Part 3 · 03

心情の漢語

[ 原書 第3部 ☑185〜196 ]

語数 12 / 作家コラム 4 / 確認テスト 1

Part 3

この部の章

  1. 01感情の形容詞161-172
  2. 02慣用句と動詞173-184
  3. 03心情の漢語185-196
  4. 04漢語・副詞197-210
Section 03

心情の漢語

同義の字を重ねた熟語同じ意味の漢字を二つ重ねて作られた熟語を並べ、字の意味が語義をそのまま示すことを説明した図。 同義の字を重ねる 艱難怯懦怪訝髣髴 諧謔屈託姑息 なやむ+むずかしいおびえる+よわい あやしい+いぶかる似る+似る やわらぐ+たわむれるくじける+あずける しばらく+やすむ 二字がほぼ同じ意味を表す型では、どちらか一字の訓が分かれば語義に届く。 読めない熟語に出会ったら、まず一字ずつの訓を思い出す。 「怯」がおびえる、「懦」がよわい ── だから怯懦は臆病である
同義の字を重ねた熟語
185★★

刹那せつな

せつな[1]頭高型

語構成
くぎり・きわめて短い時short の音写字

サンスクリット語 kṣaṇa の音写。仏教では時間の最小単位を指す。

定義

ほんの一瞬。

『現代文キーワード読解』第3部 ☑185
原書の解説

もとは仏教語で、時間の最小単位のこと。「刹那的」は、〈目の前の快楽を求めるさま〉の意。

使用の境界

きわめて短い時間。「瞬間」より短く、仏教語としての重みを持つ。

用法

サンスクリット語 kṣaṇa の音写で、仏教では時間の最小単位を指す。日常語の「瞬間」より短く、また重い。小説では「その刹那」の形で、決定的な一点を指すのに使われる。派生語の「刹那的」「刹那主義」は〈将来を考えずその場の快楽だけを追う〉という批判語で、こちらは評論文にも出る。仏教語であることを知っておくと、「一瞬」との使い分けが理解しやすい。

用例
  • 一切の有為(うい)の法は、夢・幻・泡・影の如く、露の如く亦(また)電(いなずま)の如し。応(まさ)に是(かく)の如き観を作(な)すべし。『金剛般若経』四句偈(書き下しは本教材)
    「刹那」がもともと住んでいた場所を見せてくれる。有為の法とは条件によって生じたものすべてを指す。それを仏典は夢・幻・泡・影・露・稲妻と六つ重ねる。注目したいのは並べ方だ — 夢や幻は実体のなさを、露や稲妻は時間の短さを言っている。つまり実体がないことと一瞬であることは同じ事柄の二つの言い方だという認識がここにある。刹那が「瞬間」より重いのは、この存在論を背負っているからだ。単に短いのではなく、短さこそが物のありようだと言っている。
  • わたしがその瞬間に向かってこう言ったなら — 「留まれ、お前はいかにも美しい」と。そのときはわたしを鎖につないでくれてよい。ゲーテ『ファウスト』第一部(1808/訳は本教材)
    刹那に対する人間の側の欲望を書いている。ファウストが悪魔と結ぶ契約の条件は「一瞬に向かって留まれと言ってしまったら負け」である。ここにこの語の両義性の根がある。刹那は尊いだからこそ引き止めたくなる。そして引き止めようとした瞬間に堕落が始まる。派生語の「刹那的」「刹那主義」否定的な色を帯びるのはまさにこの構図によるもので、一瞬を尊ぶことと一瞬にしがみつくことは紙一重だと仏典もゲーテも知っていた。
  • 振り向いた刹那、見てはいけないものを見た気がした。 小説での標準的な用法「その刹那」「〜した刹那」の形で、物語が折れ曲がる一点を指す。「瞬間」でも意味は通るが、刹那を選ぶと文体が一段重くなる語の出自が文の格を決める
  • ×会議は刹那で終わった。 日常の短さには使わない。この語が指すのは指を弾く間に六十を数えるほどの時間の最小単位であり、文体としても荘重である。「あっという間」「すぐに」でよい。語の重さと事柄の重さを合わせるのが文章の基本になる。
作品での用例

「私」は、汽車の向かいに座る娘が、踏切で汽車を見送りにきた子供たちに蜜柑を投げ与えたのを見た。

私は思わず息を呑んだ。そうして刹那に一切を了解した。小娘は、恐らくはこれから奉公先へ赴こうとしている小娘は、その懐に蔵していた幾顆の蜜柑を窓から投げて、わざわざ踏切りまで見送りに来た弟たちの労に報いたのである。

出典 芥川龍之介『蜜柑』

派生形
  • 刹那的せつなてき[0]〈将来を考えずその場の快楽を求める〉時間の語が生き方の語に変わっている「〜的」はしばしば「それを過度に重んじる」という非難を運ぶ(感傷的・観念的・打算的)。接尾辞が価値判断を持ち込む典型例だ。
  • 刹那主義せつなしゅぎ[4]さらに「主義」を重ねると、個人の傾向が思想の名になるここまで来ると批判の対象として固定される「〜的」→「〜主義」という階段は近代日本語が西洋語を受け止めるために作った装置で、仏教語がその装置に乗せられているのが面白い。
  • 刹那kṣaṇaサンスクリット語クシャナの音写「刹」も「那」も意味ではなく音を写した字である(旦那・卒塔婆・娑婆と同じ作り方)。字面から意味を取ろうとすると外す漢語には意味の合成でできた語と音を借りただけの語が混じっていることを思い出させる一語だ。
コロケーション
  • その刹那指示語と結ぶ「その」「〜した」という指示・修飾を必ず伴うのがこの語の特徴である。「刹那が過ぎた」とは言わない。なぜか — 刹那は長さの単位ではなく一点の指定だからだ。時間の量を言う語なら主語になれるが、位置を言う語は何かに結びつけないと立たない
  • 刹那的な快楽否定的な派生「〜的」を付けた瞬間に評価が反転する。刹那そのものは中立かむしろ尊いのに、刹那的は「将来を考えない」という非難になる。これは「〜的」が「それを原理とする」という含みを持つからで、一瞬を尊ぶことと一瞬だけを原理にすることは別である。
  • 刹那の光短さの名詞と「光」「きらめき」「表情」などもともと持続しないものとよく結ぶ。逆に「刹那の努力」とは言わない持続を本質とするものに一瞬をかぶせると矛盾するからだ。共起制限は恣意ではなく、語義どうしの整合から生まれる
  • 刹那/瞬間/一瞬三語の距離瞬間は中立の時間語一瞬は話し言葉寄りで主観的刹那は文語的で荘重三語は長さではほぼ同じものを指すのに、文体の格が違う同義語の選択とは意味の選択ではなく文体の選択であることが最もはっきり見える三語である。

書き言葉。会話では不自然。

類語と差
  • 瞬間またたく間日常語。刹那は文章語で、宗教的な含みを残す。
  • 一瞬ごく短い時間ほぼ同義でより日常的。刹那は時間の最小単位という含みがある。
  • 束の間ごく短い間持続がある。刹那は幅を持たない一点。
  • 刹那的その場かぎりの派生語。将来を考えない生き方を批判的に言う。

ENinstant / moment
ZH刹那(刹那, chànà)

186★★★

裏腹うらはら

うらはら[0]平板型

語構成
うらはら
定義

① 正反対の関係。

② 隣接していること。

『現代文キーワード読解』第3部 ☑186
原書の解説

〈裏と表・背と腹〉で、正反対な様子を示す①の意。また、〈背中合わせ〉という②の意も押さえておこう。

使用の境界

表と裏のように正反対であること。単に違うのではなく、対になっていることを含む。

用法

用法はほぼ「〜とは裏腹に」の形に集中する。言葉と本心、態度と気持ちのように、本来一致すべき二つがずれていることを言う。だから無関係な二つには使えない。「裏」と「腹」はどちらも身体の後ろ側と前側で、表裏一体でありながら逆を向いている――この比喩が語義になっている。小説では、登場人物の内心と言動の食い違いを描く場面に置かれる。

用例
  • 天下皆美の美たるを知る、斯(こ)れ悪のみ。皆善の善たるを知る、斯れ不善のみ。故に有無相(あ)ひ生じ、難易相ひ成り、長短相ひ形(かたち)づくり、高下相ひ傾(かたむ)き、音声相ひ和し、前後相ひ随(したが)ふ。『老子』第二章(書き下しは本教材)
    ②「隣接している」という意味がなぜ①「正反対」と同居できるかを説く。老子が並べるのは有と無、難と易、長と短 — いずれも正反対の組である。そして「相ひ生じ」「相ひ成り」と言う。片方だけでは成り立たないのだ。長いという語は短いという語がなければ意味を持たない。正反対であることは、無関係であることの逆である — 最も密接に結びついた二つだけが正反対になれる。「裏」と「腹」が背中合わせでありながら逆を向くのと同じで、この語が「無関係な二つには使えない」のはこの論理による。
  • コーディリア「何も申せません、父上。」リア「何もだと。」コーディリア「何も。」リア「無からは何も生まれぬぞ。もう一度言ってみよ。」シェイクスピア『リア王』第一幕第一場(1606/訳は本教材)
    ①の最も有名な場面である。姉たちは父への愛を限りない言葉で飾り立てた。末娘だけが何も言えない。この劇の全体は言葉と本心が裏腹であるという一点から展開する — 最も愛している者が最も語れず、愛していない者が最もよく語る。注意したいのはこれが偶然ではないことだ。言葉は本心の裏として働きうるという認識があればこそ、「〜とは裏腹に」という言い方が本心を暴く道具になる。
  • 威勢のいい言葉とは裏腹に、指先が小刻みに震えていた。 この語の標準的な運用。要点は二つが同一人物に属していることだ。言葉と身体という本来は一致するはずの組がずれる。ずれが見えるのは一致が期待されているからである。
  • ×兄は理系で、弟は裏腹に文系だ。 無関係な二つには使えない裏腹は「本来一致すべき二つ」にしか成り立たない。兄と弟の進路は一致する義理がないので、ずれてもただの相違である。「対照的に」が正しい。
作品での用例

祖母を亡くした少年。ある日、少年は急に、祖母がいないことに対して空虚さを覚える。

そうした少年の心の動きは、祖母への追慕などというものとは、およそ縁のない、裏はらなものに違いなかった。そこには一種の罪障感と自責の念が、黒々とよどんでいた。

出典 神西清『少年』

派生形
  • うら[2]もとは「心」を意味したという説がある(「うら悲し」「うら寂しい」の「うら」)。外から見えない側という一点で物の裏と心の内は同じものと捉えられていた。「裏腹」が本心のずれを言う語になったのは偶然ではないのかもしれない。
  • うらはらに副詞的に使う形かな書きも多い。「裏」「腹」という身体の字が前に出ると比喩が生々しくなりすぎるためか、抽象的な文脈ではかなで書かれる傾向がある。表記の選択が比喩の見え方を調節している
  • 表裏一体ひょうりいったい[0]②の意味に対応する漢語裏腹が「ずれ」を強調するのに対し、表裏一体は「分けられない」ことを強調する同じ「表と裏」の比喩から、離反の語と一致の語が両方生まれている比喩は一つの意味しか生まないわけではない
コロケーション
  • 〜とは裏腹にほぼ唯一の型用法がこの一つの型に集中しているのは珍しい。「とは」という取り立てが要で、先に期待される側を掲げてから裏切るという順序を作る。この順序が逆になると効果が消える期待が先に立たなければ裏切りは成立しない
  • 言葉とは裏腹に典型的な組結ばれる組はほぼ決まっている言葉と本心、表情と気持ち、態度と内心、予想と結果。すべて外に出るものと内にあるものの組だ。裏腹という語は「内と外は一致するはずだ」という素朴な信頼を前提にしているので、その信頼があるからこそ裏切りが書ける
  • 背中合わせ②の言い換え②の「隣接」の意味は現代では薄れ、「危険と背中合わせ」のような言い方に残る。ここでは反対ではなく密着を言っている。①と②は矛盾ではなく、同じ身体の比喩の二つの読み方である — 背と腹はくっついていて、しかも逆を向いている
  • 裏腹な関係形容動詞の形「裏腹な」と連体で使う形もあるが頻度は低い。これはこの語が性質ではなく関係を言う語だからだ。一つのものが裏腹であることはできず、つねに二つが要る二項を同時に示せる「〜とは」の形が選ばれるのは必然である。

書き言葉・会話の両方で使える。

類語と差
  • 正反対まったく逆方向の逆。裏腹は表裏一体という含みを持つ。
  • 矛盾両立しない論理の話。裏腹は言動や心情のずれ。
  • 表裏表と裏名詞。裏腹は形容動詞的に使う。
  • あべこべ逆さま口語。裏腹は文章語。

ENcontrary to / opposite
ZH相反(相反する, xiāngfǎn)

187★★★

怪訝けげん

けげん[1]頭高型

語構成
あやしいいぶかる

読みは「けげん」。「訝」は「いぶかる」と同じ字である。

定義

状況がのみこめず、不思議に思うこと。

『現代文キーワード読解』第3部 ☑187
原書の解説

「怪」=「あやしい」、「訝」=「いぶかしい」と、訓読できる。

使用の境界

不審に思って納得できない様子。表情に現れた状態を指すことが多い。

用法

二字がともに〈あやしむ〉を表す。実際の用法は「怪訝な顔」「怪訝そうに」にほぼ固定しており、表情の描写に使われる。だから小説の地の文で頻出する。吉野弘の詩を引いた入試文でも「父は怪訝そうに僕の顔をのぞきこんだ」という形で現れた。読みが問われる語で、「かいが」ではなく「けげん」と読む。「訝」は「いぶかる」(☑162)と同じ字である。

用例
  • こんな夢を見た。腕組をして枕元に坐っていると、仰向に寝た女が、静かな声でもう死にますと云う。女は長い髪を枕に敷いて、輪郭の柔らかな瓜実顔をその中に横たえている。……それで死ぬのかと思った。夏目漱石『夢十夜』第一夜(1908)
    怪訝という語が働く心の位置を示している。女は静かな声でもう死にますと言う。語り手は顔色も声も死にそうには見えないと思う。ここにあるのは状況がのみこめないという状態そのものだ。疑っているのではない嘘だと思っているわけではない与えられた事実と見えている事実が噛み合わないだけである。167 うさんくさいが相手の誠実さを疑うのに対し、怪訝は世界の筋道を疑う矛先が人ではなく状況に向いているのがこの語の特徴だ。
  • ソクラテスよ、あなたはあの海にいる痺れ鱏(しびれえい)に似ている。触れる者をみな痺れさせるのだ。いまわたしは心も口も痺れて、何を答えたらよいかわからない。プラトン『メノン』(前四世紀/訳は本教材)
    怪訝が知性の状態でもあることを示す。メノンは徳とは何かを知っているつもりだった。ソクラテスに問われてそれが崩れる。残ったのは痺れである。注目すべきはこれが無知ではないことだ — 知らないと知った状態、つまりのみこめないことをのみこんだ状態である。「怪訝な顔」が愚かさの表情ではなく思考の表情として読まれるのはこのためだ。小説の地の文でこの語が多用されるのは、登場人物がいま考え始めたことを一語で示せるからである。
  • 父は怪訝そうに僕の顔をのぞきこんだ。 この語の用例の大半はこの形である。「怪訝な顔」「怪訝そうに」にほぼ固定していて、表情の描写に特化した漢語と言ってよい。のぞきこむ・見る・首をかしげるといった確かめようとする動作と共起する。
  • ×大臣の答弁に野党は怪訝した 「怪訝する」という動詞形はない。この語は形容動詞としてしか活用せず、「怪訝な」「怪訝に」「怪訝そうに」の三形で尽きる。また不審の表明という行為を言うなら「疑問を呈した」である。怪訝は行為ではなく状態だ。
作品での用例

「私」は同級生のカツノリくんと遊んでいたが、カツノリくんが川に落ちてしまい、小舟を操る船頭(「男」)に助けを求める。

「おっちゃん、助けてェ。あの子が川に落ちたァ」 私は悲痛な声をあげて、真下の川面を指差した。その声で、男は怪訝な面持ちで指差す地点を窺い、やっとそこに浮かんでいる子供の姿を認めた。彼は慌てて舟の向きを変え、巧みに櫓を漕ぎながら、カツノリくんに近づいて行った。

出典 宮本輝『蛍川』

派生形
  • あやしい「怪」は常識で説明のつかないものを指す字(怪奇・妖怪・奇怪)。「妖しい」が魅惑を含むのに対し、「怪しい」は理解の外にあることを言う。怪訝の「怪」は後者で、だからこの語には色っぽさが一切ない
  • 訝るいぶかる[3]「訝」の訓読み和語の「いぶかる」がすでにあって、そこへ漢字を当てたという関係である。怪訝はその字を二つ重ねた漢語で、同義の字を重ねて意味を強めるという漢語の作り方(豊富・堅固・道路)に従っている。
  • けげん[1]読みが問われる語。「かいが」ではない「怪」を「け」と読むのは呉音で、仏教語に多い読み方である(怪我・化生・境内)。同じ字でも呉音か漢音かで語の出自が違う読みの不規則は歴史の層である。
コロケーション
  • 怪訝な顔表情の名詞と「顔」「表情」「面持ち」「目」と結ぶ。この語はほぼ顔からしか出ない。「怪訝な声」も言えるが頻度は落ちる。これはのみこめないという状態が眉と目に出るからで、182 眉をひそめると隣り合っているただし眉をひそめるは不快、怪訝は不可解似た表情が別の心を運ぶ
  • 怪訝そうに推量の接尾辞「そうだ」がつくのは167 うさんくさいと同じで、語り手が相手の内心を断定していないことを示す。見えているのは表情だけで、そこから推し量っている三人称の小説でこの形が好まれるのは、視点人物の知りうる範囲を守れるからだ。
  • 怪訝の念書き言葉の型「念」「思い」と結ぶと文語的になる。「怪訝の念にとらわれる」は翻訳調・明治の文体の香りを持つ。漢語+「の念」という型そのものが近代の書き言葉の産物で(畏敬の念・自責の念)、文体の時代を示す目印になる。
  • 怪訝/不審/訝しい三語の差不審は疑いが相手に向く(不審者・不審な点)。訝しいは和語で主観的怪訝は表情として外に出た状態を指す。つまり三語は同じ心の働きを、向き・文体・可視性の三つの軸で切り分けている類語の整理は意味の濃淡ではなく軸を見つける作業である。

書き言葉。会話では不自然。

類語と差
  • いぶかしいはっきりせず気になる☑162。心の内。怪訝は表情として現れた様子。
  • 不審疑わしい疑いの内容。怪訝は反応としての表情。
  • 腑に落ちない納得できない☑175。理屈の話。怪訝は瞬間的な反応。
  • いぶかる不審に思う動詞。怪訝は形容動詞で、様子を描く。

ENpuzzled / dubious
ZH诧异(いぶかしむ, chàyì)

188

居丈高(威丈高)いたけだか

いたけだか[0]平板型

語構成
いるたけたかい
定義

相手を威圧する態度。

『現代文キーワード読解』第3部 ☑188
原書の解説

「丈」は背丈のこと。「居丈高(威丈高)」は、座った時に座高(=居丈)を高くそびやかす意味。

使用の境界

相手を見下し、頭ごなしに威圧する様子。単に偉そうなのではなく、力で押さえつける態度を指す。

用法

語源が姿勢を示す。座ったまま上体を伸ばして高く構えることで、そこから相手を見下ろす態度を指すようになった。だから「居丈高になる」は、実際に身を乗り出す動作を含意する。表記は「居丈高」「威丈高」の両方が行われ、後者は「威」の字を当てた後世の表記である。小説では権力を持つ人物の描写に使われ、読み手に反感を抱かせる働きを持つ。

用例
  • 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。『平家物語』巻第一 冒頭(13世紀)
    居丈高な姿を外側から眺めた視線がここにある。「おごれる人」「たけき者」とは身を大きく構える者のことだ。この冒頭が効いているのは、それを非難していない点である。ただ「久しからず」と言う居丈高という語も同じ構えを持つ相手の正しさや力の実在を否定せず、その姿勢だけを写し取る語源が姿勢であることの意味はここにあって、中身ではなく構えを名指すから、権力の有無に関わらず使えるのである。
  • 一匹の蛙が、牛の大きさをうらやんで、皺だらけの皮を思いきり膨らませた。子らに問う。「どうだ、これで足りるか。」「まだです。」さらに力んだ。「ではいまは。」「まだ及びません。」蛙はなおも膨らみ、ついに破裂した。イソップ寓話「蛙と牛」(訳は本教材)
    居丈高という姿勢の内側を書いている。要点は蛙が大きくなっていないことだ。膨らんでいるだけである。「座ったまま上体を伸ばして高く構える」というこの語の語源も同じで、実際に背が伸びるわけではない見かけの高さを作るだけだ。そしてこの寓話が鋭いのは蛙が子に確認を求めるところである — 居丈高な態度は相手の反応を必要とする誰も怯えなければ、それはただの奇妙な姿勢にすぎない
  • 窓口の男は居丈高に書類を押し返した。 権限の小さい者ほどこの語がよく似合う本当に力のある者は身を乗り出す必要がないからだ。姿勢を作らねばならないこと自体が、その力の不足を語っている小説はこの皮肉を好んで使う
  • ×社長は居丈高な人格者として知られている。 肯定的な文脈には置けない。この語は「威厳がある」とは違う威厳は相手を押さえつけないが、居丈高は押さえつける「堂々とした」「威厳のある」なら称賛になる。
作品での用例

息子が神経質で偏食であることに困った母親は、自ら鮨を握り、イカの鮨を息子に与えることにする。

子供は今度握った飯の上に乗った白く長方形の切片を気味悪く覗いた。すると母親は怖くない程度の威丈高になって 「何でもありません、白い玉子焼だと思って喰べればいいんです」 といった。

出典 岡本かの子『鮨』

派生形
  • 居丈いたけ座ったときの背の高さ、つまり座高この語が日常から消えたことが、慣用句の意味を不透明にした畳に座って対面する文化を前提にした語で、椅子の生活ではこの身ぶりが再現できない
  • 居丈高い形容詞の形はない「居丈高な」という形容動詞だけである。「高い」という和語の形容詞を含みながら形容詞にならないのは、三語が一語に固まってしまった証拠だ。固まり具合は活用の自由度で測れる
  • 頭ごなしあたまごなし[0]意味の近い和語「頭ごなしに叱る」相手の言い分を聞かずにという手続きの不当さを言う。居丈高が姿勢、頭ごなしが手順同じ場面を二つの角度から名づけた語で、並べて使うと描写が立体になる
コロケーション
  • 居丈高になる変化の形「なる」で言うのが標準もともとそうなのではなく、ある場面でそうなるという含みを持つ。語源が姿勢であることの効果で、姿勢は取ったり解いたりできる性格の語なら「〜だ」で済むのに「なる」を要求するところに、この語の一時性が現れている。
  • 居丈高な態度態度の名詞「態度」「物言い」「口調」と結ぶ。すべて外に現れるもので、「居丈高な考え」とは言わない内心で相手を見下していても、それが姿勢や声に出なければこの語は使えないこの語は心ではなく身体を記述する
  • 居丈高に出る「出る」との結合「出る」という動詞が選ばれるのは示唆的だ。169 さしでがましいの「差し出づ」と同じで、前へ出る動作を含む。日本語は対人関係を空間で捉える出る・引く・押す・譲る・距離を置くこの空間の語彙こそが対人語彙の骨格である。
  • 居丈高/威丈高二つの表記「居丈」が本来で、「座高」を意味する「威丈高」は後から当てられた表記で、「威」の字が意味を説明してしまっている語源が見えなくなると意味の分かる字が当てられる表記の変化は語源の忘却の記録である。

書き言葉。会話では不自然。

類語と差
  • 高圧的力で押さえつけるほぼ同義。より現代的で硬い。
  • 横柄人を見下して無礼である☑206。態度の無礼さ。居丈高は威圧の強さ。
  • 尊大自分を高く見せる自分の側。居丈高は相手を押さえつける側。
  • 威圧的おそれさせる効果の側。居丈高は姿勢の描写を含む。

ENoverbearing / domineering
ZH盛气凌人(居丈高だ, shèngqì língrén)

189★★★

理不尽りふじん

りふじん[2]中高型

語構成
ことわり不尽つくさない
定義

物事の理屈に合わないこと。

『現代文キーワード読解』第3部 ☑189
原書の解説

「理」は〈物事のことわり〉の意で、「不尽」は〈十分に尽くしていない〉ということ。

使用の境界

道理に合わず、筋が通らないこと。話し手の憤りを含み、中立の記述には使えない。

用法

「不尽」は〈尽くさない〉、つまり道理を尽くしていないという意味である。要点は、この語が常に話し手の憤りを伴うことにある。だから客観的な記述には使えず、「不合理」に置き換える必要がある。評論文では、☑13 非合理・不合理との三語の区別が設問になる。非合理は理の枠の外、不合理は枠の内での不整合、理不尽は不当さへの怒り、と整理する。

用例
  • なにゆえ悪しき者が生きながらえ、年を重ね、力を増すのか。……わたしは全能者に語りたい、神に向かって論じたいのだ。『旧約聖書』ヨブ記 第二十一章・第十三章(訳は本教材)
    理不尽という語が必ず憤りを伴うのはなぜかを教える。ヨブは正しく生きたのにすべてを失った。友人たちは「お前に罪があったのだ」と説く — つまり筋を通そうとする。ヨブはそれを拒み、神に直接論じたいと言う。ここが重要だ — 理不尽を理不尽と呼ぶことは、道理があるべきだと信じていることの表明である。道理を信じない者は憤らないこの語が中立の記述に使えないのは、語そのものが「そうであるべきではない」という主張を含んでいるからだ。
  • 庄兵衛はいかに桁を違えて考えて見ても、その間に劃(かく)した一線を見出すことができぬ。……お上(かみ)の事を「オオトリテエ」に従って判断するよりほかはない。森鷗外『高瀬舟』(1916)
    理不尽を受け取る側の姿を書いている。喜助は苦しむ弟の求めに応じてその命を絶ち、罪人として島へ送られる。護送役の庄兵衛はどう考えても罪と罪でないものの境が引けない。それでも権威に従うほかないと結ぶ。この「ほかはない」という諦めの手前にあるのが理不尽という感覚だ。納得はしていない従うだけである175 腑に落ちないと隣り合うが、腑に落ちないは内向きのつかえ、理不尽は外へ向かう抗議である。
  • 遅刻の理由も聞かずに一律で罰を与えるのは理不尽だ 正しい使い方「〜のは理不尽だ」判断を述べる形が基本である。話し手が筋を通せと要求していることが明示されるので、この語を使った時点で中立ではいられない
  • ×この現象は既存の理論では理不尽である。 学術的な記述には使えない憤りを含む語だからだ。「不合理」なら中立に使える。第1部☑13 で整理した非合理(理の枠の外)/不合理(筋が通らない)/理不尽(筋が通らずかつ許しがたい)の三語の差が、ここで効いてくる。
作品での用例

佐々男は自分の経験から、他人の死に対して何もしないで見過ごすのは罪悪だと「私」に話す。

佐々男のその意見は、私をいらだたせた。なんというか、彼が理不尽にえばっているような気がした。私の経験していない他人の死というものを経験したことによって、えばりくさっている、優位に立って私に何も言わせないようにしている、と思ったのだ。

出典 角田光代『イリの結婚式』

派生形
  • 不尽ふじん[0]〈尽くしていない〉「理を尽くしていない」がこの語の成り立ちである。「理がない」ではない点が大切で、道理そのものは存在すると認めたうえで、それが十分に及んでいないと言っている。だから憤りが生じる届くはずのものが届いていないのだから。
  • ことわり[3]和語の「ことわり」「事割り」、つまり物事を分けて筋道をつけることだとされる。漢語の「理」も玉の筋目が原義である。和漢どちらでも「理」は線を引くことで、理不尽とはその線が引かれていない状態である。
  • 無理むり[1]「理がない」のが無理、「理を尽くしていない」のが理不尽。無理は不可能・強引へ広がり、日常語として摩耗した理不尽は摩耗せず、今も憤りの重さを保っている使用頻度が低いことが、かえって語の力を守ることがある。
コロケーション
  • 理不尽な要求相手の行為と「要求」「命令」「仕打ち」「暴力」と結ぶ。すべて誰かが誰かにすることである。「理不尽な天候」とは言いにくい自然には筋を通す義務がないからだ。この語は責任を負いうる主体を想定しているだからこそヨブは神に論じたいと言ったのである。
  • 理不尽さ名詞化の形「さ」で名詞にすると対象から切り離せる。「世の理不尽さ」は特定の加害者を持たない構造を指せるようになる。形容動詞のままでは個別の出来事しか裁けないが、名詞にすると社会全体を主語にできる評論文がこの形を好む理由である。
  • 理不尽に耐える受け手の動詞「耐える」「さらされる」「押しつけられる」と結ぶ。いずれも受け身の構図だ。この語はほぼつねに被害者の側から発せられる理不尽を行う側が自分の行為をそう呼ぶことはない語の立ち位置が固定されている珍しい例である。
  • 不尽手紙の結語との縁「不尽」は書簡の末尾に書く語でもある(「言い尽くせませんが」の意)。同じ二字が、手紙では謙譲、「理不尽」では非難になる。尽くしていないのが自分の言葉なら謙遜、相手の道理なら糾弾同じ字が誰に向くかで正反対の働きをする

書き言葉・会話の両方で使える。

類語と差
  • 不合理理に照らして筋が通らない☑13。中立の記述語。理不尽は憤りを含む。
  • 非合理理では捉えきれない☑13。枠の外。誤りではない。理不尽は明確に不当。
  • 不条理意味づけを拒む状況文学・実存主義の語。理不尽は日常の不当さ。
  • 無茶度を越している程度の話。理不尽は筋の通らなさ。

ENunreasonable / unjust
ZH无理(理不尽だ, wúlǐ)

190★★★

屈託くったく

くったく[0]平板型

語構成
かがむ・くじけるかこつける・あずける
定義

① 一つのことにこだわり、心配すること。

② 疲れて飽きること。

『現代文キーワード読解』第3部 ☑190
原書の解説

「屈託のない(=心配事がない)」という使われ方が多い。

使用の境界

気にかかることがあって、心が晴れないこと。実際には否定形「屈託ない」で使うことが圧倒的に多い。

用法

肯定形より否定形「屈託ない」「屈託のない」のほうが圧倒的に多い、めずらしい語である。「屈託のない笑顔」は〈心に何のわだかまりもない明るい笑顔〉の意で、褒め言葉になる。幸田文の作例では「碧郎が屈託なくはしゃいで大笑いしたりすると」という形で現れる。肯定形の「屈託を抱える」も使えるが硬い。読みが問われることもある。

用例
  • 子供らと手毬(てまり)つきつつこの里に遊ぶ春日は暮れずともよし良寛(1831没)
    「屈託のない」という状態をそのまま歌にしたような一首である。良寛は寺を持たず托鉢で生きた僧で、心配すべきことはいくらでもあったはずだ。それでも子供と手毬をついている。ここで見ておきたいのは「暮れずともよし」という結びだ。日が暮れなくてよい — つまり先のことを考えていない屈託のなさとは悩みがないことではなく、いまこの時間に悩みを持ち込んでいないことだとこの歌は教える。「屈」はかがむ、「託」はかこつける身をかがめて何かにこだわる姿勢がここにはない。
  • 其の人と為(な)りや、憤を発して食を忘れ、楽しみて以て憂ひを忘れ、老いの将(まさ)に至らんとするを知らざるのみ。『論語』述而篇(書き下しは本教材)
    屈託のなさが子供だけのものではないことを示す。これは孔子が自分を評した言葉である。憤を発してとは分からないことに突き当たって奮い立つこと。そのときは食事を忘れる。分かれば楽しくて憂いを忘れる。そうしているうちに老いが来ることも忘れている三つとも「忘れる」だ。屈託とは忘れられないことであり、屈託のなさとは忘れられることである。この語が否定形でこそ生きるのは、忘却という状態には積極的な名前がつけにくいからだろう。
  • 屈託のない笑顔で手を振る子を、窓から見ていた。 この語の用例の大半がこの形である。肯定形より否定形が多いという珍しい語で、178 の「気の置けない」と同じ型に属する。あってはじめて普通のものが無いときにだけ言葉になる
  • ×休暇中は仕事のことを忘れて屈託した 意味が逆である。屈託するは「心配して心が晴れない」ことで、くつろぐこととは正反対だ。「屈託ない」の形でばかり触れていると、「屈託」自体を明るい語だと思い込む否定形だけが流通する語に特有の誤解である。
作品での用例

重吉と計吉の兄弟は、上京した母が故郷に帰るのを見送りに駅に行く。

「二人とも、もう帰っていいよ。寒いから」と母が言うけれど、計吉は首を振る。 「寒くはないよ。もうすぐ発車だから、いるよ。どうせおれは今日は暇なんだ」 と計吉は前歯の金の入れ歯を見せて、屈託のなさそうな笑みを浮べ、あわてて手で口を押える。

出典 常盤新平『遠いアメリカ』

派生形
  • かがむ身を折り曲げる字(屈折・屈伸・退屈)。心がまっすぐ伸びていない状態を表す。「退屈」も同じ字で、気持ちが退いてかがむことから来ている。一つの字が心の姿勢を描く漢字はしばしば身体の比喩を経由して心を言う
  • かこつける他のものによせて言う字。屈託の「託」はこだわりが何かに引っかかって離れないことを表す。「屈」+「託」で「かがんで引っかかる」二字がそろってはじめて心の晴れなさが描ける漢語を字に分けて読むと語義が立体になる
  • 屈託ない「の」を入れない形も広く使われる。「屈託のない」よりやや口語的で、一語化が進んでいることを示す。178 の「気の置けない」が「の」を取り込んだのとは逆方向の動きで、語が固まる過程には複数の道がある
コロケーション
  • 屈託のない笑顔最も安定した形「笑顔」「表情」「声」「様子」と結ぶ。すべて外に出るものだ。屈託は内心の状態なのに、その否定は外見にしか使われない — このねじれが面白い。内心に何もないことは確かめようがないので、見えている明るさから推し量るほかないのである。
  • 屈託なく笑う副詞の形「なく」で副詞にすると動作にかかる「屈託なく笑う」「屈託なくはしゃぐ」 — 共起するのは感情がそのまま身体に出る動作ばかりだ。「屈託なく考える」とは言わない屈託のなさは思考ではなく身体の軽さとして現れる
  • 屈託を抱える肯定形の生き残り肯定形が使えないわけではない。「屈託を抱える」「屈託がある」は文章語として生きている。ただしやや古風で、現代語では「わだかまり」「心配事」に置き換えられることが多い。否定形だけが日常語に残り、肯定形は文語の側へ退いた
  • 屈託/頓着似た構えの二語「頓着(とんじゃく)しない」否定形でよく使う語である。ただし屈託は心配、頓着は関心屈託がないのは悩んでいない、頓着しないのは気にしていない前者は明るさ、後者は無関心に傾く — どちらも褒め言葉になりうるが、褒めている中身が違う

書き言葉。会話では不自然。

類語と差
  • 憂鬱気分が晴れない持続する気分。屈託は特定の心配ごとに結びつく。
  • わだかまり心に残るしこり人間関係に多い。屈託はより広い心配。
  • 心配気がかりである一般語。屈託は文章語で、内に抱えている含みが強い。
  • 邪気悪意「無邪気」と「屈託ない」は近い意味になる。

ENcare / worry
ZH牵挂(気がかり, qiānguà)

コラム ── 堀辰雄

『大和路・信濃路』は、堀辰雄が夫人に宛てた手紙や、夫人とともに木曽から大和へ歩いた体験を軸にした小品の連作である。用例の文章に選んだものは、その中の「樹下」と題する一節で、そこで紹介されている石仏を、彼は古拙(アルカイック)と形容している。この連作には印象に残る描写が多く、それが戦後、改めて起こった古都ブームの火つけ役の先駆をなす理由の一つとなった。とくに汽車の窓から辛夷の花を見るところなど、三好達治の詩集『花筐』を連想させるものがある。

堀辰雄が知られるようになったのは、彼が、東京帝国大学在学中に出した同人雑誌『驢馬』に発表した詩やエッセイによってだが、同人だった中野重治が、プロレタリア文学・民主主義文学の代表的作家として昭和文学史を飾ったのに対して、堀はそれと対照的なモダニズム文学の中にある位置を占めながら、なお超然とした生き方を保った。

コラム ── 立原道造

立原道造は夭折した詩人である。彼は旧制中学では先輩の芥川龍之介以来の秀才と言われ、東京帝国大学建築科を卒業後、建築事務所に勤めたが、二十四歳で逝去した。その間、大学に入った年に、昭和初期の詩壇を飾る詩誌『四季』創刊について、堀辰雄や三好達治らと打ち合わせを行っているので、早くからその詩才を認められていたことがわかる。

第一詩集『萱草に寄す』を出したのは二十三歳の時で、その冒頭には「SONATINE No.1」五編が置かれている。「はじめてのものに」「またある夜に」「晩き日の夕べに」「わかれる昼に」「のちのおもひに」がそれで、題を見ただけでも、恋らしいものが芽生え、やがてそれが何らかの事情で別れるほかないことになり、絶望に似た心情に陥る、というドラマが想像できる。連作はほぼ一年をはさんで作られた。舞台は軽井沢らしい高原だが、相手の女性は一人ではなかったらしい。

191★★

得心とくしん

とくしん[0]平板型

語構成
えるこころ
定義

納得、承知すること。

『現代文キーワード読解』第3部 ☑191
原書の解説

「得心がいく」「得心ずく(=互いに承知の上で物事をすること)」という使われ方もする。

使用の境界

十分に納得すること。理解にとどまらず、心から受け入れる段階を指す。

用法

「心を得る」という語構成で、心の底から受け入れることを指す。だから「一応納得した」とは言えても「一応得心した」とは言いにくい。実際の用法は「得心がいく」「得心のいく」の形が多く、時代小説や落語でよく使われる古風な語である。現代の会話ではほとんど使われないが、小説の地の文には残っている。「とくしん」と読み、「えしん」ではない。

用例
  • 仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。道元『正法眼蔵』現成公案(1233頃)
    「心を得る」という語構成が何を言っているかを照らす。道元が描くのは学ぶ→忘れる→向こうから証されるという三段である。注目したいのは最後が受け身であることだ — 「万法に証せらるる」、つまり自分が納得するのではなく、事物の側から納得させられる得心とはまさにこの段階を指す。理解は自分の働きだが、得心は自分の働きをやめたところで起こる「一応得心した」と言いにくいのは、途中で止められる種類の出来事ではないからである。
  • 万物皆我に備はる。身に反(かへ)りみて誠あらば、楽しみ焉(これ)より大なるは莫(な)し。『孟子』尽心上(書き下しは本教材)
    得心が感情を伴うことを示す。孟子は身をふりかえって誠があれば、これ以上の楽しみはないと言う。納得には快さがあるのだ。175 腑に落ちないが「引っかかり」という不快で記述されるのと対をなす。ここから得心と納得の違いも見えてくる — 納得は説明を受け入れること得心は受け入れたことが身の落ち着きになること時代小説や落語でこの語が生きているのは、手打ち・和解・腹を割るといった身体を伴う合意を描く場面が多いからである。
  • 三度説明を聞いて、ようやく得心がいった。 「得心がいく」が最も安定した形。「いく」という移動の動詞が選ばれているのが要点で、納得は一点に到達する出来事として捉えられている。「三度」という回数が効くのも同じ理由 — 距離を踏破した感じが出る
  • ×一応得心しましたが、まだ疑問が残ります。 「一応」と両立しない得心は心の底からの受け入れなので、部分的・暫定的ではありえない「一応納得しました」なら成り立つ。程度副詞と結べるかどうかが、語の強度を測る試薬になる
作品での用例

「私」は妻と二人で郊外の家を探しに出かけ、気に入った家を見つける。

「ここにしよう、ここがいい。」 そこで二人は大家へ行って部屋の様子をきき正した。 私達はもう家そのものはどうでも良かった。ただ自分達の疲れた身体に一時も早く得心を与えるために直ぐその家を借りようという気になった。

出典 横光利一『美しい家』

派生形
  • 得心ずくとくしんずく[0]双方の合意を言う。近世の商いや訴訟の語で、「得心ずくの上は異議申さず」という形で証文に書かれた。心の状態を示す語が法的な効力の根拠になっていた近代法の「意思表示」の前身と見ることもできる。
  • 心得こころえ[3]字をひっくり返すと別語になる「得心」は心を得る(納得する)、「心得」は心に得る(わきまえ・基本の知識)。語順が入れ替わると主客も入れ替わるという、漢語の組み立てがよく分かる一対である。
  • 会得えとく[0]同じ「得」を持つ語会得は技や知識を身につけることで、得心は心が受け入れること。会得には練習が要り、得心には要らない「得」という字が「自分のものになる」を担い、もう一字が何が自分のものになるかを決めている
コロケーション
  • 得心がいく中心的な型「いく」「ゆく」と結ぶ。同型に「納得がいく」「合点がいく」があり、日本語は納得を「到着」として捉えることが分かる。175 の「腑に落ちる」は落下こちらは到達同じ心の出来事に二種類の運動の比喩が与えられている
  • 得心のいく説明連体で使う形「得心のいく〜」と名詞を修飾する形も多い。「が」ではなく「の」になるのは178 と同じ連体節の主格交替である。「得心のいく仕事」のように自分の成果にも使えるところが面白く、他人の説明だけでなく自分の出来にも納得は要る
  • 得心ずく合意の型「互いに承知の上で事を行う」こと。「〜ずく」は「それを拠りどころとして」を表す接尾語で(力ずく・納得ずく・腕ずく)、合意の根拠を名指す力ずくと得心ずくが同じ形を取ることに注意したい — 形は同じで中身が正反対である。
  • 得心/納得/承知三語の位置承知は知って受け入れる(手続き)、納得は筋が通ったと認める(論理)、得心は心の底が落ち着く(身体)。手続き→論理→身体と段が深くなる。三語をこの順に並べられると、読解で人物の受け入れの深さを測れるようになる。

書き言葉。会話では不自然。

類語と差
  • 納得理由が分かって受け入れる一般語。得心はより深く、心の底からの承服。
  • 承服従うことを受け入れる従う側面。得心は理解と納得の両方。
  • 合点筋道が分かる理屈の側。得心は感情も含めた受容。
  • 腑に落ちる納得できる☑175 の肯定形。得心とほぼ同義。

ENfull conviction
ZH信服(納得する, xìnfú)

192★★★

髣髴(彷彿)ほうふつ

ほうふつ[0]平板型

語構成
似る・ぼんやり似る・ぼんやり

「彷彿」とも書く。二字がともに〈ぼんやり似ている〉を表す。

定義

① よく似ているものを見て、ありありと想像すること。

② ぼんやりとしているさま。

『現代文キーワード読解』第3部 ☑192
原書の解説

「髣」も「髴」も、元来はよく似ている様子を示す語。「髣髴とする」で、〈似ているため、実物が思い浮かぶ〉の意になる。

使用の境界

よく似ていて、ありありと思い浮かべさせること。単に似ているだけでは足りず、思い起こさせる働きを含む。

用法

実際の用法はほぼ「〜を髣髴とさせる」「〜を髣髴させる」に固定している。要点は、単なる類似ではなく記憶や情景を呼び起こすという働きにある。だから対象は、かつて見たもの・知っているものに限られる。表記は「彷彿」が現在は一般的だが、原書は「髣髴」を主表記としている。どちらも二字がともに〈ぼんやり似ている〉を表す同義の重ね語である。読みが問われる。

用例
  • 三代の栄耀(えいよう)一睡の中(うち)にして、大門の跡は一里こなたに有り。……さても義臣すぐつて此城にこもり、功名一時のくさむらとなる。「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と、笠打敷きて、時のうつるまで泪をおとし侍りぬ。 夏草や兵(つはもの)どもが夢の跡松尾芭蕉『おくのほそ道』平泉(1702)
    髣髴という語の働きを実演してみせた一段である。目の前にあるのは夏草だけだ。それなのに義経主従の姿がありありと立ち上がる。注目したいのは芭蕉が杜甫を引いていることである。目の前の草を見て千年前の中国の詩を思い出し、その詩を通して五百年前の合戦を見る髣髴とはこの二重三重の重ね合わせである。単なる類似では足りないという要点は、ここに尽きている。似ているものがあれば足りるのではなく、見る側に思い浮かべる準備がなければ何も立ち上がらない
  • 国破れて山河在り/城春にして草木深し/時に感じては花にも涙を濺(そそ)ぎ/別れを恨んでは鳥にも心を驚かす杜甫「春望」(757/書き下しは本教材)
    芭蕉が引いたその詩である。国は滅びたのに山と川はそのままある城跡には春が来て草木が深い。ここで起きているのは変わらないものを見ることで変わったものが見えるという逆説だ。山河が無事だからこそ国の喪失が際立つ。髣髴という語が「〜を髣髴とさせる」という使役の形を取るのはこのためである — 目の前のものが主語になり、見る者に別のものを思い浮かべさせる思い出すのではなく思い出させられるのだ。
  • 石段の摩耗の深さが、ここを上り下りした無数の足を髣髴とさせた 正しい使い方石段と足は似ていない。それでも結果として残ったものから原因が立ち上がるこの語が要求するのは形の類似ではなく、見る者の中で像が結ばれることである。
  • ×兄と弟の顔はよく髣髴としている。 単なる類似には使えない「似ている」で足りる場面にこの語を使うと重すぎる。髣髴は「Aを見てBを思い浮かべる」という二段の構造を要求する。AとBが同じ場所に並んでいてはいけない
作品での用例

姉夫婦の家に一夏滞在した「峻」は、義兄の妹で夏休みに帰省している信子と親しくなる。

信子の着物が物干竿にかかったまま雨の中にあった。筒袖の、平常着ていたゆかたで彼の一番眼に慣れた着物だった。その故か、見ていると不思議なくらい信子の身体つきが髣髴とした。

出典 梶井基次郎『城のある町にて』

派生形
  • 髣髴とさせる使役の形が事実上の基本形。「髣髴させる」と「と」を落とす形も多い。「と」は擬態語につく助詞で(悠然と・毅然と)、この語がもともと「ぼんやり」を写す語だった名残である。
  • 彷彿ほうふつ[0]異表記新聞・雑誌ではこちらが優勢である。常用漢字表にどちらも入っていないため「ほうふつ」とかなで書かれることも増えた。表記の選択が媒体の性格を映す文学は難字を残し、報道は崩す
  • 彷徨ほうこう[0]「彷」を共有する別語さまよい歩くことで、髣髴とは意味が離れている字面が似ているので混同されやすいが、「彷徨」は足の語、「彷彿」は目の語である。同じ部首でも意味の族が違うことを押さえておきたい。
コロケーション
  • 〜を髣髴とさせるほぼ唯一の型使役形が標準であることに意味がある。主語は目の前のもので、思い浮かべるのは見る者。つまりこの語は対象と主体のあいだに起きる出来事を記述している。「私は髣髴した」とは言わない想起は意志では起こせないからだ。
  • 往時を髣髴とさせる対象は不在のもの結ぶのは「往時」「在りし日」「往年の」「かつての」いまここにないものばかりである。目の前にあるものを髣髴とさせることはできない不在がこの語の前提で、だから歴史・追悼・紀行の文章に集中する
  • 髣髴たる②の用法「ぼんやりしている」という②の意味は「髣髴たる面影」のような文語的な形に残る。「髣」も「髴」も本来は〈ぼんやり似ている〉で、①の「ありありと」はそこから育ったぼんやりとありありが一語に同居するのは、輪郭が曖昧でも像は強く結びうるからである。
  • 彷彿併用される表記「彷彿」の表記も広く行われる「彷」はさまよう、「彿」は似るで、意味の重心がやや違うが実用上は同じ語として扱われる。髪の部首を持つ「髣髴」のほうが古いとされ、難しい字を避ける方向で表記が移った

書き言葉。会話では不自然。

類語と差
  • 彷彿同語の別表記。現在はこちらが一般的。
  • そっくりよく似ている外見の一致。髣髴は記憶を呼び起こす働きを含む。
  • 彷彿とさせる思い起こさせる動詞句としての標準形。
  • 面影昔の姿の名残名詞。髣髴はその働きを言う。

ENevocative / closely resembling
ZH仿佛(あたかも〜のようだ, fǎngfú)

193★★★

閉口へいこう

へいこう[0]平板型

語構成
とじるくち
定義

手に負えなくなり、困ること。

『現代文キーワード読解』第3部 ☑193
原書の解説

「辟易する」と同じ意味の語で、もとは口を閉ざし、沈黙することを示す。

使用の境界

手に負えず、困り果てること。物理的に口を閉じることではなく、参ってしまう状態を指す。

用法

もとは言い負かされて返す言葉がないことを言い、そこから〈手に負えず困る〉に広がった。現代では後者の意味で使うのがほとんどで、暑さ・長話・悪臭など、避けられない不快に対して用いる。「閉口する」の動詞形が標準。字面から「口を閉じる」と誤解されやすいが、現代語では沈黙の意味はない。読み書きともに問われる語である。

用例
  • にくきもの。急ぐ事ある折に来て長言(ながごと)するまらうど。……ものうらやみし、身の上嘆き、人の上言ひ、つゆ塵の事もゆかしがり、聞かまほしうして、言ひ知らせぬをば怨(ゑん)じそしり、……いとにくし。清少納言『枕草子』「にくきもの」の段(1000頃)
    閉口の最も典型的な対象がここに挙がっている。急いでいるときに来て長話をする客だ。この語の要点は避けられないことにある。相手を追い返すわけにはいかないだから口を閉じる。161 で「うつくしきもの」、172 で「はしたなきもの」を引いたが、清少納言のものづくしは感情語彙の原型の目録である。ここで見ておきたいのは「にくし」が憎悪ではないことだ — 手に負えなくて困るという、まさに閉口の感覚である。千年前から長話は閉口の筆頭だった。
  • 語りえぬものについては、沈黙しなければならない。ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』(1921/訳は本教材)
    同じ沈黙でも種類が違うことを示すために並べておきたい。ウィトゲンシュタインの沈黙は語る言葉が原理的にないことから来る敬意の沈黙である。閉口の沈黙は違う — 語る言葉はあるが、語っても無駄だと分かったときの断念の沈黙だ。もとの意味の「言い負かされて返す言葉がない」も同じで、言葉が尽きたのではなく効かなくなっただから現代語の「暑さに閉口する」へ広がれたのである — 暑さに言葉が通じないのは当たり前だが、その当たり前を「言っても仕方がない」と感じるところにこの語は生きている
  • 長雨と湿気には閉口した 現代語の標準的な用法対象は暑さ・長話・悪臭・混雑など自分ではどうにもできないものに限られる。抗議しても相手がいないという点が要で、189 理不尽が責任主体を想定するのとちょうど対をなす。
  • ×気まずくなって彼は閉口した 現代語に沈黙の意味はない字面から「口を閉じる」と読んでしまうのがこの語の最大の落とし穴で、現代では「困り果てる」の意味しか残っていない「黙り込んだ」が正しい。
作品での用例

「私」はかつて様々な問題を起こして兄の怒りを買っていたが、母の危篤の知らせを聞いて帰郷する。

泣いたらウソだ。涙はウソだ、と心の中で言いながら懐手して部屋をぐるぐる歩きまわっているのだが、いまにも、嗚咽が出そうになるのだ。私は実に閉口した。

出典 太宰治『故郷』

派生形
  • 閉口へいこう[0]もとは議論の語言い負かされて返す言葉がないことを言った。そこから「相手が手強くて困る」→「事態が手に負えず困る」と広がった。議論の語が天候の語になるという道筋は、比喩が対象を広げていく典型である。
  • 閉口する動詞形が標準で、形容動詞にはならない(「閉口な話」とは言わない)。「〜口」型の漢語には糊口・異口・人口などあるが、動詞化するのはごく少ない閉口が動詞になれたのは、「閉じる」という動作の字を含むからである。
  • 辟易へきえき[0]「辟」はさける、「易」はかえる『史記』項羽本紀の「人馬倶(とも)に驚き、辟易数里」が古い用例で、もとは後ずさりする身体の動きだった。閉口と同じく、身体の動作が心の状態の名になっている
コロケーション
  • 〜に閉口する格助詞は「に」「を」ではなく「に」を取る。「に」は働きかけを受ける相手を示す格で、閉口が受動的な経験であることを表している。「暑さを閉口する」とは言えないこちらから何かをしたのではなく、一方的に参らされている
  • 長話に閉口する典型的な対象「長話」「猛暑」「人ごみ」「売り込み」など、持続して逃げ場がないものと結ぶ。一瞬の出来事には使わない「落雷に閉口した」とは言わない時間の長さが条件であり、清少納言が挙げたのも「長言」だった。
  • 閉口させられる受け身の重ねすでに受動的な語をさらに受け身にする形。「閉口させられた」相手の責任を前に出すときに使う。「閉口した」なら自分の感想、「閉口させられた」なら相手への非難態を一段重ねるだけで矛先が生まれる
  • 閉口/辟易近い二語辟易はもと「道をよけて場所を変える」で、後ずさりする身ぶりが原義である。閉口は口、辟易は足どちらも身体の反応で困惑を言うが、辟易にはうんざりして離れたいという拒否が強く、閉口には離れられない諦めが濃い。

書き言葉・会話の両方で使える。

類語と差
  • 辟易うんざりして避けたくなる逃げたい気持ち。閉口は困り果てて動けない感じ。
  • 困惑どうしてよいか分からない判断に迷う。閉口は耐えがたさ。
  • 往生するどうにもならず困る口語的。閉口はやや硬い。
  • 音を上げる耐えられず弱音を吐く降参の表明。閉口は内心の状態。

ENto be at a loss / fed up
ZH为难(閉口する, wéinán)

194★★

物心ものごころ

ものごころ[3]中高型

語構成
ものこころ

「ぶっしん」と読めば〈物質と精神〉の別語になる。

定義

世の中の物事や道理を理解する心。分別。

『現代文キーワード読解』第3部 ☑194
原書の解説

「物心(が)つく」という表現で多く使われる。

使用の境界

世の中のことや人の心が分かるようになること。ほぼ「物心がつく」の形でのみ使う。

用法

「物心がつく」「物心ついたころ」の形にほぼ固定している。四、五歳ごろに世の中のことがおぼろげに分かり始める段階を指し、記憶の起点として語られることが多い。最大の注意点は同じ漢字で「ぶっしん」と読む別語があることで、こちらは「物心両面の支援」のように物質と精神を意味する。読みが変われば意味も変わるので、文脈で判断する。

用例
  • わたしの幼年時代を、わたしは覚えていない。他の子どもたちを見て知ったのだ — わたしもそうだったのだと。……そしていま、そのころのわたしはどこにいるのか。アウグスティヌス『告白』第一巻(397頃/訳は本教材)
    物心がつく「前」について書かれた最も古い文章の一つである。アウグスティヌスは自分の乳児期を覚えていないと認め、他の子を見て推測するほかないと言う。ここにこの語の構造が見える — 物心がついたということは自分では確認できないついたあとから振り返って「あのあたりから記憶がある」と言うだけである。だからこの語はほぼつねに「物心ついたころ」という回想の形で現れる記憶の始まりは記憶の中にしかない
  • わが心躍る、空に虹を見るとき。……そして願わくはわが日々のひとつひとつが自然への敬いによって結ばれんことを。子どもは大人の父である。ワーズワース「わが心は躍る」(1802/訳は本教材)
    物心という語が含む不思議な順序を照らす。「子どもは大人の父である」 — つまりいまの自分を作ったのはかつての子どもだということだ。「物心がつく」も同じで、四、五歳のあたりに起きた何かが、その後のすべての記憶の土台になる本人には何も起きていない気づいたらすでについていた。この語が「つく」という自動詞を取り、「物心を得る」とは言わないのは、それが努力でも出来事でもなく、いつのまにか備わっているものだからである。
  • 物心ついたころには、もうこの町に住んでいた。 ほぼこの形しかないと言ってよい。「物心ついたころ」「物心がつく」の二つで用例のほとんどを占める。記憶の起点を示す定型句として働き、自伝や回想の書き出しに好まれる
  • ×被災地にものごころ両面の支援を行う。 読みが違う。この場合は「ぶっしん」と読み、物質と精神を意味するまったくの別語である。同じ漢字で和語読みと漢語読みが別語になる例で、読解では文脈から読みを決めるほかない。
作品での用例

「僕」は父の臨終に直面し、昔を回想する。

これが自分の父親だと、この眼で見て物心ついたのが、ついこないだのような気がするではないか。ついこないだまで、このおやじは大きな体で僕の前に立ちはだかって幼い僕を振り回し、息子の腕力ではまだその片腕だけにも及ばぬような気がしたではないか。

出典 阿部昭『司令の休暇』

派生形
  • 物心ぶっしん[0]同じ字で別語〈物質と精神〉で、「物心両面」「物心とも」の形で使う。和語読みの「ものごころ」が発達の語漢語読みの「ぶっしん」が哲学・実務の語読みの違いが語彙の層の違いを示している
  • もの[2]ここでの「物」は世の中の事柄を指す。「物言い」「物覚え」「物心」の「物」で、具体的な品物ではない和語の「もの」は対象一般を広く指し、ときに霊的なものまで含む(物の怪)。この幅の広さが「物心」を「世の中が分かる心」にしている
  • 物心づくものごころづく[5]一語の動詞として扱うこともある。「物心づいてから」という形で文学に見える。助詞「が」を落として一語化するのは日本語の常道で(気づく・色づく・勢いづく)、一語化の進み具合は語の古さの目安になる。
コロケーション
  • 物心がつくほぼ唯一の形「つく」という自動詞としか結ばない。「物心を身につける」「物心を得る」とは言わない努力の対象にならないのである。「気がつく」「分別がつく」「決心がつく」と同じ型で、「つく」は心の働きが自然に備わることを言う動詞である。
  • 物心ついたころ回想の枠ほぼつねに過去形で現れる。「いま物心がついた」とは言えない渦中では分からないからだ。この語は振り返る位置からしか使えない時制の制限が語の性格を決めている珍しい例である。
  • 物心両面別語の合図「両面」が来たら「ぶっしん」と読む。「物心両面の支援」物質面と精神面のこと。共起語が読みを決めるということで、日本語の読み分けは字ではなく前後の語が担っている入試で狙われるのはこの切り替えである。
  • 分別がつく隣の表現「分別(ふんべつ)がつく」も同じ型だが、年齢がもっと上を指す。物心は四、五歳、分別は成人前後日本語は成長の段階を「〜がつく」で刻んできた物心がつく→分別がつく→取り返しがつく/つかない成長は獲得ではなく付着として捉えられている

書き言葉・会話の両方で使える。

類語と差
  • 分別善悪を判断する力大人の判断力。物心は幼児期の芽生え。
  • 自我自分を自分と意識する働き心理学の語。物心はより素朴で日常的な言い方。
  • 物心両面物質と精神の両方同じ字だが「ぶっしん」と読む別語。混同しやすい。
  • 聞き分け言われたことが分かる理解の程度。物心は世界の認識全般。

ENdawning awareness
ZH懂事(物心がつく, dǒngshì)

195★★

無造作むぞうさ

むぞうさ[2]中高型

語構成
ない造作手間・こしらえ
定義

① 物事を簡単に行うこと。

② 技巧を凝らさないこと。

『現代文キーワード読解』第3部 ☑195
原書の解説

「造作」は仏教語で、意識的につくり出すこと。左の文章では、「少年」が簡単に視線を外したことを示す。

使用の境界

手間をかけず、無頓着であること。雑という否定的な評価とは限らず、自然さとして肯定的にも使う。

用法

「造作」は手間・こしらえのことで、その否定だから〈手をかけない〉となる。要点は評価が文脈で反転することにある。「無造作に投げ出された靴」は雑さを、「無造作な髪型」は気取らない自然さを表す。ファッションの文脈では明確に肯定語である。「無造作に」という副詞形が標準的な使い方で、動作の描写に使う。読みは「むぞうさ」で、「むづくり」ではない。

用例
  • 花は野にあるように生けよ。千利休/『南方録』(1690)
    無造作が肯定に傾くときの典型がここにある。「野にあるように」とは手をかけないように見せよということだ。ここで見落とせないのは、これが「生けよ」という命令であることである。野の花をそのまま持ってきても「野にあるように」は生まれない手をかけて、手をかけていないように見せる「造作」を尽くして「無造作」に至るという逆説だ。「無造作な髪型」が褒め言葉になるのも同じ理屈で、本当に何もしていない髪はそう呼ばれない評価が反転するのは文脈のせいだけでなく、この語がもともと二重底だからである。
  • 茶道は本質において不完全なものへの崇拝である。それは不可能と知りつつ完全を成し遂げようとする営みのなかにひそやかな意味を見いだそうとする試みだからである。岡倉天心『茶の本』(1906/訳は本教材)
    無造作を価値として受け取る構えを説明している。天心が言うのは完全は不可能だということ、そしてだからこそ不完全に意味が宿るということだ。整いすぎたものは閉じている無造作に置かれたものはまだ動きうる。「無造作に投げ出された靴」が雑さにも生活の生々しさにも読めるのはこのためで、同じ「手をかけない」が、欠如と見れば雑、余白と見れば自然になる評価を決めるのは対象ではなく見る側の構えである。
  • 髪を無造作にまとめただけなのに、その人は整って見えた。 肯定に傾いた例「〜だけなのに」という逆接が効いている — 手をかけていないのに結果がよいという構図が賞賛を生む。手間と結果の不釣り合いが、この語の快さの正体だ。
  • ×手術は無造作に行われた。 正確さが要る場面には置けない肯定にも否定にも転びうる語だが、どちらに転んでも「手をかけていない」という含意は残る手をかけることが前提の行為には使えない
作品での用例

祭りの夜、令嬢は、少年が自分をにらんでいることに気づいた。

令嬢は咄嗟にその眼を睨み返したが、すると、彼女の激しい意気組を嘲けるように、傲岸な眼は無造作に反らされていた。

出典 坂口安吾『傲慢な眼』

派生形
  • 造作ぞうさ[0]手間・面倒「造作もない」たやすいという意味で、今も使われる仏教語としては「意識的につくり出すこと」で、無造作はその否定「作為がない」という仏教的な価値観が語の底に沈んでいる。
  • 造作ぞうさく[0]同じ字の別読み家の内装・建具を指し、「顔の造作」と言えば目鼻立ちのこと。「つくり」という共通の芯から手間(ぞうさ)と造形(ぞうさく)に分かれた読みの分化は意味の分化である。
  • 無造作さむぞうささ名詞化すると評価が固定しやすい「その無造作さが魅力だ」のように肯定の文脈で使われることが多い。否定の意味なら「雑さ」「乱雑さ」を選ぶのが普通で、名詞形が肯定側に寄っていることはこの語の重心がどちらにあるかを示している
コロケーション
  • 無造作に置く動作と結ぶ「置く」「投げ出す」「束ねる」「差し込む」と結ぶ。すべて一動作で終わる動詞である。時間のかかる動詞とは結ばない「無造作に育てる」とは言わない「造作=手間」の否定なのだから、手間のかかりようがある動詞でなければ意味をなさない。
  • 無造作な髪型肯定に傾く場装いの文脈ではほぼ肯定である。「気取らない」「自然な」と同義に働く。これは装いが本来「作るもの」だからで、作っていないように見えることが高度な技とみなされる。利休の「野にあるように」と同じ構造が現代の装いにも生きている。
  • 無造作に扱う否定に傾く場大切なものを目的語に取ると非難になる。「古文書を無造作に扱う」は明確な批判だ。反転の鍵は対象の価値にある — 価値が高いものほど手間をかけるべきだという前提が働くので、手間の欠如が敬意の欠如に読み替えられる
  • 造作元の語「造作(ぞうさ)」は手間(「造作もない」=手間がかからない)。建築では「ぞうさく」と読み、内装の仕上げを指す。読みで意味が分かれるのは194 と同じ現象で、もとは仏教語で「意識的につくり出すこと」を意味した。作為の否定という芯が、ここから来ている。

書き言葉・会話の両方で使える。

類語と差
  • 丁寧でない否定的な評価が確定する。無造作は肯定的にも使える。
  • 無頓着気にかけない関心の欠如。無造作は動作の手軽さ。
  • さりげないわざとらしくない自然さを肯定する。無造作の肯定的な側面に近い。
  • ぞんざいいいかげんで乱暴だ明確に否定的。無造作は中立に近い。

ENcasual / offhand
ZH随意(無造作だ, suíyì)

196★★

なおざり

なおざり[0]平板型

語構成

「おざなり」は一応やる、「なおざり」はやらない。混同が非常に多い。

定義

物事に真剣に取り合わず、いい加減に対処すること。おろそか。

『現代文キーワード読解』第3部 ☑196
原書の解説

漢字では「等閑」と標記する。「おざなり(=その場限りの間に合わせ)」との意味の違いに注意しよう。

使用の境界

いいかげんに扱い、放っておくこと。手を抜くのではなく、ほとんど手をつけない点が要点。

用法

最大の注意点は「おざなり」との区別である。おざなりは一応やる(その場しのぎで形だけ整える)、なおざりはやらない(放っておく)。音が似ているため混同が非常に多く、入試でも狙われる。漢字では「等閑」と当て、「とうかん」とも読むが同じ意味である。「なおざりにする」という動詞形が標準的な使い方で、義務や責任について使うことが多い。

用例
  • ある人、弓射ることを習ふに、諸矢(もろや)をたばさみて的に向かふ。師の云はく、「初心の人、二つの矢を持つ事なかれ。後の矢を頼みて、初めの矢に等閑(なほざり)の心あり。毎度ただ得失なく、この一矢に定むべしと思へ」と云ふ。吉田兼好『徒然草』第九十二段(1330頃)
    「なおざり」という語がそのまま現れる一段で、この語の芯を定義していると言ってよい。弟子は二本目があると思っている。だから一本目に身が入らない。重要なのは弟子がさぼっていないことだ — 射てはいる。それでもそこに「なほざりの心」があると師は見抜く。なおざりとは手を抜くことではなく、心を置いていないことである。「おざなり」との差もここではっきりする — おざなりは形だけやる、なおざりは形はあっても心がない、あるいはそもそも手をつけない
  • われわれは短い時間を持っているのではない。多くの時間を浪費しているのだ。……人生は十分に長く、よく用いる者には最も大きな事を成し遂げるに足りるだけ与えられている。セネカ『人生の短さについて』(西暦49頃/訳は本教材)
    なおざりの帰結を言う。セネカが突くのは足りないのは時間ではなく扱い方だという一点である。浪費とは使い切ることではなく、心を置かずに過ごすことだ。兼好の弓の話と重ねると見えてくるのは、なおざりが「あとがある」という前提から生まれるということである。次の矢、明日、来年 — 予備があると思うかぎり心は置かれないこの語が単なる「怠慢」より深いところを突くのは、意志の弱さではなく時間の見積もり違いを名指しているからだ。
  • 基礎の練習をなおざりにしたまま、応用ばかり追いかけていた。 正しい使い方「なおざりにする」が基本形で、放っておくことを言う。「あとでやればいい」という構えが含まれているのが要点で、兼好の「後の矢を頼みて」と正確に重なる。
  • ×形だけの謝罪をなおざりに済ませた。 「おざなり」との取り違え形だけでもやったなら「おざなり」である。なおざりはそもそも手をつけないおざなりは「お座なり」(その場かぎりの間に合わせ)、なおざりは「等閑」語源が別である。
作品での用例

読書家の「彼」は机の上の洋書を手にする。

彼は坐るなりそれを開いて枝折の挿んである頁を目標に其所から読みにかかった。けれども三四日等閑にしておいた咎が祟って、前後の続き具合が能く解らなかった。

出典 夏目漱石『明暗』

派生形
  • 等閑なおざり/とうかん同じ表記で二通りに読む「なおざり」は和語に当てた訓、「とうかん」は漢語の音「等閑に付す」「等閑視」は音読みで使う。194 物心、195 造作と同じ現象がここでも起きていて、漢字は和語と漢語の両方を同時に背負う
  • なおざりにかな書きが標準である。「等閑」と書くと「とうかん」と読まれかねないので、実用上かなが選ばれる表記の選択が誤読の回避として働く例で、177 のっぴきならない、179 たかがと同じく、かな書きは語の成熟の印でもある。
  • おざなりお座なり[0]別語語源も意味も違うのに音が似ているために混同される。「おざなりな対応」はやっている、「なおざりな対応」はやっていない両者を並べて覚えるのが確実で、音の近さが意味の近さを保証しないという教訓でもある。
コロケーション
  • なおざりにする基本の形「〜にする」で他動詞化する。目的語は「基礎」「健康」「約束」「本業」など、本来手をかけるべきものに限られる。どうでもいいものをなおざりにすることはできないこの語は「すべきだった」という判断を含んでいるので、使った時点で批判になる
  • なおざりにされる受け身の形受け身にすると対象の側から書ける。「地方の医療がなおざりにされてきた」は誰が放置したかを言わずに放置を告発できる173 の「水を差された」と同じで、受け身は加害者を隠しながら被害を前に出す評論文でこの形が多いのはそのためだ。
  • おざなり取り違えの相手「お座なり」お座敷でその場かぎりに応対したことから出たとされる。やることはやるただし形だけだ。なおざりはやらない、おざなりはやるが中身がない「や」のあるなしで覚えると取り違えにくい。入試で狙われるのはこの一点である。
  • 等閑視する漢語の形「等閑(とうかん)視する」同じ字を音で読んだ形意味はほぼ同じだが、文体が一段固い「等閑」は中国語で「なみなみ・いいかげん」を意味し、和語の「なほざり」に当て字として結びついた一つの漢字表記が和語読みと漢語読みの二語を養っている

書き言葉。会話では不自然。

類語と差
  • おざなりその場かぎりの間に合わせ一応やる。なおざりはやらない。この差が最重要。
  • 等閑なおざり漢字表記。「とうかん」と読めば別語のように見えるが同義。
  • 疎かいいかげんにする「おろそか」。ほぼ同義でより日常的。
  • 放置そのままにする何もしない。なおざりは扱いの雑さを含む。

ENneglect / leaving undone
ZH敷衍(おざなりにする, fūyǎn)

コラム ── 伊藤整

伊藤整は、昭和初期にジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』を数年かけて共訳するなどして、当時のヨーロッパの最新文学を積極的に移入するとともに、自ら新心理主義を唱えて小説と評論を発表し始めた。そのため、昭和文学の騎手の一人に注目されていた。

しかし、伊藤整の心の奥底に抒情詩人が隠されていたことも間違いなく、それは少年時代から書いていた、良質な青春の感傷を漂わせた抒情詩を大学入学以前にまとめて刊行した詩集『雪明りの路』一巻だけで、十分理解できる。また、その時期の試作は、新しい小説の方法的実験の一成果とみなされる『幽鬼の街』『幽鬼の村』にも反映されている。

『若い詩人の肖像』は、ジョイスの『若き日の芸術家の肖像』を手本にしている。自分が詩人として立つことを決意した少年時代から、『雪明りの路』を出版し、梶井基次郎、北川冬彦など多くの詩人達と交友し始めた二十代前半までの思い出を描いた、自伝的長編である。

コラム ── 梶井基次郎

梶井基次郎は、肺結核のため、わずか三十一歳の若さで夭折したが、特異な感覚を詩情豊かに表現した短編作家である。レモンを爆弾に見立てて、「丸善」の洋書売り場に置いて逃走する名作『檸檬』で知られるように、繊細かつ、いたずら好きの一面もあったようで、自らの喀血をカラスのコップに入れ、ぶどう酒だと言って三好達治に見せたという逸話も残っている。伊藤整も青春時代を梶井とともに過ごした一人で、「桜の樹の下には屍体が埋まっている!」で始まる「桜の樹の下には」は、交流当時、伊藤整らが褒めたので作品に結実したという。彼の作品は、伊藤整の他、三島由紀夫など多くの作家に影響を与えることになった。

三好達治が梶井の代表作だと評価する『城のある町にて』は、彼の作品の中では明るく健康的なイメージがする。「城」とは、転地療養のために赴いた、義兄の住む伊勢の松阪にあったもので、梶井は毎日のように城跡を歩いていたという。現在は、その城址に梶井の文学碑が残されている。

確認テスト26
問 1

次の空欄に当てはまる語を、あとの①〜④からそれぞれ一つずつ選べ(同じものは二度使ってはならない)。

  • ア 死と[ ]な、危険な仕事に従事する。
  • イ 「恥ずかしい」という感情を初めてもつのは、[ ]がつくのと同時かもしれない。
  • ウ 店先でうろうろしていたので、店員に[ ]な顔をされてしまった。
  • エ 自分の責任ではないのに叱責され、納得できず、[ ]だと感じた。
  • 裏腹
  • 怪訝
  • 理不尽
  • 物心
正解と解説

ア=① / イ=④ / ウ=② / エ=③

ア:ここでは〈背中合わせ〉という意味。

ウ:読み方に注意しよう。

問 2

次の傍線部の意味を答えよ。

  • ア 彼女がこちらに視線を走らせたような気がしたが、それは刹那の出来事だった。
  • イ 景気が上昇したとされても、得心がいかない国民も多いかもしれない。
  • ウ 他人の迷惑をかえりみず大声で騒ぐ人たちには、閉口する
  • エ 弱い人間や自分に自信がない人間に限って、居丈高な態度をとるものだ。
正解と解説

ア=ほんの一瞬 / イ=納得のいかない / ウ=手に負えなくなり困る / エ=相手を威圧する

イ:「得心がいく」という表現も覚えておこう。

問 3

次の空欄に当てはまる語を、あとの①〜④からそれぞれ一つずつ選べ(同じものは二度使ってはならない)。

  • ア 模試を受けることは、その時点での弱点を見つけるという意味もある。したがって、模試の復習を[ ]にしてはいけない。
  • イ 特定秘密保護法は、戦前の治安維持法を[ ]とさせるものだという反対の声もあったものの、二〇一四年十二月に施行された。
  • ウ 明るく振る舞っているその様子が逆に痛々しく感じられるのは、彼が[ ]を抱えていることを私が知っているからだ。
  • エ パリで感じたこと。日本人女性がバシッと髪型を決めるのに対して、フランス人女性のそれは妙に[ ]に見えた。
  • 屈託
  • 髣髴
  • 無造作
  • なおざり
正解と解説

ア=④ / イ=② / ウ=① / エ=③

イ:この文では〈①ありありと想像すること〉という意味。

ウ:「屈託」の、このような使い方も覚えておこう。

二字漢語を、同義の字を重ねたもの、対の字を並べたもの、音を借りたものの三つに分けた図左の列は同義の字を重ねた語で、怪訝・艱難・諧謔・髣髴。中の列は対の字を並べた語で、裏腹・進退・表裏。右の列は音だけを借りた語で、刹那(サンスクリット語クシャナの音写)。下段には、字を足して語義になるのは左と中の二つだけだと記した。 二字漢語の三つの作り方HOW TWO CHARACTERS MAKE ONE WORD同義を重ねる怪 + 訝怪訝艱難諧謔髣髴対を並べる裏 と 腹裏腹進退表裏音を借りるkṣaṇa刹那字に意味はない旦那・娑婆も同じ字を足すと語義になる足せない字面から意味を取るまえに、どの作り方かを見分ける
作り方が分かれば、辞書より先に語義が立つ
Blank

腑に落ちない、と言うとき、落ちてこないものはどこで止まっているのか。頭と腹のあいだに、何かが立っているのだろうか。