Chapter 1-6

近代きんだい

[ 原げん書しょ 第だい1部いちぶ 第だい6章ろくしょう 近代きんだい ]

語ご数すう 22 / 節せつ 21 / 1節いっせつ 約やく10〜15分ぶん

原げん書しょの導入どうにゅう

近代きんだいとは何なにか

「近代きんだい」が入試にゅうしに頻出ひんしゅつする理由りゆう

入試にゅうしでは、「近代きんだい批判ひはん」についての文章ぶんしょうが多おおく出題しゅつだいされる。その内容ないようは、効率こうりつや進歩しんぽ、物質的ぶっしつてきな豊ゆたかさを求もとめてきた近代きんだいというものに対たいし、疑うたがいや批判ひはんを投なげかけるといったものだ。

近代きんだいの精神せいしんや価値かち観かんを受うけ継ついだ我々われわれが生いきている「現代げんだい」とは、そうした「近代きんだい」をどう改革かいかくしていくかが問とわれている時代じだいなのである。

近代きんだいを広ひろい意味いみでとらえれば、本ほん書しょの第だい2章にしょう「科学かがく」や第だい5章ごしょう「哲学てつがく・心理しんり」なども、近代きんだいに深ふかく関係かんけいしている。自然科学しぜんかがくとそれを応用おうようした科学技術かがくぎじゅつは近代きんだいに生うまれて発展はってんしたもので、自我じがや心身しんしん二元にげん論ろんなどの概念がいねんも近代きんだいの哲学者てつがくしゃによって生うみ出だされたものである。

近代きんだいはいつから始はじまったか

近代きんだいという時代じだいはいつから始はじまったのだろうか。

近代きんだいの始はじまりを、ルネッサンス以降いこうとする場合ばあいもあれば、十七じゅうなな世紀せいき、十八じゅうはち世紀せいきとする場合ばあいもある。実じつはこのように、歴史れきしのとらえ方ほうによって近代きんだいの定義ていぎが変化へんかしてしまうところに、近代きんだいのとらえがたさがある。

近代きんだいの幕まく開あけをルネッサンス(十四じゅうよん〜十六じゅうろく世紀せいき)とする考かんがえは、中世ちゅうせいの宗教的しゅうきょうてきな世界観せかいかんから世俗せぞく的てきな世界観せかいかんへの変化へんかに注目ちゅうもくしている。

また、十七じゅうなな世紀せいきとする考かんがえは、デカルトに代表だいひょうされる合理的ごうりてきな精神せいしんの萌芽ほうがに近代きんだいへの転換てんかんを読よみ取とっている。

あるいは、市民しみん革命かくめいによって自由じゆうで平等びょうどうな社会しゃかいが実現じつげんした十八じゅうはち世紀せいきを近代きんだいの出発点しゅっぱつてんとみなす見方みかたもある。

たとえば日本にほんでは、西洋せいよう化かを目指めざすことになった十九じゅうきゅう世紀せいきの明治めいじ維い新しんを近代きんだいの幕まく開あけとするのが一般的いっぱんてきなとらえ方ほうである。

近代的きんだいてき人間にんげん像ぞう

では、具体的ぐたいてきに近代きんだいの特徴とくちょうをつかんでいこう。

まず、近代きんだいの人間にんげんとはどのような存在そんざいか、そのイメージをもってほしい。近代きんだいの人間にんげんの重要じゅうような特徴とくちょうとしては、「内面ないめん」をもっていることと、「理性的りせいてき」であることの二に点てんが指摘してきできる。

「内面ないめん」をもつということは、自分じぶんを反省はんせい的てきにとらえることができることであり、「理性的りせいてき」とは、自分じぶんの感情かんじょうをコントロールして合理的ごうりてきに行動こうどうする、という意味いみだ。

こうした人々ひとびとが共同体きょうどうたい的てきなつながりを脱だつしてつくり上あげたのが「近代きんだい市民しみん社会しゃかい」であり、それを構成こうせいする「市民しみん」は理性りせいをもっているからこそ、宗教しゅうきょうや因習いんしゅうから自由じゆうになり、自分じぶんたちの力ちからで社会しゃかいを運営うんえいできるようになった。

このような近代きんだいの人間にんげんのイメージが確立かくりつされるきっかけとなったのは、啓蒙けいもう主義しゅぎの思想しそうだろう。啓蒙けいもう主義しゅぎの思想家しそうかたちは、理性りせいが人間にんげんの最もっとも優すぐれた能力のうりょくと考かんがえ、理性りせいによって感情かんじょうをコントロールし、理性りせいに照てらし合あわせて物事ものごとを判断はんだんしていくことが人間にんげんらしいと主張しゅちょうした。

こうして、理性的りせいてき存在そんざいとしての人間にんげんが確立かくりつされるようになる。

近代きんだいの政治せいじと経済けいざい

近代きんだい市民しみん社会しゃかいのもとでは、個人こじんの自由じゆうと平等びょうどうが保証ほしょうされている。

それまでの国家こっかでは、絶対的ぜったいてきな権力けんりょくをもつ国王こくおうこそが主権しゅけん者しゃであったが、市民しみん革命かくめいによって、民みん主しゅ主義しゅぎ的てきな社会しゃかいが実現じつげんしたのである。

経済けいざい面めんでは、産業さんぎょう革命かくめいが資本しほん主義しゅぎを牽引けんいんした。

すなわち産業さんぎょう革命かくめいにおいて、さまざまな機械きかいが発明はつめい・導入どうにゅうされたことで生産せいさん力りょくが飛躍ひやく的てきに増加ぞうかし、そのことによって、大規模だいきぼな工場こうじょう制度せいどが確立かくりつするとともに、生産せいさん手段しゅだんの私有しゆう化かが進すすんでいった。

資本しほん家かは労働者ろうどうしゃを雇用こようして利潤りじゅんの追求ついきゅうをはかるようになり、資本しほん主義しゅぎが形成けいせいされていくこととなった。

国民こくみん国家こっかの成立せいりつ

こうした政治せいじ、経済けいざいの新あたらしい体制たいせいは、近代的きんだいてきな国民こくみん国家こっか(民族みんぞく国家こっか)として結けつ実じつした。

国民こくみん国家こっかとは、民族みんぞくを単位たんいとして「国民こくみん」にまとめ上あげる国家こっかのあり方かたのことである。国民こくみん国家こっかは、同おなじ民族みんぞくを仲間なかまとみなすナショナリズムの思想しそうから生うまれてきた。

近代きんだいを論ろんじる際さいに「国民こくみん国家こっか」という概念がいねんが重要じゅうようになるのは、近代きんだい以前いぜんの中世ちゅうせいでは、まだ国家こっかはそれほど大おおきな力ちからをもっていなかったからだ。

ヨーロッパ全体ぜんたいは国家こっかという区分くぶんを超こえたキリスト教きょうによって結むすばれていることの方ほうが重要じゅうようであり、国家こっかの体制たいせいも中央ちゅうおう集しゅう権けん的てきなものではなく、地方ちほう分ぶん権けん的てきであった。

政治せいじの単位たんいが国家こっかを中心ちゅうしんとするようになったのは、近代きんだいの国家こっかからである。

近代きんだい批判ひはんのポイント

これまで近代きんだいの人間にんげん像ぞうから社会しゃかい・経済けいざい・国家こっかまでを見みてきたが、これらはあくまで評ひょう論文ろんぶんを読よむ上うえでの前提ぜんてい知識ちしきである。

実際じっさいの入試にゅうし問題もんだいは、こうした近代的きんだいてきな制度せいどのゆがみを挙あげながら、近代きんだいの価値かち観かんを批判的ひはんてきに議論ぎろんするような文章ぶんしょうが多おおい。

たとえば、

などだ。

批判ひはんへのアプローチは論ろん者しゃによってさまざまだが、読解どっかいする際さいには、「筆者ひっしゃは近代きんだいのどのような価値かち観かんに対たいして批判的ひはんてきなのか」という点てんを意識いしきしながら読よむことを心こころがけよう。

Macro — 近代きんだいの地図ちず

六むっつの領域りょういきは、独立どくりつしていない

近代の六領域時間・思想・個人・経済・政治・社会という六つの領域で近代に何が起きたかを並べ、中央にその共通の帰結を置いた図。 時間思想個人 経済政治社会 直線的な進歩の時間時間・空間の均質化 世俗化・合理主義啓蒙主義とその反動 共同体からの独立自我の確立と孤独 資本主義・産業革命労働の疎外 市民社会・民主主義国民国家の成立 身分制の解体大衆社会への変質 近代 理性をもった個人が、 自由と平等のもとで社会を運営する 六つの領域は独立していない。同じ一つの転換の別の面である。
時間じかん・思想しそう・個人こじん・経済けいざい・政治せいじ・社会しゃかい ── 同おなじ一ひとつの転換てんかんの別べつの面めん

近代きんだいとは、理性りせいをもった個人こじんが、自由じゆうと平等びょうどうのもとで社会しゃかいを運営うんえいするという一ひとつの構想こうそうである。この構想こうそうが六むっつの領域りょういきに同時どうじに現あらわれた。時間じかんは直線ちょくせん的てきな進歩しんぽになり、宗教しゅうきょうは私事しじになり、人ひとは共同体きょうどうたいから切きり離はなされ、労働ろうどうは工場こうじょうに集あつめられ、身分制みぶんせいは解体かいたいし、国民こくみんという単位たんいが作つくられた。この章しょうの二十二にじゅうに語ごは、そのどこかに位置いちしている。

中世から近代へ中世と近代を八つの軸で対比し、その転換が近代化と呼ばれることを示した図。 中世 近代 神が中心人間が中心 身分制自由と平等 共同体に属する個人として立つ 土地と農業資本と工業 循環する時間直線的に進歩する時間 この転換が近代化と呼ばれる ── ただし尺度は西欧に置かれている
中世ちゅうせいから近代きんだいへ

ただしこの対比たいひ表あらわそのものが、近代きんだいの側がわから描えがかれたものである。「暗黒あんこくの中世ちゅうせい」という像ぞうは近代きんだいがつくった。近代きんだいを学まなぶとは、この構想こうそうの力ちからと、その構想こうそうが何なにを切きり捨すてたかを同時どうじに見みることになる。

Index — 16 sections

節せつ

  1. 01近代きんだい化か
  2. 02世俗化せぞくか
  3. 03近代きんだい合理主義ごうりしゅぎ
  4. 04(近代きんだい)市民しみん社会しゃかい
  5. 05個人こじん/共同体きょうどうたい
  6. 06国民こくみん国家こっか
  7. 07ナショナリズム
  8. 08民みん主しゅ主義しゅぎ
  9. 09資本しほん主義しゅぎ
  10. 10社会しゃかい主義しゅぎ
  11. 11功利こうり主義しゅぎ
  12. 12ヒューマニズム
  13. 13ニヒリズム
  14. 14フェティシズム
  15. 15中世ちゅうせい
  16. 16啓蒙けいもう主義しゅぎ
  17. 17ロマン主義しゅぎ(ロマンティシズム)
  18. 18産業さんぎょう革命かくめい
  19. 19全体ぜんたい主義しゅぎ
  20. 20アナキズム
  21. 21時間じかん・空間くうかんの均質化きんしつか
Section 01

近代きんだい化か

119★★★

近代化きんだいか⚠

きんだいか[0]平板へいばん型がた

語ご構成こうせい
近ちかちかい+代だいよ・時代じだい+化かそうなる
定義ていぎ

中世ちゅうせいの封建ほうけん的てきな社会しゃかいを脱だつして、民みん主しゅ的てきな社会しゃかい・産業さんぎょう社会しゃかいへと、社会しゃかいが変かわっていくこと。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑119
原げん書しょの解説かいせつ

中世ちゅうせいヨーロッパの社会しゃかいは、キリスト教きょう的てき価値かち観かん・封建ほうけん的てき身分制みぶんせい度どによる支配しはいの下したにあったが、ブルジョワジーの台頭たいとうや市民しみん革命かくめいなどを経へて、合理的ごうりてきで民みん主しゅ的てきな社会しゃかいが実現じつげんされた。

このように中世ちゅうせい的てきな社会しゃかいを脱だつして、理性的りせいてきな市民しみんによって民みん主しゅ的てきな社会しゃかいが運営うんえいされるようになったり、人々ひとびとが合理的ごうりてきな価値かち観かんをもつようになったりしたことを近代きんだい化かと言いう。

近代きんだい化かは、民みん主しゅ化か・合理化ごうりかの他ほかにも、個人こじん主義しゅぎ化か・産業さんぎょう化か・資本しほん主義しゅぎ化かといった多様たような側面そくめんから論ろんじられる概念がいねんでもある。

時代じだい的てきには、十七じゅうなな〜十八じゅうはち世紀せいきの西欧せいおうで最初さいしょに実現じつげんされ、その後ご西欧せいおう諸国しょこくが世界せかい各地かくちで勢力せいりょくを拡大かくだいしたため、日本にほんなどでは急速きゅうそくな近代きんだい化かが求もとめられることになった。

こうした西欧せいおう以外いがいの国々くにぐにでは、西欧せいおう化かがそのまま近代きんだい化かと同義どうぎであるが、その過程かていでは、精神せいしん的てき側面そくめんよりも制度せいど・技術ぎじゅつの導入どうにゅうが重視じゅうしされることが多おおかった。

使用しようの境界きょうかい

封建ほうけん的てきな社会しゃかいを脱だつし、民みん主しゅ的てき・産業さんぎょう的てきな社会しゃかいへ変かわること。技術ぎじゅつの導入どうにゅうだけでは近代きんだい化かとは言いわない。

用法ようほう

評ひょう論文ろんぶんで最もっとも重要じゅうようなのは、この語ごがある一ひとつの尺度しゃくどを含ふくんでいるという点てんである。西欧せいおうで理論りろん化かされた条件じょうけん(ブルジョワジーの台頭たいとう・市民しみん革命かくめい・自我じがの確立かくりつ)を基準きじゅんにすれば、それを満みたさない社会しゃかいは自動的じどうてきに「遅おくれている」ことになる。原げん書しょの入試にゅうし文ぶんは、明治めいじ以来いらいの日本にほんの知識人ちしきじんが自国じこくを前近代ぜんきんだいだと考かんがえて呻吟しんぎんしてきたと述のべる。つまり近代きんだい化かという語ごそのものが、☑75 自じ文化ぶんか中心ちゅうしん主義しゅぎの構図こうずを内側うちがわに抱かかえている。

用例ようれい
  • 西洋せいようの開かい化かは内発的ないはつてきであって、日本にほんの現代げんだいの開かい化かは外発がいはつ的てきである。ここに内発的ないはつてきというのは内ないから自然しぜんに出でて発展はってんするという意味いみで、ちょうど花はなが開ひらくようにおのずから蕾つぼみが破やぶれて花弁かべんが外そとに向むかうのを云いい、また外発がいはつ的てきとは外そとからおっかぶさった他ほかの力ちからでやむを得とくず一種いっしゅの形式けいしきを取とるのを指さしたつもりなのです。夏目なつめ漱石そうせき『現代げんだい日本にほんの開かい化か』(1911)
    近代きんだい化かという語ごを、速はやさではなく向むきで捉とらえた一節いっせつである。漱石そうせきは「遅おくれている/進すすんでいる」とは言いわない。力ちからがどちらから来きたかだけを問題もんだいにしている。この置おき換かえが効きいているのは、遅速ちそくの話はなしにするといずれ追おいつくという慰なぐさめが残のこるのに対たいし、内ない発はつ/外発がいはつの話はなしにすると追おいついた先さきでも同おなじ空白くうはくが残のこるからだ。花はなの比喩ひゆがむごいのはそこである — 外そとから開ひらかされた花はなは、咲さいてはいるが、咲さく理由りゆうを自分じぶんの内側うちがわに持もっていない。漱石そうせきはこの講演こうえんの末尾まつびで「涙なみだを呑のんで上うえ滑すべりに滑すべっていかなければならない」と言いい切きる。批判ひはんして終おわらず、それでも進すすむほかないと認みとめたところに、この文章ぶんしょうの重おもさがある。
  • 一身いっしん独立どくりつして一国いっこく独立どくりつす。福沢ふくざわ諭吉ゆきち『学問がくもんのすゝめ』三さん編へん(1873)
    近代きんだい化かの順序じゅんじょを八字はちじで言いい切きった句くである。国くにが独立どくりつしてから人ひとが独立どくりつするのではない。人ひとが独立どくりつしなければ国くには独立どくりつしない。福沢ふくざわがこの順序じゅんじょにこだわったのは、当時とうじの日本にほんが国家こっかの体裁ていさいだけを西洋せいように似にせようとしていたからだ。制度せいどは輸入ゆにゅうできるが、その制度せいどを動うごかす人ひとの構かまえは輸入ゆにゅうできない。119 の近代きんだい化かが、技術ぎじゅつ・制度せいど・意識いしきの三さん層そうで進すすみ、層そうごとに速度そくどが違ちがうと言いわれるとき、福沢ふくざわが見みていたのはいちばん下したの層そうである。漱石そうせきの「外発がいはつ的てき」と福沢ふくざわの「一身いっしん独立どくりつ」は、同おなじ空白くうはくを、諦あきらめの側がわと要求ようきゅうの側がわから言いっている。
  • 明治めいじ日本にほんの近代きんだい化かは、制度せいどの移植いしょくとしては速はやく、意識いしきの変容へんようとしては遅おそかった。 近代きんだい化かを単一たんいつの速度そくどで語かたらないのが、この語ごの使つかい方かたの勘所かんどころである。鉄道てつどうと憲法けんぽうは数十すうじゅう年ねんで入はいるが、家いえや村むらの中なかの関係かんけいはそれほど速はやく変かわらない。評ひょう論文ろんぶんが「近代きんだい化かの歪ゆがみ」「未完みかんの近代きんだい」と言いうとき、指さしているのはたいていこの層そうのあいだのずれだ。
  • ×駅前えきまえが近代きんだい化かされて、きれいなビルが建たった。 通つうじるが、これは「近代的きんだいてきになった」=新あたらしくなったという日常にちじょう語ごであって、評ひょう論語ろんごの近代きんだい化かではない。評ひょう論語ろんごの近代きんだい化かは社会しゃかいの仕組しくみと人ひとの意識いしきがひとまとまりに組くみ替かわる過程かていを指さす。建物たてものの建だて替かえを言いいたいなら「再開さいかい発はつ」「更新こうしん」が正ただしい。日常にちじょう語ごの近代きんだい化かは褒ほめ言葉ことば、評ひょう論語ろんごの近代きんだい化かは分析ぶんせき語ごで、符号ふごうがそもそも付ついていない。
派生はせい形けい
  • 近代きんだい[1]時代じだい区分くぶんの名な。「化か」を外はずすと過程かていではなく時期じきを指さす。日本にほん史しでは明治めいじ維い新しん以後いご、西洋せいよう史しではおおむね市民しみん革命かくめい以後いごを言いう。始はじまりの置おき方ほうが国くにごとに違ちがうことを覚おぼえておくと、比較ひかくの文章ぶんしょうでつまずかない。
  • 近代的きんだいてき[0]性質せいしつを言いう形容けいよう動詞どうし。「近代的きんだいてき自我じが」「近代的きんだいてき思考しこう」のように近代きんだいに特徴的とくちょうてきなの意いで使つかうのが評ひょう論語ろんご。日常にちじょう語ごの「近代的きんだいてきな設備せつび」は新あたらしい・便利べんりだの意いで、評ひょう論語ろんごとは別物べつものである。
  • 前近代ぜんきんだい[3]近代きんだいを基準きじゅんに、その手前てまえを一括ひとくくりにする語ご。便利べんりだが危あやうい。数千すうせん年ねんの多様たような社会しゃかいを「まだ近代きんだいでない」という一点いってんで束たばねてしまうからだ。「前近代的ぜんきんだいてきだ」が非難ひなんとして働はたらくとき、その文章ぶんしょうは近代きんだいを到達点とうたつてんとして扱あつかっている。
コロケーション
  • 近代きんだい化かの代償だいしょう差さ引ひきの語ご近代きんだい化かによって得とくたものと引ひき換かえに失うしなったもの。「代償だいしょう」という語ごがここで選えらばれるのは、失うしなったものが偶然ぐうぜんの副産物ふくさんぶつではなく、得えるための支払しはらいだったと見みるからだ。共同体きょうどうたいの相互扶助そうごふじょを失うしなったのは近代きんだい化かが下手へただったからではなく、個人こじんを析出せきしゅつさせることが近代きんだい化かそのものだった。この語ごを使つかう文章ぶんしょうは、たいてい近代きんだい化かを止とめろとは言いわない。支払しはらいったものを数かぞえ直なおせ、と言いっている。
  • 後発こうはつの近代きんだい化か位置いちの語ご先さきに近代きんだい化かした国くにを見みながら進すすむ近代きんだい化か。重要じゅうようなのは、後発こうはつであること自体じたいが近代きんだい化かの中身なかみを変かえるという点てんである。先発せんぱつ国こくでは技術ぎじゅつ・制度せいど・意識いしきが数百すうひゃく年ねんかけて順じゅんに育そだったが、後発こうはつ国こくでは三みっつが同時どうじに、しかも上うえから降ふってくる。漱石そうせきの「外発がいはつ的てき」はこの構造こうぞうの別名べつめいだ。後発こうはつは遅おくれではなく、別べつの形かたちである。
  • 近代きんだい化かを推すいし進すすめる主語しゅごを要求ようきゅうする語ご「推すいし進すすめる」と言いった瞬間しゅんかんに推すいす主語しゅごが要いる。西欧せいおうの近代きんだい化かは市民しみんが推すいしたことになっているが、日本にほんの近代きんだい化かを推すいしたのは国家こっかだった。誰だれが推すいしたかが、その後ごの社会しゃかいの形かたちを決きめる。国家こっかが推すいした近代きんだい化かでは、個人こじんは権利けんりの主体しゅたいとしてより先さきに国民こくみんという資源しげんとして立たち上あがる — 125 の国民こくみん国家こっかと切きり離はなせない理由りゆうがここにある。
  • 近代きんだい化か論ろん学問がくもんの名なとしての語ご一いち九五きゅうご〇〜六ろく〇年代ねんだいに、すべての社会しゃかいは同おなじ道みちを同おなじ順じゅんで通とおると説といた理論りろん。この語ごが批判的ひはんてきに引ひかれることが多おおいのは、「同おなじ道みち」という前提ぜんていが、欧米おうべいを地図ちずの完成形かんせいけいに据すえていたからだ。1-4 の 75 で見みた自じ文化ぶんか中心ちゅうしん主義しゅぎが、ここでは発展はってん段階だんかい論ろんという形かたちをとっている。近代きんだい化かという語ごを無む邪じゃ気きに使つかえなくなったのは、この批判ひはん以降いこうである。
格かく中なか

書かき言葉ことば・会話かいわの両方りょうほうで使つかえる。

類るい語ごと差さ
  • 西欧せいおう化か西欧せいおうの制度せいどと文化ぶんかを取とり入いれる西欧せいおう以外いがいの国くにでは近代きんだい化かとほぼ同義どうぎになった。この重かさなりが批判ひはんの的まとになる。
  • 工業こうぎょう化か産業さんぎょうの中心ちゅうしんが工業こうぎょうに移うつる経済けいざいの側面そくめんだけを言いう。近代きんだい化かはより広ひろく、価値かち観かんの変化へんかを含ふくむ。
  • 民みん主しゅ化か権力けんりょくが国民こくみんに開ひらかれる政治せいじの側面そくめん。近代きんだい化かを構成こうせいする一いち要素ようそ。
  • 発展はってん規模きぼや水準すいじゅんが上あがる方向ほうこうを含ふくまない中立ちゅうりつ語ご。近代きんだい化かは目指めざすべき到達点とうたつてんを含意がんいしてしまう。

ENmodernisation
ZH现代化(近代化・現代化, xiàndàihuà)

日中にっちゅうのズレ

中国語ちゅうごくごの 现代化(xiàndàihuà)は「現代げんだい化か」であり、日本語にほんごの「近代きんだい」と「現代げんだい」の区別くべつに対応たいおうする語ごが中国語ちゅうごくごにはない。

中国語ちゅうごくごで歴史れきし区分くぶんとしての近代きんだいは 近代きんだい(jìndài)、現代げんだいは 现代(xiàndài) と分わけるが、日常にちじょうの「〜化か」は 现代化 に統一とういつされる。

近代の六領域時間・思想・個人・経済・政治・社会という六つの領域で近代に何が起きたかを並べ、中央にその共通の帰結を置いた図。 時間思想個人 経済政治社会 直線的な進歩の時間時間・空間の均質化 世俗化・合理主義啓蒙主義とその反動 共同体からの独立自我の確立と孤独 資本主義・産業革命労働の疎外 市民社会・民主主義国民国家の成立 身分制の解体大衆社会への変質 近代 理性をもった個人が、 自由と平等のもとで社会を運営する 六つの領域は独立していない。同じ一つの転換の別の面である。
近代きんだいの六ろく領域りょういき ── 同おなじ一ひとつの転換てんかんの別べつの面めん
中世から近代へ中世と近代を八つの軸で対比し、その転換が近代化と呼ばれることを示した図。 中世 近代 神が中心人間が中心 身分制自由と平等 共同体に属する個人として立つ 土地と農業資本と工業 循環する時間直線的に進歩する時間 この転換が近代化と呼ばれる ── ただし尺度は西欧に置かれている
中世ちゅうせいから近代きんだいへ
入試にゅうし文ぶん

歴史れきしには、一定いっていの意味いみと目的もくてきがあり、その終点しゅうてんへと向むかう力ちからにさからうことができない、という観点かんてんから歴史れきしを見みると、近代きんだいという時代じだいは、ブルジョワジィの台頭たいとうや、市民しみん革命かくめい、宗教しゅうきょう革命かくめい、科学かがくの発展はってん、個人こじん主義しゅぎの誕生たんじょう、自我じがの確立かくりつといった、社会的しゃかいてき文明ぶんめい的てき発展はってん、進歩しんぽの如何いかんによって規定きていされる。意味いみのある歴史的れきしてき発展はってんの一段いちだん階かいとしての「近代きんだい」が、その段階だんかいとしてもつべき意義いぎや達成たっせいが想定そうていされている。
もちろんここに列記れっきした条件じょうけんは、西欧せいおう諸国しょこく、その中なかでもイギリスやフランス、アメリカといった主要しゅよう文明ぶんめい国こくの歴史れきしをもとに、抽象ちゅうしょう化かされ理論りろん化かされたものだ。そのために、ほかの国くに、とくに西欧せいおう以外いがいの文明ぶんめい圏けんには、そのまま適用てきようできない場合ばあいがすくなくない。
日本にほんには、厳密げんみつな意味いみでのブルジョワも、市民しみんも、自我じがも存在そんざいしない。そのために明治めいじ以来いらい日本にほんの知識人ちしきじんたちは、日本にほんの近代きんだいを疑うたがい、それが前近代ぜんきんだいに過すぎないと考かんがえ、いかにすれば日本にほんを完全かんぜんに近代きんだい化かできるか呻吟しんぎんしてきた。

出典しゅってん 福田ふくだ和也かずや『「内うちなる近代きんだい」の超克ちょうこく 日本人にほんじんとして、如何いかんに自みずからを語かたるのか』 / 出題しゅつだい 早稲田大学わせだだいがく・第一だいいち文学ぶんがく部ぶ

読解どっかいのポイント
  • 近代きんだい化かの条件じょうけん
  • ブルジョワジィの台頭たいとう
  • 市民しみん革命かくめい・宗教しゅうきょう革命かくめい
  • 科学かがくの発展はってん
  • 個人こじん主義しゅぎ・自我じがの確立かくりつ これらは西欧せいおうで理論りろん化かされた「近代きんだい」の成立せいりつ条件じょうけんであり、日本にほんには厳密げんみつには適用てきようできない。
要約ようやく

西欧せいおうで理論りろん化かされた「近代きんだい」の成立せいりつ条件じょうけんは、日本にほんには厳密げんみつには適用てきようできない。そのため、日本にほんの知識人ちしきじんたちは、日本にほんを前近代ぜんきんだいだと考かんがえ、近代きんだい化かすべく呻吟しんぎんしてきた。

語ご法ほうの観察かんさつ

「もちろん」で自説じせつの前提ぜんていを限定げんていし、「そのために」で帰結きけつへ進すすむ。譲歩じょうほを挟はさんで議論ぎろんの適用範囲てきようはんいを絞しぼる型かた。

Section 02

世俗化せぞくか

120★★★

世俗化せぞくか

せぞくか[0]平板へいばん型がた

語ご構成こうせい
世よよ・世よの中なか+俗ぞくならわし・世間せけんなみ+化かそうなる
定義ていぎ

宗教的しゅうきょうてき・呪術じゅじゅつ的てきな制度せいどや価値かち観かんから、社会しゃかいが離脱りだつしていくこと。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑120
原げん書しょの解説かいせつ

世俗化せぞくかとは、歴史れきしや思想しそうの文章ぶんしょうでは、単たんに「俗ぞくっぽい」という意味いみではなく、社会しゃかい・政治せいじ・文化ぶんかに大おおきな影響力えいきょうりょくや強制力きょうせいりょくをもっていた宗教しゅうきょうから、人々ひとびとが解放かいほうされることを指さすことが多おおい。

ヨーロッパではとくに、中世ちゅうせいから近代きんだいへの転換期てんかんきに顕著けんちょに見みられた。

世俗化せぞくかによって、人々ひとびとはそれまで自身じしんを縛しばっていた伝統でんとうや信仰しんこうから解放かいほうされ、自由じゆうに行動こうどうするようになっていく。

たとえば

ヨーロッパで起おこった宗教しゅうきょう改革かいかくもまた、世俗化せぞくかを促うながした。

というのも、宗教しゅうきょう改革かいかくによって、宗教しゅうきょうは集団的しゅうだんてきなものから個人的こじんてきなものへと変かわり、教会きょうかい権力けんりょくの弱体化じゃくたいかを招まねいたからである。

以後いご、キリスト教きょうは次第しだいに公的こうてきな領域りょういきから撤退てったいし、市民しみん革命かくめいなどを経へて、政せい教きょう分離ぶんりが実現じつげんされていく。

使用しようの境界きょうかい

宗教しゅうきょうの影響力えいきょうりょくが弱じゃくまり、社会しゃかいが現世げんせ的てきな価値かちによって動うごくようになること。信仰しんこうが消きえることではない。

用法ようほう

要点ようてんは宗教しゅうきょうが消きえるのではなく、位置いちが変かわることにある。政治せいじ・経済けいざい・学問がくもんが宗教しゅうきょうの権威けんいから切きり離はなされ、信仰しんこうは個人こじんの私事しじになる。この過程かていが近代きんだいを成なり立たたせた。☑88 哲学てつがくの中世ちゅうせいから近代きんだいへの移行いこう、☑42 機械論きかいろん的てき自然しぜん観かんの成立せいりつ、いずれもこの世俗化せぞくかを土台どだいにしている。日本語にほんごには「俗ぞく化かする」という別べつの語ごがあり、こちらは〈品ひん位いが下さがる〉という否定ひてい語ごなので、混同こんどうしないこと。評ひょう論文ろんぶんでは中立ちゅうりつの記述きじゅつ語ごとして使つかう。

用例ようれい
  • 我々われわれの時代じだいの運命うんめいは、合理化ごうりかと知性ちせい化か、とりわけ〈世界せかいの脱だつ魔術まじゅつ化か〉によって特徴とくちょうづけられている。マックス・ウェーバー『職業しょくぎょうとしての学問がくもん』(1919)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    世俗化せぞくかという現象げんしょうに、最もっとも鋭するどい名なを与あたえた一句いっくである。ウェーバーは「信仰しんこうが減へった」とは言いわない。世界せかいから魔術まじゅつが抜ぬけたと言いう。この言いい方かたの含意がんいは大おおきい。魔術まじゅつのある世界せかいでは、物ものごとには意味いみがあり、祈いのれば応おうじる相手あいてがいた。脱だつ魔術まじゅつ化かした世界せかいでは、すべては原理げんり的てきに計算けいさんで処理しょりできるかわりに、何なにのためにという問といに答こたえる相手あいてがいなくなる。つまり世俗化せぞくかは、説明せつめい力りょくと引ひき換かえに意味いみを失うしなう取引とりひきだった。ウェーバーが同おなじ講演こうえんで「学問がくもんは、我々われわれが何なにをなすべきかを教おしえない」と言いい添そえたのは、この取引とりひきの勘定かんじょう書かきである。
  • 人ひとは生うまれながらにして貴賤きせん貧富ひんぷの別べつなし。唯ただ学問がくもんを勤きんめて物事ものごとをよく知しる者ものは貴人きじんとなり富人ふじんとなり、無む学がくなる者ものは貧人ひんじんとなり下人げにんとなるなり。福沢ふくざわ諭吉ゆきち『学問がくもんのすゝめ』初編しょへん(1872)
    上下じょうげの理由りゆうが、天てんから本人ほんにんの努力どりょくへ引ひきっ越ごした瞬間しゅんかんである。身分制みぶんせいの下もとでは、誰だれが上うえで誰だれが下したかを決きめていたのは天てんであり血ちであった。福沢ふくざわはその席せきを空あけ、そこへ学問がくもんを座すわらせる。これが世俗化せぞくかの実際じっさいの姿すがただ — 神かみが消きえるのではなく、神かみの役目やくめを別べつのものが引ひき継つぐ。ただし、引ひき継つがせた代償だいしょうも見みておきたい。天てんのせいなら貧まずしさは本人ほんにんの罪つみではない。学問がくもんのせいなら貧まずしさは本人ほんにんの怠慢たいまんになる。世俗化せぞくかは、説明せつめいの責任せきにんを超越ちょうえつ者しゃから個人こじんへ移うつし替かえる作業さぎょうでもある — 123 の個人こじんという単位たんいがこれほど重おもい荷にを負おわされる理由りゆうが、ここに書かかれている。
  • 婚礼こんれいが寺じ社しゃから式場しきじょうへ移うつったのは、儀ぎ礼れいの世俗化せぞくかの一いち例れいである。 宗教しゅうきょうが消きえたのではなく、宗教しゅうきょうの管轄かんかつが縮ちぢんだという捉とらえ方ほう。世俗化せぞくかは領域りょういきごとに、別々べつべつの速度そくどで進すすむ。政治せいじから宗教しゅうきょうが退しりぞいても、生死せいしの場面ばめんには最後さいごまで残のこることが多おおい。この不ふ均等きんとうさを見落みおとすと、「日本人にほんじんは無む宗教しゅうきょうだ」という粗あらい断定だんていに落おちる。
  • ×彼かれは出家しゅっけをやめて世俗化せぞくかした。 個人こじんが俗ぞくに戻もどることは「還俗げんぞく」である。世俗化せぞくかは社会しゃかいや制度せいどの側がわに起おきる過程かていを指さす語ごで、個人こじんの身みの振ふり方ほうには使つかわない。主語しゅごが人ひとか、仕組しくみかで使つかい分わける。なお「世俗せぞく的てきな人ひとだ」なら人ひとにも使つかえるが、それは俗ぞくっぽいという評価ひょうか語ごで、過程かていを言いう 120 とは別語べつごだと考かんがえたほうがよい。
派生はせい形けい
  • 世俗せぞく[0]聖せいに対たいする俗ぞくの領域りょういき。もとは仏教ぶっきょう語ごで、出家しゅっけに対たいする在家ざいけの世界せかいを指さした。評ひょう論語ろんごでは宗教しゅうきょうの外側そとがわという中立ちゅうりつの意味いみで使つかう。「世俗せぞくにまみれる」のような否定的ひていてきな色いろは評ひょう論語ろんごには無ない。
  • 世俗的せぞくてき[0]二に重じゅうの顔かおを持もつ。評ひょう論語ろんごでは「世俗せぞく権力けんりょく」「世俗せぞく国家こっか」のように宗教しゅうきょうから独立どくりつしたの意い。日常にちじょう語ごでは「世俗せぞく的てきな関心かんしん」のように俗ぞくっぽい・打だ算さん的てきなの意い。非難ひなんの色いろがあるかどうかで見分みわける。
  • 世俗主義せぞくしゅぎ[0]過程かていではなく主張しゅちょうになった形かたち。政治せいじや教育きょういくから宗教しゅうきょうを締しめ出だすべきだという立場たちば。フランスのライシテがその典型てんけいで、これは自然しぜんに進すすむ世俗化せぞくかとは違ちがい、国家こっかが積極的せっきょくてきに押おし進すすめる政策せいさくである。「化か」と「主義しゅぎ」の差さは、起おきたことと、起おこすべきだという主張しゅちょうの差さだ。
コロケーション
  • 世界せかいの脱だつ魔術まじゅつ化か原語げんごに近ちかい語ごウェーバーの Entzauberung der Welt の訳やく。「脱だつ宗教しゅうきょう化か」ではなく「脱だつ魔術まじゅつ化か」と訳やくされるのには理由りゆうがある。消きえたのは神かみではなく、呪文じゅもんで世界せかいに手てを突つっ込こめる感覚かんかくだからだ。雨乞あまごいが効きかないと知しることと、神かみを信しんじなくなることは別々べつべつに起おきる。この二ふたつを分わけられるかどうかで、世俗化せぞくかの議論ぎろんの解像度かいぞうどが決きまる。
  • 聖せいと俗ぞくの分離ぶんり境界きょうかいの語ご世俗化せぞくかを領域りょういきの切きり分わけとして言いう言いい方かた。注意ちゅういしたいのは、分離ぶんりとは俗ぞくが聖せいを追おい出だすことではない点てんだ。聖せいの領域りょういきは残のこる。ただし週末しゅうまつや葬儀そうぎに囲かこい込こまれる。囲かこい込こまれた聖せいは、皮肉ひにくにも侵おかされにくくなる — 政せい教きょう分離ぶんりが信仰しんこうを守まもる装置そうちにもなるのはこのためである。
  • 世俗化せぞくかする社会しゃかい主語しゅごの位置いち「社会しゃかいが」世俗化せぞくかする、という言いい方かたが定型ていけいなのは、この変化へんかに誰だれも号令ごうれいをかけていないからだ。誰だれかが宗教しゅうきょうを追放ついほうしたのではなく、官僚制かんりょうせい・市場しじょう・学校がっこうがそれぞれの理屈りくつで動うごいた結果けっかとして宗教しゅうきょうの席せきが減へった。意図いとの無ない変化へんかを書かくための構文こうぶんだと見みておくと、能動態のうどうたいで書かかれた文章ぶんしょうの主張しゅちょうの強つよさが測はかれる。
  • 再さい聖せい化か逆向ぎゃくむきの語ご世俗化せぞくかの反対はんたい方向ほうこうを指さす語ご。この語ごが二十にじゅう世紀せいき後半こうはんに必要ひつようになったのは、世俗化せぞくかが一直線いっちょくせんでないことが分わかったからである。宗教しゅうきょうが退しりぞいた場所ばしょに、ナショナリズムや科学かがくや消費しょうひが聖せいなるものの席せきを埋うめに来くる。133 のフェティシズムが近代きんだいの語ごとして使つかえるのは、まさにこの席せき替かえを言いい当あてるためだ。
格かく硬かた

書かき言葉ことば。会話かいわでは不自然ふしぜん。

類るい語ごと差さ
  • 脱だつ宗教しゅうきょう化か宗教しゅうきょうの枠組わくぐみから離はなれるより直接的ちょくせつてきな言いい方かた。世俗化せぞくかは宗教しゅうきょうが私事しじになる過程かていまで含ふくむ。
  • 合理化ごうりか筋道すじみちと効率こうりつで動うごくようになる☑121 と接続せつぞくする。世俗化せぞくかの一いち側面そくめん。
  • 現世げんせ的てきこの世よの利益りえきを重おもんじる態度たいどの話はなし。世俗化せぞくかは社会しゃかい全体ぜんたいの変化へんか。
  • 俗ぞく化か品ひん位いが下さがる否定的ひていてきな評価ひょうか語ご。世俗化せぞくかは中立ちゅうりつの記述きじゅつ語ごで、価値かち判断はんだんを含ふくまない。

ENsecularisation
ZH世俗化(世俗化, shìsúhuà)

世俗化 ── 宗教の位置が変わる宗教が社会全体を覆っていた状態から、政治・経済・学問が切り離され信仰が私事になる過程を示した図。 中世 宗教 政治経済学問 世俗化 近代 政治経済学問 宗教 私事へ それぞれが独立して動くようになる 宗教が消えたのではない。社会全体を覆う位置から降りたのである。 この分離が、近代を成り立たせた
宗教しゅうきょうは消きえたのではなく、位置いちが変かわった
入試にゅうし文ぶん

世界せかい化かしていく〈ヨーロッパ〉が、みずからを自分自身じぶんじしんの過去かことの関係かんけいで規定きていし、自己じこを歴史れきし化かした意識いしきが〈近代きんだい〉です。その〈近代きんだい〉のもっとも概括がいかつ的てきな特徴とくちょうのひとつが〈世俗化せぞくか〉、つまり社会しゃかいがキリスト教きょう的てきな枠組わくぐみから離脱りだつしてゆくことだとされています。
そのように自己じこを「歴史れきし化か」したヨーロッパは、非ひヨーロッパを他者たしゃとして発見はっけんしたとき、自分じぶんの時間軸じかんじくをそこに投影とうえいして、「自分じぶんがかつてそうであった過去かこの姿すがた」を見みいだそうとします。
だからそれは「文明ぶんめい」に対たいして「未開みかい」ということになり、当然とうぜんそこは世俗化せぞくか以前いぜんの宗教的しゅうきょうてき社会しゃかいだとして捉とらえられるわけです。それもキリスト教きょう以前いぜんの未開みかい宗教しゅうきょうだと。

出典しゅってん 西にし谷たに修おさむ『世界史せかいしの臨界りんかい』 / 出題しゅつだい 早稲田大学わせだだいがく・法学部ほうがくぶ

読解どっかいのポイント
  • 文明ぶんめい ヨーロッパが自己じこを歴史れきし化か ↓ 〈近代きんだい〉 =社会しゃかいがキリスト教きょう的てきな枠組わくぐみから離脱りだつしてゆくこと その時間軸じかんじくを非ひヨーロッパに投影とうえい ↓ 未開みかい =「自分じぶんがかつてそうであった過去かこ」 =世俗化せぞくか以前いぜんの宗教的しゅうきょうてき社会しゃかい
要約ようやく

〈ヨーロッパ〉は、〈近代きんだい〉のひとつの特徴とくちょうを〈世俗化せぞくか〉だとして、非ひヨーロッパを「未開みかい」な、世俗化せぞくか以前いぜんの宗教的しゅうきょうてき社会しゃかいだと捉とらえている。

語ご法ほうの観察かんさつ

宗教しゅうきょうという語ごを主語しゅごに据すえず、社会しゃかいの側がわの変化へんかとして書かく。主体しゅたいを移うつすことで価値かち判断はんだんを避さけている。

Section 03

近代きんだい合理主義ごうりしゅぎ

121★★★

近代合理主義きんだいごうりしゅぎ

きんだいごうりしゅぎ[0]平板へいばん型がた

語ご構成こうせい
近代きんだい中世ちゅうせいのあとの時代じだい+合理ごうりすじみちにかなう+主義しゅぎ立場たちば
定義ていぎ

物事ものごとを理性的りせいてきにとらえて、合理的ごうりてきに判断はんだん・行動こうどうすることを至し上じょうの価値かちとする態度たいど。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑121
原げん書しょの解説かいせつ

「合理主義ごうりしゅぎ」には、

という意味いみが含ふくまれている。

近代きんだいはこうした合理主義ごうりしゅぎを基盤きばんにして成なり立たち、同時どうじに合理主義ごうりしゅぎの徹底てっていを目指めざした。

ゆえに、それまでの宗教しゅうきょうや伝統的でんとうてきな慣習かんしゅうは、理性りせいとは相そう容いれないものとして徹底的てっていてきに排除はいじょしていく。

このような、理性りせいや論理ろんりだけを至し上じょうの価値かちとする点てんが、近代きんだい合理主義ごうりしゅぎの特徴とくちょうだ。

また、近代きんだい以前いぜんの時代じだいでは、人間にんげんは自然しぜんの一部いちぶとして考かんがえられていたが、近代きんだい合理主義ごうりしゅぎにおいて、人間にんげんは理性りせいをもつがゆえに、自然しぜんを支配しはいする存在そんざいとして考かんがえられるようになった。

使用しようの境界きょうかい

理性りせいによってすべてを説明せつめいし統御とうぎょできるとする立場たちば。理性りせいを重おもんじる態度たいどそのものとは区別くべつされる。

用法ようほう

評ひょう論文ろんぶんではほぼ常つねに批判ひはんの対象たいしょうとして現あらわれる。批判ひはんの型かたは決きまっていて、①理性りせいで捉とらえられないもの(感情かんじょう・身体しんたい・自然しぜん)を切きり捨すてた、②その結果けっか、世界せかい大戦たいせんと環境かんきょう破壊はかいを生うんだ、という二に段だん構かまえである。☑13 非合理ひごうりが「理りの枠わくの外そと」であって誤あやまりではない、という区別くべつがここで効きいてくる。近代きんだい合理主義ごうりしゅぎは枠わくの外そとを存在そんざいしないものとして扱あつかった。デカルトを起点きてんに置おき、二十にじゅう世紀せいきの批判ひはん(フランクフルト学派がくは・ポストモダン)へ至いたる流ながれが定型ていけい。

用例ようれい
  • われわれは、自然しぜんという書物しょもつのうちにすでに書かかれていることを読よみ取とるのであって、われわれ自身じしんの頭あたまのなかから引ひき出だすのではない。その書物しょもつは数学すうがくの言語げんごで書かかれており、その文字もじは三角形さんかくけい・円えん・その他ほかの幾何学きかがく図ず形けいである。ガリレオ・ガリレイ『偽金にせがね鑑識かんしき官かん』(1623)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    近代きんだい合理主義ごうりしゅぎの入いり口ぐちを、一いち枚まいの比喩ひゆで言いい当あてた一節いっせつ。効きいているのは「書物しょもつ」である。書物しょもつであるなら読よめる。読よめるなら誰だれが読よんでも同おなじことが書かいてある。ここで自然しぜんは、畏いれる相手あいてから、解読かいどくの対象たいしょうへ位置いちを変かえた。そして言語げんごが数学すうがくだと限定げんていした瞬間しゅんかんに、数学すうがくで書かけないものは自然しぜんの記述きじゅつから外はずれる。色いろも匂においも痛いたみも、書物しょもつの文字もじではなくなる。1-2 の機械論きかいろんが質しつを捨すてて量りょうだけを残のこしたと言いわれるのは、この一文いちぶんがすでにその選択せんたくをしているからだ。合理主義ごうりしゅぎの力ちからと狭きょうさは、同おなじ一手いってから出でている。
  • 心こころには、理性りせいの知しらない理性りせいがある。……我々われわれが真理しんりを知しるのは、理性りせいによってだけでなく、心こころによってでもある。ブレーズ・パスカル『パンセ』断章だんしょう四よん二に三さん・二に八はち二に(1670)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    合理主義ごうりしゅぎの内側うちがわから出でた、合理主義ごうりしゅぎへの注釈ちゅうしゃくである。パスカルは幾何学きかがくの人ひとでありながら、理性りせいを唯一ゆいいつの窓口まどぐちとは認みとめなかった。仕掛しかけは「理性りせい」という語ごを二に度ど使つかっていることだ。心こころの側がわにあるものを「感情かんじょう」や「直観ちょっかん」と呼よべば、理性りせいより下したの何なにかになってしまう。パスカルはそれをもう一ひとつの理性りせいと呼よんだ。同おなじ位いに置おいたのである。理性りせいを捨すてずに、理性りせいの外そとを認みとめる — この二に重じゅうの構かまえは、近代きんだい合理主義ごうりしゅぎを批判ひはんする現代げんだいの評ひょう論文ろんぶんがいまも借かり続つづけている型かただ。理性りせいを全面的ぜんめんてきに退しりぞければ反論はんろんの言葉ことばまで失うしなう。だから理性りせいの内側うちがわにもう一ひとつの席せきを作つくるのが最もっとも強つよい批判ひはんの形かたちになる。
  • 近代きんだい合理主義ごうりしゅぎは、計算けいさんできるものだけを実在じつざいとみなすことで、計算けいさんできないものを実在じつざいから締しめ出だした。 批判ひはんの型かたとしていちばん多おおい形かたちである。要点ようてんは「間違まちがっている」ではなく「取とりこぼす」と言いっていることだ。合理主義ごうりしゅぎの中身なかみを否定ひていするのではなく、その適用範囲てきようはんいの外そとを示しめす。評ひょう論文ろんぶんの論ろんの運はこびとしては、こちらのほうがはるかに強つよい。
  • ×彼かれは無駄むだを嫌いやう近代きんだい合理主義ごうりしゅぎ者ものだ。 効率こうりつを好このむ性格せいかくは「合理的ごうりてき」「合理主義ごうりしゅぎ者しゃ」で足たりる。「近代きんだい合理主義ごうりしゅぎ」は十七じゅうなな世紀せいき以降いこうのヨーロッパで成立せいりつした、理性りせいを唯一ゆいいつの認識にんしきの源泉げんせんとする思想しそうの体系たいけいを指さす固有こゆうの語ごで、個人こじんの性格せいかくには使つかわない。評ひょう論文ろんぶんでこの語ごが出でたら、デカルト以後いごという時代じだいの枠わくが背後はいごにあると考かんがえてよい。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

関せき 合理ごうり

派生はせい形けい
  • 合理ごうり[1]理りにかなうこと。「合ごう」は合致がっち、「理り」は筋道すじみち。単独たんどくではほぼ使つかわず、「合理的ごうりてき」「合理性ごうりせい」「合理化ごうりか」の形かたちで現あらわれる。反対はんたいは「不合理ふごうり」で、「非合理ひごうり」とは意味いみがずれるので注意ちゅうい。
  • 合理性ごうりせい[0]程度ていどを測はかれる名詞めいし。「合理性ごうりせいが高たかい」と言いえるのは、目的もくてきを決きめたあとでなら経路けいろを比較ひかくできるからだ。逆ぎゃくに言いえば目的もくてきそのものの合理性ごうりせいは測はかれない。この非対称ひたいしょうが、道具どうぐ的てき理性りせいの批判ひはんの出発点しゅっぱつてんになる。
  • 非合理ひごうり[2]「不合理ふごうり」と混まぜない。不合理ふごうりは理りにかなっていない・筋すじが通とおらないで、マイナスの評価ひょうか語ご。非合理ひごうりは理りの枠わくの外そとにあるで、評価ひょうかが付つかない。信仰しんこうや芸術げいじゅつを非合理ひごうりと呼よぶのは貶けなしではなく、理性りせいの物差ものさしが届とどかないという指摘してきである。
コロケーション
  • 近代きんだい合理主義ごうりしゅぎの限界げんかい批判ひはんの定型ていけい評ひょう論文ろんぶんでこの結むすびつきが多た用ようされるのは、限界げんかいという語ごが全ぜん否定ひていを避さけるからである。「誤あやまり」と言いえば代かわりの真理しんりを出ださねばならないが、「限界げんかい」なら有効ゆうこうな範囲はんいがあることを認みとめたうえで、その外そとを示しめせる。公こう害がい・環境かんきょう・生命せいめい倫理りんりの文章ぶんしょうがこの語形ごけいを好このむのは、科学かがくを捨すてずに科学かがくを批判ひはんするためだ。
  • 道具どうぐ的てき理性りせい内側うちがわからの批判ひはん語ご目的もくてきの是非ぜひを問とわず、目的もくてきへの最短さいたん経路けいろだけを計算けいさんする理性りせい。この語ごの鋭するどさは、理性りせいそのものを責せめていないところにある。責せめられているのは、理性りせいが手段しゅだんの係かかりになり、目的もくてきを考かんがえる係かかりをやめたことだ。効率的こうりつてきに人ひとを殺ころす装置そうちが作つくれてしまう理由りゆうが、この一語いちごで説明せつめいできる。
  • 合理化ごうりか制度せいどに降おりた形かたち思想しそうとしての合理主義ごうりしゅぎが、組織そしきや手続てつづきの形かたちをとったもの。官僚制かんりょうせい・工場こうじょう・時刻じこく表ひょうがその産物さんぶつである。注意ちゅういしたいのは、合理化ごうりかは個々人ここじんの意志いしと無関係むかんけいに進すすむ点てんだ。誰だれも望のぞまないのに書類しょるいが増ふえるのは、合理化ごうりかが自分じぶんの理屈りくつで動うごくからである。ウェーバーが「鉄てつの檻おり」と呼よんだのはこの状態じょうたいだ。
  • 反はん合理主義ごうりしゅぎ対たいの位置いち理性りせいより直観ちょっかん・情念じょうねん・生せいを上うえに置おく立場たちば。136 のロマン主義しゅぎがその代表だいひょう格かくである。押おさえておきたいのは、反はん合理主義ごうりしゅぎは近代きんだいの外そとではなく内ないから出でたことだ。合理主義ごうりしゅぎが世界せかいを覆おおったからこそ、覆おおわれて息苦いきぐるしくなった側がわの反はん撃げきが生うまれた。敵対てきたいする二ふたつが同おなじ時代じだいの産物さんぶつであるという見取みとり図ずは、近代きんだいを読よむときに何度なんども使つかえる。
格かく硬かた・学術がくじゅつ

論文ろんぶん・評ひょう論ろんでのみ使つかう。会話かいわでは不自然ふしぜん。

類るい語ごと差さ
  • 合理ごうり論理ろんりや道理どうりにかなうこと☑12。近代きんだい合理主義ごうりしゅぎはそれを唯一ゆいいつの原理げんりに据すえた立場たちば。
  • 啓蒙けいもう主義しゅぎ理性りせいの光ひかりで無知むちを照てらす☑135。近代きんだい合理主義ごうりしゅぎの運動うんどうとしての形かたち。
  • 科学かがく主義しゅぎ科学かがくを万能ばんのうとみなす☑47。適用てきよう領域りょういきが科学かがくに限かぎられる。近代きんだい合理主義ごうりしゅぎはより広ひろい。
  • 実証じっしょう主義しゅぎ確たしかめられることだけを扱あつかう☑52。方法ほうほうの限定げんてい。合理主義ごうりしゅぎは理性りせいの力ちからそのものへの信頼しんらいを言いう。

ENmodern rationalism
ZH近代理性主义(近代合理主義, jìndài lǐxìng zhǔyì)

近代合理主義とその批判理性で捉えられる領域だけを扱い、枠の外を切り捨てたことが二十世紀の批判を招いた流れを示した図。 理性で捉えられる領域 科学法と制度効率 枠の外 感情・身体・自然・信仰・伝統 誤りなのではない。理では測れないだけである(☑13 非合理)。 近代合理主義は、枠の外を存在しないものとして扱った。 二つの大戦と環境破壊が、この扱いへの批判を呼び戻した
理性りせいの枠わくと、その外側そとがわ
入試にゅうし文ぶん

「近代きんだい合理主義ごうりしゅぎ」の特徴とくちょうは、一ひとつにはその能のう動的どうてき、積極的せっきょくてき、徹底的てっていてき性格せいかくにある。すなわちそれは、宇宙うちゅうの体系的たいけいてき理解りかい、人間にんげん社会しゃかいの組織化そしきか、人間にんげんによる自然しぜんの征服せいふくにおいて、論理的ろんりてき首尾しゅび一貫性いっかんせいをあくまでも押おし通つうそうとするものである。
合理主義ごうりしゅぎ的てき態度たいど一般いっぱんのなかには、理性りせいの尊重そんちょうとともに、その限界げんかいを容認ようにんし、「世よの中なかには理屈りくつに合あわないこともある」ことを受うけ容いれようとする面めんもふくまれている。
しかし「近代きんだい合理主義ごうりしゅぎ」は、そのような理性りせいの限界げんかいを容認ようにんしない。もし「理論りろんに合あわない」現実げんじつが存在そんざいするとすれば、それはより高次こうじの理論りろんによって説明せつめいされねばならない。
人間にんげん社会しゃかいの「不合理ふごうり」や、自然しぜんの人間にんげんに対たいする「不ふ条じょう理り」は正せいされねばならないというのが、近代きんだい合理主義ごうりしゅぎの姿勢しせいであり、そういう意味いみで、それは戦闘せんとう的てき合理主義ごうりしゅぎであるということができる。

出典しゅってん 竹内たけうち啓けいの文章ぶんしょう / 出題しゅつだい 立教大学りっきょうだいがく・経済学部けいざいがくぶ

読解どっかいのポイント
  • 近代きんだい合理主義ごうりしゅぎの特徴とくちょう
  • 能のう動的どうてき、積極的せっきょくてき、徹底的てっていてき性格せいかく
  • 論理的ろんりてき首尾しゅび一貫性いっかんせい
  • 理性りせいの限界げんかいを容認ようにんしない =戦闘せんとう的てき合理主義ごうりしゅぎ
要約ようやく

〈合理主義ごうりしゅぎ的てき態度たいど〉一般いっぱんのなかには、理性りせいの限界げんかいを受うけ入いれようとする面めんもあるが、近代きんだい合理主義ごうりしゅぎには理性りせいの限界げんかいを容認ようにんしない徹底てってい性せいがある。

語ご法ほうの観察かんさつ

肯定的こうていてきな記述きじゅつを積つんだうえで最後さいごに転てんじる。肯定こうていから否定ひていへの切きり替かえ点てんが主張しゅちょうの位置いちを示しめす。

Section 04

(近代きんだい)市民しみん社会しゃかい

122★★★

(近代)市民社会しみんしゃかい

しみんしゃかい[3]中高なかだか型がた

語ご構成こうせい
市民しみんまちの人ひと・公こう民みん+社会しゃかい人ひとの結むすびつき
定義ていぎ

自由じゆうで平等びょうどうな市民しみんによって成なり立たっている近代きんだい社会しゃかいのこと。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑122
原げん書しょの解説かいせつ

市民しみんとは、理性りせいによって自分じぶんを律りつし、個人こじんの自由じゆうと権利けんりを追求ついきゅうする存在そんざいであり、市民しみん社会しゃかいは、市民しみんが個人こじんの自由じゆうと権利けんりを追求ついきゅうできる社会しゃかいのことである。

近代きんだい市民しみん社会しゃかいは、

と結むすびついている。

西洋せいようでは市民しみん革命かくめいによって市民しみん社会しゃかいが実現じつげんされたが、日本にほんにおいては市民しみん革命かくめいの経験けいけんがないため、自分じぶんたちの権利けんりや自由じゆうを守まもろうとする市民しみん意識いしきの欠如けつじょが指摘してきされることがある。

コラム:アメリカ独立どくりつ宣言せんげん

アメリカ独立どくりつ宣言せんげんの一節いっせつには、近代きんだい市民しみん社会しゃかいの理念りねんが端的たんてきに記述きじゅつされている。

使用しようの境界きょうかい

自立じりつした個人こじんが自由じゆうと平等びょうどうを前提ぜんていに結むすぶ社会しゃかい。身分みぶんではなく契約けいやくによって成なり立たつ点てんが要点ようてん。

用法ようほう

要点ようてんは「市民しみん」が身分みぶんではなく理念りねんだという点てんにある。生うまれによって位置いちが決きまる封建ほうけん社会しゃかいに対たいし、市民しみん社会しゃかいでは自立じりつした個人こじんが自由じゆう・平等びょうどうを前提ぜんていに契約けいやくを結むすぶ。この理念りねんがアメリカ独立どくりつ宣言せんげんやフランス人権じんけん宣言せんげんに書かき込こまれた。日本にほん論ろんでは、この市民しみん社会しゃかいが日本にほんには成立せいりつしなかったとする議論ぎろんが定型ていけいで、☑79 世間せけんがその代かわりを説明せつめいする語ごになる。日常にちじょう語ごの「市民しみん」(=住民じゅうみん)とは層そうが違ちがう。

用例ようれい
  • ある土地とちに囲かこいをして「これは私わたしのものだ」と言いうことを思おもいつき、それを信しんじるほど単純たんじゅんな人々ひとびとを見みつけた最初さいしょの者ものこそ、市民しみん社会しゃかいのほんとうの創設者そうせつしゃであった。ジャン=ジャック・ルソー『人間にんげん不平等ふびょうどう起源きげん論ろん』第だい二に部ぶ(1755)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    市民しみん社会しゃかいの始はじまりを、契約けいやくではなく囲かこい込こみに置おいた一文いちぶんである。「創設者そうせつしゃ」という敬称けいしょうめいた語ごが、皮肉ひにくとして効きいている。普通ふつうなら創設者そうせつしゃは理性りせいと徳とくの人ひとだが、ルソーはそこに最初さいしょに線せんを引ひいた者ものを据すえた。さらに「信しんじるほど単純たんじゅんな人々ひとびと」と続つづけることで、所有しょゆうは力ちからではなく承認しょうにんによって成立せいりつすることまで言いっている。囲かこいは棒杭ぼっくいにすぎず、それを所有しょゆうと認みとめた者ものたちが所有しょゆうを作つくったのだ。市民しみん社会しゃかいの中核ちゅうかくに私的してき所有しょゆうと、それを支ささえる相互そうご承認しょうにんがあること、そしてその承認しょうにんが実じつは取とり消けせたはずのものであること — 近代きんだい批判ひはんの文章ぶんしょうがここを何度なんども引ひき返かえしてくる理由りゆうがここにある。
  • 人ひとは生うまれながらに、自由じゆうかつ権利けんりにおいて平等びょうどうである。社会的しゃかいてき差別さべつは、共同きょうどうの利益りえきにもとづくのでなければ設もうけられない。フランス人権じんけん宣言せんげん 第一だいいち条じょう(1789)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    市民しみん社会しゃかいが自分じぶんで書かいた自己じこ紹介しょうかいである。一文いちぶん目めだけが有名ゆうめいだが、読よむべきは二に文目ぶんめだ。差別さべつを全面的ぜんめんてきに禁きんじてはいない。「共同きょうどうの利益りえきにもとづくなら」という条件じょうけんつきで許ゆるしている。つまりこの宣言せんげんは、平等びょうどうの宣言せんげんであると同時どうじに不平等ふびょうどうを正当化せいとうかする手続てつづきの宣言せんげんでもある。そして「共同きょうどうの利益りえき」を誰だれが判定はんていするのかは書かかれていない。この空欄くうらんに、財産ざいさん・性別せいべつ・人種じんしゅが次々つぎつぎと代入だいにゅうされてきたのがその後ごの二百年にひゃくねんである。近代きんだいの理念りねんは、条文じょうぶんの中なかにあらかじめ抜ぬけ道みちを残のこしていた — 理念りねんの裏切うらぎりではなく、理念りねんの書かかれ方ほうそのものを読よむと、この点てんが見みえてくる。
  • 市民しみん社会しゃかいとは、身分みぶんではなく契約けいやくによって関係かんけいが結むすばれる社会しゃかいである。 いちばん短みじかい定義ていぎである。身分みぶんは生うまれで決きまり、抜ぬけられない。契約けいやくは合意ごういで結むすばれ、解とけもする。この切きり替かえが、123 の個人こじんという単位たんいを必要ひつようとした。契約けいやくするには、まず契約けいやくできる主体しゅたいがいなければならないからだ。
  • ×町内会ちょうないかいの活動かつどうに参加さんかして市民しみん社会しゃかいに貢献こうけんした。 通つうじるが、これは「地域社会ちいきしゃかい」「市民しみん活動かつどう」の話はなしである。評ひょう論語ろんごの市民しみん社会しゃかいは身分制みぶんせいを解体かいたいして私的してき所有しょゆうと契約けいやくの上うえに建たてられた近代きんだい社会しゃかいの型かたを指さし、善行ぜんこうを測はかる語ごではない。なお「市民しみん社会しゃかい」には国家こっかに対たいする自律的じりつてきな社会しゃかいという現代的げんだいてき用法ようほうもあるので、どちらの意味いみで使つかわれているかを文脈ぶんみゃくで決きめる。
派生はせい形けい
  • 市民しみん[1]三みっつの層そうが重かさなる語ご。①都市としの住民じゅうみん(citizen の原げん義ぎ)、②国政こくせいに参加さんかする権利けんりをもつ者もの、③市しの住民じゅうみんという行政上ぎょうせいじょうの区分くぶん。評ひょう論文ろんぶんで出でるのはほぼ②で、権利けんりの主体しゅたいとしての市民しみんである。「市民しみんの皆みなさん」の市民しみんは③。
  • 市民的しみんてき[0]「市民しみん的てき自由じゆう」「市民しみん的てき不ふ服従ふくじゅう」のように権利けんりの主体しゅたいとしてのふるまいを言いう。注意ちゅういしたいのは、「市民しみん的てき」には〈穏健おんけんで秩序ちつじょを守まもる〉という含ふくみが付つきやすいことだ。市民しみん的てき不ふ服従ふくじゅうが非ひ暴力ぼうりょくを条件じょうけんにしているのは、この含ふくみと無関係むかんけいではない。
  • 公民こうみん[0]国家こっかの側がわから見みた同おなじ人間にんげん。市民しみんが権利けんりを持もつ者ものとして見みた呼よび名ななら、公こう民みんは義務ぎむを負おう者ものとして見みた呼よび名なである。教きょう科かの名なが「公こう民みん」であって「市民しみん」でないことには、教育きょういくがどちらの面めんを教おしえるつもりかが現あらわれている。
コロケーション
  • 市民しみん革命かくめい成立せいりつの出来事できごと市民しみん社会しゃかいを政治せいじの面めんから成立せいりつさせた変革へんかく。イギリス・アメリカ・フランスの三みっつを指さすのが通例つうれいである。「市民しみん」と冠かんむりされるのは、担にない手てが貴族きぞくでも農民のうみんでもなく、財産ざいさんを持もつ都市としの層そうだったからだ。この限定げんていは無視むしできない — 「万人ばんにんの権利けんり」を掲かかげた革命かくめいが、当初とうしょは財産ざいさんのある男性だんせいしか有ゆう権けん者しゃにしなかった。普遍ふへんを掲かかげた語ごの中身なかみが特殊とくしゅだったという構図こうずは、1-1 の 1・2 で見みた通とおりである。
  • 私的してき所有しょゆう土台どだいの語ご市民しみん社会しゃかいが立たつ地面じめん。この語ごが近代きんだい語ごとして重おもいのは、所有しょゆうが「使つかっていること」から「持もっていること」へ切きり替かわったからである。中世ちゅうせいの土地とちは、耕たがやす者もの・領主りょうしゅ・共同体きょうどうたいがそれぞれ別べつの権利けんりを重かさねて持もっていた。近代きんだいの所有しょゆうはひとりが丸まるごと持もち、売うれる。売うれるようになったことが、128 の資本しほん主義しゅぎを可能かのうにした。
  • 公共こうきょう性せい足たりない部分ぶぶんを指さす語ご私的してきな利害りがいを超こえて共有きょうゆうされる事柄ことがら。市民しみん社会しゃかいの議論ぎろんでこの語ごが呼よび出だされるのは、私的してき所有しょゆうと契約けいやくだけでは社会しゃかいが持もたないと分わかるからだ。契約けいやくは契約けいやくした二人ふたりしか縛しばらない。道路どうろも空気くうきも学校がっこうも、契約けいやくの外そとに置おき去さりにされる。市民しみん社会しゃかいは、自分じぶんが作つくれないものに依存いぞんしている — この指摘してきが現代げんだいの評ひょう論文ろんぶんの定番ていばんになっている。
  • ブルジョワ社会しゃかい別名べつめいとしての語ごマルクスの語ご法ほうでは、市民しみん社会しゃかいと同おなじ社会しゃかいの別べつの呼よび名なである。ドイツ語ごの bürgerliche Gesellschaft は「市民しみんの」とも「ブルジョワの」とも訳やくせる。この二に重じゅう性せいは誤ご訳やくではなく、事柄ことがらそのものの二に重じゅう性せいだ。同おなじ社会しゃかいが、理念りねんの側がわから見みれば市民しみん社会しゃかい、階級かいきゅうの側がわから見みればブルジョワ社会しゃかいになる。どちらの訳語やくごを選えらぶかで、書かき手ての立場たちばが半分はんぶん見みえる。
格かく中なか

書かき言葉ことば・会話かいわの両方りょうほうで使つかえる。

類るい語ごと差さ
  • 共同体きょうどうたい生活せいかつを共ともにする集団しゅうだん☑124。血縁けつえん・地ち縁えんで結むすばれる。市民しみん社会しゃかいは契約けいやくで結むすばれる。
  • 国家こっか統治とうち機構きこうをもつ政治せいじ単位たんい制度せいどの側がわ。市民しみん社会しゃかいは国家こっかと区別くべつされる私的してきな領域りょういきを指さすこともある。
  • 大衆たいしゅう社会しゃかい匿名とくめいの多数たすうが主役しゅやくの社会しゃかい市民しみん社会しゃかいの後あとに来くるとされる段階だんかい。自立じりつした個人こじんが失うしなわれた状態じょうたい。
  • 世間せけん顔かおの見みえる範囲はんいの圏けん☑79。日本にほん論ろんでは市民しみん社会しゃかいの不在ふざいを説明せつめいする語ごとして置おかれる。

ENcivil society
ZH市民社会(市民社会, shìmín shèhuì)

入試にゅうし文ぶん

近代きんだい市民しみん社会しゃかいは、人間にんげんを理性りせいを持もった自由じゆうな主体しゅたいであるとする西洋せいよう近代きんだい哲学てつがくの人間にんげん観かんを前提ぜんていとして成なり立たっている。
人間にんげんが人間にんげんであることの根拠こんきょを理性りせいに求もとめるこの理解りかいは、あたかも当然とうぜんのことのように、人間にんげん一般いっぱんの基本きほんモデルを分ぶん別べつある大人おとなに想定そうていする。
極端きょくたんな言いい方かたをすれば、市民しみん社会しゃかいでは、契約けいやくを交かわし、それを履行りこうすることができる分ぶん別べつざかり、働はたらきざかりの大人おとな以外いがいは正規せいきの構成員こうせいいんとはみなされないのであって、そうでないとみられる者もの(たとえば子こどもや高齢こうれい者しゃ)は、積極的せっきょくてきな居場所いばしょを持もたない周縁しゅうえん的てき存在そんざいとして扱あつかわれる。
ましてや、泣なくことしか知しらない赤あかん坊ぼうなどは、積極的せっきょくてきな主体しゅたいのまさに対極たいきょくにあるどうしようもないものであり、成長せいちょうし一人前いちにんまえにならなければそれこそお話はなしにならないものとみなされる。
理性りせい主義しゅぎのもとでは、対話たいわし契約けいやくを結むすぶことのできる大人おとなの言語げんごだけがまともな表現ひょうげん手段しゅだんなのであって、それ以外いがいのもの、泣ないたり笑わらったり、しぐさ表情ひょうじょうで語かたったりといった表現ひょうげんは、せいぜい言語げんごのおまけぐらいにしかみなされないのである。

出典しゅってん 菅野かんの覚明かくめい『神道しんとうの逆襲ぎゃくしゅう』 / 出題しゅつだい 大阪女子大学おおさかじょしだいがく・人文じんぶん社会学しゃかいがく部ぶ

読解どっかいのポイント
  • 大人おとな=近代きんだい市民しみん社会しゃかいの構成員こうせいいん
  • =理性りせいを持もった自由じゆうな主体しゅたい
  • 大人おとな以外いがい=周縁しゅうえん的てき存在そんざい
  • =正規せいきの構成員こうせいいんとはみなされない
要約ようやく

近代きんだい市民しみん社会しゃかいは、理性りせいを持もった自由じゆうな主体しゅたいとしての人間にんげんを前提ぜんていとして成なり立たっているため、分ぶん別べつざかり、働はたらきざかりの大人おとな以外いがいは周縁しゅうえん的てき存在そんざいとして扱あつかわれる。

語ご法ほうの観察かんさつ

制度せいどの成立せいりつを時系列じけいれつで述のべ、そのあとに理念りねんを置おく。事実じじつから理念りねんへ上あがる箇所かしょに論ろんの重心じゅうしんがある。

身分制の階段状の秩序と、市民社会の平面上の契約を並べた図身分制では人が上下に固定された段の上に置かれ、関係は上から下への支配として結ばれる。市民社会では人が同じ平面に並び、関係は当事者どうしの契約として水平に結ばれる。 縦に積むか、横に並べるかBEFOREAFTER王・貴族武士・僧町人農民支配身分は生まれで決まり抜けられない個人個人個人契約関係は合意で結ばれ解くこともできる解けるということは、守ってもらえないということでもある身分を失った個人は、自由であると同時に、丸腰になったこの丸腰の個人を、次に誰が引き受けるか ──06 の国民国家と、10 の社会主義は、その答えの二つである
身分みぶんの階段かいだんから、契約けいやくの平面へいめんへ
Section 05

個人こじん/共同体きょうどうたい

123★★★

個人こじん

こじん[1]頭高あたまだか型がた

語ご構成こうせい
個こひとつひとつ+人ひとひと
定義ていぎ

国家こっかや社会しゃかいの集団しゅうだんを構成こうせいしている一人ひとり一人ひとりの人ひと。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑123
原げん書しょの解説かいせつ

近代きんだいになると、それまで共同体きょうどうたいに縛しばられていた個人こじんが自由じゆうを求もとめ、共同体きょうどうたい的てきな人間にんげん関係かんけいから離脱りだつしていく。

そうした人々ひとびとの多おおくは都市としへと流入りゅうにゅうし、血縁けつえんや地ち縁えんに縛しばられることのない新あらたな人間にんげん関係かんけいを構築こうちくする。

都市としを舞台ぶたいとしてつくられるこうした新あたらしい人間にんげん関係かんけいが、自由じゆうで平等びょうどうな個人こじんからなる近代きんだい市民しみん社会しゃかいの基盤きばんとなっていくのである。

使用しようの境界きょうかい

共同体きょうどうたいから切きり離はなされ、それ自体じたいで完結かんけつした単位たんいとしての人間にんげん。近代きんだいがつくり出だした人間にんげん像ぞうである。

用法ようほう

近代きんだいの中心ちゅうしん概念がいねんであり、もともとあったものではなく近代きんだいがつくり出だしたという点てんが要点ようてんになる。中世ちゅうせいでは人ひとは身分みぶんと共同体きょうどうたいによって定義ていぎされ、単独たんどくの個人こじんという単位たんいは存在そんざいしなかった。評ひょう論文ろんぶんではこの語ごが両義りょうぎ的てきに扱あつかわれ、自由じゆうの獲得かくとくとして肯定こうていされる一方いっぽう、孤独こどくと不安ふあんの源みなもととしても語かたられる。原げん書しょの入試にゅうし文ぶんは、共同体きょうどうたいの崩壊ほうかいを受うけて安易あんいな共同体きょうどうたいに逃にげるのではなく、個人こじんであることに耐たえるべきだと述のべる。個人こじん主義しゅぎと利己りこ主義しゅぎの区別くべつは設問せつもんになりやすい。

用例ようれい
  • かりに全ぜん人類じんるいのうち、ただ一人ひとりを除のぞく全員ぜんいんが同一どういつの意見いけんをもち、ただ一人ひとりだけが反対はんたいの意見いけんをもっていたとしても、人類じんるいがその一人ひとりを沈黙ちんもくさせることの不当ふとうさは、もしその一人ひとりが力ちからをもっていて全ぜん人類じんるいを沈黙ちんもくさせる場合ばあいの不当ふとうさに劣おとらない。ジョン・スチュアート・ミル『自由じゆう論ろん』第だい二に章しょう(1859)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    個人こじんという単位たんいに、これ以上いじょうないほど極端きょくたんな重おもみを与あたえた一節いっせつである。仕掛しかけは、数かずの非対称ひたいしょうをそのまま持もち出だしたことだ。普通ふつうなら「一人ひとり対たい全ぜん人類じんるい」は一人ひとりの負まけである。ミルはそこで天秤てんびんを逆ぎゃくから見みせる — 一人ひとりが全ぜん人類じんるいを黙だまらせるのが暴ぼう政せいなら、全ぜん人類じんるいが一人ひとりを黙だまらせるのも同おなじ暴ぼう政せいだ、と。数かずは正ただしさの根拠こんきょにならないという主張しゅちょうが、この一文いちぶんだけで成立せいりつしている。注目ちゅうもくしたいのは、ミルがこの直後ちょくごに「その意見いけんが誤あやまっていたとしても」と付つけ加くわえることだ。正ただしいから守まもるのではなく、誤あやまりうるから守まもる。個人こじんの自由じゆうが真理しんりではなく可謬性かびゅうせいに根拠こんきょを置おいている点てんが、この議論ぎろんの強つよさである。
  • 自己じこの個性こせいを尊重そんちょうするならば、他人たにんの個性こせいもまた尊重そんちょうしなければならない。……自由じゆうは自由じゆうに伴ともなう責任せきにんを知しらなければ濫用らんように終おわりる。夏目なつめ漱石そうせき『私わたしの個人こじん主義しゅぎ』(1914)
    個人こじん主義しゅぎを、我儘わがままの同義語どうぎごから引ひき離はなすために漱石そうせきが置おいた歯止はどめである。効きいているのは「ならば」という条件じょうけん形けいだ。道徳どうとくとして他人たにんを尊重そんちょうせよと言いっているのではない。自分じぶんの個性こせいを尊重そんちょうするという主張しゅちょうそのものが、論理ろんりとして他人たにんの個性こせいの尊重そんちょうを要求ようきゅうすると言いっている。要求ようきゅうしなければ、自分じぶんの主張しゅちょうの根拠こんきょが消きえるからだ。この構かまえは、上うえの 『自由じゆう論ろん』と同おなじ形かたちをしている — 個人こじんの権利けんりは、相手あいてにも同おなじものを認みとめたときにだけ立たつ。漱石そうせきがこれを他人たにんからの説教せっきょうではなく自分じぶんの内側うちがわの理屈りくつとして言いえたことに、外発がいはつ的てきな近代きんだい化かのなかで内ない発はつを掴つかんだ瞬間しゅんかんが見みえる。
  • 近代きんだいとは、共同体きょうどうたいから個人こじんが析出せきしゅつしてくる過程かていであった。 「析出せきしゅつ」という語ごの選択せんたくに注意ちゅういしたい。個人こじんが最初さいしょからいて集あつまって社会しゃかいを作つくったのではなく、先さきに共同体きょうどうたいがあり、そこから結晶けっしょうのように分わかれ出でたという順序じゅんじょである。個人こじんは近代きんだいの出発点しゅっぱつてんではなく、産物さんぶつだ — この順序じゅんじょを逆ぎゃくにすると、評ひょう論文ろんぶんの議論ぎろんはほとんど読よめなくなる。
  • ×個人こじんとして、この件けんには反対はんたいの立場たちばをとります。 この文ぶんの「個人こじんとして」は「私見しけんでは」「一個人いっこじんとしては」の意いで、日常にちじょう語ごとしては自然しぜんだが、評ひょう論語ろんごの 123 は近代きんだいがつくり出だした社会しゃかいの最小単位さいしょうたんいを指さす概念がいねん語ごである。概念がいねん語ごを、一人称いちにんしょうの言いい換かえに使つかうと文ぶんの格かくが下さがる。評ひょう論文ろんぶんで「個人こじん」が出でたら、共同体きょうどうたいとの対たいで読よむのが原則げんそく。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

反はん 124 共同体きょうどうたい / 関せき 世間せけん/個人こじん主義しゅぎ

派生はせい形けい
  • 個人主義こじんしゅぎ[4]誤解ごかいされやすさで筆頭ひっとうの語ご。評ひょう論語ろんごでは個人こじんを社会しゃかいに対たいして優先ゆうせんする立場たちばを指さし、利己りこ主義しゅぎ(エゴイズム)とは別物べつものである。漱石そうせきが講演こうえん一本いっぽんを費ついやしてこの区別くべつを説といたのは、当時とうじから混同こんどうされていたからだ。
  • 個体こたい[0]生物学せいぶつがく・論理学ろんりがくの側がわの語ご。個人こじんが社会的しゃかいてきな単位たんいなら、個体こたいは数かぞえられる一いち個この存在そんざい。「個体こたい」には権利けんりも内面ないめんも付随ふずいしない。同おなじ一人ひとりの人間にんげんを、どの学問がくもんの目めで見みているかで語ごが変かわる。
  • 個別こべつ[0]ひとつひとつを分わけて扱あつかうこと。「個別こべつに対応たいおうする」は方法ほうほうの話はなしで、個人こじん主義しゅぎとは無関係むかんけい。1-1 の 2 の特殊とくしゅと近ちかいが、特殊とくしゅが普遍ふへんとの対たいであるのに対たいし、個別こべつは一括いっかつとの対たいである。
コロケーション
  • 個人こじんの析出せきしゅつ生成せいせいを言いう語ご共同体きょうどうたいから個人こじんが分わかれ出でてくること。「誕生たんじょう」でも「解放かいほう」でもなく「析出せきしゅつ」が選えらばれるのは、この語ごが溶とけていたものが条件じょうけんの変化へんかで固体こたいとして現あらわれるという化学かがくの像ぞうを持もつからだ。個人こじんはどこかから来きたのではない。もともと共同体きょうどうたいに溶とけていたものが、分わかれて見みえるようになったのである。
  • 個人こじんの尊厳そんげん根拠こんきょを要求ようきゅうする語ご個人こじんが、手段しゅだんとしてではなくそれ自体じたいとして扱あつかわれるべきだという原則げんそく。この結むすびつきが重おもいのは、尊厳そんげんには理由りゆうが要いらないとされている点てんにある。有能ゆうのうだから、役やくに立たつから守まもるのではない。理由りゆうを付つけた瞬間しゅんかんに、理由りゆうが消きえれば守まもらなくてよくなるからだ。131 のヒューマニズムがこの原則げんそくの別名べつめいである。
  • 個人こじんの内面ないめん近代きんだいがつくった空間くうかん外そとからは見みえない、その人ひとだけの領域りょういき。注意ちゅういしたいのは、内面ないめんという空間くうかんそのものが近代きんだいの産物さんぶつだという点てんだ。日記にっき・告白こくはく・小説しょうせつは、内面ないめんが存在そんざいすることにして、それを書かき取とる技術ぎじゅつとして発達はったつした。「本当ほんとうの自分じぶん」を探さがす語かたり口くちは、この空間くうかんが用意よういされて初はじめて可能かのうになる。
  • 個人こじんに還元かんげんする方法ほうほうを指さす語ご社会しゃかいの現象げんしょうを、個々人ここじんの意志いしや能力のうりょくの集あつまりとして説明せつめいすること。1-2 の要素ようそ論ろんが、ここでは社会しゃかいの側がわに現あらわれている。評ひょう論文ろんぶんでこの言いい方かたが出でるときはたいてい批判ひはんの文脈ぶんみゃくだ。貧困ひんこんを努力どりょく不足ふそくに、差別さべつを個人こじんの偏見へんけんに還元かんげんすると、仕組しくみが視野しやから消きえる。個人こじんを尊重そんちょうすることと、すべてを個人こじんに帰きすることは別べつである。
格かく中なか

書かき言葉ことば・会話かいわの両方りょうほうで使つかえる。

類るい語ごと差さ
  • 共同体きょうどうたい生活せいかつを共ともにする集団しゅうだん☑124。対たい語ご。所属しょぞくによって人ひとが定義ていぎされる単位たんい。
  • 主体しゅたい意志いしをもって働はたらきかける側がわ☑106。行為こういの起点きてん。個人こじんは社会しゃかい単位たんいとしての位置いち。
  • 私人しじん公おおやけに対たいする私的してきな立場たちば法的ほうてきな区分くぶん。個人こじんは存在そんざいの単位たんい。
  • 利己りこ主義しゅぎ自分じぶんの利益りえきを優先ゆうせんする態度たいど。個人こじん主義しゅぎとは別べつで、混同こんどうされやすい最大さいだいの相手あいて。

ENindividual
ZH个人(個人, gèrén)

124★★★

共同体きょうどうたい

きょうどうたい[0]平板へいばん型がた

語ご構成こうせい
共ともともに+同どうおなじ+体からだまとまり
定義ていぎ

人々ひとびとが同おなじ伝統でんとうや価値かち観かんを共有きょうゆうしている、まとまりのある社会しゃかい。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑124
原げん書しょの解説かいせつ

共同体きょうどうたいは、家族かぞくや村むらなど血縁けつえんや地ち縁えんによって結合けつごうされた社会しゃかい集団しゅうだんである。

生活せいかつ様式ようしきや価値かち観かんを共有きょうゆうしており、共同体きょうどうたいへの所属しょぞくは人々ひとびとにとってなじみやすいものであった。

しかしその反面はんめん、慣習かんしゅうやしきたりによって個人こじんの自由じゆうは束縛そくばくされた。

使用しようの境界きょうかい

生活せいかつと価値かちを共有きょうゆうする人ひとの集あつまり。血縁けつえん・地ち縁えんなど、選えらんで入はいるのではない結むすびつきを含ふくむ。

用法ようほう

評ひょう論文ろんぶんでは「崩壊ほうかい」とセットで現あらわれることが多おおい。近代きんだい化かによって村落そんらく共同体きょうどうたいが解体かいたいし、人ひとが個人こじんとして切きり離はなされた──この筋書すじがきが定型ていけいである。そのうえで論ろん調ちょうは二ふたつに割われる。共同体きょうどうたいの回復かいふくを説とく立場たちばと、原げん書しょの入試にゅうし文ぶんのように安易あんいな共同体きょうどうたいに逃にげるべきではないとする立場たちばである。読解どっかいではどちらに立たっているかを見みる。テンニースのゲマインシャフト(共同きょうどう社会しゃかい)/ゲゼルシャフト(利益りえき社会しゃかい)の対たいを背景はいけいに持もつ。

用例ようれい
  • 共同体きょうどうたい(ゲマインシャフト)は古ふるく、社会しゃかい(ゲゼルシャフト)は新あたらしい。……共同体きょうどうたい的てきな生せいとは、相互そうごの、内ないから親したしみあう共同きょうどう生活せいかつであり、社会しゃかいとは、公共こうきょう的てきな生活せいかつであり、世間せけんそのものである。フェルディナント・テンニース『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト』(1887)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    近代きんだいを、二ふたつの結むすびつき方ほうの交代こうたいとして描えがいた古典的こてんてきな区別くべつである。要点ようてんは、どちらも「結むすびつき」だと認みとめていることだ。近代きんだいは人ひとをばらばらにしたのではない。別べつの結むすび方ほうに取とり替かえた。ゲマインシャフトの結むすび目めは生うまれと場所ばしょで、選えらべないかわりに切きれない。ゲゼルシャフトの結むすび目めは契約けいやくと目的もくてきで、選えらべるかわりに目的もくてきが済ずみめば切きれる。共同体きょうどうたいをなつかしむ文章ぶんしょうがたいてい見落みおとすのは、切きれないということの重おもさである。テンニース自身じしんは共同体きょうどうたいを美化びかしてはいない — 古ふるいと新あたらしいを並ならべただけで、どちらが良よいとは書かいていない。
  • この地ちは山やまにかこまれた小しょう盆地ぼんちなり。……この話はなしはすべて遠とお野のの人ひと佐々木ささき鏡かがみ石いし君きみより聞ききたり。……願ねがわくはこれを語かたりて平地へいち人ひとを戦慄せんりつせしめよ。柳田やなぎだ国男くにお『遠とお野の物語ものがたり』序じょ(1910)
    共同体きょうどうたいの内ないと外そとを、一行いちぎょうで切きり分わけてみせた結むすびである。「平地へいち人ひと」とは、山やまのこちら側がわ、つまり近代きんだいの側がわにいる読者どくしゃのことだ。柳田やなぎだはこの語ごひとつで、読者どくしゃを外部がいぶの位置いちに固定こていする。そして「戦慄せんりつせしめよ」と続つづける。感心かんしんさせよでも、懐なつかしませよでもない。怖こわがらせよである。ここに、共同体きょうどうたいを扱あつかう文章ぶんしょうの難所なんしょが凝縮ぎょうしゅくしている — 外そとから書かかれた共同体きょうどうたいは、つねに珍奇ちんきなものになりかねない。柳田やなぎだはその危あやうさを引ひき受うけたうえで、珍奇ちんきさを娯楽ごらくにせず、足元あしもとを揺ゆらす力ちからとして使つかおうとした。124 を扱あつかう評ひょう論文ろんぶんを読よむときは、書かき手てがどちら側がわに立たっているかをまず確たしかめるとよい。
  • 共同体きょうどうたいは、成員せいいんを守まもると同時どうじに、成員せいいんを逃のがさない。 一文いちぶんで両面りょうめんを出だす型かたである。相互扶助そうごふじょと相互そうご監視かんしは別べつの性質せいしつではなく、同おなじ仕組しくみの表ひょうと裏うらだ。互たがいのことを知しっているから助たすけられ、知しっているから抜ぬけられない。1-4 の 83 の世間せけんがこの裏面りめんだけを取とり出だした語ごである。
  • ×趣味しゅみの合あう仲間なかまと、ゆるやかな共同体きょうどうたいを作つくっている。 通つうじるが、評ひょう論語ろんごの共同体きょうどうたいは選えらんで入はいったのでも、抜ぬけられるのでもない結むすびつきを指さすのが原げん義ぎである。選えらべて抜ぬけられるなら、それはテンニースの言いうゲゼルシャフト(結社けっしゃ)の側がわだ。現代げんだいでは「新あたらしい共同体きょうどうたい」のように意図的いとてきに選えらぶ形かたちも論ろんじられるが、その場合ばあいは選えらべてしまうことが論点ろんてんになっていると読よむ。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

反はん 123 個人こじん

派生はせい形けい
  • 共同きょうどう[0]「協同きょうどう」「協働きょうどう」と書かき分わける。共同きょうどうは同おなじものを一緒いっしょに持もつ・使つかう(共同きょうどう便所べんじょ・共同研究きょうどうけんきゅう)、協同きょうどうは力ちからを合あわせる(協同組合きょうどうくみあい)、協働きょうどうは立場たちばの違ちがう者ものが対等たいとうに働はたらく(官かん民みん協働きょうどう)。共同体きょうどうたいの「共同きょうどう」は一ひとつ目めである。
  • 共同性きょうどうせい[0]共同体きょうどうたいという実体じったいから、性質せいしつだけを抜ぬき出だした語ご。実体じったいとしての村むらが消きえても、共同きょうどう性せいは職場しょくばや趣味しゅみの集あつまりに残のこると論ろんじるときに使つかう。「体からだ」を外はずすと、場所ばしょと血縁けつえんの縛しばりから語ごが自由じゆうになる。
  • 地域共同体ちいききょうどうたい[6]場所ばしょを限定げんていした形かたち。評ひょう論文ろんぶんでは近代きんだい化かによって失うしなわれた側がわの代表だいひょうとして置おかれることが多おおい。ただし現代げんだいでは行政ぎょうせいが「地域ちいき共同体きょうどうたいの再生さいせい」を掲かかげることもある。解体かいたいした当とうの側がわが再生さいせいを語かたるというねじれに気きづけると、文章ぶんしょうの裏うらが読よめる。
コロケーション
  • 共同体きょうどうたいの解体かいたい近代きんだいを語かたる定型ていけい近代きんだい化かにともなって共同体きょうどうたいの結むすびつきが失うしなわれること。「崩壊ほうかい」ではなく「解体かいたい」が使つかわれやすいのは、自然しぜんに壊こわれたのではなく、解とかれたという含ふくみがあるからだ。何なにが解といたのか — 貨幣かへいと、移動いどうと、法ほうである。貨幣かへいは義理ぎりを清算せいさんに変かえ、移動いどうは逃にげ場ばを作つくり、法ほうは村むらの掟おきてを上書うわがきした。
  • 共同体きょうどうたいの論理ろんり個人こじんの論理ろんりとの対たい全体ぜんたいの維持いじを、個この権利けんりより上うえに置おく筋道すじみち。評ひょう論文ろんぶんでこの語ごが出でるときは、たいてい近代きんだい法ほうの論理ろんりと衝突しょうとつしている場面ばめんだ。村八分むらはちぶも、いじめの黙認もくにんも、内側うちがわでは秩序ちつじょを守まもる正ただしい行おこないとして筋すじが通とおっている。不合理ふごうりではなく、別べつの合理ごうりであると見みるのが、この語ごの読よみ方かたである。
  • 想像そうぞうの共同体きょうどうたい近代きんだいに作つくられた共同体きょうどうたい成員せいいんが互たがいに会あうことのないまま、同おなじ集団しゅうだんに属ぞくすると想像そうぞうすることで成なり立たつ共同体きょうどうたい。国民こくみんがその典型てんけいである。この結むすびつきが重要じゅうようなのは、共同体きょうどうたいの解体かいたいを語かたる近代きんだいが、同時どうじに巨大きょだいな共同体きょうどうたいを新あたらしく作つくったことを示しめすからだ。村むらを解といた力ちからが、国民こくみんを編あんだ — 125 へはここでつながる。
  • 共同体きょうどうたい幻想げんそう批判ひはんの側がわの語ご実在じつざいしない一体いったい感かんを、あたかも実在じつざいするかのように語かたる言説げんせつを指さす語ご。「幻想げんそう」と付つくのは、その一体いったい感かんが誰だれかの利益りえきのために呼よび出だされていると見みるからだ。会社かいしゃを家族かぞくと呼よび、国家こっかを故郷こきょうと呼よぶとき、本来ほんらいは契約けいやくである関係かんけいが切きれない関係かんけいに化かける。共同体きょうどうたいの語彙ごいが、契約けいやく社会しゃかいのなかで道具どうぐとして使つかわれる場面ばめんを撃うつための語ごである。
格かく中なか

書かき言葉ことば・会話かいわの両方りょうほうで使つかえる。

類るい語ごと差さ
  • 個人こじんそれ自体じたいで完結かんけつした単位たんい☑123。対たい語ご。
  • 社会しゃかい契約けいやくで結むすばれた広ひろがり選えらんで入はいる。共同体きょうどうたいは生うまれながらに属ぞくする。テンニースはこれをゲマインシャフトとゲゼルシャフトと呼よび分わけた。
  • 世間せけん顔かおの見みえる範囲はんいの圏けん☑79。日本語にほんご固有こゆうの語ご。共同体きょうどうたいは学術がくじゅつ語ごで、より広ひろい。
  • 組織そしき目的もくてきのために作つくられた集あつまり目的もくてきが先さきにある。共同体きょうどうたいは生活せいかつそのものが結むすびつきになる。

ENcommunity
ZH共同体(共同体, gòngtóngtǐ)

対立たいりつの軸じく

個人こじん/共同体きょうどうたい の軸じく = 人ひとを定義ていぎするのは何なにか

個人こじんそれ自体じたいで完結かんけつした単位たんいとしての人間にんげん。
人ひとを定義ていぎするのは何なにか
共同体きょうどうたい生活せいかつと価値かちを共有きょうゆうする人ひとの集あつまり。
共同体から個人へ共同体の一部として位置づけられていた人が、切り離されて個人になり、自由と孤独を同時に得たことを示した図。 中世 ── 共同体の一部 身分と所属が人を定義する 選べないが、孤独ではない 近代化 近代 ── 独立した個人 契約によって結び直す 自由を得たが、孤独になった 孤独ゆえに求められる共同体に、本当の強度は期待できるか
共同体きょうどうたいから個人こじんへ ── 自由じゆうと孤独こどく
入試にゅうし文ぶん

当あたり前まえのことだが、人間にんげんはひとりでは生いきられない。だからこそ、日本にほんにおける家族かぞくを始はじめとする共同体きょうどうたいの崩壊ほうかいは重要じゅうような問題もんだいだし、旧来きゅうらいの共同体きょうどうたいの回復かいふくや、新あたらしい共同体きょうどうたいを提案ていあんする論ろん調ちょうが盛さかんなのは当然とうぜんのことではある。
共同体きょうどうたいが崩壊ほうかいすれば、人ひとはひとりひとり、孤独こどくに切きり離はなされたままだ。
けれども、その孤独こどくゆえに求もとめられる共同体きょうどうたいに、本当ほんとうの強度きょうどを期待きたいできるだろうか。
安易あんいな共同体きょうどうたいではなく、私わたしたちは、ひとりであり個人こじんであることに耐たえ、何なによりもまず、ひとりの人間にんげんとしての強つよさを育はぐくむべきではないだろうか。

出典しゅってん 城戸きど朱理あかりの文章ぶんしょう / 出題しゅつだい 國學院大学こくがくいんだいがく・文学ぶんがく部ぶ

読解どっかいのポイント
  • 共同体きょうどうたいの崩壊ほうかいという問題もんだい ↓ 孤独こどくゆえに求もとめられる共同体きょうどうたいは安易あんい (否定的ひていてき評価ひょうか) ↓ 個人こじんとしての強つよさを育はぐくむべき (筆者ひっしゃの主張しゅちょう)
要約ようやく

人間にんげんはひとりでは生いきられず、共同体きょうどうたいを必要ひつようとする。しかし、孤独こどくゆえに求もとめられる安易あんいな共同体きょうどうたいに期待きたいせずに、個人こじんとしての強つよさを育はぐくむべきである。

語ご法ほうの観察かんさつ

「けれども」で通説つうせつを退しりぞけ、「〜ではないだろうか」で自説じせつを出だす。反はん語形ごけいが主張しゅちょうの標識ひょうしきになっている。

Section 06

国民こくみん国家こっか

125★★

国民国家こくみんこっか⚠

こくみんこっか[0]平板へいばん型がた

語ご構成こうせい
国民こくみんくにのたみ+国家こっかくに
定義ていぎ

「国民こくみん意識いしき」を創出そうしゅつすることで成立せいりつした近代きんだいの国家こっかのこと。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑125
原げん書しょの解説かいせつ

不自然ふしぜんに聞きこえるかもしれないが、国民こくみん国家こっかはもともとあったものではなく、フィクションとして成立せいりつしたものだった。

たとえば、江戸えど時代じだいに生いきた人々ひとびとは、国家こっかに帰属きぞくしている意識いしきはなく、それぞれ自分じぶんの生うまれ育そだった村むらや藩はんに属ぞくしているという意識いしきしかなかった。これは西洋せいようの中世ちゅうせいにおいても同様どうようだ。

つまり、近代きんだい以前いぜんには「国民こくみん意識いしき」というものは存在そんざいしていなかったのである。

しかし、中央ちゅうおう集しゅう権けん的てきな国くにづくりを推進すいしんする近代的きんだいてき国家こっかは、民族みんぞくを単位たんいとして「国民こくみん」を創出そうしゅつしていく。

たとえば国家間こっかかんの戦争せんそうに備そなえる場合ばあい、国家こっかとしての軍ぐん隊たいは不可欠ふかけつになる。そこで権力者けんりょくしゃたちは、

など、さまざまな装置そうちを用もちいることで、人々ひとびとに「国民こくみん意識いしき」をもたせ、徴兵ちょうへい可能かのうな体制たいせいをつくり上あげていった。

すなわち、人々ひとびとは国家こっかによって「国民こくみんにさせられていく」のだ。

このような均質きんしつ的てきな「国民こくみん」の創出そうしゅつは、国民こくみんならざる者ものを排除はいじょすることで成立せいりつする。したがって、国民こくみん国家こっかが成立せいりつする過程かていでは、少数しょうすう民族みんぞくは抑圧よくあつされ、その文化ぶんかも排除はいじょされるなど差別さべつ的てきな扱あつかいを受うけた。

また、現代げんだいにおいては、これまで正面しょうめんから取とり扱あつかわれることのなかった少数しょうすうの民族みんぞくや文化ぶんかが見み直なおされるようになり、一ひとつの国家こっかの中なかに、同おなじ民族みんぞくではない人々ひとびとの存在そんざいや文化ぶんかも認みとめられ始はじめている。

それにより、国民こくみん国家こっか・民族みんぞく国家こっかという国家こっかのあり方かたも揺ゆらいでいる。

使用しようの境界きょうかい

一ひとつの国民こくみんが一ひとつの国家こっかをつくるという前提ぜんていの上うえに立たつ国家こっか。民族みんぞくと国民こくみんの一致いっちは事実じじつではなく建前たてまえである。

用法ようほう

要点ようてんは「国民こくみん」が自然しぜんにあるのではなく、作つくられたという点てんにある。共通きょうつうの言語げんご・歴史れきし・教育きょういく制度せいどを通とおして人々ひとびとは国民こくみんに仕立したてられた。アンダーソンはこれを「想像そうぞうの共同体きょうどうたい」と呼よんだ。だから国民こくみん国家こっかは☑19 虚構きょこうや☑78 制度せいどと同おなじ層そうで論ろんじられる。評ひょう論文ろんぶんでは、グローバル化かと移民いみんによってこの枠組わくぐみが揺ゆらいでいる、という文脈ぶんみゃくで出でる。☑85 エスニシティ・☑86 クレオールと組くみ合あわせて読よむ。

用例ようれい
  • 国民こくみんの存在そんざいは、日々ひびの人民じんみん投票とうひょうである。……国民こくみんとは、これまでに払はらわれた犠牲ぎせいと、これからも払はらう覚悟かくごのある犠牲ぎせいとによって構成こうせいされた、大おおいなる連れん帯たいである。エルネスト・ルナン『国民こくみんとは何なにか』(1882)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    国民こくみんを、血ちでも言語げんごでも土地とちでもなく、意志いしの継続けいぞくとして定義ていぎした一節いっせつである。「日々ひびの」という限定げんていが要ようである。一度いちど決きめれば済すむのではなく、毎日まいにち決きめ直なおさなければ消きえる。ルナンがこの定義ていぎを出だした相手あいては、言語げんごと血統けっとうで国境こっきょうを引ひきこうとしたドイツ側がわの論理ろんりだった。それに対たいしてルナンは、国民こくみんは自然しぜん物ぶつではなく、選えらび続つづけられている作品さくひんだと応おうじた。ただし後半こうはんを読よむと、この定義ていぎの重おもさが分わかる — 連れん帯たいの中身なかみは「犠牲ぎせい」である。国民こくみんであるとは、過去かこの死者ししゃを自分じぶんの死者ししゃとして引ひき受うけることだ。国民こくみん国家こっかが戦争せんそうの記憶きおくを手放てばなせない理由りゆうが、ここに書かかれている。
  • 広こうク会議かいぎヲ興きょうシ万まん機き公こう論ろんニ決けつスベシ。……旧来きゅうらいノ陋習ろうしゅうヲ破はリ天地てんちノ公道こうどうニ基もとクベシ。五ご箇条かじょうの御誓文ごせいもん(1868)
    国民こくみん国家こっかを上うえから立たち上あげるときの言葉ことばづかいの見本みほんである。注意ちゅういしたいのは、これが天皇てんのうが神々かみがみに誓ちかう形式けいしきで書かかれていることだ。中身なかみは「公こう論ろん」「天地てんちノ公道こうどう」という近代的きんだいてきで普遍的ふへんてきな語ごなのに、器うつわは古ふるい神事しんじの形式けいしきである。この組くみ合あわせは偶然ぐうぜんではない。新あたらしい国家こっかをつくるには、古ふるい正統性せいとうせいを借かりるのがいちばん速はやい。国民こくみん国家こっかがどこでも神話しんわと伝統でんとうを必要ひつようとするのは、主権しゅけんを国民こくみんに移うつすという断絶だんぜつが大おおきすぎて、断絶だんぜつを隠かくす連続れんぞくの物語ものがたりが要いるからだ。「旧来きゅうらいノ陋習ろうしゅうヲ破はリ」と言いう同おなじ文書ぶんしょが、いちばん旧来きゅうらいの形式けいしきで書かかれている — この矛盾むじゅんこそが、近代きんだい日本にほんの骨格こっかくである。
  • 国民こくみん国家こっかとは、国家こっかの版図はんとと国民こくみんの範囲はんいを一致いっちさせようとする、近代きんだいに固有こゆうの国家こっかの型かたである。 「一致いっちさせようとする」という未完みかん了りょうの言いい方かたが肝きもである。一致いっちしている状態じょうたいではなく、一致いっちさせる作業さぎょうが果はてしなく続つづく状態じょうたいを指さす。国語こくご教育きょういく・徴兵ちょうへい・国史こくし・国旗こっきは、すべてこの作業さぎょうの道具どうぐだ。
  • ×日本にほんは昔むかしから一ひとつの国民こくみん国家こっかであった。 時代じだいの取とり違ちがえである。国民こくみん国家こっかは十八じゅうはち世紀末せいきまつ以降いこうに生うまれた型かたで、それ以前いぜんの国家こっかは領主りょうしゅが土地とちと人ひとを支配しはいする仕組しくみだった。住民じゅうみんが「日本人にほんじん」という一ひとつの単位たんいとして自分じぶんを意識いしきするのは、むしろ国民こくみん国家こっかが作つくられたあとである。国民こくみんがあって国家こっかができたのではなく、国家こっかが国民こくみんを作つくった — この順序じゅんじょが要点ようてん。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

関せき 126 ナショナリズム

派生はせい形けい
  • 国民こくみん[0]「人民じんみん」「民族みんぞく」と区別くべつする。国民こくみんは国家こっかの成員せいいんとして法的ほうてきに定さだまった範囲はんい、人民じんみんは統治とうちされる側がわの人々ひとびと、民族みんぞくは文化ぶんかや出自しゅつじを共有きょうゆうするとみなされた集団しゅうだん。三みっつが一致いっちしていないことが、近代きんだいの紛争ふんそうのほとんどの火種ひだねである。
  • 国家こっか[1]領域りょういき・人民じんみん・主権しゅけんの三みっつを備そなえた政治せいじ組織そしき。「国くに」より硬かたく、制度せいどとしての側面そくめんを指さす。「国くにを思おもう」は情緒じょうちょだが「国家こっかを語かたる」は制度せいどの話はなしになる。語ごを選えらんだ時点じてんで、文章ぶんしょうの温度おんどが決きまる。
  • 国家主義こっかしゅぎ[4]国家こっかの利益りえきを個人こじんより上うえに置おく立場たちば。126 のナショナリズムと重かさなるが、ナショナリズムが「民族みんぞく・国民こくみん」に向むくのに対たいし、国家こっか主義しゅぎは「国家こっかという装置そうち」に向むく。前者ぜんしゃは国家こっかがなくても燃もえうるが、後者こうしゃは装置そうちがなければ成なり立たたない。
コロケーション
  • 国民こくみんの創出そうしゅつ順序じゅんじょを逆ぎゃくにする語ご国民こくみんは先さきにあったのではなく、国家こっかによって作つくられたという捉とらえ方ほう。イタリア統一とういつの際さいの「イタリアはできた。次つぎはイタリア人ひとを作つくらねばならぬ」という一句いっくが有名ゆうめいである。作つくる道具どうぐは、学校がっこう・軍ぐん隊たい・鉄道てつどう・新聞しんぶんだ。同おなじ教科書きょうかしょを読よみ、同おなじ時刻じこく表ひょうで動うごき、同おなじ日ひに同おなじ事件じけんを知しるようになってはじめて「我々われわれ」が生うまれる。
  • 均質きんしつな国民こくみん前提ぜんていを疑うたがう語ご国民こくみん国家こっかが要求ようきゅうする、言語げんごも習慣しゅうかんも一様いちような成員せいいん。この語ごが批判ひはんの文脈ぶんみゃくで出でるのは、均質きんしつさが現実げんじつではなく要求ようきゅうだからである。方言ほうげん・少数しょうすう言語げんご・アイヌ・琉球りゅうきゅう・在日ざいにちは、均質化きんしつかの作業さぎょうが取とりこぼした側がわではなく、押おし潰つぶした側がわにある。140 の時間じかん・空間くうかんの均質化きんしつかと、同おなじ均質化きんしつかが人ひとに及およんだ形かたちだ。
  • 国民こくみん国家こっかの枠組わくぐみ容器ようきとしての語ご「枠組わくぐみ」と言いわれるのは、思考しこうがこの器うつわの形かたちに合あわせて注ちゅうがれてしまうからである。経済けいざいも福祉ふくしも教育きょういくも、一国いっこく単位たんいで語かたるのが当あたり前まえになっている。1-7 のグローバル化かが問題もんだいになるのは、問題もんだいのほうが器うつわからはみ出だしたのに、解決かいけつの道具どうぐが器うつわの中なかにしかないからだ。
  • 国民こくみん国家こっかの相対そうたい化か外そとへ出でる操作そうさこの型かたを数かずある国家こっかの形かたちの一ひとつとして置おき直なおすこと。難むずかしいのは、相対そうたい化かする側がわの言葉ことばも国民こくみん国家こっかの中なかで作つくられていることだ。「日本語にほんごで考かんがえる」という時点じてんで、すでに国語こくごという制度せいどの内側うちがわにいる。1-4 の 76 と同おなじ袋小路ふくろこうじだが、位置いちをずらす作業さぎょうはそれでも可能かのうだという点てんも同おなじである。
格かく硬かた・学術がくじゅつ

論文ろんぶん・評ひょう論ろんでのみ使つかう。会話かいわでは不自然ふしぜん。

類るい語ごと差さ
  • ナショナリズム国民こくみんをまとめようとする思想しそうと運動うんどう☑126。国民こくみん国家こっかを成なり立たたせる力ちから。
  • エスニシティ集団しゅうだんへの帰属きぞく意識いしき☑85。国民こくみん国家こっかの枠わくに収おさまらない。両者りょうしゃは緊張きんちょう関係かんけいにある。
  • 帝国ていこく多た民族みんぞくを支配しはいする政治せいじ体からだ一致いっちを前提ぜんていとしない。国民こくみん国家こっかは同どう質しつ性せいを求もとめる。
  • 主権しゅけん国家こっか対たい外的がいてきに独立どくりつした国家こっか法的ほうてきな資格しかく。国民こくみん国家こっかは国民こくみんという単位たんいを含意がんいする。

ENnation-state
ZH民族国家(国民国家, mínzú guójiā)

日中にっちゅうのズレ

中国語ちゅうごくごでは 民族みんぞく国家こっか(mínzú guójiā) と訳やくし、「国民こくみん」ではなく「民族みんぞく」の語ごを用もちいる。

この訳やくし方ほうの差さが、nation という語ごのもつ国民こくみんと民族みんぞくの二に重じゅう性せいをそのまま映うつしている。

国民はどのように作られたか言語・教育・歴史・兵役を通して多様な人々が国民に仕立てられ、国民国家が成立する過程を示した図。 方言も習俗も違う人々 装置 標準語義務教育 国史・国旗徴兵と戸籍 国民 一体感をもつ集団 想像の共同体 国民は自然にあったのではない。作られたのである。 ☑19 虚構・☑78 制度と同じ層にある
国民こくみんはどのように作つくられたか
入試にゅうし文ぶん

現在げんざいでは地球ちきゅうを覆おおいつくし、われわれ地球ちきゅうの住民じゅうみんがそのなかで生いきることを余よ儀ぎなくされている近代的きんだいてきな国民こくみん国家こっかは、たとえばフランス革命かくめい期きや明治めいじ維い新しん期きなどその成立せいりつ期きの文化ぶんか政策せいさくや言語げんご政策せいさくが示しめしているように、強力きょうりょくな国民こくみん統合とうごうを行おこなうために一言ひとこと語ご・一文いちぶん化か主義しゅぎ(したがって多言語たげんご・多た文化ぶんかの抑圧よくあつ)を強行きょうこうせざるをえなかった。
歴史的れきしてきな条件じょうけんによって、多た文化ぶんか主義しゅぎや多言語たげんご主義しゅぎを余よ儀ぎなくされている国々くにぐにであっても、それはまさしく余よ儀ぎなくされているのであって、そうしたスローガンや政策せいさくにもかかわらず、つねに一元的いちげんてきな統合とうごうへの強つよい力ちからが働はたらいているのが現状げんじょうである。
そのような国民こくみん国家こっかのなかで、近代きんだいの文学ぶんがくはそれが用もちいる言語げんご(国語こくご)、それが描えがきだす世界せかい、それが果はたす役割やくわり、その生産せいさんと消費しょうひの構造こうぞう、等々とうとうにおいて国民こくみん国家こっかを映うつしだす文学ぶんがくであり、その意味いみでいわゆる国民こくみん文学ぶんがくばかりでなくすべての近代きんだい文学ぶんがくが、基本的きほんてきに国民こくみん文学ぶんがくであると言いえるだろう。

出典しゅってん 西川長夫にしかわながお『国民こくみん国家こっか論ろんの射程しゃてい』 / 出題しゅつだい 駒澤大学こまざわだいがく・経済学部けいざいがくぶ

読解どっかいのポイント
  • 近代きんだいの国家こっか=国民こくみん国家こっか
  • 一言ひとこと語ご・一文いちぶん化か主義しゅぎ 近代きんだい文学ぶんがく
  • 国語こくごの使用しよう
  • 描写びょうしゃする世界せかい
  • 生産せいさんと消費しょうひの構造こうぞう ↓ 国民こくみん文学ぶんがく=国民こくみん国家こっかを映うつしだす文学ぶんがく
要約ようやく

近代的きんだいてきな国民こくみん国家こっかには、つねに一元的いちげんてきな統合とうごうへの強つよい力ちからが働はたらいている。そのような国民こくみん国家こっかのなかの近代きんだい文学ぶんがくは、すべて国民こくみん文学ぶんがくだと言いえる。

語ご法ほうの観察かんさつ

「〜とされる」で建前たてまえを置おき、そのあとで成なり立たちを暴あばく。二に段だん構かまえで前提ぜんていを崩くずす型かた。

Section 07

ナショナリズム

126★★

ナショナリズム

ナショナリズム[4]中高なかだか型がた

定義ていぎ

民族みんぞくを単位たんいとして国家こっかの統一とういつや独立どくりつを目指めざす考かんがえ方かた。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑126
原げん書しょの解説かいせつ

ナショナリズムは、〈民族みんぞく主義しゅぎ〉〈国民こくみん主義しゅぎ〉〈国家こっか主義しゅぎ〉などと訳やくされるが、論ろん者しゃによって多様たような意味いみ合あいをもたされる語ごであるため、一義いちぎ的てきな意味いみを定さだめにくい。

さらに、ナショナリズムのもとになっている nation(ネーション)にも、

とさまざまな訳語やくごがあてられているため、日本語にほんごに翻訳ほんやくしても理解りかいが難むずかしい。

そこで思おもい切きり単純たんじゅんに言いえば、ナショナリズムとは、「一ひとつの民族みんぞくは一ひとつの国家こっかをつくるべき」という思想しそうだと言いえる。

国家こっかができ上うえがれば、当然とうぜんその民族みんぞくは「国民こくみん」となる。

では、なぜナショナリズムという思想しそうが近代きんだいを支配しはいしたのか。

その大おおきな理由りゆうは、国民こくみん国家こっかが成立せいりつしたことで、人々ひとびとは国家こっかへの帰属きぞく意識いしきをもつようになり、国家こっかと直接的ちょくせつてきに結むすびつくようになったからだ。

たとえばナポレオンの軍ぐん隊たいが強つよかったのは、彼かれらが傭兵ようへいの寄よせ集あつめではなく、「国民こくみん軍ぐん」として組織そしきされ、〈国くにのために戦たたかう〉という意識いしきを強烈きょうれつにもっていたためだった。

この「国くにのために戦たたかう」という態度たいどこそ、ナショナリズムの典型的てんけいてきな表あらわれ方ほうである。

したがって、すでに成立せいりつしている国家こっかであれば、いまだ国家こっか意識いしきの希薄きはくな国民こくみんに対たいし、国旗こっきや国歌こっか・通貨つうか制度せいど・言語げんご(国語こくご)などを通つうじて、「国家こっか」を自覚じかくさせることがナショナリズムである。

一方いっぽう、国家こっかとして独立どくりつしていない民族みんぞくにとっては、支配しはい国こくから独立どくりつするためにナショナリズムが用もちいられる。

使用しようの境界きょうかい

国民こくみんとしての一体いったい感かんを求もとめ、国家こっかの独立どくりつと統一とういつを目指めざす思想しそうと運動うんどう。愛国心あいこくしんと同義どうぎではない。

用法ようほう

訳語やくごが国家こっか主義しゅぎ・民族みんぞく主義しゅぎ・国民こくみん主義しゅぎと三みっつある点てんが要点ようてんで、どこに重心じゅうしんを置おくかで評価ひょうかが変かわる。植民地しょくみんちの独立どくりつ運動うんどうを支ささえた解放かいほうの思想しそうでもあり、他民族たみんぞくを排除はいじょする侵略しんりゃくの思想しそうでもある。この両義性りょうぎせいが読解どっかいの急所きゅうしょになる。評ひょう論文ろんぶんでは多おおくの場合ばあい、グローバル化かへの反はん動どうとして排はい外的がいてきな形かたちをとる現代げんだいの現象げんしょうを批判ひはんする文脈ぶんみゃくで出でる。☑125 国民こくみん国家こっかを成なり立たたせる力ちからであり、国民こくみんという虚構きょこうを支ささえる情熱じょうねつでもある。

用例ようれい
  • 愛国心あいこくしんは、悪党あくとうの最後さいごの避難ひなん所しょである。サミュエル・ジョンソン ─ ボズウェル『サミュエル・ジョンソン伝でん』(1791)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    短みじかさが効ききすぎて誤読ごどくされてきた一句いっくである。ジョンソンは愛国心あいこくしんそのものを否定ひていしていない。「最後さいごの」という限定げんていに注意ちゅういしたい。他ほかのどんな弁明べんめいも尽つきたときに、最後さいごに持もち出だせる免罪符めんざいふとしての愛国心あいこくしんを撃うっているのだ。なぜ最後さいごの避難ひなん所しょになりうるのか — 愛国心あいこくしんは、証明しょうめいも反証はんしょうもできないからである。能力のうりょくなら測はかれる、誠実せいじつさなら行おこないで問とえる。だが国くにを愛あいしているかどうかは、本人ほんにんの申告しんこく以外いがいに確たしかめようがない。検証けんしょうできない徳とくは、いつでも身みにまとえる衣ころもになる。126 を扱あつかう評ひょう論文ろんぶんが「誰だれが、どんな場面ばめんでこの語ごを持もち出だしたか」を先さきに見みるのは、この理由りゆうによる。
  • ナショナリズムとは、ある民族みんぞくが組織的そしきてきに力ちからを求もとめる、政治的せいじてきで経済的けいざいてきな連合れんごうの一いち面めんである。……それは人間にんげん的てきな精神せいしんではなく、組織そしきとしての力ちからを養やしなう。ラビンドラナート・タゴール『ナショナリズム』(1917)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    植民地しょくみんちの側がわから、ナショナリズムを批判ひはんした稀まれな文章ぶんしょうである。普通ふつうなら、支配しはいされる側がわにとってナショナリズムは抵抗ていこうの武器ぶきになる。タゴールはそこで立たち止どまった — 武器ぶきを取とれば、相手あいてと同おなじ形かたちになるのではないか、と。「人間にんげん的てきな精神せいしんではなく、組織そしきとしての力ちから」という対比たいひが鋭するどい。ナショナリズムは人ひとを愛あいさせるのではなく、人ひとを編成へんせいする。編成へんせいされた力ちからは誰だれに向むけても同おなじように働はたらくから、解放かいほうのために作つくった装置そうちがそのまま抑圧よくあつの装置そうちになる。インド独立どくりつ運動うんどうのただ中なかでこれを書かいたことに、この批判ひはんの重おもさがある。
  • ナショナリズムは、抑圧よくあつに抗こうする力ちからにも、他者たしゃを排除はいじょする力ちからにもなる。 両義性りょうぎせいを最初さいしょに置おくのが、この語ごの扱あつかいの基本きほんである。同おなじ「我々われわれ」という感覚かんかくが、植民地しょくみんちでは独立どくりつの原げん動どう力りょくになり、大国たいこくでは侵略しんりゃくの口実こうじつになる。語ごそのものに符号ふごうを付つけず、誰だれが誰だれに向むけて使つかったかで判断はんだんする。
  • ×代表だいひょう戦せんを見みていると、自然しぜんとナショナリズムが湧わいてくる。 この場面ばめんで湧わくのは「愛国心あいこくしん」「応援おうえんの熱ねつ」である。ナショナリズムは国民こくみんという単位たんいを政治せいじの基礎きそに据すえるべきだという主張しゅちょう・運動うんどうを指さす語ごで、一時いちじの感情かんじょうには使つかわない。ただし評ひょう論文ろんぶんでは、その感情かんじょうが動員どういんされる仕組しくみこそがナショナリズムだと論ろんじることもある。その場合ばあいも感情かんじょうではなく仕組しくみが主語しゅごである。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

関せき 125 国民こくみん国家こっか

派生はせい形けい
  • ナショナル[1]形容詞けいようし形けい。「ナショナル・アイデンティティ」のように国民的こくみんてき・国家こっか的てきの意いで使つかう。日本語にほんごの「国民的こくみんてき」が人気にんきがあるという意味いみに流ながれやすい(国民的こくみんてきアイドル)ので、評ひょう論文ろんぶんでは原語げんごのまま使つかうことが多おおい。
  • ナショナリスト[4]担にない手てを指さす語ご。日本語にほんごでは非難ひなんの色いろが強つよく出でるが、植民地しょくみんち独立どくりつ運動うんどうの指導者しどうしゃもこの語ごで呼よばれる。語ごに符号ふごうが付ついているのではなく、読よみ手ての位置いちが符号ふごうを付つけていることに注意ちゅういしたい。
  • 国民主義こくみんしゅぎ[4]明治めいじ期きの訳語やくご。「民族みんぞく主義しゅぎ」と訳やくし分わけられることもある。訳語やくごが二ふたつあるのは、nation という語ごが国民こくみんとも民族みんぞくとも読よめるからだ。どちらの訳やくを選えらぶかで、成員せいいんの資格しかくが法ほうによるのか出自しゅつじによるのかが変かわる。
コロケーション
  • 排はい外的がいてきナショナリズム向むきを指定していする語ご外部がいぶを敵てきとして名指なざすことで内部ないぶをまとめる形かたち。この結むすびつきが要いるのは、ナショナリズムが自動的じどうてきに排はい外的がいてきではないからだ。内ないを向むけば文化ぶんかの復興ふっこうになり、外そとを向むけば排斥はいせきになる。向むきを変かえる引ひき金かねはたいてい不安ふあんである — 経済けいざいの悪化あっかと排はい外がいの高こうまりが並走へいそうするのは、この理由りゆうによる。
  • ナショナリズムの高揚こうよう温度おんどを言いう語ご「高揚こうよう」という語ごが選えらばれるのは、これが議論ぎろんではなく気分きぶんとして広ひろがるからだ。論証ろんしょうで高たかまるものではないから、論証ろんしょうで下さげることもできない。評ひょう論文ろんぶんがナショナリズムを正面しょうめんから反駁はんばくせず、その発生はっせいの条件じょうけんを分析ぶんせきする方向ほうこうへ行いくのは、この非対称ひたいしょうを知しっているからである。
  • 文化ぶんかナショナリズム領域りょういきを限かぎる語ご政治的せいじてき独立どくりつではなく、言語げんご・芸げい能のう・伝統でんとうの固有こゆう性せいを主張しゅちょうする形かたち。穏おだやかに見みえるが、ここが政治的せいじてきナショナリズムの苗床なえどこになることは歴史れきしが繰くり返かえし示しめしている。「我々われわれの文化ぶんかは独自どくじだ」から「だから我々われわれの国くにが要いる」までは、論理ろんりとしては一段いちだんしかない。
  • ナショナリズムを煽あおる主語しゅごが現あらわれる語ご「高揚こうようする」が自動詞じどうしなのに対たいし、「煽あおる」は誰だれかがやっていると言いい切きる語ごである。この動詞どうしを選えらんだ書かき手ては、感情かんじょうの自然しぜん発生はっせいを認みとめず、動員どういんの技術ぎじゅつとして見みている。自動詞じどうしか他動詞たどうしかを見みるだけで、その文章ぶんしょうがナショナリズムをどう捉とらえているかが分わかる。
格かく中なか

書かき言葉ことば・会話かいわの両方りょうほうで使つかえる。

類るい語ごと差さ
  • 愛国心あいこくしん自国じこくを大切たいせつに思おもう気持きもち感情かんじょう。ナショナリズムは政治的せいじてきな運動うんどうと思想しそうを含ふくむ。
  • 国家こっか主義しゅぎ国家こっかを最上位さいじょういに置おく訳語やくごの一ひとつ。国家こっかの側がわに重心じゅうしんがあり、否定的ひていてきに響ひびく。
  • 民族みんぞく主義しゅぎ民族みんぞくの自立じりつを求もとめる訳語やくごの一ひとつ。民族みんぞくの側がわに重心じゅうしんがある。訳語やくごが三みっつあること自体じたいが語ごの幅はばを示しめす。
  • 排はい外がい主義しゅぎ他者たしゃを排除はいじょしようとするナショナリズムが取とりうる一いち形態けいたい。必かならずそうなるわけではない。

ENnationalism
ZH民族主义(民族主義, mínzú zhǔyì)

入試にゅうし文ぶん

(「多た民族みんぞく・植民しょくみん・移民いみん受うけ入いれ国家こっか」と「単たん民族みんぞく・原げん住じゅう・移民いみん送おくり出だし国家こっか」とを比較ひかくして)
一般いっぱんに国民こくみん国家こっかと近代きんだい社会しゃかいは、後者こうしゃの国家こっか――単たん民族みんぞく・原げん住じゅう・移民いみん送おくり出だし国家こっか――のイメージに基もとづいて考かんがえられることが多おおかった。
そして、多た民族みんぞく・植民しょくみん・移民いみん受うけ入いれ国家こっかと単たん民族みんぞく・原げん住じゅう・移民いみん送おくり出だし国家こっかでは、国民こくみん主義しゅぎ(ナショナリズム)という言葉ことばが異ことなって使つかわれる傾向けいこうがある。
後者こうしゃでは、国民こくみんはほとんどの場合ばあい、フランス国民こくみん、日本にほん国民こくみん、のように国家こっかの管理下かんりかにある人口じんこうの全体ぜんたいと同等どうとうに使つかわれる場合ばあいが圧倒的あっとうてき多数たすうを占しめるのに対たいし、前者ぜんしゃでは、多た民族みんぞくの構成こうせい民族みんぞく集団しゅうだん個々ここに対たいして使つかわれる場合ばあいが多おおい。
したがって、前者ぜんしゃでは、民族みんぞく国民こくみん主義しゅぎと国家こっか国民こくみん主義しゅぎが混同こんどうされることが少すくないのに対たいして、後者こうしゃではその区別くべつが薄うすれる。

出典しゅってん 酒井さかい直樹なおき『死産しざんされる日本語にほんご・日本人にほんじん』 / 出題しゅつだい 中央ちゅうおう大学だいがく・法学部ほうがくぶ

読解どっかいのポイント
  • 多た民族みんぞく・植民しょくみん・移民いみん受うけ入いれ国家こっか
  • 国民こくみん主義しゅぎ(ナショナリズム)という言葉ことばは個々ここの構成こうせい民族みんぞくに対たいして使用しよう ↕︎ 単たん民族みんぞく・原げん住じゅう・移民いみん送おくり出だし国家こっか
  • 国家こっかの管理下かんりかにある人口じんこう全体ぜんたいに対たいして使用しよう
要約ようやく

「国民こくみん主義しゅぎ」という言葉ことばは、多た民族みんぞく・植民しょくみん・移民いみん受うけ入いれ国家こっかでは個々ここの構成こうせい民族みんぞくに対たいして使用しようされることが多おおいのに対たいし、単たん民族みんぞく・原げん住じゅう・移民いみん送おくり出だし国家こっかでは国家こっかの管理下かんりかにある人口じんこう全体ぜんたいに対たいして用もちいられることが多おおい。

語ご法ほうの観察かんさつ

同おなじ語ごの二ふたつの側面そくめんを並置へいちし、どちらとも決きめない。両義性りょうぎせいそのものが論ろんの内容ないようになっている。

同一の「我々」意識が、内へ向けば統合、外へ向けば排除になることを示した図中央に置かれた「我々」という同一の感情から、内側へ向かう矢印は統合・独立・文化の復興を、外側へ向かう矢印は排除・膨張・他者の敵視を生む。向きを決めるのは不安であることを添える。 同じ「我々」が、二つの向きを持つ我々という感情内へ向けば統合・独立植民地からの解放失われた言語の復興外へ向けば排除・膨張少数者への攻撃他国への進出向きを決めるのは、思想の中身ではない不安が高まるほど、矢は外へ向きやすくなるだから「良いナショナリズム/悪いナショナリズム」ではなく「いま、どちらを向いているか」を問う
ナショナリズムの二ふたつの向むき
Section 08

民みん主しゅ主義しゅぎ

127★★

民主主義みんしゅしゅぎ

みんしゅしゅぎ[0]平板へいばん型がた

語ご構成こうせい
民みんたみ+主しゅあるじ+主義しゅぎ立場たちば
定義ていぎ

国民こくみん(人民じんみん)自身じしんが政治せいじを行おこなうこと。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑127
原げん書しょの解説かいせつ

中世ちゅうせいヨーロッパにも議会ぎかいはあったが、そこは貴族きぞくや聖職者せいしょくしゃといった特権とっけん者しゃたちが自みずからの利益りえきを主張しゅちょうする場ばでしかなかった。

しかし、十七じゅうなな〜十八じゅうはち世紀せいきにイギリス・アメリカ・フランスで市民しみん革命かくめいが起おこり、民みん主しゅ主義しゅぎが発展はってんし、国家こっかの構成員こうせいいんである国民こくみんが、国くにの政治せいじについて意見いけんを述のべたり政策せいさくを決定けっていしたりする権利けんりを有ゆうするようになっていった。

民みん主しゅ主義しゅぎを採用さいようする近代的きんだいてきな議会ぎかいでは、全員ぜんいんの一致いっちによって問題もんだいを解決かいけつすることは難むずかしく、多数決たすうけつの原理げんりが採用さいようされている。

しかし多数決たすうけつの原理げんりだけでは健全けんぜんな民みん主しゅ主義しゅぎは保証ほしょうされない。

なぜなら、多数決たすうけつを利用りようして合法ごうほう的てきに独裁者どくさいしゃが出現しゅつげんする危険きけんを民みん主しゅ主義しゅぎは常つねにはらんでいるからだ。

多数決たすうけつによる意思決定いしけっていが正ただしく機能きのうするためには、その前提ぜんていとして、

がそろっていなければならない。

また、当然とうぜん議員ぎいんを選出せんしゅつする国民こくみんにも、特定とくてい集団しゅうだんの利害りがいにとらわれない理性的りせいてきな判断はんだんが求もとめられる。

しかし、現代げんだいは地域ちいき的てき・職業しょくぎょう的てきな利害りがい関係かんけいから、自分じぶんたちに利益りえきをもたらしてくれそうな代表だいひょう者しゃを選えらぶ傾向けいこうが強つよい。

その結果けっか、選出せんしゅつされる議員ぎいんも、国家こっかというより特定とくていの利益りえき集団しゅうだんにおける意思いしの代だい弁べん者しゃとなってしまい、議会ぎかいは単たんなる利益りえき配分はいぶんの場ばとして形骸化けいがいかしていくのである。

使用しようの境界きょうかい

国民こくみんが主権しゅけんをもち、自みずからの意志いしで政治せいじを決きめる仕組しくみ。多数決たすうけつはその手続てつづきの一ひとつにすぎない。

用法ようほう

評ひょう論文ろんぶんで重要じゅうようなのは多数決たすうけつとの区別くべつである。多数決たすうけつは決きめ方かたの一ひとつにすぎず、少数しょうすう意見いけんの尊重そんちょうと手続てつづきの公正こうせいがなければ民みん主しゅ主義しゅぎにはならない。多数たすうの名なのもとに少数しょうすうを圧殺あっさつする事態じたいは「多数たすうの専制せんせい」と呼よばれ、☑138 全体ぜんたい主義しゅぎへの通路つうろになる。もう一ひとつの論点ろんてんが大衆たいしゅう社会しゃかいで、自立じりつした市民しみん(☑122)が匿名とくめいの大衆たいしゅうに変かわると、民みん主しゅ主義しゅぎは世論よろん操作そうさに弱よわくなる。この二ふたつの批判ひはんが定型ていけいである。

用例ようれい
  • 我々われわれの政体せいたいは、少数しょうすう者しゃではなく多数たすう者しゃの利益りえきのために統治とうちするがゆえに、民みん主しゅ政せいと呼よばれる。……我々われわれは、政治せいじに関かかわらない者ものを静しずかな人ひととは呼よばず、無用むようの人ひとと呼よぶ。ペリクレスの葬送そうそう演説えんぜつ ─ トゥキュディデス『戦せん史し』第だい二に巻かん(前五世紀ぜんごせいき)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    民みん主しゅ政せいが自分じぶんを語かたった最もっとも古ふるい言葉ことばである。前半ぜんはんだけを引ひくと理想的りそうてきに聞きこえるが、後半こうはんが民みん主しゅ政せいの要求ようきゅうの厳きびしさを表あらわしている。「無用むようの人ひと」— 政治せいじに関かかわらない自由じゆうは認みとめられていないのだ。現代げんだいの民たみ主しゅ主義しゅぎが参加さんかを権利けんりとして語かたるのに対たいし、ここでは義務ぎむとして語かたられている。この差さは小ちいさくない。権利けんりなら行使こうししなくてもよいが、義務ぎむなら棄き権けんは裏切うらぎりになる。投票率とうひょうりつの低下ていかを「制度せいどの問題もんだい」と見みるか「市民しみんの怠慢たいまん」と見みるかは、民みん主しゅ主義しゅぎをどちらの型かたで理解りかいしているかで決きまる。なお、この演説えんぜつをした国家こっかが奴隷制どれいせいと女性じょせいの排除はいじょの上うえに立たっていたことも忘わすれてはならない。
  • 人民じんみんの、人民じんみんによる、人民じんみんのための政治せいじを、この地上ちじょうから滅ほろぼしてはならない。エイブラハム・リンカン ゲティスバーグ演説えんぜつ(1863)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    三みっつの前置詞ぜんちしが、民みん主しゅ主義しゅぎの三みっつの条件じょうけんを言いい分ぶんけている。「人民じんみんの」は主権しゅけんの所在しょざい、「人民じんみんによる」は統治とうちの手続てつづき、「人民じんみんのための」は統治とうちの目的もくてきである。重要じゅうようなのは、この三みっつが分離ぶんりしうることだ。独裁者どくさいしゃはしばしば「人民じんみんのための」だけを掲かかげる。目的もくてきが善ぜんければ手続てつづきは要いらないという論法ろんぽうが、二十にじゅう世紀せいきの全体ぜんたい主義しゅぎの入口いりぐちだった。逆ぎゃくに、手続てつづきだけが残のこって目的もくてきが忘わすれられれば形骸化けいがいかした民みん主しゅ主義しゅぎになる。リンカンがこの三みっつを並列へいれつで結むすんだのは、どれか一ひとつでは足たりないと知しっていたからだ。一文いちぶんが二百年にひゃくねん読よみ継つがれるのは、短みじかいからではなく、短みじかさのなかに構造こうぞうが入はいっているからである。
  • 民みん主しゅ主義しゅぎとは、多数決たすうけつの制度せいどである以上いじょうに、少数しょうすう意見いけんが次つぎの多数たすうになりうる道みちを残のこす制度せいどである。 民みん主しゅ主義しゅぎを多数決たすうけつと同一どういつ視ししないのが評ひょう論文ろんぶんの作法さほうである。多数決たすうけつだけなら五十ごじゅう一いちパーセントの独裁どくさいが正当化せいとうかされてしまう。言げん論ろんの自由じゆうも、任期にんきも、すべて「次つぎがある」ことを担保たんぽする装置そうちだ。上うえのミル『自由じゆう論ろん』と、ここでつながる。
  • ×学級会がっきゅうかいは民みん主しゅ主義しゅぎなので、多数決たすうけつで決きめましょう。 民みん主しゅ主義しゅぎを多数決たすうけつに縮ちぢめた典型てんけいである。手続てつづきだけを言いうなら「多数決たすうけつで」と言いえば足たりる。民みん主しゅ主義しゅぎを持もち出だすなら、反対はんたい意見いけんが述のべられたか、決定けっていを後あとで覆くつがえせるかまで含ふくめねばならない。制度せいどの名なを、一ひとつの手続てつづきの名なとして使つかわない。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

関せき 大衆たいしゅう社会しゃかい

派生はせい形けい
  • 民主みんしゅ[0]「民みんが主しゅである」という原語げんごの直訳ちょくやく。demos(民衆みんしゅう)+ kratia(支配しはい)。単独たんどくでは「民みん主しゅ的てき」「民みん主しゅ化か」の形かたちで使つかう。「主しゅ」の字じが主権しゅけんの所在しょざいを言いっていることを押おさえると、127 の定義ていぎが短みじかく言いえる。
  • 民主的みんしゅてき[0]制度せいどの外そとにも広ひろがる形容けいよう動詞どうし。「民みん主しゅ的てきな運営うんえい」は会社かいしゃにも家庭かていにも使つかえる。注意ちゅういしたいのは、この語ごが〈みんなで決きめる〉と同義どうぎに流ながれやすいことだ。評ひょう論語ろんごでは手続てつづきの正統性せいとうせいを指さし、雰囲気ふんいきの話はなしではない。
  • 民主化みんしゅか[0]過程かていを言いう語ご。注意ちゅういすべきは不可逆ふかぎゃくではない点てんである。民みん主しゅ化かした社会しゃかいが選挙せんきょを通つうじて非ひ民みん主しゅ的てきな体制たいせいへ移うつることは実際じっさいに起おきてきた。「化か」は方向ほうこうを示しめすだけで、到達とうたつも後戻あともどりのなさも保証ほしょうしない。
コロケーション
  • 間接かんせつ民みん主しゅ制せい規模きぼが強しいる形かたち代表だいひょう者しゃを選えらび、その代表だいひょう者しゃが決きめる仕組しくみ。この形かたちが主流しゅりゅうになったのは理想りそうからではなく、人数にんずうと面積めんせきの問題もんだいからである。一いち億おく人ひとが同おなじ広場ひろばに集しゅうまれない以上いじょう、代表だいひょうを立たてるほかない。ただしこの妥協だきょうには代償だいしょうがある — 代表だいひょうは、代表だいひょうしたはずの意志いしから独立どくりつして動うごきうる。「政治せいじ不信ふしん」は制度せいどの欠陥けっかんではなく、この構造こうぞうから必然的ひつぜんてきに出でる。
  • 民みん主しゅ主義しゅぎの形骸化けいがいか中身なかみが抜ぬける語ご手続てつづきは残のこったまま、実質じっしつが失うしなわれた状態じょうたい。「形骸けいがい」という語ごが的確てきかくなのは、骨ほねが残のこっているという像ぞうを持もつからだ。選挙せんきょも議会ぎかいも動うごいているのに決定けっていが別べつの場所ばしょで下くだされている、という状態じょうたいを指さす。制度せいどが壊こわれていないことが、かえって批判ひはんを難むずかしくする。
  • 熟じゅく議ぎ多数決たすうけつを補おぎなう語ご決きめる前まえに、意見いけんが変かわりうる場ばを置おくという考かんがえ方かた。この語ごが必要ひつようとされたのは、投票とうひょうが「すでにある意見いけんを数かぞえる」作業さぎょうでしかないと気きづかれたからだ。数かぞえる前まえに意見いけんが作つくられる場所ばしょがどこかになければ、民みん主しゅ主義しゅぎは集計しゅうけいの技術ぎじゅつに痩やせる。
  • 民みん主しゅ主義しゅぎの赤字あかじ規模きぼの外そとに出でる語ご決定けっていの影響えいきょうを受うける人ひとと、決定けっていに参加さんかできる人ひとが一致いっちしていない状態じょうたい。国境こっきょうを越こえる公こう害がい・金融きんゆう・気候きこうの問題もんだいでこの語ごが使つかわれる。民みん主しゅ主義しゅぎは国民こくみん国家こっかの器うつわの中なかでしか設計せっけいされていない — 125 で見みた枠組わくぐみの限界げんかいが、ここで具体的ぐたいてきな不足ふそくとして現あらわれる。
格かく中なか

書かき言葉ことば・会話かいわの両方りょうほうで使つかえる。

類るい語ごと差さ
  • 多数決たすうけつ多数たすうの意見いけんで決きめる手続てつづき。民みん主しゅ主義しゅぎそのものではない。この混同こんどうが最大さいだいの誤解ごかい。
  • 自由じゆう主義しゅぎ個人こじんの自由じゆうを重おもんじる別べつの原理げんり。民みん主しゅ主義しゅぎと結むすびついているが、対立たいりつする場面ばめんもある。
  • 大衆たいしゅう社会しゃかい匿名とくめいの多数たすうが主役しゅやくの社会しゃかい民みん主しゅ主義しゅぎが変質へんしつした形かたちとして論ろんじられる。
  • 全体ぜんたい主義しゅぎ全体ぜんたいのために個こを犠牲ぎせいにする☑138。対極たいきょく。多数たすうの名なにおいて成立せいりつしうる点てんが問題もんだいになる。

ENdemocracy
ZH民主主义(民主主義, mínzhǔ zhǔyì)

近代の主義を三つの軸で分ける政治・経済・倫理の三つの軸に、近代の主要な立場を配置した図。 政治の軸 ── 何を単位に置くか 個人主義 個人が単位 民主主義 国民が主権をもつ 全体主義 全体が単位 経済の軸 ── 生産手段を誰がもつか 資本主義 私有し、利潤を再投資する 社会主義 社会が共有し、平等に分配する 倫理の軸 ── 何を基準に善悪を決めるか 功利主義 ヒューマニズム ニヒリズム 幸福の総量 人間の尊厳 根拠はない
近代きんだいの主義しゅぎを三みっつの軸じくで分わける
入試にゅうし文ぶん

「民みん主しゅ主義しゅぎ」などという言葉ことば、私わたしたちは耳みみにタコができるほど聞きかされており、誰だれもが分わかったような顔かおをしてくり返かえしているのだが、金輪際こんりんざいわが国くにで理解りかいされていないもののように思おもわれる。
そもそも、民みん主しゅ主義しゅぎなるものはギリシャにおけるデモスクラティアの昔むかしから、意見いけんの相反そうはんする人々ひとびとの間あいだで最終的さいしゅうてきな譲歩じょうほをかち取とるために徹底的てっていてきに話はなしあう精神せいしんから生うまれたものと言いっていい。
時ときには口角こうかく泡あわをとばし、つかみかからんばかりになりながら、それでも最後さいごの最後さいごまで他者たしゃを理解りかいしようとする行為こういである。
ところが、わが国くにではどうだろう。「民みん主しゅ主義しゅぎ的てきに多数決たすうけつで決きめよう」とか「みんなで仲良なかよく話はなしあいましょう」とかのスローガンによって、完璧かんぺきな無理むり解かいのなかにからめとられているのである。
多数決たすうけつとは民みん主しゅ主義しゅぎにおいて最後さいごに行使こうしされるべき必要ひつよう悪あくであるはずなのに、拙速せっそくはいたるところに見みうけられる。

出典しゅってん 加賀かが野井のい秀一しゅういちの文章ぶんしょう / 出題しゅつだい 東京とうきょう理り科か大学だいがく・経営けいえい学部がくぶ

読解どっかいのポイント
  • 本来ほんらいの民たみ主しゅ主義しゅぎ
  • 意見いけんの相反そうはんする人々ひとびとの間あいだで、徹底的てっていてきに話はなしあう精神せいしんから生うまれた 日本にほんの民たみ主しゅ主義しゅぎ
  • 多数決たすうけつが最初さいしょからスローガンになっている
要約ようやく

民みん主しゅ主義しゅぎは、徹底的てっていてきに話はなしあうことによって他者たしゃを理解りかいしようとする行為こういであり、多数決たすうけつは必要ひつよう悪あくとされる。しかし、日本にほんでは多数決たすうけつが最初さいしょからスローガンになっている。

語ご法ほうの観察かんさつ

理念りねんと現実げんじつを交互こうごに置おく。読者どくしゃが持もっている通念つうねんを一ひとつずつ検算けんざんさせる構成こうせい。

Section 09

資本しほん主義しゅぎ

128★★

資本主義しほんしゅぎ

しほんしゅぎ[0]平板へいばん型がた

語ご構成こうせい
資しもとで+本ほんもと+主義しゅぎ立場たちば
定義ていぎ

利潤りじゅんの追求ついきゅうを目的もくてきとし、生産せいさん手段しゅだんの私有しゆう制せい・自由じゆう競争きょうそう・市場しじょう経済けいざいを特徴とくちょうとする経済けいざいのあり方かた。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑128
原げん書しょの解説かいせつ

資本しほん主義しゅぎは社会しゃかい主義しゅぎとセットで理解りかいしよう。

資本しほん主義しゅぎ社会しゃかいにおいては、生産せいさん手段しゅだんを有ゆうする資本しほん家かが労働者ろうどうしゃを雇用こようして財ざい・サービスを生産せいさんさせ、これを販売はんばいすることによって利潤りじゅんを獲得かくとくする。

しかし、半はん永久えいきゅう的てきに会社かいしゃや組織そしきが利潤りじゅんをあげていくためには、常つねに人々ひとびとの欲望よくぼうにかなう商品しょうひんやサービスを提供ていきょうしなければならない。

このことを違ちがう言いい方かたで言いえば、企業きぎょう(ひいては資本しほん主義しゅぎ経済けいざいそのもの)は、常つねに人々ひとびとの欲望よくぼうをかきたてなければ、拡大かくだい・成長せいちょうすることはできないということである。

拡大かくだいと成長せいちょうを至し上じょうの価値かちとする資本しほん主義しゅぎは、科学技術かがくぎじゅつの発展はってんと結むすびつきながら、大量たいりょう生産せいさん・大量たいりょう消費しょうひを不可欠ふかけつとするシステムを生うみ出だしていく。

さらに、大量たいりょう生産せいさんの前まえには原げん材料ざいりょうの獲得かくとくを目的もくてきに植民地しょくみんちや途上とじょう国こくからの〈大量たいりょう搾取さくしゅ〉を、大量たいりょう消費しょうひのあとには廃棄はいき物ぶつの〈大量たいりょう廃棄はいき〉を伴ともなっているため、国際こくさい規模きぼの貧富ひんぷの差さや環境かんきょう問題もんだいを引ひき起おこしてもいる。

なお、資本しほん主義しゅぎは経済けいざいシステムを表あらわす語ごであり、民みん主しゅ主義しゅぎとイコールではない。

使用しようの境界きょうかい

生産せいさん手段しゅだんを私有しゆうし、利潤りじゅんを追求ついきゅうして資本しほんを増ふやしていく経済けいざいのしくみ。市場しじょうがあるだけでは資本しほん主義しゅぎとは言いわない。

用法ようほう

要点ようてんは「利潤りじゅんを再さい投資とうしして拡大かくだいし続つづける」という運動うんどうとしての性格せいかくにある。単たんに物ものを売買ばいばいする仕組しくみではなく、止とまれば成なり立たたない。この止とまれなさが環境かんきょう破壊はかいと格差かくさの説明せつめいに使つかわれる。マルクスは☑92 唯物論ゆいぶつろんを土台どだいにこの構造こうぞうを分析ぶんせきし、労働ろうどうの☑21 疎そ外がいを導みちびいた。評ひょう論文ろんぶんでは、資本しほん主義しゅぎそのものよりそれが人ひとと自然しぜんに何なにをしたかが問とわれる。☑133 フェティシズム(物神ぶっしん崇拝すうはい)もこの文脈ぶんみゃくの語ごである。

用例ようれい
  • 資本しほんは、頭あたまから爪先つまさきまで、あらゆる毛穴けあなから血ちと汚物おぶつを滴てきらせながら、この世よに生うまれ出でてくる。カール・マルクス『資本しほん論ろん』第一だいいち巻かん・本源ほんげん的てき蓄積ちくせき(1867)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    資本しほん主義しゅぎの起源きげんに、契約けいやくではなく暴力ぼうりょくを置おいた一文いちぶんである。経済学けいざいがくの書物しょもつの一文いちぶんとしては異様いように生々なまなましいが、この生々なまなましさが論証ろんしょうの一部いちぶになっている。マルクスが撃うっているのは、勤勉きんべんな者ものが貯ため、怠惰たいだな者ものが持もたざる者ものになったという牧歌的ぼっかてきな起源きげん譚たんだ。実際じっさいに起おきたのは囲かこい込こみであり、耕たがやす土地とちを奪うばわれた人々ひとびとが売うるものを労働力ろうどうりょくしか持もたなくなったことだった。「生うまれ出でてくる」という比喩ひゆが効きくのは、誕生たんじょうという語ごがふつう祝福しゅくふくを含ふくむからである。その語ごに血ちと汚物おぶつを貼はり付つけることで、祝福しゅくふくの語彙ごいそのものを使つかえなくしている。122 のルソーの「囲かこい」と、ここで直結ちょっけつする。
  • 営えい利りは、人生じんせいの目的もくてきとされるようになり、もはや人間にんげんが物質的ぶっしつてき欲求よっきゅうを満みたすための手段しゅだんではなくなった。……精神せいしんなき専門せんもん人ひと、心情しんじょうなき享楽きょうらく人ひと。この無むのごときものが、人間にんげん性せいのかつて到達とうたつしたことのない段階だんかいに達たっしたとうぬぼれるのである。マックス・ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理りんりと資本しほん主義しゅぎの精神せいしん』(1905)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    資本しほん主義しゅぎを、搾取さくしゅではなく倒錯とうさくとして批判ひはんした一節いっせつである。ウェーバーの見立みたてでは、資本しほん主義しゅぎを動うごかしたのは強欲ごうよくではなく禁欲きんよくだった。救すくわれているかを確たしかめるために働はたらき、蓄たくわえ、使つかわない。ところが宗教しゅうきょうが抜ぬけたあと、手段しゅだんだけが残のこって自走じそうしはじめた。「手段しゅだんが目的もくてきになる」というこの転倒てんとうが、121 の道具どうぐ的てき理性りせいと同おなじ形かたちをしていることに注意ちゅういしたい。末尾まつびの「精神せいしんなき専門せんもん人ひと、心情しんじょうなき享楽きょうらく人ひと」は二ふたつに分わかれた近代きんだい人ひとの肖像しょうぞうだ — 働はたらくときは意味いみを問とわず、休やすむときは心こころを動うごかさない。批判ひはんの刃はが、資本しほん家かではなく我々われわれの一日いちにちに向むいているところがこの一節いっせつの怖こわさである。
  • 資本しほん主義しゅぎとは、利潤りじゅんを再ふたたび投資とうしに回まわすことで、拡大かくだいを自己じこ目的もくてきとする経済けいざいの仕組しくみである。 「拡大かくだいが自己じこ目的もくてき」が定義ていぎの核かくである。商売しょうばいはどの時代じだいにもあったが、儲もうけを使つかわずに次つぎの儲もうけへ回まわすのは近代きんだいの資本しほん主義しゅぎに固有こゆうだ。だから止とまると壊こわれる — 成長率せいちょうりつが語かたられ続つづける理由りゆうがここにある。
  • ×彼かれは金儲かねもうけがうまい、典型的てんけいてきな資本しほん主義しゅぎ者ものだ。 個人こじんの性格せいかくや能力のうりょくを言いうなら「拝金はいきん主義しゅぎ」「商しょう才さいがある」である。資本しほん主義しゅぎは社会しゃかい全体ぜんたいの経済けいざいの仕組しくみを指さす語ごで、個人こじんの型かたには使つかわない。なお「資本しほん家か」なら生産せいさん手段しゅだんを所有しょゆうする層そうを指さす正ただしい語ごだが、これも性格せいかくではなく位置いちの名なである。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

反はん 129 社会しゃかい主義しゅぎ / 関せき 消費しょうひ社会しゃかい/情報じょうほう化か社会しゃかい

派生はせい形けい
  • 資本しほん[0]単たんなる金かねではない。利潤りじゅんを生うむために投とうじられた価値かちを指さす。箪笥たんすの中なかの百万ひゃくまん円えんは資本しほんではなく、工場こうじょうや株かぶに変かえて初はじめて資本しほんになる。「資金しきん」との差さはここにある。
  • 資本家しほんか[0]生産せいさん手段しゅだんを所有しょゆうする側がわ。労働者ろうどうしゃとの対たいで使つかう。注意ちゅういしたいのは、これが職業しょくぎょうでも人格じんかくでもなく、関係かんけいの中なかの位置いちを指さすことだ。同おなじ人ひとが、貯蓄ちょちくでは資本しほん家か、勤きんめ先さきでは労働者ろうどうしゃでありうる。
  • 資本主義的しほんしゅぎてき[0]体制たいせいの外そとの事柄ことがらにまで性質せいしつを広ひろげる形かたち。「資本しほん主義しゅぎ的てきな人間にんげん関係かんけい」はすべてが交換こうかんに還元かんげんされる関係かんけいを指さす。評ひょう論文ろんぶんでは経済けいざいの外そとへ経済けいざいの論理ろんりが染そめみ出だす場面ばめんを書かくのに使つかわれる。
コロケーション
  • 資本しほんの論理ろんり意志いしを持もたない主語しゅご「資本しほん家かの論理ろんり」ではなく「資本しほんの論理ろんり」と言いうのが定型ていけいである。これは、個々ここの経営けいえい者しゃが善人ぜんにんでも悪人あくにんでも同おなじ結果けっかが出でると言いいたいからだ。価格かかくを下さげなければ潰つぶれるなら、誰だれであれ下さげるほかない。批判ひはんの宛先あてさきを人ひとから仕組しくみへ移うつすための語ご法ほうだと見みておくと、評ひょう論文ろんぶんの議論ぎろんの水準すいじゅんが測はかれる。
  • 労働力ろうどうりょくの商品しょうひん化か成立せいりつの条件じょうけん働はたらく力ちからそのものが、売うり買かいされる商品しょうひんになること。これが資本しほん主義しゅぎの成立せいりつ条件じょうけんである。奴隷どれいは人間にんげんごと売うられ、農奴のうどは土地とちに縛しばられていた。自由じゆうな労働者ろうどうしゃとは、身分みぶんから自由じゆうであると同時どうじに生産せいさん手段しゅだんからも自由じゆうな(=切きり離はなされた)者ものだ。この二に重じゅうの自由じゆうという皮肉ひにくな言いい回まわしが、マルクスの分析ぶんせきの核心かくしんにある。
  • 資本しほん主義しゅぎの矛盾むじゅん内ないから壊こわれる型かた外そとの敵てきではなく、仕組しくみ自身じしんの運動うんどうが自分じぶんの前提ぜんていを壊こわしていくという捉とらえ方ほう。生産せいさんを効率こうりつ化かすれば人ひとが要いらなくなり、買かう人ひとがいなくなる。賃金ちんぎんを下さげれば売うれなくなる。1-5 の弁べん証しょう法ほうが経済けいざいに降おりると、この形かたちの議論ぎろんになる。
  • 修正しゅうせい資本しほん主義しゅぎ延命えんめいの語ご国家こっかが介入かいにゅうして、市場しじょうが自分じぶんでは直なおせない部分ぶぶんを補おぎなう形かたち。福祉ふくし・累るい進しん課税かぜい・独占どくせん禁止きんしがその中身なかみである。この語ごが重要じゅうようなのは、資本しほん主義しゅぎが純粋じゅんすいな形かたちでは持もたないと当事者とうじしゃが認みとめた証拠しょうこだからだ。129 の社会しゃかい主義しゅぎの要求ようきゅうを一部いちぶだけ飲のむことで、体制たいせいそのものは生いき延のびた。
格かく中なか

書かき言葉ことば・会話かいわの両方りょうほうで使つかえる。

類るい語ごと差さ
  • 社会しゃかい主義しゅぎ生産せいさん手段しゅだんを共有きょうゆうする☑129。対たい語ご。私有しゆうか共有きょうゆうかで分わかれる。
  • 市場しじょう経済けいざい価格かかくで需給じゅきゅうを調整ちょうせいする仕組しくみの一部いちぶ。資本しほん主義しゅぎは生産せいさん手段しゅだんの私有しゆうと利潤りじゅん追求ついきゅうを含ふくむ。
  • 自由じゆう主義しゅぎ国家こっかの介入かいにゅうを抑おさえる政治せいじ経済けいざいの立場たちば。資本しほん主義しゅぎを支ささえる思想しそうの一ひとつ。
  • 消費しょうひ社会しゃかい消費しょうひが主役しゅやくになった社会しゃかい資本しほん主義しゅぎの後期こうきの形かたちとして論ろんじられる。

ENcapitalism
ZH资本主义(資本主義, zīběn zhǔyì)

資本主義の循環と、その帰結資本が利潤を生み再投資される循環と、そこから生じる疎外・物神崇拝・環境破壊を示した図。 資本 生産 利潤 再投資 止まれない 帰結 労働の疎外(☑21) 物神崇拝(☑133) 環境破壊と格差 単に物を売買する仕組みではない。拡大し続ける運動である。
止とまれない循環じゅんかんと、その帰結きけつ
入試にゅうし文ぶん

宗教しゅうきょう革命かくめいで起おこったプロテスタンティズムは資本しほん主義しゅぎと密接みっせつな関係かんけいがある。
魂たましいの救済きゅうさいを求もとめるプロテスタントたちの宗教しゅうきょう心こころは禁欲きんよく的てきな生活せいかつ態度たいどを生うみだした。その結果けっか、かれらの貯蓄ちょちくが増ふえた。
貯蓄ちょちくの増加ぞうかは、プロテスタントの心情しんじょうレベルでは神かみに奉仕ほうしする禁欲きんよく的てき生活せいかつの証あかしだが、その証あかしを強つよめるために貯蓄ちょちくはさらに増ふえた。それは浪費ろうひされない。浪費ろうひされずに貯蓄ちょちくを増ふやすために活用かつようされ、貯蓄ちょちくがさらに増ふえた。
貯蓄ちょちくの増加ぞうかは神かみへの奉仕ほうしという目的もくてきにとっては手段しゅだんである。だが、あるとき手段しゅだんが目的もくてきに転てんじればどうなるか。事実じじつ、転てんじたのだ。
それは富とみの蓄積ちくせきを目的もくてきにする投資とうし行動こうどうになった。蓄積ちくせきのための蓄積ちくせき、それは資本しほん主義しゅぎの本質ほんしつである。
マックス・ウェーバーは資本しほん主義しゅぎの成立せいりつに先さきだつプロテスタントの宗教しゅうきょう心こころの役割やくわりを強調きょうちょうした。

出典しゅってん 川勝かわかつ平太へいた『「美びの文明ぶんめい」をつくる――「文明ぶんめいの基礎きそとは何なにか」』 / 出題しゅつだい 同どう志し社しゃ大学だいがく・法学部ほうがくぶ

読解どっかいのポイント
  • プロテスタンティズムの禁欲きんよく的てきな生活せいかつ態度たいど ↓ 貯蓄ちょちくの増加ぞうか=神かみに奉仕ほうしするための手段しゅだん ↓ 貯蓄ちょちくのための貯蓄ちょちく=貯蓄ちょちくの自己じこ目的もくてき化か ↓ 投資とうし行動こうどう=資本しほん主義しゅぎの本質ほんしつ
要約ようやく

プロテスタンティズムは禁欲きんよく的てきな生活せいかつ態度たいどを生うみだし、神かみへの奉仕ほうしである貯蓄ちょちくを増加ぞうかさせた。そして蓄積ちくせきのための蓄積ちくせきが始はじまる。それが資本しほん主義しゅぎの本質ほんしつである投資とうし行動こうどうである。

語ご法ほうの観察かんさつ

仕組しくみの説明せつめいから帰結きけつの記述きじゅつへ移うつる。「その結果けっか」という接続せつぞくが因果いんがの切きれ目めを示しめしている。

Section 10

社会しゃかい主義しゅぎ

129★★

社会主義しゃかいしゅぎ

しゃかいしゅぎ[0]平板へいばん型がた

語ご構成こうせい
社会しゃかい人ひとの結むすびつき+主義しゅぎ立場たちば
定義ていぎ

国家こっかが生産せいさん手段しゅだんを共有きょうゆうし、経済けいざいを計画的けいかくてきにコントロールすることによって、平等びょうどうな社会しゃかいを実現じつげんしようとする考かんがえ方かた。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑129
原げん書しょの解説かいせつ

社会しゃかい主義しゅぎは、資本しほん主義しゅぎに対たいする批判ひはんから出でてきた考かんがえ方かたである。

ドイツの哲学者てつがくしゃ・経済学けいざいがく者しゃのマルクス(1818〜1883年さんねん)は、資本しほん主義しゅぎにおいては資本しほん家かが生産せいさん手段しゅだんを独占どくせん的てきに所有しょゆうし、労働者ろうどうしゃは資本しほん家かに搾取さくしゅされていると分析ぶんせきした。

そして、私有しゆう財産ざいさん制せいや市場しじょう経済けいざいを廃止はいしし、生産せいさん手段しゅだんを労働者ろうどうしゃが共同きょうどうで所有しょゆう・管理かんりし、経済けいざいを計画的けいかくてきにコントロールすることで、貧富ひんぷの差さや無駄むだな競争きょうそうのない、理想的りそうてきな社会しゃかいをつくり出だそうと考かんがえた。

二十にじゅう世紀せいきに入はいって社会しゃかい主義しゅぎ国家こっかが成立せいりつしたが、国家こっかが経済けいざい全体ぜんたいをコントロールすることはきわめて難むずかしく、社会しゃかい主義しゅぎの試こころみは歴史的れきしてきにはなかなかうまくいっていない。

政治せいじ体制たいせいが独裁的どくさいてきになり、政府せいふが公正こうせいに富とみを再分配さいぶんぱいする機能きのうを果はたしていないことが多おおい。

また、競争きょうそう原理げんりがないため、人々ひとびとが品質ひんしつ向上こうじょう・生産せいさんの効率こうりつ性せいなどに関心かんしんを抱いだかないといった問題もんだいも見みられる。

社会しゃかい主義しゅぎをさらに理想化りそうかすると共産主義きょうさんしゅぎになる。

社会しゃかい主義しゅぎでは、まだ階級かいきゅうの差さは完全かんぜんになくならず、国家こっかによる市場しじょう経済けいざいの統制とうせいを必要ひつようとする段階だんかいだが、共産主義きょうさんしゅぎでは、国家こっかが消滅しょうめつし、各人かくじんが必要ひつように応おうじて物資ぶっしを所有しょゆう・消費しょうひできるような社会しゃかいが実現じつげんする。

しかし旧きゅうソ連れんは共産主義きょうさんしゅぎを目指めざしたが挫折ざせつすることになった。

コラム

社会しゃかい主義しゅぎをさらに理想化りそうかすると共産主義きょうさんしゅぎになる。社会しゃかい主義しゅぎではまだ階級かいきゅうの差さは完全かんぜんになくならず、国家こっかによる市場しじょう経済けいざいの統制とうせいを必要ひつようとする段階だんかいだが、共産主義きょうさんしゅぎでは国家こっかが消滅しょうめつし、各人かくじんが必要ひつように応おうじて物資ぶっしを所有しょゆう・消費しょうひできるような社会しゃかいが実現じつげんする。しかし旧きゅうソ連れんは共産主義きょうさんしゅぎを目指めざしたが挫折ざせつすることになった。

使用しようの境界きょうかい

生産せいさん手段しゅだんを社会しゃかいが共有きょうゆうし、平等びょうどうな分配ぶんぱいを目指めざす立場たちば。国家こっかが経済けいざいを統制とうせいする体制たいせいと同一どういつ視しするのは正確せいかくではない。

用法ようほう

評ひょう論文ろんぶんでは理念りねんと現実げんじつの乖離かいりが主題しゅだいになる。平等びょうどうを目指めざした理念りねんが、現実げんじつには官僚かんりょうによる統制とうせいと自由じゆうの抑圧よくあつに至いたった、という筋書すじがきである。冷戦れいせんは資本しほん主義しゅぎと社会しゃかい主義しゅぎの☑20 イデオロギー対立たいりつとして語かたられ、一いち九きゅう九きゅう一いち年ねんのソ連れん解体かいたいでこの構図こうずが終おわった。以後いごは「大おおきな物語ものがたりの終焉しゅうえん」として論ろんじられる。読解どっかいでは、理念りねんとして語かたられているか、現実げんじつの体制たいせいとして語かたられているかを見分みわける。

用例ようれい
  • ヨーロッパに幽霊ゆうれいが出でる ── 共産主義きょうさんしゅぎという幽霊ゆうれいが。……万国ばんこくの労働者ろうどうしゃよ、団だん結けつせよ。カール・マルクス、フリードリヒ・エンゲルス『共産党きょうさんとう宣言せんげん』(1848)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    政治せいじ文書ぶんしょの冒頭ぼうとうとして、いまも群ぐんを抜ぬいて巧こうい一行いちぎょうである。「幽霊ゆうれい」という語ごが二に重じゅうに働はたらいている。一ひとつは敵てきから見みた姿すがた — 実体じったいがないのにヨーロッパ中なかの政府せいふがそれを恐おそれているという嘲弄ちょうろう。もう一ひとつはまだ現あらわれていないものという含ふくみ。幽霊ゆうれいはこれから肉体にくたいを得えるという予告よこくとして読よめる。文書ぶんしょ全体ぜんたいが「まだ無ないもの」を「すでに恐おそれられているもの」として提示ていじする構かまえで書かかれており、この一行いちぎょうがその構かまえを一息ひといきで立たてている。末尾まつびの「団だん結けつせよ」との対応たいおうも見みておきたい — 幽霊ゆうれいが肉体にくたいを得える方法ほうほうが、団だん結けつという一語いちごで示しめされている。
  • 社会しゃかい主義しゅぎは、貧富ひんぷの懸隔けんかくを打だ破はして、生産せいさん機関きかんを社会しゃかいの共有きょうゆうとなし、各人かくじんをしてその労働ろうどうに応おうじて所得しょとくを得とくせしめんとするものなり。幸こう徳とく秋水しゅうすい『社会しゃかい主義しゅぎ神髄しんずい』(1903)
    日本語にほんごで社会しゃかい主義しゅぎを最初さいしょに体系的たいけいてきに説といた書しょの、要約ようやくにあたる一節いっせつである。注目ちゅうもくしたいのは語順ごじゅんだ。「貧富ひんぷの懸隔けんかくを打だ破はして」が先さきに来きて、「生産せいさん機関きかんを社会しゃかいの共有きょうゆうとなし」が続つづく。目的もくてきが先さき、手段しゅだんが後あとである。二十にじゅう世紀せいきの社会しゃかい主義しゅぎがしばしば手段しゅだん(国有化こくゆうか)を目的もくてき化かしたことを思おもえば、この語順ごじゅんは重おもい。また「労働ろうどうに応おうじて」という限定げんていにも注意ちゅういしたい — 必要ひつように応おうじてではない。働はたらいた分ぶんだけ受うけ取とるという配分はいぶんは、資本しほん主義しゅぎの建前たてまえと実じつは同おなじであり、社会しゃかい主義しゅぎが資本しほん主義しゅぎの理想りそうを本気ほんきで実現じつげんしようとした運動うんどうでもあったことがここから見みえる。
  • 生産せいさん手段しゅだんの私有しゆうをやめることが、社会しゃかい主義しゅぎの最もっとも広ひろく共有きょうゆうされた定義ていぎである。 定義ていぎを一点いってんに絞しぼるのが読解どっかいでは有効ゆうこうである。社会しゃかい主義しゅぎには無数むすうの分派ぶんぱがあるが、ここだけはほぼ共通きょうつうする。122 の私的してき所有しょゆうを土台どだいとする市民しみん社会しゃかいに対たいして、土台どだいの一点いってんを抜ぬくという設計せっけいだ。抜ぬいたあと何なにが建たつかで、分派ぶんぱが分わかれる。
  • ×みんなで分わけ合あうなんて、ずいぶん社会しゃかい主義しゅぎ的てきな発想はっそうだね。 通つうじるが、体制たいせいの名なを、気き前まえのよさの比喩ひゆに使つかっている。評ひょう論語ろんごの社会しゃかい主義しゅぎは生産せいさん手段しゅだんの所有しょゆうの形かたちをめぐる制度せいどの名なであって、分配ぶんぱいの気き前まえよさの度合どあいではない。分配ぶんぱいの話はなしをしたいなら「平等びょうどう主義しゅぎ的てき」「再分配さいぶんぱい的てき」が正確せいかくである。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

反はん 128 資本しほん主義しゅぎ / 関せき マルクス主義しゅぎ

派生はせい形けい
  • 共産主義きょうさんしゅぎ[5]社会しゃかい主義しゅぎの先さきにある段階だんかいとしてマルクスは位置いちづけた。社会しゃかい主義しゅぎが労働ろうどうに応おうじた配分はいぶんなら、共産主義きょうさんしゅぎは必要ひつように応おうじた配分はいぶん。階級かいきゅうも国家こっかも消きえた状態じょうたいを指さすので、現実げんじつに存在そんざいした体制たいせいはどれも自称じしょうとしては社会しゃかい主義しゅぎだった。
  • 社会性しゃかいせい[0]主義しゅぎとは無関係むかんけいの語ご。「社会しゃかい性せいがある」は他者たしゃと関かかわる力ちからがあるの意い。同おなじ「社会しゃかい」でも、主義しゅぎが付つくと制度せいどの名な、性せいが付つくと個人こじんの性質せいしつの名なになる。接尾せつび辞じひとつで指さす層そうが入いれ替かわる例れい。
  • 社会化しゃかいか[0]二ふたつの意味いみがある。①経済けいざい用語ようごで私有しゆうを社会しゃかいの共有きょうゆうに移うつすこと(生産せいさん手段しゅだんの社会しゃかい化か)、②社会学しゃかいがく用語ようごで個人こじんが社会しゃかいの規範きはんを身みにつけていく過程かてい。文脈ぶんみゃくで峻別しゅんべつする。
コロケーション
  • 空想くうそう的てき社会しゃかい主義しゅぎ名なづけた側がわが勝かった語ごサン=シモン、フーリエ、オーウェンらを指さす。この呼よび名なはマルクスとエンゲルスが付つけたもので、自分じぶんたちを科学的かがくてきと称しょうするための対たいだった。押おさえておきたいのは、名なづけによって系譜けいふが整理せいりされると、その整理せいりが歴史れきしそのものに見みえてくることだ。空想くうそうと呼よばれた側がわは、実際じっさいには共同体きょうどうたいの設計せっけいを手てで試ためしていた。
  • 社会しゃかい主義しゅぎの失敗しっぱい何なにが失敗しっぱいしたかを問とう語ご二十にじゅう世紀せいきの体制たいせいの崩壊ほうかいを指さす言いい方かた。この語ごを読よむときは「理念りねんが失敗しっぱいしたのか、実装じっそうが失敗しっぱいしたのか」を分わけて考かんがえる必要ひつようがある。書かき手てがどちらを言いっているかで、続つづく主張しゅちょうがまったく変かわる。理念りねんの失敗しっぱいと読よめば市場しじょうを肯定こうていする結論けつろんへ、実装じっそうの失敗しっぱいと読よめば別べつの設計せっけいを探さがす結論けつろんへ向むかう。
  • 社会しゃかい民みん主しゅ主義しゅぎ折衷せっちゅうの形かたち革命かくめいではなく議会ぎかいを通つうじて、資本しほん主義しゅぎの枠わく内ないで再分配さいぶんぱいを進すすめる立場たちば。この語ごが要いるのは、社会しゃかい主義しゅぎが「体制たいせいの転覆てんぷく」と結むすびつきすぎたからだ。128 の修正しゅうせい資本しほん主義しゅぎとはほとんど同おなじ政策せいさくを別べつの側がわから呼よんだ名なであり、どちらの語ごを選えらぶかは出発点しゅっぱつてんの宣言せんげんになる。
  • 社会しゃかい主義しゅぎリアリズム芸術げいじゅつに降おりた形かたち芸術げいじゅつは労働者ろうどうしゃを鼓舞こぶし、社会しゃかい主義しゅぎの建設けんせつに役やく立たつべきだとする方針ほうしん。この結むすびつきが評ひょう論文ろんぶんで引ひかれるのは、正ただしい目的もくてきが表現ひょうげんの自由じゆうを握にぎり潰つぶす典型例てんけいれいだからである。138 の全体ぜんたい主義しゅぎと地続じつづきであり、芸術げいじゅつの統制とうせいは左右さゆうを問とわずに起おきることを示しめす。
格かく中なか

書かき言葉ことば・会話かいわの両方りょうほうで使つかえる。

類るい語ごと差さ
  • 資本しほん主義しゅぎ生産せいさん手段しゅだんを私有しゆうする☑128。対たい語ご。
  • 共産主義きょうさんしゅぎ階級かいきゅうと国家こっかが消きえた最終さいしゅう段階だんかい社会しゃかい主義しゅぎのさらに先さきに置おかれる理想りそう状態じょうたい。段階だんかいが違ちがう。
  • マルクス主義しゅぎマルクスの理論りろん体系たいけい思想しそうの名な。社会しゃかい主義しゅぎはより広ひろく、マルクス以前いぜんの潮流ちょうりゅうも含ふくむ。
  • 福祉ふくし国家こっか再分配さいぶんぱいで格差かくさを是正ぜせいする国家こっか資本しほん主義しゅぎの枠わく内ないでの修正しゅうせい。社会しゃかい主義しゅぎとは前提ぜんていが違ちがう。

ENsocialism
ZH社会主义(社会主義, shèhuì zhǔyì)

入試にゅうし文ぶん

すでに一いち九きゅう七なな〇年代ねんだいから広ひろまっている「先進国せんしんこくと後進こうしん国こく」が、「情報じょうほう化か社会しゃかい」で今いま再ふたたび問とい直なおされる理由りゆうとして、国際こくさい情勢じょうせいの変化へんかをあげることができます。
一いち九きゅう八はち〇年代ねんだい末まつから九きゅう〇年代ねんだい初はじめにかけての冷戦れいせん終結しゅうけつと東ひがし側がわ世界せかい崩壊ほうかいによって、国際こくさい秩序ちつじょが大おおきく変化へんかし、米国べいこくの経済的けいざいてき・軍事ぐんじ的てき覇権はけんが成立せいりつしました。
それと平行へいこうして、これまで表ひょうに出でてこなかった地球ちきゅう上じょうの人々ひとびとの民族みんぞく的てき・言語的げんごてきな多様性たようせいが顕在化けんざいかしてきたのもまた事実じじつです。
つまり、冷戦れいせん時代じだいは、地球ちきゅう上じょうのあらゆる人々ひとびとは、西にし側がわか東ひがし側がわか、資本しほん主義しゅぎか社会しゃかい主義しゅぎか、二ふたつの近代的きんだいてきイデオロギーのいずれかを選択せんたくしなくてはならなかったわけですが、今いまや、独自どくじの文化ぶんかや言語げんごの主張しゅちょうをすることが可能かのうになったのです。
特とくに、長ながいあいだ植民地しょくみんち化かされていた開発かいはつ途上とじょう国こくでは、ようやくみずからの文化ぶんか的てきアイデンティティを見直みなおし始はじめていると言いってよいでしょう。
「ポスト・コロニアリズム」という思考しこうが一いち九きゅう九きゅう〇年代ねんだいに入はいってにわかに脚光きゃっこうを浴あびつつあるのです。
※ポスト・コロニアリズム:植民地しょくみんち支配しはいが終おわったあとの文化ぶんか状況じょうきょうを指さす。

出典しゅってん 西垣にしがき通つう『こころの情報じょうほう学がく』 / 出題しゅつだい 愛あい知ち教育きょういく大学だいがく・教育学きょういくがく部ぶ

読解どっかいのポイント
  • 冷戦れいせん時代じだい
  • 資本しほん主義しゅぎか社会しゃかい主義しゅぎかを選択せんたくしなければならなかった 冷戦れいせん終結しゅうけつ・東ひがし側がわ世界せかいの崩壊ほうかい ↓ 現在げんざい
  • 開発かいはつ途上とじょう国こくが、独自どくじの文化ぶんかや言語げんごを主張しゅちょうすることが可能かのう
要約ようやく

冷戦れいせんの終結しゅうけつによって国際こくさい秩序ちつじょが変化へんかしたため、地球ちきゅう上じょうの人々ひとびとの民族みんぞく的てき・言語的げんごてきな多様性たようせいが顕在化けんざいかし、長ながいあいだ植民地しょくみんち化かされていた地域ちいきが、独自どくじの文化ぶんかや言語げんごを主張しゅちょうすることが可能かのうになった。

語ご法ほうの観察かんさつ

理念りねんを述のべたあとに歴史的れきしてきな経過けいかを置おく。理念りねんと現実げんじつの落差らくさそのものが主題しゅだいになっている。

生産手段を私有・国有・社会的共有のどれに置くかで体制が分かれることを示した図工場や土地といった生産手段を、個人が所有するのが資本主義、国家が所有するのが二十世紀の現存した社会主義、働く者たちが共同で所有するのが本来構想された社会化である。 工場を、誰が持つか私有個人が持ち、売れる→ 資本主義国有国家国家が持ち、計画する→ 現存した社会主義共有働く者たちが共に持つ→ 本来構想された社会化二十世紀に実現したのは、真ん中の形だった持ち主が個人から国家へ移っただけなら、働く者から見た関係は、そう変わらない「社会主義は失敗した」と読むとき、どの段が失敗したのかを問う
生産せいさん手段しゅだんを誰だれが持もつか
Section 11

功利こうり主義しゅぎ

130★★

功利主義こうりしゅぎ

こうりしゅぎ[0]平板へいばん型がた

語ご構成こうせい
功こうてがら・はたらき+利りりえき+主義しゅぎ立場たちば
定義ていぎ

社会しゃかい全体ぜんたいの利益りえきや幸福こうふくの追求ついきゅうを最善さいぜんとする考かんがえ方かた。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑130
原げん書しょの解説かいせつ

「功利こうり」は、快楽かいらくを求もとめ苦痛くつうを避さける人間にんげんの傾向けいこうを意味いみする。

つまり功利こうり主義しゅぎとは、〈人間にんげんが、より多おおくの利益りえきや幸福こうふくとより少すくない苦痛くつうを得えることを追おい求もとめるもの〉なのである。

また、利己りこ主義しゅぎという言葉ことばもあるが、功利こうり主義しゅぎとは意味いみが異ことなる。

利己りこ主義しゅぎとは、〈社会しゃかい全体ぜんたいの利益りえきなどは考かんがえず、自身じしんの利益りえきや欲求よっきゅうを満みたすことを重視じゅうしする〉という立場たちばをとる。

なお、功利こうり主義しゅぎの考かんがえを最もっとも象徴的しょうちょうてきに示しめす「最大さいだい多数たすうの最大さいだい幸福こうふく」という語ごはジェレミ・ベンサム(1748〜1832年ねん)が唱となえたものだが、多数たすうの幸福こうふくのために少数しょうすうを犠牲ぎせいにしてしまうという問題もんだい点てんもはらんでいる。

使用しようの境界きょうかい

行為こういの善悪ぜんあくを、それがもたらす幸福こうふくの総量そうりょうで判断はんだんする立場たちば。自分じぶんの利益りえきだけを考かんがえる態度たいどとは違ちがう。

用法ようほう

日常にちじょう語ごの「功利こうり的てき」が打だ算さん的てきという否定ひてい語ごであるため、倫理学りんりがくの立場たちばとしての功利こうり主義しゅぎと混同こんどうされやすい。功利こうり主義しゅぎはむしろ、身分みぶんや信条しんじょうにかかわらず一人ひとりを一人ひとりとして数かぞえる点てんで平等びょうどう主義しゅぎ的てきであり、近代きんだいの改革かいかくを支ささえた。批判ひはんの焦点しょうてんは、幸福こうふくの総量そうりょうが増ふえるなら少数しょうすうの犠牲ぎせいを正当化せいとうかしかねない点てんにある。ここで☑127 民みん主しゅ主義しゅぎの「多数たすうの専制せんせい」と同おなじ問題もんだいが現あらわれる。読解どっかいでは、肯定的こうていてきに紹介しょうかいされているか批判ひはんされているかを見みる。

用例ようれい
  • 自然しぜんは人類じんるいを、苦痛くつうと快楽かいらくという二人ふたりの主権しゅけん者しゃの支配しはいのもとに置おいた。我々われわれが何なにをなすべきかを指さし示しめすのも、我々われわれが何なにをなすであろうかを決定けっていするのも、ただこの二人ふたりだけである。ジェレミ・ベンサム『道徳どうとくおよび立法りっぽうの諸しょ原理げんり序説じょせつ』第一だいいち章しょう(1789)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    倫理りんりの根拠こんきょを、神かみからも理性りせいからも取とり上あげて感覚かんかくに置おいた宣言せんげんである。「主権しゅけん者しゃ」という政治せいじの語ごを快かい苦にがに使つかったところが巧こうい — これは比喩ひゆではなく、正統性せいとうせいの移譲いじょうの宣言せんげんだからだ。さらに一文いちぶんの中なかで「なすべきか」と「なすであろうか」が並ならべられていることに注意ちゅういしたい。前者ぜんしゃは規範きはん、後者こうしゃは事実じじつである。1-4 の 87 で見みた「である」と「べきである」の継つぎ目めを、ベンサムは一息ひといきでまたいでいる。これを鮮あざやかと見みるか強引ごういんと見みるかで、功利こうり主義しゅぎの評価ひょうかは分わかれる。快かい苦にがが測はかれるという前提ぜんていの上うえに、道徳どうとくを計算けいさん可能かのうにした — 121 の近代きんだい合理主義ごうりしゅぎが倫理りんりに及およんだ姿すがたがここにある。
  • 満足まんぞくした豚ぶたであるよりは、不満足ふまんぞくな人間にんげんであるほうがよい。満足まんぞくした愚者ぐしゃであるよりは、不満足ふまんぞくなソクラテスであるほうがよい。ジョン・スチュアート・ミル『功利こうり主義しゅぎ論ろん』第だい二に章しょう(1863)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    功利こうり主義しゅぎを、内側うちがわから作つくり直なおした一句いっくである。ベンサムの計算けいさんでは、快楽かいらくは量りょうだけで比くらべられるはずだった。その体系たいけいにミルは質しつという軸じくを差さし込こむ。差さし込こんだ瞬間しゅんかんに、体系たいけいは揺ゆれる — 質しつの高こう低ていは、誰だれが判定はんていするのか。ミルの答こたえは「両方りょうほうを知しっている者もの」だが、これは計算けいさんによる道徳どうとくという当初とうしょの魅力みりょくを手放てばなすことでもあった。注目ちゅうもくしたいのは、この一句いっくが二に段だん構かまえになっていることだ。豚ぶたと人間にんげんで種しゅの差さを言いい、愚者ぐしゃとソクラテスで同おなじ人間にんげんの中なかの差さを言いう。一段いちだん目めは誰だれでも頷うなずくが、二に段だん目めに頷うなずいた瞬間しゅんかん、人ひとの生せいの優劣ゆうれつを認みとめたことになる。功利こうり主義しゅぎの一番いちばん危あやうい場所ばしょに、ミル自身じしんが名文めいぶんで踏ふみ込こんでいる。
  • 功利こうり主義しゅぎは、行為こういの善悪ぜんあくを、動機どうきではなく結果けっかの総量そうりょうで判定はんていする。 結果けっか説せつであることがこの立場たちばの一次いちじ的てきな特徴とくちょうである。善意ぜんいから出でた行為こういでも不幸ふこうを増ふやせば悪あくになる。これは苛烈かれつだが、公共こうきょう政策せいさくを論ろんじる言語げんごとしては極きわめて強力きょうりょくだ。費用ひよう便益べんえき分析ぶんせきは功利こうり主義しゅぎの直系ちょっけいである。
  • ×自分じぶんの得とくだけを考かんがえる、功利こうり主義しゅぎ的てきな人ひとだ。 「功利こうり」の字面じづらに引ひきずられた誤ご用ようである。功利こうり主義しゅぎが最大化さいだいかするのは関係者かんけいしゃ全体ぜんたいの幸福こうふくであって、自分じぶんの利益りえきではない。自分じぶんの得とくだけなら「利己りこ主義しゅぎ」「打だ算さん的てき」。むしろ功利こうり主義しゅぎは自分じぶんの幸福こうふくを他人たにんの幸福こうふくと同おなじ一いち票ひょうとして数かぞえる点てんで、きわめて厳きびしい立場たちばである。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

関せき 利己りこ主義しゅぎ

派生はせい形けい
  • 功利こうり[1]utility の訳語やくご。「功こう」は効果こうか、「利り」は益ます。日本語にほんごの「功利こうり的てき」に打だ算さん的てきという悪わるい含ふくみが付ついたのは、訳語やくごの字面じづらのせいであって原語げんごには無ない。訳語やくごが概念がいねんの受うけ取とられ方ほうを変かえた例れいである。
  • 効用こうよう[0]経済学けいざいがくにおける同おなじ語ごの訳やく。utility を倫理学りんりがくでは「功利こうり」、経済学けいざいがくでは「効用こうよう」と訳やくし分わけてきた。同おなじ概念がいねんが、分野ぶんやをまたぐと別べつの語ごになる。「効用こうようの最大化さいだいか」と「最さい大多数だいたすうの最大さいだい幸福こうふく」は親戚しんせきである。
  • 功利主義的こうりしゅぎてき[0]方法ほうほうの性格せいかくを言いう形かたち。「功利こうり主義しゅぎ的てきな発想はっそう」は結果けっかの総量そうりょうで判断はんだんする構かまえを指さす。「功利こうり的てき」との一いち字じの差さが意味いみを反転はんてんさせる — 前者ぜんしゃは倫理りんりの立場たちば、後者こうしゃはほぼ打だ算さんの意いになる。
コロケーション
  • 最大さいだい多数たすうの最大さいだい幸福こうふく標語ひょうごとしての語ご功利こうり主義しゅぎを一句いっくで表あらわした言いい方かた。実じつは二ふたつの最大化さいだいかが同時どうじに入はいっていて、両立りょうりつしないことがある。幸福こうふくの総量そうりょうを最大さいだいにする配分はいぶんと、幸福こうふくな人数にんずうを最大さいだいにする配分はいぶんは一致いっちしないからだ。ベンサム自身じしんが後年こうねんこの表現ひょうげんを退しりぞけたのはそのためで、標語ひょうごの切きれ味あじと理論りろんの厳密げんみつさは別物べつものである。
  • 少数しょうすう者しゃの犠牲ぎせい功利こうり主義しゅぎを撃うつ語ご総量そうりょうが増ふえるなら少数しょうすうの不幸ふこうは許容きょようされるという帰結きけつ。これが功利こうり主義しゅぎへの最大さいだいの反論はんろんである。注意ちゅういしたいのは、この反論はんろんは総量そうりょう計算けいさんが間違まちがっていると言いっていないことだ。計算けいさんが正ただしくてもなお許ゆるされないものがあると言いっている。123 の個人こじんの尊厳そんげんが、ここで功利こうり主義しゅぎの壁かべとして立たつ。
  • 功利こうり計算けいさん道具どうぐとしての語ご快かい苦にがを数かぞえ上あげて比較ひかくする手続てつづき。批判ひはんの的まとになりやすいが、これなしに公共こうきょうの意思決定いしけっていはできないのも事実じじつだ。予算よさんをどこに配くばるかを決きめるとき、我々われわれは否応いやおうなく功利こうり計算けいさんをしている。問題もんだいは計算けいさんすることではなく、計算けいさんに載のらないものをゼロとして扱あつかってしまうことである。
  • 規則きそく功利こうり主義しゅぎ難点なんてんをかわす形かたち個々ここの行為こういではなく、規則きそくの善ぜんし悪あくしを結果けっかで判定はんていする立場たちば。「嘘うそをつくな」という規則きそくを守まもるほうが長ながい目めで幸福こうふくが増ふえるなら、その場ばでは損そんでも守まもる。これによって少数しょうすう者しゃの犠牲ぎせいという反論はんろんをかなり防ふせげる。理論りろんが批判ひはんに応おうじて形かたちを変かえていく、その実例じつれいとして見みておきたい。
格かく硬かた・学術がくじゅつ

論文ろんぶん・評ひょう論ろんでのみ使つかう。会話かいわでは不自然ふしぜん。

類るい語ごと差さ
  • 利己りこ主義しゅぎ自分じぶんの利益りえきを優先ゆうせんする混同こんどうされやすい最大さいだいの相手あいて。功利こうり主義しゅぎは全体ぜんたいの幸福こうふくを計算けいさんする。
  • 義務ぎむ論ろん行為こういそのものの正ただしさを問とうカント。結果けっかを問とわない。功利こうり主義しゅぎは結果けっかで判断はんだんする。
  • 実じつ利り主義しゅぎ実際じっさいの役やく立たちを重おもんじる日常的にちじょうてきな態度たいど。功利こうり主義しゅぎは倫理学りんりがくの立場たちば。
  • 最大さいだい多数たすうの最大さいだい幸福こうふく功利こうり主義しゅぎの標語ひょうごベンサム。判断はんだんの基準きじゅんを一文いちぶんで示しめしたもの。

ENutilitarianism
ZH功利主义(功利主義, gōnglì zhǔyì)

功利主義の計算と、その限界幸福の総量で判断する功利主義が、少数の犠牲を正当化しかねないことを示した図。 最大多数の最大幸福 八人が得をする 二人が損をする 総量は増える 評価される点 身分や信条にかかわらず、一人を一人として数える。近代の改革を支えた。 批判される点 総量が増えるなら、少数の犠牲が正当化されうる。多数の専制と同じ形をしている。
幸福こうふくの総量そうりょうで判断はんだんするということ
入試にゅうし文ぶん

功利こうり主義しゅぎの考かんがえ方かたにはいくつかの問題もんだい点てんがあります。
第一だいいちに、功利こうり主義しゅぎでは幸福こうふくないし欲望よくぼう充足じゅうそくの度合どあいが数値すうちによって計測けいそくされ、しかも異ことなる個人こじんの間あいだでもその数値すうちを比較ひかくすることに意味いみがあると考かんがえていますが、その根拠こんきょは薄うすいといわざるを得とくません。
たとえば、「あなたがこのケーキを食たべたときの幸福こうふくの増加ぞうか量りょうは10だが、私わたしが食たべたときの幸福こうふくの増加ぞうか量りょうは20で、あなたの二に倍ばいあるから私わたしが食たべるべきだ」と主張しゅちょうしても、相手あいては納得なっとくしないでしょう。
幸福こうふくや欲望よくぼう充足じゅうそくは主観的しゅかんてきな感覚かんかくですから、その度合どあいを客観的きゃっかんてきな数量すうりょうとして計測けいそくすることは困難こんなんです。
二〇にれい世紀せいき以降いこうの経済学けいざいがくが功利こうり主義しゅぎをベースとしない理論りろんを構築こうちくしようとしてきたのは、客観的きゃっかんてきに観測かんそく可能かのうな概念がいねんに基もとづいて科学かがくは築きずかれるべきだと考かんがえたからです。

出典しゅってん 塩沢しおざわ由典よしのり『幸福こうふくのための経済学けいざいがく――効率こうりつと衡平こうへいの考かんがえ方かた』 / 出題しゅつだい 大阪大学おおさかだいがく・経済学部けいざいがくぶ・法学部ほうがくぶ・外国語がいこくご学部がくぶなど

読解どっかいのポイント
  • 功利こうり主義しゅぎ
  • 幸福こうふくや欲望よくぼう充足じゅうそくの度合どあいを数値すうちで計測けいそく
  • 異ことなる個人こじん間かんでも数量すうりょうとして比較ひかく ↓ 問題もんだい点てん
  • 主観的しゅかんてきな幸福こうふくを客観的きゃっかんてきな数値すうちとして計測けいそくすることは困難こんなん ↓ 経済学けいざいがく
  • 功利こうり主義しゅぎをベースとしない理論りろんを構築こうちく
要約ようやく

功利こうり主義しゅぎでは幸福こうふくや欲望よくぼう充足じゅうそくの度合どあいが数値すうちで計測けいそくされ、数値すうちの比較ひかくもされるが、主観的しゅかんてきな感覚かんかくを客観的きゃっかんてきな数量すうりょうとして計測けいそくすることは困難こんなんである。そのため経済学けいざいがくは、功利こうり主義しゅぎをベースとしない理論りろんを構築こうちくしようとしてきた。

語ご法ほうの観察かんさつ

標語ひょうごを先さきに掲かかげ、そのあとで中身なかみを解とく。よく知しられた一文いちぶんから入はいることで誤解ごかいを先さきに潰つぶしている。

Section 12

ヒューマニズム

131★★

ヒューマニズム

ヒューマニズム[4]中高なかだか型がた

定義ていぎ

① 人間にんげんらしさを尊重そんちょうして、人類じんるいの普遍的ふへんてきな幸福こうふくを求もとめる態度たいど。人道じんどう主義しゅぎ。 ② 人間にんげん本ほん位いの思想しそう。人間にんげん中心ちゅうしん主義しゅぎ。 ③ 人文じんぶん主義しゅぎ。古典的こてんてき教養きょうように人間にんげんの理想りそう像ぞうを求もとめ、人間にんげん形成けいせいをはかる立場たちば。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑131
原げん書しょの解説かいせつ

ヒューマニズムは、ギリシア・ローマの古典こてんを通つうじて人格じんかく的てきな人間にんげん形成けいせいをはかる立場たちばを表あらわす語ごとして、十九じゅうきゅう世紀せいきドイツで作つくられた言葉ことばである。

ルネサンスの思想しそうの特徴とくちょうをヒューマニズムと言いうのも、こうした用法ようほうによるが、この場合ばあいのヒューマニズムは人文じんぶん主義しゅぎと訳やくす(③)。

このような用法ようほうを基礎きそとしながら、時代じだいが下くだるにつれ、人間にんげん性せいの尊重そんちょう、人道じんどう主義しゅぎという意味いみとしても用もちいられるようになった(①)。

一方いっぽう、現代げんだい思想しそうの分野ぶんやでは、ヒューマニズムは「人間にんげん中心ちゅうしん主義しゅぎ」を意味いみし、批判ひはんの対象たいしょうとなりやすい言葉ことばだ(②)。

近代的きんだいてきな人間にんげん観かんによれば、人間にんげんとは理性りせいをもつ存在そんざいのことである。理性りせいを正ただしく用もちいれば、どのような問題もんだいでも解決かいけつできる。

こうした態度たいどによって、人間にんげんを頂点ちょうてんとするヒエラルキー(序列じょれつ)ができ上あがり、人間にんげんを頂点ちょうてんとするヒエラルキーは、自然しぜんを人間にんげんのために支配しはいする思想しそうにつながった。

また、現代げんだいの思想家しそうかや哲学者てつがくしゃたちは、近代きんだいが人間にんげん本ほん位い的てきな考かんがえ方かたから成立せいりつしていること、あるいはヒューマニズムがヨーロッパ中心ちゅうしん主義しゅぎ的てきな考かんがえを基礎きそにしていることなどを批判ひはんしている。

使用しようの境界きょうかい

人間にんげんを中心ちゅうしんに置おき、その尊厳そんげんと可能性かのうせいを重おもんじる立場たちば。単たんなる人ひと助たすけや思おもいやりではない。

用法ようほう

訳語やくごが人文じんぶん主義しゅぎ・人道じんどう主義しゅぎ・人間にんげん中心ちゅうしん主義しゅぎと三みっつあり、どれを当あてるかで評価ひょうかが反転はんてんする。ルネサンスの人文じんぶん主義しゅぎとして語かたられれば近代きんだいの出発点しゅっぱつてんとして肯定こうていされ、人間にんげん中心ちゅうしん主義しゅぎとして語かたられれば環境かんきょう破壊はかいと動物どうぶつの搾取さくしゅの元凶げんきょうとして批判ひはんされる。評ひょう論文ろんぶんで後者こうしゃの用法ようほうが増ふえているのが現代げんだいの特徴とくちょうで、☑81 アニミズムや生態学せいたいがく的てきな思想しそうが対置たいちされる。日常にちじょう語ごの「ヒューマニズム」=思おもいやり、とは層そうが違ちがう。

用例ようれい
  • アダムよ、われは汝なんじに定さだまった住処すみかも、固有こゆうの姿すがたも、いかなる特有とくゆうの務つとめも与あたえなかった。……汝なんじが望のぞむところに従じゅうい、汝なんじが判断はんだんするところに従したがって、汝なんじは自みずからの本性ほんしょうを得えるためである。ピコ・デラ・ミランドラ『人間にんげんの尊厳そんげんについて』(1486)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    人間にんげんの尊厳そんげんを、与あたえられた優秀ゆうしゅうさではなく「決きまっていないこと」に置おいた一節いっせつである。普通ふつうなら、尊厳そんげんの根拠こんきょは神かみに似にていることや理性りせいを持もつことに求もとめられる。ピコはそこを外はずして、何なにも与あたえられていないことを根拠こんきょにした。この転回てんかいが重おもいのは、尊厳そんげんが達成たっせいではなく可能性かのうせいに据すえられたからだ。達成たっせいに据すえれば、達成たっせいできない人ひとの尊厳そんげんが薄うすくなる。可能性かのうせいに据すえれば、誰だれからも取とり上あげられない。また「自みずからの本性ほんしょうを得えるため」という言いい方かたは、本性ほんしょうが先さきにあってそれを実現じつげんするのではなく、選えらぶことで本性ほんしょうができると言いっている点てんで、1-5 の実存じつぞんの議論ぎろんを四百年よんひゃくねん先取さきどりしている。
  • 私わたしは人間にんげんである。人間にんげんに関かかわることで、私わたしに無縁むえんなものは何なにひとつない。プブリウス・テレンティウス・アフェル『自虐じぎゃく者しゃ』(前まえ163)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    ヒューマニズムの標語ひょうごとして千せん年ねん以上いじょう引ひかれ続つづけてきた一句いっくである。文脈ぶんみゃくを知しると味あじわいが変かわる — これは「他人たにんの家いえのことに口くちを出だすな」と言いわれた老人ろうじんが言いい返かえした台詞せりふで、もとはお節介せっかいの弁明べんめいだった。喜劇きげきの一行いちぎょうが、人類じんるいの連れん帯たいの宣言せんげんとして読よみ替かえられていった。この読よみ替かえ自体じたいがヒューマニズムという運動うんどうの性格せいかくを示しめしている — ルネサンスの人文主義者じんぶんしゅぎしゃたちは古代こだいの断片だんぺんを掘ほり出だし、自分じぶんたちの必要ひつように合あわせて意味いみを与あたえ直なおしたのだ。引用いんようとは、過去かこの言葉ことばを現在げんざいの陣じん地ちへ引ひき込こむ作業さぎょうでもある。
  • ヒューマニズムは、人間にんげんを万物ばんぶつの中心ちゅうしんに据すえたがゆえに、人間にんげん以外いがいを手段しゅだんに落おとした。 現代げんだいの環境かんきょう思想しそうが用もちいる批判ひはんの型かたである。長所ちょうしょと短所たんしょが同おなじ一手いってから出でていることを押おさえたい。人間にんげんに絶対ぜったいの価値かちを与あたえる操作そうさは、同時どうじに人間にんげん以外いがいから価値かちを引ひき上あげる操作そうさでもあった。中心ちゅうしんを立たてれば、周縁しゅうえんができる。
  • ×被ひ災さい地ちに募金ぼきんをするなんて、ヒューマニズムにあふれた行おこないだ。 この場面ばめんで言いいたいのは「人道的じんどうてき」「博愛はくあい」である。評ひょう論語ろんごのヒューマニズムはルネサンス以降いこう、人間にんげんを価値かちの中心ちゅうしんに据すえてきた思想しそうの系譜けいふを指さす。親切しんせつさの度合どあいを測はかる語ごではない。ただし「人道じんどう主義しゅぎ」という訳語やくごもあるため、どちらの意味いみかは文脈ぶんみゃくで決きめる。
派生はせい形けい
  • ヒューマニスト[4]二ふたつの層そうがある。歴史れきし用語ようごとしてはルネサンスの人文学じんぶんがく者しゃ、日常にちじょう語ごとしては人情にんじょうに厚あつい人ひと。評ひょう論文ろんぶんでは前者ぜんしゃ、会話かいわでは後者こうしゃで使つかわれるので、どちらか迷まよったら時代じだいの話はなしかを見みる。
  • 人間性にんげんせい[0]二ふたつの向むきに使つかえる。①人間にんげんに共通きょうつうの本質ほんしつ(人間にんげん性せいの回復かいふく)、②人ひと柄がらのよさ(人間にんげん性せいを疑うたがう)。評ひょう論文ろんぶんでは①で、失うしなわれたものとして語かたられることが多おおい。「回復かいふく」と結むすびつくのは、あったものが奪うばわれたという物語ものがたりを前提ぜんていにしているからだ。
  • 人道じんどう[0]行おこないの側がわの語ご。「人道じんどう支援しえん」「人道じんどうに対たいする罪つみ」のように国際こくさい法ほう・実務じつむの語彙ごいとして定着ていちゃくした。思想しそうの名なとしてのヒューマニズムより射程しゃていが狭せまく、そのぶん争あらそいが少すくない。実務じつむ語ごが思想しそう語ごより合意ごういを得とくやすい例れいである。
コロケーション
  • 人間にんげん中心ちゅうしん主義しゅぎ批判ひはんされる側がわの名なヒューマニズムを、外そとから名なづけ直なおした語ご。同おなじ思想しそうが、内ないから呼よべばヒューマニズム、外そとから呼よべば人間にんげん中心ちゅうしん主義しゅぎになる。名なづけがそのまま評価ひょうかになっている典型例てんけいれいである。1-4 の 75 で見みた自じ文化ぶんか中心ちゅうしん主義しゅぎと同おなじ構文こうぶんで作つくられた語ごであることにも気きづいておきたい。
  • 人文じんぶん主義しゅぎ訳語やくごとしての語ごルネサンス期きの humanism の訳やく。神学しんがくに対たいして古典こてんの文ぶん芸げいを学まなぶ立場たちばを指さす。同おなじ語ごを「人道じんどう主義しゅぎ」と訳やくせば倫理りんりの話はなしになり、「人文じんぶん主義しゅぎ」と訳やくせば学問がくもんの話はなしになる。訳語やくごの選択せんたくが、そのまま論点ろんてんの選択せんたくになる。
  • ヒューマニズムの限界げんかい外側そとがわを示しめす語ご人間にんげんの尊厳そんげんを守まもる思想しそうが、人間にんげんの範囲はんいを決きめる権限けんげんも同時どうじに持もってしまうという問題もんだい。歴史的れきしてきには奴隷どれい・女性じょせい・先住民せんじゅうみんが「人間にんげん」の外そとに置おかれてきた。誰だれを人間にんげんと数かぞえるかをこの思想しそう自身じしんは決きめられない — ここが最もっとも鋭するどい批判ひはん点てんである。
  • 反はんヒューマニズム二十にじゅう世紀せいきの語ご人間にんげんを中心ちゅうしんに据すえる見方みかたそのものを退しりぞける立場たちば。構造こうぞう主義しゅぎがその代表だいひょうで、人間にんげんが言語げんごや構造こうぞうを使つかっているのではなく、構造こうぞうが人間にんげんを通とおして働はたらいていると見みる。1-3 の分節ぶんせつと、1-7 のポストモダンをつなぐ線せんがこの語ごを通とおっている。
格かく中なか

書かき言葉ことば・会話かいわの両方りょうほうで使つかえる。

類るい語ごと差さ
  • 人道じんどう主義しゅぎ苦くるしむ人ひとを救すくおうとする立場たちば訳語やくごの一ひとつ。倫理的りんりてきな実践じっせんに重心じゅうしんがある。
  • 人文じんぶん主義しゅぎ古典こてんを通つうじて人間にんげんを探究たんきゅうするルネサンスの運動うんどう。訳語やくごの一ひとつ。神学しんがくから人間にんげんへ関心かんしんを移うつした。
  • 人間にんげん中心ちゅうしん主義しゅぎ人間にんげんを万物ばんぶつの中心ちゅうしんに置おく訳語やくごの一ひとつ。環境かんきょう思想しそうからは批判ひはんの対象たいしょうになる。
  • 博愛はくあい広ひろく人ひとを愛あいする感情かんじょうと態度たいど。ヒューマニズムは思想しそう上じょうの立場たちば。

ENhumanism
ZH人文主义(人文主義, rénwén zhǔyì)

入試にゅうし文ぶん

そういうわけで私わたしは、近代きんだい化かを「世俗化せぞくか」の過程かてい、「神かみを失うしなう過程かてい」としてまとめうると思おもうのですが、とくに言いいたいことは、それが人間にんげんの勝手かってな都合つごうによって結果けっかした状況じょうきょうではないかということであります。
自然しぜんの生態系せいたいけいを無視むしして、川かわをせき止とめ巨大きょだいなダムを作つくったり、山やまを削けずってアスファルト道路どうろを作つくったり、生いきものたちを絶滅ぜつめつの危機ききにまで追おいやって森林しんりんを伐採ばっさいしたり、勝手かってに新あたらしい生いきものをこの世よに遺伝子いでんし操作そうさを通つうじて作つくりだしたり、例れいはいくらでもあります。
その身勝手みがってな人間にんげん中心ちゅうしん主義しゅぎを、私わたしは、いわゆる近代きんだいのヒューマニズム(人間にんげん主義しゅぎ)からは区別くべつしたいのです。
ヒューマニズムというのは、人間にんげん性せいを尊重そんちょうし、人間にんげん的てきなものを拡大かくだいする近代きんだい思想しそうの有力ゆうりょくなひとつであります。
そのヒューマニズムが、近代きんだい工業こうぎょう技術ぎじゅつ文明ぶんめいとともに、勝手かってな人間にんげん本ほん位いの思想しそう、思おもいあがった人間にんげん主義しゅぎへと転化てんかしてきたのではないでしょうか。
それを、私わたしは、「人間にんげん中心ちゅうしん主義しゅぎ(anthropocentrism)」と呼よんで、近代きんだい化かの過程かていにおいて真剣しんけんに反省はんせいされるべきイデオロギーではないかと思おもうのです。

出典しゅってん 西にし川かわ富雄とみお『環境かんきょう哲学てつがくへの招待しょうたい』 / 出題しゅつだい 名古屋なごや大学だいがく

読解どっかいのポイント
  • 近代きんだいのヒューマニズム(人間にんげん主義しゅぎ)
  • 人間にんげん性せいを尊重そんちょうし、人間にんげん的てきなものを拡大かくだいする近代きんだい思想しそう +近代きんだい工業こうぎょう技術ぎじゅつ文明ぶんめい ↓ 人間にんげん中心ちゅうしん主義しゅぎ
  • 勝手かってな人間にんげん本ほん位いの思想しそう
  • 思おもいあがった人間にんげん主義しゅぎ
要約ようやく

ヒューマニズムが近代きんだい工業こうぎょう技術ぎじゅつ文明ぶんめいとともに転化てんかしたものである人間にんげん中心ちゅうしん主義しゅぎは、人間にんげん性せいを尊重そんちょうする近代きんだいのヒューマニズムからは区別くべつして、真剣しんけんに反省はんせいすべきイデオロギーである。

語ご法ほうの観察かんさつ

訳語やくごを並ならべて示しめすことで、語ごの幅はばそのものを説明せつめいにしている。訳やくし方ほうが立場たちばを決きめるという構造こうぞう。

人間を価値の中心に据えると、外側が手段の領域として生じることを示した同心円の図中心に人間を置く価値の配置を同心円で示し、内側ほど目的として扱われ、外側ほど手段として扱われることを表す。中心の円の内側にも、誰を人間と数えるかという線が引かれてきた。 中心を立てれば、外側ができる人間動物・生物自然・物目的として手段としてここまでが、外へ向かう線であるしかし内側にも線は引かれてきた ──奴隷・女性・先住民・「未開」の人々は、長らく中心の円の外に置かれていた誰を人間と数えるかを、この思想は自分では決められない
人間にんげん中心ちゅうしんという配置はいち
Section 13

ニヒリズム

132★★

ニヒリズム

ニヒリズム[3]中高なかだか型がた

定義ていぎ

真理しんりや道徳的どうとくてき価値かちを否定ひていする考かんがえ方かた。虚無きょむ主義しゅぎ。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑132
原げん書しょの解説かいせつ

ニヒリズムの考かんがえ方かたでは、一切いっさいは「虚無きょむ」であり、すべての事柄ことがらは勝手かってな解釈かいしゃくにすぎないため、真理しんりや道徳どうとくや既成きせいの価値かち観かんには根拠こんきょがないことになる。

すべてが根拠こんきょを失うしなって相対そうたい化かし、価値かちを失うしなうというのがニヒリズムである。

たとえば

「なぜ人ひとを殺ころしてはいけないのか」や「なぜ働はたらかなければならないのか」といった問といに、究極きゅうきょく的てきには答こたえがないと考かんがえるのがニヒリズムである。

使用しようの境界きょうかい

真理しんりや道徳的どうとくてき価値かちには根拠こんきょがないとする考かんがえ方かた。悲観的ひかんてきな気分きぶんのことではない。

用法ようほう

虚無きょむ主義しゅぎと訳やくす。要点ようてんは、一切いっさいが解釈かいしゃくにすぎないとする点てんにある。「なぜ人ひとを殺ころしてはいけないのか」に究極きゅうきょく的てきな答こたえがない、と考かんがえるのがニヒリズムである。ニーチェは「神かみは死しんだ」としてこの事態じたいを告つげ、それを克服こくふくする道みちを探もとむった。評ひょう論文ろんぶんでは、近代きんだいが神かみという根拠こんきょを失うしなったあとの状態じょうたいとして語かたられ、☑26 相対そうたい主義しゅぎの徹底てっていした果はてに置おかれる。ペシミズムとの区別くべつが要点ようてんで、こちらは価値かちを認みとめたうえで悪わるいと見みる立場たちばである。

用例ようれい
  • 神かみは死しんだ。神かみは死しんだままだ。そして我々われわれが神かみを殺ころしたのだ。……我々われわれは、この大地だいちを太陽たいようから解とき放ほうってしまった。我々われわれはどこへ向むかって進すすんでいるのか。あらゆる太陽たいようから離はなれ去さるのではないか。フリードリヒ・ニーチェ『悦よろこばしき知識ちしき』第一だいいち二に五ご節せつ(1882)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    ニヒリズムの到来とうらいを告つげた最もっとも有名ゆうめいな一節いっせつである。誤読ごどくされやすいのは、これが勝利しょうりの宣言せんげんではないことだ。語かたっているのは「狂人きょうじん」で、周囲しゅういの人々ひとびとは笑わらっている。笑わらえるのは、自分じぶんが何なにを失うしなったかまだ気きづいていないからだ。狂人きょうじんだけが震ふるえている。天文てんもんの比喩ひゆが効きいているのはここである — 神かみを殺ころすとは、大地だいちを太陽たいようから切きり離はなすことだ。中心ちゅうしんを失うしなった地球ちきゅうは自由じゆうになるのではなく、どちらが上うえかも分わからないまま漂ひょうう。ニヒリズムとは無神論むしんろんのことではない。価値かちを測はかる座標ざひょうそのものが無なくなった状態じょうたいである。1-5 の 13 で見みた「軸じくから降おりる」という位置いちが、ここで実際じっさいに語かたられている。
  • 神かみがなければ、すべては許ゆるされる。フョードル・ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟きょうだい』(1880)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    ニヒリズムを、思想しそうではなく行為こういの水準すいじゅんで言いい当あてた一句いっくである。重要じゅうようなのは、これが仮定かてい法ほうで書かかれていることだ。「神かみはいない」ではなく「神かみがなければ」。命題めいだいの主張しゅちょうではなく、帰結きけつの警告けいこくとして置おかれている。作中さくちゅうでこの論理ろんりを口くちにした兄あには手てを下くださず、それを聞きいた者ものが実際じっさいに父ちちを殺ころす。ここに小説しょうせつの恐おそろしさがある — 思想しそうは語かたった本人ほんにんではなく、聞きいた者もののところで実現じつげんする。評ひょう論文ろんぶんがニヒリズムを扱あつかうとき、「価値かちが無ない」と言いうことの帰結きけつまで見みよと求もとめられるのは、この構造こうぞうによる。
  • ニヒリズムとは、価値かちが失うしなわれた状態じょうたいではなく、価値かちを支ささえてきた根拠こんきょが失うしなわれた状態じょうたいを指さす。 この区別くべつが読解どっかいの要かなめである。個々ここの価値かちはまだ残のこっている。ただ、なぜそれが価値かちなのかを言いう言葉ことばが消きえた。だから虚無きょむは荒廃こうはいとしてではなく、「なんとなく続つづいている日常にちじょう」として現あらわれることが多おおい。
  • ×何なにをやっても無駄むだな気きがして、最近さいきんニヒリズムに陥おちいっている。 個人こじんの一時的いちじてきな無力むりょく感かんは「虚無きょむ感かん」「無力むりょく感かん」である。ニヒリズムは一ひとつの時代じだい・文化ぶんかの価値かち基盤きばんが崩くずれた事態じたいを指さす思想史しそうしの語ごで、気分きぶんの名なではない。ただし「ニヒリスト」ならその事態じたいを引ひき受うけた人ひとを指ゆびせるので、人ひとには使つかえる。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

関せき ペシミズム/デカダンス

派生はせい形けい
  • ニヒリスト[4]担にない手てを指さす語ご。日本語にほんごでは冷笑れいしょう的てきな人ひとという軽かるい意味いみに流ながれやすいが、思想史しそうし上じょうは価値かちの崩壊ほうかいを真正面ましょうめんから引ひき受うけた人ひとを指さす。軽かるい用法ようほうと重おもい用法ようほうの落差らくさが大おおきい語ごのひとつ。
  • ニヒル[1]日本語にほんごで独自どくじに育そだった形かたち。「ニヒルな笑わらい」のように冷つめたく虚無きょむ的てきな雰囲気ふんいきを指さす形容けいよう動詞どうしとして定着ていちゃくした。思想しそうの内容ないようはほとんど残のこっていないので、評ひょう論文ろんぶんでは使つかわない。
  • 無む[1]東洋とうよう思想しそうの側がわの語ご。注意ちゅういしたいのは、老荘ろうそうや仏教ぶっきょうの「無む」はニヒリズムではないことだ。西洋せいようのニヒリズムがあったものが失うしなわれた欠如けつじょなら、東洋とうようの無むはすべてを生うむ場ばである。符号ふごうが逆ぎゃくだと覚おぼえておく。
コロケーション
  • 価値かちの転倒てんとうニーチェの手てつき既存きそんの価値かちを否定ひていするのではなく、その価値かちがどこから来きたかを暴あばくことで無効むこうにする方法ほうほう。「弱よわさが謙虚けんきょと呼よび替かえられた」と示しめせば、謙虚けんきょを否定ひていせずに謙虚けんきょの権威けんいを崩くずせる。評ひょう論文ろんぶんの批判ひはんの型かたとしていまも最もっとも強力きょうりょくな手てのひとつであり、出所でどころを知しっておく価値かちがある。
  • 能のう動的どうてきニヒリズム同おなじ語ごの二ふたつの顔かお価値かちの崩壊ほうかいを嘆なげくのではなく、新あたらしい価値かちを作つくる好機こうきとする立場たちば。対たいする受動じゅどう的てきニヒリズムは崩壊ほうかいの前まえで立たちすくむ。ニーチェが目指めざしたのは前者ぜんしゃだが、実際じっさいに広ひろまったのは後者こうしゃだった。思想しそうは、最もっとも受うけ取とりやすい形かたちで普及ふきゅうするという一いち例れいである。
  • ニヒリズムの克服こくふく要求ようきゅうとして現あらわれる語ごこの結むすびつきが繰くり返かえし現あらわれるのは、ニヒリズムが議論ぎろんでは倒たおせないからだ。「価値かちには根拠こんきょがない」という指摘してきに根拠こんきょで反論はんろんすれば、その根拠こんきょの根拠こんきょを問とわれる。だから克服こくふくは論証ろんしょうではなく、生いき方かたや創造そうぞうの水準すいじゅんで試こころみられることになる。
  • 虚無きょむ主義しゅぎ訳語やくごとしての語ご日本語にほんごでは明治めいじ期きからこの訳やくが使つかわれた。注意ちゅういしたいのは、ロシアで nihilism と呼よばれたのは既存きそんの権威けんいを否定ひていする若わかい改革者かいかくしゃたちだった点てんだ。ツルゲーネフ『父ちちと子こ』のバザーロフがその像ぞうである。同おなじ語ごが、行動的こうどうてきな革命かくめい家かと無む気力きりょくの代名詞だいめいしの両方りょうほうを指さしてきた。
格かく硬かた

書かき言葉ことば。会話かいわでは不自然ふしぜん。

類るい語ごと差さ
  • ペシミズム世界せかいを否定的ひていてきに捉とらえる☑102。価値かちは認みとめたうえで悪わるいと見みる。ニヒリズムは価値かちの根拠こんきょ自体じたいを否定ひていする。
  • 相対そうたい主義しゅぎ唯一ゆいいつの基準きじゅんを認みとめない☑26。基準きじゅんの複数ふくすう性せいを認みとめる。ニヒリズムは基準きじゅんそのものを無効むこうにする。
  • デカダンス退廃たいはい・爛熟らんじゅく文化ぶんかの状態じょうたい。ニヒリズムは認識にんしきの立場たちば。
  • 虚無きょむ感かんむなしいという感覚かんかく感情かんじょう。ニヒリズムは立場たちばであって気分きぶんではない。

ENnihilism
ZH虚无主义(虚無主義, xūwú zhǔyì)

太陽を中心に回っていた惑星が、中心を失って軌道なく漂う状態を並べた図ニーチェが「大地を太陽から解き放った」と言った事態を、中心のある軌道と、中心を失って向きを持たない運動として並べる。個々の価値が消えるのではなく、価値を測る座標が消えることを示す。 大地を、太陽から解き放ってしまったBEFOREAFTER中心があるから上下も遠近も決まる星は残っている消えたのは中心である価値が失われたのではない価値の高い低いを測る座標が、失われただから虚無は、荒廃としてではなく「なんとなく続く日常」として現れることが多い
中心ちゅうしんを失うしなうということ
Section 14

フェティシズム

133★★

フェティシズム

フェティシズム[3]中高なかだか型がた

定義ていぎ

事物じぶつそれ自体じたいをあがめること。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑133
原げん書しょの解説かいせつ

辞書じしょには、「呪物じゅぶつ崇拝すうはい」や「異性いせいの身体しんたいの一部いちぶ・衣類いるい・装身具そうしんぐなどによって性せい欲よくを刺激しげきされること」などと出でているが、入試にゅうしではこれらの意味いみの「フェティシズム」が登場とうじょうすることは少すくない(軽かるいエッセイでは「フェチ」という語ごが登場とうじょうすることもある)。

評ひょう論文ろんぶんで使つかわれる「フェティシズム」は〈物神ぶっしん崇拝すうはい〉という訳語やくごで表あらわされる内容ないようである。

これは、たとえば、本来ほんらい、紙かみにすぎず流通りゅうつうして初はじめて価値かちがある紙幣しへいに対たいして、物もの(紙かみ)それ自体じたいに価値かちがあるようにあがめる態度たいどを言いう。

使用しようの境界きょうかい

本来ほんらいは関係かんけいのなかで意味いみをもつものを、そのもの自体じたいに価値かちがあるかのようにあがめること。

用法ようほう

評ひょう論文ろんぶんで使つかわれるのは〈物神ぶっしん崇拝すうはい〉という訳語やくごで表あらわされる内容ないようである。紙幣しへいは流通りゅうつうして初はじめて価値かちをもつのに、紙かみそのものに価値かちがあるかのように扱あつかわれる。この錯覚さっかくをマルクスは商品しょうひんのフェティシズムと呼よんだ。要点ようてんは、関係かんけいが生うんだ価値かちを、物ものの性質せいしつだと取とり違ちがえるという構造こうぞうにある。☑21 疎そ外がいと同おなじ反転はんてんがここにも現あらわれる。辞書じしょにある性せい的てきな意味いみは入試にゅうしではほとんど出でない。

用例ようれい
  • 商品しょうひん形態けいたいの神秘しんぴは、人間にんげん自身じしんの労働ろうどうの社会的しゃかいてき性格せいかくを、労働ろうどう生産せいさん物ぶつそのものの対象たいしょう的てき性格せいかくとして、……人間にんげんに映うつし返かえすという点てんにある。これを私わたしは物神ぶっしん崇拝すうはいと呼よぶ。カール・マルクス『資本しほん論ろん』第一だいいち巻かん第一だいいち章しょう第だい四よん節せつ(1867)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    宗教しゅうきょうの語ごを経済けいざいに持もち込こんだ、近代きんだい批判ひはんの最もっとも鋭するどい一手いってである。マルクスがここで言いうのは「人ひとが物ものを拝おがんでいる」ではない。人ひとと人ひとの関係かんけいが、物ものと物ものの関係かんけいに見みえてしまうという錯視さくしの指摘してきだ。価格かかくは誰だれがどんな条件じょうけんで働はたらいたかの結果けっかなのに、物ものそのものに値打ねうちが宿やどっているように見みえる。ここで「物神ぶっしん崇拝すうはい」という語ごが効きくのは、未開みかいの迷信めいしんとして見み下くだしてきた当とうのものが、最もっとも進すすんだ経済けいざいの中心ちゅうしんにあると言いい当あてるからだ。1-4 の 75 で見みた自じ文化ぶんか中心ちゅうしん主義しゅぎへの痛烈つうれつな返かえし手てにもなっている。
  • 呪術じゅじゅつの根底こんていには、類似るいじしたものは類似るいじしたものを生うむ、つまり結果けっかはその原因げんいんに似にる、という原理げんりがある。ジェイムズ・フレイザー『金枝きんし篇へん』(1890)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    フェティシズムを支ささえる思考しこうの型かたを、一行いちぎょうで取とり出だした一節いっせつである。注目ちゅうもくしたいのは、フレイザーがこれを「原理げんり」と呼よんでいることだ。出鱈目でたらめではなく、一貫いっかんした法則ほうそくに従したがっていると認みとめている。だから呪術じゅじゅつは科学かがくの反対はんたい物ぶつではなく、科学かがくの親戚しんせきになる — どちらも世界せかいには規則きそくがあり、それを使つかえば結果けっかを操あやつれると信しんじている。この見方みかたを取とると、ブランド品ひんに力ちからが宿やどるという感覚かんかくも、未開みかいの迷信めいしんではなく同おなじ原理げんりの現代げんだい版はんとして読よめる。133 が現代げんだい社会しゃかい論ろんで使つかえる語ごになったのは、この一段いちだんがあったからだ。
  • ブランド品ひんへの欲望よくぼうは、物ものそのものではなく物ものに貼はりついた記号きごうへの欲望よくぼうであり、その意味いみでフェティシズムである。 1-7 の消費しょうひ社会しゃかい論ろんへそのままつながる例れいである。鞄かばんの使つかい勝手かってを買かっているのではない。その鞄かばんが指さし示しめす位置いちを買かっている。1-3 の記号きごう論ろんと133 が結むすびつくと、現代げんだいの消費しょうひが一いち枚まいの図ずで説明せつめいできるようになる。
  • ×彼かれは古ふるい万年筆まんねんひつにフェティシズムを感かんじている。 単たんなる愛あい着ちゃくや偏愛へんあいをこの語ごで呼よばない。評ひょう論語ろんごのフェティシズムは本来ほんらいは関係かんけいの中なかにある力ちからが、物ものそのものに宿やどって見みえるという倒錯とうさくを指さす。愛あい着ちゃくを言いいたいなら「愛あい着ちゃく」「こだわり」で足たりる。なお性せい的てきな含ふくみの用法ようほうもあるので、評ひょう論文ろんぶんでは定義ていぎを添そえてから使つかうのが安全あんぜんである。
派生はせい形けい
  • 物神ぶっしん[0]fetish の訳語やくご。ポルトガル語ご feitiço(作つくられたもの・呪物じゅぶつ)が語源ごげんで、西にしアフリカで交易こうえき者しゃが見みた信仰しんこう対象たいしょうを呼よんだのが始はじまり。語源ごげんに「人ひとが作つくったもの」という含ふくみがあるのが重要じゅうようで、それが後あとに作つくった当人とうにんがそれを拝おがむという批判ひはんに使つかわれた。
  • 物神崇拝ぶっしんすうはい[5]マルクスの語ごの定訳ていやく。「フェティシズム」とカタカナで書かくより批判ひはんの色いろが濃こく出でる。訳語やくごとカタカナ語ごを書かき分わけられると、文章ぶんしょうの温度おんどを操作そうさできる。
  • フェティッシュ[1]形容詞けいようしとしての用法ようほう。日本語にほんごではほぼ性せい的てきな含ふくみで定着ていちゃくしてしまったため、評ひょう論文ろんぶんでは避さける。同おなじ語根ごこんから出でた語ごが訳語やくごとカタカナ語ごで別べつの道みちを歩あるいた例れいである。
コロケーション
  • 商品しょうひんの物神ぶっしん性せいマルクスの術語じゅつご定訳ていやくとしてこの形かたちで覚おぼえる。「物神ぶっしん」は fetish、「性せい」は性質せいしつ・性格せいかくの意いで、商品しょうひんという物もののあり方かたにもともと備そなえわってしまう性質せいしつを指さす。誰だれかが騙だましているのではないという含ふくみが重要じゅうようだ。売うり手ても買かい手ても同おなじ錯視さくしの中なかにいる。
  • 物象ぶっしょう化か同おなじ事態じたいの別べつの名な人ひとと人ひととの関係かんけいが、物ものと物ものとの関係かんけいとして現あらわれること。物神ぶっしん崇拝すうはいが拝おがむ側がわの心こころの話はなしに寄よって聞きこえるのに対たいし、物象ぶっしょう化かは関係かんけいの側がわの変化へんかとして中立ちゅうりつに言いえる。同おなじ現象げんしょうに二ふたつの語ごがあるとき、どちらを選えらぶかで文章ぶんしょうの重心じゅうしんが動うごく。
  • 記号きごうの消費しょうひ現代げんだい版はんとしての語ご物ものの機能きのうではなく、物ものが指さし示しめす意味いみを消費しょうひすること。133 が二十にじゅう世紀せいき後半こうはんに再ふたたび活かつきた語ごになったのは、この形かたちで言いい直なおされたからだ。マルクスの時代じだいは労働ろうどうが見みえなくなることが問題もんだいだったが、現代げんだいは物ものすら見みえなくなり、差異さいだけが残のこる。
  • 物神ぶっしん化かする動詞どうしとしての語ご本来ほんらいは手段しゅだんや関係かんけいにすぎないものが、それ自体じたいで力ちからを持もつかのように扱あつかわれるようになること。「数値すうちを物神ぶっしん化かする」「制度せいどを物神ぶっしん化かする」のように、経済けいざいの外そとへ広ひろく使つかえる。評価ひょうか指標しひょうが目的もくてき化かする現象げんしょうを一語いちごで刺させるので、現代げんだいの評ひょう論文ろんぶんで使用しよう頻度ひんどが上あがっている。
格かく硬かた・学術がくじゅつ

論文ろんぶん・評ひょう論ろんでのみ使つかう。会話かいわでは不自然ふしぜん。

類るい語ごと差さ
  • 物神ぶっしん崇拝すうはい訳語やくごマルクスの語ご。商品しょうひんや貨幣かへいに本来ほんらいない力ちからを認みとめる錯覚さっかくを指さす。
  • 疎そ外がい自作じさく物ぶつが逆ぎゃくに人ひとを支配しはいする☑21。同おなじ構造こうぞうの別べつの面めん。人ひとが作つくったものが自立じりつして見みえる。
  • 呪物じゅぶつ崇拝すうはい物ものに霊れい力りょくを認みとめる信仰しんこう人類学じんるいがくの語ご。フェティシズムの原げん義ぎ。
  • 拝金はいきん主義しゅぎ金銭きんせんを最上位さいじょういに置おく態度たいど。フェティシズムは価値かちがどこにあると錯覚さっかくするかの構造こうぞうを言いう。

ENfetishism
ZH拜物教(物神崇拝, bàiwùjiào)

物神崇拝の構造関係のなかで生まれた価値が、物そのものの性質だと取り違えられる過程を示した図。 実際 流通・交換 紙幣 関係が価値を生んでいる 取り違え 見え方 紙幣 物それ自体に価値があるように見える 関係が生んだ価値を、物の性質だと取り違える。 ☑21 疎外と同じ反転が、ここにも現れている
関係かんけいが生うんだ価値かちを、物ものの性質せいしつと取とり違ちがえる
Section 15

中世ちゅうせい

134★

中世ちゅうせい

ちゅうせい[1]頭高あたまだか型がた

語ご構成こうせい
中なかなか+世よよ・時代じだい
定義ていぎ

封建ほうけん的てきな身分制みぶんせい社会しゃかいのもと、宗教しゅうきょうが人々ひとびとの生活せいかつ・生いき方かたに大おおきな影響力えいきょうりょくをもっていた時代じだい。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑134
原げん書しょの解説かいせつ

ヨーロッパ中世ちゅうせいとは、キリスト教きょう的てきな価値かち観かんが人々ひとびとを支配しはいし、人々ひとびとが神かみを疑うたがうことを知しらなかった時代じだいのことである。

理性りせいよりも信仰しんこうが重視じゅうしされ、人々ひとびとは禁欲きんよく的てきな生活せいかつを送おくり、伝統でんとうに縛しばられた生活せいかつをしていた。

近代きんだい初期しょきには、中世ちゅうせいは古代こだいギリシア・ローマ文化ぶんかが衰退すいたいした暗黒あんこくの時代じだいと位置いちづけられたが、最近さいきんでは、素朴そぼくな人々ひとびとがゆったりとした日々ひびを繰くり返かえす中世ちゅうせいのあり方かたを再評価さいひょうかする動うごきもある。

評ひょう論文ろんぶんでは、中世ちゅうせいと近代きんだいの比較ひかくというテーマが登場とうじょうするので、しっかりと整理せいりしておこう。

使用しようの境界きょうかい

古代こだいと近代きんだいのあいだの時代じだい。ヨーロッパではキリスト教きょう的てき価値かち観かんと封建ほうけん的てき身分制みぶんせい度どに支配しはいされた時期じきを指さす。

用法ようほう

評ひょう論文ろんぶんで押おさえるべきは、中世ちゅうせいが近代きんだいを説明せつめいするための対たい項こうとして置おかれるという点てんである。中世ちゅうせい=非合理ひごうり・身分制みぶんせい・神かみ中心ちゅうしん、近代きんだい=合理ごうり・平等びょうどう・人間にんげん中心ちゅうしん、という図式ずしきが繰くり返かえし使つかわれる。ただしこの図式ずしき自体じたいが近代きんだいの側がわから描えがかれたものであり、「暗黒あんこくの中世ちゅうせい」という像ぞうは近代きんだいがつくったという指摘してきが現代げんだいの研究けんきゅうでは定説ていせつになっている。ここで☑84 オリエンタリズムと同おなじ、描えがく側がわと描えがかれる側がわの非対称ひたいしょうが現あらわれる。

用例ようれい
  • 中世ちゅうせいにおいては、人間にんげんの意識いしきの両面りょうめん ── 内ないに向むかうものと外そとに向むかうもの ── は、共通きょうつうのヴェールの下もとで、夢ゆめ見みているか、半なかば目覚めざめているかであった。ヤーコプ・ブルクハルト『イタリア・ルネサンスの文化ぶんか』(1860)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    「中世ちゅうせい」という時代じだい像ぞうを決定けっていづけた一節いっせつである。同時どうじに、その時代じだい像ぞうがいかに作つくられたものかを示しめす一節いっせつでもある。注目ちゅうもくすべきは、これが中世ちゅうせいの記述きじゅつではなくルネサンスを説明せつめいするための前置まえおきとして書かかれていることだ。ルネサンスの「目覚めざめ」を光ひかりらせるために、その手前てまえが「夢ゆめ」でなければならなかった。「ヴェール」という比喩ひゆも同様どうようで、剥はがすべきものとして最初さいしょから設計せっけいされている。中世ちゅうせい千せん年ねんを一様いちような眠ねむりとして描えがくのは史実しじつとしては無理むりだが、物語ものがたりとしてはきわめてよく効きいた。時代じだい区分くぶんは発見はっけんではなく、後あとの時代じだいが自分じぶんを語かたるための作品さくひんである — この教訓きょうくんが、134 の学まなびの中心ちゅうしんである。
  • 世界せかいがまだ五百年ごひゃくねん若わかかったころ、人生じんせいのできごとは、いまよりもくっきりとした輪郭りんかくをもっていた。悲かなしみと喜よろこびのあいだ、幸こうと不幸ふこうのあいだの隔へだたりは、はるかに大おおきかったように思おもわれる。ヨハン・ホイジンガ『中世ちゅうせいの秋あき』(1919)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    ブルクハルトの中世ちゅうせい像ぞうへの、半はん世紀せいき後ごの応答おうとうとして読よめる書かき出だしである。ホイジンガは中世ちゅうせいを夢ゆめの中なかとは書かかない。逆ぎゃくに輪郭りんかくがくっきりしていたと書かく。眠ねむっていたのではなく、感情かんじょうも刑罰けいばつも祝祭しゅくさいも、すべてが濃のうかったのだ。「五百年ごひゃくねん若わかかった」という言いい方かたも巧こうい — 古ふるいのではなく若わかいと置おき換かえることで、中世ちゅうせいを未熟みじゅくな段階だんかいから別べつの生せいの様式ようしきへ移うつしている。そして書名しょめいが『中世ちゅうせいの秋あき』であることに注意ちゅういしたい。ルネサンスの春はるではなく、中世ちゅうせいの秋あき。同おなじ時期じきを、どちらの季節きせつとして数かぞえるかで、歴史れきしの意味いみが変かわる。
  • 「暗黒あんこくの中世ちゅうせい」という言いい方かたそのものが、近代きんだいの自己じこ像ぞうを作つくるために必要ひつようとされた図式ずしきである。 時代じだい区分くぶんを批判的ひはんてきに扱あつかう定型ていけいである。近代きんだいが自分じぶんを光ひかり・理性りせい・進歩しんぽとして語かたるには、その手前てまえが闇やみ・迷信めいしん・停滞ていたいでなければならない。他者たしゃを暗くらくすることで自分じぶんが明あかるくなるという構図こうずは、1-4 の 75 とまったく同おなじである。
  • ×この会社かいしゃの体質たいしつは中世ちゅうせい的てきだ。 時代じだい名めいを罵倒ばとうに使つかっている。評ひょう論文ろんぶんで言いいたいのは「前近代的ぜんきんだいてき」「封建ほうけん的てき」だろうが、それも時代じだいを価値かちの低ひくさの代名詞だいめいしにしている点てんで慎重しんちょうに使つかうべきだ。中世ちゅうせいは西洋せいよう史しでおよそ五ご世紀せいきから十五じゅうご世紀せいき、日本にほん史しでおよそ院いん政せい期きから戦国せんごく期きまでを指さす時代じだい区分くぶんであって、遅おくれの度合どあいの目盛めもりではない。
派生はせい形けい
  • 中世的ちゅうせいてき[0]ほぼ否定的ひていてきに使つかわれる。「中世ちゅうせい的てきな因習いんしゅう」のように遅おくれているという含ふくみが付つく。中立ちゅうりつに時代じだいの特徴とくちょうを言いいたいなら「中世ちゅうせいの」と「的てき」を外はずすほうがよい。接尾せつび辞じひとつで評価ひょうかが入はいる例れい。
  • 近世きんせい[1]中世ちゅうせいと近代きんだいのあいだ。日本にほん史しでは安土あづち桃山ももやまから江戸えどを指さす。この区分くぶんが置おかれるのは、江戸えどを「中世ちゅうせいの続つづき」とも「近代きんだいの準備じゅんび」とも言いい切きれないからだ。区分くぶんの増減ぞうげんそのものが解釈かいしゃくの表明ひょうめいである。
  • 封建ほうけん[0]制度せいどの名なとしての語ご。土地とちの給付きゅうふと奉仕ほうしの関係かんけいで結むすばれた支配しはいの仕組しくみを指さす。「封建ほうけん的てき」となると上下じょうげ関係かんけいが固かたく、個人こじんが押おさえつけられるという日常にちじょう語ごになり、制度せいどの話はなしから離はなれる。
コロケーション
  • 暗黒あんこく時代じだい名なづけが評価ひょうかである語ごラテン語ごの学芸がくげいが衰おとろえた時期じきを指さしてつけられた名な。この語ごが問題もんだいなのは、誰だれにとって暗黒あんこくだったかが省略しょうりゃくされていることだ。文書ぶんしょが減へったのは事実じじつだが、文書ぶんしょが減へったことと人々ひとびとの生せいが暗くらかったことは別べつである。史料しりょうの欠如けつじょが暗黒あんこくと読よみ替かえられたという手続てつづきの誤あやまりが、この語ごには残のこっている。
  • 中世ちゅうせい的てき世界せかい構造こうぞうを言いう語ご身分みぶん・共同体きょうどうたい・宗教しゅうきょうが一ひとつの秩序ちつじょとして結むすび合あっていた世界せかい。この言いい方かたが有効ゆうこうなのは、近代きんだいを「その結むすび目めがほどけた状態じょうたい」として定義ていぎできるからだ。120 の世俗化せぞくかも、124 の共同体きょうどうたいの解体かいたいも、同おなじ一ひとつのほどけの別々べつべつの側面そくめんとして読よめる。
  • 中世ちゅうせいの再評価さいひょうか像ぞうを組くみ直なおす語ご二十にじゅう世紀せいきの歴史学れきしがくが進すすめた作業さぎょう。大学だいがく・都市とし・議会ぎかい・複式ふくしき簿ぼ記きがすべて中世ちゅうせいに生うまれていることが明あきらかになると、近代きんだいの起源きげんをルネサンスに置おく物語ものがたりが揺ゆらぐ。時代じだい区分くぶんの線せんを動うごかすと、誰だれが何なにを発明はつめいしたかの帰属きぞくが変かわる。
  • 中世ちゅうせいを経へていない比較ひかくで使つかう語ご日本にほん史し・中なか国史こくしを西洋せいようの区分くぶんに当あてはめる際さいに生しょうじる論点ろんてん。この言いい方かたが出でてきたら西洋せいようの三さん区分くぶんを普遍ふへんの型かたとして使つかっている合図あいずである。1-1 の 1 と 2 の関係かんけいが、歴史れきしの書かき方かたの問題もんだいとして現あらわれている場面ばめんだと見みておくとよい。
格かく中なか

書かき言葉ことば・会話かいわの両方りょうほうで使つかえる。

類るい語ごと差さ
  • 近代きんだい中世ちゅうせいのあとの時代じだい☑119 と接続せつぞくする。中世ちゅうせいを否定ひていして成なり立たった。
  • 封建ほうけん制せい土地とちを介かいした主しゅ従じゅうの身分制みぶんせい度ど制度せいどの名な。中世ちゅうせいを成なり立たたせた仕組しくみ。
  • 暗黒あんこく時代じだい停滞ていたいした時代じだい近代きんだいが中世ちゅうせいに与あたえた蔑称べっしょう。この呼よび方かた自体じたいが近代きんだいの自己じこ正当化せいとうかだと批判ひはんされる。
  • 前近代ぜんきんだい近代きんだい以前いぜん近代きんだいを基準きじゅんにした呼よび方かた。中世ちゅうせいより広ひろく、非ひ西欧せいおう社会しゃかいにも使つかう。

ENthe Middle Ages
ZH中世纪(中世, zhōngshìjì)

古代・中世・近代という三区分が、ルネサンス以後の人々によって引かれたことを示す帯の図一本の時間の帯の上に、古代・中世・近代の区切りを示し、その線を引いたのがルネサンス以後の人々であることを下向きの矢で表す。中世という語が「あいだの時代」を意味することも添える。 「あいだの時代」という名づけ古代中世近代手本とすべき時代あいだの、暗い時代目覚めた時代この二本の線を引いたのは、右端に立つ人々であるラテン語 medium aevum = 中間の時代古代を手本と決めたから、そこへ戻るまでの千年が「あいだ」という一語で束ねられた大学も、議会も、都市も、複式簿記もこの「あいだ」に生まれている時代区分は発見ではなく、後の時代が自分を語るために作った作品である
中世ちゅうせいという線せんの引ひかれ方ほう
Section 16

啓蒙けいもう主義しゅぎ

135★

啓蒙主義けいもうしゅぎ

けいもうしゅぎ[0]平板へいばん型がた

語ご構成こうせい
啓けいひらく+蒙もうくらい・おおわれている+主義しゅぎ立場たちば

「蒙もう」はおおわれて暗くらい状態じょうたい、「啓けい」はひらくこと。字じがそのまま構図こうずを示しめしている。

定義ていぎ

合理的ごうりてきな精神せいしんに基もとづいて、社会的しゃかいてき・政治的せいじてき・宗教的しゅうきょうてきな伝統でんとうの打だ破はを目指めざす運動うんどう。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑135
原げん書しょの解説かいせつ

十八じゅうはち世紀せいきのヨーロッパで展開てんかいされた啓蒙けいもう主義しゅぎは、理性りせいを人間にんげんの最もっとも重要じゅうような能力のうりょくとし、近代きんだいの合理的ごうりてきな社会しゃかいの構築こうちくに大おおきな影響えいきょうを与あたえた。

啓蒙けいもう思想家しそうかたちは、迷信めいしん・偏見へんけん・宗教しゅうきょう・伝統でんとうといった不合理ふごうりなものにとらわれている人々ひとびとに対たいし、理性りせいの啓蒙けいもうを通つうじて、人間にんげんと社会しゃかいを世俗化せぞくか・合理化ごうりかへと導みちびいた。

啓蒙けいもう主義しゅぎが力ちからをもった背景はいけいには、近代きんだい自然科学しぜんかがくが発達はったつしたことで、理性りせいに対たいする信頼しんらいが高たかまっていたことが挙あげられる。

使用しようの境界きょうかい

理性りせいの光ひかりによって無知むちと迷信めいしんを払はらい、社会しゃかいを改善かいぜんしようとする立場たちば。十八じゅうはち世紀せいきヨーロッパの思想しそう運動うんどうを指さす。

用法ようほう

「蒙もう」はおおわれて暗くらい状態じょうたいを意味いみし、それを啓けいくのが啓蒙けいもうである。字じがそのまま構図こうずを示しめしている。だからこの語ごには、光ひかりをもつ者ものが暗くらい者ものを照てらすという上下じょうげの関係かんけいが組くみ込こまれており、そこが批判ひはんされる。植民地しょくみんち支配しはいが「文明ぶんめい化かの使命しめい」として正当化せいとうかされたのもこの延長えんちょうにある。日常にちじょう語ごの「啓蒙けいもうする」も、上うえから教おしえるという含ふくみで嫌いやわれることがあり、近年きんねんは「啓けい発はつ」に言いい換かえられる。

用例ようれい
  • 理性りせいを公的こうてきに使用しようすることは、つねに自由じゆうでなければならない。……「何なにごとについても、好すきなだけ、好すきなように議論ぎろんせよ。ただし服従ふくじゅうせよ。」イマヌエル・カント『啓蒙けいもうとは何なにか』(1784)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    啓蒙けいもう主義しゅぎがどこまでを引ひき受うけ、どこで折おれたかが一息ひといきで見みえる一節いっせつである。前半ぜんはんは勇いさましい — 公こうの場ばでの議論ぎろんに制限せいげんを設もうけてはならない。ところが結むすびは「ただし服従ふくじゅうせよ」だ。カントの整理せいりでは、役人やくにんとしての立場たちばで職務しょくむを論ろんずるのは私的してき使用しよう、一人ひとりの読よみ手て・書かき手てとして世界せかいに向むかって語かたるのが公的こうてき使用しようである。税ぜいは納おさめよ、しかし税制ぜいせいの不当ふとうは文章ぶんしょうで論ろんじてよい、と。見事みごとな線引せんびきに見みえるが、行動こうどうの変更へんこうを要求ようきゅうしない自由じゆうでもある。135 の啓蒙けいもうが「啓蒙けいもう専制君主せんせいくんしゅ」と両立りょうりつできてしまった理由りゆうが、この一句いっくに書かき込こまれている — 議論ぎろんの自由じゆうは、服従ふくじゅうを条件じょうけんに与あたえられたのだ。1-5 の 106 で見みた「自みずから招まねいた未み成せい年ねん状態じょうたい」の宣言せんげんと、合あわせて読よみたい。
  • あらゆる時代じだいのうちで、最もっとも光ひかりに近ちかづいた時代じだいでさえ、なお暗くらい部分ぶぶんを残のこしている。……真理しんり・徳とく・幸福こうふくは、解ときがたい鎖くさりによって結むすばれている。ニコラ・ド・コンドルセ『人間にんげん精神せいしん進歩しんぽ史し』(1795)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    啓蒙けいもう主義しゅぎの楽観らっかんを最もっとも純粋じゅんすいな形かたちで残のこした一節いっせつである。この書しょが書かかれた事情じじょうを知しると、文章ぶんしょうの意味いみが変かわる — コンドルセは革命かくめい政府せいふに追おわれ、潜伏せんぷく先さきでこれを書かき、捕とらえられて獄ごく死しした。理性りせいの進歩しんぽを信しんじる書物しょもつが、理性りせいの名なを掲かかげた恐怖きょうふ政治せいじから逃にげながら書かかれたのである。「真理しんり・徳とく・幸福こうふくは解ときがたい鎖くさりで結むすばれている」という一文いちぶんは、啓蒙けいもう主義しゅぎの最もっとも強つよい前提ぜんていだ — 正ただしく知しれば、正ただしく行おこない、幸福こうふくになる。この鎖くさりが本当ほんとうに解とけないのかは、二十にじゅう世紀せいきが否定ひていの側がわから答こたえを出だした。知ちは徳とくを保証ほしょうしない。それでもこの一文いちぶんの気高けだかさは減へらないところに、啓蒙けいもう主義しゅぎの読よみどころがある。
  • 啓蒙けいもう主義しゅぎは、理性りせいの光ひかりをあてれば迷信めいしんも圧政あっせいも消きえると信しんじた点てんで、近代きんだいのもっとも明あかるい局面きょくめんであった。 「光ひかり」という比喩ひゆが原語げんごに入はいっていることを押おさえておきたい。英えい Enlightenment、仏ほとけ Lumières、独どく Aufklärung — いずれも明あかるくすることだ。134 の「暗黒あんこくの中世ちゅうせい」という像ぞうは、この語ごを成なり立たたせるために必要ひつようとされた影かげである。
  • ×手洗てあらいの大切たいせつさを啓蒙けいもう主義しゅぎする。 語ごの形かたちを取とり違ちがえている。広ひろく知しらせる行為こういは「啓けい発はっする」「周しゅう知ちする」。「啓蒙けいもう」も動詞どうし的てきに使つかえるが、上うえから教おしえ諭さとす含ふくみがあるため現代げんだいでは避さけられる傾向けいこうにある。そして「啓蒙けいもう主義しゅぎ」は十八じゅうはち世紀せいきヨーロッパの思想しそう運動うんどうの名なで、行為こういの名なではない。
派生はせい形けい
  • 啓蒙けいもう[0]字面じづらと原げん義ぎがずれている語ご。「蒙もう」は道理どうりに暗くらいことで、暗くらい者ものを啓けいくという上下じょうげのある構図こうずになっている。原語げんごが自分じぶんで光ひかりを灯あかりせという意味いみであることを思おもえば、訳語やくごが向むきを裏返うらがえしてしまった。
  • 啓発けいはつ[0]『論語ろんご』述而じゅつじ篇へんに出でる語ご。「憤ふんせずんば啓けいせず」から来きており、本人ほんにんが行いき詰づまってから助たすけるという含ふくみがもとはあった。現代げんだいでは「自己じこ啓けい発はつ」のように自分じぶんで自分じぶんを伸のばすの意いで使つかわれ、啓蒙けいもうより上下じょうげの色いろが薄うすい。
  • 蒙昧もうまい[0]啓蒙けいもうの対たいの語ご。「無知むち蒙昧もうまい」の形かたちで使つかう。強つよい侮蔑ぶべつを含ふくむため、現代げんだいの評ひょう論文ろんぶんではほぼ引用いんようの中なかでしか現あらわれない。この語ごが使つかえなくなったこと自体じたいが、啓蒙けいもう主義しゅぎの上下じょうげの構図こうずが疑うたがわれた結果けっかである。
コロケーション
  • 理性りせいの光ひかり比喩ひゆが理論りろんになった語ご啓蒙けいもう主義しゅぎの中心ちゅうしん的てきな像ぞう。この比喩ひゆが強力きょうりょくなのは、光ひかりには反論はんろんできないからだ。暗くらいより明あかるいほうがよいことは説明せつめいを要ようしない。比喩ひゆを選えらんだ時点じてんで議論ぎろんの半分はんぶんが終おわっている。評ひょう論文ろんぶんを読よむときは、その比喩ひゆが何なにを自明じめいにしてしまったかを見みるとよい。
  • 啓蒙けいもうの弁べん証しょう法ほう光ひかりが影かげを生うむ語ご理性りせいが迷信めいしんを打うち払はらったのち、理性りせいそのものが新あたらしい神話しんわになるという指摘してき。計算けいさんできるものだけを実在じつざいとみなす理性りせいは、効率的こうりつてきに人ひとを管理かんりする技術ぎじゅつにもなる。解放かいほうの道具どうぐが支配しはいの道具どうぐに反転はんてんするというこの型かたは、1-5 の弁べん証しょう法ほうの応用おうようとして読よめる。
  • 啓蒙けいもう専制君主せんせいくんしゅ矛盾むじゅんを抱かかえた語ご理性りせいにもとづく改革かいかくを絶対的ぜったいてきな権力けんりょくで行おこなう君主くんしゅ。この語ごが示しめすのは、啓蒙けいもうが民みん主しゅ主義しゅぎと同おなじものではないという事実じじつである。「上うえから良よいことをする」という形かたちは啓蒙けいもう主義しゅぎと相性あいしょうがよく、119 の外発がいはつ的てきな近代きんだい化かの一ひとつの原型げんけいにもなっている。
  • 啓蒙的けいもうてきな態度たいど現代げんだいに残のこる形かたち思想しそう運動うんどうとしてではなく、権威けんいを疑うたがい、自分じぶんで確たしかめる構かまえを指さす言いい方かた。この意味いみでは啓蒙けいもうは終おわっていない。カントの「あえて知しろうとせよ」は時代じだいの綱領こうりょうであると同時どうじに、いつでも実行じっこうできる指示しじだからだ。運動うんどうとしては終おわり、態度たいどとしては残のこる語ごの例れい。
格かく硬かた

書かき言葉ことば。会話かいわでは不自然ふしぜん。

類るい語ごと差さ
  • 近代きんだい合理主義ごうりしゅぎ理性りせいですべてを説明せつめいする☑121。啓蒙けいもう主義しゅぎはその運動うんどうとしての形かたち。
  • 理性りせい筋道すじみち立たてて考かんがえる力ちから☑108。啓蒙けいもう主義しゅぎが信頼しんらいを寄よせた能力のうりょく。
  • 蒙昧もうまい知識ちしきがなく道理どうりに暗くらい啓蒙けいもうが払はらおうとした状態じょうたい。「蒙もう」の字じがそのまま入はいっている。
  • 教化きょうか教おしえ導みちびいて改あらためる啓蒙けいもうの実践じっせん面めん。上うえから下したへという方向ほうこうを含ふくみ、批判ひはんの的まとになる。

ENenlightenment
ZH启蒙主义(啓蒙主義, qǐméng zhǔyì)

理性の光が迷信を払う図と、その同じ光が新しい支配を生む図を上下に並べた図上段では理性の光が迷信・偏見・専制を照らして退ける。下段では同じ光が、計算と管理の技術となって人間そのものを照らし出し、解放の道具が支配の道具に反転することを示す。 光は、当てる向きを選ばないLUMIERES理性迷信・偏見・専制照らせば、消えるここまでが、啓蒙主義が自分について語ったこと理性人間そのもの照らせば、数えられ、管理できる同じ光が、統計・戸籍・試験・収容所を可能にした啓蒙は、照らすことしかしない何を照らすかは、啓蒙自身では決められない解放の道具が支配の道具に反転する ── この型を「啓蒙の弁証法」と呼ぶ
理性りせいの光ひかりと、その影かげ
Section 17

ロマン主義しゅぎ(ロマンティシズム)

136★

ロマン主義(ロマンティシズム)ロマンしゅぎ

ロマンしゅぎ[0]平板へいばん型がた

定義ていぎ

十八じゅうはち世紀末せいきまつから十九じゅうきゅう世紀せいき前半ぜんはんにかけて起おこった、個人こじんの感情かんじょうや感かん性せいを重視じゅうしする文学ぶんがく・芸術げいじゅつ上じょうの運動うんどう。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑136
原げん書しょの解説かいせつ

ロマン主義しゅぎは、個人こじんの感情かんじょうや感かん性せいを尊重そんちょう・解放かいほうし、自由じゆうに表現ひょうげんすることを重要じゅうよう視しする思想しそうであり、先行せんこうする啓蒙けいもう主義しゅぎが理性りせいを絶対的ぜったいてきなものとすることへの反発はんぱつから生うまれた。

明治めいじ期きの日本にほんにも大おおきな影響えいきょうを及およぼすが、現実げんじつを重視じゅうしする自然しぜん主義しゅぎやリアリズム(現実げんじつ主義しゅぎ・写実主義しゃじつしゅぎ)に取とって代だいわられることとなった。

使用しようの境界きょうかい

理性りせいより感情かんじょうと想像力そうぞうりょくを重おもんじる立場たちば。近代きんだい合理主義ごうりしゅぎへの反はん動どうとして起おこった。

用法ようほう

要点ようてんは近代きんだい合理主義ごうりしゅぎへの反はん動どうだという位置いちづけにある。理性りせいが切きり捨すてた感情かんじょう・想像力そうぞうりょく・自然しぜん・民族みんぞくの伝統でんとうを、価値かちあるものとして取とり戻もどそうとした。だからロマン主義しゅぎは近代きんだいの内側うちがわから出でてきた近代きんだい批判ひはんであり、この二に重じゅう性せいが重要じゅうようになる。日常にちじょう語ごの「ロマンチック」は〈甘美かんびで非ひ現実的げんじつてき〉の意いで使つかわれるが、思想史しそうし上じょうの運動うんどうとしてのロマン主義しゅぎはもっと広ひろい。民族みんぞくの伝統でんとうを重おもんじる姿勢しせいは☑126 ナショナリズムとも接続せつぞくする。

用例ようれい
  • すべての良よき詩しは、強つよい感情かんじょうの自然しぜんな溢あふれ出だしである。……それは静しずけさのなかで思おもい起おこされた情緒じょうちょから生うまれる。ウィリアム・ワーズワース『抒情じょじょう歌謡かよう集しゅう』第だい二に版はん序じょ(1800)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    ロマン主義しゅぎの詩し論ろんを一行いちぎょうで表あらわした最もっとも有名ゆうめいな言葉ことばだが、後半こうはんまで読よむと像ぞうがまるで変かわる。前半ぜんはんだけなら感情かんじょうのままに書かけばよいと読よめる。ところが後半こうはんで「静しずけさのなかで思おもい起おこされた」と条件じょうけんがつく。溢あふれ出だす当とうのその場ばでは書かけない。過すぎ去さってから、静しずかな場所ばしょで、もう一度いちど呼よび戻もどしたものだけが詩しになる。つまりロマン主義しゅぎは感情かんじょうの記録きろくではなく、感情かんじょうの再構成さいこうせいを要求ようきゅうしている。反はん合理主義ごうりしゅぎに見みえて、実じつは極きわめて意識的いしきてきな作業さぎょうである点てんが、この派はを読よみ違ちがえないための鍵かぎだ。
  • 遂ついに新あたらしき詩歌しいかの時ときは来きりぬ。……こゝに滋味じみある清新せいしんの詩歌しいかはおこりぬ。伝でん説せつはよみがへりぬ。自然しぜんはあらたなる色彩しきさいを帯おびぬ。島崎しまざき藤村とうそん『若菜わかな集しゅう』序じょ(1897)
    日本にほんのロマン主義しゅぎが自分じぶんの到来とうらいを宣言せんげんした一節いっせつである。注目ちゅうもくしたいのは、「伝でん説せつはよみがへりぬ」が「新あたらしき」と並ならんでいることだ。普通ふつうなら、新あたらしさと伝でん説せつのよみがえりは逆ぎゃくを向むく。ロマン主義しゅぎではこれが同おなじ方ほうを向むく — 合理化ごうりかされて痩やせた現在げんざいに対たいして、古ふるいものが新あたらしい力ちからとして現あらわれるからだ。ヨーロッパのロマン主義しゅぎが中世ちゅうせいと民話みんわを掘ほり起おこしたのと同おなじ運動うんどうである。そして文語ぶんごの格調かくちょうで書かかれていること自体じたいが、近代きんだいの口語こうご化かに逆ぎゃくらいながら近代きんだいの詩しを始はじめるというねじれを体現たいげんしている。
  • ロマン主義しゅぎは、啓蒙けいもう主義しゅぎが捨すてた感情かんじょう・自然しぜん・民族みんぞく・過去かこを拾ひろい直なおすことで、近代きんだいの内側うちがわから近代きんだいを批判ひはんした。 「内側うちがわから」が肝きもである。ロマン主義しゅぎは前近代ぜんきんだいへの回帰かいきではない。近代きんだいが作つくった個人こじんという単位たんいを使つかって、その個人こじんの感情かんじょうを至し上じょうに置おいた。批判ひはんする側がわも同おなじ時代じだいの産物さんぶつであるという見取みとり図ずは、121 の反はん合理主義ごうりしゅぎと同おなじだ。
  • ×二人ふたりの出会であいは実じつにロマン主義しゅぎ的てきでした。 「ロマンチック」と混同こんどうしている。評ひょう論語ろんごのロマン主義しゅぎは十八じゅうはち世紀末せいきまつから十九じゅうきゅう世紀せいきにかけての芸術げいじゅつ・思想しそうの運動うんどうを指さす。甘美かんびさや情緒じょうちょを言いうなら「ロマンチック」「情緒じょうちょ的てき」。同おなじ語根ごこんから運動うんどうの名なと気分きぶんの名なが別々べつべつに育そだったので、書かき分わけを要ようする。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

反はん リアリズム

派生はせい形けい
  • ロマン[1]日本語にほんごで独自どくじに育そだった語ご。「男おとこのロマン」のように実じつ利りを離はなれた憧あこがれを指さす。語源ごげんはフランス語ご roman(物語ものがたり・小説しょうせつ)で、もとは「ロマンス語ごで書かかれた通つう俗ぞくの物語ものがたり」という形式けいしきの名なにすぎなかった。
  • 浪漫主義ろうまんしゅぎ[5]夏目なつめ漱石そうせきらが用もちいた当あて字じ。「浪ろう」も「漫」もとりとめのなさを表あらわす字じで、音おとを借かりながら意味いみも合あわせた秀逸しゅういつな訳やく字じである。現代げんだいではロマン主義しゅぎと書かくのが標準ひょうじゅん。
  • ロマンチック[4]気分きぶんの側がわへ完全かんぜんに移うつった形かたち。評ひょう論語ろんごの運動うんどう名めいとは切きり離はなして扱あつかう。「ロマン主義しゅぎ的てき」なら運動うんどうの性格せいかく、「ロマンチック」なら情緒じょうちょ — この一線いっせんを越こえると文ぶんの格かくが崩くずれる。
コロケーション
  • ロマン主義しゅぎ的てき自然しぜん観かん見方みかたを名なづけた語ご自然しぜんを征服せいふくの対象たいしょうではなく、感情かんじょうを映うつし、人ひとを癒いやし、畏敬いけいを呼よぶものとして見みる態度たいど。1-2 の機械論きかいろん的てき自然しぜん観かんの正確せいかくな裏返うらがえしである。注意ちゅういしたいのは、この自然しぜんもまた人間にんげんの感情かんじょうを投影とうえいした自然しぜんだという点てんだ。征服せいふくするにせよ癒いやされるにせよ、自然しぜんは人間にんげんの側がわから意味いみを負おわされている。
  • 民族みんぞくの精神せいしんロマン主義しゅぎが政治せいじへ出でる回路かいろ各かく民族みんぞくには固有こゆうの魂たましいが宿やどるという考かんがえ。ヘルダーに始はじまり、民謡みんようや民話みんわの収集しゅうしゅうを生うんだ。ここが 126 のナショナリズムへの直ちょく通路つうろになっている。文学ぶんがくの運動うんどうとして始はじまったものが、「固有こゆうの魂たましいには固有こゆうの国家こっかが要いる」という一段いちだんを挟はさんで政治せいじになる。美学びがくが政治せいじに化かける道筋みちすじの代表だいひょう例れいとして押おさえたい。
  • 無限むげんへの憧憬どうけい届とどかないことが要件ようけんの語ごロマン主義しゅぎの作品さくひんを貫つらぬく態度たいど。重要じゅうようなのは、到達とうたつしてはいけないことだ。手てに入はいれば有限ゆうげんになってしまう。憧あこがれ続つづけている状態じょうたいそのものが価値かちとされる。この構造こうぞうは近代きんだいの消費しょうひが満みたされない欲望よくぼうを再生産さいせいさんし続つづける仕組しくみと形かたちが似にており、1-7 で再会さいかいする。
  • 近代きんだい批判ひはんとしてのロマン主義しゅぎ位置いちづけの語ごこの語ごがまとめとして便利べんりなのは、ロマン主義しゅぎの多様たような現あらわれを一本いっぽんの線せんで貫つらぬけるからだ。中世ちゅうせい趣味しゅみも、民話みんわ収集しゅうしゅうも、天才てんさい崇拝すうはいも、廃墟はいきょへの愛あいも、合理化ごうりか・均質化きんしつか・世俗化せぞくかに対たいする抵抗ていこうとして読よめる。ばらばらの現象げんしょうを一ひとつの動機どうきで束たばねる読よみ方かたの練習れんしゅうになる。
格かく中なか

書かき言葉ことば・会話かいわの両方りょうほうで使つかえる。

類るい語ごと差さ
  • リアリズム現実げんじつをありのままに描えがく対たい語ご。写実主義しゃじつしゅぎ。理想化りそうかを退しりぞける。
  • 古典こてん主義しゅぎ調和ちょうわと規範きはんを重おもんじるロマン主義しゅぎが反発はんぱつした先行せんこう様式ようしき。
  • 啓蒙けいもう主義しゅぎ理性りせいの光ひかりを信しんじる☑135。ロマン主義しゅぎはこれへの反はん動どうとして起おこった。
  • 感傷かんしょう主義しゅぎ感情かんじょうに浸ひたる態度たいどロマン主義しゅぎが陥おちいりやすい形かたち。批判ひはん語ごとして使つかわれる。

ENromanticism
ZH浪漫主义(ロマン主義, làngmàn zhǔyì)

啓蒙主義が価値の外へ置いたものを、ロマン主義が拾い直したことを示した図啓蒙主義が理性・普遍・進歩を掲げて外へ置いた感情・自然・民族・過去・夜を、ロマン主義が価値の中心へ運び戻したことを、二つの箱と往復する矢印で示す。 捨てられた側から、価値を組み直す啓蒙が中心に置いた理性普遍進歩その外に置かれた感情・想像力自然・民族過去・夜・廃墟ロマン主義が拾い上げたただし、これは前近代への回帰ではないロマン主義が至上に置いたのは近代が作り出したばかりの「個人の感情」だった批判する側もまた、同じ時代の産物であるそしてここから、民族の魂 → 民族の国家という一段を経て、07 のナショナリズムへ道が通じる
啓蒙けいもうが捨すて、ロマン主義しゅぎが拾ひろう
Section 18

産業さんぎょう革命かくめい

137★

産業革命さんぎょうかくめい

さんぎょうかくめい[5]中高なかだか型がた

語ご構成こうせい
産業さんぎょうものを生うみ出だす営いとなみ+革かわあらためる+命いのち天てんのさだめ
定義ていぎ

十八じゅうはち世紀せいき後半こうはんのヨーロッパから始はじまる、産業さんぎょう社会しゃかいを到来とうらいさせた技術革新ぎじゅつかくしん。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑137
原げん書しょの解説かいせつ

中世ちゅうせいでは職人しょくにんの手てで製品せいひんがつくられていたが、産業さんぎょう革命かくめいの技術革新ぎじゅつかくしんによって、機械きかいを用もちいた工業こうぎょう化かが進行しんこうした。

このことによって、産業さんぎょう資本しほん家かが経済けいざいの主導権しゅどうけんを握にぎるとともに、農村のうそんを離はなれた工場こうじょう労働者ろうどうしゃが増加ぞうかし、資本しほん主義しゅぎが急速きゅうそくに進展しんてんした。

人々ひとびとは物質的ぶっしつてきな豊ゆたかさの享受きょうじゅを通とおして、科学技術かがくぎじゅつの発展はってんや歴史れきしの進歩しんぽを実感じっかんするようになっていった。

使用しようの境界きょうかい

機械きかいと工場こうじょうによる生産せいさん体制たいせいへの転換てんかん。十八じゅうはち世紀せいき後半こうはんのイギリスに始はじまる社会しゃかい全体ぜんたいの変化へんかを指さす。

用法ようほう

評ひょう論文ろんぶんで問とわれるのは技術ぎじゅつの話はなしではなく、それが人ひとと時間じかんに何なにをしたかである。工場こうじょうの時計とけいに合あわせて働はたらくようになり、自然しぜんの周期しゅうきに従したがっていた時間じかん感覚かんかくが均質きんしつな時間じかんに置おき換かわった(☑140)。労働ろうどうは工程こうていに分解ぶんかいされ、作つくった物ものとの結むすびつきが失うしなわれた(☑21 疎そ外がい)。都市としに人ひとが集あつまって村落そんらく共同体きょうどうたい(☑124)が解体かいたいした。この三みっつの帰結きけつを押おさえておくと、多おおくの文章ぶんしょうがつながる。

用例ようれい
  • イングランドの緑みどりなす心地ここちよき地ちに、あの暗くらき悪魔あくまの工場こうじょうが建たてられたのか。ウィリアム・ブレイク『ミルトン』序詩じょし(1808)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    産業さんぎょう革命かくめいに同時どうじ代だいから向むけられた最もっとも鋭するどい一行いちぎょうである。「暗くらき悪魔あくまの工場こうじょう」という五ご文字もじほどの句くが強つよいのは、宗教しゅうきょうの語彙ごいを経済けいざいの対象たいしょうに貼はりつけたからだ。工場こうじょうは効率こうりつの悪わるい施設しせつとしてではなく、魂たましいを奪うばう場所ばしょとして名指なざされている。さらに「緑みどりなす心地ここちよき」と対たいに置おくことで、失うしなわれた側がわを先さきに見みせてから加害かがいの側がわを出だすという順序じゅんじょが取とられている。この一行いちぎょうはのちに賛美歌さんびかとなり、労働ろうどう運動うんどうの歌うたとしても国民的こくみんてきな愛唱あいしょう歌うたとしても歌うたわれた。批判ひはんの言葉ことばが国民こくみんの共有きょうゆう財産ざいさんになるという珍めずらしい経路けいろをたどった句くである。
  • 女工じょこうの日常にちじょうは、実じつに牢獄ろうごくの生活せいかつとその選えらぶところがない。……彼女かのじょらは、ただ機械きかいの一部いちぶとして扱あつかわれているのである。細井ほそい和喜蔵わきぞう『女工じょこう哀史あいし』(1925)
    日本にほんの産業さんぎょう革命かくめいの内側うちがわから書かかれた記録きろくである。著者ちょしゃ自身じしんが紡績ぼうせき工場こうじょうの労働者ろうどうしゃで、妻つまも女工じょこうだった。注目ちゅうもくしたいのは「機械きかいの一部いちぶ」という言いい方かただ。苦くるしいとか可哀想かわいそうだとは書かかない。人ひとがどう扱あつかわれているかの構造こうぞうを一語いちごで示しめす。1-2 の機械論きかいろんが自然しぜんの見方みかただったのに対たいし、ここでは人間にんげんの扱あつかい方ほうになっている — 世界せかいを部品ぶひんの集あつまりと見みる目めは、人ひとにも同おなじように向むく。128 の「労働力ろうどうりょくの商品しょうひん化か」が抽象ちゅうしょう語ごであるのに対たいし、この一節いっせつはその抽象ちゅうしょう語ごが何なにを指さしているかを見みせてくれる。
  • 産業さんぎょう革命かくめいは、生産せいさんの方法ほうほうを変かえただけでなく、人ひとの時間じかんの使つかい方かたそのものを組くみ替かえた。 技術ぎじゅつ史しではなく生活せいかつ史しとして捉とらえるのが評ひょう論文ろんぶんの読よみ筋すじである。日ひの出でとともに働はたらき日没にちぼつとともにやめる暮くらしから、時計とけいが仕事しごとの始はじまりと終おわりを決きめる暮くらしへ。140 の時間じかんの均質化きんしつかとここで直結ちょっけつする。
  • ×スマートフォンの登場とうじょうは第だい二にの産業さんぎょう革命かくめいだ。 通つうじるが、比喩ひゆとして使つかわれていることに自覚じかくが要いる。産業さんぎょう革命かくめいは十八じゅうはち世紀せいき後半こうはんのイギリスに始はじまる固有こゆうの歴史的れきしてき事件じけんを指さす語ごである。大おおきな変化へんかのたびにこの語ごを借かりると、元もとの事件じけんの輪郭りんかくが薄うすれる。評ひょう論文ろんぶんでは「情報じょうほう革命かくめい」など別べつの語ごを立たてるほうがよい。
派生はせい形けい
  • 産業さんぎょう[0]もとは「生せい業ぎょう」に近ちかい語ごだったが、近代きんだいに industry の訳語やくごとなって組織的そしきてきな生産せいさん活動かつどうを指さすようになった。「第一だいいち次つぎ・第だい二次にじ・第だい三次さんじ産業さんぎょう」の分類ぶんるいはこの語ごが経済けいざいの全体ぜんたいを覆おおうようになった証拠しょうこである。
  • 工業こうぎょう[1]産業さんぎょうの一部いちぶ門もん。原げん材料ざいりょうを加工かこうして製品せいひんを作つくる産業さんぎょうを指さす。「産業さんぎょう革命かくめい」を「工業こうぎょう革命かくめい」と訳やくさなかったことには意味いみがある — 変かわったのは工業こうぎょうだけではなく、農業のうぎょうも交こう通つうも生活せいかつも同時どうじに変かわったからだ。
  • 産業化さんぎょうか[0]経済けいざいの外そとへも広ひろがる語ご。「農業のうぎょうの産業さんぎょう化か」「介護かいごの産業さんぎょう化か」のようにそれまで商品しょうひんでなかった営いとなみが市場しじょうに組くみ込こまれることを指さす。批判ひはんの語ごとして使つかわれることが多おおいのは、128 の「資本しほん主義しゅぎ的てき」と同おなじ理由りゆうによる。
コロケーション
  • 工業こうぎょう化か過程かていを言いう語ご産業さんぎょう革命かくめいが一回いっかいの事件じけんを指さすのに対たいし、工業こうぎょう化かは各国かっこくで繰くり返かえされた過程かていを指さす。この区別くべつが要いるのは、後発こうはつ国こくの工業こうぎょう化かがイギリスの産業さんぎょう革命かくめいとは違ちがう形かたちをとったからだ。国家こっかが主導しゅどうし、技術ぎじゅつを輸入ゆにゅうし、数十すうじゅう年ねんで駆かけ抜ぬける — 119 の後発こうはつの近代きんだい化かと同おなじ構図こうずである。
  • 労働ろうどうの疎そ外がい働はたらき方ほうを問とう語ご働はたらく者ものが自分じぶんの作つくったものからも、働はたらく行為こういそのものからも切きり離はなされること。手て仕事しごとなら、作つくったものに自分じぶんが現あらわれている。分業ぶんぎょうと機械きかい化かのもとでは、自分じぶんが何なにを作つくっているのかさえ分わからない。『女工じょこう哀史あいし』の「機械きかいの一部いちぶ」はこの状態じょうたいの描写びょうしゃである。
  • 都市としへの人口じんこう集中しゅうちゅう空間くうかんが変かわる語ご産業さんぎょう革命かくめいの最もっとも目めに見みえる帰結きけつ。重要じゅうようなのは、これが二に重じゅうの切断せつだんだったことだ。農村のうそんを出でるとは土地とちからの切断せつだんであり、同時どうじに124 の共同体きょうどうたいからの切断せつだんでもある。都市としの孤独こどくは産業さんぎょう革命かくめいの副産物ふくさんぶつではなく、その労働力ろうどうりょく供給きょうきゅうの条件じょうけんだった。
  • 産業さんぎょう革命かくめいの代償だいしょう差さ引ひきの語ご生産せいさん力りょくの飛躍ひやくと引ひき換かえに支払しはらわれたもの。児童じどう労働ろうどう、公こう害がい、そして時間じかんの私有しゆうの喪失そうしつ。この語ごが有効ゆうこうなのは、豊ゆたかになったことを否定ひていせずに批判ひはんできるからだ。119 の「近代きんだい化かの代償だいしょう」と同おなじ構文こうぶんであり、近代きんだいを語かたる評ひょう論文ろんぶんの基本きほんの型かたである。
格かく中なか

書かき言葉ことば・会話かいわの両方りょうほうで使つかえる。

類るい語ごと差さ
  • 近代きんだい化か封建ほうけん社会しゃかいを脱だつする過程かてい☑119。産業さんぎょう革命かくめいはその経済的けいざいてきな側面そくめん。
  • 工業こうぎょう化か産業さんぎょうの中心ちゅうしんが工業こうぎょうに移うつる経済けいざいの記述きじゅつ。産業さんぎょう革命かくめいは生活せいかつと社会しゃかい構造こうぞうの変化へんかまで含ふくむ。
  • 資本しほん主義しゅぎ利潤りじゅんを追求ついきゅうして資本しほんを増ふやす☑128。産業さんぎょう革命かくめいがその発展はってんを決定けっていづけた。
  • 技術革新ぎじゅつかくしん新あたらしい技術ぎじゅつが生うまれる出来事できごと。産業さんぎょう革命かくめいはそれが社会しゃかいを作つくり変かえた事態じたいを指さす。

ENthe Industrial Revolution
ZH工业革命(産業革命, gōngyè gémìng)

日の出と日没に沿った一日と、時計に区切られた一日を上下に並べた図上段は日の出から日没まで、仕事の量と季節に応じて伸び縮みする一日。下段は始業と終業が時刻で決められ、季節にも仕事の中身にも影響されない一日。 一日を、何が区切るかBEFORE日の出日没仕事は日の高さに合わせる長さは季節で変わり、忙しさは仕事の中身で決まるAFTER労働時間八時十七時長さは一年じゅう同じで、仕事の中身とも無関係である時間で賃金を払うには、誰にとっても同じ長さの一時間が無ければならない21 の時間の均質化は、ここで賃労働の条件として要請される
日ひの時間じかんから、時計とけいの時間じかんへ
Section 19

全体ぜんたい主義しゅぎ

138★

全体主義ぜんたいしゅぎ

ぜんたいしゅぎ[0]平板へいばん型がた

語ご構成こうせい
全体ぜんたいすべて・まとまり+主義しゅぎ立場たちば
定義ていぎ

個人こじんの自由じゆうや権利けんりよりも国家こっかの利益りえきを優先ゆうせんさせる考かんがえ方かた。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑138
原げん書しょの解説かいせつ

全体ぜんたい主義しゅぎとは、「国家こっか全体ぜんたいの利益りえきのために、個人こじんはすべてを捨すてて国家こっかに尽つくすべき」という考かんがえ方かたである。

広ひろい意味いみでは、第だい二次にじ世界せかい大戦たいせん時じのドイツ・イタリア・日本にほん、戦後せんごのソ連れんなどの共産主義きょうさんしゅぎ諸国しょこくがこれに当あてはまる。

全体ぜんたい主義しゅぎ国家こっかの特徴とくちょうとして、

などが挙あげられる。

使用しようの境界きょうかい

全体ぜんたいの利益りえきのために個人こじんを従属じゅうぞくさせる立場たちば。強きょう権けん的てきな支配しはい一般いっぱんではなく、個人こじんの否定ひていという点てんに核かくがある。

用法ようほう

要点ようてんは上うえから押おしつけられるだけではないという点てんにある。アレントが分析ぶんせきしたように、全体ぜんたい主義しゅぎは孤立こりつした個人こじんが全体ぜんたいへの一体いったい感かんを求もとめることによって支ささえられる。だから☑124 共同体きょうどうたいの崩壊ほうかいと☑123 個人こじんの孤独こどくが、そのまま全体ぜんたい主義しゅぎの土壌どじょうになる。原げん書しょの入試にゅうし文ぶんが「孤独こどくゆえに求もとめられる共同体きょうどうたい」を警戒けいかいするのも同おなじ理由りゆうである。民みん主しゅ主義しゅぎの対極たいきょくに置おかれるが、民みん主しゅ主義しゅぎから生うまれうるという点てんが読解どっかいの急所きゅうしょになる。

用例ようれい
  • すべては国家こっかのうちにあり、国家こっかの外そとには何なにものもなく、国家こっかに反はんするものは何なにものもない。ベニート・ムッソリーニ(1925年ねんの演説えんぜつ)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    全体ぜんたい主義しゅぎが自分じぶんを定義ていぎした言葉ことばである。批判ひはんではなく自己じこ紹介しょうかいであることが重要じゅうようだ。三みっつの句くが内ない・外そと・反はんを順じゅんに塞ふさいでいく構造こうぞうに注意ちゅういしたい。「うちにある」で場所ばしょを、「外そとに何なにもない」で逃にげ場ばを、「反はんするものはない」で反対はんたいする権利けんりそのものを消けしている。専制せんせいと全体ぜんたい主義しゅぎの差さはここにある — 専制せんせいは服従ふくじゅうを求もとめるが、全体ぜんたい主義しゅぎは同意どういまで求もとめる。黙だまって従したがうことすら「反はんするもの」に数かぞえられてしまうのだ。123 の個人こじんという単位たんいが原理げんり的てきに存在そんざいを許ゆるされない状態じょうたいが、この一文いちぶんに書かかれている。
  • 戦争せんそうは平和へいわである。自由じゆうは隷従れいじゅうである。無知むちは力ちからである。ジョージ・オーウェル『一いち九きゅう八はち四よん年ねん』(1949)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    全体ぜんたい主義しゅぎが言語げんごに何なにをするかを示しめした三さん句くである。これらは嘘うそではない。嘘うそなら、正ただしい記述きじゅつと突つき合あわせて反証はんしょうできる。そうではなく、語ごと語ごの結むすびつきそのものを断たち切きっているのだ。「自由じゆう」という語ごが「隷従れいじゅう」と等とう号ごうで結むすばれてしまえば、自由じゆうを求もとめる言葉ことばが作つくれなくなる。1-3 で見みた言葉ことばが世界せかいを分節ぶんせつするという働はたらきが、ここでは支配しはいの技術ぎじゅつとして使つかわれている。思想しそうを取とり締しまるより、思想しそうを組くみ立たてる部品ぶひんを壊こわすほうが早はやい — オーウェルの発見はっけんはここにある。
  • 全体ぜんたい主義しゅぎは、公こうと私わたしの境さかいを消けし、私生活しせいかつの領域りょういきそのものを認みとめない点てんで、旧来きゅうらいの専制せんせいとは異ことなる。 専制せんせいとの差さを一点いってんに絞しぼるのが読解どっかいの要かなめである。専制君主せんせいくんしゅは税ぜいと服従ふくじゅうを取とれば寝室しんしつには関心かんしんがない。全体ぜんたい主義しゅぎは誰だれと結婚けっこんし、何なにを読よみ、何なにを夢ゆめに見みるかまで関心かんしんを持もつ。123 の「個人こじんの内面ないめん」という空間くうかんが接収せっしゅうされるのだ。
  • ×校こう則そくが厳きびしくて、うちの学校がっこうは全体ぜんたい主義しゅぎ的てきだ。 通つうじるが、語ごの重おもさに対象たいしょうが釣つり合あっていない。評ひょう論語ろんごの全体ぜんたい主義しゅぎは一いち党とう独裁どくさい・大衆たいしゅう動員どういん・秘密ひみつ警察けいさつ・テロルを備そなえた二十にじゅう世紀せいきの体制たいせいを指さす。管理かんりの強つよさを言いいたいなら「管理かんり主義しゅぎ的てき」「画一的かくいつてき」。強つよい語ごを安やすく使つかうと、いざ本物ほんものを指さすときに言葉ことばが効きかなくなる。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

反はん 個人こじん主義しゅぎ

派生はせい形けい
  • 全体ぜんたい[0]それ自体じたいは中立ちゅうりつの語ご。1-2 の全体ぜんたい論ろん(ホーリズム)の「全体ぜんたい」と同おなじ字じだが、向むきがまるで違ちがう。全体ぜんたい論ろんは部分ぶぶんに還元かんげんできないと言いうだけだが、全体ぜんたい主義しゅぎは部分ぶぶんに価値かちを認みとめない。同おなじ語ごから認識論にんしきろんと政治せいじ体制たいせいが分わかれる。
  • 全体主義的ぜんたいしゅぎてき[0]体制たいせいでないものに性格せいかくだけを言いうための形かたち。「全体ぜんたい主義しゅぎ的てきな傾向けいこう」なら体制たいせいでなくても使つかえる。「的てき」を付つけることで断定だんていを緩ゆるめ、射程しゃていを広ひろげる — 評ひょう論文ろんぶんで頻用ひんようされる手続てつづきである。
  • 権威主義けんいしゅぎ[5]混同こんどうされやすい隣となりの語ご。権威けんい主義しゅぎは政治的せいじてき自由じゆうを奪うばうが、私生活しせいかつにはあまり踏ふみ込こまない。全体ぜんたい主義しゅぎは私生活しせいかつもイデオロギーで満みたそうとする。沈黙ちんもくが許ゆるされるかどうかが実際的じっさいてきな見分みわけ方ほうになる。
コロケーション
  • 大衆たいしゅうの動員どういん全体ぜんたい主義しゅぎの駆動輪くどうりん全体ぜんたい主義しゅぎが強制きょうせいだけで動うごいていないことを示しめす語ご。行進こうしんも、集会しゅうかいも、参加さんかした側がわに高揚こうようを与あたえた。孤立こりつした個人こじんにとって「我々われわれ」に加くわわることは救すくいでもある — ここが全体ぜんたい主義しゅぎの最もっとも理解りかいしにくく、最もっとも重要じゅうような点てんだ。1-7 の大衆たいしゅう社会しゃかい論ろんはこの問といから始はじまる。
  • 画一化かくいつか内側うちがわをそろえる語ご服ふく装そう・言葉ことば・思考しこうを一様いちようにすること。140 の均質化きんしつかと同おなじ操作そうさが人ひとに向むいた形かたちである。注意ちゅういしたいのは、画一化かくいつかは全体ぜんたい主義しゅぎの専売せんばいではないことだ。学校がっこうも工場こうじょうも軍ぐん隊たいも、近代きんだいの組織そしきはどれも画一化かくいつかを必要ひつようとする。程度ていどの差さか、質しつの差さかが議論ぎろんの分わかれ目めになる。
  • 全体ぜんたい主義しゅぎの温床おんしょう条件じょうけんを問とう語ご何なにがこの体制たいせいを生うむのかという問とい。答こたえとして繰くり返かえし挙あげられるのは共同体きょうどうたいを失うしない、国家こっかに直接ちょくせつ向むき合あう孤立こりつした個人こじんである。中間ちゅうかん集団しゅうだんがすり減へった社会しゃかいほど全体ぜんたい主義しゅぎに弱よわい。124 の共同体きょうどうたいの解体かいたいが単たんなる喪失そうしつではなく危険きけんな空白くうはくでもあると言いわれる理由りゆうがここにある。
  • 日常にちじょうのなかの全体ぜんたい主義しゅぎ射程しゃていを広ひろげる語ご体制たいせいとしては終おわったが、その構かまえは残のこっていると見みる言いい方かた。空気くうきを読よむこと、異論いろんを「和わを乱みだす」と扱あつかうこと、相互そうご監視かんしが自発的じはつてきに働はたらくこと。1-4 の 83 の世間せけんとここで交差こうさする。命令めいれい者しゃのいない全体ぜんたい主義しゅぎという論点ろんてんが、現代げんだいの評ひょう論文ろんぶんでは主流しゅりゅうである。
格かく硬かた

書かき言葉ことば。会話かいわでは不自然ふしぜん。

類るい語ごと差さ
  • 個人こじん主義しゅぎ個人こじんの自由じゆうと自立じりつを重おもんじる対たい語ご。何なにを単位たんいに置おくかで分わかれる。
  • 独裁どくさい一人ひとりまたは少数しょうすうが権力けんりょくを握にぎる権力けんりょくの集中しゅうちゅうを言いう。全体ぜんたい主義しゅぎは人々ひとびとの自発的じはつてきな動員どういんを含ふくむ。
  • ファシズム二十にじゅう世紀せいきの全体ぜんたい主義しゅぎ的てきな運動うんどう歴史上れきしじょうの具体ぐたい形けい。全体ぜんたい主義しゅぎはより一般的いっぱんてきな概念がいねん。
  • 民みん主しゅ主義しゅぎ国民こくみんが主権しゅけんをもつ☑127。対極たいきょくとされるが、多数たすうの名なにおいて全体ぜんたい主義しゅぎが生しょうじうる点てんが問題もんだいになる。

ENtotalitarianism
ZH极权主义(全体主義, jíquán zhǔyì)

全体主義が生まれる土壌共同体の崩壊によって孤立した個人が全体への一体感を求め、全体主義が支えられる流れを示した図。 共同体の崩壊 個人の孤立と不安 一体感を求める 全体主義 自発的に 動員される 上から押しつけられるだけではない。孤独が下から支えている。 民主主義の対極にありながら、民主主義から生まれうる
全体ぜんたい主義しゅぎが生うまれる土壌どじょう
Section 20

アナキズム

139★

アナキズム

アナキズム[3]中高なかだか型がた

定義ていぎ

国家こっかや法ほうなどの一切いっさいの社会的しゃかいてき権力けんりょくを否定ひていして、個人こじんの自由じゆうや独立どくりつを重視じゅうしする考かんがえ方かた。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑139
原げん書しょの解説かいせつ

無む政府せいふ主義しゅぎともよばれる政治せいじ思想しそうの一ひとつ。

近代きんだいになり、社会しゃかい主義しゅぎ思想しそうとともに台頭たいとうしてきた。

明治めいじ末まつから大正たいしょう時代じだいにかけての日本にほんでは、アナキズムは一時いちじ、マルクス主義しゅぎ(=資本しほんを社会しゃかい共有きょうゆうの財産ざいさんとして、階級かいきゅうのない社会しゃかいの実現じつげんを望のぞむ考かんがえ方かた)をしのぐほどの勢いきおいいがあった。

近年きんねんでも、「他者たしゃの自由じゆうを侵害しんがいしない限かぎり個人こじんの自由じゆうを尊重そんちょうする」という考かんがえ方かたのリバタリアニズムの動うごきとも連動れんどうし、再ふたたび注目ちゅうもくされている。

ただし、リバタリアニズムには、

という側面そくめんもある。

一方いっぽう、アナキズムは、グローバリズム(=世界せかいを一ひとつの共同体きょうどうたいと考かんがえて、環境かんきょう問題もんだい・食料しょくりょう問題もんだいなどを解決かいけつしようとする考かんがえ方かた)に反対はんたいする動うごきであるアンチグローバリズムとも関係かんけいしている。

使用しようの境界きょうかい

国家こっかなどの権力けんりょくによる支配しはいを否定ひていし、個人こじんの自由じゆうな結むすびつきを目指めざす立場たちば。無秩序むちつじょを望のぞむことではない。

用法ようほう

語源ごげんは「支配しはい者しゃがいない」であって「秩序ちつじょがない」ではない。この一点いってんが誤解ごかいの源みなもとになる。アナキズムは、国家こっかという強制きょうせい装置そうちがなくても人々ひとびとは自発的じはつてきに秩序ちつじょをつくれると考かんがえる立場たちばであり、☑6 混沌こんとんを望のぞんでいるのではない。評ひょう論文ろんぶんでは、国家こっかや制度せいどを自明じめいの前提ぜんていとしない視点してんを示しめす語ごとして現あらわれる。日常にちじょう語ごの「アナーキー」は〈無秩序むちつじょで混乱こんらんした〉の意いで使つかわれるので、こちらと読よみ分わける。

用例ようれい
  • 所有しょゆう、それは盗ぬすみである。ピエール=ジョゼフ・プルードン『所有しょゆうとは何なにか』(1840)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    四よん語ごで成なり立たつ、思想史しそうし上じょうもっとも効率こうりつのよい挑発ちょうはつである。巧たくみなのは、盗ぬすみという概念がいねんが所有しょゆうを前提ぜんていにしていることだ。所有しょゆうがなければ、盗ぬすみという語ご自体じたいが成なり立たたない。つまりこの一句いっくは所有しょゆうを、所有しょゆうの語彙ごいで否定ひていしている — 自分じぶんの足元あしもとを自分じぶんで崩くずす形かたちになっている。マルクスはこれを論理ろんりとして不整合ふせいごうだと批判ひはんしたが、不整合ふせいごうであることがこの句くの力ちからであるとも言いえる。読よむ者ものは一瞬いっしゅん立たち止どまり、所有しょゆうという語ごが何なにを前提ぜんていにしていたかを考かんがえざるをえない。122 のルソーの「囲かこい」と同おなじ場所ばしょを、別べつの手てつきで撃うっている。
  • 動物どうぶつ界かいにおける相互扶助そうごふじょは、相互そうご闘争とうそうと少すくなくとも同おなじ程度ていどに広ひろく行おこなわれている。……最もっとも適てきしたものとは、肉体にくたい的てきに最もっとも強つよいものでも最もっとも狡猾こうかつなものでもなく、互たがいに支ささえ合あうことを学まなんだものである。ピョートル・クロポトキン『相互扶助そうごふじょ論ろん』(1902)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    アナキズムを倫理りんりではなく自然しぜん誌しの上うえに建だてようとした一節いっせつである。当時とうじ、進化論しんかろんは競争きょうそうと適者てきしゃ生存せいぞんの名なで資本しほん主義しゅぎと帝国ていこく主義しゅぎを正当化せいとうかする道具どうぐになっていた。クロポトキンはその同おなじ進化論しんかろんの内側うちがわから別べつのデータを出だした — 協力きょうりょくする種しゅのほうが生いき残のこっている、と。議論ぎろんの運はこびとして学まなぶべきは、相手あいての土俵どひょうを降おりずに結論けつろんを逆転ぎゃくてんさせた点てんだ。「自然しぜんに反はんする」と言いえば負まけを認みとめることになる。「それは自然しぜんの一いち面めんしか見みていない」と言いえば、同おなじ武器ぶきが使つかえる。
  • アナキズムは、無秩序むちつじょを望のぞむのではなく、支配しはいのない秩序ちつじょが可能かのうだと考かんがえる立場たちばである。 誤解ごかいを先さきに潰つぶす定型ていけいである。ギリシア語ご an-arkhē は「支配しはい者しゃがいない」であって「秩序ちつじょがない」ではない。相互扶助そうごふじょ・自じ治ち・連合れんごうという別べつの秩序ちつじょの設計せっけいを持もっている点てんで、132 のニヒリズムとはまったく違ちがう。
  • ×規則きそくを無視むしして好すき勝手かってにやる、アナキズムな奴やつだ。 「アナーキー」と混同こんどうしている。日常にちじょう語ごの「アナーキー」は無秩序むちつじょ・混乱こんらんの意いで、アナキズムという思想しそうの名なとは別べつである。身勝手みがってさを言いいたいなら「無む軌道きどう」「自分じぶん勝手かって」。思想しそうの名なを性格せいかくの悪わるさの言いい換かえに使つかうと、その思想しそうが何なにを主張しゅちょうしたかが永久えいきゅうに読よめなくなる。
派生はせい形けい
  • アナーキー[1]状態じょうたいを指さす語ご。日本語にほんごではほぼ無秩序むちつじょ・混乱こんらんの意いで使つかわれ、否定的ひていてき。思想しそうの名なとしてのアナキズムとは切きり離はなして覚おぼえる。
  • 無政府主義むせいふしゅぎ[5]明治めいじ期きからの訳語やくご。「無む政府せいふ」の字面じづらが混乱こんらんを連想れんそうさせるため、当事者とうじしゃはこの訳やくを嫌いやうことが多おおい。訳語やくごが思想しそうの受うけ取とられ方ほうを決きめてしまった例れいとして、133 の「功利こうり」と並ならべて覚おぼえたい。
  • アナキスト[4]担にない手てを指さす語ご。日本にほんでは大杉栄おおすぎさかえ・伊藤いとう野枝のえらが知しられる。暴力ぼうりょく的てきな人物像じんぶつぞうが広ひろまっているが、思想しそうとしては非ひ暴力ぼうりょくの系譜けいふも太ふとい。代表的だいひょうてきなイメージがその思想しそうの全体ぜんたいだと思おもい込こまないのが、評ひょう論文ろんぶんを読よむ基本きほんである。
コロケーション
  • 相互扶助そうごふじょアナキズムの土台どだい支配しはいなしに秩序ちつじょが成なり立たつと言いうためには、人ひとが命令めいれいなしに助たすけ合ごうえることを示しめさねばならない。クロポトキンが動物どうぶつと中世ちゅうせい都市としの事例じれいを積つみ上あげたのはそのためだ。思想しそうの主張しゅちょうは、たいてい人間にんげん観かんの主張しゅちょうに支ささえられている — その土台どだいを探さがす読よみ方かたの練習れんしゅうになる。
  • 国家こっかの廃絶はいぜつ目標もくひょうとしての語ごアナキズムと社会しゃかい主義しゅぎを分わける一点いってん。マルクス主義しゅぎはまず国家こっかを握にぎり、そのあと国家こっかが死滅しめつすると考かんがえた。アナキズムは握にぎった瞬間しゅんかんに手放てばなせなくなると見みた。二十にじゅう世紀せいきの歴史れきしはどちらの予測よそくに軍配ぐんばいを上あげたか — この問といは評ひょう論文ろんぶんで繰くり返かえし立たてられる。
  • 自じ主しゅ管理かんり実際じっさいの形かたち工場こうじょうや地域ちいきを、そこで働はたらき暮くらす者ものが自分じぶんたちで運営うんえいすること。この語ごが要いるのは、アナキズムが否定ひていだけの思想しそうではないと示しめすためだ。協同組合きょうどうくみあい、スペイン内戦ないせん下したの集しゅう産さん化か、現代げんだいのコモンズ論ろんまで、実装じっそうの系譜けいふがある。
  • アナルコ・サンディカリスム労働ろうどう運動うんどうと結むすぶ語ご労働ろうどう組合くみあいを新あたらしい社会しゃかいの骨組ほねぐみそのものと見みる立場たちば。政党せいとうを経由けいゆせず、ゼネストで社会しゃかいを組くみ替かえると考かんがえた。日本にほんでは大杉栄おおすぎさかえらがこの線せんに立たち、議会ぎかい主義しゅぎとの対立たいりつが大正たいしょう期きの運動うんどうを割わった。手段しゅだんの違ちがいが運動うんどうを分わける典型例てんけいれいである。
格かく硬かた

書かき言葉ことば。会話かいわでは不自然ふしぜん。

類るい語ごと差さ
  • 無む政府せいふ主義しゅぎ訳語やくご国家こっかを否定ひていする点てんを明示めいじした訳やく。混乱こんらんを望のぞむという誤解ごかいを招まねきやすい。
  • 混沌こんとん区別くべつが立たたない状態じょうたい☑6。アナキズムは秩序ちつじょを否定ひていしない。自発的じはつてきな秩序ちつじょを求もとめる。
  • 自由じゆう主義しゅぎ国家こっかの介入かいにゅうを抑おさえる国家こっか自体じたいは認みとめる。アナキズムは国家こっかそのものを否定ひていする。
  • 社会しゃかい主義しゅぎ生産せいさん手段しゅだんを共有きょうゆうする☑129。国家こっかによる統制とうせいを認みとめる点てんで分わかれる。

ENanarchism
ZH无政府主义(無政府主義, wúzhèngfǔ zhǔyì)

国家を維持する・国家を握ってから死滅させる・国家を経由しないという三つの構えを並べた図自由主義は国家を最小限に保ち、マルクス主義は国家を握ってからやがて死滅させると考え、アナキズムは国家を経由せずに相互扶助と自治で秩序を作ろうとする。三本の道筋を横並びの矢印で示す。 国家を、通るか通らないか自由主義国家国家は残す。ただし小さく保つマルクス主義国家まず握る。やがて死滅する ── はずだったアナキズム国家経由しない。相互扶助と自治で直接つなぐ握った瞬間に手放せなくなる ── これがアナキズムの予測だった無秩序を望むのではない。支配のない秩序を設計するan-arkhē = 支配者がいない。「秩序がない」とは書かれていない
国家こっかをめぐる三みっつの構かまえ
Section 21

時間じかん・空間くうかんの均質化きんしつか

140★

時間・空間の均質化じかん・くうかんのきんしつか

じかん・くうかんのきんしつか[0]平板へいばん型がた

語ご構成こうせい
均ひとしひとしい+質しつなかみ+化かそうなる
定義ていぎ

時間じかんや空間くうかんが、客観的きゃっかんてきに測定そくてい可能かのうなものとなること。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑140
原げん書しょの解説かいせつ

近代きんだいは、多おおくのものが均質化きんしつかしていく時代じだいだった。

たとえば人ひとが生いきる空間くうかんは、記憶きおくや愛あい着ちゃくなどによって意味いみづけされるものだ。

しかし、デカルトが発明はつめいした座標ざひょう軸じくという考かんがえ方かたは、空間くうかんからそうした意味いみをはぎ取とって、数値すうちとして表現ひょうげんすることが可能かのうな機械的きかいてき・抽象的ちゅうしょうてきな空間くうかん概念がいねんを定着ていちゃくさせた。

時間じかんについても、近代きんだい以前いぜんは「円環えんかん時間じかん」とよばれる自然しぜんのリズムをベースにした時間じかん意識いしきを人々ひとびとはもっていたが、機械きかい時計とけいの出現しゅつげんによって、主体しゅたい的てきな時間じかん感覚かんかくや、季節きせつ・場所ばしょに関かかわりのない人工的じんこうてきで平等びょうどうな時間じかん意識いしきがもたらされた。

このような時間じかんと空間くうかんの均質化きんしつかは、人々ひとびとの労働ろうどうのあり方かたも根本的こんぽんてきに変かえていった。

たとえば、客観的きゃっかんてきな時間じかんは、貨幣かへいによっても換算かんさんされ、人々ひとびとの労働ろうどうは時間じかんをモノサシとした賃金ちんぎん労働ろうどうへと変かわっていく。

また、均質きんしつ的てきな空間くうかん概念がいねんは、自然しぜんを利用りよう可能かのうな空間くうかんとしてとらえ、人間にんげんの都合つごうに合あわせて自然しぜんを支配しはいする意識いしきへとつながっていった。

使用しようの境界きょうかい

場所ばしょごと・時期じきごとの固有こゆうの意味いみが失うしなわれ、どこも同おなじ、いつも同おなじとして扱あつかわれるようになること。

用法ようほう

近代きんだい批判ひはんの中核ちゅうかくをなす語ごである。近代きんだい以前いぜん、時間じかんは季節きせつと祭まつりによって質しつが違ちがい、空間くうかんは聖せいと俗ぞく、内ないと外そとで意味いみが違ちがった。近代きんだいはそれをどこでも同おなじ一時間いちじかん、どこでも同おなじ一いちメートルに置おき換かえた。これによって測定そくてい・比較ひかく・管理かんりが可能かのうになり、鉄道てつどうと工場こうじょうと国民こくみん国家こっかが成なり立たった。失うしなわれたのは場所ばしょの固有こゆう性せいと時間じかんの厚あつみである。☑137 産業さんぎょう革命かくめい・☑42 機械論きかいろん・☑9 対象たいしょう化かと一本いっぽんの線せんでつながる。

用例ようれい
  • 我々われわれは持続じぞくを空間くうかんに投影とうえいし、継起けいきを並置へいちの形かたちで表現ひょうげんする。そのとき持続じぞくは、我々われわれにとって等とう質的しつてきな媒ばい質しつという形かたちをとる。アンリ・ベルクソン『時間じかんと自由じゆう』(1889)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    均質きんしつな時間じかんがどのように作つくられるかを説明せつめいした一節いっせつである。ベルクソンによれば、本当ほんとうに生いきられている時間じかん(持続じぞく)は均質きんしつではない。退屈たいくつな一時間いちじかんと夢中むちゅうの一時間いちじかんは同おなじ長ながさではない。ではなぜ我々われわれは時間じかんを等ひとしい目盛めもりで数かぞえられるのか — 時間じかんを空間くうかんに置おき換かえているからだ。時計とけいの文字盤もじばんは時間じかんを円周えんしゅう上じょうの距離きょりに翻訳ほんやくする装置そうちである。均質きんしつな時間じかんとは、空間くうかん化かされた時間じかんのことだというこの指摘してきが、140 という語ごの芯しんにある。便利べんりさの代償だいしょうとして生いきられた濃淡のうたんが目盛めもりから落おちる。
  • 月つき日ひは百ひゃく代だいの過客かかくにして、行いきかふ年としも又また旅人たびびと也なり。……予よもいづれの年としよりか、片雲へんうんの風かぜにさそはれて、漂泊ひょうはくの思おもひやまず。松尾まつお芭蕉ばしょう『おくのほそ道みち』冒頭ぼうとう(1702)
    均質化きんしつかされる前まえの時間じかんと空間くうかんがどんなものだったかを見みせてくれる一節いっせつである。月つき日ひは目盛めもりではなく旅人たびびとだ。過すぎていくのではなく、訪おとずれて去さっていく。空間くうかんも同おなじで、この紀行きこうに出でてくる土地とちは座標ざひょうではなく、歌枕うたまくらとして意味いみを帯おびた場所ばしょである。白河しらかわの関せきを越こえることは何なにキロ移動いどうすることではなく、別べつの意味いみの圏けんに入はいることだった。140 の均質化きんしつかとは、この「場所ばしょ」を「地点ちてん」に、この「時節じせつ」を「時刻じこく」に変かえる操作そうさである。芭蕉ばしょうの一行いちぎょうがいまも人ひとを打うつのは、我々われわれが失うしなったものの見本みほんとして読よめてしまうからでもある。
  • 標準ひょうじゅん時じの制定せいていと地図ちずの測量そくりょうによって、時間じかん・空間くうかんの均質化きんしつかは国家こっかの事業じぎょうとして完成かんせいした。 均質化きんしつかが自然しぜんに起おきたのではなく施行しこうされたことを押おさえておきたい。日本にほん標準ひょうじゅん時じは一いち八はち八はち八はち年ねん、鉄道てつどうと電でん信しんが各地かくちの時刻じこくを一ひとつに揃そろえることを要求ようきゅうした。125 の国民こくみん国家こっかが国民こくみんを均質化きんしつかしたのと同おなじ手てつきである。
  • ×どの部屋へやも同おなじ広こうさにして、空間くうかんを均質化きんしつかした。 通つうじるが、物理的ぶつりてきな配置はいちの話はなしに概念がいねん語ごを使つかっている。評ひょう論語ろんごの 140 は場所ばしょごとの意味いみや質しつの差さが消きえ、どこも交換こうかん可能かのうな等ひとしい単位たんいになるという事態じたいを指さす。部屋へやの広こうさを揃そろえるだけなら「統一とういつする」「そろえる」で足たりる。
派生はせい形けい
  • 均質きんしつ[0]どこを取とっても同おなじ性質せいしつであること。「等とう質しつ」とほぼ同義どうぎだが、「等とう質しつ」は数学すうがく・物理ぶつりで、「均質きんしつ」は社会しゃかいや物質ぶっしつで使つかわれやすい。反対はんたいは「不均質ふきんしつ」「異質いしつ」。
  • 均質化きんしつか[0]過程かていを言いう語ご。注意ちゅういしたいのは、「平等びょうどう化か」とは違ちがうことだ。平等びょうどう化かは格差かくさを減へらすという価値かちを含ふくむが、均質化きんしつかは差さそのものを消けす。格差かくさは残のこしたまま均質化きんしつかは進すすみうる。
  • 画一かくいつ[0]人ひとや制度せいどに向むいた語ご。「画一的かくいつてきな教育きょういく」のように否定的ひていてきに使つかうのが普通ふつう。均質化きんしつかが中立ちゅうりつに過程かていを述のべるのに対たいし、画一かくいつはすでに批判ひはんが入はいっている。同おなじ事態じたいをどちらの語ごで書かくかで、文章ぶんしょうの立場たちばが決きまる。
コロケーション
  • 抽象的ちゅうしょうてきな空間くうかん場所ばしょを失うしなった空間くうかん意味いみを剥はぎ取とられ、座標ざひょうだけになった空間くうかん。「場所ばしょ」との対たいで使つかう。場所ばしょには思おもい出でも名前なまえも祭まつりもあるが、空間くうかんには面積めんせきと用途ようと地域ちいきしかない。土地とちを売うり買かいできるようにするには、まず場所ばしょを空間くうかんに変かえなければならない — 122 の私的してき所有しょゆうとここでつながる。
  • 時計とけいの時間じかん身体しんたいから離はなれた時間じかん日ひの高たかさや腹はらの空そらき具合ぐあいではなく、外部がいぶの装置そうちが示しめす数値すうちに生活せいかつを合あわせること。注目ちゅうもくしたいのは、これが賃労働ちんろうどうの条件じょうけんだという点てんだ。時間じかんで賃金ちんぎんを払はらうには、誰だれにとっても同おなじ長ながさの一時間いちじかんが存在そんざいしなければならない。137 の産業さんぎょう革命かくめいがこの時間じかんを必要ひつようとした。
  • どこも同おなじ風景ふうけい均質化きんしつかの見みえる形かたち駅前えきまえのどこにでもある店みせの並ならび。この現象げんしょうが示しめすのは、均質化きんしつかが強制きょうせいではなく効率こうりつの結果けっかとして進すすむことだ。誰だれも「同おなじにせよ」と命めいじていない。同おなじ設計せっけいがどこでも最もっとも安やすいから同おなじになる。意図いとなき均質化きんしつかこそが現代げんだいの姿すがたである。
  • 均質化きんしつかへの抵抗ていこう逆向ぎゃくむきの運動うんどう地域ちいきの固有こゆう性せいを取とり戻もどそうとする動うごき。ここで注意ちゅういしたいのは、取とり戻もどされた固有こゆう性せいがしばしば商品しょうひんになることだ。「その土地とちらしさ」が観光かんこう資源しげんとして整ととのえられるとき、抵抗ていこうが均質化きんしつかの一いち形態けいたいに回収かいしゅうされる。1-7 でこの循環じゅんかんをもう一度いちど扱あつかう。
格かく硬かた・学術がくじゅつ

論文ろんぶん・評ひょう論ろんでのみ使つかう。会話かいわでは不自然ふしぜん。

類るい語ごと差さ
  • 画一化かくいつかすべて同おなじ形かたちにそろえる結果けっかの記述きじゅつ。均質化きんしつかは意味いみの差さが消きえる過程かていを言いう。
  • 抽象ちゅうしょう化か共通きょうつうする性質せいしつを抜ぬき出だす☑4。均質化きんしつかは空間くうかんと時間じかんに対たいして行おこなわれた抽象ちゅうしょう化かだと言いえる。
  • 合理化ごうりか筋道すじみちと効率こうりつで整ととのえる☑12。均質化きんしつかはその前提条件ぜんていじょうけんになる。測はかれなければ管理かんりできない。
  • グローバル化か世界せかいが一ひとつに結むすばれる現代げんだいの現象げんしょう。均質化きんしつかはその基盤きばんとなった変化へんか。

ENhomogenisation of time and space
ZH时空的均质化(時空の均質化, shíkōng de jūnzhìhuà)

時間・空間の均質化質の異なっていた時間と空間が、どこでも同じ単位に置き換えられた過程を示した図。 近代以前 ── 質が違う 祭りの時日常農繁期 時間ごとに意味が違った 聖なる地むらの内むらの外 場所ごとに意味が違った 均質化 近代 ── どこも同じ、いつも同じ … 測れるようになった代わりに、場所の固有性と時間の厚みが失われた
質しつの違ちがいが、単位たんいに置おき換かわった
Meta — 俯瞰ふかん

二十二にじゅうに語ごを上うえから見みる

この章しょうの語ごは、近代きんだいを成なり立たたせた側がわと、近代きんだいを批判ひはんする側がわに分わかれて置おかれている。対立たいりつの軸じくと、語ごの格かくを一いち枚まいずつ図ずにしておく。

本章の対立の軸一覧本章に現れる対立語のペアと、それを分ける軸を並べた一覧図。 PAIR AXIS 個人 共同体 人を定義するのは何か 評論文は対立で動く ── 軸が分かれば片方から他方が読める
本章ほんしょうに現あらわれる対立たいりつと、それを分わける軸じく
格による40語の分布硬・学術、硬、中の三段階に本章の40語を振り分けた図。 硬・学術 5 近代合理主義 国民国家 功利主義 フェティシズム 時間・空間の均質化 硬 5 世俗化 ニヒリズム 啓蒙主義 全体主義 アナキズム 中 12 近代化 個人 共同体 ナショナリズム 民主主義 資本主義 社会主義 ヒューマニズム 中世 ロマン主義 産業革命 語は意味ではなく格で選ぶ
格かくによる四十よんじゅう語ごの分布ぶんぷ

硬かた・学術がくじゅつに属ぞくする語ごは、会話かいわで使つかうと不自然ふしぜんに響ひびく。中なかに属ぞくする語ごは両方りょうほうで使つかえる。この区別くべつは意味いみの理解りかいとは別べつの層そうにあり、書かく段階だんかいで効きいてくる。

Output

産出さんしゅつ

やるなら ── 自分じぶんの関心かんしん領域りょういきから一ひとつ選えらび、次つぎのいずれかを一段落いちだんらくで書かく。

  • 自分じぶんの一日いちにちから、均質化きんしつかされていない時間じかんを一ひとつ探さがして書かく
  • 自分じぶんの関心かんしん領域りょういきが近代きんだいの何なにを前提ぜんていにしているかを一ひとつ挙あげ、それが外はずれたらどうなるかを書かく
Blank

近代きんだいを批判ひはんするために使つかわれている語ごも、ほとんどが近代きんだいがつくったものである。では、その外そとから語かたることはできるのか。