」を単たんなる作つくり事ことと理解りかいしていると、この語ごが出でた瞬間しゅんかんに読解どっかいが止とまる。虚構きょこうが事実じじつと共存きょうぞんしうることを押おさえておきたい。
格かく硬かた

書かき言葉ことば。会話かいわでは不自然ふしぜん。

類るい語ごと差さ
  • 仮構かこうかりに組くみ立たてる組くみ立たてる行為こういに重心じゅうしん。虚構きょこうは結果けっかとしての産物さんぶつも指さす。
  • 擬制ぎせい法ほうが事実じじつと見みなす法学ほうがくの語ご。事実じじつでないことを制度せいど上じょうの事実じじつとして扱あつかう。「法人ほうじん」がその例れい。
  • 恣意しい根拠こんきょなく決きめる決定けっていに主体しゅたいがある。虚構きょこうは共有きょうゆうされた構築物こうちくぶつ。
  • 嘘うそ事実じじつに反はんする言明げんめい相手あいてを騙だます意図いとを含ふくむ。虚構きょこうは騙だます意図いとを含ふくまない。原げん書しょもこの点てんを区別くべつする。

ENfiction
ZH虚构(虚構, xūgòu)

入試にゅうし文ぶん

19フィクション論ろんの観点かんてんからいうと、「19虚構きょこうと真実しんじつ」というのはいくらか文学的ぶんがくてきなテーマ設定せっていである。というのも、そこには「虚偽きょぎ(ウソ)」が含ふくまれていないからだ。図式ずしき的てきな言いい方かたになるが、日常にちじょう世界せかいでの対立たいりつ項こうは虚偽きょぎと事実じじつ(ないし事実じじつ)、つまりウソとマコトである。それに対たいして虚構きょこうはフィクションであり、これは原則げんそくとして真偽しんぎの埒外らちがいにあるとされる(フィクションについては真偽しんぎを問題もんだいにすべきではない。フィクションは架空かくうであっても騙だますことを目的もくてきとしない、云々うんぬん)。だから、「虚構きょこうと真実しんじつ」は、むしろゲーテのいう「詩しと真実しんじつ」に近ちかいのテーマではないか(「文学的ぶんがくてき」という理由りゆうはそこにある)。相手あいての場合ばあい「真実しんじつ」は、「事実じじつ」の同義語どうぎごとしてではなく、むしろ「真理しんり」の意味いみに解かいすべきではないか。現在げんざい「フィクション論ろん漬つけ」になっている私わたしなどはこんなふうに考かんがえるのだが、どうだろうか。

出典しゅってん 大浦おおうら康介こうすけ『虚構きょこうの知恵ちえ・ウソの効用こうよう』 / 出題しゅつだい 関西大学かんさいだいがく・法学部ほうがくぶ・経済学部けいざいがくぶ・政策創造学部せいさくそうぞうがくぶなど / 原げん書しょ p.38

読解どっかいのポイント
  • \neq 虚偽きょぎと真実しんじつ(ないし事実じじつ) キウソとマコト
  • 虚構きょこうには「虚偽きょぎ(ウソ)」が含ふくまれていない
要約ようやく

「虚構きょこうと真実しんじつ」は、虚偽きょぎと真実しんじつ(事実じじつ)やウソとマコトということではない。虚構きょこうはフィクションで、「虚偽きょぎ(ウソ)」が含ふくまれないからだ。「虚構きょこうと真実しんじつ」は「詩しと真実しんじつ(ここでは真理しんり)」の方ほうに近ちかい。

語ご法ほうの観察かんさつ

「〜ではないか」「どうだろうか」で問といを重かさね、結論けつろんを保留ほりゅうしたまま論ろんを進すすめる。

事実・虚構・嘘を二軸で分けた図縦軸に「事実に基づくか」、横軸に「騙す意図があるか」をとり、虚構が嘘と別の象限に立つことを示す。 虚構は嘘ではない ── 分ける軸は「騙す意図」事実に基づくNO DECEPTIONDECEPTION事実の記録ノンフィクション捏造事実を装った偽り虚構つくりごとという了解が共有されている嘘相手を欺く意図がある事実に基づかない土佐日記の「私は女です」は虚構であって嘘ではない
事実じじつに基もとづくか/騙だます意図いとがあるか
Section 12

イデオロギー/疎そ外がい

20★★

イデオロギー

イデオロギー[3]中高なかだか型がた

定義ていぎ

人々ひとびとの考かんがえ方かたや行動こうどうを根底こんていで制限せいげんしている信念しんねんや思想しそう。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑20
原げん書しょの解説かいせつ

まずイデオロギーは、否定的ひていてきな意味いみ合あいで使つかわれることが多おおいことを覚おぼえておこう。特定とくていの考かんがえ方かたに凝こり固かたまっているわけだから、〈頑固がんこで融通ゆうずうがきかない〉というイメージだ。

もう一ひとつ押おさえておきたいのは、政治せいじの文脈ぶんみゃくでは、社会しゃかい主義しゅぎ・共産主義きょうさんしゅぎ・資本しほん主義しゅぎなどに対たいして使つかわれることが多おおいということ。第だい二次にじ世界せかい大戦たいせん後ごの冷戦れいせん時代じだい、アメリカに代表だいひょうされる西にし側がわ諸国しょこくの資本しほん主義しゅぎとソビエト連邦れんぽう(現在げんざいのロシアなど)に代表だいひょうされる東ひがし側がわ諸国しょこくの社会しゃかい主義しゅぎとの間あいだに、大おおきな思想しそう的てき対立たいりつがあった。これを、資本しほん主義しゅぎと社会しゃかい主義しゅぎとの「イデオロギーの対立たいりつ」と言いう。思想しそうがイデオロギー化かすると、そのイデオロギーが他ほかのあらゆる思想しそうよりも優すぐれたものだと思おもい込こんでしまう。イデオロギーにはこうした排他的はいたてきで柔軟性じゅうなんせいに欠かけた面めんがあり、対立たいりつを引ひき起おこしやすい。

コラム

政治的せいじてき・思想しそう的てきなイデオロギーは、現実げんじつが不当ふとうであることを喚起かんきすることで、人々ひとびとの共感きょうかんを集あつめていく。資本しほん主義しゅぎが〈自由じゆう〉を、社会しゃかい主義しゅぎが〈解放かいほう〉を唱となえ、それが受うけ入いれられたのは、人々ひとびとが置おかれている現実げんじつが〈不ふ自由じゆう〉であったり、〈束縛そくばく〉であったりしたからだ。しかし、掲かかげた課題かだいが達成たっせいされれば、イデオロギーの力ちからは失効しっこうする。たとえば、産業さんぎょう化かに成功せいこうした先進国せんしんこくでは、かつてのような貧困ひんこんや抑圧よくあつは存在そんざいしないので、イデオロギーの力ちからは弱じゃくまる。こうした事情じじょうを指さして「イデオロギーの終焉しゅうえん(しゅうえん)」と呼よぶ論ろん者しゃもいる。

使用しようの境界きょうかい

人々ひとびとの考かんがえ方かたや行動こうどうを根底こんていで制限せいげんしている信念しんねんや思想しそう。政治せいじの文脈ぶんみゃくでは否定的ひていてきに使つかうことが多おおい。

用法ようほう

「思想しそうがイデオロギー化かする」と言いうと、その思想しそうが他ほかより優すぐれたものだと思おもい込こまれ、排他的はいたてきで柔軟性じゅうなんせいを欠かいた状態じょうたいになることを意味いみする。この動詞どうし化かした形かたちが評ひょう論文ろんぶんで最もっとも批判的ひはんてきに働はたらく。第だい二次にじ大だい戦後せんごの冷戦れいせんは資本しほん主義しゅぎと社会しゃかい主義しゅぎの「イデオロギーの対立たいりつ」として語かたられ、これが代表だいひょう例れいになる。マルクス以降いこうは、支配しはい階級かいきゅうの利益りえきを普遍的ふへんてきな価値かちとして見みせる仕組しくみを指さす用法ようほうもあり、この場合ばあいは当人とうにんに自覚じかくがないことが含意がんいされる。

用例ようれい
  • 君子くんしは和わして同どうぜず、小人しょうじんは同おなじて和わせず。『論語ろんご』子路しろ篇へん
    「同どうずる」は、違ちがいを消けして一ひとつに揃そろうこと。「和わする」は、違ちがいを残のこしたまま釣つり合あうこと。孔子こうしはこの二ふたつを正反対せいはんたいに置おいた。イデオロギーが批判ひはんされるときに問題もんだいにされているのは、ほぼ常つねに「同どうずる」ほうの働はたらきである。特定とくていの考かんがえが集団しゅうだんを覆おおい、異ことなる声こえを差異さいとしてではなく誤あやまりとして扱あつかいはじめる。原げん書しょが「排他的はいたてきで柔軟性じゅうなんせいに欠かけた面めんがある」と説明せつめいするのはまさにこの状態じょうたいを指さす。注意ちゅういしたいのは、孔子こうしが「同どうずる」を思想しそうの内容ないようによって非難ひなんしていない点てんである。何なにを信しんじるかではなく、信しんじ方ほうが違ちがいを許ゆるすかどうかが分わかれ目めになっている。
  • 「然さし是ぜからは日本にほんも段々だんだん発展はってんするでせう」と弁護べんごした。すると、かの男おとこは、すましたもので、「亡ほろびるね」と言げんつた。夏目なつめ漱石そうせき『三四郎さんしろう』(1908)
    日露にちろ戦争せんそうに勝かって一等国いっとうこくになったのだからこれからは発展はってんするだろう、という三四郎さんしろうに対たいし、見知みしらぬ男おとこが「亡ほろびるね」と返かえす。この短みじかい応酬おうしゅうが示しめしているのは、三四郎さんしろうの側がわが疑うたがいもせず立たっていた前提ぜんていのほうである。「日本にほんは発展はってんする」は、当時とうじの彼かれにとって意見いけんではなく空気くうきだった。それが意見いけんにすぎないと分わかるのは、否定ひていする声こえが横よこに置おかれた瞬間しゅんかんである。イデオロギーは、外そとから一言ひとこと差さし込こまれてはじめて姿すがたを現あらわす — それまでは思想しそうではなく、ただの現実げんじつに見みえている。マルクス以降いこうの用法ようほうが「当人とうにんに自覚じかくがない」ことを含意がんいするのは、この見みえなさを言いっている。
  • 中立ちゅうりつを装そうう言説げんせつこそ、もっとも強力きょうりょくなイデオロギーとして働はたらく。 評ひょう論文ろんぶんの定型ていけい的てきな主張しゅちょうである。「これは思想しそうだ」と名乗なのっているものは警戒けいかいされるが、「これは事実じじつだ」「これは常識じょうしきだ」と名な乗のらないものは疑うたがわれないまま浸透しんとうする。だから批判ひはんの矛ほこ先さきは、声高こわだかな主張しゅちょうよりも自然しぜんに見みえるものへ向むかう。14 の自明じめい性せい、19 の虚構きょこうと、同おなじ問題もんだい圏けんにある。
  • △彼かれの人生じんせい観かんは独特どくとくなイデオロギーだ。 個人こじんの内面ないめんにとどまるものは「世界観せかいかん」「信条しんじょう」である。イデオロギーは、集団しゅうだんの考かんがえ方かたや行動こうどうを根底こんていで制限せいげんするという社会的しゃかいてきな働はたらきを持もつときに使つかう。一人ひとりだけが持もつイデオロギーというものは、原則げんそくとして無ない。働はたらく範囲はんいが個人こじんか集団しゅうだんかで選えらび分わけたい。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

関せき 82

コロケーション
  • イデオロギーの対立たいりつ冷戦れいせんの記憶きおく資本しほん主義しゅぎと社会しゃかい主義しゅぎの対立たいりつを指さす言いい方かたとして定着ていちゃくした。この結むすびつきが重おもいのは、対立たいりつしていたのが利害りがいではなく「世界せかいはどうあるべきか」の像ぞうだったからである。利害りがいは妥協だきょうできるが、像ぞうは妥協だきょうできない。イデオロギーが対立たいりつを引ひき起おこしやすいと言いわれる理由りゆうは、争点そうてんが交渉こうしょう可能かのうな水準すいじゅんに無ないというこの一点いってんに尽つきる。
  • イデオロギー化かする動詞どうし形けいの批判ひはん思想しそうが他ほかのあらゆる思想しそうより優すぐれていると思おもい込こまれた状態じょうたいへ移うつることを指さす。重要じゅうようなのは、この動詞どうしが思想しそうの中身なかみではなく扱あつかわれ方ほうの変化へんかを言いっている点てんである。どんな思想しそうもイデオロギー化かしうるし、批判ひはんのための思想しそうさえ例外れいがいではない。評ひょう論文ろんぶんでこの語ごがもっとも鋭するどく働はたらくのは、その反転はんてんを指摘してきする場面ばめんである。
  • 支配しはい的てきイデオロギーマルクス以降いこう支配しはい階級かいきゅうの利益りえきをあたかも社会しゃかい全体ぜんたいの普遍的ふへんてきな価値かちであるかのように見みせる仕組しくみを指さす。1 の項こうで見みた「普遍ふへんを装そうう特殊とくしゅ」と、これはまったく同おなじ構図こうずである。特殊とくしゅな立場たちばを普遍ふへんの言葉ことばで語かたること — キーワードどうしが遠とおくでつながる典型てんけいなので、1 に戻もどって読よみ直なおすとよい。
  • 脱だつイデオロギー中立ちゅうりつという主張しゅちょうイデオロギーから自由じゆうになった、という宣言せんげんである。ところがこの宣言せんげんそのものが「中立ちゅうりつはありうる」という一ひとつの立場たちばに立たっている。イデオロギーの外そとに出でたと言いう声こえも、やはりどこかに立たって発はっせられている。この自己じこ言及げんきゅうの構造こうぞうは 18 の②と同型どうけいで、評ひょう論文ろんぶんがこの語ごを扱あつかうときは、ほぼ必かならずその点てんを突ついている。
格かく硬かた

書かき言葉ことば。会話かいわでは不自然ふしぜん。

類るい語ごと差さ
  • ドグマ疑うたがいを許ゆるさない教義きょうぎ内容ないようの固定こていに重心じゅうしん。イデオロギーは集団しゅうだんの行動こうどうを規定きていする働はたらきに重心じゅうしん。
  • 思想しそう体系化たいけいかされた考かんがえ中立ちゅうりつ語ご。イデオロギーには〈凝こり固かたまっている〉否定的ひていてきな含ふくみがある。
  • 世界観せかいかん世界せかいの捉とらえ方ほう全体ぜんたい個人こじんにも使つかえる。イデオロギーは集団的しゅうだんてき・政治的せいじてき。
  • 信条しんじょう個人こじんが信しんじて守まもる原則げんそく個人こじんの内面ないめん。イデオロギーは社会的しゃかいてきな機能きのうを持もつ。

ENideology
ZH意识形态(イデオロギー, yìshí xíngtài)

21★★

疎外そがい⚠

そがい[0]平板へいばん型がた

語ご構成こうせい
疎そうとい・とおざける+外そとそと
定義ていぎ

①仲間なかまはずれにすること。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑21
原げん書しょの解説かいせつ

疎そ外がいは、日常的にちじょうてきな用法ようほうとしては「俺おれだけを疎そ外はずして」というように、〈仲間なかまはずれにする〉という意味いみで用もちいられるが、評ひょう論ろんで多おおく使つかわれるのは②の方ほうであり、こちらは人間にんげん疎そ外がいとも言いう。

たとえば、本来ほんらい、自分じぶんの感かん性せいを込こめるものであった物ものづくりという行為こういも、人間にんげんのつくり上あげた分業ぶんぎょうシステムのもとでは、単たんなる一いち工程こうていを担になう生産せいさん活動かつどうになってしまう。そこでは、合理性ごうりせいや効率こうりつ性せいが優先ゆうせんされるため、生産せいさんする人間にんげんの感かん性せいや思おもいは、不要ふようなものとして疎そ外はずされる。

このような疎そ外がい(人間にんげん疎そ外がい)は、「人間にんげんが」「人間にんげんのつくり出だしたものに」仲間なかまはずれにされるということである。

コラム

現代げんだいの「経済けいざい社会しゃかい」は我々われわれ人間にんげんが豊ゆたかに生活せいかつするために作つくり出だしたものである。しかし我々われわれは、就職しゅうしょくに苦労くろうし、やっと入はいった会社かいしゃでは仕事しごとに追おわれ、疲労ひろうを押おして働はたらき、リストラにおびえ、給料きゅうりょうや労働ろうどう条件じょうけんに不満ふまんを持もつ。このように、現代げんだいの経済けいざいシステムにも、人間にんげんを疎そ外はずしているという一いち面めんがあると言いえる。

使用しようの境界きょうかい

①仲間なかまはずれにすること。②人間にんげんが自みずから作つくり出だしたものが逆ぎゃくに人間にんげんを支配しはいし「人間にんげんらしさ」を奪うばうこと。評ひょう論文ろんぶんでは②。

用法ようほう

日常にちじょう語ごでは①(仲間なかまはずれ)だが、評ひょう論文ろんぶんではほぼ②で使つかわれる。②の構造こうぞうが要点ようてんで、〈人間にんげんが作つくった〉ものが〈逆ぎゃくに人間にんげんを支配しはいする〉という反転はんてんが含ふくまれる。分業ぶんぎょうシステム、経済けいざいシステム、機械きかい、制度せいどがその例れい。したがって疎そ外がいは誰だれかの悪意あくいによるものではなく、人間にんげんの営いとなみそのものから生しょうじる。「疎そ外がい感かん」だけは①の系列けいれつで、心理的しんりてきな語ごとして日常にちじょうでも使つかう。この二ふたつが同おなじ語幹ごかんで別べつの層そうにある点てんに注意ちゅういする。

用例ようれい
  • 機械きかいある者ものは必かならず機き事ことあり。機き事ことある者ものは必かならず機き心こころあり。機き心こころ胸中きょうちゅうに存ありすれば、則そくち純白じゅんぱく備そなえわらず。『荘子そうし』天地てんち篇へん
    畑はたけに水みずをやるのに便利べんりな仕掛しかけを勧すすめられた老人ろうじんが、それを断ことわって言いう言葉ことばである。機械きかいを持もてば機械きかいに合あった仕事しごとのしかたが生うまれ、それに合あった心こころが生うまれる。順序じゅんじょが大切たいせつだ。人ひとが機械きかいを使つかうところから始はじまって、最後さいごには機械きかいのほうが人ひとの心こころの形かたちを決きめている。これが疎そ外がいの第だい二にの意味いみ — 「人間にんげんが」「人間にんげんの作つくり出だしたものに」仲間なかまはずれにされるという反転はんてんそのものである。注目ちゅうもくすべきは、この反転はんてんに悪意あくいも強制きょうせいも一切いっさい登場とうじょうしない点てんだ。誰だれも老人ろうじんを支配しはいしようとしていない。便利べんりさを受うけ取とるだけで反転はんてんは起おきる。疎そ外がいが誰だれかの責任せきにんにできない理由りゆうが、二千年にせんねん前まえの一節いっせつに尽つくされている。
  • 曾かつてわれらの師父しふたちは乏とぼしいながら可成かなり楽らくしく生いきてゐたそこには芸術げいじゅつも宗教しゅうきょうもあったいまわれらにはただ労働ろうどうが 生存せいぞんがあるばかりである宮沢賢治みやざわけんじ『農民のうみん芸術げいじゅつ概がい論ろん綱要こうよう』序論じょろん(1926)
    「ただ労働ろうどうが 生存せいぞんがあるばかりである」— 労働ろうどうから芸術げいじゅつが剥はがれ落おちたと賢治けんじは言いっている。原げん書しょが挙あげる例れいと正確せいかくに重かさなる。本来ほんらいは自分じぶんの感かん性せいを込こめる行為こういだった物ものづくりが、分業ぶんぎょうのもとでは一いち工程こうていを担になうだけの生産せいさん活動かつどうになる。そこでは合理性ごうりせいと効率こうりつが優先ゆうせんされ、作つくる者ものの感かん性せいは不要ふようなものとして押おし出だされる。賢治けんじが「乏とぼしいながら」とわざわざ断ことわったのが効きいている。疎そ外がいは貧まずしさの問題もんだいではない。豊ゆたかになりながら失うしなわれるものがある、という指摘してきであり、ここは 18 の逆説ぎゃくせつの構造こうぞうとも重かさなっている。16 の項こうで引ひいた「求道きゅうどうすでに道みちである」は、同おなじ文章ぶんしょうがこの疎そ外がいに対たいして差さし出だした答こたえのほうである。
  • 効率こうりつのために設計せっけいされた仕組しくみが、いつのまにか働はたらく者ものを疎そ外がいしている。 評ひょう論文ろんぶんの典型的てんけいてきな形かたちである。主語しゅごが人ひとではなく仕組しくみであることに注意ちゅういしたい。疎そ外がいは誰だれかが誰だれかを仲間なかまはずれにする行為こういではなく、人ひとが作つくったものが自立じりつして人ひとを支配しはいする構造こうぞうを指さす。だから「〜が疎そ外はずする」の主語しゅごには、制度せいど・システム・機械きかい・市場しじょうといった人工物じんこうぶつが置おかれるのがふつうである。
  • ×新しん入はいりの彼かれは先輩せんぱいたちから疎そ外がいされている構造的こうぞうてきな問題もんだいだ。 仲間なかまはずれの意い(①)と構造こうぞうの意い(②)が一文いちぶんのなかで混まざってしまっている。先輩せんぱいたちという人間にんげんが主語しゅごなら、それは①であり「排除はいじょ」「疎そ外がい感かん」の系列けいれつの話はなしである。「構造的こうぞうてき」と言いうなら主語しゅごは仕組しくみでなければならない。この語ごは二ふたつの層そうを持もつので、どちらで使つかっているかを一文いちぶんの中なかで統一とういつする必要ひつようがある。
派生はせい形けい
  • 疎外感そがいかん[3]「感かん」が付つくと構造こうぞうの話はなしから心理しんりの話はなしへ完全かんぜんに移うつる。この形かたちだけが日常にちじょう語ごとして通用つうようしており、会話かいわで使つかわれる疎そ外がいはほぼこれである。評ひょう論文ろんぶんの疎そ外がいと地続じつづきに見みえて層そうが違ちがうので、同おなじ語幹ごかんに引ひきずられて読よむと誤読ごどくする。
  • 人間疎外にんげんそがい[0]②の意味いみであることを語形ごけいで確定かくていさせる複合ふくごう語ご。「疎そ外がい」だけでは①と紛まぎれるため、学術がくじゅつ文ぶんはこの形かたちを選えらぶ。語ごを長ながくすることで曖昧あいまいさを削けずる、術語じゅつごづくりのごく標準的ひょうじゅんてきな手てつきである。
  • 疎外するそがいするサ変動へんどう詞し。①では人ひとが主語しゅごに立たつが、②では制度せいど・機械きかい・システムといった人工物じんこうぶつが主語しゅごに立たつ。主語しゅごに何なにが来くるかを見みるだけで、どちらの意味いみで使つかわれているかがほぼ判定はんていできる — この語ごの読解どっかい上じょうもっとも実用的じつようてきな手てがかりである。
コロケーション
  • 人間にんげん疎そ外がい②の指定してい「人間にんげん」を冠かんむりすることで、①(仲間なかまはずれ)ではなく②(自作じさく物ぶつによる支配しはい)だと明示めいじする働はたらきがある。興味深きょうみぶかいのは、疎そ外はずする側がわもされる側がわも人間にんげんだという点てんで、この語ごは人間にんげんが人間にんげんを人間にんげんから遠とおざけるという三重さんじゅうの関係かんけいを四よん文字もじに畳たたんでいる。評ひょう論文ろんぶんでこの形かたちが出でたら、文脈ぶんみゃくは必かならず近代きんだいの労働ろうどうや技術ぎじゅつのほうへ向むかう。
  • 疎そ外がい感かん①の系列けいれつ同おなじ語幹ごかんでありながら、こちらは心理しんりの語ごで、日常にちじょう会話かいわでも使つかえる。②が構造こうぞうの記述きじゅつであるのに対たいし、これは当人とうにんが感かんじている状態じょうたいを言いう。②の疎そ外がいは、しばしば疎そ外がい感かんを伴ともなわない — 仕組しくみに組くみ込こまれていることに気きづかないまま快適かいてきに働はたらくこともできるからだ。この食くい違ちがいこそ、②を論ろんじる意味いみがある理由りゆうである。
  • 自己じこ疎そ外がい再帰さいきの形かたち自分じぶんが作つくったものによって、自分じぶんが自分自身じぶんじしんから遠とおざけられる状態じょうたいを指さす。「自己じこ」が付つくことで、疎そ外がいの輪わが閉とじる。16 の自己じこ目的もくてき化かと同おなじく、再帰さいきの構造こうぞうが語ごの中心ちゅうしんにある。外そとに敵てきを見みつけられないという点てんで、この形かたちはもっとも解ときにくい疎そ外がいを名指なざしている。
  • 物象ぶっしょう化か対たいで使つかう語ご人ひとと人ひととの関係かんけいが、あたかも物ものの性質せいしつであるかのように現あらわれることを指さす。賃金ちんぎんは本来ほんらい、雇やという者ものと働はたらく者ものの関係かんけいだが、「この仕事しごとの値段ねだん」という物ものの属性ぞくせいのように見みえる。疎そ外がいが人ひとが押おし出だされる側がわを、物象ぶっしょう化かが関係かんけいが物ものに見みえる側がわを言いう。同おなじ事態じたいの二ふたつの面めんなので、評ひょう論文ろんぶんではしばしば並ならべて現あらわれる。
格かく硬かた・学術がくじゅつ

論文ろんぶん・評ひょう論ろんでのみ使つかう。会話かいわでは不自然ふしぜん。

類るい語ごと差さ
  • 排除はいじょ外そとへ出だす行為こういの記述きじゅつ。疎そ外がい②は構造こうぞうの記述きじゅつで、誰だれかが意図いとして行おこなうのではない。
  • 孤立こりつつながりを失うしなう状態じょうたい。疎そ外がい②は自分じぶんが作つくったものに支配しはいされるという因果いんがを含ふくむ。
  • 物象ぶっしょう化か人ひとと人ひとの関係かんけいがものとして現あらわれる疎そ外がいと対たいで使つかわれるマルクスの語ご。関係かんけいが物ものの性質せいしつのように見みえることを指さす。
  • 非ひ人間にんげん化か人間にんげんらしさが失うしなわれる結果けっかの記述きじゅつ。疎そ外がいは原因げんいんの構造こうぞう(自作じさく物ぶつによる支配しはい)を含ふくむ。

ENalienation
ZH异化(疎外, yìhuà)

日中にっちゅうのズレ

哲学てつがく語ごとしての「疎そ外がい」は、中国語ちゅうごくごでは 异化(yìhuà)。

中国語ちゅうごくごの 疏远(shūyuǎn)は日常にちじょう語ごで「よそよそしくする」。日本語にほんごの「疎そ外がい」②の意味いみは含ふくまない。

疎外の循環を示した図人が仕組みを作り、仕組みが自立し、やがて作り手である人を支配して人らしさを押し出す、という循環を示す。 人間が、人間の作り出したものに、仲間はずれにされる人感性を込める仕組み分業・制度・機械つくる効率と合理性が優先され、感性は不要として押し出される①仲間はずれにすること主語は人。日常語。心理の層 ──「疎外感」②人間疎外主語は仕組み。評論語。構造の層 ── 悪意も強制も要らない
疎そ外がいの循環じゅんかんと、二ふたつの層そう
Section 13

概念がいねん/観念かんねん/理念りねん/絶対ぜったい/相対そうたい

22★★

概念がいねん

がいねん[1]頭高あたまだか型がた

語ご構成こうせい
概がいおおむね・あらまし+念ねんおもい
定義ていぎ

言葉ことばや対象たいしょうの意味いみ内容ないようのこと。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑22
使用しようの境界きょうかい

言葉ことばや対象たいしょうの意味いみ内容ないよう。頭あたまの中なかの像ぞうではない。一般性いっぱんせい・客観きゃっかん性せいがある。個人こじんの思おもい込こみは「観念かんねん」。

用法ようほう

「概念がいねん」は〈言葉ことばが指さし示しめす意味いみ内容ないよう〉であり、一般性いっぱんせいと客観きゃっかん性せいを持もつ。だから「抽象ちゅうしょう概念がいねん」という結むすびつきが自然しぜんになる。評ひょう論文ろんぶんでは「〜という概念がいねん」の形かたちで、その語ごが指さす内容ないよう全体ぜんたいを取とり出だす時ときに使つかう。「概念的がいねんてきに理解りかいする」は、具体例ぐたいれいを通とおさずに意味いみ内容ないようだけで把握はあくすることを言いい、否定的ひていてきに響ひびくこともある。「概念がいねんを規定きていする」「概念がいねんを拡張かくちょうする」のように、輪郭りんかくを操作そうさする動詞どうしと結むすびつく。

用例ようれい
  • 筌うえは魚さかなを得える所以ゆえんなり、魚さかなを得とくて筌うえを忘わする。……言げんは意いを得える所以ゆえんなり、意いを得とくて言げんを忘わする。『荘子そうし』外物がいぶつ篇へん
    筌うえ(うえ)は魚さかなを捕とる仕掛しかけで、魚さかなが捕とれたら忘わすれてよい。同おなじように言葉ことばは意味いみを捕とらえる仕掛しかけにすぎない、という。ここで荘子そうしは言葉ことばと意味いみ内容ないようを明確めいかくに切きり離はなしている。概念がいねんとは、まさにこの「意い」の側がわ — 言葉ことばが指さし示しめす意味いみ内容ないようのことである。注意ちゅういしたいのは、切きり離はなせると言いった時点じてんで、意味いみ内容ないようは言葉ことばから独立どくりつして立たつものになっている点てんだ。独立どくりつして立たつからこそ、他人たにんと共有きょうゆうでき、別べつの言葉ことばで言いい直なおすこともできる。概念がいねんに一般性いっぱんせいと客観きゃっかん性せいがあるという性質せいしつは、この独立どくりつからまっすぐ導みちびかれる。頭あたまの中なかにとどまって出でてこない像ぞう(=観念かんねん)とは、ここで分わかれる。
  • 名なに固かたより宜ぎしき無なし。之のに約やくして以もって命いのちづく。約定やくじょうまり俗ぞく成なる、之これを宜ぎと謂いふ。『荀子じゅんし』正名せいめい篇へん
    ある名ながその物ものにふさわしい理由りゆうは、もともと備そなえわっているのではない。取とり決きめて名なづけ、その取とり決きめが定着ていちゃくしたときにはじめて「ふさわしい」と呼よばれるのだ、という。「約定やくじょうまり俗ぞく成なる(約定やくじょう俗ぞく成せい)」の四字よじが要ようである。ここから、概念がいねんの客観きゃっかん性せいがどこから来くるかが分わかる。自然しぜんが保証ほしょうしているのではなく、共有きょうゆうされているという事実じじつが保証ほしょうしている。だから概念がいねんは書かき換かえられる。評ひょう論文ろんぶんで「〜という概念がいねんは近代きんだいの産物さんぶつである」といった言いい方かたが成なり立たつのは、この性格せいかくゆえである。5 の項こうで見みた『論語ろんご』の正名せいめいが〈名なが正ただしくあること〉を秩序ちつじょの条件じょうけんとしたのに対たいし、荀子じゅんしはその「正ただしさ」の根拠こんきょが慣習かんしゅうにあると一歩いっぽ踏ふみ込こんでいる。
  • 「個人こじん」という概念がいねんは、近代きんだいのヨーロッパで形かたちをとったものである。 「〜という概念がいねん」は評ひょう論文ろんぶんの基本きほん形けいで、その語ごが指さす意味いみ内容ないようを、語ごごと丸まるごと取とり出だして観察かんさつの台だいに載のせる働はたらきをする。9 の項こうでいう対象たいしょう化かが、ここでは言葉ことばに対たいして行おこなわれている。「個人こじんが近代きんだいに生うまれた」と書かくと人ひとが生うまれた話はなしになるが、「個人こじんという概念がいねんが」と書かけば、人ひとを個人こじんとして捉とらえる枠組わくぐみのほうが生うまれたという正確せいかくな主張しゅちょうになる。
  • ×彼かれの頭あたまの中なかには奇妙きみょうな概念がいねんがあった。 頭あたまの中なかだけにあって共有きょうゆうされていないものは「観念かんねん」である。概念がいねんは言葉ことばの意味いみ内容ないようであり、他人たにんと分ぶんかち持もてることがその条件じょうけんになる。一人ひとりだけが抱かかえている概念がいねんというものは、原則げんそくとして無ない。「他人たにんに説明せつめいできるか」を問とえば、概念がいねんと観念かんねんはほぼ確実かくじつに分わかれる。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

関せき 4 抽象ちゅうしょう/コンセプト

派生はせい形けい
  • 概念的がいねんてき[0]肯定こうていにも否定ひていにも転ころぶやっかいな形かたち。「概念的がいねんてきな整理せいり」は褒ほめ言葉ことば、「概念的がいねんてきな議論ぎろん」はしばしば「具体ぐたいを欠かいた議論ぎろん」という批判ひはんになる。1 の項こうで見みた「抽象的ちゅうしょうてき」とまったく同おなじ振ふる舞まいをする。
  • 概念化がいねんか[0]「化か」が操作そうさを指さす。ばらばらの経験けいけんを、名なを持もつひとつのまとまりへ仕立したてる作業さぎょうである。「ハラスメント」という語ごができた瞬間しゅんかんに、それまで我慢がまんするしかなかった出来事できごとが語かたれるものへ変かわった — 概念化がいねんかはそういう力ちからを持もつ。
  • 概念装置がいねんそうち「装置そうち」が付つくことで、概念がいねんが理解りかいのための道具どうぐとして扱あつかわれる。真理しんりかどうかではなく、それを使つかうと何なにが見みえるようになるかで評価ひょうかする見方みかたで、社会しゃかい科学かがくの文章ぶんしょうに多おおい。道具どうぐである以上いじょう、場面ばめんごとに取とり替かえてよいという含ふくみも伴ともなう。
コロケーション
  • 概念がいねんを規定きていする輪郭りんかくを引ひく「規定きてい」は範囲はんいを定さだめること。概念がいねんにはどこまでがそれでどこからが違ちがうかという境目さかいめがあり、それを言葉ことばで引ひくのがこの作業さぎょうである。論文ろんぶんが冒頭ぼうとうでこれを行おこなうのは儀ぎ礼れいではない。境目さかいめを引ひかないまま議論ぎろんを進すすめると、同おなじ語ごで別べつのものを論ろんじてしまうからで、評ひょう論文ろんぶんの読解どっかいでも、筆者ひっしゃがどこで境さかいを引ひいたかを押おさえるのが第一だいいち歩ほになる。
  • 抽象ちゅうしょう概念がいねん重かさなりの理由りゆう4 の抽象ちゅうしょうと結むすびつくのは偶然ぐうぜんではない。概念がいねんは複数ふくすうの個別こべつから共通点きょうつうてんを抜ぬき出だして作つくられるので、作つくられ方ほうそのものが抽象ちゅうしょうという操作そうさだからである。したがって「抽象ちゅうしょう概念がいねん」は厳密げんみつには重複ちょうふく表現ひょうげんに近ちかい。それでも定着ていちゃくしているのは、とりわけ具体ぐたいから遠とおい概念がいねんを区別くべつして呼よびたい場面ばめんがあるためで、「正義せいぎ」「自由じゆう」といった語ごがこれにあたる。
  • 概念的がいねんてきに理解りかいする評価ひょうかの揺ゆれ具体例ぐたいれいを通とおさず意味いみ内容ないようだけで把握はあくすることを言いう。褒ほめ言葉ことばにも批判ひはんにもなる点てんが扱あつかいにくい。効率こうりつよく核心かくしんをつかんだ、とも読よめるし、実感じっかんを欠かいた上うえ滑すべりの理解りかいだ、とも読よめる。判定はんていはほぼ前後ぜんごの文脈ぶんみゃくで決きまるが、評ひょう論文ろんぶんでは後者こうしゃ、すなわち批判ひはんとして現あらわれることが多おおい。3 の具体ぐたいの項こうと合あわせて読よむと理由りゆうが分わかる。
  • 概念がいねんの拡張かくちょう境目さかいめの移動いどう規定きていによって引ひいた境目さかいめを、あとから広ひろげて別べつの対象たいしょうまで含ふくめる操作そうさである。「家族かぞく」という概念がいねんを血縁けつえんの外そとへ広ひろげる、「労働ろうどう」を賃金ちんぎんの外そとへ広ひろげる — 評ひょう論文ろんぶんの主要しゅような仕事しごとのひとつがこれで、28 の敷衍ふえんとも接せっしている。広ひろげられた概念がいねんは、もとの語ごの重おもみを新あたらしい対象たいしょうへ運はこび込こむ — そこに論ろんの力ちからが生うまれる。
格かく硬かた

書かき言葉ことば。会話かいわでは不自然ふしぜん。

類るい語ごと差さ
  • 観念かんねん頭あたまの中なかにある像ぞう主観しゅかんに属ぞくする。概念がいねんは共有きょうゆうされるもの。この差さが確認かくにんテストの設問せつもんになる。
  • 理念りねんこうあるべきという考かんがえ当為とうい(すべき)を含ふくむ。概念がいねんは記述きじゅつのみ。
  • 定義ていぎ意味いみを限定げんていした言いい方かた言葉ことばでの限定げんてい。概念がいねんは限定げんていされる対象たいしょうそのもの。
  • コンセプト概念がいねん外来語がいらいご。企画きかく・設計せっけいの中心ちゅうしん的てきな考かんがえという実務じつむ的てきな用法ようほうが強つよい。

ENconcept
ZH概念(概念, gàiniàn)

23★★

観念かんねん

かんねん[1]頭高あたまだか型がた

語ご構成こうせい
観かんみる+念ねんおもい
定義ていぎ

人間にんげんの、頭あたまの中なかの考かんがえのこと。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑23
使用しようの境界きょうかい

頭あたまの中なかにある像ぞうや意識いしき内容ないよう。〈個人的こじんてきな思おもい込こみ〉〈先入観せんにゅうかん〉の響ひびきを含ふくみうる。概念がいねんとは客観きゃっかん性せいの有無うむで分わかれる。

用法ようほう

「観念かんねん的てき」は評ひょう論文ろんぶんでほぼ常つねに批判ひはん語ごで、〈現実げんじつから離はなれて頭あたまの中なかだけで組くみ立たてられている〉ことを意味いみする。「観念論かんねんろん」は哲学てつがくの立場たちば名めい(実在じつざいよりも意識いしきを先さきに置おく)で、批判ひはん語ごとしての「観念かんねん的てき」とは別べつ。「固定こてい観念かんねん」「罪つみの観念かんねん」のように複合ふくごう語ごで使つかわれることが多おおく、単独たんどくの「観念かんねん」は硬かたい。「観念かんねんする」という別語べつご(あきらめる)があるので、動詞どうし形けいでは使つかわない。

用例ようれい
  • 貫之つらゆきは下手へたな歌うたよみにて古今ここん集しゅうはくだらぬ集しゅうに有之候これありそうろう。正岡まさおか子規しき『歌うたよみに与よふる書しょ』(1898)
    千せん年ねんものあいだ和歌わかの規範きはんとされてきた『古今ここん集しゅう』を、一行いちぎょうで切きって捨すてた有名ゆうめいな冒頭ぼうとうである。子規しきがここで壊こわしているのは歌うたの良よし悪あしではない。「古今ここん集しゅうは優すぐれている」という疑うたがわれないまま受うけ継つがれてきた像ぞう — すなわち固定こてい観念かんねんのほうである。注目ちゅうもくしたいのは、子規しきがまず乱らん暴ぼうなほど断定だんていしたという手てつきだ。観念かんねんは理屈りくつで少すこしずつ削けずっても揺ゆるがない。積つみ上あがった時間じかんそのものが支ささえになっているからで、それを外はずすには同おなじ大おおきさの断定だんていをぶつけるしかない。14 の自明じめい性せいが出来事できごとによって破やぶれたのに対たいし、こちらは言葉ことばの暴力ぼうりょくによって破やぶられている。
  • 経験けいけんするといふのは事実じじつ其その儘ままに知しるの意いである。全まったく自己じこの細工さいくを棄きてて、事実じじつに従したがうて知しるのである。西田にしだ幾多郎きたろう『善ぜんの研究けんきゅう』(1911)
    「自己じこの細工さいく」— これが観念かんねんのことだと読よめる。私わたしたちは何なにかを見みるとき、すでに頭あたまの中なかにある像ぞうに当あてはめて見みている。西田にしだはそれをいったん全部ぜんぶ外はずせ、と言いう。観念かんねんを捨すてたところに残のこるものを、彼かれは「純粋じゅんすい経験けいけん」と呼よんだ。ここから、観念かんねんという語ごの性格せいかくがはっきりする。観念かんねんは事実じじつの前まえに立たちはだかるものであって、事実じじつから取とり出だされたものではない。だから「観念かんねん的てき」は評ひょう論文ろんぶんでほぼ常つねに批判ひはん語ごになる。一方いっぽう、22 の概念がいねんは事実じじつから抜ぬき出だされたものだから、この批判ひはんを受うけない。どちらを向むいているか — 事実じじつから出でてきたのか、事実じじつへ被ひせているのかで二に語ごは分わかれる。
  • その議論ぎろんは観念かんねん的てきにすぎ、現場げんばで何なにが起おきているかに触ふれていない。 評ひょう論文ろんぶんにおける「観念かんねん的てき」の典型的てんけいてきな使つかわれ方ほうである。間違まちがっているとは言いっていない点てんに注意ちゅういしたい。筋すじは通とおっているかもしれないが、頭あたまの中なかだけで組くみ立たてられていて事実じじつと噛かみ合あっていない、という批判ひはんである。「非ひ論理的ろんりてきだ」とはまったく別べつの指摘してきなので、設問せつもんではこの区別くべつが問とわれる。
  • ×共有きょうゆうされた観念かんねんとして定義ていぎを確認かくにんしておこう。 共有きょうゆうされ、定義ていぎされ、客観きゃっかん性せいを持もつのは「概念がいねん」のほうである。観念かんねんは個人こじんの内側うちがわにある像ぞうで、定義ていぎになじまない。「共有きょうゆう」「定義ていぎ」「規定きてい」といった語ごが近ちかくにあれば、選えらぶべきは概念がいねんである。確認かくにんテストで直接ちょくせつ問とわれる区別くべつなので、この組くみ合あわせごと覚おぼえておきたい。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

関せき 65

派生はせい形けい
  • 観念的かんねんてき[0]評ひょう論文ろんぶんではほぼ常つねに批判ひはん語ごとして働はたらく、珍めずらしく評価ひょうかの固定こていした「的てき」形かたちである。「概念的がいねんてき」が肯定こうていにも転ころぶのと対照的たいしょうてきで、この差さはそのまま二に語ごの意味いみの差さに由来ゆらいしている。
  • 固定観念こていかんねん[0]複合ふくごう語ごになることで、批判ひはんの対象たいしょうがはっきり名指なざしできるようになる。「観念かんねんを捨すてよ」では何なにを指さすか分わからないが、「固定こてい観念かんねんを捨すてよ」なら分わかる。語ごを長ながくして曖昧あいまいさを削けずる手てつきは、21 の「人間にんげん疎そ外がい」と同おなじである。
  • 観念論かんねんろん[0]「論ろん」が付つくと立場たちばの名なになる。唯物論ゆいぶつろんの対たいとして使つかわれる術語じゅつごで、日常にちじょう語ごの「観念かんねん的てき」とは無関係むかんけい。英語えいごではどちらも idealism / ideal に近ちかい形かたちをとるため、翻訳ほんやくの場面ばめんで混乱こんらんが起おきやすい。
  • 観念するかんねんするまったく別語べつごで、「あきらめる」の意い。仏教ぶっきょう語ごの「観念かんねん(心こころを集中しゅうちゅうして仏ほとけを念ねんじる)」から転てんじたもので、名詞めいしの観念かんねんとは系統けいとうが違ちがう。この語幹ごかんで動詞どうし形けいを使つかうと必かならずこちらに読よまれるので、評ひょう論文ろんぶんでは動詞どうしにしない。
コロケーション
  • 固定こてい観念かんねん時間じかんの堆積たいせき「固定こてい」は動うごかないこと。観念かんねんそのものは動うごきうるが、長ながく問とわれないと固かたまるという含ふくみがここにある。興味深きょうみぶかいのは、固かたまった理由りゆうがふつう正ただしさではなく反復はんぷくだという点てんである。くり返かえし目めにしたものを人ひとは疑うたがわなくなる。14 の自明じめい性せいときわめて近ちかい場所ばしょにあるが、自明じめい性せいが社会しゃかいの側がわの状態じょうたいを指さすのに対たいし、こちらは個人こじんの内側うちがわの状態じょうたいを指さす。
  • 観念かんねん的てきな議論ぎろん批判ひはんの定型ていけいほぼ固定こていした批判ひはんの言いい回まわしで、「現実げんじつから離はなれて頭あたまの中なかだけで組くみ立たてられている」ことを意味いみする。効きくのは、この批判ひはんが論ろんの中身なかみに踏ふみ込こまずに済すむからでもある。それゆえ乱用らんようされやすい。評ひょう論文ろんぶんを読よむときは、筆者ひっしゃがこの語ごを使つかったあとに実際じっさいに現実げんじつの側がわの材料ざいりょうを出だしているかどうかを見みておくとよい。
  • 観念論かんねんろん立場たちばの名な批判ひはん語ごの「観念かんねん的てき」とはまったく別物べつものである。意識いしきのほうを実在じつざいより先さきに置おく哲学てつがくの立場たちばを指さし、唯物論ゆいぶつろんと対たいになる。この語ごが現あらわれたら文章ぶんしょうは哲学史てつがくしの話はなしをしている。同おなじ語幹ごかんで、片方かたほうは罵倒ばとう語ご、もう片方かたほうは中立ちゅうりつの学術がくじゅつ語ご — こういう分裂ぶんれつは漢語かんごではしばしば起おこる。
  • 罪つみの観念かんねん内面化ないめんかされた規範きはん「罪つみという概念がいねん」とは言いわず「罪つみの観念かんねん」と言いうのは、それが定義ていぎされ共有きょうゆうされたものというより、一人ひとりひとりの内側うちがわに住すみついたものだからである。宗教しゅうきょう論ろんや文化ぶんか論ろんでこの形かたちが多おおいのは、規範きはんが知識ちしきとしてではなく感かんじ方ほうとして身みについている層そうを指さしたいときに使つかえるためだ。
格かく硬かた

書かき言葉ことば。会話かいわでは不自然ふしぜん。

類るい語ごと差さ
  • 概念がいねん言葉ことばの意味いみ内容ないよう共有きょうゆうされる客観的きゃっかんてきな内容ないよう。観念かんねんは個人こじんの内側うちがわにある。
  • 表象ひょうしょう心こころに思おもい浮うかべられた像ぞう心理学しんりがく・哲学てつがくの語ご。像ぞうであることに重心じゅうしん。観念かんねんは判断はんだんや信念しんねんも含ふくむ。
  • 先入観せんにゅうかんあらかじめ持もっている偏かたより否定的ひていてきな語ご。観念かんねんはそこまで否定的ひていてきとは限かぎらない。
  • イメージ思おもい浮うかぶ姿すがた外来語がいらいごで日常的にちじょうてき。観念かんねんより軽かるく、判断はんだんを含ふくまない。

ENidea / notion
ZH观念(観念, guānniàn)

24★★

理念りねん

りねん[1]頭高あたまだか型がた

語ご構成こうせい
理りことわり+念ねんおもい
定義ていぎ

ある物事ものごとについての、こうあるべきだという根本こんぽんの考かんがえ。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑24
使用しようの境界きょうかい

こうあるべきだという根本こんぽんの考かんがえ。実践じっせんにおいて目指めざす究極きゅうきょくの目標もくひょう。「理想りそう」より使命しめい感かん・義務ぎむ感かんが強つよい。

用法ようほう

「掲かかげる」との結むすびつきが強つよく、「理念りねんを掲かかげる」がほぼ固定こていした言いい方かたになる。組織そしきや制度せいどが公おおやけに示しめす原則げんそくを指さすため、「理念りねんと現実げんじつの乖離かいり」という批判ひはんの型かたが生うまれる。理念りねんは実現じつげんしていないことが前提ぜんていで、それでも目指めざすべきものとして立たてられる。だから「単たんなる飾かざり」と批判ひはんされることもある。「理想りそう」との違ちがいは、理想りそうが望のぞましさの話はなしであるのに対たいし、理念りねんは〈そうすべき〉という当為とういを含ふくむ点てんにある。

用例ようれい
  • 大学だいがくの道みちは、明徳めいとくを明あきらかにするに在あり、民みんに親したしむに在あり、至し善ぜんに止とまるに在あり。『大学だいがく』経一けいいち章しょう
    学問がくもんというものが何なにのためにあるのかを、三みっつの「在あり」で言いい切きった一文いちぶんである。これは記述きじゅつではなく当為とうい — 「こうあるべきだ」という宣言せんげんである。ここが理念りねんという語ごの核心かくしんにあたる。「大学だいがくではこういうことが行おこなわれている」と書かけば概念がいねんの話はなしになるが、「〜に在あり」と書かけば、まだ実現じつげんしていなくても、それでも目指めざすべきものとして立たてられる。そして三みっつ目めの「至し善ぜんに止とまる」が効きいている。至し善ぜんは到達点とうたつてんであり、そこに止とまれと言いう。理念りねんが実践じっせんの究極きゅうきょく目標もくひょうであって、途中とちゅうの方針ほうしんではないことが、この語順ごじゅんに表あらわれている。
  • 一いち、広こうク会議かいぎヲ興きょうシ万まん機き公こう論ろんニ決けつスヘシ五ご箇条かじょうの御誓文ごせいもん(1868)
    明治めいじ政府せいふが発足ほっそくにあたって掲かかげた五ご箇条かじょうの第一だいいちである。掲かかげられた時点じてんで、この国くにに「広こうク会議かいぎ」など無なかった。それでも掲かかげられている — ここに理念りねんという語ごのすべてがある。理念りねんは実現じつげんしていないことを前提ぜんていとして立たてられる。だからこそ「理念りねんと現実げんじつの乖離かいり」という批判ひはんの型かたが必かならず生うまれるのだが、その批判ひはんは理念りねんを無意味むいみにはしない。乖離かいりを指摘してきできるのは、理念りねんという物差ものさしがすでに立たっているからである。「単たんなる飾かざりだ」という批判ひはんと、「飾かざりにされているのが問題もんだいだ」という批判ひはんはまったく別べつのもので、評ひょう論文ろんぶんが問とうのはたいてい後者こうしゃのほうである。
  • 創業そうぎょう以来いらいの理念りねんを掲かかげつつ、実際じっさいの運用うんようはそこから遠とおく離はなれている。 「掲かかげる」との結むすびつきが固定こていしていることに注意ちゅういしたい。理念りねんは必かならず外そとへ向むけて示しめされる。内心ないしんにとどまるものは信条しんじょうであって理念りねんではない。示しめされるからこそ照合しょうごうが可能かのうになり、乖離かいりという批判ひはんが成なり立たつ。この一文いちぶんの後半こうはんは、その照合しょうごうを行おこなっている。
  • △彼かれの理念りねんは、いつか自分じぶんの店みせを持もつことだった。 個人こじんが思おもい描えがく望のぞましい状態じょうたいは「理想りそう」である。理念りねんは、組織そしきや制度せいどが公おおやけに示しめす根本こんぽんの原則げんそくで、「そうすべきだ」という義務ぎむの色いろを帯おびる。「理想りそうを追おう」と「理念りねんを掲かかげる」— 動詞どうしが違ちがうことが、そのまま語ごの違ちがいを示しめしている。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

関せき 理想りそう/イデア

派生はせい形けい
  • 理念的りねんてき[0]使用しよう頻度ひんどは高たかくない。あえて使つかうと「現実げんじつにはそうなっていないが」という留保りゅうほが前面ぜんめんに出でるため、「理念りねん的てきには正ただしい」はしばしば実質的じっしつてきな否定ひていとして働はたらく。褒ほめながら退しりぞける、便利べんりで狡ずるい形かたちである。
  • 教育理念きょういくりねん[0]分野ぶんや名めいを冠かんむりする複合ふくごう語ごがとりわけ多おおいのがこの語ごの特徴とくちょうで、「企業きぎょう理念りねん」「建学けんがくの理念りねん」なども同おなじ作つくりである。理念りねんは必かならず「何なんについての理念りねんか」を要求ようきゅうするためで、単独たんどくで立たてるとほとんど中身なかみを持もたない。
  • イデードイツ語ご Idee の音訳おんやくで、哲学てつがく書しょの翻訳ほんやく文体ぶんたいに現あらわれる。理念りねん・観念かんねん・イデアがすべてこの一語いちごに対応たいおうしうるため、訳語やくごを見みただけでは元もとの含ふくみが決きまらない。哲学てつがく系けいの評ひょう論文ろんぶんで読よみにくさを感かんじたら、この重かさなりを疑うたがってみるとよい。
コロケーション
  • 理念りねんを掲かかげるほぼ固定こていした形かたち「掲かかげる」は旗はたや看板かんばんを高たかい所しょに示しめす動詞どうしである。見みえるようにすることが理念りねんの条件じょうけんだという事実じじつが、この動詞どうしの選択せんたくに表あらわれている。「理念りねんを持もつ」とも言いえるが弱よわい。持もつだけでは照合しょうごうできないからで、掲かかげてはじめて、それを守まもっているかどうかを他人たにんが問とえるようになる。
  • 理念りねんと現実げんじつの乖離かいり批判ひはんの型かた理念りねんが実現じつげんしていないことを衝しょうく形かたちだが、よく考かんがえるとこの批判ひはんは理念りねんを否定ひていしていない。乖離かいりを測はかれるということは、理念りねんのほうを正ただしい位置いちとして認みとめているということだからだ。本当ほんとうに理念りねんを否定ひていする批判ひはんは「その理念りねん自体じたいが誤あやまりだ」と言いう。乖離かいりの指摘してきと理念りねんの否定ひていを読よみ分わけられるかが、評ひょう論文ろんぶんの設問せつもんでしばしば分わかれ目めになる。
  • 基本きほん理念りねん法令ほうれいの言葉ことば法律ほうりつの条文じょうぶんに置おかれる定型ていけいで、個々ここの条項じょうこうがそこから導みちびかれる出発点しゅっぱつてんを示しめす。面白おもしろいのは、基本きほん理念りねんそれ自体じたいはたいてい何なにの義務ぎむも課かさないことである。それでも置おかれるのは、後あとの解釈かいしゃくが迷まよったときに立たち返かえる場所ばしょを用意よういしておくためで、理念りねんが「上位じょういにある原則げんそく」だという性格せいかくがよく出でている。
  • 理念りねん型がた社会学しゃかいがくの術語じゅつごヴェーバーの用語ようごで、現実げんじつには存在そんざいしないが、現実げんじつを測はかるために組くみ立たてられた純粋じゅんすいな型かたを指さす。ここでの理念りねんは「べき」ではなく「純粋じゅんすいな」の意いで、日常にちじょう語ごの理念りねんとは別べつの使つかい方かたになっている。同おなじ語ごが学術がくじゅつ文脈ぶんみゃくでずれる例れいとして、23 の「観念論かんねんろん」と並ならべて覚おぼえておきたい。
格かく硬かた

書かき言葉ことば。会話かいわでは不自然ふしぜん。

類るい語ごと差さ
  • 理想りそう望のぞましい最高さいこうの状態じょうたい願望がんぼうの側がわ。理念りねんは義務ぎむ・使命しめいの側がわ。「理想りそうを追おう」と「理念りねんを掲かかげる」の差さ。
  • 目的もくてきめざすところ到達点とうたつてん。理念りねんはその根拠こんきょとなる考かんがえで、より上位じょういにある。
  • イデア感覚かんかくを超こえた真しんの姿すがたプラトンの語ご。存在論そんざいろんの概念がいねんで、実践じっせんの指針ししんではない。
  • 方針ほうしん進すすめ方ほうの定さだめ具体的ぐたいてきな行動こうどう指針ししん。理念りねんはその上位じょういにある原則げんそく。

ENideal / Idee
ZH理念(理念, lǐniàn)

25★★

絶対ぜったい

ぜったい[0]平板へいばん型がた

語ご構成こうせい
絶ぜつたつ・断たち切きる+対たいむかいあう

〈対たい(むかいあうもの)を絶たつ〉。比くらべる相手あいてを断たち切きった状態じょうたいを表あらわす。

定義ていぎ

他ほかに比較ひかくするものや対立たいりつするものがないこと。他ほかのものに制約せいやく・制限せいげんされないこと。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑25
原げん書しょの解説かいせつ

絶対ぜったいとは、比くらべるものや代だいわるものがないことを言いう。そのため、神かみや独裁政治どくさいせいじをする王おうを「絶対ぜったい者しゃ」と言いう場合ばあい、それは代替だいたいが不可能ふかのうな唯一ゆいいつの存在そんざいであることを意味いみしている。

さらに、「絶対ぜったい化かする」「絶対ぜったい視しする」と使つかわれる場合ばあい、〈他ほかを認みとめない〉というニュアンスがある。

たとえば

「自己じこを絶対ぜったい視しする」と言いえば、自分じぶん以外いがいの意見いけんを認みとめないことである。

使用しようの境界きょうかい

比較ひかくするものや対立たいりつするものがないこと。「必かならず」の意いの副詞ふくし的てき用法ようほう(絶対ぜったいに行いく)は口語こうご。評ひょう論文ろんぶんでは使つかわない。

用法ようほう

日常にちじょう語ごの副詞ふくし用法ようほう(絶対ぜったいに無理むり、絶対ぜったい勝かつ)が非常ひじょうに強つよいため、評ひょう論文ろんぶんで名詞めいし・形容けいよう動詞どうしとして出でた時ときに読よみ違ちがえやすい。評ひょう論ろんでは〈比較ひかくの相手あいてを持もたない〉という関係かんけいの否定ひていである。「絶対ぜったい化かする」「絶対ぜったい視しする」は否定ひてい語ごで、〈他ほかを認みとめない〉という含ふくみを持もつ。神かみや独裁者どくさいしゃを「絶対ぜったい者しゃ」と呼よぶのは、代替だいたいが不可能ふかのうな唯一ゆいいつの存在そんざいという意味いみ。相対そうたいと対たいで出でるので、必かならず対たいの側がわを探さがして読よむ。

用例ようれい
  • たとひ法然ほうねん聖人せいじんにすかされまゐらせて、念仏ねんぶつして地獄じごくにおちたりとも、さらに後悔こうかいすべからず候そうらふ。唯円ゆいえん『歎異抄たんにしょう』第だい二に条じょう(13世紀じゅうさんせいき後半こうはん)
    たとえ師しに騙だまされて地獄じごくに落おちたとしても後悔こうかいはしない、と親鸞しんらんが言いったと伝つたえる一節いっせつである。ここには比較ひかくの相手あいてがいない。ふつう信頼しんらいは「他ほかより確たしからしいから」という比較ひかくに支ささえられているが、この言いい方かたはその支ささえを自分じぶんから断たち切きっている。地獄じごくに落おちるという最悪さいあくの結果けっかさえ、判断はんだんを覆くつがえす材料ざいりょうにならないと言いい切きっているからだ。「絶ぜつ」は断たち切きる、「対たい」は向むかい合あうもの — 向むかい合あわせて比くらべる相手あいてを断たち切きることが絶対ぜったいの字義じぎである。この一節いっせつは、その字義じぎを状況じょうきょうとして演えんじている。なお日常にちじょう語ごの「絶対ぜったいに」(絶対ぜったいに行いく)は単たんなる強調きょうちょうで、この構造こうぞうを持もたない。評ひょう論文ろんぶんで出会であう絶対ぜったいは、ほぼ必かならずこちらの「比較ひかくの断絶だんぜつ」のほうである。
  • 私わたしはこの自己じこ本ほん位いという言葉ことばを自分じぶんの手てに握にぎってから大変たいへん強つよくなりました。夏目なつめ漱石そうせき『私わたしの個人こじん主義しゅぎ』(1914)
    西洋人せいようじんの評価ひょうかをそのまま自分じぶんの判断はんだんにしていた「他人たにん本ほん位い」の状態じょうたいを脱だつした、と漱石そうせきは語かたる。他人たにん本ほん位いとは、自分じぶんの位置いちを常つねに他ほかとの比較ひかくでしか決きめられない状態じょうたい — つまり徹底てっていして相対的そうたいてきな立たち方かたである。漱石そうせきはそこから、比較ひかくに依よらない足場あしばへ移うつった。注意ちゅういしたいのは、彼かれが「自分じぶんが正ただしい」と言いったのではないことだ。正ただしさを他人たにんに決きめさせるのをやめた、と言いっている。絶対ぜったいとは「唯一ゆいいつ正ただしい」ことではなく、「比較ひかくの外そとに立たつ」ことである — この区別くべつができると、「絶対ぜったい化かする」がなぜ批判ひはん語ごになるのかも見みえてくる。比較ひかくの外そとに置おいた瞬間しゅんかん、そのものは検証けんしょうを受うけつけなくなるからだ。
  • 近代きんだい以前いぜんの社会しゃかいには、疑うたがいようのない絶対ぜったい的てきな規範きはんがあった。 26 の相対そうたいと対たいで読よむべき文ぶんである。「疑うたがいようのない」が絶対ぜったいの説明せつめいになっている点てんに注意ちゅういしたい。疑うたがうには、比くらべる別べつの基準きじゅんが要いる。比くらべる相手あいてが無なければ、そもそも疑うたがうという操作そうさが成なり立たたない。絶対ぜったいが揺ゆらぐのは、間違まちがいが見みつかったからではなく、並ならべられる別べつの基準きじゅんが現あらわれたからである。
  • ×この方法ほうほうが絶対ぜったいに一番いちばん早はやい。 口語こうごの副詞ふくし用法ようほうで、意味いみは「必かならず」。評ひょう論文ろんぶんでは使つかわない。しかもこの用法ようほうがあまりに強つよいために、名詞めいし・形容けいよう動詞どうしとして出でてきた絶対ぜったいを「必かならず」の意いで読よみ違ちがえる事故じこが起おこる。「絶対的ぜったいてきな価値かち」を「必かならずある価値かち」と読よんでしまうたぐいである。評ひょう論文ろんぶんの絶対ぜったいを見みたら、まず「比較ひかくの相手あいてがない」と置おき換かえてみるとよい。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

反はん 26 相対そうたい

派生はせい形けい
  • 絶対的ぜったいてき[0]評ひょう論文ろんぶんでもっとも多おおい形かたち。「絶対ぜったいに」という口語こうごの副詞ふくしと形かたちが近ちかいので読よみ違ちがえやすい。「絶対的ぜったいてきに正ただしい」は「必かならず正ただしい」ではなく「比較ひかくの相手あいてなしに正ただしい」である。この読よみ替かえができるかどうかが分わかれ目めになる。
  • 絶対性ぜったいせい[0]性質せいしつとして取とり出だす形かたち。「絶対ぜったい性せいを主張しゅちょうする」「絶対ぜったい性せいが揺ゆらぐ」と議論ぎろんの対象たいしょうに置おけるようになる。絶対ぜったいはゼロか一いちかのはずだが、この形かたちにすると程度ていどで語かたれてしまう — 12 の合理性ごうりせい、17 の倒錯とうさく性せいと同おなじ緩ゆるみである。
  • 絶対化ぜったいか[0]過程かていを指さす形かたちで、「もとは絶対ぜったいではなかった」という含ふくみを必かならず伴ともなう。この含ふくみがあるからこそ批判ひはん語ごとして働はたらく。26 の「相対そうたい化か」と正確せいかくに逆ぎゃくを向むいており、評ひょう論文ろんぶんではこの二に語ごの綱引つなひきとして議論ぎろんが組くみ立たてられることが多おおい。
  • 絶対者ぜったいしゃ[3]「者もの」で人格じんかく化かする。神かみ・独裁者どくさいしゃを指さすが、比較ひかくする相手あいてを持もたない存在そんざいという一点いってんで両者りょうしゃは同おなじ資格しかくに置おかれている。神かみと独裁者どくさいしゃが同おなじ語ごで呼よべてしまうこと自体じたいが、この語ごの政治的せいじてきな鋭するどさである。
コロケーション
  • 絶対ぜったい化かする検証けんしょうの遮断しゃだん「化か」が付ついて操作そうさになる。何なにかを絶対ぜったいの位置いちへ置おくことだが、その結果けっかとして起おきるのは比較ひかくの相手あいてを取とり払はらうことである。比較ひかくできなければ検証けんしょうもできない。だからこの語ごはほぼ必かならず批判ひはんとして使つかわれる。「他ほかを認みとめない」という含ふくみは、態度たいどの傲慢ごうまんさから来くるのではなく、比較ひかくを断たつという操作そうさそのものから来きている。
  • 絶対ぜったい者しゃ代替だいたいの不可能ふかのう性せい神かみや独裁者どくさいしゃを指さす。ここで言いわれているのは「いちばん偉えらい」ではなく「代かわりがいない」ということである。序列じょれつの頂点ちょうてんなら、倒たおれれば次つぎが繰くり上あがる余地よちがある。絶対ぜったい者しゃにはそれが無ない。唯一ゆいいつであることと代替だいたい不可能ふかのうであることは別べつの性質せいしつで、この語ごは後者こうしゃを指さしている。
  • 絶対的ぜったいてきな価値かち検証けんしょうを拒こばむ形かたち相対的そうたいてきな価値かちなら「何なにと比くらべて」を問とえるが、この形かたちは問とえない。問とえないという性質せいしつが、そのままこの語ごの強つよさであり弱よわさでもある。人権じんけんをこう呼よべば、文化ぶんかの違ちがいを理由りゆうにした例外れいがいを封ふうじられる。一方いっぽうで、誰だれがそれを絶対ぜったいと決きめたのかを問とう道みちも同時どうじに塞ふさがれる — 評ひょう論文ろんぶんはたいていこの後者こうしゃの側がわから入はいってくる。
  • 絶対ぜったい評価ひょうか実務じつむ語ごの対たい定さだめられた基準きじゅんに照てらして評価ひょうかする方式ほうしきで、集団しゅうだん内ないの位置いちで決きめる相対そうたい評価ひょうかと対たいになる。評ひょう論ろん用法ようほうと同おなじ構造こうぞうが実務じつむの言葉ことばにそのまま現あらわれている点てんが面白おもしろい。絶対ぜったい評価ひょうかでは他ほかの受験じゅけん者しゃが何なに点てんでも自分じぶんの評価ひょうかは動うごかない — まさに比較ひかくの相手あいてを断たつということである。抽象的ちゅうしょうてきな語ごを理解りかいしにくいときは、こういう実務じつむ語ごから入はいると輪郭りんかくがつかめる。
格かく中なか

書かき言葉ことば・会話かいわの両方りょうほうで使つかえる。

類るい語ごと差さ
  • 唯一ゆいいつただ一ひとつ数かずの話はなし。絶対ぜったいは関係かんけいの話はなし(比較ひかくする相手あいてがない)。
  • 普遍ふへん例外れいがいがない適用範囲てきようはんいの話はなし。絶対ぜったいは比較ひかくの可否かひの話はなし。両者りょうしゃは別べつの軸じく。
  • 無条件むじょうけん条件じょうけんに依よらない条件じょうけんについての語ご。絶対ぜったいはより広ひろく、代替だいたいの不可能ふかのう性せいを含ふくむ。
  • 究極きゅうきょく最終さいしゅうの段階だんかいの終おわり。絶対ぜったいは段階だんかいを前提ぜんていとしない。

ENabsolute
ZH绝对(絶対, juéduì)

26★★

相対そうたい

そうたい[0]平板へいばん型がた

語ご構成こうせい
相そうあい・たがいに+対たいむかいあう
定義ていぎ

他ほかとの比較ひかくや関係かんけいにおいて成なり立たつこと。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑26
原げん書しょの解説かいせつ

相対そうたいは絶対ぜったいの反はん意い語ごで、〈それだけが唯一ゆいいつではない〉というイメージでとらえるとわかりやすい。たとえば、昔むかしは道徳どうとくや宗教しゅうきょうの力ちからが強つよく、絶対的ぜったいてきな規範きはんがあったが、現代げんだいでは道徳どうとくも宗教しゅうきょうも力ちからが弱よわくなり、善悪ぜんあくの基準きじゅんが人ひとそれぞれ違ちがってきている(相対そうたい化かしている)。

たとえば

成績せいせき評価ひょうかを5段階ごだんかいでつける時とき、絶対ぜったい評価ひょうかでは、80点てん以上いじょうは「5」と決きめていれば、クラス全員ぜんいんが5でも構こうわない。一方いっぽう、相対そうたい評価ひょうかでは、比較ひかくによる評価ひょうかなので、一定いっていの割合わりあいで5・4・3・2・1を振ふり分わけて成績せいせきがつけられる。

使用しようの境界きょうかい

他ほかとの比較ひかくや関係かんけいにおいて成なり立たつこと。「それだけが唯一ゆいいつではない」と捉とらえると分わかりやすい。

用法ようほう

「相対そうたい化かする」が評ひょう論文ろんぶんの重要じゅうよう動詞どうしで、〈唯一ゆいいつ絶対ぜったいと思おもわれていたものを、比較ひかく可能かのうなものの一ひとつとして見直みなおす〉ことを指さす。近代きんだい批判ひはん・文化ぶんか論ろんで頻出ひんしゅつし、多おおくは肯定的こうていてきに使つかわれる。ただし「すべては相対的そうたいてきである」という主張しゅちょう自体じたいが自己じこ言及げんきゅうの問題もんだいを抱かかえるため、相対そうたい主義しゅぎへの批判ひはんも定型ていけいになっている。「相対そうたい評価ひょうか」は集団しゅうだんの中なかの位置いちで決きめる評価ひょうか方式ほうしきで、絶対ぜったい評価ひょうかと対たいになる実務じつむ語ご。この実務じつむ用法ようほうと評ひょう論ろん用法ようほうは同おなじ構造こうぞうを持もつ。

用例ようれい
  • 毛嬙・麗れい姫ひめは、人ひとの美びとする所しょなり。魚さかなは之これを見みて深ふかく入はいり、鳥とりは之これを見みて高たかく飛とび、麋鹿びろくは之これを見みて決驟けっしゅうす。四よん者しゃ孰じゅくか天下てんかの正せい色いろを知しらんや。『荘子そうし』斉せい物ぶつ論ろん篇へん
    絶世ぜっせいの美女びじょとされる毛嬙や麗れい姫ひめも、魚さかなは見みれば水底すいていへ逃にげ、鳥とりは空そらへ飛とび去さり、鹿しかは駆かけ出だす。この四よん者しゃのうち、いったい誰だれが「天下てんかの正ただしい美び」を知しっているのか、という。相対そうたいの考かんがえを、これ以上いじょうないほど短みじかく示しめした一節いっせつである。注意ちゅういしたいのは、荘子そうしが「美びは存在そんざいしない」と言いっていないことだ。人ひとにとって毛嬙は確たしかに美うつくしい。否定ひていされているのは美びではなく、その美びを人ひと以外いがいにも通用つうようする基準きじゅんとして立たてることである。相対そうたい化かとは、対象たいしょうを消けすことではなく基準きじゅんを「複数ふくすうあるうちの一ひとつ」の位置いちへ戻もどすことだ — この区別くべつを落おとすと、相対そうたい主義しゅぎは「何なにも正ただしくない」という乱らん暴ぼうな主張しゅちょうに見みえてしまう。
  • 道徳どうとくは便宜べんぎの異名いみょうである。「左側ひだりがわ通行つうこう」と似にたものである。芥川あくたがわ龍之介りゅうのすけ『侏儒しゅじゅの言葉ことば』(1923–27)
    左側ひだりがわ通行つうこうに正ただしさは無ない。みんながそうしていれば衝突しょうとつが減へる、というだけの取とり決きめである。右側みぎがわ通行つうこうの国くにへ行いけば、そちらが正ただしくなる。芥川あくたがわは道徳どうとくをこれと同列どうれつに置おいた。つまり道徳どうとくを絶対ぜったいの位置いちから取とり決きめの位置いちへ引ひき下おろした — これが相対そうたい化かという操作そうさの見本みほんである。ただし芥川あくたがわはここで「だから道徳どうとくを破やぶってよい」とは言いっていない。左側ひだりがわ通行つうこうを破やぶれば事故じこが起おきるのだから、取とり決きめであることと守まもるべきであることは両立りょうりつする。相対そうたい化かされた規範きはんがなお拘束力こうそくりょくを持もちうるというこの含ふくみを読よみ落おとすと、文章ぶんしょう全体ぜんたいが虚無きょむ的てきな主張しゅちょうに見みえてしまう。
  • 西洋せいようの価値かち観かんを相対そうたい化かすることから、文化ぶんか人類学じんるいがくの仕事しごとは始はじまった。 評ひょう論文ろんぶんにおける「相対そうたい化かする」の代表的だいひょうてきな用法ようほうで、唯一ゆいいつ絶対ぜったいと思おもわれていたものを、比較ひかく可能かのうなものの一ひとつとして見直みなおすことを指さす。多おおくの場合ばあい肯定的こうていてきに使つかわれる点てんが、批判ひはん語ごである「絶対ぜったい化かする」と対照的たいしょうてきである。「否定ひていする」ではなく「一ひとつとして見直みなおす」だから、相対そうたい化かされたものは消きえずに残のこる。
  • △この製品せいひんは相対的そうたいてきに高たかい。 「比較的ひかくてき高たかい」と言いいたいなら「比較的ひかくてき」のほうが自然しぜんである。「相対的そうたいてきに」は何なにを基準きじゅんにしたかを明示めいじする場面ばめんで使つかう。「前年比ぜんねんひでは相対的そうたいてきに高たかい」なら通とおる。基準きじゅんを言いえるかどうかで、この二に語ごは分わかれる。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

反はん 25 絶対ぜったい / 関せき 76

派生はせい形けい
  • 相対的そうたいてき[0]「比較的ひかくてき」と混同こんどうされやすいのが最大さいだいの注意ちゅうい点てん。「比較的ひかくてき」は程度ていどを弱よわめる副詞ふくしだが、「相対的そうたいてきに」は基準きじゅんとの関係かんけいを明示めいじする語ごである。基準きじゅんを言いえない場面ばめんでこの形かたちを使つかうと、意味いみのない飾かざりになる。
  • 相対性そうたいせい[0]性質せいしつとして取とり出だす形かたち。「相対性理論そうたいせいりろん」という物理学ぶつりがくの用語ようごがこの形かたちを有名ゆうめいにしたが、そちらは「観測かんそく者しゃによって測定値そくていちが変かわる」という厳密げんみつな意味いみで、評ひょう論文ろんぶんの相対性そうたいせいより射程しゃていがずっと狭せまい。比喩ひゆとして持もち出だす文章ぶんしょうには注意ちゅういしたい。
  • 相対化そうたいか[0]評ひょう論文ろんぶんの中心ちゅうしん動詞どうし。「絶対ぜったい化か」と正確せいかくに逆ぎゃくを向むく。面白おもしろいのは、絶対ぜったい化かがほぼ常つねに批判ひはん語ごであるのに対たいし、こちらはほぼ常つねに肯定こうてい語ごだという非対称ひたいしょうで、現代げんだいの評ひょう論ろんがどちらの向むきを善ぜんしとしているかがここに表あらわれている。
  • 相対主義そうたいしゅぎ[0]「主義しゅぎ」が付ついて立場たちばの名なになる。相対そうたい化かが操作そうさであるのに対たいし、こちらはその操作そうさをすべてに適用てきようすべきだという主張しゅちょうである。操作そうさと主張しゅちょうの区別くべつが付ついていないと、相対そうたい主義しゅぎ批判ひはんをそのまま相対そうたい化か批判ひはんと読よみ違ちがえてしまう。
コロケーション
  • 相対そうたい化かする評ひょう論ろんの主要しゅよう動詞どうし絶対ぜったいの位置いちにあったものを、並ならべられるものの一ひとつへ戻もどす操作そうさである。戻もどすのであって壊こわすのではない、という点てんがこの語ごの要かなめになる。近代きんだい批判ひはん・文化ぶんか論ろんで頻出ひんしゅつし、9 の「対象たいしょう化かする」と並ならんで評ひょう論文ろんぶんの二に大だい動詞どうしと言いってよい。対象たいしょう化かが切きり離はなして観察かんさつの台だいに載のせる操作そうさ、相対そうたい化かが並ならべて比くらべられるようにする操作そうさである。
  • 相対そうたい主義しゅぎ自己じこ言及げんきゅうの難所なんしょ「すべては相対的そうたいてきである」という主張しゅちょうがその主張しゅちょう自体じたいにも当あてはまってしまう、という難点なんてんを最初さいしょから抱かかえている。すべてが相対的そうたいてきなら、この主張しゅちょうも相対的そうたいてきにすぎない。18 の②、自己じこ言及げんきゅうのパラドックスとまったく同おなじ構造こうぞうで、相対そうたい主義しゅぎ批判ひはんはほぼ必かならずここを衝しょうく。評ひょう論文ろんぶんでこの語ごを見みたら、筆者ひっしゃがこの難点なんてんをどう処理しょりしているかを追おうと論ろんの骨ほねが見みえる。
  • 文化ぶんか相対そうたい主義しゅぎ限定げんていされた相対そうたい文化ぶんかを優劣ゆうれつで測はからないという立場たちばで、相対そうたいの考かんがえを文化ぶんかという領域りょういきに限かぎって適用てきようしたものである。限定げんていされているぶん自己じこ言及げんきゅうの難点なんてんを回避かいひしやすい。ただし「どの文化ぶんかの慣習かんしゅうも批判ひはんできない」という別べつの困難こんなんが生しょうじるので、人権じんけんをめぐる議論ぎろんでは1 の普遍ふへんと正面しょうめんから衝突しょうとつする。この衝突しょうとつが評ひょう論文ろんぶんの頻出ひんしゅつテーマである。
  • 相対そうたい評価ひょうか実務じつむ語ごの対たい集団しゅうだんの中なかでの位置いちによって決きめる評価ひょうか方式ほうしき。自分じぶんの答案とうあんが変かわらなくても、他人たにんの出来できしだいで評価ひょうかが動うごく。これが相対そうたいという語ごの意味いみをもっとも直接ちょくせつに体験たいけんさせてくれる例れいである。25 の絶対ぜったい評価ひょうかと並ならべると、抽象的ちゅうしょうてきな二に語ごの違ちがいが身体しんたいの感覚かんかくで分わかる。
格かく中なか

書かき言葉ことば・会話かいわの両方りょうほうで使つかえる。

類るい語ごと差さ
  • 比較的ひかくてき比くらべたうえでの程度ていど副詞ふくし。「比較的ひかくてき高たかい」は程度ていどの話はなし。「相対的そうたいてきに高たかい」は基準きじゅんとの関係かんけいを明示めいじする。
  • 文化ぶんか相対そうたい主義しゅぎ文化ぶんかを優劣ゆうれつで測はからない立場たちば相対そうたいの考かんがえを文化ぶんかに適用てきようした立場たちば名めい。評ひょう論文ろんぶんの頻出ひんしゅつ語ご。
  • 客観的きゃっかんてき主観しゅかんから独立どくりつしている視点してんの性質せいしつ。相対そうたいは関係かんけいの性質せいしつ。別べつの軸じくなので対たいにならない。
  • 流りゅう動的どうてき変かわりやすい変化へんかの話はなし。相対そうたいは基準きじゅんの話はなしで、変化へんかを含意がんいしない。

ENrelative
ZH相对(相対, xiāngduì)

解説かいせつ ── 概念がいねん・観念かんねん・理念りねん

概念がいねんとは、〈抽象的ちゅうしょうてきな意味いみ内容ないよう〉のこと。「抽象ちゅうしょう」であるから、一般性いっぱんせいや客観きゃっかん性せいがある。これを強調きょうちょうするために、「抽象ちゅうしょう概念がいねん」ともよく言いう。

観念かんねんは、具体的ぐたいてきな事実じじつから離はなれた、頭あたまの中なかにある物事ものごとのイメージや意識いしき内容ないようのことである。観念かんねんには、〈個人的こじんてきな思おもい込こみ〉とか、〈先入観せんにゅうかん〉という意味いみ合あいも含ふくむことがある。「固定こてい観念かんねん」という言いい方かたの響ひびきを考かんがえるとわかりやすい。

理念りねんとは、何なにかを実践じっせんする際さいに究極きゅうきょくの目標もくひょうとして掲かかげられるものである。たとえば学校がっこうの「教育きょういく理念りねん」は、学校教育がっこうきょういくが本来ほんらい目指めざす究極きゅうきょくの目標もくひょうのことである。「理想りそう」と比くらべて、使命しめい感かんや義務ぎむ感かんというニュアンスが強つよい。

対立たいりつの軸じく

絶対ぜったい/相対そうたい の軸じく = 比較ひかく対象たいしょうの有無うむ

絶対ぜったい比較ひかくするものや対立たいりつするものがない。
比較ひかく対象たいしょうの有無うむ
相対そうたい他ほかとの比較ひかくや関係かんけいにおいて成なり立たつ。
概念・観念・理念の区別客観と主観、記述と当為という二つの軸で概念・観念・理念を分けた図。 概念 言葉の意味内容 客観・共有される 観念 頭の中にある像 主観・個人に属する 理念 こうあるべきという考え 当為・目指すもの 記述 ── そうである 当為 ── そうすべきである 自由という概念を規定する 固定観念にとらわれる 建学の理念を掲げる 概念と観念の差は客観性、理念との差は当為の有無
客観きゃっかん・主観しゅかん・当為とういの三さん分ぶん
Section 14

還元かんげん/敷衍ふえん/一元いちげん/二元にげん/多元たげん

27★★

還元かんげん

かんげん[0]平板へいばん型がた

語ご構成こうせい
還かんかえる・もどす+元もともと
定義ていぎ

元もとに戻もどすこと、分解ぶんかいすること。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑27
原げん書しょの解説かいせつ

還元かんげんとは、一般的いっぱんてきには〈元もとに戻もどすこと、返かえすこと〉を意味いみする。ただし、科学かがくの分野ぶんやにおいては、〈細こまかく分解ぶんかいすること、最もっとも基礎的きそてきな部分ぶぶんにまで戻もどして分析ぶんせきすること〉の意いとなる。

たとえば

「企業きぎょうが利益りえきを社会しゃかいに還元かんげんする」といった場合ばあいは、ある企業きぎょうが事業じぎょうで得とくた利益りえきを、環境かんきょう保護ほごや貧まずしい人ひとに寄き付ふすることなどを意味いみする。これは、社会しゃかいから利益りえきを得とくた企業きぎょうが、その利益りえきを社会しゃかいに「返かえす」ということである。

使用しようの境界きょうかい

もとに戻もどすこと、返かえすこと。科学かがくでは最もっとも基礎的きそてきな部分ぶぶんまで分解ぶんかいして分析ぶんせきすること。日常にちじょう語ごと学術がくじゅつ語ごで重心じゅうしんが違ちがう。

用法ようほう

二ふたつの層そうがある。①日常にちじょう・実務じつむの〈返かえす〉(利益りえきを社会しゃかいに還元かんげんする)。②科学かがくの〈最もっとも基礎的きそてきな部分ぶぶんまで分解ぶんかいして説明せつめいする〉(生命せいめい現象げんしょうを分子ぶんしに還元かんげんする)。評ひょう論文ろんぶんでは②が中心ちゅうしんで、しばしば批判的ひはんてきに扱あつかわれる。全体ぜんたいを要素ようそに還元かんげんすると、全体ぜんたいにしかない性質せいしつが失うしなわれる、という議論ぎろんにつながる。「還元かんげん主義しゅぎ」はこの方法ほうほうを唯一ゆいいつとする立場たちばの名なで、批判ひはん語ごとして使つかわれることが多おおい。「〜に還元かんげんできない」という否定ひてい形けいが評ひょう論文ろんぶんの頻出ひんしゅつ表現ひょうげん。

用例ようれい
  • 凡ぼんそ文学的ぶんがくてき内容ないようの形式けいしきは(F+f)なることを要ようす。Fは焦点しょうてん的てき印象いんしょう又または観念かんねんを意味いみし、fはこれに附ふ着ちゃくする情緒じょうちょを意味いみす。夏目なつめ漱石そうせき『文学ぶんがく論ろん』(1907)
    文学ぶんがくとは何なにかという問といに、漱石そうせきは数式すうしきの形かたちで答こたえようとした。これは還元かんげんの、きわめて純度じゅんどの高たかい実例じつれいである。複雑ふくざつきわまりない対象たいしょうを、F(認識にんしきの要素ようそ)と f(情緒じょうちょの要素ようそ)というもっとも基礎的きそてきな二ふたつまで分解ぶんかいして説明せつめいしようとした。注目ちゅうもくしたいのは、漱石そうせき自身じしんがこの試こころみをのちに満足まんぞくのいくものとは考かんがえなかったことである。要素ようそに分わけた瞬間しゅんかんに、要素ようその並ならびには還元かんげんできないものがこぼれ落おちる — それが分わかるためには、いったん徹底てっていして還元かんげんしてみるしかない。還元かんげん主義しゅぎ批判ひはんが説得力せっとくりょくを持もつのは、こういう真剣しんけんな還元かんげんの試こころみが先さきにあったからである。
  • わたくしといふ現象げんしょうは
    仮定かていされた有機ゆうき交こう流りゅう電燈でんとうの
    ひとつの青あおい照明しょうめいです宮沢賢治みやざわけんじ『春はると修羅しゅら』序じょ(1924)
    「わたくし」を電燈でんとうという物理ぶつり現象げんしょうにまで還元かんげんしてみせた三さん行ぎょうである。心こころも意識いしきも出でてこない。あるのは電流でんりゅうと光ひかりだけだ。ところがこの三さん行ぎょうは、読よむと還元かんげんされたことによってかえって「わたくし」が鮮明せんめいになるという奇妙きみょうな効果こうかを持もつ。仕掛しかけは「仮定かていされた」の一語いちごにある。賢治けんじは「わたくしは電燈でんとうである」と断定だんていしていない。そう仮定かていしてみせているだけだ。ここが科学かがくの還元かんげんと詩しの還元かんげんの分わかれ目めで、還元かんげんを方法ほうほうとして使つかうか、唯一ゆいいつの説明せつめいとして掲かかげるかの違ちがいがそのまま、還元かんげんと還元かんげん主義しゅぎの違ちがいになる。
  • 生命せいめい現象げんしょうを分子ぶんしの働はたらきに還元かんげんして説明せつめいする。 科学かがくにおける②の用法ようほうである。「最もっとも基礎的きそてきな部分ぶぶんまで戻もどして分析ぶんせきする」という手続てつづきを指さし、それ自体じたいは中立ちゅうりつな方法ほうほうである。評ひょう論文ろんぶんがこれを批判ひはんするのは、方法ほうほうが方法ほうほうにとどまらず「それがすべてだ」という主張しゅちょうに変かわったときで、そこから先さきが還元かんげん主義しゅぎと呼よばれる。
  • ×利益りえきは社会しゃかいに還元かんげんすべきだという分子ぶんし生物学せいぶつがくの立場たちば。 ①の〈返かえす〉と②の〈分解ぶんかいする〉が一文いちぶんの中なかでつながってしまっている。同おなじ語ごでありながら、日常にちじょう・実務じつむの層そうと科学かがくの層そうで重心じゅうしんがまったく違ちがう。「戻もどす先さき」が持もち主ぬしなら①、構成要素こうせいようそなら②と、戻もどる先さきを見みれば判別はんべつできる。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

関せき 43

派生はせい形けい
  • 還元的かんげんてき[0]「還元かんげん的てきな説明せつめい」の形かたちでほぼ批判ひはん語ごとして働はたらく。「還元かんげんによる説明せつめい」なら中立ちゅうりつだが、「的てき」が付つくと「還元かんげんで片付かたづけようとする傾かたむき」という態度たいどの評価ひょうかに変かわる。23 の「観念かんねん的てき」と同おなじ振ふる舞まいである。
  • 還元主義かんげんしゅぎ[0]立場たちばの名な。方法ほうほうを唯一ゆいいつの道みちと定さだめた瞬間しゅんかんに、方法ほうほうは主義しゅぎになる。この移うつり方ほうは 12 の合理主義ごうりしゅぎ、26 の相対そうたい主義しゅぎとまったく同おなじ形かたちをしており、「主義しゅぎ」という接尾せつび辞じの働はたらきを覚おぼえるのにちょうどよい三さん点てんセットになる。
  • 創発そうはつ派生はせい形けいではなく、還元かんげんの限界げんかいを名指なざすために用意よういされた対たいの語ご。部分ぶぶんには無なかった性質せいしつが全体ぜんたいになったときに現あらわれることを指さす。「〜に還元かんげんできない」という否定ひてい形けいが主張しゅちょうするものに名なを与あたえた語ごで、この一語いちごを知しっていると議論ぎろんの見取みとり図ずが一段いちだんはっきりする。
コロケーション
  • 〜に還元かんげんできない否定ひてい形けいの主力しゅりょく評ひょう論文ろんぶんでこの語ごが現あらわれるとき、過か半はんは否定ひてい形けいである。「心こころは脳のうに還元かんげんできない」「作品さくひんは作者さくしゃの意図いとに還元かんげんできない」— いずれも全体ぜんたいにしかない性質せいしつがあるという主張しゅちょうだ。肯定こうてい形けいが方法ほうほうの記述きじゅつであるのに対たいし、否定ひてい形けいは主張しゅちょうになる。この語ごを見みたら、まず否定ひていが付ついているかどうかを見みるのが実際的じっさいてきである。
  • 還元かんげん主義しゅぎ方法ほうほうから立場たちばへ「主義しゅぎ」が付ついて、還元かんげんという方法ほうほうを唯一ゆいいつの説明せつめいの道みちとする立場たちばになる。批判ひはん語ごとして使つかわれることが多おおいが、注意ちゅういしたいのは還元かんげんそのものは批判ひはんされていない点てんだ。分解ぶんかいして調しらべるのは科学かがくの基本きほんであり、問題もんだいはそれ以外いがいの説明せつめいを認みとめなくなることにある。方法ほうほうへの批判ひはんと立場たちばへの批判ひはんを取とり違ちがえないことが読解どっかいの要かなめになる。
  • 利益りえきを社会しゃかいに還元かんげんする①の定型ていけいこちらは〈返かえす〉の系列けいれつで、実務じつむ・広報こうほうの言葉ことばである。「返かえす」ではなく「還元かんげんする」と言いうのは、もともとそこから得とくたものだという含ふくみを添そえられるからだ。施ほどこしではなく返却へんきゃくだという構図こうずになり、企業きぎょうの言葉ことばとして使つかいやすくなる。語ごの選択せんたくが立場たちばの表明ひょうめいになっている例れいである。
  • 要素ようそ還元かんげん手続てつづきの名な全体ぜんたいを部分ぶぶんの集あつまりとして扱あつかい、部分ぶぶんの性質せいしつから全体ぜんたいを説明せつめいする手続てつづきを指さす。近代きんだい科学かがくの成功せいこうはほぼこの方法ほうほうによっている。それでも評ひょう論文ろんぶんがここを衝しょうくのは、部分ぶぶんに分わけた時点じてんで消きえる関係かんけいがあるからで、水素すいそと酸素さんその性質せいしつをいくら調しらべても水みずの湿しつり気きは出でてこない、という比喩ひゆがよく使つかわれる。
格かく硬かた

書かき言葉ことば。会話かいわでは不自然ふしぜん。

類るい語ごと差さ
  • 分解ぶんかい部分ぶぶんに分わける分わけるだけ。還元かんげんは〈最もっとも基礎的きそてきなところまで〉という到達点とうたつてんを含ふくむ。
  • 帰着きちゃく結局けっきょくそこに行いき着つく結論けつろんの話はなし。還元かんげんは方法ほうほうの話はなし。
  • 要素ようそ論ろん全体ぜんたいを要素ようその集あつまりと見みる立場たちば名めい。還元かんげんはその立場たちばが用もちいる操作そうさ。
  • 返還へんかん返かえして戻もどす所有権しょゆうけんの移動いどう。還元かんげん①の意味いみに近ちかいが、法的ほうてき・事務的じむてきな語ご。

ENreduction
ZH还原(還元, huányuán)

28★★

敷衍ふえん⚠

ふえん[0]平板へいばん型がた

語ご構成こうせい
敷しきしく・のべ広ひろげる+衍えんあまる・広ひろがる

二字にじがともに〈広ひろげる〉を表あらわす。読よみそのものが入試にゅうしで問とわれる語ごである。

定義ていぎ

意味いみ・趣旨しゅしを押おし広ひろげて説明せつめいすること。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑28
原げん書しょの解説かいせつ

敷衍ふえんは定義ていぎそのままの意味いみの他ほかに、例れいなどを挙あげて説明せつめいすること、わかりやすく言いい換かえたり詳くわしく説明せつめいしたりすること、などの意味いみがある。読よみも問題もんだいになることが多おおいのでチェックしておこう。

たとえば

「食しょくの問題もんだいを生活せいかつ全体ぜんたいに敷衍ふえんして論ろんじる」というように、ある具体的ぐたいてきな問題もんだいや事柄ことがらを、より広ひろいテーマや分野ぶんやの中なかに位置いちづける場合ばあいに使つかわれることが多おおい。

使用しようの境界きょうかい

意味いみ・趣旨しゅしを押おし広ひろげて説明せつめいすること。言いい換かえ・例示れいじ・詳述しょうじゅつを伴ともなう。要約ようやくとは逆ぎゃくの操作そうさ。

用法ようほう

「敷衍ふえんすれば」「敷衍ふえんして言いえば」の形かたちで接続せつぞく表現ひょうげんとして使つかわれ、直前ちょくぜんの定義ていぎや命題めいだいをより広ひろい場面ばめんに当あてはめて説明せつめいすることを予告よこくする。「食しょくの問題もんだいを生活せいかつ全体ぜんたいに敷衍ふえんして論ろんじる」のように、具体的ぐたいてきな事柄ことがらをより広ひろいテーマの中なかに位置いちづける用法ようほうが多おおい。読解どっかいでは、この語ごの後あとに来くる内容ないようが前まえの内容ないようの適用範囲てきようはんいの拡張かくちょうであると予測よそくできる。読よみそのものが入試にゅうしで問とわれる語ごで、書かき取とりでも出でる。

用例ようれい
  • 一隅いちぐうを挙あげて三隅みすみを以もって反はんらざれば、則そくち復ふくせざるなり。『論語ろんご』述而じゅつじ篇へん
    四角しかくい机つくえの一ひとつの角かどを示しめしたとき、残のこる三みっつの角かどを自分じぶんで返かえしてこないような相手あいてには、もう教おしえない、という。ここで孔子こうしが学まなぶ側がわに求もとめているのが、まさに敷衍ふえんである。一ひとつの事例じれいで示しめされた筋道すじみちを、示しめされていない場面ばめんへ自分じぶんで押おし広ひろげる — その働はたらきができるかどうかを、孔子こうしは学まなびの条件じょうけんとした。注目ちゅうもくしたいのは、広ひろげる方向ほうこうが最初さいしょから決きまっている点てんだ。机つくえの角かどは四よっつあり、一隅いちぐうから三隅みすみへは自然しぜんに届とどく。敷衍ふえんが単たんなる思おもいつきの拡張かくちょうと違ちがうのは、もとの筋道すじみちがそのまま通用つうようする範囲はんいまでしか広ひろげられないからである。
  • 国内こくないの山村さんそんにして遠とお野のより更さらに物もの深ふかき所しょには又また無数むすうの山神やまのかみ山人さんじんの伝でん説せつあるべし。願ねがはくは之これを語かたりて平地へいち人ひとを戦慄せんりつせしめよ。柳田やなぎだ国男くにお『遠とお野の物語ものがたり』序じょ(1910)
    遠とお野のという一ひとつの土地とちの話はなしを集あつめた本ほんの序じょで、柳田やなぎだは「遠とお野のより更さらに物もの深ふかき所しょ」にも同おなじものがあるはずだと書かく。これが敷衍ふえんの身振みぶりそのものである。扱あつかっているのは一いち地方ちほうの伝でん説せつという徹底てっていして具体的ぐたいてきな材料ざいりょうだが、その材料ざいりょうを日本にほんの山村さんそん全体ぜんたいというより広ひろい場ばへ位置いちづけ直なおしている。重要じゅうようなのは、柳田やなぎだがここで抽象ちゅうしょう化かしていないことだ。遠とお野のの話はなしは遠とお野のの話はなしのまま残のこる。抽象ちゅうしょうが具体ぐたいを捨すてて共通点きょうつうてんだけを取とり出だすのに対たいし、敷衍ふえんは具体ぐたいを保たもったまま適用範囲てきようはんいを広ひろげる — この違ちがいが二に語ごの分わかれ目めで、4 の項こうと並ならべて読よむとはっきりする。
  • 敷衍ふえんすれば、この構図こうずは食しょくの問題もんだいにとどまらず生活せいかつ全体ぜんたいに当あてはまる。 接続せつぞく表現ひょうげんとしての典型的てんけいてきな使つかい方かたである。「これから適用範囲てきようはんいを広ひろげます」という予告よこくとして働はたらくので、読解どっかいではこの語ごの後あとに来くる内容ないようが前まえの内容ないようの拡張かくちょうであると予測よそくできる。新あたらしい主張しゅちょうが始はじまるのではない。同おなじ主張しゅちょうが、より広ひろい場所ばしょへ運はこばれるのである。
  • ×前半ぜんはんの議論ぎろんを敷衍ふえんすると、要ようするに三さん点てんにまとめられる。 まとめるのは「要約ようやく」で、敷衍ふえんとは逆ぎゃくの操作そうさである。敷衍ふえんは広ひろげる、要約ようやくは縮ちぢめる。「敷衍ふえんすれば」の後あとに短みじかい文ぶんが来きたら、ほぼ確実かくじつに誤ご用ようだと思おもってよい。なお読よみ(ふえん)そのものが入試にゅうしで直接ちょくせつ問とわれる語ごでもある。「敷しき」も「衍えん」ものべ広ひろげる意いで、字義じぎからも方向ほうこうは明あきらかである。
派生はせい形けい
  • 敷衍的ふえんてき[0]使用しよう頻度ひんどは低ひくい。「敷衍ふえんして」「敷衍ふえんすれば」という動詞どうし・接続せつぞくの形かたちで使つかわれるのが圧倒的あっとうてきで、この語ごは性質せいしつより動うごきを指さす語ごだといえる。「的てき」形かたちが育そだたなかったこと自体じたいが、その性格せいかくを示しめしている。
  • 演繹えんえき[0]派生はせい形けいではないが、字面じづらが似にていて混同こんどうされやすい語ご。「衍えん」と「演えん」はどちらも「のべる」の意いを含ふくむが、演繹えんえきは一般いっぱんから個別こべつを導みちびく論理ろんりの手続てつづきで、敷衍ふえんは適用範囲てきようはんいを押おし広ひろげる説明せつめいの身振みぶりである。論理ろんりか説明せつめいか、という層そうの違ちがいがある。
  • 付会ふかい敷衍ふえんが行いきすぎたときの語ご。本来ほんらいつながらないものを無理むりにつなげることを言いい、「牽強けんきょう付ふ会かい」の形かたちで使つかう。もとの筋道すじみちが通用つうようする範囲はんいを超こえた瞬間しゅんかん、敷衍ふえんは付ふ会かいになる — この境目さかいめを意識いしきすると、『論語ろんご』の「三隅みすみ」がなぜ四隅よすみではなく三隅みすみなのかも腑ふに落おちてくる。
コロケーション
  • 敷衍ふえんすれば接続せつぞくの予告よこくこの語ごのもっとも実用的じつようてきな形かたち。直前ちょくぜんの命題めいだいを、より広ひろい場面ばめんに当あてはめて説明せつめいするという予告よこくとして働はたらく。読解どっかい上じょうの利り点てんは大おおきい。この一語いちごが出でた時点じてんで、続つづく部分ぶぶんが新しん情報じょうほうではなく既出きしゅつ内容ないようの適用てきよう拡張かくちょうだと分わかるので、読よむ速度そくどを上あげてよい箇所かしょが判別はんべつできる。
  • 敷衍ふえんして言いえば柔やわらかい変形へんけい「すれば」より一段いちだんくだけた形かたちで、講演こうえん体からだや随筆ずいひつに多おおい。「言いえば」が加くわわることで、広ひろげるのは事柄ことがらではなく述のべ方ほうだという含ふくみが生しょうじる。同おなじ内容ないようを別べつの言いい方かたで広ひろく述のべ直なおす、という了りょう解かいが読者どくしゃと共有きょうゆうされる。
  • 議論ぎろんを敷衍ふえんする他動詞たどうしの形かたち目的語もくてきごをとると、広ひろげる対象たいしょうがはっきりする。ここで広ひろげられるのは論ろんそのものであって、結論けつろんではない点てんに注意ちゅういしたい。結論けつろんを広ひろげれば飛躍ひやくになり、論ろんの筋すじを広ひろげれば敷衍ふえんになる。入試にゅうしで「敷衍ふえんの説明せつめい」が問とわれるときは、たいていこの区別くべつが採点さいてんの分わかれ目めになっている。
  • 敷衍ふえんと展開てんかい方向ほうこうの違ちがい展開てんかいが論ろんを前まえへ進すすめるのに対たいし、敷衍ふえんは横よこへ広ひろげる。展開てんかいでは新あたらしい段階だんかいに入はいるが、敷衍ふえんでは段階だんかいは変かわらず適用範囲てきようはんいだけが増ふえる。縦たてに進すすむか横よこに広ひろがるかという図ずで捉とらえておくと、「詳述しょうじゅつ」「換言かんげん」「補足ほそく」との違ちがいも同おなじ図ずの上うえに置おける。
格かく硬かた・学術がくじゅつ

論文ろんぶん・評ひょう論ろんでのみ使つかう。会話かいわでは不自然ふしぜん。

類るい語ごと差さ
  • 詳述しょうじゅつ詳くわしく述のべる量りょうを増ふやすこと。敷衍ふえんは適用範囲てきようはんいを広ひろげることも含ふくむ。
  • 展開てんかい論ろんを先さきへ進すすめる前まえへ進すすむ動うごき。敷衍ふえんは横よこへ広ひろげる動うごき。
  • 換言かんげん言いい換かえる同おなじ内容ないようを別べつの語ごで言いう。敷衍ふえんは内容ないようを広ひろげる。
  • 補足ほそく足たりない分ぶんを加くわえる不足ふそくを埋うめる。敷衍ふえんは不足ふそくがなくても行おこなえる。

ENamplification / elaboration
ZH敷衍(いい加減にごまかす, fūyǎn)

日中にっちゅうのズレ

中国語ちゅうごくごの 敷衍ふえん(fūyǎn)は「おざなりにする」「いい加減かげんに済すませる」(敷衍ふえん了りょう事こと)。

日本語にほんごの「敷衍ふえん」は「押おし広ひろげて詳くわしく説明せつめいする」。ほぼ逆ぎゃくの含意がんいを持もつ。

29★

一元いちげん

いちげん[0]平板へいばん型がた

語ご構成こうせい
一いちひとつ+元もともと・根本こんぽん
定義ていぎ

物事ものごとの根本こんぽんが一ひとつであること。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑29
原げん書しょの解説かいせつ

評ひょう論文ろんぶんでは、「一元論いちげんろん」「二元にげん論ろん」「多元論たげんろん」という使つかわれ方ほうで登場とうじょうすることが多おおい。一元論いちげんろんとは、「神かみによって世界せかいは成なり立たっている」のように、一ひとつの原理げんりによって物事ものごとを説明せつめいする考かんがえ方かたのこと。二元にげん論ろんとは、「光ひかりと闇やみ」「善ぜんと悪あく」のように、二ふたつの正反対せいはんたいの原理げんりによって物事ものごとを説明せつめいする考かんがえ方かたである。また、多元論たげんろんとは、いくつもの原理げんりによって物事ものごとを説明せつめいする考かんがえ方かたである。

多元たげんは「多元的たげんてき」という使つかわれ方ほうも多おおく、物事ものごとの根本こんぽんがいくつもある様子ようすを表あらわす。たとえば、世界せかいにはさまざまな民族みんぞくや宗教しゅうきょうがあるので、共存きょうぞんするためには多元的たげんてきな社会しゃかいを認みとめる必要ひつようがある。

使用しようの境界きょうかい

物事ものごとの根本こんぽんが一ひとつであること。「神かみによって世界せかいは成なり立たっている」のような立場たちばが一元論いちげんろん。

用法ようほう

「一元論いちげんろん」という哲学てつがくの立場たちば名めいとして出でるのが基本きほんで、単独たんどくの「一元いちげん」はまれ。実務じつむでは「一元化いちげんか」(窓口まどぐちの一元化いちげんか、管理かんりの一元化いちげんか)が最もっとも多おおく、これは〈ばらばらの窓口まどぐちを一ひとつにまとめる〉という意味いみで、哲学てつがくの一元論いちげんろんとは層そうが違ちがう。評ひょう論文ろんぶんで「一元的いちげんてき」と出でた場合ばあいは、多おおくを一ひとつの原理げんりで説明せつめいしようとする姿勢しせいを指さし、しばしば批判的ひはんてきに扱あつかわれる。多元たげんとの対たいで読よむ。

用例ようれい
  • 道みちは一いちを生しょうじ、一いちは二にを生しょうじ、二には三さんを生しょうじ、三さんは万物ばんぶつを生せいず。『老子ろうし』第だい四十よんじゅう二に章しょう
    一元論いちげんろんの骨格こっかくを四よん句くで示しめした一節いっせつである。万物ばんぶつのすべてが、たどっていけばただ一ひとつの根ねに行いき着つく。注目ちゅうもくしたいのは、ここで数かずが増ふえていく向むきに語かたられている点てんである。一元論いちげんろんは「多おおくのものを一ひとつに減へらす」立場たちばだと思おもわれがちだが、そうではない。一ひとつの根本こんぽんから、いかにして多様たようが出でてくるかを説明せつめいする立場たちばなのだ。だから一元論いちげんろんは多様性たようせいを否定ひていしない。否定ひていするのは多様性たようせいが「複数ふくすうの独立どくりつした根ね」を持もつことのほうである。この区別くべつができると、31 の多元たげんとの対立たいりつ点てんがはっきりする。争あらそわれているのは現あらわれの数かずではなく、根ねの数かずである。
  • 一いち即そく一切いっさい、一切いっさい即そく一いち。『華厳けごん経へ』の教理きょうりを要約ようやくした句く
    一いちがそのまま一切いっさいであり、一切いっさいがそのまま一いちである、という。一元論いちげんろんのもっとも徹底てっていした形かたちで、根本こんぽんが一ひとつであるだけでなく、一ひとつ一ひとつの現あらわれがそのまま根本こんぽんでもあると言いっている。ここまで来くると、一いちと多たの区別くべつそのものが崩くずれる。評ひょう論文ろんぶんで「一元的いちげんてき」が批判ひはん語ごとして使つかわれるのは、この徹底てっていゆえである — すべてを一ひとつの原理げんりで説明せつめいしきる姿勢しせいは、説明せつめいできない残のこりを認みとめない姿勢しせいと紙一重かみひとえだからだ。同おなじ思想しそうが、宗教しゅうきょうでは悟さとりの表現ひょうげんになり、政治せいじでは全体ぜんたい主義しゅぎの言いい分ぶんになりうる。どちらに転ころぶかを決きめるのは、原理げんりの中身なかみではなくそれを人ひとに強しいるかどうかである。
  • すべてを経済けいざいで説明せつめいしようとする一元いちげん的てきな見方みかたは、かえって多おおくを見落みおとす。 評ひょう論文ろんぶんにおける「一元的いちげんてき」の典型てんけいで、批判ひはん語ごとして働はたらいている。注意ちゅういしたいのは、経済けいざいで説明せつめいすることが間違まちがいだと言いっているのではない点てんだ。「すべてを」と「それだけで」が問題もんだいにされている。27 の還元かんげん主義しゅぎとほとんど同おなじ構造こうぞうで、説明せつめいの道具どうぐを唯一ゆいいつの道具どうぐに格かく上あげしたところに批判ひはんが向むかう。
  • ×窓口まどぐちを一元いちげん化かする哲学的てつがくてき立場たちばを一元論いちげんろんという。 実務じつむ語ごの「一元化いちげんか」(ばらばらのものを一ひとつにまとめる)と、哲学てつがくの「一元論いちげんろん」(一ひとつの原理げんりで説明せつめいする)がつながってしまっている。同おなじ語幹ごかんだが層そうが違ちがう。まとめるのは組織そしきの話はなし、説明せつめいするのは原理げんりの話はなしである。実務じつむ語ごのほうが日常にちじょうでは圧倒的あっとうてきに多おおいので、評ひょう論文ろんぶんで出会であったときに引ひきずられやすい。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

反はん 31 多元たげん

派生はせい形けい
  • 一元的いちげんてき[0]評ひょう論文ろんぶんではほぼ批判ひはん語ご。「多元的たげんてき」がほぼ肯定こうてい語ごであるのと正確せいかくに対たいをなしている。語ごの評価ひょうかが現代げんだいの思潮しちょうを映うつしている例れいで、百年ひゃくねん前まえの文章ぶんしょうでは逆ぎゃくの評価ひょうかだったこともある。
  • 一元論いちげんろん[0]「論ろん」が立場たちばの名なを作つくる。二元にげん論ろん・多元論たげんろんと三みっつ並ならべて根本こんぽんの数かずで分類ぶんるいする枠組わくぐみができあがる。この枠組わくぐみそのものが西洋せいよう哲学史てつがくしの整理せいり法ほうなので、評ひょう論文ろんぶんで出でたら背景はいけいに哲学史てつがくしがあると見みてよい。
  • 一元化いちげんか[0]「化か」が過程かていを指さすが、こちらは哲学てつがくではなく実務じつむの語ご。一元論いちげんろんから派生はせいしたのではなく、「一ひとつにまとめる」という別べつの意味いみで育そだった形かたちである。同おなじ語幹ごかんに二ふたつの系統けいとうが同居どうきょしている。
コロケーション
  • 一元論いちげんろん立場たちばの名な「論ろん」が付ついて世界せかいの説明せつめいのしかたを指さす名なになる。神かみによる世界せかいの説明せつめい、物質ぶっしつによる世界せかいの説明せつめい — 内容ないようはまるで違ちがうが、「一ひとつの原理げんりですべてを説明せつめいする」という形かたちにおいて同おなじである。評ひょう論文ろんぶんが扱あつかうのはこの形かたちのほうなので、一元論いちげんろんと聞きいて宗教しゅうきょうだけを思おもい浮うかべると読よみ違ちがえる。
  • 一元的いちげんてきな価値かち観かん批判ひはんの定型ていけいものさしが一本いっぽんしかないという批判ひはんである。偏差へんさ値ちだけで人ひとを測はかる、売上うりあげだけで組織そしきを測はかる — いずれも一元的いちげんてきな価値かち観かんと呼よばれる。面白おもしろいのは、この批判ひはんがものさしの中身なかみではなく本数ほんすうを問題もんだいにしている点てんだ。だから「もっと良よいものさしに替かえよ」ではなく「もう一本いっぽん増ふやせ」が答こたえになる。31 の多元たげんへまっすぐつながる。
  • 一元化いちげんか実務じつむの言葉ことば窓口まどぐちの一元化いちげんか、管理かんりの一元化いちげんか。散ちらばっていた機能きのうを一いちか所しょに集あつめることを言いう。こちらは効率こうりつの話はなしで、ふつう肯定的こうていてきに使つかわれる。同おなじ語幹ごかんが、実務じつむでは褒ほめ言葉ことば、評ひょう論ろんでは批判ひはん語ごという正反対せいはんたいの評価ひょうかを持もつ。12 の合理化ごうりかと同おなじねじれである。
  • 一元的いちげんてき支配しはい政治せいじの語彙ごい権力けんりょくが一いちか所しょに集あつまり、対抗たいこうする中心ちゅうしんが存在そんざいしない状態じょうたいを指さす。31 の政治的せいじてき多元たげん主義しゅぎがまさにこれを避さけるために立たてられた立場たちばなので、この二に語ごは正面しょうめんから対立たいりつする。11 の権力けんりょくの項こうと合あわせて読よむと、「一元いちげん/多元たげん」が抽象論ちゅうしょうろんではなく具体的ぐたいてきな政治せいじの問題もんだいであることが分わかる。
格かく硬かた

書かき言葉ことば。会話かいわでは不自然ふしぜん。

類るい語ごと差さ
  • 単一たんいつただ一ひとつ数かずだけの話はなし。一元いちげんは〈根本こんぽんが一ひとつ〉という説明せつめい原理げんりの話はなし。
  • 統一とういつ一ひとつにまとめるまとめる動作どうさ。一元いちげんは状態じょうたい・立場たちば。
  • 絶対ぜったい比くらべるものがない比較ひかくの可否かひ。一元いちげんは根本こんぽんの数かず。別べつの軸じく。
  • 画一かくいつすべて同おなじ形かたち多様性たようせいの欠如けつじょを否定的ひていてきに言いう。一元いちげんは中立ちゅうりつ。

ENmonism
ZH一元(一元, yīyuán)

30★

二元にげん

にげん[0]平板へいばん型がた

語ご構成こうせい
二にふたつ+元もともと・根本こんぽん
定義ていぎ

物事ものごとを二ふたつの原理げんりに分わけること。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑30
使用しようの境界きょうかい

物事ものごとを二ふたつの原理げんりに分わけること。「光ひかりと闇やみ」「善ぜんと悪あく」のように正反対せいはんたいの二に原理げんりで世界せかいを説明せつめいする考かんがえ方かた。

用法ようほう

「心身しんしん二元にげん論ろん」(デカルト)が代表だいひょう例れいで、精神せいしんと物体ぶったいを別べつの原理げんりとする立場たちばを指さす。評ひょう論文ろんぶんでは「二元にげん論ろん的てきな発想はっそう」がしばしば批判ひはんの対象たいしょうになり、〈世界せかいを単純たんじゅんに二ふたつに割わって理解りかいしてしまう〉という含ふくみで使つかわれる。「二に項こう対立たいりつ」という語ごが構造こうぞう分析ぶんせきの用語ようごとして広ひろく使つかわれるため、評ひょう論文ろんぶんではこちらの方ほうが頻度ひんどが高たかい。二元にげん論ろんを批判ひはんした先さきに多元論たげんろんがあるという流ながれが定型ていけい。

用例ようれい
  • 一いち陰いん一いち陽よう、之これを道みちと謂いふ。『易経えききょう』繋辞けいじ上じょう伝でん
    陰いんと陽ひが交互こうごに現あらわれること、それが道みちである、という。二元にげん論ろんのもっとも古ふるい形かたちのひとつだが、西洋せいようの心身しんしん二元にげん論ろんとは決定的けっていてきに違ちがう点てんがある。陰いんと陽ようは対立たいりつしているが、切きり離はなされていない。「一いち陰いん一いち陽よう」— 交互こうごに入いれ替かわるのだから、両者りょうしゃは同おなじ一本いっぽんの運動うんどうの二ふたつの面めんである。一方いっぽう、デカルトの心身しんしん二元にげん論ろんでは精神せいしんと物体ぶったいは互たがいに独立どくりつした別べつの原理げんりとされ、それゆえ「では両者りょうしゃはどうつながるのか」という難問なんもんが生うまれた。二ふたつに分わけたあと、その二ふたつをつなぎ直なおせるかどうか — ここが二元にげん論ろんの分わかれ目めであり、評ひょう論文ろんぶんが「二元にげん論ろん的てきな発想はっそう」を批判ひはんするときも、つなぎ直なおせなくなった二元にげんを指さしている。
  • 色即是空しきそくぜくう、空即是色くうそくぜしき。『般若はんにゃ心経しんぎょう』
    形かたちあるものはそのまま空そらであり、空そらはそのまま形かたちあるものである。二元にげんを立たてておいて、その場ばで境界きょうかいを消けしてみせる一句いっくである。ここで大切たいせつなのは、色いろと空そらという区別くべつをいったん立たてなければこの文ぶんが書かけないことだ。区別くべつを立たて、そのうえで区別くべつが実体じったいを持もたないと言いう。評ひょう論文ろんぶんにおける二元にげん論ろん批判ひはんも、多おおくはこの手順てじゅんを踏ふむ。二に項こう対立たいりつを発見はっけんし、それを提示ていじし、そのうえで対立たいりつが作つくられたものだと示しめす。対立たいりつを最初さいしょから無ないことにしてしまうと、何なにを批判ひはんしているのか読者どくしゃに伝つたわらない。批判ひはんは、批判ひはんされる構図こうずをまず立たてるところから始はじまる。
  • 東洋とうようと西洋せいようという二元にげん論ろん的てきな図式ずしきは、それ自体じたいが近代きんだいの産物さんぶつである。 評ひょう論文ろんぶんでもっとも多おおい型かたのひとつ。二元にげん論ろんを否定ひていするのではなく、その由来ゆらいを問とうている点てんに注意ちゅういしたい。「間違まちがいだ」と言いうのではなく「いつ作つくられたか」を問とう。19 の虚構きょこう、26 の相対そうたい化かと同おなじ手てつきで、自然しぜんに見みえていた枠組わくぐみを歴史れきしの中なかに置おき直なおす作業さぎょうである。
  • △所得しょとくが二元にげん化かして中間ちゅうかん層そうが消きえた。 こちらは「二に極きょく化か」である。分布ぶんぷが二ふたつの極きょくに偏かたよることを言いい、説明せつめいの原理げんりの数かずとは関係かんけいがない。二元にげんは原理げんりの話はなし、二に極きょく化かは分布ぶんぷの話はなし。語幹ごかんが似にていても、扱あつかっている対象たいしょうの層そうがまったく違ちがう。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

関せき 91

派生はせい形けい
  • 二元的にげんてき[0]「二元にげん論ろん的てき」の形かたちで使つかわれることのほうが多おおい。「論ろん」を挟はさむと立場たちばとしての主張しゅちょうを、挟はさまないと単たんなる二分にぶんの構かまえを指さす。批判ひはんの的まとが主張しゅちょうなのか癖くせなのかで使つかい分わける。
  • 二元論にげんろん[0]一元論いちげんろん・多元論たげんろんと対たいにして覚おぼえる。数かずだけが違ちがって形かたちは同おなじという整理せいりができると、評ひょう論文ろんぶんが三みっつのうちどこに立たっているかを素そ早はやく判定はんていできるようになる。
  • 二項対立にこうたいりつ厳密げんみつには別語べつごだが、評ひょう論文ろんぶんでは二元にげん論ろんとほぼ同義どうぎに使つかわれる。違ちがいは、二元にげん論ろんが世界せかいについて語かたり、二に項こう対立たいりつがテクストについて語かたることである。批判ひはんの対象たいしょうが思想しそうか文章ぶんしょうかで見分みわけるとよい。
コロケーション
  • 心身しんしん二元にげん論ろん代表だいひょう例れいデカルトに由来ゆらいし、精神せいしんと物体ぶったいを別べつの原理げんりとする立場たちばを指さす。この分割ぶんかつが近代きんだい科学かがくを可能かのうにした — 物体ぶったいの側がわを精神せいしんから切きり離はなせたからこそ、数量すうりょうとして扱あつかえるようになった。9 の対象たいしょう化かと同おなじ出来事できごとを、別べつの角度かくどから言いっている。批判ひはんされるようになったのは、成功せいこうしすぎたからである。
  • 二に項こう対立たいりつ構造こうぞう分析ぶんせきの術語じゅつご評ひょう論文ろんぶんでは二元にげん論ろんよりこちらの頻度ひんどが高たかい。「二元にげん論ろん」が世界せかいの成なり立たちについての主張しゅちょうであるのに対たいし、「二に項こう対立たいりつ」はテクストの中なかに見出みいだされる対たいの配置はいちを指さす方法論ほうほうろんの語ごである。文化ぶんか/自然しぜん、男おとこ/女おんな、中心ちゅうしん/周縁しゅうえん — これらを見みつけ、どちらが上位じょういに置おかれているかを問とうのが構造こうぞう分析ぶんせきの基本きほん手順てじゅんになる。
  • 二元にげん論ろんを超こえる批判ひはんの身振みぶり「否定ひていする」ではなく「超こえる」と言いうのが定型ていけいである。二元にげん論ろんが捉とらえたものを捨すてずに、その先さきへ進すすむという含ふくみがここにある。心こころと体からだの区別くべつそのものは有用ゆうようだから、区別くべつを消けすのではなく区別くべつが絶対ぜったいでないことを示しめす。多おおくの場合ばあい、行いき先さきは 31 の多元論たげんろんである。
  • 善悪ぜんあく二元にげん論ろん価値かちの二に分ぶん世界せかいを善ぜんと悪あくの二ふたつの原理げんりで説明せつめいする立場たちば。評ひょう論文ろんぶんでこの語ごが出でるときは、ほぼ必かならず批判的ひはんてきである。理由りゆうは明快めいかいで、この図式ずしきでは自分じぶんが必かならず善ぜんの側がわに置おかれるからだ。外そとを悪あくと名指なざす枠組わくぐみは、同時どうじに内ないを無条件むじょうけんに正当化せいとうかしてしまう。20 のイデオロギーの項こうと直結ちょっけつする。
格かく硬かた

書かき言葉ことば。会話かいわでは不自然ふしぜん。

類るい語ごと差さ
  • 対立たいりつ向むかい合あって争あらそう争あらそいの関係かんけい。二元にげんは説明せつめい原理げんりの数かずで、争あらそいを含ふくまない。
  • 二に項こう対立たいりつ二ふたつの項こうで論ろんを組くみ立たてる構造こうぞう分析ぶんせきの用語ようご。二元にげん論ろんより方法論ほうほうろんに寄よる。評ひょう論文ろんぶんでは同義どうぎに近ちかく使つかわれる。
  • 一元いちげん根本こんぽんが一ひとつ根本こんぽんの数かずが違ちがう。二元にげん論ろん批判ひはんは一元論いちげんろんか多元論たげんろんに向むかう。
  • 二に極きょく化か二ふたつの極きょくに分わかれる分布ぶんぷの話はなし。原理げんりの話はなしではない。

ENdualism
ZH二元(二元, èryuán)

31★

多元たげん

たげん[0]平板へいばん型がた

語ご構成こうせい
多たおおい+元もともと・根本こんぽん
定義ていぎ

物事ものごとの根本こんぽんが複数ふくすうあること。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑31
使用しようの境界きょうかい

物事ものごとの根本こんぽんが複数ふくすうあること。「多様たよう」は現あらわれ方ほうの話はなし、「多元たげん」は根本こんぽんの数かずの話はなし。

用法ようほう

「多元的たげんてきな社会しゃかい」「価値かちの多元たげん化か」の形かたちで、複数ふくすうの民族みんぞく・宗教しゅうきょう・価値かち観かんが共存きょうぞんする状態じょうたいを肯定的こうていてきに述のべる用法ようほうが多おおい。政治学せいじがくの「政治的せいじてき多元たげん主義しゅぎ」は、国家こっか権力けんりょくを抑制よくせいして社会しゃかい集団しゅうだんの自由じゆうを確保かくほしようとする立場たちばを指さし、原げん書しょの「権威けんい/権力けんりょく」の入試にゅうし文ぶんがこの語ごを扱あつかう。「多様たよう」との違ちがいは、多様たようが現象げんしょうの種類しゅるいの多おおさであるのに対たいし、多元たげんは根本こんぽんの原理げんりが複数ふくすうあるという主張しゅちょうであること。この差さが確認かくにんテストの区別くべつになる。

用例ようれい
  • 和わは羹あつものの如ごとし。……若わかし水みずを以もって水みずを済ずみはば、誰だれか能のうく之これを食しょくらはん。『春秋しゅんじゅう左氏さし伝でん』昭公しょうこう二十にじゅう年ねん・晏子あんしの言げん
    「和わ」とは吸すい物もののようなものだ、と晏子あんしは言いう。塩しおも梅うめも魚さかなも、それぞれ違ちがう味あじを持もったまま入はいるから吸すい物ものになる。水みずに水みずを足たしても、誰だれがそれを飲のむだろうか。ここで示しめされているのが多元たげんの考かんがえ方かたである。重要じゅうようなのは、晏子あんしが「違ちがいを残のこしたまま一ひとつの料理りょうりになる」と言いっている点てんだ。違ちがいを消けして一ひとつにするのは「同どう」であって「和わ」ではない。多元的たげんてきな社会しゃかいとは、複数ふくすうの原理げんりがそのまま複数ふくすうのまま共存きょうぞんする社会しゃかいであり、一ひとつに溶とけ合あった社会しゃかいではない。20 の項こうで引ひいた『論語ろんご』の「和わして同どうぜず」は、この晏子あんしの議論ぎろんを背景はいけいに持もっている。
  • 多摩たま川かわにさらす手て作つくりさらさらに何なにそこの児このここだ愛あいしき『万葉集まんようしゅう』巻かん十四じゅうよん・東歌あずまうた(8世紀はっせいき)
    『万葉集まんようしゅう』には、天皇てんのうの歌うたも、名なも知しれぬ東国とうごくの農民のうみんの歌うたも、防人さきもりの歌うたも、同おなじ資格しかくで並ならんでいる。この一いち首くびも作者さくしゃは分わからない。注目ちゅうもくしたいのは、編者へんしゃがそれらを身分みぶんの順じゅんに並ならべ直なおさなかったことである。多様たようなだけなら、多おおくの種類しゅるいの歌うたを集あつめればよい。多元たげんとは、それぞれの歌うたが別々べつべつの根ねから生はえていることを認みとめることだ。宮廷きゅうていの美び意識いしきという一ひとつの原理げんりで東歌あずまうたを測はかれば、それは多様たようではあっても多元たげんではない。『古今ここん集しゅう』以降いこう、和歌わかが一ひとつの規範きはんに整ととのえられていく流ながれと引ひき比くらべると、この違ちがいがはっきりする。
  • 複数ふくすうの民族みんぞくと宗教しゅうきょうが共存きょうぞんするには、多元たげん的てきな社会しゃかいを認みとめる必要ひつようがある。 原げん書しょの説明せつめいをそのまま文ぶんにしたもの。「多様たような社会しゃかい」と書かいた場合ばあいとの差さを確たしかめたい。多様たようなら、一ひとつの枠わくの中なかにいろいろな人ひとがいるだけで足たりる。多元たげんと書かけば、その枠わく自体じたいが複数ふくすうあることを認みとめることになる。一段いちだん踏ふみ込こんだ主張しゅちょうであり、それゆえ実現じつげんははるかに難むずかしい。
  • ×商品しょうひんの種類しゅるいが多元たげん的てきで選えらぶのに困こまる。 種類しゅるいの多おおさは「多様たよう」である。多元たげんは根本こんぽんの原理げんりが複数ふくすうあるという主張しゅちょうで、現あらわれ方ほうの話はなしではない。「根ねが複数ふくすうか、枝えだが複数ふくすうか」を問とえば二に語ごは分わかれる。確認かくにんテストで直接ちょくせつ問とわれる区別くべつなので、この言いい方かたごと覚おぼえておきたい。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

反はん 29 一元いちげん

派生はせい形けい
  • 多元的たげんてき[0]ほぼ肯定こうてい語ごとして働はたらく。「一元的いちげんてき」がほぼ批判ひはん語ごであるのと対たいをなす。ただし肯定こうてい語ごであるがゆえに中身なかみを問とわれないまま使つかわれやすいので、評ひょう論文ろんぶんでは「何なにが複数ふくすうだと言いっているのか」を確たしかめながら読よみたい。
  • 多元論たげんろん[0]一元論いちげんろん・二元にげん論ろんと並ならぶ立場たちばの名な。二元にげん論ろんを批判ひはんした先さきに多元論たげんろんがあるという流ながれが定型ていけいで、評ひょう論文ろんぶんの議論ぎろんはしばしばこの順序じゅんじょで進すすむ。
  • 多元主義たげんしゅぎ[0]「主義しゅぎ」が付ついてすべきだという主張しゅちょうになる。多元論たげんろんが世界せかいの説明せつめいであるのに対たいし、こちらは社会しゃかいの設計せっけい思想しそうである。26 の相対そうたい主義しゅぎと同おなじく、説明せつめいと主張しゅちょうの区別くべつがここでも効きいてくる。
コロケーション
  • 多元的たげんてきな社会しゃかい肯定こうていの定型ていけい複数ふくすうの民族みんぞく・宗教しゅうきょう・価値かち観かんがそれぞれの原理げんりを保たもったまま共存きょうぞんする社会しゃかいを指さす。ほぼ常つねに肯定的こうていてきに使つかわれるが、同時どうじにもっとも難むずかしい状態じょうたいでもある。共通きょうつうの物差ものさしが無ないのだから、対立たいりつが起おきたとき何なにを基準きじゅんに裁さばくのかが定さだまらない。評ひょう論文ろんぶんが多元たげんを論ろんじるときの真しんの争点そうてんはここで、1 の普遍ふへんと正面しょうめんからぶつかる。
  • 価値かちの多元たげん化か歴史れきしの記述きじゅつ「化か」が付ついてすでに進行しんこうした変化へんかを指さす。規範きはんや宗教しゅうきょうの力ちからが弱じゃくまり、善悪ぜんあくの基準きじゅんが人ひとそれぞれになった — これは主張しゅちょうではなく事実じじつの記述きじゅつとして書かかれる。26 の相対そうたい化かと重かさなるが、相対そうたい化かが「一ひとつの基準きじゅんを相対的そうたいてきな位置いちへ戻もどす」操作そうさ、多元たげん化かが「基準きじゅんそのものが増ふえる」変化へんかである点てんが違ちがう。
  • 政治的せいじてき多元たげん主義しゅぎ権力けんりょくの抑制よくせい国家こっか権力けんりょくを抑おさえ、社会しゃかいの中なかに複数ふくすうの集団しゅうだんが独立どくりつの力ちからを持もつことを保証ほしょうしようとする立場たちば。原げん書しょの「権威けんい/権力けんりょく」の入試にゅうし文ぶんが扱あつかう語ごである。10・11 の項こうと結むすんで読よみたい。権力けんりょくが一元化いちげんかしないことそのものが自由じゆうの条件じょうけんだという主張しゅちょうで、抽象的ちゅうしょうてきな多元論たげんろんが政治せいじ制度せいどの設計せっけいに直結ちょっけつする場面ばめんである。
  • 多元たげんと多様たよう境目さかいめの確認かくにん評ひょう論文ろんぶんでこの二に語ごが並ならべられたら、筆者ひっしゃはその違ちがいを説明せつめいしようとしている。多様たようは現あらわれの種類しゅるいの多おおさ、多元たげんは原理げんりの数かず。「多様性たようせいを認みとめる」と言いいながら一ひとつの物差ものさしで測はかっているという批判ひはんがしばしばこの区別くべつの上うえに立たてられるので、見みかけたら論ろんの核心かくしんである可能性かのうせいが高たかい。
格かく硬かた

書かき言葉ことば。会話かいわでは不自然ふしぜん。

類るい語ごと差さ
  • 多様たよう種類しゅるいが多おおい現あらわれ方ほうの話はなし。多元たげんは説明せつめい原理げんりの数かず。「多様たような社会しゃかい」と「多元的たげんてきな社会しゃかい」は含意がんいが違ちがう。
  • 複数ふくすう一ひとつより多おおい数かずだけの話はなし。原理げんりの話はなしではない。
  • 相対そうたい比較ひかくの中なかで成なり立たつ比較ひかくの可否かひ。多元たげんは根本こんぽんの数かず。多元論たげんろんは相対そうたい主義しゅぎに接続せつぞくしやすい。
  • 複合ふくごう複数ふくすうが組くみ合あわさる結合けつごうの状態じょうたい。多元たげんは独立どくりつした複数ふくすうの原理げんり。

ENpluralism
ZH多元(多元, duōyuán)

対立たいりつの軸じく

還元かんげん/敷衍ふえん の軸じく = 広ひろげるか縮ちぢめるか

還元かんげんもとに戻もどす。基礎的きそてきな部分ぶぶんまで分解ぶんかいする。
広ひろげるか縮ちぢめるか
敷衍ふえん意味いみを押おし広ひろげて詳くわしく説明せつめいする。

一元いちげん/多元たげん の軸じく = 根本こんぽんの数かず

一元いちげん物事ものごとの根本こんぽんが一ひとつ。
根本こんぽんの数かず
多元たげん物事ものごとの根本こんぽんが複数ふくすう。
一元・二元・多元世界を説明する根本の原理の数が一つ、二つ、複数である三つの立場を示した図。 一元 根本が一つ 神によって世界は成る 二元 正反対の二原理 光と闇・善と悪・心と身体 多元 根本が複数 多民族・多宗教の共存 「多様」は現れ方の数、「多元」は根本の数
根本こんぽんの原理げんりはいくつあるか
還元と敷衍の方向を示した図還元が対象を最も基礎的な部分まで縮める操作、敷衍が適用範囲を横へ広げる操作であることを、逆向きの矢印で示す。 同じ「説明する」でも、向きが正反対である還元REDUCTION生命現象細胞分子最も基礎的な部分まで戻す全体にしかない性質はこぼれ落ちる敷衍AMPLIFICATION食生活全体筋道はそのまま、当てはまる場を広げる具体は捨てない。抽象とはここが違う広げすぎれば付会になる
還元かんげんは縮ちぢめ、敷衍ふえんは広ひろげる
Section 15

アイロニー/ディレンマ/情念じょうねん(パトス)/恣意しい

32★

アイロニー

アイロニー[1]頭高あたまだか型がた

定義ていぎ

皮肉ひにく・反はん語ご。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑32
原げん書しょの解説かいせつ

アイロニーとは、本当ほんとうの気持きもちとは反対はんたいのことを言いって真しん意いを相手あいてに悟さとらせる言いい方かたのことで、文章ぶんしょうの表現ひょうげんにおいて、表面ひょうめんの意味いみとは逆ぎゃくの意味いみを裏うらに込こめる用法ようほうである。多おおくは嘲笑ちょうしょうや軽蔑けいべつを表あらわす。また、イロニーとも言いう。

たとえば

遅刻ちこくしてきた人ひとに「ずいぶん早はやいですね」と声こえをかけるのは、「遅おそい」ことを非難ひなんしたい気持きもちを込こめた皮肉ひにくである。

使用しようの境界きょうかい

本当ほんとうの気持きもちとは反対はんたいのことを言いって真しん意いを悟さとらせる言いい方かた。多おおくは嘲笑ちょうしょうや軽蔑けいべつを表あらわす。単たんなる冗談じょうだんではない。

用法ようほう

表面ひょうめんの意味いみと真しん意いが反対はんたいになる表現ひょうげんで、日本語にほんごでは「皮肉ひにく」がほぼ同義どうぎだが、「アイロニー」は文学ぶんがく・批評ひひょうの用語ようごとして使つかわれる。「歴史れきしのアイロニー」のように、意図いとと結果けっかが反対はんたいになった事態じたいを指さす用法ようほうもあり、この場合ばあいは話者わしゃの意図いとを含ふくまない。原げん書しょの確認かくにんテストは、遅刻ちこくした人ひとに「ずいぶん早はやいですね」と言いう例れいを挙あげる。読解どっかいでは、表面ひょうめんの語ごをそのまま取とると逆ぎゃくの意味いみになる箇所かしょを見みつける作業さぎょうになる。

用例ようれい
  • めでたさも中なかくらゐなりおらが春はる小林こばやし一茶いっさ『おらが春はる』(1819)
    新しん年ねんの句くである。正月しょうがつを詠よむなら「めでたい」と言いうのが約束事やくそくごとで、一茶いっさもいちおう「めでたさ」と言いっている。ところが「中なかくらゐ」と付つけた。祝いわいの言葉ことばの形かたちをとりながら、祝いわっていないのである。ここがアイロニーの核心かくしんで、表面ひょうめんの語ごを裏切うらぎるのは別べつの語ごではなく、語ごと語ごのあいだの落差らくさだ。「めでたくない」と直接ちょくせつ言いえば、それはただの不満ふまんになる。いったん祝いわいの言葉ことばを口くちにしてからそれを半分はんぶんに値あたい切きることで、祝いわわねばならないという世間せけんの約束やくそくごと自体じたいが軽かるく笑わらわれる。一茶いっさがこの年としに幼おさない娘むすめを亡なくしていることを知しると、この「中なかくらゐ」の重おもさがさらに変かわる。
  • 役人やくにんの子こはにぎにぎをよく覚おぼえ『誹風はいふう柳多留やなぎだる』(1765〜)
    赤あかん坊ぼうが手てを握にぎったり開ひらいたりする「にぎにぎ」の仕草しぐさを、賄賂わいろを受うけ取とる手てつきに重かさねた川柳せんりゅうである。これは風刺ふうしであってアイロニーではない。両者りょうしゃの違ちがいを見みるのにちょうどよい。アイロニーは表面ひょうめんの意味いみと真しん意いが逆ぎゃくになる言いい方かただが、この句くは逆ぎゃくになっていない。言いっていることと言いいたいことは同おなじ方向ほうこう — 役人やくにんは汚きたないである。違ちがうのは、それを笑わらいの形かたちにくるんで社会しゃかいの欠点けってんへ向むけているという点てんだ。対象たいしょうが社会しゃかい・制度せいどに向むかい、笑わらいを武器ぶきにするのが風刺ふうし。表面ひょうめんと裏うらの意味いみが反転はんてんするのがアイロニー。この二ふたつは日本語にほんごではしばしば「皮肉ひにく」に混まぜられるが、仕組しくみはまったく違ちがう。
  • 三十分さんじっぷん遅おくれてきた人ひとに、「ずいぶんお早はやいですね」と言いうのはアイロニーである。 原げん書しょの確認かくにんテストが挙あげる例れいである。成立せいりつの条件じょうけんを確たしかめておきたい。相手あいてが遅おくれたことを双方そうほうが知しっている必要ひつようがある。知しらなければ、それはただの間違まちがいか嘘うそになる。つまりアイロニーは共有きょうゆうされた事実じじつの上うえにしか立たたない。この点てんで、読者どくしゃの常識じょうしきに頼たよる 18 の逆説ぎゃくせつと仕組しくみがよく似にている。
  • ×自由じゆうを求もとめた革命かくめいが独裁どくさいを生うんだのは、話者わしゃのアイロニーによるものだ。 意図いとと結果けっかが反対はんたいになった事態じたいは「歴史れきしのアイロニー」と呼よばれるが、そこに話者わしゃの意図いとは無ない。誰だれも皮肉ひにくを言いっていないのに、出来事できごとの側がわが皮肉ひにくな形かたちをとっている。語かたり手てのアイロニーと事態じたいのアイロニーを混まぜないこと。前者ぜんしゃは修辞しゅうじ、後者こうしゃは構造こうぞうである。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

関せき シニカル

派生はせい形けい
  • イロニードイツ語ご Ironie の音訳おんやくで、哲学てつがく・文学ぶんがく理論りろんの文脈ぶんみゃくで使つかわれる。英語えいご由来ゆらいの「アイロニー」より硬かたく、ロマン主義しゅぎのイロニー、ソクラテスのイロニーといった術語じゅつごとして現あらわれることが多おおい。訳やくし分わけではなく、どの学問がくもんの系譜けいふから来きた文章ぶんしょうかの目印めじるしになる。
  • アイロニカル形容詞けいようし形けい。「アイロニカルな態度たいど」は表現ひょうげんではなく構かまえを指さすため、「シニカル」に近ちかづく。ただしシニカルが冷ひややかさだけを言いうのに対たいし、こちらは反転はんてんの仕掛しかけを含ふくむ点てんでなお本ほん義ぎを保たもっている。
  • 反語はんご[0]別語べつごだが日本語にほんごの修辞しゅうじ法ほうとして近ちかい。疑問ぎもんの形かたちで断定だんていを表あらわす用法ようほう(「誰だれが知しろうか」=誰だれも知しらない)を含ふくむ点てんがアイロニーより広ひろい。古文こぶんの読解どっかいで必須ひっすの語ごでもあり、形かたちが疑問ぎもん・意味いみが断定だんていという反転はんてんの構造こうぞうは共通きょうつうしている。
コロケーション
  • 歴史れきしのアイロニー意図いとなき反転はんてん話者わしゃの意図いとを含ふくまない用法ようほうである。自由じゆうを求もとめた運動うんどうが抑圧よくあつを生うみ、効率こうりつを求もとめた改革かいかくが非ひ効率こうりつを招まねく。誰だれも皮肉ひにくを言いっていないのに、結果けっかが皮肉ひにくな形かたちをとる。17 の倒錯とうさくとよく似にた構図こうずだが、倒錯とうさくが「反転はんてんしたまま固定こていした状態じょうたい」を指さすのに対たいし、アイロニーは「意図いとと結果けっかの食くい違ちがい」そのものを指さす。見みている場所ばしょが違ちがう。
  • アイロニカルな笑わらい距離きょりの取とり方かた対象たいしょうを否定ひていしきらず、半歩はんぽ離はなれたところから眺ながめる笑わらいである。否定ひていするには、否定ひていする側がわの正ただしさを立たてねばならない。アイロニーはそれをしない。だからこの笑わらいは批判ひはんより弱よわく、しかし逃にげ道みちが少すくない。批判ひはんなら反論はんろんできるが、距離きょりを取とられただけでは反論はんろんのしようがないからである。
  • 自己じこアイロニー内ないへ向むく反転はんてん自分自身じぶんじしんに向むけられたアイロニー。一茶いっさの「めでたさも中なかくらゐ」がまさにこれで、笑わらっている自分じぶんも笑わらわれる側がわに含ふくまれている。外そとへ向むけたアイロニーがしばしば傲慢ごうまんに響ひびくのに対たいし、この形かたちは語かたり手てを安全あんぜんな場所ばしょに置おかない。近代きんだい小説しょうせつがこの形かたちを好よしみんだのは、語かたり手てを特権的とっけんてきな位置いちから降おろすためである。
  • 皮肉ひにくと風刺ふうし隣となりり合あう二に語ご皮肉ひにくは個別こべつの場面ばめんで、相手あいてを刺さすために使つかう。風刺ふうしは社会しゃかいや制度せいどに向むけて、笑わらいの形かたちで欠点けってんを突つく。アイロニーは、どちらの場面ばめんでも使つかえる言いい方かたの仕組しくみの名なである。この三さん語ごは日本語にほんごで混まざりやすいので、対象たいしょう・手段しゅだん・仕組しくみという三みっつの軸じくで分わけておくとよい。
格かく中なか

書かき言葉ことば・会話かいわの両方りょうほうで使つかえる。

類るい語ごと差さ
  • 皮肉ひにく遠とお回まわしに刺さす日本語にほんごの日常にちじょう語ご。アイロニーとほぼ同義どうぎだが、より口語こうご的てきで刺さす意図いとが明確めいかく。
  • 反はん語ご反対はんたいの形かたちで言いう修辞しゅうじ法ほうの名な。疑問ぎもん形けいで断定だんていを表あらわす用法ようほう(誰だれが知しろうか=誰だれも知しらない)も含ふくむ。
  • シニカル冷ひややかに構かまえる態度たいどについての語ご。アイロニーは表現ひょうげんについての語ご。
  • 風刺ふうし社会しゃかいの欠点けってんを笑わらいで突つく対象たいしょうが社会しゃかい・制度せいど。アイロニーは個別こべつの場面ばめんでも使つかえる。

ENirony
ZH讽刺(皮肉・風刺, fěngcì)

33★

ディレンマ

ディレンマ[2]中高なかだか型がた

定義ていぎ

二ふたつの相反そうはんする事柄ことがらの板いたばさみになること。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑33
原げん書しょの解説かいせつ

ディレンマとは、両立りょうりつしない二ふたつのことの間あいだにはさまれて、身み動うごきが取とれない状況じょうきょうに苦くるしむことである。たとえば、「甘あまいものは食たべたいが、ダイエットもしタイ」というような、同時どうじに実現じつげんすることができない二ふたつの物事ものごとの間あいだにはさまれて苦くるしむことを言いう。

あるいは、「自由じゆうにしなさい」と言いわれた者ものも、ディレンマの状況じょうきょうにある。なぜなら、自由じゆうに行動こうどうしたら「命令めいれいに従したがっている」という状態じょうたいになるので自由じゆうに反はんしてしまうし、反対はんたいに命令めいれいに背そむくことで自由じゆうを獲得かくとくしようとしても、「不ふ自由じゆうでいる」ことになるからだ。

使用しようの境界きょうかい

両立りょうりつしない二ふたつのことの間あいだにはさまれて身み動うごきが取とれないこと。単たんに迷まようことではない。どちらを選えらんでも失うしなうものがある。

用法ようほう

「ジレンマ」の表記ひょうきも広ひろく使つかわれる。原げん書しょは「甘あまいものは食たべたいがダイエットもしたい」を例れいに挙あげる。重要じゅうようなのは〈どちらを選えらんでも損失そんしつが出でる〉構造こうぞうであり、単たんに迷まよっているだけならディレンマではない。「自由じゆうにしなさい」と言いわれた者ものが、命令めいれいに従じゅうえば自由じゆうに振ふる舞まえるが命令めいれいに従したがっている、という自己じこ言及げんきゅう型がたのディレンマもあり、パラドックスと接続せつぞくする。評ひょう論文ろんぶんでは「近代きんだいのディレンマ」のように、構造的こうぞうてきに解決かいけつ不能ふのうな事態じたいを指さす。

用例ようれい
  • 人ひと亦また言げんへる有ゆうり、進しん退たい維これ谷たにまれり、と。『詩経しきょう』大雅たいが・桑柔そうじゅう
    「進退維谷しんたいこれきわまれり(しんたいこれきわまれり)」— 進すすむこともできず退しりぞくこともできない。「進しん退たい窮きわまる」という日本語にほんごの出でどころである。この四字よじが正確せいかくに写うつしているのは、選択肢せんたくしが無ないのではなく、どちらの選択肢せんたくしも塞ふさがっているという状態じょうたいである。ここがディレンマの要点ようてんだ。道みちが一本いっぽんも無ないなら、それは絶望ぜつぼうであって板いたばさみではない。二ふたつの道みちがはっきり見みえていて、そのどちらへ進すすんでも失うしなうものがある — だから身み動うごきが取とれない。単たんに迷まよっているのとは違ちがう。迷まよいは情報じょうほうが足たりないだけで、情報じょうほうが揃そろえば解とける。ディレンマは情報じょうほうが揃そろっているからこそ動うごけない。
  • 精神せいしん的てきに向上心こうじょうしんのないものは、ばかだ。夏目なつめ漱石そうせき『こころ』(1914)
    「先生せんせい」がかつて友人ゆうじんの K に投なげつけた言葉ことばである。K は道みちを求もとめる人ひとであり、同時どうじに一人ひとりの女性じょせいに恋こいをしていた。この一言ひとことは、K が自分じぶんで自分じぶんに課かしていた規範きはんをそのまま利用りようして突つき刺さしている。恋こいを選えらべば自みずからの道みちに背そむき、道みちを選えらべば心こころを殺ころす。どちらを選えらんでも、K は K でなくなる。これがディレンマの本来ほんらいの重おもさである。甘あまいものとダイエットの例れい(原げん書しょ)が同おなじ構造こうぞうをずっと軽かるい場面ばめんで示しめしているのに対たいし、ここでは失うしなわれるものが本人ほんにんの存立そんりつそのものにまで届とどいている。そして「先生せんせい」がこの言葉ことばを選えらんだこと自体じたいが、のちに彼かれ自身じしんのディレンマを生うむことになる。
  • 「自由じゆうにしなさい」と命めいじられた者ものは、ディレンマに陥おちいる。 原げん書しょが挙あげる自己じこ言及げんきゅう型がたの例れいである。自由じゆうに振ふる舞まえば命令めいれいに従したがっていることになり、命令めいれいに背そむけば不ふ自由じゆうになる。どちらへ進すすんでも自由じゆうから遠とおざかる。18 のパラドックスと接せっする場面ばめんで、命令めいれいの内容ないようが命令めいれいという形式けいしきと衝突しょうとつしているためにこの構造こうぞうが生しょうじる。
  • △どの店みせで食たべるか決きめられずディレンマだ。 選えらばなかったほうを失うしなうだけなら、それはただの迷まよいである。ディレンマはどちらを選えらんでも手放てばなしたくないものを手放てばなすことになる構造こうぞうを指さす。「選えらんだ側がわでも何なにかを失うしなうか」を問とえば判別はんべつできる。失うしなわないなら、それは単たんなる選択せんたくにすぎない。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

関せき 18 パラドックス(逆説ぎゃくせつ)

コロケーション
  • ディレンマに陥おちいる落下らっかの比喩ひゆ「陥おちいる」が使つかわれるのは、自分じぶんから入はいるものではないからである。状況じょうきょうのほうが先さきにあって、そこへ落おちる。この動詞どうしの選択せんたくに、ディレンマが本人ほんにんの判断力はんだんりょくの問題もんだいではないという了りょう解かいが現あらわれている。「決断けつだん力りょくがない」という非難ひなんとこの語ごが両立りょうりつしないのは、そのためだ。
  • 近代きんだいのディレンマ構造的こうぞうてきな行いき詰づまり個人こじんではなく時代じだいや制度せいどが抱かかえるディレンマを指さす。自由じゆうを広ひろげれば格差かくさが開ひらき、平等びょうどうを進すすめれば自由じゆうが縮ちぢむ — といった型かたである。重要じゅうようなのは、これが誰だれかの失敗しっぱいではないという点てんだ。解決かいけつできないことが構造こうぞうから出でてくるので、評ひょう論文ろんぶんはしばしば「解決かいけつ」ではなく「どう引ひき受うけるか」を問とうところへ進すすむ。
  • 二律背反にりつはいはんカントの語ご原語げんごはアンチノミー。二ふたつの原理げんりがどちらも成なり立たつのに同時どうじには成なり立たたないという論理ろんりの問題もんだいを指さす。ディレンマとの違ちがいは、選択せんたくの苦くるしみを含ふくまないことである。二律背反にりつはいはんは誰だれも選えらばなくても存在そんざいするが、ディレンマは選えらばねばならない者ものがいて初はじめて成立せいりつする。
  • トレードオフ量りょうの交換こうかん経済けいざい・工学こうがくの語ごで、一方いっぽうを得えれば他方たほうを失うしなうという量的りょうてきな交換こうかん関係かんけいを指さす。ディレンマと似にているが、トレードオフには身み動うごきが取とれないという含ふくみが無ない。むしろ「どこで釣つり合あわせるか」を計算けいさんできることが前提ぜんていになっている。計算けいさんできればトレードオフ、できなければディレンマと考かんがえるとよい。
格かく中なか

書かき言葉ことば・会話かいわの両方りょうほうで使つかえる。

類るい語ごと差さ
  • 板いたばさみ二者にしゃの間あいだで苦くるしむ口語こうご。人間にんげん関係かんけいの場面ばめんに偏かたよる。ディレンマは論理的ろんりてきな構造こうぞうも指さす。
  • 二律背反にりつはいはん二ふたつの原理げんりが同時どうじに成なり立たたないカントの用語ようご(アンチノミー)。論理ろんりの話はなしで、選択せんたくの苦くるしみは含ふくまない。
  • トレードオフ一方いっぽうを取とれば他方たほうを失うしなう経済けいざい・工学こうがくの語ご。量的りょうてきな交換こうかん関係かんけいを指さし、身み動うごきが取とれない含ふくみはない。
  • 葛藤かっとう心こころの中なかで対立たいりつする内面ないめんの争あらそい。ディレンマは選択肢せんたくしの構造こうぞう。

ENdilemma
ZH困境(ディレンマ, kùnjìng)

34★

情念(パトス)じょうねん

じょうねん[0]平板へいばん型がた

語ご構成こうせい
情じょうこころのうごき+念ねんおもい

語源ごげん的てきに受動性じゅどうせいを意味いみする。感情かんじょう → 情動じょうどう → 情念じょうねん の順じゅんに激はげしさが増ます。

定義ていぎ

理性りせいでは抑おさえることのできない強つよい感情かんじょう。激情げきじょう。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑34
原げん書しょの解説かいせつ

人間にんげんの喜怒哀楽きどあいらくというものは、何なにらかの刺激しげきを外そとから受うけて初はじめて生うまれてくるものであるため、情念じょうねんを意味いみするパトスやパッションも、語源ごげん的てきには受動性じゅどうせいを表あらわす。

感情かんじょう → 情動じょうどう → 情念じょうねんというように、心こころの動うごきの激はげしさは増ましていき、理性りせいや知性ちせいでは抑おさえられなくなったのが情念じょうねんとされるが、こうした激情げきじょうとも言いえる反応はんのうは、一時的いちじてきなものにすぎない。これに対たいして、持続的じぞくてきな内面ないめん性せいはエートスと呼よばれている(たとえば、日本人にほんじんは勤勉きんべんで礼儀れいぎ正ただしい、など)。

使用しようの境界きょうかい

理性りせいでは抑おさえられない強つよい感情かんじょう。激情げきじょう。一時的いちじてきなものであって、持続じぞくする内面ないめん性せいは「エートス」。

用法ようほう

「パトス」と併記へいきされるのが定型ていけいで、ギリシア語ごの語源ごげんは受動性じゅどうせいを意味いみする。つまり情念じょうねんは自分じぶんが起おこすものではなく、外そとから刺激しげきを受うけて生しょうじるものだという含ふくみがある。この受動性じゅどうせいが「理性りせいで抑おさえられない」という性質せいしつの根拠こんきょになる。ロゴス(理性りせい・言葉ことば)と対たいで使つかわれ、西洋せいよう思想史しそうしの枠組わくぐみを背負せおう。日本語にほんごの日常にちじょう会話かいわではほとんど使つかわず、文学ぶんがく・思想しそうの文脈ぶんみゃくに限かぎられる。「情念じょうねん的てき」という形容けいよう動詞どうしも硬かたい。

用例ようれい
  • やまと歌うたは、人ひとの心こころを種しゅとして、万まんの言げんの葉はとぞなれりける。世よの中なかにある人ひと、ことわざ繁しげきものなれば、心こころに思おもふことを、見みるもの聞きくものにつけて、言げんひ出だせるなり。紀き貫之つらゆき『古今和歌集こきんわかしゅう』仮名かな序じょ(905)
    注目ちゅうもくしたいのは「見みるもの聞きくものにつけて」という一句いっくである。心こころはひとりでに動うごくのではなく、見みたもの聞きいたものに触ふれて動うごくと言いっている。この受動性じゅどうせいこそ、パトスという語ごの語源ごげんが指さし示しめすものだ。ギリシア語ごのパトスも、英語えいごの passion も、もとは「受うけること」を意味いみする。受じゅ難なん(Passion)が同おなじ語ごから来きているのは偶然ぐうぜんではない。情念じょうねんが理性りせいで抑おさえられないのは、意志いしが弱よわいからではなくそもそも自分じぶんが起おこしたものではないからである。外そとから受うけたものを、内ないから止とめることはできない。貫之つらゆきが歌うたの起おこりをこう書かいたことで、和歌わかは最初さいしょから「受うけ身みの心こころの記録きろく」として定義ていぎされたことになる。
  • この世よのなごり、夜よるもなごり、死しにに行いく身みをたとふれば、あだしが原げんの道みちの霜しも、一足ひとあしづつに消きえてゆく、夢ゆめの夢ゆめこそあはれなれ。近ちか松まつ門左衛門もんざえもん『曾根崎心中そねざきしんじゅう』道行みちゆき(1703)
    心中しんじゅうへ向むかう二人ふたりの道行みちゆきである。ここで描えがかれているのは、理性りせいではもはや止とめられない地点ちてんまで来きた心こころである。一歩いっぽごとに霜しもが消きえるという比喩ひゆが効きいている。取とり返かえしがつかないことを、説明せつめいではなく足あしの運はこびという身体しんたいの速度そくどで示しめしている。情念じょうねんが理性りせいで抑おさえられないという性質せいしつは、こうして時間じかんの不可逆性ふかぎゃくせいとして表あらわされる。なお原げん書しょはこの種しゅの激情げきじょうを「一時的いちじてきなもの」と位置いちづけ、持続じぞくする内面ないめん性せいであるエートスと区別くべつしている。一時的いちじてきだからこそ、それが人生じんせいを決きめてしまうことの不ふ条じょう理りが際さい立たつ — この落差らくさが浄瑠璃じょうるりの主題しゅだいそのものである。
  • ロゴスとパトス、すなわち理性りせいと情念じょうねんの対立たいりつは、西洋せいよう思想しそうの基本きほんの枠組わくぐみである。 「パトス」と併記へいきされるのが定型ていけいであることを示しめす文ぶん。この語ごはほぼ必かならず西洋せいよう思想史しそうしの枠わくを背負せおって現あらわれる。ロゴス(理性りせい・言葉ことば)が能のう動どう、パトス(情念じょうねん)が受動じゅどうという役割やくわり分担ぶんたんが最初さいしょから組くみ込こまれており、13 の合理ごうり/非合理ひごうりの対たいとも重かさなる。
  • △彼かれは仕事しごとに対たいする情念じょうねんを持もち続つづけている。 持続じぞくする内面ないめんのあり方かたは「エートス」の領域りょういきである。情念じょうねんは一時的いちじてきな激情げきじょうを指さす。「持もち続つづける」という表現ひょうげんとこの語ごは本来ほんらいそりが合あわない。「情熱じょうねつ」なら通とおる。日常にちじょう語ごと評ひょう論語ろんごで射程しゃていが違ちがう典型例てんけいれいなので、会話かいわの感覚かんかくのまま使つかうと外はずす。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

反はん 103/108

派生はせい形けい
  • 情念的じょうねんてき[0]硬かたい形かたちで、使用しよう頻度ひんどは低ひくい。「情熱じょうねつ的てき」とはまったく違ちがう点てんに注意ちゅういしたい。情熱じょうねつ的てきが肯定的こうていてきな活かつ力りょくを指さすのに対たいし、こちらは理性りせいの制御せいぎょを離はなれているという含ふくみを保たもっている。
  • パトスギリシア語ごの音訳おんやく。語源ごげんは「受うけること」で、受じゅ難なん・受動じゅどう・情念じょうねんがすべてこの一語いちごから分わかれた。英語えいご passion、フランス語ご passion も同どう系けいで、情熱じょうねつと受じゅ難なんが同おなじ語ごであることがこの語ごの性格せいかくをよく示しめしている。
  • エートスパトスの対たい語ご。持続的じぞくてきな内面ないめん性せい・習慣しゅうかんを指さす。語源ごげんは「習慣しゅうかんづけられた場所ばしょ」で、英語えいご ethic(倫理りんり)の元もとでもある。倫理りんりが習慣しゅうかんから来きているというこの語源ごげんは、36 の自律じりつを考かんがえるときにも効きいてくる。
コロケーション
  • ロゴスとパトス対たいの定型ていけいギリシア以来いらいの理性りせいと情念じょうねんの対たい。この対たいが強力きょうりょくなのは、能のう動どうと受動じゅどうという文法ぶんぽう上じょうの対立たいりつをそのまま人間にんげんの内側うちがわに持もち込こんでいるからである。ロゴスは語かたる、パトスは受うける。西洋せいよう思想しそうがロゴスの側がわを上位じょういに置おいてきた歴史れきしがあり、評ひょう論文ろんぶんはしばしばその序列じょれつを問とい直なおすためにこの対たいを持もち出だす。
  • 情念じょうねんに駆かられる受動じゅどうの動詞どうし「駆かられる」は受うけ身みの形かたちである。情念じょうねんを主語しゅごに立たてて、人ひとを目的語もくてきごの位置いちに置おくことになる。「情念じょうねんを抱いだく」とも言いえるが、こちらは所有しょゆうの形かたちなので受動性じゅどうせいが消きえる。どちらの動詞どうしを選えらぶかで、書かき手てが情念じょうねんをどう捉とらえているかが分わかる — 駆かられるなら外そとから来きたもの、抱いだくなら内ないにあるものである。
  • 情念じょうねんの哲学てつがく思想史しそうしの語彙ごいデカルト『情念じょうねん論ろん』以降いこう、情念じょうねんを理性りせいの敵てきとしてではなく考察こうさつの対象たいしょうとして扱あつかう系譜けいふを指さす。ここでの情念じょうねんは否定的ひていてきな意味いみを帯おびていない。9 の対象たいしょう化かがここでも起おきている — 抑おさえるべきものだった情念じょうねんが、観察かんさつされるものへ移うつったのである。
  • エートスとパトス時間じかんの対たい持続じぞくする内面ないめん性せいと一時的いちじてきな激情げきじょうの対たい。「日本人にほんじんは勤勉きんべんで礼儀れいぎ正ただしい」はエートス、「怒いかりに我われを忘わすれる」はパトスである。この二に語ごを分わけられると、文化ぶんか論ろんの記述きじゅつがどちらの層そうを語かたっているかが見分みわけられる。国民こくみん性せいの議論ぎろんはエートス、群衆ぐんしゅうの熱狂ねっきょうはパトスの層そうに属ぞくする。
格かく硬かた・学術がくじゅつ

論文ろんぶん・評ひょう論ろんでのみ使つかう。会話かいわでは不自然ふしぜん。

類るい語ごと差さ
  • 激情げきじょう激はげしい感情かんじょうの高こうまり感情かんじょうの強つよさのみ。情念じょうねんは理性りせいで抑おさえられないという含ふくみを持もつ。
  • 感情かんじょう心こころの動うごき全般ぜんぱん中立ちゅうりつで最もっとも広ひろい。情念じょうねんはその中なかの激はげしく受動じゅどう的てきなもの。
  • エートス持続的じぞくてきな内面ないめん性せい・習慣しゅうかんパトスと対たいになるギリシア語ご。日本人にほんじんの勤勉きんべんさ・礼儀れいぎ正ただしさなどを指さす。
  • 情動じょうどう刺激しげきに対たいする短みじかい反応はんのう心理学しんりがくの語ご。感情かんじょう→情動じょうどう→情念じょうねんの順じゅんに激はげしさが増ますと整理せいりできる。

ENpathos / passion
ZH激情(激しい感情, jīqíng)

35★

恣意しい

しい[1]頭高あたまだか型がた

語ご構成こうせい
恣しほしいまま+意いこころ・おもい

「恣し」の訓読くんどくみは「ほしいまま」。読よみが問とわれる語ごである。

定義ていぎ

自分じぶん勝手かってであること。明確めいかくな根拠こんきょがないこと。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑35
原げん書しょの解説かいせつ

「恣し」の訓読くんどくみは「ほしいまま」であり、自分じぶん勝手かってであることを表あらわす。自分じぶん勝手かってであるから、明確めいかくな根拠こんきょもない。たとえば「制度せいどの恣意性しいせい」「言語げんごの恣意性しいせい」といったように用もちいられるが、これらの用法ようほうは、〈明確めいかくな根拠こんきょをもたず、主観的しゅかんてきである〉と捉とらえると理解りかいしやすい。

使用しようの境界きょうかい

明確めいかくな根拠こんきょを持もたず主観しゅかんで決きめること。「自由じゆう」とは違ちがう。自由じゆうには理由りゆうがありうるが、恣意しいには根拠こんきょがない。

用法ようほう

「恣意的しいてき」の形かたちで使つかわれるのがほとんどで、制度せいど・法ほう・運用うんようへの批判ひはん語ごとして働はたらく。「法ほうが恣意的しいてきに運用うんようされれば、それは法ほう治ちではなく人治じんちである」という構図こうずが原げん書しょに現あらわれる。もう一ひとつの重要じゅうよう用法ようほうが言語学げんごがくの「言語げんごの恣意性しいせい」(ソシュール)で、音おとと意味いみの結むすびつきに必然的ひつぜんてきな理由りゆうがないことを指さす。この場合ばあいは批判ひはんではなく中立ちゅうりつの記述きじゅつである。「自由じゆう」との区別くべつが要点ようてんで、自由じゆうには理由りゆうがあってよいが、恣意しいには理由りゆうがない。

用例ようれい
  • 法ほうは貴とうときに阿おもねらず、縄なわは曲きょくれるに撓たわまず。『韓非かんぴ子こ』有ゆう度ど篇へん
    法ほうは身分みぶんの高たかい者ものにへつらわず、墨縄すみなわは曲まがった材木ざいもくに合あわせて曲まがったりしない、という。恣意しいの正反対せいはんたいを述のべた一文いちぶんである。墨縄すみなわの比喩ひゆが的確てきかくだ。大工だいくの使つかう墨縄すみなわは、材ざいがどう曲まがっていようとつねに同おなじまっすぐな線せんを引ひく。相手あいてを見みて線せんを変かえたら、それはもう基準きじゅんではない。恣意的しいてきな運用うんようとは、この線せんが相手あいてによって動うごくことを指さす。「法ほうが恣意的しいてきに運用うんようされれば、それは法ほう治ちではなく人治じんちである」という原げん書しょの構図こうずは、二千年にせんねん以上いじょう前まえにすでにこの形かたちで立たてられている。
  • 趙ちょう高こう、乱らんを為いさんと欲ほし、群臣ぐんしんの聴きかざるを恐おそれ、乃すなわち先さきず験げんを設せつく。鹿しかを持じして二世にせいに献けんじて曰いわくく、馬うまなり、と。『史記しき』秦しん始し皇こう本紀ほんぎ
    宦官かんがんの趙ちょう高こうが、鹿しかを差さし出だして「これは馬うまだ」と言いう。皇帝こうていが笑わらって「鹿しかではないか」と言いうと、趙ちょう高こうは周囲しゅういに問とう。鹿しかと答こたえた者ものは後あとに殺ころされた。ここで趙ちょう高こうが試ためしたのは、根拠こんきょが完全かんぜんに無ない主張しゅちょうにどれだけの者ものが従したがうかである。恣意しいの恐おそろしさがよく分わかる。根拠こんきょが無ないことは、この場面ばめんでは弱点じゃくてんではなく力ちからである。根拠こんきょがあれば、その根拠こんきょを検討けんとうして反論はんろんできる。根拠こんきょが無なければ、従したがうか従じゅうわないかしか残のこらない。11 の権力けんりょくの項こうと結むすんで読よみたい。恣意性しいせいは権力けんりょくの欠陥けっかんではなく、権力けんりょくが権力けんりょくであることを試ためす道具どうぐにもなる。
  • ソシュールのいう言語げんごの恣意しい性せいとは、音おとと意味いみの結むすびつきに必然的ひつぜんてきな理由りゆうが無ないということである。 ここでの恣意しいは批判ひはんではなく中立ちゅうりつの記述きじゅつである。「犬いぬ」という音おとがなぜあの動物どうぶつを指さすのかに理由りゆうは無ない。別べつの言語げんごでは別べつの音おとがあてられている。理由りゆうが無ないという事実じじつそのものを述のべているだけで、誰だれかを責せめてはいない。22 の項こうで引ひいた荀子じゅんしの「名なに固かたより宜ぎしき無なし」は、ほぼ同おなじことを二千年にせんねん前まえに述のべたものである。
  • ×参加さんかは恣意しいに任にんされている。 どれを選えらんでもよいという意味いみなら「任意にんい」である。恣意しいは決きめる側がわに根拠こんきょが無ないことを言いい、ほぼ常つねに否定的ひていてきに響ひびく。「自由じゆう」との区別くべつも要点ようてんで、自由じゆうには理由りゆうがあってよいが、恣意しいには理由りゆうが無ない。自由じゆうと恣意しいを同おなじものと考かんがえると、評ひょう論文ろんぶんの自由じゆう論ろんがまるごと読よめなくなる。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

関せき 19 虚構きょこう(フィクション)

派生はせい形けい
  • 恣意的しいてき[0]実際じっさいの用法ようほうはほとんどこの形かたち。制度せいど・法ほう・運用うんようへの批判ひはん語ごとして働はたらくが、言語学げんごがくの「恣意的しいてきな記号きごう」だけは中立ちゅうりつである。同おなじ形かたちが文脈ぶんみゃくで評価ひょうかを変かえるので、分野ぶんやを見みてから読よむこと。
  • 恣意性しいせい[0]性質せいしつとして取とり出だす形かたちで、「言語げんごの恣意性しいせい」「制度せいどの恣意性しいせい」のように対象たいしょうを冠かんむりして使つかうのが定型ていけい。批判ひはんにも記述きじゅつにも使つかえる柔やわらかさがあるため、評ひょう論文ろんぶんではこちらの形かたちが好よしみまれる。
  • 恣ほしいまま訓読くんどくみ。「ほしいままにする」という和わ語ごの形かたちで古文こぶんにも現あらわれる。漢語かんごの「恣意しい」が硬かたく抽象的ちゅうしょうてきなのに対たいし、こちらは身体的しんたいてきな欲よくのままという語ご感かんを残のこす。字義じぎから入はいると、この語ごがなぜ否定的ひていてきに響ひびくのかが腑ふに落おちる。
コロケーション
  • 恣意的しいてきな運用うんよう制度せいど批判ひはんの定型ていけい規則きそくそのものではなくその使つかい方かたを批判ひはんする形かたちである。ここが鋭するどい。規則きそくが悪わるいと言いえば規則きそくを直なおせばよいが、運用うんようが恣意的しいてきだと言いえば直なおすべきは規則きそくではなく権限けんげんのあり方かただということになる。「法ほう治ちではなく人治じんち」という原げん書しょの言いい方かたは、まさにこの水準すいじゅんを指さしている。
  • 言語げんごの恣意性しいせい中立ちゅうりつの用法ようほうソシュールの用語ようごで、音おとと意味いみの結むすびつきに必然性ひつぜんせいが無ないことを指さす。この用法ようほうだけは批判ひはんではない。むしろこの恣意性しいせいがあるからこそ、言語げんごごとに世界せかいの切きり分わけ方ほうが違ちがいうる。5 の秩序ちつじょ、26 の相対そうたいと直結ちょっけつする重要じゅうような出発点しゅっぱつてんで、文化ぶんか相対そうたい主義しゅぎの理論的りろんてきな支ささえのひとつでもある。
  • 恣意しいと自由じゆう境目さかいめの確認かくにん評ひょう論文ろんぶんでこの二に語ごが並ならんだら、筆者ひっしゃは両者りょうしゃを区別くべつしようとしている。自由じゆうは、理由りゆうを持もってよいし、他者たしゃに説明せつめいすることもできる。恣意しいは説明せつめいできない。「なぜそうしたのか」に答こたえられるかどうかが境目さかいめである。36 の自律じりつとも接せっしていて、自みずから規則きそくを与あたえるのが自律じりつ、規則きそくなしに決きめるのが恣意しいになる。
  • 恣意しいを排はいする制度設計せいどせっけいの言葉ことば手続てつづきを定さだめ、記録きろくを残のこし、基準きじゅんを公開こうかいする — いずれも決定けっていから恣意しいを抜ぬくための仕掛しかけである。面白おもしろいのは、これらの仕掛しかけがしばしば形式けいしき主義しゅぎと批判ひはんされることだ。16 の自己じこ目的もくてき化かがここで顔かおを出だす。恣意しいを防ふせぐための手続てつづきがそれ自体じたいを目的もくてきにしはじめる — この往復おうふくが制度せいど論ろんの難所なんしょである。
格かく硬かた・学術がくじゅつ

論文ろんぶん・評ひょう論ろんでのみ使つかう。会話かいわでは不自然ふしぜん。

類るい語ごと差さ
  • 任意にんいどれを選えらんでもよい選択せんたくの自由じゆうを認みとめる中立ちゅうりつ語ご。「任意にんいで参加さんか」。恣意しいは否定的ひていてき。
  • 主観的しゅかんてき個人こじんの見方みかたによる視点してんの性質せいしつ。恣意しいは決定けっていの根拠こんきょのなさ。
  • 独断どくだん一人ひとりで決きめてしまう手続てつづきの問題もんだい(他者たしゃを排除はいじょした)。恣意しいは根拠こんきょの問題もんだい。
  • 気きまま思おもうままに振ふる舞まう口語こうご。評ひょう論文ろんぶんでは使つかわない。

ENarbitrariness
ZH恣意(勝手気まま, zìyì)

アイロニーの反転とディレンマの行き止まりを並べた図上段は表面の意味と真意が逆を向くアイロニーの構造、下段はどちらの道を選んでも失うものがあるディレンマの構造を示す。 アイロニー表面と真意が逆を向く「ずいぶんお早いですね」遅刻を咎めている成立の条件 ── 遅れたことを双方が知っている共有された事実が無ければ、ただの間違いになるディレンマどちらを選んでも失う我甘いものを食べる= 痩せることを失うダイエットする= 甘いものを失う道が無いのではない。二本ともはっきり見えていて、塞がっている迷いは情報が足りないだけ。ディレンマは情報が揃っていても動けない
アイロニーの反転はんてんと、ディレンマの行いき止どまり
Section 16

自律じりつ/他律たりつ/顕在けんざい/潜在せんざい/モチーフ

36★

自律じりつ

じりつ[0]平板へいばん型がた

語ご構成こうせい
自じみずから+律りつのり・おさめる
定義ていぎ

自分じぶんで自分じぶんを律りつすること。それだけで成立せいりつしていること。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑36
原げん書しょの解説かいせつ

自律じりつとは自分じぶんで自分じぶんをコントロールすることで、他ほかからの支配しはい・制約せいやくなどを受うけずに、自分自身じぶんじしんの考かんがえに従したがって判断はんだんし、行動こうどうすることである。似にた言葉ことばに「自立じりつ」があるが、こちらは他ほかに依存いぞんせず、自力じりきで物事ものごとを成なし遂とげることの意いである。

使用しようの境界きょうかい

他ほかからの支配しはい・制約せいやくを受うけず、自分じぶんの考かんがえに従したがって判断はんだんし行動こうどうすること。「自立じりつ」は他ほかに依存いぞんせず自力じりきで成なし遂とげること。別語べつご。

用法ようほう

「自立じりつ」との書かき分わけが設問せつもんになる。自律じりつは〈自分じぶんで自分じぶんに規則きそくを与あたえる〉こと、自立じりつは〈他ほかに依存いぞんしない〉こと。カント倫理学りんりがくでは自律じりつが道徳どうとくの根拠こんきょに置おかれ、他律的たりつてきな行為こういは道徳的どうとくてき価値かちを持もたないとされる。この背景はいけいがあるため、評ひょう論文ろんぶんの「自律じりつ」は肯定こうてい語ごとして働はたらく。原げん書しょは「他律的たりつてきな自律性じりつせい」という表現ひょうげんを扱あつかい、これは形容けいよう矛盾むじゅん(自律じりつしているのに外そとから律りつされている)だと指摘してきする。「自律じりつ神経しんけい」は医学いがく用語ようごで、意識いしきに依よらずに働はたらく神経系しんけいけいを指さす。

用例ようれい
  • 仁義礼智じんぎれいちは、外そとより我われを鑠しゃくるに非ひざるなり、我われ固かたより之これを有ゆうするなり。『孟子もうし』告子こくし上じょう
    仁義礼智じんぎれいちという徳とくは、外そとから溶とかし込こまれたものではなく、もともと自分じぶんが持もっているものだ、という。規範きはんの出でどころを内側うちがわに置おいた宣言せんげんである。これが自律じりつの考かんがえ方かたの核心かくしんにあたる。「鑠しゃくる(とかす)」という動詞どうしが選えらばれているのが鋭するどい。金属きんぞくを溶とかして型かたに流ながし込こむように、外そとから人ひとを形かたちづくるやり方かたを退しりぞけている。カント倫理学りんりがくが自律じりつを道徳どうとくの根拠こんきょに置おき、他律的たりつてきな行為こういには道徳的どうとくてき価値かちを認みとめなかったのも同おなじ構かまえである。正ただしいことをしたかどうかではなく、それを自分じぶんの内うちなる法ほうとして行おこなったかどうかが問とわれる。評ひょう論文ろんぶんの「自律じりつ」が肯定こうてい語ごとして働はたらく背景はいけいには、この東西とうざいに共通きょうつうする考かんがえ方かたがある。
  • 一身いっしん独立どくりつして一国いっこく独立どくりつす。福沢ふくざわ諭吉ゆきち『学問がくもんのすゝめ』三さん編へん(1874)
    有名ゆうめいな一句いっくだが、ここで言いわれているのは「自律じりつ」ではなく「自立じりつ」である。福沢ふくざわが求もとめたのは、他ほかに依存いぞんせず自力じりきで立たつことだった。経済的けいざいてきに、また気き概がいの上うえで、他人たにんにぶら下さがらないこと。一方いっぽう、自律じりつは自分じぶんで自分じぶんに規則きそくを与あたえることを指さす。この二ふたつは重かさなるが同おなじではない。経済的けいざいてきに自立じりつしていても、判断はんだんの基準きじゅんをすべて他人たにん任にんせにしているなら自律じりつではない。逆ぎゃくに、人ひとの世話せわになりながら判断はんだんは自分じぶんで下くだしている人ひとは自律じりつしている。依存いぞんの有無うむが自立じりつ、規範きはんの出でどころが自律じりつ。書かき分わけが設問せつもんになるので、この一句いっくを「自立じりつの側がわの名文めいぶん」として覚おぼえておくと取とり違ちがえにくい。
  • 指示しじどおりにこなすのが他律的たりつてきだとすれば、自みずから課題かだいを見みつけるのが自律じりつ的てきである。 原げん書しょの対比たいひをそのまま文ぶんにしたもの。行動こうどうの中身なかみではなく、基準きじゅんがどこから来きたかで分わかれている点てんに注意ちゅういしたい。同おなじ仕事しごとを同おなじようにこなしていても、その仕事しごとの意味いみを自分じぶんで立たてているかどうかで自律じりつにも他律たりつにもなる。外そとから見みただけでは判別はんべつできないのがこの語ごの難むずかしさである。
  • ×親おや元もとを離はなれて生活せいかつ費ひを稼かせいでいるので自律じりつしている。 これは「自立じりつ」である。他ほかに依存いぞんせず自力じりきで成なし遂とげることを言いう。「経済的けいざいてきに自立じりつ」とは言いうが「経済的けいざいてきに自律じりつ」とは言いわない — この言いい回まわしの偏かたよりが、二に語ごの守備しゅび範囲はんいを教おしえてくれる。同音どうおんであるうえに意味いみも近ちかいので、書かき取とりで直接ちょくせつ問とわれる。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

反はん 37 他律たりつ

派生はせい形けい
  • 自律的じりつてき[0]評ひょう論文ろんぶんではほぼ肯定こうてい語ご。ただし近年きんねんは「自律的じりつてきに働はたらけ」という命令めいれいの形かたちで使つかわれる場面ばめんが増ふえ、そこでは「他律的たりつてきな自律性じりつせい」の矛盾むじゅんが生しょうじる。肯定こうてい語ごだからこそ、要求ようきゅうの言葉ことばとして使つかいやすいという皮肉ひにくがある。
  • 自律性じりつせい[0]性質せいしつとして取とり出だす形かたち。「芸術げいじゅつの自律性じりつせい」のように、人ひと以外いがいにも使つかえるのがこの形かたちの強つよみである。芸術げいじゅつが政治せいじや宗教しゅうきょうの道具どうぐであることをやめ、それ自体じたいの原理げんりで成なり立たつようになった — という近代きんだい芸術げいじゅつ論ろんの中心ちゅうしん概念がいねんになる。
  • 自立じりつ[0]同音どうおんの別語べつご。他ほかに依存いぞんせず自力じりきで成なし遂とげること。「律りつ」は規則きそく、「立りつ」は立たつこと — 字じを見みれば意味いみの違ちがいは明あきらかである。迷まよったら訓くんで読よみ下くだしてみるとよい。自みずから律りつする/自みずから立たつ。
コロケーション
  • 自律的じりつてきな判断はんだん基準きじゅんの所在しょざい判断はんだんの根拠こんきょが自分じぶんの内ないにあることを言いう。注意ちゅういしたいのは、これが「他人たにんの意見いけんを聞きかない」という意味いみではない点てんだ。聞きいたうえで、採とるかどうかを自分じぶんの基準きじゅんで決きめれば自律じりつである。独断どくだん(他者たしゃを排除はいじょして決きめる)とは別べつで、35 の恣意しい(そもそも基準きじゅんが無ない)とも違ちがう。基準きじゅんがあり、それが自分じぶんのものであること — この二ふたつが揃そろって自律じりつになる。
  • 他律的たりつてきな自律性じりつせい形容けいよう矛盾むじゅん原げん書しょが取とり上あげる表現ひょうげんである。自律じりつしているはずなのに、その自律じりつが外そとから与あたえられている。「自由じゆうにしなさい」と命めいじられた者ものと同おなじ構造こうぞうで、33 のディレンマ、18 のパラドックスと同おなじ場所ばしょにある。矛盾むじゅんした言いい方かたをわざわざ使つかうのは、現代げんだいの自律じりつがしばしばこの形かたちをとっているからだ — 自主性じしゅせいを発揮はっきせよと制度せいどが要求ようきゅうする、という場面ばめんである。
  • 自律じりつと自立じりつ書かき分わけの要かなめ規範きはんの出でどころか、依存いぞんの有無うむか。この一点いってんで分わかれる。実際じっさいの文章ぶんしょうでは両方りょうほうが同時どうじに問題もんだいになることが多おおいので、書かき手てがどちらの軸じくを論ろんじているかを見みきわめる必要ひつようがある。「精神せいしん的てきな自立じりつ」という言いい方かたがしばしば自律じりつの意味いみで使つかわれるのも、混乱こんらんの一因いちいんになっている。
  • 自律じりつ神経しんけい別べつ系統けいとうの術語じゅつご医学いがく用語ようごで、意識いしきに依よらずに働はたらく神経系しんけいけいを指さす。ここでの「自律じりつ」は「意志いしから独立どくりつして」という意味いみで、倫理学りんりがくの自律じりつとはほとんど逆ぎゃくを向むいている。倫理りんりの自律じりつが意志いしの働はたらきを指さすのに対たいし、こちらは意志いしが届とどかない領域りょういきを指さす。同おなじ漢語かんごが分野ぶんやをまたぐとこうも変かわるという例れいとして面白おもしろい。
格かく中なか

書かき言葉ことば・会話かいわの両方りょうほうで使つかえる。

類るい語ごと差さ
  • 自立じりつ他ほかに頼たよらず自力じりきで成なす依存いぞんの有無うむ。自律じりつは規範きはんの出でどころ。「経済的けいざいてきに自立じりつ」は自律じりつとは言いわない。
  • 主体しゅたい的てき自分じぶんから関かかわる関かかわり方ほうの姿勢しせい。自律じりつは判断はんだんの根拠こんきょが自分じぶんにあること。
  • 自発的じはつてき促うながされずに行おこなうきっかけの話はなし。自律じりつは基準きじゅんの話はなし。
  • 自じ治ち自分じぶんたちで治ちめる集団しゅうだんについての語ご。自律じりつは個人こじんにも集団しゅうだんにも使つかえる。

ENautonomy
ZH自律(自己を律する, zìlǜ)

37★

他律たりつ

たりつ[0]平板へいばん型がた

語ご構成こうせい
他ほかほか+律りつのり・おさめる
定義ていぎ

他ほかからの命令めいれい・強制きょうせいに従したがって行動こうどうすること。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑37
原げん書しょの解説かいせつ

他律たりつは、自律じりつとは反対はんたいに、自みずからの意志いしではなく、他ほかから強制きょうせいされて行動こうどうすること。ルールや命令めいれいを破やぶって罰ばつを受うけるのが嫌いやなので、言いわれたことや定さだめられたことに渋々しぶしぶ従したがう、というイメージで捉とらえるとわかりやすい。

たとえば

親おやや先生せんせいに「勉強べんきょうしなさい」と言いわれるから勉強べんきょうする、というのは他律的たりつてきな状態じょうたいである。

使用しようの境界きょうかい

他ほかからの命令めいれい・強制きょうせいに従したがって行動こうどうすること。罰ばつを避さけるために渋々しぶしぶ従したがう状態じょうたい。

用法ようほう

「他律的たりつてき」の形かたちで使つかうのが基本きほんで、単独たんどくの名詞めいしはまれ。自律じりつとの対たいでのみ現あらわれるため、必かならず対たいの側がわを探さがして読よむ。カント倫理学りんりがくの枠組わくぐみでは、他律的たりつてきな行為こういは結果けっかとして正ただしくても道徳的どうとくてき価値かちを持もたないとされ、この背景はいけいが評ひょう論文ろんぶんの否定的ひていてきな含ふくみを支ささえている。「親おやや先生せんせいに勉強べんきょうしなさいと言いわれるから勉強べんきょうする」が原げん書しょの例れいで、外そとから与あたえられた規則きそくに渋々しぶしぶ従したがっている状態じょうたいを指さす。指示しじ通とおりに仕事しごとをこなすのは他律的たりつてき、自みずから課題かだいを発見はっけんするのは自律的じりつてき、という対比たいひになる。

用例ようれい
  • 之これを道みちくに政せいを以もってし、之これを斉せいふるに刑けいを以もってすれば、民みん免めんれて恥はじなし。之これを道みちくに徳とくを以もってし、之これを斉せいふるに礼れいを以もってすれば、恥はじありて且かつつ格かくし。『論語ろんご』為い政せい篇へん
    法令ほうれいで導みちびき刑罰けいばつで整ととのえれば、民みんは罰ばつを免めんれようとするだけで恥はじじる心こころを持もたない。徳とくで導みちびき礼れいで整ととのえれば、恥はじじる心こころを持もち、しかも自みずから正ただしくなる、という。前半ぜんはんが他律たりつ、後半こうはんが自律じりつの記述きじゅつである。「免めんれて恥はじなし」の五字ごじが的確てきかくだ。他律たりつのもとでは、人ひとは規則きそくを守まもるのではなく罰ばつを避さける。だから見み張ばりがいなくなれば守まもらなくなる。原げん書しょが「罰ばつを受うけるのが嫌いやなので渋々しぶしぶ従したがう」と説明せつめいするのはこの状態じょうたいである。重要じゅうようなのは、他律たりつの行為こういは結果けっかとして正ただしくても道徳的どうとくてき価値かちを持もたないというカント倫理学りんりがくの判断はんだんが、ここで孔子こうしとほぼ同おなじ理路りろで語かたられている点てんだ。
  • 我々われわれ青年せいねんを囲繞いじょうする空気くうきは、今いまやもう少すこしも流りゅう動どうしなくなつた。強きょう権けんの勢力せいりょくは普ひろしく国内こくないに行亙ゆきわたつてゐる。石いし川かわ啄木たくぼく『時代じだい閉塞へいそくの現状げんじょう』(1910)
    大逆たいぎゃく事件じけんの年としに書かかれた評ひょう論ろんである。「囲繞いじょうする空気くうき」— 外そとから与あたえられた枠わくが、もはや空気くうきのように意識いしきされなくなっている状態じょうたいを啄木たくぼくは書かいた。ここが他律たりつのいちばん厄介やっかいな形かたちである。命令めいれいが命令めいれいとして見みえているうちは、渋々しぶしぶであれ従したがっていると自覚じかくできる。ところが枠わくが空気くうきになると、従したがっているという自覚じかくすら消きえる。そのとき人ひとは、自律じりつしているつもりで他律たりつしている。20 のイデオロギー、14 の自明じめい性せいと同おなじ場所ばしょにある問題もんだいで、他律たりつは必かならずしも不ふ自由じゆうの実感じっかんを伴ともなわない。
  • 罰ばつを避さけるために規則きそくを守まもるのは、他律たりつ的てきな行為こういにとどまる。 カント倫理学りんりがくの枠組わくぐみを踏ふまえた文ぶんである。行為こういの中身なかみは正ただしい点てんに注意ちゅういしたい。規則きそくは守まもられている。それでも道徳的どうとくてき価値かちを認みとめられないのは、従したがう理由りゆうが外そとにあるからである。評ひょう論文ろんぶんの他律たりつが否定的ひていてきに響ひびく背景はいけいには、この「正ただしくても価値かちがない」という厳きびしい判断はんだんがある。
  • △彼かれは指示しじを待まつばかりで他律たりつだ。 名詞めいし単独たんどくで使つかうのはほとんど無ない。「他律的たりつてきだ」とするのが自然しぜんである。この語ごは自律じりつとの対たいでのみ意味いみが定さだまるため、単独たんどくで立たてると輪郭りんかくがぼやける。読解どっかいでも、他律たりつが出でてきたら必かならず対たいの自律じりつがどこにあるかを探さがすのが正ただしい手順てじゅんになる。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

反はん 36 自律じりつ

派生はせい形けい
  • 他律的たりつてき[0]実際じっさいの用法ようほうはほぼこの形かたち。単独たんどくの名詞めいし「他律たりつ」はまれで、それ自体じたいがこの語ごの性格せいかくを示しめしている。他律たりつは状態じょうたいというより、自律じりつと比くらべたときに現あらわれる位置いちだからである。
  • 他律性たりつせい[0]性質せいしつとして取とり出だすことで、個人こじんだけでなく制度せいどや芸術げいじゅつにも使つかえるようになる。「芸術げいじゅつの他律たりつ性せい」は、芸術げいじゅつが外部がいぶの要請ようせいに従属じゅうぞくしている状態じょうたいを指さし、近代きんだい芸術げいじゅつ論ろんの中心ちゅうしん的てきな争点そうてんになる。
  • 自律じりつ[0]対たい語ご。この二に語ごはどちらか一方いっぽうだけでは意味いみが立たたない。評ひょう論文ろんぶんで片方かたほうが出でたら、もう片方かたほうが必かならずどこかにある — あるいは、あえて書かかれていないことが論点ろんてんになっている。
コロケーション
  • 他律的たりつてきな行為こういカントの判断はんだん結果けっかが正ただしくても道徳的どうとくてき価値かちを持もたないとされる。この判断はんだんは直感ちょっかんに反はんするので、評ひょう論文ろんぶんでは丁寧ていねいに説明せつめいされることが多おおい。理由りゆうはこうだ — 外そとから与あたえられた規則きそくに従したがっているだけなら、規則きそくが変かわれば行為こういも変かわる。つまりその人ひとは正ただしさに従したがっているのではなく、規則きそくに従したがっているにすぎない。36 の自律じりつの項こうと必かならず対たいで読よみたい。
  • 他律たりつから自律じりつへ教育きょういくの物語ものがたり教育きょういく論ろんでくり返かえされる型かたである。外そとから与あたえられた規則きそくを、やがて自分じぶんのものにするという筋書すじがき。ただしこの移行いこうがどう起おこるのかは簡単かんたんに説明せつめいできない。外そとから来きたものがいつ「自分じぶんのもの」になるのかという問といは、「他律的たりつてきな自律性じりつせい」という矛盾むじゅん表現ひょうげんが生うまれる場所ばしょでもある。
  • 他律たりつ性せい性質せいしつとしての把握はあく「他律的たりつてきだ」が状態じょうたいの記述きじゅつであるのに対たいし、こちらはその性質せいしつを議論ぎろんの対象たいしょうに置おく形かたちである。「芸術げいじゅつの他律たりつ性せい」と言いえば、芸術げいじゅつが政治せいじや宗教しゅうきょうや市場しじょうの要請ようせいに従したがっていることを指さし、36 の「芸術げいじゅつの自律性じりつせい」と正面しょうめんから対たいになる。人ひと以外いがいに使つかえるようになるのがこの接尾せつび辞じの効ききどころである。
  • 受動じゅどうと他律たりつ似にて非ひなる二に語ご受動じゅどうは働はたらきかけを受うける側がわという向むきの話はなしである。他律たりつは基準きじゅんがどこから来きたかという話はなし。働はたらきかけを受うけても、それを自分じぶんの基準きじゅんで受うけとめるなら他律たりつではない。向むきと出でどころという別べつの軸じくだと押おさえておくと、34 の情念じょうねん(受動じゅどう的てきだが他律たりつではない)とも整理せいりがつく。
格かく硬かた

書かき言葉ことば。会話かいわでは不自然ふしぜん。

類るい語ごと差さ
  • 受動じゅどう的てき働はたらきかけを受うける側がわ反応はんのうの向むき。他律たりつは基準きじゅんの出でどころが外そとにあること。
  • 従属じゅうぞく従したがって属ぞくする関係かんけいの状態じょうたい。他律たりつは行動こうどうの根拠こんきょ。
  • 強制きょうせい力ちからで従じゅうわせる働はたらきかける側がわの行為こうい。他律たりつは従したがう側がわの状態じょうたい。
  • 依存いぞん頼たよって成なり立たつ支ささえの話はなし。他律たりつは規範きはんの話はなし。

ENheteronomy
ZH他律(他律, tālǜ)

38★

顕在けんざい

けんざい[0]平板へいばん型がた

語ご構成こうせい
顕けんあらわれる+在ざいある
定義ていぎ

はっきりと形かたちに現あらわれて存在そんざいすること。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑38
使用しようの境界きょうかい

はっきりと形かたちに現あらわれて存在そんざいすること。「顕在化けんざいかした」は、それまで見みえなかったものが表面ひょうめんに出でたことを言いう。

用法ようほう

単独たんどくの「顕在けんざい」はまれで、「顕在化けんざいかする」「顕在けんざい的てきな」の形かたちが実際じっさいの用法ようほうである。潜在せんざいとの対たいでのみ意味いみが定さだまるので、必かならず対たいの側がわを探さがす。「問題もんだいが顕在化けんざいかした」は、それまであったが見みえていなかったものが表ひょうに出でたという意味いみで、新あらたに発生はっせいしたのではない。この点てんが読解どっかいの要点ようてんになる。マーケティングの「顕在けんざい需要じゅよう/潜在せんざい需要じゅよう」は実務じつむ用語ようごで、顧客こきゃくが自覚じかくしている需要じゅようと自覚じかくしていない需要じゅようを指さす。

用例ようれい
  • 君きみに疾しつ有ゆうり、腠理に在あり。治ちせざれば将しょうに深ふかからんとす。……今いま、骨髄こつずいに在あり、臣しん是ぜを以もって請こふこと無むきなり。『韓非かんぴ子こ』喩ゆ老ろう篇へん・扁鵲へんじゃくと蔡さい桓公かんこう
    名医めいいの扁鵲へんじゃくが、王おうの病やまいが皮膚ひふにあるうちに治療ちりょうを勧すすめるが、王おうは「病やまいなど無ない」と退しりぞける。病やまいは皮膚ひふから筋肉きんにくへ、筋肉きんにくから胃い腸ちょうへ、そして骨髄こつずいへと進すすみ、王おうが痛いたみを感かんじたときには手て遅おくれになっていた。この説話せつわが正確せいかくに示しめしているのは、顕在化けんざいかとは新あらたに発生はっせいすることではないという一点いってんである。病やまいは最初さいしょからあった。変かわったのは病やまいの有無うむではなく、見みえるかどうかだけだ。「問題もんだいが顕在化けんざいかした」という文ぶんを読よむとき、ここを取とり違ちがえると論旨ろんしがまるごとずれる。筆者ひっしゃはたいてい「前まえからあったのに見みていなかった」と言いおうとしている。
  • また同おなじころかとよ、おびたたしく大だい地震じしんふること侍はべりき。……月つき日ひ重かさなり、年とし経へにし後あとは、言葉ことばにかけて言げんひ出でづる人ひとだになし。鴨長明かものちょうめい『方丈ほうじょう記き』(1212)
    元暦げんりゃくの大だい地震じしんの記述きじゅつである。山やまは崩くずれ海うみは溢あふれ、人々ひとびとは世よのはかなさを口々くちぐちに語かたり、いっとき心こころの濁にごりも薄うすらいだように見みえた。ところが年としが経へつと、口くちに出だす者ものすらいなくなる。ここには顕在けんざいと潜在せんざいの往復おうふくがそのまま書かかれている。災さい害がいによって顕在化けんざいかした無常むじょうの感覚かんかくが、ふたたび潜在せんざいへ沈しずんでいく。長明ちょうめいが鋭するどいのは、沈しずんだのは感覚かんかくであって事実じじつではないと分わかっている点てんだ。無常むじょうはずっとそこにある。顕在けんざい/潜在せんざいという対たいが世界せかいの側がわではなく人ひとの側がわの状態じょうたいを指さしていることが、この一節いっせつからよく分わかる。
  • 長ながく抱かかえてきた矛盾むじゅんが、人手ひとで不足ふそくによって一挙いっきょに顕在けんざい化かした。 「顕在化けんざいか」の典型的てんけいてきな使つかい方かたである。矛盾むじゅんは前まえから存在そんざいしていた。人手ひとで不足ふそくはそれを生うんだのではなく、見みえるようにしただけである。この読よみ方かたができると、筆者ひっしゃが原因げんいんとして何なにを指さしているのかを取とり違ちがえずに済すむ。読解どっかいでしばしば設問せつもんになる箇所かしょである。
  • △不正ふせいが顕在けんざいした。 単独たんどくの名詞めいし用法ようほうはほとんど無なく、「顕在化けんざいかした」とするのが自然しぜんである。また、隠かくされていたものが暴ぼうかれたのなら「露呈ろていした」のほうが的確てきかくになる。顕在化けんざいかは自然しぜんに表ひょうへ出でてくる場合ばあいも含ふくむため、隠蔽いんぺいの含ふくみを出だしたいときには弱よわい。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

反はん 39 潜在せんざい

派生はせい形けい
  • 顕在的けんざいてき[0]「顕在けんざい的てきな需要じゅよう」「顕在けんざい的てきな機能きのう」のように潜在的せんざいてきと対たいにして使つかうのが基本きほん。単独たんどくで使つかうと、なぜわざわざこの語ごを選えらんだのかが読者どくしゃに伝つたわらない。対たいの相手あいてが文中ぶんちゅうにあるかを確たしかめたい。
  • 顕在化けんざいか[0]この語ごの実質的じっしつてきな本体ほんたい。状態じょうたいではなく移行いこうを指さすので、「いつ」「何なんによって」が必かならず問とえる。この二ふたつを本文ほんぶんから拾ひろえるかどうかが、設問せつもんの答こたえを決きめることが多おおい。
  • 顕現けんげん[0]近ちかい語ごだが、目めに見みえない何なにかが姿すがたをとって現あらわれるという含ふくみを持もつ。宗教しゅうきょう・哲学てつがくの文脈ぶんみゃくで使つかわれ、「神かみの顕けん現げん」のように言いう。顕在化けんざいかが中立ちゅうりつの記述きじゅつであるのに対たいし、こちらは現あらわれること自体じたいに意味いみが与あたえられている。
コロケーション
  • 顕在化けんざいかする実質的じっしつてきな本体ほんたいこの語ごはほぼこの形かたちでしか使つかわれない。「化か」が付ついて、潜在せんざいから顕在けんざいへの移行いこうそのものを指さす。大切たいせつなのは、この動詞どうしが発生はっせいを意味いみしないことである。「問題もんだいが発生はっせいした」と「問題もんだいが顕在化けんざいかした」では、責任せきにんの所在しょざいも対処たいしょの仕方しかたも変かわる。前者ぜんしゃなら原因げんいんを止とめればよいが、後者こうしゃならなぜ今いままで見みえなかったのかを問とわねばならない。
  • 顕在けんざい的てきな需要じゅよう実務じつむの対たいマーケティングの語ごで、顧客こきゃくが自分じぶんで自覚じかくしている需要じゅようを指さす。潜在せんざい需要じゅようと対たいになる。抽象的ちゅうしょうてきな二に語ごが、ここでは「本人ほんにんが言葉ことばにできるか」という明快めいかいな基準きじゅんで分わけられている。評ひょう論文ろんぶんの顕在けんざい/潜在せんざいも、この基準きじゅんを当あてはめると輪郭りんかくがつかみやすい。
  • 顕在けんざいと潜在せんざい対たいでのみ立たつこの二に語ごはどちらか一方いっぽうでは意味いみが定さだまらない。「顕在けんざいしている」と言いえるのは、潜在せんざいしていた時期じきがあったからで、最初さいしょから見みえていたものにこの語ごは使つかわない。読解どっかいでは必かならず対たいの側がわを探さがす — いつまで潜在せんざいしていたのか、何なんによって顕在化けんざいかしたのかが、そのまま論ろんの骨格こっかくになる。
  • 表面化ひょうめんか日常にちじょう語ごの隣人りんじんほぼ同義どうぎだが、「表面ひょうめん」という比喩ひゆを残のこしているぶん日常にちじょう語ごに近ちかい。顕在化けんざいかは硬かたく、潜在せんざいとの対たいを含意がんいするため学術がくじゅつ文ぶんで選えらばれる。「対立たいりつが表面化ひょうめんかした」は事実じじつの報告ほうこく、「対立たいりつが顕在化けんざいかした」はそれ以前いぜんから対立たいりつがあったという分析ぶんせきを含ふくむ。
格かく硬かた

書かき言葉ことば。会話かいわでは不自然ふしぜん。

類るい語ごと差さ
  • 表面化ひょうめんか表ひょうに出でる日常にちじょう語ご寄より。顕在化けんざいかとほぼ同義どうぎだが、顕在化けんざいかはより硬かたく、潜在せんざいとの対たいを含意がんいする。
  • 露呈ろてい隠かくれていたものがあらわになる隠かくされていたという含ふくみがある。否定的ひていてきに響ひびく。
  • 明示めいじはっきり示しめす示しめす主体しゅたいがいる。顕在化けんざいかは自然しぜんに現あらわれる場合ばあいも含ふくむ。
  • 発現はつげん性質せいしつが現あらわれ出でる生物学せいぶつがく・医学いがくの語ご。遺伝子いでんしや症状しょうじょうについて使つかう。

ENmanifest
ZH显在(顕在, xiǎnzài)

39★

潜在せんざい

せんざい[0]平板へいばん型がた

語ご構成こうせい
潜せんひそむ+在ざいある
定義ていぎ

内ないにひそんで外そとや表面ひょうめんに現あらわれないこと。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑39
使用しようの境界きょうかい

内ないにひそんで外そとや表面ひょうめんに現あらわれないこと。無ないのではなく、まだ現あらわれていない。本人ほんにんにも気きづかれていない状態じょうたいを含ふくむ。

用法ようほう

「潜在的せんざいてき」「潜在せんざい能力のうりょく」「潜在せんざい意識いしき」の形かたちで日常的にちじょうてきにも使つかわれる。要点ようてんは〈無ないのではなく、すでに在ざいって現あらわれていない〉ことで、この点てんが「可能性かのうせい」との違ちがいになる。したがって「潜在せんざい能力のうりょくを引ひき出だす」は、無ないものを作つくるのではなく、在あるものを表ひょうに出だすという意味いみになる。「潜在せんざい意識いしき」はフロイト以降いこうの心理学しんりがくの語ごで、本人ほんにんが自覚じかくしていない意識いしきの層そうを指さす。顕在けんざいとの対たいで読よみ、どちらが問題もんだいにされているかを見みる。

用例ようれい
  • 其その安やすきは持じし易えきく、其その未いまだ兆ちょうさざるは謀はかり易えきし。……合ごう抱かかえの木きも毫末ごうまつより生しょうじ、九きゅう層そうの台だいも累るい土つちより起きり、千里せんりの行ぎょうも足下あしもとより始はじまる。『老子ろうし』第だい六ろく十四じゅうよん章しょう
    兆ちょうしが現あらわれる前まえなら手てを打うちやすい、という前半ぜんはんと、両手りょうてで抱かかえるほどの大木たいぼくも細ほそい芽めから育そだつ、という後半こうはん。潜在せんざいという語ごのもっとも正確せいかくな説明せつめいがここにある。要点ようてんは「毫末ごうまつ(細ほそい毛先けさき)」である。大木たいぼくはまだ無ないのではない。毫末ごうまつとして、すでに在ある。ここが「可能性かのうせい」との決定的けっていてきな違ちがいだ。可能性かのうせいは実現じつげんの見込みこみを言いうが、潜在せんざいはすでに在ざいって現あらわれていないことを言いう。「潜在せんざい能力のうりょくを引ひき出だす」という言いい方かたが「作つくり出だす」ではなく「引ひき出だす」なのは、この含ふくみによる。38 の扁鵲へんじゃくの話はなしと同おなじ構図こうずを、老子ろうしは病やまいではなく成長せいちょうの側がわから述のべている。
  • 惻隠そくいんの心こころは、仁ひとしの端はしなり。羞悪しゅうおの心こころは、義ぎの端はしなり。……凡ぼんそ我われに四よん端はし有ある者もの、皆みな拡ひろげて之これを充みつるたすことを知しらば、火ひの始はじめて然さえ、泉いずみの始はじめて達たっするが若わかし。『孟子もうし』公孫丑上こうそんちゅうじょう
    人ひとには四よっつの徳とくの「端はし(はし・きざし)」がそなわっている、という。「端はし」という一いち字じが潜在せんざいを指さしている。徳とくそのものはまだ現あらわれていないが、その糸口いとぐちはすでに内ないにある。そして「拡ひろげて之これを充みつるたす」— 広ひろげて満みたすことによって顕在化けんざいかする。火ひが燃もえはじめ、泉いずみが湧わきはじめる、という比喩ひゆがうまい。火種ひだねは最初さいしょからあったのであり、外そとから火ひを持もってきたのではない。36 の項こうで引ひいた「外そとより我われを鑠しゃくるに非ひざるなり」と同おなじ主張しゅちょうの別べつの言いい方かたで、自律じりつと潜在せんざいが同おなじ構図こうずから出でていることが分わかる。規範きはんも能力のうりょくも、外そとから入いれるのではなく内ないにあるものを開ひらくのだ、という見方みかたである。
  • 教育きょういくの役割やくわりは、学まなぶ者ものの潜在せんざい能力のうりょくを引ひき出だすことにある。 「引ひき出だす」という動詞どうしに注目ちゅうもくしたい。無ないものを作つくるのではなく、在あるものを表ひょうに出だすという含ふくみである。ラテン語ごの educere(引ひき出だす)がeducation の語源ごげんだという説せつがくり返かえし語かたられるのも、この含ふくみを支ささえたいからである。教育きょういく観かんそのものがこの一語いちごに賭かけられている。
  • ×努力どりょくすれば成功せいこうする潜在せんざい性せいがある。 これは「可能性かのうせい」である。成功せいこうはまだどこにも存在そんざいしていない。潜在せんざいはすでに在ざいって現あらわれていないものに使つかう。「潜在的せんざいてきな力ちからがある」なら通とおる — 力ちからは本人ほんにんの内ないにすでにあるからだ。「今いまどこかに在あるか」を問とえば二に語ごは分わかれる。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

反はん 38 顕在けんざい

派生はせい形けい
  • 潜在的せんざいてき[0]もっとも多おおい形かたち。「潜在的せんざいてきな〜」で対象たいしょうを限定げんていするのが基本きほんで、顕在けんざい的てきと対たいにして使つかう。日常にちじょう語ごとしても通用つうようするため、評ひょう論文ろんぶんでは「可能性かのうせいがある」の言いい換かえとして流ながされやすい点てんに注意ちゅういしたい。
  • 潜在意識せんざいいしき[0]心理学しんりがくの複合ふくごう語ご。厳密げんみつには「無意識むいしき」と区別くべつされる場合ばあいがあるが、日本語にほんごでは混用こんようされることが多おおい。評ひょう論文ろんぶんで出でたら、筆者ひっしゃがどちらの意味いみで使つかっているかを前後ぜんごから確たしかめる必要ひつようがある。
  • 潜勢せんせい「潜勢力せんせいりょく」の形かたちで用もちいられる硬かたい語ご。アリストテレスの「デュナミス(可能かのう態たい)」の訳語やくごとして哲学てつがく書しょに現あらわれる。現実げんじつ態たい(エネルゲイア)と対たいになり、潜在せんざいと顕在けんざいの哲学的てつがくてきな源流げんりゅうにあたる。この背景はいけいを知しっていると、哲学てつがく系けいの評ひょう論文ろんぶんで足あしが止とまらない。
コロケーション
  • 潜在せんざい能力のうりょく引ひき出だす対象たいしょう本人ほんにんにも気きづかれていない力ちからを指さす。この語ごが広ひろく使つかわれるのは、失敗しっぱいを能力のうりょくの欠如けつじょではなく未み発現はつげんとして説明せつめいできるからである。慰なぐさめにも励はげましにもなるが、同時どうじに反証はんしょうできないという弱点じゃくてんも抱かかえている。現あらわれていないだけだ、と言いわれれば誰だれも否定ひていできない。
  • 潜在せんざい意識いしき心理学しんりがくの語ごフロイト以降いこうの語ごで、本人ほんにんが自覚じかくしていない意識いしきの層そうを指さす。ここで重要じゅうようなのは、自覚じかくがないだけで働はたらいてはいるということだ。意識いしきされないものが行動こうどうを決きめているという主張しゅちょうは、20 のイデオロギー、21 の疎そ外がいと同おなじ形かたちをしている — 自分じぶんの外そとにあるものが自分じぶんを動うごかしているという構図こうずである。
  • 潜在的せんざいてきな対立たいりつ見みえない緊張きんちょう評ひょう論文ろんぶんでよく現あらわれる形かたちで、まだ表ひょうに出でていないがすでに存在そんざいしている対立たいりつを指さす。「対立たいりつの可能性かのうせいがある」とはまるで違ちがう。可能性かのうせいなら無ないかもしれないが、潜在的せんざいてきなら在ある。筆者ひっしゃがこの語ごを選えらんだ時点じてんで、対立たいりつの存在そんざい自体じたいは主張しゅちょうされていると読よまねばならない。
  • 潜在せんざいと可能かのう境目さかいめの確認かくにん確認かくにんテストで問とわれる区別くべつ。潜在せんざいはすでに在ざいって現あらわれていない、可能性かのうせいはまだ無ないが実現じつげんしうる。「潜在せんざい需要じゅよう」は顧客こきゃくの中なかにすでにある欲求よっきゅうで、「成功せいこうの可能性かのうせい」はまだどこにもない。「今いまそれはどこにあるか」と問とえるかどうかで判別はんべつする。
格かく中なか

書かき言葉ことば・会話かいわの両方りょうほうで使つかえる。

類るい語ごと差さ
  • 内在ないざい内側うちがわに含ふくまれている含ふくまれていることを言いうだけで、現あらわれていないとは限かぎらない。
  • 伏在ふくざい隠かくれて存在そんざいする硬かたい語ご。危険きけんや問題もんだいについて使つかうことが多おおい。
  • 可能性かのうせい実現じつげんしうる状態じょうたい実現じつげんの見込みこみ。潜在せんざいはすでに在ざいって現あらわれていないこと。この差さが重要じゅうよう。
  • 暗黙あんもく言葉ことばにされていない言語化げんごかの有無うむ。「暗黙あんもくの了りょう解かい」。潜在せんざいは存在そんざいの様態ようたい。

ENlatent
ZH潜在(潜在, qiánzài)

40★

モチーフ

モチーフ[1]頭高あたまだか型がた

定義ていぎ

芸術げいじゅつ作品さくひんにおいて、芸術げいじゅつ家かの表現ひょうげんの動機どうきとなった題材だいざいや考かんがえ・思想しそう。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑40
原げん書しょの解説かいせつ

モチーフとは、芸術げいじゅつ作品さくひんなどをつくり出だす時ときに原げん動どう力りょくとなった題材だいざいや思想しそうのことで、その作品さくひんの根本こんぽんや中核ちゅうかくをなすことから、「主題しゅだい」や「テーマ」などと同おなじ意味いみで使つかわれることもある。

使用しようの境界きょうかい

芸術げいじゅつ作品さくひんにおいて、表現ひょうげんの動機どうきとなった題材だいざいや考かんがえ・思想しそう。「主題しゅだい」「テーマ」と同義どうぎで使つかわれることもある。

用法ようほう

三みっつの層そうで使つかわれる。①創作そうさくの動機どうきとなった題材だいざいや思想しそう(最もっとも基本きほん)、②作品さくひんの中なかで繰くり返かえし現あらわれる要素ようそ(音楽おんがくの主題しゅだい、文学ぶんがくの反復はんぷくイメージ)、③手芸しゅげい・工芸こうげいで図ず案あんの単位たんい。評ひょう論文ろんぶんでは①②が中心ちゅうしんで、「この作品さくひんのモチーフは死しである」のように使つかう。「主題しゅだい」と言いい換かえられる場合ばあいが多おおいが、モチーフは複数ふくすうあってよく、主題しゅだいは通常つうじょう一ひとつという差さがある。原げん書しょは「主題しゅだい」「テーマ」と同義どうぎで使つかわれることもあると述のべる。

用例ようれい
  • 西行さいぎょうの和歌わかにおける、宗祇そうぎの連歌れんがにおける、雪舟せっしゅうの絵えにおける、利り休きゅうが茶ちゃにおける、其その貫道かんどうする物ものは一いちなり。松尾まつお芭蕉ばしょう『笈きゅうの小しょう文ぶん』(1690頃ころ)
    和歌わか・連歌れんが・絵え・茶ちゃ — ジャンルはまるで違ちがうのに、それらを貫つらぬいているものは一ひとつだと芭蕉ばしょうは言いう。この「貫道かんどうする物もの」が、モチーフのもっとも深ふかい層そうにあたる。注意ちゅういしたいのは、芭蕉ばしょうが「同おなじ題材だいざいを扱あつかっている」とは言いっていないことだ。西行さいぎょうは歌うたを詠えいみ、雪舟せっしゅうは墨すみを使つかう。共通きょうつうなのは題材だいざいではなく、作つくらせている当とうのものである。モチーフが「題材だいざい」と「動機どうき」の両方りょうほうを意味いみしうるのは、この二ふたつが作つくり手てにとって分ぶんかちがたく結むすびついているからで、何なにを選えらぶかと、なぜ選えらぶかは同おなじ一ひとつのことなのである。
  • 折節おりふしの移うつり変へんるこそ、ものごとにあはれなれ。吉田兼好よしだけんこう『徒然草つれづれぐさ』第だい十九じゅうきゅう段だん(1330頃ころ)
    季節きせつの移うつり変かわりこそ、何なんにつけてもしみじみと心こころを打うつ、という。この一句いっくのあと、兼好けんこうは春はるから冬ふゆまでの景けい物ぶつを延々えんえんと書かき連つらねていく。四季しきという、くり返かえし戻もどってくる型かたがここでの主題しゅだいである。モチーフの第だい二にの層そう — 作品さくひんの中なかで反復はんぷくして現あらわれる要素ようそがこれにあたる。重要じゅうようなのは、反復はんぷくが退屈たいくつにならないことだ。毎年まいとし同おなじ春はるが来くるのに、そのつど「あはれ」が新あたらしい。音楽おんがくで主題しゅだいがくり返かえされるたびに違ちがって聞きこえるのと同おなじ仕組しくみで、モチーフは同一どういつであることによってではなく、戻もどってくることによって働はたらく。
  • この作品さくひんのモチーフは、一貫いっかんして〈失うしなわれた場所ばしょへの帰還きかん〉である。 ①の用法ようほう、すなわち創作そうさくの動機どうきとなった題材だいざいや思想しそうである。「主題しゅだい」と言いい換かえられる場面ばめんだが、差さがある。主題しゅだいは通常つうじょう一ひとつ、モチーフは複数ふくすうあってよい。「この作品さくひんのモチーフは死しと水みずと母ははである」とは言いえるが、「主題しゅだいは死しと水みずと母ははである」とは言いいにくい。この数かずの違ちがいが、二に語ごを分わける実際的じっさいてきな目印めじるしになる。
  • ×会議かいぎのモチーフは来期らいきの予算よさんだ。 会議かいぎで扱あつかう事柄ことがらは「議題ぎだい」「テーマ」である。モチーフは芸術げいじゅつ作品さくひんについて使つかう語ごで、創作そうさくの動機どうきという含ふくみを負おっている。動機どうきを持もたない実務じつむの話題わだいには合あわない。「誰だれかがそれに促うながされて何なにかを作つくったか」を問とえば、使つかえるかどうかが決きまる。
コロケーション
  • 作品さくひんのモチーフ①の基本きほん形けい創作そうさくの原げん動どう力りょくとなった題材だいざいや思想しそうを指さす。「題材だいざい」との違ちがいは動機どうきを含ふくむかどうかで、題材だいざいはただ選えらばれたもの、モチーフは選えらばせたものである。同おなじ「花はな」でも、描えがくために置おかれた花はなは題材だいざい、描えがかずにいられなくさせた花はなはモチーフになる。この向むきの違ちがいが語ごの中心ちゅうしんにある。
  • 反復はんぷくされるモチーフ②の用法ようほう作品さくひんの中なかでくり返かえし現あらわれる要素ようそを指さす。音楽おんがくの主題しゅだい、文学ぶんがくにおける反復はんぷくイメージ。ここでのモチーフは動機どうきではなく構造こうぞうの単位たんいである。批評ひひょうがこの用法ようほうを好このむのは、作者さくしゃの意図いとを問とわずに作品さくひんの内側うちがわだけで論ろんじられるからで、「作者さくしゃはこう考かんがえた」と言いわずに済すむ。
  • モチーフと主題しゅだい数かずの違ちがい主題しゅだいは通常つうじょう一ひとつ、モチーフは複数ふくすうあってよい。この差さはそのまま階層かいそうの差さでもある。複数ふくすうのモチーフが編あみ合あわさって一ひとつの主題しゅだいを形かたちづくる、という関係かんけいになりやすい。評ひょう論文ろんぶんで両方りょうほうが出でてきたら、どちらが上位じょういに置おかれているかを見みると論ろんの構造こうぞうがつかめる。
  • 通奏つうそう低てい音おん比喩ひゆとしての隣人りんじんもとはバロック音楽おんがくの用語ようごで、曲きょくを通つうじて鳴なり続つづける低てい音おん部ぶを指さす。評ひょう論文ろんぶんでは「この時代じだいの通奏つうそう低てい音おんは不安ふあんである」のように、表ひょうには出でないが全体ぜんたいを支ささえている要素ようそを指さす比喩ひゆとして使つかわれる。モチーフが表ひょうに現あらわれる要素ようそであるのに対たいし、こちらは39 の潜在せんざいに近ちかい位置いちにある。対たいで覚おぼえると射程しゃていが広ひろがる。
格かく中なか

書かき言葉ことば・会話かいわの両方りょうほうで使つかえる。

類るい語ごと差さ
  • 主題しゅだい作品さくひんの中心ちゅうしんとなる考かんがえ作品さくひん全体ぜんたいを貫つらぬく一ひとつの考かんがえ。モチーフは複数ふくすうあってよく、繰くり返かえし現あらわれる要素ようそも指さす。
  • テーマ扱あつかう題材だいざい最もっとも広ひろい。主題しゅだいとほぼ同義どうぎで使つかわれる。
  • 題材だいざい素材そざいとして選えらばれたもの素材そざいそのもの。動機どうきという含ふくみはない。
  • 動機どうき行為こういを起おこさせるものモチーフの語源ごげん的てきな意味いみ。音楽おんがくでは最小さいしょうの旋律せんりつ単位たんいを指さす。

ENmotif
ZH主题(主題, zhǔtí)

解説かいせつ ── 顕在けんざい・潜在せんざい

「その事件じけんによって、ある問題もんだいが顕在化けんざいかした」のように、外見がいけん的てきに見みえなかったり気きづかれていなかったりしたことが表面ひょうめんに現あらわれることを、「顕在化けんざいか」と言いう。

潜在せんざいは顕在けんざいの逆ぎゃくで、まだ表面化ひょうめんかされず、気きづかれていない状態じょうたいのこと。たとえば、まだ発揮はっきされていない、本人ほんにんにも気きづかれていない能力のうりょくのことを「潜在せんざい能力のうりょく」と言いう。

対立たいりつの軸じく

自律じりつ/他律たりつ の軸じく = 律りつする主体しゅたいが内ないか外そとか

自律じりつ自分じぶんの考かんがえに従したがって判断はんだんし行動こうどうする。
律りつする主体しゅたいが内ないか外そとか
他律たりつ他ほかからの命令めいれい・強制きょうせいに従したがって行動こうどうする。

顕在けんざい/潜在せんざい の軸じく = 表面ひょうめんに現あらわれているか

顕在けんざいはっきり形かたちに現あらわれて存在そんざいする。
表面ひょうめんに現あらわれているか
潜在せんざい内ないにひそんで表面ひょうめんに現あらわれない。
自律と他律、顕在と潜在規範の出どころが内か外かで自律と他律を分け、表面に現れているかで顕在と潜在を分けた図。 自律 規範が内から出る 他律 規範が外から来る 表面 潜在 顕在 無いのではない。まだ現れていない。 顕在化する = 前から在ったものが表面に出る(新たに発生したのではない)
規範きはんの出でどころと、表面ひょうめんとの関係かんけい
Meta — 俯瞰ふかん

四十よんじゅう語ごを上うえから見みる

個々ここの語ごを覚おぼえるだけでは、初見しょけんの文章ぶんしょうは読よめない。評ひょう論文ろんぶんは対立たいりつで動うごき、語ごは格かくで選えらばれる。この二ふたつを一いち枚まいずつ図ずにしておく。

本章の対立の軸一覧本章に現れる対立語のペアと、それを分ける軸を並べた一覧図。 PAIR AXIS 普遍 特殊 例外の有無 具体 抽象 知覚できるか 秩序 混沌 規則性の有無 必然 偶然 因果が見えるか 権威 権力 服従が自発か強制か 合理 非合理 筋道が通るか 自明 懐疑 証明を要するか 自己目的化 倒錯 何が入れ替わるか 絶対 相対 比較対象の有無 還元 敷衍 広げるか縮めるか 一元 多元 根本の数 自律 他律 律する主体が内か外か 顕在 潜在 表面に現れているか 評論文は対立で動く ── 軸が分かれば片方から他方が読める
本章ほんしょうに現あらわれる対立たいりつと、それを分わける軸じく
格による40語の分布硬・学術、硬、中の三段階に本章の40語を振り分けた図。 硬・学術 7 普遍 懐疑 自己目的化 疎外 敷衍 情念 恣意 硬 18 抽象 混沌 必然 対象 非合理 自明 倒錯 虚構 イデオロギー 概念 観念 理念 還元 一元 二元 多元 他律 顕在 中 15 特殊 具体 秩序 偶然 権威 権力 合理 パラドックス 絶対 相対 アイロニー ディレンマ 自律 潜在 モチーフ 語は意味ではなく格で選ぶ
格かくによる四十よんじゅう語ごの分布ぶんぷ

硬かた・学術がくじゅつに属ぞくする語ごは、会話かいわで使つかうと不自然ふしぜんに響ひびく。中なかに属ぞくする語ごは両方りょうほうで使つかえる。この区別くべつは意味いみの理解りかいとは別べつの層そうにあり、書かく段階だんかいで効きいてくる。

Output

産出さんしゅつ

やるなら ── 自分じぶんの関心かんしん領域りょういきから一ひとつ選えらび、次つぎのいずれかを一段落いちだんらくで書かく。

  • その領域りょういきで「普遍ふへん」と呼よばれているものに、例外れいがいはあるか
  • その領域りょういきで、手段しゅだんが目的もくてきに入いれ替かわっている例れいはあるか
Blank

「すべては相対的そうたいてきである」——この命題めいだい自体じたいは、絶対ぜったいか、相対そうたいか。