Part 3 · 03

心情しんじょうの漢語かんご

[ 原げん書しょ 第だい3部ぶ ☑185〜196 ]

語ご数すう 12 / 作家さっかコラム 4 / 確認かくにんテスト 1

Part 3

この部ぶの章しょう

  1. 01感情かんじょうの形容詞けいようし161-172
  2. 02慣用かんよう句くと動詞どうし173-184
  3. 03心情しんじょうの漢語かんご185-196
  4. 04漢語かんご・副詞ふくし197-210
Section 03

心情しんじょうの漢語かんご

同義の字を重ねた熟語同じ意味の漢字を二つ重ねて作られた熟語を並べ、字の意味が語義をそのまま示すことを説明した図。 同義の字を重ねる 艱難怯懦怪訝髣髴 諧謔屈託姑息 なやむ+むずかしいおびえる+よわい あやしい+いぶかる似る+似る やわらぐ+たわむれるくじける+あずける しばらく+やすむ 二字がほぼ同じ意味を表す型では、どちらか一字の訓が分かれば語義に届く。 読めない熟語に出会ったら、まず一字ずつの訓を思い出す。 「怯」がおびえる、「懦」がよわい ── だから怯懦は臆病である
同義どうぎの字じを重かさねた熟語じゅくご
185★★

刹那せつな

せつな[1]頭高あたまだか型がた

語ご構成こうせい
刹せつくぎり・きわめて短みじかい時とき+那なshort の音写おんしゃ字じ

サンスクリット語ご kṣaṇa の音写おんしゃ。仏教ぶっきょうでは時間じかんの最小単位さいしょうたんいを指さす。

定義ていぎ

ほんの一瞬いっしゅん。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』第だい3部ぶ ☑185
原げん書しょの解説かいせつ

もとは仏教ぶっきょう語ごで、時間じかんの最小単位さいしょうたんいのこと。「刹せつ那な的てき」は、〈目めの前まえの快楽かいらくを求もとめるさま〉の意い。

使用しようの境界きょうかい

きわめて短みじかい時間じかん。「瞬間しゅんかん」より短みじかく、仏教ぶっきょう語ごとしての重おもみを持もつ。

用法ようほう

サンスクリット語ご kṣaṇa の音写おんしゃで、仏教ぶっきょうでは時間じかんの最小単位さいしょうたんいを指さす。日常にちじょう語ごの「瞬間しゅんかん」より短みじかく、また重おもい。小説しょうせつでは「その刹せつ那な」の形かたちで、決定的けっていてきな一点いってんを指さすのに使つかわれる。派生語はせいごの「刹せつ那な的てき」「刹せつ那な主義しゅぎ」は〈将来しょうらいを考かんがえずその場ばの快楽かいらくだけを追おう〉という批判ひはん語ごで、こちらは評ひょう論文ろんぶんにも出でる。仏教ぶっきょう語ごであることを知しっておくと、「一瞬いっしゅん」との使つかい分わけが理解りかいしやすい。

用例ようれい
  • 一切いっさいの有為うい(うい)の法ほうは、夢ゆめ・幻まぼろし・泡あわ・影かげの如ごとく、露ろの如ごとく亦また(また)電いなずま(いなずま)の如ごとし。応まさ(まさ)に是かく(かく)の如ごとき観かんを作な(な)すべし。『金剛こんごう般若はんにゃ経へ』四よん句く偈げ(書かき下くだしは本ほん教材きょうざい)
    「刹せつ那な」がもともと住すんでいた場所ばしょを見みせてくれる。有為ういの法ほうとは条件じょうけんによって生しょうじたものすべてを指さす。それを仏典ぶってんは夢ゆめ・幻まぼろし・泡あわ・影かげ・露ろ・稲妻いなずまと六むっつ重かさねる。注目ちゅうもくしたいのは並ならべ方ほうだ — 夢ゆめや幻まぼろしは実体じったいのなさを、露ろや稲妻いなずまは時間じかんの短みじかさを言いっている。つまり実体じったいがないことと一瞬いっしゅんであることは同おなじ事柄ことがらの二ふたつの言いい方かただという認識にんしきがここにある。刹せつ那なが「瞬間しゅんかん」より重おもいのは、この存在論そんざいろんを背負せおっているからだ。単たんに短みじかいのではなく、短みじかさこそが物もののありようだと言いっている。
  • わたしがその瞬間しゅんかんに向むかってこう言いったなら — 「留とめまれ、お前まえはいかにも美うつくしい」と。そのときはわたしを鎖くさりにつないでくれてよい。ゲーテ『ファウスト』第一だいいち部ぶ(1808/訳やくは本ほん教材きょうざい)
    刹せつ那なに対たいする人間にんげんの側がわの欲望よくぼうを書かいている。ファウストが悪魔あくまと結むすぶ契約けいやくの条件じょうけんは「一瞬いっしゅんに向むかって留とめまれと言いってしまったら負まけ」である。ここにこの語ごの両義性りょうぎせいの根ねがある。刹せつ那なは尊とうとい — だからこそ引ひき止とめたくなる。そして引ひき止とめようとした瞬間しゅんかんに堕落だらくが始はじまる。派生語はせいごの「刹せつ那な的てき」「刹せつ那な主義しゅぎ」が否定的ひていてきな色いろを帯おびるのはまさにこの構図こうずによるもので、一瞬いっしゅんを尊とうとぶことと一瞬いっしゅんにしがみつくことは紙一重かみひとえだと仏典ぶってんもゲーテも知しっていた。
  • 振ふり向むいた刹せつ那な、見みてはいけないものを見みた気きがした。 小説しょうせつでの標準的ひょうじゅんてきな用法ようほう。「その刹せつ那な」「〜した刹せつ那な」の形かたちで、物語ものがたりが折おれ曲まがる一点いってんを指さす。「瞬間しゅんかん」でも意味いみは通とおるが、刹せつ那なを選えらぶと文体ぶんたいが一段いちだん重おもくなる — 語ごの出自しゅつじが文ぶんの格かくを決きめる。
  • ×会議かいぎは刹せつ那なで終おわった。 日常にちじょうの短みじかさには使つかわない。この語ごが指さすのは指ゆびを弾ひく間あいだに六ろく十じゅうを数かぞえるほどの時間じかんの最小単位さいしょうたんいであり、文体ぶんたいとしても荘重そうちょうである。「あっという間あいだ」「すぐに」でよい。語ごの重おもさと事柄ことがらの重おもさを合あわせるのが文章ぶんしょうの基本きほんになる。
作品さくひんでの用例ようれい

「私わたし」は、汽車きしゃの向むかいに座すわる娘むすめが、踏切ふみきりで汽車きしゃを見み送おくりにきた子供こどもたちに蜜柑みかんを投なげ与あたえたのを見みた。

私わたしは思おもわず息いきを呑のんだ。そうして刹せつ那なに一切いっさいを了りょう解かいした。小娘こむすめは、恐おそらくはこれから奉公ほうこう先さきへ赴おもむこうとしている小娘こむすめは、その懐ふところに蔵ぞうしていた幾き顆かの蜜柑みかんを窓まどから投なげて、わざわざ踏切ふみきりりまで見み送おくりに来きた弟おとうとたちの労ろうに報むくいたのである。

出典しゅってん 芥川あくたがわ龍之介りゅうのすけ『蜜柑みかん』

派生はせい形けい
  • 刹那的せつなてき[0]〈将来しょうらいを考かんがえずその場ばの快楽かいらくを求もとめる〉。時間じかんの語ごが生いき方かたの語ごに変かわっている。「〜的てき」はしばしば「それを過度かどに重おもんじる」という非難ひなんを運はこぶ(感傷的かんしょうてき・観念かんねん的てき・打だ算さん的てき)。接尾せつび辞じが価値かち判断はんだんを持もち込こむ典型例てんけいれいだ。
  • 刹那主義せつなしゅぎ[4]さらに「主義しゅぎ」を重かさねると、個人こじんの傾向けいこうが思想しそうの名なになる。ここまで来くると批判ひはんの対象たいしょうとして固定こていされる。「〜的てき」→「〜主義しゅぎ」という階段かいだんは近代きんだい日本語にほんごが西洋せいよう語ごを受うけ止とめるために作つくった装置そうちで、仏教ぶっきょう語ごがその装置そうちに乗のせられているのが面白おもしろい。
  • 刹那kṣaṇaサンスクリット語ごクシャナの音写おんしゃ。「刹せつ」も「那な」も意味いみではなく音おとを写うつした字じである(旦那だんな・卒塔婆そとば・娑婆しゃばと同おなじ作つくり方かた)。字面じづらから意味いみを取とりろうとすると外はずす — 漢語かんごには意味いみの合成ごうせいでできた語ごと音おとを借かりただけの語ごが混まじっていることを思おもい出ださせる一語いちごだ。
コロケーション
  • その刹せつ那な指示しじ語ごと結むすぶ「その」「〜した」という指示しじ・修飾しゅうしょくを必かならず伴ともなうのがこの語ごの特徴とくちょうである。「刹せつ那なが過すぎた」とは言いわない。なぜか — 刹せつ那なは長ながさの単位たんいではなく一点いってんの指定していだからだ。時間じかんの量りょうを言いう語ごなら主語しゅごになれるが、位置いちを言いう語ごは何なにかに結むすびつけないと立たたない。
  • 刹せつ那な的てきな快楽かいらく否定的ひていてきな派生はせい「〜的てき」を付つけた瞬間しゅんかんに評価ひょうかが反転はんてんする。刹せつ那なそのものは中立ちゅうりつかむしろ尊とうといのに、刹せつ那な的てきは「将来しょうらいを考かんがえない」という非難ひなんになる。これは「〜的てき」が「それを原理げんりとする」という含ふくみを持もつからで、一瞬いっしゅんを尊とうとぶことと一瞬いっしゅんだけを原理げんりにすることは別べつである。
  • 刹せつ那なの光ひかり短みじかさの名詞めいしと「光ひかり」「きらめき」「表情ひょうじょう」などもともと持続じぞくしないものとよく結むすぶ。逆ぎゃくに「刹せつ那なの努力どりょく」とは言いわない。持続じぞくを本質ほんしつとするものに一瞬いっしゅんをかぶせると矛盾むじゅんするからだ。共起きょうき制限せいげんは恣意しいではなく、語ご義ぎどうしの整合せいごうから生うまれる。
  • 刹せつ那な/瞬間しゅんかん/一瞬いっしゅん三さん語ごの距離きょり瞬間しゅんかんは中立ちゅうりつの時間じかん語ご、一瞬いっしゅんは話はなし言葉ことば寄よりで主観的しゅかんてき、刹せつ那なは文語ぶんご的てきで荘重そうちょう。三さん語ごは長ながさではほぼ同おなじものを指さすのに、文体ぶんたいの格かくが違ちがう。同義語どうぎごの選択せんたくとは意味いみの選択せんたくではなく文体ぶんたいの選択せんたくであることが最もっともはっきり見みえる三さん語ごである。
格かく硬かた

書かき言葉ことば。会話かいわでは不自然ふしぜん。

類るい語ごと差さ
  • 瞬間しゅんかんまたたく間あいだ日常にちじょう語ご。刹せつ那なは文章ぶんしょう語ごで、宗教的しゅうきょうてきな含ふくみを残のこす。
  • 一瞬いっしゅんごく短みじかい時間じかんほぼ同義どうぎでより日常的にちじょうてき。刹せつ那なは時間じかんの最小単位さいしょうたんいという含ふくみがある。
  • 束たばの間あいだごく短みじかい間あいだ持続じぞくがある。刹せつ那なは幅はばを持もたない一点いってん。
  • 刹せつ那な的てきその場ばかぎりの派生語はせいご。将来しょうらいを考かんがえない生いき方かたを批判的ひはんてきに言いう。

ENinstant / moment
ZH刹那(刹那, chànà)

186★★★

裏腹うらはら

うらはら[0]平板へいばん型がた

語ご構成こうせい
裏うらうら+腹はらはら
定義ていぎ

① 正反対せいはんたいの関係かんけい。

② 隣接りんせつしていること。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』第だい3部ぶ ☑186
原げん書しょの解説かいせつ

〈裏うらと表ひょう・背せと腹はら〉で、正反対せいはんたいな様子ようすを示しめす①の意い。また、〈背中せなか合あわせ〉という②の意いも押おさえておこう。

使用しようの境界きょうかい

表ひょうと裏うらのように正反対せいはんたいであること。単たんに違ちがうのではなく、対たいになっていることを含ふくむ。

用法ようほう

用法ようほうはほぼ「〜とは裏うら腹はらに」の形かたちに集中しゅうちゅうする。言葉ことばと本心ほんしん、態度たいどと気持きもちのように、本来ほんらい一致いっちすべき二ふたつがずれていることを言いう。だから無関係むかんけいな二ふたつには使つかえない。「裏うら」と「腹はら」はどちらも身体しんたいの後うしろ側がわと前まえ側がわで、表裏ひょうり一体いったいでありながら逆ぎゃくを向むいている――この比喩ひゆが語ご義ぎになっている。小説しょうせつでは、登場とうじょう人物じんぶつの内心ないしんと言げん動どうの食くい違ちがいを描えがく場面ばめんに置おかれる。

用例ようれい
  • 天下てんか皆みな美びの美びたるを知しる、斯こ(こ)れ悪あくのみ。皆みな善ぜんの善ぜんたるを知しる、斯ここれ不ふ善ぜんのみ。故こに有無相うむあ(あ)ひ生しょうじ、難易なんい相そうひ成なり、長短ちょうたん相そうひ形かたち(かたち)づくり、高下こうげ相そうひ傾かたむ(かたむ)き、音声おんせい相そうひ和わし、前後ぜんご相そうひ随したが(したが)ふ。『老子ろうし』第だい二に章しょう(書かき下くだしは本ほん教材きょうざい)
    ②「隣接りんせつしている」という意味いみがなぜ①「正反対せいはんたい」と同居どうきょできるかを説とく。老子ろうしが並ならべるのは有ゆうと無む、難なんと易えき、長ちょうと短たん — いずれも正反対せいはんたいの組くみである。そして「相そうひ生しょうじ」「相そうひ成なり」と言いう。片方かたほうだけでは成なり立たたないのだ。長ながいという語ごは短みじかいという語ごがなければ意味いみを持もたない。正反対せいはんたいであることは、無関係むかんけいであることの逆ぎゃくである — 最もっとも密接みっせつに結むすびついた二ふたつだけが正反対せいはんたいになれる。「裏うら」と「腹はら」が背中せなか合あわせでありながら逆ぎゃくを向むくのと同おなじで、この語ごが「無関係むかんけいな二ふたつには使つかえない」のはこの論理ろんりによる。
  • コーディリア「何なにも申さるせません、父ちち上じょう。」リア「何なにもだと。」コーディリア「何なにも。」リア「無むからは何なにも生うまれぬぞ。もう一度いちど言いってみよ。」シェイクスピア『リア王おう』第一だいいち幕まく第一だいいち場ば(1606/訳やくは本ほん教材きょうざい)
    ①の最もっとも有名ゆうめいな場面ばめんである。姉あねたちは父ちちへの愛あいを限かぎりない言葉ことばで飾かざり立たてた。末娘すえむすめだけが何なにも言いえない。この劇げきの全体ぜんたいは言葉ことばと本心ほんしんが裏うら腹はらであるという一点いってんから展開てんかいする — 最もっとも愛あいしている者ものが最もっとも語かたれず、愛あいしていない者ものが最もっともよく語かたる。注意ちゅういしたいのはこれが偶然ぐうぜんではないことだ。言葉ことばは本心ほんしんの裏うらとして働はたらきうるという認識にんしきがあればこそ、「〜とは裏うら腹はらに」という言いい方かたが本心ほんしんを暴あばく道具どうぐになる。
  • 威勢いせいのいい言葉ことばとは裏うら腹はらに、指先ゆびさきが小刻こきざみに震ふるえていた。 この語ごの標準的ひょうじゅんてきな運用うんよう。要点ようてんは二ふたつが同一どういつ人物じんぶつに属ぞくしていることだ。言葉ことばと身体しんたいという本来ほんらいは一致いっちするはずの組くみがずれる。ずれが見みえるのは一致いっちが期待きたいされているからである。
  • ×兄あには理系りけいで、弟おとうとは裏うら腹はらに文ぶん系けいだ。 無関係むかんけいな二ふたつには使つかえない。裏うら腹はらは「本来ほんらい一致いっちすべき二ふたつ」にしか成なり立たたない。兄あにと弟おとうとの進路しんろは一致いっちする義理ぎりがないので、ずれてもただの相違そういである。「対照的たいしょうてきに」が正ただしい。
作品さくひんでの用例ようれい

祖母そぼを亡なくした少年しょうねん。ある日ひ、少年しょうねんは急きゅうに、祖母そぼがいないことに対たいして空虚くうきょさを覚おぼえる。

そうした少年しょうねんの心こころの動うごきは、祖母そぼへの追慕ついぼなどというものとは、およそ縁えんのない、裏うらはらなものに違ちがいなかった。そこには一種いっしゅの罪障ざいしょう感かんと自責じせきの念ねんが、黒々くろぐろとよどんでいた。

出典しゅってん 神西じんざい清しん『少年しょうねん』

派生はせい形けい
  • 裏うら[2]もとは「心こころ」を意味いみしたという説せつがある(「うら悲がなし」「うら寂さびしい」の「うら」)。外そとから見みえない側がわという一点いってんで物ものの裏うらと心こころの内うちは同おなじものと捉とらえられていた。「裏うら腹はら」が本心ほんしんのずれを言いう語ごになったのは偶然ぐうぜんではないのかもしれない。
  • うらはらに副詞ふくし的てきに使つかう形かたち。かな書かきも多おおい。「裏うら」「腹はら」という身体しんたいの字じが前まえに出でると比喩ひゆが生々なまなましくなりすぎるためか、抽象的ちゅうしょうてきな文脈ぶんみゃくではかなで書かかれる傾向けいこうがある。表記ひょうきの選択せんたくが比喩ひゆの見みえ方かたを調節ちょうせつしている。
  • 表裏一体ひょうりいったい[0]②の意味いみに対応たいおうする漢語かんご。裏うら腹はらが「ずれ」を強調きょうちょうするのに対たいし、表裏ひょうり一体いったいは「分わけられない」ことを強調きょうちょうする。同おなじ「表ひょうと裏うら」の比喩ひゆから、離り反はんの語ごと一致いっちの語ごが両方りょうほう生うまれている — 比喩ひゆは一ひとつの意味いみしか生うまないわけではない。
コロケーション
  • 〜とは裏うら腹はらにほぼ唯一ゆいいつの型かた用法ようほうがこの一ひとつの型かたに集中しゅうちゅうしているのは珍めずらしい。「とは」という取とり立たてが要ようで、先さきに期待きたいされる側がわを掲かかげてから裏切うらぎるという順序じゅんじょを作つくる。この順序じゅんじょが逆ぎゃくになると効果こうかが消きえる — 期待きたいが先さきに立たたなければ裏切うらぎりは成立せいりつしない。
  • 言葉ことばとは裏うら腹はらに典型的てんけいてきな組くみ結むすばれる組くみはほぼ決きまっている — 言葉ことばと本心ほんしん、表情ひょうじょうと気持きもち、態度たいどと内心ないしん、予想よそうと結果けっか。すべて外そとに出でるものと内ないにあるものの組くみだ。裏うら腹はらという語ごは「内ないと外そとは一致いっちするはずだ」という素朴そぼくな信頼しんらいを前提ぜんていにしているので、その信頼しんらいがあるからこそ裏切うらぎりが書かける。
  • 背中せなか合あわせ②の言いい換かえ②の「隣接りんせつ」の意味いみは現代げんだいでは薄うすれ、「危険きけんと背中せなか合あわせ」のような言いい方かたに残のこる。ここでは反対はんたいではなく密着みっちゃくを言いっている。①と②は矛盾むじゅんではなく、同おなじ身体しんたいの比喩ひゆの二ふたつの読よみ方かたである — 背せと腹はらはくっついていて、しかも逆ぎゃくを向むいている。
  • 裏うら腹はらな関係かんけい形容けいよう動詞どうしの形かたち「裏うら腹はらな」と連体れんたいで使つかう形かたちもあるが頻度ひんどは低ひくい。これはこの語ごが性質せいしつではなく関係かんけいを言いう語ごだからだ。一ひとつのものが裏うら腹はらであることはできず、つねに二ふたつが要いる。二に項こうを同時どうじに示しめせる「〜とは」の形かたちが選えらばれるのは必然ひつぜんである。
格かく中なか

書かき言葉ことば・会話かいわの両方りょうほうで使つかえる。

類るい語ごと差さ
  • 正反対せいはんたいまったく逆ぎゃく方向ほうこうの逆ぎゃく。裏うら腹はらは表裏ひょうり一体いったいという含ふくみを持もつ。
  • 矛盾むじゅん両立りょうりつしない論理ろんりの話はなし。裏うら腹はらは言げん動どうや心情しんじょうのずれ。
  • 表裏ひょうり表ひょうと裏うら名詞めいし。裏うら腹はらは形容けいよう動詞どうし的てきに使つかう。
  • あべこべ逆ぎゃくさま口語こうご。裏うら腹はらは文章ぶんしょう語ご。

ENcontrary to / opposite
ZH相反(相反する, xiāngfǎn)

187★★★

怪訝けげん

けげん[1]頭高あたまだか型がた

語ご構成こうせい
怪かいあやしい+訝げんいぶかる

読よみは「けげん」。「訝げん」は「いぶかる」と同おなじ字じである。

定義ていぎ

状況じょうきょうがのみこめず、不思議ふしぎに思おもうこと。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』第だい3部ぶ ☑187
原げん書しょの解説かいせつ

「怪かい」=「あやしい」、「訝げん」=「いぶかしい」と、訓読くんどくできる。

使用しようの境界きょうかい

不審ふしんに思おもって納得なっとくできない様子ようす。表情ひょうじょうに現あらわれた状態じょうたいを指さすことが多おおい。

用法ようほう

二字にじがともに〈あやしむ〉を表あらわす。実際じっさいの用法ようほうは「怪訝けげんな顔かお」「怪訝けげんそうに」にほぼ固定こていしており、表情ひょうじょうの描写びょうしゃに使つかわれる。だから小説しょうせつの地ちの文ぶんで頻出ひんしゅつする。吉野よしの弘ひろしの詩しを引ひいた入試にゅうし文ぶんでも「父ちちは怪訝けげんそうに僕ぼくの顔かおをのぞきこんだ」という形かたちで現あらわれた。読よみが問とわれる語ごで、「かいが」ではなく「けげん」と読よむ。「訝げん」は「いぶかる」(☑162)と同おなじ字じである。

用例ようれい
  • こんな夢ゆめを見みた。腕組うでぐみをして枕元まくらもとに坐ざっていると、仰向あおむけに寝ねた女おんなが、静しずかな声こえでもう死しにますと云いう。女おんなは長ながい髪かみを枕まくらに敷しいて、輪郭りんかくの柔やわらかな瓜実顔うりざねがおをその中なかに横よこたえている。……それで死しぬのかと思おもった。夏目なつめ漱石そうせき『夢ゆめ十じゅう夜よる』第一だいいち夜よる(1908)
    怪訝けげんという語ごが働はたらく心こころの位置いちを示しめしている。女おんなは静しずかな声こえでもう死しにますと言いう。語かたり手ては顔色かおいろも声こえも死しにそうには見みえないと思おもう。ここにあるのは状況じょうきょうがのみこめないという状態じょうたいそのものだ。疑うたがっているのではない — 嘘うそだと思おもっているわけではない。与あたえられた事実じじつと見みえている事実じじつが噛かみ合あわないだけである。167 うさんくさいが相手あいての誠実せいじつさを疑うたがうのに対たいし、怪訝けげんは世界せかいの筋道すじみちを疑うたがう。矛ほこ先さきが人ひとではなく状況じょうきょうに向むいているのがこの語ごの特徴とくちょうだ。
  • ソクラテスよ、あなたはあの海うみにいる痺しびれ鱏(しびれえい)に似にている。触ふれる者ものをみな痺しびれさせるのだ。いまわたしは心こころも口くちも痺しびれて、何なにを答こたえたらよいかわからない。プラトン『メノン』(前四世紀ぜんよんせいき/訳やくは本ほん教材きょうざい)
    怪訝けげんが知性ちせいの状態じょうたいでもあることを示しめす。メノンは徳とくとは何なにかを知しっているつもりだった。ソクラテスに問とわれてそれが崩くずれる。残のこったのは痺しびれである。注目ちゅうもくすべきはこれが無知むちではないことだ — 知しらないと知しった状態じょうたい、つまりのみこめないことをのみこんだ状態じょうたいである。「怪訝けげんな顔かお」が愚おろかさの表情ひょうじょうではなく思考しこうの表情ひょうじょうとして読よまれるのはこのためだ。小説しょうせつの地ちの文ぶんでこの語ごが多た用ようされるのは、登場とうじょう人物じんぶつがいま考かんがえ始はじめたことを一語いちごで示しめせるからである。
  • 父ちちは怪訝けげんそうに僕ぼくの顔かおをのぞきこんだ。 この語ごの用例ようれいの大半たいはんはこの形かたちである。「怪訝けげんな顔かお」「怪訝けげんそうに」にほぼ固定こていしていて、表情ひょうじょうの描写びょうしゃに特化とっかした漢語かんごと言いってよい。のぞきこむ・見みる・首くびをかしげるといった確たしかめようとする動作どうさと共起きょうきする。
  • ×大臣だいじんの答弁とうべんに野党やとうは怪訝けげんした。 「怪訝けげんする」という動詞どうし形けいはない。この語ごは形容けいよう動詞どうしとしてしか活用かつようせず、「怪訝けげんな」「怪訝けげんに」「怪訝けげんそうに」の三さん形けいで尽つきる。また不審ふしんの表明ひょうめいという行為こういを言いうなら「疑問ぎもんを呈ていした」である。怪訝けげんは行為こういではなく状態じょうたいだ。
作品さくひんでの用例ようれい

「私わたし」は同どう級きゅう生せいのカツノリくんと遊あそんでいたが、カツノリくんが川かわに落おちてしまい、小舟こぶねを操あやつる船頭せんどう(「男おとこ」)に助たすけを求もとめる。

「おっちゃん、助たすけてェ。あの子こが川かわに落おちたァ」 私わたしは悲痛ひつうな声こえをあげて、真下ましたの川面かわもを指差ゆびさした。その声こえで、男おとこは怪訝けげんな面めん持もちで指ゆび差さす地点ちてんを窺うかがい、やっとそこに浮うかんでいる子供こどもの姿すがたを認みとめた。彼かれは慌あわてて舟ふねの向むきを変かえ、巧たくみに櫓やぐらを漕こぎながら、カツノリくんに近ちかづいて行おこなった。

出典しゅってん 宮本みやもと輝あきら『蛍川ほたるがわ』

派生はせい形けい
  • 怪あやしい「怪かい」は常識じょうしきで説明せつめいのつかないものを指さす字じ(怪奇かいき・妖怪ようかい・奇怪きっかい)。「妖あやかししい」が魅惑みわくを含ふくむのに対たいし、「怪あやしい」は理解りかいの外そとにあることを言いう。怪訝けげんの「怪かい」は後者こうしゃで、だからこの語ごには色いろっぽさが一切いっさいない。
  • 訝るいぶかる[3]「訝げん」の訓読くんどくみ。和わ語ごの「いぶかる」がすでにあって、そこへ漢字かんじを当あてたという関係かんけいである。怪訝けげんはその字じを二ふたつ重かさねた漢語かんごで、同義どうぎの字じを重かさねて意味いみを強つよめるという漢語かんごの作つくり方かた(豊富ほうふ・堅固けんご・道路どうろ)に従したがっている。
  • けげん[1]読よみが問とわれる語ご。「かいが」ではない。「怪かい」を「け」と読よむのは呉音ごおんで、仏教ぶっきょう語ごに多おおい読よみ方かたである(怪我けが・化か生せい・境内けいだい)。同おなじ字じでも呉音ごおんか漢かん音おんかで語ごの出自しゅつじが違ちがう — 読よみの不規則ふきそくは歴史れきしの層そうである。
コロケーション
  • 怪訝けげんな顔かお表情ひょうじょうの名詞めいしと「顔かお」「表情ひょうじょう」「面めん持もち」「目め」と結むすぶ。この語ごはほぼ顔かおからしか出でない。「怪訝けげんな声こえ」も言いえるが頻度ひんどは落おちる。これはのみこめないという状態じょうたいが眉まゆと目めに出でるからで、182 眉まゆをひそめると隣となりり合あっている。ただし眉まゆをひそめるは不快ふかい、怪訝けげんは不可解ふかかい — 似にた表情ひょうじょうが別べつの心こころを運はこぶ。
  • 怪訝けげんそうに推すい量りょうの接尾せつび辞じ「そうだ」がつくのは167 うさんくさいと同おなじで、語かたり手てが相手あいての内心ないしんを断定だんていしていないことを示しめす。見みえているのは表情ひょうじょうだけで、そこから推すいし量りょうっている。三人称さんにんしょうの小説しょうせつでこの形かたちが好よしみまれるのは、視点してん人物じんぶつの知しりうる範囲はんいを守まもれるからだ。
  • 怪訝けげんの念ねん書かき言葉ことばの型かた「念ねん」「思おもい」と結むすぶと文語ぶんご的てきになる。「怪訝けげんの念ねんにとらわれる」は翻訳ほんやく調ちょう・明治めいじの文体ぶんたいの香かりを持もつ。漢語かんご+「の念ねん」という型かたそのものが近代きんだいの書かき言葉ことばの産物さんぶつで(畏敬いけいの念ねん・自責じせきの念ねん)、文体ぶんたいの時代じだいを示しめす目印めじるしになる。
  • 怪訝けげん/不審ふしん/訝げんしい三さん語ごの差さ不審ふしんは疑うたがいが相手あいてに向むく(不審者ふしんしゃ・不審ふしんな点てん)。訝げんしいは和わ語ごで主観的しゅかんてき。怪訝けげんは表情ひょうじょうとして外そとに出でた状態じょうたいを指さす。つまり三さん語ごは同おなじ心こころの働はたらきを、向むき・文体ぶんたい・可視かし性せいの三みっつの軸じくで切きり分わけている。類るい語ごの整理せいりは意味いみの濃淡のうたんではなく軸じくを見みつける作業さぎょうである。
格かく硬かた

書かき言葉ことば。会話かいわでは不自然ふしぜん。

類るい語ごと差さ
  • いぶかしいはっきりせず気きになる☑162。心こころの内ない。怪訝けげんは表情ひょうじょうとして現あらわれた様子ようす。
  • 不審ふしん疑うたがわしい疑うたがいの内容ないよう。怪訝けげんは反応はんのうとしての表情ひょうじょう。
  • 腑ふに落おちない納得なっとくできない☑175。理屈りくつの話はなし。怪訝けげんは瞬間しゅんかん的てきな反応はんのう。
  • いぶかる不審ふしんに思おもう動詞どうし。怪訝けげんは形容けいよう動詞どうしで、様子ようすを描えがく。

ENpuzzled / dubious
ZH诧异(いぶかしむ, chàyì)

188★

居丈高(威丈高)いたけだか

いたけだか[0]平板へいばん型がた

語ご構成こうせい
居いいる+丈たけたけ+高こうたかい
定義ていぎ

相手あいてを威い圧あつする態度たいど。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』第だい3部ぶ ☑188
原げん書しょの解説かいせつ

「丈たけ」は背丈せたけのこと。「居丈高いたけだか(威丈いたけ高こう)」は、座すわった時ときに座ざ高こう(=居丈いたけ)を高たかくそびやかす意味いみ。

使用しようの境界きょうかい

相手あいてを見み下くだし、頭あたまごなしに威い圧あつする様子ようす。単たんに偉えらそうなのではなく、力ちからで押おさえつける態度たいどを指さす。

用法ようほう

語源ごげんが姿勢しせいを示しめす。座すわったまま上体じょうたいを伸のばして高たかく構かまえることで、そこから相手あいてを見み下おろす態度たいどを指さすようになった。だから「居丈高いたけだかになる」は、実際じっさいに身みを乗のり出だす動作どうさを含意がんいする。表記ひょうきは「居丈高いたけだか」「威丈いたけ高こう」の両方りょうほうが行おこなわれ、後者こうしゃは「威い」の字じを当あてた後世こうせいの表記ひょうきである。小説しょうせつでは権力けんりょくを持もつ人物じんぶつの描写びょうしゃに使つかわれ、読よみ手てに反はん感かんを抱いだかせる働はたらきを持もつ。

用例ようれい
  • 祇園ぎおん精舎しょうじゃの鐘かねの声こえ、諸行無常しょぎょうむじょうの響ひびきあり。沙羅さら双樹そうじゅの花はなの色いろ、盛者必衰じょうしゃひっすいの理りをあらはす。おごれる人ひとも久ひさしからず、ただ春はるの夜よるの夢ゆめのごとし。たけき者ものも遂ついにはほろびぬ、ひとへに風かぜの前まえの塵ちりに同おなじ。『平家へいけ物語ものがたり』巻かん第一だいいち 冒頭ぼうとう(13世紀じゅうさんせいき)
    居丈高いたけだかな姿すがたを外側そとがわから眺ながめた視線しせんがここにある。「おごれる人ひと」「たけき者もの」とは身みを大おおきく構かまえる者もののことだ。この冒頭ぼうとうが効きいているのは、それを非難ひなんしていない点てんである。ただ「久ひさしからず」と言いう。居丈高いたけだかという語ごも同おなじ構かまえを持もつ — 相手あいての正ただしさや力ちからの実在じつざいを否定ひていせず、その姿勢しせいだけを写うつし取とる。語源ごげんが姿勢しせいであることの意味いみはここにあって、中身なかみではなく構かまえを名指なざすから、権力けんりょくの有無うむに関かかわらず使つかえるのである。
  • 一いち匹ひきの蛙かわずが、牛うしの大おおきさをうらやんで、皺しわだらけの皮かわを思おもいきり膨ふくらませた。子こらに問とう。「どうだ、これで足たりるか。」「まだです。」さらに力ちからんだ。「ではいまは。」「まだ及およびません。」蛙かわずはなおも膨ふくらみ、ついに破裂はれつした。イソップ寓話ぐうわ「蛙かわずと牛うし」(訳やくは本ほん教材きょうざい)
    居丈高いたけだかという姿勢しせいの内側うちがわを書かいている。要点ようてんは蛙かわずが大おおきくなっていないことだ。膨ふくらんでいるだけである。「座すわったまま上体じょうたいを伸のばして高たかく構かまえる」というこの語ごの語源ごげんも同おなじで、実際じっさいに背せが伸のびるわけではない。見みかけの高たかさを作つくるだけだ。そしてこの寓話ぐうわが鋭するどいのは蛙かわずが子こに確認かくにんを求もとめるところである — 居丈高いたけだかな態度たいどは相手あいての反応はんのうを必要ひつようとする。誰だれも怯おびえなければ、それはただの奇妙きみょうな姿勢しせいにすぎない。
  • 窓口まどぐちの男おとこは居丈高いたけだかに書類しょるいを押おし返かえした。 権限けんげんの小ちいさい者ものほどこの語ごがよく似に合あう。本当ほんとうに力ちからのある者ものは身みを乗のり出だす必要ひつようがないからだ。姿勢しせいを作つくらねばならないこと自体じたいが、その力ちからの不足ふそくを語かたっている — 小説しょうせつはこの皮肉ひにくを好よしみんで使つかう。
  • ×社しゃ長ちょうは居丈高いたけだかな人格じんかく者しゃとして知しられている。 肯定的こうていてきな文脈ぶんみゃくには置おけない。この語ごは「威厳いげんがある」とは違ちがう。威厳いげんは相手あいてを押おさえつけないが、居丈高いたけだかは押おさえつける。「堂々どうどうとした」「威厳いげんのある」なら称賛しょうさんになる。
作品さくひんでの用例ようれい

息子むすこが神経しんけい質しつで偏食へんしょくであることに困こまった母はは親おやは、自みずから鮨すしを握にぎり、イカの鮨すしを息子むすこに与あたえることにする。

子供こどもは今度こんど握にぎった飯めしの上うえに乗のった白しろく長ちょう方形ほうけいの切片せっぺんを気味きみ悪わるく覗のぞいた。すると母はは親おやは怖こわくない程度ていどの威丈いたけ高こうになって 「何なにでもありません、白しろい玉子焼たまごやきだと思おもって喰たべればいいんです」 といった。

出典しゅってん 岡本おかもとかの子こ『鮨すし』

派生はせい形けい
  • 居丈いたけ座すわったときの背せの高たかさ、つまり座ざ高こう。この語ごが日常にちじょうから消きえたことが、慣用かんよう句くの意味いみを不透明ふとうめいにした。畳たたみに座すわって対面たいめんする文化ぶんかを前提ぜんていにした語ごで、椅子いすの生活せいかつではこの身みぶりが再現さいげんできない。
  • 居丈高い形容詞けいようしの形かたちはない。「居丈高いたけだかな」という形容けいよう動詞どうしだけである。「高たかい」という和わ語ごの形容詞けいようしを含ふくみながら形容詞けいようしにならないのは、三さん語ごが一語いちごに固かたまってしまった証拠しょうこだ。固かたまり具合ぐあいは活用かつようの自由度じゆうどで測はかれる。
  • 頭ごなしあたまごなし[0]意味いみの近ちかい和わ語ご。「頭あたまごなしに叱しかる」は相手あいての言いい分ぶんを聞きかずにという手続てつづきの不当ふとうさを言いう。居丈高いたけだかが姿勢しせい、頭あたまごなしが手順てじゅん — 同おなじ場面ばめんを二ふたつの角度かくどから名なづけた語ごで、並ならべて使つかうと描写びょうしゃが立体りったいになる。
コロケーション
  • 居丈高いたけだかになる変化へんかの形かたち「なる」で言いうのが標準ひょうじゅん。もともとそうなのではなく、ある場面ばめんでそうなるという含ふくみを持もつ。語源ごげんが姿勢しせいであることの効果こうかで、姿勢しせいは取とったり解といたりできる。性格せいかくの語ごなら「〜だ」で済すむのに「なる」を要求ようきゅうするところに、この語ごの一時いちじ性せいが現あらわれている。
  • 居丈高いたけだかな態度たいど態度たいどの名詞めいし「態度たいど」「物もの言いい」「口調くちょう」と結むすぶ。すべて外そとに現あらわれるもので、「居丈高いたけだかな考かんがえ」とは言いわない。内心ないしんで相手あいてを見み下くだしていても、それが姿勢しせいや声こえに出でなければこの語ごは使つかえない。この語ごは心こころではなく身体しんたいを記述きじゅつする。
  • 居丈高いたけだかに出でる「出でる」との結合けつごう「出でる」という動詞どうしが選えらばれるのは示唆しさ的てきだ。169 さしでがましいの「差さし出でづ」と同おなじで、前まえへ出でる動作どうさを含ふくむ。日本語にほんごは対人たいじん関係かんけいを空間くうかんで捉とらえる — 出でる・引ひく・押おす・譲ゆずる・距離きょりを置おく。この空間くうかんの語彙ごいこそが対人たいじん語彙ごいの骨格こっかくである。
  • 居丈高いたけだか/威丈いたけ高こう二ふたつの表記ひょうき「居丈いたけ」が本来ほんらいで、「座ざ高こう」を意味いみする。「威丈いたけ高こう」は後あとから当あてられた表記ひょうきで、「威い」の字じが意味いみを説明せつめいしてしまっている。語源ごげんが見みえなくなると意味いみの分わかる字じが当あてられる — 表記ひょうきの変化へんかは語源ごげんの忘却ぼうきゃくの記録きろくである。
格かく硬かた

書かき言葉ことば。会話かいわでは不自然ふしぜん。

類るい語ごと差さ
  • 高こう圧あつ的てき力ちからで押おさえつけるほぼ同義どうぎ。より現代的げんだいてきで硬かたい。
  • 横柄おうへい人ひとを見み下くだして無礼ぶれいである☑206。態度たいどの無礼ぶれいさ。居丈高いたけだかは威い圧あつの強つよさ。
  • 尊大そんだい自分じぶんを高たかく見みせる自分じぶんの側がわ。居丈高いたけだかは相手あいてを押おさえつける側がわ。
  • 威い圧あつ的てきおそれさせる効果こうかの側がわ。居丈高いたけだかは姿勢しせいの描写びょうしゃを含ふくむ。

ENoverbearing / domineering
ZH盛气凌人(居丈高だ, shèngqì língrén)

189★★★

理不尽りふじん

りふじん[2]中高なかだか型がた

語ご構成こうせい
理りことわり+不ふ尽じんつくさない
定義ていぎ

物事ものごとの理屈りくつに合あわないこと。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』第だい3部ぶ ☑189
原げん書しょの解説かいせつ

「理り」は〈物事ものごとのことわり〉の意いで、「不ふ尽じん」は〈十分じゅうぶんに尽つくしていない〉ということ。

使用しようの境界きょうかい

道理どうりに合あわず、筋すじが通とおらないこと。話はなし手ての憤ふんりを含ふくみ、中立ちゅうりつの記述きじゅつには使つかえない。

用法ようほう

「不ふ尽じん」は〈尽つくさない〉、つまり道理どうりを尽つくしていないという意味いみである。要点ようてんは、この語ごが常つねに話はなし手ての憤ふんりを伴ともなうことにある。だから客観的きゃっかんてきな記述きじゅつには使つかえず、「不合理ふごうり」に置おき換かえる必要ひつようがある。評ひょう論文ろんぶんでは、☑13 非合理ひごうり・不合理ふごうりとの三さん語ごの区別くべつが設問せつもんになる。非合理ひごうりは理りの枠わくの外そと、不合理ふごうりは枠わくの内ないでの不整合ふせいごう、理不尽りふじんは不当ふとうさへの怒いかり、と整理せいりする。

用例ようれい
  • なにゆえ悪あしき者ものが生いきながらえ、年としを重かさね、力ちからを増ますのか。……わたしは全能ぜんのう者しゃに語かたりたい、神かみに向むかって論ろんじたいのだ。『旧約きゅうやく聖書せいしょ』ヨブ記き 第だい二十にじゅう一いち章しょう・第だい十じゅう三さん章しょう(訳やくは本ほん教材きょうざい)
    理不尽りふじんという語ごが必かならず憤ふんりを伴ともなうのはなぜかを教おしえる。ヨブは正ただしく生いきたのにすべてを失うしなった。友人ゆうじんたちは「お前まえに罪つみがあったのだ」と説とく — つまり筋すじを通つうそうとする。ヨブはそれを拒こばみ、神かみに直接ちょくせつ論ろんじたいと言いう。ここが重要じゅうようだ — 理不尽りふじんを理不尽りふじんと呼よぶことは、道理どうりがあるべきだと信しんじていることの表明ひょうめいである。道理どうりを信しんじない者ものは憤ふんらない。この語ごが中立ちゅうりつの記述きじゅつに使つかえないのは、語ごそのものが「そうであるべきではない」という主張しゅちょうを含ふくんでいるからだ。
  • 庄兵衛しょうべえはいかに桁けたを違ちがえて考かんがえて見みても、その間かんに劃かく(かく)した一線いっせんを見み出だすことができぬ。……お上かみ(かみ)の事ことを「オオトリテエ」に従したがって判断はんだんするよりほかはない。森鷗外『高瀬舟たかせぶね』(1916)
    理不尽りふじんを受うけ取とる側がわの姿すがたを書かいている。喜助きすけは苦くるしむ弟おとうとの求もとめに応おうじてその命いのちを絶ぜつち、罪人ざいにんとして島しまへ送おくられる。護送ごそう役やくの庄兵衛しょうべえはどう考かんがえても罪つみと罪つみでないものの境さかいが引ひけない。それでも権威けんいに従したがうほかないと結むすぶ。この「ほかはない」という諦あきらめの手前てまえにあるのが理不尽りふじんという感覚かんかくだ。納得なっとくはしていない。従したがうだけである。175 腑ふに落おちないと隣となりり合あうが、腑ふに落おちないは内ない向むきのつかえ、理不尽りふじんは外そとへ向むかう抗議こうぎである。
  • 遅刻ちこくの理由りゆうも聞きかずに一いち律りつで罰ばつを与あたえるのは理不尽りふじんだ。 正ただしい使つかい方かた。「〜のは理不尽りふじんだ」と判断はんだんを述のべる形かたちが基本きほんである。話はなし手てが筋すじを通つうせと要求ようきゅうしていることが明示めいじされるので、この語ごを使つかった時点じてんで中立ちゅうりつではいられない。
  • ×この現象げんしょうは既存きそんの理論りろんでは理不尽りふじんである。 学術的がくじゅつてきな記述きじゅつには使つかえない。憤ふんりを含ふくむ語ごだからだ。「不合理ふごうり」なら中立ちゅうりつに使つかえる。第だい1部いちぶ☑13 で整理せいりした非合理ひごうり(理りの枠わくの外そと)/不合理ふごうり(筋すじが通とおらない)/理不尽りふじん(筋すじが通とおらずかつ許ゆるしがたい)の三さん語ごの差さが、ここで効きいてくる。
作品さくひんでの用例ようれい

佐々男ささおは自分じぶんの経験けいけんから、他人たにんの死しに対たいして何なにもしないで見み過すごすのは罪悪ざいあくだと「私わたし」に話はなす。

佐々男ささおのその意見いけんは、私わたしをいらだたせた。なんというか、彼かれが理不尽りふじんにえばっているような気きがした。私わたしの経験けいけんしていない他人たにんの死しというものを経験けいけんしたことによって、えばりくさっている、優位ゆういに立たって私わたしに何なにも言いわせないようにしている、と思おもったのだ。

出典しゅってん 角田つのだ光代みつよ『イリの結婚けっこん式しき』

派生はせい形けい
  • 不尽ふじん[0]〈尽つくしていない〉。「理りを尽つくしていない」がこの語ごの成なり立たちである。「理りがない」ではない点てんが大切たいせつで、道理どうりそのものは存在そんざいすると認みとめたうえで、それが十分じゅうぶんに及およんでいないと言いっている。だから憤ふんりが生しょうじる — 届とどくはずのものが届とどいていないのだから。
  • 理ことわり[3]和わ語ごの「ことわり」は「事こと割わり」、つまり物事ものごとを分わけて筋道すじみちをつけることだとされる。漢語かんごの「理り」も玉たまの筋すじ目めが原げん義ぎである。和わ漢かんどちらでも「理り」は線せんを引ひくことで、理不尽りふじんとはその線せんが引ひかれていない状態じょうたいである。
  • 無理むり[1]「理りがない」のが無理むり、「理りを尽つくしていない」のが理不尽りふじん。無理むりは不可能ふかのう・強引ごういんへ広ひろがり、日常にちじょう語ごとして摩耗まもうした。理不尽りふじんは摩耗まもうせず、今いまも憤ふんりの重おもさを保たもっている — 使用しよう頻度ひんどが低ひくいことが、かえって語ごの力ちからを守まもることがある。
コロケーション
  • 理不尽りふじんな要求ようきゅう相手あいての行為こういと「要求ようきゅう」「命令めいれい」「仕打しうち」「暴力ぼうりょく」と結むすぶ。すべて誰だれかが誰だれかにすることである。「理不尽りふじんな天候てんこう」とは言いいにくい — 自然しぜんには筋すじを通とおす義務ぎむがないからだ。この語ごは責任せきにんを負おいうる主体しゅたいを想定そうていしている。だからこそヨブは神かみに論ろんじたいと言いったのである。
  • 理不尽りふじんさ名詞めいし化かの形かたち「さ」で名詞めいしにすると対象たいしょうから切きり離はなせる。「世よの理不尽りふじんさ」は特定とくていの加害者かがいしゃを持もたない構造こうぞうを指ゆびせるようになる。形容けいよう動詞どうしのままでは個別こべつの出来事できごとしか裁さばけないが、名詞めいしにすると社会しゃかい全体ぜんたいを主語しゅごにできる — 評ひょう論文ろんぶんがこの形かたちを好このむ理由りゆうである。
  • 理不尽りふじんに耐たえる受うけ手ての動詞どうし「耐たえる」「さらされる」「押おしつけられる」と結むすぶ。いずれも受うけ身みの構図こうずだ。この語ごはほぼつねに被害者ひがいしゃの側がわから発はっせられる。理不尽りふじんを行おこなう側がわが自分じぶんの行為こういをそう呼よぶことはない — 語ごの立たち位置いちが固定こていされている珍めずらしい例れいである。
  • 不ふ尽じん手紙てがみの結語けつごとの縁えん「不ふ尽じん」は書簡しょかんの末尾まつびに書かく語ごでもある(「言いい尽つくせませんが」の意い)。同おなじ二字にじが、手紙てがみでは謙譲けんじょう、「理不尽りふじん」では非難ひなんになる。尽つくしていないのが自分じぶんの言葉ことばなら謙遜けんそん、相手あいての道理どうりなら糾弾きゅうだん — 同おなじ字じが誰だれに向むくかで正反対せいはんたいの働はたらきをする。
格かく中なか

書かき言葉ことば・会話かいわの両方りょうほうで使つかえる。

類るい語ごと差さ
  • 不合理ふごうり理りに照てらして筋すじが通とおらない☑13。中立ちゅうりつの記述きじゅつ語ご。理不尽りふじんは憤ふんりを含ふくむ。
  • 非合理ひごうり理りでは捉とらえきれない☑13。枠わくの外そと。誤あやまりではない。理不尽りふじんは明確めいかくに不当ふとう。
  • 不ふ条じょう理り意味いみづけを拒こばむ状況じょうきょう文学ぶんがく・実存じつぞん主義しゅぎの語ご。理不尽りふじんは日常にちじょうの不当ふとうさ。
  • 無茶むちゃ度どを越ごしている程度ていどの話はなし。理不尽りふじんは筋すじの通とおらなさ。

ENunreasonable / unjust
ZH无理(理不尽だ, wúlǐ)

190★★★

屈託くったく

くったく[0]平板へいばん型がた

語ご構成こうせい
屈くつかがむ・くじける+託たくかこつける・あずける
定義ていぎ

① 一ひとつのことにこだわり、心配しんぱいすること。

② 疲つかれて飽あきること。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』第だい3部ぶ ☑190
原げん書しょの解説かいせつ

「屈託くったくのない(=心配しんぱい事ことがない)」という使つかわれ方ほうが多おおい。

使用しようの境界きょうかい

気きにかかることがあって、心こころが晴はれないこと。実際じっさいには否定ひてい形けい「屈託くったくない」で使つかうことが圧倒的あっとうてきに多おおい。

用法ようほう

肯定こうてい形けいより否定ひてい形けい「屈託くったくない」「屈託くったくのない」のほうが圧倒的あっとうてきに多おおい、めずらしい語ごである。「屈託くったくのない笑顔えがお」は〈心こころに何なにのわだかまりもない明あかるい笑顔えがお〉の意いで、褒ほめ言葉ことばになる。幸田こうだ文ぶんの作さく例れいでは「碧へき郎ろうが屈託くったくなくはしゃいで大だい笑わらいしたりすると」という形かたちで現あらわれる。肯定こうてい形けいの「屈託くったくを抱かかえる」も使つかえるが硬かたい。読よみが問とわれることもある。

用例ようれい
  • 子供こどもらと手毬てまり(てまり)つきつつこの里さとに遊あそぶ春日はるひは暮くれずともよし良寛りょうかん(1831没ぼつ)
    「屈託くったくのない」という状態じょうたいをそのまま歌うたにしたような一いち首くびである。良寛りょうかんは寺じを持もたず托鉢たくはつで生いきた僧そうで、心配しんぱいすべきことはいくらでもあったはずだ。それでも子供こどもと手毬てまりをついている。ここで見みておきたいのは「暮くれずともよし」という結むすびだ。日ひが暮くれなくてよい — つまり先さきのことを考かんがえていない。屈託くったくのなさとは悩なやみがないことではなく、いまこの時間じかんに悩なやみを持もち込こんでいないことだとこの歌うたは教おしえる。「屈くつ」はかがむ、「託たく」はかこつける — 身みをかがめて何なにかにこだわる姿勢しせいがここにはない。
  • 其その人ひとと為な(な)りや、憤ふんを発はっして食しょくを忘わすれ、楽らくしみて以もって憂うれひを忘わすれ、老おいの将まさ(まさ)に至いたらんとするを知しらざるのみ。『論語ろんご』述而じゅつじ篇へん(書かき下くだしは本ほん教材きょうざい)
    屈託くったくのなさが子供こどもだけのものではないことを示しめす。これは孔子こうしが自分じぶんを評ひょうした言葉ことばである。憤ふんを発はっしてとは分わからないことに突つき当あたって奮ふるい立たつこと。そのときは食事しょくじを忘わすれる。分わかれば楽らくしくて憂うれいを忘わすれる。そうしているうちに老おいが来くることも忘わすれている。三みっつとも「忘わすれる」だ。屈託くったくとは忘わすれられないことであり、屈託くったくのなさとは忘わすれられることである。この語ごが否定ひてい形けいでこそ生いきるのは、忘却ぼうきゃくという状態じょうたいには積極的せっきょくてきな名前なまえがつけにくいからだろう。
  • 屈託くったくのない笑顔えがおで手てを振ふる子こを、窓まどから見みていた。 この語ごの用例ようれいの大半たいはんがこの形かたちである。肯定こうてい形けいより否定ひてい形けいが多おおいという珍めずらしい語ごで、178 の「気きの置おけない」と同おなじ型かたに属ぞくする。あってはじめて普通ふつうのものが無ないときにだけ言葉ことばになる。
  • ×休暇きゅうか中ちゅうは仕事しごとのことを忘わすれて屈託くったくした。 意味いみが逆ぎゃくである。屈託くったくするは「心配しんぱいして心こころが晴はれない」ことで、くつろぐこととは正反対せいはんたいだ。「屈託くったくない」の形かたちでばかり触ふれていると、「屈託くったく」自体じたいを明あかるい語ごだと思おもい込こむ — 否定ひてい形けいだけが流通りゅうつうする語ごに特有とくゆうの誤解ごかいである。
作品さくひんでの用例ようれい

重吉じゅうきちと計けい吉きちの兄弟きょうだいは、上京じょうきょうした母ははが故郷こきょうに帰かえるのを見み送おくりに駅えきに行いく。

「二人ふたりとも、もう帰かえっていいよ。寒さむいから」と母ははが言いうけれど、計けい吉きちは首くびを振ふる。 「寒さむくはないよ。もうすぐ発車はっしゃだから、いるよ。どうせおれは今日きょうは暇ひまなんだ」 と計けい吉きちは前歯まえばの金かねの入いれ歯はを見みせて、屈託くったくのなさそうな笑えみを浮うきべ、あわてて手てで口くちを押おさえる。

出典しゅってん 常盤ときわ新平しんぺい『遠とおいアメリカ』

派生はせい形けい
  • 屈かがむ身みを折おり曲まげる字じ(屈折くっせつ・屈伸くっしん・退屈たいくつ)。心こころがまっすぐ伸のびていない状態じょうたいを表あらわす。「退屈たいくつ」も同おなじ字じで、気持きもちが退しりぞいてかがむことから来きている。一ひとつの字じが心こころの姿勢しせいを描えがく — 漢字かんじはしばしば身体しんたいの比喩ひゆを経由けいゆして心こころを言いう。
  • 託かこつける他ほかのものによせて言いう字じ。屈託くったくの「託たく」はこだわりが何なにかに引ひきっかかって離はなれないことを表あらわす。「屈くつ」+「託たく」で「かがんで引ひっかかる」 — 二字にじがそろってはじめて心こころの晴はれなさが描えがける。漢語かんごを字じに分わけて読よむと語ご義ぎが立体りったいになる。
  • 屈託ない「の」を入いれない形かたちも広ひろく使つかわれる。「屈託くったくのない」よりやや口語こうご的てきで、一語いちご化かが進すすんでいることを示しめす。178 の「気きの置おけない」が「の」を取とり込こんだのとは逆方向ぎゃくほうこうの動うごきで、語ごが固かたまる過程かていには複数ふくすうの道みちがある。
コロケーション
  • 屈託くったくのない笑顔えがお最もっとも安定あんていした形かたち「笑顔えがお」「表情ひょうじょう」「声こえ」「様子ようす」と結むすぶ。すべて外そとに出でるものだ。屈託くったくは内心ないしんの状態じょうたいなのに、その否定ひていは外見がいけんにしか使つかわれない — このねじれが面白おもしろい。内心ないしんに何なにもないことは確たしかめようがないので、見みえている明あかるさから推おし量はかるほかないのである。
  • 屈託くったくなく笑わらう副詞ふくしの形かたち「なく」で副詞ふくしにすると動作どうさにかかる。「屈託くったくなく笑わらう」「屈託くったくなくはしゃぐ」 — 共起きょうきするのは感情かんじょうがそのまま身体しんたいに出でる動作どうさばかりだ。「屈託くったくなく考かんがえる」とは言いわない。屈託くったくのなさは思考しこうではなく身体しんたいの軽かるさとして現あらわれる。
  • 屈託くったくを抱かかえる肯定こうてい形けいの生いき残のこり肯定こうてい形けいが使つかえないわけではない。「屈託くったくを抱かかえる」「屈託くったくがある」は文章ぶんしょう語ごとして生いきている。ただしやや古風こふうで、現代語げんだいごでは「わだかまり」「心配しんぱい事こと」に置おき換かえられることが多おおい。否定ひてい形けいだけが日常にちじょう語ごに残のこり、肯定こうてい形けいは文語ぶんごの側がわへ退しりぞいた。
  • 屈託くったく/頓とん着ちゃく似にた構かまえの二に語ご「頓着とんじゃく(とんじゃく)しない」も否定ひてい形けいでよく使つかう語ごである。ただし屈託くったくは心配しんぱい、頓とん着ちゃくは関心かんしん。屈託くったくがないのは悩なやんでいない、頓とん着ちゃくしないのは気きにしていない。前者ぜんしゃは明あかるさ、後者こうしゃは無関心むかんしんに傾かたむく — どちらも褒ほめ言葉ことばになりうるが、褒ほめている中身なかみが違ちがう。
格かく硬かた

書かき言葉ことば。会話かいわでは不自然ふしぜん。

類るい語ごと差さ
  • 憂鬱ゆううつ気分きぶんが晴はれない持続じぞくする気分きぶん。屈託くったくは特定とくていの心配しんぱいごとに結むすびつく。
  • わだかまり心こころに残のこるしこり人間にんげん関係かんけいに多おおい。屈託くったくはより広ひろい心配しんぱい。
  • 心配しんぱい気きがかりである一般いっぱん語ご。屈託くったくは文章ぶんしょう語ごで、内ないに抱かかえている含ふくみが強つよい。
  • 邪じゃ気き悪意あくい「無む邪じゃ気き」と「屈託くったくない」は近ちかい意味いみになる。

ENcare / worry
ZH牵挂(気がかり, qiānguà)

コラム ── 堀辰雄ほりたつお

『大和路やまとじ・信濃しなの路ろ』は、堀辰雄ほりたつおが夫人ふじんに宛あてた手紙てがみや、夫人ふじんとともに木曽きそから大和やまとへ歩あるいた体験たいけんを軸じくにした小品しょうひんの連作れんさくである。用例ようれいの文章ぶんしょうに選えらんだものは、その中なかの「樹下じゅか」と題だいする一節いっせつで、そこで紹介しょうかいされている石仏いしぼとけを、彼かれは古こ拙せつ(アルカイック)と形容けいようしている。この連作れんさくには印象いんしょうに残のこる描写びょうしゃが多おおく、それが戦後せんご、改あらためて起おこった古こ都とブームの火ひつけ役やくの先駆せんくをなす理由りゆうの一ひとつとなった。とくに汽車きしゃの窓まどから辛夷こぶしの花はなを見みるところなど、三好みよし達治たつじの詩し集しゅう『花筐はながたみ』を連想れんそうさせるものがある。

堀辰雄ほりたつおが知しられるようになったのは、彼かれが、東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく在学ざいがく中ちゅうに出だした同人どうにん雑誌ざっし『驢馬ろば』に発表はっぴょうした詩しやエッセイによってだが、同人どうにんだった中なか野の重治しげはるが、プロレタリア文学ぶんがく・民みん主しゅ主義しゅぎ文学ぶんがくの代表的だいひょうてき作家さっかとして昭和しょうわ文学ぶんがく史しを飾かざったのに対たいして、堀ほりはそれと対照的たいしょうてきなモダニズム文学ぶんがくの中なかにある位置いちを占しめながら、なお超然ちょうぜんとした生いき方かたを保たもった。

コラム ── 立原たちはら道造みちぞう

立原たちはら道造みちぞうは夭折ようせつした詩人しじんである。彼かれは旧きゅう制せい中学ちゅうがくでは先輩せんぱいの芥川あくたがわ龍之介りゅうのすけ以来いらいの秀才しゅうさいと言いわれ、東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく建築けんちく科かを卒業後そつぎょうご、建築けんちく事務じむ所しょに勤きんめたが、二に十四歳じゅうよんさいで逝去せいきょした。その間かん、大学だいがくに入はいった年としに、昭和しょうわ初期しょきの詩壇しだんを飾かざる詩し誌し『四季しき』創刊そうかんについて、堀辰雄ほりたつおや三好みよし達治たつじらと打うち合あわせを行おこなっているので、早はやくからその詩し才さいを認みとめられていたことがわかる。

第一だいいち詩し集しゅう『萱草わすれぐさに寄きす』を出だしたのは二十三にじゅうさん歳さいの時ときで、その冒頭ぼうとうには「SONATINE No.1」五ご編へんが置おかれている。「はじめてのものに」「またある夜よるに」「晩ばんき日ひの夕ゆうべに」「わかれる昼ひるに」「のちのおもひに」がそれで、題だいを見みただけでも、恋こいらしいものが芽め生はえ、やがてそれが何なにらかの事情じじょうで別わかれるほかないことになり、絶望ぜつぼうに似にた心情しんじょうに陥おちいる、というドラマが想像そうぞうできる。連作れんさくはほぼ一いち年ねんをはさんで作つくられた。舞台ぶたいは軽井沢かるいざわらしい高原こうげんだが、相手あいての女性じょせいは一人ひとりではなかったらしい。

191★★

得心とくしん

とくしん[0]平板へいばん型がた

語ご構成こうせい
得とくえる+心こころこころ
定義ていぎ

納得なっとく、承知しょうちすること。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』第だい3部ぶ ☑191
原げん書しょの解説かいせつ

「得心とくしんがいく」「得心とくしんずく(=互たがいに承知しょうちの上うえで物事ものごとをすること)」という使つかわれ方ほうもする。

使用しようの境界きょうかい

十分じゅうぶんに納得なっとくすること。理解りかいにとどまらず、心こころから受うけ入いれる段階だんかいを指さす。

用法ようほう

「心こころを得える」という語ご構成こうせいで、心こころの底そこから受うけ入いれることを指さす。だから「一応いちおう納得なっとくした」とは言いえても「一応いちおう得心とくしんした」とは言いいにくい。実際じっさいの用法ようほうは「得心とくしんがいく」「得心とくしんのいく」の形かたちが多おおく、時代じだい小説しょうせつや落語らくごでよく使つかわれる古風こふうな語ごである。現代げんだいの会話かいわではほとんど使つかわれないが、小説しょうせつの地ちの文ぶんには残のこっている。「とくしん」と読よみ、「えしん」ではない。

用例ようれい
  • 仏道ぶつどうをならふといふは、自己じこをならふ也なり。自己じこをならふといふは、自己じこをわするるなり。自己じこをわするるといふは、万法まんぽうに証しょうせらるるなり。道元どうげん『正法しょうぼう眼蔵げんぞう』現成げんじょう公こう案あん(1233頃ころ)
    「心こころを得える」という語ご構成こうせいが何なにを言いっているかを照てらす。道元どうげんが描えがくのは学まなぶ→忘わすれる→向むこうから証しょうされるという三さん段だんである。注目ちゅうもくしたいのは最後さいごが受うけ身みであることだ — 「万法まんぽうに証しょうせらるる」、つまり自分じぶんが納得なっとくするのではなく、事物じぶつの側がわから納得なっとくさせられる。得心とくしんとはまさにこの段階だんかいを指さす。理解りかいは自分じぶんの働はたらきだが、得心とくしんは自分じぶんの働はたらきをやめたところで起おこる。「一応いちおう得心とくしんした」と言いいにくいのは、途中とちゅうで止とめられる種類しゅるいの出来事できごとではないからである。
  • 万物ばんぶつ皆みな我われに備そなえはる。身みに反かへ(かへ)りみて誠まことあらば、楽らくしみ焉これ(これ)より大だいなるは莫な(な)し。『孟子もうし』尽じん心こころ上じょう(書かき下くだしは本ほん教材きょうざい)
    得心とくしんが感情かんじょうを伴ともなうことを示しめす。孟子もうしは身みをふりかえって誠まことがあれば、これ以上いじょうの楽らくしみはないと言いう。納得なっとくには快かいさがあるのだ。175 腑ふに落おちないが「引ひきっかかり」という不快ふかいで記述きじゅつされるのと対たいをなす。ここから得心とくしんと納得なっとくの違ちがいも見みえてくる — 納得なっとくは説明せつめいを受うけ入いれること、得心とくしんは受うけ入いれたことが身みの落おち着つきになること。時代じだい小説しょうせつや落語らくごでこの語ごが生いきているのは、手て打うち・和解わかい・腹はらを割わるといった身体しんたいを伴ともなう合意ごういを描えがく場面ばめんが多おおいからである。
  • 三さん度ど説明せつめいを聞きいて、ようやく得心とくしんがいった。 「得心とくしんがいく」が最もっとも安定あんていした形かたち。「いく」という移動いどうの動詞どうしが選えらばれているのが要点ようてんで、納得なっとくは一点いってんに到達とうたつする出来事できごととして捉とらえられている。「三さん度ど」という回数かいすうが効きくのも同おなじ理由りゆう — 距離きょりを踏破とうはした感かんじが出でる。
  • ×一応いちおう得心とくしんしましたが、まだ疑問ぎもんが残のこります。 「一応いちおう」と両立りょうりつしない。得心とくしんは心こころの底そこからの受うけ入いれなので、部分的ぶぶんてき・暫定的ざんていてきではありえない。「一応いちおう納得なっとくしました」なら成なり立たつ。程度ていど副詞ふくしと結けつべるかどうかが、語ごの強度きょうどを測はかる試薬しやくになる。
作品さくひんでの用例ようれい

「私わたし」は妻つまと二人ふたりで郊外こうがいの家いえを探さがしに出でかけ、気きに入はいった家いえを見みつける。

「ここにしよう、ここがいい。」 そこで二人ふたりは大家おおやへ行おこなって部屋へやの様子ようすをきき正ただした。 私達わたしたちはもう家いえそのものはどうでも良よかった。ただ自分達じぶんたちの疲つかれた身体しんたいに一時いちじも早はやく得心とくしんを与あたえるために直ちょくぐその家いえを借かりようという気きになった。

出典しゅってん 横光よこみつ利り一いち『美うつくしい家いえ』

派生はせい形けい
  • 得心ずくとくしんずく[0]双方そうほうの合意ごういを言いう。近世きんせいの商しょういや訴訟そしょうの語ごで、「得心とくしんずくの上うえは異議いぎ申さるさず」という形かたちで証文しょうもんに書かかれた。心こころの状態じょうたいを示しめす語ごが法的ほうてきな効力こうりょくの根拠こんきょになっていた — 近代きんだい法ほうの「意思いし表示ひょうじ」の前身ぜんしんと見みることもできる。
  • 心得こころえ[3]字じをひっくり返かえすと別語べつごになる。「得心とくしん」は心こころを得える(納得なっとくする)、「心得こころえ」は心こころに得える(わきまえ・基本きほんの知識ちしき)。語順ごじゅんが入いれ替かわると主しゅ客きゃくも入いれ替かわるという、漢語かんごの組くみ立たてがよく分わかる一いち対たいである。
  • 会得えとく[0]同おなじ「得とく」を持もつ語ご。会得えとくは技ぎや知識ちしきを身みにつけることで、得心とくしんは心こころが受うけ入いれること。会得えとくには練習れんしゅうが要いり、得心とくしんには要いらない。「得とく」という字じが「自分じぶんのものになる」を担にない、もう一いち字じが何なにが自分じぶんのものになるかを決きめている。
コロケーション
  • 得心とくしんがいく中心ちゅうしん的てきな型かた「いく」「ゆく」と結むすぶ。同型どうけいに「納得なっとくがいく」「合点がてんがいく」があり、日本語にほんごは納得なっとくを「到着とうちゃく」として捉とらえることが分わかる。175 の「腑ふに落おちる」は落下らっか、こちらは到達とうたつ — 同おなじ心こころの出来事できごとに二に種類しゅるいの運動うんどうの比喩ひゆが与あたえられている。
  • 得心とくしんのいく説明せつめい連体れんたいで使つかう形かたち「得心とくしんのいく〜」と名詞めいしを修飾しゅうしょくする形かたちも多おおい。「が」ではなく「の」になるのは178 と同おなじ連体れんたい節せつの主しゅ格かく交替こうたいである。「得心とくしんのいく仕事しごと」のように自分じぶんの成果せいかにも使つかえるところが面白おもしろく、他人たにんの説明せつめいだけでなく自分じぶんの出来できにも納得なっとくは要いる。
  • 得心とくしんずく合意ごういの型かた「互たがいに承知しょうちの上うえで事ことを行おこなう」こと。「〜ずく」は「それを拠よりどころとして」を表あらわす接尾せつび語ごで(力ちからずく・納得なっとくずく・腕うでずく)、合意ごういの根拠こんきょを名指なざす。力ちからずくと得心とくしんずくが同おなじ形かたちを取とることに注意ちゅういしたい — 形かたちは同おなじで中身なかみが正反対せいはんたいである。
  • 得心とくしん/納得なっとく/承知しょうち三さん語ごの位置いち承知しょうちは知しって受うけ入いれる(手続てつづき)、納得なっとくは筋すじが通とおったと認みとめる(論理ろんり)、得心とくしんは心こころの底そこが落おち着つく(身体しんたい)。手続てつづき→論理ろんり→身体しんたいと段だんが深ふかくなる。三さん語ごをこの順じゅんに並ならべられると、読解どっかいで人物じんぶつの受うけ入いれの深ふかさを測はかれるようになる。
格かく硬かた

書かき言葉ことば。会話かいわでは不自然ふしぜん。

類るい語ごと差さ
  • 納得なっとく理由りゆうが分わかって受うけ入いれる一般いっぱん語ご。得心とくしんはより深ふかく、心こころの底そこからの承服しょうふく。
  • 承服しょうふく従したがうことを受うけ入いれる従したがう側面そくめん。得心とくしんは理解りかいと納得なっとくの両方りょうほう。
  • 合点がてん筋道すじみちが分わかる理屈りくつの側がわ。得心とくしんは感情かんじょうも含ふくめた受容じゅよう。
  • 腑ふに落おちる納得なっとくできる☑175 の肯定こうてい形けい。得心とくしんとほぼ同義どうぎ。

ENfull conviction
ZH信服(納得する, xìnfú)

192★★★

髣髴(彷彿)ほうふつ

ほうふつ[0]平板へいばん型がた

語ご構成こうせい
髣ほう似にる・ぼんやり+髴ふつ似にる・ぼんやり

「彷彿ほうふつ」とも書かく。二字にじがともに〈ぼんやり似にている〉を表あらわす。

定義ていぎ

① よく似にているものを見みて、ありありと想像そうぞうすること。

② ぼんやりとしているさま。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』第だい3部ぶ ☑192
原げん書しょの解説かいせつ

「髣ほう」も「髴ふつ」も、元来がんらいはよく似にている様子ようすを示しめす語ご。「髣ほう髴ふつとする」で、〈似にているため、実物じつぶつが思おもい浮うかぶ〉の意いになる。

使用しようの境界きょうかい

よく似にていて、ありありと思おもい浮うかべさせること。単たんに似にているだけでは足たりず、思おもい起おこさせる働はたらきを含ふくむ。

用法ようほう

実際じっさいの用法ようほうはほぼ「〜を髣ほう髴ふつとさせる」「〜を髣ほう髴ふつさせる」に固定こていしている。要点ようてんは、単たんなる類似るいじではなく記憶きおくや情じょう景けいを呼よび起おこすという働はたらきにある。だから対象たいしょうは、かつて見みたもの・知しっているものに限かぎられる。表記ひょうきは「彷彿ほうふつ」が現在げんざいは一般的いっぱんてきだが、原げん書しょは「髣ほう髴ふつ」を主しゅ表記ひょうきとしている。どちらも二字にじがともに〈ぼんやり似にている〉を表あらわす同義どうぎの重かさね語ごである。読よみが問とわれる。

用例ようれい
  • 三代さんだいの栄耀えいよう(えいよう)一睡いっすいの中うち(うち)にして、大だい門もんの跡あとは一いち里さとこなたに有ゆうり。……さても義臣ぎしんすぐつて此この城じょうにこもり、功名こうみょう一時いちじのくさむらとなる。「国くに破やぶれて山河さんがあり、城じょう春はるにして草くさ青あおみたり」と、笠かさ打だ敷しきて、時ときのうつるまで泪をおとし侍はべりぬ。 夏草なつくさや兵つはもの(つはもの)どもが夢ゆめの跡あと松尾まつお芭蕉ばしょう『おくのほそ道みち』平泉ひらいずみ(1702)
    髣ほう髴ふつという語ごの働はたらきを実演じつえんしてみせた一段いちだんである。目めの前まえにあるのは夏草なつくさだけだ。それなのに義経よしつね主しゅ従じゅうの姿すがたがありありと立たち上あがる。注目ちゅうもくしたいのは芭蕉ばしょうが杜甫とほを引ひいていることである。目めの前まえの草くさを見みて千せん年前ねんまえの中国ちゅうごくの詩しを思おもい出だし、その詩しを通とおして五百年ごひゃくねん前まえの合戦かっせんを見みる — 髣ほう髴ふつとはこの二に重じゅう三重さんじゅうの重かさね合あわせである。単たんなる類似るいじでは足たりないという要点ようてんは、ここに尽つきている。似にているものがあれば足たりるのではなく、見みる側がわに思おもい浮うかべる準備じゅんびがなければ何なにも立たち上うえがらない。
  • 国くに破やぶれて山河さんが在あり/城じょう春はるにして草くさ木き深ふかし/時ときに感かんじては花はなにも涙なみだを濺そそ(そそ)ぎ/別わかれを恨うらんでは鳥とりにも心こころを驚おどろかす杜甫とほ「春望しゅんぼう」(757/書かき下くだしは本ほん教材きょうざい)
    芭蕉ばしょうが引ひいたその詩しである。国くには滅ほろびたのに山やまと川かわはそのままある。城跡じょうせきには春はるが来きて草くさ木きが深ふかい。ここで起おきているのは変かわらないものを見みることで変かわったものが見みえるという逆説ぎゃくせつだ。山河さんがが無事ぶじだからこそ国くにの喪失そうしつが際さい立たつ。髣ほう髴ふつという語ごが「〜を髣ほう髴ふつとさせる」という使役しえきの形かたちを取とるのはこのためである — 目めの前まえのものが主語しゅごになり、見みる者ものに別べつのものを思おもい浮うかべさせる。思おもい出だすのではなく思おもい出ださせられるのだ。
  • 石いし段だんの摩耗まもうの深ふかさが、ここを上うえり下おりした無数むすうの足あしを髣ほう髴ふつとさせた。 正ただしい使つかい方かた。石いし段だんと足あしは似にていない。それでも結果けっかとして残のこったものから原因げんいんが立たち上あがる。この語ごが要求ようきゅうするのは形かたちの類似るいじではなく、見みる者ものの中なかで像ぞうが結むすばれることである。
  • ×兄あにと弟おとうとの顔かおはよく髣ほう髴ふつとしている。 単たんなる類似るいじには使つかえない。「似にている」で足たりる場面ばめんにこの語ごを使つかうと重じゅうすぎる。髣ほう髴ふつは「Aを見みてBを思おもい浮うかべる」という二に段だんの構造こうぞうを要求ようきゅうする。AとBが同おなじ場所ばしょに並ならんでいてはいけない。
作品さくひんでの用例ようれい

姉あね夫婦ふうふの家いえに一夏ひとなつ滞在たいざいした「峻しゅん」は、義兄ぎけいの妹いもうとで夏休なつやすみに帰省きせいしている信子のぶこと親したしくなる。

信子のぶこの着物きものが物もの干竿ほしざおにかかったまま雨あめの中なかにあった。筒袖つつそでの、平常へいじょう着きていたゆかたで彼かれの一番いちばん眼めに慣なれた着物きものだった。その故こか、見みていると不思議ふしぎなくらい信子のぶこの身体しんたいつきが髣ほう髴ふつとした。

出典しゅってん 梶井かじい基次郎もとじろう『城じょうのある町まちにて』

派生はせい形けい
  • 髣髴とさせる使役しえきの形かたちが事実上じじつじょうの基本きほん形けい。「髣ほう髴ふつさせる」と「と」を落おとす形かたちも多おおい。「と」は擬態語ぎたいごにつく助詞じょしで(悠然ゆうぜんと・毅然きぜんと)、この語ごがもともと「ぼんやり」を写うつす語ごだった名残なごりである。
  • 彷彿ほうふつ[0]異い表記ひょうき。新聞しんぶん・雑誌ざっしではこちらが優勢ゆうせいである。常用じょうよう漢字かんじ表ひょうにどちらも入はいっていないため「ほうふつ」とかなで書かかれることも増ふえた。表記ひょうきの選択せんたくが媒体ばいたいの性格せいかくを映うつす — 文学ぶんがくは難なん字じを残のこし、報道ほうどうは崩くずす。
  • 彷徨ほうこう[0]「彷ほう」を共有きょうゆうする別語べつご。さまよい歩あるくことで、髣ほう髴ふつとは意味いみが離はなれている。字面じづらが似にているので混同こんどうされやすいが、「彷徨ほうこう」は足あしの語ご、「彷彿ほうふつ」は目めの語ごである。同おなじ部首ぶしゅでも意味いみの族ぞくが違ちがうことを押おさえておきたい。
コロケーション
  • 〜を髣ほう髴ふつとさせるほぼ唯一ゆいいつの型かた使役しえき形けいが標準ひょうじゅんであることに意味いみがある。主語しゅごは目めの前まえのもので、思おもい浮うかべるのは見みる者もの。つまりこの語ごは対象たいしょうと主体しゅたいのあいだに起おきる出来事できごとを記述きじゅつしている。「私わたしは髣ほう髴ふつした」とは言いわない — 想起そうきは意志いしでは起おこせないからだ。
  • 往おう時じを髣ほう髴ふつとさせる対象たいしょうは不在ふざいのもの結むすぶのは「往おう時じ」「在ありし日ひ」「往おう年ねんの」「かつての」。いまここにないものばかりである。目めの前まえにあるものを髣ほう髴ふつとさせることはできない。不在ふざいがこの語ごの前提ぜんていで、だから歴史れきし・追悼ついとう・紀行きこうの文章ぶんしょうに集中しゅうちゅうする。
  • 髣ほう髴ふつたる②の用法ようほう「ぼんやりしている」という②の意味いみは「髣ほう髴ふつたる面影おもかげ」のような文語ぶんご的てきな形かたちに残のこる。「髣ほう」も「髴ふつ」も本来ほんらいは〈ぼんやり似にている〉で、①の「ありありと」はそこから育そだった。ぼんやりとありありが一語いちごに同居どうきょするのは、輪郭りんかくが曖昧あいまいでも像ぞうは強つよく結むすびうるからである。
  • 彷彿ほうふつ併用へいようされる表記ひょうき「彷彿ほうふつ」の表記ひょうきも広ひろく行おこなわれる。「彷ほう」はさまよう、「彿ふつ」は似にるで、意味いみの重心じゅうしんがやや違ちがうが実用じつよう上じょうは同おなじ語ごとして扱あつかわれる。髪かみの部首ぶしゅを持もつ「髣ほう髴ふつ」のほうが古ふるいとされ、難むずかしい字じを避さける方向ほうこうで表記ひょうきが移うつった。
格かく硬かた

書かき言葉ことば。会話かいわでは不自然ふしぜん。

類るい語ごと差さ
  • 彷彿ほうふつ─同どう語ごの別べつ表記ひょうき。現在げんざいはこちらが一般的いっぱんてき。
  • そっくりよく似にている外見がいけんの一致いっち。髣ほう髴ふつは記憶きおくを呼よび起おこす働はたらきを含ふくむ。
  • 彷彿ほうふつとさせる思おもい起おこさせる動詞どうし句くとしての標準ひょうじゅん形けい。
  • 面影おもかげ昔むかしの姿すがたの名残なごり名詞めいし。髣ほう髴ふつはその働はたらきを言いう。

ENevocative / closely resembling
ZH仿佛(あたかも〜のようだ, fǎngfú)

193★★★

閉口へいこう

へいこう[0]平板へいばん型がた

語ご構成こうせい
閉へいとじる+口くちくち
定義ていぎ

手てに負おえなくなり、困こまること。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』第だい3部ぶ ☑193
原げん書しょの解説かいせつ

「辟易へきえきする」と同おなじ意味いみの語ごで、もとは口くちを閉へいざし、沈黙ちんもくすることを示しめす。

使用しようの境界きょうかい

手てに負おえず、困こまり果はてること。物理的ぶつりてきに口くちを閉とじることではなく、参まいってしまう状態じょうたいを指さす。

用法ようほう

もとは言いい負ふかされて返かえす言葉ことばがないことを言いい、そこから〈手てに負おえず困こまる〉に広ひろがった。現代げんだいでは後者こうしゃの意味いみで使つかうのがほとんどで、暑あつさ・長話ながばなし・悪臭あくしゅうなど、避さけられない不快ふかいに対たいして用もちいる。「閉口へいこうする」の動詞どうし形けいが標準ひょうじゅん。字面じづらから「口くちを閉とじる」と誤解ごかいされやすいが、現代語げんだいごでは沈黙ちんもくの意味いみはない。読よみ書かきともに問とわれる語ごである。

用例ようれい
  • にくきもの。急いそぐ事ことある折おりに来きて長言ながごと(ながごと)するまらうど。……ものうらやみし、身みの上うえ嘆なげき、人ひとの上うえ言げんひ、つゆ塵ちりの事こともゆかしがり、聞きかまほしうして、言げんひ知しらせぬをば怨ゑん(ゑん)じそしり、……いとにくし。清少納言せいしょうなごん『枕草子まくらのそうし』「にくきもの」の段だん(1000頃ころ)
    閉口へいこうの最もっとも典型的てんけいてきな対象たいしょうがここに挙あがっている。急いそいでいるときに来きて長話ながばなしをする客きゃくだ。この語ごの要点ようてんは避さけられないことにある。相手あいてを追おい返かえすわけにはいかない。だから口くちを閉とじる。161 で「うつくしきもの」、172 で「はしたなきもの」を引ひいたが、清少納言せいしょうなごんのものづくしは感情かんじょう語彙ごいの原型げんけいの目録もくろくである。ここで見みておきたいのは「にくし」が憎悪ぞうおではないことだ — 手てに負おえなくて困こまるという、まさに閉口へいこうの感覚かんかくである。千せん年前ねんまえから長話ながばなしは閉口へいこうの筆頭ひっとうだった。
  • 語かたりえぬものについては、沈黙ちんもくしなければならない。ウィトゲンシュタイン『論理ろんり哲学てつがく論考ろんこう』(1921/訳やくは本ほん教材きょうざい)
    同おなじ沈黙ちんもくでも種類しゅるいが違ちがうことを示しめすために並ならべておきたい。ウィトゲンシュタインの沈黙ちんもくは語かたる言葉ことばが原理げんり的てきにないことから来くる敬意けいいの沈黙ちんもくである。閉口へいこうの沈黙ちんもくは違ちがう — 語かたる言葉ことばはあるが、語かたっても無駄むだだと分わかったときの断念だんねんの沈黙ちんもくだ。もとの意味いみの「言いい負ふかされて返かえす言葉ことばがない」も同おなじで、言葉ことばが尽つきたのではなく効きかなくなった。だから現代語げんだいごの「暑あつさに閉口へいこうする」へ広こうがれたのである — 暑あつさに言葉ことばが通つうじないのは当あたり前まえだが、その当あたり前まえを「言いっても仕方しかたがない」と感かんじるところにこの語ごは生いきている。
  • 長雨ながあめと湿気しっけには閉口へいこうした。 現代語げんだいごの標準的ひょうじゅんてきな用法ようほう。対象たいしょうは暑あつさ・長話ながばなし・悪臭あくしゅう・混雑こんざつなど自分じぶんではどうにもできないものに限かぎられる。抗議こうぎしても相手あいてがいないという点てんが要ようで、189 理不尽りふじんが責任せきにん主体しゅたいを想定そうていするのとちょうど対たいをなす。
  • ×気きまずくなって彼かれは閉口へいこうした。 現代語げんだいごに沈黙ちんもくの意味いみはない。字面じづらから「口くちを閉とじる」と読よんでしまうのがこの語ごの最大さいだいの落おとし穴あなで、現代げんだいでは「困こまり果はてる」の意味いみしか残のこっていない。「黙だまり込こんだ」が正ただしい。
作品さくひんでの用例ようれい

「私わたし」はかつて様々さまざまな問題もんだいを起おこして兄あにの怒いかりを買かっていたが、母ははの危篤きとくの知しらせを聞きいて帰郷ききょうする。

泣ないたらウソだ。涙なみだはウソだ、と心こころの中なかで言いいながら懐手ふところでして部屋へやをぐるぐる歩あるきまわっているのだが、いまにも、嗚咽おえつが出だそうになるのだ。私わたしは実じつに閉口へいこうした。

出典しゅってん 太宰治だざいおさむ『故郷こきょう』

派生はせい形けい
  • 閉口へいこう[0]もとは議論ぎろんの語ご。言いい負ふかされて返かえす言葉ことばがないことを言いった。そこから「相手あいてが手て強つよくて困こまる」→「事態じたいが手てに負おえず困こまる」と広ひろがった。議論ぎろんの語ごが天候てんこうの語ごになるという道筋みちすじは、比喩ひゆが対象たいしょうを広ひろげていく典型てんけいである。
  • 閉口する動詞どうし形けいが標準ひょうじゅんで、形容けいよう動詞どうしにはならない(「閉口へいこうな話はなし」とは言いわない)。「〜口くち」型かたの漢語かんごには糊口ここう・異口いく・人口じんこうなどあるが、動詞どうし化かするのはごく少すくない。閉口へいこうが動詞どうしになれたのは、「閉とじる」という動作どうさの字じを含ふくむからである。
  • 辟易へきえき[0]「辟へき」はさける、「易えき」はかえる。『史記しき』項羽こうう本紀ほんぎの「人馬倶じんばとも(とも)に驚おどろき、辟易へきえき数すう里さと」が古ふるい用例ようれいで、もとは後あとずさりする身体しんたいの動うごきだった。閉口へいこうと同おなじく、身体しんたいの動作どうさが心こころの状態じょうたいの名なになっている。
コロケーション
  • 〜に閉口へいこうする格かく助詞じょしは「に」「を」ではなく「に」を取とる。「に」は働はたらきかけを受うける相手あいてを示しめす格かくで、閉口へいこうが受動じゅどう的てきな経験けいけんであることを表あらわしている。「暑あつさを閉口へいこうする」とは言いえない — こちらから何なにかをしたのではなく、一方的いっぽうてきに参まいらされている。
  • 長話ながばなしに閉口へいこうする典型的てんけいてきな対象たいしょう「長話ながばなし」「猛暑もうしょ」「人ひとごみ」「売うり込こみ」など、持続じぞくして逃にげ場ばがないものと結むすぶ。一瞬いっしゅんの出来事できごとには使つかわない — 「落雷らくらいに閉口へいこうした」とは言いわない。時間じかんの長ながさが条件じょうけんであり、清少納言せいしょうなごんが挙あげたのも「長言ながごと」だった。
  • 閉口へいこうさせられる受うけ身みの重かさねすでに受動じゅどう的てきな語ごをさらに受うけ身みにする形かたち。「閉口へいこうさせられた」は相手あいての責任せきにんを前まえに出だすときに使つかう。「閉口へいこうした」なら自分じぶんの感想かんそう、「閉口へいこうさせられた」なら相手あいてへの非難ひなん — 態たいを一段いちだん重かさねるだけで矛ほこ先さきが生うまれる。
  • 閉口へいこう/辟易へきえき近ちかい二に語ご辟易へきえきはもと「道みちをよけて場所ばしょを変かえる」で、後あとずさりする身みぶりが原げん義ぎである。閉口へいこうは口くち、辟易へきえきは足あし。どちらも身体しんたいの反応はんのうで困惑こんわくを言いうが、辟易へきえきにはうんざりして離はなれたいという拒否きょひが強つよく、閉口へいこうには離はなれられない諦あきらめが濃こい。
格かく中なか

書かき言葉ことば・会話かいわの両方りょうほうで使つかえる。

類るい語ごと差さ
  • 辟易へきえきうんざりして避さけたくなる逃にげたい気持きもち。閉口へいこうは困こまり果はてて動うごけない感かんじ。
  • 困惑こんわくどうしてよいか分わからない判断はんだんに迷まよう。閉口へいこうは耐たえがたさ。
  • 往生おうじょうするどうにもならず困こまる口語こうご的てき。閉口へいこうはやや硬かたい。
  • 音おとを上あげる耐たえられず弱音よわねを吐はく降参こうさんの表明ひょうめい。閉口へいこうは内心ないしんの状態じょうたい。

ENto be at a loss / fed up
ZH为难(閉口する, wéinán)

194★★

物心ものごころ

ものごころ[3]中高なかだか型がた

語ご構成こうせい
物ものもの+心こころこころ

「ぶっしん」と読よめば〈物質ぶっしつと精神せいしん〉の別語べつごになる。

定義ていぎ

世よの中なかの物事ものごとや道理どうりを理解りかいする心こころ。分ぶん別べつ。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』第だい3部ぶ ☑194
原げん書しょの解説かいせつ

「物心ものごころ(が)つく」という表現ひょうげんで多おおく使つかわれる。

使用しようの境界きょうかい

世よの中なかのことや人ひとの心こころが分わかるようになること。ほぼ「物心ものごころがつく」の形かたちでのみ使つかう。

用法ようほう

「物心ものごころがつく」「物心ものごころついたころ」の形かたちにほぼ固定こていしている。四よん、五ご歳さいごろに世よの中なかのことがおぼろげに分わかり始はじめる段階だんかいを指さし、記憶きおくの起点きてんとして語かたられることが多おおい。最大さいだいの注意ちゅうい点てんは同おなじ漢字かんじで「ぶっしん」と読よむ別語べつごがあることで、こちらは「物心ものごころ両面りょうめんの支援しえん」のように物質ぶっしつと精神せいしんを意味いみする。読よみが変かわれば意味いみも変かわるので、文脈ぶんみゃくで判断はんだんする。

用例ようれい
  • わたしの幼年ようねん時代じだいを、わたしは覚おぼえていない。他ほかの子こどもたちを見みて知しったのだ — わたしもそうだったのだと。……そしていま、そのころのわたしはどこにいるのか。アウグスティヌス『告白こくはく』第一だいいち巻かん(397頃ころ/訳やくは本ほん教材きょうざい)
    物心ものごころがつく「前まえ」について書かかれた最もっとも古ふるい文章ぶんしょうの一ひとつである。アウグスティヌスは自分じぶんの乳児にゅうじ期きを覚おぼえていないと認みとめ、他ほかの子こを見みて推測すいそくするほかないと言いう。ここにこの語ごの構造こうぞうが見みえる — 物心ものごころがついたということは自分じぶんでは確認かくにんできない。ついたあとから振ふり返かえって「あのあたりから記憶きおくがある」と言いうだけである。だからこの語ごはほぼつねに「物心ものごころついたころ」という回想かいそうの形かたちで現あらわれる。記憶きおくの始はじまりは記憶きおくの中なかにしかない。
  • わが心こころ躍おどる、空そらに虹にじを見みるとき。……そして願ねがわくはわが日々ひびのひとつひとつが自然しぜんへの敬うやまいによって結むすばれんことを。子こどもは大人おとなの父ちちである。ワーズワース「わが心こころは躍おどる」(1802/訳やくは本ほん教材きょうざい)
    物心ものごころという語ごが含ふくむ不思議ふしぎな順序じゅんじょを照てらす。「子こどもは大人おとなの父ちちである」 — つまりいまの自分じぶんを作つくったのはかつての子こどもだということだ。「物心ものごころがつく」も同おなじで、四よん、五ご歳さいのあたりに起おきた何なにかが、その後ごのすべての記憶きおくの土台どだいになる。本人ほんにんには何なにも起おきていない。気きづいたらすでについていた。この語ごが「つく」という自動詞じどうしを取とり、「物心ものごころを得える」とは言いわないのは、それが努力どりょくでも出来事できごとでもなく、いつのまにか備そなえわっているものだからである。
  • 物心ものごころついたころには、もうこの町まちに住すんでいた。 ほぼこの形かたちしかないと言いってよい。「物心ものごころついたころ」「物心ものごころがつく」の二ふたつで用例ようれいのほとんどを占しめる。記憶きおくの起点きてんを示しめす定型ていけい句くとして働はたらき、自伝じでんや回想かいそうの書かき出だしに好よしみまれる。
  • ×被ひ災さい地ちにものごころ両面りょうめんの支援しえんを行おこなう。 読よみが違ちがう。この場合ばあいは「ぶっしん」と読よみ、物質ぶっしつと精神せいしんを意味いみするまったくの別語べつごである。同おなじ漢字かんじで和わ語ご読よみと漢語かんご読よみが別語べつごになる例れいで、読解どっかいでは文脈ぶんみゃくから読よみを決きめるほかない。
作品さくひんでの用例ようれい

「僕ぼく」は父ちちの臨終りんじゅうに直面ちょくめんし、昔むかしを回想かいそうする。

これが自分じぶんの父ちち親おやだと、この眼めで見みて物心ものごころついたのが、ついこないだのような気きがするではないか。ついこないだまで、このおやじは大おおきな体からだで僕ぼくの前まえに立たちはだかって幼おさない僕ぼくを振ふり回まわし、息子むすこの腕力わんりょくではまだその片腕かたうでだけにも及およばぬような気きがしたではないか。

出典しゅってん 阿部昭あべあきら『司令しれいの休暇きゅうか』

派生はせい形けい
  • 物心ぶっしん[0]同おなじ字じで別語べつご。〈物質ぶっしつと精神せいしん〉で、「物心ものごころ両面りょうめん」「物心ものごころとも」の形かたちで使つかう。和わ語ご読よみの「ものごころ」が発達はったつの語ご、漢語かんご読よみの「ぶっしん」が哲学てつがく・実務じつむの語ご。読よみの違ちがいが語彙ごいの層そうの違ちがいを示しめしている。
  • 物もの[2]ここでの「物もの」は世よの中なかの事柄ことがらを指さす。「物もの言いい」「物もの覚おぼえ」「物心ものごころ」の「物もの」で、具体的ぐたいてきな品物しなものではない。和わ語ごの「もの」は対象たいしょう一般いっぱんを広ひろく指さし、ときに霊れい的てきなものまで含ふくむ(物ものの怪かい)。この幅はばの広こうさが「物心ものごころ」を「世よの中なかが分わかる心こころ」にしている。
  • 物心づくものごころづく[5]一語いちごの動詞どうしとして扱あつかうこともある。「物心ものごころづいてから」という形かたちで文学ぶんがくに見みえる。助詞じょし「が」を落おとして一語いちご化かするのは日本語にほんごの常道じょうどうで(気きづく・色いろづく・勢いきおいいづく)、一語いちご化かの進すすみ具合ぐあいは語ごの古こさの目安めやすになる。
コロケーション
  • 物心ものごころがつくほぼ唯一ゆいいつの形かたち「つく」という自動詞じどうしとしか結むすばない。「物心ものごころを身みにつける」「物心ものごころを得える」とは言いわない。努力どりょくの対象たいしょうにならないのである。「気きがつく」「分ぶん別べつがつく」「決心けっしんがつく」と同おなじ型かたで、「つく」は心こころの働はたらきが自然しぜんに備そなえわることを言いう動詞どうしである。
  • 物心ものごころついたころ回想かいそうの枠わくほぼつねに過去形かこけいで現あらわれる。「いま物心ものごころがついた」とは言いえない — 渦中かちゅうでは分わからないからだ。この語ごは振ふり返かえる位置いちからしか使つかえない。時制じせいの制限せいげんが語ごの性格せいかくを決きめている珍めずらしい例れいである。
  • 物心ものごころ両面りょうめん別語べつごの合図あいず「両面りょうめん」が来きたら「ぶっしん」と読よむ。「物心ものごころ両面りょうめんの支援しえん」は物質ぶっしつ面めんと精神せいしん面めんのこと。共起きょうき語ごが読よみを決きめるということで、日本語にほんごの読よみ分わけは字じではなく前後ぜんごの語ごが担になっている。入試にゅうしで狙ねらわれるのはこの切きり替かえである。
  • 分ぶん別べつがつく隣となりの表現ひょうげん「分別ふんべつ(ふんべつ)がつく」も同おなじ型かただが、年齢ねんれいがもっと上うえを指さす。物心ものごころは四よん、五ご歳さい、分ぶん別べつは成人せいじん前後ぜんご。日本語にほんごは成長せいちょうの段階だんかいを「〜がつく」で刻きざんできた — 物心ものごころがつく→分ぶん別べつがつく→取とり返かえしがつく/つかない。成長せいちょうは獲得かくとくではなく付ふ着ちゃくとして捉とらえられている。
格かく中なか

書かき言葉ことば・会話かいわの両方りょうほうで使つかえる。

類るい語ごと差さ
  • 分ぶん別べつ善悪ぜんあくを判断はんだんする力ちから大人おとなの判断力はんだんりょく。物心ものごころは幼児期ようじきの芽め生はえ。
  • 自我じが自分じぶんを自分じぶんと意識いしきする働はたらき心理学しんりがくの語ご。物心ものごころはより素朴そぼくで日常的にちじょうてきな言いい方かた。
  • 物心ものごころ両面りょうめん物質ぶっしつと精神せいしんの両方りょうほう同おなじ字じだが「ぶっしん」と読よむ別語べつご。混同こんどうしやすい。
  • 聞きき分わけ言いわれたことが分わかる理解りかいの程度ていど。物心ものごころは世界せかいの認識にんしき全般ぜんぱん。

ENdawning awareness
ZH懂事(物心がつく, dǒngshì)

195★★

無造作むぞうさ

むぞうさ[2]中高なかだか型がた

語ご構成こうせい
無むない+造作ぞうさ手間てま・こしらえ
定義ていぎ

① 物事ものごとを簡単かんたんに行おこなうこと。

② 技巧ぎこうを凝こらさないこと。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』第だい3部ぶ ☑195
原げん書しょの解説かいせつ

「造作ぞうさ」は仏教ぶっきょう語ごで、意識的いしきてきにつくり出だすこと。左ひだりの文章ぶんしょうでは、「少年しょうねん」が簡単かんたんに視線しせんを外はずしたことを示しめす。

使用しようの境界きょうかい

手間てまをかけず、無む頓とん着ちゃくであること。雑ざつという否定的ひていてきな評価ひょうかとは限かぎらず、自然しぜんさとして肯定的こうていてきにも使つかう。

用法ようほう

「造作ぞうさ」は手間てま・こしらえのことで、その否定ひていだから〈手てをかけない〉となる。要点ようてんは評価ひょうかが文脈ぶんみゃくで反転はんてんすることにある。「無造作むぞうさに投なげ出だされた靴くつ」は雑ざつさを、「無造作むぞうさな髪かみ型がた」は気き取とらない自然しぜんさを表あらわす。ファッションの文脈ぶんみゃくでは明確めいかくに肯定こうてい語ごである。「無造作むぞうさに」という副詞ふくし形けいが標準的ひょうじゅんてきな使つかい方かたで、動作どうさの描写びょうしゃに使つかう。読よみは「むぞうさ」で、「むづくり」ではない。

用例ようれい
  • 花はなは野のにあるように生せいけよ。千せん利り休きゅう/『南方なんぽう録ろく』(1690)
    無造作むぞうさが肯定こうていに傾かたむくときの典型てんけいがここにある。「野のにあるように」とは手てをかけないように見みせよということだ。ここで見落みおとせないのは、これが「生せいけよ」という命令めいれいであることである。野のの花はなをそのまま持もってきても「野のにあるように」は生うまれない。手てをかけて、手てをかけていないように見みせる — 「造作ぞうさ」を尽つくして「無造作むぞうさ」に至いたるという逆説ぎゃくせつだ。「無造作むぞうさな髪かみ型がた」が褒ほめ言葉ことばになるのも同おなじ理屈りくつで、本当ほんとうに何なにもしていない髪かみはそう呼よばれない。評価ひょうかが反転はんてんするのは文脈ぶんみゃくのせいだけでなく、この語ごがもともと二に重じゅう底そこだからである。
  • 茶道さどうは本質ほんしつにおいて不完全ふかんぜんなものへの崇拝すうはいである。それは不可能ふかのうと知しりつつ完全かんぜんを成なし遂とげようとする営いとなみのなかにひそやかな意味いみを見みいだそうとする試こころみだからである。岡倉おかくら天心てんしん『茶ちゃの本ほん』(1906/訳やくは本ほん教材きょうざい)
    無造作むぞうさを価値かちとして受うけ取とる構かまえを説明せつめいしている。天心てんしんが言いうのは完全かんぜんは不可能ふかのうだということ、そしてだからこそ不完全ふかんぜんに意味いみが宿やどるということだ。整ととのいすぎたものは閉とじている。無造作むぞうさに置おかれたものはまだ動うごきうる。「無造作むぞうさに投なげ出だされた靴くつ」が雑ざつさにも生活せいかつの生々なまなましさにも読よめるのはこのためで、同おなじ「手てをかけない」が、欠如けつじょと見みれば雑ざつ、余白よはくと見みれば自然しぜんになる。評価ひょうかを決きめるのは対象たいしょうではなく見みる側がわの構かまえである。
  • 髪かみを無造作むぞうさにまとめただけなのに、その人ひとは整ととのって見みえた。 肯定こうていに傾かたむいた例れい。「〜だけなのに」という逆接ぎゃくせつが効きいている — 手てをかけていないのに結果けっかがよいという構図こうずが賞賛しょうさんを生うむ。手間てまと結果けっかの不ふ釣つり合あいが、この語ごの快かいさの正体しょうたいだ。
  • ×手術しゅじゅつは無造作むぞうさに行おこなわれた。 正確せいかくさが要いる場面ばめんには置おけない。肯定こうていにも否定ひていにも転ころびうる語ごだが、どちらに転ころんでも「手てをかけていない」という含意がんいは残のこる。手てをかけることが前提ぜんていの行為こういには使つかえない。
作品さくひんでの用例ようれい

祭まつりの夜よる、令嬢れいじょうは、少年しょうねんが自分じぶんをにらんでいることに気きづいた。

令嬢れいじょうは咄嗟とっさにその眼めを睨にらみ返かえしたが、すると、彼女かのじょの激はげしい意い気き組くみを嘲あざけるように、傲岸ごうがんな眼めは無造作むぞうさに反はんらされていた。

出典しゅってん 坂口さかぐち安吾あんご『傲慢ごうまんな眼め』

派生はせい形けい
  • 造作ぞうさ[0]手間てま・面倒めんどう。「造作ぞうさもない」はたやすいという意味いみで、今いまも使つかわれる。仏教ぶっきょう語ごとしては「意識的いしきてきにつくり出だすこと」で、無造作むぞうさはその否定ひてい。「作さく為いがない」という仏教ぶっきょう的てきな価値かち観かんが語ごの底そこに沈しずんでいる。
  • 造作ぞうさく[0]同おなじ字じの別べつ読よみ。家いえの内ない装そう・建具たてぐを指さし、「顔かおの造作ぞうさ」と言いえば目め鼻はな立たちのこと。「つくり」という共通きょうつうの芯しんから手間てま(ぞうさ)と造形ぞうけい(ぞうさく)に分わかれた — 読よみの分化ぶんかは意味いみの分化ぶんかである。
  • 無造作さむぞうささ名詞めいし化かすると評価ひょうかが固定こていしやすい。「その無造作むぞうささが魅力みりょくだ」のように肯定こうていの文脈ぶんみゃくで使つかわれることが多おおい。否定ひていの意味いみなら「雑ざつさ」「乱雑らんざつさ」を選えらぶのが普通ふつうで、名詞めいし形けいが肯定こうてい側がわに寄よっていることはこの語ごの重心じゅうしんがどちらにあるかを示しめしている。
コロケーション
  • 無造作むぞうさに置おく動作どうさと結むすぶ「置おく」「投なげ出だす」「束たばねる」「差さし込こむ」と結むすぶ。すべて一いち動作どうさで終おわる動詞どうしである。時間じかんのかかる動詞どうしとは結むすばない — 「無造作むぞうさに育そだてる」とは言いわない。「造作ぞうさ=手間てま」の否定ひていなのだから、手間てまのかかりようがある動詞どうしでなければ意味いみをなさない。
  • 無造作むぞうさな髪かみ型がた肯定こうていに傾かたむく場ば装よそおいの文脈ぶんみゃくではほぼ肯定こうていである。「気き取とらない」「自然しぜんな」と同義どうぎに働はたらく。これは装よそおいが本来ほんらい「作つくるもの」だからで、作つくっていないように見みえることが高度こうどな技ぎとみなされる。利り休きゅうの「野のにあるように」と同おなじ構造こうぞうが現代げんだいの装よそおいにも生いきている。
  • 無造作むぞうさに扱あつかう否定ひていに傾かたむく場ば大切たいせつなものを目的語もくてきごに取とると非難ひなんになる。「古文書こもんじょを無造作むぞうさに扱あつかう」は明確めいかくな批判ひはんだ。反転はんてんの鍵かぎは対象たいしょうの価値かちにある — 価値かちが高たかいものほど手間てまをかけるべきだという前提ぜんていが働はたらくので、手間てまの欠如けつじょが敬意けいいの欠如けつじょに読よみ替かえられる。
  • 造作ぞうさ元もとの語ご「造作ぞうさ(ぞうさ)」は手間てま(「造作ぞうさもない」=手間てまがかからない)。建築けんちくでは「ぞうさく」と読よみ、内ない装そうの仕上しあげを指さす。読よみで意味いみが分わかれるのは194 と同おなじ現象げんしょうで、もとは仏教ぶっきょう語ごで「意識的いしきてきにつくり出だすこと」を意味いみした。作さく為いの否定ひていという芯しんが、ここから来きている。
格かく中なか

書かき言葉ことば・会話かいわの両方りょうほうで使つかえる。

類るい語ごと差さ
  • 雑ざつ丁寧ていねいでない否定的ひていてきな評価ひょうかが確定かくていする。無造作むぞうさは肯定的こうていてきにも使つかえる。
  • 無む頓とん着ちゃく気きにかけない関心かんしんの欠如けつじょ。無造作むぞうさは動作どうさの手軽てがるさ。
  • さりげないわざとらしくない自然しぜんさを肯定こうていする。無造作むぞうさの肯定的こうていてきな側面そくめんに近ちかい。
  • ぞんざいいいかげんで乱らん暴ぼうだ明確めいかくに否定的ひていてき。無造作むぞうさは中立ちゅうりつに近ちかい。

ENcasual / offhand
ZH随意(無造作だ, suíyì)

196★★

なおざり

なおざり[0]平板へいばん型がた

語ご構成こうせい

「おざなり」は一応いちおうやる、「なおざり」はやらない。混同こんどうが非常ひじょうに多おおい。

定義ていぎ

物事ものごとに真剣しんけんに取とり合あわず、いい加減かげんに対処たいしょすること。おろそか。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』第だい3部ぶ ☑196
原げん書しょの解説かいせつ

漢字かんじでは「等閑なおざり」と標ひょう記しるする。「おざなり(=その場ば限かぎりの間まに合あわせ)」との意味いみの違ちがいに注意ちゅういしよう。

使用しようの境界きょうかい

いいかげんに扱あつかい、放ほうっておくこと。手てを抜ぬくのではなく、ほとんど手てをつけない点てんが要点ようてん。

用法ようほう

最大さいだいの注意ちゅうい点てんは「おざなり」との区別くべつである。おざなりは一応いちおうやる(その場ばしのぎで形かたちだけ整ととのえる)、なおざりはやらない(放ほうっておく)。音おとが似にているため混同こんどうが非常ひじょうに多おおく、入試にゅうしでも狙ねらわれる。漢字かんじでは「等閑なおざり」と当あて、「とうかん」とも読よむが同おなじ意味いみである。「なおざりにする」という動詞どうし形けいが標準的ひょうじゅんてきな使つかい方かたで、義務ぎむや責任せきにんについて使つかうことが多おおい。

用例ようれい
  • ある人ひと、弓ゆみ射しゃることを習ならふに、諸矢もろや(もろや)をたばさみて的てきに向こうかふ。師しの云いはく、「初心しょしんの人ひと、二ふたつの矢やを持もつ事ことなかれ。後あとの矢やを頼たのみて、初はじめの矢やに等閑なほざり(なほざり)の心こころあり。毎まい度どただ得とく失しつなく、この一矢いっしに定ていむべしと思おもへ」と云いふ。吉田兼好よしだけんこう『徒然草つれづれぐさ』第だい九きゅう十二じゅうに段だん(1330頃ころ)
    「なおざり」という語ごがそのまま現あらわれる一段いちだんで、この語ごの芯しんを定義ていぎしていると言いってよい。弟子でしは二本にほん目めがあると思おもっている。だから一本いっぽん目めに身みが入はいらない。重要じゅうようなのは弟子でしがさぼっていないことだ — 射しゃてはいる。それでもそこに「なほざりの心こころ」があると師しは見抜みぬく。なおざりとは手てを抜ぬくことではなく、心こころを置おいていないことである。「おざなり」との差さもここではっきりする — おざなりは形かたちだけやる、なおざりは形かたちはあっても心こころがない、あるいはそもそも手てをつけない。
  • われわれは短みじかい時間じかんを持もっているのではない。多おおくの時間じかんを浪費ろうひしているのだ。……人生じんせいは十分じゅうぶんに長ながく、よく用もちいる者ものには最もっとも大おおきな事ことを成なし遂とげるに足たりるだけ与あたえられている。セネカ『人生じんせいの短みじかさについて』(西暦せいれき49頃ころ/訳やくは本ほん教材きょうざい)
    なおざりの帰結きけつを言いう。セネカが突つくのは足たりないのは時間じかんではなく扱あつかい方ほうだという一点いってんである。浪費ろうひとは使つかい切きることではなく、心こころを置おかずに過すごすことだ。兼好けんこうの弓ゆみの話はなしと重かさねると見みえてくるのは、なおざりが「あとがある」という前提ぜんていから生うまれるということである。次つぎの矢や、明日あす、来年らいねん — 予備よびがあると思おもうかぎり心こころは置おかれない。この語ごが単たんなる「怠慢たいまん」より深ふかいところを突つくのは、意志いしの弱よわさではなく時間じかんの見積みつもり違ちがいを名指なざしているからだ。
  • 基礎きその練習れんしゅうをなおざりにしたまま、応用おうようばかり追おいかけていた。 正ただしい使つかい方かた。「なおざりにする」が基本きほん形けいで、放ほうっておくことを言いう。「あとでやればいい」という構かまえが含ふくまれているのが要点ようてんで、兼好けんこうの「後あとの矢やを頼たのみて」と正確せいかくに重かさなる。
  • ×形かたちだけの謝罪しゃざいをなおざりに済すませた。 「おざなり」との取とり違ちがえ。形かたちだけでもやったなら「おざなり」である。なおざりはそもそも手てをつけない。おざなりは「お座ざなり」(その場ばかぎりの間まに合あわせ)、なおざりは「等閑なおざり」 — 語源ごげんが別べつである。
作品さくひんでの用例ようれい

読書どくしょ家かの「彼かれ」は机つくえの上うえの洋よう書しょを手てにする。

彼かれは坐すわるなりそれを開ひらいて枝折しおりの挿はさんである頁ページを目標もくひょうに其その所しょから読よみにかかった。けれども三四日さんよっか等閑なおざりにしておいた咎とがが祟たたって、前後ぜんごの続つづき具合ぐあいが能のうく解かいらなかった。

出典しゅってん 夏目なつめ漱石そうせき『明暗めいあん』

派生はせい形けい
  • 等閑なおざり/とうかん同おなじ表記ひょうきで二に通とおりに読よむ。「なおざり」は和わ語ごに当あてた訓くん、「とうかん」は漢語かんごの音おと。「等閑なおざりに付ふす」「等閑視とうかんし」は音読おんよみで使つかう。194 物心ものごころ、195 造作ぞうさと同おなじ現象げんしょうがここでも起おきていて、漢字かんじは和わ語ごと漢語かんごの両方りょうほうを同時どうじに背負せおう。
  • なおざりにかな書かきが標準ひょうじゅんである。「等閑なおざり」と書かくと「とうかん」と読よまれかねないので、実用じつよう上じょうかなが選えらばれる。表記ひょうきの選択せんたくが誤読ごどくの回避かいひとして働はたらく例れいで、177 のっぴきならない、179 たかがと同おなじく、かな書かきは語ごの成熟せいじゅくの印しるしでもある。
  • おざなりお座なり[0]別語べつご。語源ごげんも意味いみも違ちがうのに音おとが似にているために混同こんどうされる。「おざなりな対応たいおう」はやっている、「なおざりな対応たいおう」はやっていない。両者りょうしゃを並ならべて覚おぼえるのが確実かくじつで、音おとの近ちかさが意味いみの近ちかさを保証ほしょうしないという教訓きょうくんでもある。
コロケーション
  • なおざりにする基本きほんの形かたち「〜にする」で他動詞たどうし化かする。目的語もくてきごは「基礎きそ」「健康けんこう」「約束やくそく」「本業ほんぎょう」など、本来ほんらい手てをかけるべきものに限かぎられる。どうでもいいものをなおざりにすることはできない — この語ごは「すべきだった」という判断はんだんを含ふくんでいるので、使つかった時点じてんで批判ひはんになる。
  • なおざりにされる受うけ身みの形かたち受うけ身みにすると対象たいしょうの側がわから書かける。「地方ちほうの医療いりょうがなおざりにされてきた」は誰だれが放置ほうちしたかを言いわずに放置ほうちを告発こくはつできる。173 の「水みずを差さされた」と同おなじで、受うけ身みは加害者かがいしゃを隠かくしながら被害ひがいを前まえに出だす。評ひょう論文ろんぶんでこの形かたちが多おおいのはそのためだ。
  • おざなり取とり違ちがえの相手あいて「お座ざなり」はお座敷ざしきでその場ばかぎりに応対おうたいしたことから出でたとされる。やることはやる。ただし形かたちだけだ。なおざりはやらない、おざなりはやるが中身なかみがない — 「や」のあるなしで覚おぼえると取とり違ちがえにくい。入試にゅうしで狙ねらわれるのはこの一点いってんである。
  • 等閑視とうかんしする漢語かんごの形かたち「等閑とうかん(とうかん)視しする」は同おなじ字じを音おとで読よんだ形かたち。意味いみはほぼ同おなじだが、文体ぶんたいが一段いちだん固かたい。「等閑なおざり」は中国語ちゅうごくごで「なみなみ・いいかげん」を意味いみし、和わ語ごの「なほざり」に当あて字じとして結むすびついた。一ひとつの漢字かんじ表記ひょうきが和わ語ご読よみと漢語かんご読よみの二に語ごを養やしなっている。
格かく硬かた

書かき言葉ことば。会話かいわでは不自然ふしぜん。

類るい語ごと差さ
  • おざなりその場ばかぎりの間まに合あわせ一応いちおうやる。なおざりはやらない。この差さが最重要さいじゅうよう。
  • 等閑なおざりなおざり漢字かんじ表記ひょうき。「とうかん」と読よめば別語べつごのように見みえるが同義どうぎ。
  • 疎そかいいかげんにする「おろそか」。ほぼ同義どうぎでより日常的にちじょうてき。
  • 放置ほうちそのままにする何なにもしない。なおざりは扱あつかいの雑ざつさを含ふくむ。

ENneglect / leaving undone
ZH敷衍(おざなりにする, fūyǎn)

コラム ── 伊藤いとう整せい

伊藤いとう整せいは、昭和しょうわ初期しょきにジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』を数年すうねんかけて共訳きょうやくするなどして、当時とうじのヨーロッパの最新さいしん文学ぶんがくを積極的せっきょくてきに移入いにゅうするとともに、自みずから新しん心理しんり主義しゅぎを唱となえて小説しょうせつと評ひょう論ろんを発表はっぴょうし始はじめた。そのため、昭和しょうわ文学ぶんがくの騎手きしゅの一人ひとりに注目ちゅうもくされていた。

しかし、伊藤いとう整せいの心こころの奥おく底そこに抒情詩じょじょうし人ひとが隠かくされていたことも間違まちがいなく、それは少年しょうねん時代じだいから書かいていた、良質りょうしつな青春せいしゅんの感傷かんしょうを漂ひょうわせた抒情詩じょじょうしを大学だいがく入学にゅうがく以前いぜんにまとめて刊行かんこうした詩し集しゅう『雪ゆき明みんりの路ろ』一巻いっかんだけで、十分じゅうぶん理解りかいできる。また、その時期じきの試作しさくは、新あたらしい小説しょうせつの方法ほうほう的てき実験じっけんの一いち成果せいかとみなされる『幽鬼ゆうきの街まち』『幽鬼ゆうきの村むら』にも反映はんえいされている。

『若わかい詩人しじんの肖像しょうぞう』は、ジョイスの『若わかき日ひの芸術げいじゅつ家かの肖像しょうぞう』を手て本ほんにしている。自分じぶんが詩人しじんとして立たつことを決意けついした少年しょうねん時代じだいから、『雪ゆき明みんりの路ろ』を出版しゅっぱんし、梶井かじい基次郎もとじろう、北川きたがわ冬彦ふゆひこなど多おおくの詩人しじん達たつと交友こうゆうし始はじめた二十にじゅう代だい前半ぜんはんまでの思おもい出でを描えがいた、自伝じでん的てき長ちょう編へんである。

コラム ── 梶井かじい基次郎もとじろう

梶井かじい基次郎もとじろうは、肺結核はいけっかくのため、わずか三十さんじゅう一歳いっさいの若わかさで夭折ようせつしたが、特異とくいな感覚かんかくを詩し情じょう豊ゆたかに表現ひょうげんした短編たんぺん作家さっかである。レモンを爆弾ばくだんに見立みたてて、「丸まる善ぜん」の洋よう書しょ売うり場ばに置おいて逃走とうそうする名作めいさく『檸檬れもん』で知しられるように、繊細せんさいかつ、いたずら好すきの一いち面めんもあったようで、自みずからの喀血かっけつをカラスのコップに入いれ、ぶどう酒さけだと言いって三好みよし達治たつじに見みせたという逸話いつわも残のこっている。伊藤いとう整せいも青春せいしゅん時代じだいを梶井かじいとともに過すごした一人ひとりで、「桜さくらの樹きの下したには屍体したいが埋うまっている!」で始はじまる「桜さくらの樹きの下したには」は、交こう流りゅう当時とうじ、伊藤いとう整せいらが褒ほめたので作品さくひんに結けつ実じつしたという。彼かれの作品さくひんは、伊藤いとう整せいの他ほか、三島みしま由紀夫ゆきおなど多おおくの作家さっかに影響えいきょうを与あたえることになった。

三好みよし達治たつじが梶井かじいの代表作だいひょうさくだと評価ひょうかする『城じょうのある町まちにて』は、彼かれの作品さくひんの中なかでは明あかるく健康けんこう的てきなイメージがする。「城じょう」とは、転地てんち療養りょうようのために赴おもむいた、義兄ぎけいの住すむ伊勢いせの松阪まつさかにあったもので、梶井かじいは毎日まいにちのように城跡じょうせきを歩あるいていたという。現在げんざいは、その城址じょうしに梶井かじいの文学ぶんがく碑ひが残のこされている。

確認かくにんテスト26
問とい 1

次つぎの空欄くうらんに当あてはまる語ごを、あとの①〜④からそれぞれ一ひとつずつ選えらべ(同おなじものは二に度ど使つかってはならない)。

  • ア 死しと[ ]な、危険きけんな仕事しごとに従事じゅうじする。
  • イ 「恥はじずかしい」という感情かんじょうを初はじめてもつのは、[ ]がつくのと同時どうじかもしれない。
  • ウ 店みせ先さきでうろうろしていたので、店員てんいんに[ ]な顔かおをされてしまった。
  • エ 自分じぶんの責任せきにんではないのに叱責しっせきされ、納得なっとくできず、[ ]だと感かんじた。
  • ①裏うら腹はら
  • ②怪訝けげん
  • ③理不尽りふじん
  • ④物心ものごころ
正解せいかいと解説かいせつ

ア=① / イ=④ / ウ=② / エ=③

ア:ここでは〈背中せなか合あわせ〉という意味いみ。

ウ:読よみ方かたに注意ちゅういしよう。

問とい 2

次つぎの傍線ぼうせん部ぶの意味いみを答こたえよ。

  • ア 彼女かのじょがこちらに視線しせんを走はしらせたような気きがしたが、それは刹せつ那なの出来事できごとだった。
  • イ 景けい気きが上昇じょうしょうしたとされても、得心とくしんがいかない国民こくみんも多おおいかもしれない。
  • ウ 他人たにんの迷惑めいわくをかえりみず大声おおごえで騒さわぐ人ひとたちには、閉口へいこうする。
  • エ 弱よわい人間にんげんや自分じぶんに自信じしんがない人間にんげんに限かぎって、居丈高いたけだかな態度たいどをとるものだ。
正解せいかいと解説かいせつ

ア=ほんの一瞬いっしゅん / イ=納得なっとくのいかない / ウ=手てに負おえなくなり困こまる / エ=相手あいてを威い圧あつする

イ:「得心とくしんがいく」という表現ひょうげんも覚おぼえておこう。

問とい 3

次つぎの空欄くうらんに当あてはまる語ごを、あとの①〜④からそれぞれ一ひとつずつ選えらべ(同おなじものは二に度ど使つかってはならない)。

  • ア 模試もしを受うけることは、その時点じてんでの弱点じゃくてんを見みつけるという意味いみもある。したがって、模試もしの復習ふくしゅうを[ ]にしてはいけない。
  • イ 特定とくてい秘密ひみつ保護ほご法ほうは、戦前せんぜんの治安ちあん維持いじ法ほうを[ ]とさせるものだという反対はんたいの声こえもあったものの、二〇にれい一いち四よん年ねん十二じゅうに月つきに施行しこうされた。
  • ウ 明あかるく振ふる舞まっているその様子ようすが逆ぎゃくに痛々いたいたしく感かんじられるのは、彼かれが[ ]を抱かかえていることを私わたしが知しっているからだ。
  • エ パリで感かんじたこと。日本人にほんじん女性じょせいがバシッと髪かみ型がたを決きめるのに対たいして、フランス人ひと女性じょせいのそれは妙みょうに[ ]に見みえた。
  • ①屈託くったく
  • ②髣ほう髴ふつ
  • ③無造作むぞうさ
  • ④なおざり
正解せいかいと解説かいせつ

ア=④ / イ=② / ウ=① / エ=③

イ:この文ぶんでは〈①ありありと想像そうぞうすること〉という意味いみ。

ウ:「屈託くったく」の、このような使つかい方かたも覚おぼえておこう。

二字漢語を、同義の字を重ねたもの、対の字を並べたもの、音を借りたものの三つに分けた図左の列は同義の字を重ねた語で、怪訝・艱難・諧謔・髣髴。中の列は対の字を並べた語で、裏腹・進退・表裏。右の列は音だけを借りた語で、刹那(サンスクリット語クシャナの音写)。下段には、字を足して語義になるのは左と中の二つだけだと記した。 二字漢語の三つの作り方HOW TWO CHARACTERS MAKE ONE WORD同義を重ねる怪 + 訝怪訝艱難諧謔髣髴対を並べる裏 と 腹裏腹進退表裏音を借りるkṣaṇa刹那字に意味はない旦那・娑婆も同じ字を足すと語義になる足せない字面から意味を取るまえに、どの作り方かを見分ける
作つくり方かたが分わかれば、辞書じしょより先さきに語ご義ぎが立たつ
Blank

腑ふに落おちない、と言いうとき、落おちてこないものはどこで止とまっているのか。頭あたまと腹はらのあいだに、何なにかが立たっているのだろうか。