Section 04
漢語・副詞
197★
艱難
かんなん[0]かんなん平板型
語構成
艱なやむ・くるしむ+難むずかしい
「艱」も「難」も〈苦しみ・難しさ〉を表す。読みが問われる。
定義
困難に遭い、悩み苦しむこと。
『現代文キーワード読解』第3部 ☑197
原書の解説
「艱難」の意味を強めた、「艱難辛苦」という四字熟語もある。
使用の境界困難にあって苦しみ悩むこと。単なる困難ではなく、長く続く苦しみを含む。
用法二字がともに〈苦しみ・難しさ〉を表す。日常語ではなく、「艱難辛苦」という四字熟語、または「艱難汝を玉にす」という諺の形で出会うことが多い。後者は〈苦労が人を立派にする〉という意味で、西洋の諺の訳とされる。「艱」は画数が多く書き取りでも難しいため、読みで問われることが中心になる。小説では、登場人物の来歴を要約する箇所に現れる。
用例
-
天の将(まさ)に大任を是(こ)の人に降さんとするや、必ず先づ其の心志を苦しめ、其の筋骨を労せしめ、其の体膚を餓ゑしめ、其の身を空乏にし、行ひ其の為す所に払乱(ふつらん)せしむ。心を動かし性を忍ばせ、其の能(あた)はざる所を曾益(そうえき)せしむる所以(ゆゑん)なり。『孟子』告子下(書き下しは本教材)
「艱難汝を玉にす」という諺の出どころにあたる一節である。天が大任を与えようとするとき、まず心を苦しめ、身を飢えさせ、やることなすこと狂わせるという。ここで見ておきたいのは苦しみに目的が与えられていることだ。「能はざる所を曾益せしむる」 — できなかったことをできるようにするためだと言う。艱難という語が「単なる困難」より重いのは、この意味づけの伝統を背負っているからである。長く続き、その先に何かがあると信じられている苦しみ — それがこの語の住む場所だ。
-
私の生を殺さないものは、私をより強くする。ニーチェ『偶像の黄昏』箴言と矢(1889/訳は本教材)
同じ思想の近代版であり、同時にその危うさも見せてくれる。孟子は天という与え手を立てていた。ニーチェには与え手がいない。苦しみはただ起こるのであって、強くなるかどうかは結果論である。ここに「艱難汝を玉にす」を他人に向けて言うときの危うさが見える — 苦しんでいる当人が言えば励ましだが、外から言えば苦しみの正当化になりうる。諺は誰が誰に向けて言うかで意味が変わる。
- 十年の艱難の末に、祖父はこの土地に根を下ろした。
正しい使い方。「十年の」という期間の語と結ぶのが要点で、艱難は長さを含む。「〜の末に」という結びもよく合う — 終わったあとから振り返って名づける語だからだ。
- ×初日の設定作業に艱難した。
語の重さが合わない。一日で終わることにこの語は使えないし、そもそも「艱難する」という動詞形はない。「難儀した」「手こずった」でよい。硬い漢語ほど活用の自由が少ない。
作品での用例
旧家の生まれである三吉は実家に戻り、一家の大黒柱のような存在になっていく。
「自分は未だ若い」斯世の中には自分の知らないことが沢山ある。一期思想から、一度破って出た旧い家へ死すべき生命も捨てずに戻って来た。其時から彼は斯世の艱難を進んで嘗めようとした。
出典 島崎藤村『家』
派生形
- 艱「艱」は常用漢字外で、この語と「艱難辛苦」以外ではほぼ見ない字である。字が一語に囲い込まれると、読みも意味もその一語ごと覚えるほかなくなる — 読みが問われるのはそのためだ(「かんなん」であって「かんたん」ではない)。
- 艱難辛苦[1]四字熟語。「艱難」+「辛苦」で、二字熟語を二つ並べるという四字熟語の最も基本的な作り方に従う(悪戦苦闘・暗中模索)。並べても意味は増えないが、四拍のリズムが演説や碑文に向く。
- 難儀[1]日常語に降りてきた同系の語。「難儀する」と動詞になれるのが艱難との大きな違いで、使用頻度の高い語ほど活用が豊かである。関西では今も生きた口語で、同じ漢語が地域によって文語にも口語にもなる。
コロケーション
- 艱難辛苦四字熟語の形実際に出会うのはほぼこの形である。「辛苦」も同義なので、四字すべてが「苦しい」を言っている。同義の字を重ねて強めるのは漢語の常道だが(187 怪訝と同じ作り)、四字まで重ねると意味の追加ではなく文体の荘重さが目的になる。
- 艱難汝を玉にす諺の形「玉にす」は原石を磨いて宝玉にすること。西洋の諺の翻訳とも言われる。注目したいのは「玉」という比喩だ — 磨くのは外側であって、中身が変わるわけではない。もともと玉である者だけが玉になるという含みが残っており、174 才走るの『山月記』が「己の珠に非ざることを惧れる」と書いたのと同じ比喩の系譜に立つ。
- 艱難に耐える受け手の動詞「耐える」「堪える」「乗り越える」と結ぶ。「艱難と闘う」とはあまり言わない。闘う相手は倒せるものだが、艱難は倒す対象ではなく通り過ぎるまで持ちこたえるものだからだ。共起する動詞が、その語の想定する対処法を教えてくれる。
- 艱難/困難/苦難三語の差困難は中立で事柄の側を言い、苦難は苦しみの側を言う。艱難はそこに「長く続く」と「文語的な重さ」が加わる。三語は事態の大きさではなく、書き手の構えの違いを示す — 艱難を選ぶ書き手は、その苦しみを物語として語ろうとしている。
類語と差
- 困難難しくて苦しい一般語。艱難は文章語で、苦しみの深さと長さを含む。
- 辛苦つらく苦しいこと並べて「艱難辛苦」と使う。ほぼ同義。
- 苦難苦しみと難儀近い。艱難のほうが古風で重い。
- 試練力を試す困難乗り越える前提がある。艱難は苦しみそのもの。
ENhardship / tribulation
ZH艰难(困難, jiānnán)
198★★
一瞥
いちべつ[0]いちべつ平板型
定義
ちらっと見ること。
『現代文キーワード読解』第3部 ☑198
原書の解説
「瞥」は〈横目でちらっと見る〉の意。「一瞥を与える」という使い方も覚えておこう。
使用の境界ちらりと一度だけ見ること。関心の薄さや冷淡さを含むことが多い。
用法「瞥」はちらりと見るという字で、この一字に語義が集約されている。要点は、この語がしばしば相手を軽んじる態度を含むことにある。「一瞥をくれる」「一瞥しただけで」という形で、じっくり見るに値しないという評価が示される。ただし単に短く見ることを言う中立の用法もあり、文脈で判断する。「一瞥だにしない」は〈見向きもしない〉という強い無視の表現である。
用例
-
……稲妻が走った。そして夜が来た。ああ、消え去った美しい人よ。そのまなざしが一瞬わたしをよみがえらせたあなたよ。もう永遠のかなたでしかあなたに会えないのか。ボードレール『悪の華』「通りすがりの女に」(1857/訳は本教材)
一瞥が軽んじるためだけのものではないことを示す。雑踏ですれ違った女性と目が合った。それだけである。会話もなければ再会もない。それでもその一瞬が生涯の出来事になる。ここで効いているのは時間の短さと意味の大きさの不釣り合いだ。一瞥という語はその不釣り合いを名指せる — 軽んじる一瞥は「見るに値しない」という判断を、この詩の一瞥は「見尽くせない」という感覚を運ぶ。短さそのものは中立である。
-
子曰く、其の以(な)す所を視、其の由る所を観、其の安んずる所を察すれば、人焉(いづ)くんぞ廋(かく)さんや、人焉くんぞ廋さんや。『論語』為政篇(書き下しは本教材)
見ることに段階があることを説く。孔子は視・観・察と三つの動詞を使い分ける — 行いを視、動機を観、落ち着き先を察する。この三段を踏めば人は隠しようがないという。一瞥はこの最初の段の、さらに手前にある。視ることすら完了していない。だからこの語が軽侮を含むのは当然で、「じっくり見るに値しない」という判断を態度で示していることになる。見る時間の長さが敬意の量に換算される — この対応がある限り、一瞥は失礼でありうる。
- 受付は書類に一瞥をくれただけで、判を押した。
軽侮の含みが出た例。「くれる」という動詞が効いている — 与えてやるという上からの構えを作る。「一瞥を与える」も同じで、視線を施し物のように扱う言い方である。
- ×名画の前で三十分一瞥しつづけた。
持続と両立しない。「一」が入っているとおり、一度きり・一瞬が条件である。「凝視した」「見入った」が正しい。数を含む漢語はその数を守る — 一瞥・一瞬・一顧。
作品での用例
食糧難の戦争直後、「私」たちの乗る汽車に、果物を入れた籠をさげて乗り込む女性がいた。「私」は無関心な態度をつくろった。
内心は、私こそ誰よりも最も、その籠の内容物に関心を持っていたに違いないのですが、けれども私は、我慢してその方向には一瞥もくれなかったのでした。
出典 太宰治『たずねびと』
派生形
- 瞥〈横目でちらりと見る〉。この一字に語義のすべてが入っている。「目」偏を持ち、「一瞥」「瞥見」以外ではほぼ使われない。字が一語に囲い込まれる点で197 の「艱」と同じで、硬い漢語はしばしば専用の字を抱えている。
- 瞥見[0]「ざっと目を通す」。一瞥が態度の語であるのに対し、瞥見は作業の語である(「資料を瞥見したかぎりでは」)。軽侮の含みはなく、むしろ謙遜に使う。同じ字でも、対象が人か文書かで評価が入れ替わる。
- 一瞥する動詞形。「一瞥をくれる/与える/投げる」という名詞+授受動詞の形と併存する。動詞形は中立、名詞形は評価を帯びる — 名詞にすると視線が物として扱え、物はやり取りの対象になるからである。
コロケーション
- 一瞥をくれる軽侮の型「くれる」「与える」と結ぶと上下関係が生じる。視線が恩恵のように扱われるからだ。「一瞥を賜る」とは言わない — 下から上へは流れない。授受の動詞は日本語で最も厳密に上下を刻む装置で、それがこの語に軽侮を与えている。
- 一瞥しただけで判断の速さ「〜だけで分かった」という形で使うと軽侮ではなく眼力の証明になる。「一瞥しただけで贋作と見抜いた」 — 短い時間で正解に達したのだから称賛だ。同じ語が、判断の当否によって侮蔑にも称賛にもなる。
- 一瞥だにしない強い否定「だに」という古い副助詞と結ぶ。「〜さえしない」で、最小限のものすら与えないことを言う。一瞥は「最小の関心」の単位として機能しており、それを否定することで完全な無視を表せる。最小単位の語は否定の足場になる。
- 一顧だにしない隣の表現「一顧」は振り返って見ること。一瞥が横目、一顧が振り返りで、どちらも「わずかな注意」を表す。「一顧だにしない」のほうが慣用として固い。身体の向きの違いが二語を分けているのに、用法はほぼ重なるのが面白い。
類語と差
- 一見ひとめ見る中立。一瞥は冷淡さや軽視を含みやすい。
- 垣間見る隙間からのぞき見る偶然性がある。一瞥は意図して短く見る。
- 目を通すざっと確認する文書に限る。一瞥は人にも使える。
- 流し目横目でちらりと見る色っぽさを含む。一瞥は冷たい。
ENa glance
ZH一瞥(ちらりと見る, yīpiē)
199★★
諧謔
かいぎゃく[0]かいぎゃく平板型
定義
おもしろみのある言葉。ユーモア。
『現代文キーワード読解』第3部 ☑199
原書の解説
「諧謔を弄する」という慣用句で覚えておこう。「弄する」は、〈思うままに操る〉の意。
使用の境界気のきいた冗談。ユーモアの訳語で、上品さと知性を伴う点が要点。
用法「諧」はやわらぐ、「謔」はたわむれるで、和やかな冗談という語構成になっている。したがって害意のない上品な笑いを指し、皮肉や嘲りとは区別される。実際の用法は「諧謔に富む」「諧謔味」という結びつきが多く、文芸批評で作家の文体を評するときに使われる。夏目漱石の文章を評する際にしばしば用いられる語である。読みが問われる。
用例
-
そのとき彼らは野に立つ三、四十基の風車を見つけた。「サンチョ、見よ。あそこに三十を越える無法な巨人がいる。」「巨人などではございません。あれは風車です。腕のように見えるのは帆でございます。」「わかっておらぬな。あれは巨人だ。恐ろしければ離れて祈っておれ。」セルバンテス『ドン・キホーテ』前篇第八章(1605/訳は本教材)
諧謔が嘲りとどこで分かれるかを教えてくれる。この場面は滑稽だが、読者はドン・キホーテを軽蔑しない。理由は語り手が彼を見下していないからだ。風車に突撃する愚かさと、見えたものを信じ抜く誠実さが同じ一つの行為として書かれている。諧謔とはこの「同時に見る」ことである。「諧」はやわらぐ、「謔」はたわむれる — 笑いながら相手を突き放さないという態度が、字の選択にすでに書き込まれている。
-
吾輩は猫である。名前はまだ無い。どこで生れたかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。夏目漱石『吾輩は猫である』(1905)
日本語の諧謔の到達点と言ってよい書き出しである。仕掛けは文体と主語の落差だ — 「吾輩」という尊大な一人称を使うのが名前もない捨て猫である。しかも「とんと見当がつかぬ」と漢文調の語り口を崩さない。言葉の格と中身の格がずれる — これが上品な笑いの作り方である。誰も傷つけていないことに注意したい。諧謔は対象を必要としない笑いでありうる — 皮肉には刺す相手が要るが、諧謔には要らない。
- 弔辞にまで諧謔を忍ばせるのがあの人の流儀だった。
この語の格が出た例。「忍ばせる」という動詞が効いている — 諧謔は前面に押し出さない。気づく人にだけ気づかれるという控えめさが上品さの正体で、笑わせようとした瞬間に諧謔ではなくなる。
- ×新入りをからかう諧謔が飛び交った。
攻撃には使えない。「諧」がやわらぐという字である以上、場を和ませないものは諧謔ではない。「揶揄」「冷やかし」「嘲弄」が正しい。字の意味が使用の範囲を決めている。
作品での用例
読本作者の滝沢馬琴の家を、画家の渡辺崋山が訪れる。
「古人は後生恐るべしと云いましたがな。」 馬琴は崋山が自分の絵のことばかり考えているのを、妬ましいような心もちで眺めながら、何時になくこんな諧謔を弄した。
出典 芥川龍之介『戯作三昧』
派生形
- 諧「言」偏+「皆」で、皆の言葉が調和することを表すとされる。「俳諧」の「諧」もこれで、連歌から生まれた俳諧が「おかしみ」を本領としたのはこの字による。芭蕉の仕事はこの「おかしみ」を深みへ押し進めることだった。
- 謔常用漢字外で、この語以外ではほぼ見ない。「戯(たわむ)れる」と同じ意味だが、「戯」が遊び一般を指すのに対し、「謔」は「言」偏を持ち言葉でのたわむれに限られる。部首が意味の領域を限定している。
- ユーモア[1]諧謔はこの語の訳語として明治期に定着した。原語はもと体液(humour)を意味し、四体液説の均衡が気質を作るという古い医学に由来する。体液の均衡=諧(やわらぐ)と考えると、訳語の選択は偶然にしてはよく出来ている。
コロケーション
- 諧謔に富む最も安定した形「富む」と結ぶのは示唆的だ。富むのは量ではなく豊かさである(機知に富む・示唆に富む)。諧謔は回数で測らない — 一日に何度冗談を言ったかではなく、語り口全体に滲んでいるかで評価される。人格の属性として扱われる語である。
- 諧謔を弄する慣用の形「弄する」は〈思うままに操る〉。技術として扱う言い方で、やや批判的な色を帯びることもある(「弄する」は「策を弄する」とも言う)。「富む」が自然ににじみ出るものとして扱うのに対し、「弄する」は意図して操るものとして扱う — 動詞が評価を運ぶ。
- 諧謔味接尾辞「味」「味」は〈おもむき〉を表す接尾辞(人間味・妙味・真実味)。「諧謔味のある文章」は冗談が書いてあるのではなく、文章全体にその気配があることを言う。数えられないものを扱うための語形で、諧謔が出来事ではなく雰囲気であることを示す。
- 諧謔/皮肉/揶揄三語の距離皮肉は言いたいことの逆を言う(技法)、揶揄は相手をからかう(攻撃)、諧謔は場を和ませる(態度)。三語は笑いの強さではなく矛先の有無で分かれる。諧謔だけが矛先を持たない — だからこそ訳語として「ユーモア」に当てられたのである。
類語と差
- ユーモアおかしみ外来語。諧謔はその訳語で、より文章語的。
- 洒落気のきいた言葉遊び言葉の技巧。諧謔はより広い態度。
- 皮肉遠回しに刺す刺す意図がある。諧謔は害意を含まない。
- 滑稽おかしくてばかばかしい対象の性質。諧謔は作り手の技量。
ENhumour / wit
ZH诙谐(ユーモア, huīxié)
200★★
鷹揚
おうよう[0]おうよう平板型
定義
ゆったりとしている様子。
『現代文キーワード読解』第3部 ☑200
使用の境界ゆったりとして、細かいことにこだわらない様子。度量の大きさを肯定的に評価する語。
用法語源が印象を決める。鷹が大空をゆうゆうと飛ぶ様子から生まれた語で、悠然とした構えを肯定的に評価する。したがって基本的に褒め言葉である。ただし文脈によっては〈細かいことに気づかない〉という含みも出る。森鴎外の作例では、ドイツ人女性が指先を差し伸べる仕草に用いられており、優雅さと同時にわずかな芝居がかりも感じさせる。☑206 横柄と対で押さえるとよい。読みが問われる。
用例
-
北冥(ほくめい)に魚有り、其の名を鯤(こん)と為す。鯤の大なる、其の幾千里なるかを知らず。化して鳥と為る、其の名を鵬(ほう)と為す。……怒(ど)して飛べば、其の翼は垂天の雲の若(ごと)し。……蜩(せみ)と学鳩(がっきゅう)之を笑ひて曰く、「我決起して飛び、楡枋(ゆほう)に搶(あた)る。……奚(なん)ぞ以て九万里にして南せんとするを為さんや」と。『荘子』逍遥遊(書き下しは本教材)
鷹揚という語の構図がそのままここにある。大鵬は九万里を飛ぶ。蝉と小鳩はそれを笑う — そんなに高く飛んでどうするのか、と。注目すべきは大鵬が反論しないことだ。笑われても飛び方を変えない。これが鷹揚さである。細かいことにこだわらないのは寛容だからではなく、尺度が違うからだ。だからこの語は肯定でありながら、いつでも「細かいことに気づかない」という含みへ転びうる — 気づかないのか気にしないのかは、外からは見分けられない。
-
愚かな一貫性は狭い心の妖怪である。……今日考えていることを断固として語れ。そして明日は明日考えることを断固として語れ。たとえそれが今日語ったことのすべてと食い違っていようとも。エマソン『自己信頼』(1841/訳は本教材)
鷹揚さが無責任とどこで分かれるかを考えるために引く。エマソンが否定するのは「愚かな」一貫性であって一貫性そのものではない。小さな辻褄を守るために大きな判断を曲げることを責めている。鷹揚な人物が好かれるのもここで、些事を見逃すのは本筋を見ているからだと受け取られる。逆に本筋も見ていないのに些事を見逃せば「ずぼら」になる。同じふるまいが鷹揚にも怠慢にも見えるのは、見る者がその人の尺度を信じているかどうかによる。
- 祖父は孫が皿を割っても鷹揚に笑うだけだった。
典型的な肯定の使い方。年長者・上位者に使うと収まりがよいのは、とがめる権利を持つ者がとがめないという構図が要るからだ。とがめる立場にない者が見逃しても鷹揚とは言わない。
- ×部下は上司の叱責を鷹揚に受け止めた。
上下が逆である。この語は上から下への寛大さを言う。下位者の受け止め方には使えない — 「素直に」「泰然と」なら成り立つ。評価語には使ってよい方向が刻まれている(184 健気と同じ構造)。
作品での用例
渡邊は知り合いのドイツ人女性とホテルで会食する。
「長く待たせて。」 独逸語である。ぞんざいな詞と不吊合に、傘を左の手に持ち替えて、鷹揚に手袋に包んだ右の手の指尖を差し伸べた。渡邊は、女が給仕の前で芝居をするなと思いながら、丁寧にその指尖をつまんだ。
出典 森鴎外『普請中』
派生形
- 鷹[1]語源の中心。鷹狩りの文化が背景にあり、鷹は猛禽でありながら「品位ある鳥」とされた。強さと優雅さが同居するというこのイメージが鷹揚を褒め言葉にしている — 「鳶揚」でも「烏揚」でも同じ意味にはならない。
- 揚高く上がる字。「揚々」「意気揚々」と同じで、上向きの気分を運ぶ。ただし「意気揚々」が得意げであるのに対し、「鷹揚」には誇示がない。「鷹」が加わることで「高さ」が「自慢」ではなく「余裕」に変わる。
- おうよう[0]読みが問われる語。「ようよう」「たかあげ」ではない。「鷹」を「おう」と読むのは漢音で、訓の「たか」と離れているため間違えやすい。硬い漢語では訓読みの知識がかえって邪魔をすることがある。
コロケーション
- 鷹揚に構える姿勢の動詞「構える」「笑う」「うなずく」「かまえる」と結ぶ。いずれも動きの小さい動作である。「鷹揚に走る」とは言わない。語源の「鷹が悠々と飛ぶ」という像は速さではなく羽ばたきの少なさを見ている — 力を使っていないように見えることが鷹揚さの核である。
- 鷹揚な人物人柄の語「人物」「性格」「気風」と結ぶ。一時的な態度ではなく持続する人柄を言う語である。188 居丈高が「〜になる」を要求したのと正反対で、鷹揚は「〜である」で足りる。作れる姿勢は一時的、作れない姿勢は恒常的 — 文法がその違いを記録している。
- 鷹揚に育つ環境の語へ「鷹揚に育てられた」という言い方もある。ここでは本人ではなく育て方を言っており、細かく干渉しないことを指す。肯定と否定の両方に転びうるのはこの用法で最も顕著で、「おおらか」とも「放任」とも読める。
- 鷹揚/横柄対で押さえる206 横柄と対になる。どちらも上位者のふるまいを言うが、鷹揚は相手を許し、横柄は相手を押さえつける。分かれ目は「相手が楽になるか苦しくなるか」だ。同じ「細かいことを言わない」でも、相手の負担が減れば鷹揚、増えれば横柄になる。
類語と差
- おおらかこせこせしない性格。鷹揚は態度の悠然さ。
- 悠然落ち着いてゆったりしている動じなさ。鷹揚は寛大さを含む。
- 寛大とがめず受け入れる許す側面。鷹揚は構え全体。
- 横柄人を見下して無礼だ☑206。同じ悠然とした態度でも、こちらは否定的。
ENmagnanimous / composed
ZH大方(おおらかだ, dàfāng)
201★★
つまびらか
つまびらか[2]つまびらか中高型
定義
事細かく、くわしい様子。
『現代文キーワード読解』第3部 ☑201
原書の解説
古くは「つまびらか」と書いて、「詳らか・審らか」という漢字をあてた。
使用の境界細かいところまで明らかであること。ほぼ「つまびらかにする」「つまびらかでない」の形で使う。
用法漢字では「詳らか」と書くが、ひらがな書きが一般的である。実際の用法は二つに集中し、「つまびらかにする」(=細部まで明らかにする)と「つまびらかでない」(=詳しいことは分からない)である。後者は報道や学術文で、情報が不足していることを丁寧に述べる言い方として使われる。硬い文章語なので会話には出ない。読み書きともに問われる。
用例
-
師の説とたがふとて、なあらがひそといましめおかるるは、いとあらぬこと也。……よき人の説ならんからに、あまたの中には、ひがこともなどかなからむ。かならずわろきこともまじらではえあらず。本居宣長『玉勝間』「師の説になづまざる事」(1795)
「つまびらかにする」という態度がどこから来るかを示す。宣長は師の説と違っても争うなという戒めはよくないと言う。理由は明快で、どんなすぐれた人の説でも数多いなかには誤りが混じらないはずがないからだ。ここにあるのは権威ではなく細部で決めるという構えである。つまびらかとは「細かいところまで明らかである」こと — 大づかみに正しいでは足りない。この語が学術と報道に集中するのは、そこが細部で真偽が決まる場所だからである。
-
出来事については、たまたま居合わせただけの者から聞いたことをそのまま書くことはせず、私自身が居合わせた事柄も、他人から聞いた事柄も、できるかぎり厳密に一つ一つ吟味して記した。骨の折れる仕事であった。同じ出来事について証言する者たちが、同じことを語らなかったからである。トゥキュディデス『戦史』第一巻(前五世紀/訳は本教材)
「つまびらかでない」という言い方がなぜ必要かを教えてくれる。トゥキュディデスは証言が食い違ったと正直に書く。食い違いを消して一つの物語にすることもできたはずだ。そうせずに吟味の過程を記した。この「分かっているところまでを示し、分かっていないことは分かっていないと言う」という構えが、「詳細はつまびらかでない」という定型句を生む。知らないことを知らないと書くための語彙を持つことは、学問の最低条件である。
- 当時の経緯はつまびらかでない。
報道と学術で最もよく使われる形。「分からない」と言うより正確である — まったく不明なのではなく、細部が確定していないことを示す。語の選択が不確かさの度合いを刻んでいる。
- ×駅までの道をつまびらかに教えてもらった。
文体が合わない。文語的で硬い語なので、日常の場面に置くと滑稽になる。「詳しく」「細かく」でよい。硬い語を使うこと自体が事柄の格を主張してしまうことに注意したい。
作品での用例
「わたくし」は、酒気を帯びた男たちが銀座をさまようようになった理由について考える。
わたくしは此不体裁にして甚だ無遠慮な行動の原因するところをつまびらかにしないのであるが、其実例によって考察すれば、昭和二年初めて三田の書生及三田出身の紳士が野球見物の帰り群をなし隊をつくって銀座通を襲った事を看過するわけには行かない。
出典 永井荷風『濹東綺譚』
派生形
- つまびらかならず文語の形。公文書・碑文・古い報道に残る。「〜ならず」は断定の助動詞「なり」の否定で、現代語の「〜でない」より硬い。同じ内容を文語で書くか口語で書くかが、文書の格式を決めていた時代の名残である。
- つばひらか古形。『万葉集』などに見えるとされ、「つまびらか」はその転じた形と考えられている。語源は未詳だが、「つばら(つばらに=こまごまと)」という古語とのつながりが指摘される。細かさを言う和語が古くからあったということだ。
- 詳細[0]同じ内容の漢語。「詳細はつまびらかでない」という言い方は、実は同じ意味の語を二つ重ねている。それでも不自然に感じないのは、「詳細」が対象を指す名詞、「つまびらか」が状態を言う形容動詞と役割が分かれているからである。
コロケーション
- つまびらかにする明らかにする側他動詞的な用法。「真相をつまびらかにする」のように調査・報告の文脈で使う。「明らかにする」より細部への約束が重い — 明らかにするは結論を示せば足りるが、つまびらかにするは過程まで開いて見せることを含意する。
- つまびらかでない分からない側否定形のほうが頻度が高い。「詳細はつまびらかでない」は報道の定型句である。重要なのはこの形が責任を果たしていることだ — 分からないと書くのは、分かったふりをしないという宣言である。190 屈託、178 気の置けないと同じく、否定形が主役の語だが、こちらは倫理が理由である。
- つまびらかに述べる発話の動詞「述べる」「記す」「調べる」「する」と結ぶ。すべて知の作業である。「つまびらかに感じる」とは言わない — 感覚は細部に分解しても確かさが増えないからだ。この語は検証可能なものにしかかからない。
- 詳らか・審らか二つの表記「詳」はくわしい、「審」はつまびらかに調べる。「審」を当てると調査の含みが強まる(審査・審議・不審)。どちらの字を当てても読みは同じで、実際にはかな書きが最も多い — 表記の選択肢が多い語はかなへ流れる。
類語と差
- 詳細くわしいこと名詞・形容動詞。つまびらかは和語で文章語。
- 詳らか─漢字表記。同語。
- 明らかはっきりしている判明の度合い。つまびらかは細部まで及ぶこと。
- つまびらかにする明らかにする動詞句。公表・解明の場面で使う。
ENin detail / fully known
ZH详尽(詳しい, xiángjìn)
202★★
姑息
こそく[0]こそく平板型
語構成
姑しばらく+息やすむ・いき
「姑」はしばらく、「息」は休む。「卑怯」は本来の意味ではない。
定義
一時の間に合わせにすること。その場しのぎ。
『現代文キーワード読解』第3部 ☑202
原書の解説
現在では〈卑怯〉という意味で多く使われるが、元来は、「姑(=ちょっと)」+「息(=やすむ)」の意。
使用の境界その場しのぎであること。「卑怯」という意味ではない。誤用が非常に多い。
用法誤用率が非常に高い語である。「姑」はしばらく、「息」は休むで、〈しばらく息をつく〉=一時しのぎ、が本来の意味である。ところが「卑怯」「ずるい」の意味で理解する人が七割を超えるという調査があり、入試でも狙われる。「姑息な手段」は本来〈根本的な解決を避けた一時しのぎの手段〉で、ずるさとは無関係だった。ただし誤用の定着も進んでおり、辞書によっては両義を載せる。
用例
-
曾子(そうし)疾(やまひ)に寝(ふ)す。……童子曰く、「華(か)にして睆(かん)たり、大夫の簀(さく)か」と。……曾子曰く、「然り。……君子の人を愛するや徳を以てし、細人(さいじん)の人を愛するや姑息を以てす。吾何をか求めん。吾正を得て斃(たふ)れんのみ」と。『礼記』檀弓上(書き下しは本教材)
「姑息」という語の出典そのものである。死の床の曾子は、身分に合わない立派な敷物を使っていることを指摘され、取り替えさせる。弟子たちは病人を動かすなと止めた。その止め方を曾子は「姑息」と呼ぶ。いま楽にさせることを選んで、正しさを後回しにするからだ。ここに卑怯という意味は一切ない。むしろ弟子たちは優しい。優しさが一時しのぎになることを突いているのがこの語で、「姑(しばらく)」+「息(やすむ)」という語構成がそのまま出典の場面と一致する。
-
多くの語は、いま廃れていてもふたたび生まれるだろう。そしていま尊ばれている語も廃れるだろう。慣用がそう望むならば。言葉の規範も規則も裁定も、その慣用の手にある。ホラティウス『詩論』(前一世紀/訳は本教材)
「姑息=卑怯」という誤用をどう考えるかという問いに答えている。ホラティウスは語の生死を決めるのは慣用だと言い切る。正しさの根拠は語源ではなく使用である、と。この立場を取れば「姑息=卑怯」もやがて正しくなる。それでもいまこの語を学ぶ意味は消えない — 入試という場面では本義が問われるという実務的な理由に加えて、語源を知る者だけが「その場しのぎ」と「卑怯」の違いを意識して書けるという理由がある。変化を認めることと、区別を手放すことは別である。
- 根本の原因に触れないまま数字だけ直すのは姑息な対処だ。
本義に沿った使い方。「その場しのぎ」という意味で、卑怯さは含まない。やっている当人に悪意がなくても成立するのが要点で、『礼記』の弟子たちと同じである。
- ×匿名で悪口を書き込むとは姑息な奴だ。
誤用の典型。ここで言いたいのは「卑怯」である。文化庁の調査でもこの誤用が七割を超える年がある。「姑」の字が「姑(しゅうとめ)」を思わせ、「息」が「息をひそめる」を思わせる — 字面からの連想が誤用を育てたと見られる。
作品での用例
予備校生の「私」は、友人とのつきあいに違和感を抱く。
内輪の冗談をキーワードにして連帯を深めて何がおもしろいのか。自分たちの半径五メートル以内の話題に終始するばかりで、そこに他人を入れようとしない彼らの距離の取り方が姑息に思えた。
出典 山田詠美『微分積分』
派生形
- 姑「しばらく」を表す副詞としての「姑」。「姑(しゅうとめ)」とは別の用法である。「姑(しばら)く之を措(お)く」のように漢文で使われた。この用法を知らないと語構成が読めない — 誤用の根はこの一字にある。
- 息「休む」を表す用法。「休息」「安息」「終息」の「息」で、呼吸の意味ではない。203 息吹の「息」が呼吸であるのと対照的で、同じ字が二つの意味を持つ。「姑」+「息」で「しばらく休む」 — 字義を足すと語義になる典型例である。
- 姑息的[0]医学の術語。英語のpalliative(緩和的)の訳語として使われ、根治的(radical)と対になる。本義の「一時しのぎ」が正確に生きている用法で、日常語が誤用へ流れても術語が本義を保存するという現象がここに見える。
コロケーション
- 姑息な手段最も多い形「手段」「対処」「やり方」「策」と結ぶ。すべて方法を指す名詞である。本義では「方法が一時的だ」という意味になるが、誤用では「方法が卑劣だ」と読まれる。同じ共起語が二つの読みを許してしまうことが、誤用の定着を早めた。
- 姑息な人誤用のみの形人を直接修飾するのは誤用の側だけである。本義は方法の性質を言う語なので、人柄にはかからない。「姑息な人」と書いてあればほぼ確実に「卑怯な人」の意味だと読める — 共起の型が誤用の判別に使える。
- 姑息な延命医療の文脈医学では本義が生きている。「姑息的治療」は原因を取り除かず症状を和らげる治療を指す正式な術語で、非難の意味はない。専門用語は語義の変化から守られる — 使う集団が限られ、定義が文書化されているからである。
- 姑息/卑怯/小手先三語の整理卑怯は道徳の語(正々堂々でない)、姑息は時間の語(一時的である)、小手先は技術の語(本質に届かない)。誤用の実態は「姑息」が「卑怯」の席へ移ろうとしているということだが、本来姑息の隣にいるのは小手先である。
類語と差
- 卑怯ずるく正々堂々としない誤用として広まった意味。本来は別。
- その場しのぎ一時的に間に合わせる本来の意味。言い換えとして最も正確。
- 弥縫策破れを繕う応急の策硬い言い換え。姑息と同じ構造。
- 小手先表面的な工夫技術の浅さ。姑息は時間的な一時性。
ENstopgap / temporary
ZH权宜(一時しのぎ, quányí)
コラム ── 坂口安吾
坂口安吾は石川淳・太宰治・織田作之助などとともに、新戯作派、無頼派とよばれ、戦後文学を導いた一人とされている。戦後間もない昭和二十一年に『堕落論』を発表して、人々に堕落を勧め、堕落することによって真実の救いを見出すべきだとした。さらに、その実践のような形で『白痴』『外套と青空』などの小説を書いて当時の人々に刺激を与えた。その限りで、彼を戦後文学作家の一員とみることに間違いはない。
しかし、彼の文学的出発は昭和六年頃で、『風博士』『黒谷村』などのファルス(笑劇)を発表して、それまでの日本文学の伝統とは異質な小説を世に問うた。さらにその理論的裏づけとして『FARCEに就て』を書き、『日本文化私観』という作品とともに、むしろ戦後になって真価が改めて見出されることになる。そこには今日でも色あせない明確な文明批評がある。また、東日本大震災直後の人々の心境を、彼の戦後直後のそれと対比する試みもされている。
コラム ── 太宰治
太宰治は、非合法運動への関与や女性との心中未遂を経て、自殺を前提に遺書のつもりで書いた『晩年』で本格的な創作活動に入った。
「大人とは、裏切られた青年の姿である」(『津軽』)「生きているのだからね、インチキをやっているに違いないのさ」(『斜陽』)――こうした彼の言葉を見る限り、老成を望む人間でなかったことは確かで、「そこで考え出したのは、道化でした。それは、自分の、人間に対する最後の求愛でした」(『人間失格』)とあるように、独自のユーモアが生み出された。また、薬物中毒に苦しみ、退廃的な作品を書きながらも、「神を求めた人」であったという評価もされる。『トカトントン』とは敗戦直後、同名の作品の中で耳に響く音として描写されたものだが、感受性を研ぎ澄ますなら今日でもその音が聴こえてくるかもしれない。なお太宰は、女性と玉川上水に身を投げて一生を終えた。
203★
息吹
いぶき[1]いぶき頭高型
定義
① 呼吸。息づかい。
② 活動する気配。
『現代文キーワード読解』第3部 ☑203
原書の解説
「息吹く(=息をする・息づく)」という動詞もある。
使用の境界生き生きとした気配。呼吸そのものではなく、生命力の兆しを指す。
用法熟字訓で「いぶき」と読み、「そくすい」ではない。実際の用法は「春の息吹」「時代の息吹」「新しい息吹」という結びつきにほぼ固定しており、いずれもこれから盛んになるものの兆しを肯定的に表す。だから衰退や終わりには使えない。呼吸そのものの意味で使うことは現代ではまれで、比喩として定着している。読みが問われる語である。
用例
-
主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。『旧約聖書』創世記 第二章(訳は本教材)
「息」が生命そのものを指すという感覚の古さを示す。土の塵はただの物質である。そこへ息が入った瞬間に生き物になる。つまり息=生命という等式がここに立てられている。ヘブライ語のルーアハ、ギリシア語のプネウマ、ラテン語のスピリトゥス — いずれも「息」と「霊」を同じ語で言う。日本語の「息吹」も同じ発想に立つ。だからこの語は呼吸の意味ではほとんど使われず、「生命力の兆し」の意味で生きている — 比喩のほうが本義を追い出したのである。
-
僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る/ああ、自然よ/父よ/僕を一人立ちにさせた広大な父よ/僕から目を離さないで守る事をせよ/常に父の気魄を僕に充たせよ高村光太郎『道程』(1914/光太郎 1956 没)
「新しい息吹」という言い方が何を指しているかを見せる。注目したいのは「気魄を僕に充たせよ」という結びだ。外から入ってくる力として生命が捉えられている。創世記の息と同じ構造である。そして「僕の前に道はない」 — まだ何も始まっていない。息吹が「これから盛んになるものの兆し」を指し、衰退や終わりには使えないのはこのためだ。すでに完成したものに息吹はない — この語はつねに未完成の側に立つ。
- 雪の下から緑が覗いて、春の息吹を感じた。
最も標準的な使い方。「春の」「時代の」「新しい」と結ぶ形で用例のほとんどを占める。「感じる」という動詞が選ばれるのも要点で、見えるのではなく気配として受け取るものだ。
- ×往時の息吹はいまや見る影もない。
衰退の文脈には置けない。この語はこれから盛んになるものにしかかからない。「往時の活気」「かつての勢い」なら成り立つ。時間の向きが語に書き込まれている — 息吹はつねに前を向く。
作品での用例
戦後初期、「彼」は「彼女」と恋愛関係にあるが、戦争体験に苦しめられている。
彼は彼女の白い顔の輪郭の中から何か、彼女の心の息吹のようなものが彼の方にふきつけてくるのを感じた。〈俺はこのひとの生存の中にはいることはできはしない。俺は俺の生存の中にしかないのだ。〉
出典 野間宏『顔の中の赤い月』
派生形
- 息吹[1]熟字訓。「そくすい」とは読まない。二字まとめて和語の読みを当てるというこの方式は大人(おとな)・土産(みやげ)・五月雨(さみだれ)と同じで、漢字を和語の衣装として使うという日本語独特の扱い方である。
- 伊吹[1]同音の地名・植物名。伊吹山は『古事記』で倭建命が荒ぶる神に打たれた山として現れる。「息吹」と「伊吹」の関係は未詳だが、山から吹き下ろす風を神の息と見る感覚が働いていた可能性が指摘される。
- 息災[0]同じ「息」を持つが意味が違う。ここでの「息」は「やめる・静める」で、「災いを息(や)める」が原義の仏教語である。202 姑息の「息」と同じ用法で、203 息吹の「息」とは別 — 一字が二つの語族を養っている。
コロケーション
- 春の息吹季節と結ぶ四季のなかで春だけがこの語を取る。「秋の息吹」とは言わない。始まりの季節にしかかからないからで、春は日本語で「兆し」の語彙を独占している(芽吹く・萌える・ほころぶ)。季節の偏りがそのまま語義の証拠になる。
- 時代の息吹抽象への拡張「時代」「新時代」「変革の」と結ぶと歴史の語になる。比喩が二段になっている — 呼吸→生命力→時代の勢い。時代は呼吸しないのにこの言い方が成り立つのは、すでに「息吹=生命の兆し」という段階を経ているからだ。
- 息吹を感じる知覚の動詞「感じる」「伝わる」「宿る」と結ぶ。「見る」「聞く」とは結ばない。五感のどれか一つでは捉えられないものだからで、「気配」の語彙がそろってこの性質を持つ(167 の「うさんくささが漂う」と同じ)。発生源を特定できないものは、特定を求めない動詞と結ぶ。
- 息吹く動詞形「息吹く」は〈息をする・息づく〉。名詞の「息吹」より古いとされる。「芽吹く」と並べると構造が見える — 「吹く」は内から外へ出てくる動きを表す。息吹は外から与えられるものであり、同時に内から出てくるものでもある。
類語と差
- 気配なんとなく感じられる様子中立。息吹は生命力の躍動を含む。
- 兆しこれから起こる前触れ時間の先取り。息吹は今そこにある活気。
- 活気生き生きとした勢い集団や場の状態。息吹はより微細な兆し。
- 鼓動脈打つ動き比喩として近い。息吹は呼吸、鼓動は心臓。
ENbreath / stirrings of life
ZH气息(息吹, qìxī)
204★★
うろ覚え
うろおぼえ[0]うろおぼえ平板型
語構成
うろ空・うつろ+覚おぼえ
「うろ」は空洞のこと。「空覚え(そらおぼえ)」は逆に暗記していること。
定義
ぼんやりとした記憶。
『現代文キーワード読解』第3部 ☑204
使用の境界はっきりせず、あいまいに覚えていること。まったく覚えていないのではない点が要点。
用法「うろ」は空(うろ)・うつろで、木のうろ(空洞)と同じ語である。中身がすかすかの記憶、という比喩になっている。要点は、まったく覚えていないわけではないことで、断片は残っているが確信が持てない状態を指す。「空覚え(そらおぼえ)」は同じ字を書きうるが、こちらは〈暗記していること〉で意味がほぼ逆になる。混同に注意する。
用例
-
われわれの魂のうちに蝋の板があると考えてみよう。……われわれが見たり聞いたり思ったりしたものをこの板に押しあてる。印が残っているあいだは覚えており、印が消えれば忘れる。……蝋が深く清らかな者はよく学びよく覚える。濁って汚れた者、柔らかすぎる者、硬すぎる者は、そうではない。プラトン『テアイテトス』(前四世紀/訳は本教材)
うろ覚えという状態が何であるかを二千年以上前に説明している。要点は記憶が「ある/ない」の二択ではないことだ。印は深くも浅くもなる。薄れかけた印 — それがうろ覚えである。この語の要点が「まったく覚えていないわけではない」ことにあるのは、記憶が連続量だからだ。そして「うろ」は木のうろ(空洞)と同じ語である。プラトンの蝋板と日本語のうろ — どちらも記憶を「物の状態」として捉えている。覚えるとは心に何かが残ることだという直観は、文化を越えて共通する。
-
私の書斎のガラス戸棚の抽匣(ひきだし)にはいっている一つの小箱。……そのなかに小さな銀の匙が一つはいっている。……この銀の匙を見るたびにいつも私は云いしれぬなつかしい気持ちになる。中勘助『銀の匙』(1913/中 1965 没)
うろ覚えがどうやって呼び戻されるかを書いている。この小説の全体は幼時の記憶の再現だが、その入口に置かれるのは説明ではなく一本の匙である。物が記憶の欠けを埋めるのだ。ここにこの語の実用上の要点がある — うろ覚えは無知ではないので、手がかりが一つ与えられれば一気に像を結ぶ。「言われれば思い出す」という状態を正確に名指す語は、日本語ではほぼこれ一つである。
- 道順はうろ覚えだったが、角のポストを見て思い出した。
この語の性格を写した作例。うろ覚えは「思い出せる可能性を残した忘却」である。まったく知らなければポストは手がかりにならない — 薄い印が残っているからこそ外からの刺激が効く。
- ×初めて聞く曲だがうろ覚えだ。
前提が崩れている。一度は覚えたことが条件である。「うろ」は中身がすかすかの空洞であって、そもそも器がなければ空洞にもならない。171 おぼつかないの①とは近いが、あちらは確かさの不足、こちらは記憶の欠けである。
作品での用例
中年の「私」は暗い過去の経験をもっており、生と死についての思いが去来する。
私は昔ギリシャ神話を読んで、うろ覚えに忘却の河というのがあったのを覚えている。三途の河のようなものだろう、死者がそこを渡り、その水を飲み、生きていた頃の記憶をすべて忘れ去ると言われているものだ。
出典 福永武彦『忘却の河』
派生形
- うろ[1]木の空洞。「うつろ」「うつせみ」「うつわ」と同語源とされる。「中が空である」という一点でつながる語族で、「うつろな目」は中身のないまなざしを言う。原書が「うろ」を接頭語と説明するのは別説で、語源には諸説がある。
- うろつく[0]同じ「うろ」を持つとされる語。目的なく歩きまわることで、「中身がない・定まらない」という芯を共有する。「うろたえる」も同族とされ、空洞という一つのイメージから記憶・歩行・動揺の三領域に語が伸びている。
- 生半可[0]近い意味の別語。205 の接頭語「生(なま)」を使う。「生半可な知識」はうろ覚えと重なるが、うろ覚えが記憶の欠けを言うのに対し、生半可は習得の中途半端さを言う。忘れたのか身につけていないのかの違いである。
コロケーション
- うろ覚えだが前置きの型「うろ覚えだが」「うろ覚えで申し訳ないが」という断りの形で最もよく使う。これは情報の信頼度を自分で格付けする行為だ。201 の「つまびらかでない」と同じ働きで、不確かさを明示することが誠実さになる。日本語はこの種の自己格付けの語彙を豊かに持っている。
- うろ覚えの知識名詞を修飾「知識」「記憶」「話」「歌詞」と結ぶ。いずれも言葉でできたものであることに注意したい。「うろ覚えの匂い」とは言わない — 言葉にできるものだけが「部分的に正しい」という状態を取れる。感覚は正誤で測れないのである。
- うろ覚えで話す行為の動詞「話す」「答える」「書く」と結ぶとやや批判的になる。不確かなまま外へ出したことが問題になるからだ。知っている状態としてのうろ覚えは中立だが、それを根拠に行為すると責任が生じる — 同じ状態が、内に留まるか外へ出るかで評価を変える。
- 空覚え紛らわしい隣人「空覚え(そらおぼえ)」は逆である。「空で言える」の「そら」で、暗記していることを指す。ただし「うろ覚え」の意味で使われることもあり、辞書でも両方の語義が載る。「うろ」と「そら」がどちらも「中身がない」を連想させることが混線の原因である。
類語と差
- おぼつかない確かさが足りない☑171。動作や見込みにも使える。うろ覚えは記憶に限る。
- あやふやはっきりしない内容の曖昧さ全般。うろ覚えは記憶の曖昧さ。
- 生半可中途半端である知識の浅さ。うろ覚えは保持の不確かさ。
- 空覚えそらで覚えること同音の別語。こちらは暗記していること。正反対に近い。
ENvague recollection
ZH记不清(うろ覚え, jìbuqīng)
コラム ── 野間宏
椎名麟三・梅崎春生・中村真一郎らとともに、第一次戦後派の作家とされる野間宏は、小説『暗い絵』をもって衝撃的に登場した。例文の『顔の中の赤い月』という少し奇異な感じのする題名の小説は、その翌年に発表された。
『顔の中の赤い月』のテーマは、「俺は俺の生存の中にしかない」とあるように、人間存在の自己中心性から脱却できない苦しみの確認であろう。主人公は、かつてフィリピン戦線で自分の生存を維持するために戦友を見殺しにした経験をもっており、そのため、戦後復員して知り合った女性に惹かれながらも、ついに手を差し伸べることができない。自分の心の中にある斑点のようなものが、決定的な場面で相手の顔の中の赤い月として現れ、それとともにかつての兵隊たちの姿が浮かんできて、相手の生存と自分の生存とがこすれながら離れる、というふうにこの小説は終わっていく。人間を、生理・心理・社会という三つの面から総合的にとらえる全体小説の試みだった。
コラム ── 吉行淳之介
第二次世界大戦終了をもって始まった戦後派の文学を分類する時、よく「第一次戦後派」「第二次戦後派」「第三の新人」という言葉が用いられる。一、二、三というのはいちおう時代順を表しているが、実際には、その文学的出発にはそれほど差はなかった。現に、第三の新人の代表とされる吉行淳之介の小説の発表は、昭和二十一年までさかのぼることができる。しかし、彼らが脚光を浴びるのは昭和二十年代末まで待たなければならなかった。
戦争のような極限状況に対応する時、人間はしばしば観念に頼る。とくに第一次戦後派の作家たちは壮大な観念の営みに全力を傾け、それがまた当時の読者を惹きつける要因にもなっていた。しかし、人々の関心が次第に日常生活に注がれるようになると、日常性の中に潜む非日常的なものを的確な文体でとらえる、吉行や安岡章太郎、遠藤周作たちの作品が光を放ち始めた。実際、彼らは連続して芥川賞を受賞することになる。
205★
生返事
なまへんじ[3]なまへんじ中高型
定義
気のない、いい加減な返事。
『現代文キーワード読解』第3部 ☑205
原書の解説
接頭語「なま」は、①不十分・中途半端な状態、②何となく・少し、の意を表す。「生返事」は①の用法。
使用の境界気のない、いいかげんな返事。返事はしているが心がこもっていない状態を指す。
用法接頭語の「生(なま)」は〈中途半端・不十分〉を表し、「生煮え」「生半可」「生兵法」と同じ用法である。要点は、返事そのものはしている点にある。だから無視とは違い、相手を軽んじていることが返事の質を通して伝わる。小説では、人物の関心の薄さや心の距離を描くのに使われる。「生返事をする」という動詞句が標準的な使い方である。
用例
-
私はしばしばこう言ってきた。人間の不幸はただ一つ、自分の部屋に静かに留まっていられないことから来るのだ、と。パスカル『パンセ』断章一三九「気晴らし」(1670/訳は本教材)
生返事が起きる心の状態を言い当てている。パスカルの観察は人は「いまここ」に留まれないというものだ。心はつねに別のところへ行こうとする。生返事はまさにその証拠で、身体はこの場にあり、口も動いているのに、心だけがいない。注目したいのはこの語が相手への軽視を必ずしも意味しないことである。心がよそにあるだけだ。それでも受け取る側には軽んじられたと映る — 不在は拒否と見分けがつかない。
-
メナルクは階段を降りながら扉を開け、また降りる。……人に会えば挨拶をし、返事を待たずに行ってしまう。……彼があなたに話しかけるのは、あなたに話しているのではなく、彼が思い出したことを声に出しているだけである。ラ・ブリュイエール『人さまざま』「上の空の人」(1688/抄・訳は本教材)
生返事の極北を描いた人物像である。メナルクは失礼な男ではない。挨拶もすれば返事もする。ただそのすべてが相手に向いていない。ここで見えるのは「返事はしている」というこの語の要点だ。無視なら関係はそこで切れる。生返事は関係を切らないまま中身だけを抜くので、相手は怒る足場さえ与えられない。183 聞こえよがしが宛先を偽装するのに対し、生返事は応答を偽装する — どちらも形式だけを残して実質を抜く技法である。
- 画面から目を離さないまま生返事を返す弟に、母はもう何も言わなかった。
この語の典型的な場面。「返事を返す」という形で使われることが多い。母が何も言わなかったのは要点で、生返事は叱る根拠を与えない — 返事はしたのだから。
- ×名前を呼ばれても無視して生返事だった。
無視とは両立しない。「返事そのものはしている」のがこの語の条件で、返事がなければ生返事にもならない。「黙殺した」「聞こえないふりをした」が正しい。接頭語の「生」は「中途半端」であって「皆無」ではない。
作品での用例
AとBは仲良しで、AはBを外出に誘い、Bも喜んで応じていた。
「今度の日曜は、大丈夫だね」 「うん、それがね……」 Bは生返事をした。 「それが、といったって、この前ちゃんと約束したじゃないか」 「うん。あと、一、二、三日たてば、はっきりするんだけど……」
出典 吉行淳之介『子供の領分』
派生形
- 生[1]①中途半端、②何となくの二つの用法を持つ接頭語。生返事は①。②は「生暖かい」「生ぬるい」で、程度がわずかにそうであることを言う。もとは「火を通していない」という調理の語で、加工の不足という一点から両方の用法が育った。
- 生返事[3]アクセントは中高型。「なま」を独立して読まず一語として発音することが、接頭語が完全に溶け込んだ証拠である。「生+返事」と切って読めば説明的、一語で読めば慣用 — 音のまとまりが語の成熟を示す。
- 空返事[3]ほぼ同義の別語。「そら」は204 の「空覚え」と同じで、中身がないことを言う。「生」は足りない、「空」は無い — 厳密には空返事のほうが冷たいが、実際には交換して使われる。使用頻度は生返事が圧倒的である。
コロケーション
- 生返事をする基本の形「する」「返す」と結ぶ。「生返事が出る」とは言わないのが面白い — 本人の行為として扱われる。心がよそにあることは本人の意志ではないのに、文法上は意志的な動作の形を取る。だから責められるのである。
- 生返事ばかり反復の副助詞「ばかり」「ばかりで」と結ぶと非難が確定する。一度なら偶然だが、繰り返されると態度になるからだ。168 うとましいの「募る」と同じで、反復が一回の出来事を人柄の評価へ変える — 副助詞が評価のスイッチになっている。
- 生煮え・生兵法「生」の一族接頭語「生」は〈中途半端〉を担う。生煮え(火が通りきらない)、生半可、生兵法(生兵法は大怪我のもと)、生かじり。すべて「やってはいるが足りない」という一点で揃う。接頭語を一つ覚えると語彙が束で手に入る。
- 気のない返事言い換えの語「気のない」はやわらかい言い換え。生返事が一語の名詞として断定的であるのに対し、「気のない返事」は修飾で済ませるぶん当たりが弱い。一語にまとめるか句で言うかという選択が、非難の強さを調節している。
類語と差
- 空返事うわの空の返事ほぼ同義。「そらへんじ」と読む。
- 上の空心がここにない状態。生返事はその表れとしての返事。
- おざなりその場かぎりの間に合わせ☑196 の対語。生返事はその一例。
- 無視応答しない返事がない。生返事は一応返している。
ENhalf-hearted reply
ZH敷衍的回答(生返事, fūyǎn de huídá)
206★★
横柄
おうへい[0]おうへい平板型
定義
人を見下したり偉そうにしたりする態度。
『現代文キーワード読解』第3部 ☑206
使用の境界人を見下し、いばって無礼であること。態度に現れた無礼さを指す。
用法「横」は道理にそむくという意味を持つ字で、「横暴」「横領」「横死」と同じ用法である。だから横柄は〈道理に外れたふるまい〉が原義になる。要点は、これが外に現れた態度を指す点にあり、内心の傲慢とは区別される。☑200 鷹揚と対で押さえるとよい。どちらも悠然と構える様子だが、鷹揚は寛大さとして肯定され、横柄は無礼として否定される。読みが問われる。
用例
-
誇り高き人(メガロプシュコス)とは、自分が大きなことに値すると考え、実際にそれに値する人のことである。……値しないのに値すると考える者は虚栄の人であり、値するのに値しないと考える者は卑屈の人である。アリストテレス『ニコマコス倫理学』第四巻(前四世紀/訳は本教材)
横柄と威厳を分ける線がここに引かれている。アリストテレスの基準は「自己評価が実際に見合っているか」という一点だ。大きく構えること自体は悪ではない。値しないのに構えるのが悪である。「横」という字が〈道理にそむく〉を意味するのはまさにこれで、横柄とは「そのふるまいに見合う根拠がない」という判定である。200 鷹揚が褒め言葉になるのも同じ理由で、そこには見合う度量があると認められている。ふるまいは同じでも、根拠の有無が語を分ける。
-
礼はその最上の形において、ほとんど愛に近づく。われわれは敬虔な思いをもってこう言うことができよう — 礼は寛容にして慈悲深く、妬まず、誇らず、驕らず、自らの利を求めず、容易に怒らず、人の悪を思わない、と。新渡戸稲造『武士道』第六章「礼」(1900/訳は本教材)
横柄の反対側からこの語を照らす。新渡戸は礼とは形式ではなく他人の感情への思いやりの表現だと説く。ここから見ると横柄が「外に現れた態度」を指すことの意味がはっきりする — 内心でどう思っていても、表に出たふるまいが相手を傷つければ横柄である。逆に内心で軽蔑していても態度が整っていれば横柄とは呼ばれない。この語が裁くのは心ではなく表面だ。表面を裁く語があることは不当ではない — 他人に届くのは表面だけだからである。
- 注文を取りに来た店員の横柄な口調に、連れは黙って席を立った。
典型的な使い方。「口調」「態度」「物腰」と結ぶのが基本で、外に現れたものだけを指す。立場の上下は問わない — 店員でも客でも横柄にはなれるのが200 鷹揚との大きな違いである。
- ×心の中で横柄に見下していた。
内心には使えない。横柄は外に現れた態度を指す語なので、「心の中で」と両立しない。「傲慢に」「尊大に」なら内心にも使える。可視性という軸で類語を分けると、この種の取り違えは起きない。
作品での用例
「私」は小樽の高等商業学校に入り、小林多喜二という上級生と出会う。
向うから、髪を伸ばして七三に分けた小柄な生徒が、青白い細面の顔に、落ちついた、少し横柄な表情を浮べ、廊下の真中を、心持ち爪先を開いて、自分を押し出すように歩いて来た。
出典 伊藤整『若い詩人の肖像』
派生形
- 横[0]〈道理にそむく〉という用法。「縦(たて)」が正しい筋、「横」がそれを断ち切る方向という空間の比喩に立つ。「横やりを入れる」は戦っている二者の横から槍を出すことで、正面から来ない=筋を通さないという同じ論理である。
- 押柄異表記。「押しかかる」という含みを当てたもので、「大柄(おおへい)」と書くこともある。三つの表記が併存するのは語源が確定していないためで、188 居丈高/威丈高と同じ現象がここでも起きている。
- 柄[0]ふるまい・身の程を表す。「柄でもない」「人柄」「家柄」の「柄」で、その人に備わった格を言う。「横柄」は「柄が横に外れている」 — 身の程を外れたふるまいという語構成になる。アリストテレスの定義と正確に一致するのは偶然だが、人が同じことを見ていた証でもあろう。
コロケーション
- 横柄な態度外形の名詞「態度」「口調」「物言い」「振る舞い」と結ぶ。すべて見え聞こえするものである。188 居丈高とほぼ同じ共起を持つが、居丈高が姿勢の語であるのに対し、横柄は道理の語だ。居丈高は身を大きく見せ、横柄は筋を踏み外す。
- 横柄に構える姿勢の動詞「構える」「言い放つ」「ふんぞり返る」と結ぶ。「ふんぞり返る」は身体の語彙で、横柄が結局は身体に現れることを示す。日本語は無礼を「身体の向き」で表す(そっぽを向く・あごで使う・足を組む)。
- 横暴・横領・横死「横」の一族「横」は〈道理にそむく〉を担う。横暴(乱暴に押し通す)、横領(不当に取る)、横死(まっとうでない死に方)、横槍。「縦」は正しい筋道と対になる — 方向の語が倫理の語になっている。
- 横柄/鷹揚対で押さえる200 と対になる。どちらも「細かいことを言わない大きな構え」だが、鷹揚は相手を許し、横柄は相手を押さえる。アリストテレスの基準で言えば、見合う度量があれば鷹揚、なければ横柄。二語を並べると、評価語が対象ではなく関係を測っていることが見える。
類語と差
- 居丈高頭ごなしに威圧する☑188。押さえつける力の強さ。横柄は無礼さ。
- 尊大自分を高く見せる自己認識。横柄は相手への扱い方。
- 鷹揚ゆったりして寛大だ☑200。同じ悠然さでも肯定的。対で押さえる。
- 傲慢おごり高ぶる心の状態。横柄は外に現れた態度。
ENarrogant / insolent
ZH傲慢(横柄だ, àomàn)
コラム ── 内向の世代
「第三の新人」の活躍後、昭和四十年代に入ると「第三の新人」以上に自己の内部や日常の不安を深く描く作家が出てくる。阿部昭や古井由吉、小川国夫などで、彼らは「内向の世代」とよばれる。「内向の世代」とは、ある評論家が〈一九六〇年代における学生運動の退潮や倦怠、嫌悪感のため政治的イデオロギーから距離を置き始めた作家や評論家〉と批判的な意味で使い始めた言葉だ。だが、現実社会から逃避したというよりは、人間内部に対する実存的関心が強かったという方が適切だろう。
もちろん、彼らの作品に戦争の影響がないわけではない。たとえば、阿部昭の父親は軍人で、戦後は生活の術を失って失業者に転落する。その姿を描いたのが『司令の休暇』である。ちなみに「司令」とは部隊の指揮官のことである。また、小川国夫には学徒動員の経験を描いた『動員時代』という作品があり、古井由吉の最近の小説でも戦争体験が描かれている。
コラム ── 新世代〜現在の作家たち
昭和五十年代には、宮本輝・中上健次・村上龍・村上春樹・立松和平など、いわゆる「戦争を知らない団塊世代」が作家として登場し始める。彼らは青春期に安保闘争や大学闘争を体験した全共闘世代でもある。伝統的な作家の影響を感じさせることなく、新鮮な言語感覚や文体で独自の表現の可能性を追求している。
たとえば、〈川の作家〉と言われる宮本輝の川三部作(『螢川』『泥の河』『道頓堀川』)は、川に執着し、幸福を求めて生きる人々の物語である。村上春樹の作品は、英米現代文学の影響を強く受けた思索に富んだ小説であり、村上龍は経済小説と言える分野を開拓している。
その他、田中康夫の『なんとなく、クリスタル』は消費社会の到来を、島田雅彦の『優しいサヨクのための嬉遊曲』はイデオロギー的対立の終焉を告げる画期的な作品であり、重松清の作品群は大衆向けのエンターテインメントの要素を多く含んだものである。
207★
怯懦
きょうだ[1]きょうだ頭高型
定義
気が弱く、臆病なこと。
『現代文キーワード読解』第3部 ☑207
原書の解説
「怯」は〈おびえる〉、「懦」は〈気が弱い〉の意味。「怯懦を恥じる」などと用いる。
使用の境界臆病で意気地がないこと。単に怖がるのではなく、それを恥ずべきものとして責める含みを持つ。
用法二字がともに〈おびえる・弱い〉を表す。日常語ではまったく使われない硬い文章語で、小説と評論に残る。要点は道徳的な非難を含むことにあり、単なる性格の記述ではない。だから「自らの怯懦を恥じる」のように、自分を責める文脈で用いられることが多い。太宰治をはじめとする近代文学の主人公が、自分の弱さを語るときに使う語彙でもある。読みが問われる。
用例
-
ここにため息と嘆きと高い叫びが……この惨めなありさまを保つのは、恥もなく誉れもなく生きた者どもの悲しい魂である。……天は美しさを損なわぬために彼らを追い出し、深い地獄も彼らを受け入れない。……彼らを見て、そして通り過ぎよ。ダンテ『神曲』地獄篇 第三歌(1320/訳は本教材)
怯懦がなぜ道徳的な非難を含むかを示す。ダンテが地獄の入口に置いたのは大罪人ではない。何もしなかった者たちである。天国にも地獄にも入れてもらえない — 選ばなかったことは罪より軽いのではなく、罪の外にある。そして案内役のウェルギリウスは「見て、通り過ぎよ」と言う。論じる価値さえないというこの扱いが、怯懦という語の冷たさと重なる。単に「臆病だ」と記述しているのではない — 恥ずべきものとして名指している。
-
かくすればかくなるものと知りながら已(や)むに已まれぬ大和魂吉田松陰(1859没)
怯懦の正反対を一首で示す。松陰はこうすればこうなると分かっていた。計算ができなかったのではない。それでも已むに已まれず動いた。ここで見えるのは勇気とは恐れがないことではないということだ。結果を知りながら動くことである。とすれば怯懦とは恐れること自体ではなく、恐れを理由にして動かないことになる。「自らの怯懦を恥じる」という言い方が成り立つのもここで、恥じられるのは感情ではなく選択だからである。
- 声を上げなかった自らの怯懦を、彼は生涯恥じ続けた。
この語の最も典型的な使い方。「自らの怯懦を恥じる」という形で現れる。他人には使いにくいのが要点で、非難が強すぎるため、自分に向けたとき最も自然に働く。
- ×高いところが苦手な彼の怯懦。
性格の記述には使えない。高所恐怖は恥ずべきことではないので、道徳的な非難を含むこの語は置けない。怯懦が成り立つのは、「そこで動くべきだった」という規範がある場面だけである。
作品での用例
「私」は、親孝行のために教科書を古本屋で買い、喜びを得たが、新品ではないことに屈辱感を覚え始める。
何故その勇気と喜びとを貫き通そうとしなかったのか。貫き通すことができなかったのか。――この弱さ、この種の怯懦は、思えば、私のいままでの生涯に常に色々な場合と色々な現われに於て、つきまとっていた。
出典 高見順『わが胸の底のここには』
派生形
- 怯「忄」+「劫」。「劫」はおびやかすで、心がおびやかされる形である。「怯む(ひるむ)」と訓読みすると和語になり、こちらには非難がない(「一瞬ひるんだ」)。音読みにすると道徳の語になるという現象はこの章でくり返し見てきた。
- 懦常用漢字外。「懦弱(だじゃく)」ぐらいでしか見ない。「需」は雨に濡れて進めない形ともいい、ぐずぐずして動かないことを表す。「怯」が恐れ、「懦」が不動 — 二字で「恐れて動かない」という語義が完成する。
- 卑怯[2]同じ「怯」を持つが意味が違う。卑怯は「卑しく怯む」で、手段の不正へ重心が移っている。怯懦は動かないこと、卑怯は不正に動くこと — 正反対の行動を同じ字が支えているのは、どちらも正面から向き合わないという一点で通じるからである。
コロケーション
- 怯懦を恥じるほぼ唯一の形「恥じる」と結ぶ形で用例の大半を占める。恥は自分に向かう感情だから、この語も自分に向く。「彼の怯懦を責めた」とも書けるが、書き手の立場が高くなりすぎる — 語の重さが書き手をも拘束する。
- 怯懦な心内面の名詞「心」「精神」と結ぶ。206 横柄が外形を指すのと正反対で、怯懦は内面の語である。「怯懦な態度」とはあまり言わない — 逃げるという行為が外に見えたとしても、責められているのはその奥の弱さだからだ。
- 怯懦に流れる移動の動詞「流れる」「陥る」と結ぶ。どちらも低いほうへ落ちる動詞である。174 才走るの「走る」が前へ行きすぎるのと対をなし、怯懦は下へ落ちる。日本語は徳を高低で、過剰を前後で測る — 比喩の座標が一貫している。
- 怯懦/臆病/卑怯三語の差臆病は性格の記述で非難を含まない。卑怯は手段の不正を責める。怯懦は弱さそのものを恥として責める。臆病は直せなくても許され、怯懦は許されない — 同じ「怖がり」を記述するか断罪するかで語が分かれる。
類語と差
- 臆病こわがりである中立に近い。怯懦は道徳的な非難を含む。
- 卑怯ずるく正々堂々としないずるさ。怯懦は弱さそのもの。
- 弱腰強く出られない態度。怯懦は性根の弱さ。
- 勇気恐れずに立ち向かう力対語。怯懦はその欠如を責める語。
ENcowardice
ZH怯懦(怯懦, qiènuò)
208★★★
果たして
はたして[2]はたして中高型
定義
① 思っていた通り。ついに。
② (仮定・疑問表現を伴い)本当に。いったい。
『現代文キーワード読解』第3部 ☑208
原書の解説
左の文章では、〈思った通り気が引きしまった〉という描写で、①の意味で使われている。
使用の境界①思ったとおりに。②本当に〜だろうか。二つの用法があり、文末で見分ける。
用法二つの用法の見分けが要点になる。①「果たして〜た」は〈予想どおり〉で、肯定文で結ぶ。②「果たして〜だろうか」は〈本当にそうか〉で、疑問文で結び、しばしば反語として働く。評論文で圧倒的に多いのは②で、「果たしてそう言えるだろうか」は〈そうは言えない〉という否定の主張になる。この反語を見落とすと主旨を取り違える。副詞なので、文末まで読んでから判断する。
用例
-
楚人に盾と矛とを鬻(ひさ)ぐ者あり。之を誉めて曰く、「吾が盾の堅きこと、能く陥(とほ)す莫(な)きなり」と。又其の矛を誉めて曰く、「吾が矛の利なること、物に於いて陥さざる無きなり」と。或るひと曰く、「子の矛を以て子の盾を陥さば何如」と。其の人応ふること能はざるなり。『韓非子』難一(書き下しは本教材)
②「果たして〜だろうか」という問いの威力を示す。或る人は相手の主張を否定していない。ただ問うただけである。それで商人は答えられなくなる。反語とはこの型の問いだ — 答えが一つしかないと分かっている問いを立てることで、相手に自分で結論を出させる。「果たして〜だろうか」が評論文の要所に置かれるのも同じ理由で、読者に答えを言わせる。疑問の形を取りながら主張である — この形と機能のずれを見抜けるかどうかが読解の分かれ目になる。
-
項王の軍、垓下(がいか)に壁す。兵少なく食尽く。漢軍及び諸侯の兵、之を囲むこと数重。夜、漢軍の四面皆楚歌するを聞く。項王乃ち大いに驚きて曰く、「漢皆已に楚を得たるか。是れ何ぞ楚人の多きや」と。『史記』項羽本紀「四面楚歌」(書き下しは本教材)
①「果たして〜た」の構図を見せる。項羽は敗北をすでに予感していた。その予感が楚の歌という形で確かめられる。注目したいのは項羽が問いの形で言うことだ — 「漢はすでに楚を得たのか」。答えを求めているのではない。知ってしまったことを口に出しているだけである。ここに①と②が一語でつながる理由が見える — 予想が当たる瞬間と、本当にそうかと問う瞬間は、同じ心の働きの表と裏だ。「果たして」はその両方を担っている。
- 空模様が怪しいと思っていたら、果たして大雨になった。
①の用法。肯定文・過去形で結ぶのが見分けの目印である。「〜と思っていたら」という予想の提示が前に来るのも要点で、予想がなければ「果たして」は働かない。
- ×果たして彼は来なかった。
①と②が混線している。①なら「果たして彼は来た」と肯定で結ぶ。②なら「果たして彼は来るだろうか」と疑問で結ぶ。否定の断定で結ぶとどちらにも着地しない。呼応の副詞は文末を拘束する。
作品での用例
明世は、画塾に通っていた昔を回想しながら、実家近くの「思ひ川」の堤を歩く。
思ひ川の堤に立つと、果たして気の引きしまる気がした。ゆったりとした川の流れも、そこから土手を這い上がる風も、遠い記憶の淵から現われるから、気持ちの若返る気がする。
出典 乙川優三郎『冬の標』
派生形
- 果たせるかな①の文語形。「はたしてそのとおりであったよ」という詠嘆を含む。「かな」は詠嘆の終助詞で、予想が当たったことへの感慨が加わる。史書や評論の文語調に残り、現代でも文章語として使われる。
- 案の定[3]①の口語版。「案」は考え・予想で、「予想のとおり」という語構成。「果たして」よりくだけているぶん、やや否定的な結果に偏る(「案の定失敗した」)。同じ①でも文体と価値の傾きが違う。
- いったい[0]②の口語版。「いったいどうなるのか」は「果たしてどうなるのか」とほぼ同じ働きをする。ただし「いったい」には苛立ちが混じり、「果たして」は冷静である。評論文が「果たして」を選ぶのは感情を排した検証の構えを示すためだ。
コロケーション
- 果たして〜た①予想の的中肯定文・完了で結ぶ。「案の定」「思ったとおり」と交換できる。重要なのは前に予想が書かれていなければならないことで、この副詞は文脈を要求する。単独の文では意味が立たない — 副詞は文を越えて働くことがある。
- 果たして〜だろうか②反語疑問・推量で結ぶ。「本当に」「いったい」と交換できる。評論文ではほぼ反語で、「そうではない」という主張を疑問の形で述べている。設問で「筆者の主張を答えよ」と問われたら、この形の直後を探すのが定石になる。
- 果たしてどうかぼかしの型結論を示さずに疑いだけを置く形。「その主張が正しいかは果たしてどうか」のように使う。②の弱い版で、反語ほど断定的ではない。書き手が疑いを表明しつつ論証の責任を負わないというややずるい形でもある。
- 果たす/果てる動詞との縁「果たす」は成し遂げる、「果てる」は終わる。どちらも「最後まで行き着く」という芯を共有する。副詞の「果たして」も同じで、「行き着いた先を見れば」という意味から①が出た。②の「本当に」はそこからさらに転じたと見られる。
類語と差
- 案の定予想したとおり①と同義。より口語的。
- 本当に真実として②の言い換え。果たしては疑問を強める。
- いったいそもそも②に近い。疑問詞と呼応する。
- 果たせるかな案の定①の古風な形。文語的。
ENindeed / really
ZH果然/究竟(果たして, guǒrán / jiūjìng)
コラム ── 女流文学1 岡本かの子
明治期の樋口一葉以来、女流文学は長く低迷していたが、昭和十年代には岡本かの子や林芙美子の活躍が見られる。岡本かの子は、与謝野晶子に師事した歌人として、また仏教学者としての一面もあったが、一方では、夫婦関係で多くの苦労を経験したことでも知られる。小説に専心したのは晩年の数年間だけだが、芥川龍之介をモデルにした小説を発表して作家的出発を果たしたあとは、多数の作品を残した。食と生命に関したテーマの作品が目立ち、その中でも『家霊』は入試によく出題されている。
多くの人間を巻き込み波乱に富んだかの子の人生は、瀬戸内晴美(寂聴)の『かの子撩乱』にくわしい。なお、かの子の息子は画家の岡本太郎である。
コラム ── 女流文学2 幸田文
昭和三十年代になると、女流作家の活躍が目立つようになる。幸田文の他、有吉佐和子・円地文子・倉橋由美子などである。幸田文と言えば、戦後の混乱期を歯切れのよい江戸っ子言葉で気丈に乗り越えていくイメージが浮かんでくる。
幸田文は父の露伴を看取った様子を文章にまとめたのがきっかけで文壇にデビューした。露伴と育ての母との不仲による苦労や最愛の弟を亡くした悲しみにもめげず、彼女は文学的才能を伸ばしていった。また、露伴に鍛えられた美意識と鋭い感受性が彼女の文章には息づいている。「檜は清楚などいう、じゃらついたものをもたない。逞しい、という騒々しさももたぬ。尊厳としている、というのともちがう、構えた固さなどないからだ。かたくなでもない、のびのびとしている」(『樹容』)と檜の魅力を語る時、それは自身の姿勢とも重なっているように思える。
209★★★
あながち
あながち[0]あながち平板型
語構成
下に打ち消しを伴う呼応の副詞。二重否定で部分的な肯定を表す。
定義
(下に打ち消しの語を伴い)一概に、必ずしも。
『現代文キーワード読解』第3部 ☑209
原書の解説
「強ち」と書く。語源は「あな(=己)」+「勝ち」とも言われ、〈自分の意志を強く通すさま〉を表す。
使用の境界必ずしも。下に打ち消しを伴い、一概には言えないことを表す。
用法必ず下に打ち消しを伴う呼応の副詞である。「あながち〜ない」で〈一概に〜とは言えない〉となり、部分的な肯定を表す。つまり「あながち間違いではない」は〈ある程度は正しい〉という意味になる。この二重否定の構造を読み違えると、主張の向きを取り違える。漢字では「強ち」と書くが、ひらがな書きが標準。硬い文章語で、会話ではあまり使わない。
用例
-
いづれの御時にか、女御・更衣あまたさぶらひたまひける中に、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり。……朝夕の宮仕へにつけても、人の心をのみ動かし、恨みを負ふ積もりにやありけむ、いとあつしくなりゆき、……いよいよあかずあはれなるものに思ほして、人のそしりをもえはばからせたまはず、世のためしにもなりぬべき御もてなしなり。紫式部『源氏物語』桐壺(1008頃)
「あながち」の語源を思い出させる一段である。この語の古い意味は〈自分の意志を強く通すさま〉で、『源氏物語』では「あながちに」の形で強引に・むやみにの意味に使われる。桐壺帝が人のそしりも憚らず更衣を寵愛する姿は、まさにあながちなふるまいだ。ここから現代語への道筋が見える — 「強引に押し通す」→「一方的に決めつける」→(打ち消しを伴って)「一概には言えない」。否定と結んではじめて意味が反転するというこの語の仕組みは、語源を知ると一本の線になる。
-
私は何を知るか。……この考えを私は天秤の図とともに掲げている。……断定を避け、判断を宙に吊るしておくこと。それが私のなしうるすべてである。モンテーニュ『エセー』第二巻「レーモン・スボンの弁護」(1580/訳は本教材)
「あながち〜ない」が果たす仕事を説明してくれる。モンテーニュの「私は何を知るか(ク・セ・ジュ)」は不可知論ではない。断定を一つ保留するという技術である。「あながち間違いではない」も同じ働きをする — 正しいとも言わず、間違いとも言わず、「一概には否定できない」という位置に立つ。二重否定が部分的な肯定になるのはこのためだ。否定を否定しても肯定には戻らない — 戻らずに中間で止まるところに、この語法の価値がある。
- 運がよかっただけだと本人は言うが、あながちそうとも言えまい。
典型的な使い方。「あながち〜ない」で部分的な肯定を作る。「そうではない」と断定してはいないところが要点で、相手の謙遜を全否定せずに評価を滑り込ませるという社交的な働きも持つ。
- ×その説はあながち正しい。
打ち消しがない。「あながち」は必ず下に打ち消しを伴う呼応の副詞である。肯定で結ぶと文が成立しない。「あながち間違いではない」と書けば結果として「ある程度正しい」を意味できる — 遠回りがこの語の本体だ。
作品での用例
「かれ」は東京に出て事業を起こすが、失敗して、再び故郷に帰ってくる。
他郷に出て失敗したのは強ちかれの罪ばかりでない、実に又た他郷の人の薄情さにも由るのである、されば若し斯様な親切な故郷の人々の間に居て、事を企てなば、必ず多少の成功はあるべく、以前のような形なしの失敗は有るまいと。
出典 国木田独歩『河霧』
派生形
- 強ち[0]漢字表記。「強」を当てるのは古義の「強引に」に基づく。現代語の意味とは正反対に見えるため、漢字で書くとかえって誤解を招く — だからかな書きが標準である。語義が転じた語は古い表記を捨てる。
- あながちに古語の形。〈強引に・むやみに・ひたすら〉を意味し、打ち消しを伴わない。『源氏物語』『枕草子』に頻出する。古文では肯定、現代文では否定と呼応 — 同じ語が時代で構文を変えることを知っておくと、古文の読解でも躓かない。
- あな語源説の一つ。「あな(=己)」+「勝ち」で「自分の意志を押し通す」と解する。諸説あり確定していないが、この説を取ると「あながち」が否定と結んで「一方的に決めつけない」になる筋道が通る — 語源は記憶の足場として役に立つ。
コロケーション
- あながち〜ではない基本の呼応「〜ではない」「〜とは言えない」「〜ばかりでもない」と結ぶ。すべて否定である。呼応の副詞は文末を拘束する — けっして・かならずしも・まさか・たとえと同じ一族だ。文頭の一語で文末が決まるというこの仕組みは、読解では文の先が予測できることを意味する。
- あながち間違いではない最も多い形「間違い」「嘘」「否定できない」と結ぶ。否定的な語をさらに否定するという二重構造で、結果として弱い肯定になる。「正しい」と言い切ることを避けたいときに選ばれる語で、日本語の議論が好む「留保つきの同意」を担っている。
- あながち〜とも言えない慎重な形「とも」が入るとさらに慎重になる。「〜とは言えない」より「〜とも言えない」のほうが他の可能性を開いたままにする。助詞一つで断定の度合いが刻まれる — 169 の「ようですが」、173 の「ようで」と同じ、日本語の目盛りの細かさである。
- 必ずしも同型の副詞「必ずしも〜ない」とほぼ同じ働きをする。違いは語源の重さで、「必ずしも」は「必ず」の否定という透明な構成だが、「あながち」は語源が見えない。見えないぶん文語的な響きを持ち、書き言葉に偏る。
類語と差
- 必ずしも例外なくとは限らないほぼ同義。あながちのほうが文章語的。
- 一概にひとくくりに同じ構造で打ち消しを伴う。
- まんざらまったく〜でもない口語的。「まんざらでもない」の形で使う。
- 強ち─漢字表記。ひらがな書きが一般的。
ENnot necessarily
ZH未必(必ずしも〜ない, wèibì)
210★
からくも
からくも[2]からくも中高型
語構成
辛からい・つらい
「辛(から)い」の〈厳しい・あやうい〉の意から生まれた副詞。
定義
かろうじて。やっとのことで。
『現代文キーワード読解』第3部 ☑210
原書の解説
「からい(=辛い)」には、〈厳しい・あやうい〉の意もあり、その意とつながりのある語である。
使用の境界かろうじて。ぎりぎりのところで、やっとのことで達成することを表す。
用法「辛(から)い」には〈厳しい・あやうい〉の意もあり、そこから生まれた副詞である。「辛くも」と書き、同語源の「辛うじて(かろうじて)」とほぼ同義だが、こちらのほうが文章語的で古風な響きを持つ。実際の用法は「からくも〜する」で、勝利・脱出・完成など、ぎりぎりで達成された結果に結びつく。失敗には使えない。報道文でも「からくも逃げ切った」のように用いられる。
用例
-
ここに伊邪那岐命、見畏(みかしこ)みて逃げ還ります時に、……最後(いやはて)にその妹伊邪那美命、身自(みづか)ら追ひ来つ。ここに千引(ちびき)の石をその黄泉比良坂(よもつひらさか)に引き塞(さ)へて、その石を中に置きて、各(おのおの)対(む)き立ちて、事戸(ことど)を度(わた)す時に……『古事記』上巻 黄泉比良坂(712)
「からくも」が呼び出す場面の原型である。伊邪那岐は追われ、逃げ、境の坂で巨石を引いて塞ぐ。間に合った。間に合わなければ終わっていた。この語が要求するのはまさにこの「一歩違えば」という構造だ。「辛(から)い」の〈厳しい・あやうい〉という意味から生まれた副詞で、結果は成功である。しかしその成功は余裕を持たない。この語を使った文は、成功を報告しながら同時に失敗の影を見せている — 一語で二つの未来を同時に書けるのである。
-
大波が彼を岩へ打ちつけようとしたそのとき、女神が心に知恵を授けた。彼は身を躍らせ両手で岩にすがりつき、うめきながらしがみついた。……波が引くとき、その手から皮が剥がれ岩に残った。ホメロス『オデュッセイア』第五歌(前八世紀頃/訳は本教材)
「からくも」の代償を書いている。オデュッセウスは助かった。しかし手の皮は岩に残った。この細部が効いている — からくも助かるとは、無傷ではないということだ。「かろうじて」とほぼ同義だが、「からくも」のほうが文章語で重いのは、「辛い」という語幹が苦痛を運んでいるからである。成功の報告でありながら苦しさを手放さない — だからこの語は勝利の記事にではなく、辛勝の記事に使われる。
- 終電にからくも間に合い、扉が閉まる音を背中で聞いた。
典型的な使い方。成功を述べるのに余裕のなさを同時に伝える。「扉が閉まる音」という細部が効くのはこの語がすでに「ぎりぎり」を宣言しているからで、副詞が描写を準備している。
- ×十点差でからくも勝利した。
余裕があってはならない。この語は「もう少しで失敗するところだった」ことが条件で、差が開いていれば成り立たない。「危なげなく」「危なげのない勝利」が反対語にあたる。副詞は事実と矛盾してはならない。
作品での用例
筆者は、和室がもつ独特の採光の仕方に魅力を見出す。
われ等は何処までも、見るからにおぼつかなげな外光が、黄昏色の壁の面に取り着いて辛くも余命を保っている、あの繊細な明るさを楽しむ。
出典 谷崎潤一郎『陰翳礼讃』
派生形
- 辛い[2]味覚だけの語ではない。〈厳しい・あやうい〉という意味が古くからあり、「辛口の批評」「点が辛い」に残る。「つらい」と訓じれば苦痛になる。一つの字が味覚・厳しさ・苦痛の三領域を結んでいる。
- 辛うじて[0]「からくして」の音変化とされる。意味はほぼ同じだが、音が崩れたぶん日常語に定着した。音の崩れと日常化は並行する — 177 の「のっぴき」も同じ道を通った。言いやすさが語を生き延びさせる。
- 辛勝[0]同じ内容の漢語。「からくも勝つ」を二字に圧縮したもので、見出し語として生まれたと見てよい。対義語は「快勝」「圧勝」「完勝」。和語の副詞が担っていた含みを漢語が一語で引き受ける — 近代日本語がくり返し行ってきた圧縮である。
コロケーション
- からくも逃れる危機からの脱出「逃れる」「免れる」「間に合う」「生き延びる」と結ぶ。すべて「失敗が目前に迫っていた」ことを含む動詞である。「からくも完成した」も言えるが、期限が迫っていた文脈が要る。この副詞は動詞を選ぶのではなく、状況を選ぶ。
- からくも勝利する辛勝の型スポーツ記事の定型。勝ったことを報じながら内容の悪さも伝えるという二重の仕事を一語でこなす。見出しに向くのはこのためで、限られた字数で事実と評価を同時に出せる。副詞は報道の経済に寄与する。
- 辛くも漢字表記「辛くも」と書く。「辛い」の連用形+係助詞「も」という構成で、「も」は詠嘆を添える。「早くも」「遅くも」「よくも」と同じ型で、形容詞から副詞を作る日本語の基本的な手続きである。
- かろうじてほぼ同義の口語「辛(かろ)うじて」も同語源。「からくも」よりくだけている。会話ではほぼ「かろうじて」、文章では「からくも」という住み分けができている。同語源の二語が文体で分業するのは日本語によくある形で(185 の刹那/一瞬と同じ現象)。
類語と差
- かろうじてやっとのことでほぼ同義。同じ「辛」の字を用いる。
- ようやく時間をかけてやっと時間の経過。からくもは余裕のなさ。
- すんでのところでもう少しで危なかった危機の切迫。からくもは達成の側。
- 辛勝やっと勝つ名詞。同じ「辛」を使う。
ENbarely / narrowly
ZH勉强(かろうじて, miǎnqiǎng)
確認テスト27
問 1次の空欄に当てはまる語を、あとの①〜⑦からそれぞれ一つずつ選べ(同じものは二度使ってはならない)。
- ア 高価な品物を売りつけられそうになったが、[ ]して偽物だとわかった。
- イ 人気店には時々[ ]な店員がいるが、あまりよい印象は受けないものだ。
- ウ 「めでたさも中くらいなりおらが春」という小林一茶の句に[ ]を感じる。
- エ 一時しのぎの対応の仕方は、[ ]に思えてならない。
- オ 物質的な豊かさだけではなく、精神的な豊かさが満たされた時こそ、本当に人を[ ]にさせる。
- カ 明治初期に出版された西洋文明を紹介する書物には、文明開化の[ ]がまざまざと感じられる。
- キ 「若い時の苦労は買ってでもせよ」と似た意味の、[ ]汝を玉にす、という慣用句がある。
- ①艱難
- ②一瞥
- ③諧謔
- ④鷹揚
- ⑤姑息
- ⑥息吹
- ⑦横柄
正解と解説
ア=② / イ=⑦ / ウ=③ / エ=⑤ / オ=④ / カ=⑥ / キ=①
ア〜キ:いずれも、読み方を問われやすい語なので、意味だけでなく読み方もしっかりと覚えておくこと。
キ:「艱難を玉にす」とは〈多くの苦労を乗り越えることで、立派な人物になる〉という意味。
問 2次の空欄に当てはまる語を、あとの①〜⑦からそれぞれ一つずつ選べ(同じものは二度使ってはならない)。
- ア 知識を問う問題では、選択肢が示された形式であれば[ ]でも対応できる場合があるが、記述式だとそれでは手も足も出ない。
- イ サッカーの準決勝の試合、後半終盤で2対1の場面。応援しているチームが[ ]逃げ切り、決勝に進出した。
- ウ 入試問題の選択肢には、正解以外に、これも[ ]間違いではないのではないか、というものが含まれることがある。
- エ 真剣に相談事をもちかけたのに、[ ]をされたのでつい怒ってしまった。
- オ さまざまな目撃情報・証拠を地道に集めたおかげで、事件の真相がようやく[ ]になった。
- カ 彼は、自分自身のことを「自分は[ ]な性格だ」と自嘲気味に言っている。
- キ 試験はよくできたので、合格したと確信していた。結果発表を見に行くと、[ ]合格であった。
- ①つまびらか
- ②うろ覚え
- ③生返事
- ④怯懦
- ⑤果たして
- ⑥からくも
- ⑦あながち
正解と解説
ア=② / イ=⑥ / ウ=⑦ / エ=③ / オ=① / カ=④ / キ=⑤
キ:ここは〈思った通り〉という意味。
文頭の一語が、文の終わり方を約束している