Chapter 1-5

哲学・心理

[ 原書 第1部 第5章 哲学・心理 ]

語数 31 / 節 18 / 1節 約1015

原書の導入

哲学とは何か

哲学とは何か

ヨーロッパでは、古代ギリシアから近代初頭まで、学問はすべて「哲学」とよばれていた。哲学者として名を残した人々は、政治・歴史・数学・天文学など、複数の学問を研究するのが当たり前だったのだ。

しかし、いざ「哲学」の中身に踏み込むと、その内容や論じ方は哲学者によってさまざまだ。「宇宙や自然は何からできているのか」「善とは何か」「私はなぜ私なのか」……、これらはいずれも過去の哲学者たちが考えてきた問題だが、一見、共通点がとらえにくい。

では、「哲学」という営みに共通するものは何だろうか。それは、「物事を普遍的に説明する原理を探究する」ということだ。

「普遍的に」というのは、ここでは〈誰もが納得するように〉という程度の意味で受け取ってもらいたい。誰もが納得するような説明をするためには、論理を精密に組み立てることが必要だ。それが、哲学を抽象的で難解なものにしてしまったとも言えるが、哲学の基本的な態度が「普遍性の追究」にあることをまず押さえておこう。

哲学にもトレンドがある

哲学には、時代ごとにトレンドのようなものがある。

古代ギリシアでは、宇宙や自然が何からできているかといった自然哲学や、「善き生き方」の探究などが哲学者の大きなテーマであったが、キリスト教が成立した中世以降は、神の存在を根拠づけることが哲学の大きな課題となった。

それが近代になると、「認識論」とよばれる問題が哲学の一大テーマとなっていく。「認識論」とは、簡単に言えば、自分が見ているリンゴ(主観)と〈リンゴそのもの〉(客観)は、はたして同じなのかどうか、というような議論のことだ。「同じに決まっている」と思うかもしれないが、独断や偏見にとらわれている私が見ているもの(主観)は、そこに存在しているもの自体(客観)ではない。

こうした主観的な認識から逃れるため、思考上での普遍性を追究する哲学者は、両者の一致を論理的に証明しようとし、近代科学は、実験や検証によって、できるだけ「客観的」な認識の獲得を目指した。これは、たとえてみれば、記述式のテストでは採点者の主観が入るから、客観式にしようとするようなものだ。

絶対確実な自己

このような近代の認識論の幕開けはデカルトから始まったと言われている。デカルトは、近代から現代に至るまで、非常に大きな影響力を及ぼしている哲学者だが、彼は認識の確かさを論証するために、「私」にとって絶対確実なものを探すことから哲学を始めた。

では、「私」にとって絶対確実なものとは何か。「私」は疑おうと思えば、何だって疑うことができる。何かを見たり触ったりしているのも、夢の中の出来事かもしれない。しかし、どれだけ疑っても、「私」が疑っていると思っている事実だけは動かない。これがあの有名な「我思う、ゆえに我あり」という言葉の意味する内容である。

このデカルトの哲学によって、世界を正しく認識する中心である「自己(自我)」が、哲学の中で大きな位置を占めるようになり、社会の中で「個人」が尊重されるようになることにつながっていく。

こうした近代的自我は、「自分とは何か」を問うような新たな自意識であり、その延長上に、現在さまざまに論じられる「アイデンティティ」や「私探し」などの問題もある。

近代科学の礎としての哲学と心理学の誕生

デカルトはまた、「精神(心)と物質(身体)とは、まったく別々のものだ」という考えも打ち出した。この考え方を心身二元論と言う。

心身二元論は、近代全体にきわめて大きな影響を与えた。たとえば、「自然は、神や精神とは無関係であり、物質のみで成り立っている」と考える「機械論的自然観」を生み出し、これが、自然を支配や操作の対象としてみなす近代科学の思想的支柱となっていった。

一方で、心身二元論に基づき、心を独立したものとして扱い考察する心理学が誕生した。さらに、実験によって心の動きを探る実験心理学や、心の病を研究する精神分析学も確立され、「無意識」などの新しい概念が生まれた。

Macro — 哲学史の地図

主題は、こう移り変わった

哲学史の四層古代・中世・近代・現代の四つの時代で、哲学の主題がどう移り変わったかを示した図。 古代 万物の原因・究極の真理を求める 水・火・原子・存在/プラトンのイデア 中世 唯一絶対の神が万物の創造主 神の存在証明/信仰のあり方 近代 認識が一大テーマとなる 私=認識する主体 / 認識される対象 二元論的な図式で世界を説明する 現代 関係性とシステムが主題になる 構造主義/絶対的な真理はないとする 私の認識も時代と文化に規定されている 認識論から関係性へ ── この移動が現代の知の潮流をつくった
古代・中世・近代・現代 ── 哲学が何を問うてきたか

哲学には時代ごとの主題がある。古代は万物の原因を、中世は神を、近代は認識を問うた。そして二十世紀に認識論が下火になると、関係性とシステムが主題になる。この章の三十一語は、どれかの層に属している。どの時代の語かが分かれば、その語が何と戦っているかも見える。

近代哲学の主観と客観認識する主体としての私と、認識される対象としての世界という近代哲学の二元的な図式を示した図。 主観 認識する私 SUBJECT 認識する 客観 認識される対象 OBJECT この図式そのものが、近代という一つの時代の前提である。 二十世紀にはこの分裂の手前が問われ、関係性が主題となった。 世界を二つに割ったことが、近代の力であり、限界でもあった
近代哲学の主観と客観

近代の中心にあるのが、世界を認識する私認識される対象に割る図式である。この二分が科学を可能にし、同時に人間を世界から切り離した。現代思想の多くは、この図式そのものを問い直すところから始まっている。

Index — 16 sections

  1. 01哲学
  2. 02主観/客観
  3. 03心身二元論
  4. 04唯物論
  5. 05認識
  6. 06知覚
  7. 07現象/本質
  8. 08独我論
  9. 09自我
  10. 10アイデンティティ
  11. 11モラトリアム
  12. 12カタルシス
  13. 13ペシミズム
  14. 14ロゴス/トラウマ
  15. 15コンプレックス/主体/客体
  16. 16理性/感性/形而上/ア・プリオリ/ア・ポステリオリ
  17. 17弁証法/命題
  18. 18実存/倫理/無意識/アンビヴァレンス
Section 01

哲学

88★★★

哲学てつがく

てつがく[2]中高型

語構成
あきらか・さといまなび
定義

世界や人間などの根本原理を追究する学問。

『現代文キーワード読解』1-1 ☑88
原書の解説

「哲学」は philosophy を翻訳したもので、philosophy はギリシア語の philosophia を語源とする。これは〈知を愛し求める〉という意味である。

哲学が扱う代表的な主題について解説しよう。古代・中世の哲学者にとっては、万物を生み出す原因や究極の真理を求めることが哲学の主題であった。たとえば、古代ギリシアの自然哲学者たちは、万物の原因を「水」「火」「原子(アトム)」「存在」などと考えた。また、ギリシアの哲学者プラトン(紀元前427~前347年)は「絶対的真理」を求め、万物の本質を「イデア」という概念で説明した。

キリスト教誕生以後の中世では、唯一絶対の神こそが万物の創造主であり、神の存在や信仰のあり方をめぐって、さまざまな論が提出された。

近代の哲学は「認識」が一大テーマであり、世界は「私=認識する主体」と「認識される対象」という二元論的な図式として説明されることになる。

こうした認識論は、二十世紀に入ると下火になり、代わって「関係性」や「システム」が哲学・思想の主題となっていく。たとえば構造主義とよばれる哲学では、「私」の認識や思考も、ある時代や文化における物の見方に規定されていると考える。したがって、絶対的な真理というものはなく、一切はさまざまな関係性から生じたものにすぎないと考えるのだ。

なお、関係性を重視する思考は、社会学・歴史学など多くの学問分野にも共有され、現代の知の一大潮流となっている。

使用の境界

世界や人間の根本原理を追究する学問。問う者が問いから消えない点で、他の学問と区別される。

用法

語源はギリシア語の philosophia で〈知を愛し求める〉の意。原書の入試文が示す要点は、諸学問が対象を自分の向こう側に置くのに対し、哲学では問う人が決して消えないという点である。だから哲学は対象が限定されない。日常語では「経営哲学」「私の哲学」のように〈信念・方針〉の意で軽く使われるが、評論文ではこの用法と読み分ける。「哲学的な問い」は、答えが出ないことを含意して使われることもある。

用例
  • この男よりは私のほうが知恵がある。なぜなら、この男は知らないのに知っていると思っており、私は知らないことを知らないと思っているからだ。つまり、その分だけ私のほうが知恵があるらしい。プラトン『ソクラテスの弁明』(前四世紀)/訳は本教材
    哲学のはじまりが、知ではなく無知だったという記録である。注目したいのは、ソクラテスが「私は何も知らない」で終えていないことだ。知らないことを知らないと知っている、という一段の折り返しが入っている。この折り返しが哲学の構えそのものになる。諸学問は対象を自分の向こう側に置いて調べるが、哲学では、問うている自分が問いから消えない。「私は知っているのか」という問いに、外から答えてくれる人はいない。だから哲学には対象の限定が無い — 何を問うても、最後には問う自分に戻ってくるからである。
  • 我日本古より今に至る迄哲学無し。中江兆民『一年有半』(1901)
    余命一年半と宣告された兆民が、死の床で書き残した一句である。この断定は、事実の報告ではなく批判だ。仏教も儒学も国学もあった。兆民が「無し」と言ったのは、ある体系の内側で答えを組み立てる営みはあっても、体系そのものを疑って一から立て直す営みが無かったという意味においてである。ここで彼は、哲学を知識の量ではなく問い方の型として捉えている。そしてこの一句自体が、自分の属する文化を外から見て断ずるという哲学的な身振りになっている。無いと言えるのは、その欠如が見える場所に立った者だけである。
  • 諸学問が対象を自分の外に置くのに対し、哲学では問う人が決して消えない。 原書の入試文が示す要点である。だから哲学には対象の限定が無い。物理学は物を、経済学は経済を扱うが、哲学は「扱うとはどういうことか」まで扱う。1-1 の 9 で見た対象化が、ここでは自分自身へ折り返される
  • △社員を大切にするのが当社の哲学です。 通じるが、これは日常語の用法で〈信念・方針〉の意である。評論文の哲学は根本原理を追究する学問を指す。「その考えの根拠まで問うているか」を見ればよい — 問うていなければ、それは方針であって哲学ではない。「経営哲学」「私の哲学」はすべてこの層にある。
派生形
  • 哲学的てつがくてき[0]二つの用法が同居する。学問としての哲学に属することを指す場合と、「答えの出ない、大がかりな」という日常的な形容として使う場合。後者はしばしば揶揄を含む。
  • 哲学者てつがくしゃ[4]職業名としては近代のものである。ソクラテスは哲学者を職業にしていない。1-2 の 50 で見た科学の制度化と同じことが、哲学にも起きた。
  • 哲学史てつがくし[3]哲学には歴史が要るという点が特徴的だ。数学史を知らなくても数学はできるが、哲学は先行する問いへの応答として書かれる。問いが積み重なる形の学問である。
コロケーション
  • 哲学的な問い答えの出なさ答えが出ないことを含意して使われることが多い。これは揶揄ではなく、問いの性質を正確に言い当てている。答えが出れば、それは個別の学問へ移っていく — 物理学も心理学も、かつては哲学の一部だった。哲学に残るのは、答えの出し方そのものが争われている問いだけである。
  • 知を愛し求める語源からの理解ギリシア語 philosophia は philein(愛する)+ sophia(知恵)。「知を持つ」ではなく「愛し求める」である。持っていないから求める。ソクラテスの無知の告白がこの語の内側にそのまま畳み込まれている。知者ではなく愛知者と名乗ったところに、この学問の姿勢がある。
  • 哲学する動詞としての形名詞ではなく営みとして言う言い方。ドイツ語の philosophieren にならった形で、訳語としては不自然だが定着した。哲学は学ぶものではなく行うものだという主張がこの動詞形に込められている。カントの「哲学を学ぶことはできない、哲学することを学べるだけだ」という言葉が背景にある。
  • 哲学と科学対象の外に立てるか科学は対象を自分の外に置ける。観察者を式から消しても結果は変わらない。哲学ではそれができない。「認識とは何か」を問うとき、問うている当の認識も対象に含まれるからだ。93 の認識、97 の独我論がむずかしいのは、この自己言及から逃れられないためである。

書き言葉・会話の両方で使える。

類語と差
  • 思想体系化された考え個人や時代がもつ考えの内容。哲学は問い方そのものを問う手続きを含む。
  • 宗教超越的なものへの信仰答えが啓示として与えられる。哲学は答えを理性で組み立てる。
  • 科学経験的事実にもとづく知対象を自分の外に置く。哲学は問う自分を対象から外さない。
  • 形而上学感覚を超えたものを扱う分野哲学の一部門。存在そのものを問う領域を指す。

ENphilosophy
ZH哲学(哲学, zhéxué)

哲学史の四層古代・中世・近代・現代の四つの時代で、哲学の主題がどう移り変わったかを示した図。 古代 万物の原因・究極の真理を求める 水・火・原子・存在/プラトンのイデア 中世 唯一絶対の神が万物の創造主 神の存在証明/信仰のあり方 近代 認識が一大テーマとなる 私=認識する主体 / 認識される対象 二元論的な図式で世界を説明する 現代 関係性とシステムが主題になる 構造主義/絶対的な真理はないとする 私の認識も時代と文化に規定されている 認識論から関係性へ ── この移動が現代の知の潮流をつくった
哲学史の四層 ── 主題はこう移り変わった
入試文

様々な学問の「対象」とは、それについて知識の獲得が目指される相手であり、知ろうとする人の向こう側に位置する何かである。ところが、哲学も何かについて問い、答えを得ようとする活動である点で、それは諸学問に通ずる。けれども、哲学では、問う人、答えを得る人が消去されることは決してない。なぜなら、哲学の営みにおいて人は必ずや己との関わりにおいて何かを問うからである。そして、それゆえにまた、哲学では、己とはその何かとだけでなく諸々の一切のものと関わって生きている存在である限りで、何かを中心に問いつつ一切を問題にするよう誘われる。

出典 松永澄夫『哲学の覚醒』 / 出題 センター本試験(国語Ⅰ)

読解のポイント
  • 諸学問の対象
  • 知ろうとする人の向こう側に位置する何か
  • 哲学の対象
  • 限定されない
  • 己との関わりにおいて、何かを問いつつ一切を問題にする
要約

哲学は、諸学問と異なり、己との関わりにおいて必ず何かを問う。したがって、己と関わりのあるものはすべて問題となるため、対象が限定されない。

語法の観察

「ところが」「けれども」「なぜなら」と接続語を連ねて、諸学問との差を一段ずつ絞り込む。論の運びが接続語だけで追える。

Section 02

主観/客観

89★★★

主観しゅかん

しゅかん[0]平板型

語構成
あるじ・おもだつみる
定義

対象を認識する自分の意識。または、自分だけの感覚や考え。

『現代文キーワード読解』1-1 ☑89
使用の境界

対象を認識する側の意識。転じて、自分だけの感じ方。認識する働きそのものを指す点が本義。

用法

日常語の「主観的」は批判語で、〈個人の思い込みで客観性を欠く〉という意味になる。だが哲学用語としての主観は中立で、認識する働きそのものを指す。この二層を読み分けるのが最初の関門になる。原書の入試文は、主観と客観がもともと分かれていない主客合一の状態から出発し、それが分化して主客対立になると述べる。近代哲学がこの分裂を前提にしてきたこと自体を問い直す文脈で使われる。

用例
  • 純粋経験に於ては未だ知情意の分離なく、唯一の活動であるように、また未だ主観客観の対立もない。西田幾多郎『善の研究』(1911)
    主観と客観は、はじめから分かれていないという主張である。美しい音楽に聴き入っているとき、「私が」「音を」聴いている、と分かれてはいない。聴くという一つの働きがあるだけだ。西田はそれを純粋経験と呼び、主客の対立はそこから後で分化してくると考えた。ここが重要である。近代哲学は主観と客観の分裂を出発点として与えられたものとして扱ってきた。西田はそれを結果として扱った。原書の入試文が主客合一から主客対立への分化を述べるとき、下敷きにあるのはこの構図である。
  • 見所より見る所の風姿は、我が離見なり。……離見の見にて見る所は、すなはち見所同心の見なり。世阿弥『花鏡』(1424)
    観客席から見えている自分の姿を「離見」という。演者は自分の目では自分の後ろ姿を見られない。それでも見なければならない。そこで世阿弥は、自分を離れたところから見る目を持てと説いた。ここで起きているのは、主観が自分自身を客観の位置に置き直すという離れ業である。注目したいのは、離見の見が「観客と同じ心の見」だと言われている点だ。外から見る目は、他者の目を借りてはじめて成り立つ。一人では自分を客観できない — 99 のアイデンティティが承認を必要とするのも、同じ事情による。
  • 哲学用語としての主観は中立で、認識する働きそのものを指す。 最初の関門がここにある。日常語の「主観的」は批判語で、〈個人の思い込みで客観性を欠く〉という意味になる。だが哲学の主観は、誰かが認識している以上つねに働いているもので、良し悪しの話ではない。この二層を読み分けるのが、この節の第一歩である。
  • ×自分の意志で決めたのだから、そこには強い主観がある。 意志で決める側は「主体」である。主観は認識する側を指す。主観は認識の主、主体は行為の主 — この差が 106 で設問になる。英語ではどちらも subject なので、訳文を読むときはとくに注意したい。
原書の反意語・関連語

90 客観

派生形
  • 主観的しゅかんてき[0]日常語では批判、哲学語では記述。この語幹でもっとも取り違えられやすい形である。評論文では、まず中立語として読んでみる。
  • 主観性しゅかんせい[0]性質として取り出す形。「主観性を帯びる」「主観性が強い」と程度で論じられる。一人称でしか語れない経験を扱うときの鍵になる。
  • 間主観性かんしゅかんせい[0]主観と客観の対を組み替えるための語。客観を「主観の外」ではなく「主観たちのあいだ」に置き直す。1-3 の 63 のコード、1-2 の 48 のパラダイムと同じ発想である。
コロケーション
  • 主観的二層の代表日常では批判語、哲学では中立語。この分裂がもっともはっきり出る形である。「それは主観的だ」と言えば非難だが、「主観的観念論」と言えば立場の名にすぎない。批判として使われているか、位置を指しているかを、まず判定する
  • 主客の分離近代の出発点認識する私と、認識される世界をまず二つに分けるところから近代哲学は始まった。分けたおかげで、「どうすれば正しく認識できるか」を問えるようになった。同時に、両者がなぜ届き合えるのかが分からなくなった。91 の心身二元論とまったく同じ形の代償である。
  • 間主観性複数の主観のあいだ複数の主観のあいだで共有されるという性質。客観を「主観の外にあるもの」と定義すると届かなくなるので、「多くの主観が一致すること」で置き換える試みである。フッサール以降の語で、90 の客観②の用法(誰にとっても同じ)と同じ場所を別の言い方で押さえている。
  • 主観を排する達成できない要求客観的であろうとする努力を指すが、厳密には不可能な要求でもある。認識するかぎり、認識する側は消えない。だから実際に行われているのは排除ではなく、手続きを共有してずれを小さくすることである — 1-2 の 46 で見た追検証が、まさにその手続きにあたる。

書き言葉・会話の両方で使える。

類語と差
  • 客観認識される側対語。認識する側とされる側という関係で分かれる。
  • 主体行為を起こす側☑106。主観は認識の主、主体は行為の主。この差が設問になる。
  • 自我自分という意識☑98。主観は認識論の位置、自我は心理と存在論の位置。
  • 私見個人の意見日常語。主観は認識の枠組みそのものを指す。

ENsubject / subjectivity
ZH主观(主観, zhǔguān)

90★★★

客観きゃっかん

きゃっかん[0]平板型

語構成
まろうど・そとみる
定義

① 自分の意識と関わりなく存在する対象。 ② 誰にとっても同じであること。

『現代文キーワード読解』1-1 ☑90
使用の境界

①意識と関わりなく存在する対象。②誰にとっても同じであること。二つの用法が同居する。

用法

二つの層がある。①主観の外にあるものという存在論の用法。②誰が見ても同じという認識の性質を言う用法。日常語で「客観的に見る」と言うときは②で、肯定的な評価語になる。評論文では①が中心で、主観との対で出る。読み方の注意点は「きゃっかん」という促音で、「かくかん」ではない。近代哲学はこの主観/客観の分裂を出発点に置いたが、二十世紀にはその分裂自体が疑われるようになった。

用例
  • 凡そ人の患ひは、一曲に蔽はれて大理に闇きなり。『荀子』解蔽篇
    人の困りごとは、一つの偏りに覆われて大きな道理が見えなくなることだ、という。「蔽(おお)う」という字が的確である。偏りは間違いとして目の前にあるのではなく、見ることそのものを覆っている。だから当人には見えない。客観という語が要求しているのは、この覆いを外すことだ。ただし荀子はこの後、覆いを外す方法として「心を虚一にして静かにする」ことを説く。方法が要るということは、客観が自然な状態ではないということである。放っておけば人は偏る。客観は、努力して近づくものであって、最初から与えられている場所ではない
  • この故に、能を成す人は、目前心後と申して、目を前に見て、心を後に置けとなり。世阿弥『花鏡』(1424)
    目は前を見ながら、心は後ろに置け、という。89 で引いた「離見の見」に続く一句である。自分の背中を、自分の心で見る。注目したいのは、これが抽象的な心得ではなく訓練の指示である点だ。客観は、才能でも性格でもなく、身につけられる技術として語られている。一方でこの一句は、客観という語の難所も照らしている — 後ろを見ている心は、いったいどこにあるのか。見る位置をずらしても、ずらした位置を見る者はやはり自分である。90 の①(意識と関わりなく存在する対象)に本当に到達できるのかという問いは、ここから始まる。
  • 「きゃっかん」と読む。客観には、意識の外にあるものという意味と、誰にとっても同じという意味がある。 二つの層が同居している。①は存在論の用法で、主観の外にあるもの。②は認識の性質を言う用法で、誰が見ても同じであること。日常語の「客観的に見る」は②で、肯定的な評価語になる。評論文では①が中心で、主観との対で出る。読みが「かくかん」ではないことも押さえておきたい。
  • ×彼は感情を交えず客観として振る舞った。 行為が向けられる側なら「客体」、態度を言うなら「客観的」である。客観そのものは認識される側を指す名詞で、人の振る舞いには使えない。客観は認識の対象、客体は行為の対象 — 107 と合わせて位置を固定しておきたい。
原書の反意語・関連語

89 主観

派生形
  • 客観的きゃっかんてき[0]実際の用法の主役。「主観的」が批判語であるのに対し、こちらはほぼ肯定語である。この非対称が、近代がどちらを上に置いてきたかを示している。
  • 客観性きゃっかんせい[0]性質として取り出す形。「客観性を担保する」という言い方にこの語の性格が出ている — 担保するとは、自然にはそうならないものを支えることである。
  • 客観視きゃっかんし[0]「視」が主体の働きを加える。自分を対象の位置へ置き直す操作で、1-1 の 9 の対象化を自分に向けた形にあたる。
コロケーション
  • 客観的に見る日常語の主役②の用法で、ほぼ無条件の褒め言葉として通用する。だが「誰にとっても同じ」ことは、実際には確かめようがない。確かめるには全員に聞くほかないからだ。実際に行われているのは、手続きを共有して一致を作ることである。客観性は発見されるものではなく、組み立てられるものだと見ておくと、1-2 の 49 の中立性の議論ともつながる。
  • 客観性学問の要請誰が確かめても同じ結果になるという性質。科学の手続きは、これを作り出すための工夫の集積である。測定単位を定め、手順を公開し、他人に再現させる。注意したいのは、客観性は倫理的な善悪とは別の軸だということだ。1-2 の 49 で見たとおり、客観的な知が中立であるとは限らない。
  • 客観視する自分を外に置く自分自身を対象の位置に置き直すこと。世阿弥の離見の見と同じ操作である。ただし完全には成功しない — 見る自分だけは、どうしても外に残ってしまう。「自分を客観視できる人」という褒め言葉が厳密には成り立たないのは、そのためである。
  • 客観と客体認識か行為か客観は認識される側、客体は働きかけられる側。同じ「客」でも、対になる相手が違う — 客観は主観と、客体は主体と対をなす。英語ではどちらも object なので、訳語がここで二つに割れている。106・107 と合わせて、四語を一枚の図に置いておくと迷わない。

書き言葉・会話の両方で使える。

類語と差
  • 主観認識する側対語。認識される側が客観。
  • 客体行為が向けられる側☑107。客観は認識の対象、客体は行為の対象。
  • 対象意識が向けられるもの☑9。客観は主観との対で使い、対象はより広い。
  • 中立どちらにも偏らない立場の話。客観は認識の性質。

ENobject / objectivity
ZH客观(客観, kèguān)

解説 ── 主観・客観

物事を認識する「私」のことを主体と言う。また、認識される事物を客体と言う。そして、主観とは、「私」が客体を認識する時の「私」の意識のことで、個別的で特殊なものである。一方、客観は、主観の反対として考えるとわかりやすい。主観が個別的な見方や考え方であるから、客観は主観から独立して存在すること、すなわち誰が見ても同じように見える(思われる)ことである。

なお、例文のように、主観/客観を、主体/客体と同じ意味で用いることもある。

たとえば ── 主観・客観

あなたが目の前にあるリンゴを見て、「おいしそう」「甘そう」と思っても、もしかしたら他の人はそう思わないかもしれない。だから「おいしそう」「甘そう」は、あなたの個人的で特殊な思いであり「主観的」である。一方、そのリンゴの重さや体積は、誰にとっても変わらないものであり、「客観的」な性質である。

対立の軸

主観/客観 の軸 = 認識する側か、される側か

主観対象を認識する自分の意識。
認識する側か、される側か
客観意識と関わりなく存在する対象。
主客合一から主客分裂へ意識の根源にある主客一体の状態が分化して、主観と客観の対立が現れる過程を示した図。 主客合一 物我一如 意識の根源にある原初の世界 我を忘れて熱中している時 分化 主観 客観 意識するもの・知るもの 意識されるもの・知られるもの 主客対立・主客分裂 分裂は初めからあるのではない。分化した結果として現れる。
主客合一から主客分裂へ
近代哲学の主観と客観認識する主体としての私と、認識される対象としての世界という近代哲学の二元的な図式を示した図。 主観 認識する私 SUBJECT 認識する 客観 認識される対象 OBJECT この図式そのものが、近代という一つの時代の前提である。 二十世紀にはこの分裂の手前が問われ、関係性が主題となった。 世界を二つに割ったことが、近代の力であり、限界でもあった
近代哲学の主観と客観
入試文

私が物(客観)を見るというのは、結果として現れてきた現象である。私という意識は意識されるもの(客観)なしにはありえず、客観も意識するもの(主観)なしにはない。そこで、人間がものごとを知るという主観と客観の関係の基礎には両者が一体となった状態があり、その原初の世界がこの意識の根源にある世界であるといわれてきた。我々が我を忘れてものごとに熱中している時や、美しい風景にうっとり見入っている時のことを考えれば理解しやすい。しかしこの例に限らず、どのような場合にもそのような一体化した状態が意識の根源に存在している。それが分化した時、人間の意識の世界が現れてくる。それは意識するものとされるもの、知るものと知られるものの世界である。これは、主客対立とか主客分裂とかいわれるが、私と私でないものの区別が明瞭となる世界である。

出典 山下勲『世界と人間』 / 出題 センター本試験(国語Ⅰ・Ⅱ)

読解のポイント
  • 意識の根源にある原初の世界
  • 主客合一
  • 物我一如
  • ↓ 分化
  • 主客対立・主客分裂
  • 主観=意識するもの
  • 客観=意識されるもの
要約

主観と客観という意識の世界の根源には、主客合一・物我一如という原初の世界があり、それが分化した時、人間の意識の世界が現れてくる。

語法の観察

「〜といわれてきた」で通説を置き、「しかし」ではなく例示で受ける。反論せずに、手前の層を見せることで通説を相対化している。

Section 03

心身二元論

91★★★

心身二元論しんしんにげんろん

しんしんにげんろん[0]平板型

語構成
こころからだ二元論二つの原理で説く立場
定義

人間を、精神と身体(物体)との二つに分けて考えること。

『現代文キーワード読解』1-1 ☑91
原書の解説

デカルトは、精神という心のはたらきと、広がりや重さをもつ物体という二つによって世界は成立していると考えた。このような考え方を物心二元論とよび、この物心二元論を人間に当てはめたものが心身二元論である。

心身二元論では、人間を精神と身体からなる存在と考えるが、身体は精神よりも下位の価値しかもたないとされた。というのも、デカルト以来、近代の哲学は、物事を正しく認識する精神のはたらきこそ人間を人間たらしめるものと考えたからだ。そして、身体よりも精神を優位に置くこうした思考は、身体を機械とみなす態度につながっていった。

コラム

精神と身体を別物とする心身二元論は、人間の病は機械の故障と同様であり、具合の悪い身体部位を修理することで回復すると考える。こうした考えに基づいて近代医学は発展してきたが、同時にその延長上には、近年議論となっている脳死や臓器移植の問題がある。我々が脳死や臓器移植をすんなりと受け止められないのは、心身二元論のように人間をスッパリと割り切って考えることができないからだろう。

使用の境界

心と身体を別々の実体とみなす立場。両者の関係をどう説明するかという難問を必ず抱える。

用法

デカルトに帰される立場である。要点は、心を身体から切り離したことで身体が物体として研究可能になったという帰結にある。近代医学と機械論的自然観はここから出た。同時に、まったく別の実体である心と身体がなぜ影響し合うのかという難問(心身問題)が残った。評論文ではこの二元論が近代の前提として批判される形で現れる。身体を物として扱ったことが、人間の疎外や医療の非人間化を招いたという議論に接続する。

用例
  • 魂は身体の全体に結びついてはいるが、その機能をとくに脳の中央にある小さな腺において行使する。そこから精気を通じて、身体のあらゆる部分へ働きかけるのである。ルネ・デカルト『情念論』第三十一項(1649)/訳は本教材
    心と身体をまったく別の実体に分けた当人が、その二つがどうつながるのかを説明しようとした箇所である。答えは、脳の中の小さな腺(松果腺)だった。この解答は当時から評判が悪く、いまも擁護されていない。だが失敗した解答であることこそが重要だ。まったく別の実体だと定義した以上、接点を探すこと自体が矛盾している。それでも探さざるをえない。心身問題と呼ばれるこの難問は、二元論が生んだのではなく、二元論と同時に生まれた。1-2 の 43 で見たとおり、分けることは強力な方法だが、分けたあと組み直せるとはかぎらない
  • 肢体を堕とし、聡明を黜け、形を離れ知を去り、大通に同ず。此れを坐忘と謂ふ。『荘子』大宗師篇
    手足を落とし、耳目のはたらきを退け、形を離れ知を去って、大いなる通りへ溶け込む。これを坐忘という。心と身体を分けたうえで一方を上に置くという近代の構図と比べると、ここでは両方が同時に落とされている。形(身体)と知(精神)が並べて置かれ、どちらも手放される。優劣がついていないことに注目したい。デカルト以来の近代哲学は、正しく認識する精神のはたらきこそ人間を人間たらしめると考えた。だから身体は精神より下位に置かれ、やがて機械として扱われるようになる。身体を物とみなす態度の出発点が、この序列にある
  • 心を身体から切り離したことで、身体は物体として研究できるようになった。心身二元論は近代医学の前提でもある。 批判と成果が同じ一つのことから出ている点が要点である。身体を物として扱えたから解剖学も生理学も成り立った。同じ扱いが、人間の疎外や医療の非人間化も招いた。1-1 の 21、1-2 の 42 と結んで読むと、近代批判が単なる否定ではないことが見えてくる。
  • ×心と体は別物なのだから、心身二元論は科学的に正しい。 二元論は実証された事実ではなく、世界の説明のしかたを定める立場である。正しいか誤りかではなく、それを採るとどこまで説明でき、何が説明できなくなるかで評価される。1-2 の 42 の機械論と同じで、「論」が付く語は主張であって観察ではない
原書の反意語・関連語

関 二元

派生形
  • 心身問題しんしんもんだい[3]二元論が残した難問の名。問いに名が付いたということは、それが解かれないまま受け継がれているということでもある。現代の心の哲学は、いまもここから出発する。
  • 心身一元論しんしんいちげんろん[0]対立する立場。一元にする道は一つではない点が要点で、唯物論も、心と物を同一の実体の両面と見る立場もここに含まれる。
  • 心身相関しんしんそうかん医学・心理学の語で、心の状態が身体の症状に現れることを指す。二元論を前提にしたうえで両者の結びつきを経験的に扱う形で、哲学の難問を棚上げにして先へ進むやり方である。
コロケーション
  • 心身問題解けない宿題まったく別の実体である心と身体が、なぜ影響し合えるのかという問い。痛みという心の出来事が、手を引っ込めるという物体の運動を起こす。この一点が説明できない。デカルト以来四百年、決着していない。解けないことが、かえって二元論の切れ味を証明してもいる — 問いが立てられたのは、二つに分けたからである。
  • 身体の劣位序列の帰結精神を上、身体を下に置いた序列。そこから身体を機械とみなす態度が出てきた。評論文が近代を批判するとき、この序列を起点にすることが多い。労働する身体、病む身体、老いる身体 — いずれも「精神の乗り物」として扱われてきたものの取り戻しが主題になる。
  • 物心二元論より広い形世界を精神と物体の二つで説明する立場。これを人間に当てはめたのが心身二元論である。順序を押さえておくと、自然観と人間観が一続きだと分かる。1-2 の 42 の機械論的自然観は、この物心二元論の物の側を引き受けた形にあたる。
  • 心身一元論対立する立場心と身体を別の実体としない立場。唯物論はその一つの形で、心を物質のはたらきに還元する。別の形として、心と物を同じものの二つの側面と見る立場もある。一元にする道が複数あることが、92 の唯物論を読むときの見取り図になる。
硬・学術

論文・評論でのみ使う。会話では不自然。

類語と差
  • 二元論二つの原理で世界を説く☑30。心身二元論はその代表的な適用例。
  • 唯物論物質だけを認める☑92。心を物質に還元するので二元論を否定する。
  • 機械論自然を部品の集まりと見る☑42。心身二元論は身体を機械として扱う道を開いた。
  • 心身一元論心と身体を一つと見る対立立場。両者を別の実体としない。

ENmind-body dualism
ZH身心二元论(心身二元論, shēnxīn èryuánlùn)

日中のズレ

中国語では 身心二元论 と、身が先、心が後の語順になる。

日本語は「心身」、中国語は「身心」。同じ内容を指すが、二字の順序が逆である。

心身二元論とその帰結心と身体を別の実体とみなしたことで身体が研究対象となり、同時に心身問題が残されたことを示した図。 身体 別の実体として切り離す 身体は物体になる 近代医学・機械論的自然観 心身問題が残る まったく別の実体である二つが、 なぜ影響し合うのか。 切り離したことが力になり、切り離したことが難問を残した
切り離したことの、力と難問
入試文

ヨーロッパと日本では心(精神)と体(身体)の関係に違いがあるとはよく言われることだ。ヨーロッパではデカルトの心身二元論に端的に示されているように心と体のあいだにはある種の断絶がある。

古くはプラトンがソクラテスの口を借りて『パイドン』のなかで魂は不滅であり、生前は「肉体という縛め」に繋縛されている魂が死後その縛めから解き放たれて真実に達することができると揚言した。プラトンのイデアの哲学は魂の不滅を求めるものであったが、それと同時に肉体は魂にとっての繋縛(桎梏)と見なす考え方の淵源でもあった。精神と身体、あるいは思考と身体という二元論は魂と肉体という二元論をその原型にもっている。そして魂と肉体というこの二元論は超越への憧憬によって支えられていたのだ。

精神と身体は相容れない実体である。身体とは邪魔者である。身体とは欲望(情念)の「場」である。大まかに言えばこれがヨーロッパの哲学を支配してきた通念であった。精神は身体という「牢獄」に閉じこめられているのだ。

出典 野内良三『レトリックと認識』 / 出題 神田外語大学・外国語学部

読解のポイント
  • プラトンの哲学
  • 魂=精神=不滅
  • 肉体=身体=邪魔者・欲望の「場」
  • 精神と身体を相容れないものだと見なす「心身二元論」
  • → ヨーロッパの哲学を支配してきた
要約

精神と身体を相容れないものだと見なす「心身二元論」が、ヨーロッパの哲学を支配してきた。

語法の観察

身体を「もの」として扱う記述が続いたあとで、その扱いが何を可能にしたかを述べる。手続きと帰結を分けて置く型。

Section 04

唯物論

92★★★

唯物論ゆいぶつろん

ゆいぶつろん[0]平板型

語構成
ただ・それだけもの説き方・立場
定義

物質がすべての根源だとし、精神や意識も物質の作用によるという考え。

『現代文キーワード読解』1-1 ☑92
原書の解説

存在するものはすべて物質でできており、精神や意識も物質の作用であると考えるのが唯物論である。

「幸せな人生を送るには、豊かな物質的生活が必要だ」というように、物質的に豊かな暮らしに支えられているというのは唯物論的な発想だ。しかし実際には、物質的には豊かになったにもかかわらず、現代人は不安な気持ちを抱いているというように、唯物論的な発想だけでは説明できない状況がある。

なお、哲学者・経済学者のマルクス(1818~1883年)が唱えた歴史観に唯物史観というものがあるが、これは、唯物論の考え方を歴史にも適用して、法律・宗教・哲学・芸術などの発展について、物質の生産や流通の側面から考えたものである。

使用の境界

世界の根本を物質とみなし、精神も物質から説明する立場。物を重んじる態度のことではない。

用法

日常語の「唯物的」は〈金や物ばかり重んじる〉という意味で使われるが、哲学の唯物論は存在論の立場であって態度の話ではない。この混同が設問になる。評論文で重要なのはマルクスの史的唯物論で、社会の土台を経済(生産関係)に置き、思想や制度をその上部構造とみなす。この枠組みが☑20 イデオロギーの議論を支える。観念論との対で出るので、意識と物質のどちらを先に置くかを見る。

用例
  • 人間の意識がその存在を規定するのではなく、逆に、人間の社会的存在がその意識を規定する。カール・マルクス『経済学批判』序言(1859)/訳は本教材
    唯物論を歴史と社会に適用した一文である。何を考えるかは、どういう暮らしをしているかが決める。思想が社会を動かすのではなく、社会のあり方が思想を生む。注目したいのは「規定する」という語だ。作り出すとも、影響するとも書いていない。枠を定める、という意味である。だから個々人の考えが一つに決まるわけではない。考えられる範囲のほうが決まる。1-1 の 20 のイデオロギー、1-4 の 73 の文化が「見方を規定する」と語られるとき、その語り方はこの一文から来ている。
  • 人間は、その食べるところのものである。ルートヴィヒ・フォイエルバッハ(1850)/訳は本教材
    ドイツ語では ist(である)と ißt(食べる)が同じ音になる言葉遊びでもある。精神の高みを語る前に、まず食べているという事実から始めよという主張だ。ここに唯物論の入口がある。ただし注意したい — この一句は「物ばかり重んじよ」とは言っていない。言っているのは、精神と呼ばれているものにも土台があるということである。日常語の「唯物的」(金や物ばかり重んじる)と哲学の唯物論が混同されるのは、この一句の見かけの荒っぽさのせいでもある。存在論の立場であって、態度の話ではない
  • 唯物論は存在論の立場であって、物を重んじる態度のことではない。 この混同がそのまま設問になる。「唯物的な人」と言えば日常語の批判だが、「唯物論の立場」と言えば世界の根本を物質とみなす主張である。観念論との対で出るので、意識と物質のどちらを先に置くかを見る。
  • ×彼はブランド品ばかり買う。典型的な唯物論者だ。 金や物を重んじる態度なら「実利主義的」「物質主義的」である。唯物論は世界が何でできているかについての主張で、買い物の傾向とは関係がない。「世界の根本は何かと問うているか」を見ればよい。問うていなければ、それは態度の話である。
原書の反意語・関連語

反 唯心論/観念論

派生形
  • 唯物論的ゆいぶつろんてき[0]立場に属することを示す形。「唯物的」との一字の差が大きい — 「論」が入れば哲学の話、入らなければ態度の話になる。
  • 史的唯物論してきゆいぶつろん[0]唯物論を歴史に適用した形。「史的」を冠することで対象が限定され、存在論から歴史理論へ移る。1-6 の近代を扱う章と直接つながる。
  • 観念論かんねんろん[0]対立する立場。1-1 の 23 で見たとおり、日常語の「観念的」とは別物である。意識を先に置くという主張であって、現実離れしているという意味ではない。
コロケーション
  • 史的唯物論歴史への適用社会の土台を経済(生産関係)に置き、法律・政治・思想・芸術をその上に建つものとみなす歴史観。唯物史観ともいう。この枠組みが 1-1 の 20 のイデオロギー論を支えている — 支配的な思想が支配階級の利益を映すのは、土台と上部構造という配置から出てくる帰結である。
  • 上部構造と土台建物の比喩経済が土台、思想や制度がその上に建つ、という比喩。比喩であることに注意したい — 建物なら上を替えても土台は残るが、社会ではそこまで単純に分かれない。比喩が持ち込んだ含みをそのまま結論にしないことが、1-3 の 57 で見た隠喩の読み方でもある。
  • 唯物論と観念論順序の争い意識が先か、物質が先か。哲学史を二分してきた対である。注意したいのは、これが「どちらが実在するか」の争いではないことだ。どちらの立場も両方の存在を認める。争われているのは説明の順序で、どちらから他方を導くかである。
  • 唯物的日常語の顔金や物ばかり重んじるという批判語。哲学の唯物論とは無関係である。この語が生まれてしまったせいで、唯物論という立場そのものが俗っぽいものに見えてしまう。訳語が日常語と衝突した不幸な例で、1-4 の 82 の「独断」と同じ事故が起きている。
硬・学術

論文・評論でのみ使う。会話では不自然。

類語と差
  • 観念論意識を先に置く対立立場。☑23 観念と接続する。世界を成り立たせるのは意識だとする。
  • 実在論対象は意識と独立に存在するとする存在の問題。唯物論はその内容を物質と限定する。
  • 還元主義基礎的な層に還元して説明する☑43。唯物論は心を物質に還元する立場と言える。
  • 実利主義損得を重んじる日常語の「唯物的」と混同されやすいが、まったく別の話。

ENmaterialism
ZH唯物论(唯物論, wéiwùlùn)

中世の自然観と近代の自然観神が造った目的をもつ自然と、法則に従う物質としての自然という二つの自然観を対比した図。 中世 創造・目的を与える 自然(目的をもつ) なぜそうなるのかを問う 目的論的な説明 近代 後退する 自然(法則に従う物質) どのように動くのかを問う 因果による説明 「なぜ」から「どのように」へ ── 問いの形が変わった
中世の自然観と近代の自然観
入試文

「心霊」写真に写るという時点で、その、この世ならぬ何ものかは、結局この世の中の何ものかであったと証明されてしまうとは、どうして考えないのであろうか。或いは、実体は不可知、不可触であるとしても、一時的に物理的な仮象を纏って顕現することはあり得るという考え方であろうか。それならば一応筋は通っている。こうした考え方は、霊魂の再受肉を認めないキリスト教社会よりも、輪廻のイメージが漠然と世俗化されて残っている我が国に於いての方が、受け容れられやすいかもしれない。が、何れにせよ、私が心霊写真を巡る現代人の反応の中に見出すものは、霊的な存在を科学的に証明したいという近代的な欲求とともに、死後の生があるとしても、それが何らかの形で物質性を帯びているか、或いは物質との接触可能性を有しているかでなければ、死の不安は決して慰められることはないという唯物論的イデオロギーの倒錯した姿である。

出典 平野啓一郎「文明の憂鬱」 / 出題 法政大学・文学部・経営学部・人間環境学部など

読解のポイント
  • 心霊写真をめぐる現代人の反応には、
  • 霊的な存在を科学的に証明したいという近代的な欲求
  • 唯物論的イデオロギーの倒錯した姿
  • → 死の不安を慰める がある。
要約

心霊写真をめぐる現代人の反応には、霊魂を科学的に証明したいという近代的な欲求と、唯物論的イデオロギーの倒錯とがある。

語法の観察

対立する立場を先に置いてから自説を述べる。読者に座標を渡してから内容に入る書き方になっている。

Section 05

認識

93★★★

認識にんしき

にんしき[0]平板型

語構成
みとめるしる・わきまえる
定義

物事の本質・意義などを理解すること。

『現代文キーワード読解』1-1 ☑93
原書の解説

外界からの刺激や情報を視覚や聴覚で受け止めるだけの「感覚」の段階から、何かが見える・聞こえるという「意識」の段階へ進む。だが、この時、見えたり聞こえたりしている対象が何なのかは、漠然としていてまだ名づけることができない。見ているものが「海」であり、聞こえているのは「波の音」なのだとはっきり理解された時に、それは認識となる。

例文に即して言えば、「あるもの」を「有意味性の網の目の中へ秩序づけ」て、「自我のうちに取り込む」ということである。さらに多くの認識が蓄えられていけば、「知識」や「常識」となる。

なお、心理学の世界では、認識は認知とよばれることが多い。現在の時間や自分がいる場所がわからなくなる、というような、認知に支障が現れる病気を認知症と言う。

使用の境界

対象を捉えて意味づけ、知として持つこと。感覚に触れるだけでは足りず、判断を伴う。

用法

近代哲学の一大テーマである。要点は、認識が受け取るだけの受動的な作業ではないことにある。カント以降は、対象がそのまま写るのではなく、認識する側の枠組みが対象の見え方を決めるとされる。この考えが☑67 分節や☑48 パラダイムと同じ構図をつくる。「認識を新たにする」「認識が甘い」は日常でも使うが、評論文では認識論の文脈で読む。中国語の 认识 とは重心がずれるので注意を要する。

用例
  • これまで、我々の認識はすべて対象に従わねばならないと想定されてきた。……ならば一度、対象のほうが我々の認識に従うと想定してみたらどうなるかを試してみよう。イマヌエル・カント『純粋理性批判』第二版序文(1787)/訳は本教材
    コペルニクス的転回と呼ばれる箇所である。それまで、認識とは対象を写しとることだと考えられていた。カントはそれを逆さにした — 対象がそのまま写るのではなく、認識する側の枠組みが対象の見え方を決めている。色眼鏡をかけているのではない。眼そのものが世界の見え方を作っているのだ。この転回が二百年後まで効いている。1-3 の 67 の分節(言語が世界に切れ目を入れる)も、1-2 の 48 のパラダイム(枠が観察を決める)も、同じ形をしている。枠が先にあって、経験がそのあとに来る。
  • 心は、いわば文字の書かれていない白紙であり、観念を欠いていると想定しよう。では、それはどのようにして満たされるのか。……一語で答えよう、経験からである。ジョン・ロック『人間知性論』第二巻(1690)/訳は本教材
    カントの百年前に書かれた、正反対の見立てである。心は白紙(タブラ・ラサ)で、経験がそこに書き込む。枠は無い。あるのは受け取る場所だけだ。この二つを並べると、近代哲学が何を争っていたかが分かる。知は外から来るのか、内側の形が決めるのか。注目したいのは、ロックの立場が政治につながっていたことだ。生まれつきの観念が無いなら、生まれつきの身分も、生まれつきの権威も根拠を失う。白紙という比喩は、認識論であると同時に平等の主張でもあった。111・112 で扱うア・プリオリとア・ポステリオリの対は、この争いの整理された形にほかならない。
  • 海を見て「波の音」だと分かったとき、それは感覚から認識へ移っている。 原書の説明に沿った文である。感覚 → 意識 → 認識という段階を押さえておくと位置が定まる。見えている・聞こえているだけでは足りない。それが何であるかが分かったとき、はじめて認識になる。つまり認識には名づけが要る — ここで 1-3 の 67 の分節と手を結ぶ。
  • ×光が目に入った。これが認識である。 刺激を受け取るだけなら「感覚」、まとまりとして捉えるところまでなら「知覚」である。認識は意味づけて知として持つところまでを指す。「それが何であるかが分かったか」を問えばよい。94 と合わせて三段の位置を固定しておくと、この節の設問はほぼ落とさない。
原書の反意語・関連語

関 認知

派生形
  • 認識論にんしきろん[0]知の成り立ちと限界を問う分野。存在論(何があるか)と対になる。近代哲学は存在論から認識論へ重心を移した — その転換点にいるのがカントである。
  • 認識的にんしきてき[0]「認識のうえでの」という限定を示す。「認識的な問題であって、実在の問題ではない」のように、議論の層を切り分けるために使う。
  • 再認識さいにんしき[0]すでに知っていたことを改めて捉え直すこと。1-1 の 14 の自明性と接している — 再認識が起きるのは、問われないまま通っていたものが問いの場へ引き出されたときである。
コロケーション
  • 認識論知を問う分野何をどこまで知りうるかを問う哲学の一分野。近代哲学の一大テーマである。面白いのは、この問い自体が認識の一種だということだ。認識について認識しようとしている。88 で見た「問う自分が消えない」性質が、ここでもっとも濃く現れる。
  • 認識の枠組みカント以後の常識対象がそのまま写るのではなく、受け取る側の形が見え方を決めるという考え。いまではあまりに当たり前になったが、これが提案だったことを思い出しておきたい。1-2 の 48 のパラダイム、1-3 の 67 の分節、1-4 の 73 の文化 — いずれもこの枠組み論の子孫である。
  • 認識を新たにする日常語の形考えを改めるという意味で日常でも使う。「認識が甘い」も同じ層である。評論文の認識論的な用法とは重さが違うので、まずどちらの層かを決める。哲学の文脈なら、この語は知の成り立ちそのものを指している。
  • 認識と認知分野の違い認識は哲学、認知は心理学・認知科学の語。扱う対象は重なるが、問いが違う。認知はどう処理されているかを問い、認識はそれが本当に知と言えるのかを問う。真偽の問題を含むかどうかが分かれ目である。

書き言葉。会話では不自然。

類語と差
  • 知覚感覚器官で捉える☑94。認識の手前の段階。判断が加わって認識になる。
  • 理解筋道が分かる内容の把握。認識は対象を知として持つこと全般を指す。
  • 意識気づいている状態働きの場。認識はその働きの結果として得られる知。
  • 認知情報を処理して捉える心理学・認知科学の語。認識は哲学の語で、真偽の問題を含む。

ENcognition / knowledge
ZH认识(知っている・見知っている, rènshi)

日中のズレ

中国語の 认识(rènshi)は日常語で、「知り合いである」「見知っている」の意が中心である(我认识他)。

哲学用語としての「認識」は 认知(rènzhī)、認識論は 认识论(rènshílùn) が対応する。

感覚・知覚・認識の三段階刺激を受け取る感覚、まとまりとして捉える知覚、意味づけて知として持つ認識という三段階を示した図。 感覚 刺激を受け取る 知覚 まとまりとして捉える 認識 意味づけて知として持つ 光・音・圧 赤い丸いもの これはリンゴである カント以降は、認識する側の枠組みが対象の見え方を決めるとされる。 受け取るだけの受動的な作業ではない。 分節(☑67)・パラダイム(☑48)と同じ構図がここにある
感覚・知覚・認識の三段階
入試文

たとえば、いま私が使用しているパソコンはパソコン以上のなにものでもなく、パソコン以下のなにものでもない。鉛筆も消しゴムもパンも自動車もあなたも同様にこの意味で全体化された存在者である。それらは、「それっきりの自己同一性」のうちにある。

それでは、この自己同一性とはなにか。それは、私がそれらのものをそのようなものとして認識した、ということに他ならない。認識するとは、あるものを一定の普遍概念によって把握することであり、平たく言えば、それを型に嵌めるということである。理性としての私が認識という態度で世界と関わるとき、私はあらゆるものを普遍概念によって整理統合し、私の張りめぐらせた有意味性の網の目の中へ、秩序づける。それによって、私はすべての存在者を自我のうちに取り込むのである。

私は世界を食べて自己を太らせるのである。この取り込みによって、私は認識されたものを道具化する。

出典 岩田靖夫『ギリシア哲学入門』 / 出題 愛知教育大学

読解のポイント
  • 認識する = 一定の普遍概念によって把握する(型に嵌める) ↓ 普遍概念によって整理統合し、秩序づける ↓ すべての存在者を自我のうちに取り込む ↓ 認識されたものを道具化する
要約

認識するとは、あるものを一定の普遍概念によって把握することである。あらゆるものを普遍概念によって整理統合し、秩序づけることにより、すべての存在者を自我のうちに取り込む。

語法の観察

「〜のである」が理由づけを担い、記述を説明に変える。前文を根拠として読ませる標識。

Section 06

知覚

94★★

知覚ちかく

ちかく[0]平板型

語構成
しるおぼえる・さとる
定義

感覚器官の働きによって、外界の事物や身体の状態を知る働き。

『現代文キーワード読解』1-1 ☑94
原書の解説

知覚をもたらす感覚には、視覚・聴覚・触覚・嗅覚・味覚などがある。意識や認識が、視覚や聴覚・触覚といった感覚から切り離されても成り立つ概念であるのに対して、知覚は、感覚に個人の体験や判断を加えたものと理解すればわかりやすい。

たとえば、虫歯でもないのに歯が痛くなる「知覚過敏」という症状を考えてみよう。ズキン!という感覚を受け止め、自分は冷たいアイスを食べる時だけ歯が痛くなると自覚することが、知覚なのである。

使用の境界

感覚器官を通して外界を捉えること。捉えるところまでで、意味づけや判断は含まない。

用法

感覚 → 知覚 → 認識という段階で押さえると位置が定まる。感覚は刺激を受け取ること、知覚はそれをまとまりある対象として捉えること、認識は意味づけて知として持つこと。評論文では、知覚できる範囲が限られているという主張の形で出ることが多い。人間が見ているのは可視光線だけであり、世界のごく一部にすぎない。ここから☑3 具体(知覚し得る形をもつ)や☑95 現象の議論につながる。

用例
  • 目が太陽のようなものでなかったら、どうして我々は光を見ることができようか。ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ『色彩論』序(1810)/訳は本教材
    プロティノス以来の詩句をゲーテが引いたものである。見るためには、見る側にすでに光に応じる何かが備わっていなければならない。これは知覚という語のいちばん深いところに触れている。目は世界を受け取る窓ではない。受け取れるようにできている装置である。だから装置が受け取れないものは、世界にあっても無いのと同じになる。人間が見ているのは可視光線だけで、赤外線も紫外線もそこには無い。知覚できる範囲が世界の広さを決めてしまう — この事実が、95 の現象や 1-1 の 3 の具体(知覚し得る形をもつ)の議論の土台になっている。
  • 目と耳は、野蛮な魂を持つ人間にとっては、悪しき証人である。ヘラクレイトス 断片(前六〜五世紀)/訳は本教材
    感覚そのものを退けているのではない。「野蛮な魂を持つ人間にとっては」という条件が付いている点に注目したい。同じものを見ても、受け取る側の準備しだいで証言の価値が変わる。ここに知覚の位置が正確に示されている。知覚は認識の材料を提供するが、材料のままでは知にならない。感覚 → 知覚 → 認識という段階のうち、知覚はまとまりとして捉えるところまでで、意味づけと判断はまだ来ていない。ヘラクレイトスの「悪しき証人」は、材料を材料のまま結論にしてしまう危うさを言っている。
  • 虫歯でもないのに冷たいもので歯が痛む。その痛みを自分の症状として捉えるところまでが知覚である。 原書が挙げる知覚過敏の例である。ズキンという刺激を受け取るのが感覚それを「冷たいものを食べたときの痛み」というまとまりとして捉えるのが知覚。さらに病名として意味づければ認識になる。三段が同じ出来事の中で連続しているので、境目は例で覚えるのが早い。
  • ×人間が見ているのは可視光線だけなので、世界は知覚できない。 一部しか知覚できないことと、知覚できないことは違う。この文は、限界の指摘を全否定にすり替えている。評論文が知覚の限界を語るのは、見えているものが全部だと思い込むことを戒めるためであって、知覚を無効にするためではない。限界の指摘を虚無に着地させないこと。
派生形
  • 知覚的ちかくてき[0]「知覚的な手がかり」のように、感覚器官を通して得られるものだと限定するときに使う。判断や推論を含まないという断りになる。
  • 知覚作用ちかくさよう[0]「作用」が付いて働きのほうを指す。結果としての像ではなく、捉えるという出来事そのものを問題にする形である。
  • 感覚かんかく[0]知覚の手前の段階。光や音や圧を受け取るだけで、まだ何のまとまりにもなっていない。109 の感性は、この受け取る能力そのものを指す哲学語である。
コロケーション
  • 感覚・知覚・認識三段の階梯刺激を受け取る/まとまりとして捉える/意味づけて知として持つ。この三段を一本にしておくと、93・94 の設問はほとんど落とさない。注意したいのは、実際の経験ではこの三段が一瞬で起きることだ。分けられるのは分析のうえでのことで、分けたことで見えるものと消えるものがある — 1-2 の 43 の要素論がここでも顔を出す。
  • 知覚できる範囲世界の広さ知覚の限界が、そのまま世界の限界になる。可視光線、可聴域、味覚の種類。いずれもごく狭い。評論文がこの事実を持ち出すのは、人間が見ている世界が世界そのものではないと示すためである。95 の現象、97 の独我論へ道が続いている。
  • 知覚過敏医学の用法本来なら痛みを起こさない刺激で痛みが生じる症状。知覚が刺激の強さに正比例しないことをよく示す例である。受け取る側の状態が変われば、同じ刺激が別の知覚になる。知覚が単なる受信ではないというこの事実は、ゲーテの一句とも響き合う。
  • 知覚と表象外を捉えるか、内に立つか知覚は外界を捉える働き、表象はその結果として心に立った像。1-3 の 65 と対にして読みたい。見ているあいだが知覚、目を閉じてもまだ残っているのが表象である。対象が要るかどうかで分けると迷わない。

書き言葉。会話では不自然。

類語と差
  • 感覚刺激を受け取ることより手前の段階。光や音を受け取るだけ。知覚はそれをまとまりとして捉える。
  • 認識知として持つこと☑93。判断を伴う。知覚はその材料を提供する。
  • 表象心に立ち現れた像☑65。知覚は外界を捉える働き、表象はその結果として心に立った像。
  • 直観筋道を経ずに捉える推論を挟まない把握。知覚は感覚器官を経る。

ENperception
ZH知觉(知覚・意識, zhījué)

入試文

物心二元論によれば、身体器官によって捉えられる知覚の世界は主観の世界である。自然に本来、実在しているのは、色も味も臭いもない原子以下の微粒子だけである。知覚において光が瞬間に到達するように見えたり、地球が不動に思えたりするのは、主観的に見られているからである。自然の感覚的な性格は、自然本来の内在的な性質ではなく、自然をそのように感受し認識する主体の側にある。つまり、心あるいは脳が生み出した性質なのだ。

真に実在するのは物理学が描き出す世界であり、そこからの物理的な刺激作用は、脳内の推論、記憶、連合、類推などの働きによって、秩序ある経験(知覚世界)へと構成される。つまり、知覚世界は心ないし脳の中に生じた一種のイメージや表象にすぎない。物理学的世界は、人間的な意味に欠けた無情の世界である。

それに対して、知覚世界は、「使いやすい机」「嫌いな犬」「美しい樹木」「愛すべき人間」などの意味や価値のある日常物に満ちている。しかしこれは、主観が対象にそのように意味づけたからである。

出典 河野哲也『意識は実在しない』 / 出題 東京大学

読解のポイント
  • 実在
  • 原子以下の微粒子だけ
  • =物理学的世界
  • 知覚の世界
  • =主観の世界
  • 心あるいは脳が生み出した性質
  • 意味や価値のある日常物に満ちている
  • ↓ 主観が対象にそう意味づけたから
要約

物理学的世界は、原子以下の微粒子だけが実在する無情の世界だが、知覚の世界は、心や脳が生み出したもので、意味や価値のある日常物に満ちている。主観が対象にそのように意味づけたからだ。

語法の観察

具体的な感覚器官の話から、認識論の一般論へ移る。ミクロからマクロへ上がる箇所に切れ目がある。

つぼにも向かい合う二つの顔にも見える図で、図と地の反転を示した図まったく同じ輪郭が、中央を図と見ればつぼに、両脇を図と見れば向かい合う二つの横顔になる。網膜に届く光は同じでも見えが変わることから、知覚がすでに解釈を含むことを示す。 同じ輪郭が、二つに見えるつぼ(右向き)(左向き)目に届いている光は、どちらの見えでも同じである変わるのは、どこを図とし、どこを地とするかだけだしかも、二つを同時に見ることはできない知覚は受け取ることではなく、選ぶことである05 で言う「感覚のまま」は、どこにも無い
図と地 ── 見えは選ばれている
Section 07

現象/本質

95★★

現象げんしょう

げんしょう[0]平板型

語構成
あらわれるかたち・すがた
定義

人間が感覚によってとらえることのできる、すべての物事。

『現代文キーワード読解』1-1 ☑95
使用の境界

感覚に現れてくるもの。背後に本質があるという前提のもとで使われる語である。

用法

要点は、この語が二層の世界観を前提にしていることにある。現れているものの背後に、本当のものがある──この構図がプラトンのイデア論からカントの物自体まで続く。したがって「現象にすぎない」と言えば、それは本質ではないという含みになる。二十世紀の現象学は逆に、背後を想定せず現れそのものを記述する立場をとった。日常語の「社会現象」「自然現象」は単に〈起きていること〉の意なので、評論文の用法と読み分ける。

用例
  • 我々が物を認識するのは、それが我々に現象するかぎりにおいてであって、それ自体においてではない。イマヌエル・カント『純粋理性批判』(1781)/訳は本教材
    現象という語が二層の世界観を前提にしていることが、ここにはっきり出ている。現れているもの(現象)と、それ自体としてのもの(物自体)。我々に届くのは前者だけである。注目したいのは、カントが物自体を「無い」とは言っていないことだ。あるが、届かない。この届かないという線引きが、哲学から形而上学的な思弁を締め出す働きをした。同時に、届かないものがあると言い続けることで、人間の知に外側があると認めてもいる。1-2 の 47 の科学主義がこの外側を認めない立場だと考えると、両者の距離が測れる。
  • 事象そのものへ!エトムント・フッサール『論理学研究』(1900)/訳は本教材
    現象学の標語である。たった一行だが、方向が正反対を向いている。カントは現象の背後に物自体を置いた。フッサールは背後を想定するのをやめた。現れているものを、現れているとおりに、先入見なしに記述せよ、という。ここで「現象にすぎない」という言い方が消える。背後が無ければ、「すぎない」と言うための比較対象も無いからだ。注目したいのは、これが哲学の放棄ではなくより厳しい要求だったことである。背後に本質があると仮定するほうが、じつは楽なのだ — 説明のつかないものをそちらへ預けてしまえるからである。
  • 現象にすぎない」と言えば、それは本質ではないという含みになる。 この語が二層の世界観を背負っていることの証拠になる言い方である。プラトンのイデア論からカントの物自体まで、現れているものの背後に本当のものがあるという構図が続いてきた。96 の本質と対で読み、筆者が背後を認める立場か疑う立場かを見分けたい。
  • △近ごろの若者の言葉づかいは興味深い現象だ。 通じるが、これは日常語の用法で単に〈起きていること〉の意である。「社会現象」「自然現象」も同じ層にある。評論文の現象は本質との対で使われ、背後があるという前提を伴う。近くに「本質」があるかどうかで層を判定するとよい。
派生形
  • 現象的げんしょうてき[0]「現象の層に属する」という限定を示す。「現象的には改善しているが」と言えば、見えているところではそうだが本質は違う、という含みになる。
  • 現象学げんしょうがく[0]背後を想定せず現れを記述する立場。フッサールに始まり、ハイデガー、メルロ=ポンティへ受け継がれた。1-3 の 71 で見た身体の両義性も、この系譜にある。
  • 物自体ものじたいカントの語で、現象の背後にあるが認識できないもの。「あるが届かない」という奇妙な位置づけが、その後の哲学の主要な争点になった。96 の本質、110 の形而上と合わせて読みたい。
コロケーション
  • 現象と本質二層の構図現れているものと、その根拠。プラトン以来この構図が西洋思想を支えてきた。注意したいのは、背後を認めた瞬間に、現れているものの価値が下がることだ。「にすぎない」という言い方が自然に出てくるのはそのためで、現象学はまさにこの下落を止めようとした。
  • 現象学背後を置かない現れそのものを記述する立場。意識に何がどう与えられているかを、説明せずに書き取る。「意識は常に何かについての意識である」という志向性の考えがその土台にある。1-3 の 60 で見たコンテクスト、1-4 の 79 で見た日常の自明性は、この方法の子孫にあたる。
  • 現象にすぎない価値を下げる言い方背後に本当のものがあるという前提がこの一句に畳み込まれている。評論文でこの形を見つけたら、筆者が本質を認める立場に立っていると見当がつく。逆に、この言い方を批判する文章なら、96 の本質主義批判の側にいる。
  • 社会現象日常語の層単に起きていることの意。背後を想定しない。「自然現象」「異常現象」も同じで、評論文の現象とは重さが違う。この語が単独で出てきたときは、まず日常語の層を疑ってみるのが安全である。

書き言葉・会話の両方で使える。

類語と差
  • 本質現れの背後にあるもの対語。現象は現れ、本質はその根拠。プラトン以来の二層構造。
  • 事象起きた出来事中立の語。背後を想定しない。
  • 表象心に思い浮かべられた像☑65。現象は外に現れたもの、表象は内に立った像。
  • 実体それ自体で存在するもの形而上学の語。現象の背後にあるとされてきたもの。

ENphenomenon
ZH现象(現象, xiànxiàng)

96★★

本質ほんしつ

ほんしつ[0]平板型

語構成
もと・根本なかみ・たち
定義

物事の根本的な性質、本来の姿。

『現代文キーワード読解』1-1 ☑96
使用の境界

そのものをそのものたらしめている性質。それが失われれば別のものになる、という限界を含む。

用法

日常語では「本質的な問題」=〈根本的で重要な問題〉の意で使うが、哲学語としてはそれを失えば別のものになる性質を厳密に指す。評論文で近年重要なのは本質主義批判で、「女性の本質」「日本人の本質」といった語り方が、歴史的につくられたものを生まれつきのものとして固定する働きを持つ、という指摘である。ここで☑78 制度・☑84 オリエンタリズムと接続する。読解では、本質を認める立場か疑う立場かを見分ける。

用例
  • 美しいものが美しいのは、ほかでもない、美そのものによってである。……色の鮮やかさでも、形のよさでも、そのたぐいの何かでもない。プラトン『パイドン』(前四世紀)/訳は本教材
    本質という考え方の原型がここにある。美しい花、美しい旋律、美しい行い — それらに共通するものを取り出せば「美そのもの」が残る、という。注目したいのは、プラトンが具体的な性質をすべて退けていることだ。色でも形でもない。ということは、美そのものは感覚では捉えられない。95 の現象と本質の二層構造は、この一節から出発する。そして本質を認める立場の強みと弱みも、ここに揃っている。共通するものがあるから議論ができる。同時に、それがどこにあるのかは誰も示せない
  • 一の意味または言語は、一民族の過去および現在における存在様態の自己表明である。九鬼周造『「いき」の構造』序説(1930)
    「いき」という日本語一語の本質を捉えようとした書物の、方法を述べた一節である。語の意味は、それを使う民族の生き方の表明だという。ここが鋭い。九鬼は「いき」を他の言語に訳せないものとして扱った。つまり本質を、普遍的なものとしてではなく、ある集団の歴史に根ざしたものとして捉えている。プラトンの「美そのもの」と並べると差がはっきりする。一方は時代と場所を超え、他方は時代と場所そのものから出てくる。そして後者の立場を突き詰めると、「日本人の本質」という語り方が歴史的に作られたものを生まれつきのものへ固定してしまう危うさに行き当たる。本質主義批判は、まさにその一歩先にある。
  • 「女性の本質」「日本人の本質」という語り方は、歴史的につくられたものを生まれつきのものとして固定する。これが本質主義批判である。 評論文で近年もっとも重要な用法である。批判されているのは本質という語ではなく、その語り方の働きだ。本質だと言われた瞬間、変えられないもの、変えるべきでないものになる。1-4 の 78 の制度、84 のオリエンタリズムと接続する。読解では、本質を認める立場か疑う立場かを見分ける。
  • △予算が足りないのが本質的な問題だ。 通じるが、これは日常語の用法で〈根本的で重要な〉の意である。哲学語としての本質は、それが失われれば別のものになる性質を厳密に指す。「それが無くなったら、もうそれではなくなるか」を問えばよい — 予算が足りなくても、その事業は同じ事業である。
原書の反意語・関連語

同 実体

派生形
  • 本質的ほんしつてき[0]二つの層が同居する。日常語では「根本的で重要な」、哲学語では「それを失えば別物になる」。前者は程度の話、後者は同一性の話である。
  • 本質論ほんしつろん[0]本質を問う議論。ただし「本質論に流れる」と言えば、具体を離れた抽象論という批判になる。1-1 の 4 で見た抽象と同じで、価値は文脈が与える。
  • 本質主義ほんしつしゅぎ[0]「主義」が付いて立場になる。ほぼ批判語として使われる。1-2 の 43 の要素還元主義、47 の科学主義と同じで、ある見方を唯一の見方へ格上げしたときに批判が生じる。
コロケーション
  • 本質主義固定する働きある集団や事物に変わらない本質があるとみなす立場。評論文ではほぼ批判の対象になる。批判の型は決まっていて、歴史的につくられたものを自然のものとして語ってしまうという指摘である。1-4 の 78 で見た「自然に見えるものが実は制度」と正確に同じ構図で、本質主義は制度を自然に見せる装置だと言える。
  • 本質を捉える肯定の言い方枝葉を落として核心をつかむという肯定的な評価。日常語の層にある。注意したいのは、何を枝葉と見なすかがすでに判断だということだ。核心は転がっていて拾えるものではなく、捨てるものを決めることによって残るものである — 1-1 の 4 で見た捨象と同じ操作がここにある。
  • 本質と実体何であるかと、在ること本質は「何であるか」、実体は「それ自体で存在するもの」。問いの向きが違う。「三角形の本質は三辺で囲まれていること」と言えるが、「三角形は実体である」とは言いにくい。115 の実存が「本質に先立つ」と言われるとき、争われているのはこの順序である。
  • 本質的に断定の補強「要するに」「根本的には」の意で使われる。便利だが危うい言い方でもある。この副詞を挟むと、細部を切り捨てる許可を自分に出したことになるからだ。評論文でこの語を見つけたら、何が切り捨てられたかを一度数えてみるとよい。

書き言葉。会話では不自然。

類語と差
  • 現象感覚に現れるもの対語。本質はその背後にあるとされる。
  • 実体それ自体で存在するもの存在の側。本質は〈何であるか〉の側。
  • 特質そのものに特有の性質目立つ性質を指すだけ。本質は失えば別物になるという条件を含む。
  • 本性生まれつきの性質人や生物について言う。本質は物や概念にも使う。

ENessence
ZH本质(本質, běnzhì)

解説 ── 現象・本質

異常気象のような自然現象も、ファッションの流行のような社会現象も、あるいは信じられないような心霊現象も、人間がそれととらえることのできるものはすべて現象と言える。しかし現象は、外面的・外見的なものにすぎず、不安定だという印象も受ける。それが実在しない場合は、仮象とよばれることにもなる。

過去の西洋哲学では、外見などには現れない、隠された本当の姿である実体と、その性質を示す属性(すなわち、現象と対立するものとしての本質)が考察されてきた。ところが、客観的・普遍的な本質といったものは特定の見方に偏った「まやかし」にすぎないのではないか、という疑いも出されている。

対立の軸

現象/本質 の軸 = 現れか、その根拠か

現象感覚に現れてくるもの。
現れか、その根拠か
本質そのものをそのものたらしめている性質。
現象と本質の二層感覚に現れる現象と、その背後にあるとされる本質という二層の世界観を示した図。 現象 感覚に現れてくるもの 境界 本質 そのものをそのものたらしめる性質 見通す プラトンのイデアからカントの物自体まで、この構図が続いた。 現象学は逆に、背後を想定せず現れそのものを記述しようとした
現象と本質の二層
入試文

この世界のすべては「現象」する。世界(という「すべて」)自体がすでに一個の「現象」なのである。「存在」もまた、一個の「現象」以外ではない。「存在」が「現象」を包摂するのではない。「現象」が「存在」を包摂しているのだ。あらゆる問いとあらゆる思考はこの地点から、そしてこの地点からのみ、始まりうる。そして、問いと思考を離れたところでは、実は何ものもないのだ。

このことは、私たちの常識に著しく反する。私たちが問いなど立てなくても、思考などしなくても、世界は「在る=存在する」のではないか、と常識は言う。だが、その「常識」自体がすでに一個の思考であることを、決して忘れてはならないのだ。本章冒頭で述べた〈私たちのこの現実は、徹頭徹尾「現象すること」に貫かれている〉とは、このことにほかならない。これを、世界の根本原理(アルケー)としての「現象すること」と言ってもよいだろう。

出典 斎藤慶典『知ること、黙すること、遣り過ごすこと―存在と愛の哲学』 / 出題 大阪府立大学

読解のポイント
  • 世界のすべては「現象」する
  • 世界自体・「存在」も一個の「現象」
  • ↓ 「現象」が「存在」を包摂し、問い・思考はここから始まる
  • 常識
  • 問いや思考などしなくても、世界は「在る=存在する」
  • → 常識自体がすでに一個の思考
要約

「現象」が「存在」を包摂しているのであり、あらゆる問いと思考はこの地点からのみ始まる。世界は「存在する」と主張するが、その常識も、世界自体がすでに一個の思考である。

語法の観察

二項を提示したあと、その二項自体が前提であることを示す。枠組みを使いながら枠組みを見せる型。

Section 08

独我論

97★★

独我論どくがろん

どくがろん[0]平板型

語構成
ひとりわれ説き方・立場
定義

自我のみが実在し、そのほかすべてのものはただ自己の意識内容にすぎないとする立場。

『現代文キーワード読解』1-1 ☑97
原書の解説

独我論的思考を突き詰めると、〈世界は自分の意識内容にすぎない〉という考え方になる。一見、空想的な内容だと思えるが、たとえば今の私に見えている世界や空間は、夢の世界の出来事ではないと論理的に証明することは非常に難しい。

あるいは、生まれた直後に、私の脳と特別なコンピュータをつないで、非常に精妙な仮想現実を死ぬまで見せられていたと考えたらどうか。そこまで考えずとも、例文にあるように、私の意識があってこそ世界は存在するという考え方には、一定の説得力が備わっている。

そうだとすると、複数の人間を納得させる倫理や道徳にはどのような根拠があるだろうか。たとえば、制度的な法やルールがない時、なぜ人を殺してはいけないのか。独我論的思考を突き詰めると、〈世界は自分の意識内容にすぎないのだから〉ルールに従う理由はなくなる。こうした倫理的な難題を独我論は突きつけているのだ。

使用の境界

確実に存在するのは自分の意識だけだとする立場。他者や外界の存在を証明できないとする。

用法

日常語の「自己中心的」と混同されやすいが、独我論は認識論の立場である。デカルトの方法的懐疑を徹底すると、疑いえないのは疑っている自分の意識だけになり、他者の心も外界も証明できなくなる。この行き詰まりが他者問題を生む。評論文では、近代的な主体の孤立を批判する文脈で出てくることが多い。「独我論に陥る」は否定的な言い方で、そこから抜け出す道を探す、という展開に続く。

用例
  • 存在するとは、知覚されることである。……感覚されない事物が心の外に絶対的に存在するというのは、まったく理解しがたいことに思われる。ジョージ・バークリー『人知原理論』(1710)/訳は本教材
    知覚されていないものは存在しないという主張である。誰も見ていない部屋の机は、そのあいだ存在していない。常識に反するが、反論するのは意外にむずかしい。「見ていないときも机はある」と言うには、見ていないときの机を見なければならないからだ。バークリー自身は神を持ち出してこの帰結を回避した — 神が常に知覚しているから世界は消えない、と。回避策が要るということは、そのままでは独我論に着くということでもある。94 で見た知覚と、95 で見た現象の背後の問題が、ここで一つの行き止まりに合流する。
  • 私の言語の限界が、私の世界の限界を意味する。……世界は私の世界である。ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』(1921)/訳は本教材
    独我論をもっとも簡潔に述べた二行である。注目したいのは、ウィトゲンシュタインがこれを正しいとも間違っているとも言っていないことだ。彼は続けて、独我論は「語りえない」が「示される」と書く。主張として述べようとすると、それを聞く他者を前提にしてしまうからである。ここに独我論の奇妙な性格がある — 他人に向かって「私しか存在しない」と言った瞬間、主張が自分を裏切る。1-1 の 18 の自己言及のパラドックス、1-3 の 72 で見た「語りえぬもの」と同じ場所に立っている。
  • デカルトの方法的懐疑を徹底すると、疑いえないのは疑っている自分の意識だけになる。独我論はその行き止まりである。 1-1 の 15 で見た方法的懐疑には出口があった。疑いえないものへ至るための手続きだったからだ。ところがその出口は、自分の意識という一点しかなかった。他者の心も外界も、そこからは証明できない。この行き詰まりが他者問題を生む — 現代哲学の主要な主題である。
  • ×彼は他人の気持ちを考えない。独我論的な人だ。 態度の話なら「自己中心的」である。独我論は認識論の立場で、性格とは関係がない。「他者の存在を証明できるかと問うているか」を見ればよい。問うていなければ、それは性格の話である。訳語に「我」が入っているために利己心と結びつけられやすいが、まったく別物だ。
原書の反意語・関連語

同 唯我論/独知論

派生形
  • 独我論的どくがろんてき[0]「独我論的な傾向」のように、立場そのものではなくその方向へ傾いていることを指す。完全な独我論者はほぼいないので、実際の用法はこの形になる。
  • 懐疑論かいぎろん[0]独我論の一歩手前にある立場。1-1 の 15 で見たとおり、確実な知は得られないとする。独我論は、その懐疑を徹底した果てに自分の意識だけが残った形である。
  • 唯我論ゆいがろん同じ立場の別の訳語。「唯」が使われると、92 の唯物論と語形がそろう。「ただ〜だけ」を認める立場という共通の作りが見えやすくなる。
コロケーション
  • 独我論に陥る出口を探す合図否定的な言い方で、そこから抜け出す道を探す、という展開に続く。「陥る」が示すとおり、着きたくて着いた場所ではない。誠実に考えを進めた結果として落ちてしまう穴である。だから批判は「浅はかだ」ではなく「その先をどう抜けるか」の形をとる。
  • 他者問題独我論が残す宿題他者の心をどう知るか。自分の痛みは直接に分かるが、他人の痛みは推測するしかない。それでも我々は日々、他人の心を前提に生きている。証明できないのに前提にしているというこの事実をどう扱うかが、二十世紀の哲学の中心的な問いになった。89 で見た間主観性は、その一つの答えである。
  • 近代的主体の孤立批判の文脈評論文で独我論が出てくる典型的な場面。デカルトが確立した独立した自我が、同時に世界から切り離された自我でもあったという指摘である。確実さを求めて疑いを徹底した結果、確実なものが自分ひとりしか残らなかった。98 の自我、106 の主体と一続きに読むと、近代批判の骨格が見えてくる。
  • 水槽の脳現代の言い換え生まれた直後から脳がコンピュータにつながれ、精妙な仮想現実を見せられているとしたら、それを内側から否定できるか — という思考実験。原書の解説が挙げるのもこの型である。技術が進むほど、この問いは空想でなくなっていく。1-7 の情報化社会の議論とも接する。
硬・学術

論文・評論でのみ使う。会話では不自然。

類語と差
  • 懐疑論確実な知は得られないとする☑15。独我論は懐疑を徹底した果てに出てくる。
  • 観念論意識を先に置く世界の成り立ちの説明。独我論は自分の意識だけに絞る点で極端。
  • 自己中心的自分本位である態度の話。独我論は認識論の立場で、性格の話ではない。
  • 他者問題他者の心をどう知るか独我論が残す難問。現代哲学の主要な主題。

ENsolipsism
ZH唯我论(独我論, wéiwǒlùn)

日中のズレ

中国語では 唯我论(wéiwǒlùn) と書く。「唯」を使い、「独」は用いない。

日本語の「独我論」と字が違うので、そのままでは通じないことがある。

懐疑の徹底から独我論へすべてを疑った結果、疑いえないのは疑っている自分の意識だけになり、他者問題が生じる流れを示した図。 すべてを疑う 疑う私だけが残る 独我論 他者の心は証明できない 残された難問 他者に心があることを、 どうやって知るのか。 他者問題 ── 現代哲学の主要な主題 自己中心的であることとは関係がない。認識論の立場である。
懐疑を徹底した果て
入試文

自己の存在、この私が存在しているということは、あらゆる存在の可能性とまったく等価な事態である。それゆえまた、この私が存在していなければ、あらゆる事物の、あらゆる存在者の存在ということがありえないだろう。いま、現実的な存在の全体を「宇宙」と呼ぶことにしよう。自己の存在は宇宙の存在と同値なのだ。このことは、過激な独我論を導くことになる。自己というものが有するある種の優越性、自己の自明性というこの究極の根拠も、この独我論と同じところに由来する。

出典 大澤真幸・他著『関係・コミュニケーション』 / 出題 上智大学・法学部

読解のポイント
  • 自己の存在
  • =可能的・現実的な存在の全体
  • =宇宙
  • 独我論
  • 自己が有する優越性
要約

私の存在は、あらゆる存在と同値であるが、このことが過激な独我論を導くことになる。

語法の観察

極端な結論をあえて言い切ることで、その手前にある前提を浮かび上がらせる。帰謬法に近い運び。

Section 09

自我

98★★

自我じが

じが[1]頭高型

語構成
みずからわれ
定義

意識の主体。自己意識。

『現代文キーワード読解』1-1 ☑98
原書の解説

自我とは、一般的には、〈自分の意識〉のことだが、入試現代文で扱われるのは、〈他者とは異なって意識される自分〉を意味する近代的自我のことが多い。近代的自我は、デカルトの哲学から始まる。

デカルトは、学問というものは絶対確実なものから出発しなければならないと考えた。では、絶対確実なものを見出すためにはどうしたらよいか。デカルトが試みたのは、あらゆるものを疑ってかかるという方法だ。どのようなことでも疑ってみて、それでも疑えないものこそ絶対確実なものだと考えたのである。

たとえば、目の前にある机も椅子も、もしかしたら夢の中で見ているものかもしれない。そうなると、机や椅子の存在は確実なものではなくなる。そうやって、すべてを疑い否定し尽くしても、「その存在を疑っている自分がいること」は否定できない。この疑い尽くした末に残る自分の意識こそ近代的な意味での自我である。

自我とは、自分の同一性を保証するものであり、絶対確実な自我など存在しないという批判も提出されているが、他者とは異なるという意識を生み出す。個人の尊厳を尊重する近代は、こうした自我を絶対視した時代であった。

使用の境界

自分を自分として意識する働き。他者と区別された自分という捉え方を含む。

用法

二つの層がある。①哲学の自分を自分として意識する働き。②フロイトのエス・自我・超自我という心の三層構造における中間の審級で、欲動と規範を調停する働きを指す。評論文では①が中心で、近代が確立した独立した個人という像と結びつく。そのうえで、その自我が実は社会や言語に規定されているという批判が続く。「自我の確立」は発達心理の定型句。「エゴ」は日常では利己心の意になるので、自我とは重ならない。

用例
  • 仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。道元『正法眼蔵』現成公案(1233)
    自己を学ぶことが、自己を忘れることだという。近代的自我の像と正面から食い違っている。デカルト以来、自我は疑いを重ねた末に残る確実な一点として立てられてきた。道元は逆に、徹底して自己を見つめると自己が消えると言う。注目したいのは、消えたあとに何も無くなるのではないことだ。「万法に証せらるる」— あらゆるものの側から証しを与えられる状態になる。自我が世界を認識するのではなく、世界のほうから確かめられる。89 で見た主客未分と同じ方向を向いており、近代的自我が唯一の答えではないことを示している。
  • 私とは一個の他者である。アルチュール・ランボー 書簡(1871)/訳は本教材
    十六歳の詩人が友人に宛てた手紙の一句である。文法を壊しているところが要点で、「私は」と言いながら三人称の動詞を使っている。自分について語る言葉が、自分を他人として扱ってしまう。ここに近代的自我の裂け目が見えている。自分を意識するとは、自分を対象の位置に置くことでもある。置いた瞬間、置いている自分と置かれている自分に分かれる。90 で見た客観視、89 で見た離見の見と同じ操作が、ここでは統一の破れとして語られている。フロイトの無意識(117)が半世紀後に学として述べることを、この一句は先に言い当てている。
  • すべてを疑い尽くしても、疑っている自分がいることだけは否定できない。ここから近代的自我が始まる。 原書の説明どおり、デカルトの方法的懐疑がその出発点である。要点は、この自我が他者とは異なるものとして意識された自分だという点だ。独立した個人という近代の像はここから出た。そのうえで評論文は、その自我が実は社会や言語に規定されているという批判へ進む。
  • ×彼は自我が強いので、自分の得だけを考える。 利己心を指すなら「エゴ」「我」である。自我は自分を自分として意識する働きで、損得とは関係がない。「自我が強い」という日常語も、厳密には自己主張の強さを指しており、哲学語の自我とは層が違う。フロイトの自我にいたっては、欲動と規範を調停する仲裁役である。
派生形
  • 自我意識じがいしき[3]自分を自分として意識する働きそのもの。「自意識」と縮めると日常語になり、「自意識過剰」のように批判の色を帯びる。同じ内容が、語形で評価を変える。
  • 自我同一性じがどういつせい[0]アイデンティティの訳語のひとつ。1-3 の 69 で見た同一性が、ここでは自分自身について問われる。時間を隔てた二つの自分を並べて、同じだと判断し続ける作業である。
  • 超自我ちょうじが[2]フロイトの語で、内面化された規範のこと。1-4 の 83 で見た規範の内面化が、ここでは心の一部として位置を与えられている。「良心の声」の正体を、外から入ってきたものとして説明する。
コロケーション
  • 近代的自我評論文の主役他者とは異なるものとして意識された自分。デカルトに始まり、独立した個人という近代の像を支えてきた。評論文でこの語が出るときは、ほぼ必ずその像を疑う方向へ進む。自分で考えているつもりの自我が、言語・制度・無意識にあらかじめ形づくられているという指摘である。
  • 自我の確立発達心理の定型青年期の課題として語られる。確立という語に注意したい — 建てて固定するという含みがある。99 のアイデンティティが「揺らぐ」ものとして語られるのと対照的で、同じ事柄を、完成させるものと見るか、問い直し続けるものと見るかの差がこの語の選択に出ている。
  • エス・自我・超自我フロイトの三層欲動(エス)と規範(超自我)のあいだで、自我が調停役をつとめる。ここでの自我は主人ではなく仲裁人である。哲学の自我が世界を認識する主体であるのに対し、心の内側で板ばさみになっている。117 の無意識と合わせて読むと、この転落の大きさが分かる。
  • 自我と社会規定される側自我は社会や言語に規定されているという二十世紀の主張。1-3 の 68 の差異、1-4 の 83 の規範の内面化と一本の線でつながる。自分で選んだと思っている選択が、選べる範囲をあらかじめ決められている — この構図が近代批判の中心にある。

書き言葉・会話の両方で使える。

類語と差
  • 主観認識する側の意識☑89。自我は自分という意識、主観は認識する働き。
  • 自己自分そのもの中立で広い。自我は他と区別された自分という意識に重心がある。
  • アイデンティティ自分が自分であり続ける感覚☑99。時間を貫く連続性を含む。自我はいまここの意識。
  • エゴ自我フロイトの用語の音訳。日常語では利己心の意で使われる。

ENego / self
ZH自我(自我, zìwǒ)

入試文

近代になって、人間が自立して自ら責任を負う強力な「自我」を確立することに高い価値がおかれることになった。しかし、その強力な自我も、キリスト教の神という支えがなければ脆いものであることを忘れてはならない。人間は既に述べたように、何らかの意味で己を支える存在を確信していなくては、不安に陥る。強力な自我がいかに多くのことを成し遂げたとしても、死によってすべてが無になると考えると、空しくなる。やはり、死んだ後に復活し、神の審判を受け、生前に成し遂げたことによって天国に召されると考えてこそ、その永続性が保証される。

このようなことを言うと、欧米の現代人に馬鹿にされるかも知れない。そんな復活とか審判などとは関係なく、ともかく自我を確立していくのだが、そこには当然、個人の責任ということが関係してくるし、他の人々とどのような関係をもつかということも大切になってくる。現在の欧米人は、一回限りの復活や最後の審判などをそれほど信じていない、と言われそうであるが、キリスト教の神という支えは、欧米人の自我の奥に残っている。

出典 河合隼雄の文章 / 出題 東京理科大学・経営学部

読解のポイント
  • 近代
  • 自我の確立に高い価値がおかれる
  • しかし
  • 自我には己を支える存在の確信が必要
  • 例:キリスト教の神
要約

近代になって、自我を確立することに高い価値がおかれることになったが、人間は何らかの意味で己を支える存在がなければ、不安に陥ってしまう。

語法の観察

「〜とされる」「〜と考えられている」で、誰の主張かを明示せずに通念を置く。批判の準備として働いている。

自我が超自我・エス・外界の三方から押され、不安と防衛機制を生む構図の図上から超自我の禁止、下からエスの欲動、左から外界の制約が同時に自我へ加わり、その板挟みが不安となって防衛機制を呼ぶ、というフロイトの構造論を示す。 自我は、三方から押されている超自我禁止・理想…すべきだ自我(エゴ)エス欲動・快…したい外界現実の制約不安防衛機制「自我は自分の家の主人ですらない」── フロイト18 の意識/無意識が層の図なら、これは力の図である
自我・超自我・エス ── 力の配置
Section 10

アイデンティティ

99★★★

アイデンティティ

アイデンティティ[4]中高型

定義

① 自分は自分であるという確信や、位置づけ。自己同一性。 ② 存在理由。

『現代文キーワード読解』1-1 ☑99
原書の解説

身分証明書を「IDカード」と言うが、この「ID」はアイデンティティの略である。自分が何に所属しているのか・自分はどのような人間なのか、そういったことを自分自身で理解して、私が私であるということを確信することがアイデンティティである。

普段は自分が自分であることを疑いもしない。朝起きて、別の動物に変身していたり、昨日までの自分が赤の他人だったりすることなどないからだ。だが、思春期に、過去の自分と現在の自分、そして未来の自分(なりたい自分)との連続性や統一性が失われ、自分に対する確信が揺らいでしまうことがある。これが「アイデンティティ・クライシス(自己喪失)」と言われるものだ。

また、〈存在理由〉を意味するアイデンティティの用法に注意。たとえば、「ジャーナリストにとってアイデンティティは、人々に真実を伝えることである」と言う場合、それは〈存在理由〉という意味で用いられる。

なお、自分についての同一性ではなく、国民としての意識や一体感のことを「ナショナル・アイデンティティ」と言う場合もあり、「日本人としてのナショナル・アイデンティティ」などと用いる。

使用の境界

自分が自分であり続けているという感覚。時間を貫く連続性と、他者からの承認を含む。

用法

エリクソンの語で、「自己同一性」と訳す。要点は二つ。①時間が経っても自分は同じ自分だという連続性、②その自分が他者や社会に承認されているという感覚。だから自分だけで完結しない。「アイデンティティの危機」は、この二つが揺らいだ状態を指す。評論文では、近代が個人にアイデンティティの確立を要求してきたこと自体を問う文脈で使われる。民族・国家・ジェンダーなど集団への帰属を指す用法も広く、その場合は☑85 と接続する。

用例
  • 恥の多い生涯を送って来ました。自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです。太宰治『人間失格』(1948)
    アイデンティティが成り立たないという状態を書いた一節である。注目したいのは「見当つかない」という言い方だ。人間の生活が嫌だとも、間違っているとも言っていない。どうやってそれをやるのかが分からないと言っている。アイデンティティには二つの条件があった — 時間を貫く連続性と、他者からの承認である。この主人公は、道化を演じることで承認だけは得ようとする。だが演じている自分と演じられている自分が一致しないので、連続性のほうが崩れる。承認を得るために連続性を差し出してしまうというこの交換が、近代がアイデンティティの確立を個人に要求してきたことの重さを照らし出している。
  • 自己意識は、他の自己意識に対して、かつ他の自己意識にとって存在することによってのみ、即かつ対自的に存在する。すなわち、承認されたものとしてのみ存在する。ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル『精神現象学』(1807)/訳は本教材
    難解な文だが、言っていることは一つである。自分が自分であるためには、他者に認められなければならない。ここがアイデンティティの第二の条件にあたる。注目したいのは、ヘーゲルがこれを「のみ」で書いていることだ。承認は補助ではなく条件である。一人では、自分が自分であることすら成り立たない。89 で見た離見の見が「観客と同じ心の見」だったのと同じ構造がここにある。そしてこの一節の直後に、主人と奴隷の弁証法が続く — 承認をめぐる争いが不平等な関係を生む、という筋である。1-4 の 84 で見た「描く側と描かれる側」の非対称も、この系譜に属する。
  • アイデンティティは、時間を貫く連続性と、他者からの承認の二つで成り立つ。 エリクソンの語で、「自己同一性」と訳す。二つの条件があることが要点で、どちらが欠けても揺らぐ。だから自分だけでは完結しない — いくら自分を確信していても、周囲がその自分を認めなければ持ちこたえられない。民族・国家・ジェンダーなど集団への帰属を指す用法も広く、その場合は 1-4 の 85 と接続する。
  • △自分の性格をよく理解しているので、アイデンティティは完成している。 自己理解だけでは足りない。他者や社会からの承認という条件が抜けている。また「完成」という言い方も合わない — 新しい今日の自分が現れるたびに照合が要るので、この作業には終わりが無い。「アイデンティティの危機」が青年期だけの話でないのは、そのためである。
原書の反意語・関連語

関 同一

コロケーション
  • アイデンティティの危機二つの条件の揺らぎ連続性と承認のどちらか、あるいは両方が揺らいだ状態。転職、移住、病、退職 — それまで自分を支えていた枠が外れると起きる。注意したいのは、これが失敗ではないことだ。枠が変わったのだから揺らいで当然で、揺らがないほうが枠に気づいていない。
  • 集団的アイデンティティ帰属としての自分民族・国家・宗教・ジェンダーなど、集団への帰属によって自分を定める形。1-4 の 85 のエスニシティと直接つながる。強みは、承認が集団から自動的に供給されることだ。弱みも同じところにある — 集団の輪郭が変われば、自分の輪郭も一緒に動く
  • アイデンティティを確立する近代の要求評論文が問い直すのはこの言い方そのものである。なぜ確立しなければならないのか。身分も職も土地も生まれで決まっていた社会では、この課題は存在しなかった。選べるようになったからこそ、選ばねばならなくなった — 1-6 の近代の章と直結する論点である。
  • 自己同一性訳語としての形1-3 の 69 で見た同一が自分自身に向けられた形。同一が比較を前提とするなら、自己同一性もまた比較を前提とする。昨日の自分と今日の自分を並べて同じだと判断し続ける作業であり、その比較をやめれば危機も消える。それでもやめられないのは、「私は」で始まる文が連続を勝手に前提にしているからだ。

書き言葉・会話の両方で使える。

類語と差
  • 自我自分を自分と意識する働き☑98。自我はいまここ、アイデンティティは時間を貫く連続性。
  • 同一性区別できないこと☑69。訳語。アイデンティティは自己についての同一性を指す。
  • 自己認識自分をどう捉えているか内側の把握。アイデンティティは他者の承認も要素に含む。
  • 帰属意識集団に属している感覚☑85 エスニシティに近い。アイデンティティの一側面。

ENidentity
ZH身份认同(アイデンティティ, shēnfèn rèntóng)

自我・アイデンティティ・モラトリアムいまここの自我、時間を貫くアイデンティティ、それを模索する猶予期間としてのモラトリアムの関係を示した図。 時間 自我 いまここの意識 アイデンティティ 時間を貫く連続性 + 他者からの承認 モラトリアム 責任が猶予された期間 猶予されているあいだに、連続する自分がつくられる
自我・アイデンティティ・モラトリアム
入試文

人間は他の動物と違って、「私のこれからの人生をどうするか」ということに強い関心を寄せる生物である。そしてそれは、時間の無限性の意識を与えられつつ、しかも自分の生の有限性を深く自覚しているところから発する特性である。自らの未来の生についての「節目」の意識こそが、「これからの人生をどうするか」という問いを発生させる条件の一つなのである。

ところで自分の未来を具体的に構想しようとするこの志向性はまた、自分の過去に流れた時間を、一定の具体的な「由来」として、言い換えると、自らにとっての固有な「歴史」として構成する志向性によって支えられている。というのは、たとえいかに漠然としたかたちであれ、「自分はどんな存在であるか」という自己アイデンティティにかかわる問いを持たない者には、「これからの人生をこうしよう」という構想は生まれようがないからであり、「自分はどんな存在であるか」という問いに対する答えは、これまで流れた自分の生の時間をどういう「由来」「歴史」として了解しているかという、その自己総括の力に他ならないからである。

出典 小浜逸郎『人はなぜ働かなくてはならないのか』 / 出題 千葉大学

読解のポイント
  • 「自分の未来についての意識」
  • 「自分はどのように生きてきたか」
  • 自分の過去を具体的に構成
  • 「自分はどんな存在であるか」
  • 自己アイデンティティにかかわる問い
  • 「これからの人生をこうしよう」
  • 自分の未来を具体的に構想
要約

自分の未来を具体的に構想しようとすることは、自分の過去を具体的に構成しようとする志向性に支えられている。

語法の観察

定義を述べたあと、その定義が成り立つ条件を追加する。二段構えで概念の輪郭を絞る型。

Section 11

モラトリアム

100★★

モラトリアム

モラトリアム[3]中高型

定義

社会へ出る準備として、社会的な責任や義務を免除される一定の猶予期間。

『現代文キーワード読解』1-1 ☑100
原書の解説

モラトリアムとは、青年期に、すでに肉体的・精神的には大人であるにもかかわらず、社会人としての義務や役割を免除される期間のこと。

もともとの意味は、戦争や大不況などの非常時に混乱を防ぐために、借金の返済を一時的に猶予することだったが、心理学者によって青年期の一時期を指すようになった。例文にあるような古典的モラトリアムは、「青年の修行期」を意味するが、現代のモラトリアム人間のように、モラトリアムが過度に長期化すると、社会への適応能力が失われたり、社会人となるチャンスを逸してしまったりする危険もある。

コラム

夏目漱石の作品には、モラトリアム人間の先駆けのような「高等遊民」を主人公とする小説がある。「高等遊民」とは、十分な教育を受けながらも社会に出て就職することなく、読書や思索で毎日を過ごす教養人といった意味である。

現代になり、一般の若者にも、無期限のモラトリアム的傾向をもった「ニート(=通学も家事も就労もしない者)」や「引きこもり」などが増えて、社会問題化している。

使用の境界

社会的な責任や義務が猶予されている期間。制度として認められている点が要点で、単なる先延ばしではない。

用法

もとは経済用語で支払猶予を指す。エリクソンがこれを心理学に転用し、青年期を〈大人としての責任が猶予され、アイデンティティを模索することが許されている期間〉と規定した。要点は、猶予が社会に認められていることである。だから自分勝手な先延ばしとは違う。小此木啓吾の「モラトリアム人間」以降、日本では大人になることを引き延ばす態度への批判語としても使われるようになり、この二層が同居している。

用例
  • 我々は、いわば二度生まれる。一度目は存在するために、二度目は生きるために。一度目は人類の一員として、二度目は性を持つ者として。ジャン=ジャック・ルソー『エミール』第四編(1762)/訳は本教材
    青年期を「第二の誕生」として捉えた一節である。これ以前、子どもは小さな大人にすぎなかった。ルソーはそのあいだに独自の時期があると主張した。モラトリアムという概念が成り立つには、まずこの発見が要る。子どもでも大人でもない時期があると認められてはじめて、そこを猶予期間として制度化できるからだ。注目したいのは、この時期が近代の産物だということである。働き手として必要とされる社会に、猶予は置けない。猶予は、社会に余裕があってはじめて成り立つ
  • 吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑はず。『論語』為政篇
    十五で学問を志し、三十で立つ。あいだに十五年ある。この十五年が何であるかは書かれていない。書かれていないことが重要だ。目的地(立つ)は示されているが、その途中は空白のまま置かれている。モラトリアムの要点は、この空白が社会に認められていることにある。怠けているのではなく、まだ立たなくてよいと周囲が了解している期間だ。だから自分勝手な先延ばしとは違う。ただし、この一節が「三十にして立つ」で区切っていることも見ておきたい。猶予には終わりがある、という前提が古典の側にはあった。
  • 青年期は、大人としての責任が猶予され、アイデンティティを模索することが許されている期間である。これがモラトリアムにほかならない。 エリクソンが経済用語(支払猶予)を心理学へ転用した。要点は、猶予が社会に認められていることである。99 のアイデンティティと対で読みたい — 模索する時間が保証されていなければ、確立を要求することもできない。近代がこの二つをセットで用意したことに、この語の歴史的な位置がある。
  • △彼は就職せずに遊んでいる。モラトリアムだ。 本人が勝手に先延ばしているなら、それは猶予ではない。モラトリアムは社会が認めた期間を指す。ただし日本では小此木啓吾の「モラトリアム人間」以降、大人になることを引き延ばす態度への批判語としても使われるようになった。この二層が同居しているので、制度の話か態度の話かを文脈で決める。
コロケーション
  • 心理社会的モラトリアムエリクソンの用語心理と社会の両方にまたがることを語形で示している。個人が模索することと、社会がそれを許すことが同時に成り立ってはじめてこの期間になる。片方だけでは成立しないという点が、この長い術語の含みである。
  • モラトリアム人間批判語としての形小此木啓吾が一九七〇年代に広めた語。猶予期間を終えようとしない大人を指す。興味深いのは、批判の言葉が肯定的な概念から作られていることだ。猶予そのものは近代が用意したものなのに、それを享受しすぎると批判される。制度が個人の責任に転嫁される典型でもある。
  • 支払猶予もとの意味経済用語で、債務の支払いを一定期間待つこと。返さなくてよくなるのではない。いずれ返す前提で待たれている。この含みが心理学の用法にも残っていて、モラトリアムには必ず終わりが想定されている。終わらないモラトリアムが批判されるのは、この前提を裏切るからである。
  • 猶予される責任誰が猶予するのか猶予するのは社会の側である。本人ではない。したがって、社会に余裕がなくなれば猶予は縮む。進学率、就職環境、家族の経済力 — いずれもこの期間の長さを左右する。個人の心理の問題に見えて、実際には社会の資源配分の問題でもある。

書き言葉・会話の両方で使える。

類語と差
  • 猶予期限を先に延ばす訳語。モラトリアムは社会がその猶予を認めているという含みを持つ。
  • 執行猶予刑の執行を延ばす法律用語。同じ語源だが対象が違う。
  • 過渡期移り変わりの途中状態の記述。モラトリアムは制度としての猶予。
  • 自分探し自分が何者かを探す行いモラトリアムの内側で起きること。語としては日常的。

ENmoratorium
ZH延缓期(猶予期間, yánhuǎnqī)

入試文

つまり、青年たちにとって、古典的モラトリアムはその自我の成熟にきわめて有意義なものであったとはいえ、半面でそれはさまざまの禁欲を強いられ、多くのフラストレーションに悩まされる半人前の状態でもあった。青年たちが不本意ながらその不満状態に甘んじていたのは、そうしていなければならない現実原則=社会秩序のためであった。この社会秩序に従って、やがて一人前になるためには、禁欲・フラストレーションを耐え忍び、修行を積まねばならない。つまりモラトリアムは、青年にとって一刻も早く抜け出したい拘束であり、制限でもあったのである。

出典 小此木啓吾『モラトリアム人間の時代』 / 出題 中央大学・経済学部

読解のポイント
  • 古典的モラトリアム
  • 半人前の状態
  • =一刻も早く抜け出したい拘束・制限
要約

古典的(昔の)モラトリアムは、有意義なものであった半面、禁欲を強いられる不満な状態であり、青年にとっては拘束・制限でもあった。

語法の観察

経済用語からの転用を明示してから心理学の用法に入る。語の来歴が意味の説明になっている。

モラトリアムの語義が支払猶予から青年期の猶予期間を経て否定的な評語へ移った道すじの図国家が与える支払猶予、社会が与える心理社会的猶予期間、本人の状態を責める日常語という三段階を縦の年表に並べ、「与える側」が消えることで評価の符号が反転したことを示す。 「猶予」は、三度ずらされたラテン語 morari(遅らせる)支払猶予 ── 法と経済の制度戦争や恐慌のとき、国家が債務の履行を先へ延ばす与えるのは国家。猶予はまぎれもなく救済であるエリクソン『同一性と生活周期』(1959)心理社会的モラトリアム青年が役割を試し、自分を定めるための猶予期間与えるのは社会。ここでもまだ猶予は制度である日本の日常語(1970年代以降)モラトリアム人間 ── 大人になれない猶予は制度ではなく、その人の状態の名になった与える側が消え、責めるための語に変わった「猶予されている」から「猶予にとどまっている」へ主語が制度から本人へ移ると、語は評語になる
猶予を与えるのは誰か
Section 12

カタルシス

101★★

カタルシス

カタルシス[3]中高型

定義

心の中のわだかまりが、あるきっかけで解消されること。

『現代文キーワード読解』1-1 ☑101
原書の解説

カタルシスとは、もとは演劇用語で、悲劇などを鑑賞することにより、観客の心に怖れと憐れみをよび起こして感情を浄化する効果を指していた。その後、精神医療において、抑圧されていた心理を表出させ、蓄積した感情を除去することで症状を改善しようとする精神療法の用語として使われるようになった。カタルシス効果ともいう。

たとえば

悲しいドラマや映画を、涙いっぱい流しながら見ると、そのあとは案外すっきりした気持ちで日常生活に戻ることができる。悲しみを味わったのに、なぜ安堵感や安定感を得ることになるのか。それは、自分の抱えている悲しみや不安をカタルシスによって発散したからなのだ。

使用の境界

抑えられていた感情が解放され、心が浄化されること。単なる気晴らしとは区別される。

用法

アリストテレスが『詩学』で悲劇の効果として述べた語で、浄化と訳す。観客が劇中の恐れと憐れみを追体験し、その感情が解放されて心が澄む、という機序を指す。だからただの気晴らしではなく、強い感情を経由することが条件になる。精神分析では、抑圧された記憶を言葉にすることで症状が消える現象を指し、☑104 トラウマの治療論と接続する。評論文では芸術の効用を論じる箇所に現れる。

用例
  • 悲劇とは、……あわれみとおそれを通じて、そうした感情の浄化を成し遂げるものである。アリストテレス『詩学』第六章(前四世紀)/訳は本教材
    カタルシスという語の出どころである。注目したいのは「通じて」という一語だ。感情を避けるのではなく、感情を経由して浄化に至る。だからただの気晴らしではない。観客は劇の中で恐れ、憐れみ、その強い感情をひととおり通り抜けたあとで、心が澄む。強い感情を経由することが条件になっている。ここに芸術の効用をめぐる議論の原型がある。プラトンは、詩が感情をかき立てるから国から追放せよと言った。アリストテレスは同じ事実を逆から見た — かき立てられるからこそ、そこで解放されるのだ、と。
  • 患者が、その出来事を明瞭に想起し、それに伴う感情を言葉によって表現したとき、症状は消失した。ジークムント・フロイト、ヨーゼフ・ブロイアー『ヒステリー研究』(1895)/訳は本教材
    精神分析が誕生した瞬間の記述である。抑圧されていた記憶を思い出し、それに伴う感情を言葉にしたときに症状が消えた。ここでもアリストテレスと同じ構造が働いている — 感情を通り抜けることが条件だ。思い出すだけでは足りず、言葉にするだけでも足りない。両方が要る。注目したいのは、言葉にすることが治療になるというこの発見である。1-3 の 67 で見た分節が、ここでは治療の手続きになっている — 形の無い塊に言葉で切れ目を入れると、扱えるものに変わる。104 のトラウマの治療論はここから始まる。
  • 悲劇を見終えたあとの、重いのに澄んだ感じ。それがカタルシスである。 「浄化」と訳す。単なる気晴らしとの違いは、強い感情を経由するかどうかにある。笑って忘れるのは気晴らし、泣き尽くして澄むのがカタルシスだ。評論文では芸術の効用を論じる箇所に現れ、なぜ人は苦しい物語をわざわざ見るのかという問いへの古典的な答えとして置かれる。
  • ×好きな音楽を聴いて気分転換した。カタルシスを得た。 気分転換なら「気晴らし」で足りる。カタルシスは抑えられていた感情が解放されて心が澄むことを指し、強い感情を通り抜けることが条件になる。「揺さぶられたか」を問えばよい — 揺さぶられずに軽くなったなら、それは気晴らしである。
コロケーション
  • 浄化作用訳語としての形カタルシスの訳。もとは医学用語で、体内の不要なものを排出することを指した。アリストテレスがそれを心の働きに転用した。身体の比喩が心に移されているので、溜まったものが出ていくという像がこの語には最初から入っている。溜まっていなければ、出ていくものも無い。
  • 悲劇のカタルシス苦しい物語を見る理由なぜ人はわざわざ悲しい話を見るのかという問いへの古典的な答え。注目したいのは、これが劇の中で起きるという安全装置である。本当に恐ろしい目に遭えば浄化されない。1-3 の 19 で見た虚構という枠が、感情を通り抜けても壊れない場所を作っている
  • カタルシス効果心理学の用法感情を表に出すことで内的な緊張が下がるという考え方。ただし現代の心理学では、怒りを吐き出せば怒りが減るとはかぎらない、という反論も強い。言葉にすることと吐き出すことは同じではない — フロイトらが見たのは前者のほうだった。
  • 言葉にする治療の手続き形の無い感情に言葉を与えると、扱えるものに変わる。1-3 の 67 の分節、1-1 の 6 の混沌と同じ構図である。名づけられていないものは操作できない。だから治療は、まず語らせることから始まる — 精神分析が「話す治療」と呼ばれた理由である。

書き言葉。会話では不自然。

類語と差
  • 浄化けがれを取り除く訳語。宗教的な含みを持つ。カタルシスは感情の解放という機序を含む。
  • 解放縛りから自由になる状態の変化。カタルシスは解放を経て澄む結果まで含む。
  • 昇華欲動を別の形で実現するフロイトの語。方向を変えて実現する点が違う。
  • 発散たまったものを外に出す日常語。心が澄むという含みがない。

ENcatharsis
ZH宣泄(感情の解放, xuānxiè)

入試文

アリストテレスはカタルシスという仮説で芸術の弁護をした。人を殺す芝居を見て、なぜ、観客が快感を覚えるのか。現実に殺人が行なわれてならないのはいうまでもないが、これが舞台上で行なわれるのを見て人間が美を感じるのは、われわれ人間の心の中に生ずる有毒なものを演劇という下剤で浄化(カタルシス)するのだと説明した。

芝居もレクリエーション、忘却の一形式と考えられる。逆に、忘却もカタルシスにきわめてよく似ている。机の前にしばりつけられている勉強家よりも、スポーツマンの方がかえっておもしろい仕事をしたり、いい成績をあげたりすることがあるのも、汗を流して運動するのが、カタルシスとしてすぐれていることを物語っている。スポーツが勉強が二者択一のように考える向きが多いのは、スポーツをしたらあと何もできないほどスポーツに淫することからおこる誤解である。

出典 外山滋比古『知的創造のヒント』 / 出題 立教大学・全学部(理学部をのぞく)

読解のポイント
  • 人を殺す芝居を見て観客が快感を覚える
  • 心の中の毒をカタルシスする
  • スポーツマンが仕事や成績で優秀
  • 運動のすぐれたカタルシスの力
要約

人を殺す芝居を見て観客が快感を覚えるのは、心の中の毒をカタルシスするからである。また、スポーツマンが仕事や成績で優秀なのは、運動がカタルシスとしてすぐれているからだ。

語法の観察

古代の規定を引いてから現代の用法へ降りる。時間の順に沿って意味の広がりを追う構成。

悲劇のあいだの感情の高まりと下降を曲線で示し、katharsis の三つの訳語を並べた図発端から葛藤を経て破局で頂点に達し、終幕へ向けて下がっていく観客の感情を曲線で示す。あわせて katharsis を浄化・排出・明澄化のどれで訳すかによって悲劇の効用の説明が変わることを並べる。 あわれみと怖れを通して、感情を澄ませる感情の高まり破局 ── そこで気づくあわれみと怖れが少しずつ積もっていく発端葛藤破局終幕katharsis を何と訳すかで、効用の説明が変わる浄化宗教 ── 汚れを洗い落とす排出医学 ── 溜まったものを外へ出す明澄化認識 ── 見えていなかったものが見える泣いて楽になることだけを指すのなら、一つ目しか使っていない
悲劇の効用は、どこにあるのか
Section 13

ペシミズム

102★★

ペシミズム

ペシミズム[3]中高型

定義

人生や世界は不幸と非合理に満ちているとする考え方。悲観論。厭世主義。

『現代文キーワード読解』1-1 ☑102
原書の解説

神によって造られたこの世界が〈最良の状態〉だという主張はオプティミズム(=楽観主義)とよばれたが、それと対立する語として、〈最悪の状態〉を指す言葉のペシミズムという語が生まれた。

また、関連語のニヒリズム(虚無主義)では、生きることそのものが無意味だとされる。さらにデカダンス(退廃)は、ペシミズムと同じく、生きることは無意味だという考え方が根底にあるが、無意味な人生であることに居直り、積極的に快楽を求めていく傾向を示す語だ。

ちなみに、哲学者のニーチェ(1844~1900年)は、ペシミズムやデカダンスのことを「受動的ニヒリズム」とよんだ。

使用の境界

世界や人生を否定的に捉える立場。一時的な気分ではなく、世界観として持たれている点が要点。

用法

厭世主義・悲観主義と訳す。日常語の「悲観的」が一時的な見通しを指すのに対し、ペシミズムは世界の成り立ちそのものについての立場である。ショーペンハウアーが代表で、生きることは苦しみであり、意志が満たされないことに苦の根があるとした。評論文では、近代の進歩主義への対抗として、あるいは文学作品の基調を説明する語として現れる。オプティミズムとの対で出るので、どちらが批判されているかを見る。

用例
  • 人生は、振り子のように、苦痛と退屈のあいだを行き来する。……欲望が満たされなければ苦痛であり、満たされれば退屈である。アルトゥル・ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』(1819)/訳は本教材
    ペシミズムを体系として述べた一節である。注目したいのは、これが気分ではなく構造の記述だという点である。不幸な出来事があるから悲観するのではない。欲望というものの作りからして、満たされても満たされなくても苦しいと言っている。だから状況が改善しても解決しない。ここが日常語の「悲観的」との決定的な違いだ。悲観的な見通しは事実が変われば覆るが、ペシミズムは事実によっては覆らない。世界の成り立ちについての立場だからである。1-1 の 18 で見た逆説の構造 — 豊かになるほど欠乏を感じる — も、この見立てから出てくる。
  • 僕の将来に対する唯ぼんやりした不安である。芥川龍之介『或旧友へ送る手記』(1927)
    自死の直前に書かれ、その理由を問われることを見越して残された一句である。注目したいのは、原因が特定されていないことだ。貧しさでも病でも失恋でもない。「唯ぼんやりした」— 指し示せるものが無い。これがペシミズムの言葉としては正確である。原因が言えるなら、それを取り除けば解決するはずだからだ。取り除けるものが見つからないこと自体が、この立場の中身になっている。評論文では、近代の進歩主義への対抗として、あるいは文学作品の基調を説明する語として現れる。一九二七年という年にこの一句が書かれたことも、時代の空気と切り離せない。
  • ペシミズムは、一時的な気分ではなく世界の成り立ちについての立場である。 ここが日常語との分かれ目である。「悲観的」は見通しの話で、事実が変われば覆る。ペシミズムは覆らない。厭世主義・悲観主義と訳す。オプティミズムとの対で出るので、どちらが批判されているかを見る。進歩を信じる側が批判されている文章もある。
  • △今回の試験は難しそうだ。ペシミズムに陥っている。 個別の見通しなら「悲観的」で足りる。ペシミズムは世界観として持たれているものを指す。「事実が変われば覆るか」を問えばよい — 覆るなら悲観、覆らないならペシミズムである。「主義」に相当する語が付いていることを思い出したい。
原書の反意語・関連語

反 オプティミズム / 関 ニヒリズム/デカダンス

コロケーション
  • 厭世主義訳語としての形世を厭うという字面が、態度の話に見せてしまう。だが原語 pessimism はラテン語 pessimus(最悪の)から来ており、「これが最悪の世界だ」という判断を指す。ライプニッツの「最善説」(この世界は可能な世界のうち最善である)への応答として作られた語で、もとは形而上学の議論の中にあった
  • オプティミズムとの対楽観ではなく最善説オプティミズムも同様に、「これが最善の世界だ」という判断である。気分の明るさではない。評論文でこの対が出たら、世界の成り立ちについての二つの立場として読む。「前向きに考えよう」という日常語の楽観とは層がまったく違う。
  • 進歩主義への対抗近代批判の位置歴史は進歩するという近代の信念に対し、そもそも良くなる方向など無いと応じる立場。1-6 の近代の章と正面からつながる。注意したいのは、この対抗が単なる否定ではないことだ。進歩主義が二度の大戦で信を失ったあと、ペシミズムは誠実な立場として読み直された。
  • 作品の基調文学を読む語ある作家の作品全体を貫く世界の見え方を指して使う。一場面の暗さではなく、明るい場面まで含めてその色が差しているという言い方になる。1-4 の 80 で見た「通奏低音」に近い使われ方で、表に出ていなくても全体を支えている。

書き言葉。会話では不自然。

類語と差
  • オプティミズム世界を肯定的に捉える対語。楽天主義。どちらも世界観であって気分ではない。
  • 厭世観世を厭う見方訳語の一つ。感情の色が濃い。
  • 虚無主義一切に価値を認めないニヒリズム。ペシミズムより徹底し、価値そのものを否定する。
  • 悲観的先行きを悪く見る日常語。一時的な見通しについて言う。

ENpessimism
ZH悲观主义(悲観主義, bēiguān zhǔyì)

入試文

釈迦は人生を苦の相から見た。そして苦の世界である地獄の思想は、深く仏教的な思想であった。いったい、人生を苦の相からみるのはいかなる意味をもつのか。釈迦の考えたように、人生ははたして苦の世界であろうか。なるほど人生には苦がある。しかし、楽もまた人生にはあるではないか。釈迦のいったように老は苦であり、病は苦であり、死は苦である。しかし、ものを食べるのは楽しみであり、異性と遊ぶのは楽しみであり、権力をもつのは楽しみではないか。こういう楽しみから眼をとじて、苦の相ばかりで人生をみるのは一つの偏見ではないか。それゆえ、釈迦は一つの偏見者であり、日本人は仏教をとり入れることにより釈迦の偏見に従ったのではないか。われわれはむしろ、そういうペシミズムから脱却すべきではないか。釈迦の時代において、人生は苦しみにみちていたが、文明社会に生きるわれわれは、はるかに多くの楽しみにかこまれている。それゆえ人生を苦の相においてみる思想は、偏見であるばかりか、野蛮の礼賛になりはしないか。

出典 梅原猛『地獄の思想』 / 出題 筑波大学

読解のポイント
  • 釈迦
  • 老・病・死=苦
  • 文明社会に生きるわれわれ
  • 多くの楽しみにかこまれている
  • → ペシミズムから脱却すべき
要約

釈迦は人生を苦の相から見たが、文明社会に生きるわれわれは、多くの楽しみにかこまれている。人生を苦の相においてみる思想は、偏見や野蛮の礼賛にもなりかねないため、ペシミズムから脱却すべきだ。

語法の観察

対語を先に置いて座標を作り、そのうえで一方を詳述する。対比が定義の代わりに働いている。

楽観と悲観を一本の軸に置き、ニヒリズムをその軸の外に置いた図楽観主義と悲観主義は「世界には価値がある」という前提を共有したひとつの軸の両端であり、虚無主義はその前提ごと降りるので軸の外に立つ、という位置関係を示す。あわせて悲観が気質・世界観・方法の三層に分かれることを並べる。 悲観は軸の上に、虚無は軸の外にある楽観 optimism悲観 pessimism世界には価値がある ── この前提は共有されているニヒリズム価値そのものが無い軸を右へ行ききった先ではなく、軸から降りた場所である「悲観的」と言われるとき、三つが混ざっている気質性格。当たり外れを問えない世界観この世は苦だという主張。反論できる方法最悪を想定して備える構え。合理的でありうる評論文が退けにかかるのは、たいてい一つ目である三つ目を一つ目と取り違えると、議論はすれ違う
悲観・楽観・虚無の位置
Section 14

ロゴス/トラウマ

103★★

ロゴス

ロゴス[1]頭高型

定義

言葉・論理・理性。

『現代文キーワード読解』1-1 ☑103
原書の解説

もともとのギリシア語のロゴスには、言葉・論理・理性の他にも、議論・計算・根拠など多くの意味がある。「人間はロゴスをもつ動物だ」のように、ロゴスが他の動物がもたない、人間の理性や言語と深く関わっている点を押さえよう。

また、我々は自分が見たものや感じたものは正しいと信じがちだが、人によってさまざまな見方・感じ方が可能であるため、物事をどのようにとらえるかは異なる。そこで哲学者プラトン(紀元前427~前347年)は、物事を「ロゴスの中に見る」べきだとした。つまり、直接的な感覚に頼って、独断に陥ってしまうことを防ぐもの、それがロゴスなのである。

コラム

英語では論理のことを logic というが、これはギリシア語の logos を語源としている。また、biology(生物学)・ecology(生態学)・technology(科学技術)などに含まれる「-logy」という接尾辞も、ロゴスに由来する。

こうした多くの派生語からわかるように、ロゴスは西洋思想・文明の根幹を占めているが、近年の西洋哲学では、「ロゴス中心主義」として批判的に取り上げられるようになった。

使用の境界

理性と言葉をあわせて指すギリシア語。両者が同じ語である点が要点で、片方だけでは足りない。

用法

要点は「理性」と「言葉」が同一の語であることにある。筋道を立てて考えることと、それを言葉にすることが分けられない、という西洋思想の前提がここに刻まれている。だから「ロゴス中心主義」(デリダ)という批判は、理性への偏重と言葉への偏重を同時に指す。評論文ではパトスとの対で出るのが基本形で、理性が感情を統御するという構図、あるいはその構図への批判として現れる。ヨハネ福音書の「初めに言葉ありき」の「言葉」もロゴスである。

用例
  • 太初に言あり、言は神と偕にあり、言は神なりき。……萬の物これに由りて成り、成りたる物に一つとして之によらで成りたるはなし。『新約聖書』ヨハネ傳福音書 第一章(文語訳・1887)
    ここでいう「言」の原語がロゴスである。世界に先立って言葉があり、言葉によってすべてが成ったという。1-3 の 67 で見た『老子』の「名有るは万物の母」と驚くほど近い構図だが、決定的な違いがある。ここでは言葉が神と同一視されている。つまりロゴスは秩序であり、理法であり、理性であり、同時に言葉だ。この一語がそれら全部を担っているという事実が、西洋思想の骨格をなしている。筋道を立てて考えることと、それを言葉にすることが分けられない — だから「ロゴス中心主義」という批判は、理性への偏重と言葉への偏重を同時に指すことになる。
  • 敷島の大和の国は言霊の幸はふ国ぞま幸くありこそ柿本人麻呂『万葉集』巻十三(8世紀)
    日本は言霊の幸わう国だ、どうか無事であってほしい、と旅立つ人に贈った歌である。ロゴスと並べると、言語観の違いがよく見える。言霊は、言葉に宿る力である。口に出したことが現実になる。だから縁起の悪い言葉は避けられ、よい言葉は繰り返される。ここには筋道という含みが無い。ロゴスが理法としての言葉であるのに対し、言霊は力としての言葉だ。同じ「言葉が世界を動かす」という直観から、一方は論理学へ、他方は呪術と儀礼へ道が分かれた。1-3 の 58 で見た『古今集』仮名序の「力をも入れずして天地を動かし」も、こちらの系譜にある。
  • ロゴスは理性であり、同時に言葉である。両者が同じ語だという点が要点になる。 ここを押さえないと「ロゴス中心主義」批判が読めない。筋道を立てて考えることと、それを言葉にすることが分けられない、という前提が西洋思想に刻まれている。デリダの批判は、この前提そのものに向けられている。評論文ではパトス(1-1 の 34)との対で出るのが基本形で、理性が感情を統御するという構図、あるいはその構図への批判として現れる。
  • ×感情を交えず論理だけで話した。ロゴスを使った。 ロゴスは使う道具ではなく、世界と人間を貫く理法を指す語である。論理的に話すことを言いたいなら「論理的に」で足りる。この語を持ち出すのは、理性と言葉が同じ一つのものだという前提を問題にするときだけでよい。
原書の反意語・関連語

反 情念(パトス) / 関 108 理性

コロケーション
  • ロゴスとパトス基本の対理性と情念。1-1 の 34 で見たとおり、ロゴスが能動、パトスが受動という役割分担が最初から組み込まれている。西洋思想がロゴスを上位に置いてきた歴史があり、評論文はしばしばその序列を問い直すためにこの対を持ち出す
  • ロゴス中心主義デリダの批判理性と、話される言葉を特権的な位置に置いてきた西洋思想への批判。注目したいのは、この批判が書かれた言葉の側からなされたことだ。話し言葉は話者がその場にいるので意味が保証されているように見える。書き言葉は書き手が不在で、1-3 の 59 で見たテクストの問題が起きる。不在こそが言葉の本来の姿だ、というのがデリダの主張である。
  • 言葉と理性が同じ語前提の刻印ギリシア語ではこの二つが分かれていない。日本語では「言葉」と「理性」が別語なので、この一致は当たり前ではない。訳語が二つに割れるところに、思考の枠の違いが露出している — 1-3 の 67 で見た分節が、ここでは概念の切り分け方として現れている。
  • 言霊別系統の言語観言葉に宿る力。筋道ではなく作用に重心がある。同じ「言葉が世界を動かす」という直観から出発しながら、ロゴスは論理学へ、言霊は儀礼と禁忌へ向かった。1-4 の 87 で見た禁忌が言葉の領域で働くとき、それは言霊の系譜に属している。
硬・学術

論文・評論でのみ使う。会話では不自然。

類語と差
  • パトス理性で抑えられない感情☑34。ロゴスの対語。西洋思想史の基本的な対をなす。
  • 理性筋道立てて考える力☑108。ロゴスの訳語の一つだが、ロゴスは〈言葉〉の意を同時に含む。
  • 言葉意味を担う記号ロゴスのもう一つの訳。理性と言葉が同語だという点が思想史の要になる。
  • エートス持続的な内面性・習慣パトスと対をなす語。ロゴス・パトス・エートスで説得の三要素をなす。

ENlogos
ZH逻各斯(ロゴス, luógèsī)

104★★

トラウマ

トラウマ[2]中高型

定義

耐えがたい経験が生み出した心の傷。心的外傷。

『現代文キーワード読解』1-1 ☑104
原書の解説

普段は忘れていても、何かをきっかけとして強烈に思い出される心の傷がトラウマであり、事故・災害時の急性トラウマと、児童虐待など、繰り返し危害を受けたことによる慢性の心的外傷とがある。このうち、原因となった出来事のあとも強い精神的ショック症状が継続する場合は、PTSD(心的外傷後ストレス障害)とよばれる。

たとえば

子どもを事故で亡くしたある母親が、自分の心境を、クシャクシャに丸めた紙で示したという。丸められた紙は文字を書いたり何かを包んだりすることができない。急に広げようとすると破れてしまうし、どんなに丁寧に広げてもシワが消えることはない。このように、心の傷が深く残り、完全にはもとに戻らない不可逆性がトラウマの一つの特徴である。

使用の境界

心に残った深い傷。原因となった出来事そのものではなく、その後も作用し続ける傷を指す。

用法

もとはギリシア語で身体の外傷を意味した。それが精神分析で心の傷に転用された。要点は、本人が意識できないところで作用し続けることにある。だからカタルシス(☑101)によって言葉にすることが治療の道筋になる。日常語では「あれがトラウマで」と軽く使われるが、臨床の語としては重い。評論文では、個人の記憶だけでなく集団の記憶(戦争・災害・植民地支配)についても使われ、歴史認識の議論に接続する。

用例
  • 外傷神経症の患者は、夢のなかでくり返し事故の場面へ連れ戻される。……これは快原理では説明のつかないことである。ジークムント・フロイト『快原理の彼岸』(1920)/訳は本教材
    トラウマがなぜ厄介なのかを言い当てた一節である。人は快を求め不快を避けるはずだ、というのがそれまでの前提だった。ところが患者は、もっとも苦しい場面へ何度も戻される。避けるどころか、引き寄せられている。ここに、本人の意志の外で作用し続けるというトラウマの性格が現れている。忘れているのではない。忘れられないのでもない。思い出すことができないまま、繰り返し再演されているのだ。だから 101 で見たカタルシス — 言葉にすること — が治療の道筋になる。再演を、語りに変えるのである。
  • 消えろ、忌まわしい染み、消えろと言うのに!……この小さな手からは、アラビアじゅうの香料をもってしても、もう匂いを取り去ることはできない。ウィリアム・シェイクスピア『マクベス』第五幕(1606)/訳は本教材
    眠りながら手を洗い続けるマクベス夫人の場面である。血はとうに落ちている。それでも彼女には見え、匂う。ここに描かれているのは、出来事そのものではなく、そのあとも作用し続ける傷だ。トラウマという語が指すのはまさにこれである。注目したいのは、彼女が眠っているあいだにこれをしている点だ。起きているときには平然と振る舞える。意識が手を離した瞬間に、別の層が動き出す。117 の無意識が学として述べられる三百年前に、その働きが舞台の上で正確に演じられていた。
  • 個人だけでなく、集団の記憶についてもトラウマという語が使われる。 戦争・災害・植民地支配。歴史認識の議論に接続する用法である。要点は、集団の場合も本人たちが意識できないところで作用し続けるという構造が同じことだ。語られないまま、制度や慣習や語彙のかたちで残る。だから「もう終わったこと」という言い方が通じない — 終わったかどうかを決めるのは、出来事の側ではなく傷の側である。
  • △子どものころ犬に吠えられたのがトラウマで、いまも犬が苦手だ。 日常ではこう使われるが、臨床の語としてはかなり重い。トラウマは耐えがたい経験が生み出した心の傷で、本人が意識できないところで作用し続けるものを指す。苦手意識なら「苦手」で足りる。「自分で説明できるか」を問うとよい — 説明できているなら、それはまだ語りの内側にある。
コロケーション
  • 心的外傷訳語としての形身体の外傷からの比喩である。もとのギリシア語 trauma は傷そのものを指した。この比喩が効いているのは、傷は原因が去っても残るからだ。刃物が無くなっても切り傷は消えない。同じように、出来事が終わっても傷は作用し続ける。比喩が概念の中身をそのまま運んでいる例である。
  • フラッシュバック再演される過去過去の場面が、思い出としてではなく、いま起きていることとして立ち現れる。「思い出す」と決定的に違うのはここだ。思い出には時制があるが、フラッシュバックには時制が無い。だから距離が取れない。言葉にすることが治療になるのは、言葉が時制を与えるからでもある。
  • 集団的トラウマ歴史認識へ戦争・災害・植民地支配の記憶。語られなかったものが、制度や慣習のかたちで残る。1-4 の 78 の制度、1-7 で扱う現代社会の議論とつながる。注意したいのは、集団には「本人」がいないことだ。誰が語り、誰が癒えるのかが定まらない。この不定さが、歴史認識の争いを長引かせている。
  • トラウマを克服する難しい言い方克服という語は、相手を敵として立てる。打ち勝つべきものとして扱えば、勝てないことが新たな失敗になる。臨床では「抱えて生きる」「折り合いをつける」といった言い方が選ばれることが多い。どの動詞を選ぶかが、そのまま治療観の表明になる — 1-1 の 5 で見た「秩序を保つ」と同じで、動詞が前提を運んでくる。

書き言葉・会話の両方で使える。

類語と差
  • 心的外傷こころの傷訳語。医学・臨床の場ではこちらを使う。
  • ストレス負荷がかかった状態一時的で可逆的。トラウマは持続し、本人の意志で消せない。
  • コンプレックス抑圧された感情の複合体☑105。トラウマは出来事に由来する傷、コンプレックスは絡み合った感情の塊。
  • PTSD心的外傷後ストレス障害診断名。トラウマはその原因となる傷を指す。

ENtrauma
ZH心理创伤(心的外傷, xīnlǐ chuāngshāng)

ロゴスとパトス、理性と感性理性と言葉を同時に意味するロゴス、それに対するパトス、そして受け取る感性という三者の関係を示した図。 ロゴス 理性 言葉 同じ一つの語である パトス 情念 理性で抑えられない 感性 受け取る能力 素材を渡す 理性 概念で組み立てる 感性と理性は対立ではなく分業。ロゴスとパトスは対立である。
ロゴスとパトス、感性と理性
Section 15

コンプレックス/主体/客体

105★★

コンプレックス

コンプレックス[4]中高型

定義

① さまざまな感情や思考などが複合化した、無意識に抑圧された心理。 ② 劣等感。

『現代文キーワード読解』1-1 ☑105
原書の解説

心理学者ユング(1875~1961年)は、人間がある状況に置かれた時、その状況とは関係のない感情や考えにとらわれ、うまく対処できなくなることを指して、その人にはコンプレックスが存在するとした。

しかし、戦後、この用語が日本に輸入されると、劣等感(インフェリオリティー・コンプレックス)という意味でのみ使われるようになった。

コラム

母親に極端な愛着をもつことを「マザー・コンプレックス(マザコン)」と言うが、精神医学でよく取り上げられる概念に、エディプス・コンプレックスがある。息子が母親に愛されようと思い、父親に対して強い対抗心を抱く複雑な心理を、フロイトがギリシア悲劇の『オイディプス王』になぞらえ、エディプス・コンプレックスとよんだ。

「オイディプス」は、父親と知らずに父親を殺し、母親と知らずに母親と結婚するという物語である。

使用の境界

抑圧されて絡み合った感情の複合体。日本語の日常用法である「劣等感」はその一種にすぎない。

用法

原語 complex は「複合体」であって、優劣とは関係がない。ユングが、無意識の中で絡み合った感情の塊を指してこう呼んだ。エディプス・コンプレックス、母親コンプレックスなどがその例である。日本語では「劣等コンプレックス」の略として定着したため、「コンプレックスがある」=「劣等感がある」になった。この意味の縮小は日本語独自で、原語や中国語には無い。評論文で出たら、まず原義で読む。

用例
  • コンプレックスとは、感情によって色づけられた心的内容の複合体であり、……それは意志から独立し、しばしば意志に反して振る舞う。カール・グスタフ・ユング『分析心理学』(1935)/訳は本教材
    原語 complex は「複合体」であって、優劣とは関係がないことが、この定義から分かる。感情によって色づけられた思考や記憶が無意識のなかで塊になっている — それがコンプレックスだ。注目したいのは「意志から独立し、意志に反して振る舞う」という一句である。自分の中にありながら、自分の言うことを聞かない。心のなかに、自分ではない何かが住んでいるという見立てで、117 の無意識と同じ地図の上にある。日本語で「コンプレックス」が劣等感の意になったのは「劣等コンプレックス」の略が定着したためで、この意味の縮小は日本語独自である。
  • ああ、私こそがその男だったのだ。……見るべきでないものを見、知るべきでないものを知ってしまった。ソポクレス『オイディプス王』(前五世紀)/訳は本教材
    父を殺し母を娶ったのが自分だったと知る場面である。フロイトはこの物語からエディプス・コンプレックスの名を取った。注目したいのは、オイディプスがそれを知らずに行ったことだ。悪意も自覚も無い。それでも起きてしまう。コンプレックスが「意志に反して振る舞う」ものであるというユングの定義と、この筋は正確に重なる。そして知ってしまったあとで彼は目を突く — 知ることが救いにならない場合がある、という点も含めて、この物語は精神分析の枠組みを先取りしている。
  • コンプレックスは「複合体」であって、本来は優劣とは関係がない。 まず原義で読むのが読解の鉄則である。エディプス・コンプレックス、母親コンプレックス。いずれも劣等感の話ではない。日本語で「コンプレックスがある」=「劣等感がある」になったのは「劣等コンプレックス」の略が定着したためで、この縮小は原語にも中国語にも無い。
  • ×背が低いことにコンプレックスを持つのは、ユングのいうコンプレックスである。 日常語としては通じるが、ユングの語とは別物である。ユングのコンプレックスは無意識のなかで絡み合った感情の塊で、本人が自覚できないことが条件になる。自覚している劣等感は、すでに意識に上っているぶんこの定義から外れる。
コロケーション
  • 劣等コンプレックス略される前の形アドラーの語で、劣等感が複合体として固まったものを指す。日本語ではこの前半が落ちて「コンプレックス」だけが残った。略語が原語の意味を上書きしてしまった例で、1-3 の 62 で見た記号の恣意性が外来語の受容という場面で働いている。
  • エディプス・コンプレックス名の由来フロイトの語で、幼児が異性の親に向ける愛着と、同性の親への敵意の複合を指す。ギリシア悲劇から名を取ったことに注目したい。物語がすでに知っていたことに、学問が名を与えたという形である。1-3 の 66 で見たアレゴリーの逆で、ここでは物語が理論として読み直されている。
  • コンプレックスが刺激される意志の外の反応自分で選んでいない反応が起きること。ある言葉、ある状況で、不釣り合いに強い感情が湧く。ユングは連想実験でこれを測ろうとした — 反応が遅れる語のまわりにコンプレックスがあると考えたのである。意識できないものを、ずれとして外から捉える方法だった。
  • マザー・コンプレックス和製の縮約日本語では「マザコン」と縮められ、批判語として定着した。原語では母親をめぐる感情の複合体を指す中立語である。外来語は、縮められる過程で評価を帯びることが多い。「モラトリアム人間」(100)と同じ道すじで、概念が日本語のなかで別の役割を得ている。

書き言葉・会話の両方で使える。

類語と差
  • 劣等感自分が劣っているという感覚日本語の日常用法。原語では劣等コンプレックスという下位区分の一つ。
  • トラウマ出来事に由来する心の傷☑104。原因が特定の出来事にある。コンプレックスは感情の絡まり方を指す。
  • 抑圧意識から締め出す働き☑117 無意識と接続する機制。コンプレックスはその結果できた塊。
  • 葛藤相反する気持ちの争い意識される。コンプレックスは無意識にある点が違う。

ENcomplex
ZH情结(感情の複合体, qíngjié)

日中のズレ

中国語の 情结(qíngjié)は「複合体」という原義どおりの語で、優劣の意味を含まない。

日本語の日常語「コンプレックス」=劣等感は日本語独自の意味縮小である。中国語で言うなら 自卑感(zìbēigǎn)。

106★★

主体しゅたい

しゅたい[0]平板型

語構成
あるじ・おもだつからだ・もの
定義

自らの意志に基づいて行動し、その作用を他に及ぼすもの。

『現代文キーワード読解』1-1 ☑106
使用の境界

自らの意志で働きかける側。行為の起点である点が要点で、認識する側を指す主観とは位置が違う。

用法

主観との区別が最大の要点になる。主観は認識する側、主体は行為する側である。英語ではどちらも subject で、この一語が二つに分かれるところに日本語訳の事情がある。評論文では「主体性」が肯定語として使われ、指示に従うだけの状態(☑37 他律)と対比される。現代思想では逆に、主体が社会や言語によって作られるという議論(主体化)が主流になり、主体性への素朴な信頼が問い直される。

用例
  • 啓蒙とは、人間が自ら招いた未成年状態から抜け出ることである。……あえて知れ!自分自身の悟性を用いる勇気を持て!イマヌエル・カント『啓蒙とは何か』(1784)/訳は本教材
    主体という語のもっとも力強い定式である。注目したいのは「自ら招いた」という一句だ。誰かに縛られているのではない。自分で判断する労を惜しんで、他人に判断を預けているのだと言っている。だから抜け出すのに許可は要らない。要るのは勇気だけだ。ここが 1-1 の 36 で見た自律と重なる — 規範の出どころを自分の側へ移すこと。ただし、この呼びかけが命令形で書かれていることも見ておきたい。「主体的であれ」と命じられて主体的になった者は、主体的なのか。1-1 の 36 で見た「他律的な自律性」の矛盾が、この一句にも影のように付いている。
  • 他人本位というのは、自分の酒を人に飲んでもらつて、その品評を聞いて、それを理が非でもそうだとしてしまふ事です。夏目漱石『私の個人主義』(1914)
    自分の舌で味わわずに、他人の評価を自分の判断として引き受けてしまう。主体でない状態を、これ以上ないほど具体的に描いた一節である。注目したいのは、飲んでいないのは自分だということだ。奪われたのではない。飲む労を省いて、判断だけを受け取っている。カントの「自ら招いた未成年状態」と正確に同じことを言っている。そして漱石は、この状態を脱するのに十年近くかかったと同じ講演で述べている。主体になることは決意ではなく過程だ — この時間の長さが、「主体性を持て」という掛け声との差である。
  • 主体は行為する側、主観は認識する側。英語ではどちらも subject である。 この区別が最大の要点になる。89 と対にして位置を固定したい。英語の一語が日本語で二つに割れたところに、訳語の事情がある。評論文では「主体性」が肯定語として使われ、指示に従うだけの状態(1-1 の 37 他律)と対比される
  • ×彼はよく物事を考える。主体が強い。 考える働きの話なら「主観」、自分から働きかける姿勢なら「主体性がある」である。主体そのものは行為の起点を指す名詞で、強い弱いで測るものではない。「認識しているのか、働きかけているのか」を問えばよい
原書の反意語・関連語

107 客体 / 関 89 主観

派生形
  • 主体的しゅたいてき[0]ほぼ肯定語。ただし要求の言葉として使われるとき、その肯定性が断りにくさに変わる。褒め言葉であることが、そのまま圧力になる。
  • 主体性しゅたいせい[0]性質として取り出す形。「主体性を持つ」「主体性が失われる」と所有や喪失で語られる。所有物として扱うと、持っていない者の責任になりやすい — 構造の問題が個人の資質へ移されるよくある道すじである。
  • 主体化しゅたいか[0]「化」が過程を指す。主体は生まれつきあるのではなく作られるという現代思想の主張を担う。1-4 の 83 で見た規範の内面化と同じ場所にあり、従属と主体化が同じ一つの過程だという見方に行き着く。
コロケーション
  • 主体性肯定語としての形指示を待たずに自分から動くという評価語として広く使われる。ただし評論文では、この語が要求として使われる場面が問題にされる。「主体性を発揮せよ」と組織が求めるとき、発揮する範囲はあらかじめ決められている。1-1 の 36 で見た「他律的な自律性」が、ここで現代の職場の言葉として現れる。
  • 主体化作られる主体主体が社会や言語によって作られるという現代思想の主張。「化」が付くことで、主体は出発点ではなく結果になる。呼びかけられ、名を与えられ、応答することによって主体になる。だから主体であることと従属していることが同時に成り立つ — この二重性が、主体性への素朴な信頼を問い直す根拠になっている。
  • 主体と客体働きかける側と受ける側行為の起点と、その向かう先。89・90 の主観/客観が認識の対であるのに対し、こちらは行為の対である。四語を「認識か行為か」「する側かされる側か」の二軸に置くと、この節の設問はほぼ落とさない。
  • 主体的に取り組む日常語の主役ほぼ無条件の褒め言葉として通用する。注意したいのは、何に取り組むかは他人が決めている場合が多いことだ。課題は与えられ、取り組み方だけが主体に任される。主体性が「範囲内での自由」に縮んでいないかを問うのが、評論文の常套的な手つきである。

書き言葉・会話の両方で使える。

類語と差
  • 客体働きかけられる側☑107。対語。行為の向かう先。
  • 主観認識する側の意識☑89。主観は認識の主、主体は行為の主。混同しやすい最大の相手。
  • 自我自分という意識☑98。内面の意識。主体は世界へ働きかける位置。
  • 当事者その事柄に直接関わる人立場の話。主体は意志と行為の起点であることを言う。

ENsubject / agent
ZH主体(主体, zhǔtǐ)

107★★

客体きゃくたい

きゃくたい[0]平板型

語構成
まろうど・そとからだ・もの
定義

主体の認識・行為などの対象となるもの。

『現代文キーワード読解』1-1 ☑107
使用の境界

働きかけられる側。行為の向かう先を指す。認識される側を指す客観とは位置が違う。

用法

単独ではほとんど使わず、主体との対でのみ現れる。要点は「客体化する」という動詞形で、それまで主体だったものを働きかけられる側に置き直すことを指す。人を客体化するとは、意志を持つ存在としてではなく扱われるものとして見ることであり、批判語として使われる。☑9 対象化と近いが、対象化が認識の話であるのに対し、客体化は行為と扱いの話である。この差を押さえると誤用が避けられる。

用例
  • 己の欲せざる所は、人に施すこと勿かれ。『論語』顔淵篇
    自分がされたくないことを、人にするな。一見すると単純な教えだが、客体化を禁じる原理として読める。この一句が成り立つには、相手が自分と同じように「されたくない」と感じる存在だと認めていなければならない。相手を物として見ているなら、この照合はそもそも起こらない。注目したいのは、基準が自分の側に置かれていることだ。相手の意向を聞くのではなく、自分の嫌なことから推す。これは 1-3 の 61 で見たアナロジーの操作であり、他者を理解する道が類推しか無いという事実を、倫理の原理として引き受けている。
  • 根源語〈われ―なんじ〉を語る者は、その全存在をもって語る。根源語〈われ―それ〉を語る者は、全存在をもって語ることはできない。マルティン・ブーバー『我と汝』(1923)/訳は本教材
    相手を「なんじ」と呼ぶか「それ」と呼ぶかで、呼ぶ側の在り方まで変わるという。客体化の問題が、ここではされる側だけでなくする側の問題として書かれている。人を「それ」として扱うとき、自分もまた全存在で向き合ってはいない。注目したいのは、ブーバーが〈われ―それ〉を悪だとは言っていないことだ。道具を使い、物を数え、人を役割で扱わなければ社会は回らない。問題は、それしかできなくなることである。1-1 の 9 で見た対象化と同じで、操作そのものではなくその一色になることが批判される。
  • 人を客体化するとは、意志を持つ存在としてではなく、扱われるものとして見ることである。 批判語として使われる。1-1 の 9 の対象化と近いが、対象化が認識の話であるのに対し、客体化は行為と扱いの話である。この差を押さえると誤用が避けられる。「自然を対象化する」とは言うが、「自然を客体化する」とはあまり言わない — 自然に行為を向けるという言い方がなじまないからである。
  • ×調査の客体として五百人を選んだ。 調査が向けられる先なら「対象」で足りる。客体は主体との対でのみ現れる語で、単独ではほとんど使わない。「主体」が近くにあるかどうかを確かめてから使う。無ければ、対象・客観・標的のどれかが当たる。
原書の反意語・関連語

106 主体 / 関 90 客観

派生形
  • 客体的きゃくたいてき[0]使用頻度は低い。「客体的な位置に置かれる」のように、受け身の構文とともに使われる。能動で使いにくいこと自体が、この語の位置を示している。
  • 客体化きゃくたいか[0]この語幹の実際の主役。批判語として働く。1-1 の 9 の対象化と認識か行為かで分ける。
  • 主体しゅたい[0]対語。この二語はどちらか一方では意味が立たない。106 と合わせて、主観・客観・主体・客体の四語を一枚の図に置いておくとよい。
コロケーション
  • 客体化する扱われるものへそれまで主体だったものを、働きかけられる側に置き直す。人について使われるとき、ほぼ必ず批判語になる。注意したいのは、客体化は視線だけでは完成しないことだ。見るだけなら対象化にとどまる。扱い方まで変わったとき、それは客体化になる。
  • 主体と客体の反転入れ替わる位置同じ人が、場面によって主体にも客体にもなる。雇う側では主体、雇われる側では客体。固定した属性ではなく関係の中での位置である。1-1 の 21 の疎外、1-4 の 84 のオリエンタリズムが問題にするのは、その位置が固定されてしまうことのほうだ。
  • 客体としての身体医療の言葉患者の身体を、本人から切り離して扱う視線。91 の心身二元論がここで実務になる。医学が身体を客体として扱えたから治療が進んだ。同時に、そこに人が住んでいることが見えにくくなった。116 の倫理、とりわけ生命倫理はこの裂け目から立ち上がっている。
  • 客体と客観行為か認識か客体は働きかけられる側、客観は認識される側。90 と対にして覚える。英語ではどちらも object で、日本語がここで二つに割った。割ったおかげで、「客観的に見る」と「客体として扱う」を区別して論じられるようになった — 訳語が思考の道具を増やした例である。

書き言葉。会話では不自然。

類語と差
  • 主体働きかける側☑106。対語。
  • 客観認識される側の対象☑90。客観は認識の対象、客体は行為の対象。
  • 対象意識や行為が向かうもの☑9。より広い。客体は主体との対でのみ使う。
  • 受け身働きかけを受ける文法・態度の語。客体は関係の中の位置。

ENobject
ZH客体(客体, kètǐ)

解説 ── 主体・客体

主体は主観と同様に、英語の subject を訳したもの。また客体は、英語では object であり、こちらも客観の意がある。したがって、英語の単語としては、主観・客観と主体・客体との間に区別はない。

ただし、主観や客観という場合、物事の「認識」に関する場合に用いられることが多く、主体や客体という場合、実践的な行為を含んだ文脈で多用される。

たとえば、「できるだけ主観を入れないようにする」と言っても、「できるだけ主体を入れないようにする」とは言わない。主観は、認識の仕方のことを指すのに対して、主体は、認識する当の存在を意味しているからである。

対立の軸

主体/客体 の軸 = 働きかける側か、される側か

主体自らの意志で働きかける側。
働きかける側か、される側か
客体働きかけられる側。
主観・客観・主体・客体の四象限認識の軸と行為の軸で、主観と客観、主体と客体の四語を整理した図。 認識の軸 ── 知る/知られる 行為の軸 ── する/される する側 される側 主観 認識する側の意識 客観 認識される対象 主体 意志をもって働きかける側 客体 働きかけられる側 知る はたらく 英語ではどちらも subject と object である。日本語訳が二つに分けた。 上下を取り違えると、設問を落とす
主観・客観・主体・客体の四象限
Section 16

理性/感性/形而上/ア・プリオリ/ア・ポステリオリ

108★★

理性りせい

りせい[1]頭高型

語構成
ことわり・すじみちそのはたらき
定義

物事を合理的に判断する心のはたらき。

『現代文キーワード読解』1-1 ☑108
原書の解説

理性とは、定義としては合理的・論理的・概念的に思考する能力のこと。英語では reason にあたるが、reason〈理性〉だけでなく〈理由〉も意味する。物事の「理由」を考える能力を「理性」だと考えるとわかりやすいだろう。

理性は人間と動物を区別する特別な能力だが、理性を絶対視した近代は合理性や効率性ばかりを追い求める態度を生み出してしまった。しかし、人間は理性だけでなく、感情・情緒・欲望ももっている。また、自然や社会も、理性的に考えるだけではとらえきれない面をもつ。

使用の境界

筋道立てて考え、感情に流されずに判断する能力。人間を人間たらしめるものとされてきた。

用法

近代を支えた中心概念である。理性があるから人間は迷信や権威から自由になれる──この信頼が啓蒙の原動力になった。評論文で重要なのはその反転で、理性への信頼が世界大戦と管理社会を生んだのではないかという批判(フランクフルト学派)が二十世紀の主題になる。したがって「理性」が出たら、肯定的に語られているか、限界を問われているかを見る。感性・情念との対で出るのが基本形で、どちらを上位に置くかが論者の立場を示す。

用例
  • 人間は一本の葦にすぎない。自然のうちで最も弱いものである。だが、それは考える葦である。……宇宙が彼を押しつぶしても、人間は彼を殺すものより尊い。自分が死ぬことを知っているからである。ブレーズ・パスカル『パンセ』(1670)/訳は本教材
    理性への信頼を、弱さの自覚の上に立てた一節である。注目したいのは順序だ。まず最も弱いものだと言う。そのうえで、考えることによって押しつぶすものより尊い、と続ける。力では勝てないが、知っているという一点で勝る。ここに近代が理性に託したものが凝縮している。理性があるから、人間は迷信からも権威からも自由になれる — この確信が啓蒙の原動力になった。ただしパスカルは同時に「心は理性の知らない理由を持つ」とも書いている。理性を讃えた人が、その限界も同じ書物に書き残していた。
  • 理性の眠りは怪物を生む。フランシスコ・デ・ゴヤ『ロス・カプリチョス』第四十三番の銘(1799)/訳は本教材
    机に突っ伏して眠る男の背後から、梟と蝙蝠が湧き出す版画に添えられた一行である。二通りに読めるところが、この銘の力だ。一つは、理性が眠ると迷信と狂気が現れる — 啓蒙の側からの警告として。もう一つは、理性そのものが眠りのなかで怪物を産み落とす — こちらは啓蒙への疑いになる。ゴヤは注釈で、想像力は理性に見捨てられると怪物を生むが、理性と結ばれれば芸術の母になると書いた。それでも二つ目の読みは消えない。二十世紀に、理性への信頼が世界大戦と管理社会を生んだのではないかという批判が現れたとき、この版画は繰り返し引かれることになる。
  • 理性への信頼が、結果として世界大戦と管理社会を生んだのではないか — 二十世紀の批判はここから始まる。 この反転が読解の要点である。理性は近代を支えた中心概念だった。それがなぜ批判されるのか。効率よく組織し、計算し、管理する力は、収容所も官僚制も同じ理性から出てくるからだ。フランクフルト学派の議論がこの線上にある。「理性」が出たら、肯定的に語られているか限界を問われているかを見る。
  • ×感情的にならず落ち着いていた。理性があった。 落ち着いた態度を言うなら「理性的」である。理性そのものは能力の名で、有る無しで測るものではない。感性・情念との対で出るのが基本形で、どちらを上位に置くかが論者の立場を示す。この対を見つけたら、まず序列を確かめる。
原書の反意語・関連語

109 感性 / 関 情念(パトス)/103 ロゴス

派生形
  • 理性的りせいてき[0]実際の用法の主役。感情に流されない態度を指す。109 の「感性的」が肯定にも否定にも転ぶのに対し、こちらは安定して肯定である。
  • 理性主義りせいしゅぎ[0]「主義」が付いて立場になる。合理主義とほぼ重なる。1-2 の 47 で見たとおり、理性を重んじることと、理性以外を認めないことは別である。
  • 非理性的ひりせいてき[2]「非」は枠の外を指す。1-1 の 13 で見たとおり、「不」ではなく「非」であることに意味がある。理性で測れないというだけで、誤っているという意味ではない。
コロケーション
  • 理性的肯定と限界のあいだ感情に流されないという褒め言葉。ただし評論文では、この肯定がいつ限界に変わるかを見る。目的を問わずに手段だけを最適化する働きを道具的理性と呼び、批判の的にする議論がある。効率よく行うことと、何を行うべきかは別の問いだ。
  • 理性の限界二十世紀の主題理性は自分の限界を理性で見つけられるかという問いを含む。カントの『純粋理性批判』はまさにそれを試みた書物だった。「批判」とは非難ではなく能力の範囲を吟味することである。110 の形而上が「答えの出ない問い」の領域とされるのは、この吟味の結果にほかならない。
  • 理性と感性基本の対109 と対で読む。カントの枠組みでは、感性が素材を受け取り、悟性がそれを概念でまとめ、理性がさらに全体をまとめる。役割分担であって優劣ではない。「内容なき思考は空虚、概念なき直観は盲目」という一句が、その分担を要約している。
  • 道具的理性目的を問わない力目的の当否は問わず、手段の効率だけを高める働き。フランクフルト学派の批判概念である。1-2 の 12 で見た合理化、1-1 の 16 の自己目的化と同じ場所にある — 手段が完成度を上げるほど、何のためかが問われなくなる

書き言葉・会話の両方で使える。

類語と差
  • 感性感じ取る能力☑109。対語。理性は概念で考える力、感性は受け取る力。
  • 情念理性で抑えられない激情☑34。ロゴスとパトスの対に対応する。
  • 悟性感覚を概念でまとめる能力カントの語。理性はさらに上位で、全体を統一する働きを指す。
  • 知性知的な働き全般広い。理性は判断と統御の側面に重心がある。

ENreason
ZH理性(理性, lǐxìng)

109★★

感性かんせい

かんせい[0]平板型

語構成
かんじるそのはたらき
定義

物事を直感的に把握する心のはたらき。感受性。

『現代文キーワード読解』1-1 ☑109
原書の解説

感性の一般的な意味としては、喜怒哀楽などを感じる能力や、芸術作品に感動する能力などを指す。感受性・センスなどと言い換えるとわかりやすい。

こうした直感的に物事を感じる能力の他に、感性という語は〈人間の自然な欲求〉という意味でも用いられることがある。

なお、近代の哲学では、感性は理性より下位のものとされ、感性がとらえる感情的な要素は、人間を理解する上であまり重視されなかった。

使用の境界

外界を感じ取る能力。哲学では受け取る働きを指し、日常語の「センスのよさ」とは層が違う。

用法

哲学では受容の能力を指す中立の語で、優劣を含まない。カントは、感性が素材を受け取り、悟性がそれを概念でまとめる、と役割を分けた。ところが日本語の日常語では「感性がいい」「感性が豊かだ」のように、美的な 判定としての優劣を含む語になっている。この用法は中国語には無く、日本語独自である。評論文では理性との対で出るので、まず哲学語として読み、日常語の評価的な含みを持ち込まない。

用例
  • 内容なき思考は空虚であり、概念なき直観は盲目である。イマヌエル・カント『純粋理性批判』(1781)/訳は本教材
    感性と悟性の分業を一行で述べた句である。感性が素材を受け取り、悟性がそれを概念でまとめる。片方だけでは何も成り立たない。素材の無い思考は空回りし、まとめる枠の無い感覚は何も見ていないのと同じだ。注目したいのは、ここに優劣が無いことである。哲学における感性は受け取る能力を指す中立の語で、「感性が豊かだ」という日本語の日常用法とは層が違う。日常語のほうは美的な判定としての優劣を含んでおり、この用法は中国語には無く、日本語独自である。評論文では、まず哲学語として読み、日常語の評価的な含みを持ち込まないことが第一歩になる。
  • 事にふれて、その心をわきまへしる、これ事の心をしる也、物の心をしる也、物のあはれをしる也。本居宣長『石上私淑言』(1763頃)
    「もののあはれ」を定義した一節である。注目したいのは「事にふれて」という出だしだ。こちらから探しに行くのではない。触れられて、はじめて動く。この受動性が、感性という語の哲学的な中身と正確に重なる。1-1 の 34 で見たパトス(受けること)とも同じ根にある。さらに宣長は、知ることとしてこれを書いている。感じるのではなく「しる」。感性は認識の一形態であって、認識の手前にある混沌ではない。カントが感性を認識の第一段に据えたのと、ここで思いがけず手が届いている。
  • 哲学の感性は受容の能力を指す中立の語で、優劣を含まない。 ここが日本語の日常語との分かれ目である。「感性がいい」「感性が豊かだ」は美的な判定としての優劣を含む。この用法は日本語独自で、中国語には無い。評論文では理性との対で出るので、まず哲学語として読む
  • ×彼は感性が鋭いので、論理も正確だ。 感性と論理は別の能力である。カントの枠組みでは、感性が素材を受け取り、悟性が概念でまとめる。受け取る力が高いことと、まとめる力が高いことは別だ。日常語の「感性がいい」に引きずられると、能力全般が高いという意味に広がってしまう
原書の反意語・関連語

108 理性

派生形
  • 感性的かんせいてき[0]哲学語としては中立。「感性的なもの」は感覚に与えられるものを指し、110 の形而上(感覚を超えたもの)と対になる。
  • 美的感性びてきかんせい[0]日本語の日常用法を限定して学術寄りに整えた形。「感性」だけでは何についての感性か決まらないので、領域を冠する。1-4 の 74 で見た「文明」が分野名を要求するのと同じ作りである。
  • 悟性ごせい[0]カントの枠組みで感性と対をなす能力。受け取った素材を概念でまとめる。感性・悟性・理性の三段を押さえておくと、108・109 の議論の位置が定まる。
コロケーション
  • 感性的哲学語としての形感性を通して与えられるという限定。「感性的直観」「感性的所与」のように使う。日常語の「感性が豊か」とはまったく違う層にあり、評価をいっさい含まない。哲学の文章でこの語に出会ったら、褒めているのでも貶しているのでもないとまず構えておく。
  • 理性と感性の序列論者の立場が出る場所どちらを上位に置くかで立場が分かれる。近代は理性を上に置いた。ロマン主義(1-6 の 136)はそれを引っくり返した。注意したいのは、引っくり返しても序列は残ることだ。カントの分業論は序列を作らなかった点で、いまも参照される値打ちがある。
  • 感性を磨く日常語の主役美的な判断力を高めるという意味。日本語独自の用法である。面白いのは、「磨く」という動詞が感性を技術として扱っていることだ。生まれつきのものなら磨けない。この動詞の選択に、感性が学べるものだという日本語話者の前提が現れている。
  • 感性と感覚受け取る力と、受け取ったもの感性は能力、感覚はその働きと結果。94 で見た感覚 → 知覚 → 認識の階梯のうち、感性はその第一段を可能にしている条件にあたる。「感覚が鋭い」は個々の場面の話、「感性が鋭い」は能力全般の話 — 日常語でもこの差はいくらか保たれている。

書き言葉・会話の両方で使える。

類語と差
  • 理性筋道立てて考える能力☑108。対語。感性が受け取り、理性が組み立てる。
  • 感覚刺激を受け取ること個々の受け取り。感性はその能力そのもの。
  • 感受性感じ取りやすさ程度の話。感性は能力の名。
  • センス趣味や判断のよさ日常語。日本語の「感性がいい」はこちらに近い。

ENsensibility
ZH感性(感性・感覚的, gǎnxìng)

日中のズレ

中国語の 感性(gǎnxìng)は哲学語としては同じだが、日常では「感性认识(感覚的認識)」のように理性と対になる認識の段階を指す。

日本語の「感性がいい」「感性が豊か」のような美的センスの優劣を言う用法は中国語にはない。近いのは 品味(pǐnwèi)。

110

形而上けいじじょう

けいじじょう[0]平板型

語構成
かたちしこうしてうえ

『易経』「形而上者謂之道、形而下者謂之器」に由来する。読みが問われる語である。

定義

絶対者・絶対的真理など、思考上でしか考えられないもの。

『現代文キーワード読解』1-1 ☑110
原書の解説

形而上とは、辞書的には「形をもたないもの・形を超えたもの」という意味だが、哲学の分野で「形而上学」と言う場合、神の存在証明や宇宙の根本原理を探究する学問内容のことを指す。

また、形而下という反意語もあり、これは〈五感で知覚できる物質的なもの〉という意味。はっきりと形があり、感覚によってその存在を知ることができるもののことを表し、動植物・石・水など、物質からできているものはみな形而下である。したがって、科学が扱うのは形而下の世界であるとも言える。

使用の境界

形を持たず、感覚では捉えられないもの。抽象的というだけでは足りず、感覚を超えていることを含む。

用法

出典は『易経』の「形而上者これを道と謂い、形而下者これを器と謂う」で、漢籍由来の語である。西洋語 metaphysics の訳語として当てられた。要点は、抽象的であることではなく感覚を超えていることにある。神・魂・存在そのものがその領域に属する。評論文では「形而上学的な問い」が、答えの出ない大きな問いを指して使われる。実証主義(☑52)はこの領域を研究の対象外に置いたので、両者は正面から対立する。読みが問われる語でもある。

用例
  • 形而上なる者、これを道と謂ひ、形而下なる者、これを器と謂ふ。『易経』繋辞上伝
    この語の出どころである。形をこえたものが道、形をそなえたものが器。注目したいのは「而(しこう)して」という一字が入っていることだ。「形の上」ではなく「形にしてその上」— 形を通り越したところという運動が語形に刻まれている。だから形而上は、単に抽象的だというだけでは足りない。感覚を超えていることが条件になる。明治になって西洋語 metaphysics の訳語にこの二字が当てられたとき、漢籍の道と器の対が、そのまま西洋の存在論に貸し出された。訳語がうまくはまった例だが、そのぶん元の含みも一緒に運ばれている。
  • すべての人間は、生まれつき知ることを欲する。その証拠は、感覚を愛することである。アリストテレス『形而上学』第一巻(前四世紀)/訳は本教材
    形而上学という書物の書き出しである。意外なことに、感覚から始まっている。見ること、聞くこと自体が楽しい — そこに知への欲求の根がある、という。注目したいのは、感覚を超えたものを扱う学が、感覚への愛から説き起こされていることだ。形而上は感覚の否定ではない。感覚から出発して、その先へ行こうとするところに成り立つ。なお『形而上学』という書名自体は、『自然学』の後に置かれた書物という編集上の呼び名に由来する。並び順が学問の名になったという偶然も、この語の来歴として面白い。
  • 形而上学的な問いとは、答えの出ない大きな問いのことを指して使われる。 実証主義(1-2 の 52)はこの領域を研究の対象外に置いた。確かめられないからである。だから両者は正面から対立する。「答えが出ない」は「無意味だ」を意味しない — この一点をどう考えるかが、評論文でこの語が出てきたときの争点になる。読みが問われる語でもある。
  • ×抽象的で難しい話なので形而上的だ。 抽象的であることと、感覚を超えていることは違う。「経済成長率」は抽象的だが、測れるので形而上ではない。神・魂・存在そのもの — 原理的に測れないものがこの領域に属する。「確かめる手段が原理的にあるか」を問えばよい
原書の反意語・関連語

反 形而下

派生形
  • 形而上学けいじじょうがく[0]存在そのものを問う部門。書名がそのまま学問の名になった。評論文では、この語が肯定的に使われているか批判の対象かをまず見る。
  • 形而下けいじか[0]対語。感覚で捉えられるもの。「形而下の問題」と言えば現実的・具体的な問題を指すが、この用法はやや気取った言い方になる。
  • 形而上学的けいじじょうがくてき[0]「答えの出ない大きな問いに関わる」という意味で使われる。しばしば揶揄を含むが、哲学の文脈では中立の分類語である。88 の「哲学的」と同じ二層構造を持つ。
コロケーション
  • 形而上学学としての形存在そのものを問う哲学の一部門。神・魂・世界の全体といった、感覚では確かめられないものを扱う。カントは『純粋理性批判』でこの領域に人間の認識が届かないことを示し、同時に人間がそれを問わずにいられないことも認めた。108 で見た「理性の限界」とは、まずこの線引きのことである。
  • 形而下対をなす語形をそなえ、感覚で捉えられるもの。『易経』では「器」と呼ばれた。日常語ではほとんど使われないが、この対を持っておくと形而上の位置が定まる。1-1 の 3 の具体、94 の知覚できる範囲と同じ側にある。
  • 形而上学的な問い答えの出なさなぜ何も無いのではなく何かが在るのか。この形の問いを指す。実証の手続きが使えないので、答えは出ない。それでも問われ続けることが、この語のいちばん奥にある事実である。88 で見たとおり、答えの出る問いは個別の学問へ移っていく。
  • 形而上学批判二十世紀の主題確かめられないことを語るのをやめよという要求。実証主義、論理実証主義、ウィトゲンシュタインの「語りえぬもの」がこの線上に並ぶ。注意したいのは、批判する側も「何が語りうるか」を決める基準をどこかから持ってきていることだ。その基準自体は、確かめられない。
硬・学術

論文・評論でのみ使う。会話では不自然。

類語と差
  • 形而下形を持ち感覚で捉えられるもの対語。物質的なもの。
  • 抽象共通する性質を抜き出したもの☑4。抽象は操作の結果。形而上は感覚を超えた存在の領域。
  • 超越的経験の範囲を超えている哲学の語。形而上とほぼ重なるが、こちらは経験との関係を明示する。
  • 観念的現実から離れている批判語。形而上は中立の分類語。

ENmetaphysical
ZH形而上(形而上, xíng'érshàng)

111

ア・プリオリ

ア・プリオリ[3]中高型

定義

経験に先立つこと。先天的に。あらかじめ。

『現代文キーワード読解』1-1 ☑111
使用の境界

経験に先立って成り立つこと。生まれつきという生物学的な意味ではなく、経験に依存しないという論理的な意味。

用法

ラテン語で〈より前のものから〉。カントが認識論の中心に据えた語で、要点は経験に依存しないという一点にある。「三角形の内角の和は一八〇度」は、実際に測らなくても成り立つのでア・プリオリ。「この水は一〇〇度で沸騰した」は測って初めて分かるのでア・ポステリオリ。カントは、時間と空間の枠組み自体がア・プリオリに与えられていると考えた。つまり枠組みが先にあって経験が可能になるという反転が要点である。

用例
  • 我々のあらゆる認識が経験とともに始まるということには、いささかの疑いもない。……しかし、我々の認識のすべてが経験から生じるわけではない。イマヌエル・カント『純粋理性批判』緒論(1787)/訳は本教材
    二つの文の違いが、この語のすべてである。「経験とともに始まる」ことは認める。認めないのは「経験から生じる」ほうだ。始まりの合図と、生みの親は別である。経験がきっかけを与えるが、その経験を受け取る枠組みは経験より先に備わっている。時間と空間がその枠にあたる、とカントは言う。注目したいのは、これが「生まれつき」という生物学的な意味ではないことだ。経験に依存しない、という論理的な意味である。「三角形の内角の和は一八〇度」は、実際に測らなくても成り立つ。枠組みが先にあって経験が可能になるというこの反転が要点である。
  • 学ぶということは、想起することにほかならない。……知らないはずのことを、この少年は自分の内から取り出したのだ。プラトン『メノン』(前四世紀)/訳は本教材
    幾何学を習ったことのない奴隷の少年が、問いを重ねられるうちに正方形の面積の問題を解いてしまう場面である。ソクラテスは何も教えていない。ただ問うただけだ。だから少年はもともと知っていたのだ、と結論する。カントの二千年前に、経験に依存しない知があるという主張がここに立っている。ただし違いも大きい。プラトンは「思い出した」と言い、カントは「枠組みが働いた」と言う。前者では知が内容として先にあるが、後者では形式だけが先にある。この差が、111 が生まれつきの話ではないという注意点の背景になっている。
  • 「三角形の内角の和は一八〇度」は測らなくても成り立つのでア・プリオリ、「この水は一〇〇度で沸騰した」は測って初めて分かるのでア・ポステリオリ。 順序の話ではなく依存関係の話である。ラテン語で〈より前のものから〉。要点は経験に依存しないという一点にある。カントは、時間と空間の枠組み自体がア・プリオリに与えられていると考えた。枠組みが先にあって経験が可能になるという反転を押さえたい。
  • ×人見知りは生まれつきなのでア・プリオリな性質だ。 「生まれつき」という生物学的な意味ではない。ア・プリオリは経験に依存しないという論理的な意味で使う。生まれつきの性質は、観察して確かめる以外に知りようがないので、むしろア・ポステリオリな知である。訳語の「先天的」がこの混同を招きやすい。
原書の反意語・関連語

112 ア・ポステリオリ

派生形
  • 先天的せんてんてき[0]日常語と衝突する訳語。生物学的な意味に読まれやすいので、哲学の文脈では注意が要る。
  • 先験的せんけんてき[0]字義に忠実な訳語。「経験に先立つ」をそのまま漢語にした。正確だが、日常語の支えが無いぶん硬い。
  • 超越論的ちょうえつろんてきカントの transzendental の訳語。経験を可能にしている条件を問う立場を指す。「超越的」(経験を超えたもの)とは別語なので、一字の差に注意したい。
コロケーション
  • ア・プリオリに与えられるカントの用法経験より先に、枠として備わっている。時間・空間・因果というカテゴリーがそれにあたる。注目したいのは、これが人間の能力の限界の指摘でもあることだ。枠を通してしか世界を受け取れないなら、枠の外は原理的に届かない — 95 で見た物自体が認識できないとされるのは、この帰結である。
  • 先天的訳語の落とし穴生物学的な意味に読まれやすい。「先天性の疾患」という日常語があるためである。ア・プリオリは経験への依存の有無を言う語で、遺伝や体質とは関係がない。訳語が日常語と衝突した例で、1-5 の 92 の「唯物的」、1-4 の 82 の「独断」と同じ事故が起きている。
  • 先験的もう一つの訳語「経験に先立つ」を字義どおりに訳した形。「先天的」より正確だが、日常語になっていないぶん読みにくい。なお「超越論的」という別の訳語もあり、こちらはカントの transzendental にあたる。訳語が三つに割れていること自体が、この概念の受け入れにくさを示している
  • ア・プリオリとア・ポステリオリ依存関係の対111 と 112 は必ず対で扱われる。評論文で単独で出ることは少ない。順序ではなく依存で分ける、という一点を押さえておけば取り違えない。「確かめなくても言えるか」を問えばよい
硬・学術

論文・評論でのみ使う。会話では不自然。

類語と差
  • ア・ポステリオリ経験のあとに得られる対語。順序ではなく、経験に依存するかどうかで分かれる。
  • 先天的生まれつき備わっている訳語だが、生物学的な含みが強い。ア・プリオリは論理の話。
  • 必然法則によってそうなる☑7。ア・プリオリな知は必然的だとされる。
  • 自明証明なしに明らか☑14。近いが、自明は疑われないこと、ア・プリオリは経験に依存しないこと。

ENa priori
ZH先验(先験的, xiānyàn)

112

ア・ポステリオリ

ア・ポステリオリ[5]中高型

定義

後天的であること。あとから。

『現代文キーワード読解』1-1 ☑112
使用の境界

経験を通して得られること。実際に確かめてはじめて成り立つ知を指す。

用法

ラテン語で〈よりあとのものから〉。経験によって得られる知を指し、自然科学の知識はほぼこちらに属する。ア・プリオリとの対で覚え、順序の話ではなく依存関係の話だと押さえる。ア・ポステリオリな知は反例が出れば覆るので確実ではない。ここで☑53 帰納の不確実さと同じ論点が現れる。評論文で単独で出ることは少なく、必ず対で扱われる。読みにくい語なので、書き取りではなく読解で問われることが多い。

用例
  • 我々のあらゆる知識は経験に基づいており、究極的には経験から導き出される。ジョン・ロック『人間知性論』第二巻(1690)/訳は本教材
    ア・ポステリオリの立場をもっとも簡潔に述べた一文である。93 で引いた「心は白紙」の続きにあたる。注目したいのは「究極的には」という限定の付け方だ。ロックも、いま目の前で経験していないことを我々が知っていると認めている。ただしそのすべてがたどれば経験に行き着くと言う。この主張の強さと弱さは同じところにある。強いのは、生まれつきの権威も身分も根拠を失うからだ。弱いのは、数学の確実さが説明しにくいからである。111 のカントは、この弱点を埋めるために枠組みという第三の道を用意した。
  • 知は行の始めなり、行は知の成るなり。王陽明『伝習録』(1518頃)
    知行合一を述べた一句である。知ることが行いの始まりであり、行うことによって知が完成する。ここで言われているのは、実際にやってみないと知ったことにならないということだ。ア・ポステリオリな知の性格が正確に押さえられている。注目したいのは、王陽明がこれを道徳について言っている点である。「孝を知る」とは、孝の定義を言えることではなく、実際に親に仕えることだ、と。1-2 の 52 で引いた『荀子』の「知るは之を行ふに若かず」と同じ方向を向いており、東アジアの思想が一貫して行いの側に重みを置いてきたことが分かる。
  • 自然科学の知識は、ほぼすべてア・ポステリオリである。 経験によって得られる知だからである。だから反例が出れば覆る。ここで 1-2 の 53 で見た帰納の不確実さと同じ論点が現れる。ラテン語で〈よりあとのものから〉。ア・プリオリとの対で覚え、順序ではなく依存関係の話だと押さえる
  • ×経験を積んでから判断したのでア・ポステリオリな人だ。 人の性格や態度には使わない。知識や命題の成り立ち方を分類する語である。「経験を重んじる」なら「経験主義的」が当たる。「その知が確かめずに言えるかどうか」を分類しているのであって、人を分類しているのではない。
原書の反意語・関連語

111 ア・プリオリ

派生形
  • 後天的こうてんてき[0]日常語と衝突する訳語。生まれたあとに身につけたという意味に読まれやすい。哲学の文脈では「経験的」を使うほうが安全である。
  • 経験的けいけんてき[0]もっとも誤解の少ない訳語。「経験的知識」「経験的事実」のように使う。1-2 の 52 の実証と近い場所にある。
  • 経験主義けいけんしゅぎ「主義」が付いて立場になる。知の源をすべて経験に求める。1-2 の 52 で見た実証主義の哲学的な先祖にあたり、確かめられないものを扱わないという構えを共有している。
コロケーション
  • 経験的もっとも通じる訳語実際に確かめて得られたという意味。「経験的に言えば」は日常でも使う。1-2 の 52 で見た実証と近い場所にあり、事実に当てて得られた知という点で重なる。ただし実証は手続きの名、ア・ポステリオリは知の成り立ちの分類である。
  • 後天的訳語の落とし穴「先天的」と同じ問題を抱えている。生まれたあとに身につけた、という生物学的な意味に読まれやすい。ア・ポステリオリは経験に依存するという論理的な意味で、習得の時期の話ではない。
  • 反例で覆る確実でないことア・ポステリオリな知は、次の一例で覆りうる。1-2 の 53 で見た帰納の限界と同じ構造である。注意したいのは、これが欠陥ではないことだ。覆りうるからこそ、新しいことを教えてくれる — 確実だが何も増やさないア・プリオリな知との非対称がここにある。
  • 経験主義と合理主義背景にある対立知の源を経験に置くか、理性に置くか。ロック・バークリー・ヒュームが前者、デカルト・スピノザ・ライプニッツが後者に並ぶ。カントはこの対立を両方の言い分を認める形で組み替えた。111・112 の対は、その組み替えの結果として残った整理である。
硬・学術

論文・評論でのみ使う。会話では不自然。

類語と差
  • ア・プリオリ経験に先立つ対語。
  • 経験的経験にもとづく訳語。実証(☑52)と重なる立場をとる。
  • 後天的生まれたあとに獲得された訳語だが生物学的な含みが強い。
  • 帰納個々の事実から法則を導く☑53。ア・ポステリオリな知の得られ方。

ENa posteriori
ZH后验(後験的, hòuyàn)

解説 ── ア・プリオリ・ア・ポステリオリ

哲学では、経験の前から、つまり生まれながらもっているものを「ア・プリオリな」ものと言い、言語のように経験によって後天的に得られるものを「ア・ポステリオリな」ものと言う。

対立の軸

理性/感性 の軸 = 組み立てるか、受け取るか

理性筋道立てて考え、判断する能力。
組み立てるか、受け取るか
感性外界を感じ取る能力。

ア・プリオリ/ア・ポステリオリ の軸 = 経験に依存するか

ア・プリオリ経験に先立って成り立つ。
経験に依存するか
ア・ポステリオリ経験を通してはじめて得られる。
ア・プリオリとア・ポステリオリ経験に依存しない知と、経験を経てはじめて得られる知の違いを示した図。 ア・プリオリ 経験に依存しない 三角形の内角の和は一八〇度 測らなくても成り立つ 確実 / 反例で覆らない ア・ポステリオリ 経験を経て得られる この水は一〇〇度で沸騰した 測って初めて分かる 不確実 / 反例で覆る 「生まれつき」と「あとから身につけた」という順序の話ではない。 分かれ目は、経験に依存するかどうかにある
経験に依存するかどうか
「形」の線を境に上を道、下を器として形而上と形而下を分けた図『易経』繋辞上伝の「形而上者これを道と謂ひ、形而下者これを器と謂ふ」にもとづき、かたちを持つかどうかの一線で上下を分け、西周がここから metaphysica を訳したことを示す。 「形」の線を、どちらに越えるか形而上かたちより上 ── 道原理・本質・目的・善・神形而下かたちより下 ── 器物・道具・制度・身体・現象『易経』繋辞上伝「形而上者、これを道と謂ひ、形而下者、これを器と謂ふ」西周はこの一句から metaphysica を「形而上学」と訳した「形而上的な問い」= 経験を積んでも答えの出ない問い
道と器 ── かたちの上と下
Section 17

弁証法/命題

113

弁証法べんしょうほう

べんしょうほう[0]平板型

語構成
わきまえる・論じるあかすやり方
定義

対立または矛盾する二つの事柄を、統一・総合することによって、高い次元の結論に至る思考方法。

『現代文キーワード読解』1-1 ☑113
原書の解説

弁証法とは、もともとは、異なる考え方をもった二人が対話をすることによって、より高い次元の結論にたどり着く方法を言った。それが発展し、矛盾や対立を、より高い次元で一つの結論にまとめ上げる思考方法を意味するようになった。

「弁証法」の図では、

とよぶ。

たとえば

経済発展を優先させるべきだという意見と、環境保護を優先させるべきだという意見が対立しているとしよう。ここで、環境を保護しながら経済を発展させる環境政策を導入し、両者を調和させるような結論を出したとする。この結論を導くプロセス(過程)は、「弁証法的」と言うことができるだろう。より高い次元で矛盾を解決し、結論を導くのが弁証法なのだ。

使用の境界

対立するものを統合してより高い段階へ進む思考法。単に折衷することではなく、矛盾を保ったまま超えることを指す。

用法

ヘーゲルに帰される。正(テーゼ)・反(アンチテーゼ)・合(ジンテーゼ)の三段で説明されるのが定型である。要点は、合の段階で正と反が消えるのではなく、否定されつつ保存されてより高い段階に引き上げられること。この操作を止揚(アウフヘーベン)という。だから折衷とは違う。マルクスがこれを唯物論(☑92)に適用して史的唯物論を組み立てた。評論文では、対立が発展の動力になるという構図を説明する箇所に現れる。

用例
  • つぼみは花が咲くと消えてしまう。つぼみは花によって否定された、と言うこともできよう。同じように、果実が現れると花は植物の偽りの姿だと言い立てられる。……しかしそれらは、互いに排斥し合うと同時に、有機的な統一の契機でもある。ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル『精神現象学』序文(1807)/訳は本教材
    弁証法をもっとも分かりやすく示した比喩である。花はつぼみを否定する。実は花を否定する。それでも三つは同じ一本の植物である。ここが要点だ。否定されたものが消えるのではなく、次の段階の中身になっている。つぼみが無ければ花は咲かない。この「否定されつつ保存される」働きを止揚(アウフヘーベン)という。ドイツ語の aufheben には「否定する」「保存する」「高める」の三つの意味があり、一語がそのまま概念になっている。だから折衷とは違う。足して二で割るのではなく、対立を保ったまま次の段階へ引き上げる
  • 弁証法は、ヘーゲルにあっては頭で立っている。神秘的な外皮のなかに合理的な核心を発見するためには、それを引っくり返さなければならない。カール・マルクス『資本論』第二版後書き(1873)/訳は本教材
    ヘーゲルの弁証法を唯物論の側へ移した宣言である。ヘーゲルでは、精神が自らを展開して歴史が進む。マルクスはそれを逆さにした — 物質的な条件の矛盾が歴史を動かし、思想はそのあとに来る。92 で見た「社会的存在が意識を規定する」がここで方法として使われている。注目したいのは、マルクスが弁証法そのものは捨てていないことだ。外皮を剥いで核心を取り出す、と言っている。対立が発展の動力になるという構図だけは受け継がれた。史的唯物論はこうして、ヘーゲルの形式にマルクスの中身を入れたものになる。
  • 正・反・合の三段で説明されるが、合の段階で正と反が消えるのではない。否定されつつ保存されて高い段階へ引き上げられる。これが弁証法の止揚である。 折衷との違いがここにある。折衷は両方から少しずつ取って混ぜる。止揚は対立を保ったまま次の段階へ移す。だから合の段階にも矛盾は残っており、そこからまた次の運動が始まる。評論文では、対立が発展の動力になるという構図を説明する箇所に現れる。
  • ×両者の意見の中間を取ってまとめた。弁証法的な解決である。 中間を取るのは「折衷」である。弁証法は矛盾を保ったまま超えることを指す。「対立が消えたか、残ったまま高い段階へ移ったか」を問えばよい。消えたなら折衷、残っているなら止揚である。この誤用はきわめて多い。
派生形
  • 弁証法的べんしょうほうてき[0]対立を通じて発展するという含みを持つ。ただし「弁証法的に解決した」はしばしば折衷の言い換えとして誤用される。対立が残っているかを確かめる
  • 止揚しよう[0]アウフヘーベンの訳語。否定と保存と高揚の三つを担うが、日本語の二字には保存の意味が入っていない。カタカナで「アウフヘーベン」と書かれることが多いのはそのためである。
  • 正反合せいはんごう[0]後から整えられた図式。覚えやすいが、運動が三段で終わるという誤解を招く。合はつねに次の正になる。
コロケーション
  • 止揚(アウフヘーベン)三つの意味の一語否定し、保存し、高める。ドイツ語 aufheben がこの三つを同時に意味することが、概念そのものを可能にしている。日本語の「止揚」は止める(否定)と揚げる(高める)を組み合わせた造語で、保存の意味だけが訳語から落ちている。1-3 の 62 で見た訳語がはみ出す部分の一例である。
  • 正・反・合後から整えられた図式この三語はヘーゲル自身がほとんど使っていない。後の解説者が整理した図式である。便利だが、三段で終わるかのような印象を与える。実際には合がまた新しい正になり、運動は終わらない。図式化が概念を痩せさせる例として覚えておきたい。
  • 弁証法的発展対立が動力になる矛盾があるから先へ進むという見方。矛盾を欠陥ではなく動力と見る点が新しかった。1-3 の 71 で見た両義性、1-1 の 18 の逆説と同じ場所にある — どちらとも決まらないものを取り逃がさないための枠組みである。
  • 弁証法的唯物論マルクス以降の形弁証法の形式と唯物論の中身を組み合わせた立場。92 の史的唯物論はその歴史への適用にあたる。方法と立場は別々に組み替えられるということが、ここからよく分かる。
硬・学術

論文・評論でのみ使う。会話では不自然。

類語と差
  • 止揚対立を保ったまま高い段階へ引き上げるアウフヘーベン。弁証法の中核となる操作。
  • 折衷両方の中間を取る対立を弱めて足して二で割る。弁証法は対立を消さずに超える点が違う。
  • 矛盾両立しないこと出発点。弁証法は矛盾を動力とみなす。
  • 二項対立二つの項で組み立てる☑30。弁証法はその対立を第三の段階へ運ぶ。

ENdialectic
ZH辩证法(弁証法, biànzhèngfǎ)

114

命題めいだい

めいだい[0]平板型

語構成
なづけるだい・主題
定義

真実か虚偽かを判定できる主張。

『現代文キーワード読解』1-1 ☑114
原書の解説

たとえば、〈ウイルスは生物である〉という主張は一つの命題で、研究を進めるために、この説を真実として仮定する場合、これを「命題を措定する」と言う。この時、〈ウイルスは生物であるとも生物でないとも言える〉というようなどっちつかずの判断をしない、という規則は排中律とよばれる。さらに、ある命題が真実であることが証明されたなら、その命題は数学などでは定理とよばれる。

また、命題と類似する語にテーゼがあるが、これは、ある観念についての主張を立てることや政治的方針を意味する。

コラム

「命題」という言葉を、「至上命題」というように〈課題・任務〉の意味で使う場合も見られるが、本来の意味からすると誤用である。「最優先課題」や「重大任務」などと言うのが正しい。

使用の境界

真偽を判定できる形にまとめられた文。問いや命令は命題にならない。

用法

論理学の語で、要点は真偽が判定できる形であることにある。「明日は雨が降る」は命題だが、「明日は雨が降るか」「傘を持て」は命題ではない。この形式性が押さえどころ。日常語では「至上命題」「命題を背負う」のように〈果たすべき課題〉の意で使われるが、これは論理学の用法とは別で、本来は誤用に近い転用である。評論文では両方が出るので文脈で判定する。弁証法の「正・反」も命題の形で立てられる。

用例
  • 語りえぬものについては、沈黙しなければならない。ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』第七命題(1921)/訳は本教材
    命題という語の輪郭を、その外側から示した一行である。『論理哲学論考』は全体が番号を振られた命題で書かれており、これがその最後にあたる。注目したいのは、この本が「何が命題になるか」を定めることで、同時に「何が命題にならないか」を定めたことだ。真偽を判定できる形にまとめられるものが命題である。倫理も、美も、人生の意味も、真偽を判定する手立てが無いので命題にならない。ここで重要なのは、ウィトゲンシュタインがそれらを無意味だと切り捨てたのではないことだ。むしろ最も大切なものが語りえない側にあると考えていた。沈黙は軽蔑ではなく敬意である
  • 夫れ弁なる者は、将に以て是非の分を明らかにし、治乱の紀を審らかにし、同異の処を明らかにし、名実の理を察せんとするなり。『墨子』小取篇
    中国における論理学の宣言である。議論とは、是と非の分かれ目を明らかにし、同じと違うの境目を明らかにし、名と実の関係を見きわめる営みだ、という。注目したいのは「是非の分」が筆頭に置かれていることだ。真偽を判定するという命題の条件が、ここで議論の第一の目的になっている。そして「名実の理」で締めくくられる — 1-3 の 62 で見た記号の問題、1-1 の 5 で引いた正名の議論とここでつながる。命題が成り立つには、まず語が何を指すかが定まっていなければならない
  • 「明日は雨が降る」は命題だが、「明日は雨が降るか」「傘を持て」は命題ではない。 真偽が判定できる形であることが条件である。問いにも命令にも真偽が無い。この形式性が押さえどころで、内容が正しいかどうかは関係がない — 「明日は雨が降る」は外れても命題である。113 の弁証法の「正・反」も、命題の形で立てられる。
  • △環境保全は人類の至上命題である。 日常ではこう使われるが、これは〈果たすべき課題〉の意で、論理学の用法とは別である。本来は誤用に近い転用だが、すでに定着している。評論文では両方が出るので文脈で判定する — 真偽を問える文を指していれば論理学の層、課題を指していれば日常語の層である。
原書の反意語・関連語

関 テーゼ/定理

派生形
  • 命題的めいだいてき[0]「命題の形をとった」という意味。「命題的知識」は「〜である」と言い表せる知識のことで、自転車の乗り方のような言い表せない知と対比される。
  • 反対命題はんたいめいだい[0]アンチテーゼの訳語。113 の弁証法で「反」にあたる。対立するには、まず同じ形式でなければならない。
  • 至上命題しじょうめいだい日常語としての転用。論理学の用法とは別物だが定着している。評論文では両方が出るので、真偽を問える文か、果たすべき課題かで判定する。
コロケーション
  • 真偽を判定できる命題の条件内容の当否ではなく、形式の問題である。「地球は平らである」は偽の命題だが、命題である。「地球は美しい」は命題になりにくい — 何をもって真とするかが定まらないからだ。判定の手立てがあるかどうかが線を引いている。
  • 至上命題日常語の主役果たすべき最重要の課題の意。行政や報道で多用される。面白いのは、この誤用が定着した理由だ。「命」も「題」も重々しい字なので、字面が意味を引き寄せたと考えられる。1-3 の 62 で見た記号の恣意性が、ここでは字面の力として働いている。
  • 反対命題弁証法との接点ある命題を否定した命題。113 の「反(アンチテーゼ)」がこれにあたる。注意したいのは、反対命題も命題であることだ。真偽が判定できる形をしている。だから対立が成立する — 形式がそろっていないものは、そもそも対立できない
  • 命題を立てる議論の出発点議論のために、真偽を問える形にまとめること。「立てる」という動詞が1-2 の 45 の「仮説を立てる」と同じであることに注目したい。どちらも倒れうるものに使う動詞である。命題は、反論されるために立てられる。

書き言葉。会話では不自然。

類語と差
  • 主張こうだと述べること内容の話。命題は真偽を問える形式を持つことを言う。
  • 定義意味を限定した言い方意味を定める。命題は事柄の真偽を述べる。
  • 仮説仮に立てる説☑45。検証前の命題。命題は真偽を問える形であればよい。
  • テーゼ定立された主張弁証法の正の段階。命題の訳語としても使う。

ENproposition
ZH命题(命題, mìngtí)

弁証法の正・反・合正と反の対立が止揚されてより高い段階の合に至る過程を示した図。 THESE ANTITHESE SYNTHESE 止揚 正と反は消えるのではなく、否定されつつ保存されて引き上げられる。 足して二で割る折衷ではない。対立が動力になる。
正・反・合 ── 対立が動力になる
複数の文がひとつの命題を表すこと、および真偽を問えない文を並べた図「雨が降っている」「雨だ」「It is raining」はどれも同じ命題を表す。命題とは文そのものではなく、真か偽かを担う内容であること、また疑問文・命令文・感嘆文は命題にならないことを示す。 文でもなく、心の働きでもないもの文(言いあらわし方)「雨が降っている」/「雨だ」/It is raining言い方は三つ。言っていることは一つ命題(真偽を担う内容)いま、ここで、雨が降っている真か偽か、どちらかである真偽を問えない文は、命題にならない×雨は降っているか。── 問いに真偽は無い×窓を閉めろ。── 命令に真偽は無い×なんと美しい。── 感嘆に真偽は無い「命題」と書いてあれば、真偽を問う構えに入れという合図である
文と命題は同じではない
Section 18

実存/倫理/無意識/アンビヴァレンス

115

実存じつぞん

じつぞん[0]平板型

語構成
まこと・じっさいある
定義

① 実際にこの世に存在すること。また、その存在。 ② (哲学の場合)有限な人間(存在)のこと。

『現代文キーワード読解』1-1 ☑115
原書の解説

哲学の「実存」は、「現実存在」を略したもので、本質と対比される概念である。本質が普遍的で一般的な存在であるのに対して、実存とは、そうした普遍性や一般性に収まりきらない、個別的・具体的・偶然的な存在のことである。

なぜ実存が、他のモノではなく人間を指すのかというと、人間こそがもっとも個別的・具体的で偶然的な存在だからである。

使用の境界

いま現に生きている一回きりの自分のあり方。人間一般ではなく、この私であることを指す。

用法

サルトルの「実存は本質に先立つ」が要点になる。ペーパーナイフは何のためかが先に決まっているが、人間はまず存在し、そのあとで自分が何であるかを自分でつくる。だから人間は自由であり、その自由に耐えなければならない。「実存的な問い」は、一般論ではなくこの私の生き方に直接かかわる問いを指す。評論文では、近代の合理性や体系への抵抗として、あるいは戦後の思想潮流として語られる。中国語では「存在主义」となり字が違う。

用例
  • 絶望は死に至る病である。……この病で死ぬことはできないという点が、この病の恐ろしさなのだ。セーレン・キェルケゴール『死に至る病』(1849)/訳は本教材
    実存という語の出発点にある一節である。注目したいのは後半だ。死ねないことが恐ろしいと言っている。普通の病なら死んで終わる。絶望は終わらない。ここで語られているのは、人間一般ではなく、この私のことだ。「人はいつか死ぬ」は誰にでも当てはまる命題だが、私が死ぬということは、私にしか起こらない。この一回きりの、代わりのきかない私 — それが実存である。キェルケゴールがヘーゲルの体系を批判したのも、体系のなかにこの私が収まらないからだった。
  • 私は病んだ人間だ……私は意地の悪い人間だ。私は魅力のない人間だ。思うに私の肝臓が悪いのだろう。フョードル・ドストエフスキー『地下室の手記』(1864)/訳は本教材
    文学における実存の登場を告げた書き出しである。いきなり一人称で、自分の欠点を並べ立てる。それまでの小説なら、語り手はもう少し高いところから人物を見下ろしていた。ここでは語る者と語られる者が同じで、しかも整理されていない。注目したいのは「思うに私の肝臓が悪いのだろう」という一句だ。自分の性格を、内臓のせいにしてみせる。真面目なのかふざけているのか決まらない。この決まらなさこそが、体系に収まらない実存の手ざわりである。サルトルの「実存は本質に先立つ」という定式は、この手ざわりを哲学の言葉に翻訳したものだと言える。
  • ペーパーナイフは何のためかが先に決まっているが、人間はまず存在し、そのあとで自分が何であるかを自分でつくる。これが実存は本質に先立つということである。 サルトルの定式である。だから人間は自由であり、その自由に耐えなければならない。設計図が無いということは、言い訳もできないということだからだ。96 の本質と対で読みたい — 本質が先なら人生は組み立て図の実行だが、実存が先なら白紙からの作図になる。
  • △その会社は五十年前から実存している。 単に存在していることを言うなら「実在」「存続」である。哲学の実存はいま現に生きている一回きりの自分のあり方を指す。人間以外には使わない。「代わりがきかない一回性を問題にしているか」を見ればよい。なお中国語では「存在主义」となり、字が違う。
派生形
  • 実存的じつぞんてき[0]この私の生き方に直接かかわるという含み。「実存的な不安」は、原因の特定できる不安ではなく、生きていること自体から来る不安を指す。
  • 実存主義じつぞんしゅぎ[0]戦後を代表する思想潮流。サルトル、カミュ、ボーヴォワール。日本でも一九五〇〜六〇年代に広く読まれ、この時期の評論文を読むには欠かせない背景になる。
  • 実存哲学じつぞんてつがく[0]キェルケゴール、ヤスパース、ハイデガーの系譜。実存主義より広く、運動としてまとまる以前を含む。「主義」を付けるかどうかで射程が変わる、いつもの構図である。
コロケーション
  • 実存は本質に先立つサルトルの定式設計図なしに存在が始まるという主張。道具には用途が先にあるが、人間には無い。注目したいのは、これが自由の宣言であると同時に重荷の宣言でもあることだ。「人間は自由の刑に処せられている」とサルトルは書いた。選ばないという選択も選択である以上、降りることができない
  • 実存的な問いこの私の問い一般論ではなく、この私の生き方に直接かかわる問い。「人はなぜ生きるのか」ではなく「私はどう生きるのか」である。前者には答えを教われるが、後者には教われない。88 で見た「問う自分が消えない」性質が、ここでもっとも切実な形をとる。
  • 実存主義戦後の思潮近代の合理性や体系への抵抗として、あるいは戦後の思想潮流として語られる。注意したいのは、この語が流行語になったことだ。流行すると、一回きりのこの私を問うはずの語が誰でも使える一般語になる — この皮肉は、概念が広まるときにしばしば起きる。
  • 実存と実在一字の差実在は「それがある」、実存は「この私がこう在る」。実在は物にも使えるが、実存は人にしか使わない。代わりがきくかどうかが分かれ目である。書き取りでも問われるので、この一字は押さえておきたい。
硬・学術

論文・評論でのみ使う。会話では不自然。

類語と差
  • 本質そのものをそのものたらしめる性質☑96。実存主義は本質より実存を先に置く。
  • 存在あること一般広い。実存は人間の、しかも一人称の存在に限る。
  • 主体働きかける側☑106。位置の語。実存は生きられ方の語。
  • 自己自分そのもの中立。実存は不安・孤独・選択を伴う生のあり方を含む。

ENexistence
ZH实存(実存, shícún)

日中のズレ

実存主義は中国語では 存在主义(cúnzài zhǔyì) と言い、「実存」の二字を使わない。

中国語の 实存(shícún)は「実際に存在する」という一般的な語で、哲学の術語としては定着していない。

116

倫理りんり

りんり[1]頭高型

語構成
なかま・人のみちことわり
定義

人間の行動規範や善悪の基準。

『現代文キーワード読解』1-1 ☑116
原書の解説

倫理は、道徳とほぼ同じ意味である。ただし、道徳が「人として生きていくための常識」にあたるような内容を扱うのに対し、倫理は「よい生き方とはどのようなものか」などの抽象的な内容を扱う傾向がある。

また、人工授精・臓器移植・脳死問題など、人間の生死に関わる新しい技術の利用が許されるかどうかをめぐる生命倫理(バイオエシックス)や、人間の自然に対する傲慢さが環境破壊を招いたとの反省に立ち、生態系に対して人間が負うべき義務は何かを問う環境倫理が話題をよんでいる。

使用の境界

人として守るべき筋道。法のように外から強制されるのではなく、内面から働く点が要点。

用法

「倫」は人と人のあいだを意味する字で、ここに倫理と道徳の差が現れる。道徳が個人の内面の善悪を問うのに対し、倫理は関係のなかでの筋道を問う。評論文で重要なのは、科学技術の発展が新しい倫理的問題を生んだという構図で、生命倫理(クローン・臓器移植・遺伝子操作)がその代表である。☑49 科学の中立性の議論と正面からつながり、科学者が結果の責任をどこまで負うかという問いになる。

用例
  • 徳は、習慣によって生じる。……我々は、正しいことを行うことによって正しい人になり、節度ある行いをすることによって節度ある人になる。アリストテレス『ニコマコス倫理学』第二巻(前四世紀)/訳は本教材
    順序が逆になっているところが要点である。正しい人だから正しいことをするのではない。正しいことをするから正しい人になる。ここに倫理という語の性格が現れている。内面の善し悪しが先にあるのではなく、関係のなかでの振る舞いが先にある。「倫」は人と人のあいだを意味する字だ。この字義が、そのまま定義になっている。注目したいのは、これが習得可能だと言っていることである。徳は生まれつきではなく習慣で身につく。1-4 の 83 で見た規範の内面化が、ここでは教育の可能性として語られている。
  • 私は、能力と判断の限りをつくして、患者に利益すると思う養生法をとり、悪しく有害と知る方法を決してとらない。ヒポクラテスの誓い(前五〜四世紀)/訳は本教材
    職業倫理のもっとも古い形である。注目したいのは「知る」という一語だ。有害だと知っている方法は使わない、と限定している。知らずに害をなすことまでは引き受けていない。ここに倫理の現実的な作りがある。無限の責任を負わせれば、誰も職業を続けられない。知りうる範囲で最善を尽くすという線の引き方が、二千数百年にわたってこの誓いを機能させてきた。そして評論文で重要になるのは、科学技術の発展がこの線を動かし続けていることだ。クローン、臓器移植、遺伝子操作。知りうる範囲が広がるほど、責任も広がる。
  • 道徳が個人の内面の善悪を問うのに対し、倫理は関係のなかでの筋道を問う。 「倫」は人と人のあいだを意味する字である。ここに二語の差が現れている。評論文で重要なのは、科学技術の発展が新しい倫理的問題を生んだという構図で、生命倫理がその代表になる。1-2 の 49 の科学の中立性と正面からつながり、科学者が結果の責任をどこまで負うかという問いになる。
  • ×心のなかで悪いと思ったので倫理に反する。 内面の善悪を問うなら「道徳」である。倫理は関係のなかでの筋道を問う。「他者との関係が入っているか」を見ればよい — 入っていなければ道徳、入っていれば倫理である。ただし日常では両者が混用されるので、評論文では字義に戻って読む。
原書の反意語・関連語

関 規範/モラル/道徳

派生形
  • 倫理的りんりてき[0]「倫理的な問題」は、正解が一つに決まらない問題を指すことが多い。技術的にも法的にも可能だが、それでよいのかが問われる場面である。
  • 倫理学りんりがく[0]何をなすべきかを問う哲学の一部門。1-4 の 83 で見たとおり、「べきである」の側を扱う。事実の記述からは出てこない領域である。
  • 生命倫理せいめいりんり[4]技術の進展とともに生まれ続けている分野。この語の項目が増え続けること自体が、1-2 の 41 で見たテクノロジーの止まらなさを映している。
コロケーション
  • 生命倫理技術が生んだ問いクローン、臓器移植、遺伝子操作、出生前診断。できるようになったからこそ生じた問いである。できなかった時代には、そもそも問いが立たなかった。1-2 の 41 で見たテクノロジーが、ここで倫理の側から問い返されている — 技術は答えを増やすと同時に、問いも増やす。
  • 職業倫理役割に伴う筋道医師、法律家、記者、研究者。その役割に就いた者にだけ課される筋道である。個人の道徳とは別に成り立つのが要点で、誰であるかではなく何をしているかが基準になる。1-4 の 78 の制度と同じ側にある考え方である。
  • 倫理と道徳関係か内面か「倫」は人と人のあいだ。この字義が二語を分ける。道徳は一人でも成り立つが、倫理には必ず相手がいる。そのため倫理は合意や手続きの問題になりやすく、道徳は信念の問題になりやすい
  • 倫理的判断正解の無い場所どちらを選んでも何かを損なう場面で求められる。1-1 の 33 で見たディレンマと同じ構造である。正解があるなら、それは計算であって判断ではない。正解が無いからこそ判断と呼ばれる — この事実が、倫理を規則の一覧に還元できない理由になっている。

書き言葉・会話の両方で使える。

類語と差
  • 道徳善悪についての内面の基準ほぼ同義で使われるが、道徳は個人の心、倫理は人と人の関係に重心がある。
  • 規範こうすべきという基準☑83。社会に共有された基準。倫理はその根拠となる筋道。
  • 国家が定めた強制的な規則違反に制裁が伴う。倫理は制裁を伴わない。
  • モラル道徳・倫理外来語。日常的で軽い。「モラルが低い」のように使う。

ENethics
ZH伦理(倫理, lúnlǐ)

117

無意識むいしき

むいしき[2]中高型

語構成
ない意識気づいているはたらき
定義

日常の行動や精神に影響を与えている心の深層。

『現代文キーワード読解』1-1 ☑117
原書の解説

無意識が発見されたのは十九世紀後半であり、それまではその存在を知られていなかった。

近代の哲学や思想では、個人は理性によって自分の行動をすべて統御できるとされていた。しかしフロイトは、言葉の言い間違いや夢を分析することによって、無意識が人間行動に大きな影響を与えていることを明らかにした。無意識を扱う精神分析の知見は、二十世紀以降の哲学や思想にもさまざまに取り入れられている。

使用の境界

意識されないまま心に働いている領域。気づいていないだけでなく、意識に上らないよう抑えられている点を含む。

用法

フロイトが確立した概念で、要点は単に気づいていないのではなく、意識に上らないよう抑えられていることにある。だから夢や言い間違いに形を変えて現れる。この発見が、理性的な自我が心の主人ではないことを示し、近代的な主体像を根底から揺るがした。ここが評論文での重心で、コペルニクス・ダーウィンと並ぶ人間中心主義への打撃として語られる。ユングはさらに、個人を超えて共有される集合的無意識を想定した。日常語の「無意識に」は〈うっかり〉に近く、この重みを持たない。

用例
  • 自我は、自分の家の主人ではない。ジークムント・フロイト『精神分析入門』(1917)/訳は本教材
    近代的な主体像を根底から揺るがした一句である。フロイトはこれを、コペルニクスとダーウィンに続く三度目の打撃と位置づけた。コペルニクスは地球を宇宙の中心から降ろし、ダーウィンは人間を生物の頂点から降ろした。そしてフロイトは、意識を心の中心から降ろした。注目したいのは「自分の家」という比喩だ。家は自分のものである。それでも主人ではない。所有と支配が一致しない — この居心地の悪さが、98 で見た自我の位置を決定的に変えてしまった。理性的に判断しているつもりの自分が、判断の理由を知らない
  • こんな夢を見た。腕組をして枕元に坐つてゐると、仰向に寝た女が、静かな声でもう死にますと云ふ。夏目漱石『夢十夜』第一夜(1908)
    『精神分析入門』の九年前に書かれた小説の書き出しである。説明がいっさい無い。なぜ女が死ぬのか、二人はどういう関係か、書かれないまま話が進む。それでも読める。夢が、そのように進むものだと読者が知っているからだ。ここに無意識という語の手ざわりがある。筋が通っていないのに、なぜか必然に感じられる。フロイトは夢を無意識へ通じる王道と呼んだ。抑えられていたものが、検閲をすり抜けて形を変えて現れる場所だからである。漱石がこの連作を「こんな夢を見た」で始めたのは、説明を放棄する許可をあらかじめ取ったということでもある。
  • 無意識とは、単に気づいていないのではなく、意識に上らないよう抑えられている領域を指す。 ここが日常語との決定的な差である。「無意識に足が動いた」はただ気づいていないだけで、注意を向ければ意識できる。フロイトの無意識は向けても意識できないだから夢や言い間違いに形を変えて現れる。ユングはさらに、個人を超えて共有される集合的無意識を想定した。
  • ×歩きながら考えごとをしていた。無意識の働きである。 ただ注意が向いていないだけなら「無自覚に」「なんとなく」で足りる。無意識は抑圧されて意識に上れない層を指す。「注意を向ければ思い出せるか」を問えばよい — 思い出せるなら、それは意識の縁にあっただけである。日常語の「無意識に」はこの重みを持たない。
派生形
  • 無意識的むいしきてき[0]「無意識のうちに」と同じく、日常では「気づかずに」の意で使われる。精神分析の文脈では抑圧の層に属するという重い意味になる。まず層を決めてから読む。
  • 潜在意識せんざいいしき[0]1-1 の 39 で見た潜在と同じ作り。厳密には無意識と区別される場合があるが、日本語では混用されることが多い。自己啓発の文脈で広まったため、学術語としてはやや使いにくい
  • 集合的無意識しゅうごうてきむいしき[0]ユングの語。個人史ではなく人類史に由来する層。検証が難しいため学問的な評価は分かれるが、文学・芸術の批評では広く用いられている。
コロケーション
  • 抑圧される意識に上れない理由忘れたのではなく、思い出せないようにされている。受け入れがたい欲望や記憶が、意識の外へ押しやられる。注目したいのは、押しやる働きも本人には見えないことだ。抑圧していること自体が抑圧されている。この二重性が、自分では解けない理由になっている。
  • 夢は無意識への王道フロイトの言い方眠っているあいだは検閲がゆるむ。だから抑えられていたものが形を変えて現れる。「形を変えて」が要点で、そのままでは出てこない。だから夢は解釈を必要とする — 1-3 の 66 で見たアレゴリーと同じ構造がここにある。直接語れないものが、別の話として語られる。
  • 言い間違い日常に現れる裂け目フロイトが重視したのは、ごくありふれた失敗だった。言い間違い、置き忘れ、度忘れ。偶然に見えるこれらに意味を読み取るところに精神分析の方法がある。1-2 の 51 で見た因果と相関の問題がここで顔を出す — 意味を読み取りすぎていないかという批判は、この方法につねに向けられてきた。
  • 集合的無意識ユングの拡張個人を超えて共有される無意識の層。神話や昔話に共通する型(元型)がその現れだとされる。フロイトの無意識が個人史から来るのに対し、こちらは人類史から来る。1-4 の 80 の神話、1-3 の 66 のアレゴリーと同じ場所に接している。

書き言葉・会話の両方で使える。

類語と差
  • 潜在意識表に現れていない意識☑39 潜在と同系。無意識のほうが精神分析の術語として厳密。
  • 抑圧意識から締め出す働き無意識をつくる機制。フロイトの中心概念。
  • 本能生得的な行動の傾向生物学の語。無意識は心の構造を指す。
  • うっかり気づかずに日常語。「無意識に」の日常用法はこちらに近い。

ENthe unconscious
ZH无意识(無意識, wúyìshí)

118

アンビヴァレンス

アンビヴァレンス[4]中高型

定義

同じものに対して、矛盾した感情を抱くこと。

『現代文キーワード読解』1-1 ☑118
原書の解説

愛と憎しみ、受容と拒絶など、同一の対象に相反する感情を同時に抱くことを、アンビヴァレンスと言う。もともとは精神分析の専門用語であったが、現在では広く用いられるようになった。

たとえば

恋人に対して愛と憎しみを同時に抱く、父親に対して尊敬と軽蔑を同時に抱く、などである。

使用の境界

同一の対象に対して、相反する感情を同時に抱くこと。時間差で入れ替わるのではなく、同時である点が要点。

用法

精神分析の語で、「両価性」と訳す。同じ相手に愛情と憎悪を同時に抱くのが典型で、親子関係や恋愛関係の分析で使われる。要点は同時性にあり、好きになったり嫌いになったりを繰り返すのは含まない。評論文では感情だけでなく、近代・技術・都市などに対する両義的な態度を述べる語としても使われる。この場合は☑71 両義と重なるが、両義が対象の構造を言うのに対し、アンビヴァレンスは受け手の感情を言う。

用例
  • 私は憎み、そして愛する。なぜそうなのかと問われても、私には分からない。ただそう感じ、そして苛まれている。カトゥルス『歌集』第八十五歌(前一世紀)/訳は本教材
    二千年前の、二行の詩である。アンビヴァレンスを述べた文として、これ以上短いものは無い。注目したいのは「なぜかと問われても分からない」と書かれていることだ。理由が言えない。ここが要点である。理由が言えるなら、それは二つの理由が競合しているだけで、検討すればどちらかに決まる。アンビヴァレンスは決まらない。同じ対象に、同時に、相反する感情が向いているからだ。1-3 の 71 で見た両義との違いもここにある — 両義は対象の構造、アンビヴァレンスは受け手の感情である。
  • ふらんすへ行きたしと思へども
    ふらんすはあまりに遠し
    せめては新しき背広をきて
    きままなる旅にいでてみん萩原朔太郎『純情小曲集』「旅上」(1925)
    行きたいと思うが、遠すぎる。ならばせめて新しい背広を着て、気ままな旅に出よう。憧れと諦めが同時に成り立っている。注目したいのは、どちらかを捨てていないことだ。諦めたなら憧れを語る必要はないし、本気で行くつもりなら「せめては」とは言わない。二つを抱えたまま、第三の行動が出てくる。アンビヴァレンスは、しばしばこのようにずれた形で表に出る。評論文では、感情だけでなく近代・技術・都市に対する両義的な態度を述べる語としても使われるが、そこでもこの「どちらも捨てない」構えが中身になっている。
  • 同じ相手に愛情と憎悪を同時に抱く。これがアンビヴァレンスである。 要点は同時性にある。好きになったり嫌いになったりを繰り返すのは含まない。精神分析の語で「両価性」と訳す。親子関係や恋愛関係の分析で使われ、矛盾ではなく心の通常の作りとして扱われる。
  • ×最初は好きだったが今は嫌いだ。アンビヴァレンスである。 時間差で入れ替わっているだけなら、それは心変わりである。アンビヴァレンスは同時でなければならない。「いま両方あるか」を問えばよい。1-3 の 71 の両義と同じで、同時性が条件になっている。
派生形
  • 両価性りょうかせい[0]精神分析での訳語。「価」の字が、意味ではなく評価の話だと示している。1-3 の 71 の両義性と一字違いで層が変わる。
  • アンビヴァレント形容詞形。日常語としても通じるようになった。「複雑な気持ち」をより正確に言い換える語として定着しつつある。
  • 両義りょうぎ[0]1-3 の 71 で扱った語。対象の側の構造を指す。アンビヴァレンスと重なる場面が多いので、どちら側の話かを毎回決めてから読むとよい。
コロケーション
  • 両価性訳語としての形二つの価(プラスとマイナス)が同時に働いていることを字面で示す。「両義」が意味の話であるのに対し、こちらは価値評価の話だ。好き嫌い、善悪、快不快。評価の軸の上で正反対の位置に同じ対象が置かれている。
  • アンビヴァレントな感情日常への降下外来語のまま形容詞として使われる。「複雑な気持ち」より構造がはっきりするのが利点である。複雑では何がどう複雑か分からないが、アンビヴァレントと言えば相反する二つが同時にあると特定できる。語彙が細かくなると、感情も細かく捉えられる — 1-3 の 58 で見たレトリックの創造機能である。
  • 近代へのアンビヴァレンス評論文の用法感情だけでなく、時代や技術や制度に対する態度にも使う。近代を批判しながら近代の産物である言葉で書く。都市を嫌いながら都市に住む。この居心地の悪さを正直に名指す語として、1-6・1-7 の議論で繰り返し現れる。
  • 両義とアンビヴァレンスどちら側にあるか両義は対象の構造、アンビヴァレンスは受け手の感情。1-3 の 71 と対にして読みたい。身体が主体でもあり物体でもあるのは両義、自分の身体を愛しつつ疎ましく思うのがアンビヴァレンスである。対象の側か、こちら側かで分ける。
硬・学術

論文・評論でのみ使う。会話では不自然。

類語と差
  • 両義対照的な二つの意味をもつ☑71。意味の構造。アンビヴァレンスは感情の状態。
  • 葛藤相反する気持ちが争う二つの気持ちが対立して苦しむ。アンビヴァレンスは同時に抱いていること自体を指す。
  • ディレンマ二つとも選べない☑33。選択の構造。感情の話ではない。
  • 愛憎愛と憎しみ日本語の言い換え。アンビヴァレンスの代表例だが、語としては限定的。

ENambivalence
ZH矛盾心理(相反する感情, máodùn xīnlǐ)

意識と無意識の層意識の下に抑圧された無意識の領域が広がり、夢や言い間違いとして現れることを示した図。 意識 気づいている領域 抑圧 無意識 意識に上らないよう抑えられている領域 コンプレックス・トラウマが沈んでいる 言い間違い 理性的な自我は、心の主人ではなかった
意識と無意識の層
Meta — 俯瞰

三十一語を上から見る

この章の語は、認識の層・存在の層・心の層に分かれて置かれている。対立の軸と、語の格を一枚ずつ図にしておく。

本章の対立の軸一覧本章に現れる対立語のペアと、それを分ける軸を並べた一覧図。 PAIR AXIS 主観 客観 認識する側か、される側か 現象 本質 現れか、その根拠か 主体 客体 働きかける側か、される側か 理性 感性 組み立てるか、受け取るか ア・プリオリ ア・ポステリオリ 経験に依存するか 評論文は対立で動く ── 軸が分かれば片方から他方が読める
本章に現れる対立と、それを分ける軸
格による31語の分布硬・学術、硬、中の三段階に本章の31語を振り分けた図。 硬・学術 10 心身二元論 唯物論 独我論 ロゴス 形而上 ア・プリオリ ア・ポステリオリ 弁証法 実存 アンビヴァレンス 7 認識 知覚 本質 カタルシス ペシミズム 客体 命題 14 哲学 主観 客観 現象 自我 アイデンティティ モラトリアム トラウマ コンプレックス 主体 理性 感性 倫理 無意識 語は意味ではなく格で選ぶ
格による三十一語の分布

硬・学術に属する語は、会話で使うと不自然に響く。中に属する語は両方で使える。この区別は意味の理解とは別の層にあり、書く段階で効いてくる。

Output

産出

やるなら ── 自分の関心領域から一つ選び、次のいずれかを一段落で書く。

  • 自分の関心領域で、ア・プリオリに前提されているものを一つ挙げる
  • 自分が主体として振る舞っている場面と、客体として扱われている場面を一つずつ書き出す
Blank

無意識が心の大半を占めているのなら、「自分で決めた」と言えるのは、どこからどこまでなのか。