Chapter 1-3

言語げんご

[ 原げん書しょ 第だい1部いちぶ 第だい3章さんしょう 言語げんご ]

語ご数すう 16 / 節せつ 9 / 1節いっせつ 約やく10〜15分ぶん

原げん書しょの導入どうにゅう

新あたらしい言語げんご観かん

新あたらしい言語げんご観かん

言語げんごをテーマとする入試にゅうし現代げんだい文ぶんは、大おおきく二ふたつのタイプに分わけることができる。表現ひょうげんとしての言語げんごを主題しゅだいとしているものと、記号きごうとしての言語げんごを主題しゅだいとしているものという二ふたつである。

表現ひょうげんとしての言語げんごについては、レトリックの役割やくわりを再評価さいひょうかする内容ないようの文章ぶんしょうが目立めだっている。レトリックの主しゅたる役割やくわりは、古代こだいギリシア以来いらい、弁べん論ろんにおける説得力せっとくりょくを高たかめたり、文章ぶんしょうを装飾そうしょくしたりすることだとされてきた。しかし近年きんねん、既存きそんの言葉ことばでは名なづけることのできない現実げんじつをあるがままに表現ひょうげんするという、レトリックの創造的そうぞうてきな機能きのうに着目ちゃくもくした研究けんきゅうが進すすみ、そうした事情じじょうが現代げんだい文ぶんにも反映はんえいされている。

レトリックと並ならんで出題しゅつだいされやすいのが、言語げんごの多義たぎ性せいや解釈かいしゃくの多様性たようせいを肯定的こうていてきに評価ひょうかする文章ぶんしょうだ。こうした文章ぶんしょうでは、テクスト(=表現ひょうげんされているもの)の意味いみや評価ひょうかはコンテクスト(=文脈ぶんみゃく)に依存いぞんするということを前提ぜんていとした内容ないようのものが多おおい。レトリックにせよ、言語げんごの多義たぎ性せいにせよ、どちらにも言いえることは、言語げんごと事物じぶつとは一いち対たい一いちの対応たいおう関係かんけいにはないということであるが、こうした新あたらしい言語げんご観かんをもたらしたのが「記号きごうとしての言語げんご」という考かんがえ方かたである。

記号きごうという概念がいねん

記号きごう作用さようとは、「あるもの」が、それ以外いがいの何なにかを意味いみすることを言いう。

たとえば〈イヌ〉という言葉ことばは、声こえに出だした時ときにはただの音声おんせいである。だが、この音声おんせいは、四よん本ほん足あしのイヌという動物どうぶつを指さしている。このように考かんがえると、言語げんごとは、「ある内容ないよう」を指さし示しめしている記号きごうだと言いえよう。

また、記号きごうは言葉ことばに限かぎったものではない。信号しんごう機きもそれ自体じたいはただの物体ぶったいだが、〈赤あか信号しんごう〉は「止とまれ」を、〈青あお信号しんごう〉は「進すすめ」を意味いみする記号きごうだと考かんがえられる。

さらに、〈白しろいハト〉が「平和へいわ」を表あらわすような場合ばあいは、記号きごうであると同時どうじに象徴しょうちょうでもある。このように見みると、言語げんごだけでなくさまざまなものを、意味いみをもった記号きごうとみなすことができる。

モノが先さきか、コトバが先さきか

「記号きごうとしての言語げんご」という考かんがえ方かたに基もとづいて、もう少すこし具体的ぐたいてきに言語げんごの役割やくわりを考かんがえてみよう。

日本にほんでは、虹にじは「赤橙黄緑青藍紫あかだいだいきみどりあおあいむらさき」の七色なないろに分わけられる。しかし、外国がいこくでは六ろく色いろや五色ごしきに分わけるところが多おおい。もちろん、虹にじの色いろそのものが国くにによって異ことなっているわけではない。ところが、見みる人ひとの属ぞくしている文化ぶんかによって、虹にじの色いろの数かずが異ことなってくるのである。ここで鍵かぎを握にぎっているのが「言葉ことば」だ。

日本にほんでは「藍あい色いろ」と「青あお色いろ」が言葉ことばによって区別くべつできるが、ある国くにではその区別くべつがなく、「藍あい色いろ」を指さす言葉ことばがないとする。すると、虹にじは六ろく色いろに見みえるのである。つまり、虹にじは最初さいしょから七色なないろで、それに七ななつの名前なまえをつけているのではない。色いろの名前なまえを知しっているからこそ、虹にじが七色なないろに見みえるのだ。通常つうじょう、我々われわれは、物ものが先さきにあって、それに名前なまえをつけていると考かんがえている。しかし、名前なまえがあるからこそ、はじめて物ものが認識にんしきできるようになる、とも言いえる。我々われわれの認識にんしきは、言葉ことばによって成なり立たっているのである。

言語げんごの恣意性しいせい

次つぎに、「水みず」という言葉ことばについて考かんがえてみる。あの無色むしょく透明とうめいな液体えきたいを、なぜ「みず」とよぶのか。答こたえは「たまたまそう名なづけられたから」である。

あの液体えきたいを「みず」とよばなければいけない理由りゆうがないことは、まったく同おなじものを英語えいごでは「water」と別べつの言葉ことばでよぶことが示しめしている。モノとコトバとの間あいだには必然的ひつぜんてきな結むすびつきがないことを、言語げんごの恣意性しいせいと言いう。

恣意的しいてきであるのは、モノとコトバとの関係かんけいだけではない。虹にじの例れいで見みたように、分節ぶんせつも恣意的しいてきであると言いえる。

言葉ことばを通とおして文化ぶんかを見みる―言語学げんごがくの広ひろがり

「分節ぶんせつ」や「言語げんごの恣意性しいせい」などから何なにがわかるのか。

ここまで確認かくにんしてきたように、我々われわれの認識にんしきは言葉ことばによって成立せいりつしており、言葉ことばが異いなれば世界せかいの見みえ方かたが変かわってくる。ある言語げんごの単語たんごや文法ぶんぽう構造こうぞうなどを分析ぶんせきすることによって、その文化ぶんかの構造こうぞうや価値かち体系たいけいがわかるのだ。

例れいを挙あげよう。日本語にほんごでは普通ふつう、「兄あに」と「弟おとうと」とを区別くべつして使つかうことが多おおい。これに対たいして、英語えいごではだいたい「brother」とひとくくりにする。これは、日本にほんでは儒教じゅきょうなどの影響えいきょうによって、年長者ねんちょうしゃに敬意けいいを表あらわす文化ぶんかをもっていることと関係かんけいしている。家族かぞくの呼よび方かたに限かぎらず、あらゆる言葉ことばから、その文化ぶんかの特徴とくちょうを読よみ取とることができるのである。

Macro — 言語げんご論ろんの地図ちず

二ふたつの入いり口ぐち

言語論の全体地図表現としての言語と記号としての言語という二つの主題、および混沌から分節を経て秩序に至る流れを示した図。 表現としての言語 レトリック 装飾ではなく、発見と創造の機能 解釈の多様性 テクストはコンテクストに依存 記号としての言語 混沌 言語による恣意的な分節 秩序 差異があるから区別ができる 言語と事物は一対一で対応していない これが新しい言語観の出発点である 名があるから物が見える 意味は文脈が決める 言語が世界を作り、文脈が意味を作る
表現ひょうげんとしての言語げんごと、記号きごうとしての言語げんご

言語げんごを主題しゅだいとする文章ぶんしょうは二ふたつに分わかれる。表現ひょうげんとしての言語げんごを扱あつかうものと、記号きごうとしての言語げんごを扱あつかうものである。前者ぜんしゃではレトリックの創造そうぞう機能きのうと解釈かいしゃくの多様性たようせいが、後者こうしゃでは分節ぶんせつと差異さいが焦点しょうてんになる。ただし行いき着つく先さきは同おなじで、言語げんごと事物じぶつは一いち対たい一いちで対応たいおうしていないという一点いってんに集あつまる。この章しょうの十六じゅうろく語ごは、その一点いってんを別々べつべつの角度かくどから言いい当あてている。

言葉による分節言葉がないときは連続して見える帯が、色名を持つことで区切られて見えるようになる過程を示した図。 言葉がないとき 連続していて、切れ目が見えない 言語による分節 言葉があるとき 赤橙黄 緑青藍紫 「藍」を指す言葉がない文化では、虹は六色に見える。虹そのものは変わっていない。 物が先にあるのではない。名があるから物が見える。
言葉ことばによる分節ぶんせつ ── 虹にじの色数いろかずは文化ぶんかによって変かわる

虹にじそのものは、どこの国くにでも同おなじように出でている。それでも七色なないろに見みえる文化ぶんかと六ろく色いろに見みえる文化ぶんかがある。分わかれ目めは色名しきめいの数かずにある。物ものが先さきにあって名ながつくのではなく、名ながあるから物ものが見みえる。この反転はんてんが章しょう全体ぜんたいの背骨せぼねになる。

Index — 16 sections

節せつ

  1. 01メタファー/レトリック(修辞しゅうじ)
  2. 02テクスト(テキスト)/コンテクスト(コンテキスト)
  3. 03アナロジー
  4. 04記号きごう
  5. 05コード
  6. 06象徴しょうちょう(シンボル)/表象ひょうしょう
  7. 07アレゴリー(寓意ぐうい)
  8. 08分節ぶんせつ
  9. 09差異さい/同一どういつ/一義いちぎ(的てき)/両義りょうぎ(的てき)/多義たぎ(的てき・性せい)
Section 01

メタファー/レトリック(修辞しゅうじ)

57

メタファー

メタファー[1]頭高あたまだか型がた

語ご構成こうせい

漢語かんご形けいは「隠喩いんゆ」「暗喩あんゆ」。対たいする「シミリ」は「直喩ちょくゆ」「明喩めいゆ」。

定義ていぎ

形式上けいしきじょうはたとえの形かたちをとらない比喩ひゆ。「……のようだ」と言いわないたとえのこと。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑57
原げん書しょの解説かいせつ

「彼かれは『歩あるく辞書じしょ』だ」のように、「……のようだ」と言いわずにたとえる比喩ひゆをメタファーと言いう。また、「彼かれは歩あるく辞書じしょのようだ」のように、「……のようだ」とたとえるのはシミリ(直喩ちょくゆ・明喩めいゆ)と言いう。メタファーはレトリックの一ひとつである。

メタファーは、文章ぶんしょうを美うつくしく表現ひょうげんするためにも使つかわれるが、メタファーの役割やくわりはそれだけではない。メタファーには、既存きそんの言葉ことばではうまく表現ひょうげんできない事柄ことがらを、たとえによって表現ひょうげんできるようにするという創造的そうぞうてきな役割やくわりもある。

使用しようの境界きょうかい

「のようだ」を使つかわない比喩ひゆ。使つかえばシミリ(直喩ちょくゆ)になる。形式けいしきで分わかれるので判定はんていは迷まよわない。

用法ようほう

評ひょう論文ろんぶんで問とわれるのは装飾そうしょくではなく創造的そうぞうてきな役割やくわりのほうである。既存きそんの語ごでは言いい表あらわせない現実げんじつに、別べつの領域りょういきの語ごを持もち込こんで名なを与あたえる働はたらきを指さす。山やまの下部かぶを着物きものの「裾すそ」と呼よび、机つくえの支ささえを「脚あし」と呼よぶ。この転用てんようが定着ていちゃくすると、その語ごが新あたらしい意味いみを獲得かくとくする。したがってメタファーは言語げんごを豊ゆたかにする装置そうちであって、飾かざりではない。「隠喩いんゆ」「暗喩あんゆ」が漢語かんご形けい。日常にちじょう語ごでは「たとえ」でよいが、評ひょう論文ろんぶんでは技法ぎほう名めいとして使つかう。

用例ようれい
  • 隠喩いんゆに巧たくみであることだけは、他人たにんから学まなぶことができない。それは天賦てんぷのしるしである。よい隠喩いんゆをつくるとは、似にているものを見みてとることだからである。アリストテレス『詩学しがく』第だい二十二にじゅうに章しょう(前四世紀ぜんよんせいき)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    注目ちゅうもくしたいのは「他人たにんから学まなべない」という一句いっくである。倒置とうちも反復はんぷくも対句ついくも、規則きそくとして教おしえられる。隠喩いんゆだけが教おしえられない。なぜなら、隠喩いんゆをつくるとはまだ誰だれも並ならべたことのない二ふたつを並ならべることだからだ。既すでにある似にかたをなぞるなら、それは教おしえられる。アリストテレスが言いっているのは、似にていると気きづく前まえは、似にていなかったということである。「彼かれは歩あるく辞書じしょだ」と誰だれかが言いうまで、人ひとと辞書じしょは似にていなかった。原げん書しょのいう創造的そうぞうてきな役割やくわりとは、この「気きづいた瞬間しゅんかんに似にかたが生うまれる」働はたらきを指さしている。メタファーが飾かざりではないのは、そのためである。
  • 汚よごれつちまつた悲かなしみに
    今日きょうも小雪こゆきの降おりかかる
    汚よごれつちまつた悲かなしみに
    今日きょうも風かぜさへ吹ふきすぎる中原なかはら中也ちゅうや『山羊やぎの歌うた』(1934)
    「汚よごれる」は本来ほんらい、布ぬのや手てや水みずに使つかう語ごである。悲かなしみは汚よごれない。それでもこの一行いちぎょうを読よんだ瞬間しゅんかん、読者どくしゃは「汚よごれた悲かなしみ」がどういうものかを知しってしまう。長ながく抱かかえすぎて、純粋じゅんすいな痛いたみではなくなった悲かなしみ — それを言いい当あてる語ごは、日本語にほんごに無ない。無ないから、別べつの領域りょういきから借かりてきた。ここに原げん書しょのいう〈既存きそんの言葉ことばではうまく表現ひょうげんできない事柄ことがらをたとえによって表現ひょうげんできるようにする〉働はたらきがある。さらに「小雪こゆき」「風かぜ」が降おりかかり吹ふきすぎるのは、汚よごれという語ごが呼よび寄よせた物ものの世界せかいである。一ひとつの隠喩いんゆが立たつと、その周まわりに同おなじ領域りょういきの語ごが集あつまってくる。この連鎖れんさこそが、隠喩いんゆの作つくる力ちからである。
  • 山やまのメタファーとしての「裾すそ」、机つくえの「脚あし」。いずれも定着ていちゃくして、もはやたとえと意識いしきされない。 死しんだ隠喩いんゆと呼よばれる現象げんしょうである。着物きものの裾すそも動物どうぶつの脚あしも、かつては借かりてこられた語ごだった。使つかわれ続つづけるうちに、その語ごの意味いみそのものになる。つまりメタファーは飾かざりではなく、言語げんごが語彙ごいを増ふやしていく仕組しくみそのものだ。辞書じしょに載のっている多義たぎ語ごの多おおくは、死しんだ隠喩いんゆの墓はか場ばである。
  • ×彼かれは歩あるく辞書じしょのようだ、というのがメタファーである。 「のようだ」を使つかっているので、これはシミリ(直喩ちょくゆ・明喩めいゆ)。メタファーは「彼かれは歩あるく辞書じしょだ」と言いい切きる。形式けいしきだけの違ちがいに見みえるが、断定だんていの強つよさが変かわる。「ようだ」は、たとえであることを断ことわってから渡わたす。言いい切きりは断ことわらない。断ことわらないぶん、読者どくしゃは一瞬いっしゅんそれを事実じじつとして受うけ取とる — その一瞬いっしゅんに隠喩いんゆの力ちからがある。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

関せき シミリ/直喩ちょくゆ/明喩めいゆ/64 象徴しょうちょう(シンボル)/66 アレゴリー(寓意ぐうい)

コロケーション
  • 死しんだ隠喩いんゆ定着ていちゃくの果はて使つかわれすぎて、たとえだと意識いしきされなくなった隠喩いんゆを指さす。「時間じかんが流ながれる」「議論ぎろんの土台どだい」「心こころが折おれる」。皮肉ひにくなのは、成功せいこうした隠喩いんゆほど死しぬことだ。広ひろく受うけ入いれられれば、それは比喩ひゆではなくただの言いい方かたになる。評ひょう論文ろんぶんがこの語ごを持もち出だすときは、死しんだはずの隠喩いんゆを掘ほり起おこして、思考しこうの癖くせを露あらわにするためである。
  • 概念がいねんメタファー思考しこうの下地したじ「議論ぎろんは戦争せんそうだ」という下地したじがあるから、「主張しゅちょうを攻撃こうげきする」「立場たちばを守まもる」「反論はんろんを撃げき退たいする」が自然しぜんに出でてくる。個々ここの表現ひょうげんではなく、その背後はいごにある一ひとつのたとえを指さす。ここが重要じゅうようで、隠喩いんゆは言いい方かたではなく考かんがえ方かたの側がわにある。議論ぎろんを戦争せんそうではなく踊おどりと見みる言語げんごがあれば、そこでの議論ぎろんは別べつのものになる。
  • メタファーとシミリ形式けいしきの一線いっせん「のようだ」があるかないか。判定はんていは迷まよわないぶん、違ちがいの中身なかみが見み過かごされやすい。シミリは「これはたとえです」と断ことわってから渡わたす。メタファーは断ことわらない。断ことわらないことで、読者どくしゃに一瞬いっしゅんそれを事実じじつとして引ひき受うけさせる。断定だんていの強つよさの差さは、この一瞬いっしゅんの差さから来きている。
  • メタファーと換喩かんゆ似にているか、近ちかいかメタファーは類似るいじで置おき換かえる。換喩かんゆ(メトニミー)は隣接りんせつで置おき換かえる。「赤あかペンを入いれる」で添削てんさくを指さすのは、ペンと添削てんさくが似にているからではなく、いつも一緒いっしょにあるからだ。「永田町ながたちょう」で政せい界かいを指さすのも同おなじ。「似にているか、近ちかいか」を問とえば二ふたつは分わかれる。
格かく中なか

書かき言葉ことば・会話かいわの両方りょうほうで使つかえる。

類るい語ごと差さ
  • シミリ「のようだ」を使つかう比喩ひゆ直喩ちょくゆ・明喩めいゆ。「彼かれは歩あるく辞書じしょのようだ」。メタファーは「彼かれは歩あるく辞書じしょだ」。形式けいしきだけの違ちがいに見みえて、断定だんていの強つよさが変かわる。
  • 象徴しょうちょう抽象ちゅうしょうを具体ぐたいで示しめし続つづける一いち対たい一いちで置おき換かえるのではなく、意味いみが汲くみ尽つくせない。メタファーは置おき換かえが効きく。
  • アレゴリー物語ものがたり全体ぜんたいで別べつの意味いみを語かたる長ながさが違ちがう。メタファーは語ごや句くの単位たんい、アレゴリーは作品さくひんの単位たんい。
  • 換喩かんゆ近ちかさで置おき換かえる「赤あかペンを入いれる」で添削てんさくを指さすような、隣接りんせつ関係かんけいによる置換ちかん。メタファーは類似るいじ関係かんけいによる置換ちかん。

ENmetaphor
ZH隐喻(隠喩, yǐnyù)

58

レトリック(修辞)しゅうじ

しゅうじ[1]頭高あたまだか型がた

語ご構成こうせい
修おさむおさめる・ととのえる+辞じことば
定義ていぎ

文章ぶんしょうを飾かざるための表現ひょうげん(技法ぎほう)のこと。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑58
原げん書しょの解説かいせつ

文章ぶんしょうを美うつくしくしたり、わかりやすくしたりするための表現ひょうげん技法ぎほうをレトリックと言いう。レトリックには、比喩ひゆや倒置とうち、擬人法ぎじんほうなどがある。また、レトリックは、そのままレトリックを研究けんきゅうする学問がくもんの名前なまえでもあり、修辞学しゅうじがくと訳やくす。

修辞学しゅうじがくの起源きげんは、相手あいてを説得せっとくするための弁べん論ろん術じゅつであったため、修辞学しゅうじがくは、言葉ことばを巧たくみに飾かざって相手あいてを強引ごういんに説得せっとくするテクニックとしてしばしば誤解ごかいされてきた。しかし、レトリックは、有限ゆうげんの言葉ことばで無限むげんの事柄ことがらを表現ひょうげんする可能性かのうせいをもっている。我々われわれの認識にんしきや思考しこうを広ひろげる役割やくわりを果はたしているのだ。

使用しようの境界きょうかい

言葉ことばを効果的こうかてきに用もちいる技法ぎほうの総称そうしょう。比喩ひゆ・倒置とうち・擬人法ぎじんほうなどを含ふくむ。装飾そうしょくに限かぎらない。

用法ようほう

日常にちじょう語ごの「レトリック」は批判ひはん語ごで、「レトリックにすぎない」は中身なかみのない言葉ことばの飾かざりという意味いみになる。評ひょう論文ろんぶんはこの通念つうねんを退しりぞけるところから始はじまることが多おおい。近年きんねんの研究けんきゅうが着目ちゃくもくしたのは、既存きそんの言葉ことばで名なづけられない現実げんじつをあるがままに表現ひょうげんするという創造そうぞう・発見はっけんの機能きのうである。有限ゆうげんの言葉ことばで無限むげんの事柄ことがらを表現ひょうげんし、認識にんしきと思考しこうの幅はばを広ひろげる。読解どっかいでは、この語ごが肯定的こうていてきに使つかわれているか否定的ひていてきに使つかわれているかを最初さいしょに判定はんていする。「修辞しゅうじ」「修辞学しゅうじがく」が訳語やくご。

用例ようれい
  • 言葉ことばは偉大いだいな支配しはい者しゃである。きわめて小ちいさく、まったく目めに見みえない体からだをもちながら、神かみのごとき業ぎょうを成なし遂とげる。恐おそれを鎮しずめ、悲かなしみを取とり除のぞき、喜よろこびをもたらし、憐あわれみを深ふかめることができるのだ。ゴルギアス『ヘレネ頌しょう』(前五世紀ぜんごせいき)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    弁べん論ろん術じゅつの祖そのひとりが、言葉ことばの力ちからを正面しょうめんから讃たたえた一節いっせつである。注目ちゅうもくしたいのは、ゴルギアスがこの文章ぶんしょうをトロイアのヘレネを弁護べんごするために書かいていることだ。国くにを滅ほろぼした女おんなを無罪むざいだと論ろんじてみせる — これ以上いじょうないほど不利ふりな題目だいもくを選えらんだうえで、言葉ことばだけで人ひとの判断はんだんを動うごかせることを実演じつえんした。だから修辞学しゅうじがくは最初さいしょから「巧たくみに飾かざって強引ごういんに説得せっとくする技術ぎじゅつ」という誤解ごかいを背負せおってきた。しかし読よみ返かえすと、ここで数かぞえ上あげられているのは説得せっとくではなく恐おそれ・悲かなしみ・喜よろこび・憐あわれみである。言葉ことばが動うごかすのは論理ろんりより先さきに心こころのほうだ、という発見はっけんのほうが、この一節いっせつの中身なかみである。
  • 力ちからをも入いれずして天地てんちを動うごかし、目めに見みえぬ鬼神おにがみをもあはれと思おもはせ、男女だんじょのなかをも和わらげ、猛たけき武士ぶしの心こころをも慰なぐさむるは歌うたなり。紀き貫之つらゆき『古今和歌集こきんわかしゅう』仮名かな序じょ(905)
    ゴルギアスの一節いっせつと、驚おどろくほどよく似にている。力ちからを使つかわずに天地てんちを動うごかす — 物理ぶつりの力ちからではないものが働はたらくという同おなじ発見はっけんが、千せん年ねんと大陸たいりくを隔へだてて別々べつべつに書かかれた。注目ちゅうもくしたいのは「猛たけき武士ぶしの心こころをも慰なぐさむる」である。武士ぶしは力ちからで従じゅうわせられる相手あいてではない。力ちからで勝かてない相手あいてを、言葉ことばなら動うごかせる。ここに、レトリックが説得せっとくの技術ぎじゅつとしてだけでなく認識にんしきと思考しこうを広ひろげる働はたらきとして捉とらえられる入口いりぐちがある。原げん書しょが「有限ゆうげんの言葉ことばで無限むげんの事柄ことがらを表現ひょうげんする可能性かのうせい」と書かくとき、前提ぜんていになっているのはこの一節いっせつが示しめす言葉ことばの届とどく範囲はんいの広こうさである。
  • レトリックは装飾そうしょくではなく、既存きそんの言葉ことばで名なづけられない現実げんじつを表現ひょうげんする装置そうちである。 評ひょう論文ろんぶんの議論ぎろんはほぼこの一文いちぶんへ向むかう。読解どっかいの第一だいいち歩ほは、この語ごが肯定的こうていてきに使つかわれているか否定的ひていてきに使つかわれているかの判定はんていである。日常にちじょう語ごの「レトリックにすぎない」は批判ひはんだが、評ひょう論文ろんぶんはその通念つうねんを退しりぞけるところから始はじまることが多おおい。否定ひていで読よみ進すすめると、文章ぶんしょうの主張しゅちょうが丸まるごと裏返うらがえる。
  • △彼かれの弁明べんめいはレトリックにすぎず、中身なかみがなかった。 通つうじるが、これは日常にちじょう語ごとしての用法ようほうである。中身なかみの無ない言葉ことばの飾かざり、という意味いみで使つかっている。本来ほんらいのレトリックは比喩ひゆ・倒置とうち・擬人法ぎじんほうなどを含ふくむ技法ぎほうの総称そうしょうで、中身なかみの有無うむとは関係かんけいがない。厳密げんみつに言いえば「詭弁きべん」「言いい逃のがれ」が当あたる。評ひょう論文ろんぶんでこの語ごに出会であったら、日常にちじょう語ごの語ご感かんをいったん外はずす必要ひつようがある。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

関せき 57 メタファー

派生はせい形けい
  • 修辞学しゅうじがく[3]学問がくもんとしての名な。技法ぎほうの目録もくろくであると同時どうじに、言葉ことばが人ひとに働はたらきかける仕組しくみの研究けんきゅうでもある。中世ちゅうせいヨーロッパでは文法ぶんぽう・論理学ろんりがくと並ならぶ基礎きそ学科がっかだった。
  • 修辞的しゅうじてき[0]形容けいようの形かたち。「修辞しゅうじ的てきな問とい」のように技法ぎほうを指さす使つかい方かたと、「修辞しゅうじ的てきにすぎる」のように飾かざりが勝かっていることを咎とがめる使つかい方かたが同居どうきょする。評価ひょうかの向むきは文脈ぶんみゃくで決きまる。
  • レトリカル英語えいご形容詞けいようしをそのまま借かりた形かたち。批評ひひょうやデザインの文章ぶんしょうで使つかわれるが、評ひょう論文ろんぶんの記述きじゅつ語ごとしては定着ていちゃくしていない。訳語やくごを持もっている語ごをあえて原語げんごの形かたちで使つかうとき、そこには訳語やくごの手垢てあかを避さけたいという意図いとがあることが多おおい。
コロケーション
  • レトリックにすぎない通念つうねんの言いい方かた中身なかみがなく飾かざりだけだという批判ひはん。日常にちじょうではこの形かたちが圧倒的あっとうてきに多おおい。評ひょう論文ろんぶんはここから始はじめて、通念つうねんを退しりぞける方向ほうこうへ進すすむことが多おおい。この語ごが出でてきたら、すぐ後うしろに「しかし」が来くるかを見みておくと論ろんの向むきが読よめる。
  • 修辞学しゅうじがく学問がくもんとしての名なレトリックはそのまま学問がくもんの名なでもある。起源きげんは相手あいてを説得せっとくするための弁べん論ろん術じゅつで、古代こだいギリシアの法廷ほうていと民みん会かいで育そだった。誰だれでも発言はつげんできる場ばがあったからこそ生うまれた学問がくもんである点てんは覚おぼえておきたい。力ちからで決きまる社会しゃかいに、説得せっとくの技術ぎじゅつは要いらない。
  • レトリックの創造そうぞう機能きのう近年きんねんの焦点しょうてん既存きそんの言葉ことばで名なづけられない現実げんじつをあるがままに表現ひょうげんする働はたらき。装飾そうしょくでも説得せっとくでもない、第だい三さんの役割やくわりである。有限ゆうげんの語彙ごいで無限むげんの事柄ことがらを言いい表あらわせるのは、語ごの組くみ合あわせ方ほうに自由じゆうがあるからだ。57 の隠喩いんゆは、その自由じゆうをもっとも大胆だいたんに使つかう技法ぎほうにあたる。
  • 修辞しゅうじ疑問ぎもん答こたえを求もとめない問とい「誰だれがそんなことを望のぞむだろうか」— 答こたえを求もとめていない。問といの形かたちをとりながら断定だんていしている。なぜ断定だんていせずに問とうのかといえば、読者どくしゃに自分じぶんで答こたえを出ださせたほうが強つよいからだ。押おしつけられた結論けつろんより、自分じぶんでたどりついた結論けつろんのほうが動うごかない。1-1 の 32 で見みた反はん語ごと同おなじ仕掛しかけである。
格かく中なか

書かき言葉ことば・会話かいわの両方りょうほうで使つかえる。

類るい語ごと差さ
  • 比喩ひゆたとえる技法ぎほうレトリックの一種いっしゅ。レトリックはより広ひろい上位じょうい概念がいねんで、倒置とうちや反復はんぷくも含ふくむ。
  • 弁べん論ろん術じゅつ説得せっとくのための話術わじゅつ修辞学しゅうじがくの起源きげん。相手あいてを動うごかすことが目的もくてきで、表現ひょうげんの美うつくしさは手段しゅだんだった。
  • 文体ぶんたい書かきぶりの全体ぜんたい作品さくひん全体ぜんたいの質しつ。レトリックは個々ここの技法ぎほう。
  • 詭弁きべん筋すじの通とおらない論法ろんぽう中身なかみを欠かいた言いいくるめ。レトリックを否定的ひていてきに使つかうときの言いい換かえだが、本ほん義ぎではない。

ENrhetoric
ZH修辞(修辞, xiūcí)

比喩の四類型形式と対応の決まり方という二つの軸で、シミリ、メタファー、アレゴリー、象徴を分けた図。 語・句の単位 シミリ(直喩) 「彼は歩く辞書のようだ」 「のようだ」がある メタファー(隠喩) 「彼は歩く辞書だ」 「のようだ」がない 作品・全体の単位 アレゴリー(寓意) 物語全体が別の話を語る 対応が一対一で決まる 象徴(シンボル) 具体が抽象を担い続ける 対応が開かれている 縦は単位の大きさ、横は言い切れるかどうか
比喩ひゆの四よん類型るいけい ── 単位たんいと、言いい切きれるかどうか
入試にゅうし文ぶん

「名状めいじょうしがたいもの」が目めの前まえに現あらわれたとき、どう表現ひょうげんしたらよいのか。言いい表あらわすべき言葉ことばがないとき、どう対処たいしょするのか。たとえば美うつくしい山やまの姿すがたを前まえにして、その下したの方ほうをなんと表現ひょうげんしたらよいかと言葉ことばに詰つまる。そのとき人ひとはたとえばメタファーに頼たよることになる。着物きものの裾すそになぞらえて「山やま裾すそ」と呼よぶ。
あるいは机つくえの「脚あし」。机つくえの「脚あし」を表あらわす固有こゆうの言葉ことばがなかったとする。そこで本来ほんらいは人間にんげんや動物どうぶつのそれに使つかわれる「脚あし」をメタファー的てきな意味いみの拡張かくちょうによって物ものに転用てんようすることになる。この種しゅの表現ひょうげん法ほうは目立めだたないけれども、しばしば日常にちじょう生活せいかつで必要ひつようになる。いろいろな工夫くふうがなされ、その一部いちぶは国語こくごに取とり込こまれる。この種しゅの言葉ことばの工夫くふうを伝統的でんとうてきレトリックでは「濫喩らんゆ」と呼よぶが、濫喩らんゆは言語げんご表現ひょうげんの彫琢ちょうたくというレトリックの本来ほんらいの狙ねらいをはみ出だして、もっと基本的きほんてきな言語的げんごてき要請ようせいに応こたえていると言いえようか。これはある語ごが新あたらしい意味いみ(従来じゅうらいの言いい方かたでは「比喩的ひゆてきな意味いみ」)を獲得かくとくするプロセスでもある。

出典しゅってん 野内やない良三りょうぞう『レトリックと認識にんしき』 / 出題しゅつだい 駒澤大学こまざわだいがく・経済学部けいざいがくぶ

読解どっかいのポイント
  • 山やま「裾すそ」 =着物きものの裾すそをメタファーとして転用てんよう
  • 机つくえの「脚あし」 =人間にんげんや動物どうぶつの脚あしをメタファーとして転用てんよう
  • 「裾すそ」「脚あし」が新あたらしい意味いみを獲得かくとく
  • ※濫喩らんゆ=代かわりの言葉ことばを用もちいるレトリックのこと
要約ようやく

メタファーは、既存きそんの言葉ことばではうまく表現ひょうげんできないことを表現ひょうげん可能かのうにする。そして、そのメタファーが日常にちじょう生活せいかつに取とり込こまれると、その語ごの新あたらしい意味いみとして定着ていちゃくする。

語ご法ほうの観察かんさつ

「〜たとする」という仮定かていを挟はさんで、語ごがなかった場合ばあいを想像そうぞうさせる。ここから転用てんようの必然性ひつぜんせいを導みちびいている。

Section 02

テクスト(テキスト)/コンテクスト(コンテキスト)

59

テクスト(テキスト)

テクスト[1]頭高あたまだか型がた

定義ていぎ

言葉ことばによって書かかれたもの。文章ぶんしょう表現ひょうげん。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑59
原げん書しょの解説かいせつ

書かき手てがテクストに込こめたメッセージは、テクストが読よまれる時ときに、読よみ手てによって自由じゆうに解釈かいしゃくされる。このため、テクストの読よみ方かたに「一ひとつだけの正解せいかい」はない。

一方いっぽう、近代きんだいの「作者さくしゃ」「作品さくひん」という概念がいねんは、作者さくしゃの意図いとが正解せいかいとしてまずあって、それが作品さくひんを通つうじて読者どくしゃに伝達でんたつされるという単たん線せん的てき・一方的いっぽうてきな図式ずしきが前提ぜんていとされてきた。「テクスト」は、こうした近代的きんだいてきな「作品さくひん」「作者さくしゃ」という考かんがえ方かたを退しりぞけ、自由じゆうで多様たような解釈かいしゃくを肯定こうていする概念がいねんとして提唱ていしょうされた。

使用しようの境界きょうかい

解釈かいしゃくの対象たいしょうとして置おかれた表現ひょうげん。作者さくしゃの意図いとから切きり離はなして扱あつかう構かまえを含ふくむ。単たんなる「文章ぶんしょう」ではない。

用法ようほう

日本語にほんごでは「テキスト」=教科書きょうかしょという日常にちじょう語ごが強つよいので、評ひょう論文ろんぶんの「テクスト」と読よみ分わける必要ひつようがある。表記ひょうきも揺ゆれるが、批評ひひょう用語ようごとしては「テクスト」が定着ていちゃくしている。要点ようてんは、意味いみがテクストの内側うちがわで完結かんけつしないという主張しゅちょうにある。同おなじ文ぶんでも置おかれた文脈ぶんみゃくが変かわれば意味いみが変かわる。ここから「作者さくしゃの意図いとが唯一ゆいいつの正解せいかいではない」という読よみの複数ふくすう性せいが導みちびかれ、コンテクストとセットで論ろんじられる。

用例ようれい
  • この物語ものがたりは、善悪ぜんあく邪じゃ正せいの論ろんをば、しばらくさしおきて、ただ世よの中なかの物もののあはれを知しるを旨むねとはしたるなり。本居もとおり宣長のりなが『源氏げんじ物語ものがたり玉たまの小櫛おぐし』(1796)
    『源氏げんじ物語ものがたり』は長ながく、仏教ぶっきょうや儒教じゅきょうの教おしえを説とく書しょとして読よまれてきた。光源氏ひかるげんじの恋こいは罪つみであり、その報むくいが描えがかれているのだ、と。宣長のりながはその読よみ方かたを退しりぞけた。注目ちゅうもくしたいのは、彼かれが「作者さくしゃはそう考かんがえていた」とは言いっていないことだ。「この物語ものがたりは……旨むねとはしたるなり」— 主語しゅごは作者さくしゃではなく物語ものがたりである。作者さくしゃの意図いとの詮索せんさくから離はなれて、書かかれたものそのものが何なにをしているかを見みる。「テクスト」という語ごが二十にじゅう世紀せいきに持もち込こんだ構かまえを、宣長のりながは十八じゅうはち世紀せいきの日本にほんで先取さきどりしていた。教訓きょうくんを読よみ取とりろうとする読よみ方かたは、作者さくしゃの意図いとを正解せいかいとして置おく読よみ方かたでもある。
  • ひとり燈ともしびのもとに文ぶんをひろげて、見みぬ世よの人ひとを友ともとするぞ、こよなう慰なぐさむわざなる。吉田兼好よしだけんこう『徒然草つれづれぐさ』第だい十じゅう三さん段だん(1330頃ころ)
    灯あかりの下もとでひとり書物しょもつを広ひろげ、会あったことのない時代じだいの人ひとを友ともとする。ここに読書どくしょという営いとなみの構造こうぞうがそのまま書かかれている。「見みぬ世よの人ひと」— 相手あいてはここにいない。尋たずねることも、確たしかめることもできない。それでも友ともになれる。つまり意味いみは、書かき手てが手渡てわたしてくれるのではなく、読よみ手ての側がわで立たち上あがっている。テクストという概念がいねんが退しりぞけようとした〈作者さくしゃの意図いとが正解せいかいとしてまずあり、それが作品さくひんを通つうじて読者どくしゃに伝つたわる〉という単たん線せん的てきな図式ずしきは、この一文いちぶんの経験けいけんとは合あわない。兼好けんこうが「友とも」と書かいたのが正確せいかくで、友ともは一方いっぽうが話はなし続つづける関係かんけいではない。
  • この文章ぶんしょうをテクストとして読よむなら、作者さくしゃが何なにを意図いとしたかは唯一ゆいいつの正解せいかいではなくなる。 評ひょう論文ろんぶんにおける中心ちゅうしん的てきな主張しゅちょうである。「作者さくしゃの意図いとがどうでもよい」と言いっているのではない。意図いとは複数ふくすうある手てがかりのひとつに格下かくさげされる、ということだ。ここを取とり違ちがえると、「何なにを読よみ取とってもよい」という乱らん暴ぼうな相対そうたい主義しゅぎとして読よんでしまう。1-1 の 26 で見みた相対そうたい化かと同おなじで、唯一ゆいいつの位置いちから降おろすことは、無効むこうにすることではない。
  • ×来週らいしゅうの授業じゅぎょうまでにテクストを買かっておくこと。 教科書きょうかしょの意味いみなら「テキスト」と書かくのがふつうである。日本語にほんごでは「テキスト=教科書きょうかしょ」という日常にちじょう語ごが強つよいので、批評ひひょう用語ようごのほうは「テクスト」と表記ひょうきして読よみ分わける。表記ひょうきの揺ゆれが意味いみの区別くべつを担になっている珍めずらしい例れいで、評ひょう論文ろんぶんで「テクスト」と書かかれていたら、まず解釈かいしゃくの対象たいしょうとしての表現ひょうげんを指さしていると考かんがえてよい。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

関せき 60 コンテクスト(コンテキスト)

コロケーション
  • テクストとして読よむ構かまえの宣言せんげん作者さくしゃの意図いとから切きり離はなして扱あつかうという宣言せんげんである。同おなじ文章ぶんしょうが、作品さくひんとしても読よめるしテクストとしても読よめる。違ちがうのは対象たいしょうではなく、こちらの構かまえだ。1-1 の 9 で見みた対象たいしょう化かがここでも起おきている — 書かかれたものを、書かき手てから切きり離はなして観察かんさつの台だいに載のせている。
  • 作者さくしゃの死し批評ひひょうの合言葉あいことば作者さくしゃを意味いみの保証人ほしょうにんの座ざから降おろす、という主張しゅちょう。作者さくしゃが死しぬと読者どくしゃが生うまれる、という言いい方かたで語かたられる。注意ちゅういしたいのは、これが作者さくしゃを軽かろんじる主張しゅちょうではないことだ。書かかれたものは書かき手ての手てを離はなれて働はたらきはじめる、という事実じじつの記述きじゅつに近ちかい。宣長のりながが源氏げんじを読よみ直なおしたのも、同おなじ事実じじつに立たっていた。
  • テクストの複数ふくすう性せい読よみが増ふえる理由りゆう意味いみがテクストの内側うちがわで完結かんけつしないから、置おかれた文脈ぶんみゃくの数かずだけ読よみが生うまれる。ここが 60 のコンテクストと直結ちょっけつする。「一ひとつだけの正解せいかいはない」という主張しゅちょうは、いい加減かげんでよいという意味いみではない。読よみごとに、どの文脈ぶんみゃくに置おいたかを示しめす責任せきにんが生しょうじる。
  • 間あいだテクスト性せいテクストどうしの糸いとあるテクストが、ほかのテクストの引用いんようと反響はんきょうでできているという見方みかた。本歌取ほんかどりも、パロディも、引用いんようも、この糸いとの上うえにある。作者さくしゃが一いちから作つくったのではなく、既すでにあるものを織おり直なおしたと見みるので、作者さくしゃの位置いちはさらに小ちいさくなる。この教材きょうざいそのものも、その意味いみでは間あいだテクスト的てきである。
格かく中なか

書かき言葉ことば・会話かいわの両方りょうほうで使つかえる。

類るい語ごと差さ
  • 文章ぶんしょう書かかれたもの中立ちゅうりつの語ご。テクストは〈解釈かいしゃくの対象たいしょうとして立たてられたもの〉という視点してんを含ふくむ。
  • 作品さくひん創作そうさくされた成果せいか作者さくしゃに帰属きぞくする。テクストは作者さくしゃから切きり離はなして読よむ態度たいどと結むすびつく。
  • 原典げんてんもとの文献ぶんけん文献学ぶんけんがくの語ご。校訂こうていの対象たいしょうとしての本文ほんぶんを指さす。
  • 言説げんせつ社会しゃかいの中なかで流通りゅうつうする語かたりフーコー以降いこうの語ご。誰だれが語かたりうるかという権力けんりょくの問題もんだいを含ふくむ。テクストは解釈かいしゃくの問題もんだい。

ENtext
ZH文本(テクスト, wénběn)

60

コンテクスト(コンテキスト)

コンテクスト[3]中高なかだか型がた

定義ていぎ

① 一般いっぱんには文脈ぶんみゃくのこと。文章ぶんしょうの流ながれの中なかにある意味いみのつながり具合ぐあい。 ② 1が転てんじて、ある事柄ことがらの背景はいけいやまわりの状況じょうきょうのこと。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑60
原げん書しょの解説かいせつ

テクストは単独たんどくで意味いみをもつのではなく、他ほかの言葉ことばや文ぶんとの関係かんけいの中なかで文脈ぶんみゃく(=コンテクスト)をつくり、その文脈ぶんみゃくの中なかで意味いみをもつ。会話かいわであれば、その言葉ことばが発はっせられた状況じょうきょうや背景はいけいにも依存いぞんする。さらに、歴史れきしや文化ぶんかも大おおきなコンテクストとなる。

使用しようの境界きょうかい

表現ひょうげんの意味いみを決きめる周囲しゅういの条件じょうけん。前後ぜんごの文ぶんだけでなく、場面ばめん・関係かんけい・文化ぶんかも含ふくむ。

用法ようほう

「文脈ぶんみゃく」と訳やくされるが、評ひょう論文ろんぶんでは訳語やくごより原語げんごのほうが広ひろく使つかわれる。理由りゆうは、日本語にほんごの「文脈ぶんみゃく」が文章ぶんしょう内ないの前後関係ぜんごかんけいに読よまれやすいのに対たいし、コンテクストが場面ばめん・人間にんげん関係かんけい・文化ぶんか的てき背景はいけいまで含ふくむためである。異い文化ぶんかコミュニケーション論ろんでは、言葉ことばに依よらず場ばに頼たよる文化ぶんかを「ハイコンテクスト」、言葉ことばで明示めいじする文化ぶんかを「ローコンテクスト」と呼よぶ。読解どっかいでは、同おなじ表現ひょうげんが別べつの意味いみになる例れいが続つづいたら、この語ごが背後はいごにあると考かんがえてよい。

用例ようれい
  • 行いく春はるを近江おうみの人ひとと惜おしみける……尚白しょうはくが難なんに、近江おうみは丹波たんばにも、行いく春はるは行いく歳さいにもふるべしといへり。汝なんじ、いかが聞きき侍はべるや。向井むかい去来きょらい『去来きょらい抄しょう』先師せんし評ひょう(1704頃ころ)
    芭蕉ばしょうの句くに対たいし、尚白しょうはくという俳人はいじんが「近江おうみは丹波たんばでもよい、行いく春はるは行いく歳さいでもよい」と難なんじた。入いれ替かえても句くは成なり立たつ、つまり必然性ひつぜんせいがない、という批判ひはんである。去来きょらいはこれに答こたえて、湖水こすいが朧おぼろにかすむ景色けしきは春はるを惜おしむにふさわしく、土地とちが実際じっさいにそう見みえることを述のべた。芭蕉ばしょうはその答こたえを認みとめている。ここで争あらそわれているのは、語ごそのものの意味いみではなく、語ごが置おかれた場ばが意味いみを支ささえているかどうかだ。「近江おうみ」は地名ちめいでしかない。その地名ちめいが琵琶湖びわこの春はるという場ばに置おかれてはじめて、惜おしむ心こころの器うつわになる。コンテクストとは、入いれ替かえたときに何なにが失うしなわれるかで測はかれるものである。
  • から衣ころもきつつなれにしつましあればはるばるきぬる旅たびをしぞ思おもふ『伊勢いせ物語ものがたり』第だい九きゅう段だん(10世紀じっせいき)
    各かく句くの頭あたまを続つづけると「か・き・つ・は・た」になる。三河みかわの八橋やつはしで、沢さわに咲さく杜若かきつばたを見みた男おとこが、その五ご文字もじを句くの頭あたまに置おいて旅たびの心こころを詠えいめ、と仲間なかまに求もとめられて詠えいんだ歌うたである。この歌うたの意味いみは、語ごの並ならびだけからは半分はんぶんしか出でてこない。都とに妻つまを残のこしてきたこと、東国とうごくへ下くだる途中とちゅうであること、目めの前まえに杜若かきつばたが咲さいていること — これらを知しってはじめて、「なれにし」が着物きものの慣なれと妻つまへの馴染なじみを同時どうじに言いっていることが働はたらきはじめる。原げん書しょのいう〈言葉ことばが発はっせられた状況じょうきょうや背景はいけい〉が、ここでは歌うたの半分はんぶんを担になっている。ちなみにこの歌うたを聞きいて、一行いちぎょうはみな乾飯かれいいの上うえに涙なみだを落おとした。
  • 同おなじ「けっこうです」が、コンテクストによって承諾しょうだくにも辞退じたいにもなる。 日本語にほんごの教科書きょうかしょがよく挙あげる例れいだが、要点ようてんは語ごの意味いみが二ふたつあるのではない点てんにある。「けっこう」は一ひとつの意味いみしか持もっていない。足たりているという状態じょうたいである。足たりているから受うけ取とる、足たりているから要いらない — どちらへ倒たおれるかを決きめているのは場ばのほうだ。多義たぎ(72)とコンテクストの違ちがいがここで見みえる。
  • ×前後ぜんごのコンテクストを読よめば、文章ぶんしょうの背景はいけいが分わかる。 通つうじるが、この使つかい方かたは「文脈ぶんみゃく」の狭せまい意味いみに閉とじている。コンテクストがわざわざ原語げんごのまま使つかわれるのは、日本語にほんごの「文脈ぶんみゃく」が文章ぶんしょう内ないの前後関係ぜんごかんけいに読よまれやすいのに対たいし、場面ばめん・人間にんげん関係かんけい・歴史れきし・文化ぶんかまで含ふくむからである。前後ぜんごだけを指さしたいなら「文脈ぶんみゃく」で足たりる。訳語やくごがあるのに原語げんごが使つかわれるときは、訳語やくごからはみ出だす部分ぶぶんに用ようがある。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

関せき 59 テクスト(テキスト)

コロケーション
  • 文脈ぶんみゃく依存いぞん意味いみの在ありか意味いみが語ごの内側うちがわになく、置おかれた場ばとの関係かんけいにあるという性質せいしつを指さす。この言いい方かたが効きくのは、依存いぞんという語ごが「単独たんどくでは立たてない」ことを含ふくむからだ。68 の差異さいと同おなじ構図こうずで、意味いみはいつも何なにかとの関係かんけいの中なかにしかない。
  • ハイコンテクスト文化ぶんか場ばに預あずける言葉ことばで明示めいじせず、場ばと関係かんけいに意味いみを預あずける文化ぶんか。「察さっする」「空気くうきを読よむ」が要求ようきゅうされる。対たいするローコンテクスト文化ぶんかは言葉ことばで明示めいじする。注意ちゅういしたいのは、どちらが優すぐれているという話はなしではないことだ。共有きょうゆうされた場ばが厚あつければ言葉ことばは短みじかくて済ずみ、薄うすければ言葉ことばを尽つくすほかない。言葉ことばの量りょうは、共有きょうゆうの厚あつさの裏返うらがえしである。
  • コンテクストを共有きょうゆうする通つうじる条件じょうけん送おくり手てと受うけ手てが同おなじ場ばを持もっていなければ、同おなじ語ごが別べつの意味いみになる。63 のコードと重かさなるが、コードが約束事やくそくごとの体系たいけいであるのに対たいし、コンテクストはその場ばかぎりの条件じょうけんを含ふくむ。約束やくそくは共有きょうゆうできるが、その場ばの空気くうきは共有きょうゆうしそこねる — すれ違ちがいの多おおくはここで起おきる。
  • 文脈ぶんみゃくから切きり離はなす批判ひはんの常套じょうとう発言はつげんの一部いちぶだけを取とり出だして別べつの意味いみに読よませるやり口くちである。この語ごがこう使つかわれるとき、前提ぜんていになっているのは意味いみが文脈ぶんみゃくによって決きまるというまさにこの章しょうの主張しゅちょうだ。切きり離はなせば意味いみが変かわるということは、意味いみが語ごの内側うちがわに無なかったことの証明しょうめいでもある。
格かく中なか

書かき言葉ことば・会話かいわの両方りょうほうで使つかえる。

類るい語ごと差さ
  • 文脈ぶんみゃく前後ぜんごのつながり訳語やくご。日本語にほんごの「文脈ぶんみゃく」は文章ぶんしょうの中なかの前後関係ぜんごかんけいに寄よるが、コンテクストは場面ばめんや文化ぶんかまで含ふくむ。
  • 状況じょうきょうそのときの様子ようす出来事できごとの側がわ。コンテクストは意味いみを決きめる枠わくとして働はたらく点てんが違ちがう。
  • 背景はいけい後うしろにある事情じじょう説明せつめいのための補足ほそく。コンテクストは意味いみそのものを左右さゆうする。
  • 前提ぜんてい議論ぎろんの出発点しゅっぱつてん論理ろんりの話はなし。コンテクストは解釈かいしゃくの話はなし。

ENcontext
ZH语境(文脈・場面, yǔjìng)

テクストとコンテクスト同一のテクストが置かれた文脈によって別の意味になることを示した図。 テクスト 「大丈夫です」 コンテクスト A 手伝いましょうか = 辞退 コンテクスト B これで進めますか = 承諾 意味はテクストの内側では完結しない
同おなじテクストが、別べつの意味いみになる
入試にゅうし文ぶん

近代きんだいは久きゅうしきにわたって正ただしい意味いみ、唯一ゆいいつ絶対ぜったいの意味いみに欺あざむかれてきた。ことば、表現ひょうげんは読よむ人ひとひとりひとりのコンテクストの差異さいを反映はんえいして十人じゅうにん十色といろの異い同どうを示しめすのが実際じっさいである。それではしかし、同一どういつのテクストについて無数むすうの異本いほん的てき解釈かいしゃくが生しょうじることになって、収拾しゅうしゅうすべからざる混乱こんらんをまねくおそれがある。その混乱こんらんを未然みぜんに防ふせぐには、ただ書かき手ての意図いとだけを、正真正銘しょうしんしょうめいの意味いみとすればよいという政治せいじが介入かいにゅうした。それを無力むりょくな読者どくしゃは唯々いい諾々だくだくうけ入いれたのである。

出典しゅってん 外山とやま滋比古しげひこ『意味いみの弁べん証しょう法ほう』 / 出題しゅつだい 学習がくしゅう院いん大学だいがく・法学部ほうがくぶ

読解どっかいのポイント
  • 著者ちょしゃ テクスト(言葉ことば・表現ひょうげん)は読よむ人ひとのコンテクストによって受うけ取とる意味いみが異ことなる。
  • 近代きんだい 書かき手ての意図いとだけを正真しょうしんの意味いみとすればよい。 (無数むすうの解釈かいしゃくが生しょうじる混乱こんらんを防ふせぐため)
要約ようやく

言葉ことばや表現ひょうげんから受うけ取とるものは、読よむ人ひとのコンテクストにより異ことなるはずなのに、近代きんだいはそれがまねく混乱こんらんを防ふせぐために、書かき手ての意図いとだけを唯一ゆいいつの正解せいかいとした。

語ご法ほうの観察かんさつ

同おなじ表現ひょうげんを並ならべて意味いみの差さを示しめす構成こうせい。例れいの提示ていじが論証ろんしょうそのものになっている型かた。

Section 03

アナロジー

61

アナロジー

アナロジー[2]中高なかだか型がた

定義ていぎ

類るい推すい・類るい比ひ。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑61
原げん書しょの解説かいせつ

木きにとまる鳥とり、枝えだをめぐる鳥とりの様子ようすを子こどもが見みて、木きは鳥とりにとって「椅子いす」になるのではないかと考かんがえたり、遊あそぶための「庭にわ」だと考かんがえたりしたとする。子こどもは、鳥とりにとっての木きというものを、なじみのある人間にんげんの日常にちじょう世界せかいに置おき換かえたり、想像そうぞうしたりして、理解りかいしようとするわけだ。いずれもアナロジー的てき思考しこうの産物さんぶつである。

なお、アナロジーに基もとづいた表現ひょうげん方法ほうほうを比喩ひゆという。

などの表現ひょうげんができる。

使用しようの境界きょうかい

既知きちの事柄ことがらとの構造こうぞうの似にかたを手てがかりに、未知みちを推おし量はかること。単たんなる「似にている」ではなく、関係かんけいの対応たいおうが要いる。

用法ようほう

「類るい推すい」と訳やくす。要点ようてんは属性ぞくせいではなく関係かんけいが似にていることにある。「原子げんしは太陽系たいようけいのようだ」というとき、大おおきさも材質ざいしつも似にていない。似にているのは〈中心ちゅうしんの周まわりを回まわる〉という関係かんけいである。だからアナロジーは未知みちの領域りょういきを既知きちの構造こうぞうで捉とらえる強力きょうりょくな道具どうぐになるが、同時どうじにずれを見落みおとす危険きけんも伴ともなう。評ひょう論文ろんぶんでは、ある分野ぶんやの説明せつめいを別べつの分野ぶんやに持もち込こむことの功罪こうざいとして論ろんじられることが多おおい。メタファーと隣接りんせつするが、こちらは表現ひょうげんではなく思考しこうの手続てつづきである。

用例ようれい
  • 子貢しこう曰いわくく、詩しに云いふ、「切きりするが如ごとく磋さするが如ごとく、琢たくするが如ごとく磨みがくするが如ごとし」とは、其そのれ斯ここを之のれ謂いふか。子こ曰いわくく、賜たまものや、始はじめて与よに詩しを言げんふべきのみ。諸しょに往おうを告つげて来きを知しる者ものなり。『論語ろんご』学而がくじ篇へん
    子貢しこうが、骨ほねや玉たまを切きり磨みがくさまを詠えいんだ詩しの一句いっくを引ひいて、人ひとが己おのれを磨みがくことにあてはめてみせた。孔子こうしは「これで詩しを語かたれる」と喜よろこび、「往おうを告つげて来きを知しる者ものだ」と評ひょうした。教おしえた一ひとつから、教おしえていない一ひとつを知しる。これがアナロジーの働はたらきである。注目ちゅうもくしたいのは、玉たまと人ひとはまったく似にていないことだ。硬かたさも大おおきさも用途ようとも違ちがう。似にているのは「削けずられて美うつくしくなる」という関係かんけいだけである。原げん書しょのいう〈属性ぞくせいではなく関係かんけいが似にている〉とは、この一点いってんを指さす。そして孔子こうしがこれを最上さいじょうの学まなび方ほうとして褒ほめたのは、関係かんけいの対応たいおうに気きづける者ものだけが、教おしえられていない領域りょういきへ進すすめるからだ。
  • 近ちかくは諸しょを身みに取とり、遠とおくは諸しょを物ものに取とる。是ぜに於おて始はじめて八卦はっけを作つくり、以もって神明しんめいの徳とくに通つうじ、以もって万物ばんぶつの情じょうを類るいす。『易経えききょう』繋辞けいじ下した伝でん
    伏羲ふつぎが八卦はっけを作つくったとき、近ちかくは自分じぶんの身体しんたいから、遠とおくは物ものからかたどった、という。知しらないものを、知しっているものの形かたちで捉とらえる — アナロジーが記号きごうを生うむ場面ばめんがここに書かかれている。「万物ばんぶつの情じょうを類るいす」の「類るいす」がそのまま類るい推すい(アナロジー)である。重要じゅうようなのは、八卦はっけは自然しぜんの写生しゃせいではないことだ。身体しんたいと物ものから借かりた構造こうぞうを、自然しぜんに当あてはめて世界せかいを読よもうとしている。だから当あたることもあれば、外はずれることもある。アナロジーが強力きょうりょくな道具どうぐであると同時どうじに危あやうい道具どうぐでもあるのは、この「借かりてきた構造こうぞうを押おし当あてる」性格せいかくによる。
  • 原子げんしは太陽系たいようけいのようなものだ — これはアナロジーによる理解りかいである。 大おおきさも材質ざいしつも似にていない。似にているのは〈中心ちゅうしんのまわりを回まわる〉という関係かんけいだけだ。この一点いってんの対応たいおうだけで、見みたことのない世界せかいの像ぞうが立たち上あがる。ただしずれも一緒いっしょに持もち込こまれる — 電子でんしは惑星わくせいのように決きまった軌道きどうを回まわってはいない。アナロジーは理解りかいを早はやめるかわりに、早はやすぎる納得なっとくも生うむ。
  • △二ふたつの事件じけんはよく似にているので、アナロジーが成なり立たつ。 似にているだけでは足たりない。アナロジーは、関係かんけいの対応たいおうが要いる。A と B の間あいだにある関係かんけいが、C と D の間あいだにも同おなじ形かたちで見みつかること — その形かたちが示しめせなければ、それは単たんなる「類似るいじ」にすぎない。「似にている」と「同おなじ構造こうぞうをしている」を分わけて考かんがえたい。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

関せき 比喩ひゆ

コロケーション
  • アナロジーによる思考しこう未知みちへの橋はし既知きちの構造こうぞうを借かりて、まだ名なの無ない領域りょういきを捉とらえる手続てつづき。原げん書しょが挙あげる、鳥とりにとっての木きを「椅子いす」や「庭にわ」に置おき換かえて考かんがえる子こどもの例れいがこれにあたる。子こどもが自然しぜんにこれをやることに注目ちゅうもくしたい。アナロジーは特別とくべつな才能さいのうではなく、人ひとが知しらないものに出会であったときの既定きていの動うごき方ほうである。
  • アナロジーの限界げんかい持もち込こまれるずれ借かりてきた構造こうぞうには、借かり元もとの癖くせまで付ついてくる。「社会しゃかいは生いき物ものだ」というアナロジーを使つかえば、部分ぶぶんは全体ぜんたいのために働はたらくべきだという含ふくみがいつのまにか紛まぎれ込こむ。そのアナロジーが何なにを一緒いっしょに運はこび込こんだかを問とうのが、評ひょう論文ろんぶんの常套じょうとう的てきな手てつきである。
  • アナロジーとメタファー思考しこうか表現ひょうげんかアナロジーは推論すいろんの手続てつづき、メタファーは表現ひょうげんの技法ぎほうである。「原子げんしは太陽系たいようけいのようだ」と考かんがえるのがアナロジー、「電子でんしの海うみ」と書かくのがメタファー。重かさなる場面ばめんは多おおいが、目的もくてきが違ちがう — 一方いっぽうは分わかるため、他方たほうは伝つたえるためにある。原げん書しょが「アナロジーに基もとづいた表現ひょうげん方法ほうほうを比喩ひゆという」と書かいているのは、この順序じゅんじょを示しめしている。
  • 類るい推すい解釈かいしゃく法ほうの言葉ことば法律ほうりつの条文じょうぶんに無ない事柄ことがらを、似にた構造こうぞうの条文じょうぶんから導みちびく解釈かいしゃくのしかた。刑けい法ほうでは原則げんそくとして禁きんじられている。類るい推すいで処罰しょばつの範囲はんいを広ひろげられては、何なにが罪つみかがあらかじめ分わからなくなるからだ。アナロジーの力ちからと危あやうさが、制度せいどの中なかでこれほど明確めいかくに線引せんびきされている場ばはほかにない。
格かく中なか

書かき言葉ことば・会話かいわの両方りょうほうで使つかえる。

類るい語ごと差さ
  • 類るい推すい似にた事例じれいから推すいす訳語やくご。同義どうぎに使つかわれる。アナロジーのほうが〈構造こうぞうの対応たいおう〉という含ふくみが強つよい。
  • 比喩ひゆたとえて示しめす表現ひょうげんの技法ぎほう。アナロジーは推論すいろんの方法ほうほう。目的もくてきが違ちがう。
  • 帰納きのう多数たすうの事実じじつから法則ほうそくを導みちびく一般化いっぱんか。アナロジーは一いち対たい一いちの対応たいおうから推すいす。確実かくじつさは低ひくい。
  • モデル単純化たんじゅんかした写うつし対象たいしょうを扱あつかいやすくした図式ずしき。アナロジーはその図式ずしきを別べつの領域りょういきから借かりてくる操作そうさ。

ENanalogy
ZH类比(類比, lèibǐ)

アナロジーの構造太陽系と原子の間に成り立つ、中心の周りを回るという関係の対応を示した図。 既知 太陽系 太陽の周りを惑星が回る 関係が対応 既知 未知 原子 核の周りを電子が回る 似ているのは大きさでも材質でもなく、関係である
似にているのは属性ぞくせいではなく関係かんけいである
入試にゅうし文ぶん

同おなじ人間にんげんがいとなむ機能きのうであっても、身体的しんたいてきな機能きのうのほうは、力学りきがく的てきな機械きかいからのアナロジーで、理解りかいは急速きゅうそくに進すすんだ。ところが、「知ち」のはたらきをつかさどっていると思おもわれる脳のうには、どこにも可か動どう部分ぶぶんがない。したがって、力学りきがく的てきな機械きかいのアナロジーはまったく通用つうようしない。
そこで、二〇にれい世紀せいき前半ぜんはんの心理学しんりがくを支配しはいしていた行動こうどう主義しゅぎは、生理学せいりがく者しゃが発見はっけんした条件じょうけん反射はんしゃの原理げんりをアナロジーとして用もちいた。しかし、ネズミの単純たんじゅんな行動こうどうを相手あいてにしていたあいだこそ、ある程度ていどの成功せいこうをおさめはしたものの、人間にんげんの「知ち」が生うみ出だす複雑ふくざつきわまりない行動こうどうに標的ひょうてきを移うつすやいなや、このアナロジーは壁かべに突つきあたってしまった。
一方いっぽう、行動こうどう主義しゅぎを批判ひはんしたゲシュタルト心理学しんりがくは、電磁場でんじば理論りろんからの類るい推すいで心理学しんりがく的てきな現象げんしょうを説明せつめいしようと試こころみた。だが、このアナロジーも、「知ち」のはたらきを理解りかいするという点てんでは、ついに有効ゆうこうには機能きのうしなかったのである。
壁かべを突つき破やぶったのは、コンピュータの登場とうじょうであった。
コンピュータは、脳のうと同おなじく、その本体ほんたいのどこにも可か動どう部分ぶぶんがない。にもかかわらず、計算けいさんという、まさしく知的ちてきな作業さぎょうをやってのけるのである。

出典しゅってん 大津おおつ由紀ゆき雄編ゆうへん『認知にんち心理学しんりがく3 言語げんご』 / 出題しゅつだい 滋賀県立大学しがけんりつだいがく

読解どっかいのポイント
  • 人間にんげんの身体的しんたいてきな機能きのう =力学りきがく的てきな機械きかいからのアナロジーが可能かのう
  • 人間にんげんの「知ち」をつかさどる脳のう =力学りきがく的てきな機械きかいのアナロジーが適用てきようされない
  • コンピュータ =脳のうと同おなじく可か動どう部分ぶぶんがないが、知的ちてきな作業さぎょうを行おこなう
要約ようやく

人間にんげんの身体的しんたいてき機能きのうと異ことなり、「知ち」をつかさどる脳のうには力学りきがく的てきな機械きかいのアナロジーは適用てきようされない。しかし、コンピュータは、脳のうと同おなじく可か動どう部分ぶぶんがないが知的ちてきな作業さぎょうをすることができ、「知ち」のはたらきを理解りかいするのに有効ゆうこうである。

語ご法ほうの観察かんさつ

「たとえば」で始はじまる例示れいじが長ながく続つづく。抽象的ちゅうしょうてきな定義ていぎを先さきに置おかず、例れいから構造こうぞうを取とり出ださせている。

Section 04

記号きごう

62

記号きごう⚠

きごう[0]平板へいばん型がた

語ご構成こうせい
記きしるす+号ごうしるし・よびな
定義ていぎ

一定いっていの意味いみ内容ないようを表あらわすもの。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑62
原げん書しょの解説かいせつ

言葉ことばに限かぎらず、「意味いみ」をもっているものはすべて記号きごうである。たとえば、信号しんごうの「青あお」は〈進すすめ〉、「赤あか」は〈止とまれ〉を意味いみする記号きごうであり、「おじぎ」も〈挨拶あいさつ・感謝かんしゃ〉を表あらわす記号きごうである。

このように解釈かいしゃくの範囲はんいを拡張かくちょうしていけば、身振みぶり・服ふく装そう・商品しょうひん・建物たてもの・動植物どうしょくぶつ……ありとあらゆるものを記号きごうととらえることができる。これが、記号きごう論ろんが他ほかの学問がくもんに大おおきな影響えいきょうを与あたえることになった理由りゆうの一ひとつである。我々われわれの生活せいかつの中なかにあふれている記号きごうを研究けんきゅうすることによって、言語げんごだけでなく文化ぶんかや社会しゃかいなどについて、多おおくのことがわかる。

たとえば

「タキシード」や「ドレス」という服ふく装そうは、そこがフォーマルな場ばであることを示しめしている。この時とき、「タキシード」「ドレス」は〈フォーマル〉を表あらわす記号きごうとして解釈かいしゃくすることができる。

使用しようの境界きょうかい

それ自体じたいとは別べつの何なにかを意味いみするもの。言葉ことばに限かぎらない。意味いみしているという関係かんけいが成なり立たてば記号きごうになる。

用法ようほう

評ひょう論文ろんぶんの「記号きごう」は言語げんごだけを指ささない。信号しんごうの赤あか、おじぎ、タキシード、建物たてもの、商品しょうひん──意味いみを担になうものはすべて記号きごうとして扱あつかえる。この拡張かくちょうが記号きごう論ろんを文化ぶんか論ろん・社会しゃかい論ろんに接続せつぞくさせた。ここが読解どっかいの急所きゅうしょで、「記号きごう」と出でたら言葉ことばの話はなしに限定げんていせずに読よむ。もう一ひとつの要点ようてんが恣意性しいせいで、音おとと意味いみの結むすびつきに必然的ひつぜんてきな理由りゆうはない。だから同おなじ対象たいしょうが言語げんごごとに違ちがう分わけ方ほうをされる。☑35 恣意しい・☑67 分節ぶんせつと一体いったいで読よむ。

用例ようれい
  • 五ご大だいに皆みな響ひびき有ゆうり、十じゅう界かいに言語げんごを具ぐす。六ろく塵ちり悉ことごとく文字もじなり、法身ほっしんは是ぜれ実相じっそうなり。空海くうかい『声字しょうじ実相じっそう義ぎ』(9世紀きゅうせいき)
    地ち水火すいか風かぜ空そらの五ご大だいすべてに響ひびきがあり、あらゆる世界せかいに言葉ことばがそなわっている。目めに見みえ耳みみに聞きこえるものは、ことごとく文字もじである — そう空海くうかいは言いい切きった。これは原げん書しょのいう記号きごうの拡張かくちょうを、千せん二百にひゃく年前ねんまえに極限きょくげんまで押おし進すすめた言いい方かたである。信号しんごうの赤あかも、おじぎも、服ふく装そうも建物たてものも記号きごうだ、という現代げんだいの記号きごう論ろんの構かまえは、この一節いっせつの射程しゃていのうちに収しゅうまってしまう。注目ちゅうもくしたいのは、空海くうかいが「たとえるなら文字もじだ」とは書かいていないことだ。「悉ことごとく文字もじなり」と断言だんげんしている。世界せかいを読よむという構かまえを取とった瞬間しゅんかんに、世界せかいは読よめるものになる — この転換てんかんそのものが記号きごう論ろんの出発点しゅっぱつてんである。
  • シニフィアンとシニフィエを結むすぶ絆きずなは、恣意的しいてきである。……言語げんご記号きごうは恣意的しいてきである、と我々われわれは言いう。フェルディナン・ド・ソシュール『一般いっぱん言語学げんごがく講義こうぎ』(1916)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    音おとの側がわ(シニフィアン)と意味いみの側がわ(シニフィエ)を結むすぶものに、必然的ひつぜんてきな理由りゆうは何なにもないという宣言せんげんである。「いぬ」があの動物どうぶつを指さす理由りゆうは、どこにも無ない。フランス語ごでは chien、中国語ちゅうごくごでは狗 である。この一文いちぶんが二十にじゅう世紀せいきの思想しそうを動うごかしたのは、恣意的しいてきであるということが、言語げんごごとに世界せかいの切きり分わけ方ほうが違ちがいうることを意味いみするからだ。結むすびつきに理由りゆうが無ないなら、結むすび方ほうは文化ぶんかが決きめている。1-1 の 35 で見みた恣意性しいせいが、ここで言語げんごの全体ぜんたいに及およぶ。そして 67 の分節ぶんせつへまっすぐつながる — 理由りゆうの無ない線引せんびきが、世界せかいの見みえ方かたを決きめている。
  • 信号しんごうの赤あか、おじぎ、喪服もふく。いずれも意味いみを担になうかぎり記号きごうである。 読解どっかいの急所きゅうしょである。評ひょう論文ろんぶんの「記号きごう」は言葉ことばに限かぎらない。意味いみしているという関係かんけいが成なり立たてば、身振みぶりも服ふく装そうも商品しょうひんも建物たてものも記号きごうとして扱あつかえる。この拡張かくちょうがあったからこそ、記号きごう論ろんは文化ぶんか論ろん・社会しゃかい論ろんへ接続せつぞくした。「記号きごう」と出でたら、言葉ことばの話はなしに限定げんていせずに読よむ。
  • ×同おなじ意味いみなら世界中せかいじゅうどの言語げんごも同おなじ記号きごうを使つかうはずだ。 音おとと意味いみの結むすびつきに必然的ひつぜんてきな理由りゆうは無ない。だから言語げんごごとに違ちがってあたりまえで、それどころか切きり分わける範囲はんいまで違ちがう。日本語にほんごの「水みず」と「湯ゆ」は、英語えいごでは温度おんどを問とわず water である。記号きごうが違ちがうのではなく、記号きごうが切きり出だしている範囲はんいが違ちがう — この一段いちだん深ふかいところに 67 の分節ぶんせつがある。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

関せき 63 コード/35 恣意しい

派生はせい形けい
  • 記号論きごうろん[0]「論ろん」が学問がくもんの名なを作つくる。意味いみを担になうものすべてを扱あつかう。言語学げんごがくの一分いっぷん野のとして始はじまりながら、対象たいしょうを限定げんていしなかったために人文学じんぶんがくの共通きょうつう言語げんごになった。
  • 記号化きごうか[0]「化か」が操作そうさを指さす。それ自体じたいであったものが、何なにかを指さすものへ変かわる過程かてい。逆ぎゃくに「脱だつ記号きごう化か」と言いえば、意味いみを剥はがして物ものそのものに戻もどすことを指さす。
  • 記号的きごうてき[0]形容けいようの形かたち。「記号きごう的てきな意味いみしかない」と使つかうと、実質じっしつを伴ともなわないという批判ひはんになる。同おなじ語幹ごかんが、学術がくじゅつ語ごとしては中立ちゅうりつ、評価ひょうか語ごとしては否定ひていに傾かたむく。
  • 符号ふごう[0]近ちかい語ごだが、規約きやくで一いち対たい一いちに決きめられた対応たいおうを指さす。モールス符号ふごう、郵便番号ゆうびんばんごう。記号きごうはもっと広ひろく、慣習かんしゅうや文化ぶんかによる緩ゆるい対応たいおうも含ふくむ。取とり決きめがあるかどうかで分わかれる。
コロケーション
  • 記号きごう論ろん拡張かくちょうの学がく意味いみを担になうものすべてを研究けんきゅうの対象たいしょうにする分野ぶんや。言語学げんごがくから出発しゅっぱつして、文化ぶんか・社会しゃかい・映像えいぞう・建築けんちくへ広ひろがった。広ひろがりえたのは、「意味いみしている」という関係かんけいだけを取とり出だしたからである。対象たいしょうの種類しゅるいを問とわないことが、この学問がくもんの強つよみであり、同時どうじに何なにでも語かたれてしまう危あやうさでもある。
  • 記号きごう化かする意味いみを担になわせる「化か」が付ついて操作そうさになる。それ自体じたいとして在ざいったものを、何なにかを意味いみするものへ変かえる。軍服ぐんぷくは布ぬのであることをやめ、国旗こっきは染そめめた生地きじであることをやめる。注意ちゅういしたいのは、記号きごう化かされたものは傷きずつけられ方ほうまで変かわることだ。旗はたを焼やく行為こういが布ぬのを焼やく行為こういでないのは、この変換へんかんが済すんでいるからである。
  • シニフィアン/シニフィエ記号きごうを二ふたつに割わる音おとの側がわと意味いみの側がわ。ソシュールがこの二ふたつに割わったことが決定的けっていてきだった。割わってはじめて、両者りょうしゃを結むすぶものが何なにかを問とえるようになる。答こたえは「何なにも無ない」— つまり恣意的しいてきである。分わけることによって、分わけられないと思おもわれていた結むすびつきの正体しょうたいが見みえたという点てんで、1-2 の 43 で見みた分析ぶんせきの力ちからの好例こうれいでもある。
  • 記号きごうとしての消費しょうひ社会しゃかい論ろんへの接続せつぞく物ものを必要ひつようのために買かうのではなく、それが意味いみするもののために買かうという見方みかた。同おなじ機能きのうの鞄かばんが、どの記号きごうを担になうかで値段ねだんが変かわる。68 の差異さいと直結ちょっけつしていて、商品しょうひんの価値かちもまた他ほかの商品しょうひんとの差異さいから生うまれる。広告こうこく論ろん・消費しょうひ社会しゃかい論ろんで頻出ひんしゅつする。
格かく硬かた

書かき言葉ことば。会話かいわでは不自然ふしぜん。

類るい語ごと差さ
  • 象徴しょうちょう抽象ちゅうしょうを具体ぐたいで表あらわす記号きごうの一種いっしゅ。象徴しょうちょうは意味いみが汲くみ尽つくせない点てんで、一いち対たい一いちの記号きごうと区別くべつされる。
  • 符号ふごう定さだめられた印しるし規約きやくで決きめられた対応たいおう。記号きごうはもっと広ひろく、慣習かんしゅうや文化ぶんかによる対応たいおうも含ふくむ。
  • 表徴ひょうちょう表ひょうに現あらわれたしるし古ふるい訳語やくご。現在げんざいはあまり使つかわない。
  • シニフィアン/シニフィエ記号きごうの音おとと意味いみソシュールの用語ようご。記号きごうを音おとの側がわと意味いみの側がわに分わけて分析ぶんせきする枠組わくぐみ。

ENsign
ZH符号(記号, fúhào)

日中にっちゅうのズレ

記号きごう論ろんの「記号きごう」は、中国語ちゅうごくごでは 符号ふごう(fúhào)。記号きごう論ろんは 符号ふごう学がく(fúhàoxué)。

中国語ちゅうごくごの 记号(jìhao)は「目印めじるし」「マーク」の意いで、日常にちじょう語ごである。学術がくじゅつ語ごとしては使つかわない。

記号作用と記号の広がりあるものが別の何かを意味する記号作用と、言葉以外にも記号とみなせるものの広がりを示した図。 〈イヌ〉という音声 意味する 四本足のあの動物 この関係が成り立てば、それは記号である。両者の結びつきに必然的な理由はない。 記号とみなせるもの 言葉身振り服装商品 建物動植物信号 この拡張が、記号論を文化と社会の研究へ開いた
記号きごう作用さようと、記号きごうの広ひろがり
入試にゅうし文ぶん

私わたしたちが会話かいわするときは、言語げんごという記号きごう体系たいけい(コード)を使つかって意思いし疎そ通つうを図ずろうとしている。自分じぶんの伝つたえたいこと(メッセージ)を言語化げんごかするのは「記号きごう化か」の一方いっぽう法ほうである。
言語げんごだけが記号きごうではない。国旗こっきや花はななどの「物もの」にも私わたしたちは意味いみを見出みいだしている。例たとえば、ある国くにの国旗こっきを焼やく行為こういはテーブルクロスを焼やくのとはまるで違ちがうし、人ひとに花はなをあげる場合ばあいでもカーネーションと菊きくでは意味いみが違ちがってくる。握手あくしゅや礼れいといった非ひ言語げんご行動こうどうもシンボルである。敬意けいいを表あらわするために礼れいをすることも「記号きごう化か」であり、非ひ言語げんごも立派りっぱな記号きごう体系たいけいである。
これらの記号きごうと意味いみの関係かんけいは「恣意的しいてき」なものだとよく説明せつめいされる。記号きごうがある意味いみを必然的ひつぜんてきに「持もつ」のではなく、私わたしたち人間にんげんが記号きごうに「意味いみ付つけ」を行おこなう、つまり記号きごうを解釈かいしゃく・解読かいどくするということだ。相手あいてに意図いとが伝つたわらないという原因げんいんの一ひとつは、私わたしたちがコミュニケーションで使つかっているシンボルの「恣意性しいせい」によるものとも考かんがえられる。

出典しゅってん 八代やしろ京子きょうこ他ほか著ちょ『異い文化ぶんかトレーニング ボーダレス社会しゃかいを生いきる』所収しょしゅう「コミュニケーションとは何なにか」 / 出題しゅつだい 愛あい知ち教育きょういく大学だいがく・教育学きょういくがく部ぶ

読解どっかいのポイント
〈記号―意味〉の結びつき
=恣意的(意味付け・解釈・解読)
↓ 記号を使ったコミュニケーション
相手に意図が伝わらない
要約ようやく

私わたしたちはさまざまな記号きごうを用もちいて意思いし疎そ通つうを図ずるが、記号きごうと意味いみの関係かんけいは恣意的しいてきであるため、自分じぶんの意図いとが相手あいてに伝つたわらないということがある。

語ご法ほうの観察かんさつ

「〜と言いえよう」「〜と考かんがえられる」で段階的だんかいてきに適用範囲てきようはんいを広ひろげる。拡張かくちょうの手てつきが文体ぶんたいに出でている。

Section 05

コード

63

コード

コード[1]頭高あたまだか型がた

定義ていぎ

特定とくていの文化ぶんかの中なかでの、規則きそくや慣例かんれい。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑63
原げん書しょの解説かいせつ

コードは暗号あんごうや符号ふごうなどを意味いみする場合ばあいもあるが、入試にゅうし現代げんだい文ぶんでは、文化ぶんか的てきな意味いみで用もちいられることが多おおい。

我々われわれの行動こうどうや態度たいどには我々われわれが存在そんざいする社会しゃかいの文化ぶんかに規定きていされた一定いっていのルールがあるはずで、国くにや地域ちいきによって異ことなる伝統でんとうや習俗しゅうぞく、さらに法律ほうりつも道徳どうとくも宗教しゅうきょうも、人間にんげんの行動こうどうや考かんがえを拘束こうそくするコードとなる。

たとえば

手話しゅわや手旗てばた信号しんごうの規則きそくは、〈コミュニケーションのためのコード〉である。一方いっぽう、レストランやホテルで決きめられているフォーマルな衣装いしょうや、国くにや地域ちいきの慣習かんしゅうに従したがった結婚けっこん式しき・葬儀そうぎの服ふく装そうは、〈ドレスコード〉とよばれている。

使用しようの境界きょうかい

記号きごうと意味いみを結むすびつける約束事やくそくごとの体系たいけい。共有きょうゆうされて初はじめて働はたらく。個人こじんが勝手かってに決きめたものはコードではない。

用法ようほう

日常にちじょう語ごでは「規約きやく」「暗号あんごう」「番号ばんごう」の意いで使つかうが、記号きごう論ろんの「コード」は記号きごうを意味いみに翻訳ほんやくする約束事やくそくごとを指さす。同おなじ黒くろい服ふくが、葬儀そうぎでは喪も、パーティーでは正せい装そうになるのはコードが違ちがうからである。要点ようてんは共有きょうゆうにあり、送おくり手てと受うけ手てが同おなじコードを持もっていなければ意味いみは成立せいりつしない。異い文化ぶんか間かんの齟齬そごはコードの不一致ふいっちとして説明せつめいされる。原げん書しょがコードを記号きごう・制度せいど・規範きはんと関連かんれんづけているのは、コードが社会的しゃかいてきに維持いじされるものだからである。

用例ようれい
  • 境さかいに入はいりては禁きんを問といひ、国くにに入はいりては俗ぞくを問といひ、門もんに入はいりては諱いみなを問といふ。『礼記らいき』曲きょく礼れい上じょう
    国境こっきょうを越こえたらまず禁忌きんきを尋たずね、都とに入はいったら習俗しゅうぞくを尋たずね、人ひとの家いえの門もんをくぐったら口くちにしてはならない名なを尋たずねよ、という。ここに書かかれているのは礼儀れいぎ作法さほうではない。コードは土地とちごとに違ちがい、知しらなければ意味いみを取とり違ちがえるという認識にんしきである。注目ちゅうもくしたいのは、三さん段だんが広ひろい場ばから狭せまい場ばへ降おりていくことだ。国くに、都と、家いえ。それぞれの層そうに別々べつべつのコードがあり、重かさなり合あっている。同おなじ振ふる舞まいが、どの層そうのコードで読よまれるかで意味いみを変かえる。異い文化ぶんか間かんの齟齬そごがコードの不一致ふいっちとして説明せつめいされるのは、この重じゅう層そうのどこかがずれるからである。
  • 君子くんしは紺緅を以もって飾かざらず。紅紫こうしを以もって褻服せっぷくと為いさず。……羔裘こうきゅう玄冠げんかんしては以もって弔ちょうせず。『論語ろんご』郷党きょうとう篇へん
    孔子こうしの身みなりを弟子でしたちが記録きろくした一段いちだんである。紺こんと赤茶あかちゃで襟えりや袖そでを飾かざらない、紅くれないや紫むらさきを普段着ふだんぎにしない、黒くろい羊裘ようきゅうに黒くろい冠かんむりでは弔問ちょうもんに行いかない。一見いっけんすると細こまかすぎる決きまりごとだが、これはそのまま服ふく装そうのコードである。色いろそのものに意味いみは無ない。その社会しゃかいがその色いろに意味いみを割わり当あてているから、間違まちがえれば失しつ礼れいになる。喪もの色いろが白しろの文化ぶんかと黒くろの文化ぶんかがあるのと同おなじことだ。そして重要じゅうようなのは、孔子こうしはこの規則きそくを守まもっているのであって、作つくっているのではない点てんである。コードは個人こじんが決きめられない。共有きょうゆうされているからこそ、意味いみが成立せいりつする。
  • 同おなじ黒くろい服ふくが、葬儀そうぎでは喪も、パーティーでは正せい装そうになる。コードが違ちがうからである。 記号きごう論ろん的てきな用法ようほうの典型てんけいである。服ふくが変かわったのではなく、読よむ枠わくが変かわった。要点ようてんは共有きょうゆうにあって、送おくり手てと受うけ手てが同おなじコードを持もっていなければ意味いみは成立せいりつしない。異い文化ぶんか間かんの齟齬そごは、コードの不一致ふいっちとして説明せつめいされる。
  • △校こう則そくというコードを破やぶって叱しかられた。 守まもる守まもらないの話はなしなら「規則きそく」「規範きはん」である。コードは記号きごうを意味いみに翻訳ほんやくする約束事やくそくごとで、破やぶるものではなく使つかうものだ。黒くろい服ふくのコードを「破やぶる」ことはできない。別べつのコードで読よませることができるだけである。当為とういを含ふくむか含ふくまないかで、規範きはんとコードは分わかれる。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

関せき 62 記号きごう/制度せいど/規範きはん

コロケーション
  • 文化ぶんか的てきコード共有きょうゆうの範囲はんい国くにや地域ちいきごとの伝統でんとう・習俗しゅうぞく、さらに法律ほうりつも道徳どうとくも宗教しゅうきょうも、行動こうどうと考かんがえを枠わくづけるコードとして働はたらく。注意ちゅういしたいのは、その内側うちがわにいる者ものには枠わくが見みえないことだ。1-2 の 48 で見みたパラダイム、1-1 の 14 で見みた自明じめい性せいと同おなじ構造こうぞうで、外そとに出でるか、外そとから来きた者ものに出会であうまでコードの存在そんざいに気きづかない。
  • コードを共有きょうゆうする通信つうしんの条件じょうけん送おくり手てと受うけ手てが同おなじ翻訳ほんやく規則きそくを持もっていなければ、記号きごうは届とどいても意味いみは届とどかない。暗号あんごうの比喩ひゆがここで効きく — 鍵かぎを持もたない者ものには、暗号あんごう文ぶんはただの文字もじ列れつである。意味いみは記号きごうの中なかにではなく、記号きごうと鍵かぎの組くみ合あわせの中なかにある。
  • コードの切きり替かえ場ばに応おうじて同おなじ人ひとが、家庭かていと職場しょくばと友人ゆうじんの間あいだで別べつのコードを使つかい分わける。言葉ことばづかいも服ふく装そうも態度たいども変かわる。これを二枚舌にまいじたと呼よばないのは、どのコードで読よまれる場ばかを双方そうほうが了りょう解かいしているからだ。了りょう解かいが食くい違ちがったとき、はじめて「使つかい分わけ」は「不誠実ふせいじつ」に見みえはじめる。
  • コードとコンテクスト体系たいけいか、その場ばかコードはあらかじめ共有きょうゆうされた約束事やくそくごとの体系たいけい、コンテクストはその場ばかぎりの条件じょうけん。喪服もふくが喪もを意味いみするのはコード、その人ひとが今日きょうなぜ喪服もふくなのかはコンテクストが決きめる。持もち歩あるけるのがコード、その場ばに置おいてくるほかないのがコンテクストと考かんがえると分わけやすい。
格かく中なか

書かき言葉ことば・会話かいわの両方りょうほうで使つかえる。

類るい語ごと差さ
  • 規則きそく従したがうべき定さだめ行為こういを縛しばる。コードは意味いみを成なり立たたせる枠わくで、守まもる守まもらないの話はなしではない。
  • 制度せいど社会しゃかいに定着ていちゃくしたしくみより大おおきく、組織そしきや法ほうを含ふくむ。コードは解読かいどくの鍵かぎという側面そくめんが強つよい。
  • 規範きはんこうあるべきという基準きじゅん当為とういを含ふくむ。コードは記述きじゅつ的てきで、当為とういを含ふくまない。
  • 文法ぶんぽう言語げんごの組くみ立たての規則きそく言語げんごに限かぎる。コードは服ふく装そう・作法さほう・映像えいぞうなど非ひ言語げんごにも及およぶ。

ENcode
ZH符码(コード, fúmǎ)

コードの働き同じ記号が異なるコードのもとで別の意味になることを、黒い服の例で示した図。 黒い服 葬儀のコード 式典のコード = 喪 = 正装 送り手と受け手が同じコードを持たなければ、意味は成立しない
同おなじ記号きごうが、コードによって別べつの意味いみになる
入試にゅうし文ぶん

ある社会しゃかいAと他ほかの社会しゃかいBとの差異さいは、この時とき、それぞれの社会しゃかいにおける行為こういと関係かんけいを意味いみづけるコードの差異さいによって与あたえられる。このようなコードの例れいとして、もっとも分わかりやすいものは近代きんだいにおける実定法じっていほうであろう。異ことなる法ほうに服ふくする集団しゅうだんは、法ほうという共同きょうどうの行為こういと関係かんけいの規則きそくに関せきして異ことなる社会しゃかいを構成こうせいしている。
社会しゃかいの「内部ないぶ」と「外部がいぶ」とは、同一どういつの意味いみに媒介ばいかいされた行為こういと関係かんけいの体系たいけいを受うけいれている領域りょういきとそうでない領域りょういきによって、差異さいづけられるのである。
ただし、人ひとびとの行為こういや関係かんけいを秩序ちつじょづけるコードは多様たようなので、たとえば法ほうというコードに関せきしては異ことなる社会しゃかい――たとえば国家こっか――に帰属きぞくする人ひとびとも、市場しじょう経済けいざいという別べつのコードに関せきしては同一どういつの社会しゃかい――国際的こくさいてきな市場しじょう経済けいざい社会しゃかい――に属ぞくしているということが、日常的にちじょうてきに生しょうじうる。人ひとびとの社会しゃかいへの帰属きぞくは多元的たげんてきであり、したがって人間にんげんにとっての社会しゃかいの広ひろがりもまた多元的たげんてきなのだ。

出典しゅってん 若林わかばやし幹夫みきお『地図ちずの想像力そうぞうりょく』 / 出題しゅつだい 一橋大学ひとつばしだいがく

読解どっかいのポイント
  • ある社会しゃかいAと他ほかの社会しゃかいBとの差異さい =社会しゃかいにおける行為こういと関係かんけいを意味いみづけるコードの差異さい 例れい:「法ほう」
  • コードは多様たようなので、人ひとびとの社会しゃかいへの帰属きぞくや社会しゃかいの広ひろがりも多元的たげんてき
要約ようやく

ある社会しゃかいと他ほかの社会しゃかいとの差異さいは、法ほうのような、社会しゃかいにおける行為こういと関係かんけいを意味いみづけるコードの差異さいによって与あたえられる。こうしたコードは多様たようであるため、人ひとびとの社会しゃかいへの帰属きぞくや社会しゃかいの広ひろがりも多元的たげんてきである。

語ご法ほうの観察かんさつ

定義ていぎを述のべたあと「たとえば」で場面ばめんを変かえて反復はんぷくする。同一どういつの記号きごうが別べつの意味いみになることを実演じつえんしている。

Section 06

象徴しょうちょう(シンボル)/表象ひょうしょう

64

象徴(シンボル)しょうちょう

しょうちょう[0]平板へいばん型がた

語ご構成こうせい
象ぞうかたち・すがた+徴しるししるし・きざし
定義ていぎ

抽象的ちゅうしょうてきな事柄ことがらを、具体的ぐたいてきで理解りかいしやすい形かたちで表あらわすこと。また、その表現ひょうげんに用もちいられたもの。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑64
原げん書しょの解説かいせつ

たとえば、「平和へいわ」は目めに見みえない抽象的ちゅうしょうてきな概念がいねんだが、その平和へいわのイメージを「白しろいハト」で表あらわすとわかりやすい。これが象徴しょうちょうである。

また、象徴しょうちょうするものとされるものとの間あいだには、本物ほんものの「山やま」と漢字かんじの〈山やま〉というような形かたちの類似るいじも、「火ひ」と「煙けむり」のような因果いんが的てきなつながりもない。

使用しようの境界きょうかい

抽象的ちゅうしょうてきなものを具体的ぐたいてきなもので表あらわすこと。意味いみが一ひとつに決きまらず、汲くみ尽つくせないことを含ふくむ。

用法ようほう

ハトが平和へいわを、鳩はとが反はん戦せんを、というように、具体ぐたい物ぶつが抽象ちゅうしょうを担になう関係かんけいである。要点ようてんは、その対応たいおうが説明せつめいし尽つくせない点てんにある。アレゴリーなら「この人物じんぶつは正義せいぎを表あらわす」と一いち対たい一いちで言いえるが、象徴しょうちょうは言いい切きれない残のこりを持もつ。だから象徴しょうちょうは解釈かいしゃくを呼よび込こみ、文学ぶんがく・宗教しゅうきょう・政治せいじで強つよく働はたらく。日本にほん国こく憲法けんぽうの「日本にほん国民こくみん統合とうごうの象徴しょうちょう」もこの語ごで、権力けんりょくを持もたずに意味いみだけを担になう位置いちを指さしている。「象徴的しょうちょうてきな出来事できごと」は、その出来事できごとが時代じだい全体ぜんたいを映うつしているという評価ひょうか語ご。

用例ようれい
  • 自然しぜんは一ひとつの神殿しんでん。その生いきた柱はしらはときおり定ていかならぬ言葉ことばを洩もらす。人ひとはそこを象徴しょうちょうの森もりを通とおって行いき、森もりは親したしげな眼め差さしで人ひとを見みつめる。シャルル・ボードレール「万物ばんぶつ照応しょうおう」(『悪あくの華はな』1857)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    象徴しょうちょうという語ごに、それまで無なかった重おもさを与あたえた四よん行ぎょうである。注目ちゅうもくしたいのは「定ていかならぬ言葉ことば」という一句いっくだ。柱はしらは語かたりかけてくるが、何なにを言いっているかは定さだまらない。これが象徴しょうちょうの性格せいかくである。アレゴリーなら「この柱はしらは正義せいぎを表あらわす」と言いい切きれる。象徴しょうちょうは言いい切きれない。言いい切きれないまま、確たしかに何なにかを指さしている。そして「森もり」という語ごが効きいている — 象徴しょうちょうは一本いっぽんずつ立たっているのではなく、互たがいに響ひびき合あって一いち面めんをなしている。原げん書しょのいう〈意味いみが汲くみ尽つくせない〉とは、この響ひびき合あいのことだと読よめる。
  • 天皇てんのうは、日本にほん国こくの象徴しょうちょうであり日本にほん国民こくみん統合とうごうの象徴しょうちょうであつて、この地位ちいは、主権しゅけんの存ありする日本にほん国民こくみんの総そう意いに基もとく。日本にほん国こく憲法けんぽう 第一だいいち条じょう(1946)
    権力けんりょくを持もたずに意味いみだけを担になう位置いちを「象徴しょうちょう」の一語いちごで定さだめた条文じょうぶんである。注目ちゅうもくしたいのは、この語ごが何なにをするかではなく何なにであるかを述のべている点てんだ。権けん能のうを列挙れっきょすれば、それは職務しょくむの規定きていになる。象徴しょうちょうと書かいた瞬間しゅんかん、意味いみを担になうという以外いがいの内容ないようがなくなる。そして象徴しょうちょうの性質せいしつ上じょう、その意味いみは一ひとつに決きまらない。何なにを象徴しょうちょうしていると読よむかは、読よむ側がわに開ひらかれてしまう — この条文じょうぶんをめぐる解釈かいしゃくが戦後せんごずっと続つづいてきた理由りゆうが、語ごの選択せんたくそのものに埋うめ込こまれている。66 のアレゴリーであれば、こうはならない。
  • 白しろいハトが平和へいわを象徴しょうちょうする。だがなぜハトなのかは、説明せつめいし尽つくせない。 原げん書しょの例れいだが、「説明せつめいし尽つくせない」ことが要点ようてんである。本物ほんものの山やまと漢字かんじの〈山やま〉のような形かたちの類似るいじも、火ひと煙けむりのような因果いんがのつながりも無ない。それでも結むすびついている。この説明せつめいのつかなさが解釈かいしゃくを呼よび込こむので、象徴しょうちょうは文学ぶんがく・宗教しゅうきょう・政治せいじで強つよく働はたらく。
  • ×この人物じんぶつは正義せいぎを象徴しょうちょうしており、対応たいおうは一いち対たい一いちで決きまっている。 一いち対たい一いちで決きまっているなら、それは「アレゴリー(寓意ぐうい)」である。象徴しょうちょうは言いい切きれない残のこりを持もつ。「これはこれを表あらわす」と言いえてしまったら、解釈かいしゃくの余地よちは閉とじる。開ひらいているか閉とじているか — この一点いってんが二に語ごを分わける、そして設問せつもんになりやすい。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

関せき 57 メタファー/66 アレゴリー(寓意ぐうい)

派生はせい形けい
  • 象徴的しょうちょうてき[0]もっとも多おおい形かたち。「象徴的しょうちょうてきな出来事できごと」のように、それ以上いじょうのものを指さしているという評価ひょうかを伝つたえる。何なにの象徴しょうちょうかを添そえないと空そら回まわりする。
  • 象徴性しょうちょうせい[0]性質せいしつとして取とり出だす形かたち。「象徴しょうちょう性せいを帯おびる」「象徴しょうちょう性せいが強つよい」と程度ていどで論ろんじられる。一いち対たい一いちの対応たいおうから遠とおいほど象徴しょうちょう性せいは高たかい、という測はかり方ほうになる。
  • 象徴主義しょうちょうしゅぎ[0]文学ぶんがく・芸術げいじゅつの運動うんどう名めい。暗示あんじを方法ほうほうの中心ちゅうしんに据すえた。「主義しゅぎ」が付つくと、一ひとつの技法ぎほうが制作せいさく全体ぜんたいの原理げんりへ格かく上あげされる — 1-1 の 26、1-2 の 43 と同おなじ働はたらきである。
コロケーション
  • 象徴的しょうちょうてきな出来事できごと時代じだいを映うつす評価ひょうかその出来事できごとが時代じだい全体ぜんたいを映うつしているという評価ひょうか語ご。一ひとつの事件じけんが、それ以上いじょうのものを指さしていると言いっている。注意ちゅういしたいのは、何なにを映うつしているかは書かき手てが決きめていることだ。だからこの語ごのあとには、必かならず「何なにの象徴しょうちょうか」の説明せつめいが要いる。説明せつめいの無ない「象徴的しょうちょうてきだ」は、重々おもおもしく響ひびくだけで何なにも言いっていない。
  • 国家こっかの象徴しょうちょう力ちからを持もたない中心ちゅうしん権力けんりょくではなく意味いみを担になう位置いち。興味深きょうみぶかいのは、力ちからを持もたないことが弱よわさではなく条件じょうけんになっている点てんだ。力ちからを振ふるえば、その行為こういが評価ひょうかの対象たいしょうになる。何なにもしないことによってのみ、誰だれの解釈かいしゃくも受うけ入いれる器うつわでいられる。1-1 の 10 で見みた権威けんいと権力けんりょくの分離ぶんりが、ここで制度せいどの設計せっけいとして現あらわれている。
  • 象徴しょうちょう主義しゅぎ文学ぶんがくの運動うんどう十九じゅうきゅう世紀せいき後半こうはんのフランスに始はじまる。言いい当あてるのではなく暗示あんじすることを詩しの中心ちゅうしんに据すえた。説明せつめいしてしまえば読者どくしゃの仕事しごとがなくなる、という考かんがえ方かたである。日本にほんでは上田敏うえだびんの訳やく詩し集しゅう『海潮音かいちょうおん』を通つうじて広こうまり、近代きんだい詩しの出発点しゅっぱつてんになった。象徴しょうちょうという漢語かんごがこの重おもさを帯おびたのも、この経路けいろによる。
  • 象徴しょうちょうとアレゴリー開ひらくか閉とじるか対応たいおうが開ひらかれているのが象徴しょうちょう、決きまっているのがアレゴリー。この差さは優劣ゆうれつではなく、目的もくてきの差さである。アレゴリーは伝つたえるために閉とじ、象徴しょうちょうは考かんがえさせるために開ひらく。教訓きょうくんを届とどけたいならアレゴリー、汲くみ尽つくせなさを残のこしたいなら象徴しょうちょうを選えらぶ。66 と対たいで読よみたい。
格かく中なか

書かき言葉ことば・会話かいわの両方りょうほうで使つかえる。

類るい語ごと差さ
  • 記号きごう意味いみを担になうもの一般いっぱん上位じょうい概念がいねん。象徴しょうちょうは記号きごうのうち、意味いみが一意いちいに定さだまらないもの。
  • メタファー類似るいじによる置おき換かえ語ごや句くの単位たんいで、置おき換かえが効きく。象徴しょうちょうは置おき換かえても意味いみが残のこる。
  • アレゴリー一いち対たい一いちで対応たいおうする寓意ぐうい対応たいおうが決きまっている。象徴しょうちょうは対応たいおうが開ひらかれている。この差さが要点ようてん。
  • 表象ひょうしょう心こころに思おもい浮うかぶ像ぞう内側うちがわの像ぞう。象徴しょうちょうは外そとにあるものが内側うちがわの何なにかを指さす関係かんけい。

ENsymbol
ZH象征(象徴, xiàngzhēng)

65

表象ひょうしょう⚠

ひょうしょう[0]平板へいばん型がた

語ご構成こうせい
表ひょうあらわす・おもて+象ぞうかたち・すがた
定義ていぎ

① 意識いしきの中なかに現あらわれる像ぞう。イメージ。 ② 記号きごうの意味いみ内容ないようのこと。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑65
原げん書しょの解説かいせつ

普段ふだん聞ききなれない言葉ことばだが、ほとんどの評ひょう論文ろんぶんではイメージという語ごに置おき換かえて理解りかいすればよい。たとえば「知覚ちかく表象ひょうしょう」は、人間にんげんが知覚ちかくしているイメージのことだ。

ただし、右みぎの例れい文ぶんのように、最近さいきんでは〈記号きごうの意味いみ内容ないようを表あらわす〉という意いで用もちいることもある。これは、`representation` の訳語やくごである〈再現さいげん・代行だいこう〉という意いでの表象ひょうしょうの使つかい方かたであるが、「……を表あらわす(もの)」と理解りかいしておこう。

使用しようの境界きょうかい

心こころに思おもい浮うかべられた像ぞう。外そとにある物ものそのものではなく、意識いしきの側がわに立たち現あらわれたものを指さす。

用法ようほう

二ふたつの層そうで使つかわれる。①哲学てつがく・心理学しんりがくで心こころに思おもい浮うかべられた像ぞう(☑23 観念かんねんと隣接りんせつ)。②文化ぶんか研究けんきゅうである対象たいしょうがどう描えがかれてきたか(「他者たしゃの表象ひょうしょう」「女性じょせいの表象ひょうしょう」)。②では、描えがき方ほうが対象たいしょうを作つくり出だすという批判的ひはんてきな含ふくみが強つよく、権力けんりょくの問題もんだいと結むすびつく。「表象ひょうしょう文化ぶんか論ろん」という学科がっか名めいもこの層そうにある。日常にちじょう語ごではほとんど使つかわないので、出でてきたらどちらの層そうかを文脈ぶんみゃくで判定はんていする。中国語ちゅうごくごの「表象ひょうしょう」とは意味いみがずれるので注意ちゅういを要ようする。

用例ようれい
  • 囚人しゅうじんたちは、洞窟どうくつの奥おくの壁かべだけを見みて一生いっしょうを過すごす。彼かれらの背後はいごで運はこばれる物ものの影かげが壁かべに映うつるのだが、彼かれらはその影かげこそが実在じつざいだと思おもっている。プラトン『国家こっか』第だい七なな巻かん・洞窟どうくつの比喩ひゆ(前四世紀ぜんよんせいき)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    囚人しゅうじんが見みているのは物ものではなく、物ものの影かげである。この影かげが表象ひょうしょうにあたる。注目ちゅうもくしたいのは、囚人しゅうじんが影かげを影かげとして見みていないことだ。影かげであることに気きづいていれば、背後はいごを振ふり返かえることもできる。気きづいていないから、影かげが世界せかいのすべてになる。表象ひょうしょうという語ごが認識論にんしきろんの枠組わくぐみを背負せおうのはここで、私わたしたちが接せっしているのは外そとの物ものそのものではなく、意識いしきの側がわに立たち現あらわれた像ぞうであるという主張しゅちょうを担になう。①の用法ようほう — 心こころに思おもい浮うかべられた像ぞう — がなぜ重おもい意味いみを持もつのかは、この比喩ひゆに立たち返かえると分わかる。像ぞうであることを忘わすれれば、像ぞうは世界せかいになってしまう。
  • 昔者むかし、荘周そうしゅう夢ゆめに胡こ蝶ちょうと為つくる。栩栩くく然さとして胡こ蝶ちょうなり。……俄然がぜんとして覚さとしむれば、則そくち蘧蘧然として周しゅうなり。知しらず、周しゅうの夢ゆめに胡こ蝶ちょうと為なれるか、胡こ蝶ちょうの夢ゆめに周しゅうと為なれるかを。『荘子そうし』斉せい物ぶつ論ろん篇へん
    夢ゆめのなかで蝶ちょうになり、目覚めざめてみれば自分じぶんは荘周そうしゅうだった。では荘周そうしゅうが蝶ちょうの夢ゆめを見みたのか、蝶ちょうが荘周そうしゅうの夢ゆめを見みているのか。ここで問とわれているのは、どちらが像ぞうでどちらが実物じつぶつかを内側うちがわから判定はんていできるかである。洞窟どうくつの囚人しゅうじんには、影かげの外そとへ出でる道みちが示しめされていた。荘周そうしゅうには無ない。蝶ちょうの側がわに立たっても荘周そうしゅうの側がわに立たっても、そこに立たっている当人とうにんには自分じぶんの像ぞうしか見みえないからだ。表象ひょうしょうを疑うたがうことはできるが、表象ひょうしょうの外そとへ出でて確たしかめることはできない — この行いき止どまりが、②の用法ようほう(ある対象たいしょうがどう描えがかれてきたか)が批判ひはんの語ごとして力ちからを持もつ理由りゆうでもある。描えがき方ほうを離はなれて対象たいしょうそのものを見みることは、そもそもできないのだから。
  • 「他者たしゃの表象ひょうしょう」を問とうとき、描えがき方ほうそのものが対象たいしょうを作つくり出だしている点てんが主題しゅだいになる。 ②の用法ようほうである。文化ぶんか研究けんきゅうで「女性じょせいの表象ひょうしょう」「東洋とうようの表象ひょうしょう」と言いわれるときの表象ひょうしょうは、心こころの中なかの像ぞうではなく、社会しゃかいに流通りゅうつうする描えがかれ方ほうを指さす。含ふくみは批判的ひはんてきで、描えがかれ方ほうが繰くり返かえされるうちに、それが対象たいしょうの実像じつぞうとして通用つうようしはじめる。1-1 の 19 の虚構きょこう、20 のイデオロギーと同おなじ問題もんだい圏けんにある。
  • ×彼かれの頭あたまの中なかの表象ひょうしょうは、正ただしいか間違まちがっているかを外そとから確たしかめられる。 確たしかめようとする側がわもまた、自分じぶんの表象ひょうしょうを通とおしてしか対象たいしょうに触ふれられない。ここが表象ひょうしょうという語ごの難所なんしょである。「像ぞうが正ただしいか」を問とうには、像ぞうを離はなれて物ものそのものを見みる位置いちが要いるが、その位置いちは原理げんり的てきに取とれない。だからこの語ごは認識論にんしきろんの枠組わくぐみを背負せおう — 日常にちじょう語ごの「イメージ」で置おき換かえると、この重おもみが消きえる。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

関せき 23 観念かんねん

派生はせい形けい
  • 表象的ひょうしょうてき[0]使用しよう頻度ひんどは高たかくない。「表象ひょうしょう的てきなレベルでは」のように、実体じったいではなく像ぞうの層そうの話はなしだと断ことわるときに使つかう。
  • 表象作用ひょうしょうさよう[0]「作用さよう」が付ついて働はたらきのほうを指さす。表象ひょうしょうという結果けっかではなく、像ぞうを立たち上あげる過程かていを問題もんだいにする。哲学てつがく・心理学しんりがくの文脈ぶんみゃくで用もちいられる。
  • 表象文化論ひょうしょうぶんかろん[0]学科がっか・分野ぶんやの名な。ジャンルではなく働はたらきで対象たいしょうを束たばねたことが要点ようてんで、文学ぶんがくも映画えいがも広告こうこくも同おなじ枠わくで論ろんじられるようになった。
コロケーション
  • 知覚ちかく表象ひょうしょう哲学てつがく・心理学しんりがくの層そう人間にんげんが知覚ちかくしているイメージのこと。①の系列けいれつの代表的だいひょうてきな形かたちである。「知覚ちかく」を冠かんむりすることで、記憶きおくや想像そうぞうではなく、今いままさに感覚かんかくから来きている像ぞうだと限定げんていされる。1-1 の 23 の観念かんねんと隣接りんせつするが、観念かんねんが判断はんだんや信念しんねんも含ふくむのに対たいし、表象ひょうしょうは像ぞうであることに重心じゅうしんがある。
  • 他者たしゃの表象ひょうしょう文化ぶんか研究けんきゅうの層そうある集団しゅうだんがどう描えがかれてきたかを問とう。②の系列けいれつで、権力けんりょくの問題もんだいと結むすびつく。要点ようてんは、描えがくのはいつも描えがく側がわだということだ。描えがかれる側がわは描えがき方ほうを選えらべない。そして繰くり返かえされた描えがき方ほうは、やがて対象たいしょうの実像じつぞうとして通用つうようしはじめる。表象ひょうしょうは現実げんじつを写うつすだけでなく、作つくりもする。
  • 表象ひょうしょう文化ぶんか論ろん学科がっかの名な文学ぶんがく・美び術じゅつ・映像えいぞう・演劇えんげきを「表象ひょうしょう」という一語いちごで横断おうだんして扱あつかう分野ぶんや。ジャンルではなく、何なにかを代かわりに立たてるという働はたらきで対象たいしょうをくくり直なおした点てんが新あたらしかった。この語ごがわざわざ選えらばれたのは、「芸術げいじゅつ」でも「メディア」でもこの横断おうだんができなかったからである。
  • 再現さいげん前まえ語源ごげんからの理解りかいrepresentation の直訳ちょくやく的てきな把握はあくで、もう一度いちど目めの前まえに立たたせること。この形かたちに戻もどすと、表象ひょうしょうが「代かわりに立たてる」働はたらきだと分わかる。代かわりに立たてる以上いじょう、本人ほんにんはそこにいない。政治せいじの「代表だいひょう(representation)」が同おなじ語ごであることも、ここから腑ふに落おちる。
格かく硬かた・学術がくじゅつ

論文ろんぶん・評ひょう論ろんでのみ使つかう。会話かいわでは不自然ふしぜん。

類るい語ごと差さ
  • 観念かんねん頭あたまの中なかにある考かんがえ判断はんだんや信念しんねんも含ふくむ。表象ひょうしょうは像ぞうであることに重心じゅうしんがある。
  • イメージ思おもい浮うかぶ姿すがた日常にちじょう語ご。表象ひょうしょうは哲学てつがく・心理学しんりがくの術語じゅつごで、認識論にんしきろんの枠組わくぐみを背負せおう。
  • 印象いんしょう感覚かんかくに強つよく残のこった形かたち受うけた側がわの感覚かんかくに寄よる。表象ひょうしょうは認識にんしきの成果せいかとしての像ぞう。
  • 再現さいげん前まえもう一度いちど目めの前まえに立たたせるrepresentation の直訳ちょくやく的てきな理解りかい。表象ひょうしょうが〈代かわりに立たてる〉働はたらきであることを示しめす。

ENrepresentation
ZH表象(うわべ・表面現象, biǎoxiàng)

日中にっちゅうのズレ

中国語ちゅうごくごの 表象ひょうしょう(biǎoxiàng)は「うわべ」「表面ひょうめんにあらわれた現象げんしょう」の意いで、本質ほんしつ(本质)と対たいになる。

日本語にほんごの哲学てつがく語ご「表象ひょうしょう」は心こころに思おもい浮うかべられた像ぞうで、中国語ちゅうごくごでは 表象ひょうしょう のほか 心象しんしょう・再现 が対応たいおうする。

象徴と表象の向き外にある具体物が抽象を担う象徴と、外の対象が意識の内に像として立ち現れる表象の、向きの違いを示した図。 象徴 ── 外から外へ 白いハト 平和 具体物が抽象を担う。対応は言い尽くせない。 表象 ── 外から内へ 対象 意識 像 心に思い浮かべられた像。☑23 観念と隣接する。 もう一つの表象 文化研究では「ある対象がどう描かれてきたか」を指す(他者の表象、女性の表象)。 この層では、描き方が対象を作り出すという批判的な含みを持つ。 同じ語が、認識論と文化研究で別の層に立っている
外そとへ向むかう象徴しょうちょう、内ないへ向むかう表象ひょうしょう
入試にゅうし文ぶん

人ひとは象徴しょうちょうをつくりだす。木片もくへんをもって遊あそんでいる子こどもにとり、木片もくへんは単たんなる木片もくへんでなく、たとえば自動車じどうしゃなり、飛行ひこう機きなりを象徴しょうちょうしている。それがいわゆるシンボル遊あそびである。
子こどもは木片もくへんを通とおして、自動車じどうしゃなり飛行ひこう機きなりを「表象ひょうしょう」しているのである。つまり具体的ぐたいてきなものを通とおして、それ以外いがいのものを表現ひょうげん、表象ひょうしょうするところに、象徴しょうちょう作用さようが存ありする。
フロイトの『快かい感かん原則げんそくの彼岸ひがん』には、有名ゆうめいな子こどもの遊戯ゆうぎが述のべられている。すなわち、母はは親おや不在ふざいの淋さびしさを無意識むいしきにまぎらそうと、子こどもはある遊戯ゆうぎにふける。その遊戯ゆうぎは糸いと巻かんきにひもをつけて、ベッドの向むこう側がわに投なげては、ひもでひっぱり出だすことをくりかえすもので、糸いと巻かんきが姿すがたを消けし、また現げんわれるのは、母はは親おやの不在ふざいと現前げんぜんを象徴しょうちょうしていた。

出典しゅってん 久米くめ博ひろし『象徴しょうちょうと解釈かいしゃく』 / 出題しゅつだい 日本にほん大学だいがく・国際こくさい関係かんけい学部がくぶ

読解どっかいのポイント
| 象徴するもの | 象徴されるもの |
|---|---|
| 木片 | 自動車や飛行機 |
| 糸巻き遊び | 母親の不在と現前 |
※「表象」の関係。
要約ようやく

人ひとは象徴しょうちょうをつくりだす。木片もくへんで遊あそぶ子こどもにとって、木片もくへんは自動車じどうしゃなり飛行ひこう機きなりを象徴しょうちょうし、糸いと巻かんきの遊戯ゆうぎは、母はは親おやの不在ふざいと現前げんぜんを象徴しょうちょうしている。

語ご法ほうの観察かんさつ

「〜ではない。〜である」という否定ひていを挟はさんだ定義ていぎ。まず誤解ごかいを退しりぞけてから内容ないようを置おく型かた。

Section 07

アレゴリー(寓意ぐうい)

66

アレゴリー(寓意)ぐうい

ぐうい[1]頭高あたまだか型がた

語ご構成こうせい
寓ぐうかこつける・よせる+意いこころ・おもい
定義ていぎ

抽象的ちゅうしょうてきな概念がいねんや思想しそうを具体的ぐたいてきなものによって暗示あんじする表現ひょうげん方法ほうほう。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑66
原げん書しょの解説かいせつ

イソップ童話どうわのアリとキリギリスの話はなしでは、勤勉きんべん実直じっちょくな人間にんげんが〈アリ〉として、その場ば限かぎりのいい加減かげんな人間にんげんが〈キリギリス〉としてそれぞれ暗示あんじされている。

こうしたアレゴリーは、イソップ童話どうわでは多おおく登場とうじょうし、道徳どうとく上じょうの教訓きょうくんや風刺ふうし(=社会しゃかいや人物じんぶつの愚おろかさを遠とお回まわしに批判ひはんすること)を含ふくんでいて、寓話ぐうわとよばれる。

なお、アレゴリーは、語源ごげん的てきには〈他ほかの話はなし方ほうで話はなすこと〉を意味いみする。たとえば、ずる賢かしこく油断ゆだんのならない人間にんげんの様子ようすを〈キツネ〉や〈タヌキ〉で表あらわしたり、公平こうへいな裁判さいばんのあり方かたを〈天秤てんびん〉で示しめしたりするため、アレゴリーはメタファー(隠喩いんゆ)や象徴しょうちょうの一種いっしゅとみることもできる。

使用しようの境界きょうかい

物語ものがたりや絵えの全体ぜんたいで別べつの意味いみを語かたること。対応たいおうが一いち対たい一いちで決きまっている点てんが象徴しょうちょうと違ちがう。

用法ようほう

「寓意ぐうい」と訳やくす。要点ようてんは作品さくひん全体ぜんたいが別べつの話はなしになっていることで、局所きょくしょ的てきなたとえであるメタファーとは単位たんいが違ちがう。動物どうぶつたちの物語ものがたりが実じつは革命かくめいの経過けいかを語かたっている、という構造こうぞうがその典型てんけい。検閲けんえつや弾圧だんあつのもとで直接ちょくせつ語かたれないことを語かたる手段しゅだんになるため、政治せいじとの結むすびつきが強つよい。象徴しょうちょうとの差さは対応たいおうの決きまり方ほうにある。アレゴリーは解読かいどくすれば答こたえが出でるが、象徴しょうちょうは解読かいどくし尽つくせない。この対比たいひが設問せつもんになりやすい。

用例ようれい
  • 夏なつのあいだ、蟻ありは食物しょくもつを蓄たくわえ、蟬は歌うたっていた。冬ふゆが来きて、蟬が食しょくを乞こうと、蟻ありは言いった。「夏なつに歌うたっていたのなら、冬ふゆには踊おどるがよい」。『イソップ寓話ぐうわ集しゅう』(前六世紀ぜんろくせいき頃ころ)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    対応たいおうが最初さいしょから決きまっているのがアレゴリーである。蟻ありは勤勉きんべん実直じっちょくな人ひと、蟬はその場ばかぎりの人ひと。読者どくしゃが解釈かいしゃくに迷まよう余地よちは無ない。注目ちゅうもくしたいのは、その決きまりきった対応たいおうこそが目的もくてきだという点てんだ。象徴しょうちょうなら、蟻ありが何なにを意味いみするかは開ひらかれている。アレゴリーは開ひらかない。教訓きょうくんを確実かくじつに届とどけるために、あえて閉とじている。だから寓話ぐうわは子こどもに語かたられ、風刺ふうしは権力けんりょくに向むけられる。どちらも読よみ違ちがえられては困こまる種類しゅるいのメッセージだからである。そして語源ごげんの〈他ほかの話はなし方ほうで話はなすこと〉が示しめすとおり、これは言いえないことを言いうための迂回うかい路ろでもある。
  • 事物じぶつを名指なざすことは、詩しの享受きょうじゅの四分しぶんの三さんを奪うばってしまうことだ。……暗示あんじすること、これこそ夢ゆめである。ステファヌ・マラルメ(ジュール・ユレの調査ちょうさへの回答かいとう・1891)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    こちらはアレゴリーの正反対せいはんたいを述のべた言葉ことばである。名指なざせば、読者どくしゃは受うけ取とるだけになる。暗示あんじすれば、読者どくしゃは自分じぶんでたどりつく。四分しぶんの三さんという数かぞえ方かたが的確てきかくで、詩しの中身なかみの大部分だいぶぶんは読者どくしゃの側がわで起おきているとマラルメは言いっている。この一文いちぶんを並ならべると、アレゴリーと象徴しょうちょうの差さがはっきりする。アレゴリーは名指なざし、象徴しょうちょうは暗示あんじする。そして名指なざすことは劣おとった方法ほうほうではない。イソップは教訓きょうくんを確実かくじつに届とどけたかった。マラルメは届とどけたくなかった。目的もくてきが違ちがえば、開ひらくか閉とじるかも変かわる — そこを優劣ゆうれつで読よむと、両方りょうほうを読よみ損そこなう。
  • 動物どうぶつたちの物語ものがたりが、実じつは革命かくめいの経過けいかを語かたっている — これがアレゴリーである。 作品さくひん全体ぜんたいが別べつの話はなしになっているのが要点ようてんである。局所きょくしょ的てきなたとえであるメタファーとは単位たんいが違ちがう。検閲けんえつや弾圧だんあつのもとで直接ちょくせつ語かたれないことを語かたる手段しゅだんになるため、政治せいじとの結むすびつきが強つよい。語源ごげんの〈他ほかの話はなし方ほうで話はなすこと〉が、そのまま機能きのうの説明せつめいになっている。
  • ×この詩しの「森もり」はアレゴリーなので、読者どくしゃごとに違ちがう意味いみに読よめる。 読者どくしゃごとに違ちがう意味いみに読よめるなら、それは「象徴しょうちょう」である。アレゴリーは解読かいどくすれば答こたえが出でる。出でないものはアレゴリーと呼よばない。「答こたえ合あわせができるか」を問とえば二に語ごは分わかれる。この対比たいひは設問せつもんになりやすいので、64 と並ならべて押おさえておきたい。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

関せき 57 メタファー/64 象徴しょうちょう(シンボル)

派生はせい形けい
  • 寓意的ぐういてき[0]形容けいようの形かたち。「寓意ぐうい的てきに読よむ」で、表ひょうの話はなしの下したに別べつの意味いみを見みる読よみ方かたを指さす。読よみ手ての構かまえを言いう語ごであって、作品さくひんの性質せいしつを言いう語ごではない点てんに注意ちゅういしたい。
  • 寓話ぐうわ[0]アレゴリーの代表的だいひょうてきな形式けいしき。短みじかさと動物どうぶつの登場とうじょうがその特徴とくちょうで、どちらも教訓きょうくんを確実かくじつに届とどけるための工夫くふうである。イソップ、『イソップ』を翻案ほんあんした『伊曽保いそほ物語ものがたり』、『カンタベリー物語ものがたり』などがこの系譜けいふにある。
  • 寓言ぐうげん漢籍かんせきでの言いい方かた。『荘子そうし』は自みずからの語かたり方ほうを「寓ぐう言げん十じゅうに九きゅう」と述のべている — 書かかれていることの十じゅうのうち九きゅうは他ほかのものに託たくした言いい方かただ、というのである。この章しょうで『荘子そうし』が何度なんども引ひかれるのは、偶然ぐうぜんではない。
コロケーション
  • 政治的せいじてきアレゴリー言いえないことを言いう検閲けんえつや弾圧だんあつのもとで、直接ちょくせつ語かたれないことを別べつの話はなしの形かたちで語かたる。動物どうぶつの寓話ぐうわ、遠とおい国くにの物語ものがたり、遠とおい時代じだいの史劇しげき。面白おもしろいのは、読よみ解とける読者どくしゃにだけ届とどけばよいという設計せっけいになっていることだ。63 のコードが効きいていて、鍵かぎを持もつ者ものにだけ開ひらく。アレゴリーが「一いち対たい一いちで決きまる」と言いわれながら、それでも権力けんりょくの目めを逃のがれられるのは、対応表たいおうひょうを共有きょうゆうしていない者ものにはただの動物どうぶつの話はなしに見みえるからである。
  • 寓意ぐうい的てきに読よむ別べつの層そうを当あてる表ひょうの話はなしの下したにもう一ひとつの意味いみの層そうを見みる読よみ方かた。中世ちゅうせいヨーロッパでは聖書せいしょがこの方法ほうほうで読よまれ、一ひとつの記述きじゅつに四よっつの意味いみが重かさねられた。注意ちゅういしたいのは、この読よみ方かたは無限むげんに生産せいさんできることだ。何なんにでも寓意ぐういを見み出だせてしまう。だから寓意ぐうい的てきな読よみには、なぜその対応たいおうなのかを示しめす責任せきにんが付ついて回まわる。
  • 寓話ぐうわ形式けいしきとしての名な教訓きょうくんや風刺ふうしを含ふくむ短みじかい物語ものがたり。アレゴリーのもっとも定着ていちゃくした形式けいしきである。動物どうぶつが人ひとの役やくを演えんじるのは偶然ぐうぜんではない。動物どうぶつには性格せいかくが割わり当あてやすい — キツネはずるく、蟻ありは勤勉きんべんである、と文化ぶんかがあらかじめ決きめている。その割わり当あてを借かりるから、説明せつめいなしに話はなしが進すすむ。
  • アレゴリーとメタファー単位たんいの違ちがいメタファーは語ごや句く、アレゴリーは作品さくひんの全体ぜんたい。長ながさが違ちがう。ただし連続れんぞくすることはあって、一ひとつの隠喩いんゆが伸のびていって物語ものがたり全体ぜんたいを覆おおえばアレゴリーになる。「どこまで及およんでいるか」を見みれば判別はんべつできる — 一文いちぶんで終おわりわれば隠喩いんゆ、最後さいごまで続つづけば寓意ぐういである。
格かく硬かた

書かき言葉ことば。会話かいわでは不自然ふしぜん。

類るい語ごと差さ
  • 象徴しょうちょう対応たいおうが開ひらかれている言いい尽つくせない残のこりを持もつ。アレゴリーは「これはこれを表あらわす」と説明せつめいできる。
  • 寓話ぐうわ教訓きょうくんを含ふくむ短みじかい物語ものがたりイソップ物語ものがたりなど。アレゴリーの代表的だいひょうてきな形式けいしき。
  • 風刺ふうし社会しゃかいの欠点けってんを突つく目的もくてきの話はなし。アレゴリーは表現ひょうげんの構造こうぞう。風刺ふうしの手段しゅだんとしてよく使つかわれる。
  • メタファー語ごや句くの単位たんいの比喩ひゆ単位たんいが違ちがう。アレゴリーは作品さくひん全体ぜんたいを覆おおう。

ENallegory
ZH寓言(寓話・寓意, yùyán)

入試にゅうし文ぶん

日ひ野の啓三けいぞうの小説しょうせつ『夢ゆめの島しま』など一連いちれんの小説しょうせつには都市としが作つくりだすモチーフが語かたられているとして、都市としは「高度こうどに発達はったつした都市とし工学こうがくや建築けんちく工学こうがくの技術ぎじゅつによって彩あやられる華麗かれいさとうらはらに、精神せいしん的てきにはひどく脆もろく稀薄きはくな印象いんしょうをあたえる」という。
主人公しゅじんこうは最後さいごに「埋うめ立たて地ちの一画いっかくで逆ぎゃくさ吊つりになって死しを遂とげる」。
「その背後はいごに夢ゆめかうつつか浮うかびでる焼跡やけあとの情じょう景けい、裸はだかの木々きぎの幹みき、燃もえている市街しがい電車でんしゃといったシーンが、主人公しゅじんこうの死しのイメージに重かさね合あわされ、やがて大だい都市としは終末しゅうまつを遂とげる」。
このアレゴリーは、あるいは常識的じょうしきてきであるかもしれない。多たかれ少すくなかれ、誰だれの目めにも近代きんだい文明ぶんめいの絶望ぜつぼう的てきな終焉しゅうえんが見みえている。まるで水みず虫むしのように、うようよと繁殖はんしょくしていって緑みどりを食たべつくし、地球ちきゅうの表皮ひょうひにはびこる人間にんげん。絶望ぜつぼう的てきな自己じこ嫌悪けんおは現代人げんだいじんの誰だれしもが持もっているだろう。

出典しゅってん 中なか西にし進しん『都市としと人間にんげん』 / 出題しゅつだい 専修大学せんしゅうだいがく

読解どっかいのポイント
小説『夢の島』
- 主人公の死
- 大都市の終末
=アレゴリー
→ 近代文明の絶望的な終焉
要約ようやく

小説しょうせつ『夢ゆめの島しま』にあるアレゴリーには、近代きんだい文明ぶんめいの絶望ぜつぼう的てきな終焉しゅうえんが見みられる。

語ご法ほうの観察かんさつ

具体的ぐたいてきな作品さくひん名めいを挙あげてから一般化いっぱんかする。事例じれいが先さき、定義ていぎが後あとという順序じゅんじょになっている。

象徴とアレゴリーの違いを示した図アレゴリーは具体と意味が一対一で対応して閉じており、象徴は一つの具体から複数の意味へ開いていて汲み尽くせない、という違いを矢印の形で示す。 対応が決まっているか、開いているかアレゴリーALLEGORY蟻勤勉な人一対一で閉じている解読すれば答えが出る教訓を確実に届けるため象徴SYMBOL白いハト平和純潔魂…複数へ開いている解読し尽くせない考えさせるため優劣ではなく目的の差 ── 届けたいなら閉じ、汲み尽くせなさを残したいなら開く
閉とじた対応たいおうと、開ひらいた対応たいおう
Section 08

分節ぶんせつ

67

分節ぶんせつ

ぶんせつ[0]平板へいばん型がた

語ご構成こうせい
分ぶんわける+節せつふし・くぎり
定義ていぎ

切きれ目めを入いれて分割ぶんかつすること。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑67
原げん書しょの解説かいせつ

言語げんごのはたらきの一ひとつに分節ぶんせつという機能きのうがある。これは、連続的れんぞくてきな対象たいしょうに切きれ目めを入いれ、意味いみづけるということである。

言語げんごによる分節ぶんせつ化かがなければ、世界せかいは完全かんぜんな〈混沌こんとん〉であり、そこにモノの区別くべつはない。我々われわれは、言語げんごによって混沌こんとんに切きれ目めを入いれて、世界せかいを秩序ちつじょあるものとして認識にんしきしているのである。

たとえば

名なづけることは分節ぶんせつの典型的てんけいてきな例れいだ。森もりの木きを見みても、樹木じゅもくの名前なまえを知しらなければ、我々われわれは「木きがいっぱいある」という印象いんしょうしかもたないが、名前なまえを知しっていれば、それぞれの樹木じゅもくを個別こべつに認識にんしきできる。

使用しようの境界きょうかい

連続れんぞくしたものに言語げんごで切きれ目めを入いれ、区別くべつを成なり立たたせること。切きれ目めは対象たいしょうの側がわにあるのではない。

用法ようほう

この章しょうで最もっとも重おもい語ごである。物ものが先さきにあって名ながつくのではなく、名ながあるから物ものが見みえるという主張しゅちょうを担になう。虹にじの色数いろかずが文化ぶんかによって違ちがうのがその証拠しょうことして挙あげられる。虹にじそのものは変かわらないのに、色名しきめいの数かずだけ色いろが見みえる。切きれ目めは自然しぜんの側がわにはなく、言語げんごが入いれている。ここから☑35 恣意性しいせいと☑5 秩序ちつじょ/☑6 混沌こんとんがつながる。分節ぶんせつされる前まえの世界せかいが混沌こんとんで、分節ぶんせつされたあとが秩序ちつじょである。赤あかん坊ぼうに世界せかいが混沌こんとんとして映うつるという説明せつめいはここに接続せつぞくする。

用例ようれい
  • 名な無むきは天地てんちの始はじめ、名な有あるは万物ばんぶつの母はは。『老子ろうし』第一だいいち章しょう
    名なの無ない状態じょうたいが天地てんちのはじまりで、名ながあってはじめて万物ばんぶつが生うまれるという。順序じゅんじょに注意ちゅういしたい。物ものが先さきにあって名ながつくのではない。名なが万物ばんぶつの「母はは」だと書かかれている。これが分節ぶんせつという語ごの担になう主張しゅちょうそのものである。名なの無ない天地てんちは、何なにも無ないのではない。切きれ目めが入はいっていないのだ。1-1 の 6 で見みた混沌こんとんが、まさにこの状態じょうたいにあたる。そこへ名なが入はいり、切きれ目めが生しょうじ、「これ」と「あれ」が分わかれて万物ばんぶつになる。老子ろうしはこの直前ちょくぜんに「名なの名なとすべきは、常つねの名なに非ひず」とも書かいている — 名なづけた瞬間しゅんかんに、名なづける前まえのものは失うしなわれる。分節ぶんせつが世界せかいを作つくると同時どうじに何なにかを取とり逃にがす操作そうさでもあることが、この二に句くで言いい尽つくされている。
  • 道みちは之これを行いきて成なり、物ものは之これを謂いひて然しかり。悪わるくにか然しかりとする、然しかりに然しかりとす。悪わるくにか然さらずとする、然さらざるに然さらずとす。『荘子そうし』斉せい物ぶつ論ろん篇へん
    道みちは歩あるくことによってできあがり、物ものはそう呼よぶことによってそうなる。「道みち」の比喩ひゆが的確てきかくである。山やまに道みちはもともと無ない。人ひとが歩あるき、同おなじところを繰くり返かえし歩あるくうちに道みちになる。同おなじように、物ものの区切くぎりももともと無なく、繰くり返かえしそう呼よぶうちに区切くぎりになる。続つづく二に句くがさらに鋭するどい — なぜこれを「そうだ」とするのか。「そうだ」とされているから「そうだ」とするのだ、という。根拠こんきょは循環じゅんかんしている。つまり切きれ目めを支ささえているのは自然しぜんでも論理ろんりでもなく、そう呼よび慣ならわしてきたという事実じじつだけである。1-1 の 35、この章しょうの 62 で見みた恣意性しいせいが、ここでは物ものの存在そんざいの側がわにまで及およんでいる。
  • 虹にじの色数いろかずは文化ぶんかによって変かわる。虹にじそのものは変かわらないのに、色名しきめいの数かずだけ色いろが見みえる — これが分節ぶんせつである。 この章しょうでもっとも重おもい主張しゅちょうを担になう例れいである。切きれ目めは自然しぜんの側がわにはなく、言語げんごが入いれている。光ひかりの波長はちょうは連続れんぞくしていて、どこにも境目さかいめが無ない。それでも六ろく色いろの言語げんごでは六ろく色いろが、三さん色いろの言語げんごでは三さん色いろが見みえる。見みえているものが言語げんごに従したがっているというこの事実じじつが、「物ものが先さきか名なが先さきか」という問といの答こたえになっている。
  • △データを項目こうもくごとに分節ぶんせつして整理せいりした。 すでにある区別くべつで仕分しわけるのは「分類ぶんるい」である。分節ぶんせつは区別くべつそのものを言語げんごが作つくり出だす働はたらきを指さす。対象たいしょうが先さきにあるか、切きれ目めが対象たいしょうを作つくるか — この順序じゅんじょが逆ぎゃくになっている。「区別くべつ」も同様どうようで、区別くべつは結果けっか、分節ぶんせつはその区別くべつを生うむ働はたらきである。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

関せき 5 秩序ちつじょ/35 恣意しい/62 記号きごう

派生はせい形けい
  • 分節化ぶんせつか[0]「化か」が過程かていを指さす。結果けっかとしての区別くべつではなく、区別くべつが生うまれる働はたらきのほうを名指なざす。評ひょう論文ろんぶんではこの形かたちでの出現しゅつげんが多おおい。
  • 分節的ぶんせつてき[0]形容けいようの形かたち。「分節ぶんせつ的てきな思考しこう」といえば、区切くぎって捉とらえる思考しこうのこと。1-2 の 43 の要素ようそ論ろんと近ちかい場所ばしょにあり、批判的ひはんてきな文脈ぶんみゃくで使つかわれることがある。
  • 非分節ひぶんせつ[0]「非ひ」は枠わくの外そとを指さす。切きれ目めが入はいる前まえの状態じょうたいで、1-1 の 13 で見みたとおり「不ふ」ではなく「非ひ」であることに意味いみがある。分節ぶんせつに失敗しっぱいしているのではなく、分節ぶんせつという枠わくの手前てまえにある。
コロケーション
  • 言語げんごによる分節ぶんせつこの章しょうの中心ちゅうしん連続れんぞくした対象たいしょうに切きれ目めを入いれ、意味いみづけること。分節ぶんせつ化かがなければ世界せかいは完全かんぜんな混沌こんとんで、そこにモノの区別くべつは無ない。1-1 の 5 の秩序ちつじょ、6 の混沌こんとんとここで一本いっぽんにつながる — 分節ぶんせつされる前まえが混沌こんとん、分節ぶんせつされたあとが秩序ちつじょである。言葉ことばを知しらない赤あかん坊ぼうに世界せかいが混沌こんとんとして映うつるという説明せつめいも、この一線いっせんの上うえに置おかれている。
  • 分節ぶんせつ化かする操作そうさとしての形かたち「化か」が付ついて過程かていを名指なざす。注目ちゅうもくしたいのは、この動詞どうしの主語しゅごがふつう人ひとではなく言語げんごだということだ。「言語げんごが世界せかいを分節ぶんせつ化かする」とは言いうが、「私わたしが世界せかいを分節ぶんせつ化かする」とはあまり言いわない。切きれ目めを入いれているのは個人こじんではなく、個人こじんより先さきにある言語げんごの側がわである — この主語しゅごの選えらび方かたに、この語ごの主張しゅちょうが現あらわれている。
  • 非ひ分節ぶんせつ切きれ目めの前まえ分節ぶんせつされる前まえの、切きれ目めの入はいっていない状態じょうたい。混沌こんとんと重かさなるが、混沌こんとんが世界せかいの側がわの記述きじゅつであるのに対たいし、非ひ分節ぶんせつは言語げんごとの関係かんけいでの記述きじゅつである。神秘しんぴ思想しそうや芸術げいじゅつ論ろんが「非ひ分節ぶんせつ的てきな経験けいけん」を語かたるとき、言葉ことばになる手前てまえのものを取とり戻もどそうとしている。ただしそれを語かたるには言葉ことばが要いる — この行いき止どまりが、1-1 の 18 の逆説ぎゃくせつと同おなじ形かたちをしている。
  • 分節ぶんせつと恣意性しいせい二ふたつで一組ひとくみどこに切きれ目めを入いれるかに必然的ひつぜんてきな理由りゆうは無ない。だから言語げんごごとに切きり方かたが違ちがう。恣意性しいせいは「音おとと意味いみの結むすびつき」だけの話はなしではなく、「世界せかいのどこを一ひとつと数かぞえるか」にまで及およぶ。62 のソシュールから 67 へ、この二に語ごは一続ひとつづきに読よむのが正ただしい。
格かく硬かた・学術がくじゅつ

論文ろんぶん・評ひょう論ろんでのみ使つかう。会話かいわでは不自然ふしぜん。

類るい語ごと差さ
  • 区別くべつ違ちがいを見分みわける結果けっか。分節ぶんせつはその区別くべつを作つくり出だす働はたらき。順序じゅんじょが逆ぎゃくであることが要点ようてん。
  • 分類ぶんるい既すでにあるものを仲間なかま分わけする対象たいしょうが先さきにある前提ぜんてい。分節ぶんせつは対象たいしょうそのものを言語げんごが切きり出だす。
  • カテゴリー化か枠わくに入いれる認知にんち科学かがくの語ご。分節ぶんせつは言語学げんごがく・記号きごう論ろんの語ごで、恣意性しいせいを含意がんいする。
  • 秩序ちつじょ整ととのった状態じょうたい分節ぶんせつの結果けっかとして得とくられる状態じょうたい。混沌こんとんの反対はんたい側がわにある。

ENarticulation
ZH分节(分節, fēnjié)

言葉による分節言葉がないときは連続して見える帯が、色名を持つことで区切られて見えるようになる過程を示した図。 言葉がないとき 連続していて、切れ目が見えない 言語による分節 言葉があるとき 赤橙黄 緑青藍紫 「藍」を指す言葉がない文化では、虹は六色に見える。虹そのものは変わっていない。 物が先にあるのではない。名があるから物が見える。
言葉ことばが世界せかいに切きれ目めを入いれる
入試にゅうし文ぶん

例たとえば白しろい犬いぬが走はしっているという事実じじつを、われわれは、〈白しろい〉という性質せいしつと〈一いち匹ひきのあの犬いぬ〉という対象たいしょうと〈走はしっている〉という動作どうさといった要素ようそから構成こうせいされるものとして捉とらえている。こうした構成要素こうせいようそを取とり出だすことを「分節ぶんせつ化か」と言いう。
われわれはすでに分節ぶんせつ化かされた世界せかいに生いきている。分節ぶんせつ化かされていない世界せかいとは、いわば徹底的てっていてきな抽象ちゅうしょう画がの世界せかいにも喩たとえられるだろう。そこでは、あらゆる対象たいしょうの輪郭りんかくが失うしなわれ、それら対象たいしょうがもっていた意味いみも消きえ去さる。そんな世界せかい。他方たほう、われわれが生いきている世界せかいはそうではない。
われわれは、〈あの犬いぬは白しろい〉という事実じじつから、〈あの犬いぬ〉という対象たいしょうと〈白しろい〉という性質せいしつを分節ぶんせつ化かし、あるいはまた〈机つくえの上うえにパソコンがある〉という事実じじつから、〈その机つくえ〉と〈そのパソコン〉という対象たいしょうと〈…の上うえに…がある〉という関係かんけいを、その事実じじつを構成こうせいする要素ようそとして分節ぶんせつ化かしている。
あまり細こまかい区別くべつをしてもしょうがないので、性質せいしつと関係かんけいをあわせて「概念がいねん」と呼よぶことにしよう。われわれは世界せかいをさまざまな対象たいしょうとさまざまな概念がいねんに分節ぶんせつ化かして捉とらえている。

出典しゅってん 野の矢や茂樹しげき『語かたりえぬものを語かたる』 / 出題しゅつだい 福島大学ふくしまだいがく

読解どっかいのポイント
われわれは分節化された世界に生きている。
- 〈犬、机、パソコン〉という対象
- 〈白い〉という性質
- 〈…の上に…がある〉という関係
→ 世界をさまざまな対象・概念に分節化して捉えている。
要約ようやく

われわれは分節ぶんせつ化かされた世界せかいに生いきている。事実じじつから〈犬いぬ、机つくえ、パソコン〉などの対象たいしょうと、〈白しろい〉という性質せいしつ、〈…の上うえに…がある〉という関係かんけいをあわせた概念がいねんというように、世界せかいを、対象たいしょうと概念がいねんとに分節ぶんせつ化かして捉とらえている。

語ご法ほうの観察かんさつ

常識じょうしき(物ものが先さきにあって名ながつく)を提示ていじし、それを反転はんてんさせる。反転はんてんの型かたは本章ほんしょうの主題しゅだいそのものでもある。

同じ連続体を言語ごとに別の場所で切ることを示した図水温という連続した量に、日本語は「水」と「湯」の切れ目を入れ、英語は切れ目を入れずに water 一語で受ける、という違いを示す。 切れ目は対象の側にはない同じ連続体を、言語は別の場所で切るCONTINUOUS0℃100℃水温はどこにも境目を持たない日本語水湯「水」と「湯」のあいだに切れ目が入っている英語water一語で受けるので、切れ目そのものが無い「湯」を英語で言うには hot water と説明するほかない ──語が足りないのではなく、世界の切り分け方が違う
同おなじ連続れんぞく体からだを、言語げんごは別べつの場所ばしょで切きる
Section 09

差異さい/同一どういつ/一義いちぎ(的てき)/両義りょうぎ(的てき)/多義たぎ(的てき・性せい)

68

差異さい

さい[1]頭高あたまだか型がた

語ご構成こうせい
差さちがい+異いことなる
定義ていぎ

ある物事ものごとについて、他ほかと比較ひかくした時ときに見みられる違ちがい。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑68
原げん書しょの解説かいせつ

近代きんだいの言語げんご観かんでは、言葉ことばはそれ自体じたいで意味いみをもっていると考かんがえられていた。しかし現代げんだいでは、言語げんごは他ほかの言葉ことばとの差異さいによって意味いみをもつという考かんがえが主流しゅりゅうになっている。

なお、言語げんごから離はなれるが、商品しょうひんの価値かちも、商品しょうひんのもつ情報じょうほうの差異さいによってもたらされるという考かんがえ方かたもできる。

たとえば

「兄あに」という語ごは、「弟おとうと」という語ごとの差異さいによって、はじめて意味いみをもつ。

使用しようの境界きょうかい

他ほかと比較ひかくしたときに見みられる違ちがい。比較ひかくの相手あいてを前提ぜんていとする点てんが要点ようてんで、単独たんどくでは成なり立たたない。

用法ようほう

現代げんだい言語げんご論ろんの中核ちゅうかくをなす。近代きんだいの言語げんご観かんでは語ごがそれ自体じたいで意味いみを持もつとされたが、現代げんだいでは語ごは他ほかの語ごとの差異さいによって意味いみを持もつとされる。「兄あに」は「弟おとうと」との差さがあって初はじめて意味いみを持もち、単独たんどくでは成なり立たたない。この考かんがえは言語げんごを超こえて広ひろがり、商品しょうひんの価値かちも他ほか商品しょうひんとの情報じょうほうの差異さいによって生うまれるという議論ぎろん(差異さい化か)に接続せつぞくする。広告こうこく論ろん・消費しょうひ社会しゃかい論ろんで頻出ひんしゅつするので、言語げんごの話はなしに限定げんていせずに読よむ。

用例ようれい
  • 言語げんごのうちには、積極的せっきょくてきな項こうをもたない差異さいしかない。……言語げんご体系たいけいとは、音おとの差異さいと結むすびついた観念かんねんの差異さいの系列けいれつである。フェルディナン・ド・ソシュール『一般いっぱん言語学げんごがく講義こうぎ』(1916)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    「積極的せっきょくてきな項こうをもたない」— それ自体じたいで中身なかみを持もつ語ごは一ひとつも無ないという宣言せんげんである。「兄あに」に意味いみがあるのではない。「弟おとうと」「姉あね」「妹いもうと」との差さがあるだけだ。英語えいごの brother は「兄あに」とも「弟おとうと」とも違ちがう切きり出だし方ほうをしていて、それは brother という語ごが別べつの差異さいの網あみの中なかにいるからである。ここで近代きんだいの言語げんご観かんが反転はんてんしている。近代きんだいは、語ごがそれ自体じたいで意味いみを持もち、その語ごを組くみ合あわせて文ぶんを作つくると考かんがえた。ソシュールは、意味いみは関係かんけいの網あみからしか出でてこないと言いう。網あみの一部いちぶを取とり出だして眺ながめても、そこには何なにも無ない。67 の分節ぶんせつがなぜ言語げんごごとに違ちがうのかも、ここから説明せつめいがつく — 網あみの目めの入いれ方ほうが違ちがえば、切きり出だされる中身なかみも違ちがう。
  • 天下てんか皆みな美びの美びたるを知しる、斯ここれ悪あくのみ。皆みな善ぜんの善ぜんたるを知しる、斯ここれ不ふ善ぜんのみ。故こに有無うむ相そう生しょうじ、難易なんい相そう成なり、長短ちょうたん相そう形けいはし、高下こうげ相そう傾かたむく。『老子ろうし』第だい二に章しょう
    美びを美びと知しるのは、醜しゅうがあるからにすぎない。善ぜんを善ぜんと知しるのは、不ふ善ぜんがあるからにすぎない。有ゆうと無むは互たがいに生うみ合あい、難なんと易えきは互たがいに成なり立たたせ、長ちょうと短たんは互たがいを形かたちづくる。ソシュールの二千にせん数百すうひゃく年前ねんまえに、同おなじ構造こうぞうが別べつの言いい方かたで述のべられている。注目ちゅうもくしたいのは「相あい(あい)」の一いち字じが四よん度どくり返かえされることだ。一方いっぽうが他方たほうを生うむのではなく、互たがいに、である。長ながいものが先さきにあって短みじかいものが後あとから測はかられるのではない。長短ちょうたんという差さが立たった瞬間しゅんかんに、長ながいものと短みじかいものが同時どうじに生うまれる。差異さいが意味いみをつくるとは、この同時どうじ性せいのことである。
  • 商品しょうひんの価値かちも、他ほかの商品しょうひんとの情報じょうほうの差異さいによってもたらされる。 言語げんご論ろんを超こえて広ひろがる用法ようほうである。同おなじ機能きのうの品ひんでも、他ほかと何なにが違ちがうかによって値あたいがつく。広告こうこくが延々えんえんと差異さいを語かたり続つづけるのは、価値かちが差異さいの側がわにあるからだ。「差異さい化か」という語ごが広告こうこく論ろん・消費しょうひ社会しゃかい論ろんで頻出ひんしゅつするので、この語ごを言語げんごの話はなしに限定げんていせずに読よむ。
  • ×彼かれの差異さいは生うまれつき備そなえわったものだ。 内側うちがわに備そなえわったものとして語かたるなら「個性こせい」である。差異さいは関係かんけいの中なかでしか出でてこない。比くらべる相手あいてがいなければ、差異さいは存在そんざいしない。「一人ひとりだけになっても残のこるか」を問とえばよい — 残のこるなら個性こせい、消きえるなら差異さいである。この語ごの理論的りろんてきな含ふくみは、まさにこの「単独たんどくでは成なり立たたない」点てんにある。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

反はん 69 同一どういつ

派生はせい形けい
  • 差異化さいか[0]「化か」が操作そうさを指さす。差異さいを作つくり出だすことで、広告こうこく・商品しょうひん戦略せんりゃく・自己じこ表現ひょうげんについて使つかわれる。自然しぜんにある違ちがいではなく、意図いとして作つくられた違ちがいを名指なざす。
  • 差異的さいてき[0]使用しよう頻度ひんどは低ひくい。「差異さいの」で足たりることが多おおく、あえて使つかうのは「差異さいにもとづく」という性格せいかくを強調きょうちょうしたいときである。
  • 微差びさ[1]ごくわずかな違ちがい。差異さいが意味いみを生うむなら、どんなに小ちいさくても差さは差さである。この語ごが使つかわれる場面ばめん — 商品しょうひん、意匠いしょう、作法さほう — は、いずれも差さ異化いかが極きょくまった領域りょういきである。
コロケーション
  • 差異さいによって意味いみをもつ現代げんだい言語げんご論ろんの核かく語ごはそれ自体じたいでは意味いみを持もたないという主張しゅちょう。近代きんだいの言語げんご観かんとの対比たいひで必かならず現あらわれる。読解どっかい上じょうの効きき目めが大おおきいのは、この主張しゅちょうを採とると、意味いみが語ごの外側そとがわにあることになるからだ。59 のテクスト、60 のコンテクストがこの土台どだいの上うえに建たっている。
  • 差異さい化か消費しょうひ社会しゃかいの語ご他ほかと違ちがうことを意図的いとてきに作つくり出だす操作そうさ。「化か」が付ついて、差異さいが自然しぜんにあるものではなく作つくられるものになる。皮肉ひにくなのは、差異さい化かが徹底てっていされるほど、差異さい化かされていること自体じたいは共通きょうつうになることだ。誰だれもが他ほかと違ちがおうとする社会しゃかいでは、違ちがおうとすることが最もっとも広ひろく共有きょうゆうされた振ふる舞まいになる。
  • 差異さいの体系たいけい網あみとしての言語げんご個々ここの差異さいではなく、差異さいが織おりなす全体ぜんたいを指さす。一ひとつの語ごの意味いみを変かえると、隣となりり合あう語ごの意味いみも動うごく。「兄あに」の範囲はんいを変かえれば「弟おとうと」の範囲はんいも変かわる。この連動れんどうがあるから、言語げんごは個人こじんが勝手かってに変かえられない。63 のコードが共有きょうゆうを条件じょうけんとするのと、根ねは同おなじである。
  • 差異さいと同一どういつ同おなじ構造こうぞうの対たい反対語はんたいごでありながら、どちらも比較ひかくを前提ぜんていとしている。これが 68・69 の急所きゅうしょである。違ちがうと言いうにも同おなじと言いうにも、まず二ふたつを並ならべなければならない。並ならべるという操作そうさが先さきにあって、その結果けっかとして差異さいとも同一どういつとも呼よばれる。対立たいりつしているように見みえて、実じつは同型どうけいである。
格かく硬かた

書かき言葉ことば。会話かいわでは不自然ふしぜん。

類るい語ごと差さ
  • 違ちがい異ことなっていること日常にちじょう語ご。差異さいは〈意味いみを生うむ違ちがい〉という理論的りろんてきな含ふくみを持もつ。
  • 区別くべつ見分みわけて分わける認識にんしきする側がわの働はたらき。差異さいは関係かんけいそのものの性質せいしつ。
  • 個性こせいそのものらしさ内側うちがわに備そなえわったものとして語かたる。差異さいは関係かんけいの中なかでしか出でてこない。
  • 同一どういつ区別くべつできないこと対たい語ご。どちらも比較ひかくを前提ぜんていとする点てんでは同おなじ構造こうぞうをもつ。

ENdifference
ZH差异(差異, chāyì)

69

同一どういつ

どういつ[0]平板へいばん型がた

語ご構成こうせい
同どうおなじ+一いちひとつ
定義ていぎ

二ふたつ以上いじょうの物事ものごとの性質せいしつが同おなじで、区別くべつができないこと。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑69
原げん書しょの解説かいせつ

〈明あけの明星みょうじょうも宵よいの明星みょうじょうも同おなじ金星きんせいだ〉という時とき、〈明あけの明星みょうじょう〉と〈宵よいの明星みょうじょう〉は、土星どせいなどの他ほかの星ほしとの比較ひかくで、同一どういつの性質せいしつをもつものとみなされている。

また、〈今日きょうの私わたしは、昨日きのうの私わたしと変かわりのない私わたしだ〉という時ときには、昨日きのうと今日きょうとを比較ひかくした上うえで、変化へんかしない同一どういつの〈私わたし〉の性質せいしつが言いわれている。

このように、差異さいと同おなじく、同一どういつも何なにかとの比較ひかくを前提ぜんていとしている概念がいねんだと考かんがえられる。なお、自己じこの人格じんかくについての同一性どういつせい(自己じこ同一性どういつせい)は、アイデンティティとよばれている。

使用しようの境界きょうかい

二ふたつ以上いじょうのものが同おなじ性質せいしつを持もち、区別くべつできないこと。差異さいと同おなじく比較ひかくを前提ぜんていとする。

用法ようほう

要点ようてんは、同一どういつもまた比較ひかくを前提ぜんていとする概念がいねんだという点てんにある。明あけの明星みょうじょうと宵よいの明星みょうじょうが「同一どういつだ」と言いえるのは、他ほかの星ほしと比くらべたうえでのことである。昨日きのうの私わたしと今日きょうの私わたしが同おなじだと言いえるのも、昨日きのうと今日きょうを比くらべているからである。したがって差異さいと同一どういつは反対語はんたいごでありながら、構造こうぞうは同おなじ。この指摘してきが読解どっかいの急所きゅうしょになる。自己じこについての同一性どういつせいはアイデンティティと呼よばれ、近代きんだい論ろん・現代げんだい社会しゃかい論ろんに接続せつぞくする。

用例ようれい
  • 月つきやあらぬ春はるや昔むかしの春はるならぬ
    わが身みひとつはもとの身みにして『伊勢いせ物語ものがたり』第だい四よん段だん(10世紀じっせいき)
    月つきも春はるも、去年きょねんと同おなじではないのか。私わたしだけが元もとのままなのに — と詠よむ。恋こいしい人ひとの去さった家いえに、翌年よくねんまた来きて詠えいまれた歌うたである。ここで問とわれているのは同一性どういつせいそのものだ。月つきは物理的ぶつりてきには同おなじ月つきである。春はるもまた同おなじ季節きせつが巡めぐってきている。それでも「あらぬ」と感かんじられる。何なにをもって「同おなじ」と言いうのかが、この一いち首くびで揺ゆさぶられている。そして「わが身みひとつはもとの身みにして」— 自分じぶんだけは変かわっていないと言いいながら、去年きょねんと同おなじ気持きもちでいないからこそこの歌うたが詠えいまれている。同一どういつを主張しゅちょうする文ぶんが、その主張しゅちょうを裏切うらぎっている。この捻ひねれが、この歌うたを千せん年ねん読よませてきた。
  • 「明あけの明星みょうじょうは宵よいの明星みょうじょうである」という文ぶんは、真しんの認識にんしきを含ふくんでいる。しかし「明あけの明星みょうじょうは明あけの明星みょうじょうである」という文ぶんは、何なにも新あたらしいことを教おしえない。ゴットロープ・フレーゲ『意義いぎと意味いみについて』(1892)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    原げん書しょが挙あげる例れいそのものが、近代きんだい論理学ろんりがくの出発点しゅっぱつてんにある問といだった。同おなじ金星きんせいを指さす二ふたつの名なを等とう号ごうで結むすんだだけなのに、なぜ一方いっぽうは発見はっけんで、他方たほうは空虚くうきょなのか。フレーゲの答こたえは、名なが指さすもの(意味いみ)と、名ながそれを指さす道みちすじ(意義いぎ)を分わけることだった。指さすものは同おなじでも、道みちすじが違ちがう。朝あさの空そらで見みつけるか、夕ゆうの空そらで見みつけるかは、同おなじ星ほしへの別べつの近ちかづき方ほうである。ここから分わかるのは、「同一どういつだ」と言いえるのは二ふたつの異ことなる道みちすじを並ならべたときだということだ。道みちすじが一ひとつなら、同一性どういつせいは語かたれない。原げん書しょが「同一どういつもまた比較ひかくを前提ぜんていとする」と書かくのは、この構造こうぞうを指さしている。
  • 昨日きのうの私わたしと今日きょうの私わたしが同おなじだと言いえるのは、昨日きのうと今日きょうを比くらべているからである。同一どういつも比較ひかくを前提ぜんていとする。 読解どっかいの急所きゅうしょである。差異さいと同一どういつは反対語はんたいごでありながら、構造こうぞうは同おなじ。どちらも二ふたつを並ならべる操作そうさから出でてくる。この指摘してきができるかどうかが、この節せつの設問せつもんを分わける。自己じこについての同一性どういつせいはアイデンティティと呼よばれ、近代きんだい論ろん・現代げんだい社会しゃかい論ろんへ接続せつぞくする。
  • ×二ふたつの品ひんはまったく同一どういつなので、比くらべる必要ひつようがない。 比くらべなければ、同一どういつだとも言いえない。同一どういつという判断はんだんそのものが比較ひかくの産物さんぶつである。「同おなじだ」は、比較ひかくを終おえたあとにしか出でてこない結論けつろんだ。比較ひかくを不要ふようにする語ごではなく、比較ひかくの結果けっかを言いう語ごである — ここを取とり違ちがえると、68 との対称性たいしょうせいが見みえなくなる。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

反はん 68 差異さい / 関せき アイデンティティ

派生はせい形けい
  • 同一性どういつせい[0]性質せいしつとして取とり出だす形かたち。「同一性どういつせいを保たもつ」「同一性どういつせいが揺ゆらぐ」と時間じかんの中なかでの持続じぞくを論ろんじられるようになる。アイデンティティの訳語やくごとしても使つかわれる。
  • 同一化どういつか[0]「化か」が操作そうさを指さす。別べつのものを自分じぶんと重かさねる働はたらきで、心理学しんりがく・社会しゃかい論ろんの術語じゅつご。重かさねた対象たいしょうへの批判ひはんが自分じぶんへの攻撃こうげきに感かんじられる、という現象げんしょうを説明せつめいできる。
  • 自己同一性じこどういつせい[0]アイデンティティの訳語やくご。語ごを長ながくして射程しゃていを限定げんていする作つくりで、1-1 の 21「人間にんげん疎そ外がい」と同おなじ手てつきである。近代きんだい論ろん・現代げんだい社会しゃかい論ろんの中心ちゅうしん概念がいねんのひとつ。
コロケーション
  • 自己じこ同一性どういつせいアイデンティティ自分じぶんが自分じぶんであり続つづけること。時間じかんを隔へだてた二ふたつの自分じぶんを並ならべて、同おなじだと判断はんだんしている。つまりこれも比較ひかくの産物さんぶつである。注目ちゅうもくしたいのは、この比較ひかくには終おわりが無ないことだ。生いきているかぎり新あたらしい「今日きょうの私わたし」が現あらわれ、そのつど照合しょうごうが要いる。アイデンティティが「確立かくりつする」ものではなく「揺ゆらぐ」ものとして語かたられるのは、そのためである。
  • 同一化どういつか一ひとつに重かさねる「化か」が付ついて操作そうさになる。別べつのものを自分じぶんと重かさねる働はたらきで、心理学しんりがくでは他者たしゃへの同一化どういつか、社会しゃかい論ろんでは集団しゅうだんへの同一化どういつかを指さす。重要じゅうようなのは、同一化どういつかした瞬間しゅんかんに差異さいが見みえなくなることだ。国家こっかと自分じぶんを同一化どういつかすれば、国家こっかへの批判ひはんは自分じぶんへの攻撃こうげきに感かんじられる。1-1 の 20 のイデオロギーがここで働はたらく。
  • 同一性どういつせいの危機きき照合しょうごうの失敗しっぱい昨日きのうの自分じぶんと今日きょうの自分じぶんを同おなじだと言いえなくなった状態じょうたい。興味深きょうみぶかいのは、この危機ききは比較ひかくをやめれば消きえることだ。照合しょうごうしなければ、ずれも見みつからない。それでも人ひとが照合しょうごうをやめないのは、同一性どういつせいが語かたりの前提ぜんていだからである — 「私わたしは」で始はじまる文ぶんは、「私わたし」が続つづいていることを勝手かってに前提ぜんていにしている。
  • 同一どういつ律りつ論理ろんりの基本きほん法則ほうそく「A は A である」。何なにも言いっていないように見みえて、あらゆる推論すいろんの土台どだいになっている。フレーゲが問題もんだいにしたのはまさにここで、「A は A である」が空虚くうきょなのに「A は B である」が発見はっけんを含ふくむという落差らくさから、意義いぎと意味いみの区別くべつが生うまれた。当あたり前まえを問とい直なおすことが新あたらしい学問がくもんを生うむ — 1-1 の 14 と 15 が言いっていたとおりである。
格かく硬かた

書かき言葉ことば。会話かいわでは不自然ふしぜん。

類るい語ごと差さ
  • 同おなじ違ちがいがない日常にちじょう語ご。同一どういつは〈何なにとの比較ひかくにおいて同おなじか〉を含意がんいする。
  • 等価とうか価値かちが等ひとしい交換こうかんの話はなし。同一どういつは性質せいしつの話はなし。
  • アイデンティティ自己じこの同一性どういつせい自分じぶんが自分じぶんであり続つづけること。同一性どういつせいの一いち用法ようほう。
  • 差異さい比較ひかくして見みられる違ちがい対たい語ご。両者りょうしゃは反対はんたいでありながら、比較ひかくを前提ぜんていとする点てんでは同型どうけい。

ENidentity
ZH同一(同一, tóngyī)

70

一義(的)いちぎ

いちぎ[1]頭高あたまだか型がた

語ご構成こうせい
一いちひとつ+義ぎ意味いみ
定義ていぎ

① 意味いみや解釈かいしゃくが一ひとつしかないこと。 ② 最もっとも大切たいせつなこと。根本こんぽん。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑70
使用しようの境界きょうかい

①意味いみや解釈かいしゃくが一ひとつしかないこと。②最もっとも大切たいせつなこと、根本こんぽん。二ふたつの用法ようほうが同居どうきょする。

用法ようほう

二ふたつの用法ようほうがあり、混同こんどうすると設問せつもんを落おとす。①意味いみが一ひとつしかない(一義いちぎ的てきな解釈かいしゃく)。②第一だいいちに、根本的こんぽんてきに(一義いちぎ的てきには政府せいふの責任せきにんだ)。②は行政ぎょうせい・報道ほうどうでよく使つかわれ、こちらのほうが日常にちじょうでは頻度ひんどが高たかい。評ひょう論文ろんぶんでは①が中心ちゅうしんで、言語げんごの多義たぎ性せいを論ろんじる文脈ぶんみゃくで対比たいひ項こうとして置おかれる。「一義いちぎ的てきに決きまる」は、解釈かいしゃくの余地よちがないという意味いみ。「義ぎ」は〈意味いみ〉であることを押おさえておくと、一義いちぎ・両義りょうぎ・多義たぎが一列いちれつに並ならぶ。

用例ようれい
  • 名定なさだまりて実じつ弁べんじ、道行みちゆきはれて志し通つうず。……此このれ乱らんを治ちむるの端はしなり。『荀子じゅんし』正名せいめい篇へん
    名なが定ていまれば実じつ(じつ)が区別くべつされ、道みちが行おこなわれて意志いしが通つうじる。これが乱らんを治ちめる端緒たんしょであるという。一義いちぎであることが、ここでは統治とうちの条件じょうけんとして語かたられている。同おなじ語ごを各人かくじんが別べつの意味いみで使つかえば、議論ぎろんも約束やくそくも裁判さいばんも成なり立たたない。注目ちゅうもくしたいのは、荀子じゅんしが同おなじ篇へんで「名なに固かたより宜ぎしき無なし」— 名なが対象たいしょうにふさわしい理由りゆうはもともと無ない、とも書かいていることである。根拠こんきょは無ない。それでも定さだめなければ通つうじない。この二ふたつを並ならべて言いえるところに荀子じゅんしの強つよさがあり、一義いちぎ性せいが「真理しんりだから一ひとつ」ではなく「一ひとつに決きめたから通つうじる」ものであることが分わかる。
  • 論争ろんそうが起おきたなら、二人ふたりの哲学者てつがくしゃのあいだに計算けいさん者しゃどうしのような議論ぎろんがあればよい。ペンを手てに取とり、机つくえに向むかって「さあ、計算けいさんしよう」と言いえば足たりるのだ。ゴットフリート・ライプニッツ『普遍ふへん学がくの端緒たんしょ』(17世紀じゅうななせいき後半こうはん)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    曖昧あいまいさのまったく無ない言語げんごを作つくれば、哲学てつがくの論争ろんそうは計算けいさんで決着けっちゃくする — そういう構想こうそうである。これは一義いちぎ性せいを極限きょくげんまで押おし進すすめた夢ゆめだと言いってよい。注目ちゅうもくしたいのは、この夢ゆめが完全かんぜんには実現じつげんしなかったが、半分はんぶんは実現じつげんしたことだ。数学すうがくの記号きごう、プログラミング言語げんご、法律ほうりつの定義ていぎ規定きてい — いずれも一義いちぎであろうとする言語げんごである。そして残のこり半分はんぶんが実現じつげんしなかったのは、人ひとが何なにかを言いおうとするたびに、既すでにある語ごでは足たりないからだった。57 の隠喩いんゆが言語げんごを広ひろげていく働はたらきは、この夢ゆめと正面しょうめんから対立たいりつしている。
  • 契約書けいやくしょの文言もんごんは、一義いちぎ的てきに決きまるように書かかれなければならない。 ①の用法ようほうである。解釈かいしゃくの余地よちが無ないことを求もとめている。注意ちゅういしたいのは、これが言語げんごの自然しぜんな状態じょうたいではないことだ。ふつうの言葉ことばは多義たぎであり、一義いちぎにするには定義ていぎを積つみ重かさねるという手間てまをかけなければならない。法律ほうりつ文書ぶんしょが読よみにくいのは、その手間てまの跡あとである。
  • ×この事故じこの責任せきにんは一義いちぎ的てきに一ひとつの意味いみしか持もたない。 「一義いちぎ的てきには政府せいふの責任せきにんだ」という言いい方かたは②の用法ようほう(第一だいいちに、根本的こんぽんてきに)で、意味いみの数かずの話はなしではない。この文ぶんは①と②を混まぜてしまっている。行政ぎょうせい・報道ほうどうでは②の頻度ひんどが高たかく、評ひょう論文ろんぶんでは①が中心ちゅうしんである。「意味いみが一ひとつ」か「第一だいいちに」かを文脈ぶんみゃくで決きめてから読よむ。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

反はん 72 多義たぎ(的てき・性せい)

派生はせい形けい
  • 一義的いちぎてき[0]二ふたつの用法ようほうが同居どうきょするためもっとも取とり違ちがえられやすい形かたち。①意味いみが一ひとつ、②第一だいいちに。文ぶんの主語しゅごが「解釈かいしゃく」なら①、「責任せきにん」なら②と見当けんとうをつけると外はずしにくい。
  • 一義性いちぎせい[0]性質せいしつとして取とり出だす形かたち。ほぼ①の意味いみに限かぎられるので、②との混同こんどうが起おきない。術語じゅつごとして使つかうならこちらが安全あんぜんである。
  • 一意いちい数学すうがく・情報じょうほうの語ごで、ただ一ひとつに定さだまること。「一意いちいに決きまる」「一意いちい性せい」。日本語にほんごの日常にちじょう文ぶんでは使つかわないが、一義いちぎ性せいを厳密げんみつに言いい直なおした形かたちとして覚おぼえておくと、理系りけいの文章ぶんしょうで足あしが止とまらない。
コロケーション
  • 一義いちぎ的てきに決きまる解釈かいしゃくの余地よちなし読よみ方かたが一ひとつしかないという状態じょうたい。契約けいやく・法令ほうれい・仕様しよう書しょが目指めざすところである。面白おもしろいのは、これが自然しぜんな言語げんごの状態じょうたいではないことだ。一義いちぎ性せいは達成たっせいするものであって、出発点しゅっぱつてんではない。定義ていぎを重かさね、用語ようごを限定げんていし、例外れいがいを書かき尽つくしてようやく近ちかづく。
  • 一義いちぎ的てきには②の系列けいれつ「第一だいいちに」「根本的こんぽんてきには」の意い。行政ぎょうせい・報道ほうどうでよく使つかわれ、日常にちじょうではこちらが優勢ゆうせいである。「一義いちぎ的てきには自治体じちたいの責任せきにんだが」と言いうとき、後うしろに「しかし」が控ひかえていることが多おおい。第一だいいちの責任せきにんを認みとめつつ、二次にじ的てきな責任せきにんを他ほかへ配分はいぶんする言いい方かたになる。
  • 第一だいいち義ぎ②の名詞めいし形けいもっとも重要じゅうような意味いみ。「義ぎ」が〈意味いみ〉であることを押おさえておくと、①と②が同おなじ字じから出でていることが分わかる。意味いみが一ひとつしかない(①)と第一だいいちの意味いみ(②)は、「一いち」の読よみ方かたが違ちがうだけである。数かずとして読よむか順位じゅんいとして読よむか、それだけの差さだ。
  • 一義いちぎ・両義りょうぎ・多義たぎ義ぎの数かずで並ならべる「義ぎ」が意味いみだと分わかれば、三さん語ごは一列いちれつに並ならぶ — 一ひとつ、二ふたつ、多おおく。ただし 71 の両義りょうぎだけは数かずではなく質しつの条件じょうけんを負おっている。対照的たいしょうてきな二ふたつ、という条件じょうけんである。一義いちぎと多義たぎは数かずの軸じく、両義りょうぎはそこに質しつの軸じくが交まじわる。この一いち枚まいの図ずを持もっておくと取とり違ちがえない。
格かく硬かた

書かき言葉ことば。会話かいわでは不自然ふしぜん。

類るい語ごと差さ
  • 多義たぎ多おおくの意味いみを持もつ対たい語ご。解釈かいしゃくの幅はばの有無うむで分わかれる。
  • 明確めいかくはっきりしている分わかりやすさの話はなし。一義いちぎは解釈かいしゃくの数かずの話はなし。
  • 一意いちいただ一ひとつに定さだまる数学すうがく・情報じょうほうの語ご。日本語にほんごの日常にちじょう文ぶんでは使つかわない。
  • 第一だいいち義ぎ最もっとも重要じゅうような意味いみ②の系列けいれつ。「第だい一義いちぎ的てきには」の形かたちで使つかう。

ENunivocal
ZH单义(一義, dānyì)

71

両義(的)りょうぎ

りょうぎ[1]頭高あたまだか型がた

語ご構成こうせい
両りょうふたつ+義ぎ意味いみ
定義ていぎ

正反対せいはんたいとなる二ふたつの意味いみをもち、どちらの意味いみにも取とれること。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑71
使用しようの境界きょうかい

正反対せいはんたいの二ふたつの意味いみを同時どうじに持もち、どちらにも取とれること。単たんに意味いみが二ふたつあるだけでは両義りょうぎではない。

用法ようほう

最もっとも誤あやまりやすい語ごである。「二ふたつの意味いみ」ではなく「対照的たいしょうてきな二ふたつの意味いみ」が要件ようけんになる。原げん書しょが挙あげる例れいは身体しんたいで、自分じぶんの意いのままになる主体しゅたい的てきな側面そくめんと、単たんなる物体ぶったいという客観的きゃっかんてきな側面そくめんを同時どうじに持もつ。この二ふたつは正反対せいはんたいだから両義りょうぎ的てきと言いえる。評ひょう論文ろんぶんでは、近代きんだいが切きり捨すててきた〈どちらとも決きまらないもの〉を救すくい上あげる文脈ぶんみゃくで使つかわれることが多おおく、肯定的こうていてきな評価ひょうかを伴ともなう。「曖昧あいまい」と訳やくすと誤あやまりになるので、必かならず〈対照的たいしょうてきな二ふたつ〉と押おさえる。

用例ようれい
  • 私わたしの身体しんたいは、見みるものであると同時どうじに見みられるものである。……それは物もののあいだにありながら、物ものを見みる。モーリス・メルロ=ポンティ『知覚ちかくの現象学げんしょうがく』(1945)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    原げん書しょが両義りょうぎの例れいとして挙あげる身体しんたいを、正面しょうめんから論ろんじた一節いっせつである。手てで机つくえに触ふれるとき、手ては触ふれるものであり、同時どうじに触ふれられている。この二ふたつは正反対せいはんたいの位置いちだ。見みるものは主体しゅたい、見みられるものは客体きゃくたい。身体しんたいはその両方りょうほうを同時どうじに引ひき受うけている。注意ちゅういしたいのは、これが二ふたつの側面そくめんを持もつという話はなしではないことだ。側面そくめんが二ふたつあるだけなら、視点してんを変かえて眺ながめればよい。身体しんたいの場合ばあい、見みている当とうのものが見みられている。同時どうじに、同おなじ資格しかくで。この同時どうじ性せいが両義りょうぎの条件じょうけんで、単たんに意味いみが二ふたつあるだけの多義たぎとはここで分わかれる。
  • 己おのれの場合ばあい、この尊大そんだいな羞恥心しゅうちしんが猛獣もうじゅうだった。虎とらだったのだ。中島なかじま敦あつし『山月さんげつ記き』(1942)
    李徴りちょうが虎とらになった理由りゆうを語かたる場面ばめんである。「臆病おくびょうな自尊心じそんしんと、尊大そんだいな羞恥心しゅうちしん」と彼かれはその少すこし前まえに言いっている。語ごそのものが交差こうさしていることに注目ちゅうもくしたい。自尊心じそんしんは本来ほんらい、堂々どうどうとしたものだ。それが臆病おくびょうである。羞恥心しゅうちしんは本来ほんらい、身みを縮ちぢめるものだ。それが尊大そんだいである。正反対せいはんたいの二ふたつが、一ひとつの心こころのなかで同時どうじに働はたらいている。どちらか一方いっぽうに決きめれば、この人物じんぶつは理解りかいできなくなる。自信じしんが無ないから引ひきこもったのでも、自信じしんがあるから人ひとを避さけたのでもない。両方りょうほうが同時どうじに本当ほんとうだった。評ひょう論文ろんぶんが両義りょうぎを〈近代きんだいが切きり捨すててきた、どちらとも決きまらないもの〉を救すくい上あげる文脈ぶんみゃくで使つかい、しばしば肯定的こうていてきな評価ひょうかを伴ともなうのは、この種しゅの真実しんじつが一義いちぎ的てきな言葉ことばでは取とり逃にがされるからである。
  • 身体しんたいは自分じぶんの意いのままになる主体しゅたいでありながら、同時どうじに一いち個この物体ぶったいでもある。これが両義りょうぎ性せいである。 原げん書しょの例れいをそのまま文ぶんにしたもの。「二ふたつの意味いみ」ではなく「対照的たいしょうてきな二ふたつの意味いみ」が要件ようけんである。主体しゅたいと物体ぶったいは正反対せいはんたいだから両義りょうぎ的てきと言いえる。ここを落おとすと 72 の多義たぎとの区別くべつがつかなくなるので、この語ごはこの一文いちぶんごと覚おぼえるのが早はやい。
  • ×この語ごには辞書じしょに五いつつの意味いみがあるので両義りょうぎ的てきだ。 意味いみが多おおいだけなら「多義たぎ」である。両義りょうぎは対照的たいしょうてきな二ふたつという条件じょうけんが付つく。また「曖昧あいまい」と訳やくすのも誤あやまりで、曖昧あいまいが欠点けってんとして言いわれるのに対たいし、両義りょうぎはその構造こうぞう自体じたいが対象たいしょうの性質せいしつだと述のべている。どちらとも決きまらないのではなく、両方りょうほうが同時どうじに成なり立たっている。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

関せき 72 多義たぎ(的てき・性せい)

派生はせい形けい
  • 両義的りょうぎてき[0]もっとも多おおい形かたち。対照的たいしょうてきな二ふたつの意味いみを同時どうじに持もつことを言いう。評ひょう論文ろんぶんでは肯定的こうていてきな評価ひょうかを伴ともなうことが多おおく、「曖昧あいまいな」とは正反対せいはんたいの位置いちにある。
  • 両義性りょうぎせい[0]性質せいしつとして取とり出だす形かたち。対象たいしょうそのものの構造こうぞうを指さすので、「両義性りょうぎせいを持もつ」とは言いえても「両義性りょうぎせいを解消かいしょうする」とは言いいにくい。この言いいにくさが、曖昧あいまいとの差さをよく示しめしている。
  • アンビバレント心理学しんりがく由来ゆらいの外来語がいらいごで、相反そうはんする感情かんじょうを同時どうじに抱いだく状態じょうたい。両義りょうぎが対象たいしょうの側がわ、アンビバレントが心こころの側がわという置おき場所ばしょの違ちがいで使つかい分わける。
コロケーション
  • 両義性りょうぎせい構造こうぞうとしての名な性質せいしつとして取とり出だす形かたち。「身体しんたいの両義性りょうぎせい」「近代きんだいの両義性りょうぎせい」のように、対象たいしょうそのものが持もつ構造こうぞうを指さす。注意ちゅういしたいのは、これが欠点けってんの指摘してきではないことだ。曖昧あいまいさなら解消かいしょうすべきだが、両義性りょうぎせいは解消かいしょうできない — 解消かいしょうしようとすれば、対象たいしょうの半分はんぶんが消きえる。
  • 両義りょうぎ的てきな存在そんざい決きめきれないもの評ひょう論文ろんぶんで肯定的こうていてきに使つかわれる形かたちである。近代きんだいが切きり捨すててきた「どちらとも決きまらないもの」を救すくい上あげる文脈ぶんみゃくで現あらわれる。1-2 の 42・43 で見みた「分わける」思考しこうが取とり逃にがしてきたものが、ここに集あつまっている。分わければ消きえるものがあるという主張しゅちょうは、この章しょうと前章ぜんしょうをつなぐ糸いとでもある。
  • アンビバレンス心理しんりの側がわの語ご相反そうはんする感情かんじょうを同時どうじに抱いだくこと。愛あいしながら憎にくむ、憧あこがれながら恐おそれる。両義りょうぎとの違ちがいはどこにあるかで、アンビバレンスは心こころの側がわ、両義りょうぎは対象たいしょうや概念がいねんの側がわにある。『山月さんげつ記き』の李徴りちょうはアンビバレントであり、そのことを語かたる「尊大そんだいな羞恥心しゅうちしん」という言葉ことばのほうが両義りょうぎ的てきである。
  • 両義りょうぎと曖昧あいまい訳やくし分わけの線せん曖昧あいまいは欠点けってん、両義りょうぎは性質せいしつ。曖昧あいまいな文ぶんは書かき直なおせば直ちょくる。両義りょうぎ的てきな対象たいしょうは、書かき直なおしても両義りょうぎ的てきなままだ。「直なおせるかどうか」を問とえば分わかれる。英語えいごではどちらも ambiguous になりうるので、翻訳ほんやく文ぶんを読よむときはとくに注意ちゅういしたい。
格かく硬かた・学術がくじゅつ

論文ろんぶん・評ひょう論ろんでのみ使つかう。会話かいわでは不自然ふしぜん。

類るい語ごと差さ
  • 多義たぎ多おおくの意味いみを持もつ数かずの話はなし。両義りょうぎは〈対照的たいしょうてきな二ふたつ〉という条件じょうけんが付つく。
  • 曖昧あいまいはっきりしない欠点けってんとして言いう。両義りょうぎはその構造こうぞう自体じたいが対象たいしょうの性質せいしつだと述のべる。
  • アンビバレント相反そうはんする感情かんじょうを同時どうじに抱いだく心理しんりの語ご。両義りょうぎは対象たいしょうや概念がいねんについても言いう。
  • ディレンマ二ふたつとも選えらべない選択せんたくの場面ばめん。両義りょうぎは意味いみの構造こうぞう。

ENambivalent
ZH两义(両義, liǎngyì)

72

多義(的・性)たぎ

たぎ[1]頭高あたまだか型がた

語ご構成こうせい
多たおおい+義ぎ意味いみ
定義ていぎ

多おおくの意味いみをもっていること。または、いくつもの意味いみに解釈かいしゃくできること。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑72
使用しようの境界きょうかい

多おおくの意味いみを持もち、いくつもの解釈かいしゃくが成なり立たつこと。対照的たいしょうてきである必要ひつようはない点てんが両義りょうぎと違ちがう。

用法ようほう

評ひょう論文ろんぶんでは肯定的こうていてきに扱あつかわれる。言語げんごが多義たぎであるからこそ、テクストは複数ふくすうの読よみに開ひらかれ、コンテクストによって意味いみが変かわる。この主張しゅちょうが「作者さくしゃの意図いとが唯一ゆいいつの正解せいかいではない」という読解どっかい観かんを支ささえる。日常にちじょうでは多義たぎ性せいは不便ふべんさとして扱あつかわれるが、評ひょう論文ろんぶんでそう読よむと逆ぎゃくになる。両義りょうぎとの差さが設問せつもんになりやすく、多義たぎは数かずだけ、両義りょうぎは対照的たいしょうてきな二ふたつという線せんで分わける。「一義いちぎ」との対たいで置おかれることが多おおい。

用例ようれい
  • 花はなの色いろはうつりにけりないたづらに
    わが身み世よにふるながめせしまに小野おの小町こまち(『古今和歌集こきんわかしゅう』春はる下した・『百人一首ひゃくにんいっしゅ』9番ばん)
    一いち首くびのなかに掛詞かけことばが二ふたつ埋うめ込こまれている。「ふる」は降ふると経へる、「ながめ」は長雨ながあめと眺ながめ。どちらか一方いっぽうを選えらぶのではない。二ふたつが同時どうじに読よまれる。長雨ながあめが降おりつづくあいだに花はなの色いろが褪あせた、という景色けしきの歌うたであり、同時どうじに、もの思おもいに沈しずんで日ひを過すごすうちに自分じぶんの容色ようしょくが衰おとろえた、という嘆なげきの歌うたでもある。景色けしきと嘆なげきが、同おなじ語ごを通とおって一ひとつに重かさなっている。これが多義たぎの力ちからである。一義いちぎの言語げんごなら、二に首くびに分わけて書かくほかない。分わけて書かけば、「花はなと私わたしが同おなじことを経験けいけんしている」という感かんじ方ほうそのものが消きえる。
  • 閑ひまさや岩いわにしみ入はいる蟬の声こえ松尾まつお芭蕉ばしょう『おくのほそ道みち』立石りっしゃく寺じ(1702)
    この一句いっくをめぐっては、蟬の種類しゅるいだけで論争ろんそうが起おきた。斎藤さいとう茂吉もきちはアブラゼミだとし、小宮こみや豊隆とよたかはニイニイゼミだと反論はんろんした。茂吉もきちはのちに現地げんちで確たしかめて自説じせつを撤回てっかいしている。それだけではない。「しみ入はいる」の主語しゅごは何なにかも定さだまらない。蟬の声こえが岩いわにしみ入はいるのか、閑ひまさが岩いわにしみ入はいるのか。声こえが岩いわに吸すわれて閑ひまさになるのか。ここが重要じゅうようである — どれか一ひとつに決きめた瞬間しゅんかん、この句くは痩やせる。決きまらないことが欠陥けっかんではなく、決きまらないまま成立せいりつしていることがこの句くの中身なかみなのだ。評ひょう論文ろんぶんが多義たぎを肯定的こうていてきに扱あつかうのは、この事情じじょうを言いっている。
  • 言語げんごが多義たぎであるからこそ、テクストは複数ふくすうの読よみに開ひらかれる。 この章しょうの議論ぎろんがここに集あつまる。59 のテクスト、60 のコンテクストを支ささえているのがこの一文いちぶんである。語ごの意味いみが一ひとつに定さだまらないから、置おかれた文脈ぶんみゃくしだいで別べつの読よみが立たつ。「作者さくしゃの意図いとが唯一ゆいいつの正解せいかいではない」という読解どっかい観かんは、多義たぎ性せいの上うえにしか建たたない。日常にちじょうでは多義たぎ性せいは不便ふべんさだが、評ひょう論文ろんぶんでそう読よむと主張しゅちょうが裏返うらがえる。
  • ×この規約きやくは多義たぎ的てきでよくできている。 規約きやくや契約けいやくが目指めざすのは一義いちぎ性せいである。多義たぎであっては、守まもるべきことが人ひとによって変かわってしまう。多義たぎが肯定こうていされるのは、解釈かいしゃくの豊ゆたかさが値打ねうちになる場所ばしょ — 文学ぶんがく・思想しそう・批評ひひょうに限かぎられる。同おなじ性質せいしつが、場所ばしょによって長所ちょうしょにも欠陥けっかんにもなる。評価ひょうかは語ごではなく場ばが決きめている。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

反はん 70 一義いちぎ(的てき) / 関せき 71 両義りょうぎ(的てき)

派生はせい形けい
  • 多義的たぎてき[0]形容けいようの形かたち。「多義たぎ的てきな表現ひょうげん」は、評ひょう論文ろんぶんでは豊ゆたかさの評価ひょうか、実務じつむ文ぶんでは欠陥けっかんの指摘してきになる。評価ひょうかの向むきは場ばが決きめる。
  • 多義性たぎせい[0]性質せいしつとして取とり出だす形かたち。「多義たぎ性せいに開ひらかれる」「多義たぎ性せいを排はいする」と両方向りょうほうこうに使つかえる。この語ごがこの章しょうの結論けつろんを担になっていて、67 の分節ぶんせつから始はじまった議論ぎろんがここへ着地ちゃくちする。
  • 曖昧あいまい[0]対たいにして注意ちゅういしたい語ご。曖昧あいまいは否定的ひていてきな評価ひょうか、多義たぎは評ひょう論文ろんぶんでは肯定的こうていてき。同おなじ「意味いみが一ひとつに決きまらない」状態じょうたいを正反対せいはんたいの向むきから名指なざしている。どちらの語ごを選えらぶかが、すでに書かき手ての立場たちばの表明ひょうめいになっている。
コロケーション
  • 多義たぎ性せい開ひらかれの条件じょうけん複数ふくすうの意味いみに解釈かいしゃくできるという性質せいしつ。評ひょう論文ろんぶんでは肯定的こうていてきに扱あつかわれる。テクストが複数ふくすうの読よみに開ひらかれ、コンテクストによって意味いみが変かわるのは、この性質せいしつがあるからだ。日常にちじょう語ごの感覚かんかく(多義たぎ=不便ふべん)で読よむと主張しゅちょうが逆ぎゃくになるので、この語ごに出会であったら評価ひょうかの向むきをまず確たしかめたい。
  • 多義たぎと両義りょうぎ数かずか、質しつか多義たぎは数かずだけ、両義りょうぎは対照的たいしょうてきな二ふたつ。両義りょうぎには条件じょうけんが付ついているぶん、成立せいりつする場面ばめんが狭せまい。設問せつもんになりやすいのはこの差さで、「二ふたつの意味いみが正反対せいはんたいか」を問とえば決きまる。正反対せいはんたいでなければ、二ふたつでも多義たぎである。
  • 掛詞かけことば多義たぎを作つくる技法ぎほう一ひとつの語ごに二ふたつの意味いみを意図的いとてきに重かさねる和歌わかの技法ぎほう。多義たぎが言語げんごの性質せいしつであるのに対たいし、こちらはその性質せいしつを利用りようした工夫くふうである。限かぎられた字数じすうのなかに二に重じゅうの内容ないようを収おさめるという要請ようせいから生うまれた — 58 のレトリックがいう〈有限ゆうげんの言葉ことばで無限むげんの事柄ことがらを表現ひょうげんする〉が、ここでは三十一文字みそひともじという極端きょくたんな有限ゆうげんのもとで実演じつえんされている。
  • 多義たぎ性せいを排はいする専門語せんもんごの作つくられ方ほう法律ほうりつ・医学いがく・工学こうがくの用語ようごは、意識的いしきてきに多義たぎ性せいを削けずって作つくられる。定義ていぎを与あたえ、使用しよう範囲はんいを限かぎり、日常にちじょう語ごとの重かさなりを断たつ。専門語せんもんごが硬かたく感かんじられるのは、この削けずりの跡あとである。70 のライプニッツの夢ゆめは、この方向ほうこうを言語げんごの全体ぜんたいに及およぼそうとしたものだった。
格かく硬かた

書かき言葉ことば。会話かいわでは不自然ふしぜん。

類るい語ごと差さ
  • 一義いちぎ意味いみが一ひとつしかない対たい語ご。解釈かいしゃくの幅はばの有無うむで分わかれる。
  • 両義りょうぎ対照的たいしょうてきな二ふたつの意味いみを持もつ条件じょうけんが厳きびしい。多義たぎは数かずだけを言いう。
  • 曖昧あいまいはっきりしない否定的ひていてきな評価ひょうか。多義たぎは評ひょう論文ろんぶんでは肯定的こうていてきに扱あつかわれる。
  • 含蓄がんちく言げん外がいに意味いみを含ふくむ味あじわいの話はなし。多義たぎは解釈かいしゃくが複数ふくすう成なり立たつという構造こうぞう。

ENpolysemy / multivocal
ZH多义(多義, duōyì)

解説かいせつ ── 一義いちぎ・両義りょうぎ・多義たぎ

「義ぎ」は〈意味いみ〉のこと。したがって、一義いちぎとは一ひとつの意味いみしかないことであり、多義たぎとはさまざまな意味いみをもち得えることを言いう。ちなみに「一義いちぎ的てき」には、〈第一だいいちには〉という意いもあることを覚おぼえておこう。

注意ちゅういが必要ひつようなのは両義りょうぎだ。両義りょうぎは、単たんなる「二ふたつの意味いみ」ではなく、「対照的たいしょうてきな二ふたつの意味いみ」がある場合ばあいに用もちいられる。たとえば我々われわれの身体しんたいは、自分じぶんの意いのままになる主体しゅたい的てきな側面そくめんと、単たんなる物体ぶったいという客観的きゃっかんてきな側面そくめんとがあるという点てんで、両義りょうぎ的てきな存在そんざいである。

対立たいりつの軸じく

差異さい/同一どういつ の軸じく = 比較ひかくの結果けっかが違ちがいか同おなじか

差異さい他ほかと比くらべたときに見みられる違ちがい。
比較ひかくの結果けっかが違ちがいか同おなじか
同一どういつ二ふたつ以上いじょうの性質せいしつが同おなじで区別くべつできないこと。

一義いちぎ(的てき)/多義たぎ(的てき・性せい) の軸じく = 意味いみの数かず

一義いちぎ(的てき)意味いみや解釈かいしゃくが一ひとつしかない。
意味いみの数かず
多義たぎ(的てき・性せい)多おおくの意味いみをもち、複数ふくすうの解釈かいしゃくが成なり立たつ。
差異と同一語が単独では意味を持たず、他の語との差異によって意味を持つことと、同一もまた比較を前提とすることを示した図。 兄 単独では意味をもたない 兄 弟 差異があって、はじめて意味をもつ 同一もまた比較を前提とする 明けの明星 宵の明星 同一の金星 他の星と比べたうえで「同一だ」と言える ── 構造は差異と同型
差異さいが意味いみをつくり、同一どういつもまた比較ひかくを前提ぜんていとする
一義・両義・多義意味の数と、対照的であるかどうかによって一義、両義、多義を分けた図。 一義 意味は一つ 両義 対照的な二つ 多義 数が多い 身体は、意のままになる主体でもあり、単なる物体でもある。この二つは正反対だから両義的である。 意味が二つあるだけでは両義ではない。対照的であることが条件になる。 「義」は〈意味〉── 一・両・多は、その数と質を言い分けている
一義いちぎ・両義りょうぎ・多義たぎ ── 数かずと質しつ
Meta — 俯瞰ふかん

十六じゅうろく語ごを上うえから見みる

この章しょうの語ごは、言語げんごという一ひとつの対象たいしょうを表現ひょうげんの側がわと記号きごうの側がわから切きったものである。対立たいりつの軸じくと、語ごの格かくを一いち枚まいずつ図ずにしておく。

本章の対立の軸一覧本章に現れる対立語のペアと、それを分ける軸を並べた一覧図。 PAIR AXIS 差異 同一 比較の結果が違いか同じか 一義 多義 意味の数 評論文は対立で動く ── 軸が分かれば片方から他方が読める
本章ほんしょうに現あらわれる対立たいりつと、それを分わける軸じく
格による40語の分布硬・学術、硬、中の三段階に本章の40語を振り分けた図。 硬・学術 3 表象 分節 両義 硬 6 記号 アレゴリー 差異 同一 一義 多義 中 7 メタファー レトリック テクスト コンテクスト アナロジー コード 象徴 語は意味ではなく格で選ぶ
格かくによる四十よんじゅう語ごの分布ぶんぷ

硬かた・学術がくじゅつに属ぞくする語ごは、会話かいわで使つかうと不自然ふしぜんに響ひびく。中なかに属ぞくする語ごは両方りょうほうで使つかえる。この区別くべつは意味いみの理解りかいとは別べつの層そうにあり、書かく段階だんかいで効きいてくる。

Output

産出さんしゅつ

やるなら ── 自分じぶんの関心かんしん領域りょういきから一ひとつ選えらび、次つぎのいずれかを一段落いちだんらくで書かく。

  • 自分じぶんの関心かんしん領域りょういきで使つかわれているメタファーを一ひとつ挙あげ、それが何なにを見みえるようにし、何なにを見みえなくしているかを書かく
  • 自分じぶんの母語ぼごでは分節ぶんせつされているが、日本語にほんごでは分節ぶんせつされていない区別くべつを一ひとつ挙あげる
Blank

名ながあるから物ものが見みえるのだとすれば、まだ名なを持もたないものを、人ひとはどうやって名なづけるのか。