原書の導入
現代社会とは何か
現代社会特有の問題
第6章「近代」で、入試に出題される文章の多くが「近代批判」をテーマとしていることに触れたが、「現代社会」についても基本的には同じことが言える。現代社会の枠組みは近代につくられており、近代社会の帰結として現代社会があるからだ。たとえば「近代合理主義」「資本主義」は、いまだに我々の社会の支配的な価値観や制度として機能している。
しかし一方で、「近代社会」にはなかった現代社会の特徴とよぶべきものもあり、消費社会・大衆社会・情報化社会などの言葉がそれに当たる。
そこで、入試に出題されやすいテーマに絞って、現代社会の輪郭を示す。
生産から消費の時代へ
現代社会の特徴として、まず挙げられるのは、現代は「消費社会」だということだ。ここで「消費社会」というのは、我々の価値観が「生産」よりも「消費」を優位としていることを指している。
例を挙げよう。戦後、一九六〇年代ぐらいまでの日本人にとっての消費とは、「皆と同じモノを買う」ことだった。「三種の神器(白黒テレビ・電気洗濯機・電気冷蔵庫)」や「3C(Color TV・Car・Cooler)」という言葉が象徴するように、当時の人々は、こうした製品を買い揃えることで「人並み」「中流」になることを求めていたのだ。
しかし七十年代後半〜八十年代に入ると、消費社会の風景はうって変わる。豊かさの象徴である「三種の神器」「3C」が一通り行き渡った先に、人々が求めたのは、「他人とは違う自分」が表現できるモノやアイテムだった。
消費によって「他人とは違う自分」を表現する、とはどのようなことか。腕時計を買う場合で考えてみよう。いまや我々は、単に「安い」「正確」というだけで腕時計を選ばない。むしろ腕時計のデザインを吟味して、どれが「自分の趣味・センスに合っているか」と考えるはずだ。
つまり我々は、「時間を指し示す装置」としてだけでなく、「自分を個性的にしてくれるアイテム」として腕時計を買っているのだ。この時モノは、消費する人間の趣味や嗜好を表す記号として作用している。
こうした状況を、肯定的・否定的のどちらにとらえるかは論者によって意見が割れるが、入試では、消費と個性やアイデンティティとを関連づける文章が出題されることを頭に入れておこう。
情報の時代
消費社会と並んで現代社会を特徴づけるのが、「情報化社会」という言葉だ。この言葉は、もともと「工業化社会」「産業化社会」という言葉との対比で登場してきた。
工業化社会とは、いわば「モノ重視」の社会のことであり、大量生産・大量消費によって経済の成長を目指す社会のこと。他方、情報化社会は、モノ以上に情報の価値が重視される社会のことを言う。
情報重視の社会では、情報を所有する集団、すなわちマス・メディアが大きな権力をもってきたが、インターネットの普及により、誰もが不特定多数の人に向けて情報を発信することができるようになった。
入試でも、インターネット時代の「情報」を論じる問題文が見られる。
民主主義の形骸化
消費社会や情報化社会は、現代の文化や経済に関わる特徴だが、政治をテーマにした文章では「大衆社会」という言葉もよく登場する。これは民主主義の形骸化を指摘した言葉だ。
民主主義は、選挙などを通じて我々の手によって政治を運営する仕組みであり、近代の輝かしい遺産だとされている。
しかし、この民主主義は、実際は危うい側面をもっている。選挙によって決定された我々の代表が政治を行うが、その時、「間違った代表」を選んでしまったらどうなるだろうか。あのヒトラーさえも、民主的な手続きによって生み出された。皆で間違った方向へ進んでしまう時に、ブレーキをかけることができるのだろうか。
民主主義とは本来、国民同士の対話や討論を重ねることで、よりよい政治を実現していくことを目的としている。
しかし現代社会の個人は、政治的な関心が希薄になり、メディアの情報や周囲の人の考え方に流されやすいという側面をもつ。このような画一的で受動的な人々を「大衆」という言葉で批判することがあるが、そうした大衆からなる大衆社会のもとでは、民主主義も機能不全を起こしかねない。
民主主義は確かにすばらしい政治システムだが、それを支える我々一人一人が、不断の努力を重ねることによって、その形骸化を防がなければならないだろう。
Section 08
グローバル化(グローバリゼーション)
148★★
グローバル化(グローバリゼーション)
グローバルか[0]グローバルか平板型
定義
物事が世界的・地球的になっていく動き。
『現代文キーワード読解』1-1 ☑148
原書の解説
国際化という傾向はあくまで「国家」を中心としているが、グローバル化は国家や国境に関係なく、物事が地球的規模で展開することを言う。
ヒト・モノ・カネ・情報などが国境に関係なく(ボーダーレスに)行き交う現代では、グローバル化はますます進展していくことが予想される。
問題点としては、グローバル化によって力の論理がむき出しになり、弱い文化を押しつぶすような標準化が進み、弱肉強食の世界になってしまうことなどが挙げられる。
なお、グローバル化を推進すべきだという考えを「グローバリズム」と言う。このキーワードと合わせて覚えておこう。
コラム
国際化社会は、インターナショナルという言葉からわかるように、国家と国家にまたがった社会のことを指す。国境の役割は大きく、国際連合の加盟国同士であっても、ヒトやモノが国境を通過する場合は監視の対象とされる。
これに対してグローバル社会は、〈地球規模の社会〉という意味である。
自由貿易・市場主義経済に支えられた多国籍企業が、国境に支配されずに自由な経済活動をする、という状況をイメージするとよいだろう。
使用の境界人・物・資本・情報が国境を越えて動き、世界が一体化していくこと。単なる国際化とは前提が違う。
用法「国際化」との違いが最初の関門になる。国際化は国家という単位を前提にした交流だが、グローバル化は国境そのものを無効にしていく動きである。だから☑125 国民国家の枠組みが揺らぐ。評論文では両義的に扱われ、①文化の均質化(どこも同じ風景になる)と、②地域の再発見(ローカルへの回帰)が同時に起こる点が論じられる。反グローバリズムは、経済的な格差の拡大と文化の画一化への抵抗として現れる。
用例
-
ブルジョアジーは、世界市場の開拓を通じて、あらゆる国の生産と消費を世界的なものに作りかえた。……古い、地方的・民族的な自足と閉鎖のかわりに、諸国民のあらゆる方面にわたる交通と、たがいの依存が現れる。カール・マルクス、フリードリヒ・エンゲルス『共産党宣言』(1848)/訳は本教材
グローバル化という語が生まれる百五十年前に、その中身が書かれていた一節である。ここから読み取るべきは二つある。第一に、これは資本主義への賛辞として書かれていることだ。マルクスは同じ段落でブルジョアジーの成し遂げた変革を驚嘆すべきものとして描く。批判とは、まず対象の力を正確に測ることから始まる。第二に、「たがいの依存」という一語である。依存は豊かさの条件であると同時に、危機の伝染路でもある。一国の金融が崩れると世界が揺れるのは、切り離せなくなったことの代償だ。1-6 の 125 で見た国民国家の器が、この一文の時点ですでに漏れはじめている。
-
国民文学というものは、いまやあまり意味をもたない言葉だ。世界文学の時代が近づいている。誰もがこの時代を早めるよう努めねばならない。ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ ─ エッカーマン『ゲーテとの対話』(1827)/訳は本教材
グローバル化を、経済ではなく文化の側から予告した言葉である。注目したいのは、この発言がナショナリズムの最盛期に出ていることだ。当時のドイツは国民文学を作ることに国を挙げて取り組んでいた。その渦中で、その運動の中心人物が「もう意味がない」と言う。さらに「努めねばならない」という要請の形にも注意したい。ゲーテにとって世界文学は放っておけば来る未来ではなく、意志して作るものだった。現代のグローバル化が市場によって自動的に進むものとして語られがちなことと比べると、この差は大きい。
- グローバル化は世界を均質にすると同時に、地域の固有性への関心を強めもする。
両方向を同時に書くのがこの語の作法である。どこでも同じ店が並ぶ一方で、「その土地らしさ」がかつてなく求められる。後者は前者への抵抗に見えるが、しばしば観光資源として商品化される — 1-6 の 140 で見た回収の循環である。
- ×社内公用語を英語にして、我が社もグローバル化した。
通じるが、「国際化」「海外展開」の意味で使っている。148 は資本・情報・人が国境の制約を弱めて動くようになり、世界が一つの単位として結びついていく過程を指す語で、一つの組織が達成できるものではない。国際化は国と国、グローバル化は国を越えると押さえておくとよい。
派生形
- グローバル[1]globe(球)から来た語。「地球全体を一つとして見る」という含みがある。「インターナショナル」が国と国のあいだを指すのに対し、グローバルは国という単位を前提としない。この差が148 と「国際化」の差そのものである。
- グローバリズム[5]過程ではなく主張。国境を越えた市場の統合を推し進めるべきだとする立場。「化」が現象、「主義」が政策という区別は、1-6 の 120 の世俗化/世俗主義と同じ形である。
- グローバリゼーション[7]原語のままの形。「グローバル化」と同義だが、やや学術寄りの響きになる。訳語を使うか原語を使うかで文章の身分が変わるのは、1-6 の 133 で見た物神崇拝/フェティシズムと同じ現象である。
コロケーション
- グローバル・スタンダード普遍を装う語世界共通の基準とされるもの。この語を疑う目が要るのは、「世界の」と呼ばれる基準がたいてい特定の国の慣行だからである。1-1 の 1 と 2 で見た普遍と特殊の関係が、ここでは経済の力関係として現れる。強い者の特殊が普遍の名を得るという構図を見抜けるかどうかが分かれ目だ。
- ローカル化対にして使う語世界規模の商品や制度が、その土地に合わせて姿を変えること。この語が要るのは、グローバル化が一方通行ではないからだ。同じ企業の店が国ごとに違う品を出すのは、均質化が完全には貫徹しないことの証拠である。両者を合わせて「グローカル化」と呼ぶこともある。
- 国境を越える主語を選ぶ語この言い方で注意したいのは、越えられるものと越えられないものがあることだ。資本と情報は瞬時に越える。人は越えられない — ビザが要り、壁があり、審査がある。この非対称こそが現代の不均衡の中心であり、「グローバル化した世界」という言い方が隠しているものである。
- 反グローバリズム抵抗の名グローバル化に抗する運動の総称。押さえておきたいのは、この運動自身がグローバルに連帯していることだ。各国の活動家が同じ日に同じ主張を掲げられるのは、グローバル化が用意した通信網のおかげである。批判する側も同じ条件の産物である — 1-6 の 136 と同じ構図がここでも成り立つ。
類語と差
- 国際化国と国の交流が増える国家という単位を前提にする。グローバル化は国境を無効にしていく点が違う。
- 画一化すべてが同じ形になる結果の一つ。グローバル化は多様化も同時に起こす。
- ローカル地域に根ざしたもの対概念。両者が同時に強まる現象をグローカル化と呼ぶ。
- 植民地主義武力で他地域を支配する先行する形。グローバル化は経済的な浸透という形をとる。
ENglobalisation
ZH全球化(グローバル化, quánqiúhuà)
国際化とグローバル化 ── 前提が違う
入試文
「国際化」を英語でいえば、internationalizationということになろう。internationalとはnationとnationをつなぐ(=inter)という意味である。
「国際化」にはもともと違っているものを同質化するという含みがあるものとなるものを「つなぐ」というのがinterという接頭辞である。
日本、アメリカ、韓国、中国、これらの国々には似た面もあれば異なる面もある。すべての面で同じであれば国と国をつなぐ必要は生じない、違った面があるから国と国をつなぐ、すなわち国際化する必要が生じるわけである。
「国際化」に対して、グローバル化にはもともと違っているものを同質化するという含みがある。ボーダレス化する、国境をなくすとは、国と国を分け隔てる障害を取り除き人や物の往来を自由にするということを通り越して、当の異質性を消去する、そうしたニュアンスがグローバル化という言葉には含まれているのである。
出典 間宮陽介『グローバリゼーションと公共空間の創設』 / 出題 新潟大学・人文学部
読解のポイント- 国際化 =異質な面がある国同士をつなぐ ↔ グローバル化 =もともと違っているものを同質化する
要約国際化は、がんらい異質な国同士をつなぐという意味をもつのに対して、グローバル化には異質性を消去するというニュアンスがある。
語法の観察肯定面と否定面を交互に置き、どちらにも決めない。両義性そのものを結論にする型。
Section 14
マジョリティー/マイノリティー
154★★
マジョリティー
マジョリティー[3]マジョリティー中高型
定義
多数。過半数。
『現代文キーワード読解』1-1 ☑154
使用の境界多数を占める側。数の多さだけでなく、自分たちのあり方が標準とみなされている状態を含む。
用法要点は、マジョリティーであることが自覚されにくい点にある。自分たちのあり方が「普通」だとみなされているため、それが一つの立場であることに気づかない。この構図は☑75 自文化中心主義とまったく同じである。したがって評論文では、マジョリティーの側が自らの位置を問うことが求められる。数の問題ではなく力の問題であることも要点で、少数でも権力を握れば標準を決められる。
用例
-
多数者が絶対的な力を握るとき、私が見るのは暴政の萌芽である。……アメリカでは、多数が思想のまわりに恐るべき囲いを巡らしている。その境界の内では、書き手は自由である。しかしそこを越えれば、災いが待つ。アレクシ・ド・トクヴィル『アメリカのデモクラシー』第一巻(1835)/訳は本教材
多数派の力が法ではなく空気として働くことを見抜いた一節である。「囲い」という比喩が的確なのは、囲いの内側にいる限り不自由を感じないからだ。検閲なら禁じられたことが分かる。囲いは見えないまま思考の範囲を決める。さらにトクヴィルは、これが専制君主よりたちが悪いと続ける — 君主は身体を縛るが、多数派は魂を放っておかない。「みんなが言っている」という圧力に訴える先が無いのは、訴えるべき相手が自分もその一員である多数派だからである。
-
衆これを悪むも必ず察し、衆これを好むも必ず察す。『論語』衛霊公篇
多数派の判断を無条件には信じるなという古い戒めである。この句の構造で注目したいのは、「悪む」と「好む」の両方に同じ処方を出していることだ。普通、多数派への警戒は誰かが叩かれている場面で発動する。孔子はそこに留まらない — みんなが褒めているときこそ確かめよと言う。こちらのほうが難しい。叩かれている者を庇うのは勇気の問題だが、褒められている者を疑うのは不作法に見えるからだ。「必ず察す」の「察」は自分の目で確かめるの意。154 を扱う文章を読むときは、多数派が否定に回っているか肯定に回っているかで警戒を緩めないようにしたい。
- マジョリティーの特権とは、自分がマジョリティーであることを意識しないでいられることである。
この定義が現代の議論の中心にある。多数派は自分の属性を説明する必要がない。標準として扱われるからだ。「普通」と呼ばれることこそが特権の中身であり、1-1 の 1 で見た普遍を名乗る特殊の社会的な形である。
- ×会議ではマジョリティーが八票を集めて可決した。
数のことを言うなら「多数」「過半数」である。154 は社会のなかで標準として扱われ、規範を決める側にいる集団を指す語で、単なる票数ではない。数が少なくてもマジョリティーでありうることに注意したい — 決めるのは数ではなく規範を握っているかどうかである。
派生形
- 多数派[0]日本語の訳語。数を前面に出すぶん、規範を握っているという含みが薄い。カタカナの「マジョリティー」が選ばれるのは、数以上のものを言いたいときである。
- マジョリティー[3]「マジョリティ」とも書く。長音の有無は表記の揺れで、意味は同じ。評論文ではどちらかに統一するのが原則。本教材は原書に合わせて長音を入れている。
- 主流[0]川の比喩から来た語。数ではなく勢いと正統性を指すのが特徴で、「主流派」「非主流派」のように使う。マジョリティーが「標準である」ことを、主流は「中心にいる」ことを指している。
コロケーション
- 多数者の暴政民主主義の内部の敵多数決の手続きを正しく踏んだうえで少数者の権利が奪われること。この語が重いのは、手続きの違反がない点だ。だから手続きの改善では防げない。多数決で決めてはいけない事柄をあらかじめ定めておくほかなく、それが憲法の人権規定である。1-6 の 127 で見た「次がある」ことの担保と一対をなす。
- 沈黙の螺旋数が数を呼ぶ語少数意見の側が孤立を恐れて黙り、その結果さらに少数に見えるという循環。「螺旋」という語が的確なのは、回るたびに差が広がるからだ。実際の分布と見えている分布がずれていく — 143 の情報社会ではこの螺旋がかつてなく速く回る。
- マジョリティーの無自覚見えないことが条件自分が基準になっていることに気づかない状態。この語が批判ではなく構造の記述として使われることに注意したい。意識しないでいられるのは悪意ではなく位置の効果だ。1-5 の 89 で見た離見の見が要求されるのは、まさにこの場面である。
- マジョリティーの中の少数重なりを見る語一つの軸では多数派、別の軸では少数派という重なり。この視点が要るのは、人は一つの属性でできていないからだ。多数派の男性が別の場面では少数派でありうる。敵と味方を固定して描く議論の解像度を上げるための語である。
類語と差
- マイノリティー少数を占める側☑155。対語。
- 多数派多数を占める側訳語。数の話に限られる。マジョリティーは標準とされる位置を含む。
- 主流中心となっている流れ傾向の話。マジョリティーは人の集団を指す。
- 特権有利な立場マジョリティーが自覚しにくい形でもつもの。批判の焦点。
ENmajority
ZH多数派(多数派, duōshùpài)
155★★
マイノリティー
マイノリティー[3]マイノリティー中高型
定義
少数。少数派。
『現代文キーワード読解』1-1 ☑155
使用の境界少数を占める側。標準から外れたものとして扱われ、不利益を受けている状態を含む。
用法数の少なさではなく力関係と扱われ方が要点になる。だから人口の半数を占める女性が社会的マイノリティーとされることもある。評論文では、マイノリティーの側から見ることで標準そのものが問い直されるという構図が定型である。☑150 多様性・☑157 ジェンダーと組み合わせて出ることが多い。「配慮する」という言い方には、標準の側が施すという上下関係が残るため、近年は避けられる傾向にある。
用例
-
社会が自ら暴君となるとき、その圧制の手段は官憲の手を借りるものに限られない。……それは、社会の内部により深く入り込み、魂そのものを奴隷にする。ジョン・スチュアート・ミル『自由論』第一章(1859)/訳は本教材
少数者を押し潰すものの正体を言い当てた一節である。要点は「官憲の手を借りない」ところだ。法で禁じられていないのに言えない、着られない、名乗れない。これは誰の命令でもないから、撤回を求める相手がいない。ミルはこれを政治的抑圧より恐るべきものと呼んだ。政治的抑圧には抗議の宛先があるが、社会的圧制には無いからだ。1-4 の 83 で見た世間が、マイノリティーにとってどう働くかがここに書かれている。154 のトクヴィルの「囲い」と同じ事態を外側から見た記述である。
-
愛する私たちの先祖が起伏す日常の言語で残しておいた多くの美しい言葉、それらの一つでも二つでも、生きている中に書き残しておきたい。知里幸恵『アイヌ神謡集』序(1923)
マイノリティーの語りがどんな条件のもとで成立するかを示す一節である。注目したいのは「生きている中に」という一句だ。十九歳で世を去ることになる書き手が、時間が足りないことを知りながら書いている。そして「一つでも二つでも」。全部を残せるとは最初から思っていない。この諦めと断念しなさの同居が、少数者の記録のほとんどに共通する。さらに重いのは、この序文が日本語で書かれていることである — 残すために、奪った側の言葉を使うほかなかった。155 を論じる文章が「語る場が誰の言葉でできているか」を問い続けるのは、この事情による。
- マイノリティーとは、数が少ない集団ではなく、規範を決める側にいない集団である。
数と権力を切り離すのがこの語の使い方の要点である。南アフリカのアパルトヘイト下では人口の多数派がマイノリティーだった。この一例を押さえておくと、「少数だから」という説明がいかに粗いかが分かる。
- ×この趣味はマイノリティーなので、話が合う人が少ない。
少数であることと不利な位置にあることを混ぜている。珍しい趣味を言うなら「少数派」「ニッチな」である。155 はその属性ゆえに不利益を被る位置を指す語で、珍しさの度合いではない。不利益が伴うかどうかが判断の分かれ目になる。
派生形
- 少数派[0]数だけを指す訳語。評論文でカタカナが選ばれるのは、この語だと数の問題に見えてしまうからだ。訳語を避けることで意味を守っている珍しい例である。
- マイノリティ[3]長音を落とした表記。学術書ではこの形も多い。表記の揺れは意味に影響しないが、一つの文章のなかでは統一するのが原則である。
- 弱者[1]混同されやすいが別の語。弱者は力が弱いという性質の記述で、同情の対象という含みが付く。マイノリティーは位置の記述であって、弱いとは言っていない。「弱者」と呼び替えた瞬間に議論が権利から保護へずれることに注意したい。
コロケーション
- 社会的マイノリティー数を外す語あえて「社会的」と冠するのは、数の話ではないと明示するためである。この修飾がないと、「少数だから仕方ない」という多数決の論理に引き戻されてしまう。語に一語足すことで議論の土俵を守っている例として、書き方の参考になる。
- 声を上げる主体化を言う語この慣用句が155 の文脈で重いのは、声を上げること自体に費用がかかるからだ。名乗れば不利益を被る。不利益を被る位置にいる者ほど声を上げにくいという循環がある。「声が上がっていない」ことは「問題がない」ことを意味しない。
- 当事者性誰が語れるかを問う語その問題を身をもって生きていることから来る資格。この語が難しいのは、重んじすぎると当事者以外は黙るべきだという結論になり、軽んじすぎると当事者不在で議論が進むからだ。どちらの極も少数者を孤立させる点で同じ結果を生む。
- マイノリティーの可視化見えるようにする語存在しているのに数えられていない状態から抜け出すこと。この語が示すのは、統計に項目がないことが不在と同義になるという現代に固有の事情だ。143 の情報社会ではデータに現れないものは存在しないものとして扱われる。
類語と差
- マジョリティー多数を占める側☑154。対語。
- 少数派少数を占める側訳語。数の話に限られる。
- 弱者力の弱い立場の人力関係を言う。マイノリティーは標準からの外れという位置を指す。
- エスニシティ集団への帰属意識☑85。マイノリティーが依拠する帰属の一つ。
ENminority
ZH少数派(少数派, shǎoshùpài)
解説 ── マジョリティー・マイノリティー
マジョリティーとマイノリティーがとくに問題となるのは、人種差別などで少数民族が差別や抑圧を受ける場合、つまりマイノリティーが単なる少数派ではなく、弱者の場合である。
現代では、いかに社会の中でマイノリティーの存在を尊重するかが課題となる。
また、政治における多数決などの場合にも、少数派の意見をどのように社会に反映させるかが重要な問題となる。
なお、黒人は人口的には少数者とは言えないが、人種差別を受けやすい社会的弱者であるため、マイノリティーとして扱う場合もある。
近年の日本では、同性愛者・障害者・在日外国人なども社会的弱者とされている。
対立の軸
マジョリティー/マイノリティー の軸 = 標準を決める側か、外れる側か
マジョリティー多数を占め、そのあり方が標準とみなされる側。
標準を決める側か、外れる側か
マイノリティー少数を占め、標準から外れたものとして扱われる側。
標準を決める位置
Section 18
自己決定/自己責任
159★
自己決定
じこけってい[0]じこけってい平板型
定義
自分の問題について、権力や社会の圧力を受けずに自分自身が決定すること。
『現代文キーワード読解』1-1 ☑159
使用の境界自分に関わることを自分で決めること。決める条件が整っていることを前提とする。
用法医療・生殖・終末期の場面で中心となる概念で、患者が自分の治療を自分で決める権利を指す。要点は、決めるための条件が必要なことにある。十分な情報がなく、選択肢もなく、断れない立場に置かれていれば、形の上で選んでも自己決定とは言えない。評論文ではこの点が問われ、☑160 自己責任と安易に結びつけることへの批判につながる。☑36 自律との違いは、自律が規範の出どころを言うのに対し、自己決定は個別の選択を指す点にある。
用例
-
文明社会のどの成員に対してであれ、その意志に反して権力を行使しても正当だとされる唯一の目的は、他人への危害を防ぐことである。……本人自身の幸福は、十分な正当化の理由にはならない。ジョン・スチュアート・ミル『自由論』第一章(1859)/訳は本教材
自己決定という原則の古典的な定式である。効いているのは後半の一文だ。前半だけなら「他人に迷惑をかけるな」という穏当な常識にすぎない。後半はその人のためを思っての干渉すら退ける。これは厳しい主張である — 本人が損をすると分かっていても、止めてはならない。ミルがここまで踏み込んだのは、「あなたのため」という理由を認めると、干渉に限界がなくなるからだ。何が幸福かを決める権限が本人から離れた瞬間に、自己決定は消える。原則は極端でなければ原則として働かないという見本でもある。
-
意志の自律とは、意志がみずからにとって法則であるという意志の性質である。イマヌエル・カント『人倫の形而上学の基礎づけ』第二章(1785)/訳は本教材
自己決定を、好き勝手と区別するための定義である。要点は「みずからにとって法則」という矛盾めいた言い方だ。自律とは規則が無いことではない。自分で立てた規則に自分が従うことである。ここでカントは二つの自由を分けている — 気まぐれに動く自由と、自分の決めた筋を通す自由。前者は欲求に従っているだけで、カントに言わせれば他律にすぎない。159 の議論が「本当に自分で決めたのか」を執拗に問うのは、この区別があるからだ。広告に動かされた選択は、選択の形をしていても自律ではない。
- 自己決定が成り立つには、選ぶ力だけでなく、選べるだけの選択肢と情報がそろっていなければならない。
条件の側を書くのがこの語の要点である。選択肢が一つしかないとき、選んだという形式は残っても中身は無い。143 で見た情報の非対称もここに効く — 知らされていない選択は自己決定ではない。
- ×自分で店を決めたので、今日の昼食は自己決定だ。
語の重さが場面に合っていない。日常の選択なら「自分で決めた」で足りる。159 は医療・生き方・身体のように、本人以外が口を出しうる領域で本人の意思を優先させるべきだという原則を指す語である。誰も干渉しない事柄にこの語は要らない。
派生形
- 自律[0]自分で立てた規則に従うこと。「自立」と書き分ける。自立は他に頼らないこと(経済的自立)、自律は自分で自分を律すること。自立していても自律していないことはありうる。
- 他律[0]自律の対。外からの規則や欲求に動かされている状態。カントの用法では欲望に従うことも他律で、これが日常語の感覚と大きくずれる。「やりたいようにやる」は自律ではない。
- 自己決定権[0]法と生命倫理の語彙。終末期医療、妊娠の継続、身体の処分をめぐって争点になる。どこまでを「自分のこと」と認めるかで結論が変わるため、境界の設定そのものが論点になる。
コロケーション
- インフォームド・コンセント医療での形十分な説明を受けたうえでの同意。この語が示すのは、同意だけでは足りないことだ。説明が同意の前提として制度化されている。159 の抽象的な原則が手続きの形をとった好例で、理念は手続きにならないと働かないことを教えてくれる。
- パターナリズム対立する語本人のためを思って本人の意思に反して介入すること。「父権主義」と訳す。この語が難しいのは、全面的には否定できない点だ。子どもや判断能力を欠く場面では介入が必要になる。どこに線を引くかという問いだけが残り、これに一般解は無い。
- 自己決定権権利として立てる語「権」を付けると他者に対して主張できるものになる。重要なのは、権利は対応する義務を生むことだ。自己決定権を認めるとは、他者が「そんな選択はやめろ」と言えなくなるということである。認めることの不快さまで含めて引き受けるのが、この語の重みだ。
- 自己決定の条件前提を問う語誰でも同じように決められるわけではないという指摘。貧困、依存、暴力のもとでの選択は形式としては自由でも実質としては強制でありうる。自己決定を無条件に称揚すると、追い詰められた選択まで本人の意思として扱われてしまう — 160 へは、この一歩でつながる。
類語と差
- 自律自分の考えに従って判断する☑36。自律は規範の出どころ、自己決定は個別の選択。
- 自由束縛がないこと状態。自己決定は決める行為そのもの。
- インフォームド・コンセント説明を受けた上での同意医療の場面。自己決定を成り立たせる手続き。
- 自己責任結果を自分で引き受けること☑160。表裏の関係にあるが、結びつけ方が争点になる。
ENself-determination
ZH自我决定(自己決定, zìwǒ juédìng)
160★
自己責任⚠
じこせきにん[0]じこせきにん平板型
定義
自分の言動の結果について、他人や社会ではなく、自分自身が責任を負うこと。
『現代文キーワード読解』1-1 ☑160
使用の境界自分の選択の結果を自分で引き受けること。転じて、社会の側の責任を個人に転嫁する論法を指す。
用法評論文ではほぼ批判的に扱われる。批判の型は決まっていて、①自己決定(☑159)の条件が整っていないのに責任だけを負わせる、②本来は社会が担うべきリスク(☑147)を個人に転嫁する、というものである。貧困・失業・災害の被害に対して使われると、構造的な原因が見えなくなる。日本では二〇〇四年以降この語が急速に広まり、社会的な文脈をもつ語になった。中国語に対応する定型句はない。
用例
-
この教説によって、各人は前代未聞の内面的孤独の感情のうちを歩まねばならなかった。……誰も彼を助けることはできなかった。説教者も、秘蹟も、教会も、神さえも。マックス・ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(1905)/訳は本教材
自己責任という感覚の起源を宗教のなかに見出した一節である。ウェーバーが論じているのは予定説 — 誰が救われるかはあらかじめ決まっており、何をしても変えられないという教えだ。この教えのもとではとりなしてくれる相手がいない。注目したいのは、この孤独が怠惰ではなく猛烈な勤勉を生んだことである。救いを確かめる術がないなら、成功をその印として読むほかない。成功は救いの証拠、失敗は選ばれていないことの証拠 — この構図が世俗化して残ったものが、現代の自己責任論の骨格である。神を抜いても構図は残った。
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君子は諸を己に求め、小人は諸を人に求む。『論語』衛霊公篇
自己責任と似て非なるものを見分けるために引いておきたい句である。一見すると「人のせいにするな」という自己責任論そのものに見える。だが決定的な違いがある — これは自分に向けた言葉であって、他人に向けた言葉ではない。孔子は「小人は人のせいにする」と観察を述べているだけで、「だから助けるな」とは言っていない。現代の自己責任論が倫理として危ういのは、この一人称の教えを二人称・三人称で使うからだ。自分に求めるのは徳だが、他人に求めれば見捨てる口実になる。同じ内容の命題が、主語を変えるだけで徳から冷酷へ反転する — 160 を読むときの最も重要な着眼点である。
- 自己責任という語が力を持つのは、社会の側が引き受けていた不確かさを、個人の選択の失敗として書き換えられるからである。
語の機能を書くのがこの語の扱い方である。正しいか間違っているかではなく、何ができるようになるかを見る。147 で見たリスクの個人化が、言葉の上で完成した形がこの語である。
- ×災害で家を失ったのは危険な土地に住んだ自己責任だ。
語の適用範囲を踏み越えている。自己責任が意味を持つのは159 の自己決定が実質的に成立していた場合に限られる。住む土地を収入と職と家族の事情のなかで選ばされたのなら、それは選択ではない。自己責任を問うにはまず自己決定の条件が整っていたことを示さねばならない — この順序を飛ばした議論が最も多い誤用である。
派生形
- 責任[0]三つの層がある。①因果的責任(引き起こした)、②道義的責任(非難されうる)、③役割責任(担当している)。自己責任論はしばしば①を示さずに②を課す。どの層の話かを分けて読むだけで、議論の粗さが見える。
- 自己責任[3]もとは金融・投資の用語。説明を受けたうえで自分の判断で投資した以上、損失は自分で負うという限定された文脈で使われていた。その限定が外れて人生全般に広げられたところに、この語の問題がある。
- 自業自得[4]仏教語。自分の行い(業)の報いを自分が受けること。もとは善悪どちらにも使えたが、現代ではほぼ非難の語になった。自己責任が制度の言葉であるのに対し、こちらは突き放すための言葉である。
コロケーション
- 自己責任論主張として名指す語「論」を付けることで一つの立場として対象化する語法。この一字があると、批判の的にできるようになる。「自己責任だ」と言われれば議論は終わるが、「それは自己責任論だ」と言い返せば議論は続く。語に「論」を足して相手の主張を一つの立場に格下げするのは、評論文の重要な技術である。
- 結果責任射程を限る語結果に対してのみ責任を負うこと。自己責任と混ぜられやすいが、誰がその結果を引き起こしたかを問う点で違う。自分が引き起こしていない結果まで引き受けさせるのが自己責任論の飛躍であり、この語を並べるとその飛躍が見えやすくなる。
- 社会的排除反対側から見る語個人の努力ではどうにもならない仕方で参加の機会から締め出されること。この語が要るのは、自己責任論が見えなくする側を名指すためだ。同じ事態を、本人の落ち度と読むか締め出しと読むかで、処方箋が正反対になる。
- 自助・共助・公助順序が争点になる語助けの三つの層を並べた言い方。並べる順序に主張が入っていることに注意したい。自助を先に置けば公助は最後の手段になり、公助を先に置けば権利として先に立つ。三語の内容は同じでも、並べ方が政策になる — 1-3 で見た語の配置が意味を作るという原理の、最も実際的な例である。
類語と差
- 自己決定自分で決めること☑159。表裏の関係。決めていないものに責任は生じないはずである。
- 責任負うべきつとめ一般語。自己責任は個人に限定する点に重心がある。
- リスク計算された損失の可能性☑147。リスクの負担を個人に移す論法として働く。
- 新自由主義市場に委ね国家の役割を縮める立場自己責任論を支える思想的背景。
ENself-responsibility
ZH自己负责(自分で責任を負う, zìjǐ fùzé)
日中のズレ
中国語には日本語の「自己責任」に相当する定型句がない。文脈に応じて 自己负责・个人责任 などと訳す。
日本語の「自己責任」は二〇〇四年以降に社会的な批判語として定着した、比較的新しい用法である。
解説 ── 自己決定・自己責任
自己決定の権利は、〈個人は他者に迷惑をかけない限り、何をしても自由である〉というリベラリズムの考え方による。
たとえば今日、私たちは進学や就職を自分で選ぶのは当然だと考えている。親の職業を子どもが継ぐのが当然とされていた時代もあった。
それと同様に医療現場でも、患者の健康・生命を決定できるのは患者自身であり、治療法から尊厳死・安楽死の選択まで、患者の自己決定は正当化されるべきだ、という考え方が主流になっている。
さらに、自分の選んだことなのだから、自分で責任を取るのが当然だという自己決定に連動した自己責任論も多く出されている。
ただし、時代や国籍・性別、生まれ育った環境など、本人の意思ではどうにもならない要素がからみ合っている場合には、純粋な「自己決定」に拠る「自己責任」とは言えないだろう。
また、「自己決定・自己責任」のどちらにせよ、〈自己〉について考えなければならない。
患者の周りには家族や医師がいるように、私たちの世界は人間関係で成り立っている。そうした関係性に気づかず、「自分の決定」と自分の責任範囲を決め込むことには異論が出されている。
対立の軸
自己決定/自己責任 の軸 = 決めることか、引き受けることか
自己決定自分に関わることを自分で決めること。
決めることか、引き受けることか
自己責任自分の選択の結果を自分で引き受けること。
条件が欠けたまま、責任だけを負わせる