Section 02
慣用句と動詞
173★★★
水を差す
みずをさす慣用句
定義
余計な口出しをして、邪魔をする。
『現代文キーワード読解』第3部 ☑173
原書の解説
〈物事がうまくいっていることを妨げる〉の意だが、とくに、〈仲がよい者同士の邪魔をする〉という意を表す。
使用の境界うまくいっているものを、横から邪魔してだいなしにすること。悪意の有無は問わない。
用法熱いものに水を注いで温度を下げる、という比喩がそのまま語義になっている。だから対象は盛り上がっているものに限られ、もともと停滞しているものには使えない。悪意がなくても成り立つ点が要点で、良かれと思って言った一言が水を差すこともある。「二人の仲に水を差す」のように人間関係にも使う。同じ「水」でも「水に流す」「水を向ける」は別の慣用句なので混同しない。
用例
-
ここに茶わんが一つあります。中には熱い湯がいっぱいはいっている。ただそれだけではなんの変哲もないようですが、よく気をつけて見ていると、だんだんにいろいろの微細な現象が起こって来る。寺田寅彦『茶わんの湯』(1922)
この慣用句の物理的な下地を見せてくれる随筆の書き出しである。寺田はこのあと、湯の表面に立つ湯気、茶わんの縁から起きる対流を順に描いていく。大事なのは熱い湯が「なんの変哲もない」ものではないという観察だ。熱があるかぎり中では動きが続いている。そこへ水を差せば温度が下がり、その動きが止まる。この語が「盛り上がっているもの」にしか使えないのは、比喩の元が熱の運動だからである。冷めているものに水を差しても何も起こらない。
-
久しく隔たりて逢ひたる人の、我が方にありつること、数々に残りなく語り続くるこそ、あいなけれ。吉田兼好『徒然草』第五十六段(1330頃)
水を差す側は悪意を持っていないという要点を裏から照らす。久しぶりに会った人が自分の身の上を残らず語り続ける。これを兼好は「あいなし」(=興ざめだ)と書く。語っている本人は嬉しくて話しているだけで、誰の邪魔もしていないつもりである。それでも場の熱は下がる。水を差すという語が悪意の有無を問わないのは、この語が動機ではなく結果を名づけているからだ。「差すようで悪いが」という前置きが成り立つのも、差す気がなくても差さってしまうと皆が知っているからである。
- せっかく盛り上がっているところに水を差すようだが、終電の時刻を確かめておきたい。
前置きとしての典型。構造は「さしでがましいようですが」(169)と同じで、これから自分がすることを先に名指しておく。違いは侵す対象だ — さしでがましいは相手の領分を、水を差すは場の熱を侵す。
- ×停滞した議論に水を差す。
比喩が成り立たない。冷めているものはこれ以上冷めない。慣用句の誤用はたいていこの型で、意味だけを覚えて元の場面を手放したときに起きる。「邪魔をする」とだけ覚えていると、何にでも差せるように見えてしまう。
作品での用例
「アメリカさん」と呼ばれた叔父の散歩コースについて、人々の間でさまざまに推測がされていたが、「私」にも自分なりの考えがあった。
私はこうした自分の考えをよほど一座に披露しようかと思ったが、すんでのところで思い留まった。味もそっけもない見方であったし、一座の、やはり同郷人の暖かさがどこかに感じられるアメリカさん観に徒らに水をさすようなものであったからである。
出典 井上靖『道』
派生形
- 水を差される受け身形。慣用句が受け身になれるのは、動詞として十分に生きている証拠である(「油を売られる」とは言えない)。受け身・使役・可能のどこまで活用できるかが、慣用句の固まり具合を測るものさしになる。
- 水入らず[0]「水」を外部の混じり物とみる点で同じ発想に立つ。「親子水入らず」はよそ者が入っていない状態を言う。油と水が混じらないことから来たとされ、ここでも水は「本来そこにないよそのもの」という役を与えられている。
- 冷や水を浴びせる同じ比喩体系の強い版。「差す」は少量、「浴びせる」は全量で、温度差も勢いも桁が違う。したがって悪意の有無を問わない「水を差す」と違い、こちらはほぼ意図的である。動詞の選択だけで故意か過失かが切り替わる。
コロケーション
- 二人の仲に水を差す人間関係の型原書がとくにこの用法を挙げるのには理由がある。仲のよさは「熱」の比喩で語られる語だからだ — 熱をあげる、熱が冷める、熱々。恋愛が温度で測られる以上、それを壊す動作も温度の言葉になる。比喩は単独では立たず、体系として働いている。
- 水を差すようで悪いが前置きの型「ようで」が効いている。断定すれば自分の行為を妨害と認めることになるが、「ようだ」を挟むと「そう見えるかもしれない」に後退する。169 の「さしでがましいようですが」とまったく同じ文法の仕掛けで、日本語は越境の前に推量を一枚挟むことを好む。
- 水を差された気分受け身の形受け身にすると主語が場から人へ移る。「場に水を差す」は出来事の記述だが、「水を差された気分」は個人の感情の記述になる。そして受け身では誰が差したかを言わなくてよい — 加害者を名指さずに被害だけを述べられるので、非難を和らげる働きを持つ。
- 水に流す・水を向ける紛らわしい親族「水」の慣用句は三つとも別の比喩である。「水に流す」は川の流れ(過去を押し流す)、「水を向ける」は巫女が死者を呼ぶために水を手向けたことから(話を誘い出す)、「水を差す」は湯の温度。同じ字を見て同じ族だと思うと間違える — 慣用句は字ではなく場面で分類する。
類語と差
- 邪魔する進行をさまたげる一般語。水を差すは〈盛り上がりを冷ます〉という含みを持つ。
- 腰を折る話の途中でさえぎる話に限る。水を差すは関係や雰囲気にも使う。
- 冷や水を浴びせる勢いを一気に止めるより強い。水を差すはさりげない妨害。
- 興ざめ気分がしらける結果の状態。水を差すはその原因となる行為。
ENto throw cold water on
ZH泼冷水(冷や水を浴びせる, pō lěngshuǐ)
174★★
才走る
さいばしる[4]さいばしる中高型
定義
才能に富む。また、才知が働きすぎる。
『現代文キーワード読解』第3部 ☑174
原書の解説
「才気走る」も同意。「走る」には、〈過度だ〉という否定的なニュアンスも含まれている。
使用の境界才知がすぐれ、それが表に出すぎていること。褒めきらず、批判の含みを持つ。
用法要点は褒めきらないことにある。才能があること自体は認めているが、それが表に出過ぎて鼻につく、という評価が入る。だから称賛の文脈では使えない。「走る」は度を越して先へ行くという意味で、「筆が走る」「感情に走る」と同じ用法である。小説では、少年や若者の人物描写に用いられ、その人物の未熟さを示す伏線になることが多い。
用例
-
企(つまだ)つ者は立たず、跨(また)ぐ者は行かず。自ら見る者は明らかならず、自ら是(ぜ)とする者は彰(あら)はれず、自ら伐(ほこ)る者は功なく、自ら矜(ほこ)る者は長(ひさ)しからず。『老子』第二十四章(書き下しは本教材)
「走る」という字がなぜ否定を帯びるかを説く。冒頭の二句はつま先立ちする者は長く立てず、大股で歩く者は遠くへ行けないという意味である。注意したいのは能力を否定していない点だ。つま先立ちすれば実際に高くなるし、大股なら実際に速い。問題はそれが続かないことにある。才走るという語が才を認めながら褒めきらないのはこれと同じ構えで、いま出ている速さを認めたうえで、その先を危ぶんでいる。この語が少年の描写に多いのも、先がまだ長いからである。
-
己(おれ)の珠に非ざることを惧(おそ)れるが故に、敢(あへ)て刻苦して磨(みが)かうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々(ろくろく)として瓦に伍することも出来なかった。中島敦『山月記』(1942/中島 1942 没)
才走った者の内側を書いた一節である。外から見れば李徴は才気にあふれ、人を人とも思わぬ男だった。ところが本人の告白では、その高慢は自信ではなく恐れだったという。磨けば珠でないと分かってしまうから磨かない。ここに才走るという語の観察の鋭さがある — 才が表へ出過ぎているとき、それは中身が充ちているからではなく、中身を確かめずに済ませているからであることが多い。この語の「鼻につく」という感覚は、その空洞を読み手が嗅ぎ当てているのだ。
- 才走った受け答えをする子だと、担任は褒めもけなしもしない顔で言った。
この語の使われ方を正確に写した文。褒めもけなしもしない — この宙づりが語義そのものである。才能の存在は認めているので悪口ではないが、「出過ぎ」の判定が入っているので称賛でもない。
- ×受賞の挨拶で恩師は彼を才走った若者だと讃えた。
称賛の文脈には置けない。「走る」が「度を越す」を運んでいるので、讃えるという動詞と衝突する。「才気あふれる」「英邁な」なら純粋な称賛になる。語の中に評価が埋め込まれているとき、文脈では打ち消せない。
作品での用例
「私」は、教授から入学試験の英語の成績を褒められて、嬉しくなった。
私はこの時、英語は自分が出来る方らしい、と思うことによって、私よりも大人びて見える同級生や都会育ちの才走った同級生に感じていた劣等意識から救われた。
出典 伊藤整『若い詩人の肖像』
派生形
- 才気走る[5]ほぼ同義だが、「才気」という漢語を挟むぶん文章語寄りになる。「才」一字より「才気」のほうが働きの鋭さを前に出すので、批判の色もやや濃い。同じ意味でも語を長くすると文体が上がるという一般則がここでも働く。
- 小才[0]「小」がついて批判が前面に出る。「小才が利く」は目先の器用さはあるが大きな仕事はできないという意味で、才走るにまだ残っていた敬意が消えている。接頭辞ひとつで評価の目盛りが一段下がる。
- 才走らない否定形がほとんど使われないことに注意したい。「才走らない少年」とは言わない。この語が目に付いたものだけを名指す語だからで、目に付かない状態には名前がない。否定形の不在が、その語の成立条件を教えてくれる。
コロケーション
- 才走った少年年齢と結ぶ年少者に集中するのは偶然ではない。この語は「まだ結果が出ていない」ことを前提にしている。実績のある大人に使うと侮辱に近くなる — 成し遂げたものを見ずに見かけだけで評したことになるからだ。小説でこの語が伏線になりやすいのは、語自体が「この先どうなるか」を含んでいるためである。
- どこか才走ったところ部分化の型「どこか」「〜たところ」というぼかしの枠とよく結ぶ。これは人格の全体を断じたくないという話し手の躊躇である。批判を一点に押し込めておくことで、相手を否定しきらずに済ませる。語の含む半端さが、構文の半端さを呼んでいる。
- 才走って見える見え方の動詞「見える」「思われる」と結びやすい。才走るは内面の記述ではなく印象の記述だからだ。本人が才を誇示しているとは限らない — 受け手が出過ぎだと感じているだけの場合がある。167 うさんくさいと同じ構造で、評価の所在が見る側にある。
- 筆が走る・感情に走る「走る」の一族「走る」は和語のなかで「度を越して先へ行く」を一手に担う動詞である。筆が走る(書き過ぎる)、感情に走る(理を欠く)、極端に走る、悪事に走る。共通するのは速さそのものは悪くないが、制御が追いついていないという判断だ。才走るはこの語族の一員として読むと腑に落ちる。
類語と差
- 聡明かしこく道理に明るい純粋な称賛。才走るは出過ぎている含みがある。
- 小賢しいこざかしく生意気だ明確な非難。才走るはそこまで強くない。
- 才気煥発才知がきらめいている称賛。才走るは同じ性質を批判的に見た言い方。
- 如才ない気がきいて抜かりがない対人的な気配り。才走るは知力の鋭さ。
ENprecocious / too clever
ZH精明外露(才気が表に出る, jīngmíng wàilù)
175★★★
腑に落ちない
ふにおちない慣用句
語構成
腑はらわた・心の底+落おちる
「腑」は、はらわた。理解が身体の底まで降りてこないという比喩である。
定義
納得がいかない。
『現代文キーワード読解』第3部 ☑175
原書の解説
「腑」は腹のことで、〈心〉の意を表す。左の文章では、「はは」の死に対する戸惑いが表現される。
使用の境界説明されても納得できないこと。理解できないのではなく、理解したうえで納得しきれない状態を指す。
用法「腑」ははらわたで、転じて心の底を指す。理解が頭で止まり、身体の底まで降りてこない――この比喩が語義になっている。したがって「わからない」とは違う。説明は理解できたが、それでも引っかかる、という状態である。肯定形の「腑に落ちる」も使えるが、否定形のほうが圧倒的に多い。「府に落ちない」は誤りで、「腑」が正しい。
用例
-
では、時間とは何か。誰も私に問わないなら、私は知っている。問う人に説明しようとすると、私は知らない。アウグスティヌス『告白』第十一巻(397頃/訳は本教材)
この語のちょうど裏側を言い当てた一節である。ここで起きているのは腑には落ちているが言葉にできないという状態だ。「腑に落ちない」はその反対で、言葉としては完全に理解できたのに、底まで降りてこない。二つを並べると、理解と納得が別々の器官に属していることが見えてくる。頭で分かることと腹で分かることは独立に起こりうる — この慣用句が「腑」=はらわたという身体の語を選んだのは、その独立を知っていたからである。
-
余は今まで禅宗のいはゆる悟りといふ事を誤解して居た。悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた。正岡子規『病牀六尺』(1902)
腑に落ちる瞬間の記録として読める。注目すべきは子規が新しい情報を得ていないことだ。「死ぬる事」も「生きて居る事」も前から知っている言葉である。変わったのは並べ方だけだ。つまり腑に落ちるとは知識の追加ではなく、すでにある知識の置き直しである。この語が否定形で使われることのほうが圧倒的に多いのは、材料は足りているのに配置が決まらないという状態が人の常態だからだろう。脊椎カリエスで寝たきりの子規がこれを書いたことも効いている — 腑に落ちるのは身体の側で起きる出来事だ。
- 説明はすべて筋が通っていた。それでも、どこか腑に落ちない。
正しい使い方の見本である。「筋が通っていた」と認めたうえで「それでも」と続く — この逆接がこの語の住む場所だ。理解を否定していないところが「わからない」と決定的に違う。
- ×専門用語が多くて腑に落ちない。
それは「理解できない」である。腑に落ちないは理解の失敗ではなく納得の失敗で、理解が成立していることが前提になる。前提が崩れているので、この語は置けない。
作品での用例
「私」は育ての母(「はは」)の死に遭遇した。
どうしてははの方がさきへ死んだんだろう、なぜ私があとへのこったんだろう。昔っからきつい人で、なんでも私のかなう段じゃなかったものを、なんのわけでこんなに脆く折れてしまったんだか、なんとなく信じがたく腑に落ちかねた。
出典 幸田文『髪』
派生形
- 腑[1]はらわた。漢方の「五臓六腑」の「腑」で、中空の器官(胃・腸・膀胱など)を指す。中身を受け入れる空洞だという点が効いていて、そこへ落ちて収まるという比喩が成り立つ。臓(=詰まった器官)ではこの比喩は作れない。
- 腑抜け[0]腑が抜けた状態、つまり芯がなくなること。「腑に落ちる」が腑を受け皿とみるのに対し、こちらは腑を意志の座とみる。同じ器官が、納得の器にも気概の座にもなる — 身体語は一つの部位に複数の心の働きを割り当てる。
- 合点がいかないほぼ同義の別系統。「合点」は連歌でよい句に点を付けたことに由来し、評価と承認の語である。腑に落ちないが身体の比喩であるのに対し、合点がいかないは採点の比喩だ。同じ「納得しない」を、一方は腹で、一方は帳簿で言っている。
コロケーション
- どうにも腑に落ちない副詞と結ぶ「どうにも」「どこか」「いまひとつ」とよく結ぶ。いずれも理由を特定できないことを示す副詞である。理由が言えるなら反論すればよい — 言えないから腑という身体の語に頼ることになる。共起する副詞が、この語の言語化しにくさを証言している。
- 腑に落ちた肯定形使えるが頻度は低い。これは語の非対称を示す。納得できている状態は意識に上らないので報告されず、できていない状態だけが言葉になる。感覚の語はたいてい不調の側に語彙が偏る(172 の「間がいい」に①の意味がないのと同じ現象)。
- 腑に落ちない点名詞化の型「点」「ところ」と結んで対象を区切る。全体は納得したがこの一点だけがという限定である。議事や報告など公的な文脈でこの形が好まれるのは、相手の説明全体を否定せずに疑義を出せるからだ。身体の比喩が礼儀として働いている。
- 府に落ちない典型的な誤記「府」は役所・くらであって身体ではない。この誤記が絶えないのは、「腑」という字を日常でほとんど見ないからである(他に「臓腑」「五臓六腑」「腑抜け」ぐらい)。字が生活から退くと、慣用句は音だけになり、比喩が見えなくなる。
類語と差
- 納得できない受け入れられない一般語。腑に落ちないは身体感覚を伴う言い方。
- 釈然としないわだかまりが残るほぼ同義。より硬い。
- 合点がいかない筋が通らない理屈の側。腑に落ちないは感覚の側。
- いぶかしいはっきりせず気になる☑162。情報が足りない。腑に落ちないは情報はあるが納得できない。
ENnot convinced
ZH无法信服(納得できない, wúfǎ xìnfú)
176★★★
身も蓋もない
みもふたもない慣用句
語構成
身うつわの本体+蓋ふた
「身」は容器の本体、「蓋」はふた。「元も子もない」とは別語。
定義
率直に表現しすぎてしまい、含みや味わいがないこと。
『現代文キーワード読解』第3部 ☑176
原書の解説
「身」は容器の「蓋」に対して、物を入れる本体部分のこと。本体も蓋もないと、何もかもがあらわになることからできた語。
使用の境界露骨すぎて味わいや含みがないこと。内容が正しいかどうかは問わない。
用法「身」は容器の本体、「蓋」はそのふたで、両方ないなら中身がむき出しになる――この比喩である。要点は、言っていることは正しい場合が多いという点にある。だからこそ話が続かなくなる。「努力しても才能には勝てない、と言っては身も蓋もない」のように、正論であるがゆえに味気ない発言を評する。字面の似た「元も子もない」(元金も利子も失う=すべて台無し)とは別語なので、混同しない。
用例
-
人生は一箱のマッチに似ている。重大に扱うのは莫迦莫迦しい。重大に扱わなければ危険である。芥川龍之介『侏儒の言葉』(1927)
身も蓋もない言い方の見本であり、同時にその言い方がなぜ芸になりうるかも示している。人生をマッチ箱に喩えた瞬間、荘重な語りは一切不可能になる。これが身も蓋もないということだ。しかし芥川はそこで止めず、二つの否定を並べて逃げ場をなくす。身も蓋もなさは、相手の話を終わらせる代わりに、そこから先へ進めなくする。正しさと会話の続行可能性は別のものだとこの語は教えている。
-
真実は、めったに純粋ではなく、決して単純ではない。オスカー・ワイルド『真面目が肝心』(1895/訳は本教材)
身も蓋もない発言がなぜ不十分なのかを言う。身も蓋もない言い方の特徴は正しいことだった。「結局は金の問題だ」「才能には勝てない」 — どれも事実として反論しにくい。ワイルドが突くのはそこである。単純にできるということは、何かを捨てたということだ。捨てたぶんだけ話が速く終わる。蓋は中身を隠すためだけにあるのではなく、中身の形を保つためにもある — この慣用句が容器の比喩を選んだことの正確さがここで効いてくる。
- 身も蓋もない言い方をすれば、結局は締切に間に合うかどうかだ。
前置きとしての型。自分でそう断ってから言うことで、味気なさを承知のうえだと示す。169・173 と同じ「自分の越境を先に名指す」構えで、日本語の前置きはたいていこの形をとる。
- ×大事な書類を無くして身も蓋もない。
「元も子もない」との取り違え。元も子もないは元金も利子も失うことで損失を言い、身も蓋もないは露骨さを言う。字面が似ているだけで、比喩の出どころがまったく違う — 一方は金勘定、他方は容器である。
作品での用例
吹奏楽部員は、地区大会で他の学校の優秀な演奏を聴いて危機感をもつ。地区大会のあと、母親が克久に声をかける。
「やっぱり、強い学校は高い楽器をたくさん持っているのね」 それを言っては、身も蓋もない。言ってはならない真実というものは世の中にはある。それに高価な楽器があれば演奏できるというものでもない。
出典 中沢けい『楽隊のうさぎ』
派生形
- 身[0]容器の本体。「身」が身体を意味しないことに注意する。重箱の身、刀の身(=鞘に対する刀身)と同じ用法で、覆いに対する中身の側を指す。この一字を身体だと読んだ瞬間、慣用句全体が意味不明になる。
- 身から出た錆同じ「身」でもこちらは刀身。刀の身から出た錆だから自分の行いが招いた災いを言う。一つの語が慣用句ごとに違う物を指している — 慣用句を語ごとに分解して覚えると間違えるのはこのためだ。
- 蓋を開ける同じ容器の比喩の別の使い方。こちらは結果が明らかになることを言い、評価を含まない。「蓋がない」は味気なさ、「蓋を開ける」は判明。同じ道具から別々の意味が育つところに、慣用句の生き物めいたふるまいが見える。
コロケーション
- そう言っては身も蓋もない応答の型相手の発言を受けて返す形が最も多い。ここで注意したいのはこれが反論ではないことだ。内容が間違っているとは言っていない。言い方によって会話が死んだと告げているだけである。内容への評価と発話への評価を切り離せるのがこの語の働きだ。
- 身も蓋もない言い方発話の名づけ結ぶ名詞は「言い方」「言い草」「物言い」に集中する。「身も蓋もない考え」とはあまり言わない。心の中でどう思っていてもかまわない — 口に出してはじめて蓋が取れるからである。この語は思考ではなく発話を裁いている。
- 身も蓋もない話だが譲歩の型「だが」で受けて先へ進む形。面白いのは、この前置きを置くと会話が死ななくなることだ。蓋を取ったことを自分で申告すれば、聞き手はそれを一つの見方として受け取れる。メタ発話が会話を救っている。
- 元も子もない紛らわしい隣人「元」は元金、「子」は利子。すべてを失うことを言い、露骨さとは何の関係もない。入試ではこの二語の取り違えが狙われる。「身」と「元」、「蓋」と「子」という音とリズムの似かよりだけで混線するので、それぞれの比喩の出どころを押さえておくのが唯一の対策になる。
類語と差
- 露骨あらわで隠すところがない表現の直接さ。身も蓋もないは、その結果として話が終わってしまうことを含む。
- 直截まわりくどくない肯定的にも使える。身も蓋もないは否定的。
- にべもないそっけない冷たさ。身も蓋もないは正しすぎて味気ないこと。
- 元も子もないすべてを失う結果の話。字面が似るが意味は別。混同しやすい。
ENblunt / leaving nothing unsaid
ZH直言不讳(露骨に言う, zhíyán bùhuì)
177★★★
のっぴきならない
のっぴきならない慣用句
語構成
「退(の)き引きがならない」がつづまった語。
定義
避けることも退くこともできない。どうにもならない。
『現代文キーワード読解』第3部 ☑177
原書の解説
「のっぴき」は「退き引き」のことで、〈避けて退くこと〉を表す。また、類似表現に「進退窮まる」がある。
使用の境界避けることも退くこともできず、どうにもならないこと。深刻さの度合いが高い。
用法「退(の)き引き」がならない、つまり退くことも引くこともできない、が語源である。音がつづまって「のっぴき」になった。実際の用法では「のっぴきならない事情」という結びつきが圧倒的で、詳細を語らずに深刻さだけを伝える言い方として使われる。だから婉曲表現としての機能も持つ。ひらがな書きが標準で、漢字を当てることはまずない。
用例
-
信(しん)乃ち軍を出だし、背水(はいすい)の陣を張る。……諸将、之を賀(が)して因(よ)りて信に問ひて曰く、「兵法に『山陵を右背にし、水沢を前左にす』と曰ふ。今、将軍は臣等をして反(かへ)つて水を背にして陣せしめ……此れ何の術ぞや」と。信曰く、「此れ兵法に在り。……之を死地に陥(おとしい)れて而(しか)る後に生く」と。『史記』淮陰侯列伝「背水の陣」(書き下しは本教材)
のっぴきならない状態が何を生むかを示す。韓信はわざと川を背にして陣を敷いた。退けないと分かった兵は死力を尽くし、勝つ。つまりこの語が指すのは単なる困窮ではなく、選択肢がゼロになった構造である。「退き引きがならない」という語源のとおり、退くことも引くこともできない — この語が深刻さの度合いにおいて突出しているのは、程度ではなく構造を言っているからだ。
-
血のなかへこれほど深く踏み込んでしまった以上、もう渡らぬとしても、引き返すのは渡りきるのと同じだけ厄介なことだ。シェイクスピア『マクベス』第三幕第四場(1606/訳は本教材)
のっぴきならなさの内側から書かれた台詞である。マクベスは引き返す道が前へ進む道と同じだけ遠いことに気づく。ここで見ておきたいのはこの状況を作ったのが本人だということだ。のっぴきならない事情という言い方が詳細を語らずに深刻さだけを伝える婉曲表現として働くのは、そこに自分の落ち度が含まれているかどうかを言わずに済ませられるからでもある。語らないことがこの語の機能なのだ。
- のっぴきならない事情で欠席いたします。
圧倒的に多い型。「事情」という中身のない名詞と結ぶことで、深刻だと伝えながら何も明かさないという離れ業が成り立つ。相手もそれ以上は訊けない — 訊けば無神経になるように設計されている。
- ×のっぴきならない用事があって返信が遅れました。
程度が釣り合わない。この語は退路が断たれていることを言うので、返信の遅れ程度の結果しか生まないなら大げさになる。「立て込んでいて」「所用で」で足りる。婉曲表現は重すぎると嘘に近づく。
作品での用例
少年の兄弟が親の使いで酒屋に行き、酒屋の女主人と会う。
女主人が奥へ去り、しばらくしてもどると、二人のまえにおいてあった桃をとりあげて皮をむきはじめた。女主人はなにかいうのだろうかと顔をみつめても少年たちには黙っている。 奥で、なにかのっぴきならないことがおこったのかもしれない、と弟は想像した。
出典 野呂邦暢『白桃』
派生形
- のっぴき「のきひき」の音がつづまった形。単独では使わない。「ならない」と一体で、170 の「遣る瀬」と同じ型に属する。否定と結んだ形だけが生き残るのは、その状態が言葉にされる必要のあった状態だったということだ。
- ひらがな書き表記そのものがこの語の性格である。漢字をまず当てない — 「退っ引きならない」と書くこともできるがほぼ見ない。音がつづまって語源が見えなくなった語はかなで書かれるようになる。表記は語源意識の温度計だ。
- 抜き差しならない同じ型の兄弟語。「抜く」も「差す」もできない、つまり刀が鞘の途中で固まった状態から来たとされる。のっぴきならないが足の比喩であるのに対し、こちらは手の比喩。どちらも「二方向の動作が同時に封じられる」という同じ論理で作られている。
コロケーション
- のっぴきならない事情婉曲の型この語の用例の大半をこれが占める。注目すべきは「事情」が内容ゼロの名詞である点だ。深刻さの度合いだけを伝えて中身を伝えない — この情報量の非対称が礼儀として機能している。言わないことを相手に納得させる語彙が日本語にはいくつもあり、これはその代表格である。
- のっぴきならない立場位置の名詞「立場」「状況」「羽目」と結ぶ。いずれも人がどこかに置かれていることを言う名詞で、語源の「退き引き」という空間の比喩と噛み合っている。「のっぴきならない気持ち」とは言わない — この語は心の状態ではなく身の置きどころを言う語だからだ。
- のっぴきならなくなる変化の形「なる」で言うほかない。自分でそうしたとは言わない形が選ばれる。マクベスのように実際には自分で招いた場合でも、文法の上では出来事の側が主語になる。170 やるせないと同じで、責任の所在をぼかす自動詞の形である。
- 進退窮まる同義の漢語「進むも退くもできなくなる」で意味の構造が完全に一致する。違うのは文体と用途だ。進退窮まるは客観描写に向き、のっぴきならないは当事者の弁明に向く。和語は言い訳に使えるが漢語は使いにくい — 漢語は距離を作り、距離は共感を呼びにくいからである。
類語と差
- 抜き差しならない身動きがとれないほぼ同義。より硬い。
- 切羽詰まる追い詰められて余裕がない時間の切迫。のっぴきならないは選択肢のなさ。
- 已むを得ない仕方がない諦めの受容。のっぴきならないは事態の深刻さ。
- 窮する行き詰まる状態。のっぴきならないは形容詞的に事情を修飾する。
ENunavoidable / inescapable
ZH无法回避(避けられない, wúfǎ huíbì)
178★★★
気が(気の)置けない
きがおけない慣用句
語構成
誤用が非常に多い。「油断ならない」は正反対の意味である。
定義
遠慮する必要がなく、心から打ち解けることができる。
『現代文キーワード読解』第3部 ☑178
原書の解説
「気が許せない・油断できない」という意味に間違えやすいので注意が必要。
使用の境界遠慮する必要がなく、心から打ち解けられること。「油断ならない」という意味ではない。
用法日本語で最も誤用の多い慣用句の一つである。「気を置く」は〈遠慮する・気を遣う〉の意なので、その否定は〈遠慮がいらない〉となり、肯定的な評価になる。ところが「油断できない」という正反対の意味で理解する人が多く、文化庁の調査でも誤用が過半を占める年がある。入試でも狙われる。「気が置けない」「気の置けない」は同義で、後者のほうが「気の置けない友人」の形でよく使われる。
用例
-
君子の交はりは淡きこと水の若(ごと)く、小人の交はりは甘きこと醴(れい)の若し。君子は淡くして以て親しみ、小人は甘くして以て絶(た)ゆ。『荘子』山木篇(書き下しは本教材)
気の置けない関係の質を言い当てている。「醴」は甘酒だ。濃くて甘い交わりは初めは心地よいが長続きしない。水のように淡い交わりこそ親しみが続く。ここで大事なのは「淡い」が「冷たい」ではないことである。気を遣わないのは関心がないからではなく、遣う必要がないところまで来ているからだ。誤用がこれほど多いのは、「気を置かない」という無防備が現代語では危険の合図に聞こえてしまうからだろう — この一節は無防備が信頼の形であることを思い出させる。
-
なぜ彼を愛したのかと言うよう強いられるなら、こう答えるほかない — 「彼が彼であり、私が私であったから」と。モンテーニュ『エセー』第一巻「友情について」(1580/訳は本教材)
気の置けなさに理由がないことを言う。モンテーニュは亡友ラ・ボエシとの交わりを説明しようとして説明を放棄する。理由を挙げられる関係は、その理由が消えれば終わる — だから挙げられないことが深さの証になる。この語が「友人」「間柄」といった関係そのものの名詞としか結ばず、「気の置けない上司」が言いにくいのも同じ理屈だ。役割で説明のつく関係には、まだ気を置く場所が残っている。
- 気の置けない友人と三時間ほど黙って本を読んでいた。
この語の本質を示す作例である。沈黙が気まずくならない — これが気を置かないということだ。172 の「間が持たない」のちょうど反対で、間を埋めなくてよい関係を言う。
- ×あの人は気が置けないから、契約書はよく読んだほうがいい。
日本語で最も多い誤用。「気を置く」が〈遠慮する・気を遣う〉である以上、その否定は〈遠慮がいらない〉という肯定的な評価にしかならない。「油断ならない」は正反対である。文化庁の調査で誤用が過半を占める年もある。
作品での用例
高木という人物が、叔母や母たちのいる別荘に遊びに来る。
高木の去った後、母と叔母は少時彼の噂をした。初対面の人だけに母の印象は殊に深かった様に見えた。気の置けない、至って行き届いた人らしいと云って賞めていた。叔母は又母の批評を一々実例に照して確かめる風に見えた。
出典 夏目漱石『彼岸過迄』
派生形
- 気を置くすべての出発点。〈遠慮する・気を遣う〉で、「置く」は距離を取るという含みを持つ(「一目置く」「距離を置く」)。相手との間に「気」を一枚挟むという空間のイメージだ。この一句を覚えておけば誤用はしない。
- 気の置ける文法的には作れるが実際には使われない形。言えるはずなのに言わないという空白がここにある。遠慮の要る関係はあまりに普通なので、わざわざ名づける必要がないのだろう — 言葉は例外にだけ名を与える。
- 心置きなく[4]まったく同じ発想の生き残り。「心を置かない」=遠慮しないで、「心置きなくお過ごしください」は今も日常で使われる。こちらは誤用されないのが面白い — 副詞として一語化し、否定の形が意識されなくなったぶん、かえって安全に伝わっている。
コロケーション
- 気の置けない友人最も安定した形「気の」のほうが「気が」より多いのには文法的な理由がある。連体修飾(〜な友人)の中では主語の助詞が「が」から「の」へ交替できるのが日本語の規則で(「背の高い人」「目の大きい子」)、この語はほぼつねに名詞を修飾して使われるので「の」の形が定着した。用法の偏りが形の偏りを生んだ例である。
- 気の置けない間柄関係の名詞「間柄」「仲」「付き合い」と結ぶ。いずれも二人のあいだに成り立つものを指す名詞で、一方の性格を言う語ではないことがここから分かる。気の置けなさは人に属さず関係に属する — だから「気の置けない人」より「気の置けない間柄」のほうが正確な言い方になる。
- 気が置ける使われない肯定形肯定形はほぼ死んでいる。「気が置ける相手」とは言わない。これは誤用が広がった一因でもある — 肯定形が生きていれば「気を置く=遠慮する」が日々確認されるのに、否定形だけが残ったために元の意味が見えなくなった。語の一部だけが生き残ると誤解が始まる。
- 気が置けない/油断ならない取り違えの構図正反対の語を同義だと思うという極端な誤用が起きるのはなぜか。「〜ない」という否定形が警戒の言い方に見えること、そして「気が許せない」という実在の表現と音が近いことが効いている。「許す」は否定で警戒、「置く」は否定で親密 — この一語の違いを押さえるほかない。
類語と差
- 気安い遠慮がいらないほぼ同義でより日常的。
- 心置きない心配やわだかまりがない同じ構造の語。「心置きなく話す」。
- 親しい関係が近い距離の話。気が置けないは遠慮の不要さ。
- 油断ならない警戒を要する正反対の意味。誤用が非常に多い相手。
ENrelaxed / needing no reserve
ZH无需拘束(気兼ねがいらない, wúxū jūshù)
コラム ── 志賀直哉
志賀直哉は「小説の神様」と言われた作家である。無駄な飾りを削ぎ落とした簡潔な文章のすがすがしさは、多くの人の指摘するところだが、徹底した推敲が作品の魅力を見えないところで支えていた。たとえば、敗戦直後に書かれた『灰色の月』は、そこに描かれた出来事の起こった月日まで明示しているため、事実をそのまま書いた随筆だと多くの人に思われてきたが、実はいく通りかの草稿があり、そこから念入りに構成された小説だった。『出来事』『正義派』『清兵衛と瓢箪』などの短編も、構成的な意志によって貫かれた作品である。
志賀直哉は武者小路実篤と並んで、白樺派の実質上の中心部分を形づくった作家と言うことができる。そして日本近代小説のそれ以降のあり方に決定的な影響を与えた。だからこそ、たとえば太宰治などは志賀に激しく噛みついたのであった。確かに、日本の近代小説の枠組みをやや小さくしたという批判もされているのである。
コラム ── 芥川龍之介
夏目漱石・森鴎外という巨匠の影響を強く受けて華々しく文学的出発を遂げた芥川だが、人生のあり方から小説のあり方まで、絶えず迷いと不安を抱いていた作家でもある。たとえば本作『戯作三昧』で描かれた滝沢馬琴の創作の苦悩は、同時に芥川自身の苦悩とも重なるものだっただろう。そして、プロレタリア文学の台頭によって、彼の芸術至上主義が脅かされた時、彼は自殺を選ぶことになった。
生前のこうした芥川の迷いや不安は、志賀直哉の『沓掛にて』という芥川との交遊を回想した小品の中で垣間見ることができる。少し年上で三年ほど創作を休止していた志賀のもとを芥川が訪れ、文学上の行き詰まりの悩みを打ち明ける。二、三年、創作を中断しても差し支えないほど潤沢な資産をもち、調和した作品を描いた志賀。一方、つねに生活のやりくりに追われ、精神的な脆弱さを拭いきれなかった芥川。同時代の作家でありながら、その境遇には大きな違いがあったと言える。
179★★
高が知れる
たかがしれる慣用句
定義
程度が大したものではないとわかる。
『現代文キーワード読解』第3部 ☑179
原書の解説
「高」は、「売上高」のように数量や程度を示す。「高をくくる」は、〈大したことはないと安易に考える〉の意。
使用の境界程度が分かってしまうほどたいしたことがないこと。相手を低く見る評価を含む。
用法「高」は量や程度を表す語で、「石高」「売上高」と同じ用法である。だから「高が知れる」は〈どのくらいかが分かってしまう〉、つまりたいした量ではない、という意味になる。ほぼ常に相手を低く見る評価を伴うため、面と向かっては使いにくい。関連する「高をくくる」は見積もる側の態度を指し、こちらは油断の意味で使われる。二語を混同しないこと。
用例
-
陳渉、少(わか)き時、嘗(かつ)て人と傭耕(ようこう)す。……「苟(いやしく)も富貴とならば、相ひ忘るる無からん」と。傭者笑ひて応へて曰く、「若(なんぢ)は傭耕せらるるを為すのみ。何ぞ富貴とならんや」と。陳渉、太息して曰く、「嗟乎(ああ)、燕雀(えんじゃく)安(いづ)くんぞ鴻鵠(こうこく)の志を知らんや」と。『史記』陳渉世家(書き下しは本教材)
「高が知れる」と言われた側からの反論である。雇われ農民の仲間たちは陳渉の言葉を笑った — お前の身の程は見えている、と。これがまさに高が知れるという判断だ。注意したいのは彼らが間違った推論をしていないことである。いま見えている材料からは、その結論しか出ない。にもかかわらず陳渉はのちに秦に反旗を翻す。つまりこの語の危うさは「量を測り終えた」と見なすところにある。測れるのは現在の量だけで、志は量ではない。
-
填然(てんぜん)として之を鼓し、兵刃(へいじん)既に接す。甲を棄て兵を曳(ひ)きて走る。或いは百歩にして後に止まり、或いは五十歩にして後に止まる。五十歩を以て百歩を笑はば、則ち何如(いかん)。曰く、不可なり。直(た)だ百歩ならざるのみ、是れも亦た走るなり。『孟子』梁恵王上(書き下しは本教材)
「高」が量の語であることを示す。五十歩逃げた者と百歩逃げた者。数の上では倍の差があるのに、孟子は「これも走るなり」と切って捨てる。量の差が質の差にならない領域があるということだ。「高が知れる」も同じことをしている — 数えられる範囲に収まってしまえば、その中でどれだけ多くても同じ。「高」は石高・売上高の「高」であり、数えるという行為が済んだ時点で評価は終わっている。だからこの語は侮蔑を含まざるをえない。
- あれだけ騒いだが、損害は高が知れていた。
物に向けた穏当な使い方。人に向けると侮蔑になるが、金額・被害・分量など実際に数えられるものに向けるかぎり語構成どおりの中立な判断として働く。
- ×新人の実力は高をくくっていた。
二語の混同。「高が知れる」は結果(分かってしまった)、「高をくくる」は態度(大したことはないと安易に見積もる)である。くくるのは見積もる側の心で、知れるのは対象の量 — 主語がそもそも違う。
作品での用例
アメリカの荒野を馬で走る大会に出場した「私」は、馬に乗りながら、軍人だった父親のことを思い出す。
野戦に出たといっても父は後方の安全な指揮班に属しており、一般の召集兵や侵略された側の住民たちの舐めた困苦からみれば、無論父の苦労は比較にもならぬ高が知れたものに過ぎなかったはずだ。
出典 安岡章太郎『走れトマホーク』
派生形
- たかが[1]副詞化した形。「たかが知れている」と重ねて使うこともあるほど一語化が進み、「高」という名詞の自覚はほぼ失われている。語源が見えなくなるとかな書きになるという傾向がここでも働く(177 ののっぴきならないと同じ)。
- 高をくくる別語として押さえる。「高が知れる」との違いは時間の位置にある — くくるのは事前、知れるのは事後。事前にくくって外したときに「痛い目を見る」という筋書きが生まれる。
- 高が知れた連体形にすると侮蔑が固定する。「高が知れた腕前」はすでに判定の済んだラベルとして相手に貼りつく。述語ならその場の判断で済むが、連体修飾は属性になる — 文法の位置が傷の深さを変える。
コロケーション
- 高が知れているテイル形が標準「高が知れる」より「知れている」のほうが圧倒的に多い。テイル形は結果の残存を表すので、すでに見積もりが終わっていることを示す。この語は判断の過程ではなく判断の完了を言う語なのだと、アスペクトが教えてくれる。
- たかが〜副詞化した形「たかが子供の遊びだ」の「たかが」はこの「高」から出ている。副詞になると判断の過程が完全に消え、軽んじる気分だけが残る。「たかが」と言った瞬間に議論は終わる — 176 の身も蓋もなさに近い働きをする。
- 高をくくる態度の側の語「くくる」は束ねて一つにまとめること。まだ分かっていないものを「この程度だろう」と束ねてしまうのがこの語で、だから油断の意味になる。「知れる」は対象が自ら知られる自動詞、「くくる」は主体が勝手に束ねる他動詞 — 自他の別がそのまま意味の別である。
- 石高・売上高・残高「高」の一族「高」は和語の接尾辞として量を作る。石高(米の量)、売上高(金額)、残高(残り)、生産高。すべて数字で表せるものばかりだ。「高が知れる」を「程度が低い」と訳して済ませるとこの語族が見えなくなる — 低いのではなく数え終わるのである。
類語と差
- たかがせいぜい副詞形。「たかが百円」のように使う。
- 高をくくるたいしたことはないと見くびる見積もる側の態度。高が知れるは対象の程度。
- 底が浅い中身が乏しい中身の話。高が知れるは量や程度の話。
- 取るに足りない問題にする価値がない切り捨て。高が知れるは程度を測ったうえでの評価。
ENto be of little account
ZH不足挂齿(取るに足りない, bùzú guàchǐ)
180★★
はばかる
はばかる[2]はばかる中高型
定義
① 気がねする。遠慮する。
② いばる。幅をきかせる。
『現代文キーワード読解』第3部 ☑180
原書の解説
もとは、〈差し障りがあってうまく進まないこと〉を言う。この場面では、「げん」の「母」に対する遠慮がちな姿勢を示す。
使用の境界①気がねして控えること。②いばって幅をきかせること。正反対に見える二つの意味を持つ。
用法①と②が正反対に見えるのは、原義が〈差し障りがあってうまく進まない〉だからである。そこから、自分が差し障りを感じて控えるのが①、他人にとって差し障りになるほど幅をきかせるのが②になる。「憎まれっ子世にはばかる」は②の用法で、この諺があるために②を先に覚える人が多いが、小説で出るのは①のほうが多い。幸田文の作例も①である。
用例
-
人知れぬわが通ひ路の関守はよひよひごとにうちも寝ななむ在原業平/『伊勢物語』第五段(10世紀)
①気がねするの典型的な情景である。男は築地(ついじ)の崩れから通っていたが、見張りが立てられて通えなくなった。「関守」は本当の番人ではなく、人目そのものだ。ここで見ておきたいのは禁じているのが誰でもないことである。命令されたわけではない。差し障りがあると自分で感じて控える — これが「はばかる」の①だ。原義の〈差し障りがあってうまく進まない〉という言い方が、主体を立てていないことに注意したい。誰が障りを作ったかを言わないから、②へも転じられるのである。
-
力なき正義は無力であり、正義なき力は圧制である。……それゆえ、正義と力とを合わせねばならない。そのためには、正しいものが強くあるか、強いものが正しくあるかしなければならない。パスカル『パンセ』断章二九八(1670/訳は本教材)
②いばる・幅をきかせるの側を照らす。「憎まれっ子世にはばかる」という諺が言っているのは力が正しさと無関係に働きうるという観察である。パスカルはそれを正義なき力=圧制と名づけた。ここで①と②が一つの語に同居する理由が見えてくる — どちらも「障り」を中心に置いているのだ。障りを感じる側に立てば遠慮になり、障りを作る側に立てば横行になる。一語が正反対に見える二義を持つとき、たいてい視点が入れ替わっている。
- 母の手前をはばかって、弟は好物の皿へ手を伸ばさなかった。
①の用法。「〜の手前」「人目を」「世間を」と結ぶのが定型である。禁止する主体を名指さず、場の視線だけを置く — 小説でこの語が選ばれるのは、関係の圧力を人物に帰さずに書けるからだ。
- ×先輩をはばかって、会議を仕切った。
①と②の混線。「〜をはばかる」は①控えるの形なので、仕切るという前へ出る動作とは結べない。②の「幅をきかせる」を言いたいなら「世にはばかる」のように場所を目的語に取る形になる。取る格助詞が意味を分けている。
作品での用例
碧郎と弟章次郎は、育ての母(「母」)とはあまり仲が良くない。
母はずっと憂鬱にあまりいい顔はしていなかった。一ツにはリョーマチの悪化もあったが、碧郎への態度の執りかたについて父と意見の合わないことも、憂鬱の大きな原因らしく察せられた。だから、ときに碧郎が屈託なくはしゃいで大笑いしたりすると、げんは母を憚ってびっくりとする。
出典 幸田文『おとうと』
派生形
- 憚り[0]名詞形。「はばかりながら」のほか、便所を「はばかり」と呼ぶ用法が古くからある。人目を避ける場所だからその名になった。婉曲が固定して物の名になった例で、言い換えの化石として面白い。
- 憚る字の成り立ちも見ておきたい。「忄(りっしんべん)」+「單」で、心がためらうことを表す。字は①の側にしか対応していない — ②の「幅をきかせる」は和語の「はばかる」が独自に育てた意味で、漢字を当てたことで見えにくくなった。
- はばかりさま「ご苦労さま」に近い挨拶として使われた語。相手に差し障りをかけたことを詫びる形から出ている。今はほぼ死語だが、この語がかつて日常の対人儀礼の中心にあったことを示している。
コロケーション
- 人目をはばかる①の中心最も安定した結びつき。「人目」「世間」「外聞」「人の手前」 — いずれも実体のない視線である。具体的な個人を目的語に取りにくいのがこの語の特徴で、「父をはばかる」より「父の手前をはばかる」のほうが落ち着く。控えさせているのは人ではなく場の空気だという認識が、共起に現れている。
- はばかりながら前置きの化石「恐れながら」に近い謙譲の前置き。「はばかりながら申し上げます」は差し障りを承知で言うという構えで、169 の「さしでがましいようですが」と同じ型である。越境する前に越境を申告する — 日本語の前置きの基本形がここにも出ている。
- 憎まれっ子世にはばかる②の定型②の用例はほとんどこの諺に集中している。注目したいのは「世に」という場所の格だ。①が「〜を」で対象を取るのに対し、②は「〜に」で広がる場所を取る。「幅をきかせる」という訳語の「幅」が効いていて、これは空間を占める動詞なのである。
- はばかりなく否定形の副詞「はばかりなく言う」は遠慮せずにの意。ここで面白いのは否定形が肯定的にも否定的にも傾くことだ — 率直とも無遠慮とも読める。178 の「気が置けない」が誤解されたのと同じ地帯で、遠慮の欠如は信頼にも無礼にもなりうる。
類語と差
- 遠慮する控えめにする①と同義。日常語。
- 気兼ねする相手を思って控える①に近い。相手への配慮が明確。
- 幅をきかせる威勢よく振る舞う②と同義。
- 差し障る支障が生じるもとの意味に近い。「はばかる」の原義はここにある。
ENto refrain / to hold sway
ZH顾忌(気がねする, gùjì)
181★★★
棹さす
さおさす慣用句
語構成
棹さお+差さす
誤用が非常に多い。「流れに逆らう」は正反対の意味である。
定義
時勢・流行に合わせて物事を進める。
『現代文キーワード読解』第3部 ☑181
原書の解説
〈流れに逆らう・勢いを止める〉という反対の意味に誤用しやすいので注意。
使用の境界流れに乗って勢いを増すこと。流れに逆らうという意味ではない。
用法誤用率が非常に高い慣用句である。棹(さお)は舟を進めるための道具で、川の流れに棹を差せばいっそう速く進む。ところが「流れに逆らう」という正反対の意味で理解する人が多く、文化庁の調査では誤用が六割を超える年がある。夏目漱石『草枕』の「情に棹させば流される」が有名で、ここでも〈情の流れに乗ってしまえば押し流される〉の意である。☑173 水を差すと対で押さえるとよい。
用例
-
ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし。鴨長明『方丈記』冒頭(1212)
「流れ」という語が日本語でどういう位置にあるかを定めた一節である。流れは止められない。止めようとする者は愚かであり、賢者はそれを前提として生きる — これが『方丈記』の構えだ。ここまで押さえると「棹さす」の誤用がなぜ起きるかが見えてくる。棹という道具は川底を突くので、抵抗の身ぶりに見える。しかし実際の船頭は流れの向きへ棹を押して速度を足す。道具の形から想像した意味と、道具の使い方から来た意味がずれている — 誤用はたいていこのずれから生まれる。
-
同じ川に二度入ることはできない。われわれは同じ川に入り、また入らない。われわれはあり、またあらぬ。ヘラクレイトス 断片(前五世紀/訳は本教材)
『方丈記』と同じ観察が八百年前のギリシアにもあったことを示す。川は同じ名で呼ばれ続けるが中身は入れ替わっている。この「名は同じ、実は別」という構図が重要で、「時流に棹さす」の「時流」もまさにこれである。時代の流れは実体ではなく運動だから、乗る以外に関わりようがない。逆らうという選択肢はそもそもこの比喩の中にない — 棹は川底に届くが、川を止める道具ではない。
- 円安に棹さして、輸出企業が最高益を出した。
正しい使い方。すでに起きている流れがあり、それに乗って速度を足す。流れを作ったのは自分ではないところが要点で、この語は手柄を半分状況に返している。
- ×時代の風潮に棹さして、一人異を唱えた。
誤用率が六割を超える年もあるというその誤用である。棹を川底に突き立てて踏ん張るという絵が浮かぶために起きるが、船頭は止まるためではなく進むために棹を使う。逆らうなら「流れに逆らう」「抗する」でよい。
作品での用例
主人公の画工は山路を登りながら感慨にふける。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。
出典 夏目漱石『草枕』
派生形
- 棹[1]舟を進める道具。櫓(ろ)や櫂(かい)が水を掻くのに対し、棹は川底を突いて押す。つまり浅い川でしか使えない。底に届くというこの具体性が比喩の土台で、道具を知らないと慣用句が読めなくなる典型例である。
- 棹さす表記の揺れにも注意したい。「棹さす」「棹差す」「さおさす」が併存する。道具が生活から消えると表記が揺れ、表記が揺れると語源意識がさらに薄れる — 誤用の進行と表記の崩れは並行する。
- 棹をさす助詞を入れた形も使われる。助詞が入るほど字義に近づき、入らないほど慣用句として固まる。「棹をさす」は実際に舟を操る場面でも使えるが、「時流に棹さす」はもはや舟を思わせない。
コロケーション
- 時流に棹さす最も多い形「時流」「時勢」「風潮」「勢い」と結ぶ。いずれもすでに動いているもので、止まっているものには棹をさせない。173 の水を差すが「熱いもの」を要求するのと同じで、比喩の道具は対象の状態まで指定する。慣用句は意味だけでなく使える場面の条件を運んでいる。
- 情に棹させば流される『草枕』の一句漱石のこの一句が誤解の一因にもなっている。「流される」という結果が否定的なので、「棹さす」も否定的な行為だと読まれやすい。しかし文の構造は「情の流れに乗ってしまえば押し流される」で、乗ることと流されることは因果でつながっている。棹さす自体は中立である。
- 流れに棹さす誤用の温床この形が最も誤読される。「流れに」という「に」が対象とも方向とも読めることが効いている — 「壁に手をつく」の「に」だと取れば抵抗に見え、「風に乗る」の「に」だと取れば順行に見える。助詞の多義が慣用句の誤用を支えている。
- 水を差す/棹さす対で覚える同じ「差す」でも正反対の働きをする。水を差すは勢いを殺し、棹さすは勢いを足す。共通するのはどちらも「すでに動いているもの」に対して働きかけることだ。差すという動詞は「細いものを入れる」という身ぶりで、入れた先の結果までは決めていない。
類語と差
- 便乗するうまく機会に乗る打算的な含み。棹さすは中立にも使える。
- 追い風になる勢いを助ける状況の側。棹さすは行為の側。
- 時流に乗る時代の傾向に合わせるほぼ同義の言い換え。
- 水を差す盛り上がりを冷ます☑173。正反対の意味。対で覚える。
ENto go with the current
ZH顺水推舟(流れに乗る, shùnshuǐ tuīzhōu)
182★★★
眉をひそめる
まゆをひそめる慣用句
定義
心配・不快な気持ちを表情に出す。
『現代文キーワード読解』第3部 ☑182
原書の解説
「ひそめる」は〈しわを寄せる〉こと。また、「眉を寄せる」「顔をしかめる」も同じ意味を表す語。
使用の境界不快や心配のために眉を寄せること。表情の描写であると同時に、不快感の表明でもある。
用法「顰(ひそ)める」は寄せてしわを作るという意味で、「顰蹙(ひんしゅく)」と同じ字である。要点は、この動作が声に出さない不快の表明だという点にある。だから小説では、登場人物が言葉にできない反発を示す場面に置かれる。心配や苦痛によっても眉はひそめられるので、文脈でどちらかを判断する。「眉をしかめる」は混用が定着しつつあるが、本来は「ひそめる」が正しいとされる。
用例
-
西施(せいし)、心を病みて其の里に矉(ひそ)む。其の里の醜人、之を見て美とし、帰りて亦た心を捧げて其の里に矉む。其の里の富人、之を見て堅く門を閉ぢて出でず、貧人、之を見て妻子を挈(たづさ)へて之を去りて走る。彼は矉むの美なるを知りて、矉むの美なる所以(ゆゑん)を知らざるなり。『荘子』天運篇「西施の顰(ひそ)み」(書き下しは本教材)
「ひそめる」という語の出どころである。絶世の美女・西施は胸を病み、苦しさに眉を寄せて歩いた。その姿が美しかったので村の醜女が真似をしたところ、人々は門を閉ざして逃げた。荘子の結論は「美しい理由を知らなかった」である。この話が教えるのは眉をひそめる動作が本来意図されたものではないことだ。西施は苦しかったから寄せたのであって見せるために寄せたのではない。だからこそこの動作は言葉より正直な合図として読まれる — 小説でこの語が効くのはそのためである。
-
眉根を寄せる筋肉は、思案の行き詰まりに出会ったときにも、不快なものに出会ったときにも、同じように収縮する。ダーウィン『人及び動物の表情について』第八章(1872/の主旨による)
心配と不快という二つの読みがなぜ一つの動作に同居するかを説明してくれる。ダーウィンの観察は思考の困難と身体の苦痛が同じ筋肉を動かすというものだった。語義の多義はときに身体の構造に由来する。だから「その話に眉をひそめた」も「痛みに眉をひそめる」も同じ語で言える。どちらの意味かは文脈が決めるが、そもそも分かれていないものを文脈が分けているのだと知っておくと、読解で無理に一方に決めつけずに済む。
- 母は何も言わず、ただ眉をひそめた。それで話は終わりだった。
この動作の本質は沈黙である。言葉にすれば反論されうるが、表情は反論の相手にならない。声に出さない不快の表明が言葉より強く働くのはこのためだ。
- ×名演奏に客席は眉をひそめた。
感嘆には使えない。この動作は不快・心配・苦痛のいずれかに限られ、プラスの強い感情には向かない。「息を呑む」「目を見張る」がその位置に入る。表情の慣用句は感情の種類ごとに厳密に割り当てられている。
作品での用例
緊急入院した「彼」は、旧友が意識不明の状態で入院していることを旧友の妻(三緒子)から知らされる。
まさか、こんなところで、寝台の上に肥満した四肢を投げ出して仰臥したまま泥人形のように微動だにしない旧友と再会することになるとは思わなかったのだ。 「あんたさんも運の悪いこってしたなあ」 細君は眉をひそめて気の毒そうに彼を見た。
出典 三浦哲郎『まばたき』
派生形
- 顰蹙[0]同じ「顰」の字を持つ漢語。「顰」は眉を寄せる、「蹙」は額にしわを寄せるで、二字とも同じ動作を言っている。「顰蹙を買う」はその表情を相手にさせてしまうこと。買うという動詞が選ばれているのは、自分の行いの代価として受け取るという含みからである。
- 顰みに倣う『荘子』のこの話から出た成語。むやみに人真似をすることを言うが、現代では「他人に倣って何かをする」の謙譲表現として使われる(「顰みに倣って私も一言申し上げます」)。元は愚かさの譬えだったものが、自分に向けることで謙遜に転じた。
- 眉根[1]眉の内側の付け根。「眉根を寄せる」は「眉をひそめる」より解剖学的に正確で、実際に動くのはこの部分である。文学では「眉根」のほうが古風で和歌的な響きを持ち(「眉根掻き」は『万葉集』に見える恋の兆し)、同じ動作でも語の選択で時代の匂いが変わる。
コロケーション
- 思わず眉をひそめる無意識の副詞「思わず」「つい」とよく結ぶ。意図しないで出てしまったという注釈が付くわけだ。これは西施の話と同じ論理である — 作った表情は効かない。不随意であることが信憑性の源であり、だから副詞がその不随意性をわざわざ保証する。
- 眉をひそめる向きもあるぼかしの型「向き」「筋」といった不特定の名詞と結ぶと、誰が不快に思ったかを言わずに批判を報告できる。新聞や評論でこの形が多いのはそのためだ。表情という個人的な動作が、匿名の世論を表す装置に転用されている。
- 眉をひそめさせる使役の形使役にすると主語が出来事に移る。「その発言は多くの人の眉をひそめさせた」 — ここでは発言が主語で、不快の責任が対象の側に置かれる。能動なら感じた人の主観、使役なら起こした側の落ち度 — 態の選択が責任の配分を変える。
- 眉をひそめる/眉をしかめる混用の現状本来は「ひそめる」が正しいとされる。「しかめる」は顔全体にしわを寄せる動詞で(顔をしかめる)、眉という部分とは本来結ばない。ただし混用は相当に定着している。入試では「ひそめる」を選ぶのが安全である。
類語と差
- 顔をしかめる不快で顔をゆがめるより大きな表情。眉をひそめるは抑制されている。
- 眉をしかめる─混用されるが、本来は「ひそめる」が正しいとされる。
- 顰蹙を買う人から嫌われる結果。眉をひそめるは反応そのもの。
- 難色を示す賛成しかねる態度を見せる意思表示。眉をひそめるは感情の表出。
ENto frown
ZH皱眉(眉をひそめる, zhòuméi)
183★★★
聞こえよがし
聞こえよがし慣用句
語構成
聞きく+〜よがしわざと見せつける
「〜よがし」は〈わざと〜させる〉の接尾語。「これ見よがし」と同じ型。
定義
悪口や皮肉を、相手にわざと聞こえるように言うこと。
『現代文キーワード読解』第3部 ☑183
原書の解説
動詞「聞こえる」の命令形に接尾語「がし(=…と言わんばかりに)」がついた語。他に「これ見よがし」などもある。
使用の境界相手にわざと聞こえるように言うこと。直接言わずに聞かせる点が要点。
用法「〜よがし」は〈わざと〜させる〉を表す接尾語で、「これ見よがし」と同じ型である。要点は、形式上は相手に向けていない点にある。独り言のように、あるいは別の人に話すように言いながら、実際は当人に聞かせている。この間接性が、直接言うよりも陰湿な印象を与える。小説では人間関係の緊張を描くのに使われる。「聞こえよがしに」という副詞形が標準的な使い方である。
用例
-
イアーゴー「はてな。あれは気に入らぬ。」オセロー「何と言った。」イアーゴー「いえ、何でも。何でもありませぬ、将軍。」シェイクスピア『オセロー』第三幕第三場(1604/訳は本教材)
聞こえよがしの構造を舞台の上で解剖してみせた場面である。イアーゴーは独り言のように呟く。形式上はオセローに向けていない。だから問い返されると「何でもない」と引っ込められる。ところが引っ込めることで疑いはかえって濃くなる。ここにこの語の恐ろしさがある — 間接性は弱さではなく武器だ。直接言えば反論できるが、言っていないことには反論できない。「形式上は相手に向けていない」という一点が、相手から応答の手段を奪っている。
-
世間とは、いったい、何の事でしょう。人間の複数でしょうか。どこに、その世間というものの実体があるのでしょう。……そのうちに自分にも、世間というものの実体がぼんやりわかって来ました。世間というのは、君じゃないか。太宰治『人間失格』(1948/抄)
宛先の偽装という点でこの語と同じ仕掛けを扱っている。「世間がゆるさない」と言うとき、話し手は自分を主語の位置から外している。ゆるさないのは自分ではなく世間だ、と。ところが主人公は見抜く — 世間というのは、君じゃないか。聞こえよがしもまったく同じで、「独り言だ」「別の人に話していた」と言い張れる形を取りながら、実際の発話者はそこにいる。責任の所在をずらす技術として、二つは兄弟である。
- 隣の席で、誰にともなく「今どき手書きとはね」と聞こえよがしに言うのが聞こえた。
典型的な形。「誰にともなく」が効いている — 宛先の不在が明示されるほど、本当の宛先ははっきりする。この逆説が陰湿さの正体である。
- ×司会者は聞こえよがしに注意事項を読み上げた。
公然と全員に向けた発話には使えない。この語は「向けていないふりをする」ことを条件にしているので、初めから向けている発話には成り立たない。また内容が悪口・皮肉でない点でも外れる。
作品での用例
川口は、工藤の鉛の研ぎ方に文句をつけ、もう一度研いでくるように工藤に命じる。
「はい、分かりました」 ふだんは向こうっ気のつよい工藤が素直に返事をして、すぐに工場の隅へ戻っていった。さっそく砥石を準備しはじめている。 川口は聞こえよがしに舌打ちをしてから削り台に向かった。
出典 内海隆一郎『大づち小づち』
派生形
- がし〈…と言わんばかりに〉を表す古い接尾語。命令形に付くのが条件で(聞こえよ+がし、見よ+がし)、「わざとそうさせようとする」という意志を含む。現代語には新語を作る力が残っていない — 「読めよがし」とは言わない。接尾語の生死を見るのによい例である。
- これ見よがし[0]同じ型で方向が逆。聞こえよがしは声、これ見よがしは物や動作を使う。そしてこれ見よがしは誇示、聞こえよがしは攻撃である。感覚のチャンネルが違うと同じ構文でも働きが変わる — 見せるのは自分を大きくし、聞かせるのは相手を小さくする。
- 当てこすり[0]内容の側から名づけた語。「聞こえよがし」が言い方を指すのに対し、こちらは遠回しに相手を当ててこするという内容と手つきを指す。二語はしばしば同じ場面を別の角度から記述している — 聞こえよがしに当てこすりを言う、と重ねて使える。
コロケーション
- 聞こえよがしに言う副詞形が標準ほぼつねに「〜に」の副詞形で現れる。名詞として単独で使うことは少ない。これはこの語が言われた内容ではなく言い方を記述する語だからだ。同じ言葉でも、面と向かって言えば批判、背中越しに言えば聞こえよがし — 変わるのは発話の角度だけである。
- 聞こえよがしの嫌味内容の限定結ぶ内容は「嫌味」「悪口」「当てこすり」に限られる。褒め言葉を聞こえよがしに言うことはありえないのかというと、実はありうる — ただしその場合褒めているのは別の誰かで、当人を貶めるためである。いずれにせよ矛先は聞き手に向いている。
- これ見よがし同型の兄弟「〜よがし」は生産性の低い接尾語で、現代語に残るのはほぼこの二語だけである。「聞こえよ」「見よ」という命令形+「がし」という成り立ちで、「がし」は〈…と言わんばかりに〉。命令形を含みながら命令していないというねじれが、そのままこの語の間接性を写している。
- 独り言のように共起する枠「独り言のように」「誰にともなく」「わざと大きな声で」といった説明句とセットで現れることが多い。これは語り手が読者に仕掛けを明かしているということだ。作中人物には見えていない意図が、読者にだけ見える — 小説でこの語が緊張を生むのはこの情報の落差による。
類語と差
- 当てこすり遠回しに皮肉を言う内容が皮肉であること。聞こえよがしは言い方の話。
- これ見よがしわざと見せつける同じ「〜よがし」の型。対象が視覚。
- 嫌味不快にさせる言い方内容。聞こえよがしはその届け方。
- 独り言相手なしにつぶやく形式は同じだが、意図の有無で分かれる。
ENmeant to be overheard
ZH故意说给人听(聞こえよがし, gùyì shuō gěi rén tīng)
184★★★
健気
けなげ[1]けなげ頭高型
定義
気丈な様子。心がけがしっかりしている様子。
『現代文キーワード読解』第3部 ☑184
原書の解説
年少者や弱者が、困難な状況でもしっかりした様子をしている場合によく用いられる。
使用の境界弱い立場の者が、困難に負けず懸命に努めること。強い者の努力には使わない。
用法要点は「弱い立場の者」という前提にある。子供・女性・小さな生き物・病人などが困難に立ち向かう姿に使う語で、力のある大人が努力しても健気とは言わない。したがって見る側の目線が上からになり、称賛でありながら憐れみを含む。この非対称が現代では意識されるようになり、使い方に注意が向けられている。「健」の字を「けな」と読むのは当て字で、語源は「けなり(=異なり)」からとする説がある。
用例
-
痩蛙(やせがへる)まけるな一茶是(これ)にあり小林一茶(1828没)
健気という語が成り立つ視線の位置を一句で示している。蛙が闘っている。一茶は見ている。そして声援を送る。ここに揃っているのは弱い者・懸命さ・それを見守る者という三つの条件で、これがそのまま健気の成立条件である。注意したいのは「一茶是にあり」と名乗りながら、一茶は何もしていないことだ。助けない。見ているだけである。健気という評価につきまとう非対称はここにある — この語を使える者は、その困難の外にいる。
-
そしてよだかの星は燃えつづけました。いつまでもいつまでも燃えつづけました。今でもまだ燃えてゐます。宮沢賢治『よだかの星』(1934/賢治 1933 没)
健気の最も純度の高い形がここにある。よだかは醜いと蔑まれ、名を奪われそうになり、虫を食べて生きる自分に耐えられず、空へ昇って燃え尽きる。誰も見ていない。報われてもいない。それでも燃えつづける。健気さの本体は結果ではなく持続だとこの結びは教える。そして「今でもまだ」という現在形が効いている — 読者がこの語り手の位置に立たされる。健気と呼ぶことは、見届ける役を引き受けることでもある。
- 幼い妹が背伸びして洗い物をしている。止めるのも惜しくて、健気だと思いながら見ていた。
この語の使い方を正確に写した作例。「見ていた」で終わるところが要点である。称賛と憐れみと手を出さないことが同時に成り立つ — この複雑な心の配合を一語で担うのが健気だ。
- ×創業社長が健気に働いて会社を大きくした。
強い立場の者には使えない。この語は「弱い者が」という前提を語義に含んでいるので、権限も資源もある人物に向けると皮肉に聞こえる。「精力的に」「たゆまず」でよい。語には使ってよい相手が書き込まれている。
作品での用例
源氏方の熊谷次郎直実は平家の若武者の首を討とうとするが、敦盛は自分を討ち取るように言う。
熊谷はなさけを知る武士でした。この人一人を助けたとて源氏が負けるものでもあるまいと助けようとしますが、しかし「ただとくとく首をとれ」と若武者は健気に言い放ちます。
出典 田辺聖子『文車日記』
派生形
- 健気さ[0]名詞化すると対象から切り離せる。「その健気さに打たれた」は健気さを独立した価値として扱う言い方で、人物ではなく性質を受け取っている。感動する側の都合で性質だけを抜き取れるという点に、この語の非対称がもう一度現れる。
- 健「健」を「けな」と読むのは当て字である。語源は「けなり(=異なり)」からとする説があり、「人と違って殊勝だ」という意味だったとされる。「殊勝」もまた「ことさら勝れている」で、二語が同じ発想で作られているのが面白い。
- 殊勝[0]意味も構えも近い漢語。「殊勝な心がけ」は健気とほぼ重なるが、やや上から評定する調子が強い。和語の健気には同情が、漢語の殊勝には査定が混じる — 同じ内容を和語で言うか漢語で言うかで、見る側の姿勢まで変わる。
コロケーション
- 健気に働く弱者の努力共起する動詞は「働く」「尽くす」「耐える」「立ち向かう」。いずれも継続と負荷を含む。一度きりの勇敢な行為には使いにくい — それは「勇ましい」である。健気さは日々の積み重ねに宿るので、反復を含む動詞を選ぶ。
- 健気な姿見られる存在「姿」「様子」「けなげさ」と結ぶ。すべて外から見た形である。「健気な決意」とは言わない — 本人の内心はこの語の守備範囲ではない。161 のしおらしいと同じ構造で、評価語は見る側に属する。だから自称できない。
- 健気にも感嘆の副詞「〜にも」という形を取ると意外性への感嘆が加わる(「幼いながら健気にも」)。注目すべきは「〜ながら」とよく組むことだ。譲歩の枠が必要とされるのは、期待されていない者が期待を超えたという判断がこの語に内蔵されているからである。
- 健気/気丈近い語との差気丈は心の強さそのものを言い、立場の上下を問わない。「気丈な社長」は言えるが「健気な社長」は言いにくい。健気には「弱いのに」という譲歩が溶け込んでいるためで、その譲歩こそが憐れみの正体である。現代でこの語の使用に慎重さが求められるのはここに理由がある。
類語と差
- 殊勝感心なほど心がけがよい立場を問わない。健気は弱い者に限る。
- いじらしい健気で心を打たれる見る側の感情。健気は当人の態度。
- けなげ─ひらがな書き。小説ではこちらも多い。
- たくましい力強く困難に耐える強さそのもの。健気は弱さを前提とする。
ENbrave / admirable (of the weak)
ZH坚强(けなげだ, jiānqiáng)
コラム ── 横光利一
横光利一は、「真昼である。特別急行列車は満員のまま全速力で駆けていた。沿線の小駅は石のように黙殺された」で始まる『頭ならびに腹』で、一躍、新感覚派の旗手と目され、川端康成らとともに活躍した作家である。それ以降、横光はプロレタリア文学の隆盛と私小説の残存という二つの潮流に抗い、モダニズム文学の先頭を歩み、その試みは井伏鱒二や梶井基次郎などの新興芸術派、伊藤整や堀辰雄などの新心理主義へと受け継がれていく。未完の大作『旅愁』は、西洋近代的なものと日本的なものとの間で揺れ動く人物の内面を描いた、思想小説ともよぶべきものである。こう見るなら、横光は、関東大震災から太平洋戦争までの人々の不安や苦悩を作品に定着することに情熱を費やした作家と言えるだろう。
なお、初期の横光には、『春は馬車に乗って』『美しい家』など病妻ものの作品があり、妻と夫の愛と苦悩が新感覚派ならではの新鮮な文体で描かれている。
コラム ── 高見順
膨大な資料を駆使し数年がかりでまとめた『昭和文学盛衰史』という大著で自ら明らかにしているように、高見順は、昭和初期にアバンギャルド運動などの影響を受け、またプロレタリア文学運動組織に加わって、横光利一らのモダニズム文学とプロレタリア文学の両方に関わった作家である。さらに転向も経験しつつ、その痛みの中から創作に向かっていった。『故旧忘れ得べき』などがその現れだが、そこで彼は独特の饒舌体を操って自らのやり場のない苦しみを直視していき、独自の小説世界を切り開いた。
『故旧忘れ得べき』に、理髪店で鏡の前の自分と対面する時の奇妙な違和感を描いた一節がある。こうした違和感は戦後の長編『わが胸の底のここには』に受け継がれていく。それは、島崎藤村の「吾胸の底のここには言ひがたき秘密住めり」という詩句を題名にした作品で、元県知事を父にもつ私生児として貧困家庭に育った者の屈折や苦悩が、自虐的に描かれている。
確認テスト25
問 1次の空欄に当てはまる語を、あとの①〜④からそれぞれ一つずつ選べ(同じものは二度使ってはならない)。なお、空欄には活用させて入るものもある。
- ア 携帯電話で大声で会話すると、電車の中では乗客が[ ]ことがある。
- イ 本当はそうは思ってないのに、大勢に合わせて流れに[ ]発言をするなんて、調子のいい人だ。
- ウ 皆で盛り上がっているところに[ ]ようで申し訳ないが、その計画には問題がある。
- エ [ ]ながら申し上げますが、あなたのお考えには少し無理があるように思います。
正解と解説
ア=④ / イ=② / ウ=① / エ=③
イ・ウ:「棹さす」と「水を差す」の意味の違いをしっかり理解しておくこと。
エ:「はばかりながら申し上げます」は、これで一つの表現として覚えておこう。
問 2次の傍線部の意味を答えよ。
- ア SNSを介して何百人もの「友達」がいるという人もいるが、その何百人のうち、本当に気が置けない「友達」は果たして何人だろうか。
- イ 健気に働いて家計を助ける少年の姿をテレビで見て、心を打たれる。
- ウ 彼の説明にはどうも腑に落ちない点があったので、そこを改めて質問する。
- エ 我々の軍は敵軍に四方を包囲され、のっぴきならない状況に追い込まれた。
正解と解説
ア=心から打ち解けることができる / イ=気丈 / ウ=納得ができない / エ=どうにもならない
ア:とくに意味を誤用しやすい語なので注意。
イ:「健気」は〈気丈な様子・心がけがしっかりしている様子〉という意味。
問 3次の空欄に当てはまる語を、あとの①〜④からそれぞれ一つずつ選べ(同じものは二度使ってはならない)。なお、空欄には活用させて入るものもある。
- ア 深い学識があったとしても、[ ]ところを見せない方が、周囲から反感をもたれないだろう。
- イ 彼女に対して「太ったね」なんて、そんな言い方をしては[ ]。「ふっくらしたね」とか、他に言い方があるだろう。
- ウ いくら勉強が大変だとは言っても、単語テストの範囲は[ ]。
- エ 自習室で騒いでいたら、少し離れた席の人に「うるさいな」と[ ]に言われ、自分たちが悪かったと素直に反省した。
- ①才走る
- ②高が知れる
- ③身も蓋もない
- ④聞こえよがし
正解と解説
ア=① / イ=③ / ウ=② / エ=④
ウ:「高が知れている」という言い方もある。
意味だけを覚えると、使える場面の条件が落ちる