Chapter 1-5

哲学てつがく・心理しんり

[ 原げん書しょ 第だい1部いちぶ 第だい5章ごしょう 哲学てつがく・心理しんり ]

語ご数すう 31 / 節せつ 18 / 1節いっせつ 約やく10〜15分ぶん

原げん書しょの導入どうにゅう

哲学てつがくとは何なにか

哲学てつがくとは何なにか

ヨーロッパでは、古代こだいギリシアから近代きんだい初頭しょとうまで、学問がくもんはすべて「哲学てつがく」とよばれていた。哲学者てつがくしゃとして名なを残のこした人々ひとびとは、政治せいじ・歴史れきし・数学すうがく・天文学てんもんがくなど、複数ふくすうの学問がくもんを研究けんきゅうするのが当あたり前まえだったのだ。

しかし、いざ「哲学てつがく」の中身なかみに踏ふみ込こむと、その内容ないようや論ろんじ方ほうは哲学者てつがくしゃによってさまざまだ。「宇宙うちゅうや自然しぜんは何なにからできているのか」「善ぜんとは何なにか」「私わたしはなぜ私わたしなのか」……、これらはいずれも過去かこの哲学者てつがくしゃたちが考かんがえてきた問題もんだいだが、一見いっけん、共通点きょうつうてんがとらえにくい。

では、「哲学てつがく」という営いとなみに共通きょうつうするものは何なにだろうか。それは、「物事ものごとを普遍的ふへんてきに説明せつめいする原理げんりを探究たんきゅうする」ということだ。

「普遍的ふへんてきに」というのは、ここでは〈誰だれもが納得なっとくするように〉という程度ていどの意味いみで受うけ取とってもらいたい。誰だれもが納得なっとくするような説明せつめいをするためには、論理ろんりを精密せいみつに組くみ立たてることが必要ひつようだ。それが、哲学てつがくを抽象的ちゅうしょうてきで難解なんかいなものにしてしまったとも言いえるが、哲学てつがくの基本的きほんてきな態度たいどが「普遍性ふへんせいの追究ついきゅう」にあることをまず押おさえておこう。

哲学てつがくにもトレンドがある

哲学てつがくには、時代じだいごとにトレンドのようなものがある。

古代こだいギリシアでは、宇宙うちゅうや自然しぜんが何なにからできているかといった自然しぜん哲学てつがくや、「善ぜんき生いき方かた」の探究たんきゅうなどが哲学者てつがくしゃの大おおきなテーマであったが、キリスト教きょうが成立せいりつした中世ちゅうせい以降いこうは、神かみの存在そんざいを根拠こんきょづけることが哲学てつがくの大おおきな課題かだいとなった。

それが近代きんだいになると、「認識論にんしきろん」とよばれる問題もんだいが哲学てつがくの一いち大だいテーマとなっていく。「認識論にんしきろん」とは、簡単かんたんに言いえば、自分じぶんが見みているリンゴ(主観しゅかん)と〈リンゴそのもの〉(客観きゃっかん)は、はたして同おなじなのかどうか、というような議論ぎろんのことだ。「同おなじに決きまっている」と思おもうかもしれないが、独断どくだんや偏見へんけんにとらわれている私わたしが見みているもの(主観しゅかん)は、そこに存在そんざいしているもの自体じたい(客観きゃっかん)ではない。

こうした主観的しゅかんてきな認識にんしきから逃のがれるため、思考しこう上じょうでの普遍性ふへんせいを追究ついきゅうする哲学者てつがくしゃは、両者りょうしゃの一致いっちを論理的ろんりてきに証明しょうめいしようとし、近代きんだい科学かがくは、実験じっけんや検証けんしょうによって、できるだけ「客観的きゃっかんてき」な認識にんしきの獲得かくとくを目指めざした。これは、たとえてみれば、記述きじゅつ式しきのテストでは採点さいてん者しゃの主観しゅかんが入はいるから、客観きゃっかん式しきにしようとするようなものだ。

絶対ぜったい確実かくじつな自己じこ

このような近代きんだいの認識論にんしきろんの幕まく開あけはデカルトから始はじまったと言いわれている。デカルトは、近代きんだいから現代げんだいに至いたるまで、非常ひじょうに大おおきな影響力えいきょうりょくを及およぼしている哲学者てつがくしゃだが、彼かれは認識にんしきの確たしかさを論証ろんしょうするために、「私わたし」にとって絶対ぜったい確実かくじつなものを探さがすことから哲学てつがくを始はじめた。

では、「私わたし」にとって絶対ぜったい確実かくじつなものとは何なにか。「私わたし」は疑ぎおうと思おもえば、何なにだって疑うたがうことができる。何なにかを見みたり触さわったりしているのも、夢ゆめの中なかの出来事できごとかもしれない。しかし、どれだけ疑うたがっても、「私わたし」が疑うたがっていると思おもっている事実じじつだけは動うごかない。これがあの有名ゆうめいな「我われ思おもう、ゆえに我われあり」という言葉ことばの意味いみする内容ないようである。

このデカルトの哲学てつがくによって、世界せかいを正ただしく認識にんしきする中心ちゅうしんである「自己じこ(自我じが)」が、哲学てつがくの中なかで大おおきな位置いちを占しめるようになり、社会しゃかいの中なかで「個人こじん」が尊重そんちょうされるようになることにつながっていく。

こうした近代的きんだいてき自我じがは、「自分じぶんとは何なにか」を問とうような新あらたな自じ意識いしきであり、その延長えんちょう上じょうに、現在げんざいさまざまに論ろんじられる「アイデンティティ」や「私わたし探さがし」などの問題もんだいもある。

近代きんだい科学かがくの礎いしずえとしての哲学てつがくと心理学しんりがくの誕生たんじょう

デカルトはまた、「精神せいしん(心こころ)と物質ぶっしつ(身体しんたい)とは、まったく別々べつべつのものだ」という考かんがえも打うち出だした。この考かんがえ方かたを心身しんしん二元にげん論ろんと言いう。

心身しんしん二元にげん論ろんは、近代きんだい全体ぜんたいにきわめて大おおきな影響えいきょうを与あたえた。たとえば、「自然しぜんは、神かみや精神せいしんとは無関係むかんけいであり、物質ぶっしつのみで成なり立たっている」と考かんがえる「機械論きかいろん的てき自然しぜん観かん」を生うみ出だし、これが、自然しぜんを支配しはいや操作そうさの対象たいしょうとしてみなす近代きんだい科学かがくの思想しそう的てき支柱しちゅうとなっていった。

一方いっぽうで、心身しんしん二元にげん論ろんに基もとづき、心こころを独立どくりつしたものとして扱あつかい考察こうさつする心理学しんりがくが誕生たんじょうした。さらに、実験じっけんによって心こころの動うごきを探さぐる実験じっけん心理学しんりがくや、心こころの病やまいを研究けんきゅうする精神せいしん分析ぶんせき学がくも確立かくりつされ、「無意識むいしき」などの新あたらしい概念がいねんが生うまれた。

Macro — 哲学史てつがくしの地図ちず

主題しゅだいは、こう移うつり変かわった

哲学史の四層古代・中世・近代・現代の四つの時代で、哲学の主題がどう移り変わったかを示した図。 古代 万物の原因・究極の真理を求める 水・火・原子・存在/プラトンのイデア 中世 唯一絶対の神が万物の創造主 神の存在証明/信仰のあり方 近代 認識が一大テーマとなる 私=認識する主体 / 認識される対象 二元論的な図式で世界を説明する 現代 関係性とシステムが主題になる 構造主義/絶対的な真理はないとする 私の認識も時代と文化に規定されている 認識論から関係性へ ── この移動が現代の知の潮流をつくった
古代こだい・中世ちゅうせい・近代きんだい・現代げんだい ── 哲学てつがくが何なにを問とうてきたか

哲学てつがくには時代じだいごとの主題しゅだいがある。古代こだいは万物ばんぶつの原因げんいんを、中世ちゅうせいは神かみを、近代きんだいは認識にんしきを問とうた。そして二十にじゅう世紀せいきに認識論にんしきろんが下火したびになると、関係かんけい性せいとシステムが主題しゅだいになる。この章しょうの三十さんじゅう一語いちごは、どれかの層そうに属ぞくしている。どの時代じだいの語ごかが分わかれば、その語ごが何なにと戦たたかっているかも見みえる。

近代哲学の主観と客観認識する主体としての私と、認識される対象としての世界という近代哲学の二元的な図式を示した図。 主観 認識する私 SUBJECT 認識する 客観 認識される対象 OBJECT この図式そのものが、近代という一つの時代の前提である。 二十世紀にはこの分裂の手前が問われ、関係性が主題となった。 世界を二つに割ったことが、近代の力であり、限界でもあった
近代きんだい哲学てつがくの主観しゅかんと客観きゃっかん

近代きんだいの中心ちゅうしんにあるのが、世界せかいを認識にんしきする私わたしと認識にんしきされる対象たいしょうに割わる図式ずしきである。この二に分ぶんが科学かがくを可能かのうにし、同時どうじに人間にんげんを世界せかいから切きり離はなした。現代げんだい思想しそうの多おおくは、この図式ずしきそのものを問とい直なおすところから始はじまっている。

Index — 16 sections

節せつ

  1. 01哲学てつがく
  2. 02主観しゅかん/客観きゃっかん
  3. 03心身しんしん二元にげん論ろん
  4. 04唯物論ゆいぶつろん
  5. 05認識にんしき
  6. 06知覚ちかく
  7. 07現象げんしょう/本質ほんしつ
  8. 08独我論どくがろん
  9. 09自我じが
  10. 10アイデンティティ
  11. 11モラトリアム
  12. 12カタルシス
  13. 13ペシミズム
  14. 14ロゴス/トラウマ
  15. 15コンプレックス/主体しゅたい/客体きゃくたい
  16. 16理性りせい/感かん性せい/形而上けいじじょう/ア・プリオリ/ア・ポステリオリ
  17. 17弁べん証しょう法ほう/命題めいだい
  18. 18実存じつぞん/倫理りんり/無意識むいしき/アンビヴァレンス
Section 01

哲学てつがく

88★★★

哲学てつがく

てつがく[2]中高なかだか型がた

語ご構成こうせい
哲てつあきらか・さとい+学がくまなび
定義ていぎ

世界せかいや人間にんげんなどの根本こんぽん原理げんりを追究ついきゅうする学問がくもん。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑88
原げん書しょの解説かいせつ

「哲学てつがく」は philosophy を翻訳ほんやくしたもので、philosophy はギリシア語ごの philosophia を語源ごげんとする。これは〈知ちを愛あいし求もとめる〉という意味いみである。

哲学てつがくが扱あつかう代表的だいひょうてきな主題しゅだいについて解説かいせつしよう。古代こだい・中世ちゅうせいの哲学者てつがくしゃにとっては、万物ばんぶつを生うみ出だす原因げんいんや究極きゅうきょくの真理しんりを求もとめることが哲学てつがくの主題しゅだいであった。たとえば、古代こだいギリシアの自然しぜん哲学者てつがくしゃたちは、万物ばんぶつの原因げんいんを「水みず」「火ひ」「原子げんし(アトム)」「存在そんざい」などと考かんがえた。また、ギリシアの哲学者てつがくしゃプラトン(紀元前きげんぜん427~前まえ347年しちねん)は「絶対的ぜったいてき真理しんり」を求もとめ、万物ばんぶつの本質ほんしつを「イデア」という概念がいねんで説明せつめいした。

キリスト教きょう誕生たんじょう以後いごの中世ちゅうせいでは、唯一ゆいいつ絶対ぜったいの神かみこそが万物ばんぶつの創造そうぞう主しゅであり、神かみの存在そんざいや信仰しんこうのあり方かたをめぐって、さまざまな論ろんが提出ていしゅつされた。

近代きんだいの哲学てつがくは「認識にんしき」が一いち大だいテーマであり、世界せかいは「私わたし=認識にんしきする主体しゅたい」と「認識にんしきされる対象たいしょう」という二元にげん論ろん的てきな図式ずしきとして説明せつめいされることになる。

こうした認識論にんしきろんは、二十にじゅう世紀せいきに入はいると下火したびになり、代だいわって「関係かんけい性せい」や「システム」が哲学てつがく・思想しそうの主題しゅだいとなっていく。たとえば構造こうぞう主義しゅぎとよばれる哲学てつがくでは、「私わたし」の認識にんしきや思考しこうも、ある時代じだいや文化ぶんかにおける物ものの見方みかたに規定きていされていると考かんがえる。したがって、絶対的ぜったいてきな真理しんりというものはなく、一切いっさいはさまざまな関係かんけい性せいから生しょうじたものにすぎないと考かんがえるのだ。

なお、関係かんけい性せいを重視じゅうしする思考しこうは、社会学しゃかいがく・歴史学れきしがくなど多おおくの学問がくもん分野ぶんやにも共有きょうゆうされ、現代げんだいの知ちの一いち大だい潮流ちょうりゅうとなっている。

使用しようの境界きょうかい

世界せかいや人間にんげんの根本こんぽん原理げんりを追究ついきゅうする学問がくもん。問とう者ものが問といから消きえない点てんで、他ほかの学問がくもんと区別くべつされる。

用法ようほう

語源ごげんはギリシア語ごの philosophia で〈知ちを愛あいし求もとめる〉の意い。原げん書しょの入試にゅうし文ぶんが示しめす要点ようてんは、諸学問しょがくもんが対象たいしょうを自分じぶんの向むこう側がわに置おくのに対たいし、哲学てつがくでは問とう人ひとが決けっして消きえないという点てんである。だから哲学てつがくは対象たいしょうが限定げんていされない。日常にちじょう語ごでは「経営けいえい哲学てつがく」「私わたしの哲学てつがく」のように〈信念しんねん・方針ほうしん〉の意いで軽かるく使つかわれるが、評ひょう論文ろんぶんではこの用法ようほうと読よみ分わける。「哲学的てつがくてきな問とい」は、答こたえが出でないことを含意がんいして使つかわれることもある。

用例ようれい
  • この男おとこよりは私わたしのほうが知恵ちえがある。なぜなら、この男おとこは知しらないのに知しっていると思おもっており、私わたしは知しらないことを知しらないと思おもっているからだ。つまり、その分ぶんだけ私わたしのほうが知恵ちえがあるらしい。プラトン『ソクラテスの弁明べんめい』(前四世紀ぜんよんせいき)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    哲学てつがくのはじまりが、知ちではなく無知むちだったという記録きろくである。注目ちゅうもくしたいのは、ソクラテスが「私わたしは何なにも知しらない」で終おえていないことだ。知しらないことを知しらないと知しっている、という一段いちだんの折おり返かえしが入はいっている。この折おり返かえしが哲学てつがくの構かまえそのものになる。諸学問しょがくもんは対象たいしょうを自分じぶんの向むこう側がわに置おいて調しらべるが、哲学てつがくでは、問とうている自分じぶんが問といから消きえない。「私わたしは知しっているのか」という問といに、外そとから答こたえてくれる人ひとはいない。だから哲学てつがくには対象たいしょうの限定げんていが無ない — 何なにを問とうても、最後さいごには問とう自分じぶんに戻もどってくるからである。
  • 我われ日本にほん古こより今いまに至いたる迄まで哲学てつがく無なし。中江なかえ兆ちょう民みん『一いち年ねん有ゆう半はん』(1901)
    余命よめい一いち年ねん半はんと宣告せんこくされた兆ちょう民みんが、死しの床ゆかで書かき残のこした一句いっくである。この断定だんていは、事実じじつの報告ほうこくではなく批判ひはんだ。仏教ぶっきょうも儒学じゅがくも国学こくがくもあった。兆ちょう民みんが「無なし」と言いったのは、ある体系たいけいの内側うちがわで答こたえを組くみ立たてる営いとなみはあっても、体系たいけいそのものを疑うたがって一いちから立たて直なおす営いとなみが無なかったという意味いみにおいてである。ここで彼かれは、哲学てつがくを知識ちしきの量りょうではなく問とい方ほうの型かたとして捉とらえている。そしてこの一句いっく自体じたいが、自分じぶんの属ぞくする文化ぶんかを外そとから見みて断だんずるという哲学的てつがくてきな身振みぶりになっている。無ないと言いえるのは、その欠如けつじょが見みえる場所ばしょに立たった者ものだけである。
  • 諸学問しょがくもんが対象たいしょうを自分じぶんの外そとに置おくのに対たいし、哲学てつがくでは問とう人ひとが決けっして消きえない。 原げん書しょの入試にゅうし文ぶんが示しめす要点ようてんである。だから哲学てつがくには対象たいしょうの限定げんていが無ない。物理学ぶつりがくは物ものを、経済学けいざいがくは経済けいざいを扱あつかうが、哲学てつがくは「扱あつかうとはどういうことか」まで扱あつかう。1-1 の 9 で見みた対象たいしょう化かが、ここでは自分自身じぶんじしんへ折おりり返かえされる。
  • △社しゃ員いんを大切たいせつにするのが当とう社しゃの哲学てつがくです。 通つうじるが、これは日常にちじょう語ごの用法ようほうで〈信念しんねん・方針ほうしん〉の意いである。評ひょう論文ろんぶんの哲学てつがくは根本こんぽん原理げんりを追究ついきゅうする学問がくもんを指さす。「その考かんがえの根拠こんきょまで問とうているか」を見みればよい — 問とうていなければ、それは方針ほうしんであって哲学てつがくではない。「経営けいえい哲学てつがく」「私わたしの哲学てつがく」はすべてこの層そうにある。
派生はせい形けい
  • 哲学的てつがくてき[0]二ふたつの用法ようほうが同居どうきょする。学問がくもんとしての哲学てつがくに属ぞくすることを指さす場合ばあいと、「答こたえの出でない、大だいがかりな」という日常的にちじょうてきな形容けいようとして使つかう場合ばあい。後者こうしゃはしばしば揶揄やゆを含ふくむ。
  • 哲学者てつがくしゃ[4]職業しょくぎょう名めいとしては近代きんだいのものである。ソクラテスは哲学者てつがくしゃを職業しょくぎょうにしていない。1-2 の 50 で見みた科学かがくの制度せいど化かと同おなじことが、哲学てつがくにも起おきた。
  • 哲学史てつがくし[3]哲学てつがくには歴史れきしが要いるという点てんが特徴的とくちょうてきだ。数学史すうがくしを知しらなくても数学すうがくはできるが、哲学てつがくは先行せんこうする問といへの応答おうとうとして書かかれる。問といが積つみ重かさなる形かたちの学問がくもんである。
コロケーション
  • 哲学的てつがくてきな問とい答こたえの出でなさ答こたえが出でないことを含意がんいして使つかわれることが多おおい。これは揶揄やゆではなく、問といの性質せいしつを正確せいかくに言いい当あてている。答こたえが出でれば、それは個別こべつの学問がくもんへ移うつっていく — 物理学ぶつりがくも心理学しんりがくも、かつては哲学てつがくの一部いちぶだった。哲学てつがくに残のこるのは、答こたえの出だし方ほうそのものが争あらそわれている問といだけである。
  • 知ちを愛あいし求もとめる語源ごげんからの理解りかいギリシア語ご philosophia は philein(愛あいする)+ sophia(知恵ちえ)。「知ちを持もつ」ではなく「愛あいし求もとめる」である。持もっていないから求もとめる。ソクラテスの無知むちの告白こくはくがこの語ごの内側うちがわにそのまま畳たたみ込こまれている。知者ちしゃではなく愛あい知者ちしゃと名乗なのったところに、この学問がくもんの姿勢しせいがある。
  • 哲学てつがくする動詞どうしとしての形かたち名詞めいしではなく営いとなみとして言いう言いい方かた。ドイツ語ごの philosophieren にならった形かたちで、訳語やくごとしては不自然ふしぜんだが定着ていちゃくした。哲学てつがくは学まなぶものではなく行おこなうものだという主張しゅちょうがこの動詞どうし形けいに込こめられている。カントの「哲学てつがくを学まなぶことはできない、哲学てつがくすることを学まなべるだけだ」という言葉ことばが背景はいけいにある。
  • 哲学てつがくと科学かがく対象たいしょうの外そとに立たてるか科学かがくは対象たいしょうを自分じぶんの外そとに置おける。観察かんさつ者しゃを式しきから消けしても結果けっかは変かわらない。哲学てつがくではそれができない。「認識にんしきとは何なにか」を問とうとき、問とうている当とうの認識にんしきも対象たいしょうに含ふくまれるからだ。93 の認識にんしき、97 の独我論どくがろんがむずかしいのは、この自己じこ言及げんきゅうから逃のがれられないためである。
格かく中なか

書かき言葉ことば・会話かいわの両方りょうほうで使つかえる。

類るい語ごと差さ
  • 思想しそう体系化たいけいかされた考かんがえ個人こじんや時代じだいがもつ考かんがえの内容ないよう。哲学てつがくは問とい方ほうそのものを問とう手続てつづきを含ふくむ。
  • 宗教しゅうきょう超越的ちょうえつてきなものへの信仰しんこう答こたえが啓示けいじとして与あたえられる。哲学てつがくは答こたえを理性りせいで組くみ立たてる。
  • 科学かがく経験けいけん的てき事実じじつにもとづく知ち対象たいしょうを自分じぶんの外そとに置おく。哲学てつがくは問とう自分じぶんを対象たいしょうから外はずさない。
  • 形而上学けいじじょうがく感覚かんかくを超こえたものを扱あつかう分野ぶんや哲学てつがくの一部いちぶ門もん。存在そんざいそのものを問とう領域りょういきを指さす。

ENphilosophy
ZH哲学(哲学, zhéxué)

哲学史の四層古代・中世・近代・現代の四つの時代で、哲学の主題がどう移り変わったかを示した図。 古代 万物の原因・究極の真理を求める 水・火・原子・存在/プラトンのイデア 中世 唯一絶対の神が万物の創造主 神の存在証明/信仰のあり方 近代 認識が一大テーマとなる 私=認識する主体 / 認識される対象 二元論的な図式で世界を説明する 現代 関係性とシステムが主題になる 構造主義/絶対的な真理はないとする 私の認識も時代と文化に規定されている 認識論から関係性へ ── この移動が現代の知の潮流をつくった
哲学史てつがくしの四よん層そう ── 主題しゅだいはこう移うつり変かわった
入試にゅうし文ぶん

様々さまざまな学問がくもんの「対象たいしょう」とは、それについて知識ちしきの獲得かくとくが目め指さされる相手あいてであり、知しろうとする人ひとの向むこう側がわに位置いちする何なにかである。ところが、哲学てつがくも何なにかについて問とい、答こたえを得とくようとする活動かつどうである点てんで、それは諸学問しょがくもんに通つうずる。けれども、哲学てつがくでは、問とう人ひと、答こたえを得える人ひとが消去しょうきょされることは決けっしてない。なぜなら、哲学てつがくの営いとなみにおいて人ひとは必かならずや己おのれとの関かかわりにおいて何なにかを問とうからである。そして、それゆえにまた、哲学てつがくでは、己おのれとはその何なにかとだけでなく諸々もろもろの一切いっさいのものと関かかわって生いきている存在そんざいである限かぎりで、何なにかを中心ちゅうしんに問といつつ一切いっさいを問題もんだいにするよう誘さそわれる。

出典しゅってん 松永まつなが澄夫すみお『哲学てつがくの覚醒かくせい』 / 出題しゅつだい センター本ほん試験しけん(国語こくごⅠ)

読解どっかいのポイント
  • 諸学問しょがくもんの対象たいしょう
  • 知しろうとする人ひとの向むこう側がわに位置いちする何なにか
  • 哲学てつがくの対象たいしょう
  • 限定げんていされない
  • 己おのれとの関かかわりにおいて、何なにかを問といつつ一切いっさいを問題もんだいにする
要約ようやく

哲学てつがくは、諸学問しょがくもんと異ことなり、己おのれとの関かかわりにおいて必かならず何なにかを問とう。したがって、己おのれと関かかわりのあるものはすべて問題もんだいとなるため、対象たいしょうが限定げんていされない。

語ご法ほうの観察かんさつ

「ところが」「けれども」「なぜなら」と接続せつぞく語ごを連つらねて、諸学問しょがくもんとの差さを一段いちだんずつ絞しぼり込こむ。論ろんの運はこびが接続せつぞく語ごだけで追おえる。

Section 02

主観しゅかん/客観きゃっかん

89★★★

主観しゅかん

しゅかん[0]平板へいばん型がた

語ご構成こうせい
主しゅあるじ・おもだつ+観かんみる
定義ていぎ

対象たいしょうを認識にんしきする自分じぶんの意識いしき。または、自分じぶんだけの感覚かんかくや考かんがえ。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑89
使用しようの境界きょうかい

対象たいしょうを認識にんしきする側がわの意識いしき。転てんじて、自分じぶんだけの感かんじ方ほう。認識にんしきする働はたらきそのものを指さす点てんが本ほん義ぎ。

用法ようほう

日常にちじょう語ごの「主観的しゅかんてき」は批判ひはん語ごで、〈個人こじんの思おもい込こみで客観きゃっかん性せいを欠かく〉という意味いみになる。だが哲学てつがく用語ようごとしての主観しゅかんは中立ちゅうりつで、認識にんしきする働はたらきそのものを指さす。この二に層そうを読よみ分わけるのが最初さいしょの関門かんもんになる。原げん書しょの入試にゅうし文ぶんは、主観しゅかんと客観きゃっかんがもともと分わかれていない主しゅ客きゃく合一ごういつの状態じょうたいから出発しゅっぱつし、それが分化ぶんかして主しゅ客きゃく対立たいりつになると述のべる。近代きんだい哲学てつがくがこの分裂ぶんれつを前提ぜんていにしてきたこと自体じたいを問とい直なおす文脈ぶんみゃくで使つかわれる。

用例ようれい
  • 純粋じゅんすい経験けいけんに於おては未いまだ知ち情じょう意いの分離ぶんりなく、唯一ゆいいつの活動かつどうであるように、また未いまだ主観しゅかん客観きゃっかんの対立たいりつもない。西田にしだ幾多郎きたろう『善ぜんの研究けんきゅう』(1911)
    主観しゅかんと客観きゃっかんは、はじめから分わかれていないという主張しゅちょうである。美うつくしい音楽おんがくに聴きき入はいっているとき、「私わたしが」「音おとを」聴きいている、と分わかれてはいない。聴きくという一ひとつの働はたらきがあるだけだ。西田にしだはそれを純粋じゅんすい経験けいけんと呼よび、主しゅ客きゃくの対立たいりつはそこから後あとで分化ぶんかしてくると考かんがえた。ここが重要じゅうようである。近代きんだい哲学てつがくは主観しゅかんと客観きゃっかんの分裂ぶんれつを出発点しゅっぱつてんとして与あたえられたものとして扱あつかってきた。西田にしだはそれを結果けっかとして扱あつかった。原げん書しょの入試にゅうし文ぶんが主しゅ客きゃく合一ごういつから主しゅ客きゃく対立たいりつへの分化ぶんかを述のべるとき、下敷したじきにあるのはこの構図こうずである。
  • 見所みどころより見みる所しょの風姿ふうしは、我わが離り見みなり。……離り見みの見みにて見みる所しょは、すなはち見所みどころ同心どうしんの見みなり。世阿弥ぜあみ『花鏡かきょう』(1424)
    観客かんきゃく席せきから見みえている自分じぶんの姿すがたを「離り見み」という。演者えんじゃは自分じぶんの目めでは自分じぶんの後うしろ姿すがたを見みられない。それでも見みなければならない。そこで世阿弥ぜあみは、自分じぶんを離はなれたところから見みる目めを持もてと説といた。ここで起おきているのは、主観しゅかんが自分自身じぶんじしんを客観きゃっかんの位置いちに置おき直なおすという離はなれ業ぎょうである。注目ちゅうもくしたいのは、離り見みの見みが「観客かんきゃくと同おなじ心こころの見み」だと言いわれている点てんだ。外そとから見みる目めは、他者たしゃの目めを借かりてはじめて成なり立たつ。一人ひとりでは自分じぶんを客観きゃっかんできない — 99 のアイデンティティが承認しょうにんを必要ひつようとするのも、同おなじ事情じじょうによる。
  • 哲学てつがく用語ようごとしての主観しゅかんは中立ちゅうりつで、認識にんしきする働はたらきそのものを指さす。 最初さいしょの関門かんもんがここにある。日常にちじょう語ごの「主観的しゅかんてき」は批判ひはん語ごで、〈個人こじんの思おもい込こみで客観きゃっかん性せいを欠かく〉という意味いみになる。だが哲学てつがくの主観しゅかんは、誰だれかが認識にんしきしている以上いじょうつねに働はたらいているもので、良よし悪あしの話はなしではない。この二に層そうを読よみ分わけるのが、この節せつの第一だいいち歩ほである。
  • ×自分じぶんの意志いしで決きめたのだから、そこには強つよい主観しゅかんがある。 意志いしで決きめる側がわは「主体しゅたい」である。主観しゅかんは認識にんしきする側がわを指さす。主観しゅかんは認識にんしきの主しゅ、主体しゅたいは行為こういの主しゅ — この差さが 106 で設問せつもんになる。英語えいごではどちらも subject なので、訳やく文ぶんを読よむときはとくに注意ちゅういしたい。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

反はん 90 客観きゃっかん

派生はせい形けい
  • 主観的しゅかんてき[0]日常にちじょう語ごでは批判ひはん、哲学てつがく語ごでは記述きじゅつ。この語幹ごかんでもっとも取とり違ちがえられやすい形かたちである。評ひょう論文ろんぶんでは、まず中立ちゅうりつ語ごとして読よんでみる。
  • 主観性しゅかんせい[0]性質せいしつとして取とり出だす形かたち。「主観しゅかん性せいを帯おびる」「主観しゅかん性せいが強つよい」と程度ていどで論ろんじられる。一人称いちにんしょうでしか語かたれない経験けいけんを扱あつかうときの鍵かぎになる。
  • 間主観性かんしゅかんせい[0]主観しゅかんと客観きゃっかんの対たいを組くみ替かえるための語ご。客観きゃっかんを「主観しゅかんの外そと」ではなく「主観しゅかんたちのあいだ」に置おき直なおす。1-3 の 63 のコード、1-2 の 48 のパラダイムと同おなじ発想はっそうである。
コロケーション
  • 主観的しゅかんてき二に層そうの代表だいひょう日常にちじょうでは批判ひはん語ご、哲学てつがくでは中立ちゅうりつ語ご。この分裂ぶんれつがもっともはっきり出でる形かたちである。「それは主観的しゅかんてきだ」と言いえば非難ひなんだが、「主観的しゅかんてき観念論かんねんろん」と言いえば立場たちばの名なにすぎない。批判ひはんとして使つかわれているか、位置いちを指さしているかを、まず判定はんていする。
  • 主しゅ客きゃくの分離ぶんり近代きんだいの出発点しゅっぱつてん認識にんしきする私わたしと、認識にんしきされる世界せかいをまず二ふたつに分わけるところから近代きんだい哲学てつがくは始はじまった。分わけたおかげで、「どうすれば正ただしく認識にんしきできるか」を問とえるようになった。同時どうじに、両者りょうしゃがなぜ届とどき合ごうえるのかが分わからなくなった。91 の心身しんしん二元にげん論ろんとまったく同おなじ形かたちの代償だいしょうである。
  • 間あいだ主観しゅかん性せい複数ふくすうの主観しゅかんのあいだ複数ふくすうの主観しゅかんのあいだで共有きょうゆうされるという性質せいしつ。客観きゃっかんを「主観しゅかんの外そとにあるもの」と定義ていぎすると届とどかなくなるので、「多おおくの主観しゅかんが一致いっちすること」で置おき換かえる試こころみである。フッサール以降いこうの語ごで、90 の客観きゃっかん②の用法ようほう(誰だれにとっても同おなじ)と同おなじ場所ばしょを別べつの言いい方かたで押おさえている。
  • 主観しゅかんを排はいする達成たっせいできない要求ようきゅう客観的きゃっかんてきであろうとする努力どりょくを指さすが、厳密げんみつには不可能ふかのうな要求ようきゅうでもある。認識にんしきするかぎり、認識にんしきする側がわは消きえない。だから実際じっさいに行おこなわれているのは排除はいじょではなく、手続てつづきを共有きょうゆうしてずれを小ちいさくすることである — 1-2 の 46 で見みた追つい検証けんしょうが、まさにその手続てつづきにあたる。
格かく中なか

書かき言葉ことば・会話かいわの両方りょうほうで使つかえる。

類るい語ごと差さ
  • 客観きゃっかん認識にんしきされる側がわ対たい語ご。認識にんしきする側がわとされる側がわという関係かんけいで分わかれる。
  • 主体しゅたい行為こういを起おこす側がわ☑106。主観しゅかんは認識にんしきの主しゅ、主体しゅたいは行為こういの主しゅ。この差さが設問せつもんになる。
  • 自我じが自分じぶんという意識いしき☑98。主観しゅかんは認識論にんしきろんの位置いち、自我じがは心理しんりと存在論そんざいろんの位置いち。
  • 私見しけん個人こじんの意見いけん日常にちじょう語ご。主観しゅかんは認識にんしきの枠組わくぐみそのものを指さす。

ENsubject / subjectivity
ZH主观(主観, zhǔguān)

90★★★

客観きゃっかん

きゃっかん[0]平板へいばん型がた

語ご構成こうせい
客きゃくまろうど・そと+観かんみる
定義ていぎ

① 自分じぶんの意識いしきと関かかわりなく存在そんざいする対象たいしょう。 ② 誰だれにとっても同おなじであること。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑90
使用しようの境界きょうかい

①意識いしきと関かかわりなく存在そんざいする対象たいしょう。②誰だれにとっても同おなじであること。二ふたつの用法ようほうが同居どうきょする。

用法ようほう

二ふたつの層そうがある。①主観しゅかんの外そとにあるものという存在論そんざいろんの用法ようほう。②誰だれが見みても同おなじという認識にんしきの性質せいしつを言いう用法ようほう。日常にちじょう語ごで「客観的きゃっかんてきに見みる」と言いうときは②で、肯定的こうていてきな評価ひょうか語ごになる。評ひょう論文ろんぶんでは①が中心ちゅうしんで、主観しゅかんとの対たいで出でる。読よみ方かたの注意ちゅうい点てんは「きゃっかん」という促音そくおんで、「かくかん」ではない。近代きんだい哲学てつがくはこの主観しゅかん/客観きゃっかんの分裂ぶんれつを出発点しゅっぱつてんに置おいたが、二十にじゅう世紀せいきにはその分裂ぶんれつ自体じたいが疑うたがわれるようになった。

用例ようれい
  • 凡ぼんそ人ひとの患かんひは、一いち曲きょくに蔽おおはれて大だい理りに闇やみきなり。『荀子じゅんし』解蔽篇かいへいへん
    人ひとの困こまりごとは、一ひとつの偏かたよりに覆おおわれて大おおきな道理どうりが見みえなくなることだ、という。「蔽おお(おお)う」という字じが的確てきかくである。偏かたよりは間違まちがいとして目めの前まえにあるのではなく、見みることそのものを覆おおっている。だから当人とうにんには見みえない。客観きゃっかんという語ごが要求ようきゅうしているのは、この覆おおいを外はずすことだ。ただし荀子じゅんしはこの後あと、覆おおいを外はずす方法ほうほうとして「心こころを虚きょ一いちにして静しずかにする」ことを説とく。方法ほうほうが要いるということは、客観きゃっかんが自然しぜんな状態じょうたいではないということである。放ほうっておけば人ひとは偏かたよる。客観きゃっかんは、努力どりょくして近ちかづくものであって、最初さいしょから与あたえられている場所ばしょではない。
  • この故こに、能のうを成なす人ひとは、目前もくぜん心こころ後ごと申さるして、目めを前まえに見みて、心こころを後あとに置おけとなり。世阿弥ぜあみ『花鏡かきょう』(1424)
    目めは前まえを見みながら、心こころは後うしろに置おけ、という。89 で引ひいた「離り見みの見み」に続つづく一句いっくである。自分じぶんの背中せなかを、自分じぶんの心こころで見みる。注目ちゅうもくしたいのは、これが抽象的ちゅうしょうてきな心得こころえではなく訓練くんれんの指示しじである点てんだ。客観きゃっかんは、才能さいのうでも性格せいかくでもなく、身みにつけられる技術ぎじゅつとして語かたられている。一方いっぽうでこの一句いっくは、客観きゃっかんという語ごの難所なんしょも照てらしている — 後うしろを見みている心こころは、いったいどこにあるのか。見みる位置いちをずらしても、ずらした位置いちを見みる者ものはやはり自分じぶんである。90 の①(意識いしきと関かかわりなく存在そんざいする対象たいしょう)に本当ほんとうに到達とうたつできるのかという問といは、ここから始はじまる。
  • 「きゃっかん」と読よむ。客観きゃっかんには、意識いしきの外そとにあるものという意味いみと、誰だれにとっても同おなじという意味いみがある。 二ふたつの層そうが同居どうきょしている。①は存在論そんざいろんの用法ようほうで、主観しゅかんの外そとにあるもの。②は認識にんしきの性質せいしつを言いう用法ようほうで、誰だれが見みても同おなじであること。日常にちじょう語ごの「客観的きゃっかんてきに見みる」は②で、肯定的こうていてきな評価ひょうか語ごになる。評ひょう論文ろんぶんでは①が中心ちゅうしんで、主観しゅかんとの対たいで出でる。読よみが「かくかん」ではないことも押おさえておきたい。
  • ×彼かれは感情かんじょうを交こうえず客観きゃっかんとして振ふる舞まった。 行為こういが向むけられる側がわなら「客体きゃくたい」、態度たいどを言いうなら「客観的きゃっかんてき」である。客観きゃっかんそのものは認識にんしきされる側がわを指さす名詞めいしで、人ひとの振ふる舞まいには使つかえない。客観きゃっかんは認識にんしきの対象たいしょう、客体きゃくたいは行為こういの対象たいしょう — 107 と合あわせて位置いちを固定こていしておきたい。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

反はん 89 主観しゅかん

派生はせい形けい
  • 客観的きゃっかんてき[0]実際じっさいの用法ようほうの主役しゅやく。「主観的しゅかんてき」が批判ひはん語ごであるのに対たいし、こちらはほぼ肯定こうてい語ごである。この非対称ひたいしょうが、近代きんだいがどちらを上うえに置おいてきたかを示しめしている。
  • 客観性きゃっかんせい[0]性質せいしつとして取とり出だす形かたち。「客観きゃっかん性せいを担保たんぽする」という言いい方かたにこの語ごの性格せいかくが出でている — 担保たんぽするとは、自然しぜんにはそうならないものを支ささえることである。
  • 客観視きゃっかんし[0]「視し」が主体しゅたいの働はたらきを加くわえる。自分じぶんを対象たいしょうの位置いちへ置おき直なおす操作そうさで、1-1 の 9 の対象たいしょう化かを自分じぶんに向むけた形かたちにあたる。
コロケーション
  • 客観的きゃっかんてきに見みる日常にちじょう語ごの主役しゅやく②の用法ようほうで、ほぼ無条件むじょうけんの褒ほめ言葉ことばとして通用つうようする。だが「誰だれにとっても同おなじ」ことは、実際じっさいには確たしかめようがない。確たしかめるには全員ぜんいんに聞きくほかないからだ。実際じっさいに行おこなわれているのは、手続てつづきを共有きょうゆうして一致いっちを作つくることである。客観きゃっかん性せいは発見はっけんされるものではなく、組くみ立たてられるものだと見みておくと、1-2 の 49 の中立ちゅうりつ性せいの議論ぎろんともつながる。
  • 客観きゃっかん性せい学問がくもんの要請ようせい誰だれが確たしかめても同おなじ結果けっかになるという性質せいしつ。科学かがくの手続てつづきは、これを作つくり出だすための工夫くふうの集積しゅうせきである。測定そくてい単位たんいを定さだめ、手順てじゅんを公開こうかいし、他人たにんに再現さいげんさせる。注意ちゅういしたいのは、客観きゃっかん性せいは倫理的りんりてきな善悪ぜんあくとは別べつの軸じくだということだ。1-2 の 49 で見みたとおり、客観的きゃっかんてきな知ちが中立ちゅうりつであるとは限かぎらない。
  • 客観きゃっかん視しする自分じぶんを外そとに置おく自分自身じぶんじしんを対象たいしょうの位置いちに置おき直なおすこと。世阿弥ぜあみの離り見みの見みと同おなじ操作そうさである。ただし完全かんぜんには成功せいこうしない — 見みる自分じぶんだけは、どうしても外そとに残のこってしまう。「自分じぶんを客観きゃっかん視しできる人ひと」という褒ほめ言葉ことばが厳密げんみつには成なり立たたないのは、そのためである。
  • 客観きゃっかんと客体きゃくたい認識にんしきか行為こういか客観きゃっかんは認識にんしきされる側がわ、客体きゃくたいは働はたらきかけられる側がわ。同おなじ「客きゃく」でも、対たいになる相手あいてが違ちがう — 客観きゃっかんは主観しゅかんと、客体きゃくたいは主体しゅたいと対たいをなす。英語えいごではどちらも object なので、訳語やくごがここで二ふたつに割われている。106・107 と合あわせて、四よん語ごを一いち枚まいの図ずに置おいておくと迷まよわない。
格かく中なか

書かき言葉ことば・会話かいわの両方りょうほうで使つかえる。

類るい語ごと差さ
  • 主観しゅかん認識にんしきする側がわ対たい語ご。認識にんしきされる側がわが客観きゃっかん。
  • 客体きゃくたい行為こういが向むけられる側がわ☑107。客観きゃっかんは認識にんしきの対象たいしょう、客体きゃくたいは行為こういの対象たいしょう。
  • 対象たいしょう意識いしきが向むけられるもの☑9。客観きゃっかんは主観しゅかんとの対たいで使つかい、対象たいしょうはより広ひろい。
  • 中立ちゅうりつどちらにも偏かたよらない立場たちばの話はなし。客観きゃっかんは認識にんしきの性質せいしつ。

ENobject / objectivity
ZH客观(客観, kèguān)

解説かいせつ ── 主観しゅかん・客観きゃっかん

物事ものごとを認識にんしきする「私わたし」のことを主体しゅたいと言いう。また、認識にんしきされる事物じぶつを客体きゃくたいと言いう。そして、主観しゅかんとは、「私わたし」が客体きゃくたいを認識にんしきする時ときの「私わたし」の意識いしきのことで、個別こべつ的てきで特殊とくしゅなものである。一方いっぽう、客観きゃっかんは、主観しゅかんの反対はんたいとして考かんがえるとわかりやすい。主観しゅかんが個別こべつ的てきな見方みかたや考かんがえ方かたであるから、客観きゃっかんは主観しゅかんから独立どくりつして存在そんざいすること、すなわち誰だれが見みても同おなじように見みえる(思おもわれる)ことである。

なお、例れい文ぶんのように、主観しゅかん/客観きゃっかんを、主体しゅたい/客体きゃくたいと同おなじ意味いみで用もちいることもある。

たとえば ── 主観しゅかん・客観きゃっかん

あなたが目めの前まえにあるリンゴを見みて、「おいしそう」「甘あまそう」と思おもっても、もしかしたら他ほかの人ひとはそう思おもわないかもしれない。だから「おいしそう」「甘あまそう」は、あなたの個人的こじんてきで特殊とくしゅな思おもいであり「主観的しゅかんてき」である。一方いっぽう、そのリンゴの重おもさや体積たいせきは、誰だれにとっても変かわらないものであり、「客観的きゃっかんてき」な性質せいしつである。

対立たいりつの軸じく

主観しゅかん/客観きゃっかん の軸じく = 認識にんしきする側がわか、される側がわか

主観しゅかん対象たいしょうを認識にんしきする自分じぶんの意識いしき。
認識にんしきする側がわか、される側がわか
客観きゃっかん意識いしきと関かかわりなく存在そんざいする対象たいしょう。
主客合一から主客分裂へ意識の根源にある主客一体の状態が分化して、主観と客観の対立が現れる過程を示した図。 主客合一 物我一如 意識の根源にある原初の世界 我を忘れて熱中している時 分化 主観 客観 意識するもの・知るもの 意識されるもの・知られるもの 主客対立・主客分裂 分裂は初めからあるのではない。分化した結果として現れる。
主しゅ客きゃく合一ごういつから主しゅ客きゃく分裂ぶんれつへ
近代哲学の主観と客観認識する主体としての私と、認識される対象としての世界という近代哲学の二元的な図式を示した図。 主観 認識する私 SUBJECT 認識する 客観 認識される対象 OBJECT この図式そのものが、近代という一つの時代の前提である。 二十世紀にはこの分裂の手前が問われ、関係性が主題となった。 世界を二つに割ったことが、近代の力であり、限界でもあった
近代きんだい哲学てつがくの主観しゅかんと客観きゃっかん
入試にゅうし文ぶん

私わたしが物もの(客観きゃっかん)を見みるというのは、結果けっかとして現あらわれてきた現象げんしょうである。私わたしという意識いしきは意識いしきされるもの(客観きゃっかん)なしにはありえず、客観きゃっかんも意識いしきするもの(主観しゅかん)なしにはない。そこで、人間にんげんがものごとを知しるという主観しゅかんと客観きゃっかんの関係かんけいの基礎きそには両者りょうしゃが一体いったいとなった状態じょうたいがあり、その原初げんしょの世界せかいがこの意識いしきの根源こんげんにある世界せかいであるといわれてきた。我々われわれが我われを忘わすれてものごとに熱中ねっちゅうしている時ときや、美うつくしい風景ふうけいにうっとり見み入はいっている時ときのことを考かんがえれば理解りかいしやすい。しかしこの例れいに限かぎらず、どのような場合ばあいにもそのような一体いったい化かした状態じょうたいが意識いしきの根源こんげんに存在そんざいしている。それが分化ぶんかした時とき、人間にんげんの意識いしきの世界せかいが現あらわれてくる。それは意識いしきするものとされるもの、知しるものと知しられるものの世界せかいである。これは、主しゅ客きゃく対立たいりつとか主しゅ客きゃく分裂ぶんれつとかいわれるが、私わたしと私わたしでないものの区別くべつが明瞭めいりょうとなる世界せかいである。

出典しゅってん 山やま下した勲いさお『世界せかいと人間にんげん』 / 出題しゅつだい センター本ほん試験しけん(国語こくごⅠ・Ⅱ)

読解どっかいのポイント
  • 意識いしきの根源こんげんにある原初げんしょの世界せかい
  • 主しゅ客きゃく合一ごういつ
  • 物我ぶつが一如いちにょ
  • ↓ 分化ぶんか
  • 主しゅ客きゃく対立たいりつ・主しゅ客きゃく分裂ぶんれつ
  • 主観しゅかん=意識いしきするもの
  • 客観きゃっかん=意識いしきされるもの
要約ようやく

主観しゅかんと客観きゃっかんという意識いしきの世界せかいの根源こんげんには、主しゅ客きゃく合一ごういつ・物我ぶつが一如いちにょという原初げんしょの世界せかいがあり、それが分化ぶんかした時とき、人間にんげんの意識いしきの世界せかいが現あらわれてくる。

語ご法ほうの観察かんさつ

「〜といわれてきた」で通説つうせつを置おき、「しかし」ではなく例示れいじで受うける。反論はんろんせずに、手前てまえの層そうを見みせることで通説つうせつを相対そうたい化かしている。

Section 03

心身しんしん二元にげん論ろん

91★★★

心身二元論しんしんにげんろん⚠

しんしんにげんろん[0]平板へいばん型がた

語ご構成こうせい
心こころこころ+身みからだ+二元にげん論ろん二ふたつの原理げんりで説とく立場たちば
定義ていぎ

人間にんげんを、精神せいしんと身体しんたい(物体ぶったい)との二ふたつに分わけて考かんがえること。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑91
原げん書しょの解説かいせつ

デカルトは、精神せいしんという心こころのはたらきと、広ひろがりや重おもさをもつ物体ぶったいという二ふたつによって世界せかいは成立せいりつしていると考かんがえた。このような考かんがえ方かたを物心ものごころ二元にげん論ろんとよび、この物心ものごころ二元にげん論ろんを人間にんげんに当あてはめたものが心身しんしん二元にげん論ろんである。

心身しんしん二元にげん論ろんでは、人間にんげんを精神せいしんと身体しんたいからなる存在そんざいと考かんがえるが、身体しんたいは精神せいしんよりも下位かいの価値かちしかもたないとされた。というのも、デカルト以来いらい、近代きんだいの哲学てつがくは、物事ものごとを正ただしく認識にんしきする精神せいしんのはたらきこそ人間にんげんを人間にんげんたらしめるものと考かんがえたからだ。そして、身体しんたいよりも精神せいしんを優位ゆういに置おくこうした思考しこうは、身体しんたいを機械きかいとみなす態度たいどにつながっていった。

コラム

精神せいしんと身体しんたいを別物べつものとする心身しんしん二元にげん論ろんは、人間にんげんの病やまいは機械きかいの故障こしょうと同様どうようであり、具合ぐあいの悪わるい身体しんたい部位ぶいを修理しゅうりすることで回復かいふくすると考かんがえる。こうした考かんがえに基もとづいて近代きんだい医学いがくは発展はってんしてきたが、同時どうじにその延長えんちょう上じょうには、近年きんねん議論ぎろんとなっている脳のう死しや臓器ぞうき移植いしょくの問題もんだいがある。我々われわれが脳のう死しや臓器ぞうき移植いしょくをすんなりと受うけ止とめられないのは、心身しんしん二元にげん論ろんのように人間にんげんをスッパリと割わり切きって考かんがえることができないからだろう。

使用しようの境界きょうかい

心こころと身体しんたいを別々べつべつの実体じったいとみなす立場たちば。両者りょうしゃの関係かんけいをどう説明せつめいするかという難問なんもんを必かならず抱かかえる。

用法ようほう

デカルトに帰かえされる立場たちばである。要点ようてんは、心こころを身体しんたいから切きり離はなしたことで身体しんたいが物体ぶったいとして研究けんきゅう可能かのうになったという帰結きけつにある。近代きんだい医学いがくと機械論きかいろん的てき自然しぜん観かんはここから出でた。同時どうじに、まったく別べつの実体じったいである心こころと身体しんたいがなぜ影響えいきょうし合あうのかという難問なんもん(心身しんしん問題もんだい)が残のこった。評ひょう論文ろんぶんではこの二元にげん論ろんが近代きんだいの前提ぜんていとして批判ひはんされる形かたちで現あらわれる。身体しんたいを物ものとして扱あつかったことが、人間にんげんの疎そ外がいや医療いりょうの非ひ人間にんげん化かを招まねいたという議論ぎろんに接続せつぞくする。

用例ようれい
  • 魂たましいは身体しんたいの全体ぜんたいに結むすびついてはいるが、その機能きのうをとくに脳のうの中央ちゅうおうにある小ちいさな腺せんにおいて行使こうしする。そこから精せい気きを通つうじて、身体しんたいのあらゆる部分ぶぶんへ働はたらきかけるのである。ルネ・デカルト『情念じょうねん論ろん』第だい三十さんじゅう一いち項こう(1649)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    心こころと身体しんたいをまったく別べつの実体じったいに分わけた当人とうにんが、その二ふたつがどうつながるのかを説明せつめいしようとした箇所かしょである。答こたえは、脳のうの中なかの小ちいさな腺せん(松果腺しょうかせん)だった。この解答かいとうは当時とうじから評判ひょうばんが悪わるく、いまも擁護ようごされていない。だが失敗しっぱいした解答かいとうであることこそが重要じゅうようだ。まったく別べつの実体じったいだと定義ていぎした以上いじょう、接点せってんを探さがすこと自体じたいが矛盾むじゅんしている。それでも探さがさざるをえない。心身しんしん問題もんだいと呼よばれるこの難問なんもんは、二元にげん論ろんが生うんだのではなく、二元にげん論ろんと同時どうじに生うまれた。1-2 の 43 で見みたとおり、分わけることは強力きょうりょくな方法ほうほうだが、分わけたあと組くみ直なおせるとはかぎらない。
  • 肢体したいを堕おとし、聡明そうめいを黜しりぞけ、形かたちを離はなれ知ちを去さり、大だい通つうに同どうず。此このれを坐忘ざぼうと謂いふ。『荘子そうし』大宗たいそう師し篇へん
    手足てあしを落おとし、耳目じもくのはたらきを退しりぞけ、形かたちを離はなれ知ちを去さって、大おおいなる通とおりへ溶とけ込こむ。これを坐忘ざぼうという。心こころと身体しんたいを分わけたうえで一方いっぽうを上うえに置おくという近代きんだいの構図こうずと比くらべると、ここでは両方りょうほうが同時どうじに落おとされている。形かたち(身体しんたい)と知ち(精神せいしん)が並ならべて置おかれ、どちらも手放てばなされる。優劣ゆうれつがついていないことに注目ちゅうもくしたい。デカルト以来いらいの近代きんだい哲学てつがくは、正ただしく認識にんしきする精神せいしんのはたらきこそ人間にんげんを人間にんげんたらしめると考かんがえた。だから身体しんたいは精神せいしんより下位かいに置おかれ、やがて機械きかいとして扱あつかわれるようになる。身体しんたいを物ものとみなす態度たいどの出発点しゅっぱつてんが、この序列じょれつにある。
  • 心こころを身体しんたいから切きり離はなしたことで、身体しんたいは物体ぶったいとして研究けんきゅうできるようになった。心身しんしん二元にげん論ろんは近代きんだい医学いがくの前提ぜんていでもある。 批判ひはんと成果せいかが同おなじ一ひとつのことから出でている点てんが要点ようてんである。身体しんたいを物ものとして扱あつかえたから解剖学かいぼうがくも生理学せいりがくも成なり立たった。同おなじ扱あつかいが、人間にんげんの疎そ外がいや医療いりょうの非ひ人間にんげん化かも招まねいた。1-1 の 21、1-2 の 42 と結むすんで読よむと、近代きんだい批判ひはんが単たんなる否定ひていではないことが見みえてくる。
  • ×心こころと体からだは別物べつものなのだから、心身しんしん二元にげん論ろんは科学的かがくてきに正ただしい。 二元にげん論ろんは実証じっしょうされた事実じじつではなく、世界せかいの説明せつめいのしかたを定さだめる立場たちばである。正ただしいか誤あやまりかではなく、それを採とるとどこまで説明せつめいでき、何なにが説明せつめいできなくなるかで評価ひょうかされる。1-2 の 42 の機械論きかいろんと同おなじで、「論ろん」が付つく語ごは主張しゅちょうであって観察かんさつではない。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

関せき 二元にげん

派生はせい形けい
  • 心身問題しんしんもんだい[3]二元にげん論ろんが残のこした難問なんもんの名な。問といに名なが付ついたということは、それが解とかれないまま受うけ継つがれているということでもある。現代げんだいの心こころの哲学てつがくは、いまもここから出発しゅっぱつする。
  • 心身一元論しんしんいちげんろん[0]対立たいりつする立場たちば。一元いちげんにする道みちは一ひとつではない点てんが要点ようてんで、唯物論ゆいぶつろんも、心こころと物ものを同一どういつの実体じったいの両面りょうめんと見みる立場たちばもここに含ふくまれる。
  • 心身相関しんしんそうかん医学いがく・心理学しんりがくの語ごで、心こころの状態じょうたいが身体しんたいの症状しょうじょうに現あらわれることを指さす。二元にげん論ろんを前提ぜんていにしたうえで両者りょうしゃの結むすびつきを経験けいけん的てきに扱あつかう形かたちで、哲学てつがくの難問なんもんを棚たな上あげにして先さきへ進すすむやり方かたである。
コロケーション
  • 心身しんしん問題もんだい解とけない宿題しゅくだいまったく別べつの実体じったいである心こころと身体しんたいが、なぜ影響えいきょうし合ごうえるのかという問とい。痛いたみという心こころの出来事できごとが、手てを引ひっ込こめるという物体ぶったいの運動うんどうを起おこす。この一点いってんが説明せつめいできない。デカルト以来いらい四百年よんひゃくねん、決着けっちゃくしていない。解とけないことが、かえって二元にげん論ろんの切きれ味あじを証明しょうめいしてもいる — 問といが立たてられたのは、二ふたつに分わけたからである。
  • 身体しんたいの劣位れつい序列じょれつの帰結きけつ精神せいしんを上うえ、身体しんたいを下したに置おいた序列じょれつ。そこから身体しんたいを機械きかいとみなす態度たいどが出でてきた。評ひょう論文ろんぶんが近代きんだいを批判ひはんするとき、この序列じょれつを起点きてんにすることが多おおい。労働ろうどうする身体しんたい、病やまいむ身体しんたい、老おいる身体しんたい — いずれも「精神せいしんの乗のり物もの」として扱あつかわれてきたものの取とり戻もどしが主題しゅだいになる。
  • 物心ものごころ二元にげん論ろんより広ひろい形かたち世界せかいを精神せいしんと物体ぶったいの二ふたつで説明せつめいする立場たちば。これを人間にんげんに当あてはめたのが心身しんしん二元にげん論ろんである。順序じゅんじょを押おさえておくと、自然しぜん観かんと人間にんげん観かんが一続ひとつづきだと分わかる。1-2 の 42 の機械論きかいろん的てき自然しぜん観かんは、この物心ものごころ二元にげん論ろんの物ものの側がわを引ひき受うけた形かたちにあたる。
  • 心身しんしん一元論いちげんろん対立たいりつする立場たちば心こころと身体しんたいを別べつの実体じったいとしない立場たちば。唯物論ゆいぶつろんはその一ひとつの形かたちで、心こころを物質ぶっしつのはたらきに還元かんげんする。別べつの形かたちとして、心こころと物ものを同おなじものの二ふたつの側面そくめんと見みる立場たちばもある。一元いちげんにする道みちが複数ふくすうあることが、92 の唯物論ゆいぶつろんを読よむときの見取みとり図ずになる。
格かく硬かた・学術がくじゅつ

論文ろんぶん・評ひょう論ろんでのみ使つかう。会話かいわでは不自然ふしぜん。

類るい語ごと差さ
  • 二元にげん論ろん二ふたつの原理げんりで世界せかいを説とく☑30。心身しんしん二元にげん論ろんはその代表的だいひょうてきな適用てきよう例れい。
  • 唯物論ゆいぶつろん物質ぶっしつだけを認みとめる☑92。心こころを物質ぶっしつに還元かんげんするので二元にげん論ろんを否定ひていする。
  • 機械論きかいろん自然しぜんを部品ぶひんの集あつまりと見みる☑42。心身しんしん二元にげん論ろんは身体しんたいを機械きかいとして扱あつかう道みちを開ひらいた。
  • 心身しんしん一元論いちげんろん心こころと身体しんたいを一ひとつと見みる対立たいりつ立場たちば。両者りょうしゃを別べつの実体じったいとしない。

ENmind-body dualism
ZH身心二元论(心身二元論, shēnxīn èryuánlùn)

日中にっちゅうのズレ

中国語ちゅうごくごでは 身心二元论 と、身みが先さき、心こころが後あとの語順ごじゅんになる。

日本語にほんごは「心身しんしん」、中国語ちゅうごくごは「身心しんしん」。同おなじ内容ないようを指さすが、二字にじの順序じゅんじょが逆ぎゃくである。

心身二元論とその帰結心と身体を別の実体とみなしたことで身体が研究対象となり、同時に心身問題が残されたことを示した図。 心 身体 別の実体として切り離す 身体は物体になる 近代医学・機械論的自然観 心身問題が残る まったく別の実体である二つが、 なぜ影響し合うのか。 切り離したことが力になり、切り離したことが難問を残した
切きり離はなしたことの、力ちからと難問なんもん
入試にゅうし文ぶん

ヨーロッパと日本にほんでは心こころ(精神せいしん)と体からだ(身体しんたい)の関係かんけいに違ちがいがあるとはよく言いわれることだ。ヨーロッパではデカルトの心身しんしん二元にげん論ろんに端的たんてきに示しめされているように心こころと体からだのあいだにはある種しゅの断絶だんぜつがある。

古ふるくはプラトンがソクラテスの口くちを借かりて『パイドン』のなかで魂たましいは不滅ふめつであり、生前せいぜんは「肉体にくたいという縛いましめ」に繋縛けいばくされている魂たましいが死後しごその縛いましめから解とき放はなたれて真実しんじつに達たっすることができると揚よう言げんした。プラトンのイデアの哲学てつがくは魂たましいの不滅ふめつを求もとめるものであったが、それと同時どうじに肉体にくたいは魂たましいにとっての繋縛けいばく(桎梏しっこく)と見みなす考かんがえ方かたの淵源えんげんでもあった。精神せいしんと身体しんたい、あるいは思考しこうと身体しんたいという二元にげん論ろんは魂たましいと肉体にくたいという二元にげん論ろんをその原型げんけいにもっている。そして魂たましいと肉体にくたいというこの二元にげん論ろんは超越ちょうえつへの憧憬どうけいによって支ささえられていたのだ。

精神せいしんと身体しんたいは相そう容いれない実体じったいである。身体しんたいとは邪魔者じゃまものである。身体しんたいとは欲望よくぼう(情念じょうねん)の「場ば」である。大だいまかに言いえばこれがヨーロッパの哲学てつがくを支配しはいしてきた通念つうねんであった。精神せいしんは身体しんたいという「牢獄ろうごく」に閉とじこめられているのだ。

出典しゅってん 野内やない良三りょうぞう『レトリックと認識にんしき』 / 出題しゅつだい 神田外語大学かんだがいごだいがく・外国語がいこくご学部がくぶ

読解どっかいのポイント
  • プラトンの哲学てつがく
  • 魂たましい=精神せいしん=不滅ふめつ
  • 肉体にくたい=身体しんたい=邪魔者じゃまもの・欲望よくぼうの「場ば」
  • 精神せいしんと身体しんたいを相そう容いれないものだと見みなす「心身しんしん二元にげん論ろん」
  • → ヨーロッパの哲学てつがくを支配しはいしてきた
要約ようやく

精神せいしんと身体しんたいを相そう容いれないものだと見みなす「心身しんしん二元にげん論ろん」が、ヨーロッパの哲学てつがくを支配しはいしてきた。

語ご法ほうの観察かんさつ

身体しんたいを「もの」として扱あつかう記述きじゅつが続つづいたあとで、その扱あつかいが何なにを可能かのうにしたかを述のべる。手続てつづきと帰結きけつを分わけて置おく型かた。

Section 04

唯物論ゆいぶつろん

92★★★

唯物論ゆいぶつろん

ゆいぶつろん[0]平板へいばん型がた

語ご構成こうせい
唯ただただ・それだけ+物ものもの+論ろん説とき方ほう・立場たちば
定義ていぎ

物質ぶっしつがすべての根源こんげんだとし、精神せいしんや意識いしきも物質ぶっしつの作用さようによるという考かんがえ。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑92
原げん書しょの解説かいせつ

存在そんざいするものはすべて物質ぶっしつでできており、精神せいしんや意識いしきも物質ぶっしつの作用さようであると考かんがえるのが唯物論ゆいぶつろんである。

「幸しあわせな人生じんせいを送おくるには、豊ゆたかな物質的ぶっしつてき生活せいかつが必要ひつようだ」というように、物質的ぶっしつてきに豊ゆたかな暮くらしに支ささえられているというのは唯物論ゆいぶつろん的てきな発想はっそうだ。しかし実際じっさいには、物質的ぶっしつてきには豊ゆたかになったにもかかわらず、現代人げんだいじんは不安ふあんな気持きもちを抱いだいているというように、唯物論ゆいぶつろん的てきな発想はっそうだけでは説明せつめいできない状況じょうきょうがある。

なお、哲学者てつがくしゃ・経済学けいざいがく者しゃのマルクス(1818~1883年さんねん)が唱となえた歴史れきし観かんに唯物ゆいぶつ史観しかんというものがあるが、これは、唯物論ゆいぶつろんの考かんがえ方かたを歴史れきしにも適用てきようして、法律ほうりつ・宗教しゅうきょう・哲学てつがく・芸術げいじゅつなどの発展はってんについて、物質ぶっしつの生産せいさんや流通りゅうつうの側面そくめんから考かんがえたものである。

使用しようの境界きょうかい

世界せかいの根本こんぽんを物質ぶっしつとみなし、精神せいしんも物質ぶっしつから説明せつめいする立場たちば。物ものを重おもんじる態度たいどのことではない。

用法ようほう

日常にちじょう語ごの「唯物ゆいぶつ的てき」は〈金かねや物ものばかり重おもんじる〉という意味いみで使つかわれるが、哲学てつがくの唯物論ゆいぶつろんは存在論そんざいろんの立場たちばであって態度たいどの話はなしではない。この混同こんどうが設問せつもんになる。評ひょう論文ろんぶんで重要じゅうようなのはマルクスの史し的てき唯物論ゆいぶつろんで、社会しゃかいの土台どだいを経済けいざい(生産せいさん関係かんけい)に置おき、思想しそうや制度せいどをその上部じょうぶ構造こうぞうとみなす。この枠組わくぐみが☑20 イデオロギーの議論ぎろんを支ささえる。観念論かんねんろんとの対たいで出でるので、意識いしきと物質ぶっしつのどちらを先さきに置おくかを見みる。

用例ようれい
  • 人間にんげんの意識いしきがその存在そんざいを規定きていするのではなく、逆ぎゃくに、人間にんげんの社会的しゃかいてき存在そんざいがその意識いしきを規定きていする。カール・マルクス『経済学けいざいがく批判ひはん』序じょ言げん(1859)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    唯物論ゆいぶつろんを歴史れきしと社会しゃかいに適用てきようした一文いちぶんである。何なにを考かんがえるかは、どういう暮くらしをしているかが決きめる。思想しそうが社会しゃかいを動うごかすのではなく、社会しゃかいのあり方かたが思想しそうを生うむ。注目ちゅうもくしたいのは「規定きていする」という語ごだ。作つくり出だすとも、影響えいきょうするとも書かいていない。枠わくを定さだめる、という意味いみである。だから個々人ここじんの考かんがえが一ひとつに決きまるわけではない。考かんがえられる範囲はんいのほうが決きまる。1-1 の 20 のイデオロギー、1-4 の 73 の文化ぶんかが「見方みかたを規定きていする」と語かたられるとき、その語かたり方ほうはこの一文いちぶんから来きている。
  • 人間にんげんは、その食たべるところのものである。ルートヴィヒ・フォイエルバッハ(1850)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    ドイツ語ごでは ist(である)と ißt(食たべる)が同おなじ音おとになる言葉遊ことばあそびでもある。精神せいしんの高こうみを語かたる前まえに、まず食たべているという事実じじつから始はじめよという主張しゅちょうだ。ここに唯物論ゆいぶつろんの入口いりぐちがある。ただし注意ちゅういしたい — この一句いっくは「物ものばかり重おもんじよ」とは言いっていない。言いっているのは、精神せいしんと呼よばれているものにも土台どだいがあるということである。日常にちじょう語ごの「唯物ゆいぶつ的てき」(金かねや物ものばかり重おもんじる)と哲学てつがくの唯物論ゆいぶつろんが混同こんどうされるのは、この一句いっくの見みかけの荒あらっぽさのせいでもある。存在論そんざいろんの立場たちばであって、態度たいどの話はなしではない。
  • 唯物論ゆいぶつろんは存在論そんざいろんの立場たちばであって、物ものを重おもんじる態度たいどのことではない。 この混同こんどうがそのまま設問せつもんになる。「唯物ゆいぶつ的てきな人ひと」と言いえば日常にちじょう語ごの批判ひはんだが、「唯物論ゆいぶつろんの立場たちば」と言いえば世界せかいの根本こんぽんを物質ぶっしつとみなす主張しゅちょうである。観念論かんねんろんとの対たいで出でるので、意識いしきと物質ぶっしつのどちらを先さきに置おくかを見みる。
  • ×彼かれはブランド品ひんばかり買かう。典型的てんけいてきな唯物論ゆいぶつろん者ものだ。 金かねや物ものを重おもんじる態度たいどなら「実じつ利り主義しゅぎ的てき」「物質ぶっしつ主義しゅぎ的てき」である。唯物論ゆいぶつろんは世界せかいが何なにでできているかについての主張しゅちょうで、買かい物ものの傾向けいこうとは関係かんけいがない。「世界せかいの根本こんぽんは何なにかと問とうているか」を見みればよい。問とうていなければ、それは態度たいどの話はなしである。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

反はん 唯心論ゆいしんろん/観念論かんねんろん

派生はせい形けい
  • 唯物論的ゆいぶつろんてき[0]立場たちばに属ぞくすることを示しめす形かたち。「唯物ゆいぶつ的てき」との一いち字じの差さが大おおきい — 「論ろん」が入はいれば哲学てつがくの話はなし、入はいらなければ態度たいどの話はなしになる。
  • 史的唯物論してきゆいぶつろん[0]唯物論ゆいぶつろんを歴史れきしに適用てきようした形かたち。「史し的てき」を冠かんむりすることで対象たいしょうが限定げんていされ、存在論そんざいろんから歴史れきし理論りろんへ移うつる。1-6 の近代きんだいを扱あつかう章しょうと直接ちょくせつつながる。
  • 観念論かんねんろん[0]対立たいりつする立場たちば。1-1 の 23 で見みたとおり、日常にちじょう語ごの「観念かんねん的てき」とは別物べつものである。意識いしきを先さきに置おくという主張しゅちょうであって、現実げんじつ離はなれしているという意味いみではない。
コロケーション
  • 史し的てき唯物論ゆいぶつろん歴史れきしへの適用てきよう社会しゃかいの土台どだいを経済けいざい(生産せいさん関係かんけい)に置おき、法律ほうりつ・政治せいじ・思想しそう・芸術げいじゅつをその上うえに建たつものとみなす歴史れきし観かん。唯物ゆいぶつ史観しかんともいう。この枠組わくぐみが 1-1 の 20 のイデオロギー論ろんを支ささえている — 支配しはい的てきな思想しそうが支配しはい階級かいきゅうの利益りえきを映うつすのは、土台どだいと上部じょうぶ構造こうぞうという配置はいちから出でてくる帰結きけつである。
  • 上部じょうぶ構造こうぞうと土台どだい建物たてものの比喩ひゆ経済けいざいが土台どだい、思想しそうや制度せいどがその上うえに建たつ、という比喩ひゆ。比喩ひゆであることに注意ちゅういしたい — 建物たてものなら上うえを替かえても土台どだいは残のこるが、社会しゃかいではそこまで単純たんじゅんに分わかれない。比喩ひゆが持もち込こんだ含ふくみをそのまま結論けつろんにしないことが、1-3 の 57 で見みた隠喩いんゆの読よみ方かたでもある。
  • 唯物論ゆいぶつろんと観念論かんねんろん順序じゅんじょの争あらそい意識いしきが先さきか、物質ぶっしつが先さきか。哲学史てつがくしを二に分ぶんしてきた対たいである。注意ちゅういしたいのは、これが「どちらが実在じつざいするか」の争あらそいではないことだ。どちらの立場たちばも両方りょうほうの存在そんざいを認みとめる。争あらそわれているのは説明せつめいの順序じゅんじょで、どちらから他方たほうを導みちびくかである。
  • 唯物ゆいぶつ的てき日常にちじょう語ごの顔かお金かねや物ものばかり重おもんじるという批判ひはん語ご。哲学てつがくの唯物論ゆいぶつろんとは無関係むかんけいである。この語ごが生うまれてしまったせいで、唯物論ゆいぶつろんという立場たちばそのものが俗ぞくっぽいものに見みえてしまう。訳語やくごが日常にちじょう語ごと衝突しょうとつした不幸ふこうな例れいで、1-4 の 82 の「独断どくだん」と同おなじ事故じこが起おきている。
格かく硬かた・学術がくじゅつ

論文ろんぶん・評ひょう論ろんでのみ使つかう。会話かいわでは不自然ふしぜん。

類るい語ごと差さ
  • 観念論かんねんろん意識いしきを先さきに置おく対立たいりつ立場たちば。☑23 観念かんねんと接続せつぞくする。世界せかいを成なり立たたせるのは意識いしきだとする。
  • 実在論じつざいろん対象たいしょうは意識いしきと独立どくりつに存在そんざいするとする存在そんざいの問題もんだい。唯物論ゆいぶつろんはその内容ないようを物質ぶっしつと限定げんていする。
  • 還元かんげん主義しゅぎ基礎的きそてきな層そうに還元かんげんして説明せつめいする☑43。唯物論ゆいぶつろんは心こころを物質ぶっしつに還元かんげんする立場たちばと言いえる。
  • 実じつ利り主義しゅぎ損得そんとくを重おもんじる日常にちじょう語ごの「唯物ゆいぶつ的てき」と混同こんどうされやすいが、まったく別べつの話はなし。

ENmaterialism
ZH唯物论(唯物論, wéiwùlùn)

中世の自然観と近代の自然観神が造った目的をもつ自然と、法則に従う物質としての自然という二つの自然観を対比した図。 中世 神 創造・目的を与える 自然(目的をもつ) なぜそうなるのかを問う 目的論的な説明 近代 神 後退する 自然(法則に従う物質) どのように動くのかを問う 因果による説明 「なぜ」から「どのように」へ ── 問いの形が変わった
中世ちゅうせいの自然しぜん観かんと近代きんだいの自然しぜん観かん
入試にゅうし文ぶん

「心霊しんれい」写真しゃしんに写うつるという時点じてんで、その、この世よならぬ何なにものかは、結局けっきょくこの世よの中なかの何なにものかであったと証明しょうめいされてしまうとは、どうして考かんがえないのであろうか。或あるいは、実体じったいは不可ふか知ち、不可触ふかしょくであるとしても、一時的いちじてきに物理的ぶつりてきな仮象かしょうを纏まとって顕けん現あらわすることはあり得えるという考かんがえ方かたであろうか。それならば一応いちおう筋すじは通とおっている。こうした考かんがえ方かたは、霊魂れいこんの再さい受じゅ肉にくを認みとめないキリスト教きょう社会しゃかいよりも、輪廻りんねのイメージが漠然ばくぜんと世俗化せぞくかされて残のこっている我わが国くにに於おいての方ほうが、受うけ容いれられやすいかもしれない。が、何なにれにせよ、私わたしが心霊しんれい写真しゃしんを巡めぐる現代人げんだいじんの反応はんのうの中なかに見み出だすものは、霊れい的てきな存在そんざいを科学的かがくてきに証明しょうめいしたいという近代的きんだいてきな欲求よっきゅうとともに、死後しごの生せいがあるとしても、それが何なにらかの形かたちで物質ぶっしつ性せいを帯おびているか、或あるいは物質ぶっしつとの接触せっしょく可能性かのうせいを有ゆうしているかでなければ、死しの不安ふあんは決けっして慰なぐさめられることはないという唯物論ゆいぶつろん的てきイデオロギーの倒錯とうさくした姿すがたである。

出典しゅってん 平野ひらの啓一郎けいいちろう「文明ぶんめいの憂鬱ゆううつ」 / 出題しゅつだい 法ほう政せい大学だいがく・文学ぶんがく部ぶ・経営けいえい学部がくぶ・人間にんげん環境かんきょう学部がくぶなど

読解どっかいのポイント
  • 心霊しんれい写真しゃしんをめぐる現代人げんだいじんの反応はんのうには、
  • 霊れい的てきな存在そんざいを科学的かがくてきに証明しょうめいしたいという近代的きんだいてきな欲求よっきゅう
  • 唯物論ゆいぶつろん的てきイデオロギーの倒錯とうさくした姿すがた
  • → 死しの不安ふあんを慰なぐさめる がある。
要約ようやく

心霊しんれい写真しゃしんをめぐる現代人げんだいじんの反応はんのうには、霊魂れいこんを科学的かがくてきに証明しょうめいしたいという近代的きんだいてきな欲求よっきゅうと、唯物論ゆいぶつろん的てきイデオロギーの倒錯とうさくとがある。

語ご法ほうの観察かんさつ

対立たいりつする立場たちばを先さきに置おいてから自説じせつを述のべる。読者どくしゃに座標ざひょうを渡わたしてから内容ないように入はいる書かき方かたになっている。

Section 05

認識にんしき

93★★★

認識にんしき⚠

にんしき[0]平板へいばん型がた

語ご構成こうせい
認にんみとめる+識しきしる・わきまえる
定義ていぎ

物事ものごとの本質ほんしつ・意義いぎなどを理解りかいすること。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑93
原げん書しょの解説かいせつ

外界がいかいからの刺激しげきや情報じょうほうを視覚しかくや聴覚ちょうかくで受うけ止とめるだけの「感覚かんかく」の段階だんかいから、何なにかが見みえる・聞きこえるという「意識いしき」の段階だんかいへ進すすむ。だが、この時とき、見みえたり聞きこえたりしている対象たいしょうが何なになのかは、漠然ばくぜんとしていてまだ名なづけることができない。見みているものが「海うみ」であり、聞きこえているのは「波なみの音おと」なのだとはっきり理解りかいされた時ときに、それは認識にんしきとなる。

例れい文ぶんに即そくして言いえば、「あるもの」を「有意ゆうい味あじ性せいの網あみの目めの中なかへ秩序ちつじょづけ」て、「自我じがのうちに取とり込こむ」ということである。さらに多おおくの認識にんしきが蓄たくわえられていけば、「知識ちしき」や「常識じょうしき」となる。

なお、心理学しんりがくの世界せかいでは、認識にんしきは認知にんちとよばれることが多おおい。現在げんざいの時間じかんや自分じぶんがいる場所ばしょがわからなくなる、というような、認知にんちに支障ししょうが現あらわれる病気びょうきを認知症にんちしょうと言いう。

使用しようの境界きょうかい

対象たいしょうを捉とらえて意味いみづけ、知ちとして持もつこと。感覚かんかくに触ふれるだけでは足たりず、判断はんだんを伴ともなう。

用法ようほう

近代きんだい哲学てつがくの一いち大だいテーマである。要点ようてんは、認識にんしきが受うけ取とるだけの受動じゅどう的てきな作業さぎょうではないことにある。カント以降いこうは、対象たいしょうがそのまま写うつるのではなく、認識にんしきする側がわの枠組わくぐみが対象たいしょうの見みえ方かたを決きめるとされる。この考かんがえが☑67 分節ぶんせつや☑48 パラダイムと同おなじ構図こうずをつくる。「認識にんしきを新あらたにする」「認識にんしきが甘あまい」は日常にちじょうでも使つかうが、評ひょう論文ろんぶんでは認識論にんしきろんの文脈ぶんみゃくで読よむ。中国語ちゅうごくごの 认识 とは重心じゅうしんがずれるので注意ちゅういを要ようする。

用例ようれい
  • これまで、我々われわれの認識にんしきはすべて対象たいしょうに従じゅうわねばならないと想定そうていされてきた。……ならば一度いちど、対象たいしょうのほうが我々われわれの認識にんしきに従したがうと想定そうていしてみたらどうなるかを試ためしてみよう。イマヌエル・カント『純粋じゅんすい理性りせい批判ひはん』第だい二に版はん序文じょぶん(1787)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    コペルニクス的てき転回てんかいと呼よばれる箇所かしょである。それまで、認識にんしきとは対象たいしょうを写うつしとることだと考かんがえられていた。カントはそれを逆ぎゃくさにした — 対象たいしょうがそのまま写うつるのではなく、認識にんしきする側がわの枠組わくぐみが対象たいしょうの見みえ方かたを決きめている。色いろ眼鏡めがねをかけているのではない。眼めそのものが世界せかいの見みえ方かたを作つくっているのだ。この転回てんかいが二百年にひゃくねん後ごまで効きいている。1-3 の 67 の分節ぶんせつ(言語げんごが世界せかいに切きれ目めを入いれる)も、1-2 の 48 のパラダイム(枠わくが観察かんさつを決きめる)も、同おなじ形かたちをしている。枠わくが先さきにあって、経験けいけんがそのあとに来くる。
  • 心こころは、いわば文字もじの書かかれていない白紙はくしであり、観念かんねんを欠かいていると想定そうていしよう。では、それはどのようにして満みたされるのか。……一語いちごで答こたえよう、経験けいけんからである。ジョン・ロック『人間にんげん知性ちせい論ろん』第だい二に巻かん(1690)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    カントの百年ひゃくねん前まえに書かかれた、正反対せいはんたいの見立みたてである。心こころは白紙はくし(タブラ・ラサ)で、経験けいけんがそこに書かき込こむ。枠わくは無ない。あるのは受うけ取とる場所ばしょだけだ。この二ふたつを並ならべると、近代きんだい哲学てつがくが何なにを争あらそっていたかが分わかる。知ちは外そとから来くるのか、内側うちがわの形かたちが決きめるのか。注目ちゅうもくしたいのは、ロックの立場たちばが政治せいじにつながっていたことだ。生うまれつきの観念かんねんが無ないなら、生うまれつきの身分みぶんも、生うまれつきの権威けんいも根拠こんきょを失うしなう。白紙はくしという比喩ひゆは、認識論にんしきろんであると同時どうじに平等びょうどうの主張しゅちょうでもあった。111・112 で扱あつかうア・プリオリとア・ポステリオリの対たいは、この争あらそいの整理せいりされた形かたちにほかならない。
  • 海うみを見みて「波なみの音おと」だと分わかったとき、それは感覚かんかくから認識にんしきへ移うつっている。 原げん書しょの説明せつめいに沿そった文ぶんである。感覚かんかく → 意識いしき → 認識にんしきという段階だんかいを押おさえておくと位置いちが定さだまる。見みえている・聞きこえているだけでは足たりない。それが何なにであるかが分わかったとき、はじめて認識にんしきになる。つまり認識にんしきには名なづけが要いる — ここで 1-3 の 67 の分節ぶんせつと手てを結むすぶ。
  • ×光ひかりが目めに入はいった。これが認識にんしきである。 刺激しげきを受うけ取とるだけなら「感覚かんかく」、まとまりとして捉とらえるところまでなら「知覚ちかく」である。認識にんしきは意味いみづけて知ちとして持もつところまでを指さす。「それが何なにであるかが分わかったか」を問とえばよい。94 と合あわせて三さん段だんの位置いちを固定こていしておくと、この節せつの設問せつもんはほぼ落おとさない。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

関せき 認知にんち

派生はせい形けい
  • 認識論にんしきろん[0]知ちの成なり立たちと限界げんかいを問とう分野ぶんや。存在論そんざいろん(何なにがあるか)と対たいになる。近代きんだい哲学てつがくは存在論そんざいろんから認識論にんしきろんへ重心じゅうしんを移うつした — その転換点てんかんてんにいるのがカントである。
  • 認識的にんしきてき[0]「認識にんしきのうえでの」という限定げんていを示しめす。「認識にんしき的てきな問題もんだいであって、実在じつざいの問題もんだいではない」のように、議論ぎろんの層そうを切きり分わけるために使つかう。
  • 再認識さいにんしき[0]すでに知しっていたことを改あらためて捉とらえ直なおすこと。1-1 の 14 の自明じめい性せいと接せっしている — 再さい認識にんしきが起おきるのは、問とわれないまま通とおっていたものが問といの場ばへ引ひき出だされたときである。
コロケーション
  • 認識論にんしきろん知ちを問とう分野ぶんや何なにをどこまで知しりうるかを問とう哲学てつがくの一分いっぷん野の。近代きんだい哲学てつがくの一いち大だいテーマである。面白おもしろいのは、この問とい自体じたいが認識にんしきの一種いっしゅだということだ。認識にんしきについて認識にんしきしようとしている。88 で見みた「問とう自分じぶんが消きえない」性質せいしつが、ここでもっとも濃こく現あらわれる。
  • 認識にんしきの枠組わくぐみカント以後いごの常識じょうしき対象たいしょうがそのまま写うつるのではなく、受うけ取とる側がわの形かたちが見みえ方かたを決きめるという考かんがえ。いまではあまりに当あたり前まえになったが、これが提案ていあんだったことを思おもい出だしておきたい。1-2 の 48 のパラダイム、1-3 の 67 の分節ぶんせつ、1-4 の 73 の文化ぶんか — いずれもこの枠組わくぐみ論ろんの子孫しそんである。
  • 認識にんしきを新あらたにする日常にちじょう語ごの形かたち考かんがえを改あらためるという意味いみで日常にちじょうでも使つかう。「認識にんしきが甘あまい」も同おなじ層そうである。評ひょう論文ろんぶんの認識論にんしきろん的てきな用法ようほうとは重おもさが違ちがうので、まずどちらの層そうかを決きめる。哲学てつがくの文脈ぶんみゃくなら、この語ごは知ちの成なり立たちそのものを指さしている。
  • 認識にんしきと認知にんち分野ぶんやの違ちがい認識にんしきは哲学てつがく、認知にんちは心理学しんりがく・認知にんち科学かがくの語ご。扱あつかう対象たいしょうは重かさなるが、問といが違ちがう。認知にんちはどう処理しょりされているかを問とい、認識にんしきはそれが本当ほんとうに知ちと言いえるのかを問とう。真偽しんぎの問題もんだいを含ふくむかどうかが分わかれ目めである。
格かく硬かた

書かき言葉ことば。会話かいわでは不自然ふしぜん。

類るい語ごと差さ
  • 知覚ちかく感覚かんかく器官きかんで捉とらえる☑94。認識にんしきの手前てまえの段階だんかい。判断はんだんが加くわわって認識にんしきになる。
  • 理解りかい筋道すじみちが分わかる内容ないようの把握はあく。認識にんしきは対象たいしょうを知ちとして持もつこと全般ぜんぱんを指さす。
  • 意識いしき気きづいている状態じょうたい働はたらきの場ば。認識にんしきはその働はたらきの結果けっかとして得とくられる知ち。
  • 認知にんち情報じょうほうを処理しょりして捉とらえる心理学しんりがく・認知にんち科学かがくの語ご。認識にんしきは哲学てつがくの語ごで、真偽しんぎの問題もんだいを含ふくむ。

ENcognition / knowledge
ZH认识(知っている・見知っている, rènshi)

日中にっちゅうのズレ

中国語ちゅうごくごの 认识(rènshi)は日常にちじょう語ごで、「知しり合あいである」「見み知しっている」の意いが中心ちゅうしんである(我认识他)。

哲学てつがく用語ようごとしての「認識にんしき」は 认知(rènzhī)、認識論にんしきろんは 认识论(rènshílùn) が対応たいおうする。

感覚・知覚・認識の三段階刺激を受け取る感覚、まとまりとして捉える知覚、意味づけて知として持つ認識という三段階を示した図。 感覚 刺激を受け取る 知覚 まとまりとして捉える 認識 意味づけて知として持つ 光・音・圧 赤い丸いもの これはリンゴである カント以降は、認識する側の枠組みが対象の見え方を決めるとされる。 受け取るだけの受動的な作業ではない。 分節(☑67)・パラダイム(☑48)と同じ構図がここにある
感覚かんかく・知覚ちかく・認識にんしきの三さん段階だんかい
入試にゅうし文ぶん

たとえば、いま私わたしが使用しようしているパソコンはパソコン以上いじょうのなにものでもなく、パソコン以下いかのなにものでもない。鉛筆えんぴつも消けしゴムもパンも自動車じどうしゃもあなたも同様どうようにこの意味いみで全体ぜんたい化かされた存在そんざい者しゃである。それらは、「それっきりの自己じこ同一性どういつせい」のうちにある。

それでは、この自己じこ同一性どういつせいとはなにか。それは、私わたしがそれらのものをそのようなものとして認識にんしきした、ということに他ほかならない。認識にんしきするとは、あるものを一定いっていの普遍ふへん概念がいねんによって把握はあくすることであり、平ひらたく言いえば、それを型かたに嵌はめるということである。理性りせいとしての私わたしが認識にんしきという態度たいどで世界せかいと関かかわるとき、私わたしはあらゆるものを普遍ふへん概念がいねんによって整理せいり統合とうごうし、私わたしの張はりめぐらせた有意ゆうい味あじ性せいの網あみの目めの中なかへ、秩序ちつじょづける。それによって、私わたしはすべての存在そんざい者しゃを自我じがのうちに取とり込こむのである。

私わたしは世界せかいを食たべて自己じこを太ふとらせるのである。この取とり込こみによって、私わたしは認識にんしきされたものを道具どうぐ化かする。

出典しゅってん 岩いわ田た靖夫やすお『ギリシア哲学てつがく入門にゅうもん』 / 出題しゅつだい 愛あい知ち教育きょういく大学だいがく

読解どっかいのポイント
  • 認識にんしきする = 一定いっていの普遍ふへん概念がいねんによって把握はあくする(型かたに嵌はめる) ↓ 普遍ふへん概念がいねんによって整理せいり統合とうごうし、秩序ちつじょづける ↓ すべての存在そんざい者しゃを自我じがのうちに取とり込こむ ↓ 認識にんしきされたものを道具どうぐ化かする
要約ようやく

認識にんしきするとは、あるものを一定いっていの普遍ふへん概念がいねんによって把握はあくすることである。あらゆるものを普遍ふへん概念がいねんによって整理せいり統合とうごうし、秩序ちつじょづけることにより、すべての存在そんざい者しゃを自我じがのうちに取とり込こむ。

語ご法ほうの観察かんさつ

「〜のである」が理由りゆうづけを担にない、記述きじゅつを説明せつめいに変かえる。前文ぜんぶんを根拠こんきょとして読よませる標識ひょうしき。

Section 06

知覚ちかく

94★★

知覚ちかく

ちかく[0]平板へいばん型がた

語ご構成こうせい
知ちしる+覚さとしおぼえる・さとる
定義ていぎ

感覚かんかく器官きかんの働はたらきによって、外界がいかいの事物じぶつや身体しんたいの状態じょうたいを知しる働はたらき。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑94
原げん書しょの解説かいせつ

知覚ちかくをもたらす感覚かんかくには、視覚しかく・聴覚ちょうかく・触覚しょっかく・嗅覚きゅうかく・味覚みかくなどがある。意識いしきや認識にんしきが、視覚しかくや聴覚ちょうかく・触覚しょっかくといった感覚かんかくから切きり離はなされても成なり立たつ概念がいねんであるのに対たいして、知覚ちかくは、感覚かんかくに個人こじんの体験たいけんや判断はんだんを加くわえたものと理解りかいすればわかりやすい。

たとえば、虫歯むしばでもないのに歯はが痛いたくなる「知覚ちかく過敏かびん」という症状しょうじょうを考かんがえてみよう。ズキン!という感覚かんかくを受うけ止とめ、自分じぶんは冷つめたいアイスを食たべる時ときだけ歯はが痛いたくなると自覚じかくすることが、知覚ちかくなのである。

使用しようの境界きょうかい

感覚かんかく器官きかんを通とおして外界がいかいを捉とらえること。捉とらえるところまでで、意味いみづけや判断はんだんは含ふくまない。

用法ようほう

感覚かんかく → 知覚ちかく → 認識にんしきという段階だんかいで押おさえると位置いちが定さだまる。感覚かんかくは刺激しげきを受うけ取とること、知覚ちかくはそれをまとまりある対象たいしょうとして捉とらえること、認識にんしきは意味いみづけて知ちとして持もつこと。評ひょう論文ろんぶんでは、知覚ちかくできる範囲はんいが限かぎられているという主張しゅちょうの形かたちで出でることが多おおい。人間にんげんが見みているのは可視かし光線こうせんだけであり、世界せかいのごく一部いちぶにすぎない。ここから☑3 具体ぐたい(知覚ちかくし得える形かたちをもつ)や☑95 現象げんしょうの議論ぎろんにつながる。

用例ようれい
  • 目めが太陽たいようのようなものでなかったら、どうして我々われわれは光ひかりを見みることができようか。ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ『色彩しきさい論ろん』序じょ(1810)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    プロティノス以来いらいの詩句しくをゲーテが引ひいたものである。見みるためには、見みる側がわにすでに光ひかりに応おうじる何なにかが備そなえわっていなければならない。これは知覚ちかくという語ごのいちばん深ふかいところに触ふれている。目めは世界せかいを受うけ取とる窓まどではない。受うけ取とれるようにできている装置そうちである。だから装置そうちが受うけ取とれないものは、世界せかいにあっても無ないのと同おなじになる。人間にんげんが見みているのは可視かし光線こうせんだけで、赤外線せきがいせんも紫外線しがいせんもそこには無ない。知覚ちかくできる範囲はんいが世界せかいの広こうさを決きめてしまう — この事実じじつが、95 の現象げんしょうや 1-1 の 3 の具体ぐたい(知覚ちかくし得える形かたちをもつ)の議論ぎろんの土台どだいになっている。
  • 目めと耳みみは、野蛮やばんな魂たましいを持もつ人間にんげんにとっては、悪あしき証人しょうにんである。ヘラクレイトス 断片だんぺん(前まえ六ろく〜五ご世紀せいき)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    感覚かんかくそのものを退しりぞけているのではない。「野蛮やばんな魂たましいを持もつ人間にんげんにとっては」という条件じょうけんが付ついている点てんに注目ちゅうもくしたい。同おなじものを見みても、受うけ取とる側がわの準備じゅんびしだいで証言しょうげんの価値かちが変かわる。ここに知覚ちかくの位置いちが正確せいかくに示しめされている。知覚ちかくは認識にんしきの材料ざいりょうを提供ていきょうするが、材料ざいりょうのままでは知ちにならない。感覚かんかく → 知覚ちかく → 認識にんしきという段階だんかいのうち、知覚ちかくはまとまりとして捉とらえるところまでで、意味いみづけと判断はんだんはまだ来きていない。ヘラクレイトスの「悪あしき証人しょうにん」は、材料ざいりょうを材料ざいりょうのまま結論けつろんにしてしまう危あやうさを言いっている。
  • 虫歯むしばでもないのに冷つめたいもので歯はが痛いたむ。その痛いたみを自分じぶんの症状しょうじょうとして捉とらえるところまでが知覚ちかくである。 原げん書しょが挙あげる知覚ちかく過敏かびんの例れいである。ズキンという刺激しげきを受うけ取とるのが感覚かんかく、それを「冷つめたいものを食たべたときの痛いたみ」というまとまりとして捉とらえるのが知覚ちかく。さらに病名びょうめいとして意味いみづければ認識にんしきになる。三さん段だんが同おなじ出来事できごとの中なかで連続れんぞくしているので、境目さかいめは例れいで覚おぼえるのが早はやい。
  • ×人間にんげんが見みているのは可視かし光線こうせんだけなので、世界せかいは知覚ちかくできない。 一部いちぶしか知覚ちかくできないことと、知覚ちかくできないことは違ちがう。この文ぶんは、限界げんかいの指摘してきを全ぜん否定ひていにすり替かえている。評ひょう論文ろんぶんが知覚ちかくの限界げんかいを語かたるのは、見みえているものが全部ぜんぶだと思おもい込こむことを戒いましめるためであって、知覚ちかくを無効むこうにするためではない。限界げんかいの指摘してきを虚無きょむに着地ちゃくちさせないこと。
派生はせい形けい
  • 知覚的ちかくてき[0]「知覚ちかく的てきな手てがかり」のように、感覚かんかく器官きかんを通とおして得とくられるものだと限定げんていするときに使つかう。判断はんだんや推論すいろんを含ふくまないという断ことわりになる。
  • 知覚作用ちかくさよう[0]「作用さよう」が付ついて働はたらきのほうを指さす。結果けっかとしての像ぞうではなく、捉とらえるという出来事できごとそのものを問題もんだいにする形かたちである。
  • 感覚かんかく[0]知覚ちかくの手前てまえの段階だんかい。光ひかりや音おとや圧あつを受うけ取とるだけで、まだ何なにのまとまりにもなっていない。109 の感かん性せいは、この受うけ取とる能力のうりょくそのものを指さす哲学てつがく語ごである。
コロケーション
  • 感覚かんかく・知覚ちかく・認識にんしき三さん段だんの階梯かいてい刺激しげきを受うけ取とる/まとまりとして捉とらえる/意味いみづけて知ちとして持もつ。この三さん段だんを一本いっぽんにしておくと、93・94 の設問せつもんはほとんど落おとさない。注意ちゅういしたいのは、実際じっさいの経験けいけんではこの三さん段だんが一瞬いっしゅんで起おきることだ。分わけられるのは分析ぶんせきのうえでのことで、分わけたことで見みえるものと消きえるものがある — 1-2 の 43 の要素ようそ論ろんがここでも顔かおを出だす。
  • 知覚ちかくできる範囲はんい世界せかいの広こうさ知覚ちかくの限界げんかいが、そのまま世界せかいの限界げんかいになる。可視かし光線こうせん、可聴かちょう域いき、味覚みかくの種類しゅるい。いずれもごく狭せまい。評ひょう論文ろんぶんがこの事実じじつを持もち出だすのは、人間にんげんが見みている世界せかいが世界せかいそのものではないと示しめすためである。95 の現象げんしょう、97 の独我論どくがろんへ道みちが続つづいている。
  • 知覚ちかく過敏かびん医学いがくの用法ようほう本来ほんらいなら痛いたみを起おこさない刺激しげきで痛いたみが生しょうじる症状しょうじょう。知覚ちかくが刺激しげきの強つよさに正せい比例ひれいしないことをよく示しめす例れいである。受うけ取とる側がわの状態じょうたいが変かわれば、同おなじ刺激しげきが別べつの知覚ちかくになる。知覚ちかくが単たんなる受信じゅしんではないというこの事実じじつは、ゲーテの一句いっくとも響ひびき合あう。
  • 知覚ちかくと表象ひょうしょう外そとを捉とらえるか、内ないに立たつか知覚ちかくは外界がいかいを捉とらえる働はたらき、表象ひょうしょうはその結果けっかとして心こころに立たった像ぞう。1-3 の 65 と対たいにして読よみたい。見みているあいだが知覚ちかく、目めを閉とじてもまだ残のこっているのが表象ひょうしょうである。対象たいしょうが要いるかどうかで分わけると迷まよわない。
格かく硬かた

書かき言葉ことば。会話かいわでは不自然ふしぜん。

類るい語ごと差さ
  • 感覚かんかく刺激しげきを受うけ取とることより手前てまえの段階だんかい。光ひかりや音おとを受うけ取とるだけ。知覚ちかくはそれをまとまりとして捉とらえる。
  • 認識にんしき知ちとして持もつこと☑93。判断はんだんを伴ともなう。知覚ちかくはその材料ざいりょうを提供ていきょうする。
  • 表象ひょうしょう心こころに立たち現あらわれた像ぞう☑65。知覚ちかくは外界がいかいを捉とらえる働はたらき、表象ひょうしょうはその結果けっかとして心こころに立たった像ぞう。
  • 直観ちょっかん筋道すじみちを経へずに捉とらえる推論すいろんを挟はさまない把握はあく。知覚ちかくは感覚かんかく器官きかんを経へる。

ENperception
ZH知觉(知覚・意識, zhījué)

入試にゅうし文ぶん

物心ものごころ二元にげん論ろんによれば、身体しんたい器官きかんによって捉とらえられる知覚ちかくの世界せかいは主観しゅかんの世界せかいである。自然しぜんに本来ほんらい、実在じつざいしているのは、色いろも味あじも臭においもない原子げんし以下いかの微び粒子りゅうしだけである。知覚ちかくにおいて光ひかりが瞬間しゅんかんに到達とうたつするように見みえたり、地球ちきゅうが不動ふどうに思おもえたりするのは、主観的しゅかんてきに見みられているからである。自然しぜんの感覚かんかく的てきな性格せいかくは、自然しぜん本来ほんらいの内在ないざい的てきな性質せいしつではなく、自然しぜんをそのように感かん受じゅし認識にんしきする主体しゅたいの側がわにある。つまり、心こころあるいは脳のうが生うみ出だした性質せいしつなのだ。

真しんに実在じつざいするのは物理学ぶつりがくが描えがき出だす世界せかいであり、そこからの物理的ぶつりてきな刺激しげき作用さようは、脳内のうないの推論すいろん、記憶きおく、連合れんごう、類るい推すいなどの働はたらきによって、秩序ちつじょある経験けいけん(知覚ちかく世界せかい)へと構成こうせいされる。つまり、知覚ちかく世界せかいは心こころないし脳のうの中なかに生しょうじた一種いっしゅのイメージや表象ひょうしょうにすぎない。物理学的ぶつりがくてき世界せかいは、人間にんげん的てきな意味いみに欠かけた無む情じょうの世界せかいである。

それに対たいして、知覚ちかく世界せかいは、「使つかいやすい机つくえ」「嫌きらいな犬いぬ」「美うつくしい樹木じゅもく」「愛あいすべき人間にんげん」などの意味いみや価値かちのある日常にちじょう物ぶつに満みちている。しかしこれは、主観しゅかんが対象たいしょうにそのように意味いみづけたからである。

出典しゅってん 河野こうの哲也てつや『意識いしきは実在じつざいしない』 / 出題しゅつだい 東京大学とうきょうだいがく

読解どっかいのポイント
  • 実在じつざい
  • 原子げんし以下いかの微び粒子りゅうしだけ
  • =物理学的ぶつりがくてき世界せかい
  • 知覚ちかくの世界せかい
  • =主観しゅかんの世界せかい
  • 心こころあるいは脳のうが生うみ出だした性質せいしつ
  • 意味いみや価値かちのある日常にちじょう物ぶつに満みちている
  • ↓ 主観しゅかんが対象たいしょうにそう意味いみづけたから
要約ようやく

物理学的ぶつりがくてき世界せかいは、原子げんし以下いかの微び粒子りゅうしだけが実在じつざいする無む情じょうの世界せかいだが、知覚ちかくの世界せかいは、心こころや脳のうが生うみ出だしたもので、意味いみや価値かちのある日常にちじょう物ぶつに満みちている。主観しゅかんが対象たいしょうにそのように意味いみづけたからだ。

語ご法ほうの観察かんさつ

具体的ぐたいてきな感覚かんかく器官きかんの話はなしから、認識論にんしきろんの一般いっぱん論ろんへ移うつる。ミクロからマクロへ上あがる箇所かしょに切きれ目めがある。

つぼにも向かい合う二つの顔にも見える図で、図と地の反転を示した図まったく同じ輪郭が、中央を図と見ればつぼに、両脇を図と見れば向かい合う二つの横顔になる。網膜に届く光は同じでも見えが変わることから、知覚がすでに解釈を含むことを示す。 同じ輪郭が、二つに見えるつぼ顔顔(右向き)(左向き)目に届いている光は、どちらの見えでも同じである変わるのは、どこを図とし、どこを地とするかだけだしかも、二つを同時に見ることはできない知覚は受け取ることではなく、選ぶことである05 で言う「感覚のまま」は、どこにも無い
図ずと地ち ── 見みえは選えらばれている
Section 07

現象げんしょう/本質ほんしつ

95★★

現象げんしょう

げんしょう[0]平板へいばん型がた

語ご構成こうせい
現げんあらわれる+象ぞうかたち・すがた
定義ていぎ

人間にんげんが感覚かんかくによってとらえることのできる、すべての物事ものごと。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑95
使用しようの境界きょうかい

感覚かんかくに現あらわれてくるもの。背後はいごに本質ほんしつがあるという前提ぜんていのもとで使つかわれる語ごである。

用法ようほう

要点ようてんは、この語ごが二に層そうの世界観せかいかんを前提ぜんていにしていることにある。現あらわれているものの背後はいごに、本当ほんとうのものがある──この構図こうずがプラトンのイデア論ろんからカントの物もの自体じたいまで続つづく。したがって「現象げんしょうにすぎない」と言いえば、それは本質ほんしつではないという含ふくみになる。二十にじゅう世紀せいきの現象学げんしょうがくは逆ぎゃくに、背後はいごを想定そうていせず現あらわれそのものを記述きじゅつする立場たちばをとった。日常にちじょう語ごの「社会しゃかい現象げんしょう」「自然しぜん現象げんしょう」は単たんに〈起おきていること〉の意いなので、評ひょう論文ろんぶんの用法ようほうと読よみ分わける。

用例ようれい
  • 我々われわれが物ものを認識にんしきするのは、それが我々われわれに現象げんしょうするかぎりにおいてであって、それ自体じたいにおいてではない。イマヌエル・カント『純粋じゅんすい理性りせい批判ひはん』(1781)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    現象げんしょうという語ごが二に層そうの世界観せかいかんを前提ぜんていにしていることが、ここにはっきり出でている。現あらわれているもの(現象げんしょう)と、それ自体じたいとしてのもの(物もの自体じたい)。我々われわれに届とどくのは前者ぜんしゃだけである。注目ちゅうもくしたいのは、カントが物もの自体じたいを「無ない」とは言いっていないことだ。あるが、届とどかない。この届とどかないという線引せんびきが、哲学てつがくから形而上学けいじじょうがく的てきな思弁しべんを締しめ出だす働はたらきをした。同時どうじに、届とどかないものがあると言いい続つづけることで、人間にんげんの知ちに外側そとがわがあると認みとめてもいる。1-2 の 47 の科学かがく主義しゅぎがこの外側そとがわを認みとめない立場たちばだと考かんがえると、両者りょうしゃの距離きょりが測はかれる。
  • 事象じしょうそのものへ!エトムント・フッサール『論理学ろんりがく研究けんきゅう』(1900)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    現象学げんしょうがくの標語ひょうごである。たった一行いちぎょうだが、方向ほうこうが正反対せいはんたいを向むいている。カントは現象げんしょうの背後はいごに物もの自体じたいを置おいた。フッサールは背後はいごを想定そうていするのをやめた。現あらわれているものを、現あらわれているとおりに、先入せんにゅう見みなしに記述きじゅつせよ、という。ここで「現象げんしょうにすぎない」という言いい方かたが消きえる。背後はいごが無なければ、「すぎない」と言いうための比較ひかく対象たいしょうも無ないからだ。注目ちゅうもくしたいのは、これが哲学てつがくの放棄ほうきではなくより厳きびしい要求ようきゅうだったことである。背後はいごに本質ほんしつがあると仮定かていするほうが、じつは楽らくなのだ — 説明せつめいのつかないものをそちらへ預あずけてしまえるからである。
  • 「現象げんしょうにすぎない」と言いえば、それは本質ほんしつではないという含ふくみになる。 この語ごが二に層そうの世界観せかいかんを背負せおっていることの証拠しょうこになる言いい方かたである。プラトンのイデア論ろんからカントの物もの自体じたいまで、現あらわれているものの背後はいごに本当ほんとうのものがあるという構図こうずが続つづいてきた。96 の本質ほんしつと対たいで読よみ、筆者ひっしゃが背後はいごを認みとめる立場たちばか疑うたがう立場たちばかを見分みわけたい。
  • △近ちかごろの若者わかものの言葉ことばづかいは興味深きょうみぶかい現象げんしょうだ。 通つうじるが、これは日常にちじょう語ごの用法ようほうで単たんに〈起おきていること〉の意いである。「社会しゃかい現象げんしょう」「自然しぜん現象げんしょう」も同おなじ層そうにある。評ひょう論文ろんぶんの現象げんしょうは本質ほんしつとの対たいで使つかわれ、背後はいごがあるという前提ぜんていを伴ともなう。近ちかくに「本質ほんしつ」があるかどうかで層そうを判定はんていするとよい。
派生はせい形けい
  • 現象的げんしょうてき[0]「現象げんしょうの層そうに属ぞくする」という限定げんていを示しめす。「現象げんしょう的てきには改善かいぜんしているが」と言いえば、見みえているところではそうだが本質ほんしつは違ちがう、という含ふくみになる。
  • 現象学げんしょうがく[0]背後はいごを想定そうていせず現あらわれを記述きじゅつする立場たちば。フッサールに始はじまり、ハイデガー、メルロ=ポンティへ受うけ継つがれた。1-3 の 71 で見みた身体しんたいの両義性りょうぎせいも、この系譜けいふにある。
  • 物自体ものじたいカントの語ごで、現象げんしょうの背後はいごにあるが認識にんしきできないもの。「あるが届とどかない」という奇妙きみょうな位置いちづけが、その後ごの哲学てつがくの主要しゅような争点そうてんになった。96 の本質ほんしつ、110 の形而上けいじじょうと合あわせて読よみたい。
コロケーション
  • 現象げんしょうと本質ほんしつ二に層そうの構図こうず現あらわれているものと、その根拠こんきょ。プラトン以来いらいこの構図こうずが西洋せいよう思想しそうを支ささえてきた。注意ちゅういしたいのは、背後はいごを認みとめた瞬間しゅんかんに、現あらわれているものの価値かちが下さがることだ。「にすぎない」という言いい方かたが自然しぜんに出でてくるのはそのためで、現象学げんしょうがくはまさにこの下落げらくを止とめようとした。
  • 現象学げんしょうがく背後はいごを置おかない現あらわれそのものを記述きじゅつする立場たちば。意識いしきに何なにがどう与あたえられているかを、説明せつめいせずに書かき取とる。「意識いしきは常つねに何なにかについての意識いしきである」という志向しこう性せいの考かんがえがその土台どだいにある。1-3 の 60 で見みたコンテクスト、1-4 の 79 で見みた日常にちじょうの自明じめい性せいは、この方法ほうほうの子孫しそんにあたる。
  • 現象げんしょうにすぎない価値かちを下さげる言いい方かた背後はいごに本当ほんとうのものがあるという前提ぜんていがこの一句いっくに畳たたみ込こまれている。評ひょう論文ろんぶんでこの形かたちを見みつけたら、筆者ひっしゃが本質ほんしつを認みとめる立場たちばに立たっていると見当けんとうがつく。逆ぎゃくに、この言いい方かたを批判ひはんする文章ぶんしょうなら、96 の本質ほんしつ主義しゅぎ批判ひはんの側がわにいる。
  • 社会しゃかい現象げんしょう日常にちじょう語ごの層そう単たんに起おきていることの意い。背後はいごを想定そうていしない。「自然しぜん現象げんしょう」「異常いじょう現象げんしょう」も同おなじで、評ひょう論文ろんぶんの現象げんしょうとは重おもさが違ちがう。この語ごが単独たんどくで出でてきたときは、まず日常にちじょう語ごの層そうを疑うたがってみるのが安全あんぜんである。
格かく中なか

書かき言葉ことば・会話かいわの両方りょうほうで使つかえる。

類るい語ごと差さ
  • 本質ほんしつ現あらわれの背後はいごにあるもの対たい語ご。現象げんしょうは現あらわれ、本質ほんしつはその根拠こんきょ。プラトン以来いらいの二に層そう構造こうぞう。
  • 事象じしょう起おきた出来事できごと中立ちゅうりつの語ご。背後はいごを想定そうていしない。
  • 表象ひょうしょう心こころに思おもい浮うかべられた像ぞう☑65。現象げんしょうは外そとに現あらわれたもの、表象ひょうしょうは内ないに立たった像ぞう。
  • 実体じったいそれ自体じたいで存在そんざいするもの形而上学けいじじょうがくの語ご。現象げんしょうの背後はいごにあるとされてきたもの。

ENphenomenon
ZH现象(現象, xiànxiàng)

96★★

本質ほんしつ

ほんしつ[0]平板へいばん型がた

語ご構成こうせい
本ほんもと・根本こんぽん+質しつなかみ・たち
定義ていぎ

物事ものごとの根本的こんぽんてきな性質せいしつ、本来ほんらいの姿すがた。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑96
使用しようの境界きょうかい

そのものをそのものたらしめている性質せいしつ。それが失うしなわれれば別べつのものになる、という限界げんかいを含ふくむ。

用法ようほう

日常にちじょう語ごでは「本質的ほんしつてきな問題もんだい」=〈根本的こんぽんてきで重要じゅうような問題もんだい〉の意いで使つかうが、哲学てつがく語ごとしてはそれを失うしなえば別べつのものになる性質せいしつを厳密げんみつに指さす。評ひょう論文ろんぶんで近年きんねん重要じゅうようなのは本質ほんしつ主義しゅぎ批判ひはんで、「女性じょせいの本質ほんしつ」「日本人にほんじんの本質ほんしつ」といった語かたり方ほうが、歴史的れきしてきにつくられたものを生うまれつきのものとして固定こていする働はたらきを持もつ、という指摘してきである。ここで☑78 制度せいど・☑84 オリエンタリズムと接続せつぞくする。読解どっかいでは、本質ほんしつを認みとめる立場たちばか疑うたがう立場たちばかを見分みわける。

用例ようれい
  • 美うつくしいものが美うつくしいのは、ほかでもない、美びそのものによってである。……色いろの鮮あざやかさでも、形かたちのよさでも、そのたぐいの何なにかでもない。プラトン『パイドン』(前四世紀ぜんよんせいき)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    本質ほんしつという考かんがえ方かたの原型げんけいがここにある。美うつくしい花はな、美うつくしい旋律せんりつ、美うつくしい行おこない — それらに共通きょうつうするものを取とり出だせば「美びそのもの」が残のこる、という。注目ちゅうもくしたいのは、プラトンが具体的ぐたいてきな性質せいしつをすべて退しりぞけていることだ。色いろでも形かたちでもない。ということは、美びそのものは感覚かんかくでは捉とらえられない。95 の現象げんしょうと本質ほんしつの二に層そう構造こうぞうは、この一節いっせつから出発しゅっぱつする。そして本質ほんしつを認みとめる立場たちばの強つよみと弱じゃくみも、ここに揃そろっている。共通きょうつうするものがあるから議論ぎろんができる。同時どうじに、それがどこにあるのかは誰だれも示しめせない。
  • 一いちの意味いみまたは言語げんごは、一いち民族みんぞくの過去かこおよび現在げんざいにおける存在そんざい様態ようたいの自己じこ表明ひょうめいである。九鬼くき周造しゅうぞう『「いき」の構造こうぞう』序説じょせつ(1930)
    「いき」という日本語にほんご一語いちごの本質ほんしつを捉とらえようとした書物しょもつの、方法ほうほうを述のべた一節いっせつである。語ごの意味いみは、それを使つかう民族みんぞくの生いき方かたの表明ひょうめいだという。ここが鋭するどい。九鬼くきは「いき」を他ほかの言語げんごに訳やくせないものとして扱あつかった。つまり本質ほんしつを、普遍的ふへんてきなものとしてではなく、ある集団しゅうだんの歴史れきしに根ねざしたものとして捉とらえている。プラトンの「美びそのもの」と並ならべると差さがはっきりする。一方いっぽうは時代じだいと場所ばしょを超こえ、他方たほうは時代じだいと場所ばしょそのものから出でてくる。そして後者こうしゃの立場たちばを突つき詰つめると、「日本人にほんじんの本質ほんしつ」という語かたり方ほうが歴史的れきしてきに作つくられたものを生うまれつきのものへ固定こていしてしまう危あやうさに行いき当あたる。本質ほんしつ主義しゅぎ批判ひはんは、まさにその一歩いっぽ先さきにある。
  • 「女性じょせいの本質ほんしつ」「日本人にほんじんの本質ほんしつ」という語かたり方ほうは、歴史的れきしてきにつくられたものを生うまれつきのものとして固定こていする。これが本質ほんしつ主義しゅぎ批判ひはんである。 評ひょう論文ろんぶんで近年きんねんもっとも重要じゅうような用法ようほうである。批判ひはんされているのは本質ほんしつという語ごではなく、その語かたり方ほうの働はたらきだ。本質ほんしつだと言いわれた瞬間しゅんかん、変かえられないもの、変かえるべきでないものになる。1-4 の 78 の制度せいど、84 のオリエンタリズムと接続せつぞくする。読解どっかいでは、本質ほんしつを認みとめる立場たちばか疑うたがう立場たちばかを見分みわける。
  • △予算よさんが足たりないのが本質ほんしつ的てきな問題もんだいだ。 通つうじるが、これは日常にちじょう語ごの用法ようほうで〈根本的こんぽんてきで重要じゅうような〉の意いである。哲学てつがく語ごとしての本質ほんしつは、それが失うしなわれれば別べつのものになる性質せいしつを厳密げんみつに指さす。「それが無なくなったら、もうそれではなくなるか」を問とえばよい — 予算よさんが足たりなくても、その事業じぎょうは同おなじ事業じぎょうである。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

同どう 実体じったい

派生はせい形けい
  • 本質的ほんしつてき[0]二ふたつの層そうが同居どうきょする。日常にちじょう語ごでは「根本的こんぽんてきで重要じゅうような」、哲学てつがく語ごでは「それを失うしなえば別物べつものになる」。前者ぜんしゃは程度ていどの話はなし、後者こうしゃは同一性どういつせいの話はなしである。
  • 本質論ほんしつろん[0]本質ほんしつを問とう議論ぎろん。ただし「本質ほんしつ論ろんに流ながれる」と言いえば、具体ぐたいを離はなれた抽象論ちゅうしょうろんという批判ひはんになる。1-1 の 4 で見みた抽象ちゅうしょうと同おなじで、価値かちは文脈ぶんみゃくが与あたえる。
  • 本質主義ほんしつしゅぎ[0]「主義しゅぎ」が付ついて立場たちばになる。ほぼ批判ひはん語ごとして使つかわれる。1-2 の 43 の要素ようそ還元かんげん主義しゅぎ、47 の科学かがく主義しゅぎと同おなじで、ある見方みかたを唯一ゆいいつの見方みかたへ格かく上あげしたときに批判ひはんが生しょうじる。
コロケーション
  • 本質ほんしつ主義しゅぎ固定こていする働はたらきある集団しゅうだんや事物じぶつに変かわらない本質ほんしつがあるとみなす立場たちば。評ひょう論文ろんぶんではほぼ批判ひはんの対象たいしょうになる。批判ひはんの型かたは決きまっていて、歴史的れきしてきにつくられたものを自然しぜんのものとして語かたってしまうという指摘してきである。1-4 の 78 で見みた「自然しぜんに見みえるものが実じつは制度せいど」と正確せいかくに同おなじ構図こうずで、本質ほんしつ主義しゅぎは制度せいどを自然しぜんに見みせる装置そうちだと言いえる。
  • 本質ほんしつを捉とらえる肯定こうていの言いい方かた枝えだ葉はを落おとして核心かくしんをつかむという肯定的こうていてきな評価ひょうか。日常にちじょう語ごの層そうにある。注意ちゅういしたいのは、何なにを枝えだ葉はと見みなすかがすでに判断はんだんだということだ。核心かくしんは転ころがっていて拾ひろえるものではなく、捨すてるものを決きめることによって残のこるものである — 1-1 の 4 で見みた捨象しゃしょうと同おなじ操作そうさがここにある。
  • 本質ほんしつと実体じったい何なにであるかと、在あること本質ほんしつは「何なにであるか」、実体じったいは「それ自体じたいで存在そんざいするもの」。問といの向むきが違ちがう。「三角形さんかくけいの本質ほんしつは三さん辺へんで囲かこまれていること」と言いえるが、「三角形さんかくけいは実体じったいである」とは言いいにくい。115 の実存じつぞんが「本質ほんしつに先立さきだつ」と言いわれるとき、争あらそわれているのはこの順序じゅんじょである。
  • 本質的ほんしつてきに断定だんていの補強ほきょう「要ようするに」「根本的こんぽんてきには」の意いで使つかわれる。便利べんりだが危あやうい言いい方かたでもある。この副詞ふくしを挟はさむと、細部さいぶを切きり捨すてる許可きょかを自分じぶんに出だしたことになるからだ。評ひょう論文ろんぶんでこの語ごを見みつけたら、何なにが切きり捨すてられたかを一度いちど数かぞえてみるとよい。
格かく硬かた

書かき言葉ことば。会話かいわでは不自然ふしぜん。

類るい語ごと差さ
  • 現象げんしょう感覚かんかくに現あらわれるもの対たい語ご。本質ほんしつはその背後はいごにあるとされる。
  • 実体じったいそれ自体じたいで存在そんざいするもの存在そんざいの側がわ。本質ほんしつは〈何なにであるか〉の側がわ。
  • 特とく質しつそのものに特有とくゆうの性質せいしつ目立めだつ性質せいしつを指さすだけ。本質ほんしつは失うしなえば別物べつものになるという条件じょうけんを含ふくむ。
  • 本性ほんしょう生うまれつきの性質せいしつ人ひとや生物せいぶつについて言いう。本質ほんしつは物ものや概念がいねんにも使つかう。

ENessence
ZH本质(本質, běnzhì)

解説かいせつ ── 現象げんしょう・本質ほんしつ

異常いじょう気象きしょうのような自然しぜん現象げんしょうも、ファッションの流行りゅうこうのような社会しゃかい現象げんしょうも、あるいは信しんじられないような心霊しんれい現象げんしょうも、人間にんげんがそれととらえることのできるものはすべて現象げんしょうと言いえる。しかし現象げんしょうは、外面的がいめんてき・外見がいけん的てきなものにすぎず、不安定ふあんていだという印象いんしょうも受うける。それが実在じつざいしない場合ばあいは、仮象かしょうとよばれることにもなる。

過去かこの西洋せいよう哲学てつがくでは、外見がいけんなどには現あらわれない、隠かくされた本当ほんとうの姿すがたである実体じったいと、その性質せいしつを示しめす属性ぞくせい(すなわち、現象げんしょうと対立たいりつするものとしての本質ほんしつ)が考察こうさつされてきた。ところが、客観的きゃっかんてき・普遍的ふへんてきな本質ほんしつといったものは特定とくていの見方みかたに偏かたよった「まやかし」にすぎないのではないか、という疑うたがいも出だされている。

対立たいりつの軸じく

現象げんしょう/本質ほんしつ の軸じく = 現あらわれか、その根拠こんきょか

現象げんしょう感覚かんかくに現あらわれてくるもの。
現あらわれか、その根拠こんきょか
本質ほんしつそのものをそのものたらしめている性質せいしつ。
現象と本質の二層感覚に現れる現象と、その背後にあるとされる本質という二層の世界観を示した図。 現象 感覚に現れてくるもの 境界 本質 そのものをそのものたらしめる性質 見通す プラトンのイデアからカントの物自体まで、この構図が続いた。 現象学は逆に、背後を想定せず現れそのものを記述しようとした
現象げんしょうと本質ほんしつの二に層そう
入試にゅうし文ぶん

この世界せかいのすべては「現象げんしょう」する。世界せかい(という「すべて」)自体じたいがすでに一いち個この「現象げんしょう」なのである。「存在そんざい」もまた、一いち個この「現象げんしょう」以外いがいではない。「存在そんざい」が「現象げんしょう」を包摂ほうせつするのではない。「現象げんしょう」が「存在そんざい」を包摂ほうせつしているのだ。あらゆる問といとあらゆる思考しこうはこの地点ちてんから、そしてこの地点ちてんからのみ、始はじまりうる。そして、問といと思考しこうを離はなれたところでは、実じつは何なにものもないのだ。

このことは、私わたしたちの常識じょうしきに著いちじるしく反はんする。私わたしたちが問といなど立たてなくても、思考しこうなどしなくても、世界せかいは「在ある=存在そんざいする」のではないか、と常識じょうしきは言いう。だが、その「常識じょうしき」自体じたいがすでに一いち個この思考しこうであることを、決けっして忘わすれてはならないのだ。本章ほんしょう冒頭ぼうとうで述のべた〈私わたしたちのこの現実げんじつは、徹頭徹尾てっとうてつび「現象げんしょうすること」に貫つらぬかれている〉とは、このことにほかならない。これを、世界せかいの根本こんぽん原理げんり(アルケー)としての「現象げんしょうすること」と言いってもよいだろう。

出典しゅってん 斎藤慶典さいとうよしみち『知しること、黙もくすること、遣やり過すごすこと―存在そんざいと愛あいの哲学てつがく』 / 出題しゅつだい 大阪府立大学おおさかふりつだいがく

読解どっかいのポイント
  • 世界せかいのすべては「現象げんしょう」する
  • 世界せかい自体じたい・「存在そんざい」も一いち個この「現象げんしょう」
  • ↓ 「現象げんしょう」が「存在そんざい」を包摂ほうせつし、問とい・思考しこうはここから始はじまる
  • 常識じょうしき
  • 問といや思考しこうなどしなくても、世界せかいは「在ある=存在そんざいする」
  • → 常識じょうしき自体じたいがすでに一いち個この思考しこう
要約ようやく

「現象げんしょう」が「存在そんざい」を包摂ほうせつしているのであり、あらゆる問といと思考しこうはこの地点ちてんからのみ始はじまる。世界せかいは「存在そんざいする」と主張しゅちょうするが、その常識じょうしきも、世界せかい自体じたいがすでに一いち個この思考しこうである。

語ご法ほうの観察かんさつ

二に項こうを提示ていじしたあと、その二に項こう自体じたいが前提ぜんていであることを示しめす。枠組わくぐみを使つかいながら枠組わくぐみを見みせる型かた。

Section 08

独我論どくがろん

97★★

独我論どくがろん⚠

どくがろん[0]平板へいばん型がた

語ご構成こうせい
独どくひとり+我われわれ+論ろん説とき方ほう・立場たちば
定義ていぎ

自我じがのみが実在じつざいし、そのほかすべてのものはただ自己じこの意識いしき内容ないようにすぎないとする立場たちば。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑97
原げん書しょの解説かいせつ

独我論どくがろん的てき思考しこうを突つき詰つめると、〈世界せかいは自分じぶんの意識いしき内容ないようにすぎない〉という考かんがえ方かたになる。一見いっけん、空想くうそう的てきな内容ないようだと思おもえるが、たとえば今いまの私わたしに見みえている世界せかいや空間くうかんは、夢ゆめの世界せかいの出来事できごとではないと論理的ろんりてきに証明しょうめいすることは非常ひじょうに難むずかしい。

あるいは、生うまれた直後ちょくごに、私わたしの脳のうと特別とくべつなコンピュータをつないで、非常ひじょうに精せい妙みょうな仮想かそう現実げんじつを死しぬまで見みせられていたと考かんがえたらどうか。そこまで考かんがえずとも、例れい文ぶんにあるように、私わたしの意識いしきがあってこそ世界せかいは存在そんざいするという考かんがえ方かたには、一定いっていの説得力せっとくりょくが備そなえわっている。

そうだとすると、複数ふくすうの人間にんげんを納得なっとくさせる倫理りんりや道徳どうとくにはどのような根拠こんきょがあるだろうか。たとえば、制度せいど的てきな法ほうやルールがない時とき、なぜ人ひとを殺ころしてはいけないのか。独我論どくがろん的てき思考しこうを突つき詰つめると、〈世界せかいは自分じぶんの意識いしき内容ないようにすぎないのだから〉ルールに従したがう理由りゆうはなくなる。こうした倫理的りんりてきな難題なんだいを独我論どくがろんは突つきつけているのだ。

使用しようの境界きょうかい

確実かくじつに存在そんざいするのは自分じぶんの意識いしきだけだとする立場たちば。他者たしゃや外界がいかいの存在そんざいを証明しょうめいできないとする。

用法ようほう

日常にちじょう語ごの「自己じこ中心ちゅうしん的てき」と混同こんどうされやすいが、独我論どくがろんは認識論にんしきろんの立場たちばである。デカルトの方法ほうほう的てき懐疑かいぎを徹底てっていすると、疑うたがいえないのは疑うたがっている自分じぶんの意識いしきだけになり、他者たしゃの心こころも外界がいかいも証明しょうめいできなくなる。この行いき詰づまりが他者たしゃ問題もんだいを生うむ。評ひょう論文ろんぶんでは、近代的きんだいてきな主体しゅたいの孤立こりつを批判ひはんする文脈ぶんみゃくで出でてくることが多おおい。「独我論どくがろんに陥おちいる」は否定的ひていてきな言いい方かたで、そこから抜ぬけ出だす道みちを探さがす、という展開てんかいに続つづく。

用例ようれい
  • 存在そんざいするとは、知覚ちかくされることである。……感覚かんかくされない事物じぶつが心こころの外そとに絶対的ぜったいてきに存在そんざいするというのは、まったく理解りかいしがたいことに思おもわれる。ジョージ・バークリー『人知じんち原理げんり論ろん』(1710)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    知覚ちかくされていないものは存在そんざいしないという主張しゅちょうである。誰だれも見みていない部屋へやの机つくえは、そのあいだ存在そんざいしていない。常識じょうしきに反はんするが、反論はんろんするのは意外いがいにむずかしい。「見みていないときも机つくえはある」と言いうには、見みていないときの机つくえを見みなければならないからだ。バークリー自身じしんは神かみを持もち出だしてこの帰結きけつを回避かいひした — 神かみが常つねに知覚ちかくしているから世界せかいは消きえない、と。回避かいひ策さくが要いるということは、そのままでは独我論どくがろんに着つくということでもある。94 で見みた知覚ちかくと、95 で見みた現象げんしょうの背後はいごの問題もんだいが、ここで一ひとつの行いき止どまりに合流ごうりゅうする。
  • 私わたしの言語げんごの限界げんかいが、私わたしの世界せかいの限界げんかいを意味いみする。……世界せかいは私わたしの世界せかいである。ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン『論理ろんり哲学てつがく論考ろんこう』(1921)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    独我論どくがろんをもっとも簡潔かんけつに述のべた二に行ぎょうである。注目ちゅうもくしたいのは、ウィトゲンシュタインがこれを正ただしいとも間違まちがっているとも言いっていないことだ。彼かれは続つづけて、独我論どくがろんは「語かたりえない」が「示しめされる」と書かく。主張しゅちょうとして述のべようとすると、それを聞きく他者たしゃを前提ぜんていにしてしまうからである。ここに独我論どくがろんの奇妙きみょうな性格せいかくがある — 他人たにんに向むかって「私わたししか存在そんざいしない」と言いった瞬間しゅんかん、主張しゅちょうが自分じぶんを裏切うらぎる。1-1 の 18 の自己じこ言及げんきゅうのパラドックス、1-3 の 72 で見みた「語かたりえぬもの」と同おなじ場所ばしょに立たっている。
  • デカルトの方法ほうほう的てき懐疑かいぎを徹底てっていすると、疑うたがいえないのは疑うたがっている自分じぶんの意識いしきだけになる。独我論どくがろんはその行いき止どまりである。 1-1 の 15 で見みた方法ほうほう的てき懐疑かいぎには出口でぐちがあった。疑うたがいえないものへ至いたるための手続てつづきだったからだ。ところがその出口でぐちは、自分じぶんの意識いしきという一点いってんしかなかった。他者たしゃの心こころも外界がいかいも、そこからは証明しょうめいできない。この行いき詰づまりが他者たしゃ問題もんだいを生うむ — 現代げんだい哲学てつがくの主要しゅような主題しゅだいである。
  • ×彼かれは他人たにんの気持きもちを考かんがえない。独我論どくがろん的てきな人ひとだ。 態度たいどの話はなしなら「自己じこ中心ちゅうしん的てき」である。独我論どくがろんは認識論にんしきろんの立場たちばで、性格せいかくとは関係かんけいがない。「他者たしゃの存在そんざいを証明しょうめいできるかと問とうているか」を見みればよい。問とうていなければ、それは性格せいかくの話はなしである。訳語やくごに「我われ」が入はいっているために利己心りこしんと結むすびつけられやすいが、まったく別物べつものだ。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

同どう 唯我ゆいが論ろん/独どく知ち論ろん

派生はせい形けい
  • 独我論的どくがろんてき[0]「独我論どくがろん的てきな傾向けいこう」のように、立場たちばそのものではなくその方向ほうこうへ傾かたむいていることを指さす。完全かんぜんな独我論どくがろん者しゃはほぼいないので、実際じっさいの用法ようほうはこの形かたちになる。
  • 懐疑論かいぎろん[0]独我論どくがろんの一歩いっぽ手前てまえにある立場たちば。1-1 の 15 で見みたとおり、確実かくじつな知ちは得とくられないとする。独我論どくがろんは、その懐疑かいぎを徹底てっていした果はてに自分じぶんの意識いしきだけが残のこった形かたちである。
  • 唯我論ゆいがろん同おなじ立場たちばの別べつの訳語やくご。「唯ただ」が使つかわれると、92 の唯物論ゆいぶつろんと語形ごけいがそろう。「ただ〜だけ」を認みとめる立場たちばという共通きょうつうの作つくりが見みえやすくなる。
コロケーション
  • 独我論どくがろんに陥おちいる出口でぐちを探さがす合図あいず否定的ひていてきな言いい方かたで、そこから抜ぬけ出だす道みちを探さがす、という展開てんかいに続つづく。「陥おちいる」が示しめすとおり、着つきたくて着ついた場所ばしょではない。誠実せいじつに考かんがえを進すすめた結果けっかとして落おちてしまう穴あなである。だから批判ひはんは「浅あさはかだ」ではなく「その先さきをどう抜ぬけるか」の形かたちをとる。
  • 他者たしゃ問題もんだい独我論どくがろんが残のこす宿題しゅくだい他者たしゃの心こころをどう知しるか。自分じぶんの痛いたみは直接ちょくせつに分わかるが、他人たにんの痛いたみは推測すいそくするしかない。それでも我々われわれは日々ひび、他人たにんの心こころを前提ぜんていに生いきている。証明しょうめいできないのに前提ぜんていにしているというこの事実じじつをどう扱あつかうかが、二十にじゅう世紀せいきの哲学てつがくの中心ちゅうしん的てきな問といになった。89 で見みた間あいだ主観しゅかん性せいは、その一ひとつの答こたえである。
  • 近代的きんだいてき主体しゅたいの孤立こりつ批判ひはんの文脈ぶんみゃく評ひょう論文ろんぶんで独我論どくがろんが出でてくる典型的てんけいてきな場面ばめん。デカルトが確立かくりつした独立どくりつした自我じがが、同時どうじに世界せかいから切きり離はなされた自我じがでもあったという指摘してきである。確実かくじつさを求もとめて疑うたがいを徹底てっていした結果けっか、確実かくじつなものが自分じぶんひとりしか残のこらなかった。98 の自我じが、106 の主体しゅたいと一続ひとつづきに読よむと、近代きんだい批判ひはんの骨格こっかくが見みえてくる。
  • 水槽すいそうの脳のう現代げんだいの言いい換かえ生うまれた直後ちょくごから脳のうがコンピュータにつながれ、精せい妙みょうな仮想かそう現実げんじつを見みせられているとしたら、それを内側うちがわから否定ひていできるか — という思考しこう実験じっけん。原げん書しょの解説かいせつが挙あげるのもこの型かたである。技術ぎじゅつが進すすむほど、この問といは空想くうそうでなくなっていく。1-7 の情報じょうほう化か社会しゃかいの議論ぎろんとも接せっする。
格かく硬かた・学術がくじゅつ

論文ろんぶん・評ひょう論ろんでのみ使つかう。会話かいわでは不自然ふしぜん。

類るい語ごと差さ
  • 懐疑論かいぎろん確実かくじつな知ちは得とくられないとする☑15。独我論どくがろんは懐疑かいぎを徹底てっていした果はてに出でてくる。
  • 観念論かんねんろん意識いしきを先さきに置おく世界せかいの成なり立たちの説明せつめい。独我論どくがろんは自分じぶんの意識いしきだけに絞しぼる点てんで極端きょくたん。
  • 自己じこ中心ちゅうしん的てき自分じぶん本ほん位いである態度たいどの話はなし。独我論どくがろんは認識論にんしきろんの立場たちばで、性格せいかくの話はなしではない。
  • 他者たしゃ問題もんだい他者たしゃの心こころをどう知しるか独我論どくがろんが残のこす難問なんもん。現代げんだい哲学てつがくの主要しゅような主題しゅだい。

ENsolipsism
ZH唯我论(独我論, wéiwǒlùn)

日中にっちゅうのズレ

中国語ちゅうごくごでは 唯我论(wéiwǒlùn) と書かく。「唯ただ」を使つかい、「独どく」は用もちいない。

日本語にほんごの「独我論どくがろん」と字じが違ちがうので、そのままでは通つうじないことがある。

懐疑の徹底から独我論へすべてを疑った結果、疑いえないのは疑っている自分の意識だけになり、他者問題が生じる流れを示した図。 すべてを疑う 疑う私だけが残る 独我論 私 他者の心は証明できない 残された難問 他者に心があることを、 どうやって知るのか。 他者問題 ── 現代哲学の主要な主題 自己中心的であることとは関係がない。認識論の立場である。
懐疑かいぎを徹底てっていした果はて
入試にゅうし文ぶん

自己じこの存在そんざい、この私わたしが存在そんざいしているということは、あらゆる存在そんざいの可能性かのうせいとまったく等価とうかな事態じたいである。それゆえまた、この私わたしが存在そんざいしていなければ、あらゆる事物じぶつの、あらゆる存在そんざい者しゃの存在そんざいということがありえないだろう。いま、現実的げんじつてきな存在そんざいの全体ぜんたいを「宇宙うちゅう」と呼よぶことにしよう。自己じこの存在そんざいは宇宙うちゅうの存在そんざいと同値どうちなのだ。このことは、過激かげきな独我論どくがろんを導みちびくことになる。自己じこというものが有ゆうするある種しゅの優越ゆうえつ性せい、自己じこの自明じめい性せいというこの究極きゅうきょくの根拠こんきょも、この独我論どくがろんと同おなじところに由来ゆらいする。

出典しゅってん 大澤おおさわ真幸まさき・他ほか著ちょ『関係かんけい・コミュニケーション』 / 出題しゅつだい 上智大学じょうちだいがく・法学部ほうがくぶ

読解どっかいのポイント
  • 自己じこの存在そんざい
  • =可能かのう的てき・現実的げんじつてきな存在そんざいの全体ぜんたい
  • =宇宙うちゅう
  • ↓
  • 独我論どくがろん
  • 自己じこが有ゆうする優越ゆうえつ性せい
要約ようやく

私わたしの存在そんざいは、あらゆる存在そんざいと同値どうちであるが、このことが過激かげきな独我論どくがろんを導みちびくことになる。

語ご法ほうの観察かんさつ

極端きょくたんな結論けつろんをあえて言いい切きることで、その手前てまえにある前提ぜんていを浮うかび上うえがらせる。帰き謬びゅう法ほうに近ちかい運はこび。

Section 09

自我じが

98★★

自我じが

じが[1]頭高あたまだか型がた

語ご構成こうせい
自じみずから+我われわれ
定義ていぎ

意識いしきの主体しゅたい。自己じこ意識いしき。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑98
原げん書しょの解説かいせつ

自我じがとは、一般的いっぱんてきには、〈自分じぶんの意識いしき〉のことだが、入試にゅうし現代げんだい文ぶんで扱あつかわれるのは、〈他者たしゃとは異ことなって意識いしきされる自分じぶん〉を意味いみする近代的きんだいてき自我じがのことが多おおい。近代的きんだいてき自我じがは、デカルトの哲学てつがくから始はじまる。

デカルトは、学問がくもんというものは絶対ぜったい確実かくじつなものから出発しゅっぱつしなければならないと考かんがえた。では、絶対ぜったい確実かくじつなものを見み出だすためにはどうしたらよいか。デカルトが試こころみたのは、あらゆるものを疑うたがってかかるという方法ほうほうだ。どのようなことでも疑うたがってみて、それでも疑うたがえないものこそ絶対ぜったい確実かくじつなものだと考かんがえたのである。

たとえば、目めの前まえにある机つくえも椅子いすも、もしかしたら夢ゆめの中なかで見みているものかもしれない。そうなると、机つくえや椅子いすの存在そんざいは確実かくじつなものではなくなる。そうやって、すべてを疑うたがい否定ひていし尽つくしても、「その存在そんざいを疑うたがっている自分じぶんがいること」は否定ひていできない。この疑うたがい尽つくした末すえに残のこる自分じぶんの意識いしきこそ近代的きんだいてきな意味いみでの自我じがである。

自我じがとは、自分じぶんの同一性どういつせいを保証ほしょうするものであり、絶対ぜったい確実かくじつな自我じがなど存在そんざいしないという批判ひはんも提出ていしゅつされているが、他者たしゃとは異ことなるという意識いしきを生うみ出だす。個人こじんの尊厳そんげんを尊重そんちょうする近代きんだいは、こうした自我じがを絶対ぜったい視しした時代じだいであった。

使用しようの境界きょうかい

自分じぶんを自分じぶんとして意識いしきする働はたらき。他者たしゃと区別くべつされた自分じぶんという捉とらえ方ほうを含ふくむ。

用法ようほう

二ふたつの層そうがある。①哲学てつがくの自分じぶんを自分じぶんとして意識いしきする働はたらき。②フロイトのエス・自我じが・超ちょう自我じがという心こころの三さん層そう構造こうぞうにおける中間ちゅうかんの審級しんきゅうで、欲動よくどうと規範きはんを調停ちょうていする働はたらきを指さす。評ひょう論文ろんぶんでは①が中心ちゅうしんで、近代きんだいが確立かくりつした独立どくりつした個人こじんという像ぞうと結むすびつく。そのうえで、その自我じがが実じつは社会しゃかいや言語げんごに規定きていされているという批判ひはんが続つづく。「自我じがの確立かくりつ」は発達はったつ心理しんりの定型ていけい句く。「エゴ」は日常にちじょうでは利己心りこしんの意いになるので、自我じがとは重かさならない。

用例ようれい
  • 仏道ぶつどうをならふといふは、自己じこをならふ也なり。自己じこをならふといふは、自己じこをわするるなり。自己じこをわするるといふは、万法まんぽうに証しょうせらるるなり。道元どうげん『正法しょうぼう眼蔵げんぞう』現成げんじょう公こう案あん(1233)
    自己じこを学まなぶことが、自己じこを忘わすれることだという。近代的きんだいてき自我じがの像ぞうと正面しょうめんから食くい違ちがっている。デカルト以来いらい、自我じがは疑うたがいを重かさねた末すえに残のこる確実かくじつな一点いってんとして立たてられてきた。道元どうげんは逆ぎゃくに、徹底てっていして自己じこを見みつめると自己じこが消きえると言いう。注目ちゅうもくしたいのは、消きえたあとに何なにも無なくなるのではないことだ。「万法まんぽうに証しょうせらるる」— あらゆるものの側がわから証あかしを与あたえられる状態じょうたいになる。自我じがが世界せかいを認識にんしきするのではなく、世界せかいのほうから確たしかめられる。89 で見みた主しゅ客きゃく未み分ぶんと同おなじ方向ほうこうを向むいており、近代的きんだいてき自我じがが唯一ゆいいつの答こたえではないことを示しめしている。
  • 私わたしとは一いち個この他者たしゃである。アルチュール・ランボー 書簡しょかん(1871)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    十六じゅうろく歳さいの詩人しじんが友人ゆうじんに宛あてた手紙てがみの一句いっくである。文法ぶんぽうを壊こわしているところが要点ようてんで、「私わたしは」と言いいながら三人称さんにんしょうの動詞どうしを使つかっている。自分じぶんについて語かたる言葉ことばが、自分じぶんを他人たにんとして扱あつかってしまう。ここに近代的きんだいてき自我じがの裂さけ目めが見みえている。自分じぶんを意識いしきするとは、自分じぶんを対象たいしょうの位置いちに置おくことでもある。置おいた瞬間しゅんかん、置おいている自分じぶんと置おかれている自分じぶんに分わかれる。90 で見みた客観きゃっかん視し、89 で見みた離り見みの見みと同おなじ操作そうさが、ここでは統一とういつの破やぶれとして語かたられている。フロイトの無意識むいしき(117)が半はん世紀せいき後ごに学がくとして述のべることを、この一句いっくは先さきに言いい当あてている。
  • すべてを疑うたがい尽つくしても、疑うたがっている自分じぶんがいることだけは否定ひていできない。ここから近代的きんだいてき自我じがが始はじまる。 原げん書しょの説明せつめいどおり、デカルトの方法ほうほう的てき懐疑かいぎがその出発点しゅっぱつてんである。要点ようてんは、この自我じがが他者たしゃとは異ことなるものとして意識いしきされた自分じぶんだという点てんだ。独立どくりつした個人こじんという近代きんだいの像ぞうはここから出でた。そのうえで評ひょう論文ろんぶんは、その自我じがが実じつは社会しゃかいや言語げんごに規定きていされているという批判ひはんへ進すすむ。
  • ×彼かれは自我じがが強つよいので、自分じぶんの得とくだけを考かんがえる。 利己心りこしんを指さすなら「エゴ」「我われ」である。自我じがは自分じぶんを自分じぶんとして意識いしきする働はたらきで、損得そんとくとは関係かんけいがない。「自我じがが強つよい」という日常にちじょう語ごも、厳密げんみつには自己じこ主張しゅちょうの強つよさを指さしており、哲学てつがく語ごの自我じがとは層そうが違ちがう。フロイトの自我じがにいたっては、欲動よくどうと規範きはんを調停ちょうていする仲裁ちゅうさい役やくである。
派生はせい形けい
  • 自我意識じがいしき[3]自分じぶんを自分じぶんとして意識いしきする働はたらきそのもの。「自じ意識いしき」と縮ちぢめると日常にちじょう語ごになり、「自じ意識いしき過剰かじょう」のように批判ひはんの色いろを帯おびる。同おなじ内容ないようが、語形ごけいで評価ひょうかを変かえる。
  • 自我同一性じがどういつせい[0]アイデンティティの訳語やくごのひとつ。1-3 の 69 で見みた同一性どういつせいが、ここでは自分自身じぶんじしんについて問とわれる。時間じかんを隔へだてた二ふたつの自分じぶんを並ならべて、同おなじだと判断はんだんし続つづける作業さぎょうである。
  • 超自我ちょうじが[2]フロイトの語ごで、内面化ないめんかされた規範きはんのこと。1-4 の 83 で見みた規範きはんの内面化ないめんかが、ここでは心こころの一部いちぶとして位置いちを与あたえられている。「良心りょうしんの声こえ」の正体しょうたいを、外そとから入はいってきたものとして説明せつめいする。
コロケーション
  • 近代的きんだいてき自我じが評ひょう論文ろんぶんの主役しゅやく他者たしゃとは異ことなるものとして意識いしきされた自分じぶん。デカルトに始はじまり、独立どくりつした個人こじんという近代きんだいの像ぞうを支ささえてきた。評ひょう論文ろんぶんでこの語ごが出でるときは、ほぼ必かならずその像ぞうを疑うたがう方向ほうこうへ進すすむ。自分じぶんで考かんがえているつもりの自我じがが、言語げんご・制度せいど・無意識むいしきにあらかじめ形かたちづくられているという指摘してきである。
  • 自我じがの確立かくりつ発達はったつ心理しんりの定型ていけい青年せいねん期きの課題かだいとして語かたられる。確立かくりつという語ごに注意ちゅういしたい — 建だてて固定こていするという含ふくみがある。99 のアイデンティティが「揺ゆらぐ」ものとして語かたられるのと対照的たいしょうてきで、同おなじ事柄ことがらを、完成かんせいさせるものと見みるか、問とい直なおし続つづけるものと見みるかの差さがこの語ごの選択せんたくに出でている。
  • エス・自我じが・超ちょう自我じがフロイトの三さん層そう欲動よくどう(エス)と規範きはん(超ちょう自我じが)のあいだで、自我じがが調停ちょうてい役やくをつとめる。ここでの自我じがは主人しゅじんではなく仲裁人ちゅうさいにんである。哲学てつがくの自我じがが世界せかいを認識にんしきする主体しゅたいであるのに対たいし、心こころの内側うちがわで板いたばさみになっている。117 の無意識むいしきと合あわせて読よむと、この転落てんらくの大おおきさが分わかる。
  • 自我じがと社会しゃかい規定きていされる側がわ自我じがは社会しゃかいや言語げんごに規定きていされているという二十にじゅう世紀せいきの主張しゅちょう。1-3 の 68 の差異さい、1-4 の 83 の規範きはんの内面化ないめんかと一本いっぽんの線せんでつながる。自分じぶんで選えらんだと思おもっている選択せんたくが、選えらべる範囲はんいをあらかじめ決きめられている — この構図こうずが近代きんだい批判ひはんの中心ちゅうしんにある。
格かく中なか

書かき言葉ことば・会話かいわの両方りょうほうで使つかえる。

類るい語ごと差さ
  • 主観しゅかん認識にんしきする側がわの意識いしき☑89。自我じがは自分じぶんという意識いしき、主観しゅかんは認識にんしきする働はたらき。
  • 自己じこ自分じぶんそのもの中立ちゅうりつで広ひろい。自我じがは他ほかと区別くべつされた自分じぶんという意識いしきに重心じゅうしんがある。
  • アイデンティティ自分じぶんが自分じぶんであり続つづける感覚かんかく☑99。時間じかんを貫つらぬく連続れんぞく性せいを含ふくむ。自我じがはいまここの意識いしき。
  • エゴ自我じがフロイトの用語ようごの音訳おんやく。日常にちじょう語ごでは利己心りこしんの意いで使つかわれる。

ENego / self
ZH自我(自我, zìwǒ)

入試にゅうし文ぶん

近代きんだいになって、人間にんげんが自立じりつして自みずから責任せきにんを負おう強力きょうりょくな「自我じが」を確立かくりつすることに高たかい価値かちがおかれることになった。しかし、その強力きょうりょくな自我じがも、キリスト教きょうの神かみという支ささえがなければ脆もろいものであることを忘わすれてはならない。人間にんげんは既すでに述のべたように、何なにらかの意味いみで己おのれを支ささえる存在そんざいを確信かくしんしていなくては、不安ふあんに陥おちいる。強力きょうりょくな自我じががいかに多おおくのことを成なし遂とげたとしても、死しによってすべてが無むになると考かんがえると、空そらしくなる。やはり、死しんだ後あとに復活ふっかつし、神かみの審判しんぱんを受うけ、生前せいぜんに成なし遂とげたことによって天国てんごくに召めしされると考かんがえてこそ、その永続えいぞく性せいが保証ほしょうされる。

このようなことを言いうと、欧米おうべいの現代人げんだいじんに馬鹿ばかにされるかも知しれない。そんな復活ふっかつとか審判しんぱんなどとは関係かんけいなく、ともかく自我じがを確立かくりつしていくのだが、そこには当然とうぜん、個人こじんの責任せきにんということが関係かんけいしてくるし、他ほかの人々ひとびととどのような関係かんけいをもつかということも大切たいせつになってくる。現在げんざいの欧米おうべい人ひとは、一回いっかい限かぎりの復活ふっかつや最後さいごの審判しんぱんなどをそれほど信しんじていない、と言いわれそうであるが、キリスト教きょうの神かみという支ささえは、欧米おうべい人ひとの自我じがの奥おくに残のこっている。

出典しゅってん 河合かわい隼雄はやおの文章ぶんしょう / 出題しゅつだい 東京とうきょう理り科か大学だいがく・経営けいえい学部がくぶ

読解どっかいのポイント
  • 近代きんだい
  • 自我じがの確立かくりつに高たかい価値かちがおかれる
  • しかし
  • 自我じがには己おのれを支ささえる存在そんざいの確信かくしんが必要ひつよう
  • 例れい:キリスト教きょうの神かみ
要約ようやく

近代きんだいになって、自我じがを確立かくりつすることに高たかい価値かちがおかれることになったが、人間にんげんは何なにらかの意味いみで己おのれを支ささえる存在そんざいがなければ、不安ふあんに陥おちいってしまう。

語ご法ほうの観察かんさつ

「〜とされる」「〜と考かんがえられている」で、誰だれの主張しゅちょうかを明示めいじせずに通念つうねんを置おく。批判ひはんの準備じゅんびとして働はたらいている。

自我が超自我・エス・外界の三方から押され、不安と防衛機制を生む構図の図上から超自我の禁止、下からエスの欲動、左から外界の制約が同時に自我へ加わり、その板挟みが不安となって防衛機制を呼ぶ、というフロイトの構造論を示す。 自我は、三方から押されている超自我禁止・理想…すべきだ自我(エゴ)エス欲動・快…したい外界現実の制約不安防衛機制「自我は自分の家の主人ですらない」── フロイト18 の意識/無意識が層の図なら、これは力の図である
自我じが・超ちょう自我じが・エス ── 力ちからの配置はいち
Section 10

アイデンティティ

99★★★

アイデンティティ

アイデンティティ[4]中高なかだか型がた

定義ていぎ

① 自分じぶんは自分じぶんであるという確信かくしんや、位置いちづけ。自己じこ同一性どういつせい。 ② 存在そんざい理由りゆう。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑99
原げん書しょの解説かいせつ

身分証明みぶんしょうめい書しょを「IDカード」と言いうが、この「ID」はアイデンティティの略りゃくである。自分じぶんが何なんに所属しょぞくしているのか・自分じぶんはどのような人間にんげんなのか、そういったことを自分自身じぶんじしんで理解りかいして、私わたしが私わたしであるということを確信かくしんすることがアイデンティティである。

普段ふだんは自分じぶんが自分じぶんであることを疑うたがいもしない。朝あさ起おきて、別べつの動物どうぶつに変身へんしんしていたり、昨日きのうまでの自分じぶんが赤あかの他人たにんだったりすることなどないからだ。だが、思春期ししゅんきに、過去かこの自分じぶんと現在げんざいの自分じぶん、そして未来みらいの自分じぶん(なりたい自分じぶん)との連続れんぞく性せいや統一性とういつせいが失うしなわれ、自分じぶんに対たいする確信かくしんが揺ゆらいでしまうことがある。これが「アイデンティティ・クライシス(自己じこ喪失そうしつ)」と言いわれるものだ。

また、〈存在そんざい理由りゆう〉を意味いみするアイデンティティの用法ようほうに注意ちゅうい。たとえば、「ジャーナリストにとってアイデンティティは、人々ひとびとに真実しんじつを伝つたえることである」と言いう場合ばあい、それは〈存在そんざい理由りゆう〉という意味いみで用もちいられる。

なお、自分じぶんについての同一性どういつせいではなく、国民こくみんとしての意識いしきや一体いったい感かんのことを「ナショナル・アイデンティティ」と言いう場合ばあいもあり、「日本人にほんじんとしてのナショナル・アイデンティティ」などと用もちいる。

使用しようの境界きょうかい

自分じぶんが自分じぶんであり続つづけているという感覚かんかく。時間じかんを貫つらぬく連続れんぞく性せいと、他者たしゃからの承認しょうにんを含ふくむ。

用法ようほう

エリクソンの語ごで、「自己じこ同一性どういつせい」と訳やくす。要点ようてんは二ふたつ。①時間じかんが経たっても自分じぶんは同おなじ自分じぶんだという連続れんぞく性せい、②その自分じぶんが他者たしゃや社会しゃかいに承認しょうにんされているという感覚かんかく。だから自分じぶんだけで完結かんけつしない。「アイデンティティの危機きき」は、この二ふたつが揺ゆらいだ状態じょうたいを指さす。評ひょう論文ろんぶんでは、近代きんだいが個人こじんにアイデンティティの確立かくりつを要求ようきゅうしてきたこと自体じたいを問とう文脈ぶんみゃくで使つかわれる。民族みんぞく・国家こっか・ジェンダーなど集団しゅうだんへの帰属きぞくを指さす用法ようほうも広ひろく、その場合ばあいは☑85 と接続せつぞくする。

用例ようれい
  • 恥はじの多おおい生涯しょうがいを送おくって来きました。自分じぶんには、人間にんげんの生活せいかつというものが、見当けんとうつかないのです。太宰治だざいおさむ『人間にんげん失格しっかく』(1948)
    アイデンティティが成なり立たたないという状態じょうたいを書かいた一節いっせつである。注目ちゅうもくしたいのは「見当けんとうつかない」という言いい方かただ。人間にんげんの生活せいかつが嫌いやだとも、間違まちがっているとも言いっていない。どうやってそれをやるのかが分わからないと言いっている。アイデンティティには二ふたつの条件じょうけんがあった — 時間じかんを貫つらぬく連続れんぞく性せいと、他者たしゃからの承認しょうにんである。この主人公しゅじんこうは、道化どうけを演えんじることで承認しょうにんだけは得とくようとする。だが演えんじている自分じぶんと演えんじられている自分じぶんが一致いっちしないので、連続れんぞく性せいのほうが崩くずれる。承認しょうにんを得えるために連続れんぞく性せいを差さし出だしてしまうというこの交換こうかんが、近代きんだいがアイデンティティの確立かくりつを個人こじんに要求ようきゅうしてきたことの重おもさを照てらし出だしている。
  • 自己じこ意識いしきは、他ほかの自己じこ意識いしきに対たいして、かつ他ほかの自己じこ意識いしきにとって存在そんざいすることによってのみ、即そくかつ対たい自じ的てきに存在そんざいする。すなわち、承認しょうにんされたものとしてのみ存在そんざいする。ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル『精神せいしん現象学げんしょうがく』(1807)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    難解なんかいな文ぶんだが、言いっていることは一ひとつである。自分じぶんが自分じぶんであるためには、他者たしゃに認みとめられなければならない。ここがアイデンティティの第だい二にの条件じょうけんにあたる。注目ちゅうもくしたいのは、ヘーゲルがこれを「のみ」で書かいていることだ。承認しょうにんは補助ほじょではなく条件じょうけんである。一人ひとりでは、自分じぶんが自分じぶんであることすら成なり立たたない。89 で見みた離り見みの見みが「観客かんきゃくと同おなじ心こころの見み」だったのと同おなじ構造こうぞうがここにある。そしてこの一節いっせつの直後ちょくごに、主人しゅじんと奴隷どれいの弁べん証しょう法ほうが続つづく — 承認しょうにんをめぐる争あらそいが不平等ふびょうどうな関係かんけいを生うむ、という筋すじである。1-4 の 84 で見みた「描えがく側がわと描えがかれる側がわ」の非対称ひたいしょうも、この系譜けいふに属ぞくする。
  • アイデンティティは、時間じかんを貫つらぬく連続れんぞく性せいと、他者たしゃからの承認しょうにんの二ふたつで成なり立たつ。 エリクソンの語ごで、「自己じこ同一性どういつせい」と訳やくす。二ふたつの条件じょうけんがあることが要点ようてんで、どちらが欠かけても揺ゆらぐ。だから自分じぶんだけでは完結かんけつしない — いくら自分じぶんを確信かくしんしていても、周囲しゅういがその自分じぶんを認みとめなければ持もちこたえられない。民族みんぞく・国家こっか・ジェンダーなど集団しゅうだんへの帰属きぞくを指さす用法ようほうも広ひろく、その場合ばあいは 1-4 の 85 と接続せつぞくする。
  • △自分じぶんの性格せいかくをよく理解りかいしているので、アイデンティティは完成かんせいしている。 自己じこ理解りかいだけでは足たりない。他者たしゃや社会しゃかいからの承認しょうにんという条件じょうけんが抜ぬけている。また「完成かんせい」という言いい方かたも合あわない — 新あたらしい今日きょうの自分じぶんが現あらわれるたびに照合しょうごうが要いるので、この作業さぎょうには終おわりが無ない。「アイデンティティの危機きき」が青年せいねん期きだけの話はなしでないのは、そのためである。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

関せき 同一どういつ

コロケーション
  • アイデンティティの危機きき二ふたつの条件じょうけんの揺ゆらぎ連続れんぞく性せいと承認しょうにんのどちらか、あるいは両方りょうほうが揺ゆらいだ状態じょうたい。転職てんしょく、移住いじゅう、病やまい、退たい職しょく — それまで自分じぶんを支ささえていた枠わくが外はずれると起おきる。注意ちゅういしたいのは、これが失敗しっぱいではないことだ。枠わくが変かわったのだから揺ゆらいで当然とうぜんで、揺ゆらがないほうが枠わくに気きづいていない。
  • 集団的しゅうだんてきアイデンティティ帰属きぞくとしての自分じぶん民族みんぞく・国家こっか・宗教しゅうきょう・ジェンダーなど、集団しゅうだんへの帰属きぞくによって自分じぶんを定さだめる形かたち。1-4 の 85 のエスニシティと直接ちょくせつつながる。強つよみは、承認しょうにんが集団しゅうだんから自動的じどうてきに供給きょうきゅうされることだ。弱じゃくみも同おなじところにある — 集団しゅうだんの輪郭りんかくが変かわれば、自分じぶんの輪郭りんかくも一緒いっしょに動うごく。
  • アイデンティティを確立かくりつする近代きんだいの要求ようきゅう評ひょう論文ろんぶんが問とい直なおすのはこの言いい方かたそのものである。なぜ確立かくりつしなければならないのか。身分みぶんも職しょくも土地とちも生うまれで決きまっていた社会しゃかいでは、この課題かだいは存在そんざいしなかった。選えらべるようになったからこそ、選えらばねばならなくなった — 1-6 の近代きんだいの章しょうと直結ちょっけつする論点ろんてんである。
  • 自己じこ同一性どういつせい訳語やくごとしての形かたち1-3 の 69 で見みた同一どういつが自分自身じぶんじしんに向むけられた形かたち。同一どういつが比較ひかくを前提ぜんていとするなら、自己じこ同一性どういつせいもまた比較ひかくを前提ぜんていとする。昨日きのうの自分じぶんと今日きょうの自分じぶんを並ならべて同おなじだと判断はんだんし続つづける作業さぎょうであり、その比較ひかくをやめれば危機ききも消きえる。それでもやめられないのは、「私わたしは」で始はじまる文ぶんが連続れんぞくを勝手かってに前提ぜんていにしているからだ。
格かく中なか

書かき言葉ことば・会話かいわの両方りょうほうで使つかえる。

類るい語ごと差さ
  • 自我じが自分じぶんを自分じぶんと意識いしきする働はたらき☑98。自我じがはいまここ、アイデンティティは時間じかんを貫つらぬく連続れんぞく性せい。
  • 同一性どういつせい区別くべつできないこと☑69。訳語やくご。アイデンティティは自己じこについての同一性どういつせいを指さす。
  • 自己じこ認識にんしき自分じぶんをどう捉とらえているか内側うちがわの把握はあく。アイデンティティは他者たしゃの承認しょうにんも要素ようそに含ふくむ。
  • 帰属きぞく意識いしき集団しゅうだんに属ぞくしている感覚かんかく☑85 エスニシティに近ちかい。アイデンティティの一いち側面そくめん。

ENidentity
ZH身份认同(アイデンティティ, shēnfèn rèntóng)

自我・アイデンティティ・モラトリアムいまここの自我、時間を貫くアイデンティティ、それを模索する猶予期間としてのモラトリアムの関係を示した図。 時間 自我 いまここの意識 アイデンティティ 時間を貫く連続性 + 他者からの承認 モラトリアム 責任が猶予された期間 猶予されているあいだに、連続する自分がつくられる
自我じが・アイデンティティ・モラトリアム
入試にゅうし文ぶん

人間にんげんは他ほかの動物どうぶつと違ちがって、「私わたしのこれからの人生じんせいをどうするか」ということに強つよい関心かんしんを寄よせる生物せいぶつである。そしてそれは、時間じかんの無限むげん性せいの意識いしきを与あたえられつつ、しかも自分じぶんの生せいの有限ゆうげん性せいを深ふかく自覚じかくしているところから発はっする特とく性せいである。自みずからの未来みらいの生せいについての「節目ふしめ」の意識いしきこそが、「これからの人生じんせいをどうするか」という問といを発生はっせいさせる条件じょうけんの一ひとつなのである。

ところで自分じぶんの未来みらいを具体的ぐたいてきに構想こうそうしようとするこの志向しこう性せいはまた、自分じぶんの過去かこに流ながれた時間じかんを、一定いっていの具体的ぐたいてきな「由来ゆらい」として、言いい換かえると、自みずからにとっての固有こゆうな「歴史れきし」として構成こうせいする志向しこう性せいによって支ささえられている。というのは、たとえいかに漠然ばくぜんとしたかたちであれ、「自分じぶんはどんな存在そんざいであるか」という自己じこアイデンティティにかかわる問といを持もたない者ものには、「これからの人生じんせいをこうしよう」という構想こうそうは生うまれようがないからであり、「自分じぶんはどんな存在そんざいであるか」という問といに対たいする答こたえは、これまで流ながれた自分じぶんの生せいの時間じかんをどういう「由来ゆらい」「歴史れきし」として了りょう解かいしているかという、その自己じこ総括そうかつの力ちからに他ほかならないからである。

出典しゅってん 小浜おばま逸郎いつろう『人ひとはなぜ働はたらかなくてはならないのか』 / 出題しゅつだい 千葉大学ちばだいがく

読解どっかいのポイント
  • 「自分じぶんの未来みらいについての意識いしき」
  • 「自分じぶんはどのように生いきてきたか」
  • 自分じぶんの過去かこを具体的ぐたいてきに構成こうせい
  • ↓
  • 「自分じぶんはどんな存在そんざいであるか」
  • 自己じこアイデンティティにかかわる問とい
  • ↓
  • 「これからの人生じんせいをこうしよう」
  • 自分じぶんの未来みらいを具体的ぐたいてきに構想こうそう
要約ようやく

自分じぶんの未来みらいを具体的ぐたいてきに構想こうそうしようとすることは、自分じぶんの過去かこを具体的ぐたいてきに構成こうせいしようとする志向しこう性せいに支ささえられている。

語ご法ほうの観察かんさつ

定義ていぎを述のべたあと、その定義ていぎが成なり立たつ条件じょうけんを追加ついかする。二に段だん構かまえで概念がいねんの輪郭りんかくを絞しぼる型かた。

Section 11

モラトリアム

100★★

モラトリアム

モラトリアム[3]中高なかだか型がた

定義ていぎ

社会しゃかいへ出でる準備じゅんびとして、社会的しゃかいてきな責任せきにんや義務ぎむを免除めんじょされる一定いっていの猶予期間ゆうよきかん。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑100
原げん書しょの解説かいせつ

モラトリアムとは、青年せいねん期きに、すでに肉体にくたい的てき・精神せいしん的てきには大人おとなであるにもかかわらず、社会人しゃかいじんとしての義務ぎむや役割やくわりを免除めんじょされる期間きかんのこと。

もともとの意味いみは、戦争せんそうや大不況だいふきょうなどの非常ひじょう時じに混乱こんらんを防ふせぐために、借金しゃっきんの返済へんさいを一時的いちじてきに猶予ゆうよすることだったが、心理学しんりがく者しゃによって青年せいねん期きの一時いちじ期きを指さすようになった。例れい文ぶんにあるような古典的こてんてきモラトリアムは、「青年せいねんの修行しゅぎょう期き」を意味いみするが、現代げんだいのモラトリアム人間にんげんのように、モラトリアムが過度かどに長期ちょうき化かすると、社会しゃかいへの適応てきおう能力のうりょくが失うしなわれたり、社会人しゃかいじんとなるチャンスを逸いっしてしまったりする危険きけんもある。

コラム

夏目なつめ漱石そうせきの作品さくひんには、モラトリアム人間にんげんの先駆せんくけのような「高等こうとう遊ゆう民みん」を主人公しゅじんこうとする小説しょうせつがある。「高等こうとう遊ゆう民みん」とは、十分じゅうぶんな教育きょういくを受うけながらも社会しゃかいに出でて就職しゅうしょくすることなく、読書どくしょや思索しさくで毎日まいにちを過すごす教養きょうよう人ひとといった意味いみである。

現代げんだいになり、一般いっぱんの若者わかものにも、無む期限きげんのモラトリアム的てき傾向けいこうをもった「ニート(=通つう学がくも家事かじも就労しゅうろうもしない者もの)」や「引ひきこもり」などが増ふえて、社会しゃかい問題化もんだいかしている。

使用しようの境界きょうかい

社会的しゃかいてきな責任せきにんや義務ぎむが猶予ゆうよされている期間きかん。制度せいどとして認みとめられている点てんが要点ようてんで、単たんなる先延さきのばしではない。

用法ようほう

もとは経済けいざい用語ようごで支払しはらい猶予ゆうよを指さす。エリクソンがこれを心理学しんりがくに転用てんようし、青年せいねん期きを〈大人おとなとしての責任せきにんが猶予ゆうよされ、アイデンティティを模索もさくすることが許ゆるされている期間きかん〉と規定きていした。要点ようてんは、猶予ゆうよが社会しゃかいに認みとめられていることである。だから自分じぶん勝手かってな先延さきのばしとは違ちがう。小此木おこのぎ啓吾けいごの「モラトリアム人間にんげん」以降いこう、日本にほんでは大人おとなになることを引ひき延のばす態度たいどへの批判ひはん語ごとしても使つかわれるようになり、この二に層そうが同居どうきょしている。

用例ようれい
  • 我々われわれは、いわば二に度ど生うまれる。一度いちど目めは存在そんざいするために、二に度目どめは生いきるために。一度いちど目めは人類じんるいの一員いちいんとして、二に度目どめは性せいを持もつ者ものとして。ジャン=ジャック・ルソー『エミール』第だい四よん編へん(1762)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    青年せいねん期きを「第だい二にの誕生たんじょう」として捉とらえた一節いっせつである。これ以前いぜん、子こどもは小ちいさな大人おとなにすぎなかった。ルソーはそのあいだに独自どくじの時期じきがあると主張しゅちょうした。モラトリアムという概念がいねんが成なり立たつには、まずこの発見はっけんが要いる。子こどもでも大人おとなでもない時期じきがあると認みとめられてはじめて、そこを猶予期間ゆうよきかんとして制度せいど化かできるからだ。注目ちゅうもくしたいのは、この時期じきが近代きんだいの産物さんぶつだということである。働はたらき手てとして必要ひつようとされる社会しゃかいに、猶予ゆうよは置おけない。猶予ゆうよは、社会しゃかいに余裕よゆうがあってはじめて成なり立たつ。
  • 吾われ十じゅう有ゆう五ごにして学がくに志しす。三十さんじゅうにして立たつ。四十よんじゅうにして惑まどはず。『論語ろんご』為い政せい篇へん
    十五じゅうごで学問がくもんを志しし、三十さんじゅうで立たつ。あいだに十五じゅうご年ねんある。この十五じゅうご年ねんが何なにであるかは書かかれていない。書かかれていないことが重要じゅうようだ。目的地もくてきち(立たつ)は示しめされているが、その途中とちゅうは空白くうはくのまま置おかれている。モラトリアムの要点ようてんは、この空白くうはくが社会しゃかいに認みとめられていることにある。怠たいけているのではなく、まだ立たたなくてよいと周囲しゅういが了りょう解かいしている期間きかんだ。だから自分じぶん勝手かってな先延さきのばしとは違ちがう。ただし、この一節いっせつが「三十さんじゅうにして立たつ」で区切くぎっていることも見みておきたい。猶予ゆうよには終おわりがある、という前提ぜんていが古典こてんの側がわにはあった。
  • 青年せいねん期きは、大人おとなとしての責任せきにんが猶予ゆうよされ、アイデンティティを模索もさくすることが許ゆるされている期間きかんである。これがモラトリアムにほかならない。 エリクソンが経済けいざい用語ようご(支払しはらい猶予ゆうよ)を心理学しんりがくへ転用てんようした。要点ようてんは、猶予ゆうよが社会しゃかいに認みとめられていることである。99 のアイデンティティと対たいで読よみたい — 模索もさくする時間じかんが保証ほしょうされていなければ、確立かくりつを要求ようきゅうすることもできない。近代きんだいがこの二ふたつをセットで用意よういしたことに、この語ごの歴史的れきしてきな位置いちがある。
  • △彼かれは就職しゅうしょくせずに遊あそんでいる。モラトリアムだ。 本人ほんにんが勝手かってに先延さきのばしているなら、それは猶予ゆうよではない。モラトリアムは社会しゃかいが認みとめた期間きかんを指さす。ただし日本にほんでは小此木おこのぎ啓吾けいごの「モラトリアム人間にんげん」以降いこう、大人おとなになることを引ひき延のばす態度たいどへの批判ひはん語ごとしても使つかわれるようになった。この二に層そうが同居どうきょしているので、制度せいどの話はなしか態度たいどの話はなしかを文脈ぶんみゃくで決きめる。
コロケーション
  • 心理しんり社会的しゃかいてきモラトリアムエリクソンの用語ようご心理しんりと社会しゃかいの両方りょうほうにまたがることを語形ごけいで示しめしている。個人こじんが模索もさくすることと、社会しゃかいがそれを許ゆるすことが同時どうじに成なり立たってはじめてこの期間きかんになる。片方かたほうだけでは成立せいりつしないという点てんが、この長ながい術語じゅつごの含ふくみである。
  • モラトリアム人間にんげん批判ひはん語ごとしての形かたち小此木おこのぎ啓吾けいごが一いち九きゅう七なな〇年代ねんだいに広ひろめた語ご。猶予期間ゆうよきかんを終おえようとしない大人おとなを指さす。興味深きょうみぶかいのは、批判ひはんの言葉ことばが肯定的こうていてきな概念がいねんから作つくられていることだ。猶予ゆうよそのものは近代きんだいが用意よういしたものなのに、それを享受きょうじゅしすぎると批判ひはんされる。制度せいどが個人こじんの責任せきにんに転嫁てんかされる典型てんけいでもある。
  • 支払しはらい猶予ゆうよもとの意味いみ経済けいざい用語ようごで、債務さいむの支払しはらいを一定いってい期間きかん待まつこと。返かえさなくてよくなるのではない。いずれ返かえす前提ぜんていで待またれている。この含ふくみが心理学しんりがくの用法ようほうにも残のこっていて、モラトリアムには必かならず終おわりが想定そうていされている。終おわらないモラトリアムが批判ひはんされるのは、この前提ぜんていを裏切うらぎるからである。
  • 猶予ゆうよされる責任せきにん誰だれが猶予ゆうよするのか猶予ゆうよするのは社会しゃかいの側がわである。本人ほんにんではない。したがって、社会しゃかいに余裕よゆうがなくなれば猶予ゆうよは縮ちぢむ。進学しんがく率りつ、就職しゅうしょく環境かんきょう、家族かぞくの経済けいざい力りょく — いずれもこの期間きかんの長ながさを左右さゆうする。個人こじんの心理しんりの問題もんだいに見みえて、実際じっさいには社会しゃかいの資源しげん配分はいぶんの問題もんだいでもある。
格かく中なか

書かき言葉ことば・会話かいわの両方りょうほうで使つかえる。

類るい語ごと差さ
  • 猶予ゆうよ期限きげんを先さきに延のばす訳語やくご。モラトリアムは社会しゃかいがその猶予ゆうよを認みとめているという含ふくみを持もつ。
  • 執行しっこう猶予ゆうよ刑けいの執行しっこうを延のばす法律ほうりつ用語ようご。同おなじ語源ごげんだが対象たいしょうが違ちがう。
  • 過渡かと期き移うつり変かわりの途中とちゅう状態じょうたいの記述きじゅつ。モラトリアムは制度せいどとしての猶予ゆうよ。
  • 自分じぶん探さがし自分じぶんが何者なにものかを探さがす行おこないモラトリアムの内側うちがわで起おきること。語ごとしては日常的にちじょうてき。

ENmoratorium
ZH延缓期(猶予期間, yánhuǎnqī)

入試にゅうし文ぶん

つまり、青年せいねんたちにとって、古典的こてんてきモラトリアムはその自我じがの成熟せいじゅくにきわめて有意ゆうい義ぎなものであったとはいえ、半面はんめんでそれはさまざまの禁欲きんよくを強しいられ、多おおくのフラストレーションに悩なやまされる半人前はんにんまえの状態じょうたいでもあった。青年せいねんたちが不ふ本ほん意いながらその不満ふまん状態じょうたいに甘あまんじていたのは、そうしていなければならない現実げんじつ原則げんそく=社会しゃかい秩序ちつじょのためであった。この社会しゃかい秩序ちつじょに従したがって、やがて一人前いちにんまえになるためには、禁欲きんよく・フラストレーションを耐たえ忍しのび、修行しゅぎょうを積つまねばならない。つまりモラトリアムは、青年せいねんにとって一刻いっこくも早はやく抜ぬけ出だしたい拘束こうそくであり、制限せいげんでもあったのである。

出典しゅってん 小此木おこのぎ啓吾けいご『モラトリアム人間にんげんの時代じだい』 / 出題しゅつだい 中央ちゅうおう大学だいがく・経済学部けいざいがくぶ

読解どっかいのポイント
  • 古典的こてんてきモラトリアム
  • 半人前はんにんまえの状態じょうたい
  • =一刻いっこくも早はやく抜ぬけ出だしたい拘束こうそく・制限せいげん
要約ようやく

古典的こてんてき(昔むかしの)モラトリアムは、有意ゆうい義ぎなものであった半面はんめん、禁欲きんよくを強しいられる不満ふまんな状態じょうたいであり、青年せいねんにとっては拘束こうそく・制限せいげんでもあった。

語ご法ほうの観察かんさつ

経済けいざい用語ようごからの転用てんようを明示めいじしてから心理学しんりがくの用法ようほうに入はいる。語ごの来歴らいれきが意味いみの説明せつめいになっている。

モラトリアムの語義が支払猶予から青年期の猶予期間を経て否定的な評語へ移った道すじの図国家が与える支払猶予、社会が与える心理社会的猶予期間、本人の状態を責める日常語という三段階を縦の年表に並べ、「与える側」が消えることで評価の符号が反転したことを示す。 「猶予」は、三度ずらされたラテン語 morari(遅らせる)支払猶予 ── 法と経済の制度戦争や恐慌のとき、国家が債務の履行を先へ延ばす与えるのは国家。猶予はまぎれもなく救済であるエリクソン『同一性と生活周期』(1959)心理社会的モラトリアム青年が役割を試し、自分を定めるための猶予期間与えるのは社会。ここでもまだ猶予は制度である日本の日常語(1970年代以降)モラトリアム人間 ── 大人になれない猶予は制度ではなく、その人の状態の名になった与える側が消え、責めるための語に変わった「猶予されている」から「猶予にとどまっている」へ主語が制度から本人へ移ると、語は評語になる
猶予ゆうよを与あたえるのは誰だれか
Section 12

カタルシス

101★★

カタルシス

カタルシス[3]中高なかだか型がた

定義ていぎ

心こころの中なかのわだかまりが、あるきっかけで解消かいしょうされること。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑101
原げん書しょの解説かいせつ

カタルシスとは、もとは演劇えんげき用語ようごで、悲劇ひげきなどを鑑賞かんしょうすることにより、観客かんきゃくの心こころに怖こわれと憐あわれみをよび起おこして感情かんじょうを浄化じょうかする効果こうかを指さしていた。その後ご、精神せいしん医療いりょうにおいて、抑圧よくあつされていた心理しんりを表出ひょうしゅつさせ、蓄積ちくせきした感情かんじょうを除去じょきょすることで症状しょうじょうを改善かいぜんしようとする精神せいしん療法りょうほうの用語ようごとして使つかわれるようになった。カタルシス効果こうかともいう。

たとえば

悲かなしいドラマや映画えいがを、涙なみだいっぱい流りゅうしながら見みると、そのあとは案あん外はずすっきりした気持きもちで日常にちじょう生活せいかつに戻もどることができる。悲かなしみを味あじわったのに、なぜ安堵あんど感かんや安定感あんていかんを得えることになるのか。それは、自分じぶんの抱かかえている悲かなしみや不安ふあんをカタルシスによって発散はっさんしたからなのだ。

使用しようの境界きょうかい

抑おさえられていた感情かんじょうが解放かいほうされ、心こころが浄化じょうかされること。単たんなる気き晴はれらしとは区別くべつされる。

用法ようほう

アリストテレスが『詩学しがく』で悲劇ひげきの効果こうかとして述のべた語ごで、浄化じょうかと訳やくす。観客かんきゃくが劇中げきちゅうの恐おそれと憐あわれみを追体験ついたいけんし、その感情かんじょうが解放かいほうされて心こころが澄すむ、という機序きじょを指さす。だからただの気き晴はれらしではなく、強つよい感情かんじょうを経由けいゆすることが条件じょうけんになる。精神せいしん分析ぶんせきでは、抑圧よくあつされた記憶きおくを言葉ことばにすることで症状しょうじょうが消きえる現象げんしょうを指さし、☑104 トラウマの治療ちりょう論ろんと接続せつぞくする。評ひょう論文ろんぶんでは芸術げいじゅつの効用こうようを論ろんじる箇所かしょに現あらわれる。

用例ようれい
  • 悲劇ひげきとは、……あわれみとおそれを通つうじて、そうした感情かんじょうの浄化じょうかを成なし遂とげるものである。アリストテレス『詩学しがく』第だい六章ろくしょう(前四世紀ぜんよんせいき)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    カタルシスという語ごの出でどころである。注目ちゅうもくしたいのは「通つうじて」という一語いちごだ。感情かんじょうを避さけるのではなく、感情かんじょうを経由けいゆして浄化じょうかに至いたる。だからただの気き晴はれらしではない。観客かんきゃくは劇げきの中なかで恐おそれ、憐あわれみ、その強つよい感情かんじょうをひととおり通とおり抜ぬけたあとで、心こころが澄すむ。強つよい感情かんじょうを経由けいゆすることが条件じょうけんになっている。ここに芸術げいじゅつの効用こうようをめぐる議論ぎろんの原型げんけいがある。プラトンは、詩しが感情かんじょうをかき立たてるから国くにから追放ついほうせよと言いった。アリストテレスは同おなじ事実じじつを逆ぎゃくから見みた — かき立たてられるからこそ、そこで解放かいほうされるのだ、と。
  • 患者かんじゃが、その出来事できごとを明瞭めいりょうに想起そうきし、それに伴ともなう感情かんじょうを言葉ことばによって表現ひょうげんしたとき、症状しょうじょうは消失しょうしつした。ジークムント・フロイト、ヨーゼフ・ブロイアー『ヒステリー研究けんきゅう』(1895)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    精神せいしん分析ぶんせきが誕生たんじょうした瞬間しゅんかんの記述きじゅつである。抑圧よくあつされていた記憶きおくを思おもい出だし、それに伴ともなう感情かんじょうを言葉ことばにしたときに症状しょうじょうが消きえた。ここでもアリストテレスと同おなじ構造こうぞうが働はたらいている — 感情かんじょうを通とおり抜ぬけることが条件じょうけんだ。思おもい出だすだけでは足たりず、言葉ことばにするだけでも足たりない。両方りょうほうが要いる。注目ちゅうもくしたいのは、言葉ことばにすることが治療ちりょうになるというこの発見はっけんである。1-3 の 67 で見みた分節ぶんせつが、ここでは治療ちりょうの手続てつづきになっている — 形かたちの無ない塊かたまりに言葉ことばで切きれ目めを入いれると、扱あつかえるものに変かわる。104 のトラウマの治療ちりょう論ろんはここから始はじまる。
  • 悲劇ひげきを見み終おえたあとの、重おもいのに澄すんだ感かんじ。それがカタルシスである。 「浄化じょうか」と訳やくす。単たんなる気き晴はれらしとの違ちがいは、強つよい感情かんじょうを経由けいゆするかどうかにある。笑わらって忘わすれるのは気き晴はれらし、泣なき尽つくして澄すむのがカタルシスだ。評ひょう論文ろんぶんでは芸術げいじゅつの効用こうようを論ろんじる箇所かしょに現あらわれ、なぜ人ひとは苦くるしい物語ものがたりをわざわざ見みるのかという問といへの古典的こてんてきな答こたえとして置おかれる。
  • ×好すきな音楽おんがくを聴きいて気分きぶん転換てんかんした。カタルシスを得とくた。 気分きぶん転換てんかんなら「気き晴はれらし」で足たりる。カタルシスは抑おさえられていた感情かんじょうが解放かいほうされて心こころが澄すむことを指さし、強つよい感情かんじょうを通とおり抜ぬけることが条件じょうけんになる。「揺ゆさぶられたか」を問とえばよい — 揺ゆさぶられずに軽かるくなったなら、それは気き晴はれらしである。
コロケーション
  • 浄化じょうか作用さよう訳語やくごとしての形かたちカタルシスの訳やく。もとは医学いがく用語ようごで、体内たいないの不要ふようなものを排出はいしゅつすることを指さした。アリストテレスがそれを心こころの働はたらきに転用てんようした。身体しんたいの比喩ひゆが心こころに移うつされているので、溜たまったものが出でていくという像ぞうがこの語ごには最初さいしょから入はいっている。溜たまっていなければ、出でていくものも無ない。
  • 悲劇ひげきのカタルシス苦くるしい物語ものがたりを見みる理由りゆうなぜ人ひとはわざわざ悲かなしい話はなしを見みるのかという問といへの古典的こてんてきな答こたえ。注目ちゅうもくしたいのは、これが劇げきの中なかで起おきるという安全あんぜん装置そうちである。本当ほんとうに恐おそろしい目めに遭あえば浄化じょうかされない。1-3 の 19 で見みた虚構きょこうという枠わくが、感情かんじょうを通とおり抜ぬけても壊こわれない場所ばしょを作つくっている。
  • カタルシス効果こうか心理学しんりがくの用法ようほう感情かんじょうを表ひょうに出だすことで内的ないてきな緊張きんちょうが下さがるという考かんがえ方かた。ただし現代げんだいの心理学しんりがくでは、怒いかりを吐はき出だせば怒いかりが減へるとはかぎらない、という反論はんろんも強つよい。言葉ことばにすることと吐はき出だすことは同おなじではない — フロイトらが見みたのは前者ぜんしゃのほうだった。
  • 言葉ことばにする治療ちりょうの手続てつづき形かたちの無ない感情かんじょうに言葉ことばを与あたえると、扱あつかえるものに変かわる。1-3 の 67 の分節ぶんせつ、1-1 の 6 の混沌こんとんと同おなじ構図こうずである。名なづけられていないものは操作そうさできない。だから治療ちりょうは、まず語かたらせることから始はじまる — 精神せいしん分析ぶんせきが「話はなす治療ちりょう」と呼よばれた理由りゆうである。
格かく硬かた

書かき言葉ことば。会話かいわでは不自然ふしぜん。

類るい語ごと差さ
  • 浄化じょうかけがれを取とり除のぞく訳語やくご。宗教的しゅうきょうてきな含ふくみを持もつ。カタルシスは感情かんじょうの解放かいほうという機序きじょを含ふくむ。
  • 解放かいほう縛しばりから自由じゆうになる状態じょうたいの変化へんか。カタルシスは解放かいほうを経へて澄すむ結果けっかまで含ふくむ。
  • 昇華しょうか欲動よくどうを別べつの形かたちで実現じつげんするフロイトの語ご。方向ほうこうを変かえて実現じつげんする点てんが違ちがう。
  • 発散はっさんたまったものを外そとに出だす日常にちじょう語ご。心こころが澄すむという含ふくみがない。

ENcatharsis
ZH宣泄(感情の解放, xuānxiè)

入試にゅうし文ぶん

アリストテレスはカタルシスという仮説かせつで芸術げいじゅつの弁護べんごをした。人ひとを殺ころす芝しば居いを見みて、なぜ、観客かんきゃくが快かい感かんを覚おぼえるのか。現実げんじつに殺人さつじんが行ぎょうなわれてならないのはいうまでもないが、これが舞台ぶたい上じょうで行ぎょうなわれるのを見みて人間にんげんが美びを感かんじるのは、われわれ人間にんげんの心こころの中なかに生せいずる有ゆう毒どくなものを演劇えんげきという下剤げざいで浄化じょうか(カタルシス)するのだと説明せつめいした。

芝しば居いもレクリエーション、忘却ぼうきゃくの一いち形式けいしきと考かんがえられる。逆ぎゃくに、忘却ぼうきゃくもカタルシスにきわめてよく似にている。机つくえの前まえにしばりつけられている勉強べんきょう家かよりも、スポーツマンの方ほうがかえっておもしろい仕事しごとをしたり、いい成績せいせきをあげたりすることがあるのも、汗あせを流りゅうして運動うんどうするのが、カタルシスとしてすぐれていることを物語ものがたりっている。スポーツが勉強べんきょうが二者にしゃ択一たくいつのように考かんがえる向むきが多おおいのは、スポーツをしたらあと何なにもできないほどスポーツに淫いんすることからおこる誤解ごかいである。

出典しゅってん 外山とやま滋比古しげひこ『知的ちてき創造そうぞうのヒント』 / 出題しゅつだい 立教大学りっきょうだいがく・全ぜん学部がくぶ(理学りがく部ぶをのぞく)

読解どっかいのポイント
  • 人ひとを殺ころす芝しば居いを見みて観客かんきゃくが快かい感かんを覚おぼえる
  • ↓
  • 心こころの中なかの毒どくをカタルシスする
  • スポーツマンが仕事しごとや成績せいせきで優秀ゆうしゅう
  • ↓
  • 運動うんどうのすぐれたカタルシスの力ちから
要約ようやく

人ひとを殺ころす芝しば居いを見みて観客かんきゃくが快かい感かんを覚おぼえるのは、心こころの中なかの毒どくをカタルシスするからである。また、スポーツマンが仕事しごとや成績せいせきで優秀ゆうしゅうなのは、運動うんどうがカタルシスとしてすぐれているからだ。

語ご法ほうの観察かんさつ

古代こだいの規定きていを引ひいてから現代げんだいの用法ようほうへ降おりる。時間じかんの順じゅんに沿そって意味いみの広ひろがりを追おう構成こうせい。

悲劇のあいだの感情の高まりと下降を曲線で示し、katharsis の三つの訳語を並べた図発端から葛藤を経て破局で頂点に達し、終幕へ向けて下がっていく観客の感情を曲線で示す。あわせて katharsis を浄化・排出・明澄化のどれで訳すかによって悲劇の効用の説明が変わることを並べる。 あわれみと怖れを通して、感情を澄ませる感情の高まり破局 ── そこで気づくあわれみと怖れが少しずつ積もっていく発端葛藤破局終幕katharsis を何と訳すかで、効用の説明が変わる浄化宗教 ── 汚れを洗い落とす排出医学 ── 溜まったものを外へ出す明澄化認識 ── 見えていなかったものが見える泣いて楽になることだけを指すのなら、一つ目しか使っていない
悲劇ひげきの効用こうようは、どこにあるのか
Section 13

ペシミズム

102★★

ペシミズム

ペシミズム[3]中高なかだか型がた

定義ていぎ

人生じんせいや世界せかいは不幸ふこうと非合理ひごうりに満みちているとする考かんがえ方かた。悲観ひかん論ろん。厭世主義えんせいしゅぎ。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑102
原げん書しょの解説かいせつ

神かみによって造つくられたこの世界せかいが〈最良さいりょうの状態じょうたい〉だという主張しゅちょうはオプティミズム(=楽観らっかん主義しゅぎ)とよばれたが、それと対立たいりつする語ごとして、〈最悪さいあくの状態じょうたい〉を指さす言葉ことばのペシミズムという語ごが生うまれた。

また、関連かんれん語ごのニヒリズム(虚無きょむ主義しゅぎ)では、生いきることそのものが無意味むいみだとされる。さらにデカダンス(退廃たいはい)は、ペシミズムと同おなじく、生いきることは無意味むいみだという考かんがえ方かたが根底こんていにあるが、無意味むいみな人生じんせいであることに居い直ちょくり、積極的せっきょくてきに快楽かいらくを求もとめていく傾向けいこうを示しめす語ごだ。

ちなみに、哲学者てつがくしゃのニーチェ(1844~1900年ねん)は、ペシミズムやデカダンスのことを「受動じゅどう的てきニヒリズム」とよんだ。

使用しようの境界きょうかい

世界せかいや人生じんせいを否定的ひていてきに捉とらえる立場たちば。一時的いちじてきな気分きぶんではなく、世界観せかいかんとして持もたれている点てんが要点ようてん。

用法ようほう

厭世主義えんせいしゅぎ・悲観ひかん主義しゅぎと訳やくす。日常にちじょう語ごの「悲観的ひかんてき」が一時的いちじてきな見通みとおしを指さすのに対たいし、ペシミズムは世界せかいの成なり立たちそのものについての立場たちばである。ショーペンハウアーが代表だいひょうで、生いきることは苦くるしみであり、意志いしが満みたされないことに苦にがの根ねがあるとした。評ひょう論文ろんぶんでは、近代きんだいの進歩しんぽ主義しゅぎへの対抗たいこうとして、あるいは文学ぶんがく作品さくひんの基調きちょうを説明せつめいする語ごとして現あらわれる。オプティミズムとの対たいで出でるので、どちらが批判ひはんされているかを見みる。

用例ようれい
  • 人生じんせいは、振ふり子このように、苦痛くつうと退屈たいくつのあいだを行いき来きする。……欲望よくぼうが満みたされなければ苦痛くつうであり、満みたされれば退屈たいくつである。アルトゥル・ショーペンハウアー『意志いしと表象ひょうしょうとしての世界せかい』(1819)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    ペシミズムを体系たいけいとして述のべた一節いっせつである。注目ちゅうもくしたいのは、これが気分きぶんではなく構造こうぞうの記述きじゅつだという点てんである。不幸ふこうな出来事できごとがあるから悲観ひかんするのではない。欲望よくぼうというものの作つくりからして、満みたされても満みたされなくても苦くるしいと言いっている。だから状況じょうきょうが改善かいぜんしても解決かいけつしない。ここが日常にちじょう語ごの「悲観的ひかんてき」との決定的けっていてきな違ちがいだ。悲観的ひかんてきな見通みとおしは事実じじつが変かわれば覆くつがえるが、ペシミズムは事実じじつによっては覆くつがえらない。世界せかいの成なり立たちについての立場たちばだからである。1-1 の 18 で見みた逆説ぎゃくせつの構造こうぞう — 豊ゆたかになるほど欠乏けつぼうを感かんじる — も、この見立みたてから出でてくる。
  • 僕ぼくの将来しょうらいに対たいする唯ただぼんやりした不安ふあんである。芥川あくたがわ龍之介りゅうのすけ『或ある旧友きゅうゆうへ送おくる手記しゅき』(1927)
    自死じしの直前ちょくぜんに書かかれ、その理由りゆうを問とわれることを見み越ごして残のこされた一句いっくである。注目ちゅうもくしたいのは、原因げんいんが特定とくていされていないことだ。貧まずしさでも病やまいでも失恋しつれんでもない。「唯ただぼんやりした」— 指さし示しめせるものが無ない。これがペシミズムの言葉ことばとしては正確せいかくである。原因げんいんが言いえるなら、それを取とり除のぞけば解決かいけつするはずだからだ。取とり除のぞけるものが見みつからないこと自体じたいが、この立場たちばの中身なかみになっている。評ひょう論文ろんぶんでは、近代きんだいの進歩しんぽ主義しゅぎへの対抗たいこうとして、あるいは文学ぶんがく作品さくひんの基調きちょうを説明せつめいする語ごとして現あらわれる。一いち九きゅう二に七なな年ねんという年としにこの一句いっくが書かかれたことも、時代じだいの空気くうきと切きり離はなせない。
  • ペシミズムは、一時的いちじてきな気分きぶんではなく世界せかいの成なり立たちについての立場たちばである。 ここが日常にちじょう語ごとの分わかれ目めである。「悲観的ひかんてき」は見通みとおしの話はなしで、事実じじつが変かわれば覆くつがえる。ペシミズムは覆くつがえらない。厭世主義えんせいしゅぎ・悲観ひかん主義しゅぎと訳やくす。オプティミズムとの対たいで出でるので、どちらが批判ひはんされているかを見みる。進歩しんぽを信しんじる側がわが批判ひはんされている文章ぶんしょうもある。
  • △今回こんかいの試験しけんは難なんしそうだ。ペシミズムに陥おちいっている。 個別こべつの見通みとおしなら「悲観的ひかんてき」で足たりる。ペシミズムは世界観せかいかんとして持もたれているものを指さす。「事実じじつが変かわれば覆くつがえるか」を問とえばよい — 覆くつがえるなら悲観ひかん、覆くつがえらないならペシミズムである。「主義しゅぎ」に相当そうとうする語ごが付ついていることを思おもい出だしたい。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

反はん オプティミズム / 関せき ニヒリズム/デカダンス

コロケーション
  • 厭世主義えんせいしゅぎ訳語やくごとしての形かたち世よを厭いとうという字面じづらが、態度たいどの話はなしに見みせてしまう。だが原語げんご pessimism はラテン語ご pessimus(最悪さいあくの)から来きており、「これが最悪さいあくの世界せかいだ」という判断はんだんを指さす。ライプニッツの「最善さいぜん説せつ」(この世界せかいは可能かのうな世界せかいのうち最善さいぜんである)への応答おうとうとして作つくられた語ごで、もとは形而上学けいじじょうがくの議論ぎろんの中なかにあった。
  • オプティミズムとの対たい楽観らっかんではなく最善さいぜん説せつオプティミズムも同様どうように、「これが最善さいぜんの世界せかいだ」という判断はんだんである。気分きぶんの明あかるさではない。評ひょう論文ろんぶんでこの対たいが出でたら、世界せかいの成なり立たちについての二ふたつの立場たちばとして読よむ。「前向まえむきに考かんがえよう」という日常にちじょう語ごの楽観らっかんとは層そうがまったく違ちがう。
  • 進歩しんぽ主義しゅぎへの対抗たいこう近代きんだい批判ひはんの位置いち歴史れきしは進歩しんぽするという近代きんだいの信念しんねんに対たいし、そもそも良よくなる方向ほうこうなど無ないと応おうじる立場たちば。1-6 の近代きんだいの章しょうと正面しょうめんからつながる。注意ちゅういしたいのは、この対抗たいこうが単たんなる否定ひていではないことだ。進歩しんぽ主義しゅぎが二に度どの大戦たいせんで信しんを失うしなったあと、ペシミズムは誠実せいじつな立場たちばとして読よみ直なおされた。
  • 作品さくひんの基調きちょう文学ぶんがくを読よむ語ごある作家さっかの作品さくひん全体ぜんたいを貫つらぬく世界せかいの見みえ方かたを指さして使つかう。一場面ひとばめんの暗くらさではなく、明あかるい場面ばめんまで含ふくめてその色いろが差さしているという言いい方かたになる。1-4 の 80 で見みた「通奏つうそう低てい音おん」に近ちかい使つかわれ方ほうで、表ひょうに出でていなくても全体ぜんたいを支ささえている。
格かく硬かた

書かき言葉ことば。会話かいわでは不自然ふしぜん。

類るい語ごと差さ
  • オプティミズム世界せかいを肯定的こうていてきに捉とらえる対たい語ご。楽天らくてん主義しゅぎ。どちらも世界観せかいかんであって気分きぶんではない。
  • 厭世観えんせいかん世よを厭いとう見方みかた訳語やくごの一ひとつ。感情かんじょうの色いろが濃こい。
  • 虚無きょむ主義しゅぎ一切いっさいに価値かちを認みとめないニヒリズム。ペシミズムより徹底てっていし、価値かちそのものを否定ひていする。
  • 悲観的ひかんてき先行せんこうきを悪わるく見みる日常にちじょう語ご。一時的いちじてきな見通みとおしについて言いう。

ENpessimism
ZH悲观主义(悲観主義, bēiguān zhǔyì)

入試にゅうし文ぶん

釈迦しゃかは人生じんせいを苦にがの相そうから見みた。そして苦にがの世界せかいである地獄じごくの思想しそうは、深ふかく仏教ぶっきょう的てきな思想しそうであった。いったい、人生じんせいを苦にがの相そうからみるのはいかなる意味いみをもつのか。釈迦しゃかの考かんがえたように、人生じんせいははたして苦にがの世界せかいであろうか。なるほど人生じんせいには苦にががある。しかし、楽らくもまた人生じんせいにはあるではないか。釈迦しゃかのいったように老ろうは苦にがであり、病やまいは苦にがであり、死しは苦にがである。しかし、ものを食たべるのは楽らくしみであり、異性いせいと遊あそぶのは楽らくしみであり、権力けんりょくをもつのは楽らくしみではないか。こういう楽らくしみから眼めをとじて、苦にがの相そうばかりで人生じんせいをみるのは一ひとつの偏見へんけんではないか。それゆえ、釈迦しゃかは一ひとつの偏見へんけん者しゃであり、日本人にほんじんは仏教ぶっきょうをとり入いれることにより釈迦しゃかの偏見へんけんに従したがったのではないか。われわれはむしろ、そういうペシミズムから脱却だっきゃくすべきではないか。釈迦しゃかの時代じだいにおいて、人生じんせいは苦くるしみにみちていたが、文明ぶんめい社会しゃかいに生いきるわれわれは、はるかに多おおくの楽らくしみにかこまれている。それゆえ人生じんせいを苦にがの相そうにおいてみる思想しそうは、偏見へんけんであるばかりか、野蛮やばんの礼賛らいさんになりはしないか。

出典しゅってん 梅原猛うめはらたけし『地獄じごくの思想しそう』 / 出題しゅつだい 筑波大学つくばだいがく

読解どっかいのポイント
  • 釈迦しゃか
  • 老ろう・病やまい・死し=苦にが
  • 文明ぶんめい社会しゃかいに生いきるわれわれ
  • 多おおくの楽らくしみにかこまれている
  • → ペシミズムから脱却だっきゃくすべき
要約ようやく

釈迦しゃかは人生じんせいを苦にがの相そうから見みたが、文明ぶんめい社会しゃかいに生いきるわれわれは、多おおくの楽らくしみにかこまれている。人生じんせいを苦にがの相そうにおいてみる思想しそうは、偏見へんけんや野蛮やばんの礼賛らいさんにもなりかねないため、ペシミズムから脱却だっきゃくすべきだ。

語ご法ほうの観察かんさつ

対たい語ごを先さきに置おいて座標ざひょうを作つくり、そのうえで一方いっぽうを詳述しょうじゅつする。対比たいひが定義ていぎの代かわりに働はたらいている。

楽観と悲観を一本の軸に置き、ニヒリズムをその軸の外に置いた図楽観主義と悲観主義は「世界には価値がある」という前提を共有したひとつの軸の両端であり、虚無主義はその前提ごと降りるので軸の外に立つ、という位置関係を示す。あわせて悲観が気質・世界観・方法の三層に分かれることを並べる。 悲観は軸の上に、虚無は軸の外にある楽観 optimism悲観 pessimism世界には価値がある ── この前提は共有されているニヒリズム価値そのものが無い軸を右へ行ききった先ではなく、軸から降りた場所である「悲観的」と言われるとき、三つが混ざっている気質性格。当たり外れを問えない世界観この世は苦だという主張。反論できる方法最悪を想定して備える構え。合理的でありうる評論文が退けにかかるのは、たいてい一つ目である三つ目を一つ目と取り違えると、議論はすれ違う
悲観ひかん・楽観らっかん・虚無きょむの位置いち
Section 14

ロゴス/トラウマ

103★★

ロゴス

ロゴス[1]頭高あたまだか型がた

定義ていぎ

言葉ことば・論理ろんり・理性りせい。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑103
原げん書しょの解説かいせつ

もともとのギリシア語ごのロゴスには、言葉ことば・論理ろんり・理性りせいの他ほかにも、議論ぎろん・計算けいさん・根拠こんきょなど多おおくの意味いみがある。「人間にんげんはロゴスをもつ動物どうぶつだ」のように、ロゴスが他ほかの動物どうぶつがもたない、人間にんげんの理性りせいや言語げんごと深ふかく関かかわっている点てんを押おさえよう。

また、我々われわれは自分じぶんが見みたものや感かんじたものは正ただしいと信しんじがちだが、人ひとによってさまざまな見方みかた・感かんじ方ほうが可能かのうであるため、物事ものごとをどのようにとらえるかは異ことなる。そこで哲学者てつがくしゃプラトン(紀元前きげんぜん427~前まえ347年しちねん)は、物事ものごとを「ロゴスの中なかに見みる」べきだとした。つまり、直接的ちょくせつてきな感覚かんかくに頼たよって、独断どくだんに陥おちいってしまうことを防ふせぐもの、それがロゴスなのである。

コラム

英語えいごでは論理ろんりのことを logic というが、これはギリシア語ごの logos を語源ごげんとしている。また、biology(生物学せいぶつがく)・ecology(生態学せいたいがく)・technology(科学技術かがくぎじゅつ)などに含ふくまれる「-logy」という接尾せつび辞じも、ロゴスに由来ゆらいする。

こうした多おおくの派生語はせいごからわかるように、ロゴスは西洋せいよう思想しそう・文明ぶんめいの根幹こんかんを占しめているが、近年きんねんの西洋せいよう哲学てつがくでは、「ロゴス中心ちゅうしん主義しゅぎ」として批判的ひはんてきに取とり上あげられるようになった。

使用しようの境界きょうかい

理性りせいと言葉ことばをあわせて指さすギリシア語ご。両者りょうしゃが同おなじ語ごである点てんが要点ようてんで、片方かたほうだけでは足たりない。

用法ようほう

要点ようてんは「理性りせい」と「言葉ことば」が同一どういつの語ごであることにある。筋道すじみちを立たてて考かんがえることと、それを言葉ことばにすることが分わけられない、という西洋せいよう思想しそうの前提ぜんていがここに刻きざまれている。だから「ロゴス中心ちゅうしん主義しゅぎ」(デリダ)という批判ひはんは、理性りせいへの偏重へんちょうと言葉ことばへの偏重へんちょうを同時どうじに指さす。評ひょう論文ろんぶんではパトスとの対たいで出でるのが基本きほん形けいで、理性りせいが感情かんじょうを統御とうぎょするという構図こうず、あるいはその構図こうずへの批判ひはんとして現あらわれる。ヨハネ福音書ふくいんしょの「初はじめに言葉ことばありき」の「言葉ことば」もロゴスである。

用例ようれい
  • 太初たいしょに言げんあり、言げんは神かみと偕ともにあり、言げんは神かみなりき。……萬まんの物ものこれに由よりて成なり、成なりたる物ものに一ひとつとして之のによらで成なりたるはなし。『新しん約やく聖書せいしょ』ヨハネ傳でん福音書ふくいんしょ 第一だいいち章しょう(文語ぶんご訳やく・1887)
    ここでいう「言げん」の原語げんごがロゴスである。世界せかいに先立さきだって言葉ことばがあり、言葉ことばによってすべてが成なったという。1-3 の 67 で見みた『老子ろうし』の「名な有あるは万物ばんぶつの母はは」と驚おどろくほど近ちかい構図こうずだが、決定的けっていてきな違ちがいがある。ここでは言葉ことばが神かみと同一どういつ視しされている。つまりロゴスは秩序ちつじょであり、理り法ほうであり、理性りせいであり、同時どうじに言葉ことばだ。この一語いちごがそれら全部ぜんぶを担になっているという事実じじつが、西洋せいよう思想しそうの骨格こっかくをなしている。筋道すじみちを立たてて考かんがえることと、それを言葉ことばにすることが分わけられない — だから「ロゴス中心ちゅうしん主義しゅぎ」という批判ひはんは、理性りせいへの偏重へんちょうと言葉ことばへの偏重へんちょうを同時どうじに指さすことになる。
  • 敷島しきしまの大和やまとの国くには言霊ことだまの幸こうはふ国くにぞま幸こうくありこそ柿本人麻呂かきのもとのひとまろ『万葉集まんようしゅう』巻かん十じゅう三さん(8世紀はっせいき)
    日本にほんは言霊ことだまの幸こうわう国くにだ、どうか無事ぶじであってほしい、と旅たび立たつ人ひとに贈おくった歌うたである。ロゴスと並ならべると、言語げんご観かんの違ちがいがよく見みえる。言霊ことだまは、言葉ことばに宿やどる力ちからである。口くちに出だしたことが現実げんじつになる。だから縁起えんぎの悪わるい言葉ことばは避さけられ、よい言葉ことばは繰くり返かえされる。ここには筋道すじみちという含ふくみが無ない。ロゴスが理り法ほうとしての言葉ことばであるのに対たいし、言霊ことだまは力ちからとしての言葉ことばだ。同おなじ「言葉ことばが世界せかいを動うごかす」という直観ちょっかんから、一方いっぽうは論理学ろんりがくへ、他方たほうは呪術じゅじゅつと儀ぎ礼れいへ道みちが分わかれた。1-3 の 58 で見みた『古今ここん集しゅう』仮名かな序じょの「力ちからをも入いれずして天地てんちを動うごかし」も、こちらの系譜けいふにある。
  • ロゴスは理性りせいであり、同時どうじに言葉ことばである。両者りょうしゃが同おなじ語ごだという点てんが要点ようてんになる。 ここを押おさえないと「ロゴス中心ちゅうしん主義しゅぎ」批判ひはんが読よめない。筋道すじみちを立たてて考かんがえることと、それを言葉ことばにすることが分わけられない、という前提ぜんていが西洋せいよう思想しそうに刻きざまれている。デリダの批判ひはんは、この前提ぜんていそのものに向むけられている。評ひょう論文ろんぶんではパトス(1-1 の 34)との対たいで出でるのが基本きほん形けいで、理性りせいが感情かんじょうを統御とうぎょするという構図こうず、あるいはその構図こうずへの批判ひはんとして現あらわれる。
  • ×感情かんじょうを交こうえず論理ろんりだけで話はなした。ロゴスを使つかった。 ロゴスは使つかう道具どうぐではなく、世界せかいと人間にんげんを貫つらぬく理り法ほうを指さす語ごである。論理的ろんりてきに話はなすことを言いいたいなら「論理的ろんりてきに」で足たりる。この語ごを持もち出だすのは、理性りせいと言葉ことばが同おなじ一ひとつのものだという前提ぜんていを問題もんだいにするときだけでよい。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

反はん 情念じょうねん(パトス) / 関せき 108 理性りせい

コロケーション
  • ロゴスとパトス基本きほんの対たい理性りせいと情念じょうねん。1-1 の 34 で見みたとおり、ロゴスが能のう動どう、パトスが受動じゅどうという役割やくわり分担ぶんたんが最初さいしょから組くみ込こまれている。西洋せいよう思想しそうがロゴスを上位じょういに置おいてきた歴史れきしがあり、評ひょう論文ろんぶんはしばしばその序列じょれつを問とい直なおすためにこの対たいを持もち出だす。
  • ロゴス中心ちゅうしん主義しゅぎデリダの批判ひはん理性りせいと、話はなされる言葉ことばを特権的とっけんてきな位置いちに置おいてきた西洋せいよう思想しそうへの批判ひはん。注目ちゅうもくしたいのは、この批判ひはんが書かかれた言葉ことばの側がわからなされたことだ。話はなし言葉ことばは話者わしゃがその場ばにいるので意味いみが保証ほしょうされているように見みえる。書かき言葉ことばは書かき手てが不在ふざいで、1-3 の 59 で見みたテクストの問題もんだいが起おきる。不在ふざいこそが言葉ことばの本来ほんらいの姿すがただ、というのがデリダの主張しゅちょうである。
  • 言葉ことばと理性りせいが同おなじ語ご前提ぜんていの刻印こくいんギリシア語ごではこの二ふたつが分わかれていない。日本語にほんごでは「言葉ことば」と「理性りせい」が別語べつごなので、この一致いっちは当あたり前まえではない。訳語やくごが二ふたつに割われるところに、思考しこうの枠わくの違ちがいが露出ろしゅつしている — 1-3 の 67 で見みた分節ぶんせつが、ここでは概念がいねんの切きり分わけ方ほうとして現あらわれている。
  • 言霊ことだま別べつ系統けいとうの言語げんご観かん言葉ことばに宿やどる力ちから。筋道すじみちではなく作用さように重心じゅうしんがある。同おなじ「言葉ことばが世界せかいを動うごかす」という直観ちょっかんから出発しゅっぱつしながら、ロゴスは論理学ろんりがくへ、言霊ことだまは儀ぎ礼れいと禁忌きんきへ向むかった。1-4 の 87 で見みた禁忌きんきが言葉ことばの領域りょういきで働はたらくとき、それは言霊ことだまの系譜けいふに属ぞくしている。
格かく硬かた・学術がくじゅつ

論文ろんぶん・評ひょう論ろんでのみ使つかう。会話かいわでは不自然ふしぜん。

類るい語ごと差さ
  • パトス理性りせいで抑おさえられない感情かんじょう☑34。ロゴスの対たい語ご。西洋せいよう思想史しそうしの基本的きほんてきな対たいをなす。
  • 理性りせい筋道すじみち立たてて考かんがえる力ちから☑108。ロゴスの訳語やくごの一ひとつだが、ロゴスは〈言葉ことば〉の意いを同時どうじに含ふくむ。
  • 言葉ことば意味いみを担になう記号きごうロゴスのもう一ひとつの訳やく。理性りせいと言葉ことばが同どう語ごだという点てんが思想史しそうしの要かなめになる。
  • エートス持続的じぞくてきな内面ないめん性せい・習慣しゅうかんパトスと対たいをなす語ご。ロゴス・パトス・エートスで説得せっとくの三さん要素ようそをなす。

ENlogos
ZH逻各斯(ロゴス, luógèsī)

104★★

トラウマ

トラウマ[2]中高なかだか型がた

定義ていぎ

耐たえがたい経験けいけんが生うみ出だした心こころの傷きず。心的外傷しんてきがいしょう。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑104
原げん書しょの解説かいせつ

普段ふだんは忘わすれていても、何なにかをきっかけとして強烈きょうれつに思おもい出だされる心こころの傷きずがトラウマであり、事故じこ・災さい害がい時じの急きゅう性せいトラウマと、児童じどう虐待ぎゃくたいなど、繰くり返かえし危き害がいを受うけたことによる慢性まんせいの心的外傷しんてきがいしょうとがある。このうち、原因げんいんとなった出来事できごとのあとも強つよい精神せいしん的てきショック症状しょうじょうが継続けいぞくする場合ばあいは、PTSD(心的外傷しんてきがいしょう後ごストレス障害しょうがい)とよばれる。

たとえば

子こどもを事故じこで亡なくしたある母はは親おやが、自分じぶんの心境しんきょうを、クシャクシャに丸まるめた紙かみで示しめしたという。丸まるめられた紙かみは文字もじを書かいたり何なにかを包つつみんだりすることができない。急きゅうに広ひろげようとすると破やぶれてしまうし、どんなに丁寧ていねいに広ひろげてもシワが消きえることはない。このように、心こころの傷きずが深ふかく残のこり、完全かんぜんにはもとに戻もどらない不可逆性ふかぎゃくせいがトラウマの一ひとつの特徴とくちょうである。

使用しようの境界きょうかい

心こころに残のこった深ふかい傷きず。原因げんいんとなった出来事できごとそのものではなく、その後ごも作用さようし続つづける傷きずを指さす。

用法ようほう

もとはギリシア語ごで身体しんたいの外傷がいしょうを意味いみした。それが精神せいしん分析ぶんせきで心こころの傷きずに転用てんようされた。要点ようてんは、本人ほんにんが意識いしきできないところで作用さようし続つづけることにある。だからカタルシス(☑101)によって言葉ことばにすることが治療ちりょうの道筋みちすじになる。日常にちじょう語ごでは「あれがトラウマで」と軽かるく使つかわれるが、臨床りんしょうの語ごとしては重おもい。評ひょう論文ろんぶんでは、個人こじんの記憶きおくだけでなく集団しゅうだんの記憶きおく(戦争せんそう・災さい害がい・植民地しょくみんち支配しはい)についても使つかわれ、歴史れきし認識にんしきの議論ぎろんに接続せつぞくする。

用例ようれい
  • 外傷がいしょう神経しんけい症しょうの患者かんじゃは、夢ゆめのなかでくり返かえし事故じこの場面ばめんへ連つれ戻もどされる。……これは快かい原理げんりでは説明せつめいのつかないことである。ジークムント・フロイト『快かい原理げんりの彼岸ひがん』(1920)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    トラウマがなぜ厄介やっかいなのかを言いい当あてた一節いっせつである。人ひとは快かいを求もとめ不快ふかいを避さけるはずだ、というのがそれまでの前提ぜんていだった。ところが患者かんじゃは、もっとも苦くるしい場面ばめんへ何度なんども戻もどされる。避さけるどころか、引ひき寄よせられている。ここに、本人ほんにんの意志いしの外そとで作用さようし続つづけるというトラウマの性格せいかくが現あらわれている。忘わすれているのではない。忘わすれられないのでもない。思おもい出だすことができないまま、繰くり返かえし再演さいえんされているのだ。だから 101 で見みたカタルシス — 言葉ことばにすること — が治療ちりょうの道筋みちすじになる。再演さいえんを、語かたりに変かえるのである。
  • 消きえろ、忌きまわしい染そめみ、消きえろと言いうのに!……この小ちいさな手てからは、アラビアじゅうの香料こうりょうをもってしても、もう匂においを取とり去さることはできない。ウィリアム・シェイクスピア『マクベス』第だい五ご幕まく(1606)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    眠ねむりながら手てを洗あらい続つづけるマクベス夫人ふじんの場面ばめんである。血ちはとうに落おちている。それでも彼女かのじょには見みえ、匂におう。ここに描えがかれているのは、出来事できごとそのものではなく、そのあとも作用さようし続つづける傷きずだ。トラウマという語ごが指さすのはまさにこれである。注目ちゅうもくしたいのは、彼女かのじょが眠ねむっているあいだにこれをしている点てんだ。起おきているときには平然へいぜんと振ふる舞まえる。意識いしきが手てを離はなした瞬間しゅんかんに、別べつの層そうが動うごき出だす。117 の無意識むいしきが学がくとして述のべられる三百年さんびゃくねん前まえに、その働はたらきが舞台ぶたいの上うえで正確せいかくに演えんじられていた。
  • 個人こじんだけでなく、集団しゅうだんの記憶きおくについてもトラウマという語ごが使つかわれる。 戦争せんそう・災さい害がい・植民地しょくみんち支配しはい。歴史れきし認識にんしきの議論ぎろんに接続せつぞくする用法ようほうである。要点ようてんは、集団しゅうだんの場合ばあいも本人ほんにんたちが意識いしきできないところで作用さようし続つづけるという構造こうぞうが同おなじことだ。語かたられないまま、制度せいどや慣習かんしゅうや語彙ごいのかたちで残のこる。だから「もう終おわったこと」という言いい方かたが通つうじない — 終おわったかどうかを決きめるのは、出来事できごとの側がわではなく傷きずの側がわである。
  • △子こどものころ犬いぬに吠ほえられたのがトラウマで、いまも犬いぬが苦手にがてだ。 日常にちじょうではこう使つかわれるが、臨床りんしょうの語ごとしてはかなり重おもい。トラウマは耐たえがたい経験けいけんが生うみ出だした心こころの傷きずで、本人ほんにんが意識いしきできないところで作用さようし続つづけるものを指さす。苦手にがて意識いしきなら「苦手にがて」で足たりる。「自分じぶんで説明せつめいできるか」を問とうとよい — 説明せつめいできているなら、それはまだ語かたりの内側うちがわにある。
コロケーション
  • 心的外傷しんてきがいしょう訳語やくごとしての形かたち身体しんたいの外傷がいしょうからの比喩ひゆである。もとのギリシア語ご trauma は傷きずそのものを指さした。この比喩ひゆが効きいているのは、傷きずは原因げんいんが去さっても残のこるからだ。刃物はものが無なくなっても切きり傷きずは消きえない。同おなじように、出来事できごとが終おわっても傷きずは作用さようし続つづける。比喩ひゆが概念がいねんの中身なかみをそのまま運はこんでいる例れいである。
  • フラッシュバック再演さいえんされる過去かこ過去かこの場面ばめんが、思おもい出でとしてではなく、いま起おきていることとして立たち現あらわれる。「思おもい出だす」と決定的けっていてきに違ちがうのはここだ。思おもい出でには時制じせいがあるが、フラッシュバックには時制じせいが無ない。だから距離きょりが取とれない。言葉ことばにすることが治療ちりょうになるのは、言葉ことばが時制じせいを与あたえるからでもある。
  • 集団的しゅうだんてきトラウマ歴史れきし認識にんしきへ戦争せんそう・災さい害がい・植民地しょくみんち支配しはいの記憶きおく。語かたられなかったものが、制度せいどや慣習かんしゅうのかたちで残のこる。1-4 の 78 の制度せいど、1-7 で扱あつかう現代げんだい社会しゃかいの議論ぎろんとつながる。注意ちゅういしたいのは、集団しゅうだんには「本人ほんにん」がいないことだ。誰だれが語かたり、誰だれが癒いえるのかが定さだまらない。この不定ふていさが、歴史れきし認識にんしきの争あらそいを長引ながびかせている。
  • トラウマを克服こくふくする難むずかしい言いい方かた克服こくふくという語ごは、相手あいてを敵てきとして立たてる。打うち勝かつべきものとして扱あつかえば、勝かてないことが新あらたな失敗しっぱいになる。臨床りんしょうでは「抱かかえて生いきる」「折おり合あいをつける」といった言いい方かたが選えらばれることが多おおい。どの動詞どうしを選えらぶかが、そのまま治療ちりょう観かんの表明ひょうめいになる — 1-1 の 5 で見みた「秩序ちつじょを保たもつ」と同おなじで、動詞どうしが前提ぜんていを運はこんでくる。
格かく中なか

書かき言葉ことば・会話かいわの両方りょうほうで使つかえる。

類るい語ごと差さ
  • 心的外傷しんてきがいしょうこころの傷きず訳語やくご。医学いがく・臨床りんしょうの場ばではこちらを使つかう。
  • ストレス負荷ふかがかかった状態じょうたい一時的いちじてきで可逆かぎゃく的てき。トラウマは持続じぞくし、本人ほんにんの意志いしで消けせない。
  • コンプレックス抑圧よくあつされた感情かんじょうの複合体ふくごうたい☑105。トラウマは出来事できごとに由来ゆらいする傷きず、コンプレックスは絡からみ合あった感情かんじょうの塊かたまり。
  • PTSD心的外傷しんてきがいしょう後ごストレス障害しょうがい診断しんだん名めい。トラウマはその原因げんいんとなる傷きずを指さす。

ENtrauma
ZH心理创伤(心的外傷, xīnlǐ chuāngshāng)

ロゴスとパトス、理性と感性理性と言葉を同時に意味するロゴス、それに対するパトス、そして受け取る感性という三者の関係を示した図。 ロゴス 理性 = 言葉 同じ一つの語である 対 パトス 情念 理性で抑えられない 感性 受け取る能力 素材を渡す 理性 概念で組み立てる 感性と理性は対立ではなく分業。ロゴスとパトスは対立である。
ロゴスとパトス、感かん性せいと理性りせい
Section 15

コンプレックス/主体しゅたい/客体きゃくたい

105★★

コンプレックス⚠

コンプレックス[4]中高なかだか型がた

定義ていぎ

① さまざまな感情かんじょうや思考しこうなどが複合ふくごう化かした、無意識むいしきに抑圧よくあつされた心理しんり。 ② 劣等感れっとうかん。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑105
原げん書しょの解説かいせつ

心理学しんりがく者しゃユング(1875~1961年ねん)は、人間にんげんがある状況じょうきょうに置おかれた時とき、その状況じょうきょうとは関係かんけいのない感情かんじょうや考かんがえにとらわれ、うまく対処たいしょできなくなることを指さして、その人ひとにはコンプレックスが存在そんざいするとした。

しかし、戦後せんご、この用語ようごが日本にほんに輸入ゆにゅうされると、劣等感れっとうかん(インフェリオリティー・コンプレックス)という意味いみでのみ使つかわれるようになった。

コラム

母はは親おやに極端きょくたんな愛あい着ちゃくをもつことを「マザー・コンプレックス(マザコン)」と言いうが、精神せいしん医学いがくでよく取とり上あげられる概念がいねんに、エディプス・コンプレックスがある。息子むすこが母はは親おやに愛あいされようと思おもい、父ちち親おやに対たいして強つよい対抗心たいこうしんを抱いだく複雑ふくざつな心理しんりを、フロイトがギリシア悲劇ひげきの『オイディプス王おう』になぞらえ、エディプス・コンプレックスとよんだ。

「オイディプス」は、父ちち親おやと知しらずに父ちち親おやを殺ころし、母はは親おやと知しらずに母はは親おやと結婚けっこんするという物語ものがたりである。

使用しようの境界きょうかい

抑圧よくあつされて絡からみ合あった感情かんじょうの複合体ふくごうたい。日本語にほんごの日常にちじょう用法ようほうである「劣等感れっとうかん」はその一種いっしゅにすぎない。

用法ようほう

原語げんご complex は「複合体ふくごうたい」であって、優劣ゆうれつとは関係かんけいがない。ユングが、無意識むいしきの中なかで絡からみ合あった感情かんじょうの塊かたまりを指さしてこう呼よんだ。エディプス・コンプレックス、母はは親おやコンプレックスなどがその例れいである。日本語にほんごでは「劣等れっとうコンプレックス」の略りゃくとして定着ていちゃくしたため、「コンプレックスがある」=「劣等感れっとうかんがある」になった。この意味いみの縮小しゅくしょうは日本語にほんご独自どくじで、原語げんごや中国語ちゅうごくごには無ない。評ひょう論文ろんぶんで出でたら、まず原げん義ぎで読よむ。

用例ようれい
  • コンプレックスとは、感情かんじょうによって色いろづけられた心的しんてき内容ないようの複合体ふくごうたいであり、……それは意志いしから独立どくりつし、しばしば意志いしに反はんして振ふる舞まう。カール・グスタフ・ユング『分析ぶんせき心理学しんりがく』(1935)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    原語げんご complex は「複合体ふくごうたい」であって、優劣ゆうれつとは関係かんけいがないことが、この定義ていぎから分わかる。感情かんじょうによって色いろづけられた思考しこうや記憶きおくが無意識むいしきのなかで塊かたまりになっている — それがコンプレックスだ。注目ちゅうもくしたいのは「意志いしから独立どくりつし、意志いしに反はんして振ふる舞まう」という一句いっくである。自分じぶんの中なかにありながら、自分じぶんの言いうことを聞きかない。心こころのなかに、自分じぶんではない何なにかが住すんでいるという見立みたてで、117 の無意識むいしきと同おなじ地図ちずの上うえにある。日本語にほんごで「コンプレックス」が劣等感れっとうかんの意いになったのは「劣等れっとうコンプレックス」の略りゃくが定着ていちゃくしたためで、この意味いみの縮小しゅくしょうは日本語にほんご独自どくじである。
  • ああ、私わたしこそがその男おとこだったのだ。……見みるべきでないものを見み、知しるべきでないものを知しってしまった。ソポクレス『オイディプス王おう』(前五世紀ぜんごせいき)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    父ちちを殺ころし母ははを娶めとったのが自分じぶんだったと知しる場面ばめんである。フロイトはこの物語ものがたりからエディプス・コンプレックスの名なを取とった。注目ちゅうもくしたいのは、オイディプスがそれを知しらずに行おこなったことだ。悪意あくいも自覚じかくも無ない。それでも起おきてしまう。コンプレックスが「意志いしに反はんして振ふる舞まう」ものであるというユングの定義ていぎと、この筋すじは正確せいかくに重かさなる。そして知しってしまったあとで彼かれは目めを突つく — 知しることが救すくいにならない場合ばあいがある、という点てんも含ふくめて、この物語ものがたりは精神せいしん分析ぶんせきの枠組わくぐみを先取さきどりしている。
  • コンプレックスは「複合体ふくごうたい」であって、本来ほんらいは優劣ゆうれつとは関係かんけいがない。 まず原げん義ぎで読よむのが読解どっかいの鉄則てっそくである。エディプス・コンプレックス、母はは親おやコンプレックス。いずれも劣等感れっとうかんの話はなしではない。日本語にほんごで「コンプレックスがある」=「劣等感れっとうかんがある」になったのは「劣等れっとうコンプレックス」の略りゃくが定着ていちゃくしたためで、この縮小しゅくしょうは原語げんごにも中国語ちゅうごくごにも無ない。
  • ×背せが低ひくいことにコンプレックスを持もつのは、ユングのいうコンプレックスである。 日常にちじょう語ごとしては通つうじるが、ユングの語ごとは別物べつものである。ユングのコンプレックスは無意識むいしきのなかで絡からみ合あった感情かんじょうの塊かたまりで、本人ほんにんが自覚じかくできないことが条件じょうけんになる。自覚じかくしている劣等感れっとうかんは、すでに意識いしきに上うえっているぶんこの定義ていぎから外はずれる。
コロケーション
  • 劣等れっとうコンプレックス略りゃくされる前まえの形かたちアドラーの語ごで、劣等感れっとうかんが複合体ふくごうたいとして固かたまったものを指さす。日本語にほんごではこの前半ぜんはんが落おちて「コンプレックス」だけが残のこった。略語りゃくごが原語げんごの意味いみを上書うわがきしてしまった例れいで、1-3 の 62 で見みた記号きごうの恣意性しいせいが外来語がいらいごの受容じゅようという場面ばめんで働はたらいている。
  • エディプス・コンプレックス名なの由来ゆらいフロイトの語ごで、幼児ようじが異性いせいの親おやに向むける愛あい着ちゃくと、同どう性せいの親おやへの敵てき意いの複合ふくごうを指さす。ギリシア悲劇ひげきから名なを取とったことに注目ちゅうもくしたい。物語ものがたりがすでに知しっていたことに、学問がくもんが名なを与あたえたという形かたちである。1-3 の 66 で見みたアレゴリーの逆ぎゃくで、ここでは物語ものがたりが理論りろんとして読よみ直なおされている。
  • コンプレックスが刺激しげきされる意志いしの外そとの反応はんのう自分じぶんで選えらんでいない反応はんのうが起おきること。ある言葉ことば、ある状況じょうきょうで、不ふ釣つり合あいに強つよい感情かんじょうが湧わく。ユングは連想れんそう実験じっけんでこれを測はかろうとした — 反応はんのうが遅おくれる語ごのまわりにコンプレックスがあると考かんがえたのである。意識いしきできないものを、ずれとして外そとから捉とらえる方法ほうほうだった。
  • マザー・コンプレックス和製わせいの縮約しゅくやく日本語にほんごでは「マザコン」と縮ちぢめられ、批判ひはん語ごとして定着ていちゃくした。原語げんごでは母はは親おやをめぐる感情かんじょうの複合体ふくごうたいを指さす中立ちゅうりつ語ごである。外来語がいらいごは、縮ちぢめられる過程かていで評価ひょうかを帯おびることが多おおい。「モラトリアム人間にんげん」(100)と同おなじ道みちすじで、概念がいねんが日本語にほんごのなかで別べつの役割やくわりを得とくている。
格かく中なか

書かき言葉ことば・会話かいわの両方りょうほうで使つかえる。

類るい語ごと差さ
  • 劣等感れっとうかん自分じぶんが劣おとっているという感覚かんかく日本語にほんごの日常にちじょう用法ようほう。原語げんごでは劣等れっとうコンプレックスという下位かい区分くぶんの一ひとつ。
  • トラウマ出来事できごとに由来ゆらいする心こころの傷きず☑104。原因げんいんが特定とくていの出来事できごとにある。コンプレックスは感情かんじょうの絡からまり方ほうを指さす。
  • 抑圧よくあつ意識いしきから締しめ出だす働はたらき☑117 無意識むいしきと接続せつぞくする機き制せい。コンプレックスはその結果けっかできた塊かたまり。
  • 葛藤かっとう相反そうはんする気持きもちの争あらそい意識いしきされる。コンプレックスは無意識むいしきにある点てんが違ちがう。

ENcomplex
ZH情结(感情の複合体, qíngjié)

日中にっちゅうのズレ

中国語ちゅうごくごの 情结(qíngjié)は「複合体ふくごうたい」という原げん義ぎどおりの語ごで、優劣ゆうれつの意味いみを含ふくまない。

日本語にほんごの日常にちじょう語ご「コンプレックス」=劣等感れっとうかんは日本語にほんご独自どくじの意味いみ縮小しゅくしょうである。中国語ちゅうごくごで言いうなら 自じ卑ひ感かん(zìbēigǎn)。

106★★

主体しゅたい

しゅたい[0]平板へいばん型がた

語ご構成こうせい
主しゅあるじ・おもだつ+体からだからだ・もの
定義ていぎ

自みずからの意志いしに基もとづいて行動こうどうし、その作用さようを他ほかに及およぼすもの。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑106
使用しようの境界きょうかい

自みずからの意志いしで働はたらきかける側がわ。行為こういの起点きてんである点てんが要点ようてんで、認識にんしきする側がわを指さす主観しゅかんとは位置いちが違ちがう。

用法ようほう

主観しゅかんとの区別くべつが最大さいだいの要点ようてんになる。主観しゅかんは認識にんしきする側がわ、主体しゅたいは行為こういする側がわである。英語えいごではどちらも subject で、この一語いちごが二ふたつに分わかれるところに日本語にほんご訳やくの事情じじょうがある。評ひょう論文ろんぶんでは「主体性しゅたいせい」が肯定こうてい語ごとして使つかわれ、指示しじに従したがうだけの状態じょうたい(☑37 他律たりつ)と対比たいひされる。現代げんだい思想しそうでは逆ぎゃくに、主体しゅたいが社会しゃかいや言語げんごによって作つくられるという議論ぎろん(主体しゅたい化か)が主流しゅりゅうになり、主体性しゅたいせいへの素朴そぼくな信頼しんらいが問とい直なおされる。

用例ようれい
  • 啓蒙けいもうとは、人間にんげんが自みずから招まねいた未み成せい年ねん状態じょうたいから抜ぬけ出でることである。……あえて知しれ!自分自身じぶんじしんの悟性ごせいを用もちいる勇気ゆうきを持もて!イマヌエル・カント『啓蒙けいもうとは何なにか』(1784)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    主体しゅたいという語ごのもっとも力ちから強つよい定式ていしきである。注目ちゅうもくしたいのは「自みずから招まねいた」という一句いっくだ。誰だれかに縛しばられているのではない。自分じぶんで判断はんだんする労ろうを惜おしんで、他人たにんに判断はんだんを預あずけているのだと言いっている。だから抜ぬけ出だすのに許可きょかは要いらない。要いるのは勇気ゆうきだけだ。ここが 1-1 の 36 で見みた自律じりつと重かさなる — 規範きはんの出でどころを自分じぶんの側がわへ移うつすこと。ただし、この呼よびかけが命令形めいれいけいで書かかれていることも見みておきたい。「主体しゅたい的てきであれ」と命めいじられて主体しゅたい的てきになった者ものは、主体しゅたい的てきなのか。1-1 の 36 で見みた「他律的たりつてきな自律性じりつせい」の矛盾むじゅんが、この一句いっくにも影かげのように付ついている。
  • 他人たにん本ほん位いというのは、自分じぶんの酒さけを人ひとに飲のんでもらつて、その品評ひんぴょうを聞きいて、それを理りが非ひでもそうだとしてしまふ事ことです。夏目なつめ漱石そうせき『私わたしの個人こじん主義しゅぎ』(1914)
    自分じぶんの舌したで味あじわわずに、他人たにんの評価ひょうかを自分じぶんの判断はんだんとして引ひき受うけてしまう。主体しゅたいでない状態じょうたいを、これ以上いじょうないほど具体的ぐたいてきに描えがいた一節いっせつである。注目ちゅうもくしたいのは、飲のんでいないのは自分じぶんだということだ。奪うばわれたのではない。飲のむ労ろうを省はぶいて、判断はんだんだけを受うけ取とっている。カントの「自みずから招まねいた未み成せい年ねん状態じょうたい」と正確せいかくに同おなじことを言いっている。そして漱石そうせきは、この状態じょうたいを脱だつするのに十じゅう年ねん近ちかくかかったと同おなじ講演こうえんで述のべている。主体しゅたいになることは決意けついではなく過程かていだ — この時間じかんの長ながさが、「主体性しゅたいせいを持もて」という掛かけ声こえとの差さである。
  • 主体しゅたいは行為こういする側がわ、主観しゅかんは認識にんしきする側がわ。英語えいごではどちらも subject である。 この区別くべつが最大さいだいの要点ようてんになる。89 と対たいにして位置いちを固定こていしたい。英語えいごの一語いちごが日本語にほんごで二ふたつに割われたところに、訳語やくごの事情じじょうがある。評ひょう論文ろんぶんでは「主体性しゅたいせい」が肯定こうてい語ごとして使つかわれ、指示しじに従したがうだけの状態じょうたい(1-1 の 37 他律たりつ)と対比たいひされる。
  • ×彼かれはよく物事ものごとを考かんがえる。主体しゅたいが強つよい。 考かんがえる働はたらきの話はなしなら「主観しゅかん」、自分じぶんから働はたらきかける姿勢しせいなら「主体性しゅたいせいがある」である。主体しゅたいそのものは行為こういの起点きてんを指さす名詞めいしで、強つよい弱よわいで測はかるものではない。「認識にんしきしているのか、働はたらきかけているのか」を問とえばよい。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

反はん 107 客体きゃくたい / 関せき 89 主観しゅかん

派生はせい形けい
  • 主体的しゅたいてき[0]ほぼ肯定こうてい語ご。ただし要求ようきゅうの言葉ことばとして使つかわれるとき、その肯定こうてい性せいが断ことわりにくさに変かわる。褒ほめ言葉ことばであることが、そのまま圧力あつりょくになる。
  • 主体性しゅたいせい[0]性質せいしつとして取とり出だす形かたち。「主体性しゅたいせいを持もつ」「主体性しゅたいせいが失うしなわれる」と所有しょゆうや喪失そうしつで語かたられる。所有物しょゆうぶつとして扱あつかうと、持もっていない者ものの責任せきにんになりやすい — 構造こうぞうの問題もんだいが個人こじんの資質ししつへ移うつされるよくある道みちすじである。
  • 主体化しゅたいか[0]「化か」が過程かていを指さす。主体しゅたいは生うまれつきあるのではなく作つくられるという現代げんだい思想しそうの主張しゅちょうを担になう。1-4 の 83 で見みた規範きはんの内面化ないめんかと同おなじ場所ばしょにあり、従属じゅうぞくと主体しゅたい化かが同おなじ一ひとつの過程かていだという見方みかたに行いき着つく。
コロケーション
  • 主体性しゅたいせい肯定こうてい語ごとしての形かたち指示しじを待またずに自分じぶんから動うごくという評価ひょうか語ごとして広ひろく使つかわれる。ただし評ひょう論文ろんぶんでは、この語ごが要求ようきゅうとして使つかわれる場面ばめんが問題もんだいにされる。「主体性しゅたいせいを発揮はっきせよ」と組織そしきが求もとめるとき、発揮はっきする範囲はんいはあらかじめ決きめられている。1-1 の 36 で見みた「他律的たりつてきな自律性じりつせい」が、ここで現代げんだいの職場しょくばの言葉ことばとして現あらわれる。
  • 主体しゅたい化か作つくられる主体しゅたい主体しゅたいが社会しゃかいや言語げんごによって作つくられるという現代げんだい思想しそうの主張しゅちょう。「化か」が付つくことで、主体しゅたいは出発点しゅっぱつてんではなく結果けっかになる。呼よびかけられ、名なを与あたえられ、応答おうとうすることによって主体しゅたいになる。だから主体しゅたいであることと従属じゅうぞくしていることが同時どうじに成なり立たつ — この二に重じゅう性せいが、主体性しゅたいせいへの素朴そぼくな信頼しんらいを問とい直なおす根拠こんきょになっている。
  • 主体しゅたいと客体きゃくたい働はたらきかける側がわと受うける側がわ行為こういの起点きてんと、その向むかう先さき。89・90 の主観しゅかん/客観きゃっかんが認識にんしきの対たいであるのに対たいし、こちらは行為こういの対たいである。四よん語ごを「認識にんしきか行為こういか」「する側がわかされる側がわか」の二に軸じくに置おくと、この節せつの設問せつもんはほぼ落おとさない。
  • 主体しゅたい的てきに取とり組くむ日常にちじょう語ごの主役しゅやくほぼ無条件むじょうけんの褒ほめ言葉ことばとして通用つうようする。注意ちゅういしたいのは、何なんに取とり組くむかは他人たにんが決きめている場合ばあいが多おおいことだ。課題かだいは与あたえられ、取とり組くみ方ほうだけが主体しゅたいに任にんされる。主体性しゅたいせいが「範囲はんい内ないでの自由じゆう」に縮ちぢんでいないかを問とうのが、評ひょう論文ろんぶんの常套じょうとう的てきな手てつきである。
格かく中なか

書かき言葉ことば・会話かいわの両方りょうほうで使つかえる。

類るい語ごと差さ
  • 客体きゃくたい働はたらきかけられる側がわ☑107。対たい語ご。行為こういの向むかう先さき。
  • 主観しゅかん認識にんしきする側がわの意識いしき☑89。主観しゅかんは認識にんしきの主しゅ、主体しゅたいは行為こういの主しゅ。混同こんどうしやすい最大さいだいの相手あいて。
  • 自我じが自分じぶんという意識いしき☑98。内面ないめんの意識いしき。主体しゅたいは世界せかいへ働はたらきかける位置いち。
  • 当事者とうじしゃその事柄ことがらに直接ちょくせつ関かかわる人ひと立場たちばの話はなし。主体しゅたいは意志いしと行為こういの起点きてんであることを言いう。

ENsubject / agent
ZH主体(主体, zhǔtǐ)

107★★

客体きゃくたい

きゃくたい[0]平板へいばん型がた

語ご構成こうせい
客きゃくまろうど・そと+体からだからだ・もの
定義ていぎ

主体しゅたいの認識にんしき・行為こういなどの対象たいしょうとなるもの。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑107
使用しようの境界きょうかい

働はたらきかけられる側がわ。行為こういの向むかう先さきを指さす。認識にんしきされる側がわを指さす客観きゃっかんとは位置いちが違ちがう。

用法ようほう

単独たんどくではほとんど使つかわず、主体しゅたいとの対たいでのみ現あらわれる。要点ようてんは「客体きゃくたい化かする」という動詞どうし形けいで、それまで主体しゅたいだったものを働はたらきかけられる側がわに置おき直なおすことを指さす。人ひとを客体きゃくたい化かするとは、意志いしを持もつ存在そんざいとしてではなく扱あつかわれるものとして見みることであり、批判ひはん語ごとして使つかわれる。☑9 対象たいしょう化かと近ちかいが、対象たいしょう化かが認識にんしきの話はなしであるのに対たいし、客体きゃくたい化かは行為こういと扱あつかいの話はなしである。この差さを押おさえると誤ご用ようが避さけられる。

用例ようれい
  • 己おのれの欲よくせざる所しょは、人ひとに施せすこと勿なかれ。『論語ろんご』顔淵がんえん篇へん
    自分じぶんがされたくないことを、人ひとにするな。一見いっけんすると単純たんじゅんな教おしえだが、客体きゃくたい化かを禁きんじる原理げんりとして読よめる。この一句いっくが成なり立たつには、相手あいてが自分じぶんと同おなじように「されたくない」と感かんじる存在そんざいだと認みとめていなければならない。相手あいてを物ものとして見みているなら、この照合しょうごうはそもそも起おこらない。注目ちゅうもくしたいのは、基準きじゅんが自分じぶんの側がわに置おかれていることだ。相手あいての意い向こうを聞きくのではなく、自分じぶんの嫌いやなことから推すいす。これは 1-3 の 61 で見みたアナロジーの操作そうさであり、他者たしゃを理解りかいする道みちが類るい推すいしか無ないという事実じじつを、倫理りんりの原理げんりとして引ひき受うけている。
  • 根源こんげん語ご〈われ―なんじ〉を語かたる者ものは、その全ぜん存在そんざいをもって語かたる。根源こんげん語ご〈われ―それ〉を語かたる者ものは、全ぜん存在そんざいをもって語かたることはできない。マルティン・ブーバー『我われと汝なんじ』(1923)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    相手あいてを「なんじ」と呼よぶか「それ」と呼よぶかで、呼よぶ側がわの在あり方ほうまで変かわるという。客体きゃくたい化かの問題もんだいが、ここではされる側がわだけでなくする側がわの問題もんだいとして書かかれている。人ひとを「それ」として扱あつかうとき、自分じぶんもまた全ぜん存在そんざいで向むき合あってはいない。注目ちゅうもくしたいのは、ブーバーが〈われ―それ〉を悪あくだとは言いっていないことだ。道具どうぐを使つかい、物ものを数かぞえ、人ひとを役割やくわりで扱あつかわなければ社会しゃかいは回かいらない。問題もんだいは、それしかできなくなることである。1-1 の 9 で見みた対象たいしょう化かと同おなじで、操作そうさそのものではなくその一色いっしょくになることが批判ひはんされる。
  • 人ひとを客体きゃくたい化かするとは、意志いしを持もつ存在そんざいとしてではなく、扱あつかわれるものとして見みることである。 批判ひはん語ごとして使つかわれる。1-1 の 9 の対象たいしょう化かと近ちかいが、対象たいしょう化かが認識にんしきの話はなしであるのに対たいし、客体きゃくたい化かは行為こういと扱あつかいの話はなしである。この差さを押おさえると誤ご用ようが避さけられる。「自然しぜんを対象たいしょう化かする」とは言いうが、「自然しぜんを客体きゃくたい化かする」とはあまり言いわない — 自然しぜんに行為こういを向むけるという言いい方かたがなじまないからである。
  • ×調査ちょうさの客体きゃくたいとして五百ごひゃく人ひとを選えらんだ。 調査ちょうさが向むけられる先さきなら「対象たいしょう」で足たりる。客体きゃくたいは主体しゅたいとの対たいでのみ現あらわれる語ごで、単独たんどくではほとんど使つかわない。「主体しゅたい」が近ちかくにあるかどうかを確たしかめてから使つかう。無なければ、対象たいしょう・客観きゃっかん・標的ひょうてきのどれかが当あたる。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

反はん 106 主体しゅたい / 関せき 90 客観きゃっかん

派生はせい形けい
  • 客体的きゃくたいてき[0]使用しよう頻度ひんどは低ひくい。「客体きゃくたい的てきな位置いちに置おかれる」のように、受うけ身みの構文こうぶんとともに使つかわれる。能のう動どうで使つかいにくいこと自体じたいが、この語ごの位置いちを示しめしている。
  • 客体化きゃくたいか[0]この語幹ごかんの実際じっさいの主役しゅやく。批判ひはん語ごとして働はたらく。1-1 の 9 の対象たいしょう化かと認識にんしきか行為こういかで分わける。
  • 主体しゅたい[0]対たい語ご。この二に語ごはどちらか一方いっぽうでは意味いみが立たたない。106 と合あわせて、主観しゅかん・客観きゃっかん・主体しゅたい・客体きゃくたいの四よん語ごを一いち枚まいの図ずに置おいておくとよい。
コロケーション
  • 客体きゃくたい化かする扱あつかわれるものへそれまで主体しゅたいだったものを、働はたらきかけられる側がわに置おき直なおす。人ひとについて使つかわれるとき、ほぼ必かならず批判ひはん語ごになる。注意ちゅういしたいのは、客体きゃくたい化かは視線しせんだけでは完成かんせいしないことだ。見みるだけなら対象たいしょう化かにとどまる。扱あつかい方ほうまで変かわったとき、それは客体きゃくたい化かになる。
  • 主体しゅたいと客体きゃくたいの反転はんてん入いれ替かわる位置いち同おなじ人ひとが、場面ばめんによって主体しゅたいにも客体きゃくたいにもなる。雇やという側がわでは主体しゅたい、雇やとわれる側がわでは客体きゃくたい。固定こていした属性ぞくせいではなく関係かんけいの中なかでの位置いちである。1-1 の 21 の疎そ外がい、1-4 の 84 のオリエンタリズムが問題もんだいにするのは、その位置いちが固定こていされてしまうことのほうだ。
  • 客体きゃくたいとしての身体しんたい医療いりょうの言葉ことば患者かんじゃの身体しんたいを、本人ほんにんから切きり離はなして扱あつかう視線しせん。91 の心身しんしん二元にげん論ろんがここで実務じつむになる。医学いがくが身体しんたいを客体きゃくたいとして扱あつかえたから治療ちりょうが進すすんだ。同時どうじに、そこに人ひとが住すんでいることが見みえにくくなった。116 の倫理りんり、とりわけ生命せいめい倫理りんりはこの裂さけ目めから立たち上あがっている。
  • 客体きゃくたいと客観きゃっかん行為こういか認識にんしきか客体きゃくたいは働はたらきかけられる側がわ、客観きゃっかんは認識にんしきされる側がわ。90 と対たいにして覚おぼえる。英語えいごではどちらも object で、日本語にほんごがここで二ふたつに割わった。割わったおかげで、「客観的きゃっかんてきに見みる」と「客体きゃくたいとして扱あつかう」を区別くべつして論ろんじられるようになった — 訳語やくごが思考しこうの道具どうぐを増ふやした例れいである。
格かく硬かた

書かき言葉ことば。会話かいわでは不自然ふしぜん。

類るい語ごと差さ
  • 主体しゅたい働はたらきかける側がわ☑106。対たい語ご。
  • 客観きゃっかん認識にんしきされる側がわの対象たいしょう☑90。客観きゃっかんは認識にんしきの対象たいしょう、客体きゃくたいは行為こういの対象たいしょう。
  • 対象たいしょう意識いしきや行為こういが向むかうもの☑9。より広ひろい。客体きゃくたいは主体しゅたいとの対たいでのみ使つかう。
  • 受うけ身み働はたらきかけを受うける文法ぶんぽう・態度たいどの語ご。客体きゃくたいは関係かんけいの中なかの位置いち。

ENobject
ZH客体(客体, kètǐ)

解説かいせつ ── 主体しゅたい・客体きゃくたい

主体しゅたいは主観しゅかんと同様どうように、英語えいごの subject を訳やくしたもの。また客体きゃくたいは、英語えいごでは object であり、こちらも客観きゃっかんの意いがある。したがって、英語えいごの単語たんごとしては、主観しゅかん・客観きゃっかんと主体しゅたい・客体きゃくたいとの間あいだに区別くべつはない。

ただし、主観しゅかんや客観きゃっかんという場合ばあい、物事ものごとの「認識にんしき」に関かんする場合ばあいに用もちいられることが多おおく、主体しゅたいや客体きゃくたいという場合ばあい、実践的じっせんてきな行為こういを含ふくんだ文脈ぶんみゃくで多た用ようされる。

たとえば、「できるだけ主観しゅかんを入いれないようにする」と言いっても、「できるだけ主体しゅたいを入いれないようにする」とは言いわない。主観しゅかんは、認識にんしきの仕方しかたのことを指さすのに対たいして、主体しゅたいは、認識にんしきする当とうの存在そんざいを意味いみしているからである。

対立たいりつの軸じく

主体しゅたい/客体きゃくたい の軸じく = 働はたらきかける側がわか、される側がわか

主体しゅたい自みずからの意志いしで働はたらきかける側がわ。
働はたらきかける側がわか、される側がわか
客体きゃくたい働はたらきかけられる側がわ。
主観・客観・主体・客体の四象限認識の軸と行為の軸で、主観と客観、主体と客体の四語を整理した図。 認識の軸 ── 知る/知られる 行為の軸 ── する/される する側 される側 主観 認識する側の意識 客観 認識される対象 主体 意志をもって働きかける側 客体 働きかけられる側 知る はたらく 英語ではどちらも subject と object である。日本語訳が二つに分けた。 上下を取り違えると、設問を落とす
主観しゅかん・客観きゃっかん・主体しゅたい・客体きゃくたいの四よん象限しょうげん
Section 16

理性りせい/感かん性せい/形而上けいじじょう/ア・プリオリ/ア・ポステリオリ

108★★

理性りせい

りせい[1]頭高あたまだか型がた

語ご構成こうせい
理りことわり・すじみち+性せいそのはたらき
定義ていぎ

物事ものごとを合理的ごうりてきに判断はんだんする心こころのはたらき。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑108
原げん書しょの解説かいせつ

理性りせいとは、定義ていぎとしては合理的ごうりてき・論理的ろんりてき・概念的がいねんてきに思考しこうする能力のうりょくのこと。英語えいごでは reason にあたるが、reason は〈理性りせい〉だけでなく〈理由りゆう〉も意味いみする。物事ものごとの「理由りゆう」を考かんがえる能力のうりょくを「理性りせい」だと考かんがえるとわかりやすいだろう。

理性りせいは人間にんげんと動物どうぶつを区別くべつする特別とくべつな能力のうりょくだが、理性りせいを絶対ぜったい視しした近代きんだいは合理性ごうりせいや効率こうりつ性せいばかりを追おい求もとめる態度たいどを生うみ出だしてしまった。しかし、人間にんげんは理性りせいだけでなく、感情かんじょう・情緒じょうちょ・欲望よくぼうももっている。また、自然しぜんや社会しゃかいも、理性的りせいてきに考かんがえるだけではとらえきれない面めんをもつ。

使用しようの境界きょうかい

筋道すじみち立たてて考かんがえ、感情かんじょうに流ながされずに判断はんだんする能力のうりょく。人間にんげんを人間にんげんたらしめるものとされてきた。

用法ようほう

近代きんだいを支ささえた中心ちゅうしん概念がいねんである。理性りせいがあるから人間にんげんは迷信めいしんや権威けんいから自由じゆうになれる──この信頼しんらいが啓蒙けいもうの原げん動どう力りょくになった。評ひょう論文ろんぶんで重要じゅうようなのはその反転はんてんで、理性りせいへの信頼しんらいが世界せかい大戦たいせんと管理かんり社会しゃかいを生うんだのではないかという批判ひはん(フランクフルト学派がくは)が二十にじゅう世紀せいきの主題しゅだいになる。したがって「理性りせい」が出でたら、肯定的こうていてきに語かたられているか、限界げんかいを問とわれているかを見みる。感かん性せい・情念じょうねんとの対たいで出でるのが基本きほん形けいで、どちらを上位じょういに置おくかが論ろん者しゃの立場たちばを示しめす。

用例ようれい
  • 人間にんげんは一本いっぽんの葦あしにすぎない。自然しぜんのうちで最もっとも弱よわいものである。だが、それは考かんがえる葦あしである。……宇宙うちゅうが彼かれを押おしつぶしても、人間にんげんは彼かれを殺ころすものより尊とうとい。自分じぶんが死しぬことを知しっているからである。ブレーズ・パスカル『パンセ』(1670)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    理性りせいへの信頼しんらいを、弱よわさの自覚じかくの上うえに立たてた一節いっせつである。注目ちゅうもくしたいのは順序じゅんじょだ。まず最もっとも弱よわいものだと言いう。そのうえで、考かんがえることによって押おしつぶすものより尊とうとい、と続つづける。力ちからでは勝かてないが、知しっているという一点いってんで勝まさる。ここに近代きんだいが理性りせいに託たくしたものが凝縮ぎょうしゅくしている。理性りせいがあるから、人間にんげんは迷信めいしんからも権威けんいからも自由じゆうになれる — この確信かくしんが啓蒙けいもうの原げん動どう力りょくになった。ただしパスカルは同時どうじに「心こころは理性りせいの知しらない理由りゆうを持もつ」とも書かいている。理性りせいを讃たたえた人ひとが、その限界げんかいも同おなじ書物しょもつに書かき残のこしていた。
  • 理性りせいの眠ねむりは怪物かいぶつを生うむ。フランシスコ・デ・ゴヤ『ロス・カプリチョス』第だい四十よんじゅう三さん番ばんの銘めい(1799)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    机つくえに突つっ伏ぷして眠ねむる男おとこの背後はいごから、梟ふくろうと蝙蝠こうもりが湧わき出です版画はんがに添そえられた一行いちぎょうである。二に通とおりに読よめるところが、この銘めいの力ちからだ。一ひとつは、理性りせいが眠ねむると迷信めいしんと狂気きょうきが現あらわれる — 啓蒙けいもうの側がわからの警告けいこくとして。もう一ひとつは、理性りせいそのものが眠ねむりのなかで怪物かいぶつを産さんみ落おとす — こちらは啓蒙けいもうへの疑うたがいになる。ゴヤは注釈ちゅうしゃくで、想像力そうぞうりょくは理性りせいに見み捨すてられると怪物かいぶつを生うむが、理性りせいと結むすばれれば芸術げいじゅつの母ははになると書かいた。それでも二ふたつ目めの読よみは消きえない。二十にじゅう世紀せいきに、理性りせいへの信頼しんらいが世界せかい大戦たいせんと管理かんり社会しゃかいを生うんだのではないかという批判ひはんが現あらわれたとき、この版画はんがは繰くり返かえし引ひかれることになる。
  • 理性りせいへの信頼しんらいが、結果けっかとして世界せかい大戦たいせんと管理かんり社会しゃかいを生うんだのではないか — 二十にじゅう世紀せいきの批判ひはんはここから始はじまる。 この反転はんてんが読解どっかいの要点ようてんである。理性りせいは近代きんだいを支ささえた中心ちゅうしん概念がいねんだった。それがなぜ批判ひはんされるのか。効率こうりつよく組織そしきし、計算けいさんし、管理かんりする力ちからは、収容しゅうよう所しょも官僚制かんりょうせいも同おなじ理性りせいから出でてくるからだ。フランクフルト学派がくはの議論ぎろんがこの線せん上じょうにある。「理性りせい」が出でたら、肯定的こうていてきに語かたられているか限界げんかいを問とわれているかを見みる。
  • ×感情的かんじょうてきにならず落おち着ついていた。理性りせいがあった。 落おち着ついた態度たいどを言いうなら「理性的りせいてき」である。理性りせいそのものは能力のうりょくの名なで、有ある無なしで測はかるものではない。感かん性せい・情念じょうねんとの対たいで出でるのが基本きほん形けいで、どちらを上位じょういに置おくかが論ろん者しゃの立場たちばを示しめす。この対たいを見みつけたら、まず序列じょれつを確たしかめる。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

反はん 109 感かん性せい / 関せき 情念じょうねん(パトス)/103 ロゴス

派生はせい形けい
  • 理性的りせいてき[0]実際じっさいの用法ようほうの主役しゅやく。感情かんじょうに流ながされない態度たいどを指さす。109 の「感かん性せい的てき」が肯定こうていにも否定ひていにも転ころぶのに対たいし、こちらは安定あんていして肯定こうていである。
  • 理性主義りせいしゅぎ[0]「主義しゅぎ」が付ついて立場たちばになる。合理主義ごうりしゅぎとほぼ重かさなる。1-2 の 47 で見みたとおり、理性りせいを重おもんじることと、理性りせい以外いがいを認みとめないことは別べつである。
  • 非理性的ひりせいてき[2]「非ひ」は枠わくの外そとを指さす。1-1 の 13 で見みたとおり、「不ふ」ではなく「非ひ」であることに意味いみがある。理性りせいで測はかれないというだけで、誤あやまっているという意味いみではない。
コロケーション
  • 理性的りせいてき肯定こうていと限界げんかいのあいだ感情かんじょうに流ながされないという褒ほめ言葉ことば。ただし評ひょう論文ろんぶんでは、この肯定こうていがいつ限界げんかいに変かわるかを見みる。目的もくてきを問とわずに手段しゅだんだけを最適化さいてきかする働はたらきを道具どうぐ的てき理性りせいと呼よび、批判ひはんの的まとにする議論ぎろんがある。効率こうりつよく行おこなうことと、何なにを行おこなうべきかは別べつの問といだ。
  • 理性りせいの限界げんかい二十にじゅう世紀せいきの主題しゅだい理性りせいは自分じぶんの限界げんかいを理性りせいで見みつけられるかという問といを含ふくむ。カントの『純粋じゅんすい理性りせい批判ひはん』はまさにそれを試こころみた書物しょもつだった。「批判ひはん」とは非難ひなんではなく能力のうりょくの範囲はんいを吟味ぎんみすることである。110 の形而上けいじじょうが「答こたえの出でない問とい」の領域りょういきとされるのは、この吟味ぎんみの結果けっかにほかならない。
  • 理性りせいと感かん性せい基本きほんの対たい109 と対たいで読よむ。カントの枠組わくぐみでは、感かん性せいが素材そざいを受うけ取とり、悟性ごせいがそれを概念がいねんでまとめ、理性りせいがさらに全体ぜんたいをまとめる。役割やくわり分担ぶんたんであって優劣ゆうれつではない。「内容ないようなき思考しこうは空虚くうきょ、概念がいねんなき直観ちょっかんは盲目もうもく」という一句いっくが、その分担ぶんたんを要約ようやくしている。
  • 道具どうぐ的てき理性りせい目的もくてきを問とわない力ちから目的もくてきの当否とうひは問とわず、手段しゅだんの効率こうりつだけを高たかめる働はたらき。フランクフルト学派がくはの批判ひはん概念がいねんである。1-2 の 12 で見みた合理化ごうりか、1-1 の 16 の自己じこ目的もくてき化かと同おなじ場所ばしょにある — 手段しゅだんが完成度かんせいどを上あげるほど、何なにのためかが問とわれなくなる。
格かく中なか

書かき言葉ことば・会話かいわの両方りょうほうで使つかえる。

類るい語ごと差さ
  • 感かん性せい感かんじ取とる能力のうりょく☑109。対たい語ご。理性りせいは概念がいねんで考かんがえる力ちから、感かん性せいは受うけ取とる力ちから。
  • 情念じょうねん理性りせいで抑おさえられない激情げきじょう☑34。ロゴスとパトスの対たいに対応たいおうする。
  • 悟性ごせい感覚かんかくを概念がいねんでまとめる能力のうりょくカントの語ご。理性りせいはさらに上位じょういで、全体ぜんたいを統一とういつする働はたらきを指さす。
  • 知性ちせい知的ちてきな働はたらき全般ぜんぱん広ひろい。理性りせいは判断はんだんと統御とうぎょの側面そくめんに重心じゅうしんがある。

ENreason
ZH理性(理性, lǐxìng)

109★★

感性かんせい⚠

かんせい[0]平板へいばん型がた

語ご構成こうせい
感かんかんじる+性せいそのはたらき
定義ていぎ

物事ものごとを直感的ちょっかんてきに把握はあくする心こころのはたらき。感かん受じゅ性せい。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑109
原げん書しょの解説かいせつ

感かん性せいの一般的いっぱんてきな意味いみとしては、喜怒哀楽きどあいらくなどを感かんじる能力のうりょくや、芸術げいじゅつ作品さくひんに感動かんどうする能力のうりょくなどを指さす。感かん受じゅ性せい・センスなどと言いい換かえるとわかりやすい。

こうした直感的ちょっかんてきに物事ものごとを感かんじる能力のうりょくの他ほかに、感かん性せいという語ごは〈人間にんげんの自然しぜんな欲求よっきゅう〉という意味いみでも用もちいられることがある。

なお、近代きんだいの哲学てつがくでは、感かん性せいは理性りせいより下位かいのものとされ、感かん性せいがとらえる感情的かんじょうてきな要素ようそは、人間にんげんを理解りかいする上うえであまり重視じゅうしされなかった。

使用しようの境界きょうかい

外界がいかいを感かんじ取とる能力のうりょく。哲学てつがくでは受うけ取とる働はたらきを指さし、日常にちじょう語ごの「センスのよさ」とは層そうが違ちがう。

用法ようほう

哲学てつがくでは受容じゅようの能力のうりょくを指さす中立ちゅうりつの語ごで、優劣ゆうれつを含ふくまない。カントは、感かん性せいが素材そざいを受うけ取とり、悟性ごせいがそれを概念がいねんでまとめる、と役割やくわりを分わけた。ところが日本語にほんごの日常にちじょう語ごでは「感かん性せいがいい」「感かん性せいが豊ゆたかだ」のように、美的びてきな 判定はんていとしての優劣ゆうれつを含ふくむ語ごになっている。この用法ようほうは中国語ちゅうごくごには無なく、日本語にほんご独自どくじである。評ひょう論文ろんぶんでは理性りせいとの対たいで出でるので、まず哲学てつがく語ごとして読よみ、日常にちじょう語ごの評価ひょうか的てきな含ふくみを持もち込こまない。

用例ようれい
  • 内容ないようなき思考しこうは空虚くうきょであり、概念がいねんなき直観ちょっかんは盲目もうもくである。イマヌエル・カント『純粋じゅんすい理性りせい批判ひはん』(1781)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    感かん性せいと悟性ごせいの分業ぶんぎょうを一行いちぎょうで述のべた句くである。感かん性せいが素材そざいを受うけ取とり、悟性ごせいがそれを概念がいねんでまとめる。片方かたほうだけでは何なにも成なり立たたない。素材そざいの無ない思考しこうは空そら回まわりし、まとめる枠わくの無ない感覚かんかくは何なにも見みていないのと同おなじだ。注目ちゅうもくしたいのは、ここに優劣ゆうれつが無ないことである。哲学てつがくにおける感かん性せいは受うけ取とる能力のうりょくを指さす中立ちゅうりつの語ごで、「感かん性せいが豊ゆたかだ」という日本語にほんごの日常にちじょう用法ようほうとは層そうが違ちがう。日常にちじょう語ごのほうは美的びてきな判定はんていとしての優劣ゆうれつを含ふくんでおり、この用法ようほうは中国語ちゅうごくごには無なく、日本語にほんご独自どくじである。評ひょう論文ろんぶんでは、まず哲学てつがく語ごとして読よみ、日常にちじょう語ごの評価ひょうか的てきな含ふくみを持もち込こまないことが第一だいいち歩ほになる。
  • 事ことにふれて、その心こころをわきまへしる、これ事ことの心こころをしる也なり、物ものの心こころをしる也なり、物もののあはれをしる也なり。本居もとおり宣長のりなが『石上私淑言いそのかみささめごと』(1763頃ころ)
    「もののあはれ」を定義ていぎした一節いっせつである。注目ちゅうもくしたいのは「事ことにふれて」という出でだしだ。こちらから探さがしに行いくのではない。触ふれられて、はじめて動うごく。この受動性じゅどうせいが、感かん性せいという語ごの哲学的てつがくてきな中身なかみと正確せいかくに重かさなる。1-1 の 34 で見みたパトス(受うけること)とも同おなじ根ねにある。さらに宣長のりながは、知しることとしてこれを書かいている。感かんじるのではなく「しる」。感かん性せいは認識にんしきの一いち形態けいたいであって、認識にんしきの手前てまえにある混沌こんとんではない。カントが感かん性せいを認識にんしきの第一だいいち段だんに据すえたのと、ここで思おもいがけず手てが届とどいている。
  • 哲学てつがくの感かん性せいは受容じゅようの能力のうりょくを指さす中立ちゅうりつの語ごで、優劣ゆうれつを含ふくまない。 ここが日本語にほんごの日常にちじょう語ごとの分わかれ目めである。「感かん性せいがいい」「感かん性せいが豊ゆたかだ」は美的びてきな判定はんていとしての優劣ゆうれつを含ふくむ。この用法ようほうは日本語にほんご独自どくじで、中国語ちゅうごくごには無ない。評ひょう論文ろんぶんでは理性りせいとの対たいで出でるので、まず哲学てつがく語ごとして読よむ。
  • ×彼かれは感かん性せいが鋭するどいので、論理ろんりも正確せいかくだ。 感かん性せいと論理ろんりは別べつの能力のうりょくである。カントの枠組わくぐみでは、感かん性せいが素材そざいを受うけ取とり、悟性ごせいが概念がいねんでまとめる。受うけ取とる力ちからが高たかいことと、まとめる力ちからが高たかいことは別べつだ。日常にちじょう語ごの「感かん性せいがいい」に引ひきずられると、能力のうりょく全般ぜんぱんが高たかいという意味いみに広ひろがってしまう。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

反はん 108 理性りせい

派生はせい形けい
  • 感性的かんせいてき[0]哲学てつがく語ごとしては中立ちゅうりつ。「感かん性せい的てきなもの」は感覚かんかくに与あたえられるものを指さし、110 の形而上けいじじょう(感覚かんかくを超こえたもの)と対たいになる。
  • 美的感性びてきかんせい[0]日本語にほんごの日常にちじょう用法ようほうを限定げんていして学術がくじゅつ寄よりに整ととのえた形かたち。「感かん性せい」だけでは何なんについての感かん性せいか決きまらないので、領域りょういきを冠かんむりする。1-4 の 74 で見みた「文明ぶんめい」が分野ぶんや名めいを要求ようきゅうするのと同おなじ作つくりである。
  • 悟性ごせい[0]カントの枠組わくぐみで感かん性せいと対たいをなす能力のうりょく。受うけ取とった素材そざいを概念がいねんでまとめる。感かん性せい・悟性ごせい・理性りせいの三さん段だんを押おさえておくと、108・109 の議論ぎろんの位置いちが定さだまる。
コロケーション
  • 感かん性せい的てき哲学てつがく語ごとしての形かたち感かん性せいを通とおして与あたえられるという限定げんてい。「感かん性せい的てき直観ちょっかん」「感かん性せい的てき所与しょよ」のように使つかう。日常にちじょう語ごの「感かん性せいが豊ゆたか」とはまったく違ちがう層そうにあり、評価ひょうかをいっさい含ふくまない。哲学てつがくの文章ぶんしょうでこの語ごに出会であったら、褒ほめているのでも貶けなしているのでもないとまず構かまえておく。
  • 理性りせいと感かん性せいの序列じょれつ論ろん者しゃの立場たちばが出でる場所ばしょどちらを上位じょういに置おくかで立場たちばが分わかれる。近代きんだいは理性りせいを上うえに置おいた。ロマン主義しゅぎ(1-6 の 136)はそれを引ひきっくり返かえした。注意ちゅういしたいのは、引ひきっくり返かえしても序列じょれつは残のこることだ。カントの分業ぶんぎょう論ろんは序列じょれつを作つくらなかった点てんで、いまも参照さんしょうされる値打ねうちがある。
  • 感かん性せいを磨みがく日常にちじょう語ごの主役しゅやく美的びてきな判断力はんだんりょくを高たかめるという意味いみ。日本語にほんご独自どくじの用法ようほうである。面白おもしろいのは、「磨みがく」という動詞どうしが感かん性せいを技術ぎじゅつとして扱あつかっていることだ。生うまれつきのものなら磨みがくけない。この動詞どうしの選択せんたくに、感かん性せいが学まなべるものだという日本語にほんご話者わしゃの前提ぜんていが現あらわれている。
  • 感かん性せいと感覚かんかく受うけ取とる力ちからと、受うけ取とったもの感かん性せいは能力のうりょく、感覚かんかくはその働はたらきと結果けっか。94 で見みた感覚かんかく → 知覚ちかく → 認識にんしきの階梯かいていのうち、感かん性せいはその第一だいいち段だんを可能かのうにしている条件じょうけんにあたる。「感覚かんかくが鋭するどい」は個々ここの場面ばめんの話はなし、「感かん性せいが鋭するどい」は能力のうりょく全般ぜんぱんの話はなし — 日常にちじょう語ごでもこの差さはいくらか保たもたれている。
格かく中なか

書かき言葉ことば・会話かいわの両方りょうほうで使つかえる。

類るい語ごと差さ
  • 理性りせい筋道すじみち立たてて考かんがえる能力のうりょく☑108。対たい語ご。感かん性せいが受うけ取とり、理性りせいが組くみ立たてる。
  • 感覚かんかく刺激しげきを受うけ取とること個々ここの受うけ取とり。感かん性せいはその能力のうりょくそのもの。
  • 感かん受じゅ性せい感かんじ取とりやすさ程度ていどの話はなし。感かん性せいは能力のうりょくの名な。
  • センス趣味しゅみや判断はんだんのよさ日常にちじょう語ご。日本語にほんごの「感かん性せいがいい」はこちらに近ちかい。

ENsensibility
ZH感性(感性・感覚的, gǎnxìng)

日中にっちゅうのズレ

中国語ちゅうごくごの 感かん性せい(gǎnxìng)は哲学てつがく語ごとしては同おなじだが、日常にちじょうでは「感性认识(感覚かんかく的てき認識にんしき)」のように理性りせいと対たいになる認識にんしきの段階だんかいを指さす。

日本語にほんごの「感かん性せいがいい」「感かん性せいが豊ゆたか」のような美的びてきセンスの優劣ゆうれつを言いう用法ようほうは中国語ちゅうごくごにはない。近ちかいのは 品ひん味あじ(pǐnwèi)。

110★

形而上けいじじょう

けいじじょう[0]平板へいばん型がた

語ご構成こうせい
形かたちかたち+而しこうして+上うえうえ

『易経えききょう』「形而上けいじじょう者しゃ謂い之の道みち、形而下けいじか者しゃ謂い之の器き」に由来ゆらいする。読よみが問とわれる語ごである。

定義ていぎ

絶対ぜったい者しゃ・絶対的ぜったいてき真理しんりなど、思考しこう上じょうでしか考かんがえられないもの。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑110
原げん書しょの解説かいせつ

形而上けいじじょうとは、辞書じしょ的てきには「形かたちをもたないもの・形かたちを超こえたもの」という意味いみだが、哲学てつがくの分野ぶんやで「形而上学けいじじょうがく」と言いう場合ばあい、神かみの存在そんざい証明しょうめいや宇宙うちゅうの根本こんぽん原理げんりを探究たんきゅうする学問がくもん内容ないようのことを指さす。

また、形而下けいじかという反はん意い語ごもあり、これは〈五ご感かんで知覚ちかくできる物質的ぶっしつてきなもの〉という意味いみ。はっきりと形かたちがあり、感覚かんかくによってその存在そんざいを知しることができるもののことを表あらわし、動植物どうしょくぶつ・石いし・水みずなど、物質ぶっしつからできているものはみな形而下けいじかである。したがって、科学かがくが扱あつかうのは形而下けいじかの世界せかいであるとも言いえる。

使用しようの境界きょうかい

形かたちを持もたず、感覚かんかくでは捉とらえられないもの。抽象的ちゅうしょうてきというだけでは足たりず、感覚かんかくを超こえていることを含ふくむ。

用法ようほう

出典しゅってんは『易経えききょう』の「形而上けいじじょう者しゃこれを道みちと謂いい、形而下けいじか者しゃこれを器うつわと謂いう」で、漢籍かんせき由来ゆらいの語ごである。西洋せいよう語ご metaphysics の訳語やくごとして当あてられた。要点ようてんは、抽象的ちゅうしょうてきであることではなく感覚かんかくを超こえていることにある。神かみ・魂たましい・存在そんざいそのものがその領域りょういきに属ぞくする。評ひょう論文ろんぶんでは「形而上学けいじじょうがく的てきな問とい」が、答こたえの出でない大おおきな問といを指さして使つかわれる。実証じっしょう主義しゅぎ(☑52)はこの領域りょういきを研究けんきゅうの対象外たいしょうがいに置おいたので、両者りょうしゃは正面しょうめんから対立たいりつする。読よみが問とわれる語ごでもある。

用例ようれい
  • 形而上けいじじょうなる者もの、これを道みちと謂いひ、形而下けいじかなる者もの、これを器うつわと謂いふ。『易経えききょう』繋辞けいじ上じょう伝でん
    この語ごの出でどころである。形かたちをこえたものが道みち、形かたちをそなえたものが器うつわ。注目ちゅうもくしたいのは「而しこう(しこう)して」という一いち字じが入はいっていることだ。「形かたちの上うえ」ではなく「形かたちにしてその上うえ」— 形かたちを通とおり越ごしたところという運動うんどうが語形ごけいに刻きざまれている。だから形而上けいじじょうは、単たんに抽象的ちゅうしょうてきだというだけでは足たりない。感覚かんかくを超こえていることが条件じょうけんになる。明治めいじになって西洋せいよう語ご metaphysics の訳語やくごにこの二字にじが当あてられたとき、漢籍かんせきの道みちと器うつわの対たいが、そのまま西洋せいようの存在論そんざいろんに貸かし出だされた。訳語やくごがうまくはまった例れいだが、そのぶん元もとの含ふくみも一緒いっしょに運はこばれている。
  • すべての人間にんげんは、生うまれつき知しることを欲よくする。その証拠しょうこは、感覚かんかくを愛あいすることである。アリストテレス『形而上学けいじじょうがく』第一だいいち巻かん(前四世紀ぜんよんせいき)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    形而上学けいじじょうがくという書物しょもつの書かき出だしである。意外いがいなことに、感覚かんかくから始はじまっている。見みること、聞きくこと自体じたいが楽たのしい — そこに知ちへの欲求よっきゅうの根ねがある、という。注目ちゅうもくしたいのは、感覚かんかくを超こえたものを扱あつかう学がくが、感覚かんかくへの愛あいから説とき起おこされていることだ。形而上けいじじょうは感覚かんかくの否定ひていではない。感覚かんかくから出発しゅっぱつして、その先さきへ行いこうとするところに成なり立たつ。なお『形而上学けいじじょうがく』という書名しょめい自体じたいは、『自然学しぜんがく』の後あとに置おかれた書物しょもつという編集へんしゅう上じょうの呼よび名なに由来ゆらいする。並ならび順じゅんが学問がくもんの名なになったという偶然ぐうぜんも、この語ごの来歴らいれきとして面白おもしろい。
  • 形而上けいじじょう学がく的てきな問といとは、答こたえの出でない大おおきな問といのことを指さして使つかわれる。 実証じっしょう主義しゅぎ(1-2 の 52)はこの領域りょういきを研究けんきゅうの対象外たいしょうがいに置おいた。確たしかめられないからである。だから両者りょうしゃは正面しょうめんから対立たいりつする。「答こたえが出でない」は「無意味むいみだ」を意味いみしない — この一点いってんをどう考かんがえるかが、評ひょう論文ろんぶんでこの語ごが出でてきたときの争点そうてんになる。読よみが問とわれる語ごでもある。
  • ×抽象的ちゅうしょうてきで難むずかしい話はなしなので形而上けいじじょう的てきだ。 抽象的ちゅうしょうてきであることと、感覚かんかくを超こえていることは違ちがう。「経済けいざい成長率せいちょうりつ」は抽象的ちゅうしょうてきだが、測はかれるので形而上けいじじょうではない。神かみ・魂たましい・存在そんざいそのもの — 原理げんり的てきに測はかれないものがこの領域りょういきに属ぞくする。「確たしかめる手段しゅだんが原理げんり的てきにあるか」を問とえばよい。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

反はん 形而下けいじか

派生はせい形けい
  • 形而上学けいじじょうがく[0]存在そんざいそのものを問とう部門ぶもん。書名しょめいがそのまま学問がくもんの名なになった。評ひょう論文ろんぶんでは、この語ごが肯定的こうていてきに使つかわれているか批判ひはんの対象たいしょうかをまず見みる。
  • 形而下けいじか[0]対たい語ご。感覚かんかくで捉とらえられるもの。「形而下けいじかの問題もんだい」と言いえば現実的げんじつてき・具体的ぐたいてきな問題もんだいを指さすが、この用法ようほうはやや気き取とった言いい方かたになる。
  • 形而上学的けいじじょうがくてき[0]「答こたえの出でない大おおきな問といに関かかわる」という意味いみで使つかわれる。しばしば揶揄やゆを含ふくむが、哲学てつがくの文脈ぶんみゃくでは中立ちゅうりつの分類ぶんるい語ごである。88 の「哲学的てつがくてき」と同おなじ二に層そう構造こうぞうを持もつ。
コロケーション
  • 形而上学けいじじょうがく学がくとしての形かたち存在そんざいそのものを問とう哲学てつがくの一部いちぶ門もん。神かみ・魂たましい・世界せかいの全体ぜんたいといった、感覚かんかくでは確たしかめられないものを扱あつかう。カントは『純粋じゅんすい理性りせい批判ひはん』でこの領域りょういきに人間にんげんの認識にんしきが届とどかないことを示しめし、同時どうじに人間にんげんがそれを問とわずにいられないことも認みとめた。108 で見みた「理性りせいの限界げんかい」とは、まずこの線引せんびきのことである。
  • 形而下けいじか対たいをなす語ご形かたちをそなえ、感覚かんかくで捉とらえられるもの。『易経えききょう』では「器うつわ」と呼よばれた。日常にちじょう語ごではほとんど使つかわれないが、この対たいを持もっておくと形而上けいじじょうの位置いちが定さだまる。1-1 の 3 の具体ぐたい、94 の知覚ちかくできる範囲はんいと同おなじ側がわにある。
  • 形而上学けいじじょうがく的てきな問とい答こたえの出でなさなぜ何なにも無ないのではなく何なにかが在あるのか。この形かたちの問といを指さす。実証じっしょうの手続てつづきが使つかえないので、答こたえは出でない。それでも問とわれ続つづけることが、この語ごのいちばん奥おくにある事実じじつである。88 で見みたとおり、答こたえの出でる問といは個別こべつの学問がくもんへ移うつっていく。
  • 形而上学けいじじょうがく批判ひはん二十にじゅう世紀せいきの主題しゅだい確たしかめられないことを語かたるのをやめよという要求ようきゅう。実証じっしょう主義しゅぎ、論理ろんり実証じっしょう主義しゅぎ、ウィトゲンシュタインの「語かたりえぬもの」がこの線せん上じょうに並ならぶ。注意ちゅういしたいのは、批判ひはんする側がわも「何なにが語かたりうるか」を決きめる基準きじゅんをどこかから持もってきていることだ。その基準きじゅん自体じたいは、確たしかめられない。
格かく硬かた・学術がくじゅつ

論文ろんぶん・評ひょう論ろんでのみ使つかう。会話かいわでは不自然ふしぜん。

類るい語ごと差さ
  • 形而下けいじか形かたちを持もち感覚かんかくで捉とらえられるもの対たい語ご。物質的ぶっしつてきなもの。
  • 抽象ちゅうしょう共通きょうつうする性質せいしつを抜ぬき出だしたもの☑4。抽象ちゅうしょうは操作そうさの結果けっか。形而上けいじじょうは感覚かんかくを超こえた存在そんざいの領域りょういき。
  • 超越的ちょうえつてき経験けいけんの範囲はんいを超こえている哲学てつがくの語ご。形而上けいじじょうとほぼ重かさなるが、こちらは経験けいけんとの関係かんけいを明示めいじする。
  • 観念かんねん的てき現実げんじつから離はなれている批判ひはん語ご。形而上けいじじょうは中立ちゅうりつの分類ぶんるい語ご。

ENmetaphysical
ZH形而上(形而上, xíng'érshàng)

111★

ア・プリオリ

ア・プリオリ[3]中高なかだか型がた

定義ていぎ

経験けいけんに先立さきだつこと。先天的せんてんてきに。あらかじめ。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑111
使用しようの境界きょうかい

経験けいけんに先立さきだって成なり立たつこと。生うまれつきという生物学せいぶつがく的てきな意味いみではなく、経験けいけんに依存いぞんしないという論理的ろんりてきな意味いみ。

用法ようほう

ラテン語ごで〈より前まえのものから〉。カントが認識論にんしきろんの中心ちゅうしんに据すえた語ごで、要点ようてんは経験けいけんに依存いぞんしないという一点いってんにある。「三角形さんかくけいの内角ないかくの和わは一いち八はち〇度ど」は、実際じっさいに測はからなくても成なり立たつのでア・プリオリ。「この水みずは一〇いちれい〇度どで沸騰ふっとうした」は測はかって初はじめて分わかるのでア・ポステリオリ。カントは、時間じかんと空間くうかんの枠組わくぐみ自体じたいがア・プリオリに与あたえられていると考かんがえた。つまり枠組わくぐみが先さきにあって経験けいけんが可能かのうになるという反転はんてんが要点ようてんである。

用例ようれい
  • 我々われわれのあらゆる認識にんしきが経験けいけんとともに始はじまるということには、いささかの疑うたがいもない。……しかし、我々われわれの認識にんしきのすべてが経験けいけんから生しょうじるわけではない。イマヌエル・カント『純粋じゅんすい理性りせい批判ひはん』緒論しょろん(1787)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    二ふたつの文ぶんの違ちがいが、この語ごのすべてである。「経験けいけんとともに始はじまる」ことは認みとめる。認みとめないのは「経験けいけんから生しょうじる」ほうだ。始はじまりの合図あいずと、生うみの親おやは別べつである。経験けいけんがきっかけを与あたえるが、その経験けいけんを受うけ取とる枠組わくぐみは経験けいけんより先さきに備そなえわっている。時間じかんと空間くうかんがその枠わくにあたる、とカントは言いう。注目ちゅうもくしたいのは、これが「生うまれつき」という生物学せいぶつがく的てきな意味いみではないことだ。経験けいけんに依存いぞんしない、という論理的ろんりてきな意味いみである。「三角形さんかくけいの内角ないかくの和わは一いち八はち〇度ど」は、実際じっさいに測はからなくても成なり立たつ。枠組わくぐみが先さきにあって経験けいけんが可能かのうになるというこの反転はんてんが要点ようてんである。
  • 学まなぶということは、想起そうきすることにほかならない。……知しらないはずのことを、この少年しょうねんは自分じぶんの内ないから取とり出だしたのだ。プラトン『メノン』(前四世紀ぜんよんせいき)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    幾何学きかがくを習ならったことのない奴隷どれいの少年しょうねんが、問といを重かさねられるうちに正方形せいほうけいの面積めんせきの問題もんだいを解といてしまう場面ばめんである。ソクラテスは何なにも教おしえていない。ただ問とうただけだ。だから少年しょうねんはもともと知しっていたのだ、と結論けつろんする。カントの二千年にせんねん前まえに、経験けいけんに依存いぞんしない知ちがあるという主張しゅちょうがここに立たっている。ただし違ちがいも大おおきい。プラトンは「思おもい出だした」と言いい、カントは「枠組わくぐみが働はたらいた」と言いう。前者ぜんしゃでは知ちが内容ないようとして先さきにあるが、後者こうしゃでは形式けいしきだけが先さきにある。この差さが、111 が生うまれつきの話はなしではないという注意ちゅうい点てんの背景はいけいになっている。
  • 「三角形さんかくけいの内角ないかくの和わは一いち八はち〇度ど」は測はからなくても成なり立たつのでア・プリオリ、「この水みずは一〇いちれい〇度どで沸騰ふっとうした」は測はかって初はじめて分わかるのでア・ポステリオリ。 順序じゅんじょの話はなしではなく依存いぞん関係かんけいの話はなしである。ラテン語ごで〈より前まえのものから〉。要点ようてんは経験けいけんに依存いぞんしないという一点いってんにある。カントは、時間じかんと空間くうかんの枠組わくぐみ自体じたいがア・プリオリに与あたえられていると考かんがえた。枠組わくぐみが先さきにあって経験けいけんが可能かのうになるという反転はんてんを押おさえたい。
  • ×人ひと見み知しりは生うまれつきなのでア・プリオリな性質せいしつだ。 「生うまれつき」という生物学せいぶつがく的てきな意味いみではない。ア・プリオリは経験けいけんに依存いぞんしないという論理的ろんりてきな意味いみで使つかう。生うまれつきの性質せいしつは、観察かんさつして確たしかめる以外いがいに知しりようがないので、むしろア・ポステリオリな知ちである。訳語やくごの「先天的せんてんてき」がこの混同こんどうを招まねきやすい。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

反はん 112 ア・ポステリオリ

派生はせい形けい
  • 先天的せんてんてき[0]日常にちじょう語ごと衝突しょうとつする訳語やくご。生物学せいぶつがく的てきな意味いみに読よまれやすいので、哲学てつがくの文脈ぶんみゃくでは注意ちゅういが要いる。
  • 先験的せんけんてき[0]字義じぎに忠実ちゅうじつな訳語やくご。「経験けいけんに先立さきだつ」をそのまま漢語かんごにした。正確せいかくだが、日常にちじょう語ごの支ささえが無ないぶん硬かたい。
  • 超越論的ちょうえつろんてきカントの transzendental の訳語やくご。経験けいけんを可能かのうにしている条件じょうけんを問とう立場たちばを指さす。「超越的ちょうえつてき」(経験けいけんを超こえたもの)とは別語べつごなので、一いち字じの差さに注意ちゅういしたい。
コロケーション
  • ア・プリオリに与あたえられるカントの用法ようほう経験けいけんより先さきに、枠わくとして備そなえわっている。時間じかん・空間くうかん・因果いんがというカテゴリーがそれにあたる。注目ちゅうもくしたいのは、これが人間にんげんの能力のうりょくの限界げんかいの指摘してきでもあることだ。枠わくを通とおしてしか世界せかいを受うけ取とれないなら、枠わくの外そとは原理げんり的てきに届とどかない — 95 で見みた物もの自体じたいが認識にんしきできないとされるのは、この帰結きけつである。
  • 先天的せんてんてき訳語やくごの落おとし穴あな生物学せいぶつがく的てきな意味いみに読よまれやすい。「先天性せんてんせいの疾患しっかん」という日常にちじょう語ごがあるためである。ア・プリオリは経験けいけんへの依存いぞんの有無うむを言いう語ごで、遺伝いでんや体質たいしつとは関係かんけいがない。訳語やくごが日常にちじょう語ごと衝突しょうとつした例れいで、1-5 の 92 の「唯物ゆいぶつ的てき」、1-4 の 82 の「独断どくだん」と同おなじ事故じこが起おきている。
  • 先験的せんけんてきもう一ひとつの訳語やくご「経験けいけんに先立さきだつ」を字義じぎどおりに訳やくした形かたち。「先天的せんてんてき」より正確せいかくだが、日常にちじょう語ごになっていないぶん読よみにくい。なお「超越ちょうえつ論ろん的てき」という別べつの訳語やくごもあり、こちらはカントの transzendental にあたる。訳語やくごが三みっつに割われていること自体じたいが、この概念がいねんの受うけ入いれにくさを示しめしている。
  • ア・プリオリとア・ポステリオリ依存いぞん関係かんけいの対たい111 と 112 は必かならず対たいで扱あつかわれる。評ひょう論文ろんぶんで単独たんどくで出でることは少すくない。順序じゅんじょではなく依存いぞんで分わける、という一点いってんを押おさえておけば取とり違ちがえない。「確たしかめなくても言いえるか」を問とえばよい。
格かく硬かた・学術がくじゅつ

論文ろんぶん・評ひょう論ろんでのみ使つかう。会話かいわでは不自然ふしぜん。

類るい語ごと差さ
  • ア・ポステリオリ経験けいけんのあとに得とくられる対たい語ご。順序じゅんじょではなく、経験けいけんに依存いぞんするかどうかで分わかれる。
  • 先天的せんてんてき生うまれつき備そなえわっている訳語やくごだが、生物学せいぶつがく的てきな含ふくみが強つよい。ア・プリオリは論理ろんりの話はなし。
  • 必然ひつぜん法則ほうそくによってそうなる☑7。ア・プリオリな知ちは必然的ひつぜんてきだとされる。
  • 自明じめい証明しょうめいなしに明あきらか☑14。近ちかいが、自明じめいは疑うたがわれないこと、ア・プリオリは経験けいけんに依存いぞんしないこと。

ENa priori
ZH先验(先験的, xiānyàn)

112★

ア・ポステリオリ

ア・ポステリオリ[5]中高なかだか型がた

定義ていぎ

後天こうてん的てきであること。あとから。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑112
使用しようの境界きょうかい

経験けいけんを通とおして得とくられること。実際じっさいに確たしかめてはじめて成なり立たつ知ちを指さす。

用法ようほう

ラテン語ごで〈よりあとのものから〉。経験けいけんによって得とくられる知ちを指さし、自然科学しぜんかがくの知識ちしきはほぼこちらに属ぞくする。ア・プリオリとの対たいで覚おぼえ、順序じゅんじょの話はなしではなく依存いぞん関係かんけいの話はなしだと押おさえる。ア・ポステリオリな知ちは反例はんれいが出でれば覆くつがえるので確実かくじつではない。ここで☑53 帰納きのうの不ふ確実かくじつさと同おなじ論点ろんてんが現あらわれる。評ひょう論文ろんぶんで単独たんどくで出でることは少すくなく、必かならず対たいで扱あつかわれる。読よみにくい語ごなので、書かき取とりではなく読解どっかいで問とわれることが多おおい。

用例ようれい
  • 我々われわれのあらゆる知識ちしきは経験けいけんに基もとづいており、究極きゅうきょく的てきには経験けいけんから導みちびき出だされる。ジョン・ロック『人間にんげん知性ちせい論ろん』第だい二に巻かん(1690)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    ア・ポステリオリの立場たちばをもっとも簡潔かんけつに述のべた一文いちぶんである。93 で引ひいた「心こころは白紙はくし」の続つづきにあたる。注目ちゅうもくしたいのは「究極きゅうきょく的てきには」という限定げんていの付つけ方ほうだ。ロックも、いま目めの前まえで経験けいけんしていないことを我々われわれが知しっていると認みとめている。ただしそのすべてがたどれば経験けいけんに行いき着つくと言いう。この主張しゅちょうの強つよさと弱よわさは同おなじところにある。強つよいのは、生うまれつきの権威けんいも身分みぶんも根拠こんきょを失うしなうからだ。弱よわいのは、数学すうがくの確実かくじつさが説明せつめいしにくいからである。111 のカントは、この弱点じゃくてんを埋うめるために枠組わくぐみという第だい三さんの道みちを用意よういした。
  • 知ちは行ぎょうの始はじめなり、行ぎょうは知ちの成なるなり。王陽明おうようめい『伝習録でんしゅうろく』(1518頃ころ)
    知ち行ぎょう合一ごういつを述のべた一句いっくである。知しることが行おこないの始はじまりであり、行おこなうことによって知ちが完成かんせいする。ここで言いわれているのは、実際じっさいにやってみないと知しったことにならないということだ。ア・ポステリオリな知ちの性格せいかくが正確せいかくに押おさえられている。注目ちゅうもくしたいのは、王陽明おうようめいがこれを道徳どうとくについて言いっている点てんである。「孝こうを知しる」とは、孝こうの定義ていぎを言いえることではなく、実際じっさいに親おやに仕つかえることだ、と。1-2 の 52 で引ひいた『荀子じゅんし』の「知しるは之これを行ぎょうふに若わかかず」と同おなじ方向ほうこうを向むいており、東ひがしアジアの思想しそうが一貫いっかんして行おこないの側がわに重おもみを置おいてきたことが分わかる。
  • 自然科学しぜんかがくの知識ちしきは、ほぼすべてア・ポステリオリである。 経験けいけんによって得とくられる知ちだからである。だから反例はんれいが出でれば覆くつがえる。ここで 1-2 の 53 で見みた帰納きのうの不ふ確実かくじつさと同おなじ論点ろんてんが現あらわれる。ラテン語ごで〈よりあとのものから〉。ア・プリオリとの対たいで覚おぼえ、順序じゅんじょではなく依存いぞん関係かんけいの話はなしだと押おさえる。
  • ×経験けいけんを積つんでから判断はんだんしたのでア・ポステリオリな人ひとだ。 人ひとの性格せいかくや態度たいどには使つかわない。知識ちしきや命題めいだいの成なり立たち方ほうを分類ぶんるいする語ごである。「経験けいけんを重おもんじる」なら「経験けいけん主義しゅぎ的てき」が当あたる。「その知ちが確たしかめずに言いえるかどうか」を分類ぶんるいしているのであって、人ひとを分類ぶんるいしているのではない。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

反はん 111 ア・プリオリ

派生はせい形けい
  • 後天的こうてんてき[0]日常にちじょう語ごと衝突しょうとつする訳語やくご。生うまれたあとに身みにつけたという意味いみに読よまれやすい。哲学てつがくの文脈ぶんみゃくでは「経験けいけん的てき」を使つかうほうが安全あんぜんである。
  • 経験的けいけんてき[0]もっとも誤解ごかいの少すくない訳語やくご。「経験けいけん的てき知識ちしき」「経験けいけん的てき事実じじつ」のように使つかう。1-2 の 52 の実証じっしょうと近ちかい場所ばしょにある。
  • 経験主義けいけんしゅぎ「主義しゅぎ」が付ついて立場たちばになる。知ちの源みなもとをすべて経験けいけんに求もとめる。1-2 の 52 で見みた実証じっしょう主義しゅぎの哲学的てつがくてきな先祖せんぞにあたり、確たしかめられないものを扱あつかわないという構かまえを共有きょうゆうしている。
コロケーション
  • 経験けいけん的てきもっとも通つうじる訳語やくご実際じっさいに確たしかめて得とくられたという意味いみ。「経験けいけん的てきに言いえば」は日常にちじょうでも使つかう。1-2 の 52 で見みた実証じっしょうと近ちかい場所ばしょにあり、事実じじつに当あてて得とくられた知ちという点てんで重かさなる。ただし実証じっしょうは手続てつづきの名な、ア・ポステリオリは知ちの成なり立たちの分類ぶんるいである。
  • 後天こうてん的てき訳語やくごの落おとし穴あな「先天的せんてんてき」と同おなじ問題もんだいを抱かかえている。生うまれたあとに身みにつけた、という生物学せいぶつがく的てきな意味いみに読よまれやすい。ア・ポステリオリは経験けいけんに依存いぞんするという論理的ろんりてきな意味いみで、習得しゅうとくの時期じきの話はなしではない。
  • 反例はんれいで覆くつがえる確実かくじつでないことア・ポステリオリな知ちは、次つぎの一いち例れいで覆くつがえりうる。1-2 の 53 で見みた帰納きのうの限界げんかいと同おなじ構造こうぞうである。注意ちゅういしたいのは、これが欠陥けっかんではないことだ。覆くつがえりうるからこそ、新あたらしいことを教おしえてくれる — 確実かくじつだが何なにも増ふやさないア・プリオリな知ちとの非対称ひたいしょうがここにある。
  • 経験けいけん主義しゅぎと合理主義ごうりしゅぎ背景はいけいにある対立たいりつ知ちの源みなもとを経験けいけんに置おくか、理性りせいに置おくか。ロック・バークリー・ヒュームが前者ぜんしゃ、デカルト・スピノザ・ライプニッツが後者こうしゃに並ならぶ。カントはこの対立たいりつを両方りょうほうの言いい分ぶんを認みとめる形かたちで組くみ替かえた。111・112 の対たいは、その組くみ替かえの結果けっかとして残のこった整理せいりである。
格かく硬かた・学術がくじゅつ

論文ろんぶん・評ひょう論ろんでのみ使つかう。会話かいわでは不自然ふしぜん。

類るい語ごと差さ
  • ア・プリオリ経験けいけんに先立さきだつ対たい語ご。
  • 経験けいけん的てき経験けいけんにもとづく訳語やくご。実証じっしょう(☑52)と重かさなる立場たちばをとる。
  • 後天こうてん的てき生うまれたあとに獲得かくとくされた訳語やくごだが生物学せいぶつがく的てきな含ふくみが強つよい。
  • 帰納きのう個々ここの事実じじつから法則ほうそくを導みちびく☑53。ア・ポステリオリな知ちの得とくられ方ほう。

ENa posteriori
ZH后验(後験的, hòuyàn)

解説かいせつ ── ア・プリオリ・ア・ポステリオリ

哲学てつがくでは、経験けいけんの前まえから、つまり生うまれながらもっているものを「ア・プリオリな」ものと言いい、言語げんごのように経験けいけんによって後天こうてん的てきに得とくられるものを「ア・ポステリオリな」ものと言いう。

対立たいりつの軸じく

理性りせい/感かん性せい の軸じく = 組くみ立たてるか、受うけ取とるか

理性りせい筋道すじみち立たてて考かんがえ、判断はんだんする能力のうりょく。
組くみ立たてるか、受うけ取とるか
感かん性せい外界がいかいを感かんじ取とる能力のうりょく。

ア・プリオリ/ア・ポステリオリ の軸じく = 経験けいけんに依存いぞんするか

ア・プリオリ経験けいけんに先立さきだって成なり立たつ。
経験けいけんに依存いぞんするか
ア・ポステリオリ経験けいけんを通とおしてはじめて得とくられる。
ア・プリオリとア・ポステリオリ経験に依存しない知と、経験を経てはじめて得られる知の違いを示した図。 ア・プリオリ 経験に依存しない 三角形の内角の和は一八〇度 測らなくても成り立つ 確実 / 反例で覆らない ア・ポステリオリ 経験を経て得られる この水は一〇〇度で沸騰した 測って初めて分かる 不確実 / 反例で覆る 「生まれつき」と「あとから身につけた」という順序の話ではない。 分かれ目は、経験に依存するかどうかにある
経験けいけんに依存いぞんするかどうか
「形」の線を境に上を道、下を器として形而上と形而下を分けた図『易経』繋辞上伝の「形而上者これを道と謂ひ、形而下者これを器と謂ふ」にもとづき、かたちを持つかどうかの一線で上下を分け、西周がここから metaphysica を訳したことを示す。 「形」の線を、どちらに越えるか形而上かたちより上 ── 道原理・本質・目的・善・神形形而下かたちより下 ── 器物・道具・制度・身体・現象『易経』繋辞上伝「形而上者、これを道と謂ひ、形而下者、これを器と謂ふ」西周はこの一句から metaphysica を「形而上学」と訳した「形而上的な問い」= 経験を積んでも答えの出ない問い
道みちと器うつわ ── かたちの上うえと下した
Section 17

弁べん証しょう法ほう/命題めいだい

113★

弁証法べんしょうほう

べんしょうほう[0]平板へいばん型がた

語ご構成こうせい
弁べんわきまえる・論ろんじる+証しょうあかす+法ほうやり方かた
定義ていぎ

対立たいりつまたは矛盾むじゅんする二ふたつの事柄ことがらを、統一とういつ・総合そうごうすることによって、高たかい次元じげんの結論けつろんに至いたる思考しこう方法ほうほう。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑113
原げん書しょの解説かいせつ

弁べん証しょう法ほうとは、もともとは、異ことなる考かんがえ方かたをもった二人ふたりが対話たいわをすることによって、より高たかい次元じげんの結論けつろんにたどり着つく方法ほうほうを言いった。それが発展はってんし、矛盾むじゅんや対立たいりつを、より高たかい次元じげんで一ひとつの結論けつろんにまとめ上あげる思考しこう方法ほうほうを意味いみするようになった。

「弁べん証しょう法ほう」の図ずでは、

とよぶ。

たとえば

経済けいざい発展はってんを優先ゆうせんさせるべきだという意見いけんと、環境かんきょう保護ほごを優先ゆうせんさせるべきだという意見いけんが対立たいりつしているとしよう。ここで、環境かんきょうを保護ほごしながら経済けいざいを発展はってんさせる環境かんきょう政策せいさくを導入どうにゅうし、両者りょうしゃを調和ちょうわさせるような結論けつろんを出だしたとする。この結論けつろんを導みちびくプロセス(過程かてい)は、「弁べん証しょう法的ほうてき」と言いうことができるだろう。より高たかい次元じげんで矛盾むじゅんを解決かいけつし、結論けつろんを導みちびくのが弁べん証しょう法ほうなのだ。

使用しようの境界きょうかい

対立たいりつするものを統合とうごうしてより高たかい段階だんかいへ進すすむ思考しこう法ほう。単たんに折衷せっちゅうすることではなく、矛盾むじゅんを保たもったまま超こえることを指さす。

用法ようほう

ヘーゲルに帰かえされる。正せい(テーゼ)・反はん(アンチテーゼ)・合ごう(ジンテーゼ)の三さん段だんで説明せつめいされるのが定型ていけいである。要点ようてんは、合ごうの段階だんかいで正せいと反はんが消きえるのではなく、否定ひていされつつ保存ほぞんされてより高たかい段階だんかいに引ひき上あげられること。この操作そうさを止揚しよう(アウフヘーベン)という。だから折衷せっちゅうとは違ちがう。マルクスがこれを唯物論ゆいぶつろん(☑92)に適用てきようして史し的てき唯物論ゆいぶつろんを組くみ立たてた。評ひょう論文ろんぶんでは、対立たいりつが発展はってんの動どう力りょくになるという構図こうずを説明せつめいする箇所かしょに現あらわれる。

用例ようれい
  • つぼみは花はなが咲さくと消きえてしまう。つぼみは花はなによって否定ひていされた、と言いうこともできよう。同おなじように、果か実じつが現あらわれると花はなは植物しょくぶつの偽いつわりの姿すがただと言いい立たてられる。……しかしそれらは、互たがいに排斥はいせきし合あうと同時どうじに、有機ゆうき的てきな統一とういつの契機けいきでもある。ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル『精神せいしん現象学げんしょうがく』序文じょぶん(1807)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    弁べん証しょう法ほうをもっとも分わかりやすく示しめした比喩ひゆである。花はなはつぼみを否定ひていする。実じつは花はなを否定ひていする。それでも三みっつは同おなじ一本いっぽんの植物しょくぶつである。ここが要点ようてんだ。否定ひていされたものが消きえるのではなく、次つぎの段階だんかいの中身なかみになっている。つぼみが無なければ花はなは咲さかない。この「否定ひていされつつ保存ほぞんされる」働はたらきを止揚しよう(アウフヘーベン)という。ドイツ語ごの aufheben には「否定ひていする」「保存ほぞんする」「高たかめる」の三みっつの意味いみがあり、一語いちごがそのまま概念がいねんになっている。だから折衷せっちゅうとは違ちがう。足たして二にで割わるのではなく、対立たいりつを保たもったまま次つぎの段階だんかいへ引ひき上あげる。
  • 弁べん証しょう法ほうは、ヘーゲルにあっては頭あたまで立たっている。神秘的しんぴてきな外皮がいひのなかに合理的ごうりてきな核心かくしんを発見はっけんするためには、それを引ひきっくり返かえさなければならない。カール・マルクス『資本しほん論ろん』第だい二に版はん後書あとがきき(1873)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    ヘーゲルの弁べん証しょう法ほうを唯物論ゆいぶつろんの側がわへ移うつした宣言せんげんである。ヘーゲルでは、精神せいしんが自みずからを展開てんかいして歴史れきしが進すすむ。マルクスはそれを逆ぎゃくさにした — 物質的ぶっしつてきな条件じょうけんの矛盾むじゅんが歴史れきしを動うごかし、思想しそうはそのあとに来くる。92 で見みた「社会的しゃかいてき存在そんざいが意識いしきを規定きていする」がここで方法ほうほうとして使つかわれている。注目ちゅうもくしたいのは、マルクスが弁べん証しょう法ほうそのものは捨すてていないことだ。外皮がいひを剥むいで核心かくしんを取とり出だす、と言いっている。対立たいりつが発展はってんの動どう力りょくになるという構図こうずだけは受うけ継つがれた。史し的てき唯物論ゆいぶつろんはこうして、ヘーゲルの形式けいしきにマルクスの中身なかみを入いれたものになる。
  • 正せい・反はん・合ごうの三さん段だんで説明せつめいされるが、合ごうの段階だんかいで正せいと反はんが消きえるのではない。否定ひていされつつ保存ほぞんされて高たかい段階だんかいへ引ひき上あげられる。これが弁べん証しょう法ほうの止揚しようである。 折衷せっちゅうとの違ちがいがここにある。折衷せっちゅうは両方りょうほうから少すこしずつ取とって混まぜる。止揚しようは対立たいりつを保たもったまま次つぎの段階だんかいへ移うつす。だから合ごうの段階だんかいにも矛盾むじゅんは残のこっており、そこからまた次つぎの運動うんどうが始はじまる。評ひょう論文ろんぶんでは、対立たいりつが発展はってんの動どう力りょくになるという構図こうずを説明せつめいする箇所かしょに現あらわれる。
  • ×両者りょうしゃの意見いけんの中間ちゅうかんを取とってまとめた。弁べん証しょう法ほう的てきな解決かいけつである。 中間ちゅうかんを取とるのは「折衷せっちゅう」である。弁べん証しょう法ほうは矛盾むじゅんを保たもったまま超こえることを指さす。「対立たいりつが消きえたか、残のこったまま高たかい段階だんかいへ移うつったか」を問とえばよい。消きえたなら折衷せっちゅう、残のこっているなら止揚しようである。この誤ご用ようはきわめて多おおい。
派生はせい形けい
  • 弁証法的べんしょうほうてき[0]対立たいりつを通つうじて発展はってんするという含ふくみを持もつ。ただし「弁べん証しょう法的ほうてきに解決かいけつした」はしばしば折衷せっちゅうの言いい換かえとして誤ご用ようされる。対立たいりつが残のこっているかを確たしかめる。
  • 止揚しよう[0]アウフヘーベンの訳語やくご。否定ひていと保存ほぞんと高揚こうようの三みっつを担になうが、日本語にほんごの二字にじには保存ほぞんの意味いみが入はいっていない。カタカナで「アウフヘーベン」と書かかれることが多おおいのはそのためである。
  • 正反合せいはんごう[0]後あとから整ととのえられた図式ずしき。覚おぼえやすいが、運動うんどうが三さん段だんで終おわるという誤解ごかいを招まねく。合ごうはつねに次つぎの正せいになる。
コロケーション
  • 止揚しよう(アウフヘーベン)三みっつの意味いみの一語いちご否定ひていし、保存ほぞんし、高たかめる。ドイツ語ご aufheben がこの三みっつを同時どうじに意味いみすることが、概念がいねんそのものを可能かのうにしている。日本語にほんごの「止揚しよう」は止とめる(否定ひてい)と揚あげる(高たかめる)を組くみ合あわせた造語ぞうごで、保存ほぞんの意味いみだけが訳語やくごから落おちている。1-3 の 62 で見みた訳語やくごがはみ出だす部分ぶぶんの一いち例れいである。
  • 正せい・反はん・合ごう後あとから整ととのえられた図式ずしきこの三さん語ごはヘーゲル自身じしんがほとんど使つかっていない。後あとの解説かいせつ者しゃが整理せいりした図式ずしきである。便利べんりだが、三さん段だんで終おわるかのような印象いんしょうを与あたえる。実際じっさいには合ごうがまた新あたらしい正せいになり、運動うんどうは終おわらない。図式ずしき化かが概念がいねんを痩やせさせる例れいとして覚おぼえておきたい。
  • 弁べん証しょう法的ほうてき発展はってん対立たいりつが動どう力りょくになる矛盾むじゅんがあるから先さきへ進すすむという見方みかた。矛盾むじゅんを欠陥けっかんではなく動どう力りょくと見みる点てんが新あたらしかった。1-3 の 71 で見みた両義性りょうぎせい、1-1 の 18 の逆説ぎゃくせつと同おなじ場所ばしょにある — どちらとも決きまらないものを取とり逃にがさないための枠組わくぐみである。
  • 弁べん証しょう法的ほうてき唯物論ゆいぶつろんマルクス以降いこうの形かたち弁べん証しょう法ほうの形式けいしきと唯物論ゆいぶつろんの中身なかみを組くみ合あわせた立場たちば。92 の史し的てき唯物論ゆいぶつろんはその歴史れきしへの適用てきようにあたる。方法ほうほうと立場たちばは別々べつべつに組くみ替かえられるということが、ここからよく分わかる。
格かく硬かた・学術がくじゅつ

論文ろんぶん・評ひょう論ろんでのみ使つかう。会話かいわでは不自然ふしぜん。

類るい語ごと差さ
  • 止揚しよう対立たいりつを保たもったまま高たかい段階だんかいへ引ひき上あげるアウフヘーベン。弁べん証しょう法ほうの中核ちゅうかくとなる操作そうさ。
  • 折衷せっちゅう両方りょうほうの中間ちゅうかんを取とる対立たいりつを弱よわめて足たして二にで割わる。弁べん証しょう法ほうは対立たいりつを消けさずに超こえる点てんが違ちがう。
  • 矛盾むじゅん両立りょうりつしないこと出発点しゅっぱつてん。弁べん証しょう法ほうは矛盾むじゅんを動どう力りょくとみなす。
  • 二に項こう対立たいりつ二ふたつの項こうで組くみ立たてる☑30。弁べん証しょう法ほうはその対立たいりつを第だい三さんの段階だんかいへ運はこぶ。

ENdialectic
ZH辩证法(弁証法, biànzhèngfǎ)

114★

命題めいだい

めいだい[0]平板へいばん型がた

語ご構成こうせい
命いのちなづける+題だいだい・主題しゅだい
定義ていぎ

真実しんじつか虚偽きょぎかを判定はんていできる主張しゅちょう。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑114
原げん書しょの解説かいせつ

たとえば、〈ウイルスは生物せいぶつである〉という主張しゅちょうは一ひとつの命題めいだいで、研究けんきゅうを進すすめるために、この説せつを真実しんじつとして仮定かていする場合ばあい、これを「命題めいだいを措定そていする」と言いう。この時とき、〈ウイルスは生物せいぶつであるとも生物せいぶつでないとも言いえる〉というようなどっちつかずの判断はんだんをしない、という規則きそくは排中律はいちゅうりつとよばれる。さらに、ある命題めいだいが真実しんじつであることが証明しょうめいされたなら、その命題めいだいは数学すうがくなどでは定理ていりとよばれる。

また、命題めいだいと類似るいじする語ごにテーゼがあるが、これは、ある観念かんねんについての主張しゅちょうを立たてることや政治的せいじてき方針ほうしんを意味いみする。

コラム

「命題めいだい」という言葉ことばを、「至し上じょう命題めいだい」というように〈課題かだい・任務にんむ〉の意味いみで使つかう場合ばあいも見みられるが、本来ほんらいの意味いみからすると誤ご用ようである。「最優先さいゆうせん課題かだい」や「重大じゅうだい任務にんむ」などと言いうのが正ただしい。

使用しようの境界きょうかい

真偽しんぎを判定はんていできる形かたちにまとめられた文ぶん。問といや命令めいれいは命題めいだいにならない。

用法ようほう

論理学ろんりがくの語ごで、要点ようてんは真偽しんぎが判定はんていできる形かたちであることにある。「明日あすは雨あめが降ふる」は命題めいだいだが、「明日あすは雨あめが降ふるか」「傘かさを持もて」は命題めいだいではない。この形式けいしき性せいが押おさえどころ。日常にちじょう語ごでは「至し上じょう命題めいだい」「命題めいだいを背負せおう」のように〈果はたすべき課題かだい〉の意いで使つかわれるが、これは論理学ろんりがくの用法ようほうとは別べつで、本来ほんらいは誤ご用ように近ちかい転用てんようである。評ひょう論文ろんぶんでは両方りょうほうが出でるので文脈ぶんみゃくで判定はんていする。弁べん証しょう法ほうの「正せい・反はん」も命題めいだいの形かたちで立たてられる。

用例ようれい
  • 語かたりえぬものについては、沈黙ちんもくしなければならない。ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン『論理ろんり哲学てつがく論考ろんこう』第だい七なな命題めいだい(1921)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    命題めいだいという語ごの輪郭りんかくを、その外側そとがわから示しめした一行いちぎょうである。『論理ろんり哲学てつがく論考ろんこう』は全体ぜんたいが番号ばんごうを振ふられた命題めいだいで書かかれており、これがその最後さいごにあたる。注目ちゅうもくしたいのは、この本ほんが「何なにが命題めいだいになるか」を定さだめることで、同時どうじに「何なにが命題めいだいにならないか」を定さだめたことだ。真偽しんぎを判定はんていできる形かたちにまとめられるものが命題めいだいである。倫理りんりも、美びも、人生じんせいの意味いみも、真偽しんぎを判定はんていする手立てだてが無ないので命題めいだいにならない。ここで重要じゅうようなのは、ウィトゲンシュタインがそれらを無意味むいみだと切きり捨すてたのではないことだ。むしろ最もっとも大切たいせつなものが語かたりえない側がわにあると考かんがえていた。沈黙ちんもくは軽蔑けいべつではなく敬意けいいである。
  • 夫おっとれ弁べんなる者ものは、将しょうに以もって是非ぜひの分ぶんを明あきらかにし、治ち乱らんの紀きを審つまびらかにし、同どう異いの処ところを明あきらかにし、名実めいじつの理りを察さっせんとするなり。『墨子ぼくし』小取しょうしゅ篇へん
    中国ちゅうごくにおける論理学ろんりがくの宣言せんげんである。議論ぎろんとは、是ぜと非ひの分わかれ目めを明あきらかにし、同おなじと違ちがうの境目さかいめを明あきらかにし、名なと実じつの関係かんけいを見みきわめる営いとなみだ、という。注目ちゅうもくしたいのは「是非ぜひの分ぶん」が筆頭ひっとうに置おかれていることだ。真偽しんぎを判定はんていするという命題めいだいの条件じょうけんが、ここで議論ぎろんの第一だいいちの目的もくてきになっている。そして「名実めいじつの理り」で締しめくくられる — 1-3 の 62 で見みた記号きごうの問題もんだい、1-1 の 5 で引ひいた正名せいめいの議論ぎろんとここでつながる。命題めいだいが成なり立たつには、まず語ごが何なにを指さすかが定さだまっていなければならない。
  • 「明日あすは雨あめが降ふる」は命題めいだいだが、「明日あすは雨あめが降ふるか」「傘かさを持もて」は命題めいだいではない。 真偽しんぎが判定はんていできる形かたちであることが条件じょうけんである。問といにも命令めいれいにも真偽しんぎが無ない。この形式けいしき性せいが押おさえどころで、内容ないようが正ただしいかどうかは関係かんけいがない — 「明日あすは雨あめが降ふる」は外はずれても命題めいだいである。113 の弁べん証しょう法ほうの「正せい・反はん」も、命題めいだいの形かたちで立たてられる。
  • △環境かんきょう保全ほぜんは人類じんるいの至し上じょう命題めいだいである。 日常にちじょうではこう使つかわれるが、これは〈果はたすべき課題かだい〉の意いで、論理学ろんりがくの用法ようほうとは別べつである。本来ほんらいは誤ご用ように近ちかい転用てんようだが、すでに定着ていちゃくしている。評ひょう論文ろんぶんでは両方りょうほうが出でるので文脈ぶんみゃくで判定はんていする — 真偽しんぎを問とえる文ぶんを指さしていれば論理学ろんりがくの層そう、課題かだいを指さしていれば日常にちじょう語ごの層そうである。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

関せき テーゼ/定理ていり

派生はせい形けい
  • 命題的めいだいてき[0]「命題めいだいの形かたちをとった」という意味いみ。「命題めいだい的てき知識ちしき」は「〜である」と言いい表あらわせる知識ちしきのことで、自転車じてんしゃの乗のり方ほうのような言いい表あらわせない知ちと対比たいひされる。
  • 反対命題はんたいめいだい[0]アンチテーゼの訳語やくご。113 の弁べん証しょう法ほうで「反はん」にあたる。対立たいりつするには、まず同おなじ形式けいしきでなければならない。
  • 至上命題しじょうめいだい日常にちじょう語ごとしての転用てんよう。論理学ろんりがくの用法ようほうとは別物べつものだが定着ていちゃくしている。評ひょう論文ろんぶんでは両方りょうほうが出でるので、真偽しんぎを問とえる文ぶんか、果はたすべき課題かだいかで判定はんていする。
コロケーション
  • 真偽しんぎを判定はんていできる命題めいだいの条件じょうけん内容ないようの当否とうひではなく、形式けいしきの問題もんだいである。「地球ちきゅうは平たいらである」は偽にせの命題めいだいだが、命題めいだいである。「地球ちきゅうは美うつくしい」は命題めいだいになりにくい — 何なにをもって真しんとするかが定さだまらないからだ。判定はんていの手立てだてがあるかどうかが線せんを引ひいている。
  • 至し上じょう命題めいだい日常にちじょう語ごの主役しゅやく果はたすべき最重要さいじゅうようの課題かだいの意い。行政ぎょうせいや報道ほうどうで多た用ようされる。面白おもしろいのは、この誤ご用ようが定着ていちゃくした理由りゆうだ。「命いのち」も「題だい」も重々おもおもしい字じなので、字面じづらが意味いみを引ひき寄よせたと考かんがえられる。1-3 の 62 で見みた記号きごうの恣意性しいせいが、ここでは字面じづらの力ちからとして働はたらいている。
  • 反対はんたい命題めいだい弁べん証しょう法ほうとの接点せってんある命題めいだいを否定ひていした命題めいだい。113 の「反はん(アンチテーゼ)」がこれにあたる。注意ちゅういしたいのは、反対はんたい命題めいだいも命題めいだいであることだ。真偽しんぎが判定はんていできる形かたちをしている。だから対立たいりつが成立せいりつする — 形式けいしきがそろっていないものは、そもそも対立たいりつできない。
  • 命題めいだいを立たてる議論ぎろんの出発点しゅっぱつてん議論ぎろんのために、真偽しんぎを問とえる形かたちにまとめること。「立たてる」という動詞どうしが1-2 の 45 の「仮説かせつを立たてる」と同おなじであることに注目ちゅうもくしたい。どちらも倒たおれうるものに使つかう動詞どうしである。命題めいだいは、反論はんろんされるために立たてられる。
格かく硬かた

書かき言葉ことば。会話かいわでは不自然ふしぜん。

類るい語ごと差さ
  • 主張しゅちょうこうだと述のべること内容ないようの話はなし。命題めいだいは真偽しんぎを問とえる形式けいしきを持もつことを言いう。
  • 定義ていぎ意味いみを限定げんていした言いい方かた意味いみを定さだめる。命題めいだいは事柄ことがらの真偽しんぎを述のべる。
  • 仮説かせつ仮かりに立たてる説せつ☑45。検証けんしょう前まえの命題めいだい。命題めいだいは真偽しんぎを問とえる形かたちであればよい。
  • テーゼ定立ていりつされた主張しゅちょう弁べん証しょう法ほうの正せいの段階だんかい。命題めいだいの訳語やくごとしても使つかう。

ENproposition
ZH命题(命題, mìngtí)

弁証法の正・反・合正と反の対立が止揚されてより高い段階の合に至る過程を示した図。 正 THESE 反 ANTITHESE 合 SYNTHESE 止揚 正と反は消えるのではなく、否定されつつ保存されて引き上げられる。 足して二で割る折衷ではない。対立が動力になる。
正せい・反はん・合ごう ── 対立たいりつが動どう力りょくになる
複数の文がひとつの命題を表すこと、および真偽を問えない文を並べた図「雨が降っている」「雨だ」「It is raining」はどれも同じ命題を表す。命題とは文そのものではなく、真か偽かを担う内容であること、また疑問文・命令文・感嘆文は命題にならないことを示す。 文でもなく、心の働きでもないもの文(言いあらわし方)「雨が降っている」/「雨だ」/It is raining言い方は三つ。言っていることは一つ命題(真偽を担う内容)いま、ここで、雨が降っている真か偽か、どちらかである真偽を問えない文は、命題にならない×雨は降っているか。── 問いに真偽は無い×窓を閉めろ。── 命令に真偽は無い×なんと美しい。── 感嘆に真偽は無い「命題」と書いてあれば、真偽を問う構えに入れという合図である
文ぶんと命題めいだいは同おなじではない
Section 18

実存じつぞん/倫理りんり/無意識むいしき/アンビヴァレンス

115★

実存じつぞん⚠

じつぞん[0]平板へいばん型がた

語ご構成こうせい
実じつまこと・じっさい+存ありある
定義ていぎ

① 実際じっさいにこの世よに存在そんざいすること。また、その存在そんざい。 ② (哲学てつがくの場合ばあい)有限ゆうげんな人間にんげん(存在そんざい)のこと。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑115
原げん書しょの解説かいせつ

哲学てつがくの「実存じつぞん」は、「現実げんじつ存在そんざい」を略りゃくしたもので、本質ほんしつと対比たいひされる概念がいねんである。本質ほんしつが普遍的ふへんてきで一般的いっぱんてきな存在そんざいであるのに対たいして、実存じつぞんとは、そうした普遍性ふへんせいや一般性いっぱんせいに収おさまりきらない、個別こべつ的てき・具体的ぐたいてき・偶然ぐうぜん的てきな存在そんざいのことである。

なぜ実存じつぞんが、他ほかのモノではなく人間にんげんを指さすのかというと、人間にんげんこそがもっとも個別こべつ的てき・具体的ぐたいてきで偶然ぐうぜん的てきな存在そんざいだからである。

使用しようの境界きょうかい

いま現げんに生いきている一回いっかいきりの自分じぶんのあり方かた。人間にんげん一般いっぱんではなく、この私わたしであることを指さす。

用法ようほう

サルトルの「実存じつぞんは本質ほんしつに先立さきだつ」が要点ようてんになる。ペーパーナイフは何なにのためかが先さきに決きまっているが、人間にんげんはまず存在そんざいし、そのあとで自分じぶんが何なにであるかを自分じぶんでつくる。だから人間にんげんは自由じゆうであり、その自由じゆうに耐たえなければならない。「実存じつぞん的てきな問とい」は、一般いっぱん論ろんではなくこの私わたしの生いき方かたに直接ちょくせつかかわる問といを指さす。評ひょう論文ろんぶんでは、近代きんだいの合理性ごうりせいや体系たいけいへの抵抗ていこうとして、あるいは戦後せんごの思想しそう潮流ちょうりゅうとして語かたられる。中国語ちゅうごくごでは「存在主义」となり字じが違ちがう。

用例ようれい
  • 絶望ぜつぼうは死しに至いたる病やまいである。……この病やまいで死しぬことはできないという点てんが、この病やまいの恐おそろしさなのだ。セーレン・キェルケゴール『死しに至いたる病やまい』(1849)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    実存じつぞんという語ごの出発点しゅっぱつてんにある一節いっせつである。注目ちゅうもくしたいのは後半こうはんだ。死しねないことが恐おそろしいと言いっている。普通ふつうの病やまいなら死しんで終おわる。絶望ぜつぼうは終おわらない。ここで語かたられているのは、人間にんげん一般いっぱんではなく、この私わたしのことだ。「人ひとはいつか死しぬ」は誰だれにでも当あてはまる命題めいだいだが、私わたしが死しぬということは、私わたしにしか起おこらない。この一回いっかいきりの、代かわりのきかない私わたし — それが実存じつぞんである。キェルケゴールがヘーゲルの体系たいけいを批判ひはんしたのも、体系たいけいのなかにこの私わたしが収おさまらないからだった。
  • 私わたしは病やんだ人間にんげんだ……私わたしは意地いじの悪わるい人間にんげんだ。私わたしは魅力みりょくのない人間にんげんだ。思おもうに私わたしの肝臓かんぞうが悪わるいのだろう。フョードル・ドストエフスキー『地下室ちかしつの手記しゅき』(1864)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    文学ぶんがくにおける実存じつぞんの登場とうじょうを告つげた書かき出だしである。いきなり一人称いちにんしょうで、自分じぶんの欠点けってんを並ならべ立たてる。それまでの小説しょうせつなら、語かたり手てはもう少すこし高たかいところから人物じんぶつを見み下おろしていた。ここでは語かたる者ものと語かたられる者ものが同おなじで、しかも整理せいりされていない。注目ちゅうもくしたいのは「思おもうに私わたしの肝臓かんぞうが悪わるいのだろう」という一句いっくだ。自分じぶんの性格せいかくを、内臓ないぞうのせいにしてみせる。真面目まじめなのかふざけているのか決きまらない。この決きまらなさこそが、体系たいけいに収おさまらない実存じつぞんの手てざわりである。サルトルの「実存じつぞんは本質ほんしつに先立さきだつ」という定式ていしきは、この手てざわりを哲学てつがくの言葉ことばに翻訳ほんやくしたものだと言いえる。
  • ペーパーナイフは何なにのためかが先さきに決きまっているが、人間にんげんはまず存在そんざいし、そのあとで自分じぶんが何なにであるかを自分じぶんでつくる。これが実存じつぞんは本質ほんしつに先立さきだつということである。 サルトルの定式ていしきである。だから人間にんげんは自由じゆうであり、その自由じゆうに耐たえなければならない。設計図せっけいずが無ないということは、言いい訳やくもできないということだからだ。96 の本質ほんしつと対たいで読よみたい — 本質ほんしつが先さきなら人生じんせいは組くみ立たて図ずの実行じっこうだが、実存じつぞんが先さきなら白紙はくしからの作図さくずになる。
  • △その会社かいしゃは五十年ごじゅうねん前まえから実存じつぞんしている。 単たんに存在そんざいしていることを言いうなら「実在じつざい」「存続そんぞく」である。哲学てつがくの実存じつぞんはいま現げんに生いきている一回いっかいきりの自分じぶんのあり方かたを指さす。人間にんげん以外いがいには使つかわない。「代かわりがきかない一回いっかい性せいを問題もんだいにしているか」を見みればよい。なお中国語ちゅうごくごでは「存在主义」となり、字じが違ちがう。
派生はせい形けい
  • 実存的じつぞんてき[0]この私わたしの生いき方かたに直接ちょくせつかかわるという含ふくみ。「実存じつぞん的てきな不安ふあん」は、原因げんいんの特定とくていできる不安ふあんではなく、生いきていること自体じたいから来くる不安ふあんを指さす。
  • 実存主義じつぞんしゅぎ[0]戦後せんごを代表だいひょうする思想しそう潮流ちょうりゅう。サルトル、カミュ、ボーヴォワール。日本にほんでも一いち九五きゅうご〇〜六ろく〇年代ねんだいに広ひろく読よまれ、この時期じきの評ひょう論文ろんぶんを読よむには欠かかせない背景はいけいになる。
  • 実存哲学じつぞんてつがく[0]キェルケゴール、ヤスパース、ハイデガーの系譜けいふ。実存じつぞん主義しゅぎより広ひろく、運動うんどうとしてまとまる以前いぜんを含ふくむ。「主義しゅぎ」を付つけるかどうかで射程しゃていが変かわる、いつもの構図こうずである。
コロケーション
  • 実存じつぞんは本質ほんしつに先立さきだつサルトルの定式ていしき設計図せっけいずなしに存在そんざいが始はじまるという主張しゅちょう。道具どうぐには用途ようとが先さきにあるが、人間にんげんには無ない。注目ちゅうもくしたいのは、これが自由じゆうの宣言せんげんであると同時どうじに重荷おもにの宣言せんげんでもあることだ。「人間にんげんは自由じゆうの刑けいに処しょせられている」とサルトルは書かいた。選えらばないという選択せんたくも選択せんたくである以上いじょう、降おりることができない。
  • 実存じつぞん的てきな問といこの私わたしの問とい一般いっぱん論ろんではなく、この私わたしの生いき方かたに直接ちょくせつかかわる問とい。「人ひとはなぜ生いきるのか」ではなく「私わたしはどう生いきるのか」である。前者ぜんしゃには答こたえを教きょうわれるが、後者こうしゃには教きょうわれない。88 で見みた「問とう自分じぶんが消きえない」性質せいしつが、ここでもっとも切実せつじつな形かたちをとる。
  • 実存じつぞん主義しゅぎ戦後せんごの思潮しちょう近代きんだいの合理性ごうりせいや体系たいけいへの抵抗ていこうとして、あるいは戦後せんごの思想しそう潮流ちょうりゅうとして語かたられる。注意ちゅういしたいのは、この語ごが流行りゅうこう語ごになったことだ。流行りゅうこうすると、一回いっかいきりのこの私わたしを問とうはずの語ごが誰だれでも使つかえる一般いっぱん語ごになる — この皮肉ひにくは、概念がいねんが広ひろまるときにしばしば起おきる。
  • 実存じつぞんと実在じつざい一いち字じの差さ実在じつざいは「それがある」、実存じつぞんは「この私わたしがこう在ある」。実在じつざいは物ものにも使つかえるが、実存じつぞんは人ひとにしか使つかわない。代かわりがきくかどうかが分わかれ目めである。書かき取とりでも問とわれるので、この一いち字じは押おさえておきたい。
格かく硬かた・学術がくじゅつ

論文ろんぶん・評ひょう論ろんでのみ使つかう。会話かいわでは不自然ふしぜん。

類るい語ごと差さ
  • 本質ほんしつそのものをそのものたらしめる性質せいしつ☑96。実存じつぞん主義しゅぎは本質ほんしつより実存じつぞんを先さきに置おく。
  • 存在そんざいあること一般いっぱん広ひろい。実存じつぞんは人間にんげんの、しかも一人称いちにんしょうの存在そんざいに限かぎる。
  • 主体しゅたい働はたらきかける側がわ☑106。位置いちの語ご。実存じつぞんは生いきられ方ほうの語ご。
  • 自己じこ自分じぶんそのもの中立ちゅうりつ。実存じつぞんは不安ふあん・孤独こどく・選択せんたくを伴ともなう生せいのあり方かたを含ふくむ。

ENexistence
ZH实存(実存, shícún)

日中にっちゅうのズレ

実存じつぞん主義しゅぎは中国語ちゅうごくごでは 存在主义(cúnzài zhǔyì) と言いい、「実存じつぞん」の二字にじを使つかわない。

中国語ちゅうごくごの 实存(shícún)は「実際じっさいに存在そんざいする」という一般的いっぱんてきな語ごで、哲学てつがくの術語じゅつごとしては定着ていちゃくしていない。

116★

倫理りんり

りんり[1]頭高あたまだか型がた

語ご構成こうせい
倫りんなかま・人ひとのみち+理りことわり
定義ていぎ

人間にんげんの行動こうどう規範きはんや善悪ぜんあくの基準きじゅん。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑116
原げん書しょの解説かいせつ

倫理りんりは、道徳どうとくとほぼ同おなじ意味いみである。ただし、道徳どうとくが「人ひととして生いきていくための常識じょうしき」にあたるような内容ないようを扱あつかうのに対たいし、倫理りんりは「よい生いき方かたとはどのようなものか」などの抽象的ちゅうしょうてきな内容ないようを扱あつかう傾向けいこうがある。

また、人工授精じんこうじゅせい・臓器ぞうき移植いしょく・脳のう死し問題もんだいなど、人間にんげんの生死せいしに関かかわる新あたらしい技術ぎじゅつの利用りようが許ゆるされるかどうかをめぐる生命せいめい倫理りんり(バイオエシックス)や、人間にんげんの自然しぜんに対たいする傲慢ごうまんさが環境かんきょう破壊はかいを招まねいたとの反省はんせいに立たち、生態系せいたいけいに対たいして人間にんげんが負おうべき義務ぎむは何なにかを問とう環境かんきょう倫理りんりが話題わだいをよんでいる。

使用しようの境界きょうかい

人ひととして守まもるべき筋道すじみち。法ほうのように外そとから強制きょうせいされるのではなく、内面ないめんから働はたらく点てんが要点ようてん。

用法ようほう

「倫りん」は人ひとと人ひとのあいだを意味いみする字じで、ここに倫理りんりと道徳どうとくの差さが現あらわれる。道徳どうとくが個人こじんの内面ないめんの善悪ぜんあくを問とうのに対たいし、倫理りんりは関係かんけいのなかでの筋道すじみちを問とう。評ひょう論文ろんぶんで重要じゅうようなのは、科学技術かがくぎじゅつの発展はってんが新あたらしい倫理的りんりてき問題もんだいを生うんだという構図こうずで、生命せいめい倫理りんり(クローン・臓器ぞうき移植いしょく・遺伝子いでんし操作そうさ)がその代表だいひょうである。☑49 科学かがくの中立ちゅうりつ性せいの議論ぎろんと正面しょうめんからつながり、科学者かがくしゃが結果けっかの責任せきにんをどこまで負おうかという問といになる。

用例ようれい
  • 徳とくは、習慣しゅうかんによって生しょうじる。……我々われわれは、正ただしいことを行おこなうことによって正ただしい人ひとになり、節度せつどある行おこないをすることによって節度せつどある人ひとになる。アリストテレス『ニコマコス倫理学りんりがく』第だい二に巻かん(前四世紀ぜんよんせいき)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    順序じゅんじょが逆ぎゃくになっているところが要点ようてんである。正ただしい人ひとだから正ただしいことをするのではない。正ただしいことをするから正ただしい人ひとになる。ここに倫理りんりという語ごの性格せいかくが現あらわれている。内面ないめんの善ぜんし悪あくしが先さきにあるのではなく、関係かんけいのなかでの振ふる舞まいが先さきにある。「倫りん」は人ひとと人ひとのあいだを意味いみする字じだ。この字義じぎが、そのまま定義ていぎになっている。注目ちゅうもくしたいのは、これが習得しゅうとく可能かのうだと言いっていることである。徳とくは生うまれつきではなく習慣しゅうかんで身みにつく。1-4 の 83 で見みた規範きはんの内面化ないめんかが、ここでは教育きょういくの可能性かのうせいとして語かたられている。
  • 私わたしは、能力のうりょくと判断はんだんの限かぎりをつくして、患者かんじゃに利益りえきすると思おもう養生ようじょう法ほうをとり、悪あくしく有害ゆうがいと知しる方法ほうほうを決けっしてとらない。ヒポクラテスの誓ちかい(前まえ五ご〜四よん世紀せいき)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    職業しょくぎょう倫理りんりのもっとも古ふるい形かたちである。注目ちゅうもくしたいのは「知しる」という一語いちごだ。有害ゆうがいだと知しっている方法ほうほうは使つかわない、と限定げんていしている。知しらずに害がいをなすことまでは引ひき受うけていない。ここに倫理りんりの現実的げんじつてきな作つくりがある。無限むげんの責任せきにんを負おわせれば、誰だれも職業しょくぎょうを続つづけられない。知しりうる範囲はんいで最善さいぜんを尽つくすという線せんの引ひき方ほうが、二千にせん数百すうひゃく年ねんにわたってこの誓ちかいを機能きのうさせてきた。そして評ひょう論文ろんぶんで重要じゅうようになるのは、科学技術かがくぎじゅつの発展はってんがこの線せんを動うごかし続つづけていることだ。クローン、臓器ぞうき移植いしょく、遺伝子いでんし操作そうさ。知しりうる範囲はんいが広ひろがるほど、責任せきにんも広ひろがる。
  • 道徳どうとくが個人こじんの内面ないめんの善悪ぜんあくを問とうのに対たいし、倫理りんりは関係かんけいのなかでの筋道すじみちを問とう。 「倫りん」は人ひとと人ひとのあいだを意味いみする字じである。ここに二に語ごの差さが現あらわれている。評ひょう論文ろんぶんで重要じゅうようなのは、科学技術かがくぎじゅつの発展はってんが新あたらしい倫理的りんりてき問題もんだいを生うんだという構図こうずで、生命せいめい倫理りんりがその代表だいひょうになる。1-2 の 49 の科学かがくの中立ちゅうりつ性せいと正面しょうめんからつながり、科学者かがくしゃが結果けっかの責任せきにんをどこまで負おうかという問といになる。
  • ×心こころのなかで悪わるいと思おもったので倫理りんりに反はんする。 内面ないめんの善悪ぜんあくを問とうなら「道徳どうとく」である。倫理りんりは関係かんけいのなかでの筋道すじみちを問とう。「他者たしゃとの関係かんけいが入はいっているか」を見みればよい — 入はいっていなければ道徳どうとく、入はいっていれば倫理りんりである。ただし日常にちじょうでは両者りょうしゃが混用こんようされるので、評ひょう論文ろんぶんでは字義じぎに戻もどって読よむ。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

関せき 規範きはん/モラル/道徳どうとく

派生はせい形けい
  • 倫理的りんりてき[0]「倫理的りんりてきな問題もんだい」は、正解せいかいが一ひとつに決きまらない問題もんだいを指さすことが多おおい。技術的ぎじゅつてきにも法的ほうてきにも可能かのうだが、それでよいのかが問とわれる場面ばめんである。
  • 倫理学りんりがく[0]何なにをなすべきかを問とう哲学てつがくの一部いちぶ門もん。1-4 の 83 で見みたとおり、「べきである」の側がわを扱あつかう。事実じじつの記述きじゅつからは出でてこない領域りょういきである。
  • 生命倫理せいめいりんり[4]技術ぎじゅつの進展しんてんとともに生うまれ続つづけている分野ぶんや。この語ごの項目こうもくが増ふえ続つづけること自体じたいが、1-2 の 41 で見みたテクノロジーの止とまらなさを映うつしている。
コロケーション
  • 生命せいめい倫理りんり技術ぎじゅつが生うんだ問といクローン、臓器ぞうき移植いしょく、遺伝子いでんし操作そうさ、出生前しゅっせいまえ診断しんだん。できるようになったからこそ生しょうじた問といである。できなかった時代じだいには、そもそも問といが立たたなかった。1-2 の 41 で見みたテクノロジーが、ここで倫理りんりの側がわから問とい返かえされている — 技術ぎじゅつは答こたえを増ふやすと同時どうじに、問といも増ふやす。
  • 職業しょくぎょう倫理りんり役割やくわりに伴ともなう筋道すじみち医師いし、法律ほうりつ家か、記者きしゃ、研究者けんきゅうしゃ。その役割やくわりに就ついた者ものにだけ課かされる筋道すじみちである。個人こじんの道徳どうとくとは別べつに成なり立たつのが要点ようてんで、誰だれであるかではなく何なにをしているかが基準きじゅんになる。1-4 の 78 の制度せいどと同おなじ側がわにある考かんがえ方かたである。
  • 倫理りんりと道徳どうとく関係かんけいか内面ないめんか「倫りん」は人ひとと人ひとのあいだ。この字義じぎが二に語ごを分わける。道徳どうとくは一人ひとりでも成なり立たつが、倫理りんりには必かならず相手あいてがいる。そのため倫理りんりは合意ごういや手続てつづきの問題もんだいになりやすく、道徳どうとくは信念しんねんの問題もんだいになりやすい。
  • 倫理的りんりてき判断はんだん正解せいかいの無ない場所ばしょどちらを選えらんでも何なにかを損そこなう場面ばめんで求もとめられる。1-1 の 33 で見みたディレンマと同おなじ構造こうぞうである。正解せいかいがあるなら、それは計算けいさんであって判断はんだんではない。正解せいかいが無ないからこそ判断はんだんと呼よばれる — この事実じじつが、倫理りんりを規則きそくの一覧いちらんに還元かんげんできない理由りゆうになっている。
格かく中なか

書かき言葉ことば・会話かいわの両方りょうほうで使つかえる。

類るい語ごと差さ
  • 道徳どうとく善悪ぜんあくについての内面ないめんの基準きじゅんほぼ同義どうぎで使つかわれるが、道徳どうとくは個人こじんの心こころ、倫理りんりは人ひとと人ひとの関係かんけいに重心じゅうしんがある。
  • 規範きはんこうすべきという基準きじゅん☑83。社会しゃかいに共有きょうゆうされた基準きじゅん。倫理りんりはその根拠こんきょとなる筋道すじみち。
  • 法ほう国家こっかが定さだめた強制きょうせい的てきな規則きそく違反いはんに制裁せいさいが伴ともなう。倫理りんりは制裁せいさいを伴ともなわない。
  • モラル道徳どうとく・倫理りんり外来語がいらいご。日常的にちじょうてきで軽かるい。「モラルが低ひくい」のように使つかう。

ENethics
ZH伦理(倫理, lúnlǐ)

117★

無意識むいしき

むいしき[2]中高なかだか型がた

語ご構成こうせい
無むない+意識いしき気きづいているはたらき
定義ていぎ

日常にちじょうの行動こうどうや精神せいしんに影響えいきょうを与あたえている心こころの深層しんそう。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑117
原げん書しょの解説かいせつ

無意識むいしきが発見はっけんされたのは十九じゅうきゅう世紀せいき後半こうはんであり、それまではその存在そんざいを知しられていなかった。

近代きんだいの哲学てつがくや思想しそうでは、個人こじんは理性りせいによって自分じぶんの行動こうどうをすべて統御とうぎょできるとされていた。しかしフロイトは、言葉ことばの言いい間違まちがいや夢ゆめを分析ぶんせきすることによって、無意識むいしきが人間にんげん行動こうどうに大おおきな影響えいきょうを与あたえていることを明あきらかにした。無意識むいしきを扱あつかう精神せいしん分析ぶんせきの知見ちけんは、二十にじゅう世紀せいき以降いこうの哲学てつがくや思想しそうにもさまざまに取とり入いれられている。

使用しようの境界きょうかい

意識いしきされないまま心こころに働はたらいている領域りょういき。気きづいていないだけでなく、意識いしきに上うえらないよう抑おさえられている点てんを含ふくむ。

用法ようほう

フロイトが確立かくりつした概念がいねんで、要点ようてんは単たんに気きづいていないのではなく、意識いしきに上うえらないよう抑おさえられていることにある。だから夢ゆめや言いい間違まちがいに形かたちを変かえて現あらわれる。この発見はっけんが、理性的りせいてきな自我じがが心こころの主人しゅじんではないことを示しめし、近代的きんだいてきな主体しゅたい像ぞうを根底こんていから揺ゆるがした。ここが評ひょう論文ろんぶんでの重心じゅうしんで、コペルニクス・ダーウィンと並ならぶ人間にんげん中心ちゅうしん主義しゅぎへの打だ撃げきとして語かたられる。ユングはさらに、個人こじんを超こえて共有きょうゆうされる集合的しゅうごうてき無意識むいしきを想定そうていした。日常にちじょう語ごの「無意識むいしきに」は〈うっかり〉に近ちかく、この重おもみを持もたない。

用例ようれい
  • 自我じがは、自分じぶんの家いえの主人しゅじんではない。ジークムント・フロイト『精神せいしん分析ぶんせき入門にゅうもん』(1917)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    近代的きんだいてきな主体しゅたい像ぞうを根底こんていから揺ゆるがした一句いっくである。フロイトはこれを、コペルニクスとダーウィンに続つづく三さん度目どめの打だ撃げきと位置いちづけた。コペルニクスは地球ちきゅうを宇宙うちゅうの中心ちゅうしんから降おろし、ダーウィンは人間にんげんを生物せいぶつの頂点ちょうてんから降おろした。そしてフロイトは、意識いしきを心こころの中心ちゅうしんから降おろした。注目ちゅうもくしたいのは「自分じぶんの家いえ」という比喩ひゆだ。家いえは自分じぶんのものである。それでも主人しゅじんではない。所有しょゆうと支配しはいが一致いっちしない — この居心地いごこちの悪わるさが、98 で見みた自我じがの位置いちを決定的けっていてきに変かえてしまった。理性的りせいてきに判断はんだんしているつもりの自分じぶんが、判断はんだんの理由りゆうを知しらない。
  • こんな夢ゆめを見みた。腕組うでぐみをして枕元まくらもとに坐ざつてゐると、仰向あおむけに寝ねた女おんなが、静しずかな声こえでもう死しにますと云いふ。夏目なつめ漱石そうせき『夢ゆめ十じゅう夜よる』第一だいいち夜よる(1908)
    『精神せいしん分析ぶんせき入門にゅうもん』の九きゅう年前ねんまえに書かかれた小説しょうせつの書かき出だしである。説明せつめいがいっさい無ない。なぜ女おんなが死しぬのか、二人ふたりはどういう関係かんけいか、書かかれないまま話はなしが進すすむ。それでも読よめる。夢ゆめが、そのように進すすむものだと読者どくしゃが知しっているからだ。ここに無意識むいしきという語ごの手てざわりがある。筋すじが通とおっていないのに、なぜか必然ひつぜんに感かんじられる。フロイトは夢ゆめを無意識むいしきへ通つうじる王道おうどうと呼よんだ。抑おさえられていたものが、検閲けんえつをすり抜ぬけて形かたちを変かえて現あらわれる場所ばしょだからである。漱石そうせきがこの連作れんさくを「こんな夢ゆめを見みた」で始はじめたのは、説明せつめいを放棄ほうきする許可きょかをあらかじめ取とったということでもある。
  • 無意識むいしきとは、単たんに気きづいていないのではなく、意識いしきに上うえらないよう抑おさえられている領域りょういきを指さす。 ここが日常にちじょう語ごとの決定的けっていてきな差さである。「無意識むいしきに足あしが動うごいた」はただ気きづいていないだけで、注意ちゅういを向むければ意識いしきできる。フロイトの無意識むいしきは向むけても意識いしきできない。だから夢ゆめや言いい間違まちがいに形かたちを変かえて現あらわれる。ユングはさらに、個人こじんを超こえて共有きょうゆうされる集合的しゅうごうてき無意識むいしきを想定そうていした。
  • ×歩あるきながら考かんがえごとをしていた。無意識むいしきの働はたらきである。 ただ注意ちゅういが向むいていないだけなら「無む自覚じかくに」「なんとなく」で足たりる。無意識むいしきは抑圧よくあつされて意識いしきに上うえれない層そうを指さす。「注意ちゅういを向むければ思おもい出だせるか」を問とえばよい — 思おもい出だせるなら、それは意識いしきの縁えんにあっただけである。日常にちじょう語ごの「無意識むいしきに」はこの重おもみを持もたない。
派生はせい形けい
  • 無意識的むいしきてき[0]「無意識むいしきのうちに」と同おなじく、日常にちじょうでは「気きづかずに」の意いで使つかわれる。精神せいしん分析ぶんせきの文脈ぶんみゃくでは抑圧よくあつの層そうに属ぞくするという重おもい意味いみになる。まず層そうを決きめてから読よむ。
  • 潜在意識せんざいいしき[0]1-1 の 39 で見みた潜在せんざいと同おなじ作つくり。厳密げんみつには無意識むいしきと区別くべつされる場合ばあいがあるが、日本語にほんごでは混用こんようされることが多おおい。自己じこ啓けい発はつの文脈ぶんみゃくで広ひろまったため、学術がくじゅつ語ごとしてはやや使つかいにくい。
  • 集合的無意識しゅうごうてきむいしき[0]ユングの語ご。個人こじん史しではなく人類じんるい史しに由来ゆらいする層そう。検証けんしょうが難むずかしいため学問的がくもんてきな評価ひょうかは分わかれるが、文学ぶんがく・芸術げいじゅつの批評ひひょうでは広ひろく用もちいられている。
コロケーション
  • 抑圧よくあつされる意識いしきに上うえれない理由りゆう忘わすれたのではなく、思おもい出だせないようにされている。受うけ入いれがたい欲望よくぼうや記憶きおくが、意識いしきの外そとへ押おしやられる。注目ちゅうもくしたいのは、押おしやる働はたらきも本人ほんにんには見みえないことだ。抑圧よくあつしていること自体じたいが抑圧よくあつされている。この二に重じゅう性せいが、自分じぶんでは解とけない理由りゆうになっている。
  • 夢ゆめは無意識むいしきへの王道おうどうフロイトの言いい方かた眠ねむっているあいだは検閲けんえつがゆるむ。だから抑おさえられていたものが形かたちを変かえて現あらわれる。「形かたちを変かえて」が要点ようてんで、そのままでは出でてこない。だから夢ゆめは解釈かいしゃくを必要ひつようとする — 1-3 の 66 で見みたアレゴリーと同おなじ構造こうぞうがここにある。直接ちょくせつ語かたれないものが、別べつの話はなしとして語かたられる。
  • 言いい間違まちがい日常にちじょうに現あらわれる裂さけ目めフロイトが重視じゅうししたのは、ごくありふれた失敗しっぱいだった。言いい間違まちがい、置おき忘わすれ、度ど忘わすれ。偶然ぐうぜんに見みえるこれらに意味いみを読よみ取とるところに精神せいしん分析ぶんせきの方法ほうほうがある。1-2 の 51 で見みた因果いんがと相関そうかんの問題もんだいがここで顔かおを出だす — 意味いみを読よみ取とりすぎていないかという批判ひはんは、この方法ほうほうにつねに向むけられてきた。
  • 集合的しゅうごうてき無意識むいしきユングの拡張かくちょう個人こじんを超こえて共有きょうゆうされる無意識むいしきの層そう。神話しんわや昔話むかしばなしに共通きょうつうする型かた(元型げんけい)がその現あらわれだとされる。フロイトの無意識むいしきが個人こじん史しから来くるのに対たいし、こちらは人類じんるい史しから来くる。1-4 の 80 の神話しんわ、1-3 の 66 のアレゴリーと同おなじ場所ばしょに接せっしている。
格かく中なか

書かき言葉ことば・会話かいわの両方りょうほうで使つかえる。

類るい語ごと差さ
  • 潜在せんざい意識いしき表ひょうに現あらわれていない意識いしき☑39 潜在せんざいと同どう系けい。無意識むいしきのほうが精神せいしん分析ぶんせきの術語じゅつごとして厳密げんみつ。
  • 抑圧よくあつ意識いしきから締しめ出だす働はたらき無意識むいしきをつくる機き制せい。フロイトの中心ちゅうしん概念がいねん。
  • 本ほん能のう生得せいとく的てきな行動こうどうの傾向けいこう生物学せいぶつがくの語ご。無意識むいしきは心こころの構造こうぞうを指さす。
  • うっかり気きづかずに日常にちじょう語ご。「無意識むいしきに」の日常にちじょう用法ようほうはこちらに近ちかい。

ENthe unconscious
ZH无意识(無意識, wúyìshí)

118★

アンビヴァレンス

アンビヴァレンス[4]中高なかだか型がた

定義ていぎ

同おなじものに対たいして、矛盾むじゅんした感情かんじょうを抱いだくこと。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑118
原げん書しょの解説かいせつ

愛あいと憎にくしみ、受容じゅようと拒絶きょぜつなど、同一どういつの対象たいしょうに相反そうはんする感情かんじょうを同時どうじに抱いだくことを、アンビヴァレンスと言いう。もともとは精神せいしん分析ぶんせきの専門せんもん用語ようごであったが、現在げんざいでは広ひろく用もちいられるようになった。

たとえば

恋人こいびとに対たいして愛あいと憎にくしみを同時どうじに抱いだく、父ちち親おやに対たいして尊敬そんけいと軽蔑けいべつを同時どうじに抱いだく、などである。

使用しようの境界きょうかい

同一どういつの対象たいしょうに対たいして、相反そうはんする感情かんじょうを同時どうじに抱いだくこと。時間差じかんさで入いれ替かわるのではなく、同時どうじである点てんが要点ようてん。

用法ようほう

精神せいしん分析ぶんせきの語ごで、「両りょう価あたい性せい」と訳やくす。同おなじ相手あいてに愛情あいじょうと憎悪ぞうおを同時どうじに抱いだくのが典型てんけいで、親おや子こ関係かんけいや恋愛れんあい関係かんけいの分析ぶんせきで使つかわれる。要点ようてんは同時どうじ性せいにあり、好すきになったり嫌きらいになったりを繰くり返かえすのは含ふくまない。評ひょう論文ろんぶんでは感情かんじょうだけでなく、近代きんだい・技術ぎじゅつ・都市としなどに対たいする両義りょうぎ的てきな態度たいどを述のべる語ごとしても使つかわれる。この場合ばあいは☑71 両義りょうぎと重かさなるが、両義りょうぎが対象たいしょうの構造こうぞうを言いうのに対たいし、アンビヴァレンスは受うけ手ての感情かんじょうを言いう。

用例ようれい
  • 私わたしは憎にくみ、そして愛あいする。なぜそうなのかと問とわれても、私わたしには分わからない。ただそう感かんじ、そして苛さいなまれている。カトゥルス『歌集かしゅう』第だい八十はちじゅう五ご歌うた(前まえ一世いっせい紀き)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    二千年にせんねん前まえの、二に行ぎょうの詩しである。アンビヴァレンスを述のべた文ぶんとして、これ以上いじょう短みじかいものは無ない。注目ちゅうもくしたいのは「なぜかと問とわれても分わからない」と書かかれていることだ。理由りゆうが言いえない。ここが要点ようてんである。理由りゆうが言いえるなら、それは二ふたつの理由りゆうが競合きょうごうしているだけで、検討けんとうすればどちらかに決きまる。アンビヴァレンスは決きまらない。同おなじ対象たいしょうに、同時どうじに、相反そうはんする感情かんじょうが向むいているからだ。1-3 の 71 で見みた両義りょうぎとの違ちがいもここにある — 両義りょうぎは対象たいしょうの構造こうぞう、アンビヴァレンスは受うけ手ての感情かんじょうである。
  • ふらんすへ行いきたしと思おもへども
    ふらんすはあまりに遠とおし
    せめては新あたらしき背広せびろをきて
    きままなる旅たびにいでてみん萩原朔太郎はぎわらさくたろう『純情じゅんじょう小しょう曲きょく集しゅう』「旅上りょじょう」(1925)
    行いきたいと思おもうが、遠とおすぎる。ならばせめて新あたらしい背広せびろを着きて、気きままな旅たびに出でよう。憧あこがれと諦あきらめが同時どうじに成なり立たっている。注目ちゅうもくしたいのは、どちらかを捨すてていないことだ。諦あきらめたなら憧あこがれを語かたる必要ひつようはないし、本気ほんきで行いくつもりなら「せめては」とは言いわない。二ふたつを抱かかえたまま、第だい三さんの行動こうどうが出でてくる。アンビヴァレンスは、しばしばこのようにずれた形かたちで表ひょうに出でる。評ひょう論文ろんぶんでは、感情かんじょうだけでなく近代きんだい・技術ぎじゅつ・都市としに対たいする両義りょうぎ的てきな態度たいどを述のべる語ごとしても使つかわれるが、そこでもこの「どちらも捨すてない」構かまえが中身なかみになっている。
  • 同おなじ相手あいてに愛情あいじょうと憎悪ぞうおを同時どうじに抱いだく。これがアンビヴァレンスである。 要点ようてんは同時どうじ性せいにある。好すきになったり嫌きらいになったりを繰くり返かえすのは含ふくまない。精神せいしん分析ぶんせきの語ごで「両りょう価あたい性せい」と訳やくす。親おや子こ関係かんけいや恋愛れんあい関係かんけいの分析ぶんせきで使つかわれ、矛盾むじゅんではなく心こころの通常つうじょうの作つくりとして扱あつかわれる。
  • ×最初さいしょは好すきだったが今いまは嫌きらいだ。アンビヴァレンスである。 時間差じかんさで入いれ替かわっているだけなら、それは心こころ変かわりである。アンビヴァレンスは同時どうじでなければならない。「いま両方りょうほうあるか」を問とえばよい。1-3 の 71 の両義りょうぎと同おなじで、同時どうじ性せいが条件じょうけんになっている。
派生はせい形けい
  • 両価性りょうかせい[0]精神せいしん分析ぶんせきでの訳語やくご。「価あたい」の字じが、意味いみではなく評価ひょうかの話はなしだと示しめしている。1-3 の 71 の両義性りょうぎせいと一いち字じ違ちがいで層そうが変かわる。
  • アンビヴァレント形容詞けいようし形けい。日常にちじょう語ごとしても通つうじるようになった。「複雑ふくざつな気持きもち」をより正確せいかくに言いい換かえる語ごとして定着ていちゃくしつつある。
  • 両義りょうぎ[0]1-3 の 71 で扱あつかった語ご。対象たいしょうの側がわの構造こうぞうを指さす。アンビヴァレンスと重かさなる場面ばめんが多おおいので、どちら側がわの話はなしかを毎回まいかい決きめてから読よむとよい。
コロケーション
  • 両りょう価あたい性せい訳語やくごとしての形かたち二ふたつの価あたい(プラスとマイナス)が同時どうじに働はたらいていることを字面じづらで示しめす。「両義りょうぎ」が意味いみの話はなしであるのに対たいし、こちらは価値かち評価ひょうかの話はなしだ。好すき嫌きらい、善悪ぜんあく、快かい不快ふかい。評価ひょうかの軸じくの上うえで正反対せいはんたいの位置いちに同おなじ対象たいしょうが置おかれている。
  • アンビヴァレントな感情かんじょう日常にちじょうへの降下こうか外来語がいらいごのまま形容詞けいようしとして使つかわれる。「複雑ふくざつな気持きもち」より構造こうぞうがはっきりするのが利り点てんである。複雑ふくざつでは何なにがどう複雑ふくざつか分わからないが、アンビヴァレントと言いえば相反そうはんする二ふたつが同時どうじにあると特定とくていできる。語彙ごいが細こまかくなると、感情かんじょうも細こまかく捉とらえられる — 1-3 の 58 で見みたレトリックの創造そうぞう機能きのうである。
  • 近代きんだいへのアンビヴァレンス評ひょう論文ろんぶんの用法ようほう感情かんじょうだけでなく、時代じだいや技術ぎじゅつや制度せいどに対たいする態度たいどにも使つかう。近代きんだいを批判ひはんしながら近代きんだいの産物さんぶつである言葉ことばで書かく。都市としを嫌きらいながら都市としに住すむ。この居心地いごこちの悪わるさを正直しょうじきに名指なざす語ごとして、1-6・1-7 の議論ぎろんで繰くり返かえし現あらわれる。
  • 両義りょうぎとアンビヴァレンスどちら側がわにあるか両義りょうぎは対象たいしょうの構造こうぞう、アンビヴァレンスは受うけ手ての感情かんじょう。1-3 の 71 と対たいにして読よみたい。身体しんたいが主体しゅたいでもあり物体ぶったいでもあるのは両義りょうぎ、自分じぶんの身体しんたいを愛あいしつつ疎そましく思おもうのがアンビヴァレンスである。対象たいしょうの側がわか、こちら側がわかで分わける。
格かく硬かた・学術がくじゅつ

論文ろんぶん・評ひょう論ろんでのみ使つかう。会話かいわでは不自然ふしぜん。

類るい語ごと差さ
  • 両義りょうぎ対照的たいしょうてきな二ふたつの意味いみをもつ☑71。意味いみの構造こうぞう。アンビヴァレンスは感情かんじょうの状態じょうたい。
  • 葛藤かっとう相反そうはんする気持きもちが争あらそう二ふたつの気持きもちが対立たいりつして苦くるしむ。アンビヴァレンスは同時どうじに抱いだいていること自体じたいを指さす。
  • ディレンマ二ふたつとも選えらべない☑33。選択せんたくの構造こうぞう。感情かんじょうの話はなしではない。
  • 愛憎あいぞう愛あいと憎にくしみ日本語にほんごの言いい換かえ。アンビヴァレンスの代表だいひょう例れいだが、語ごとしては限定的げんていてき。

ENambivalence
ZH矛盾心理(相反する感情, máodùn xīnlǐ)

意識と無意識の層意識の下に抑圧された無意識の領域が広がり、夢や言い間違いとして現れることを示した図。 意識 気づいている領域 抑圧 無意識 意識に上らないよう抑えられている領域 コンプレックス・トラウマが沈んでいる 夢 言い間違い 理性的な自我は、心の主人ではなかった
意識いしきと無意識むいしきの層そう
Meta — 俯瞰ふかん

三十さんじゅう一語いちごを上うえから見みる

この章しょうの語ごは、認識にんしきの層そう・存在そんざいの層そう・心こころの層そうに分わかれて置おかれている。対立たいりつの軸じくと、語ごの格かくを一いち枚まいずつ図ずにしておく。

本章の対立の軸一覧本章に現れる対立語のペアと、それを分ける軸を並べた一覧図。 PAIR AXIS 主観 客観 認識する側か、される側か 現象 本質 現れか、その根拠か 主体 客体 働きかける側か、される側か 理性 感性 組み立てるか、受け取るか ア・プリオリ ア・ポステリオリ 経験に依存するか 評論文は対立で動く ── 軸が分かれば片方から他方が読める
本章ほんしょうに現あらわれる対立たいりつと、それを分わける軸じく
格による40語の分布硬・学術、硬、中の三段階に本章の40語を振り分けた図。 硬・学術 10 心身二元論 唯物論 独我論 ロゴス 形而上 ア・プリオリ ア・ポステリオリ 弁証法 実存 アンビヴァレンス 硬 7 認識 知覚 本質 カタルシス ペシミズム 客体 命題 中 14 哲学 主観 客観 現象 自我 アイデンティティ モラトリアム トラウマ コンプレックス 主体 理性 感性 倫理 無意識 語は意味ではなく格で選ぶ
格かくによる四十よんじゅう語ごの分布ぶんぷ

硬かた・学術がくじゅつに属ぞくする語ごは、会話かいわで使つかうと不自然ふしぜんに響ひびく。中なかに属ぞくする語ごは両方りょうほうで使つかえる。この区別くべつは意味いみの理解りかいとは別べつの層そうにあり、書かく段階だんかいで効きいてくる。

Output

産出さんしゅつ

やるなら ── 自分じぶんの関心かんしん領域りょういきから一ひとつ選えらび、次つぎのいずれかを一段落いちだんらくで書かく。

  • 自分じぶんの関心かんしん領域りょういきで、ア・プリオリに前提ぜんていされているものを一ひとつ挙あげる
  • 自分じぶんが主体しゅたいとして振ふる舞まっている場面ばめんと、客体きゃくたいとして扱あつかわれている場面ばめんを一ひとつずつ書かき出だす
Blank

無意識むいしきが心こころの大半たいはんを占しめているのなら、「自分じぶんで決きめた」と言いえるのは、どこからどこまでなのか。