読解ツール
[ 原書 補講 ]十二を覚えるのではない。五つの動作として身につける。
読解のツールは十二あるが、並列に十二個覚えるのは効率が悪い。実際に文章を読むあいだ、頭の中で走っている動作は五つしかない。つなぐ・割る・捨てる・昇る・結ぶである。十二のツールは、この五つの動作を実行するための具体的な手がかりにすぎない。
とくに重要なのがIII 選別である。文章のどこに筆者の主張があるかを特定するのは、この四つのツール(否定→肯定・譲歩・逆接・常識批判)だからである。逆に言えば、選別の型を見落とすと、捨てられる側を主張だと読んでしまう。これが誤読の大半を占める。
もう一つの軸が粒度である。呼応表現は語の層で、逆接や因果は文の層で、対比や譲歩は段落の層で、時間や空間の対比は文章全体の層で働く。上手な読み手は、この四つの層を同時に走らせている。一文を追いながら、その文が段落のどの位置にあり、文章全体のどの枠に属するかを常に把握している。
中国語は前で決まり、日本語は文末で決まる
中国語を母語とする読み手が日本語の論説を読むとき、最大の壁は語彙ではなく論理標識の位置にある。中国語は 因为・虽然・不但 のように、論理を示す語が節の先頭に立つ。読み始めた瞬間に、これから理由が来るのか、譲歩が来るのかが分かる。
日本語はこれが逆になる。「〜からである」「〜ではない」「〜だろうか」──いずれも文末にある。長い修飾節を読み終えるまで、その文が肯定なのか否定なのか、断定なのか推量なのか、主張なのか引用なのかが確定しない。日本語の読解が遅くなるのは、語彙のせいではなくこの構造のせいである。
したがって、日本語を高い解像度で読むための第一原則はこうなる。文末を先に見る。長い一文に出会ったら、まず文末の述語まで視線を飛ばし、肯定か否定か・断定か推量かを確定させてから、頭に戻って修飾節を読む。これは日本語話者が無意識にやっていることを、意識的に手続き化したものである。
もう一つの原則が、省略されたものを補うことである。日本語は主語を落とし、譲歩の「確かに」を落とし、例示の「たとえば」を落とし、対比の「一方」を落とす。中国語の関連詞が原則として省けないのに対し、日本語の論理標識はほとんどが任意である。だから逆に、置かれている標識は書き手が意図的に選んだものであり、そこには必ず意味がある。
十二のツール
同内容表現
働き ── ばらばらに見える表現を、一つの内容に束ねる。
つまり山水とは特定の文化圏で定められた文化の制度であって自然現象を指すのではない。
山水
=とは
特定の文化圏で定められた文化の制度であって自然現象を指すのではない
論理的読解の最初の一歩は、同内容表現を追跡することである。一つの単語に筆者独自の定義を与えたり、長々と説明した事柄を一文でまとめたり――というように、筆者は、自分の説明したい内容をさまざまな言い方で言い換えていく。よって、同内容表現をつなぎながら追跡することで、何となく問題文を読んでいた時に比べて、文章の内容理解度を格段に上げることができる。
- 指示語=これ、それ、こうした、など
- 定義語=~とは、~ということ(もの)は
- 要約=つまり、要するに
- 換言=すなわち、言い換えれば
注意
「つまり」や「要するに」は、厳密に言えばイコールではなく、それまでの内容を端的にまとめた「要約」である。しかし、文章を読解する上では、同内容表現としてとらえて問題ない。
中国語は同内容の標識が明示的である
也就是说・即・换言之・总之 は、いずれも文頭に置かれ、位置が固定している。日本語の「つまり」「すなわち」も文頭だが、日本語には標識のない言い換えが非常に多い。「──である。それは──ということだ。」のように、指示語だけで、あるいは指示語すらなしに言い換えが進む。
指示語の射程が違う
中国語の 这/那 は指し示す対象が比較的はっきりしている。日本語の「これ」「それ」「そうした」「こうした」は、直前の一語から前段落全体までを指しうる。射程を決めるのは読み手の側であり、ここが最初の分岐点になる。
主語が消える
日本語は主語を落とす。落ちた主語を補うには、前の同内容表現をたどるしかない。同内容表現の追跡は、日本語では主語の復元と一体である。
-
われわれは「いき」という現象がいかなる構造をもっているかを理解しなければならない。……「いき」の第一の徴表は異性に対する「媚態」である。……「いき」のうちに含まれた第二の徴表は「意気」すなわち「意気地」である。……「いき」の第三の徴表は「諦め」である。九鬼周造『「いき」の構造』(1930)
同内容表現の鎖が章ひとつ分に伸びた例である。九鬼は「いき」をいきなり定義しない。第一の徴表・第二の徴表・第三の徴表と三つに分けて、それぞれを別の語で言い換えていく。ここで効いているのは「すなわち」だ — 「意気」と言ってからすぐに「意気地」と言い直している。なぜ言い直すのか。「意気」だけでは読者が辞書の意味で受け取ってしまうからである。筆者独自の定義を与えたいとき、書き手は必ず言い換える。言い換えの出てくるところが、その語に筆者が手を入れた合図だと思ってよい。 -
孤独は山になく、街にある。一人の人間にあるのではなく、大勢の人間の「間」にあるのである。三木清『人生論ノート』「孤独について」(1941/三木 1945 没)
四十字ほどのなかに同内容表現が二重に畳まれている。「街にある」と「大勢の人間の『間』にある」は同じことを言っている。後の一文は前の一文の言い換えである。ただしただの繰り返しではない — 「街」という場所の語が、「間」という関係の語に書き換えられている。言い換えはつねに一段抽象へ上がるのだ。だから鎖の最後に来る語が、その段落で筆者が本当に言いたかった語になる。鎖をたどるとは、その到達点を探すことである。
- 「つまり」の後が前より長い場合がある。要約とは限らず、言い換えて展開していることがある。
- 「〜とは」は定義の標識だが、筆者独自の定義であって辞書の意味ではないことが多い。ここを辞書義で読むと以後すべてずれる。
- 指示語を「たぶんこれだろう」で流すと、そのまま最後まで誤読が伝播する。
- いま読んだこの一文は、前のどの表現の言い換えか。
- この「それ」は、どこからどこまでを指しているか。一語か、一文か、段落全体か。
- 筆者はこの語に、辞書と違う意味を与えていないか。
対比表現
働き ── 一つの話題を二つに割り、違いを際立たせる。
人間以外の動物は普通〈本能〉の赴くままに行動するとき、そこに迷いや不安はない。彼らにとっては、世界は予め秩序を与えられているのであって、自らがそれを創り出す必要はないからである。つまり、選択の余地がないのである。それに対して人間は、そのような〈本能〉の導きを失い、したがって、混沌と化した世界に対して、素手で働きかけることができず、文化という装置を創り出すことによって、再び秩序をとり戻してきたのである。
| 人間以外の動物 | 人間 |
|---|---|
| 本能をもつ | 本能の導きがない |
| 秩序が与えられている | 文化によって、再び秩序をとり戻す |
| 創り出す必要はない | ─ |
対比表現を発見する際には、①対比のテーマ〈何について〉、②対比されている項目〈何と何〉、③比較内容〈どう違うのか〉の三点を押さえることが重要。
上の文章では、
- 〈本能〉について
- 人間以外の動物 ↔ 人間
- 本能をもつ ↔ 本能の導きがない
となる。
- AとB
- 一方、他方……
- ~に対して
- ~とは違って
- 逆に、反対に
- XはAだ、〈逆接語〉YはBだ
- 時間の変化(AからBへ)
- 空間の比較(Aでは~、Bでは~)
中国語は関連詞が対で立つ
一方面…另一方面/相反/与此相对 のように、前後がセットで現れることが多い。日本語も「一方」「他方」があるが、実際には後半にしか標識が出ないことが多い。「〜に対して」「〜とは違って」が後ろに現れて初めて、前が対比項だったと分かる。
助詞「は」が対比を担う
中国語には対応物がない。「動物は〜。人間は〜。」の「は」だけで対比が立つ。この「は」は主題の「は」と形が同じなので、助詞だけを見ても判別できない。二文が並んでいるという配置で読む。
-
西洋の開化(すなわち一般の開化)は内発的であって、日本の現代の開化は外発的である。……内発的とは内から自然に出て発展するという意味で、……外発的とは外からおっかぶさった他の力でやむを得ず一種の形式を取るのを指したつもりなのです。夏目漱石『現代日本の開化』(1911 講演)
対比表現の最も整った形である。注目すべきは漱石が対比を立てたあと、すぐに両方の語を定義していることだ。対比は立てるだけでは働かない — 何と何をどの軸で比べているのかを示さなければ、読者は自分の思い込みで軸を埋めてしまう。ここでの軸は「力がどこから来たか」の一本だけである。優劣を言っていないことに注意したい。対比を優劣と読み違えるのが最も多い誤読で、漱石はこのあと「涙を呑んで上滑りに滑って行かなければならない」と書く — 優劣ではなく条件の違いを言っていたのである。 -
同じ白いのでも、西洋紙の白さと奉書や白唐紙の白さとは違う。西洋紙の肌は光線を撥ね返すような趣きがあるが、奉書や唐紙の肌は、柔らかい初雪の面のように、ふっくらと光線を中へ吸い取る。谷崎潤一郎『陰翳礼讃』(1933/谷崎 1965 没)
対比の入口の作り方を見ておきたい。谷崎は「同じ白いのでも」から始める。まず共通点を置くのだ。共通の土台がなければ差は差として見えない — 白と赤を比べても「違う」としか言えないが、白と白を比べると光の扱い方という軸が立ち上がる。そのうえで「撥ね返す」/「吸い取る」という正反対の動詞を当てる。対比表現を探すとき、「が」「一方」といった接続語だけを見ているとこの型を取り逃がす — 対の動詞・対の形容詞が置かれていれば、標識が無くてもそこは対比である。
- 対比の軸を取り違える。「何について」の違いなのかを決めないと、項目だけ並べて終わる。
- 対比項が三つ以上あるのに、二項だと思い込む。
- 片方だけが詳しく書かれ、もう片方は暗示にとどまることがある。書かれていない側を補う必要がある。
- この対比は、何について(軸)の違いか。
- 対比されているのは何と何か。三つ目はないか。
- どちらの側に筆者は立っているか。それとも中立か。
否定→肯定(XではなくYだ)
働き ── 二つの候補を並べ、片方を捨てて主張を確定させる。
思考の驚きは〈自明性〉の驚きである。「当たり前にあること」「日常的に慣れ親しんでいること」に驚くことが、真実に知性と思考の驚きである。何もないことではなく、むしろあることが問題なのである。これは知的懐疑とよぶことができる。普通、人はないことに驚くが、むしろ反対になぜないのではなくてなぜあるのだろうかと驚くべきである。
X=何もないこと
ではなくて
Y=むしろ、あること
X=ないことに驚く
ではなくて
Y=むしろ、なぜあるのだろうかと驚く
筆者は自説を展開するために、他説を批判的に検討する場合、表現としては「Xではなく〈むしろ〉Y」という形を取ることが多い。この時、筆者の言いたいことはYの方にある。
〈Xというより〈むしろ〉Yだ〉というのも、否定表現は出ていないが、Yの方が重要というとらえ方は同じ。
なお、こうした表現では、XとYは対比項になりやすいことも覚えておこう。
Xではなく(むしろ)Yだ
Xというより(むしろ)Yだ
↓
筆者の本音・主張はY
構造は中国語とほぼ同じ
不是X,而是Y / 与其说X,不如说Y は、日本語の「XではなくY」「XというよりむしろY」に正確に対応する。この型に関しては中国語の直感がそのまま使える。
ただし日本語は否定が文末に来る
中国語は 不是 が前に立つので、読み始めてすぐ否定だと分かる。日本語は「──のではない」が文末に来るため、長い文では最後まで読まないと否定か肯定かが決まらない。この遅延が誤読の最大の原因である。
-
今までは全く他人本位で、根のない萍(うきくさ)のように、そこいらをでたらめに漂よっていたから、駄目であったという事にようやく気がついたのです。……私はこの自己本位という言葉を自分の手に握ってから大変強くなりました。夏目漱石『私の個人主義』(1914 講演)
否定と肯定が段落をまたいで置かれた例である。「XではなくYだ」は一文の中に収まるとは限らない。ここでは他人本位(X)を否定する長い述懐のあとに自己本位(Y)が来る。なぜ順序がこの向きなのか。Yを先に出すと主張が宙に浮くからだ。Xを十分に書いてからYを出すと、Yは「Xの穴を埋めるもの」として受け取られる。読解ではこの順序が手がかりになる — 否定が長く続いたら、その先に筆者の主張が来る。否定の長さは、主張の近さを測るものさしである。 -
経験するというのは事実其儘(そのまま)に知るの意である。全く自己の細工を棄てて、事実に従うて知るのである。西田幾多郎『善の研究』第一編第一章(1911/西田 1945 没)
定義の中に否定→肯定が組み込まれている。西田は「経験」を定義したあと、同じことをもう一度、否定を通して言い直す — 「自己の細工を棄てて」(否定)「事実に従うて知る」(肯定)。なぜ二度言うのか。肯定だけでは「事実其儘」の意味が定まらないからである。何をしないことが「其儘」なのかを示してはじめて輪郭が出る。否定は意味を削り出す道具なのだ。t1 の同内容表現と重なっていることにも注意したい — 言い換えの多くは否定を経由する。
- Xの部分が長いと、そこを筆者の主張だと思ってしまう。捨てられる側のほうが長いことは珍しくない。
- 「むしろ」が省かれることがある。「XではなくYだ」だけでも同じ構造である。
- Xが世間の通念、Yが筆者の主張であることが多い。この場合は常識批判(10)と重なる。
- この文の否定は、どこまでを否定しているか。
- 捨てられたXは、誰の考えか。筆者自身の仮定か、世間の通念か。
- YはXの単なる逆か、それとも別の次元へ移っているか。
譲歩表現(確かにA、逆接語B)
働き ── 反対意見をいったん認め、そのうえで自説を通す。
概念や法則性を自然の事実からのみ構築しようという自然科学の方法論は、確かに世界の聖書的解釈からの決別という意味では画期的なことだった。しかし、それによって捕捉できる自然界が部分的となり、自然を全体として理解しようという態度を失わせてしまったことは否定できない。
……という自然科学の方法論は
- A:確かに世界の聖書的解釈からの決別という意味では画期的なことだった
- B:しかし……自然を全体として理解しようという態度を失わせてしまった
ある一つの見解(A)を認めたあとで、自分の本音(B)を述べるのが譲歩表現だ。
譲歩表現はパターンがある程度決まっていて、「確かに」「もちろん」「なるほど」の三語+逆接語というのが典型的な形。文中にこの三語を発見したら、「しかし」「だが」などの逆接語と、そのあとにくる筆者の本音を予測しながら読むのが論理的読解の手順である。
入試でも、接続語の空欄補充問題としてよく問われる。
確かに
もちろん Aだ。[逆接語(しかし・だが)]Bだ。
なるほど
↓
筆者の本音・主張はB
中国語の 诚然…但是/固然…但 と同型
构造はそのまま対応する。この型も中国語の直感が使える。
日本語は譲歩の標識を省く
中国語の 固然 はほぼ必ず 但 と対になるが、日本語は「確かに」を置かずに、「〜であろう。しかし」「〜かもしれない。だが」だけで譲歩を作ることが多い。推量の文末(〜だろう・〜かもしれない・〜ではある)が出たら、譲歩の前半を疑う。
「〜が」が譲歩を作る
「〜ではあるが、」の「が」は逆接だが、日本語の「が」には単なる前置きの用法もある。(「先日お話ししましたが、」)どちらかは、後半が前半を否定しているかどうかで判断する。
-
頭のいい人は、いわば足の早い旅人のようなものである。……これに反して頭の悪い人、足ののろい人は……そのついでにいろいろな発見をする機会が多い。……科学者は頭がよくなければならないと同時に頭が悪くなくてはならない。寺田寅彦『科学者とあたま』(1933/寺田 1935 没)
譲歩の典型を骨だけにしたような文章である。寺田は「頭がよくなければならない」という常識をいったん認める。そのうえで「同時に頭が悪くなくてはならない」と続ける。ここで大事なのは前半を取り消していないことだ。譲歩は前言撤回ではない。Aを認めたまま、Aだけでは足りないと言うのが譲歩である。だから「確かにA。しかしB」のBは「Aは間違い」ではなく「Aに加えてB」と読む。ここを取り違えると、筆者が認めたことまで否定したことにしてしまう — 設問が最も狙う誤読である。 -
たとえ一人を除く全人類が同一の意見であり、ただ一人だけが反対の意見を抱いていたとしても、人類がその一人を沈黙させることは不当である。それはその一人が力を持っていて全人類を沈黙させることが不当であるのと同じである。ジョン・スチュアート・ミル『自由論』第二章(1859/訳は本教材)
譲歩を極限まで引き延ばした構文である。「たとえ〜としても」がこの一文の骨で、相手に最大限譲るところから始める。全人類が正しく、一人が間違っている — これ以上不利な条件はない。そのうえでそれでも沈黙させてはならないと言う。譲る幅が大きいほど、主張は強くなる — 最悪の条件でも成り立つなら、それよりましな条件では当然成り立つからだ。評論で「たとえ」「かりに」に出会ったら、筆者はそこで自分の主張を一番厳しい場所に置いて試している。
- Aの部分だけ読んで、筆者がAに賛成していると取る。Aは捨てられる側である。
- 「確かに」がないため譲歩に気づかず、AとBを並列だと読む。
- 逆接語の後に、さらにもう一段の譲歩が来ることがある(B のなかに「もっとも」)。
- いま読んでいるこの段落は、筆者の主張か、認めているだけの他説か。
- 文末が推量になっていないか。なっていれば譲歩の前半である可能性が高い。
- 逆接語はどこに来るか。まだ来ていないなら、来るまで判断を保留する。
逆接表現+筆者の主張
働き ── 逆接の直後に置かれた一文を、主張として拾い上げる。
合理主義的態度一般のなかには、理性の尊重とともに、その限界を容認し、「世の中には理屈に合わないこともある」ことを受け容れようとする面もふくまれている。しかし、「近代合理主義」は、そのような理性の限界を容認しない。
X=合理主義的態度一般
→ 理性の限界を容認
しかし
Y=筆者の主張
→ 「近代合理主義」は、そのような理性の限界を容認しない
前項の〈確かにA、逆接語B〉という譲歩表現では、Bが筆者の主張であることを説明したが、「確かに」「なるほど」といった語句がない場合でも、逆接表現のあとには筆者の主張が表れやすい。
とくに、上の文章のように、逆接表現の前には一般論や肯定的な表現がある場合に、逆接表現のあとは、前説をくつがえす筆者の意見が示されることが多い。
X(一般論・肯定的な表現)
+
[逆接表現]
+
Y(筆者の主張・本音)
日本語の逆接語は数が多く、強さが違う
但是・可是・然而 に対して、日本語は「しかし」「だが」「ところが」「けれども」「にもかかわらず」「とはいえ」があり、強さと文体が段階的に違う。「しかし」は最も一般的、「ところが」は意外性、「とはいえ」は譲歩寄り、「にもかかわらず」は因果の否定を含む。
最頻出の逆接は「が」である
そして「が」は逆接とは限らない。ここが中国語話者にとって最大の落とし穴になる。中国語の 但 は必ず逆接だが、日本語の「が」は前置き・並列・逆接の三役を兼ねる。
-
西洋人は、日本が平和な文芸にふけっていた間は、日本を野蛮国と見なしていた。しかるに満洲の戦場に大々的殺戮を行ない始めてから文明国と呼んでいる。岡倉天心『茶の本』第一章(1906/訳は本教材)
逆接の直後に主張が来るという型の見本である。「しかるに」の前は事実の記述にすぎない。後ろでもう一つの事実を並べる。天心は一言も「西洋は間違っている」と書いていない。それでも主張は完全に伝わる — 二つの事実の落差そのものが主張になっているからだ。ここに逆接の本当の働きがある。逆接は前を打ち消す記号ではなく、前と後ろの落差に読者の目を向けさせる装置である。「しかし」の後ろだけを読んでも主張はつかめない — 前を読んではじめて落差が見える。 -
「日本より頭の中のほうが広いでしょう」と云った。「囚われちゃ駄目だ。いくら日本のためを思ったって贔屓の引き倒しになるばかりだ」……「しかしこれからは日本もだんだん発展するでしょう」と弁護した。するとかの男は、すましたもので、「亡びるね」と云った。夏目漱石『三四郎』(1908)
逆接が会話のやりとりに現れた例である。三四郎の「しかし」は常識の側からの反論だ。それを広田先生が二字で折る。注目したいのはこの「しかし」が筆者の主張の合図ではないことである。登場人物の逆接は筆者の逆接ではない。小説でも評論でも、引用や会話の中の接続語は「誰の論理か」を見きわめてから扱う。逆接の主が入れ替わる一行を読み違えると、筆者が反対のことを言っていたことになる。
- 「が」をすべて逆接と読むと、論の流れが不自然に折れる。
- 逆接の直後が長い場合、主張はその文の文末にある。途中で判断しない。
- 逆接が二回続くと、二回目の後が主張になる。一回目で決めない。
- この「が」は、前を否定しているか。していなければ前置きである。
- 逆接の直後の文は、どこで終わるか。文末まで読んだか。
- この逆接は、譲歩(4)の後半か、それとも単独の転換か。
具体例の読み解き方
働き ── 抽象と具体を往復し、抽象の側を主張として取り出す。
言語だけが記号ではない。国旗や花などの「物」にも私たちは意味を見出している。例えば、ある国の国旗を焼く行為はテーブルクロスを焼くのとはまるで違うし、人に花をあげる場合でもカーネーションと菊では意味が違ってくる。
A=抽象表現
国旗や花などの「物」にも私たちは意味を見出している
↓ たとえば
A'=具体表現
ある国の国旗を焼く行為はテーブルクロスを焼くのとはまるで違うし、人に花をあげる場合でもカーネーションと菊では意味が違ってくる
評論文の筆者は、説明したい内容に説得力を与えるために具体例を示す。「たとえば」「具体的には」といった語句は、そのあとに具体例が出てくるサインだ。
具体例を読み解く際に重要なのは、〈その具体例によって説明しようとしている抽象的内容〉を押さえること。
とくに具体例に対応する表現が抽象的で難しい場合には、具体例の内容を把握することで、抽象表現の内容を理解できるケースが多い。
A(抽象表現) ↓ たとえば A'(具体表現)
AからA'の内容を正確にキャッチ!
例示の標識は似ている
例如・比如 と「たとえば」はほぼ対応する。ただし日本語は標識なしの例示が多い。急に固有名詞や数字が出てきたら、それが例示の始まりである。
例が先に来ることがある
中国語の論説は 总—分 の順(先に結論、次に例)が強いが、日本語は分—总、つまり例を積んでから最後に一般化する型も同じくらい多い。例が終わる場所を見つけて、その直後を読むのが手順になる。
-
武士道はその表徴たる桜花と同じく、日本の土地に固有の花である。……われらの桜はその美の下に刺(とげ)や毒を隠してはいない。自然の欲するままにいつでも生を棄てる用意がある。新渡戸稲造『武士道』第一章・第十五章(1900/訳は本教材)
具体例が論の骨格になっている例である。新渡戸は桜を飾りとして出していない — 薔薇と違って刺がない、香を溜め込まない、散り際に執着しないと性質を一つずつ挙げ、そのすべてを武士道の性質に重ねる。ここが具体例の読み方の要点だ — 例そのものを覚えても意味がない。筆者がその例の「どの性質」を使っているかを見る。桜の色や花期はここでは一切使われていない。使われた性質だけが主張に接続しているのであって、例の残りは読み捨ててよい。 -
私がこれから述べようとする五人の日本人は、……西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮上人 ── すなわち新日本の創設者、封建領主、農民聖者、村の先生、仏僧である。内村鑑三『代表的日本人』(1908/訳は本教材)
具体例を並べる順序に意味があることを示す。内村は五人を挙げたあと、「すなわち」でそれぞれの肩書を言い直す。この言い換えが効いていて、五人が「政治・行政・経済・教育・宗教」という五つの領域を覆っていることがそこではじめて見える。具体例が三つ以上並んだら、それらがどの範囲を張っているかを見る — 例の数ではなく例の広がりが、筆者の主張の射程を決めている。t1 の同内容表現がここでも働いていることに注意したい。
- 例そのものを覚えてしまい、何のための例かを見失う。例は捨ててよい。
- 例が長いと、そこが主題だと錯覚する。
- 複数の例が並ぶとき、それらの共通点が抽象の側である。個々の違いに注目しない。
- この例は、直前と直後のどちらの主張を支えているか。
- 例が終わるのはどこか。そこから抽象に戻る。
- 例をすべて消したとき、この段落に何が残るか。
因果関係
働き ── 二つの事柄を、原因と結果として結びつける。
近代科学の知と技術文明は、それらのもたらしたものが大きかっただけではなく、人間の営みのなかで、ただ一つ永続的かつ無限に発展するものと見なされてきた。したがって現在未解決な問題も、やがては必ず科学によって解決されるものと考えられた。
原因・根拠
近代科学の知と技術文明は……永続的かつ無限に発展するものと見なされてきた
↓ したがって
結果・主張
現在未解決な問題も、やがては必ず科学によって解決されるものと考えられた
筆者の主張や判断には、必ずその根拠が伴っている。よって文章の読解は、主張とその根拠とをセットで押さえることが重要であり、そのためのヒントになるのが因果関係の表現だ。
「だから」「ゆえに」「したがって」という順接表現が代表的な語句だが、「その結果」「なぜなら」というものも、因果関係を表す。
また、「~のために」「~によって」などの語も、文脈によっては因果関係とほぼ同義で用いられることがある。たとえば「治療によって回復した」などだ。
- だから、ゆえに、したがって
- その結果、なぜなら、というのも
- ~のために、~によって
- ~の背景には
中国語は因果の関連詞が前に立つ
因为…所以 は前後で対になり、しかも 因为 が先に来る。日本語は「〜からである」「〜ためである」が文末に来るため、その文を最後まで読むまで、それが理由の説明だったと分からない。
順序が逆になりうる
日本語は「結果。なぜなら原因だからである。」という順序を好む。中国語の 因为…所以 の語順に慣れていると、原因を探す方向を間違える。「なぜなら」「というのも」が出たら、原因はこれから述べられる。
「ので」と「から」
どちらも原因を表すが、「ので」は客観的な事実関係、「から」は話し手の判断や主張を含む。評論文で「〜からである」が使われるとき、そこには筆者の解釈が入っている。
-
独立の気力なき者は必ず人に依頼す。人に依頼する者は必ず人を恐る。人を恐るる者は必ず人に諂(へつら)うものなり。福沢諭吉『学問のすゝめ』第三編(1873)
因果が三段連なった例である。気力の欠如 → 依頼 → 恐れ → 諂い。注目したいのは接続語が一つも使われていないことだ。「だから」も「ゆえに」もない。代わりに働いているのは「必ず」という副詞と、前の文の述語を次の文の主語に据える連鎖である。因果を接続語だけで探すと、この型は見つからない。「Aする者はBする。Bする者はCする」という尻取りの形が見えたら因果だと思ってよい。そしてこの型の要点は、最初と最後だけを取り出せることにある — 独立の気力なき者は諂う。 -
われわれは一方の対象が現れれば必ず他方が続く、ということを見るだけである。われわれは決してそのあいだの結びつきそのものを見はしない。……一つの出来事が他の出来事に続く。しかしわれわれはその二つのあいだに何の絆も観察しない。ヒューム『人間知性研究』第七章(1748/訳は本教材)
因果と書いてあるものが因果とは限らないことを教える。ヒュームが言うのはわれわれが実際に見ているのは「続いて起きる」ことだけで、「だから」という結びつきは見ていないということだ。因果は観察ではなく解釈である。ここから読解の実務が出る — 筆者が「ゆえに」「だから」でつないだところは、筆者がそう解釈した場所である。前の福沢の一節をこの目で読み直すと、「必ず」という副詞が三度打たれていることに気づく — 断定を重ねなければならないほど、そこは証明されていない。因果の強い文は、しばしば因果の弱いところに置かれる。
- 相関を因果と読む。「Aのあとに B が起きた」だけでは因果ではない。
- 因果の向きを取り違える。日本語では結果が先に書かれることが多い。
- 「〜ため」は原因と目的の両方を表す。どちらかは文脈で決まる。
- この「から」「ため」は、原因か、目的か。
- 原因はこの文の前にあるか、後にあるか。
- 筆者は因果を証明しているか、それとも解釈として提示しているだけか。
時間・時代の変化
働き ── 時間の前後で世界を二つに割る。
十九世紀には、理論の樹立こそ科学の目的であり、実験はその検証であって、検証された理論は自然の永遠の真理であると信じられていたが、二十世紀には、実験結果こそが信じられるものであって、理論は実験のための仮説に過ぎず、実験と合わない理論は捨てられるだけでなく、別の理論も可能であり、要するに理論は近似的なものに過ぎないと考えられるようになった。
| 十九世紀 | 二十世紀 |
|---|---|
| 理論は自然の永遠の真理 | 理論は実験のための仮説 |
一つの時代を説明する場合、その時代の特徴を浮かび上がらせるために別の時代と比較されることが多い。
とくに「近代」や「現代」を論じる評論文の多くは、過去の時代からの変化や対比をよく用いる。したがって、文章に時間軸が導入されている場合は、何が「変化」し、どのように「対比」されているのかをしっかりと追うように心がけよう。
なお、小説でも、時間の推移をたどるのは必須である。
- かつては、以前は、~時代(世紀)では
- これまでは、従来
- AからBへ
- 近代は~、現代は~
中国語は時制標識が少ない
中国語には時制の活用がなく、了・过・曾经 などの相のマーカーと時間詞で表す。日本語は述語の活用(〜た/〜ている/〜てきた)そのものが時間を担う。とくに「〜てきた」は〈過去から現在まで続いてきた〉を一語で示す重要形で、評論文では「近代は〜してきた」という形で時代の総括に使われる。
「かつて」と「今日」
この対がそのまま対比(2)の軸になる。中国語の 从前/如今 に対応するが、日本語は時間語を省いて動詞の形だけで示すことが多い。
-
あたかも一身にして二生を経るが如く、一人にして両身あるが如し。福沢諭吉『文明論之概略』緒言(1875)
時代の変化を身体の比喩で言った一句である。福沢は封建の世と明治の世を生きた。その経験を「一身にして二生を経る」と書く。ここで効いているのは時間の語が一つも出てこないことだ。「昔」も「今」も「かつて」もない。「二生」「両身」という数の語だけで断絶を示している。時代の変化を読むとき、年号や「近代」といった語だけを追っているとこの型を逃す — 断絶はしばしば「二つ」「別の」「もはや」といった語で示される。変化の記述で一番大事なのは、筆者がそれを連続と見ているか断絶と見ているかである。 -
こうして生命はそのいくつもの力とともに、はじめはわずかな形かただ一つの形に吹き込まれた。そしてこの惑星が重力の定まった法則に従ってめぐるあいだに、かくも単純な始まりから……無限の形態が生じてきたのであり、いまも生じつつある。ダーウィン『種の起源』結び(1859/訳は本教材)
時間の幅を文の構造で見せている。注目したいのは最後が「生じてきた」で終わらず、「いまも生じつつある」で閉じられることだ。過去形で終われば歴史の記述になる。現在進行で終えると、読者がその過程の中に置かれる。時代の変化を扱う文章では、末尾の時制が筆者の構えを示す — 過去で閉じれば「終わったこと」、現在で閉じれば「続いていること」。設問が「筆者の立場」を問うとき、答えはしばしば文末の一語にある。
- 時間の対比を、単なる例示だと読む。
- 「〜てきた」を単なる過去と読むと、現在まで続いているという含意を落とす。
- 三つ以上の時期が区切られていることがある(前近代・近代・現代)。
- この文章は、いくつの時期に世界を区切っているか。
- その区切りの<strong>境目</strong>に何が起きたと書かれているか。
- 筆者は、どの時期を肯定し、どの時期を批判しているか。
空間の比較
働き ── 場所や文化圏で世界を二つに割る。
東洋と西洋とを比較して、その差異を指摘しようという試みは、すでに多少なされ、そのなかで多くの相違点が明らかにされたと考えられている。たとえば、「非合理的」対「合理的」、「総合的」対「分析的」、「静的」対「動的」などの対立点は、その最もポピュラーなものと言えよう。
| 東洋 | 西洋 |
|---|---|
| 非合理的 | 合理的 |
| 総合的 | 分析的 |
| 静的 | 動的 |
前項で取り上げた時間軸とともに、対比構造の発見の手がかりになるのが「空間」の比較だ。上の文章の他にも、〈欧米と日本〉や〈都市と地方〉などを比較したものもある。
空間を対比させた文章においても、対比を読み解く基本にのっとり、対比のテーマ〈何を述べているのか〉、対比内容〈それぞれどのような特徴をもつのか〉という点をしっかり押さえよう。
- 欧米 ↔ 日本
- 西洋 ↔ 東洋
- 都市 ↔ 共同体
- 都市 ↔ 地方
- 日常の空間 ↔ 非日常の空間
- ウチ ↔ ソト
空間対比は文化論の定型である
西洋/東洋、ヨーロッパ/日本、欧米/アジア。中国語圏の論説でも 西方/东方 の対はまったく同じように使われる。この型は中国語の読解経験がそのまま生きる。
ただし日本語の空間対比には第三項が隠れる
「西洋と日本」と書かれているとき、中国が暗黙の第三項として背後にあることが多い。漢字文化圏という前提が省略されているためで、日本語話者は書かない。ここは読み手が補う。
-
モンスーン域の人間の構造は受容的・忍従的である。……暑熱と湿気の結合において自然は人間に恵みを与えると同時に人間を圧倒する。……これに対して沙漠においては自然は人間に何ものをも与えない。和辻哲郎『風土』(1935/和辻 1960 没)
空間の比較が人間の説明に転じる典型である。和辻は地理を比べているように見えて、比べているのは人間の構えだ。ここで押さえるべきは比較の軸が一本だけであること — 自然が人間に何をするか。モンスーンは与えつつ圧倒し、沙漠は何も与えない。空間の比較を読むとき、土地の名前を追ってはいけない。その土地がどの性質の代表として置かれているかを見る。「西洋と日本」も同じで、地名はたいてい性質の名札である。 -
私がアメリカ合衆国に滞在していたあいだに注目した新奇な事物のうち、境遇の平等ほど強く私の目を惹いたものはない。……やがて私はこの根本的な事実が、すべての個別の事実に及ぼしている影響を見いだした。トクヴィル『アメリカのデモクラシー』序論(1835/訳は本教材)
空間の比較が一方しか書かれていない例である。トクヴィルはアメリカだけを書いているが、読者が「新奇」と感じるのはフランスと比べているからだ。「新奇な」という一語が比較の相手を呼び出している。空間の比較では、片方が書かれないことが多い — 珍しい・独特の・かえって・に比べてといった語が出たら、書かれていない側を補って読む。その見えない片側が、たいてい筆者の立っている場所である。
- 空間の対比を、優劣の判定だと読む。多くの場合、筆者は優劣をつけていない。
- 「日本人は〜」という一般化を、事実の記述だと読む。それ自体が一つの見方である。
- 対比の一方が理念化されていることがある(実在の西洋ではなく、想像された西洋)。
- この空間対比の軸は何か。
- 書かれていない第三の場所はどこか。
- この「西洋」は、実在の西洋か、それとも比較のために作られた像か。
常識批判
働き ── 通念を提示し、それを否定して自説を立てる。
常識的科学観によると、科学革命とは、ある一定した観察や実験のデータに対する解釈が変わることである。しかしこのような見方では、科学革命の性質を十分に表わせない。科学革命によって二つの分野のパラダイムが変わると、同じ現象を見ても、それを取り扱う見方、考え方が変わり、その現象について取り上げる問題が変わる。
常識的科学観
科学革命とはデータの解釈の変化
↓ 批判
筆者の主張
科学革命によってパラダイムが変わると、取り上げる問題が変わる
評論文の典型的な展開として、〈常識の紹介〉→〈批判〉という形を押さえておこう。
評論文を書く大きな目的は、「それまで言われてこなかった新しい見方や考え方」を説明することなのだから、およそどのような評論文にも〈常識批判〉の要素が含まれている。
よって、「筆者が批判しているのは何か」と考えながら読解することで、筆者の主張がつかまえやすくなる。
- これまで(従来)は~と考えられてきた
- ~と言われている
- 常識的には~、一般的には~
- 通説によれば~
中国語も同型の型を持つ
人们通常认为…但事实上/一般以为…其实 は、日本語の「一般に〜と思われている。しかし実は〜」に対応する。構造は共通している。
日本語は通念の主語を書かない
中国語は 人们・一般人 と主語を立てるが、日本語は「〜と思われている」「〜とされる」という受身・自発の形で、誰がそう思っているかを書かない。この主語のない受身が、通念の標識そのものになっている。ここを見つけられるかが分かれ目になる。
-
人間の知性を取り巻いてこれを惑わす幻影には四つの種類がある。……第一を種族のイドラ、第二を洞窟のイドラ、第三を市場のイドラ、第四を劇場のイドラと名づける。フランシス・ベーコン『ノヴム・オルガヌム』(1620/訳は本教材)
常識批判の型を型として取り出した文章である。ベーコンは個々の誤りを一つずつ正すのではなく、誤りが生じる場所を四つに分ける。注目したいのは「市場のイドラ」だ — 言葉のやりとりから生まれる思い込みである。常識批判の文章の多くは、この第三のイドラを扱っている。「〜と言われている」「〜が常識である」で始まる段落は、ほぼ必ずそのあとで折られる。常識の提示は同意ではなく、標的の設置だと読む。 -
戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。……人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。坂口安吾『堕落論』(1946/安吾 1955 没)
常識批判と否定→肯定(t3)が重なった文章である。当時の常識は「敗戦が日本人を堕落させた」だった。安吾はそれを「戦争に負けたから堕ちるのではない」と切って、原因を歴史から人間そのものへ移す。ここが常識批判の要点だ — 常識を「間違い」と言うのではなく、「原因の置き場所が違う」と言う。そして批判のあとには必ず筆者自身の答えが来る。常識批判の段落だけを読んで筆者の主張を取ろうとすると、「否定していること」しか拾えない — 主張はその先にある。
- 通念の部分を筆者の主張だと読む。「〜とされる」は筆者が距離を取っている合図である。
- 「常識」「当たり前」「自明」という語が肯定的に使われていると読む。評論文ではほぼ批判の対象である。
- 通念の否定が、そのまま反対の主張だとは限らない。第三の立場が出ることがある。
- この「〜と思われている」は、誰の考えか。筆者はそこに含まれるか。
- 通念はどこで終わり、批判はどこから始まるか。
- 筆者は通念を否定したあと、何を代わりに置いたか。
疑問→解答+根拠はワンセット
働き ── 問いを立て、答えと根拠を三点セットで回収する。
「名状しがたいもの」が目の前に現れたとき、どう表現したらよいのか。言い表すべき言葉がないとき、どう対処するのか。たとえば美しい山の姿を前にして、その下の方をなんと表現したらよいかと言葉に詰まる。そのとき人はたとえばメタファーに頼ることになる。着物の裾になぞらえて山「裾」と呼ぶ。
疑問
「名状しがたいもの」が目の前に現れたとき、どう表現したらよいのか
↓
解答
たとえばメタファーに頼ることになる
問題文の中に疑問形の文章が出てきたら、それは筆者が問題提起をしている証であり、「解答」と「根拠(理由)」を与える方向で文章は進んでいく。
そのため、疑問文を見つけたら、「解答は何か」「その根拠はどこにあるか」と考えながら文章を読んでいくのが、論理的な読解だ。
なお、こうした〈疑問→解答〉型の文章は、前項で説明した常識批判とも組み合わさることが多い。その場合、解答は〈A(常識)ではなくB(筆者の解答)だ〉という形を取りやすい。
~とは何か、~とはどういうことか
(問題提起)
↓
〈解答+根拠〉をセットで把握する
日本語の問いは疑問符を持たない
中国語は 吗・呢 や疑問詞で問いが明示される。日本語の評論文は「〜だろうか」「〜のではないか」で問い、しかも疑問符を打たないことが多い。文末表現だけが手がかりになる。
「〜ではないか」は問いではなく主張である
これが最大の差になる。中国語の 难道不是…吗 に近いが、日本語の「〜ではないだろうか」は断定を和らげた主張であり、答えを求めていない。問いの形をした主張を、問いとして読むと論の流れを見失う。
-
私はこう考えた ── いったいこの神託は何を言おうとしているのか。私は自分が賢くないことを知っている。……そこで私は賢いと評判の人のところへ行った。……その結果私はこう思った。私はこの人よりは賢い。知らないことを知らないと思っているぶんだけ。プラトン『ソクラテスの弁明』(前四世紀/訳は本教材)
疑問・検証・解答が一続きに書かれた最古級の文章である。構造は三段で、問い(神託は何を意味するか)→調査(賢者を訪ねる)→答え(知らないことを知っているぶんだけ賢い)。注目すべきは調査の部分が最も長いことだ。答えだけを書けば一行で済む。それでも長く書くのは、根拠を示さない答えは受け入れられないと知っているからである。評論で問いを見つけたら、答えを急いで探してはいけない — その間に置かれた検証こそが筆者の仕事であり、設問もそこを問う。 -
しかしながらそのすぐ後で私は気づいた。すべてを偽と考えようとしているあいだも、そう考えている私は必然的に何ものかでなければならない、と。そして「私は考える、ゆえに私はある」というこの真理が、……あまりに確実であることを認めた。デカルト『方法序説』第四部(1637/訳は本教材)
解答が根拠と同時に出てくるという珍しい型である。「考えている私がいなければならない」が根拠で、「われ思う、ゆえにわれあり」が解答。この二つは同じ一つの事柄の言い換えである。つまりt1 の同内容表現がここでは論証の役を担っている。読解で「根拠」を探すとき、「なぜなら」を探すだけでは足りない — 主張の直前や直後に置かれた言い換えが、そのまま根拠になっていることがある。接続語の無い論証が最も見落とされる。
- 問いを見つけても、答えを探さずに読み進める。問いは必ず回収される。
- 答えだけ拾って根拠を落とす。根拠がなければ、それは主張ではなく感想である。
- 反語(=答えが自明な問い)を、本当の問いと読む。
- この文末の「〜だろうか」は、本当の問いか、それとも和らげた主張か。
- この問いの答えは、どこに書かれているか。まだなら、どこまで待つか。
- 答えの根拠は示されたか。示されていないなら、筆者はそれを自明としている。
呼応表現
働き ── 前の語が、後の語の形を決める。文の骨格を先読みする。
人間が人間であることの根拠を理性に求めるこの理解は、あたかも当然のことのように、人間一般の基本モデルを分別ある大人に想定する。
人間が人間であることの根拠を理性に求めるこの理解は、あたかも当然のことのように、……
呼応表現とは、文中において、ある語句の存在によって、あとに続く叙述に決まった語句がくることを言う。
古文の「な……そ〈=禁止〉」「え……ず〈=不可能〉」なども呼応表現である。
上の文章の「あたかも」は、下に「~のように」を伴うことが多い。代表的なものは覚えておこう。
- 決して~ない
- まさか〈よもや〉~まい(ないだろう)
- あたかも〈まるで〉~のよう(に/な)
- というのも〈なぜなら〉~からである
- もし~ならば
- ただ〈単に〉~だけ
中国語の関連詞は必須、日本語の呼応は任意
中国語の 虽然…但是/不但…而且/因为…所以 は、片方を省くと不自然になることが多い。日本語の呼応は前半(副詞)を省いても文が成り立つ。「まるで夢のようだ」から「まるで」を取っても通じる。だから日本語では、呼応の副詞が出てきたら、それは書き手が意図的に置いた合図である。
否定の呼応が最も重要である
「決して〜ない」「必ずしも〜ない」「あながち〜ない」「まさか〜まい」。いずれも否定は文末にある。副詞を見た瞬間に、文末が否定だと予測できる。長い文でこの予測が効くと、読む速度と正確さが一気に上がる。
部分否定と全部否定
「必ずしも〜ない」は部分否定(例外がある)、「決して〜ない」は全部否定。中国語の 不一定/绝不 に対応する。この差を落とすと主張の強度を読み違える。
-
武蔵野に散歩する人は、道に迷うことを苦にしてはならない。どの路でも足の向くままに歩いていく。……いっさいそれらのものが溶け合ってほとんど見分けがつかない。国木田独歩『武蔵野』(1898/独歩 1908 没)
呼応が文の骨を決めている例である。「〜ことを苦にしてはならない」は禁止の呼応で、文末まで読まないと肯定か否定かが定まらない。「いっさい〜つかない」も同じで、「いっさい」を見た時点で文末は打ち消しだと分かる。ここに日本語の読解の急所がある — 中国語や英語は否定辞が前に来るので早い段階で向きが決まるが、日本語は文末で決まる。だから呼応の副詞は「文末を先に知らせる合図」として働く。拾えば読む速度が上がる。 -
もし私の鼓動が停(と)まった時、あなたの胸に新しい命が宿る事が出来るなら満足です。夏目漱石『こころ』(1914)
仮定の呼応が一文の全体を支配している。「もし〜なら」で始まり、「満足です」で閉じる。注目したいのは「もし」が文頭にあるのに、それを受ける「なら」が二十字以上離れていることだ。あいだに入っているのはすべて条件の中身である。呼応の距離が長い文ほど、途中で主語を見失いやすい。対処は一つ — 「もし」を見たら「なら/たら/ば」を先に探し、その外側の主節を押さえてから中を読む。この章の十二のツールはすべて同じ構えに立っている — 先に骨を見つけ、それから肉を読む。
- 呼応の後半だけ見て、前半の副詞を読み飛ばす。副詞は主張の強度を決めている。
- 「必ずしも〜ない」を全部否定と読む。部分否定である。
- 「ただ〜だけ」の限定を落とす。限定は主張の範囲を決める。
- この副詞は、文末にどんな形を要求しているか。
- この否定は、全部否定か、部分否定か。
- 副詞を消したら、主張の強さはどう変わるか。
四つの問いを、常に走らせておく
十二のツールは、探しに行くものではない。読みながら四つの問いを走らせておけば、該当する型が現れたときに自動的に引っかかる。問いは順序どおりに一度ずつではなく、段落が変わるたびに何度も戻る。
この四つを回しているあいだ、頭の中には常に二つのリストが保持されている。一つはいま何の話をしているか(同内容表現の鎖)、もう一つは何が捨てられ何が残ったか(選別の結果)である。文章を読み終えたとき、この二つが答えられれば、主旨は取れている。
第一段階 ── 文末を確定させる。一文ごとに、肯定か否定か、断定か推量か、主張か引用かを決める。ここが曖昧なまま先へ進むと、以後すべてがぼやける。
第二段階 ── 型を当てる。その文または段落が、十二の型のどれかに当てはまるかを見る。当てはまれば、続く展開が予測できる。「確かに」が出れば逆接を待ち、「なぜなら」が出れば理由を待つ。
第三段階 ── 捨てる。例を消し、譲歩の前半を消し、否定された側を消す。残ったものを一本につないだとき、それが筆者の主張である。読解とは、読んだものを減らしていく作業である。
産出
やるなら ── 日本語の論説を一つ選び、次の手順で読む。
- 各段落の文末だけを先に拾い、肯定・否定・推量・引用のどれかを記録する
- 「確かに」「しかし」「つまり」「なぜなら」に印をつけ、それぞれが何を予告しているかを書く
- 例と譲歩の前半をすべて消し、残った文だけをつないで一段落に要約する
論理標識が任意である言語では、標識を置かないという選択もまた、一つの意味を持つ。書かれなかった「しかし」は、どこにあったのか。