Chapter 1-7

現代げんだい社会しゃかい

[ 原げん書しょ 第だい1部いちぶ 第だい7章ななしょう 現代げんだい社会しゃかい ]

語ご数すう 20 / 節せつ 18 / 1節いっせつ 約やく10〜15分ぶん

原げん書しょの導入どうにゅう

現代げんだい社会しゃかいとは何なにか

現代げんだい社会しゃかい特有とくゆうの問題もんだい

第だい6章ろくしょう「近代きんだい」で、入試にゅうしに出題しゅつだいされる文章ぶんしょうの多おおくが「近代きんだい批判ひはん」をテーマとしていることに触ふれたが、「現代げんだい社会しゃかい」についても基本的きほんてきには同おなじことが言いえる。現代げんだい社会しゃかいの枠組わくぐみは近代きんだいにつくられており、近代きんだい社会しゃかいの帰結きけつとして現代げんだい社会しゃかいがあるからだ。たとえば「近代きんだい合理主義ごうりしゅぎ」「資本しほん主義しゅぎ」は、いまだに我々われわれの社会しゃかいの支配しはい的てきな価値かち観かんや制度せいどとして機能きのうしている。

しかし一方いっぽうで、「近代きんだい社会しゃかい」にはなかった現代げんだい社会しゃかいの特徴とくちょうとよぶべきものもあり、消費しょうひ社会しゃかい・大衆たいしゅう社会しゃかい・情報じょうほう化か社会しゃかいなどの言葉ことばがそれに当あたる。

そこで、入試にゅうしに出題しゅつだいされやすいテーマに絞しぼって、現代げんだい社会しゃかいの輪郭りんかくを示しめす。

生産せいさんから消費しょうひの時代じだいへ

現代げんだい社会しゃかいの特徴とくちょうとして、まず挙あげられるのは、現代げんだいは「消費しょうひ社会しゃかい」だということだ。ここで「消費しょうひ社会しゃかい」というのは、我々われわれの価値かち観かんが「生産せいさん」よりも「消費しょうひ」を優位ゆういとしていることを指さしている。

例れいを挙あげよう。戦後せんご、一いち九きゅう六ろく〇年代ねんだいぐらいまでの日本人にほんじんにとっての消費しょうひとは、「皆みなと同おなじモノを買かう」ことだった。「三さん種しゅの神器じんぎ(白黒しろくろテレビ・電気でんき洗濯機せんたくき・電気でんき冷蔵庫れいぞうこ)」や「3C(Color TV・Car・Cooler)」という言葉ことばが象徴しょうちょうするように、当時とうじの人々ひとびとは、こうした製品せいひんを買かい揃そろえることで「人並ひとなみ」「中流ちゅうりゅう」になることを求もとめていたのだ。

しかし七なな十じゅう年代ねんだい後半こうはん〜八十はちじゅう年代ねんだいに入はいると、消費しょうひ社会しゃかいの風景ふうけいはうって変かわる。豊ゆたかさの象徴しょうちょうである「三さん種しゅの神器じんぎ」「3C」が一通ひととおり行いき渡わたった先さきに、人々ひとびとが求もとめたのは、「他人たにんとは違ちがう自分じぶん」が表現ひょうげんできるモノやアイテムだった。

消費しょうひによって「他人たにんとは違ちがう自分じぶん」を表現ひょうげんする、とはどのようなことか。腕時計うでどけいを買かう場合ばあいで考かんがえてみよう。いまや我々われわれは、単たんに「安やすい」「正確せいかく」というだけで腕時計うでどけいを選えらばない。むしろ腕時計うでどけいのデザインを吟味ぎんみして、どれが「自分じぶんの趣味しゅみ・センスに合あっているか」と考かんがえるはずだ。

つまり我々われわれは、「時間じかんを指さし示しめす装置そうち」としてだけでなく、「自分じぶんを個性こせい的てきにしてくれるアイテム」として腕時計うでどけいを買かっているのだ。この時ときモノは、消費しょうひする人間にんげんの趣味しゅみや嗜好しこうを表あらわす記号きごうとして作用さようしている。

こうした状況じょうきょうを、肯定的こうていてき・否定的ひていてきのどちらにとらえるかは論ろん者しゃによって意見いけんが割われるが、入試にゅうしでは、消費しょうひと個性こせいやアイデンティティとを関連かんれんづける文章ぶんしょうが出題しゅつだいされることを頭あたまに入いれておこう。

情報じょうほうの時代じだい

消費しょうひ社会しゃかいと並ならんで現代げんだい社会しゃかいを特徴とくちょうづけるのが、「情報じょうほう化か社会しゃかい」という言葉ことばだ。この言葉ことばは、もともと「工業こうぎょう化か社会しゃかい」「産業さんぎょう化か社会しゃかい」という言葉ことばとの対比たいひで登場とうじょうしてきた。

工業こうぎょう化か社会しゃかいとは、いわば「モノ重視じゅうし」の社会しゃかいのことであり、大量たいりょう生産せいさん・大量たいりょう消費しょうひによって経済けいざいの成長せいちょうを目指めざす社会しゃかいのこと。他方たほう、情報じょうほう化か社会しゃかいは、モノ以上いじょうに情報じょうほうの価値かちが重視じゅうしされる社会しゃかいのことを言いう。

情報じょうほう重視じゅうしの社会しゃかいでは、情報じょうほうを所有しょゆうする集団しゅうだん、すなわちマス・メディアが大おおきな権力けんりょくをもってきたが、インターネットの普及ふきゅうにより、誰だれもが不ふ特定とくてい多数たすうの人ひとに向むけて情報じょうほうを発信はっしんすることができるようになった。

入試にゅうしでも、インターネット時代じだいの「情報じょうほう」を論ろんじる問題もんだい文ぶんが見みられる。

民みん主しゅ主義しゅぎの形骸化けいがいか

消費しょうひ社会しゃかいや情報じょうほう化か社会しゃかいは、現代げんだいの文化ぶんかや経済けいざいに関かかわる特徴とくちょうだが、政治せいじをテーマにした文章ぶんしょうでは「大衆たいしゅう社会しゃかい」という言葉ことばもよく登場とうじょうする。これは民みん主しゅ主義しゅぎの形骸化けいがいかを指摘してきした言葉ことばだ。

民みん主しゅ主義しゅぎは、選挙せんきょなどを通つうじて我々われわれの手てによって政治せいじを運営うんえいする仕組しくみであり、近代きんだいの輝かがやかしい遺産いさんだとされている。

しかし、この民たみ主しゅ主義しゅぎは、実際じっさいは危あやうい側面そくめんをもっている。選挙せんきょによって決定けっていされた我々われわれの代表だいひょうが政治せいじを行おこなうが、その時とき、「間違まちがった代表だいひょう」を選えらんでしまったらどうなるだろうか。あのヒトラーさえも、民みん主しゅ的てきな手続てつづきによって生うみ出だされた。皆みなで間違まちがった方向ほうこうへ進すすんでしまう時ときに、ブレーキをかけることができるのだろうか。

民みん主しゅ主義しゅぎとは本来ほんらい、国民こくみん同士どうしの対話たいわや討論とうろんを重かさねることで、よりよい政治せいじを実現じつげんしていくことを目的もくてきとしている。

しかし現代げんだい社会しゃかいの個人こじんは、政治的せいじてきな関心かんしんが希薄きはくになり、メディアの情報じょうほうや周囲しゅういの人ひとの考かんがえ方かたに流ながされやすいという側面そくめんをもつ。このような画一的かくいつてきで受動じゅどう的てきな人々ひとびとを「大衆たいしゅう」という言葉ことばで批判ひはんすることがあるが、そうした大衆たいしゅうからなる大衆たいしゅう社会しゃかいのもとでは、民みん主しゅ主義しゅぎも機能きのう不全ふぜんを起おこしかねない。

民みん主しゅ主義しゅぎは確たしかにすばらしい政治せいじシステムだが、それを支ささえる我々われわれ一人ひとり一人ひとりが、不断ふだんの努力どりょくを重かさねることによって、その形骸化けいがいかを防ふせがなければならないだろう。

Macro — 現代げんだい社会しゃかいの地図ちず

現代げんだいは、近代きんだいが行いき着ついた先さきである

近代の三つの特質と、その行き着いた先生産優位・産業化社会・民主主義という近代の三特質が、それぞれ消費社会・情報化社会・大衆社会へ変質したことを示した図。 近代の特質 現代への変質 生産優位 作ることが社会を動かす 消費社会 差異を買うことが社会を動かす 産業化社会 物とエネルギーが価値をもつ 情報化社会 情報が価値をもつ 民主主義 自立した市民が担う 大衆社会 匿名の多数が主役になる 現代社会は近代の次に来た別の時代ではない。近代が行き着いた先である。 だから近代を知らなければ、現代社会論は読めない
生産せいさん優位ゆうい・産業さんぎょう化か社会しゃかい・民みん主しゅ主義しゅぎが、それぞれ何なんに変質へんしつしたか

現代げんだい社会しゃかいは、近代きんだいの次つぎに来きた別べつの時代じだいではない。近代きんだいがもっていた三みっつの特とく質しつが、そのまま推すいし進すすめられた結果けっかである。生産せいさんが優位ゆういだった社会しゃかいは消費しょうひ社会しゃかいになり、物ものとエネルギーが価値かちをもった産業さんぎょう化か社会しゃかいは情報じょうほう化か社会しゃかいになり、自立じりつした市民しみんが担になうはずだった民みん主しゅ主義しゅぎは大衆たいしゅう社会しゃかいになった。だから現代げんだい社会しゃかい論ろんを読よむには、第だい6章ろくしょうの近代きんだいがそのまま前提ぜんていになる。

この章しょうの二十にじゅう語ごは、大おおきく二ふたつに分わかれる。近代きんだいが生うんだ帰結きけつを名指なざす語ご(大衆たいしゅう社会しゃかい・消費しょうひ社会しゃかい・情報じょうほう化か社会しゃかい・監視かんし社会しゃかい・システム・装置そうち・リスク)と、その帰結きけつを問とい直なおす語ご(エコロジー・多様性たようせい・構造こうぞう主義しゅぎ・フェミニズム・ジェンダー・ポストモダン)である。

Index — 16 sections

節せつ

  1. 01大衆たいしゅう社会しゃかい
  2. 02消費しょうひ社会しゃかい
  3. 03情報じょうほう(化か)社会しゃかい
  4. 04監視かんし社会しゃかい
  5. 05システム
  6. 06装置そうち
  7. 07リスク
  8. 08グローバル化か(グローバリゼーション)
  9. 09エコロジー
  10. 10多様性たようせい
  11. 11構造こうぞう主義しゅぎ
  12. 12アカデミズム
  13. 13ジャーナリズム
  14. 14マジョリティー/マイノリティー
  15. 15フェミニズム
  16. 16ジェンダー
  17. 17ポストモダン
  18. 18自己じこ決定けってい/自己じこ責任せきにん
Section 01

大衆たいしゅう社会しゃかい

141★★★

大衆社会たいしゅうしゃかい

たいしゅうしゃかい[0]平板へいばん型がた

語ご構成こうせい
大だいおおきい+衆しゅうおおぜい+社会しゃかい人ひとの結むすびつき
定義ていぎ

大多数だいたすうの人々ひとびとの集団しゅうだんが、大おおきな力ちからをもつ社会しゃかい。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑141
原げん書しょの解説かいせつ

大衆たいしゅう社会しゃかいという語ごは、入試にゅうし現代げんだい文ぶんで使つかわれる場合ばあいには、ほとんどよい意味いみでは使つかわれない。

「大衆たいしゅう」とは、精神せいしん的てきに未熟みじゅくで快楽かいらくだけを追求ついきゅうする、受動じゅどう的てきな人々ひとびとであるとされる。このような大衆たいしゅうが主人公しゅじんこうとなる社会しゃかいが大衆たいしゅう社会しゃかいである。

大衆たいしゅう社会しゃかいの問題もんだい点てんとして、最もっともよく挙あげられるのが、大衆たいしゅうの政治的せいじてき無関心むかんしんである。大衆たいしゅうは自分自身じぶんじしんの快楽かいらくにしか興味きょうみをもたず、社会的しゃかいてき責任せきにんを果はたすことを考かんがえないため、政治せいじに関せきして無関心むかんしんになる。

民みん主しゅ主義しゅぎ社会しゃかいでは、選挙せんきょなどの政治せいじ行動こうどうを通つうじて、国民こくみんが国家こっかを監視かんし・コントロールすることが重要じゅうようであり、大衆たいしゅう社会しゃかいは政治せいじの腐敗ふはいを招まねく恐おそれがある。

もう一ひとつ、問題もんだい点てんとして多おおく挙あげられるのが、情報じょうほう操作そうさ・扇動せんどうに弱よわいことである。大衆たいしゅう社会しゃかいでは、ある特定とくていの方向ほうこうへ熱狂的ねっきょうてきに大衆たいしゅうの意識いしきが向むかうことがあり、ブレーキがかからなくなってしまうのだ。

なお、理性的りせいてき・知的ちてきな市民しみんよりも状況じょうきょうに流ながされやすい大衆たいしゅうの存在そんざいを重視じゅうしし、その支持しじを求もとめる手法しゅほうや運動うんどうをポピュリズムとよぶ。

使用しようの境界きょうかい

自立じりつした判断はんだんをもたない匿名とくめいの多数たすうが社会しゃかいの主役しゅやくとなった状態じょうたい。人数にんずうが多おおいことを言いうのではない。

用法ようほう

要点ようてんは「大衆たいしゅう」が数かずの話はなしではないことにある。自立じりつして判断はんだんする市民しみん(☑122)が、マスメディアと大量たいりょう生産せいさんのもとで受うけ身みの均質きんしつな存在そんざいに変かわった──この質しつの変化へんかを指さす。オルテガの『大衆たいしゅうの反逆はんぎゃく』が古典こてんで、大衆たいしゅうとは自分じぶんが凡庸ぼんようであることを知しりながらそれを権利けんりとして主張しゅちょうする人間にんげんだとされた。評ひょう論文ろんぶんでは民みん主しゅ主義しゅぎの変質へんしつ(☑127)と結むすびつけられ、世論よろん操作そうさに弱よわくなった社会しゃかいとして批判的ひはんてきに語かたられる。「大衆たいしゅう的てき」は日常にちじょう語ごでは〈手頃てごろで親したしみやすい〉の意いになる。

用例ようれい
  • 大衆たいしゅうとは、善よい意味いみでも悪わるい意味いみでも、自分自身じぶんじしんに特別とくべつな価値かちを認みとめない── 良よかれ悪あくしかれ「みんなと同おなじ」だと感かんじ、しかもそのことに苦痛くつうを覚おぼえず、むしろ他人たにんと同一どういつであると感かんじることに喜よろこびを見みいだす、そういうすべての人ひとのことである。ホセ・オルテガ・イ・ガセット『大衆たいしゅうの反逆はんぎゃく』(1930)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    「大衆たいしゅう」を、階級かいきゅうではなく態度たいどとして定義ていぎした一節いっせつである。ここが決定的けっていてきに重要じゅうようだ — 貧まずしいから大衆たいしゅうなのではない。学者がくしゃにも富豪ふごうにも大衆たいしゅうはいる。定義ていぎの中身なかみは「自分じぶんに要求ようきゅうしないこと」である。オルテガは別べつの箇所かしょで、「みずからに多おおくを要求ようきゅうし、進すすんで困難こんなんと義務ぎむを負おう者もの」と「自分じぶんに何なにの要求ようきゅうもせず、すでにある自分じぶんで満足まんぞくする者もの」に人ひとを分わけた。注目ちゅうもくしたいのは、「みんなと同おなじ」であることに苦痛くつうを覚おぼえないという条件じょうけんだ。同おなじであること自体じたいは避さけられない。それを心地ここちよいと感かんじたところで、人ひとは大衆たいしゅうになる。1-6 の 123 で見みた個人こじんという単位たんいが、数かずとして集あつまった瞬間しゅんかんに何なにを失うしなうかが書かかれている。
  • 群衆ぐんしゅうのなかの個人こじんは、孤立こりつしていたときとはまったく別べつの存在そんざいになる。……彼かれは、文明ぶんめいの階段かいだんを幾段いくだんも下おりてしまう。ギュスターヴ・ル・ボン『群衆ぐんしゅう心理しんり』(1895)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    大衆たいしゅう社会しゃかい論ろんのいちばん古ふるい層そうにあたる。注意ちゅういしたいのは、ル・ボンが「悪わるい人ひとが集あつまる」とは言いっていないことだ。同おなじ人ひとが、集あつまると別人べつじんになると言いっている。個人こじんとしては臆病おくびょうな者ものが群衆ぐんしゅうでは大胆だいたんになり、思慮しりょ深ふかい者ものが群衆ぐんしゅうでは即断そくだんする。足たし算ざんではなく変質へんしつである。この見方みかたは現代げんだいでも生いきているが、同時どうじに危あやうさも抱かかえている — 「群衆ぐんしゅうは愚おろかだ」という結論けつろんは、そのまま民みん主しゅ主義しゅぎへの不信ふしんになりうる。事実じじつ、ル・ボンのこの書しょは大衆たいしゅうを動員どういんする側がわにも熱心ねっしんに読よまれた。診断しんだんが、そのまま処方箋しょほうせんとして使つかわれてしまうという社会しゃかい科学かがくの宿命しゅくめいが、ここに現あらわれている。
  • 大衆たいしゅう社会しゃかいとは、身分みぶんや共同体きょうどうたいから切きり離はなされた多数たすうの個人こじんが、たがいに似にた生活せいかつをしながらたがいに無関係むかんけいでいる社会しゃかいである。 「似にている」と「つながっている」を分わけて書かくのが要点ようてんである。同おなじ番組ばんぐみを見みて同おなじ商品しょうひんを買かうが、隣となりの人ひとと話はなさない。1-6 の 124 の共同体きょうどうたいでは違ちがいがあってもつながっていた。大衆たいしゅう社会しゃかいはその逆ぎゃくである。
  • ×休日きゅうじつのショッピングモールは大衆たいしゅう社会しゃかいでごった返かえしていた。 人ひとの集あつまりを言いうなら「人混ひとごみ」「群衆ぐんしゅう」である。141 は社会しゃかいの型かたを指さす語ごで、その場ばにいる人々ひとびとの集あつまりではない。なお「大衆たいしゅう」単独たんどくなら人々ひとびとを指ゆびせるが、やや古風こふうで、上うえから見み下おろす含ふくみが出でるため、現代げんだいの文章ぶんしょうでは慎重しんちょうに使つかう。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

関せき 民みん主しゅ主義しゅぎ(127)

派生はせい形けい
  • 大衆たいしゅう[0]もとは仏教ぶっきょう語ごで、寺院じいんに集あつまる僧そうの群ぐんれを指さした。近代きんだいに mass の訳語やくごとなって不ふ特定とくてい多数たすうの人々ひとびとの意いになる。「民衆みんしゅう」が統治とうちされる側がわ、「公衆こうしゅう」が議論ぎろんする側がわを指さすのに対たいし、大衆たいしゅうは数かずとして扱あつかわれる側がわである。
  • 大衆的たいしゅうてき[0]二ふたつの向むきがある。肯定こうていなら親したしみやすい(大衆たいしゅう的てきな価格かかく)、否定ひていなら低てい俗ぞくな(大衆たいしゅう的てきな趣味しゅみ)。同おなじ語ごで褒ほめも貶けなしもできるのは、「多おおくの人ひとに届とどく」ことの評価ひょうかが定さだまっていないからである。
  • 大衆化たいしゅうか[0]限かぎられた者もののものが多数たすうに開ひらかれること。「大学だいがくの大衆たいしゅう化か」「教養きょうようの大衆たいしゅう化か」など。開ひらかれることと薄うすまることが同時どうじに起おきるため、この語ごはほぼつねに両義りょうぎ的てきに使つかわれる。
コロケーション
  • 原子げんし化か個人こじんがばらばらになる語ご共同体きょうどうたいから切きり離はなされ、たがいに結むすびつかない個人こじんの状態じょうたい。「原子げんし」という語ごが選えらばれるのは、それ以上いじょう分わけられず、かつ互たがいに結合けつごうしないという二ふたつの含ふくみがあるからだ。1-2 の要素ようそ論ろんの像ぞうが、ここでは社会しゃかいの診断しんだんに使つかわれている。原子げんし化かした個人こじんほど動員どういんされやすい — 1-6 の 138 で見みた通とおりである。
  • 画一化かくいつか中身なかみがそろう語ご生活せいかつ様式ようしき・趣味しゅみ・意見いけんが一様いちようになること。注意ちゅういしたいのは、誰だれも命めいじていないのに進すすむ点てんだ。同おなじ商品しょうひんが最もっとも安やすく、同おなじ番組ばんぐみが最もっとも多おおく見みられ、多数派たすうはに合あわせるのが最もっとも損そんをしない。1-6 の 140 の均質化きんしつかが、人ひとの趣味しゅみの水準すいじゅんまで降おりてきた形かたちである。
  • 大衆たいしゅう消費しょうひ社会しゃかい二ふたつの語ごを継つぐ語ご大衆たいしゅう社会しゃかいが消費しょうひを軸じくに組くみ上あがった段階だんかい。この結むすびつきが自然しぜんに見みえるのは、切きり離はなされた個人こじんを再ふたたび束たばねたのが商品しょうひんだったからだ。身分みぶんでも土地とちでもなく、何なにを買かうかで自分じぶんが何者なにものかを示しめすようになる。142 へは、ここでつながる。
  • 大衆たいしゅうの反逆はんぎゃく書名しょめいが語ごになった例れいオルテガの書名しょめいが、そのまま事態じたいを指さす語ごになったもの。「反逆はんぎゃく」と訳やくされる語ごが指さしているのは革命かくめいではない。大衆たいしゅうが、指導しどうする側がわの資格しかくを問とわずに社会しゃかいの全面ぜんめんに出でてきたことを指さしている。反逆はんぎゃくの相手あいては権力けんりょくではなく、卓越たくえつそのものだという読よみ方かたをすると、この語ごは効きいてくる。
格かく中なか

書かき言葉ことば・会話かいわの両方りょうほうで使つかえる。

類るい語ごと差さ
  • 市民しみん社会しゃかい自立じりつした個人こじんが契約けいやくで結むすぶ社会しゃかい☑122。市民しみんが大衆たいしゅうに変質へんしつした先さきが大衆たいしゅう社会しゃかい。同おなじ人々ひとびとの質しつの変化へんかを言いう。
  • 民衆みんしゅう支配しはいされる側がわの人々ひとびと身分みぶんや階層かいそうを含意がんいする。大衆たいしゅうは匿名とくめい性せいと均質きんしつ性せいに重心じゅうしんがある。
  • 群衆ぐんしゅう一時的いちじてきに集あつまった人ひとの群ぐんれその場ばかぎり。大衆たいしゅうは社会しゃかい構造こうぞうとして持続じぞくする。
  • 公衆こうしゅう公共こうきょうの問題もんだいを論ろんじる人々ひとびと議論ぎろんする主体しゅたいとして想定そうていされる。大衆たいしゅうは受うけ手てとして想定そうていされる。

ENmass society
ZH大众社会(大衆社会, dàzhòng shèhuì)

近代の三つの特質と、その行き着いた先生産優位・産業化社会・民主主義という近代の三特質が、それぞれ消費社会・情報化社会・大衆社会へ変質したことを示した図。 近代の特質 現代への変質 生産優位 作ることが社会を動かす 消費社会 差異を買うことが社会を動かす 産業化社会 物とエネルギーが価値をもつ 情報化社会 情報が価値をもつ 民主主義 自立した市民が担う 大衆社会 匿名の多数が主役になる 現代社会は近代の次に来た別の時代ではない。近代が行き着いた先である。 だから近代を知らなければ、現代社会論は読めない
近代きんだいの三みっつの特とく質しつと、その行いき着ついた先さき
入試にゅうし文ぶん

政治せいじ=権力けんりょくとの対抗たいこう関係かんけいがないという意味いみではないが、マス・メディアは、全体ぜんたいとして、現代げんだい社会しゃかいの権力けんりょくと権威けんい的てき秩序ちつじょの一端いったんをになう位置いちへと変化へんかしてきた。マス・メディアがつくりだす文化ぶんかも、したがって大衆たいしゅう文化ぶんかの多おおくも、文化ぶんかという次元じげんのうえで、弱じゃく者しゃの抵抗ていこう表現ひょうげんを核かくにした下位かい文化ぶんかとはとてもいえない権威けんい的てきな存在そんざいへと変貌へんぼうしている。
大衆たいしゅう文化ぶんかのつくり手てのもつ意識いしきがこの秩序ちつじょどおりでないとしても、大量たいりょう生産せいさんのかたちを介かいするかぎり、大衆たいしゅう文化ぶんかは大衆たいしゅう社会しゃかいに固有こゆうの権威けんい的てき構造こうぞう・秩序ちつじょのなかに組くみこまざるをえない。
フォーマルな、権威けんいのある文化ぶんかに押おさえつけられた大衆たいしゅう文化ぶんかがある、という図式ずしきは崩くずれ、たとえばクラシック音楽おんがくとポピュラー音楽おんがくとの差違さいにかんして私わたしたちがまだなんとなく感かんじている、「高こう級きゅう/低てい級きゅう」という文化ぶんか秩序ちつじょも実際的じっさいてきには(文化ぶんか生産せいさんとその消費しょうひのありようとしては)逆転ぎゃくてんしつつある。

出典しゅってん 中なか西にし新太郎しんたろう「文化ぶんか的てき支配しはいに抵抗ていこうする」 / 出題しゅつだい センター本ほん試験しけん(国語こくごⅠ・Ⅱ)

読解どっかいのポイント
  • 従来じゅうらい=弱じゃく者しゃの抵抗ていこう表現ひょうげんを核かくとした下位かい文化ぶんか
  • 現在げんざい=権威けんい的てきな存在そんざいへと変貌へんぼう
  • 権威けんいある文化ぶんかに押おさえつけられた大衆たいしゅう文化ぶんかがあるという図式ずしきは崩くずれ、文化ぶんか秩序ちつじょは逆転ぎゃくてんしつつある
要約ようやく

マス・メディアは、全体ぜんたいとして権威けんい的てきな存在そんざいへと変化へんかしており、権威けんいある文化ぶんかに押おさえつけられた大衆たいしゅう文化ぶんかという図式ずしきは崩くずれつつある。

語ご法ほうの観察かんさつ

「〜になった」という完了形かんりょうけいを重かさねて変質へんしつを描えがく。誰だれがそうしたかを書かかないことで、構造こうぞうの変化へんかとして提示ていじしている。

Section 02

消費しょうひ社会しゃかい

142★★★

消費社会しょうひしゃかい

しょうひしゃかい[0]平板へいばん型がた

語ご構成こうせい
消しょうきえる+費ひついやす+社会しゃかい人ひとの結むすびつき
定義ていぎ

大量たいりょうのモノやサービスを消費しょうひする、高度こうどに発達はったつした資本しほん主義しゅぎ社会しゃかい。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑142
原げん書しょの解説かいせつ

消費しょうひ社会しゃかいの「消費しょうひ」とは、社会的しゃかいてき・文化ぶんか的てき欲望よくぼうを充足じゅうそくさせるためにモノやサービスを消費しょうひすることである。

消費しょうひ社会しゃかい以前いぜんにも人間にんげんは消費しょうひをしてきたが、それは身体的しんたいてき・生せい理り的てきな欲望よくぼうのためであった。

現代げんだいのような消費しょうひ社会しゃかいでは、消費しょうひに対たいする人々ひとびとの欲望よくぼうは、きらびやかなCMや広告こうこくなどの情報じょうほうによって喚起かんきされる。情報じょうほうには限界げんかいがないので、当然とうぜん、我々われわれの欲望よくぼうにも限かぎりはない。そして、限界げんかいなき欲望よくぼうに応おうじるように、モノが大量たいりょうに生産せいさん・消費しょうひされていく。これが現代的げんだいてきな消費しょうひ社会しゃかいを駆動くどうさせているシステムだ。

しかし、情報じょうほうや欲望よくぼうには限界げんかいがなくても、モノには限界げんかいがある。大量たいりょう生産せいさんと大量たいりょう消費しょうひを内ない蔵ぞうしている消費しょうひ社会しゃかいは、大量たいりょう採取さいしゅと大量たいりょう廃棄はいきをも不可避ふかひとするので、資源しげんの枯渇こかつや環境かんきょう問題もんだいをもたらしてしまった。

同時どうじに、消費しょうひ社会しゃかいの実現じつげんは、生産せいさん優位ゆういから消費しょうひ優位ゆういへと人々ひとびとの価値かち観かんも大おおきく変かえた。

消費しょうひ社会しゃかいを生いきる人々ひとびとは、消費しょうひによって「自分じぶんらしさ」や「個性こせい」を獲得かくとくしようとする。たとえば、高こう級きゅうブランドのバッグを身みにつけるのは、単たんに物ものを入いれて運はこぶためでもなければ、デザインが美うつくしいからでもない。そのバッグを持もつことで、自分じぶんのセンスがよいこと・高こう級きゅうバッグを持もつことができる経済的けいざいてき余裕よゆうがあることなどを、自分じぶんにも他人たにんにも理解りかいさせるためである。

この時とき商品しょうひんは、〈センスのよさ〉や〈経済的けいざいてき余裕よゆう〉を意味いみする〈記号きごう〉として機能きのうしており、人々ひとびとは、商品しょうひんのもつ記号きごう性せいによって「個性こせい」を演出えんしゅつしていることになる。

使用しようの境界きょうかい

生産せいさんより消費しょうひが社会しゃかいを動うごかす原理げんりとなった状態じょうたい。物ものを大量たいりょうに買かうことではなく、何なにのために買かうかが変かわった点てんを指さす。

用法ようほう

要点ようてんは買かう理由りゆうの変化へんかにある。必要ひつようだから買かうのではなく、他人たにんと違ちがうことを示しめすために買かう。ボードリヤールはこれを記号きごうとしての消費しょうひと呼よんだ。したがって欲望よくぼうは満みたされることがなく、消費しょうひは終おわらない。ここで☑68 差異さい(他ほかとの差さによって意味いみが生しょうじる)が経済けいざいの場面ばめんに現あらわれる。☑18 パラドックスの項こうにあった「豊ゆたかになるほど欠乏けつぼう感かんが強つよまる」も同おなじ構造こうぞうである。評ひょう論文ろんぶんでは、消費しょうひ社会しゃかいが人ひとの欲望よくぼうそのものを作つくり出だす点てんが問とわれる。

用例ようれい
  • 財ざいを顕示的けんじてきに消費しょうひすることは、有閑ゆうかん階級かいきゅうの紳士しんしが評判ひょうばんを保たもつための手段しゅだんである。……財ざいの消費しょうひは、生活せいかつの必要ひつようを満みたすためではなく、支払しはらい能力のうりょくを証明しょうめいするために行おこなわれる。ソースティン・ヴェブレン『有閑ゆうかん階級かいきゅうの理論りろん』(1899)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    消費しょうひ社会しゃかい論ろんの起点きてんになった一節いっせつである。「顕示的けんじてき消費しょうひ」という語ごの鋭するどさは、消費しょうひの目的もくてきが使つかうことではなく見みせることだと言いい切きったところにある。いったんそう見みると、不便ふべんであることが価値かちになる場面ばめんが説明せつめいできる。手て入いれの要いる服ふく、時間じかんのかかる作法さほう、実用じつように耐たえない靴くつ — それらは「働はたらかなくてよい」ことの証明しょうめいだ。効率こうりつの悪わるさが、意図いとせずではなく意図いとして選えらばれている。1-6 の 133 のフェティシズムと合あわせて読よむと、物ものが機能きのうではなく記号きごうとして消費しょうひされるという現代げんだいの議論ぎろんの骨格こっかくができあがる。
  • いき(粋いき)とは、垢抜あかぬけして、張ちょうのある、色いろっぽさである。……媚態びたいは、二元的にげんてき可能性かのうせいを持続じぞくせしめる二元的にげんてき態度たいどである。九鬼くき周造しゅうぞう『「いき」の構造こうぞう』(1930)
    消費しょうひ社会しゃかいの語彙ごいで読よむとまったく別べつの顔かおを見みせる一節いっせつである。九鬼くきが分析ぶんせきしているのは美び意識いしきだが、その構造こうぞうは差異さいによる自己じこの表示ひょうじそのものだ。「垢抜あかぬけ」とは野暮やぼでないこと、つまり他者たしゃとの差異さいである。「張ちょう」とは媚こびきらないこと、つまり差異さいを保たもち続つづけることだ。注目ちゅうもくしたいのは「二元的にげんてき可能性かのうせいを持続じぞくせしめる」という一句いっく — 手てに入はいってしまえば終おわるのである。1-6 の 136 で見みた「無限むげんへの憧憬どうけい」と同おなじ構造こうぞうがここにあり、消費しょうひ社会しゃかいが欲望よくぼうを満みたさずに再生産さいせいさんし続つづける仕組しくみと形かたちが一致いっちする。江戸えどの美学びがくが、現代げんだいの消費しょうひの文法ぶんぽうを先さきに書かいていた。
  • 消費しょうひ社会しゃかいでは、人ひとは物ものの機能きのうではなく、物ものが指さし示しめす差異さいを買かう。 「差異さい」が定義ていぎの核かくである。同おなじ性せい能のうの鞄かばんが二ふたつあって値段ねだんが十じゅう倍ばい違ちがうとき、買かわれているのは性せい能のうではない。1-3 の記号きごう論ろんと 1-6 の 133 がここで合流ごうりゅうする — 商品しょうひんは記号きごうであり、意味いみは他ほかの商品しょうひんとの差さからしか出でない。
  • ×節約せつやくを心こころがけて、消費しょうひ社会しゃかいを控ひかえるようにしている。 個々人ここじんの行おこないを言いうなら「消費しょうひ」「浪費ろうひ」である。142 は社会しゃかい全体ぜんたいの型かたを指さす語ごで、個人こじんが控ひかえたりできるものではない。むしろ「消費しょうひを控ひかえる」ことすら一ひとつの選択肢せんたくしとして商品しょうひん化かされるのがこの社会しゃかいの特徴とくちょうで、断捨離だんしゃりもミニマリズムも外そとへは出でていない。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

関せき 資本しほん主義しゅぎ(128)

派生はせい形けい
  • 消費しょうひ[0]「費ついやして消けす」という字面じづら。経済学けいざいがくでは生産せいさんに対たいする語ごで、価値かちを使つかい切きることを指さす。記号きごうとしての消費しょうひは何なにも消けしていない点てんでこの字面じづらから外はずれており、語ごの意味いみが実態じったいに追おいついていない例れいである。
  • 消費者しょうひしゃ[0]人ひとを、買かう役割やくわりだけで名指なざす語ご。「市民しみん」が権利けんりの主体しゅたい、「労働者ろうどうしゃ」が生産せいさんの担にない手てを指さすのに対たいし、消費しょうひ者しゃは市場しじょうの中なかの位置いちである。政治せいじの問題もんだいが「消費しょうひ者しゃの選択せんたく」に言いい換かえられるとき、何なにが抜ぬけ落おちるかを考かんがえたい。
  • 消費財しょうひざい[3]生産せいさん財ざいとの対たい。最終的さいしゅうてきに人ひとが使つかう財ざいを指さす。「財ざい」という語ごが物ものだけでなくサービスも含ふくむことに注意ちゅうい。現代げんだいの消費しょうひの中心ちゅうしんが物ものから体験たいけんへ移うつったことは、この語ごの射程しゃていで説明せつめいできる。
コロケーション
  • 記号きごうとしての消費しょうひ中核ちゅうかくの語ご商品しょうひんを、使つかうためではなく自分じぶんの位置いちを示しめすために買かうこと。この見方みかたの強つよみは、「不合理ふごうりな買かい物もの」を合理的ごうりてきに説明せつめいできる点てんにある。必要ひつようでないものを買かうのは愚おろかだからではない。その買かい物ものには別べつの目的もくてきがあったのだ。批判ひはんの前まえに理解りかいを置おく、よい分析ぶんせきの型かたである。
  • 欲望よくぼうの生産せいさん順序じゅんじょを逆ぎゃくにする語ご欲ほしいものがあるから作つくるのではなく、作つくったものを欲ほしくさせるという順序じゅんじょ。広告こうこくの仕事しごとはここにある。重要じゅうようなのは、これが嘘うそをつくこととは違ちがう点てんだ。広告こうこくは商品しょうひんの説明せつめいではなく、その商品しょうひんを持もった自分じぶんの像ぞうを売うる。売うられているのは物ものではなく差異さいであるという定義ていぎが、ここで具体的ぐたいてきになる。
  • 使つかい捨すて時間じかんを短みじかくする語ご製品せいひんの寿命じゅみょうを短みじかく設計せっけいすること。この語ごが消費しょうひ社会しゃかい論ろんで重おもいのは、物ものが壊こわれるからではなく、古ふるびるから捨すてられることを示しめすからだ。機能きのうはまだ生いきているのに、記号きごうとしての価値かちが先さきに死しぬ。149 のエコロジーがここへ突つき刺ささる。
  • 豊ゆたかさのなかの貧まずしさ逆説ぎゃくせつを立たてる語ご物ものが満みちているのに満みたされないという状態じょうたい。この言いい方かたが成なり立たつのは、消費しょうひ社会しゃかいの欲望よくぼうが他者たしゃとの比較ひかくで作つくられるからだ。絶対ぜったい量りょうが増ふえても、差さは消きえない。むしろ全体ぜんたいが豊ゆたかになるほど小ちいさな差さが大おおきく見みえる。この社会しゃかいは原理げんり的てきに満足まんぞくに到達とうたつしない。
格かく中なか

書かき言葉ことば・会話かいわの両方りょうほうで使つかえる。

類るい語ごと差さ
  • 生産せいさん社会しゃかい生産せいさんが中心ちゅうしんとなる社会しゃかい先行せんこうする段階だんかい。近代きんだいの産業さんぎょう社会しゃかいがこれにあたる。
  • 大量たいりょう消費しょうひ大量たいりょうに消費しょうひすること量りょうの話はなし。消費しょうひ社会しゃかいは消費しょうひの意味いみが変かわったことを言いう。
  • 記号きごう消費しょうひ意味いみや差異さいを買かうボードリヤール。消費しょうひ社会しゃかいの中身なかみを説明せつめいする語ご。
  • 差異さい化か他ほかと違ちがうことで価値かちを生うむ☑68 差異さいと接続せつぞくする。消費しょうひ社会しゃかいを駆動くどうする仕組しくみ。

ENconsumer society
ZH消费社会(消費社会, xiāofèi shèhuì)

必要のための消費から、差異のための消費へ必要を満たすために買う消費と、他と違うことを示すために買う消費の違いを示した図。 必要のための消費 必要 購入 満たされる 終わりがある 差異のための消費 他との差 購入 差が消える 新しい差を求めて、また買う 終わりがない ☑68 差異が、経済の場面に現れたものが消費社会である
必要ひつようのための消費しょうひから、差異さいのための消費しょうひへ
入試にゅうし文ぶん

社会しゃかいが便利べんりになるとともに、人間にんげんは手てや足あし、そして頭脳ずのうをますます必要ひつようとしなくなる。人間にんげんがよかれとして作つくり上あげている社会しゃかいが、逆ぎゃくに未熟みじゅくで衝動しょうどう的てきで、待まてなくても暮くらせるような人間にんげんを作つくり出だす。
言いい換かえれば、消費しょうひ社会しゃかいは消費しょうひ人間にんげんを作つくり出だし、消費しょうひ人間にんげんはまた消費しょうひ社会しゃかいを支ささえる。社会しゃかいと人間にんげんの性格せいかくには、このような相関そうかん関係かんけいがある。
したがって、このような社会しゃかいを暮くらしやすいとするか、暮くらしにくいとするかと問とわれれば、確たしかに表面ひょうめん的てきには暮くらしやすい社会しゃかいになっているが、成熟せいじゅくしなくてもよいという社会しゃかいは、ある意味いみではやっかいな社会しゃかいであり、最終的さいしゅうてきには暮くらしにくい社会しゃかいに逆戻ぎゃくもどりする可能性かのうせいをもつ、と答こたえざるを得とくないだろう。

出典しゅってん 町沢まちざわ静夫しずお『成熟せいじゅくできない若者わかものたち』 / 出題しゅつだい 信しん州しゅう大学だいがく・教育学きょういくがく部ぶ

読解どっかいのポイント
  • 便利べんりな消費しょうひ社会しゃかい ↓ 人間にんげんは手てや足あし、そして頭脳ずのうをますます必要ひつようとしなくなる ↓ 未熟みじゅくで衝動しょうどう的てきで、待まてなくても暮くらせる人間にんげんを作つくり出だす ↓ 暮くらしにくい社会しゃかいに逆戻ぎゃくもどりする可能性かのうせい
要約ようやく

消費しょうひ社会しゃかいは、確たしかに表面ひょうめん的てきには暮くらしやすい社会しゃかいになっているが、未熟みじゅくな人間にんげんを作つくり出だす社会しゃかいでもあるという点てんで、最終的さいしゅうてきには暮くらしにくい社会しゃかいになる可能性かのうせいをもつ。

語ご法ほうの観察かんさつ

具体的ぐたいてきな買かい物ものの例れいから入はいり、そのあとで原理げんりを述のべる。読者どくしゃ自身じしんの経験けいけんを論拠ろんきょに取とり込こむ型かた。

Section 03

情報じょうほう(化か)社会しゃかい

143★★★

情報(化)社会じょうほうかしゃかい⚠

じょうほうかしゃかい[0]平板へいばん型がた

語ご構成こうせい
情報じょうほう知しらせ・データ+化かそうなる+社会しゃかい人ひとの結むすびつき
定義ていぎ

生活せいかつ・経済けいざいが情報じょうほうを中心ちゅうしんとして発達はったつしていく社会しゃかい。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑143
原げん書しょの解説かいせつ

パソコンやインターネットなどのIT(情報じょうほう技術ぎじゅつ)の発達はったつにより、現在げんざいでは情報じょうほうが世界中せかいじゅうを飛とび交こうっている。

現代げんだいのように変化へんかの激はげしい社会しゃかいにおいては、情報じょうほうは国家こっか・企業きぎょう・組織そしき・個人こじんにとってきわめて重要じゅうようなものとなる。またITの発達はったつは、一部いちぶの国家こっかや都市としに集中しゅうちゅうしていた情報じょうほうを、瞬時しゅんじに世界中せかいじゅうの人ひとに発信はっしんすることを可能かのうにした。

しかし反面はんめんで、このような情報じょうほう化か社会しゃかい(高度こうど情報じょうほう化か社会しゃかい)で多おおくの人ひとが膨大ぼうだいな量りょうの情報じょうほうを前まえにして、何なにが必要ひつようで何なにが不ふ必要ひつようかを判断はんだんできず、とまどっている。

また、情報じょうほう技術ぎじゅつをもつ一部いちぶの国家こっかや人間にんげんばかりに情報じょうほうが集あつまる「情報じょうほう格差かくさ(デジタル・デバイド)」も問題もんだいとなっている。

さらに、「個人情報こじんじょうほう(プライバシー)」が容易よういに他人たにんに漏もれてしまうということも深刻しんこくな問題もんだいだ。

たとえば

電気でんき技術ぎじゅつや通信つうしん網もうをもたない貧まずしい国家こっかや地域ちいきは、世界せかいの経済けいざいからどんどん取とり残のこされ、ますます経済けいざい格差かくさが広ひろがっていく。

また、いくらパソコンやインターネットが便利べんりだといっても、パソコンの使つかい方かたがわからない人ひとや所有しょゆうしていない人ひとはそうした便利べんりさを味あじわえない。

これが情報じょうほう化か社会しゃかいがもたらすデジタル・デバイドである。

使用しようの境界きょうかい

情報じょうほうが物ものやエネルギーより大おおきな価値かちをもつようになった社会しゃかい。情報量じょうほうりょうが増ふえたことだけを指さすのではない。

用法ようほう

評ひょう論文ろんぶんで問とわれるのは技術ぎじゅつではなく、情報じょうほうが増ふえたことで何なにが起おきたかである。論点ろんてんは三みっつ。①取捨しゅしゃ選択せんたくの負担ふたんが個人こじんに移うつった、②実体験じったいけんより情報じょうほうが先さきに来くるようになった(行いく前まえに知しっている)、③情報じょうほうが☑147 リスクの温床おんしょうにもなる。原げん書しょはこれを☑144 監視かんし社会しゃかいと接続せつぞくさせる。日本語にほんごの「情報じょうほう」は中国語ちゅうごくごの 情报 とはずれるので、語彙ごいとしても注意ちゅういを要ようする。

用例ようれい
  • 情報じょうほうは情報じょうほうであって、物質ぶっしつでもエネルギーでもない。これを認みとめないような唯物論ゆいぶつろんは、今日きょうでは生いき延のびることができない。ノーバート・ウィーナー『人間にんげん機械論きかいろん』(1950)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    情報じょうほうという語ごに、独立どくりつした身分みぶんを与あたえた一文いちぶんである。同おなじ設計図せっけいずから作つくられた木きの椅子いすと鉄てつの椅子いすは、材料ざいりょうもエネルギーも違ちがうのに同おなじ形かたちをしている。その「同おなじ」を担になっているものは何なにか — 物質ぶっしつでもエネルギーでもない何なにかだ。ウィーナーはそれを情報じょうほうと呼よんだ。この一手いってが効きいてくるのは、情報じょうほうが減へらずに複製ふくせいできるという性質せいしつに気きづいたときである。パンは分わければ減へるが、知識ちしきは分わけても減へらない。所有しょゆうと交換こうかんを前提ぜんていに組くまれた1-6 の 122 の市民しみん社会しゃかいが、情報じょうほうという財ざいの前まえできしみはじめる理由りゆうがここに書かかれている。
  • 知ちは力ちからなり。フランシス・ベーコン『聖せいなる瞑想めいそう』(1597)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    四百年よんひゃくねん前まえの三さん語ごが、情報じょうほう社会しゃかいでようやく文字もじどおりになったという読よみ方かたができる。ベーコンの時代じだい、この句くは比喩ひゆに近ちかかった — 知しっていれば自然しぜんを操あやつれる、という主張しゅちょうである。ところが現代げんだいでは、知ちが比喩ひゆでなく資源しげんとして売買ばいばいされ、蓄積ちくせきされ、独占どくせんされる。検索けんさくの履歴りれきが値段ねだんを持もち、所在しょざい地ちの記録きろくが資産しさんになる。注目ちゅうもくしたいのは「力ちから」という語ごの宛先あてさきだ。ベーコンが想定そうていしたのは自然しぜんに対たいする人間にんげんの力ちからだったが、情報じょうほう社会しゃかいで立たち上あがったのは人間にんげんに対たいする人間にんげんの力ちからである。144 の監視かんし社会しゃかいは、この宛先あてさきの変更へんこうから生うまれた。
  • 情報じょうほう社会しゃかいの課題かだいは、情報じょうほうが足たりないことではなく、多おおすぎて選えらべないことにある。 希少性きしょうせいの位置いちが動うごいたことを押おさえておきたい。情報じょうほうが乏とぼしかった時代じだいには情報じょうほうが資源しげんだったが、溢あふれた時代じだいに希少きしょうなのはそれを受うけ取とる注意ちゅういのほうだ。注意ちゅういこそが取とり合あいの対象たいしょうになる — この転回てんかいが現代げんだいの議論ぎろんの出発点しゅっぱつてんになる。
  • ×最新さいしんの家電かでんを揃そろえて、我わが家いえも情報じょうほう化かした。 機器ききの導入どうにゅうを言いうなら「電子化でんしか」「デジタル化か」である。143 の情報じょうほう化かは社会しゃかいの中心ちゅうしん的てきな資源しげんが物ものから情報じょうほうへ移うつることを指さす語ごで、道具どうぐが新あたらしくなることではない。何なにが価値かちを生うむかが変かわったかどうかを見みるのが、この語ごの使つかいどころである。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

関せき 資本しほん主義しゅぎ(128)

派生はせい形けい
  • 情報じょうほう[0]もとは軍事ぐんじ用語ようごで、「敵てき情じょうの報告ほうこく」の略りゃくとされる。誰だれかに向むけて意味いみを持もつように整ととのえられたものを指さし、データとは違ちがう。数字すうじの羅列られつはデータであり、読よみ手てが意味いみを取とり出だせてはじめて情報じょうほうになる。
  • 情報化じょうほうか[0]過程かていを言いう語ご。「情報じょうほう社会しゃかい」と「情報じょうほう化か社会しゃかい」の使つかい分わけに注意ちゅういしたい。前者ぜんしゃは到達とうたつした状態じょうたい、後者こうしゃは移行いこうの途中とちゅうを指さす。一いち九きゅう七なな〇年代ねんだいの日本にほんで後者こうしゃが多た用ようされたのは、まだ来きていない未来みらいとして語かたられていたからだ。
  • 情報リテラシー[6]受うけ手ての能力のうりょくを指さす語ご。読よみ書かき能力のうりょく(リテラシー)に倣ならった造語ぞうごで、情報じょうほうを評価ひょうかし選えらぶ力ちからを言いう。注意ちゅういしたいのは、この語ごが責任せきにんを受うけ手てへ寄よせる働はたらきも持もつことだ。「騙だまされるほうが悪わるい」という結論けつろんに流ながれないよう、送おくり手ての責任せきにんとセットで論ろんじるのが原則げんそくである。
コロケーション
  • 情報じょうほうの非対称ひたいしょう力ちからの差さを作つくる語ご取引とりひきする二者にしゃのあいだで持もっている情報じょうほうの量りょうが違ちがうこと。この語ごが重おもいのは、市場しじょうが対等たいとうな交換こうかんだという前提ぜんていを内側うちがわから崩くずすからだ。売うり手てだけが欠陥けっかんを知しっていれば、契約けいやくは自由じゆうでも公正こうせいではない。1-6 の 122 の市民しみん社会しゃかいが前提ぜんていしていた対等たいとうさが、ここで条件じょうけんつきになる。
  • 情報じょうほうの氾濫はんらん量りょうが質しつを壊こわす語ご「氾濫はんらん」という水みずの比喩ひゆが的確てきかくなのは、多おおすぎると使つかえないことを一語いちごで示しめすからだ。水みずは要いるが、洪水こうずいは要いらない。情報じょうほうも同おなじで、量りょうが閾値しきいちを越こえると選別せんべつの費用ひようが得とくられる利益りえきを上回うわまわる。だから人ひとは選えらばなくてよい仕組しくみに身みを委ゆだねる — それが推薦すいせんや検索けんさくの順位じゅんいである。
  • デジタル・デバイド格差かくさの新あたらしい形かたち情報じょうほう技術ぎじゅつを使つかえる者ものと使つかえない者もののあいだの格差かくさ。この語ごが示しめすのは、情報じょうほう化かが自動的じどうてきに平等びょうどう化かしないことだ。技術ぎじゅつは誰だれにでも開ひらかれているように見みえるが、使つかいこなす能力のうりょくは教育きょういくと所得しょとくに依存いぞんする。開ひらかれた入口いりぐちが新あたらしい壁かべになるというこの構造こうぞうは、1-6 の 127 の民たみ主しゅ主義しゅぎでも同おなじ形かたちで現あらわれる。
  • 情報じょうほうを鵜呑うのみにする受うけ手ての側がわの語ご確たしかめずに受うけ入いれること。この言いい方かたが現代げんだいで重おもみを増ましたのは、確たしかめる手間てまが受うけ手てに丸まるごと移うつされたからだ。新聞しんぶんや放送ほうそうには間あいだに立たって確たしかめる係かかりがいた。直接ちょくせつ届とどく情報じょうほうにはそれがない。153 のジャーナリズムが問とい直なおされている理由りゆうの一ひとつがここにある。
格かく中なか

書かき言葉ことば・会話かいわの両方りょうほうで使つかえる。

類るい語ごと差さ
  • 産業さんぎょう社会しゃかい物ものの生産せいさんが中心ちゅうしんとなる社会しゃかい先行せんこうする段階だんかい。情報じょうほう化か社会しゃかいはその次つぎに置おかれる。
  • 知識ちしき社会しゃかい知識ちしきが価値かちを生うむ社会しゃかい知識ちしきは体系化たいけいかされた情報じょうほう。情報じょうほう化か社会しゃかいはより広ひろく、流通りゅうつうの速はやさを含ふくむ。
  • メディア情報じょうほうを媒介ばいかいするもの手段しゅだん。情報じょうほう化か社会しゃかいは社会しゃかい全体ぜんたいの構造こうぞうを言いう。
  • 情報じょうほうリテラシー情報じょうほうを読よみ解とき使つかいこなす力ちから対処たいしょする能力のうりょく。情報じょうほう化か社会しゃかいが要請ようせいするもの。

ENinformation society
ZH信息社会(情報社会, xìnxī shèhuì)

日中にっちゅうのズレ

中国語ちゅうごくごでは「情報じょうほう」ではなく 信しん息いき(xìnxī) を使つかう。情報じょうほう化か社会しゃかいは 信しん息いき化か社会しゃかい。

中国語ちゅうごくごの 情报(qíngbào)は諜報ちょうほう・機密きみつ情報じょうほうの意いで、日常的にちじょうてきな「情報じょうほう」とは重かさならない。

情報が体験に先立つかつて体験が先で情報が後だった順序が、情報化社会では逆転したことを示した図。 かつて 体験する 知る 驚きが体験の側にあった 情報化社会 知る 体験する 確認になる。驚きが薄れる。 行ったことのない場所を、すでに知っている。見る前に、見え方が決まっている。 取捨選択の負担が、個人の側に移った
情報じょうほうが体験たいけんに先立さきだつ
入試にゅうし文ぶん

どこかに「正解せいかい」はあるはずなのだから、それを教おしえてくれる「情報じょうほう」を捕つかまえなければならない。そのような思おもい込こみがあって、二十にじゅう世紀末せいきまつの情報じょうほう社会しゃかいは生うまれるのだが、それがどれほど役やくに立たつものかはわからない。
しかし、「正解せいかい」につながる(はずの)情報じょうほうを仕入しいれ続つづけなければ脱落だつらく者しゃになってしまう、という思おもい込こみが、一方いっぽうにはある。だから、それをし続つづけなければならない。
それをし続つづけることによって得えることができるのは、「自分じぶんもまた『正解せいかいはどこかにある』と信しんじ込こんでいる二十にじゅう世紀せいき人ひとの一人ひとりである」という一体いったい感かんだけである。
だからこそ、情報じょうほう社会しゃかいの裏側うらがわでは、得体えたいの知しれない孤独こどく感かんもまた、同時どうじ進行しんこうでひっそりと広ひろがって行いく。情報じょうほう社会しゃかいでなにを手てに入いれられるのかは知しらないが、情報じょうほう社会しゃかいの一員いちいんにならなければ、情報じょうほう社会しゃかいから脱落だつらくした結果けっかの孤独こどくを味あじわわなければならないからである。

出典しゅってん 橋本はしもと治ち『「わからない」という方法ほうほう』 / 出題しゅつだい 専修大学せんしゅうだいがく・法学部ほうがくぶ

読解どっかいのポイント
  • どこかに「正解せいかい」があるという思おもい込こみ ↓ 情報じょうほう社会しゃかいの成立せいりつ ↓ 得体えたいの知しれない孤独こどく感かん ↓ 情報じょうほう社会しゃかいから脱落だつらくする孤独こどく
要約ようやく

「正解せいかい」につながるはずの「情報じょうほう」を手てに入いれようとすることによって情報じょうほう社会しゃかいは成立せいりつしたが、その裏側うらがわでは、情報じょうほうを手てに入いれ続つづけなければ脱落だつらく者しゃになるという不安ふあんと孤独こどくとが広ひろがっている。

語ご法ほうの観察かんさつ

量りょうの増加ぞうかを述のべたあとで、質しつの変化へんかへ転てんじる。「しかし問題もんだいは」という切きり替かえが論ろんの重心じゅうしんを示しめす。

Section 04

監視かんし社会しゃかい

144★★★

監視社会かんししゃかい

かんししゃかい[0]平板へいばん型がた

語ご構成こうせい
監かんみはる+視しみる+社会しゃかい人ひとの結むすびつき
定義ていぎ

権力けんりょくをもつ組織そしきなどに、人々ひとびとが常つねに監視かんしされている社会しゃかい。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑144
原げん書しょの解説かいせつ

監視かんし社会しゃかいに関かんする考かんがえ方かたに、哲学者てつがくしゃフーコー(1926〜1984年よねん)のものがある。

フーコーは、近代きんだいの刑務所けいむしょでは囚人しゅうじんが監視かんし者しゃに常つねに見みられているような仕組しくみになっていることに着目ちゃくもくし、監視かんしされていること(他者たしゃのまなざし)が囚人しゅうじんの服従ふくじゅうを生うみ出だすと考かんがえた。

現在げんざいの私わたしたちの生活せいかつに置おき換かえてみると、監視かんしカメラやGPS機能きのうのついた携帯電話けいたいでんわ・国民こくみん総そう背番号せばんごう(マイナンバー)制せいなども「監視かんし」の例れいとして挙あげられる。

監視かんしカメラやGPS機能きのうは、私わたしたちの安全あんぜんを守まもるものであるし、国民こくみん総そう背番号せばんごう(マイナンバー)制せいは国民こくみんへのサービスの向上こうじょうに役やく立たつものだ。

しかし、これらによって「誰だれがどこにいて何なにをしているか」が記録きろく・監視かんしされるということにもなるため、「安全性あんぜんせいや利便性りべんせいの追求ついきゅう」と「個人情報こじんじょうほう・プライバシーの保護ほご」との兼かね合あいが問題もんだいになる。

コラム

監視かんし社会しゃかいの傾向けいこうは2001年ねん9月くがつ11日じゅういちにちのアメリカ同時どうじ多発たはつテロ以降いこう強つよまり、たとえばバイオメトリクス(=指紋しもんなどの身体的しんたいてき特徴とくちょうによる生体せいたい認証にんしょう)が導入どうにゅうされるようになった。

一方いっぽう、商店街しょうてんがいの防犯ぼうはんカメラを住民じゅうみんたちで監視かんしすることや、ビッグデータの場合ばあいには人々ひとびとの動うごきを監視かんし・分析ぶんせきするのが巨大きょだいコンピュータであることを考かんがえると、監視かんしの主体しゅたいが特定とくていの権力者けんりょくしゃから市民しみんや機械きかいへと拡散かくさんしているとも考かんがえられる。

使用しようの境界きょうかい

個人こじんの行動こうどうが絶たえず記録きろくされ、管理かんりされる社会しゃかい。誰だれかが見みているという想定そうていだけで人ひとが自分じぶんを律りつする点てんを含ふくむ。

用法ようほう

要点ようてんは、監視かんしの力ちからが実際じっさいに見みられていなくても働はたらくことにある。フーコーはパノプティコン(一望いちぼう監視かんし装置そうち)を近代きんだい権力けんりょくの模型もけいとし、見みられているかもしれないという想定そうていだけで人ひとは自分じぶんを律りつすると論ろんじた。この自発的じはつてきな従じゅう順じゅんが☑138 全体ぜんたい主義しゅぎの強制きょうせいとは違ちがう。現代げんだいではカメラだけでなく、購買こうばい履歴りれき・位置いち情報じょうほう・検索けんさく履歴りれきが監視かんしの材料ざいりょうになり、監視かんしする主体しゅたいが国家こっかから企業きぎょうへ広ひろがっている点てんが新あたらしい。安全あんぜんと自由じゆうのどちらを取とるかという問といに接続せつぞくする。

用例ようれい
  • 監視かんし者しゃは見みることができるが、見みられていることは決けっして確たしかめられない。……これによって、実際じっさいには誰だれも見みていないときでさえ、監視かんしの効果こうかは持続じぞくする。ジェレミ・ベンサム『パノプティコン』(1791)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    監視かんしという技術ぎじゅつの設計せっけい思想しそうを、それを発明はつめいした当人とうにんが説明せつめいした一節いっせつである。要ようは「確たしかめられない」の一語いちごにある。見みられていると分わかるなら、見みられていないときは自由じゆうになれる。確たしかめられないなら、つねに見みられていると想定そうていして振ふる舞まうほかない。ここで監視かんしは監視かんし者しゃの労力ろうりょくから被ひ監視かんし者しゃの自己じこ抑制よくせいへ移うつし替かえられる。ベンサムはこれを費用ひようの節約せつやくとして誇ほこった。1-6 の 130 で見みたとおり、彼かれは功利こうり計算けいさんの人ひとである — 最小さいしょうの費用ひようで最大さいだいの秩序ちつじょを得える装置そうち。効率こうりつという善意ぜんいが、そのまま自由じゆうの縮小しゅくしょうになるというこの構造こうぞうが、現代げんだいの監視かんし社会しゃかい論ろんの芯しんである。
  • ビッグ・ブラザーがあなたを見みている。ジョージ・オーウェル『一いち九きゅう八はち四よん年ねん』(1949)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    七なな語ごの標語ひょうごが設計せっけい思想しそうを裏返うらがえしている。ベンサムのパノプティコンは監視かんしされていることを確たしかめられない装置そうちだった。オーウェルのポスターは監視かんししていることをわざわざ告つげる。なぜか — 告つげたほうが安やす上あがりだからだ。知しらせてしまえば、あとは各自かくじが自分じぶんを取とり締しまる。さらに注目ちゅうもくしたいのは「ブラザー(兄あに)」という語ごの選択せんたくである。独裁者どくさいしゃでも父ちちでもない。身内みうちであり、見み守まもってくれる者ものだ。監視かんしが保護ほごの顔かおをして現あらわれるという洞察どうさつが、この一語いちごに畳たたみ込こまれている — 防犯ぼうはんカメラも見み守まもりアプリも、同おなじ顔かおで我々われわれの前まえに来くる。
  • 監視かんし社会しゃかいを支ささえているのは強きょう権けんではなく、安全あんぜんと便利べんりを求もとめる我々われわれ自身じしんの要求ようきゅうである。 加害者かがいしゃを外そとに置おかないのがこの語ごの現代的げんだいてきな使つかい方かたである。カメラを増ふやせと求もとめるのは住民じゅうみんであり、位置いち情報じょうほうを差さし出だすのは自分じぶんである。1-6 の 138 の全体ぜんたい主義しゅぎが上うえから来きたのに対たいし、監視かんし社会しゃかいは下したから要請ようせいされる。
  • ×親おやに部屋へやを監視かんし社会しゃかいされている。 語ごの格かくが合あっていない。個別こべつの行為こういなら「監視かんしされている」「見み張はられている」。144 は社会しゃかい全体ぜんたいが記録きろくと照合しょうごうの網あみで覆おおわれた状態じょうたいを指さす語ごである。特定とくていの誰だれかが見みているのではなく、仕組しくみが見みているという点てんがこの語ごの核心かくしんで、見み張はる人ひとがいる場面ばめんには使つかわない。
派生はせい形けい
  • 監視かんし[0]「監かん」は上うえから見みおろす、「視し」はじっと見みる。字面じづらに上下じょうげの関係かんけいが入はいっている。対等たいとうな相手あいてには使つかわないのが原則げんそくで、「相互そうご監視かんし」という語ごが不穏ふおんに響ひびくのは、この上下じょうげが双方向そうほうこうになるからである。
  • 監視カメラかんしカメラ[5]呼よび名なが争点そうてんになる語ご。設置せっちする側がわは「防犯ぼうはんカメラ」と呼よび、批判ひはんする側がわは「監視かんしカメラ」と呼よぶ。同おなじ機械きかいに目的もくてきを書かき込こむか働はたらきを書かき込こむかの差さで、名なづけがそのまま立場たちばの表明ひょうめいになる。
  • パノプティコン[6]ベンサムが設計せっけいした一望いちぼう監視かんし施設しせつ。ギリシア語ご pan(すべて)+optikon(見みる)。実際じっさいにはほとんど建たてられなかったのに語ごだけが残のこったのは、建物たてものではなく原理げんりとして使つかえるからである。
コロケーション
  • 自発的じはつてきな服従ふくじゅう監視かんしの完成形かんせいけい見みられていることを内面化ないめんかして、自分じぶんで自分じぶんを取とり締しまる状態じょうたい。この語ごが示しめすのは、監視かんしの到達点とうたつてんが監視かんしの不要ふよう化かだという逆説ぎゃくせつである。完全かんぜんに働はたらいた監視かんし装置そうちは、もう誰だれも見みていなくてよい。ベンサムの設計せっけいが最初さいしょからそれを狙ねらっていたことは、上うえの引用いんようの通とおりだ。
  • データの集積しゅうせき現代げんだいに固有こゆうの条件じょうけん断片だんぺんとしては無む害がいな記録きろくが、集あつまると人物像じんぶつぞうを描えがくこと。この語ごが要いるのは、ひとつひとつは誰だれも監視かんしと呼よばないからだ。買かい物ものの履歴りれきも、通とおった改札かいさつも、単独たんどくでは取とるに足たりない。集積しゅうせきという操作そうさが性質せいしつそのものを変かえる — 1-2 の全体ぜんたい論ろんがここでは不吉ふきつな形かたちで当あてはまる。
  • 安全あんぜんと自由じゆうの交換こうかん取引とりひきとして見みる語ご監視かんしを論ろんじるときの基本きほんの枠組わくぐみ。ただしこの枠わくには大おおきな落おとし穴あながある — 安全あんぜんは目めに見みえ、失うしなわれた自由じゆうは目めに見みえない。事件じけんが防ふせがれたことは報ほうじられるが、萎縮いしゅくして言いわなかった言葉ことばは誰だれにも数かぞえられない。比較ひかくできない二ふたつを天秤てんびんに載のせていることに自覚じかくがいる。
  • 監視かんしの相互そうご化か向むきが増ふえる語ご国家こっかが市民しみんを見みるだけでなく、市民しみんどうしが見み合あう状態じょうたい。投稿とうこうの炎上えんじょうも、通報つうほうのしやすさも、この形かたちに属ぞくする。1-4 の 83 の世間せけんが技術ぎじゅつを得とくて距離きょりの制約せいやくを外はずしたと読よむと分わかりやすい。顔かおの見みえない相手あいてからの相互そうご監視かんしが、現代げんだいに固有こゆうの形かたちである。
格かく中なか

書かき言葉ことば・会話かいわの両方りょうほうで使つかえる。

類るい語ごと差さ
  • 管理かんり社会しゃかい人ひとが組織そしきに管理かんりされる社会しゃかい近ちかい語ご。監視かんし社会しゃかいは見みられることによる自己じこ規律きりつに重心じゅうしんがある。
  • パノプティコン一望いちぼう監視かんし装置そうちベンサムが構想こうそうした監獄かんごく。フーコーが近代きんだい権力けんりょくの模型もけいとした。
  • プライバシー私生活しせいかつが干渉かんしょうされない権利けんり侵おかされる側がわの権利けんり。監視かんし社会しゃかいはその侵害しんがいが常態化じょうたいかした状態じょうたい。
  • 全体ぜんたい主義しゅぎ全体ぜんたいのために個こを従属じゅうぞくさせる☑138。強制きょうせいによる支配しはい。監視かんし社会しゃかいは自発的じはつてきな従じゅう順じゅんを生うむ点てんが違ちがう。

ENsurveillance society
ZH监控社会(監視社会, jiānkòng shèhuì)

監視の力は、見られていなくても働く一望監視装置の原理と、監視の主体が国家から企業へ広がった現代の状況を示した図。 塔 見られているかもしれない それだけで人は自分を律する 現代の監視 カメラ購買履歴 位置情報検索履歴 監視するのは国家だけではない 安全のために、自由をどこまで手放すか。 強制ではなく、自発的な従順が生まれる
見みられていなくても、監視かんしは働はたらく
入試にゅうし文ぶん

空間くうかんの管理かんりが強迫きょうはく的てきに推すいし進すすめられていることと、身体しんたいが自じ閉へいしていくこととの間あいだには、何なにらかの関係かんけいがありそうだ。
見知みしらぬ他者たしゃへの不安ふあんがことさらに煽あおられる社会しゃかいにあっては、異質いしつな者ものを排除はいじょすることが至し上じょう命令めいれいとなる。そこにおいて過剰かじょうな危機きき管理かんり意識いしきが独どくり歩あるきを始はじめると、やがて自由じゆうが剥奪はくだつされることに抵抗ていこうを感かんじなくなる。
そして、分断ぶんだんされ、他者たしゃとつながる術じゅつを忘わすれた身体しんたいが、既存きそんの権力けんりょく装置そうちや資本しほん主義しゅぎのシステムへ容易よういに接続せつぞくされてしまう。多おおくの人ひとが、安全あんぜんや安心あんしんの代償だいしょうとして空間くうかんや身体しんたいが干渉かんしょうされることに、さほど違和感いわかんを持もっていないように見みえることの背景はいけいにはこうした変化へんかがある。
犯罪はんざい防止ぼうしの側面そくめんばかりが強調きょうちょうされがちな監視かんし社会しゃかい化かだが、より根源こんげん的てきな問題もんだいは、なし崩くずしに進行しんこうしていく空間くうかんと身体しんたいの管理かんりが、社会しゃかいのすべての成員せいいんに不可逆的ふかぎゃくてきな影響えいきょうを及およぼしていることにある。

出典しゅってん 田仲たなか康博やすひろ「空間くうかんと表象ひょうしょうの暴力ぼうりょく」 / 出題しゅつだい 佛教大学ぶっきょうだいがく・仏教ぶっきょう学部がくぶ・文学ぶんがく部ぶ・歴史学れきしがく部ぶなど

読解どっかいのポイント
  • 監視かんし社会しゃかい化か=空間くうかんと身体しんたいの管理かんり ↓ 過剰かじょうな危機きき管理かんり意識いしき ↓ 身体しんたいの分断ぶんだん・他者たしゃとつながる術じゅつの忘却ぼうきゃく ↓ 権力けんりょく装置そうちや資本しほん主義しゅぎシステムへの接続せつぞく ↓ 空間くうかんや身体しんたいへの干渉かんしょうに違和感いわかんを持もたない
要約ようやく

過剰かじょうな危機きき管理かんり意識いしきが働はたらいた結果けっか、安全あんぜんや安心あんしんの代償だいしょうとして空間くうかん・身体しんたいへの干渉かんしょうに多おおくの人ひとが違和感いわかんを持もたなくなる。「監視かんし社会しゃかい化か」の根源こんげん的てきな問題もんだいは、空間くうかんと身体しんたいの管理かんりが社会しゃかいの成員せいいんに不可逆的ふかぎゃくてきな影響えいきょうを及およぼす点てんにある。

語ご法ほうの観察かんさつ

装置そうちの説明せつめいから人ひとの内面ないめんの変化へんかへ移うつる。外側そとがわの仕掛しかけが内側うちがわを変かえるという道筋みちすじをそのまま文章ぶんしょうの構成こうせいにしている。

Section 05

システム

145★★★

システム

システム[1]頭高あたまだか型がた

定義ていぎ

個々ここの要素ようそが影響えいきょうし合あいながら、全体ぜんたいとして機能きのうするまとまりや仕組しくみ。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑145
原げん書しょの解説かいせつ

システムという考かんがえは、古代こだいギリシア哲学てつがくに由来ゆらいし、アリストテレス(紀元前きげんぜん384〜前まえ322年にじゅうにねん)は、「全体ぜんたいは部分ぶぶんの寄よせ集あつめ以上いじょうの存在そんざいである」と述のべた。

個々ここの要素ようそが複雑ふくざつにからみ合あって全体ぜんたいとして機能きのうしているものがシステムであり、「系けい」「体系たいけい」「制度せいど」「方式ほうしき」「機構きこう」「組織そしき」などと言いわれる場合ばあいもある。

システムの考かんがえ方かたは、近代きんだい科学かがくで支配しはい的てきであった要素ようそ還元かんげん主義しゅぎを否定ひていして、現代げんだい科学かがくにおける中心ちゅうしん的てきな概念がいねんの一ひとつとして確立かくりつされている。

コラム

システムというと、巨大きょだいコンピュータのように複雑ふくざつなネットワークで統御とうぎょされ、人間にんげんの感情かんじょうなど寄よせつけない不可視ふかしで冷酷れいこくなもののように思おもわれがちである。

しかし実じつは、学校がっこうで交響曲こうきょうきょくの法則ほうそくも、花はなや樹木じゅもくも、そして私わたしたち人間にんげん自身じしんも、複雑ふくざつなものがからみ合あって全体ぜんたいがつくられている以上いじょう、みな一ひとつのシステムなのだ。

とくに生物せいぶつは、「開放かいほう系けいシステム」とよばれ、外界がいかいの環境かんきょうにも柔軟じゅうなんに対応たいおうすることができる存在そんざいである。

使用しようの境界きょうかい

要素ようそが相互そうごに関係かんけいし合あって一ひとつのまとまりとして働はたらく仕組しくみ。部分ぶぶんの総和そうわでは説明せつめいできない点てんを含ふくむ。

用法ようほう

評ひょう論文ろんぶんでは「システムに組くみ込こまれる」という受うけ身みの形かたちで使つかわれることが多おおい。個人こじんの意図いととは無関係むかんけいに、仕組しくみそのものが動うごいてしまう──この自律性じりつせいが要点ようてんである。だれも望のぞんでいないのに環境かんきょうが破壊はかいされる、だれも悪わるくないのに人ひとが疲弊ひへいする。ここで☑21 疎そ外がい(自じ作物さくもつが逆ぎゃくに人ひとを支配しはいする)と☑16 自己じこ目的もくてき化か(手段しゅだんが目的もくてきになる)が同おなじ構図こうずで現あらわれる。二十にじゅう世紀せいきの哲学てつがくが関係かんけい性せいとシステムを主題しゅだいにしたのはこの認識にんしきによる。

用例ようれい
  • 彼かれは、自分じぶんの利得りとくだけを意図いとしているのだが、この場合ばあいも他ほかの多おおくの場合ばあいと同おなじように、見みえざる手てに導みちびかれて、自分じぶんの意図いとのうちにまったくなかった目的もくてきを促進そくしんすることになる。アダム・スミス『国くに富とみ論ろん』第だい四よん編へん第だい二に章しょう(1776)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    システムという語ごの最もっとも重要じゅうような性質せいしつを言いい当あてた一節いっせつである。要点ようてんは「意図いとのうちにまったくなかった」だ。システムとは、個々ここの部分ぶぶんの意図いとの総和そうわとは別べつの結果けっかを生うむ仕組しくみである。だから誰だれかを責せめても結果けっかは変かわらない。ただし注意ちゅういしたいのは、スミスがこの句くを『国くに富とみ論ろん』の中なかでたった一度いちどしか使つかっていないことだ。万能ばんのうの原理げんりとして掲かかげたのではない。後あとの時代じだいがこの一句いっくを市場しじょう礼賛らいさんの標語ひょうごに育そだてた。引用いんようが出典しゅってんから離はなれて独どくり歩あるきする典型例てんけいれいとして、読解どっかいの教訓きょうくんにもなる。
  • 私悪しあくすなわち公益こうえき。……蜂はちの巣すが栄さかえていたのは、そこに悪徳あくとくが満みちていたからである。バーナード・デ・マンデヴィル『蜂はちの寓話ぐうわ』(1714)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    スミスより六ろく十じゅう年ねん早はやく、システムの逆説ぎゃくせつを寓話ぐうわの形かたちで書かいた一節いっせつである。マンデヴィルの蜂はちの巣すでは、虚栄きょえいも嫉妬しっとも浪費ろうひも渦うず巻まいているが、それゆえに仕事しごとが生うまれ、巣そうは繁栄はんえいしている。あるとき蜂はちたちが正直しょうじきになると、巣そうは静しずまり、そして衰おとろえる。この寓話ぐうわが当時とうじ猛烈もうれつに非難ひなんされたのは、道徳どうとくと繁栄はんえいを切きり離はなしてしまったからだ。システムという見方みかたの怖こわさがここに出でている — 部分ぶぶんの善よさと全体ぜんたいの善よさは別々べつべつに決きまる。だからシステムを論ろんじる文章ぶんしょうは、つねに道徳どうとくの言葉ことばを無効むこう化かする危険きけんを抱かかえている。
  • システムという語ごは、責任せきにんの所在しょざいを人ひとから仕組しくみへ移うつす。それは分析ぶんせきの前進ぜんしんであると同時どうじに、免責めんせきの口実こうじつにもなる。 両面りょうめんを同時どうじに押おさえるのがこの語ごの扱あつかい方ほうである。仕組しくみのせいだと言いえるようになったことで個人こじん攻撃こうげきを避さけて原因げんいんに迫せまれるようになったが、同時どうじに「システムだから仕方しかたない」という逃にげ道みちも生うまれた。
  • ×新あたらしいシステムを導入どうにゅうして業務ぎょうむを効率こうりつ化かした。 日常にちじょう語ごとしては正ただしいが、評ひょう論語ろんごの 145 とは別べつである。この文ぶんの「システム」は装置そうちや仕組しくみという意味いみの一般いっぱん名詞めいしだ。評ひょう論語ろんごのシステムは部分ぶぶんの意図いとを超こえて自分じぶんの論理ろんりで動うごく全体ぜんたいを指さし、導入どうにゅうしたり取とり替かえたりできるものではない。
派生はせい形けい
  • 体系たいけい[0]system の古ふるい訳語やくご。「知識ちしきの体系たいけい」のように整理せいりされた全体ぜんたいを指さす。評ひょう論語ろんごのシステムが動うごいている仕組しくみを指さすのに対たいし、体系たいけいは静止せいしした配置はいちを指さす。動うごくかどうかが訳語やくごの分わかれ目めである。
  • システム化[0]手て作業さぎょうを仕組しくみに置おき換かえること。日常にちじょう語ごでは肯定的こうていてきだが、評ひょう論文ろんぶんでは判断はんだんが人ひとの手てを離はなれるという意味いみで使つかわれることがある。効率こうりつ化かと裁量さいりょうの喪失そうしつは同おなじことの表ひょうと裏うらだ。
  • システマティック[5]形容詞けいようし形けい。「体系的たいけいてきな」「組織的そしきてきな」の意い。注意ちゅういしたいのは、この語ごにはほぼつねに肯定こうていの色いろが付つくことだ。同おなじ事態じたいを「システマティックな管理かんり」と書かくか「機械的きかいてきな管理かんり」と書かくかで、読よみ手ての受うける印象いんしょうは逆ぎゃくになる。
コロケーション
  • システムの論理ろんり意志いしを持もたない主語しゅご「経営けいえい者しゃの論理ろんり」ではなく「システムの論理ろんり」と書かく語ご法ほう。1-6 の 128 で見みた「資本しほんの論理ろんり」と同おなじ構文こうぶんである。この主語しゅごを選えらぶと、善人ぜんにんが善意ぜんいで動うごいても悪わるい結果けっかが出でるという事態じたいが書かける。誰だれも悪わるくないのに誰だれかが傷きずつく場面ばめんを説明せつめいするための道具どうぐだ。
  • 生活せいかつ世界せかいの植民地しょくみんち化か境さかいを越こえる語ご本来ほんらいは話はなし合あいと合意ごういで動うごくべき領域りょういきに、効率こうりつと貨幣かへいの論理ろんりが入はいり込こむこと。「植民地しょくみんち化か」という強つよい語ごが選えらばれるのは、侵入しんにゅうした側がわの論理ろんりが現地げんちの論理ろんりを置おき換かえてしまうからだ。介護かいごに「回転かいてん率りつ」が、教育きょういくに「費用対効果ひようたいこうか」が入はいるとき、言葉ことばごと入いれ替かわる。
  • システムの自己じこ目的もくてき化か目的もくてきが消きえる語ご仕組しくみが、もともと何なにのためだったかを忘わすれ、自分じぶんの維持いじを目的もくてきにすること。書類しょるいのための書類しょるい、会議かいぎのための会議かいぎ。1-6 の 121 の道具どうぐ的てき理性りせいと同おなじ転倒てんとうだが、こちらは個人こじんではなく組織そしきに起おきる。誰だれも望のぞんでいないのに止とめられないのが特徴とくちょうである。
  • システムからの逃走とうそう外そとに出でようとする語ご仕組しくみの外そとへ出でようとする試こころみ。この語ごを使つかう文章ぶんしょうがたいてい失敗しっぱいの物語ものがたりになるのは、逃走とうそうの手段しゅだんそのものがシステムから供給きょうきゅうされているからだ。田舎暮いなかぐらしも、デジタル断たちも、商品しょうひんとして買かえる。1-6 の 140 で見みた「抵抗ていこうの回収かいしゅう」と同おなじ構図こうずである。
格かく中なか

書かき言葉ことば・会話かいわの両方りょうほうで使つかえる。

類るい語ごと差さ
  • 体系たいけい筋道すじみち立たてて組くみ立たてられたもの訳語やくご。静的せいてきな組くみ立たてに重心じゅうしんがある。システムは動うごきと働はたらきを含ふくむ。
  • 構造こうぞう要素ようその関係かんけいの骨組ほねぐみ☑151 構造こうぞう主義しゅぎと接続せつぞくする。構造こうぞうは関係かんけいの型かた、システムは働はたらく全体ぜんたい。
  • 組織そしき目的もくてきのために作つくられた集あつまり人ひとの集あつまり。システムは仕組しくみそのもの。
  • 複雑系ふくざつけい相互作用そうごさようで全体ぜんたいが決きまる系けい☑44。システムの一種いっしゅで、予測よそくできないものを指さす。

ENsystem
ZH系统(システム, xìtǒng)

システムの自律性誰も望んでいないのに仕組みそのものが動いてしまうという、システムの自律性を示した図。 個人個人個人 誰も望んでいない システム 結果が生じる 誰の責任でもない 個人の意図とは無関係に、仕組みそのものが動いてしまう。 ☑21 疎外・☑16 自己目的化と同じ構図がここにある
誰だれも望のぞんでいないのに、動うごいてしまう
入試にゅうし文ぶん

地域社会ちいきしゃかいの弱体化じゃくたいかというのは、とりわけ根ねの深ふかい問題もんだいである。
通つう勤きんというかたちでの就労しゅうろう(職しょく住じゅう一致いっちの解消かいしょう)、物流ぶつりゅうの広こう領域りょういき化か(地域ちいき内ないでの交換こうかん・物流ぶつりゅうの崩壊ほうかい)、金融きんゆうと販売はんばいのネットワークの全国ぜんこくチェーン化か……。日常にちじょうの消費しょうひ行動こうどうも、そうした地域社会ちいきしゃかいを超こえたシステムにいわばぶら下さがるかたちでしかなしえなくなっている。
銀行ぎんこう、通信つうしん・放送ほうそうサービス、大型おおがたスーパー、コンビニという全国ぜんこくに張はられたネットワークを外はずれたところでは、個人こじんの生活せいかつもとたんに滞とどこおる。
中間ちゅうかん共同体きょうどうたいの消失しょうしつというのは、このように「国家こっか」と企業きぎょうネットワークという二ふたつの巨大きょだいシステムが社会しゃかいの微細びさいな神経しんけいとして、個人こじんの日常にちじょう生活せいかつをその隅々すみずみまで侵蝕しんしょくしてきている事実じじつと相そう即そくするものである。
個人こじんはいま、家族かぞくや会社かいしゃのしがらみに窒息ちっそくしそうになっているというよりも、むしろ個ことしてむきだしのまま、巨大きょだいシステムからなる「社会しゃかい」なるもののなかをばらばらに漂流ひょうりゅうしていると言いったほうが、すくなくとも現代人げんだいじんの大方おおかたの生活せいかつ感覚かんかくとしてはリアルである。

出典しゅってん 鷲田わしだ清一せいいち『〈ひと〉の現象学げんしょうがく』 / 出題しゅつだい 駒澤大学こまざわだいがく・文学ぶんがく部ぶ・仏教ぶっきょう学部がくぶ・法学部ほうがくぶなど

読解どっかいのポイント
  • 地域社会ちいきしゃかいの弱体化じゃくたいか・中間ちゅうかん共同体きょうどうたいの消失しょうしつ ↓ 「国家こっか」と企業きぎょうネットワークとが、個人こじんの日常にちじょう生活せいかつを侵蝕しんしょく
要約ようやく

地域社会ちいきしゃかいの弱体化じゃくたいかと中間ちゅうかん共同体きょうどうたいの消失しょうしつとは、「国家こっか」と企業きぎょうネットワークという巨大きょだいシステムが個人こじんの日常にちじょう生活せいかつを侵蝕しんしょくしている事実じじつと関係かんけいする。人々ひとびとは個このまま、巨大きょだいシステムからなる「社会しゃかい」のなかをばらばらに漂流ひょうりゅうしている。

語ご法ほうの観察かんさつ

主語しゅごを人ひとから仕組しくみへ移うつす。「システムが〜する」という書かき方かたそのものが、自律性じりつせいという主題しゅだいを体現たいげんしている。

Section 06

装置そうち

146★★

装置そうち⚠

そうち[1]頭高あたまだか型がた

語ご構成こうせい
装そうよそおう・そなえる+置おきおく
定義ていぎ

ある目的もくてきに沿そって、機械きかい・設備せつびなどを設もうけること。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑146
原げん書しょの解説かいせつ

現在げんざい、インターネットに代表だいひょうされるように情報じょうほう技術ぎじゅつが飛躍ひやく的てきに発展はってんしているが、パソコンや携帯電話けいたいでんわは、こうした情報処理じょうほうしょりのための装置そうちである。

また、装置そうちという言葉ことばは比喩的ひゆてきにも用もちいられる。たとえば、学校がっこう(教育きょういく)・家族かぞく・法律ほうりつなどのさまざまな制度せいどは、国家こっかを安定あんていさせるためにある規範きはんを注入ちゅうにゅうする〈装置そうち〉、さらには国家こっかそのものも〈装置そうち〉だという考かんがえもある。

コラム

「信しんじるから祈いのるのではない。祈いのるから信しんじるのだ」というのはブレーズ・パスカル(1623〜1662年ねん)の言葉ことばだが、祈いのる時ときの身みぶりや作法さほうが敬虔けいけんな信仰しんこうを促うながすということがあり得える。

学校がっこうでの朝礼ちょうれいや出欠しゅっけつ確認かくにん、掃除そうじ当とう番ばんなどもまた、従じゅう順じゅんな生せい徒とを育そだて、やがて勤勉きんべんな人間にんげんとして社会しゃかいに送おくり出だすという側面そくめんもあるだろう。

こうした意味いみでは、学校がっこう(教育きょういく)も装置そうちなのである。

使用しようの境界きょうかい

特定とくていの働はたらきを生うみ出だすために組くまれた仕組しくみ。機械きかいそのものではなく、人ひとを一定いっていの形かたちに作つくる仕掛しかけを指さす。

用法ようほう

評ひょう論文ろんぶんの「装置そうち」は比喩ひゆである。機械きかいを指さすのではなく、人ひとや社会しゃかいに特定とくていの効果こうかを生うみ出だす仕掛しかけを指さす。学校がっこうは国民こくみんを作つくる装置そうち、監獄かんごくは従じゅう順じゅんな身体しんたいを作つくる装置そうち、といった使つかい方かたをする。要点ようてんは、その仕掛しかけが意図いとを超こえて働はたらくことにある。誰だれかが悪意あくいで設計せっけいしたのではなく、置おかれているだけで効果こうかを生うむ。文化ぶんかを「秩序ちつじょを創つくり出だす装置そうち」と呼よんだ原げん書しょ ☑5 秩序ちつじょの入試にゅうし文ぶんも、この用法ようほうである。

用例ようれい
  • 複製ふくせい技術ぎじゅつは、複製ふくせいされたものを伝統でんとうの領域りょういきから引ひき離はなす。……そこで滅ほろびゆくものは、芸術げいじゅつ作品さくひんのアウラである。ヴァルター・ベンヤミン『複製ふくせい技術ぎじゅつ時代じだいの芸術げいじゅつ作品さくひん』(1936)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    装置そうちが内容ないようではなく経験けいけんの条件じょうけんを変かえることを示しめした一節いっせつである。絵えの写真しゃしんは絵えと同おなじ図ず柄がらを持もつ。変かわったのは中身なかみではない。変かわったのは「ここに一ひとつだけある」という事実じじつのほうだ。ベンヤミンはそれをアウラと呼よんだ。注目ちゅうもくしたいのは、彼かれがこれを嘆なげいていないことだ。アウラが消きえることで芸術げいじゅつは儀ぎ礼れいから解放かいほうされ、政治せいじの道具どうぐになりうると彼かれは書かく。技術ぎじゅつは良よくも悪わるくもなく、ただ可能性かのうせいの配置はいちを組くみ替かえる — これが 146 の装置そうちという語ごの使つかい方かたである。同おなじ複製ふくせい技術ぎじゅつが、大衆たいしゅう芸術げいじゅつもナチスの宣伝せんでんも可能かのうにした。
  • それは奇妙きみょうな装置そうちだ、と士し官かんは言いった。……この装置そうちがこれまでにどう働はたらいてきたか、いま自分じぶんの目めで確たしかめられます。フランツ・カフカ『流刑るけい地ちにて』(1919)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    装置そうちという語ごの不気味ぶきみさを文学ぶんがくが先さきに掴つかんでいた例れいである。この短編たんぺんで処刑しょけい機械きかいを説明せつめいする士し官かんは、残酷ざんこくなのではなく、熱心ねっしんなのだ。彼かれは装置そうちの設計せっけいの美うつくしさを誇ほこらしげに語かたり、それが人ひとを殺ころすことは説明せつめいの一部いちぶでしかない。ここに 146 の核心かくしんがある — 装置そうちは、それを運用うんようする者ものの道徳どうとくを必要ひつようとしない。必要ひつようなのは正ただしく作動さどうさせる技能ぎのうだけだ。1-6 の 121 の道具どうぐ的てき理性りせいが物ものの形かたちをとるとこうなる。そして最後さいごに士し官かん自身じしんがその装置そうちに入はいるとき、装置そうちは作つくった者ものすら例外れいがいにしないことが示しめされる。
  • 学校がっこうは、知識ちしきを伝つたえると同時どうじに、時間じかんを守まもり列れつに並ならぶ身体しんたいを作つくる装置そうちでもあった。 表ひょう向むきの目的もくてきと実際じっさいの働はたらきを分わけるのがこの語ごの使つかい方かたである。嘘うそをついているのではない。知識ちしきも本当ほんとうに伝つたえている。ただし同時どうじに別べつのこともしている。装置そうちという語ごは、この「同時どうじに」を書かくために要いる。
  • ×実験じっけん用ようの装置そうちが人間にんげんを規律きりつ化かしている。 物ものとしての機械きかいと概念がいねんとしての装置そうちを混まぜている。評ひょう論語ろんごの 146 は建物たてもの・規則きそく・言説げんせつ・習慣しゅうかんが組くみ合あわさって一定いっていの主体しゅたいを作つくり出だす仕掛しかけの全体ぜんたいを指さす。機械きかいそのものではない。物ものを言いいたいなら「機器きき」「設備せつび」を使つかう。
派生はせい形けい
  • 装置そうち[1]日常にちじょう語ごでは機械きかいや設備せつびを指さす。評ひょう論語ろんごでは物もの・制度せいど・言説げんせつの組くみ合あわせ全体ぜんたいを指さすので、指さす範囲はんいが桁違けたちがいに広ひろい。文中ぶんちゅうで「〜という装置そうち」の形かたちなら評ひょう論語ろんご、「〜の装置そうち」なら物もののことが多おおい。
  • 仕掛けしかけ[0]和わ語ごの言いい換かえ。「装置そうち」より柔やわらかく、作さく為いの匂においが強つよい。「そういう仕掛しかけになっている」と言いえば誰だれかが仕組しくんだという含ふくみが出でる。意図いとなき権力けんりょくを書かきたいなら「装置そうち」のほうが正確せいかくである。
  • 機構きこう[1]制度せいどの側がわに寄よった語ご。「意思決定いしけっていの機構きこう」のように組織そしきの仕組しくみを指さす。装置そうちが人ひとを作つくり変かえる働はたらきに焦点しょうてんを置おくのに対たいし、機構きこうは物事ものごとが処理しょりされる経路けいろに焦点しょうてんを置おく。
コロケーション
  • 権力けんりょくの装置そうち中核ちゅうかくの言いい方かた人ひとを強制きょうせいするのではなく、特定とくていのふるまいを自然しぜんに感かんじさせる仕掛しかけ。この語ごが有効ゆうこうなのは、命令めいれい者しゃを探さがさなくてよいからだ。時間じかん割わりも、机つくえの並ならびも、誰だれかが悪意あくいで作つくったのではない。それでも特定とくていの身体しんたいを確実かくじつに作つくり出だす。意図いとなき権力けんりょくを書かくための語ごである。
  • 規律きりつ化か身体しんたいに働はたらく語ご身体しんたいの動うごかし方ほうの水準すいじゅんで人ひとを作つくり変かえること。思想しそうを変かえるのではない。姿勢しせい・速度そくど・順番じゅんばんを整ととのえるのだ。この水準すいじゅんの変更へんこうは反論はんろんできないところが恐おそろしい — 意見いけんには反対はんたいできるが、習慣しゅうかんになった身体しんたいには反対はんたいしようがない。
  • 装置そうちとして働はたらく主語しゅごの置おき換かえ「AはBという装置そうちとして働はたらく」という言いい方かた。この構文こうぶんが便利べんりなのは、Aの本来ほんらいの目的もくてきを否定ひていせずに別べつの働はたらきを指摘してきできるからだ。病院びょういんは人ひとを治なおす。そのうえで、正常せいじょうと異常いじょうを線引せんびきする装置そうちとしても働はたらく。「でもある」の議論ぎろんを立たてるための型かたである。
  • 装置そうちの外部がいぶ出でられるかを問とう語ご装置そうちに捉とらえられていない場所ばしょ。この語ごが問題もんだいになるのは、外部がいぶを指さす言葉ことば自体じたいが装置そうちの内側うちがわで作つくられているからだ。「自然しぜんに戻もどる」も「本当ほんとうの自分じぶん」も、装置そうちが用意よういした出口でぐちの看板かんばんかもしれない。1-4 の 76 で見みた袋小路ふくろこうじが、ここでも同おなじ形かたちで現あらわれる。
格かく硬かた

書かき言葉ことば。会話かいわでは不自然ふしぜん。

類るい語ごと差さ
  • システム要素ようそが関係かんけいして働はたらく全体ぜんたい☑145。システムは全体ぜんたい、装置そうちは特定とくていの効果こうかを生うむために組くまれた部分ぶぶん。
  • 制度せいど社会しゃかいに定さだめられたしくみ☑78。制度せいどは共有きょうゆうされた取とり決きめ。装置そうちは効果こうかを生うむ仕掛しかけという機能きのう面めんに重心じゅうしん。
  • 機構きこう組くみ立たてられた仕組しくみ組織そしきの骨組ほねぐみ。装置そうちは働はたらきを生うむ点てんを強調きょうちょうする。
  • メカニズム働はたらきの仕組しくみ過程かていの説明せつめい。装置そうちは仕掛しかけそのもの。

ENapparatus / device
ZH装置(設備・装置, zhuāngzhì)

日中にっちゅうのズレ

中国語ちゅうごくごの 装置そうち(zhuāngzhì)は物理的ぶつりてきな設備せつび・機器ききを指さし、比喩的ひゆてきな用法ようほうはほとんどない。

日本語にほんごの評ひょう論語ろんごとしての「装置そうち」は、中国語ちゅうごくごでは 机つくえ制せい(jīzhì) や 机つくえ器き(jīqì) の比喩ひゆで表あらわされる。

装置は人を一定の形につくる学校・監獄・工場・病院といった装置が、置かれているだけで特定の効果を生むことを示した図。 ばらばらの人 装置 学校監獄 工場病院 置かれているだけで効果を生む 国民・受刑者・労働者・患者 一定の形をもった存在になる 誰かが悪意で設計したのではない。仕掛けが意図を超えて働く。
装置そうちは人ひとを一定いっていの形かたちにつくる
入試にゅうし文ぶん

「つながりの社会しゃかい性せい」につながっていることの確認かくにんのために、携帯電話けいたいでんわの通話つうわボタンを押おす。ここでは、通話つうわの相手あいては誰だれであってもかまわない。だれかとつながっているということが確認かくにんできさえすればいい。
北田きただが指摘してきする「つながりの社会しゃかい性せい」への強迫きょうはく観念かんねんは、ツイッターやフェイスブックをはじめとするソーシャルネットワークの登場とうじょうにともないいっそう亢進こうしんしていくだろう。
この状況じょうきょうを、どのようにして捉とらえ、考かんがえたらいいのか。装置そうちが集積しゅうせきされ、増殖ぞうしょくしていくことにともない、個々人ここじんの生せいが、従じゅう順じゅんになり、惰性だせい的てきになっていく。現状げんじょうに無関心むかんしんになり、感覚かんかくが摩耗まもうしていく。
これにかんしては、アガンベンがいうように、キリスト教きょうなどの「宗教的しゅうきょうてきな範疇はんちゅう」を用もちいて説明せつめいしてもあまり意味いみがない。
監視かんしカメラであれ、携帯電話けいたいでんわであれ、現代げんだいにあって装置そうちは、物ものとして使用しようされることにより人間にんげんの生せいを捕捉ほそくし、制御せいぎょし鋳造ちゅうぞうする。装置そうちは、物ものとして生産せいさんされ、受容じゅようされ使用しようされることをつうじて、生活せいかつ様式ようしき、感覚かんかく、習慣しゅうかん、関係かんけい性せいのあり方かたに影響えいきょうを及およぼし、それらをつくりかえていく。
※北田きただ=社会学しゃかいがく者しゃの北田暁大きただあきひろ。
※アガンベン=イタリアの哲学者てつがくしゃ。

出典しゅってん 篠原雅武しのはらまさたけの文章ぶんしょう / 出題しゅつだい 甲南大学こうなんだいがく・文学ぶんがく部ぶ・経済学部けいざいがくぶ・法学部ほうがくぶなど

読解どっかいのポイント
  • 「つながりの社会しゃかい性せい」への強迫きょうはく観念かんねんの亢進こうしん ↓ 装置そうちの集積しゅうせき・増殖ぞうしょく ↓ 人間にんげんの生せいを捕捉ほそくし、制御せいぎょし鋳造ちゅうぞうする ↓ 生活せいかつ様式ようしき、感覚かんかく、習慣しゅうかん、関係かんけい性せいに影響えいきょうを及およぼし、つくりかえていく
要約ようやく

「つながりの社会しゃかい性せい」への強迫きょうはく観念かんねんは、ソーシャルネットワークの登場とうじょうにともない亢進こうしんしていくだろう。これは、装置そうちが人々ひとびとの生活せいかつ様式ようしきや感覚かんかくなどのあり方かたに影響えいきょうを及およぼし、つくりかえていくという状況じょうきょうを表あらわしている。

語ご法ほうの観察かんさつ

比喩ひゆであることを断ことわらずに使つかう。読者どくしゃが字義じぎ通とおりに読よむと通つうじない箇所かしょが、そのまま設問せつもんになる。

Section 07

リスク

147★★

リスク

リスク[1]頭高あたまだか型がた

定義ていぎ

ある行動こうどうや選択せんたくを行おこなう際さいに発生はっせいし得える危険きけん。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑147
原げん書しょの解説かいせつ

東日本大震災ひがしにほんだいしんさいのような地震じしんやそれに伴ともなう津波つなみは、人間にんげんの判断はんだんや選択せんたくが関与かんよせずに起おきるもので、自然しぜん災さい害がいがもたらす危険きけん性せい(danger)である。

一方いっぽう、原発げんぱつの計画けいかくや再さい稼働かどう・廃止はいしといったことになると、人間にんげんの判断はんだんとそれに伴ともなう責任せきにんが加くわわる。こうした時ときに予見よけんされる危険きけん性せいをリスク(risk)と言いう。

また、金融きんゆう商品しょうひんへの投資とうしや投機とうきもリスクに満みちた経済けいざい活動かつどうであろう。現代げんだいの先進せんしん諸国しょこくは、科学技術かがくぎじゅつと産業さんぎょうの高度こうど化かによって、多おおくのリスクが入はいり乱みだれる〈リスク社会しゃかい〉になったと言いわれている。

コラム

企業きぎょう経営けいえいにおいて、リスクを組織的そしきてきに管理かんりし、損失そんしつを事前じぜんに避さけたり減へらしたりすることを「リスクマネジメント」というが、経営けいえいだけでなく、自然しぜん災さい害がい・事故じこなどに対たいしてもリスクマネジメントが求もとめられる時代じだいになってきた。

一方いっぽう、遺伝子いでんし検査けんさでがんになる確率かくりつが高こうければ、がんに侵おかされると予想よそうされる臓器ぞうきを除去じょきょしたり、胎児たいじ診断しんだんにおいて胎児たいじに異常いじょうが見みつかった場合ばあいに中絶ちゅうぜつするなど、リスクを回避かいひするための処置しょちが取とられるようになった。

しかし、先端せんたん医療いりょうのあり方かたでは倫理的りんりてきな問題もんだいも多おおく指摘してきされている。

使用しようの境界きょうかい

起おこりうる損失そんしつを、確率かくりつとして見積みつもったもの。単たんなる危険きけんではなく、計算けいさんされている点てんが要点ようてん。

用法ようほう

日常にちじょう語ごでは「危険きけん」と同義どうぎに使つかわれるが、本来ほんらいは確率かくりつとして計算けいさんされている点てんが違ちがう。この違ちがいが評ひょう論文ろんぶんで効きいてくる。ベックは、近代きんだいが富とみを生うむ社会しゃかいからリスクを分配ぶんぱいする社会しゃかいへ変かわったと論ろんじた。原発げんぱつ事故じこ・気候きこう変動へんどう・感染症かんせんしょうは、誰だれかの悪意あくいではなく近代きんだいの成功せいこうそのものが生うんだ危険きけんであり、国境こっきょうも階級かいきゅうも越こえる。ここが要点ようてんで、リスクは科学技術かがくぎじゅつの副産物ふくさんぶつとして近代きんだい批判ひはんに接続せつぞくする。「自己じこ責任せきにん」(☑160)と結むすびつくと、リスクの負担ふたんが個人こじんに転嫁てんかされる。

用例ようれい
  • 我々われわれが将来しょうらいの利り回まわりを見積みつもる基礎きそとなる知識ちしきは、きわめて薄弱はくじゃくである。……率直そっちょくに言いえば、我々われわれはただ知しらないのだと認みとめねばならない。ジョン・メイナード・ケインズ『雇用こよう・利子りしおよび貨幣かへいの一般いっぱん理論りろん』第だい十二じゅうに章しょう(1936)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    計算けいさんできる危険きけんと計算けいさんできない不確ふたしかさを分わけた議論ぎろんの代表だいひょう例れいである。注目ちゅうもくしたいのは、経済学けいざいがくの書物しょもつが「我々われわれはただ知しらない」と書かいていることだ。確率かくりつが計算けいさんできる事柄ことがらなら保険ほけんをかけられる。ところが十じゅう年後ねんごに何なにが起おきるかは確率かくりつすら分わからない。それでも人ひとは投資とうしする — ケインズはその動機どうきを「血気けっき(アニマル・スピリット)」と呼よんだ。合理的ごうりてき計算けいさんでは説明せつめいできない何なにかが経済けいざいを動うごかしているというこの指摘してきは、1-6 の 121 の近代きんだい合理主義ごうりしゅぎへの内側うちがわからの修正しゅうせいである。
  • 天てん災さいは忘わすれられたる頃ころ来くる。……文明ぶんめいが進すすめば進すすむほど天然てんねんの暴ぼう威いによる災さい害がいがその劇烈げきれつの度どを増ます。寺田てらだ寅彦とらひこ『天てん災さいと国防こくぼう』(1934)
    リスクが文明ぶんめいとともに増ふえることを言いい当あてた一節いっせつである。直感ちょっかんに反はんする主張しゅちょうだが、理屈りくつは明快めいかいだ — 文明ぶんめいは、壊こわれると困こまるものを大量たいりょうに作つくる。堤防ていぼうは水みずを防ふせぐが、堤防ていぼうを信しんじて低てい地ちに町まちができる。防ふせいだ結果けっか、被害ひがいの規模きぼが大おおきくなる。さらに前半ぜんはんの一句いっくが鋭するどい — 「忘わすれられたる頃ころ」。災さい害がいの周期しゅうきが人ひとの記憶きおくの長ながさを超こえると、備そなえは必かならず解とける。技術ぎじゅつではなく記憶きおくがリスク対策たいさくの律速りっそくになるというこの洞察どうさつは、現代げんだいの防災ぼうさい論ろんがいまだに追おいついていない。
  • 現代げんだいのリスクは、自然しぜんが与あたえるものではなく、人間にんげんの決定けっていが生うみ出だしたものである。 この一文いちぶんが現代げんだいのリスク論ろんの出発点しゅっぱつてんである。地震じしんは決定けっていの結果けっかではないが、原発げんぱつの立地りっちは決定けっていの結果けっかだ。決定けっていである以上いじょう、誰だれが決きめたのかを問とえる — だからリスクの議論ぎろんは必かならず責任せきにんの議論ぎろんになる。
  • ×この計画けいかくにはリスクがあるので、絶対ぜったいに避さけるべきだ。 リスクを「危険きけん」の言いい換かえにしている。リスクは起おこりうる損失そんしつの大おおきさと確たしからしさの積せきを指さす語ごで、あるかないかではなく大おおきいか小ちいさいかで語かたる。リスクゼロの選択肢せんたくしは存在そんざいしないため、「リスクがあるから避さける」は論ろんとして成なり立たたない。
派生はせい形けい
  • 危険きけん[0]リスクとは指さす層そうが違ちがう。危険きけんは害がいそのもの(危険きけんな場所ばしょ)、リスクは害がいが起おこる見込みこみも含ふくんだ量りょう。「危険きけん性せい」ならリスクに近ちかづくが、評ひょう論文ろんぶんでは確率かくりつを含ふくむかどうかで使つかい分わける。
  • 不確実性ふかくじつせい[0]確率かくりつすら分わからない状態じょうたい。リスクが賭かけのオッズが分わかっているのに対たいし、不ふ確実性かくじつせいは何なにが起おこりうるかの一覧いちらんすら作つくれない。この二ふたつを混まぜると、計算けいさんできないものを計算けいさんしたふりをすることになる。
  • リスクヘッジ[4]損失そんしつに備そなえて手てを打うつこと。保険ほけん・分散ぶんさん・撤退てったいの選択肢せんたくしをあらかじめ用意よういする。注意ちゅういしたいのは、ヘッジには費用ひようがかかることだ。備そなえすぎて機会きかいを失うしなうのも一ひとつの損失そんしつであり、リスク管理かんりとはゼロにすることではなく釣つり合あわせることである。
コロケーション
  • リスク社会しゃかい時代じだいを名なづける語ご富とみの分配ぶんぱいよりリスクの分配ぶんぱいが中心ちゅうしん問題もんだいになった社会しゃかい。この語ごの鋭するどさは、近代きんだいが成功せいこうしたがゆえに新あたらしい問題もんだいを作つくったと見みる点てんにある。飢うえを克服こくふくした技術ぎじゅつが放射ほうしゃ能のうと気候きこう変動へんどうを生うむ。1-6 の 119 の「近代きんだい化かの代償だいしょう」が、時間じかんを隔へだてて請求せいきゅうされている。
  • リスクの個人こじん化か責任せきにんが移うつる語ご社会しゃかいが引ひき受うけていた不確ふたしかさが、個人こじんの選択せんたくの問題もんだいに置おき換かえられること。終身雇用しゅうしんこようが消きえれば職しょくを失うしなう危険きけんは「キャリア設計せっけいの失敗しっぱい」になる。同おなじ出来事できごとが、社会しゃかいの問題もんだいから本人ほんにんの落おち度どへ書かき換かえられる — 160 の自己じこ責任せきにんへ、ここからまっすぐつながる。
  • 予防よぼう原則げんそく証明しょうめいを待またない語ご害がいが証明しょうめいされていなくても疑うたがいがあれば手てを打うつという考かんがえ方かた。これが必要ひつようになるのは、証明しょうめいを待まっていると取とり返かえしがつかない領域りょういきがあるからだ。ただし裏面りめんもある — 証明しょうめいを要求ようきゅうしないことは、あらゆる規制きせいを正当化せいとうかしうる。どこまで疑うたがえば十分じゅうぶんかという線引せんびきの問題もんだいが残のこる。
  • リスクを引ひき受うける主体しゅたいを問とう語ご誰だれが損失そんしつを負担ふたんするかという問とい。この結むすびつきが政治的せいじてきなのは、リスクを作つくる者ものと引ひき受うける者ものがたいてい別人べつじんだからである。利益りえきは集中しゅうちゅうし、リスクは薄うすく広ひろく分散ぶんさんされる。この非対称ひたいしょうを書かけるかどうかが、リスク論ろんの質しつを決きめる。
格かく中なか

書かき言葉ことば・会話かいわの両方りょうほうで使つかえる。

類るい語ごと差さ
  • 危険きけん害がいが生しょうじるおそれ訳語やくご。差さし迫せまった害がいそのもの。リスクは確率かくりつとして扱あつかわれる。
  • 蓋然がいぜん起おこる確たしからしさ☑8 と接続せつぞくする。リスクはその負ふの側面そくめんを経済的けいざいてきに扱あつかう語ご。
  • 不ふ確実性かくじつせい確率かくりつすら見み積せきもれない状態じょうたい経済学けいざいがくでは区別くべつする。リスクは計算けいさんできる、不ふ確実性かくじつせいは計算けいさんできない。
  • ハザード害がいをもたらす原因げんいんそのもの危険源きけんげん。リスクはそれが実現じつげんする確率かくりつと被害ひがいの大おおきさの積せき。

ENrisk
ZH风险(リスク, fēngxiǎn)

リスク社会富を分配する社会からリスクを分配する社会への転換と、リスクが近代の成功の副産物であることを示した図。 富を分配する社会 どう豊かになるかを争う リスクを分配する社会 誰が危険を負うかを争う リスクの出どころ 原発気候変動感染症 国境も階級も越える 誰かの悪意ではなく、近代の成功そのものが生んだ危険である。 失敗の産物ではない。ここが要点になる。
富とみを分配ぶんぱいする社会しゃかいから、リスクを分配ぶんぱいする社会しゃかいへ
入試にゅうし文ぶん

リスクとは何なにか? リスクは、とりたてて現代げんだいに――後期こうき近代きんだいに――現あらわれたものではなく、伝統でんとう社会しゃかいにもあふれていたのではないか? たとえば自然しぜん災さい害がいの脅威きょうい――それは伝統でんとう社会しゃかいにおいてより大おおきかったはずである――は、リスクではないのか?
そうではない。そのことを理解りかいするためには、リスク(risk)と危険きけん(danger)との相違そういを把握はあくしておかなくてはならない。
ルーマンがとりわけ強調きょうちょうしていることだが、リスクは、選択せんたく・決定けっていとの相関そうかんでのみ現あらわれる。リスクは、選択せんたく・決定けっていに伴ともなう不ふ確実性かくじつせい(の認知にんち)に関連かんれんしているのだ。
リスクとは、何事なにごとかを選択せんたくしたときに、それに伴ともなって生しょうじると認知にんちされた――不ふ確実かくじつな――損害そんがいのことなのである。
それゆえ、地震じしんや旱魃かんばつのような天てん災さい、突然とつぜん外がいから襲おそってくる敵てき(民衆みんしゅうにとっての)暴ぼう政せいなどは、リスクではない。それらは、自みずからの選択せんたくの帰結きけつとは認識にんしきされていないからである。
とすれば、リスクが一般化いっぱんかするのは、少すくなくとも近代きんだい以降いこうだということになる。社会しゃかいの規範きはんやその環境かんきょうが、人間にんげんの選択せんたくの産物さんぶつであるとの自覚じかくが確立かくりつした後あとでなければ、そもそも、リスクが現あらわれようがないからである。

出典しゅってん 大澤おおさわ真幸まさき『不可能ふかのう性せいの時代じだい』 / 出題しゅつだい 福岡教育大学ふくおかきょういくだいがく

読解どっかいのポイント
  • リスク(risk)=選択せんたく・決定けってい時じに生しょうじる不ふ確実かくじつな損害そんがい
  • 危険きけん(danger)とは異ことなる
  • 近代きんだい以降いこう=規範きはんや環境かんきょうが、人間にんげんの選択せんたくの産物さんぶつという自覚じかくの確立かくりつ後ご
要約ようやく

リスクとは、何事なにごとかの選択せんたく・決定けっていに伴ともなって生しょうじる不ふ確実かくじつな損害そんがいのことである。リスクは、規範きはんや環境かんきょうが人間にんげんの選択せんたくの産物さんぶつであるという自覚じかくが確立かくりつした近代きんだい以降いこうに一般化いっぱんかした。

語ご法ほうの観察かんさつ

日常にちじょう語ごとの差さを先さきに潰つぶしてから本題ほんだいに入はいる。定義ていぎの精度せいどが論ろんの前提ぜんていになっている。

Section 08

グローバル化か(グローバリゼーション)

148★★

グローバル化(グローバリゼーション)グローバルか

グローバルか[0]平板へいばん型がた

定義ていぎ

物事ものごとが世界的せかいてき・地球ちきゅう的てきになっていく動うごき。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑148
原げん書しょの解説かいせつ

国際化こくさいかという傾向けいこうはあくまで「国家こっか」を中心ちゅうしんとしているが、グローバル化かは国家こっかや国境こっきょうに関係かんけいなく、物事ものごとが地球ちきゅう的てき規模きぼで展開てんかいすることを言いう。

ヒト・モノ・カネ・情報じょうほうなどが国境こっきょうに関係かんけいなく(ボーダーレスに)行いき交こうう現代げんだいでは、グローバル化かはますます進展しんてんしていくことが予想よそうされる。

問題もんだい点てんとしては、グローバル化かによって力ちからの論理ろんりがむき出だしになり、弱よわい文化ぶんかを押おしつぶすような標準化ひょうじゅんかが進すすみ、弱じゃく肉にく強きょう食しょくの世界せかいになってしまうことなどが挙あげられる。

なお、グローバル化かを推進すいしんすべきだという考かんがえを「グローバリズム」と言いう。このキーワードと合あわせて覚おぼえておこう。

コラム

国際化こくさいか社会しゃかいは、インターナショナルという言葉ことばからわかるように、国家こっかと国家こっかにまたがった社会しゃかいのことを指さす。国境こっきょうの役割やくわりは大おおきく、国際こくさい連合れんごうの加盟国かめいこく同士どうしであっても、ヒトやモノが国境こっきょうを通過つうかする場合ばあいは監視かんしの対象たいしょうとされる。

これに対たいしてグローバル社会しゃかいは、〈地球ちきゅう規模きぼの社会しゃかい〉という意味いみである。

自由じゆう貿易ぼうえき・市場しじょう主義しゅぎ経済けいざいに支ささえられた多た国籍こくせき企業きぎょうが、国境こっきょうに支配しはいされずに自由じゆうな経済けいざい活動かつどうをする、という状況じょうきょうをイメージするとよいだろう。

使用しようの境界きょうかい

人ひと・物もの・資本しほん・情報じょうほうが国境こっきょうを越こえて動うごき、世界せかいが一体いったい化かしていくこと。単たんなる国際化こくさいかとは前提ぜんていが違ちがう。

用法ようほう

「国際化こくさいか」との違ちがいが最初さいしょの関門かんもんになる。国際化こくさいかは国家こっかという単位たんいを前提ぜんていにした交こう流りゅうだが、グローバル化かは国境こっきょうそのものを無効むこうにしていく動うごきである。だから☑125 国民こくみん国家こっかの枠組わくぐみが揺ゆらぐ。評ひょう論文ろんぶんでは両義りょうぎ的てきに扱あつかわれ、①文化ぶんかの均質化きんしつか(どこも同おなじ風景ふうけいになる)と、②地域ちいきの再発見さいはっけん(ローカルへの回帰かいき)が同時どうじに起おこる点てんが論ろんじられる。反はんグローバリズムは、経済的けいざいてきな格差かくさの拡大かくだいと文化ぶんかの画一化かくいつかへの抵抗ていこうとして現あらわれる。

用例ようれい
  • ブルジョアジーは、世界せかい市場しじょうの開拓かいたくを通つうじて、あらゆる国くにの生産せいさんと消費しょうひを世界的せかいてきなものに作つくりかえた。……古ふるい、地方ちほう的てき・民族みんぞく的てきな自足じそくと閉鎖へいさのかわりに、諸国しょこく民みんのあらゆる方ほう面めんにわたる交こう通つうと、たがいの依存いぞんが現あらわれる。カール・マルクス、フリードリヒ・エンゲルス『共産党きょうさんとう宣言せんげん』(1848)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    グローバル化かという語ごが生うまれる百五十ひゃくごじゅう年前ねんまえに、その中身なかみが書かかれていた一節いっせつである。ここから読よみ取とるべきは二ふたつある。第一だいいちに、これは資本しほん主義しゅぎへの賛辞さんじとして書かかれていることだ。マルクスは同おなじ段落だんらくでブルジョアジーの成なし遂とげた変革へんかくを驚嘆きょうたんすべきものとして描えがく。批判ひはんとは、まず対象たいしょうの力ちからを正確せいかくに測はかることから始はじまる。第だい二にに、「たがいの依存いぞん」という一語いちごである。依存いぞんは豊ゆたかさの条件じょうけんであると同時どうじに、危機ききの伝染でんせん路ろでもある。一国いっこくの金融きんゆうが崩くずれると世界せかいが揺ゆれるのは、切きり離はなせなくなったことの代償だいしょうだ。1-6 の 125 で見みた国民こくみん国家こっかの器うつわが、この一文いちぶんの時点じてんですでに漏もれはじめている。
  • 国民こくみん文学ぶんがくというものは、いまやあまり意味いみをもたない言葉ことばだ。世界せかい文学ぶんがくの時代じだいが近ちかづいている。誰だれもがこの時代じだいを早はやめるよう努つとめねばならない。ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ ─ エッカーマン『ゲーテとの対話たいわ』(1827)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    グローバル化かを、経済けいざいではなく文化ぶんかの側がわから予告よこくした言葉ことばである。注目ちゅうもくしたいのは、この発言はつげんがナショナリズムの最盛期さいせいきに出でていることだ。当時とうじのドイツは国民こくみん文学ぶんがくを作つくることに国くにを挙あげて取とり組くんでいた。その渦中かちゅうで、その運動うんどうの中心ちゅうしん人物じんぶつが「もう意味いみがない」と言いう。さらに「努つとめねばならない」という要請ようせいの形かたちにも注意ちゅういしたい。ゲーテにとって世界せかい文学ぶんがくは放ほうっておけば来くる未来みらいではなく、意志いしして作つくるものだった。現代げんだいのグローバル化かが市場しじょうによって自動的じどうてきに進すすむものとして語かたられがちなことと比くらべると、この差さは大おおきい。
  • グローバル化かは世界せかいを均質きんしつにすると同時どうじに、地域ちいきの固有こゆう性せいへの関心かんしんを強つよめもする。 両方向りょうほうこうを同時どうじに書かくのがこの語ごの作法さほうである。どこでも同おなじ店みせが並ならぶ一方いっぽうで、「その土地とちらしさ」がかつてなく求もとめられる。後者こうしゃは前者ぜんしゃへの抵抗ていこうに見みえるが、しばしば観光かんこう資源しげんとして商品しょうひん化かされる — 1-6 の 140 で見みた回収かいしゅうの循環じゅんかんである。
  • ×社内しゃない公こう用語ようごを英語えいごにして、我わが社しゃもグローバル化かした。 通つうじるが、「国際化こくさいか」「海外かいがい展開てんかい」の意味いみで使つかっている。148 は資本しほん・情報じょうほう・人ひとが国境こっきょうの制約せいやくを弱よわめて動うごくようになり、世界せかいが一ひとつの単位たんいとして結むすびついていく過程かていを指さす語ごで、一ひとつの組織そしきが達成たっせいできるものではない。国際化こくさいかは国くにと国くに、グローバル化かは国くにを越こえると押おさえておくとよい。
派生はせい形けい
  • グローバル[1]globe(球きゅう)から来きた語ご。「地球ちきゅう全体ぜんたいを一ひとつとして見みる」という含ふくみがある。「インターナショナル」が国くにと国くにのあいだを指さすのに対たいし、グローバルは国くにという単位たんいを前提ぜんていとしない。この差さが148 と「国際化こくさいか」の差さそのものである。
  • グローバリズム[5]過程かていではなく主張しゅちょう。国境こっきょうを越こえた市場しじょうの統合とうごうを推すいし進すすめるべきだとする立場たちば。「化か」が現象げんしょう、「主義しゅぎ」が政策せいさくという区別くべつは、1-6 の 120 の世俗化せぞくか/世俗せぞく主義しゅぎと同おなじ形かたちである。
  • グローバリゼーション[7]原語げんごのままの形かたち。「グローバル化か」と同義どうぎだが、やや学術がくじゅつ寄よりの響ひびきになる。訳語やくごを使つかうか原語げんごを使つかうかで文章ぶんしょうの身分みぶんが変かわるのは、1-6 の 133 で見みた物神ぶっしん崇拝すうはい/フェティシズムと同おなじ現象げんしょうである。
コロケーション
  • グローバル・スタンダード普遍ふへんを装そうう語ご世界せかい共通きょうつうの基準きじゅんとされるもの。この語ごを疑うたがう目めが要いるのは、「世界せかいの」と呼よばれる基準きじゅんがたいてい特定とくていの国くにの慣行かんこうだからである。1-1 の 1 と 2 で見みた普遍ふへんと特殊とくしゅの関係かんけいが、ここでは経済けいざいの力ちから関係かんけいとして現あらわれる。強つよい者ものの特殊とくしゅが普遍ふへんの名なを得えるという構図こうずを見抜みぬけるかどうかが分わかれ目めだ。
  • ローカル化か対たいにして使つかう語ご世界せかい規模きぼの商品しょうひんや制度せいどが、その土地とちに合あわせて姿すがたを変かえること。この語ごが要いるのは、グローバル化かが一方いっぽう通行つうこうではないからだ。同おなじ企業きぎょうの店みせが国くにごとに違ちがう品ひんを出だすのは、均質化きんしつかが完全かんぜんには貫徹かんてつしないことの証拠しょうこである。両者りょうしゃを合あわせて「グローカル化か」と呼よぶこともある。
  • 国境こっきょうを越こえる主語しゅごを選えらぶ語ごこの言いい方かたで注意ちゅういしたいのは、越こえられるものと越こえられないものがあることだ。資本しほんと情報じょうほうは瞬時しゅんじに越こえる。人ひとは越こえられない — ビザが要いり、壁かべがあり、審査しんさがある。この非対称ひたいしょうこそが現代げんだいの不ふ均衡きんこうの中心ちゅうしんであり、「グローバル化かした世界せかい」という言いい方かたが隠かくしているものである。
  • 反はんグローバリズム抵抗ていこうの名なグローバル化かに抗こうする運動うんどうの総称そうしょう。押おさえておきたいのは、この運動うんどう自身じしんがグローバルに連れん帯たいしていることだ。各国かっこくの活動かつどう家かが同おなじ日ひに同おなじ主張しゅちょうを掲かかげられるのは、グローバル化かが用意よういした通信つうしん網もうのおかげである。批判ひはんする側がわも同おなじ条件じょうけんの産物さんぶつである — 1-6 の 136 と同おなじ構図こうずがここでも成なり立たつ。
格かく中なか

書かき言葉ことば・会話かいわの両方りょうほうで使つかえる。

類るい語ごと差さ
  • 国際化こくさいか国くにと国くにの交こう流りゅうが増ふえる国家こっかという単位たんいを前提ぜんていにする。グローバル化かは国境こっきょうを無効むこうにしていく点てんが違ちがう。
  • 画一化かくいつかすべてが同おなじ形かたちになる結果けっかの一ひとつ。グローバル化かは多様たよう化かも同時どうじに起おこす。
  • ローカル地域ちいきに根ねざしたもの対たい概念がいねん。両者りょうしゃが同時どうじに強つよまる現象げんしょうをグローカル化かと呼よぶ。
  • 植民地しょくみんち主義しゅぎ武力ぶりょくで他ほか地域ちいきを支配しはいする先行せんこうする形かたち。グローバル化かは経済的けいざいてきな浸透しんとうという形かたちをとる。

ENglobalisation
ZH全球化(グローバル化, quánqiúhuà)

国際化とグローバル化国家という単位を前提とする国際化と、国境を無効にしていくグローバル化の違いを示した図。 国際化 国家という単位が前提 境界を保ったまま行き来する グローバル化 国境そのものが無効になる ☑125 国民国家の枠組みが揺らぐ 均質化と多様化が、同時に進行する
国際化こくさいかとグローバル化か ── 前提ぜんていが違ちがう
入試にゅうし文ぶん

「国際化こくさいか」を英語えいごでいえば、internationalizationということになろう。internationalとはnationとnationをつなぐ(=inter)という意味いみである。
「国際化こくさいか」にはもともと違ちがっているものを同どう質しつ化かするという含ふくみがあるものとなるものを「つなぐ」というのがinterという接頭辞せっとうじである。
日本にほん、アメリカ、韓国かんこく、中国ちゅうごく、これらの国々くにぐにには似にた面めんもあれば異ことなる面めんもある。すべての面めんで同おなじであれば国くにと国くにをつなぐ必要ひつようは生しょうじない、違ちがった面めんがあるから国くにと国くにをつなぐ、すなわち国際化こくさいかする必要ひつようが生しょうじるわけである。
「国際化こくさいか」に対たいして、グローバル化かにはもともと違ちがっているものを同どう質しつ化かするという含ふくみがある。ボーダレス化かする、国境こっきょうをなくすとは、国くにと国くにを分わけ隔へだてる障害しょうがいを取とり除のぞき人ひとや物ものの往来おうらいを自由じゆうにするということを通とおり越ごして、当とうの異質いしつ性せいを消去しょうきょする、そうしたニュアンスがグローバル化かという言葉ことばには含ふくまれているのである。

出典しゅってん 間宮まみや陽介ようすけ『グローバリゼーションと公共こうきょう空間くうかんの創設そうせつ』 / 出題しゅつだい 新潟大学にいがただいがく・人文学じんぶんがく部ぶ

読解どっかいのポイント
  • 国際化こくさいか =異質いしつな面めんがある国くに同士どうしをつなぐ ↔ グローバル化か =もともと違ちがっているものを同どう質しつ化かする
要約ようやく

国際化こくさいかは、がんらい異質いしつな国くに同士どうしをつなぐという意味いみをもつのに対たいして、グローバル化かには異質いしつ性せいを消去しょうきょするというニュアンスがある。

語ご法ほうの観察かんさつ

肯定こうてい面めんと否定ひてい面めんを交互こうごに置おき、どちらにも決きめない。両義性りょうぎせいそのものを結論けつろんにする型かた。

Section 09

エコロジー

149★★

エコロジー

エコロジー[2]中高なかだか型がた

定義ていぎ

自然しぜんと人間にんげんとの共生きょうせいを目指めざし、自然しぜん環境かんきょうを保護ほごしようとする考かんがえ方かた。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑149
原げん書しょの解説かいせつ

エコロジーとはもともと〈生態系せいたいけい〉を意味いみする語ごであり、人間にんげんも生態系せいたいけいの一員いちいんであるという観点かんてんから、環境かんきょう保護ほごを意味いみするようにもなった。

すなわち、人々ひとびとが物質的ぶっしつてきな豊ゆたかさを追求ついきゅうして、自然しぜん環境かんきょうを破壊はかいし続つづけてきた状況じょうきょうに対たいして、自然しぜんと人間にんげんとの共生きょうせい的てきな関係かんけいをつくろうとする考かんがえ方かたである。

この考かんがえ方かたによって、

など、これまでの経済けいざいのあり方かたが広ひろく見み直なおされるようになっている。

また、「エコロジー」を省略しょうりゃくした「エコ」という言葉ことばだけでも、エコロジーと同様どうようの意味いみを表あらわし、企業きぎょうや地域ちいき・団体だんたいによるエコ活動かつどうも盛さかんに行おこなわれている。

なお、生物せいぶつとこれを取とり巻かんく環境かんきょうとの相互そうご関係かんけい(生態系せいたいけい)を研究けんきゅうする学問がくもんのことも、エコロジー(生態学せいたいがく)と言いう。

コラム

エコロジーが注目ちゅうもくされるようになったのは、自然しぜん環境かんきょうの破壊はかいをもたらした人間にんげん中心ちゅうしん主義しゅぎに対たいする反省はんせいがあったからである。

これに対たいして、自然しぜんの生存せいぞん権けんを認みとめ、環境かんきょうに関かんする次世代じせだいへの責任せきにんを問とう「環境かんきょう倫理学りんりがく」という学問がくもんも生うまれてきた。

だが、自然しぜん環境かんきょうの保護ほごにはお金かねがかかってしまうし、人間にんげんの文化ぶんかや生活せいかつが犠牲ぎせいになる恐おそれも出でてくる。

人間にんげん中心ちゅうしん主義しゅぎとエコ中心ちゅうしん主義しゅぎの折おり合あいが必要ひつようになる。

使用しようの境界きょうかい

生物せいぶつと環境かんきょうの相互そうご関係かんけいを捉とらえる見方みかた。環境かんきょう保護ほごの運動うんどうと、それを支ささえる思想しそうの両方りょうほうを指さす。

用法ようほう

評ひょう論文ろんぶんで重要じゅうようなのは、エコロジーが単たんなる環境かんきょう保護ほごではなく自然しぜん観かんの転換てんかんだという点てんである。人間にんげんを自然しぜんの外そとに立たつ支配しはい者しゃではなく、生態系せいたいけいの一部いちぶとして位置いちづけ直なおす。したがって☑42 機械論きかいろん的てき自然しぜん観かん・☑9 対象たいしょう化か・☑131 人間にんげん中心ちゅうしん主義しゅぎへの正面しょうめんからの批判ひはんになる。☑55 有機ゆうき・☑44 複雑系ふくざつけいと同おなじ側がわに立たつ。「ディープエコロジー」は、人間にんげんの利益りえきのためではなく自然しぜんそのものに価値かちを認みとめる立場たちばで、より徹底てっていしている。

用例ようれい
  • エコロギーとは、生物せいぶつとその環境かんきょうとのあいだのあらゆる関係かんけいについての学がくである。……ここで環境かんきょうとは、広ひろい意味いみでの生存せいぞんの条件じょうけんのすべてを指さす。エルンスト・ヘッケル『一般いっぱん形態けいたい学がく』(1866)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    エコロジーという語ごが作つくられた瞬間しゅんかんの定義ていぎである。ギリシア語ご oikos(家いえ)+ logos(学がく)。「家いえの学がく」という語源ごげんが効きいているのは、家いえが生いき物ものの集あつまりではなく関係かんけいの場ばだからだ。注目ちゅうもくしたいのは、この定義ていぎに「守まもる」も「大切たいせつにする」も入はいっていないことである。当初とうしょのエコロジーはただの記述きじゅつの学がくだった。それが二十にじゅう世紀せいき後半こうはんに運動うんどうと価値かちの語ごになった。学問がくもんの名なが主張しゅちょうの名なに変かわるとき、記述きじゅつと規範きはんの境目さかいめが曖昧あいまいになる — 1-4 の 87 で見みた継つぎ目めが、ここでも問題もんだいになる。
  • 神社じんじゃ合祀ごうしは、第一だいいちに敬神けいしん思想しそうを薄うすうし、第だい二にに民みんの和融わゆうを妨さまたげ、……第だい七ななに、天然てんねん風景ふうけいと天然記念物てんねんきねんぶつを亡滅ぼうめつす。南方熊楠みなかたくまぐす『神社じんじゃ合祀ごうしに関かんする意見いけん』(1912)
    日本にほんで最もっとも早はやく生態系せいたいけいの破壊はかいを一ひとつの体系たいけいとして告発こくはつした文章ぶんしょうである。明治めいじ政府せいふの神社じんじゃ合祀ごうし令れいによって各地かくちの小ちいさな社しゃが壊こわされ、その周まわりの鎮守ちんじゅの森もりが伐きられた。南方なんぽうが挙あげた反対はんたい理由りゆうを順じゅんに読よむと、信仰しんこう・地域ちいきの結束けっそく・生活せいかつ・学問がくもん・景けい観かん・生物せいぶつが一続ひとつづきのものとして並ならべられていることが分わかる。これがエコロジー的てきな思考しこうそのものだ — 森もりを伐きることは木きを減へらすことではなく、関係かんけいを切きることである。南方なんぽうは粘菌ねんきんの研究者けんきゅうしゃだった。顕微鏡けんびきょうで関係かんけいを見みていた目めが、そのまま村むらと森もりの関係かんけいを見みた — 学問がくもんが運動うんどうになる最もっとも幸福こうふくな例れいの一ひとつである。
  • エコロジーは、人間にんげんを自然しぜんの管理者かんりしゃとする見方みかたを退しりぞけ、関係かんけいの網あみの一部いちぶとして置おき直なおす。 位置いちの変更へんこうが要点ようてんである。環境かんきょう保護ほごは人間にんげんが外そとから守まもってやるという構かまえを取とりがちだが、エコロジーは守まもる側がわも網あみの中なかにいると見みる。1-6 の 131 で見みた人間にんげん中心ちゅうしん主義しゅぎからの離脱りだつが、ここで具体的ぐたいてきな学問がくもんの形かたちをとる。
  • ×マイバッグを持参じさんして、エコロジーに取とり組くんでいる。 通つうじるが、「エコ」という省略しょうりゃく形けいの日常にちじょう語ごである。評ひょう論語ろんごの 149 は生物せいぶつと環境かんきょうの関係かんけいを扱あつかう学問がくもん、およびそこから出でた世界観せかいかん・運動うんどうを指さす。個々ここの行動こうどうの名なではない。なお「エコ」が商品しょうひんの売うり文句もんくになりきっていることも、この語ごを使つかうときに意識いしきしておきたい。
派生はせい形けい
  • 生態学せいたいがく[3]ecology の学問がくもんとしての訳語やくご。カタカナの「エコロジー」が運動うんどうや思想しそうを含ふくむのに対たいし、「生態学せいたいがく」は自然科学しぜんかがくの一分いっぷん野のに限かぎられる。訳語やくごとカタカナ語ごで射程しゃていが分わかれた例れいである。
  • エコロジカル[4]形容詞けいようし形けい。「エコロジカルな視点してん」なら関係かんけいの全体ぜんたいを見みる構かまえを指さし、学術的がくじゅつてきに使つかえる。一方いっぽう「エコな」と縮ちぢめると商品しょうひんの宣伝せんでん語ごになる。語ごの長ながさが文章ぶんしょうの身分みぶんを決きめる珍めずらしい例れい。
  • 環境かんきょう[0]「取とり巻かんくもの」という字面じづら。注意ちゅういしたいのは、この語ごが中心ちゅうしんに何なにかを置おくことを前提ぜんていにしている点てんだ。誰だれかにとっての環境かんきょうであり、それ自体じたいとしての環境かんきょうは無ない。エコロジーが「環境かんきょう」より「生態系せいたいけい」を好このむのは、この中心ちゅうしんを消けしたいからである。
コロケーション
  • 生態系せいたいけい関係かんけいを単位たんいにする語ご生物せいぶつと環境かんきょうをまとめてひとつのまとまりとして扱あつかうための語ご。この語ごの力ちからは、境界きょうかいを引ひかずに全体ぜんたいを語かたれる点てんにある。1-2 の全体ぜんたい論ろんが自然科学しぜんかがくのなかで最もっとも成功せいこうした形かたちがこれだ。一種いっしゅを取とり除のぞくと何なにが起おきるか予測よそくできないという事実じじつそのものが、要素ようそ論ろんの限界げんかいを示しめしている。
  • 持続可能性じぞくかのうせい時間じかんを入いれる語ご将来しょうらいの世代せだいの必要ひつようを損そこなわずに現在げんざいの必要ひつようを満みたすこと。この語ごが要いるのは、市場しじょうの計算けいさんに未来みらいの人ひとが現あらわれないからだ。取引とりひきにはまだ生うまれていない者ものの席せきがない。1-6 の 130 の功利こうり計算けいさんが誰だれを数かずに入いれるかという問題もんだいとして、ここで再ふたたび現あらわれる。
  • 環境かんきょう倫理りんり規範きはんへ渡わたる語ご自然しぜんに対たいして人間にんげんが負おう義務ぎむを扱あつかう分野ぶんや。難所なんしょは誰だれに対たいする義務ぎむかである。将来しょうらいの人間にんげんに対たいしてなら人間にんげん中心ちゅうしん主義しゅぎのままだが、自然しぜんそのものに対たいしてなら権利けんりの主体しゅたいを人間にんげんの外そとへ広ひろげることになる。この選択せんたくで議論ぎろんの全体ぜんたいが変かわるので、文章ぶんしょうを読よむときはまずここを確たしかめたい。
  • エコロジーの商品しょうひん化か回収かいしゅうを指さす語ご環境かんきょうへの配慮はいりょが売うるための付加ふか価値かちになること。この語ごが批判的ひはんてきに使つかわれるのは、消費しょうひを減へらすはずの主張しゅちょうが新あたらしい消費しょうひを生うむからだ。「環境かんきょうに優やさしい商品しょうひん」を買かうことは、やはり買かうことである。142 の消費しょうひ社会しゃかいが自分じぶんへの批判ひはんすら商品しょうひんにできることの好例こうれいとして押おさえておきたい。
格かく中なか

書かき言葉ことば・会話かいわの両方りょうほうで使つかえる。

類るい語ごと差さ
  • 生態学せいたいがく生物せいぶつと環境かんきょうの関係かんけいを研究けんきゅうする学問がくもん訳語やくご。学問がくもんとしての側面そくめん。エコロジーは思想しそうと運動うんどうも含ふくむ。
  • 環境かんきょう保護ほご自然しぜんを守まもる活動かつどう実践じっせん。エコロジーは自然しぜん観かんの転換てんかんまで含ふくむ。
  • 要素ようそ論ろん分解ぶんかいして全体ぜんたいを理解りかいする☑43。エコロジーは全体ぜんたいの関係かんけいを見みる点てんで正面しょうめんから対立たいりつする。
  • 人間にんげん中心ちゅうしん主義しゅぎ人間にんげんを万物ばんぶつの中心ちゅうしんに置おく☑131。エコロジーが批判ひはんする対象たいしょう。

ENecology
ZH生态学(生態学, shēngtàixué)

人間の位置が変わる自然の外に立つ支配者としての人間から、生態系の一部としての人間へという位置づけの転換を示した図。 近代の自然観 人間 支配・操作 自然(資源) 人間は自然の外に立つ エコロジーの自然観 生態系 人間 人間は生態系の一部である ☑42 機械論・☑9 対象化・☑131 人間中心主義への正面からの批判
人間にんげんの位置いちが変かわる
入試にゅうし文ぶん

以上いじょうのように、エコロジー的てき発想はっそうのもとでは、産業さんぎょう社会しゃかいは、非ひ生命せいめい系けいに立脚りっきゃくした、抽象的ちゅうしょうてきな市民しみん社会しゃかいであり、経済けいざい合理的ごうりてきな個人こじんから構成こうせいされるものとして総括そうかつされる。
そして、それに代だいわるものとして、生命せいめい系けいに立脚りっきゃくした等身大とうしんだいの生活せいかつ世界せかいが対置たいちされ、そこでは生活せいかつ者しゃとしての「具体性ぐたいせいを持もった人間にんげん」が浮うかび上あがる。
仮かりにこのような社会しゃかいをエコロジー社会しゃかいと名付なづけるとすれば、エコロジー社会しゃかいは、産業さんぎょう社会しゃかいの発展はってんの方向ほうこうを一いち八はち〇度ど転換てんかんさせたものと考かんがえることができる。
こうして、産業さんぎょう社会しゃかいとエコロジー社会しゃかいの対立たいりつの構図こうずが鮮明せんめいになってくると、当然とうぜん、産業さんぎょう社会しゃかいの側がわからのエコロジーに対たいする反応はんのうが様々さまざまな形かたちで生しょうじることになる。
このような産業さんぎょう社会しゃかいを総称そうしょうして産業さんぎょう主義しゅぎと呼よび、エコロジー的てきな思考しこうや発想はっそうをまとめてエコロジー主義しゅぎということができる。

出典しゅってん 丸まる山やま真人まさと『エコロジー批判ひはんと反はん批判ひはん』 / 出題しゅつだい 関西大学かんさいだいがく・総合そうごう情報じょうほう学部がくぶ

読解どっかいのポイント
  • 産業さんぎょう社会しゃかい =非ひ生命せいめい系けいに立脚りっきゃくした抽象的ちゅうしょうてきな市民しみん社会しゃかい・経済けいざい合理的ごうりてきな個人こじん ↔ エコロジー社会しゃかい =等身大とうしんだいの生活せいかつ世界せかい・具体性ぐたいせいを持もった人間にんげん
要約ようやく

エコロジー的てき発想はっそうのもとでは、産業さんぎょう社会しゃかいは非ひ生命せいめい系けいに立脚りっきゃくした抽象的ちゅうしょうてきな市民しみん社会しゃかいであり、それに対たいし、等身大とうしんだいの生活せいかつ世界せかいはエコロジー社会しゃかいとされる。

語ご法ほうの観察かんさつ

運動うんどうの話はなしから自然しぜん観かんの話はなしへ上あがる。実践じっせんから思想しそうへ移うつる箇所かしょに、この語ごの重心じゅうしんがある。

Section 10

多様性たようせい

150★★

多様性たようせい

たようせい[0]平板へいばん型がた

語ご構成こうせい
多たおおい+様さますがた・ありさま+性せいそのようす
定義ていぎ

性質せいしつの異ことなるものが多おおく存在そんざいしている様子ようす。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑150
原げん書しょの解説かいせつ

近年きんねんの現代げんだい評ひょう論ろんの主張しゅちょうには、普遍性ふへんせいや画一かくいつ性せいを求もとめるのではなく、多様性たようせい・複雑性ふくざつせいを認識にんしきするという傾向けいこうが見みられる。

たとえば、環境かんきょう問題もんだいで持続可能性じぞくかのうせい(=人類じんるいの活動かつどうが長期的ちょうきてきに維持いじ可能かのうになるように環境かんきょうを保全ほぜんすること)が叫さけばれるようになると、生物せいぶつ多様性たようせいが重視じゅうしされ始はじめた。

一ひとつの生態系せいたいけいが長ながく持続じぞくしていくためには、多様たような生物せいぶつが生息せいそくしているほうが有利ゆうりだ、ということがわかったためであり、これは生態学せいたいがく的てきな多様性たようせいとして取とり上あげられている。

また、こうしたことは社会的しゃかいてきな多様性たようせいとも関連かんれんする。

人種じんしゅ的てきな多様性たようせいや、思想しそう的てき・文化ぶんか的てきな多様性たようせいを尊重そんちょうした方ほうが、高度こうどな文明ぶんめいが繁栄はんえいしていく可能性かのうせいを含ふくんでいるからだ。

コラム

かつての日本にほんは、地ち縁えん血縁けつえんの絆きずなの強つよい一枚岩いちまいいわ的てきな共同体きょうどうたいだったが、現在げんざい、こうした共同体きょうどうたいは失うしなわれ、個人こじんの多様たような考かんがえ方かたや価値かち観かんを認みとめる社会しゃかいになっている。

多数たすうの企業きぎょうにおいても、社しゃ員いんの多様性たようせいを生せいかそうとする動うごき(=ダイバーシティ)が進すすんでいる。

使用しようの境界きょうかい

異ことなる性質せいしつのものが共存きょうぞんしていること。数かずの多おおさではなく、違ちがいが保たもたれている点てんを指さす。

用法ようほう

評ひょう論文ろんぶんでは肯定的こうていてきに語かたられるが、その先さきに難問なんもんが置おかれるのが定型ていけいである。多様性たようせいを認みとめるなら、多様性たようせいを認みとめない立場たちばも認みとめるのか。ここで☑76 文化ぶんか相対そうたい主義しゅぎと同おなじ自己じこ言及げんきゅうの問題もんだいが現あらわれる。もう一ひとつの論点ろんてんは、多様性たようせいが体制たいせいに取とり込こまれることで、差異さいが消費しょうひの対象たいしょう(☑142)や企業きぎょうの資源しげんとして扱あつかわれると、批判ひはんの力ちからを失うしなう。生物せいぶつ多様性たようせいの文脈ぶんみゃくでは☑149 エコロジーと接続せつぞくし、単一たんいつ栽培さいばいの脆弱ぜいじゃくさが論ろんじられる。

用例ようれい
  • 万物ばんぶつ並ならび育そだちて相そう害がいわず、道みち並ならび行おこなわれて相そう悖もとらず。『中庸ちゅうよう』第だい三十さんじゅう章しょう
    多様性たようせいという語ごが要求ようきゅうしている状態じょうたいを、二千年にせんねん前まえに十四じゅうよん字じで書かいた一節いっせつである。注目ちゅうもくしたいのは「並ならび」の繰くり返かえしだ。一ひとつが他ほかを包つつむのではない。横よこに並ならんで、たがいを損そこなわない。さらに二に句く目めが効きいている — 「道みち」もまた複数ふくすうあると言いっているのだ。物ものが多様たようなのは見みれば分わかるが、正ただしさの筋道すじみちが複数ふくすうあってよいと認みとめるのは別べつの話はなしである。1-4 の 76 の文化ぶんか相対そうたい主義しゅぎが踏ふみ込こんだのはこの二に句く目めであり、そこから「では何なにでもありなのか」という難問なんもんが始はじまる。『中庸ちゅうよう』は「相そう悖もとらず」と条件じょうけんをつけることでその難問なんもんをぎりぎりで避さけている。
  • この生命せいめい観かんには荘厳そうごんさがある。……かくも単純たんじゅんな始はじまりから、限かぎりなく美うつくしく、限かぎりなく驚おどろくべき形態けいたいが生うまれ、いまも生うまれつつある。チャールズ・ダーウィン『種しゅの起源きげん』結語けつご(1859)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    多様性たようせいを、守まもるべきものではなく生うまれ続つづけるものとして見みた一節いっせつである。この見方みかたの含意がんいは大おおきい。多様性たようせいは最初さいしょからあった宝たからではない。単純たんじゅんなものから分わかれ出でてきた結果けっかである。だから失うしなわれたものは二に度どと同おなじ形かたちでは戻もどらない。「いまも生うまれつつある」という現在げんざい進行しんこう形けいにも注意ちゅういしたい — 多様性たようせいは完成かんせいした目録もくろくではなく進行中しんこうちゅうの過程かていだ。保存ほぞんという語ごだけではこの面めんが捉とらえられない。分わかれ続つづけられる条件じょうけんを残のこすことが、149 のエコロジーの実際じっさいの課題かだいになる。
  • 多様性たようせいを認みとめることは、違ちがいを我慢がまんすることではなく、違ちがいを条件じょうけんとして制度せいどを組くみ直なおすことである。 寛容かんようと多様性たようせいの差さが要点ようてんである。寛容かんようは基準きじゅんを動うごかさずに例外れいがいを許ゆるす。多様性たようせいの尊重そんちょうは基準きじゅんそのものを問とい直なおす。前者ぜんしゃは許ゆるす側がわの位置いちを温存おんぞんし、後者こうしゃはそれを崩くずす — この差さが実際じっさいの制度設計せいどせっけいを分わける。
  • ×社内しゃないには様々さまざまな人ひとがいて、多様性たようせいを持もっている。 状態じょうたいと理念りねんを混まぜている。事実じじつとして様々さまざまな人ひとがいるなら「多様たようである」で足たりる。150 はその多様たようさを価値かちとして認みとめ、維持いじしようとする理念りねんを指さすことが多おおい。いるだけでは多様性たようせいではない — いることが不利ふりにならない仕組しくみがあってはじめてこの語ごは使つかえる。
派生はせい形けい
  • 多様たよう[0]「様さまが多おおい」という字面じづら。形容けいよう動詞どうしとして「多様たような意見いけん」のように使つかう。「様々さまざま」より硬かたく、評ひょう論文ろんぶん向むき。反対はんたいは「一様いちよう」で、この対たいで書かくと文ぶんが締しまる。
  • ダイバーシティ[4]経営けいえいと行政ぎょうせいの語彙ごい。「多様性たようせい」とほぼ同義どうぎだが、組織そしきの人員じんいん構成こうせいの話はなしに限定げんていして使つかわれることが多おおい。カタカナにすると施策しさくの名なになり、理念りねんとしての重おもみが抜ぬける — この軽かるさを批判ひはんの文章ぶんしょうはよく突つく。
  • 多元たげん[0]元もと(もと)が複数ふくすうあること。「多元的たげんてき社会しゃかい」は権力けんりょくの中心ちゅうしんが複数ふくすうある社会しゃかいを指さす。多様たようが並ならんでいる中身なかみの話はなしなのに対たいし、多元たげんは原理げんりや権力けんりょくの所在しょざいの話はなしである。
コロケーション
  • 生物せいぶつ多様性たようせい最もっとも具体的ぐたいてきな形かたち種しゅ・遺伝子いでんし・生態系せいたいけいの三みっつの水準すいじゅんでの多様たようさ。この語ごが力ちからを持もつのは、多様性たようせいの価値かちを情緒じょうちょに頼たよらず説明せつめいできるからだ。多様たような生態系せいたいけいほど撹乱かくらんから回復かいふくしやすい。多様性たようせいは美徳びとくではなく保険ほけんであるというこの論法ろんぽうは、人間にんげん社会しゃかいの議論ぎろんにもそのまま移うつせる。
  • 多様性たようせいの尊重そんちょう理念りねんとしての語ご違ちがいを価値かちとして扱あつかう構かまえ。この語ごの難所なんしょは、どこまでを違ちがいとして認みとめるかだ。他者たしゃの多様性たようせいを認みとめない立場たちばもまた一ひとつの多様性たようせいなのか。寛容かんようは不ふ寛容かんように対たいして寛容かんようでありうるかというこの問といは、1-4 の 76 で行いき当あたった袋小路ふくろこうじと同おなじものである。
  • 多様性たようせいの名なのもとに疑うたがいを差さし込こむ語ごこの言いい回まわしが出でてきたら批判ひはんの合図あいずである。理念りねんが別べつの目的もくてきの看板かんばんとして使つかわれていると言いいたいときに使つかう。数合かずあわせだけの登とう用よう、写真しゃしんのための顔かおぶれ。理念りねんそのものは否定ひていせずにその運用うんようを撃うつという評ひょう論文ろんぶんの定型ていけいの一ひとつだ。
  • 画一かくいつと多様たよう対たいにして考かんがえる語ご1-6 の 140 の均質化きんしつかと正面しょうめんから向むき合あう対たい。押おさえておきたいのは、近代きんだいが両方りょうほうを進すすめたことだ。国民こくみんを均質化きんしつかしながら、同時どうじに個人こじんの個性こせいを称揚しょうようした。矛盾むじゅんではなく役割やくわり分担ぶんたんである — 制度せいどは均質きんしつを要求ようきゅうし、消費しょうひは個性こせいを要求ようきゅうする。
格かく中なか

書かき言葉ことば・会話かいわの両方りょうほうで使つかえる。

類るい語ごと差さ
  • 多元たげん根本こんぽんが複数ふくすうある☑31。多元たげんは原理げんりの数かず、多様性たようせいは現あらわれ方ほうの違ちがい。この差さが設問せつもんになる。
  • 差異さい比較ひかくして見みられる違ちがい☑68。差異さいは関係かんけい、多様性たようせいは状態じょうたい。
  • 画一化かくいつかすべて同おなじ形かたちになる対たい語ご。多様性たようせいが失うしなわれた状態じょうたい。
  • 寛容かんよう異ことなるものを受うけ入いれる態度たいど。多様性たようせいは事実じじつとしての状態じょうたいを指さす。

ENdiversity
ZH多样性(多様性, duōyàngxìng)

入試にゅうし文ぶん

生物学せいぶつがく的てきな多様性たようせいについては、どれを保護ほごしどれを無視むしするかという選択せんたくの問題もんだいは、実じつは、以前いぜんからどの希少きしょう種しゅをどの程度ていど保護ほごするのかという問題もんだいとして存在そんざいしていた。
しかし生物せいぶつ多様性たようせいという新あたらしい単語たんごの出現しゅつげんによって、静的せいてきな型かたとしての個々ここの種しゅの保存ほぞんということから、遷移せんいする多様たような生態系せいたいけいの保全ほぜんへという転換てんかんがおこり、生物学せいぶつがく者しゃたちは「どの種しゅを選えらぶのか」という難題なんだいから解放かいほうされた。
タカーチは、このことは、生物せいぶつ多様性たようせいということにまつわるわれわれの本質的ほんしつてきな無知むちの自覚じかくを基盤きばんにしているという。
文化ぶんかやジェンダーといった人間にんげんのアイデンティティにかかわる領域りょういきにおける多様性たようせいの保護ほごもそのあいまいさとそれに対たいする無知むちの自覚じかくに基もとづいて、さしあたっては事実じじつとして存在そんざいしている少数しょうすう者しゃの痛いたみの声こえに耳みみを傾かたむけることからはじめる必要ひつようがあるのではないだろうか。
※タカーチ=研究者けんきゅうしゃのデイヴィッド・タカーチ。

出典しゅってん 水みず谷たに雅彦まさひこ「『多様性たようせい』ということ」 / 出題しゅつだい 関西大学かんさいだいがく・経済学部けいざいがくぶ・政策創造学部せいさくそうぞうがくぶ・人間にんげん健康けんこう学部がくぶなど

読解どっかいのポイント
  • 生物学せいぶつがく的てきな多様性たようせい
  • どの希少きしょう種しゅをどの程度ていど保護ほごするのか
  • 静的せいてきな型かたでの個々ここの種しゅの保存ほぞん
  • 遷移せんいする多様たような生態系せいたいけいの保全ほぜん
  • 本質的ほんしつてきな無知むちの自覚じかく 人間にんげんのアイデンティティにかかわる領域りょういきでの多様性たようせいの保護ほご
  • 少数しょうすう者しゃの痛いたみの声こえを聞きくべき
要約ようやく

生物せいぶつ多様性たようせいという語ごの出現しゅつげんにより、個々ここの種しゅの保存ほぞんから遷移せんいする多様たような生態系せいたいけいの保全ほぜんへと考かんがえ方かたが移行いこうした。人間にんげんのアイデンティティにかかわる多様性たようせいの保護ほごも、無知むちの自覚じかくに基もとづき、少数しょうすう者しゃの声こえに耳みみを傾かたむける必要ひつようがある。

語ご法ほうの観察かんさつ

肯定的こうていてきな記述きじゅつを積つんだうえで、最後さいごに難問なんもんを置おく。着地ちゃくちさせずに終おわることで問といを残のこしている。

寛容が基準を動かさず例外を許すのに対し、多様性の尊重は基準そのものを組み直すことを示した図上段では中央の基準線が動かないまま、外れた者が例外として脇に置かれる。下段では基準そのものが幅を持つ帯に組み直され、例外という位置が消える。 例外を許すのか、基準を組み直すのかTOLERANCE基準標準例外として許される線は動かない。許す側の位置も動かないDIVERSITY基準そのものが幅を持つ「例外」という位置が消えるので、許す側もいなくなる寛容は基準を温存し、多様性の尊重はそれを問い直すどちらを求めているのか ── 文章はここで分かれる
寛容かんようと多様性たようせいのあいだ
Section 11

構造こうぞう主義しゅぎ

151★★

構造主義こうぞうしゅぎ

こうぞうしゅぎ[0]平板へいばん型がた

語ご構成こうせい
構こうくみたてる+造つくりつくる+主義しゅぎ立場たちば
定義ていぎ

人間にんげんの社会しゃかいや文化ぶんかを支ささえている根底こんてい的てきな構造こうぞうを研究けんきゅうしようとする立場たちば。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑151
原げん書しょの解説かいせつ

言語学げんごがく者しゃのソシュール(1857〜1913年じゅうさんねん)は、言語げんごの意味いみは自我じがや主体しゅたいから生しょうじるのではなく、普段ふだんは意識いしきされない「語ごと語ごの差異さい」から生しょうじると考かんがえた。

たとえば、地震じしんに強つよい建物たてものには耐震たいしん構造こうぞうや免震めんしん構造こうぞうが設計せっけい段階だんかいから組くみ込こまれているが、それを外見がいけんから判断はんだんすることは難むずかしい。

それと同様どうように、社会しゃかいと文化ぶんかの根底こんていにあって人々ひとびとに明確めいかくに自覚じかくされていない構造こうぞう(仕組しくみ・制度せいど)を見み出だそうとするのが、構造こうぞう主義しゅぎである。

歴史れきしを重視じゅうしするマルクス主義しゅぎや、実体じったいや主体しゅたいを重視じゅうしする実存じつぞん主義しゅぎとは異ことなり、構造こうぞう主義しゅぎでは現象げんしょう同士どうしの関係かんけいや現象げんしょうを支ささえるシステムが重視じゅうしされる。

コラム

文化ぶんか人類学じんるいがく者しゃのレヴィ=ストロース(1908〜2009年ねん)は、オーストラリアの先住民せんじゅうみんなどの婚姻こんいん制度せいどを調査ちょうさし、人々ひとびとの間あいだで近親相姦きんしんそうかんが禁止きんしされている仕組しくみを見出みいだした。

人間にんげんの自覚じかく的てきな意識いしきの前まえに、無意識むいしきの秩序ちつじょが先行せんこうしている、というわけだ。

構造こうぞう主義しゅぎは、自我じが・主体しゅたい・理性りせいといった近代的きんだいてき理念りねんを相対そうたい化かしたとも言いえる。

使用しようの境界きょうかい

個々ここの要素ようそではなく、要素ようその関係かんけいの型かたによって現象げんしょうを説明せつめいする立場たちば。表面ひょうめんではなく深層しんそうの構造こうぞうを見みる。

用法ようほう

要点ようてんは、「私わたし」が思考しこうの出発点しゅっぱつてんではなくなることにある。私わたしの認識にんしきも思考しこうも、その時代じだいと文化ぶんかの構造こうぞうに規定きていされている。だから絶対的ぜったいてきな真理しんりはなく、一切いっさいは関係かんけいから生しょうじたものになる。この転換てんかんによって実存じつぞん主義しゅぎ(☑115)の主体しゅたい中心ちゅうしんの思考しこうが退しりぞけられ、二十にじゅう世紀せいき後半こうはんの知ちの潮流ちょうりゅうが生うまれた。ソシュールの☑68 差異さいの考かんがえ方かたが土台どだいにあり、☑67 分節ぶんせつ・☑48 パラダイムとも同おなじ構図こうずをもつ。読解どっかいでは「関係かんけい性せい」という語ごが近ちかくにあれば構造こうぞう主義しゅぎの系列けいれつだと判断はんだんできる。

用例ようれい
  • 社会的しゃかいてき事実じじつは、物もののように扱あつかわねばならない。……それは個人こじんの外部がいぶにあり、個人こじんに対たいして拘束力こうそくりょくをもって働はたらく。エミール・デュルケーム『社会学しゃかいがく的てき方法ほうほうの規き準じゅん』(1895)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    構造こうぞう主義しゅぎの地ちならしをした一節いっせつである。「物もののように」という言いい方かたが挑発的ちょうはつてきなのは、社会しゃかいが人ひとの心こころの集あつまりだという常識じょうしきを退しりぞけているからだ。言語げんごも、道徳どうとくも、貨幣かへいも、誰だれも作つくっていないのにそこにあり、従じゅうわないと生いきていけない。個人こじんの意図いとの外そとにあり、個人こじんを規定きていする — これが構造こうぞうという語ごの中身なかみである。注目ちゅうもくしたいのは、この見方みかたが説明せつめいの順序じゅんじょを逆ぎゃくにすることだ。「なぜ人ひとはそうするのか」を動機どうきから説明せつめいするのをやめ、配置はいちから説明せつめいする。1-6 の 131 で見みた反はんヒューマニズムへの道みちが、この一手いってから開ひらかれる。
  • 言語げんごは形式けいしきであって、実質じっしつではない。……言語げんごのなかにあるのは差異さいだけであり、しかも積極的せっきょくてきな項こうをもたない差異さいである。フェルディナン・ド・ソシュール『一般いっぱん言語学げんごがく講義こうぎ』第だい二に編へん(1916)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    構造こうぞう主義しゅぎの核心かくしんを、一行いちぎょうに凝縮ぎょうしゅくした命題めいだいである。「積極的せっきょくてきな項こうをもたない差異さい」— 難解なんかいに見みえるが、言いっていることは単純たんじゅんだ。「あ」という音おとそのものには何なにの意味いみもない。「い」でも「う」でもないことだけが意味いみを担になっている。つまり要素ようそは中身なかみを持もたず、関係かんけいの網あみのなかの位置いちでしかない。この見方みかたを言語げんごから神話しんわへ、親族しんぞく関係かんけいへ、ファッションへ広ひろげたのが構造こうぞう主義しゅぎの運動うんどうだった。1-3 の 分節ぶんせつとここで完全かんぜんに重かさなるが、構造こうぞう主義しゅぎはさらに一歩いっぽ進すすんで「人間にんげんも、その網あみのなかの一ひとつの位置いちだ」と言いい切きる。
  • 構造こうぞう主義しゅぎは、人ひとが構造こうぞうを使つかっているのではなく、構造こうぞうが人ひとを通とおして働はたらいていると見みる。 主語しゅごの入いれ替かえがこの立場たちばの全部ぜんぶである。「私わたしが話はなす」のではなく「言語げんごが私わたしにおいて話はなす」。大だいげさに聞きこえるが、日本語にほんごで考かんがえている限かぎり日本語にほんごの外そとの考かんがえは出でてこないと言いえば当あたり前まえのことでもある。
  • ×この建物たてものの構造こうぞう主義しゅぎが美うつくしい。 建築けんちく様式ようしきと思想しそうの運動うんどうを混同こんどうしている。建築けんちくなら「構造こうぞう」「構成こうせい」である。(なお建築けんちく史しには「構成こうせい主義しゅぎ」という別べつの運動うんどうがあり、こちらとも別べつ。)151 は要素ようそではなく要素ようそ間かんの関係かんけいが意味いみを決きめると見みる二十にじゅう世紀せいきの思想しそうの潮流ちょうりゅうを指さす。
派生はせい形けい
  • 構造こうぞう[0]要素ようそそのものではなく、要素ようそ間かんの関係かんけいの配置はいち。「仕組しくみ」と訳やくせそうだが、仕組しくみは動うごきを、構造こうぞうは配置はいちを指さす。構造こうぞうは静止せいししていても構造こうぞうであることが、この語ごの使つかいどころを決きめる。
  • 構造的こうぞうてき[0]批判ひはんの語彙ごいとして極きわめて重要じゅうよう。「構造的こうぞうてきな差別さべつ」は個々人ここじんの悪意あくいではなく、仕組しくみが生うむ差別さべつを指さす。加害者かがいしゃを特定とくていせずに被害ひがいを語かたれるため、現代げんだいの議論ぎろんで使用しよう頻度ひんどが高たかい。
  • 脱構築だつこうちく[3]構造こうぞう主義しゅぎの次つぎの一手いって。構造こうぞうを否定ひていするのではなく、その構造こうぞうがどんな排除はいじょの上うえに成なり立たっているかを内側うちがわから示しめす。壊こわすのではなく解といて見みせるというニュアンスが「脱だつ」の一いち字じに入はいっている。
コロケーション
  • 構造こうぞうと主体しゅたい争点そうてんそのもの人ひとはどこまで自由じゆうに選えらべるのかという問とい。構造こうぞう主義しゅぎを徹底てっていすると選えらんでいるつもりの選択せんたくも配置はいちの効果こうかになる。これに対たいしてそれでも選えらぶ余地よちはあると応おうじたのが後あとの議論ぎろんだ。1-5 の 106 の主体しゅたいという語ごがここで最大さいだいの試練しれんを受うける。
  • 無意識むいしきの構造こうぞう見みえないことが条件じょうけんの語ご当事者とうじしゃに自覚じかくされないまま働はたらく仕組しくみ。この結むすびつきが重要じゅうようなのは、自覚じかくされていたら構造こうぞうとして働はたらかないからだ。母語ぼごの文法ぶんぽうを説明せつめいできる人ひとはほとんどいないが、誰だれもが正確せいかくに使つかっている。1-5 の 117 の無意識むいしきとは別べつ系統けいとうの語ごだが、見みえないまま規定きていするという点てんでは通つうじている。
  • 二に項こう対立たいりつ構造こうぞうを取とり出だす道具どうぐ生せい/死し、自然しぜん/文化ぶんか、聖せい/俗ぞくのような二ふたつ一組ひとくみの対たい。構造こうぞう主義しゅぎがこれを重おもんじるのは、意味いみが差異さいから生うまれるなら最小さいしょうの差異さいは二ふたつだからだ。ただし後あとの批判ひはんが突ついたのは、対たいの一方いっぽうがつねに上位じょういに置おかれている点てんである — 158 のポストモダンはここから始はじまる。
  • 構造こうぞうを明あきらかにする方法ほうほうを言いう語ご表ひょうに出でている多様たような現象げんしょうの背後はいごに、少数しょうすうの規則きそくを見み出だす作業さぎょう。この方法ほうほうの強つよさは説明せつめいの経済性けいざいせいにある。数百すうひゃくの神話しんわが数個すうこの変換へんかん規則きそくで説明せつめいできるなら、それは強力きょうりょくな理論りろんだ。弱よわさも同おなじところにある — 説明せつめいできないものが視野しやから消きえる。
格かく硬かた・学術がくじゅつ

論文ろんぶん・評ひょう論ろんでのみ使つかう。会話かいわでは不自然ふしぜん。

類るい語ごと差さ
  • 実存じつぞん主義しゅぎこの私わたしの生いき方かたを問とう☑115。構造こうぞう主義しゅぎが乗のり越こえの対象たいしょうとした立場たちば。主体しゅたいを中心ちゅうしんに置おく。
  • 要素ようそ論ろん分解ぶんかいして全体ぜんたいを理解りかいする☑43。構造こうぞう主義しゅぎは要素ようそではなく関係かんけいを見みる点てんで違ちがう。
  • 記号きごう論ろん意味いみを担になうものを研究けんきゅうする☑62。構造こうぞう主義しゅぎの方法ほうほう的てきな基盤きばん。ソシュールに発はっする。
  • システム要素ようそが関係かんけいして働はたらく全体ぜんたい☑145。構造こうぞうは型かた、システムは働はたらく全体ぜんたい。

ENstructuralism
ZH结构主义(構造主義, jiégòu zhǔyì)

要素そのものには意味がなく、他の要素との差異が意味を生むことを示した図三つの点はどれも中身を持たない。たがいに異なるという関係だけが、それぞれの位置と意味を決めている。同じ点でも配置が変われば意味が変わることを下段で示す。 中身ではなく、位置が意味を作る要素そのものを見ても、何も書かれていない???関係を書き入れると、はじめて意味が立ち上がるあいう≠≠「あ」は「い」でも「う」でもないという一点だけで「あ」でありえている一つを抜けば、残りの意味もすべて動くだから構造は、要素の集まりではなく関係の網である人もまた、この網のなかの一つの位置である ── ここが構造主義の主張
差異さいだけが意味いみを担になう
Section 12

アカデミズム

152★★

アカデミズム

アカデミズム[4]中高なかだか型がた

定義ていぎ

学問がくもん研究けんきゅうや芸術げいじゅつ創作そうさくにおいて、純粋じゅんすいに真理しんりや美びを追求ついきゅうする態度たいど。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑152
原げん書しょの解説かいせつ

大学だいがくなど、学問がくもんや芸術げいじゅつの研究けんきゅう・教育機関きょういくきかんのことをアカデミーと言いい、アカデミー内ないの伝統でんとう・形式けいしき・権威けんい・正統性せいとうせいなどを守まもり、純粋じゅんすいに学問がくもん研究けんきゅうや芸術げいじゅつを行おこなう態度たいどをアカデミズムと言いう。

社会しゃかいと一定いっていの距離きょりを保たもちながら、時流じりゅうや世論よろんに流ながされず、一貫いっかんした方法ほうほうで真理しんりを目指めざすというアカデミズムの理念りねんは現在げんざいも変かわらないが、一方いっぽうで、

といった批判ひはんの声こえもある。

使用しようの境界きょうかい

大学だいがくなど制度せいど化かされた学問がくもんの世界せかいと、その権威けんい主義しゅぎ的てきな傾向けいこう。学問がくもんそのものを指さすのではない。

用法ようほう

評ひょう論文ろんぶんではほぼ批判的ひはんてきに使つかわれる。批判ひはんの中身なかみは、①現実げんじつの問題もんだいから隔絶かくぜつしている(象牙ぞうげの塔とう)、②権威けんいと序列じょれつで動うごいている、③専門せんもんが細分さいぶん化かして全体ぜんたいが見みえない(☑16 自己じこ目的もくてき化か)である。一方いっぽうで、時流じりゅうに流ながされずに知ちを蓄積ちくせきする役割やくわりを持もつとして擁護ようごされることもある。☑153 ジャーナリズムと対たいで置おかれ、持続性じぞくせいと即時そくじ性せい、深ふかさと広こうさという対比たいひで語かたられるのが定型ていけい。「アカデミック」は日常にちじょうでは〈学術的がくじゅつてきで堅実けんじつ〉という肯定こうてい語ごになる。

用例ようれい
  • 「君きみがここに来くるまでに何千なんぜん年ねんもの時ときが過すぎ去さり、さらに何千なんぜん年ねんもが沈黙ちんもくのうちに待まっている」── このことを心こころに思おもわない者ものは、学問がくもんへの天てん職しょくをもたない。マックス・ウェーバー『職業しょくぎょうとしての学問がくもん』(1919)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    アカデミズムの倫理りんりを、最もっとも高たかい調子ちょうしで述のべた一節いっせつである。ウェーバーがここで求もとめているのは謙虚けんきょさではない。途方とほうもない時間じかんの尺度しゃくどで自分じぶんの仕事しごとを測はかれということだ。その尺度しゃくどでは、ほとんどの研究けんきゅうは十じゅう年ねんで乗のり越こえられる。同おなじ講演こうえんでウェーバーは「学問がくもん上じょうの達成たっせいは必かならず時代遅じだいおくれになる。そしてそれこそが学問がくもんの意味いみである」と述のべている。乗のり越こえられることを望のぞんで仕事しごとをするというこの構かまえが、芸術げいじゅつや宗教しゅうきょうとアカデミズムを分わける。永遠えいえんを目め指ささない誠実せいじつさが、ここでは徳とくになっている。
  • 知識ちしきはそれ自体じたいが目的もくてきである。……大学だいがくが目指めざすのは、有用ゆうような技術者ぎじゅつしゃを作つくることではなく、知性ちせいそのものを陶冶とうやすることである。ジョン・ヘンリー・ニューマン『大学だいがくの理念りねん』(1852)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    アカデミズムが最もっとも攻撃こうげきされやすい主張しゅちょうを、正面しょうめんから掲かかげた一節いっせつである。「役やくに立たたない」という非難ひなんに対たいして、ニューマンは役やくに立りつとうとしていないと答こたえる。この構かまえを単たんなる象牙ぞうげの塔とうの弁明べんめいと読よむのは早計そうけいだ。短期たんきの有用性ゆうようせいで研究けんきゅうを選えらべば、いま価値かちが分わかるものしか研究けんきゅうされなくなる。数論すうろんも、非ひユークリッド幾何きかも、役やくに立たたないと言いわれた時代じだいを経へてから暗号あんごうや相対論そうたいろんを支ささえた。無用むようの許容きょようが長期ちょうきの有用ゆうようを生うむというこの逆説ぎゃくせつは、1-6 の 130 の功利こうり計算けいさんでは原理げんり的てきに出でてこない結論けつろんである。
  • アカデミズムの強つよみは、成果せいかが出でるまでの時間じかんを長ながく取とれることにある。 制度せいどの意味いみを時間じかんで説明せつめいするのがこの語ごの要点ようてんである。任期にんきのない職しょくと外部がいぶからの独立どくりつは特権とっけんではなく、長期ちょうきの探究たんきゅうを可能かのうにするための装置そうちだ。146 の装置そうちという語ごで大学だいがくを読よむと、この点てんが見みえやすくなる。
  • ×彼かれの説明せつめいは堅苦かたくるしくてアカデミズムだ。 語ごの形かたちが違ちがう。態度たいどを言いうなら「アカデミック(学術的がくじゅつてき)」、批判ひはんなら「衒学的げんがくてき」「もったいぶった」である。なお 152 には①学問がくもんの世界せかいそのもの、②権威けんい化かして硬直こうちょくした学界がっかいという二ふたつの用法ようほうがあり、②は批判ひはん語ごである。どちらの意味いみかは文脈ぶんみゃくで決きめる。
派生はせい形けい
  • アカデミック[4]形容詞けいようし形けい。「学術的がくじゅつてきな」の意いで肯定的こうていてきに使つかうほか、「実践じっせんから遠とおい」という批判ひはんの含ふくみも持もつ。英語えいごでも同おなじ二に重じゅう性せいがあり、「それはアカデミックな問題もんだいだ」は「机上きじょうの空論くうろんだ」の意いになる。
  • 学界がっかい[0]「学会がっかい」と書かき分わける。学界がっかいは研究者けんきゅうしゃの世界せかい全体ぜんたい、学会がっかいは特定とくていの学問がくもん分野ぶんやの団体だんたい・大会たいかい。同音どうおんなので、評ひょう論文ろんぶんでは「学問がくもんの世界せかい」と書かき下くだすほうが安全あんぜんである。
  • アカデメイア[5]語源ごげん。プラトンがアテナイ郊外こうがいのアカデモスの森もりに開ひらいた学園がくえんの名な。街まちの外そとに置おかれていたことが象徴的しょうちょうてきで、「象牙ぞうげの塔とう」という批判ひはんは語源ごげんの時点じてんですでに用意よういされている。
コロケーション
  • 学問がくもんの自由じゆう制度せいどが守まもる条件じょうけん研究けんきゅうの内容ないようと方法ほうほうを、外部がいぶの権力けんりょくから干渉かんしょうされないこと。この自由じゆうが特別とくべつ扱あつかいされるのは、成果せいかが事前じぜんに評価ひょうかできないからだ。価値かちが分わかってから許ゆるすのでは、まだ誰だれも価値かちを知しらない研究けんきゅうは永久えいきゅうに始しまらない。自由じゆうは権利けんりである前まえに方法ほうほう上じょうの必要ひつようである。
  • 象牙ぞうげの塔とう外そとからの呼よび名な現実げんじつから隔離かくりされた学問がくもんの世界せかい。この語ごがほぼつねに批判ひはんとして使つかわれるのは、隔離かくりが条件じょうけんでもあり欠陥けっかんでもあるからだ。距離きょりがあるから流行りゅうこうに流ながされない判断はんだんができる。同おなじ距離きょりが現実げんじつの問題もんだいを見みえなくもする。同おなじ一ひとつの性質せいしつが長所ちょうしょと短所たんしょを同時どうじに生うんでいる。
  • アカデミズムとジャーナリズム二ふたつの知ちの対たい時間じかんの尺度しゃくどが正反対せいはんたいの二ふたつ。アカデミズムは遅おそく、検証けんしょうを重おもんじ、限定げんていつきで語かたる。ジャーナリズムは速はやく、伝達でんたつを重おもんじ、言いい切きる。どちらが優すぐれているかではなく、両方りょうほうが要いる。153 と合あわせて読よむと、現代げんだいの知ちの生態系せいたいけいが見みえてくる。
  • 反はんアカデミズム外そとから挑いどむ語ご既存きそんの学界がっかいの権威けんいに対抗たいこうする立場たちば。この語ごを読よむときに要いるのは、中身なかみの批判ひはんか権威けんいへの反発はんぱつかを分わける目めだ。権威けんいを疑うたがうこと自体じたいは学問がくもんの作法さほうだが、検証けんしょうの手続てつづきごと拒こばめばただの主張しゅちょうになる。両者りょうしゃは外そとから見みると似にている。
格かく硬かた

書かき言葉ことば。会話かいわでは不自然ふしぜん。

類るい語ごと差さ
  • 学問がくもん体系的たいけいてきな知ちの探究たんきゅう中立ちゅうりつ語ご。アカデミズムは制度せいどと権威けんいの側面そくめんに重心じゅうしんがある。
  • ジャーナリズム時事じじを報ほうじる営いとなみ☑153。対たい語ごとして置おかれる。持続じぞくと即時そくじ性せいで分わかれる。
  • 権威けんい主義しゅぎ権威けんいに従じゅうい、また権威けんいで押おす態度たいど☑10 権威けんいと接続せつぞくする。アカデミズム批判ひはんの中身なかみ。
  • 象牙ぞうげの塔とう現実げんじつから隔絶かくぜつした学問がくもんの世界せかい比喩ひゆ。アカデミズムの否定的ひていてきな側面そくめんを言いう成せい句く。

ENacademism
ZH学院派(アカデミズム, xuéyuànpài)

ジャーナリズム・アカデミズム・古典が扱う時間の長さを帯の長さで比べた図同じ「知らせる」仕事でも、報道は日単位、学術は十年単位、古典は世紀単位の時間で価値を測る。帯の長さでその差を示し、速さと確かさが交換関係にあることを添える。 知は、どのくらいの時間で測るかジャーナリズム日・週速い。確かめきる前に出す。出さなければ意味がないアカデミズム年・十年遅い。確かめてから出す。出さなくても叱られない古典世紀読み継がれること自体が検証になっている速さと確かさは交換されるどれが優れているかではなく、三つとも要るということ「何千年が沈黙のうちに待っている」── この尺度で自分の仕事を測れ
知ちの三みっつの時間じかん
Section 13

ジャーナリズム

153★★

ジャーナリズム

ジャーナリズム[4]中高なかだか型がた

定義ていぎ

マス・メディアによる、時事じじ的てきな問題もんだいの報道ほうどう・解説かいせつ・批判ひはんなどの活動かつどう。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑153
原げん書しょの解説かいせつ

ジャーナリズムとは、新聞しんぶん・雑誌ざっし・ラジオ・テレビなどの活動かつどうと、それによってつくり出だされる文化ぶんかのことである。

ジャーナリズムの役割やくわりは、日々ひび起おこる事件じけんや社会しゃかい問題もんだいの概要がいようと本質ほんしつを報道ほうどうし、それらに解説かいせつや論評ろんぴょうを加くわえることだ。

情報じょうほうが氾濫はんらんし、世界せかいが混迷こんめいの度合どあいを深ふかめる現在げんざい、正確せいかくな情報じょうほうや実践的じっせんてきな知ちを提供ていきょうするジャーナリズムの重要性じゅうようせいは非常ひじょうに高たかい。

使用しようの境界きょうかい

時事じじ的てきな問題もんだいを取材しゅざいし伝つたえる営いとなみ。単たんに情報じょうほうを流ながすことではなく、権力けんりょくを監視かんしする役割やくわりを含ふくむ。

用法ようほう

要点ようてんは権力けんりょくを監視かんしする役割やくわりにある。だから「第だい四よんの権力けんりょく」と呼よばれる。評ひょう論文ろんぶんでの批判ひはんは二ふたつで、①商業しょうぎょう主義しゅぎによって視聴率しちょうりつと部数ぶすうが優先ゆうせんされる、②権力けんりょくと癒着ゆちゃくして監視かんしの役割やくわりを果かたさない。☑141 大衆たいしゅう社会しゃかいと結むすびつくと、ジャーナリズムが世論よろんを作つくり、その世論よろんに迎合げいごうするという循環じゅんかんが生しょうじる。☑143 情報じょうほう化か社会しゃかいではSNSが従来じゅうらいのジャーナリズムの位置いちを揺ゆるがしている点てんも論点ろんてんになる。

用例ようれい
  • 我わが輩はいの資本しほんは独立どくりつ不羈ふきの精神せいしんなり。……いやしくも人間にんげん社会しゃかいの利害りがい得とく失しつに関かんすることならば、これを論ろんずるに憚はばかるところなし。福沢ふくざわ諭吉ゆきち『時事じじ新報しんぽう』発刊はっかん之の趣旨しゅし(1882)
    日本にほんのジャーナリズムが自分じぶんの資格しかくを最初さいしょに宣言せんげんした文章ぶんしょうである。注目ちゅうもくしたいのは「資本しほん」という語ごの使つかい方かただ。新聞しんぶんは事業じぎょうであり、金かねがなければ続つづかない。その現実げんじつを認みとめたうえで、福沢ふくざわは本当ほんとうの元手もとでは独立どくりつの精神せいしんだと言いい換かえた。この言いい換かえは強つよがりではなく経営けいえいの判断はんだんでもある — 独立どくりつしていることが信用しんようを生うみ、信用しんようが読者どくしゃを生うむ。「不羈ふき」はつながれないの意い。政府せいふにも政党せいとうにも広告主こうこくぬしにもつながれないというこの構かまえが、いまも実現じつげんしきれていないことが、この一文いちぶんを古ふるびさせない。
  • この演習えんしゅうは、将来しょうらい決けっしてあってはならない、またあり得とくないだろうところの架空かくう的てきな演習えんしゅうに過すぎない。……敵てき機きを関東かんとうの空そらに迎むかえ撃うつということは、すでに我われ等とうの敗北はいぼくそのものである。桐生きりゅう悠々ゆうゆう「関東かんとう防空ぼうくう大だい演習えんしゅうを嗤わらふ」─ 信濃毎日新聞しなのまいにちしんぶん 社しゃ説せつ(1933)
    ジャーナリズムが何なにをするものかを、身みをもって示しめした社しゃ説せつである。桐生きりゅうはこの一本いっぽんで信濃毎日新聞しなのまいにちしんぶんを追おわれた。注目ちゅうもくしたいのは、この文章ぶんしょうが反はん戦せんの主張しゅちょうではないことだ。純粋じゅんすいに軍事ぐんじの理屈りくつで書かかれている — 本土ほんど上空じょうくうで迎撃げいげきするということはすでに敵てき機きが来きているということであり、木造もくぞう家屋かおくの都市としは焼やける。誰だれも言いわないが誰だれでも分わかる事実じじつを書かいただけである。そして十二じゅうに年後ねんご、書かかれた通とおりになった。ジャーナリズムの仕事しごとは予言よげんではなく、いま見みえているものを見みえている通とおりに書かくことだと、この一本いっぽんが教おしえる。
  • ジャーナリズムの役割やくわりは、権力けんりょくが知しらせたくないことを知しらせることにある。 広報こうほうとの差さを一線いっせんで引ひく定義ていぎである。発表はっぴょうを伝つたえるだけなら権力けんりょくの側がわの仕事しごとで足たりる。知しらせたくないことに限かぎって第三者だいさんしゃが要いる。この基準きじゅんで測はかると、報道ほうどうの量りょうではなく内容ないようが問とわれることになる。
  • ×彼かれは雑誌ざっしに記事きじを書かくジャーナリズムだ。 人ひとを指さすなら「ジャーナリスト」である。153 は報道ほうどうという活動かつどう・領域りょういき・その理念りねんの全体ぜんたいを指さす語ごで、個人こじんには使つかわない。なお「〜イズム」の形かたちだが主義しゅぎではなく活動かつどう領域りょういきを指さす点てんが他ほかの「イズム」と違ちがうので注意ちゅういしたい。
派生はせい形けい
  • ジャーナリスト[4]担にない手てを指さす語ご。語源ごげんは journal(日々ひびの記録きろく)で、「その日ひのことを書かく人ひと」が原げん義ぎ。日々ひびという時間じかんの単位たんいが語ごに埋うめ込こまれていることが、152 のアカデミズムとの差さをそのまま示しめしている。
  • ジャーナリスティック[6]ほぼ批判ひはん語ご。「ジャーナリスティックな扱あつかい」は刺激しげきを優先ゆうせんして掘ほり下さげが浅あさいという含ふくみ。速はやさという長所ちょうしょが、形容詞けいようしになると短所たんしょとして現あらわれるのは興味深きょうみぶかい。
  • 報道ほうどう[0]行為こういとしての語ご。ジャーナリズムが理念りねんと領域りょういきを含ふくむのに対たいし、報道ほうどうは知しらせるという行為こういそのものを指さす。「報道ほうどうはあるがジャーナリズムがない」という言いい方かたが成なり立たつのは、この差さがあるからだ。
コロケーション
  • 第だい四よんの権力けんりょく位置いちづけの語ご立法りっぽう・行政ぎょうせい・司法しほうに次つぐ第だい四よんの力ちからとしての報道ほうどう。この語ごが両義りょうぎ的てきなのは、権力けんりょくを監視かんしする立場たちばが、それ自体じたい権力けんりょくになるからだ。誰だれが第だい四よんの権力けんりょくを監視かんしするのかという問といに、この語ご自身じしんは答こたえを持もたない。監視かんしの連鎖れんさにはどこかで終おわりが要いる。
  • 客観きゃっかん報道ほうどう達成たっせいできない原則げんそく記者きしゃの意見いけんを交こうえずに事実じじつを伝つたえること。この原則げんそくの難むずかしさは、何なにを報ほうじるかを選えらんだ時点じてんですでに判断はんだんが入はいっている点てんにある。1-5 の 90 の客観きゃっかんと同おなじ袋小路ふくろこうじだ。それでもこの語ごが捨すてられないのは、到達とうたつできない目標もくひょうでも方向ほうこうとしては働はたらくからである。
  • 報道ほうどうの自由じゆう守まもられる条件じょうけん取材しゅざいと報道ほうどうが干渉かんしょうを受うけないこと。押おさえておきたいのは、これが報道ほうどう機関きかんの権利けんりである前まえに読者どくしゃの権利けんりだという点てんである。知しる権利けんりがあるから報道ほうどうの自由じゆうが要いる。順序じゅんじょを逆ぎゃくにすると、報道ほうどう機関きかんの都合つごうが自由じゆうの名なで語かたられることになる。
  • ジャーナリズムの商業しょうぎょう化か土台どだいが揺ゆらぐ語ご読よまれる記事きじが正ただしい記事きじより優先ゆうせんされる状態じょうたい。この問題もんだいが深ふかいのは、商業しょうぎょう性せいがなければ独立どくりつも保たもてないからだ。福沢ふくざわの言いう「資本しほん」の二ふたつの意味いみがここで衝突しょうとつする。142 の消費しょうひ社会しゃかいが知ちの領域りょういきに及およんだ形かたちである。
格かく中なか

書かき言葉ことば・会話かいわの両方りょうほうで使つかえる。

類るい語ごと差さ
  • 報道ほうどう事実じじつを伝つたえること行為こうい。ジャーナリズムは理念りねんと役割やくわりまで含ふくむ。
  • マスメディア大量たいりょうに情報じょうほうを伝つたえる媒体ばいたい手段しゅだん。ジャーナリズムはその上うえで行おこなわれる営いとなみ。
  • アカデミズム制度せいど化かされた学問がくもん☑152。対たい語ごとして置おかれる。
  • 世論よろん社会しゃかいに広ひろがる意見いけん対象たいしょうであり、同時どうじに作つくり出だす相手あいて。この循環じゅんかんが批判ひはんの的まとになる。

ENjournalism
ZH新闻业(ジャーナリズム, xīnwényè)

広報が発表をそのまま流すのに対し、報道は権力が出したくない事実を取り出すことを示した図権力の内側にある事実を、発表された分だけ流すのが広報、発表されていない部分を取り出して外へ出すのが報道である。両者を二本の経路として並べる。 どちらの経路を通るか権力の内側発表する事実伏せる事実流す広報・発表報道速く、正確で、無害掘り出すジャーナリズム遅く、揉め、必要上の経路だけでも新聞は毎日出るだから、出ていることは働いていることの証明にならない「我が輩の資本は独立不羈の精神なり」── 福沢諭吉不羈とは、つながれないこと。つながれていれば下の経路は通れない
二ふたつの経路けいろ
Section 14

マジョリティー/マイノリティー

154★★

マジョリティー

マジョリティー[3]中高なかだか型がた

定義ていぎ

多数たすう。過か半数はんすう。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑154
使用しようの境界きょうかい

多数たすうを占しめる側がわ。数かずの多おおさだけでなく、自分じぶんたちのあり方かたが標準ひょうじゅんとみなされている状態じょうたいを含ふくむ。

用法ようほう

要点ようてんは、マジョリティーであることが自覚じかくされにくい点てんにある。自分じぶんたちのあり方かたが「普通ふつう」だとみなされているため、それが一ひとつの立場たちばであることに気きづかない。この構図こうずは☑75 自じ文化ぶんか中心ちゅうしん主義しゅぎとまったく同おなじである。したがって評ひょう論文ろんぶんでは、マジョリティーの側がわが自みずからの位置いちを問とうことが求もとめられる。数かずの問題もんだいではなく力ちからの問題もんだいであることも要点ようてんで、少数しょうすうでも権力けんりょくを握にぎれば標準ひょうじゅんを決きめられる。

用例ようれい
  • 多数たすう者しゃが絶対的ぜったいてきな力ちからを握にぎるとき、私わたしが見みるのは暴ぼう政せいの萌芽ほうがである。……アメリカでは、多数たすうが思想しそうのまわりに恐おそるべき囲かこいを巡めぐらしている。その境界きょうかいの内ないでは、書かき手ては自由じゆうである。しかしそこを越こえれば、災さいいが待まつ。アレクシ・ド・トクヴィル『アメリカのデモクラシー』第一だいいち巻かん(1835)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    多数派たすうはの力ちからが法ほうではなく空気くうきとして働はたらくことを見抜みぬいた一節いっせつである。「囲かこい」という比喩ひゆが的確てきかくなのは、囲かこいの内側うちがわにいる限かぎり不ふ自由じゆうを感かんじないからだ。検閲けんえつなら禁きんじられたことが分わかる。囲かこいは見みえないまま思考しこうの範囲はんいを決きめる。さらにトクヴィルは、これが専制君主せんせいくんしゅよりたちが悪わるいと続つづける — 君主くんしゅは身体しんたいを縛しばるが、多数派たすうはは魂たましいを放ほうっておかない。「みんなが言いっている」という圧力あつりょくに訴うったえる先さきが無ないのは、訴うったえるべき相手あいてが自分じぶんもその一員いちいんである多数派たすうはだからである。
  • 衆しゅうこれを悪あくむも必かならず察さっし、衆しゅうこれを好このむも必かならず察さっす。『論語ろんご』衛霊公えいれいこう篇へん
    多数派たすうはの判断はんだんを無条件むじょうけんには信しんじるなという古ふるい戒いましめである。この句くの構造こうぞうで注目ちゅうもくしたいのは、「悪あくむ」と「好このむ」の両方りょうほうに同おなじ処方しょほうを出だしていることだ。普通ふつう、多数派たすうはへの警戒けいかいは誰だれかが叩たたかれている場面ばめんで発動はつどうする。孔子こうしはそこに留とめまらない — みんなが褒ほめているときこそ確たしかめよと言いう。こちらのほうが難むずかしい。叩たたかれている者ものを庇かばうのは勇気ゆうきの問題もんだいだが、褒ほめられている者ものを疑うたがうのは不作法ぶさほうに見みえるからだ。「必かならず察さっす」の「察さつ」は自分じぶんの目めで確たしかめるの意い。154 を扱あつかう文章ぶんしょうを読よむときは、多数派たすうはが否定ひていに回まわっているか肯定こうていに回まわっているかで警戒けいかいを緩ゆるめないようにしたい。
  • マジョリティーの特権とっけんとは、自分じぶんがマジョリティーであることを意識いしきしないでいられることである。 この定義ていぎが現代げんだいの議論ぎろんの中心ちゅうしんにある。多数派たすうはは自分じぶんの属性ぞくせいを説明せつめいする必要ひつようがない。標準ひょうじゅんとして扱あつかわれるからだ。「普通ふつう」と呼よばれることこそが特権とっけんの中身なかみであり、1-1 の 1 で見みた普遍ふへんを名乗なのる特殊とくしゅの社会的しゃかいてきな形かたちである。
  • ×会議かいぎではマジョリティーが八はち票ひょうを集あつめて可か決けっした。 数かずのことを言いうなら「多数たすう」「過か半数はんすう」である。154 は社会しゃかいのなかで標準ひょうじゅんとして扱あつかわれ、規範きはんを決きめる側がわにいる集団しゅうだんを指さす語ごで、単たんなる票ひょう数すうではない。数かずが少すくなくてもマジョリティーでありうることに注意ちゅういしたい — 決きめるのは数かずではなく規範きはんを握にぎっているかどうかである。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

反はん マイノリティー(155)

派生はせい形けい
  • 多数派たすうは[0]日本語にほんごの訳語やくご。数かずを前面ぜんめんに出だすぶん、規範きはんを握にぎっているという含ふくみが薄うすい。カタカナの「マジョリティー」が選えらばれるのは、数かず以上いじょうのものを言いいたいときである。
  • マジョリティー[3]「マジョリティ」とも書かく。長ちょう音おんの有無うむは表記ひょうきの揺ゆれで、意味いみは同おなじ。評ひょう論文ろんぶんではどちらかに統一とういつするのが原則げんそく。本ほん教材きょうざいは原げん書しょに合あわせて長ちょう音おんを入いれている。
  • 主流しゅりゅう[0]川かわの比喩ひゆから来きた語ご。数かずではなく勢いきおいいと正統性せいとうせいを指さすのが特徴とくちょうで、「主流しゅりゅう派は」「非ひ主流しゅりゅう派は」のように使つかう。マジョリティーが「標準ひょうじゅんである」ことを、主流しゅりゅうは「中心ちゅうしんにいる」ことを指さしている。
コロケーション
  • 多数たすう者しゃの暴ぼう政せい民みん主しゅ主義しゅぎの内部ないぶの敵てき多数決たすうけつの手続てつづきを正ただしく踏ふんだうえで少数しょうすう者しゃの権利けんりが奪うばわれること。この語ごが重おもいのは、手続てつづきの違反いはんがない点てんだ。だから手続てつづきの改善かいぜんでは防ふせげない。多数決たすうけつで決きめてはいけない事柄ことがらをあらかじめ定さだめておくほかなく、それが憲法けんぽうの人権じんけん規定きていである。1-6 の 127 で見みた「次つぎがある」ことの担保たんぽと一いち対たいをなす。
  • 沈黙ちんもくの螺旋らせん数かずが数かずを呼よぶ語ご少数しょうすう意見いけんの側がわが孤立こりつを恐おそれて黙だまり、その結果けっかさらに少数しょうすうに見みえるという循環じゅんかん。「螺旋らせん」という語ごが的確てきかくなのは、回まわるたびに差さが広ひろがるからだ。実際じっさいの分布ぶんぷと見みえている分布ぶんぷがずれていく — 143 の情報じょうほう社会しゃかいではこの螺旋らせんがかつてなく速はやく回まわる。
  • マジョリティーの無む自覚じかく見みえないことが条件じょうけん自分じぶんが基準きじゅんになっていることに気きづかない状態じょうたい。この語ごが批判ひはんではなく構造こうぞうの記述きじゅつとして使つかわれることに注意ちゅういしたい。意識いしきしないでいられるのは悪意あくいではなく位置いちの効果こうかだ。1-5 の 89 で見みた離り見みの見みが要求ようきゅうされるのは、まさにこの場面ばめんである。
  • マジョリティーの中なかの少数しょうすう重かさなりを見みる語ご一ひとつの軸じくでは多数派たすうは、別べつの軸じくでは少数しょうすう派はという重かさなり。この視点してんが要いるのは、人ひとは一ひとつの属性ぞくせいでできていないからだ。多数派たすうはの男性だんせいが別べつの場面ばめんでは少数しょうすう派はでありうる。敵てきと味方みかたを固定こていして描えがく議論ぎろんの解像度かいぞうどを上あげるための語ごである。
格かく中なか

書かき言葉ことば・会話かいわの両方りょうほうで使つかえる。

類るい語ごと差さ
  • マイノリティー少数しょうすうを占しめる側がわ☑155。対たい語ご。
  • 多数派たすうは多数たすうを占しめる側がわ訳語やくご。数かずの話はなしに限かぎられる。マジョリティーは標準ひょうじゅんとされる位置いちを含ふくむ。
  • 主流しゅりゅう中心ちゅうしんとなっている流ながれ傾向けいこうの話はなし。マジョリティーは人ひとの集団しゅうだんを指さす。
  • 特権とっけん有利ゆうりな立場たちばマジョリティーが自覚じかくしにくい形かたちでもつもの。批判ひはんの焦点しょうてん。

ENmajority
ZH多数派(多数派, duōshùpài)

155★★

マイノリティー

マイノリティー[3]中高なかだか型がた

定義ていぎ

少数しょうすう。少数しょうすう派は。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑155
使用しようの境界きょうかい

少数しょうすうを占しめる側がわ。標準ひょうじゅんから外はずれたものとして扱あつかわれ、不利益ふりえきを受うけている状態じょうたいを含ふくむ。

用法ようほう

数かずの少すくなさではなく力ちから関係かんけいと扱あつかわれ方ほうが要点ようてんになる。だから人口じんこうの半数はんすうを占しめる女性じょせいが社会的しゃかいてきマイノリティーとされることもある。評ひょう論文ろんぶんでは、マイノリティーの側がわから見みることで標準ひょうじゅんそのものが問とい直なおされるという構図こうずが定型ていけいである。☑150 多様性たようせい・☑157 ジェンダーと組くみ合あわせて出でることが多おおい。「配慮はいりょする」という言いい方かたには、標準ひょうじゅんの側がわが施せすという上下じょうげ関係かんけいが残のこるため、近年きんねんは避さけられる傾向けいこうにある。

用例ようれい
  • 社会しゃかいが自みずから暴君ぼうくんとなるとき、その圧制あっせいの手段しゅだんは官かん憲けんの手てを借かりるものに限かぎられない。……それは、社会しゃかいの内部ないぶにより深ふかく入はいり込こみ、魂たましいそのものを奴隷どれいにする。ジョン・スチュアート・ミル『自由じゆう論ろん』第一だいいち章しょう(1859)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    少数しょうすう者しゃを押おし潰つぶすものの正体しょうたいを言いい当あてた一節いっせつである。要点ようてんは「官かん憲けんの手てを借かりない」ところだ。法ほうで禁きんじられていないのに言いえない、着ちゃくられない、名乗なのれない。これは誰だれの命令めいれいでもないから、撤回てっかいを求もとめる相手あいてがいない。ミルはこれを政治的せいじてき抑圧よくあつより恐おそるべきものと呼よんだ。政治的せいじてき抑圧よくあつには抗議こうぎの宛先あてさきがあるが、社会的しゃかいてき圧制あっせいには無ないからだ。1-4 の 83 で見みた世間せけんが、マイノリティーにとってどう働はたらくかがここに書かかれている。154 のトクヴィルの「囲かこい」と同おなじ事態じたいを外側そとがわから見みた記述きじゅつである。
  • 愛あいする私わたしたちの先祖せんぞが起伏きふくす日常にちじょうの言語げんごで残のこしておいた多おおくの美うつくしい言葉ことば、それらの一ひとつでも二ふたつでも、生いきている中なかに書かき残のこしておきたい。知里ちり幸恵ゆきえ『アイヌ神謡しんよう集しゅう』序じょ(1923)
    マイノリティーの語かたりがどんな条件じょうけんのもとで成立せいりつするかを示しめす一節いっせつである。注目ちゅうもくしたいのは「生いきている中なかに」という一句いっくだ。十九じゅうきゅう歳さいで世よを去さることになる書かき手てが、時間じかんが足たりないことを知しりながら書かいている。そして「一ひとつでも二ふたつでも」。全部ぜんぶを残のこせるとは最初さいしょから思おもっていない。この諦あきらめと断念だんねんしなさの同居どうきょが、少数しょうすう者しゃの記録きろくのほとんどに共通きょうつうする。さらに重おもいのは、この序文じょぶんが日本語にほんごで書かかれていることである — 残のこすために、奪うばった側がわの言葉ことばを使つかうほかなかった。155 を論ろんじる文章ぶんしょうが「語かたる場ばが誰だれの言葉ことばでできているか」を問とい続つづけるのは、この事情じじょうによる。
  • マイノリティーとは、数かずが少すくない集団しゅうだんではなく、規範きはんを決きめる側がわにいない集団しゅうだんである。 数かずと権力けんりょくを切きり離はなすのがこの語ごの使つかい方かたの要点ようてんである。南みなみアフリカのアパルトヘイト下したでは人口じんこうの多数派たすうはがマイノリティーだった。この一いち例れいを押おさえておくと、「少数しょうすうだから」という説明せつめいがいかに粗あらいかが分わかる。
  • ×この趣味しゅみはマイノリティーなので、話はなしが合あう人ひとが少すくない。 少数しょうすうであることと不利ふりな位置いちにあることを混まぜている。珍めずらしい趣味しゅみを言いうなら「少数しょうすう派は」「ニッチな」である。155 はその属性ぞくせいゆえに不利益ふりえきを被こうむる位置いちを指さす語ごで、珍めずらしさの度合どあいではない。不利益ふりえきが伴ともなうかどうかが判断はんだんの分わかれ目めになる。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

反はん マジョリティー(154)

派生はせい形けい
  • 少数派しょうすうは[0]数かずだけを指さす訳語やくご。評ひょう論文ろんぶんでカタカナが選えらばれるのは、この語ごだと数かずの問題もんだいに見みえてしまうからだ。訳語やくごを避さけることで意味いみを守まもっている珍めずらしい例れいである。
  • マイノリティ[3]長ちょう音おんを落おとした表記ひょうき。学術書がくじゅつしょではこの形かたちも多おおい。表記ひょうきの揺ゆれは意味いみに影響えいきょうしないが、一ひとつの文章ぶんしょうのなかでは統一とういつするのが原則げんそくである。
  • 弱者じゃくしゃ[1]混同こんどうされやすいが別べつの語ご。弱じゃく者しゃは力ちからが弱よわいという性質せいしつの記述きじゅつで、同情どうじょうの対象たいしょうという含ふくみが付つく。マイノリティーは位置いちの記述きじゅつであって、弱よわいとは言いっていない。「弱じゃく者しゃ」と呼よび替かえた瞬間しゅんかんに議論ぎろんが権利けんりから保護ほごへずれることに注意ちゅういしたい。
コロケーション
  • 社会的しゃかいてきマイノリティー数かずを外はずす語ごあえて「社会的しゃかいてき」と冠かんむりするのは、数かずの話はなしではないと明示めいじするためである。この修飾しゅうしょくがないと、「少数しょうすうだから仕方しかたない」という多数決たすうけつの論理ろんりに引ひき戻もどされてしまう。語ごに一語いちご足たすことで議論ぎろんの土俵どひょうを守まもっている例れいとして、書かき方かたの参考さんこうになる。
  • 声こえを上あげる主体しゅたい化かを言いう語ごこの慣用かんよう句くが155 の文脈ぶんみゃくで重おもいのは、声こえを上あげること自体じたいに費用ひようがかかるからだ。名乗なのれば不利益ふりえきを被こうむる。不利益ふりえきを被こうむる位置いちにいる者ものほど声こえを上あげにくいという循環じゅんかんがある。「声こえが上あがっていない」ことは「問題もんだいがない」ことを意味いみしない。
  • 当事者とうじしゃ性せい誰だれが語かたれるかを問とう語ごその問題もんだいを身みをもって生いきていることから来くる資格しかく。この語ごが難むずかしいのは、重おもんじすぎると当事者とうじしゃ以外いがいは黙だまるべきだという結論けつろんになり、軽かろんじすぎると当事者とうじしゃ不在ふざいで議論ぎろんが進すすむからだ。どちらの極きょくも少数しょうすう者しゃを孤立こりつさせる点てんで同おなじ結果けっかを生うむ。
  • マイノリティーの可視化かしか見みえるようにする語ご存在そんざいしているのに数かぞえられていない状態じょうたいから抜ぬけ出だすこと。この語ごが示しめすのは、統計とうけいに項目こうもくがないことが不在ふざいと同義どうぎになるという現代げんだいに固有こゆうの事情じじょうだ。143 の情報じょうほう社会しゃかいではデータに現あらわれないものは存在そんざいしないものとして扱あつかわれる。
格かく中なか

書かき言葉ことば・会話かいわの両方りょうほうで使つかえる。

類るい語ごと差さ
  • マジョリティー多数たすうを占しめる側がわ☑154。対たい語ご。
  • 少数しょうすう派は少数しょうすうを占しめる側がわ訳語やくご。数かずの話はなしに限かぎられる。
  • 弱じゃく者しゃ力ちからの弱よわい立場たちばの人ひと力ちから関係かんけいを言いう。マイノリティーは標準ひょうじゅんからの外はずれという位置いちを指さす。
  • エスニシティ集団しゅうだんへの帰属きぞく意識いしき☑85。マイノリティーが依拠いきょする帰属きぞくの一ひとつ。

ENminority
ZH少数派(少数派, shǎoshùpài)

解説かいせつ ── マジョリティー・マイノリティー

マジョリティーとマイノリティーがとくに問題もんだいとなるのは、人種じんしゅ差別さべつなどで少数しょうすう民族みんぞくが差別さべつや抑圧よくあつを受うける場合ばあい、つまりマイノリティーが単たんなる少数しょうすう派はではなく、弱じゃく者しゃの場合ばあいである。

現代げんだいでは、いかに社会しゃかいの中なかでマイノリティーの存在そんざいを尊重そんちょうするかが課題かだいとなる。

また、政治せいじにおける多数決たすうけつなどの場合ばあいにも、少数しょうすう派はの意見いけんをどのように社会しゃかいに反映はんえいさせるかが重要じゅうような問題もんだいとなる。

なお、黒人こくじんは人口じんこう的てきには少数しょうすう者しゃとは言いえないが、人種じんしゅ差別さべつを受うけやすい社会的しゃかいてき弱じゃく者しゃであるため、マイノリティーとして扱あつかう場合ばあいもある。

近年きんねんの日本にほんでは、同どう性せい愛あい者しゃ・障害しょうがい者しゃ・在日ざいにち外国人がいこくじんなども社会的しゃかいてき弱じゃく者しゃとされている。

対立たいりつの軸じく

マジョリティー/マイノリティー の軸じく = 標準ひょうじゅんを決きめる側がわか、外はずれる側がわか

マジョリティー多数たすうを占しめ、そのあり方かたが標準ひょうじゅんとみなされる側がわ。
標準ひょうじゅんを決きめる側がわか、外はずれる側がわか
マイノリティー少数しょうすうを占しめ、標準ひょうじゅんから外はずれたものとして扱あつかわれる側がわ。
標準を決める位置マジョリティーが自らの立場を標準とみなし、その位置が自覚されにくいことを示した図。 マジョリティー マイノリティー これが「普通」だとされる 標準から 外れたものとされる 数ではなく、標準を決める 力の問題である。 ☑75 自文化中心主義とまったく同じ構図がここにある
標準ひょうじゅんを決きめる位置いち
Section 15

フェミニズム

156★★

フェミニズム

フェミニズム[3]中高なかだか型がた

定義ていぎ

女性じょせいの社会的しゃかいてき権利けんりを男性だんせいと同等どうとうにし、女性じょせいの能力のうりょくや役割やくわりの発展はってんを目指めざす主張しゅちょうおよび、その運動うんどう。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑156
原げん書しょの解説かいせつ

フェミニズムは、近代きんだい以降いこうの社会しゃかいが男性だんせい中心ちゅうしんにできており、女性じょせいがさまざまな場面ばめんで差別さべつを受うけていることを糾弾きゅうだんするものである。

その運動うんどうの始はじめは、女性じょせいには選挙せんきょ権けんがないなどの政治的せいじてき差別さべつと闘たたかうものであった。

その後ご、フェミニズムは多様たよう化かする。次第しだいに、政治的せいじてきな権利けんりだけでなく生活せいかつの中なかにおいても女性じょせいに対たいする差別さべつをなくして、男性だんせいの意識いしきも女性じょせい自身じしんの意識いしきも変かえることにより、女性じょせいが自由じゆうに生活せいかつできる社会しゃかいを実現じつげんすることを目的もくてきとするようになる。

使用しようの境界きょうかい

性別せいべつによる差別さべつをなくし、女性じょせいの権利けんりと自由じゆうを確立かくりつしようとする思想しそうと運動うんどう。女性じょせいだけの問題もんだいを扱あつかうのではない。

用法ようほう

評ひょう論文ろんぶんで重要じゅうようなのは、フェミニズムが「女性じょせいの問題もんだい」に留とめまらないという点てんである。性別せいべつが自然しぜんではなく社会的しゃかいてきにつくられたものだと示しめすことで(☑157 ジェンダー)、自然しぜんに見みえていたものが制度せいどである(☑78)という視点してんそのものを鍛きたえた。この方法ほうほうは人種じんしゅ・階級かいきゅう・障害しょうがいの分析ぶんせきにも広ひろがった。「男おとこらしさ」の抑圧よくあつを問とうのもフェミニズムの射程しゃていに入はいる。日常にちじょう語ごでは誤解ごかいが多おおく、男性だんせいへの敵対てきたいと受うけ取とられることがあるが、思想しそうとしては性別せいべつによる束縛そくばく一般いっぱんを扱あつかう。

用例ようれい
  • 私わたしは、女性じょせいが男性だんせいを支配しはいする力ちからを望のぞむのではない。女性じょせいが自分自身じぶんじしんを支配しはいする力ちからを望のぞむのである。メアリ・ウルストンクラフト『女性じょせいの権利けんりの擁護ようご』(1792)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    フェミニズムが最初さいしょに受うけた誤解ごかいに、最初さいしょから答こたえていた一句いっくである。「男おとこを支配しはいする」と「自分じぶんを支配しはいする」を並ならべたところに仕掛しかけがある。権力けんりょくの量りょうを奪うばい合あう話はなしではないと言いっているのだ。注目ちゅうもくしたいのは「自分自身じぶんじしんを支配しはいする」という言いい回まわしだ。これは自律じりつの古典的こてんてきな定義ていぎそのものであり、1-6 の 135 で見みたカントの「自みずから招まねいた未み成せい年ねん状態じょうたいから抜ぬけ出でよ」とまったく同おなじ構かまえである。つまりこの主張しゅちょうは啓蒙けいもうの原理げんりを女性じょせいにも適用てきようせよと言いっているにすぎない。にすぎないことが二百年にひゃくねんかかったところに、この文章ぶんしょうの重おもさがある。
  • 山やまの動うごく日ひ来くる。かく云いへども人ひとわれを信しんぜじ。……すべて眠ねむりし女おんな今いまぞ目覚めざめて動うごくなる。与謝野晶子よさのあきこ『そぞろごと』(『青鞜せいとう』創刊号そうかんごう・1911)
    日本にほんのフェミニズムが最初さいしょに持もった詩しである。「山やまの動うごく日ひ来くる」という断言だんげんから始はじめておいて、次つぎの行ぎょうで「人ひとわれを信しんぜじ」と自みずから退しりぞく。この一いち往復おうふくが詩しを強つよくしている — 信しんじられないことは書かき手ても分わかっている。分わかったうえで書かいている。そして「眠ねむりし女おんな」という表現ひょうげんだ。女おんなは無力むりょくだったのではなく、眠ねむっていたと言いう。力ちからはもとからあったというこの前提ぜんていが、運動うんどうの言葉ことばとしては決定的けっていてきに効きく — 与あたえられるのを待まつのではなく、取とり戻もどす話はなしになるからだ。一いち四よん五ご文字もじほどの詩しが百年ひゃくねん以上いじょう引ひかれ続つづけるのは、この構かまえのためである。
  • フェミニズムは、女性じょせいの地位ちいの向上こうじょうを求もとめる運動うんどうであると同時どうじに、性別せいべつによって成なり立たってきた知ちの枠組わくぐみそのものを問とい直なおす試こころみでもある。 二に層そうあることを押おさえるのが要点ようてんである。第一だいいち層そうは制度せいどの是正ぜせい — 参政権さんせいけん、賃金ちんぎん、機会きかい。第だい二に層そうは認識にんしきの枠組わくぐみの問とい直なおし — 「人間にんげん」と言いうとき誰だれが想定そうていされてきたか。後者こうしゃがあるために、この運動うんどうは哲学てつがくの問題もんだいにもなる。
  • ×彼女かのじょはフェミニズムだから、男性だんせいの意見いけんに厳きびしい。 人ひとを指さすなら「フェミニスト」である。そのうえで、この文ぶんは立場たちばを態度たいどの悪わるさの説明せつめいに使つかっている。156 は性別せいべつによる不ふ均衡きんこうを是正ぜせいしようとする思想しそうと運動うんどうの総称そうしょうで、男性だんせいへの態度たいどで定義ていぎされる語ごではない。思想しそうの名なを人ひと柄がらの説明せつめいに流用りゅうようしないのは、1-6 の 139 でも見みた原則げんそくである。
派生はせい形けい
  • フェミニスト[4]担にない手てを指さす語ご。日本語にほんごでは「女性じょせいに優やさしい男性だんせい」という誤あやまった用法ようほうが長ながく流通りゅうつうした。思想しそうの立場たちばを指さす語ごが態度たいどの語ごに取とり違ちがえられた典型例てんけいれいで、評ひょう論文ろんぶんでは原げん義ぎで使つかう。
  • 女性学じょせいがく[3]学問がくもんとしての形かたち。運動うんどうとしてのフェミニズムに対たいし、研究けんきゅうの分野ぶんやを指さす。のちに「ジェンダー研究けんきゅう」へ名なを広ひろげたのは、男性だんせいのあり方かたも対象たいしょうに含ふくめるためである。
  • ミソジニー[3]女性じょせいへの嫌悪けんお・蔑視べっし。ギリシア語ご miso(憎にくむ)+ gyne(女おんな)。注意ちゅういしたいのは、個人こじんの感情かんじょうではなく文化ぶんかに埋うめ込こまれた傾向けいこうを指さすことだ。女性じょせい自身じしんがミソジニーを内面化ないめんかすると論ろんじられるのは、この語ごが構造こうぞうの語ごだからである。
コロケーション
  • 第一波だいいっぱ・第だい二波には段階だんかいで分わける語ご第一波だいいっぱは参政権さんせいけんと法的ほうてき平等びょうどう、第だい二波にはは家庭かてい・身体しんたい・言説げんせつの不ふ均衡きんこうを扱あつかった。この区分くぶんが有用ゆうようなのは、法ほうの平等びょうどうが達成たっせいされても不ふ均衡きんこうが残のこったという事実じじつを一目ひとめで示しめせるからだ。制度せいどを直なおしても変かわらないものがあるという発見はっけんが、157 のジェンダーという語ごを要求ようきゅうした。
  • 個人的こじんてきなことは政治的せいじてきである境界きょうかいを動うごかす標語ひょうご第だい二波にはを象徴しょうちょうする一句いっく。家事かじの分担ぶんたんも、身体しんたいの扱あつかいも、私的してきな問題もんだいではなく権力けんりょくの配置はいちの問題もんだいだと言いう。この標語ひょうごが強力きょうりょくなのは、1-6 の 122 の市民しみん社会しゃかいが引ひいた公私こうしの線せんを引ひき直なおしているからだ。線せんの内側うちがわは介入かいにゅうされないかわりに救すくわれもしない。
  • フェミニズムの多様たよう化か内部ないぶの差さを認みとめる語ご「女性じょせい」という一ひとつの主語しゅごで語かたれるのかという問とい。階級かいきゅう・人種じんしゅ・地域ちいきによって直面ちょくめんする不ふ均衡きんこうは違ちがう。この自己じこ批判ひはんが起おきたことは運動うんどうの弱体化じゃくたいかではなく成熟せいじゅくと読よむべきだ。155 の「マジョリティーの中なかの少数しょうすう」が運動うんどうの内側うちがわで発見はっけんされたのである。
  • バックラッシュ反はん動どうを指さす語ご前進ぜんしんに対たいして起おきる揺ゆり戻もどし。この語ごが要いるのは、反はん動どうが前進ぜんしんの証拠しょうこでもあることを示しめすためだ。何なにも変かわっていなければ反発はんぱつも起おきない。ただし反はん動どうを前進ぜんしんの証拠しょうことして片かたづけるのも危あやうい — 実際じっさいに後退こうたいすることもある。
格かく中なか

書かき言葉ことば・会話かいわの両方りょうほうで使つかえる。

類るい語ごと差さ
  • ジェンダー社会的しゃかいてきにつくられた性せい差さ☑157。フェミニズムが用もちいる中心ちゅうしん的てきな分析ぶんせき概念がいねん。
  • 男女だんじょ平等びょうどう男女だんじょの権利けんりが等ひとしいこと制度せいど上じょうの目標もくひょう。フェミニズムはその根ねにある構造こうぞうを問とう。
  • 女性じょせい解放かいほう女性じょせいを束縛そくばくから解とき放はなつ訳語やくごの一ひとつ。運動うんどうとしての側面そくめん。
  • 家父かふ長ちょう制せい家長かちょうの男性だんせいが権限けんげんをもつ制度せいど☑19 の入試にゅうし文ぶんにも現あらわれる。フェミニズムが批判ひはんする対象たいしょう。

ENfeminism
ZH女权主义(女権主義, nǚquán zhǔyì)

第一波が法と制度を、第二波が家庭と身体と言説を対象にしたことを示した図第一波は参政権や財産権など公的領域の法的平等を求めた。第二波は法が平等になっても残った家庭・身体・言葉のなかの不均衡を対象にした。公私の線を挟んで二つの波が並ぶ。 法が平等になっても、残ったもの公と私を分ける線公的領域私的領域第一波参政権・財産権教育・職業法の前の平等第二波家事・育児の分担身体・性・暴力言葉と表象「個人的なことは政治的である」この標語は、上の点線を引き直せという要求だった線の内側は、介入されないかわりに救われもしない
二ふたつの波なみと、公私こうしの線せん
Section 16

ジェンダー

157★★

ジェンダー

ジェンダー[1]頭高あたまだか型がた

定義ていぎ

社会的しゃかいてき・文化ぶんか的てきに形成けいせいされる、男おとこらしさや女おんならしさ。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑157
原げん書しょの解説かいせつ

生物せいぶつとしての性せいをセックス(sex)、社会的しゃかいてき・文化ぶんか的てきな性せいをジェンダーと言いう。

セックスは生うまれつきだが、ジェンダーは社会しゃかいや文化ぶんかの中なかで成長せいちょうしていく過程かていで身みにつけるものである。

たとえば、

といった「男おとこらしさ」「女おんならしさ」は、ジェンダーに基もとづく考かんがえ方かただ。

このような文化ぶんか的てきにつくられた性せい差さは、個人こじんの自由じゆうな生いき方かたを抑圧よくあつする側面そくめんがあることから、ジェンダーの固定化こていかの解消かいしょうを求もとめる「ジェンダー・フリー」を唱となえる論ろん者しゃもいる。

使用しようの境界きょうかい

社会的しゃかいてき・文化ぶんか的てきにつくられた性せい差さ。生物学せいぶつがく的てきな性別せいべつ(セックス)と区別くべつして使つかう。

用法ようほう

セックスとの区別くべつが最初さいしょの関門かんもんになる。身体しんたいの差異さいは生物学せいぶつがく的てきだが、「女性じょせいは感情的かんじょうてきだ」「男性だんせいは泣なかない」といった内容ないようは社会しゃかいがつくったものである。この区別くべつによって、自然しぜんに見みえていたものが変かえられるものになる。ここが要点ようてんで、☑96 本質ほんしつ主義しゅぎへの批判ひはんと直結ちょっけつする。近年きんねんはセックスとジェンダーの区別くべつそのものも問とい直なおされており、身体しんたいの理解りかい自体じたいが文化ぶんかに規定きていされているという議論ぎろんに進すすんでいる。

用例ようれい
  • 一方いっぽうの性せいの他方たほうへの法的ほうてきな従属じゅうぞくは、それ自体じたいとして誤あやまりであり、……いま完全かんぜんな平等びょうどうの原理げんりによって置おき換かえられるべきである。……ある性せいに生うまれたということが、なぜ人生じんせいのすべてを決きめてしまうのか。ジョン・スチュアート・ミル『女性じょせいの隷従れいじゅう』第一だいいち章しょう(1869)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    ジェンダーという語ごが生うまれる百年ひゃくねん前まえに、その問といを立たてた一節いっせつである。最後さいごの一文いちぶんが要ようである — 「ある性せいに生うまれたということが」。ミルはここで生うまれ(生物学せいぶつがく的てきな性せい)と人生じんせいの配分はいぶん(社会的しゃかいてきな役割やくわり)を切きり離はなして並ならべた。この切きり離はなしがのちに sex と gender という二に語ごに固かたまる。さらにミルは、女性じょせいの本性ほんしょうなるものは観察かんさつされたことがないとも書かいた。従属じゅうぞくした状態じょうたいでしか観察かんさつしていないのに、その観察かんさつから本性ほんしょうを導みちびいている — この循環じゅんかんの指摘してきは、1-4 の 87 で見みた「である」から「べきである」への飛躍ひやくの、最もっとも重要じゅうような実例じつれいの一ひとつである。
  • 女子じょしであれば何なに様さまな理不尽りふじんをも堪たへねばならぬか、……私わたしは其その様さまな事ことを思おもふと一日いちにちも此この家かに居いる気きにはなれませぬ。樋口ひぐち一葉いちよう『十じゅう三さん夜よる』(1895)
    ジェンダーが制度せいどとしてどう働はたらくかを、一人ひとりの女おんなの言葉ことばで見みせた一節いっせつである。この短編たんぺんで、主人公しゅじんこうは嫁とつぎ先さきの仕打しうちに耐たえかねて実家じっかへ帰かえる。そして父ちちに諭さとるされて、その夜よるのうちに戻もどっていく。注目ちゅうもくしたいのは、誰だれも悪人あくにんとして書かかれていないことだ。父ちちは娘むすめを思おもっており、思おもっているからこそ帰かえれと言いう。離り縁えんされた娘むすめがどう扱あつかわれるかを知しっているからである。愛情あいじょうが抑圧よくあつの経路けいろになる — 151 の構造こうぞう主義しゅぎが言いう「個人こじんの意図いとの外そとで働はたらく仕組しくみ」が、これほど具体的ぐたいてきに書かかれた例れいは少すくない。変かえるべき相手あいてが見当みあたらないことこそが、ジェンダーという語ごの必要ひつようを証明しょうめいしている。
  • 生物学せいぶつがく的てきな性せいをセックス、社会的しゃかいてき・文化ぶんか的てきに作つくられた性せいをジェンダーと呼よび分わける。 この対たいが語ごの出発点しゅっぱつてんである。分わけることの効果こうかは「生うまれつきだから仕方しかたない」という説明せつめいを検証けんしょうにかけられることにある。なお現代げんだいではセックスの側がわも文化ぶんかの見方みかたに影響えいきょうされているという議論ぎろんが進すすんでおり、二に分ぶん自体じたいが問とい直なおされている。
  • ×申込書もうしこみしょのジェンダー欄らんに「男おとこ」と記入きにゅうした。 書類しょるいの性別せいべつ欄らんは通常つうじょう「性別せいべつ(sex)」である。(近年きんねんは自認じにんする性せいを書かく欄らんを設もうける例れいもあり、その場合ばあいは 157 でよい。)評ひょう論語ろんごのジェンダーは社会しゃかいが性別せいべつに割わり当あてた役割やくわり・規範きはん・期待きたいの総体そうたいを指さす語ごで、個人こじんの属性ぞくせいを記入きにゅうする項目こうもく名めいではない。
派生はせい形けい
  • ジェンダー[1]もとは文法ぶんぽう用語ようご。ラテン語ご系けいの言語げんごで名詞めいしを分類ぶんるいする「性せい」(男性名だんせいめい詞し・女性じょせい名詞めいし)を指さしていた。言語げんごの恣意的しいてきな区分くぶんを指さす語ごが、社会しゃかいの恣意的しいてきな区分くぶんを指さす語ごに転用てんようされたところが見事みごとである。
  • セックス[1]生物学せいぶつがく的てきな性せい。日本語にほんごでは性せい行為こういの意いが強つよく出でるため、評ひょう論文ろんぶんでは「生物学せいぶつがく的てき性せい」「身体的しんたいてき性せい」と書かき下くだすことが多おおい。訳やくしにくさが議論ぎろんの妨さまたげになる例れい。
  • ジェンダー平等ジェンダーびょうどう[5]政策せいさくの語彙ごい。「男女だんじょ平等びょうどう」との差さに注意ちゅういしたい。男女だんじょ平等びょうどうは二ふたつの性せいの均衡きんこうを言いうが、ジェンダー平等びょうどうは二ふたつに収おさまらない場合ばあいも含意がんいできる。語ごを変かえることで枠わくを広ひろげている。
コロケーション
  • ジェンダー・ロール割わり当あてを指さす語ご性別せいべつに応おうじて期待きたいされるふるまいの型かた。この語ごの使つかいどころは、期待きたいが本人ほんにんの意思いしと無関係むかんけいに先さき回まわりしていることを示しめす点てんにある。生うまれた瞬間しゅんかんに着きせる色いろが決きまっている。146 の装置そうちが生せい後ごゼロ日ひから働はたらきはじめると読よむと、この語ごは具体的ぐたいてきになる。
  • ジェンダー・バイアス偏かたよりを指さす語ご判断はんだんや評価ひょうかに性別せいべつによる偏かたよりが無む自覚じかくに入はいり込こむこと。この語ごが強力きょうりょくなのは、差別さべつの意図いとを証明しょうめいしなくてよいからだ。同おなじ履歴書りれきしょの名前なまえを変かえると評価ひょうかが変かわる — この事実じじつだけで偏かたよりは示しめせる。意図いとから結果けっかへ、議論ぎろんの土俵どひょうを移うつす語ごである。
  • ジェンダーの再生産さいせいさん続つづく仕組しくみを言いう語ご教育きょういく・家庭かてい・メディアを通つうじて次つぎの世代せだいに同おなじ配分はいぶんが受うけ渡わたされること。「再生産さいせいさん」という語ごが的確てきかくなのは、誰だれも企くわだてていないのに確実かくじつに続つづくことを示しめすからだ。維持いじのための努力どりょくが要いらないほうが強つよい制度せいどである。
  • ジェンダー・フリー和製わせいの語ご性別せいべつによる区別くべつをなくそうという主張しゅちょうを日本にほんで表あらわした語ご。注意ちゅういしたいのは、英語圏えいごけんではほとんど使つかわれないことだ。そして「性せい差さをなくす」という極端きょくたんな意味いみに読よみ替かえられて攻撃こうげきの的まとになった。造語ぞうごが誤読ごどくとともに独どくり歩あるきする危あやうさの例れいである。
格かく中なか

書かき言葉ことば・会話かいわの両方りょうほうで使つかえる。

類るい語ごと差さ
  • セックス生物学せいぶつがく的てきな性別せいべつ対たい概念がいねん。身体的しんたいてきな差異さい。ジェンダーは社会しゃかいがその上うえに載のせた意味いみ。
  • 性せい役割やくわり性別せいべつに応おうじて期待きたいされる振ふる舞まいジェンダーが具体的ぐたいてきに現あらわれた形かたち。
  • フェミニズム性せい差別さべつをなくそうとする思想しそう☑156。ジェンダーはその分析ぶんせき概念がいねん。
  • 本質ほんしつ主義しゅぎ生うまれつきの性質せいしつだとする立場たちば☑96。ジェンダー論ろんが批判ひはんする立場たちば。

ENgender
ZH社会性别(社会的性別, shèhuì xìngbié)

セックスとジェンダー生物学的な性別の上に社会が意味を載せる構造と、それによって変えられるものになることを示した図。 ジェンダー ── 社会が載せた意味 「女性は感情的」「男性は泣かない」「家事は女の仕事」 セックス ── 生物学的な性別 身体的な差異 載せる 社会が載せたものなら、変えられる。この転換が要点になる。 ☑96 本質主義への批判と、直結している
セックスの上うえに、社会しゃかいが意味いみを載のせる
Section 17

ポストモダン

158★★

ポストモダン

ポストモダン[4]中高なかだか型がた

定義ていぎ

近代きんだいを乗のり越こえようとする思想しそう運動うんどう。脱だつ近代きんだい。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑158
原げん書しょの解説かいせつ

ポストモダンは二十にじゅう世紀せいき後半こうはんに盛さかんになった思想しそう運動うんどうのことで、ポスト・モダニズムとも言いい、〈モダニズム(近代きんだい主義しゅぎ)以降いこう〉という意味いみ。

近代きんだいの価値かち観かんを絶対的ぜったいてき・普遍的ふへんてきと考かんがえることはできないとする。

ロゴス中心ちゅうしん主義しゅぎ(=理性りせいや論理ろんりを真理しんりの究極きゅうきょく的てきな根拠こんきょとして考かんがえる立場たちば)や、進歩しんぽ主義しゅぎ(=世代せだいを重かさねるごとに、社会しゃかいの矛盾むじゅんを変革へんかくしてよりよいものにしようとする立場たちば)などの、近代きんだいの考かんがえ方かたの限界げんかいを指摘してきし、現代げんだいの消費しょうひ社会しゃかいや情報じょうほう社会しゃかいに対応たいおうする新あたらしい知ちや実践じっせんのあり方かたを提唱ていしょうする思想しそうである。

ただし、近代きんだいの価値かち観かんに変かわる新あたらしい原理げんりや制度せいどを提唱ていしょうするのではなく、近代きんだいの原理げんりを相対そうたい化かすることで、近代的きんだいてきな価値かち観かんから自由じゆうになることを試こころみている。

また、代表的だいひょうてきな哲学者てつがくしゃには、リオタール(1924〜1998年ねん)やデリダ(1930〜2004年ねん)といった人物じんぶつがいる。

たとえば

リオタールは、高度こうど情報じょうほう化か社会しゃかいの進展しんてんをみすえ、マルクス主義しゅぎのような壮大そうだいなイデオロギーの体系たいけいが終おわりを迎むかえたとして、「大おおきな物語ものがたりの終焉しゅうえん」を説といた。

また、デリダは「脱だつ構築こうちく」という概念がいねんを用もちいて、「善ぜん/悪あく」「真しん/偽にせ」「男おとこ/女おんな」「西洋せいよう/東洋とうよう」といった二に項こう対立たいりつにおいて、前者ぜんしゃが後者こうしゃより優すぐれているとする価値かち観かんの解体かいたいを主張しゅちょうした。

使用しようの境界きょうかい

近代きんだいの枠組わくぐみが有効性ゆうこうせいを失うしなったあとの状況じょうきょうと、それを扱あつかう思想しそう。近代きんだいのあとの時代じだいというだけの意味いみではない。

用法ようほう

リオタールの「大おおきな物語ものがたりの終焉しゅうえん」が定義ていぎとして最もっともよく使つかわれる。人類じんるいは理性りせいによって進歩しんぽし解放かいほうされる──こうした歴史れきし全体ぜんたいを意味いみづける枠組わくぐみが信しんじられなくなった状況じょうきょうを指さす。二ふたつの大戦たいせん、社会しゃかい主義しゅぎの崩壊ほうかい、環境かんきょう破壊はかいがその背景はいけいにある。だから残のこるのは小ちいさな物語ものがたりの並存へいそんであり、☑150 多様性たようせいや☑132 ニヒリズムに接続せつぞくする。批判ひはんもあり、基準きじゅんを失うしなえば何なにも批判ひはんできなくなるという指摘してきがなされる。建築けんちく・芸術げいじゅつでは様式ようしきの名なとしても使つかわれる。

用例ようれい
  • 事実じじつなるものは存在そんざいしない。存在そんざいするのは解釈かいしゃくだけである。フリードリヒ・ニーチェ『権力けんりょくへの意志いし』遺稿いこう(1886頃ころ)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    ポストモダンと呼よばれる思考しこうの最もっとも短みじかい定式ていしきである。ただし、この一句いっくは自分自身じぶんじしんに噛かみつく — 「事実じじつは存在そんざいしない」という主張しゅちょうは事実じじつとして述のべられているのか。そうなら自己じこ矛盾むじゅんであり、解釈かいしゃくにすぎないなら従したがう理由りゆうがない。この自己じこ言及げんきゅうの罠わなはニーチェ自身じしんが承知しょうちしていたと読よむべきだ。彼かれが求もとめたのは新あたらしい真理しんりではなく、真理しんりという語ごの身分みぶんの引ひき下さげだった。絶対ぜったいに正ただしい何なにかを掲かかげること自体じたいをやめるというこの構かまえが、1-6 の 135 で見みた啓蒙けいもうの「理性りせいの光ひかり」への最もっとも深ふかい疑うたがいになる。158 を扱あつかう文章ぶんしょうは、この罠わなをどう処理しょりしているかを見みると評価ひょうかしやすい。
  • いや、殺ころしたのはわたしでございます。……わたしがあの人ひとを殺ころしたのです。……夫おっとを殺ころしたのはわたしではございません。芥川あくたがわ龍之介りゅうのすけ『藪やぶの中なか』(1922)
    大おおきな物語ものがたりが成なり立たたなくなる事態じたいを、小説しょうせつの形かたちで先取さきどりした作品さくひんである。同おなじ殺人さつじんについて盗人ぬすびと・妻つま・死者ししゃの霊れいがそれぞれ「自分じぶんがやった」と語かたる。三みっつの証言しょうげんはどれも筋すじが通とおり、どれも他ほかを否定ひていする。注目ちゅうもくしたいのは、芥川あくたがわが正解せいかいを用意よういしていないことだ。普通ふつうの推すい理り小説しょうせつなら最後さいごに真しん相そうが示しめされる。この作品さくひんにはそれがない。読者どくしゃは解釈かいしゃくのあいだで宙ちゅうづりのまま放ほうり出だされる。さらに深ふかいのは、三人さんにんとも自分じぶんに不利ふりな証言しょうげんをしていることだ。嘘うそをつく動機どうきすら見当みあたらない。誠実せいじつに語かたっても真実しんじつが一ひとつに定さだまらない — ポストモダンが言いおうとしたことが、ここに書かかれている。
  • ポストモダンとは、進歩しんぽや解放かいほうといった「大おおきな物語ものがたり」への信頼しんらいが失うしなわれた状態じょうたいを指さす。 「大おおきな物語ものがたり」が定義ていぎの核かくである。近代きんだいは人類じんるいはより自由じゆうへ、より豊ゆたかへ向むかうという筋書すじがきを共有きょうゆうしていた。その筋書すじがきが二に度どの世界せかい大戦たいせんと公こう害がいと収容しゅうよう所しょを説明せつめいできなくなった。1-6 の 132 のニヒリズムとは親戚しんせきだが、こちらは価値かちではなく筋書すじがきの喪失そうしつを言いう。
  • ×この建物たてものは曲線きょくせんが多おおくてポストモダンな感かんじがする。 建築けんちく様式ようしきとしての「ポストモダン建築けんちく」は実在じつざいするので、それを指さすなら正ただしい。ただし「〜な感かんじ」という雰囲気ふんいきの語ごとして使つかうと、思想史しそうしの語ごとの区別くべつがつかなくなる。評ひょう論文ろんぶんではどちらの意味いみかを文中ぶんちゅうで明示めいじするのが安全あんぜんである。
派生はせい形けい
  • モダン[1]近代きんだい・現代げんだいの両方りょうほうを指さす。「ポスト」が付つくとその後ごという意味いみになるが、「後あと」が「終おわった後あと」なのか「続つづきの中なか」なのかは定さだまっていない。この曖昧あいまいさが語ごの議論ぎろんを長引ながびかせている。
  • モダニズム[4]二十にじゅう世紀せいき前半ぜんはんの芸術げいじゅつ運動うんどう。合理性ごうりせい・機能きのう・普遍ふへんを掲かかげた。ポストモダン建築けんちくが装飾そうしょくと引用いんようと土地とちの記憶きおくを呼よび戻もどしたのは、この普遍ふへん主義しゅぎへの反発はんぱつである。1-6 の 136 のロマン主義しゅぎと同おなじ形かたちの反発はんぱつだ。
  • ポストモダニズム[7]運動うんどうや様式ようしきとしての形かたち。「ポストモダン」が時代じだいの状況じょうきょうを指さすのに対たいし、こちらはその状況じょうきょうに応おうじた表現ひょうげんや主張しゅちょうを指さす。状況じょうきょうの名なと主義しゅぎの名なを書かき分わけると、議論ぎろんがすっきりする。
コロケーション
  • 大おおきな物語ものがたりの終焉しゅうえん中核ちゅうかくの言いい方かた人類じんるい全体ぜんたいを貫つらぬく筋書すじがきが信しんじられなくなったこと。この語ごで押おさえておきたいのは、物語ものがたりがなくなったのではない点てんだ。小ちいさな物語ものがたりは無数むすうに増ふえた。失うしなわれたのはすべてをまとめる一本いっぽんである。150 の多様性たようせいが価値かちとして掲かかげられるのは、この一本いっぽんが無なくなったあとの生いき方かたの設計せっけいだとも読よめる。
  • 相対そうたい主義しゅぎ陥おちいりやすい隣となりすべては解釈かいしゃくだから優劣ゆうれつはつけられないという立場たちば。ポストモダンと混同こんどうされるが同おなじではない。「唯一ゆいいつの正解せいかいはない」と「どれも同おなじだ」は別べつの主張しゅちょうだからだ。前者ぜんしゃは比較ひかくを続つづけるが、後者こうしゃは比較ひかくをやめる。1-4 の 76 で見みた文化ぶんか相対そうたい主義しゅぎと同おなじ分わかれ道みちである。
  • 脱だつ構築こうちく手てつきを指さす語ごある主張しゅちょうが何なにを排除はいじょすることで成なり立たっているかを内側うちがわから示しめす読よみ方かた。この作業さぎょうが破壊はかいと違ちがうのは、対象たいしょうを丁寧ていねいに読よまなければできないことだ。最もっとも忠実ちゅうじつな読者どくしゃだけが脱だつ構築こうちくできる — この点てんを落おとすと「何なにでもありの批評ひひょう」に堕おちる。
  • ポストモダンの後あと現在地げんざいちを問とう語ごこの語ごが使つかわれるようになったこと自体じたいが、ポストモダンが一ひとつの時代じだいとして過すぎたと感かんじられている証拠しょうこである。「すべては解釈かいしゃくだ」という構かまえが事実じじつの否定ひていに流用りゅうようされるようになったいま、解釈かいしゃくの複数ふくすう性せいを認みとめつつ事実じじつを守まもるという難むずかしい姿勢しせいが求もとめられている。
格かく硬かた・学術がくじゅつ

論文ろんぶん・評ひょう論ろんでのみ使つかう。会話かいわでは不自然ふしぜん。

類るい語ごと差さ
  • 近代きんだい理性りせいと進歩しんぽを信しんじた時代じだい☑119 と接続せつぞくする。ポストモダンはその前提ぜんていが崩くずれた状況じょうきょうを指さす。
  • 構造こうぞう主義しゅぎ関係かんけいの型かたで説明せつめいする立場たちば☑151。ポストモダンはその先さきに置おかれることが多おおい。
  • 大おおきな物語ものがたり歴史れきし全体ぜんたいを意味いみづける枠組わくぐみリオタール。進歩しんぽ・解放かいほう・啓蒙けいもう。その終焉しゅうえんがポストモダンの定義ていぎになる。
  • 相対そうたい主義しゅぎ唯一ゆいいつの基準きじゅんを認みとめない☑26。ポストモダンが陥おちいりやすいとされる立場たちば。

ENpostmodern
ZH后现代(ポストモダン, hòuxiàndài)

一本の大きな物語が失われ、無数の小さな物語に分かれた状態を並べた図近代は進歩や解放という一本の筋書きを共有していた。その筋書きが信じられなくなったあと、物語が消えたのではなく、小さな物語が無数に増えた状態が残る。 物語は消えたのではなく、分かれたMODERNPOSTMODERN進歩一本の筋書きを皆が共有していた小さな物語が無数に増えた失われたのは、すべてをまとめる一本のほうであるここで二つの道が分かれる ──相対主義比較をやめる複数性の肯定比較を続ける「唯一の正解はない」と「どれも同じだ」は、別の主張である
一本いっぽんから、無数むすうへ
Section 18

自己じこ決定けってい/自己じこ責任せきにん

159★

自己決定じこけってい

じこけってい[0]平板へいばん型がた

語ご構成こうせい
自己じこみずから+決定けっていきめること
定義ていぎ

自分じぶんの問題もんだいについて、権力けんりょくや社会しゃかいの圧力あつりょくを受うけずに自分自身じぶんじしんが決定けっていすること。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑159
使用しようの境界きょうかい

自分じぶんに関かかわることを自分じぶんで決きめること。決きめる条件じょうけんが整ととのっていることを前提ぜんていとする。

用法ようほう

医療いりょう・生殖せいしょく・終末しゅうまつ期きの場面ばめんで中心ちゅうしんとなる概念がいねんで、患者かんじゃが自分じぶんの治療ちりょうを自分じぶんで決きめる権利けんりを指さす。要点ようてんは、決きめるための条件じょうけんが必要ひつようなことにある。十分じゅうぶんな情報じょうほうがなく、選択肢せんたくしもなく、断ことわれない立場たちばに置おかれていれば、形かたちの上うえで選えらんでも自己じこ決定けっていとは言いえない。評ひょう論文ろんぶんではこの点てんが問とわれ、☑160 自己じこ責任せきにんと安易あんいに結むすびつけることへの批判ひはんにつながる。☑36 自律じりつとの違ちがいは、自律じりつが規範きはんの出でどころを言いうのに対たいし、自己じこ決定けっていは個別こべつの選択せんたくを指さす点てんにある。

用例ようれい
  • 文明ぶんめい社会しゃかいのどの成員せいいんに対たいしてであれ、その意志いしに反はんして権力けんりょくを行使こうししても正当せいとうだとされる唯一ゆいいつの目的もくてきは、他人たにんへの危き害がいを防ふせぐことである。……本人ほんにん自身じしんの幸福こうふくは、十分じゅうぶんな正当化せいとうかの理由りゆうにはならない。ジョン・スチュアート・ミル『自由じゆう論ろん』第一だいいち章しょう(1859)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    自己じこ決定けっていという原則げんそくの古典的こてんてきな定式ていしきである。効きいているのは後半こうはんの一文いちぶんだ。前半ぜんはんだけなら「他人たにんに迷惑めいわくをかけるな」という穏当おんとうな常識じょうしきにすぎない。後半こうはんはその人ひとのためを思おもっての干渉かんしょうすら退しりぞける。これは厳きびしい主張しゅちょうである — 本人ほんにんが損そんをすると分わかっていても、止とめてはならない。ミルがここまで踏ふみ込こんだのは、「あなたのため」という理由りゆうを認みとめると、干渉かんしょうに限界げんかいがなくなるからだ。何なにが幸福こうふくかを決きめる権限けんげんが本人ほんにんから離はなれた瞬間しゅんかんに、自己じこ決定けっていは消きえる。原則げんそくは極端きょくたんでなければ原則げんそくとして働はたらかないという見本みほんでもある。
  • 意志いしの自律じりつとは、意志いしがみずからにとって法則ほうそくであるという意志いしの性質せいしつである。イマヌエル・カント『人倫じんりんの形而上学けいじじょうがくの基礎きそづけ』第だい二に章しょう(1785)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    自己じこ決定けっていを、好すき勝手かってと区別くべつするための定義ていぎである。要点ようてんは「みずからにとって法則ほうそく」という矛盾むじゅんめいた言いい方かただ。自律じりつとは規則きそくが無ないことではない。自分じぶんで立たてた規則きそくに自分じぶんが従したがうことである。ここでカントは二ふたつの自由じゆうを分わけている — 気きまぐれに動うごく自由じゆうと、自分じぶんの決きめた筋すじを通とおす自由じゆう。前者ぜんしゃは欲求よっきゅうに従したがっているだけで、カントに言いわせれば他律たりつにすぎない。159 の議論ぎろんが「本当ほんとうに自分じぶんで決きめたのか」を執拗しつように問とうのは、この区別くべつがあるからだ。広告こうこくに動うごかされた選択せんたくは、選択せんたくの形かたちをしていても自律じりつではない。
  • 自己じこ決定けっていが成なり立たつには、選えらぶ力ちからだけでなく、選えらべるだけの選択肢せんたくしと情報じょうほうがそろっていなければならない。 条件じょうけんの側がわを書かくのがこの語ごの要点ようてんである。選択肢せんたくしが一ひとつしかないとき、選えらんだという形式けいしきは残のこっても中身なかみは無ない。143 で見みた情報じょうほうの非対称ひたいしょうもここに効きく — 知しらされていない選択せんたくは自己じこ決定けっていではない。
  • ×自分じぶんで店みせを決きめたので、今日きょうの昼食ちゅうしょくは自己じこ決定けっていだ。 語ごの重おもさが場面ばめんに合あっていない。日常にちじょうの選択せんたくなら「自分じぶんで決きめた」で足たりる。159 は医療いりょう・生いき方かた・身体しんたいのように、本人ほんにん以外いがいが口くちを出だしうる領域りょういきで本人ほんにんの意思いしを優先ゆうせんさせるべきだという原則げんそくを指さす語ごである。誰だれも干渉かんしょうしない事柄ことがらにこの語ごは要いらない。
派生はせい形けい
  • 自律じりつ[0]自分じぶんで立たてた規則きそくに従したがうこと。「自立じりつ」と書かき分わける。自立じりつは他ほかに頼たよらないこと(経済的けいざいてき自立じりつ)、自律じりつは自分じぶんで自分じぶんを律りつすること。自立じりつしていても自律じりつしていないことはありうる。
  • 他律たりつ[0]自律じりつの対たい。外そとからの規則きそくや欲求よっきゅうに動うごかされている状態じょうたい。カントの用法ようほうでは欲望よくぼうに従したがうことも他律たりつで、これが日常にちじょう語ごの感覚かんかくと大おおきくずれる。「やりたいようにやる」は自律じりつではない。
  • 自己決定権じこけっていけん[0]法ほうと生命せいめい倫理りんりの語彙ごい。終末しゅうまつ期き医療いりょう、妊娠にんしんの継続けいぞく、身体しんたいの処分しょぶんをめぐって争点そうてんになる。どこまでを「自分じぶんのこと」と認みとめるかで結論けつろんが変かわるため、境界きょうかいの設定せっていそのものが論点ろんてんになる。
コロケーション
  • インフォームド・コンセント医療いりょうでの形かたち十分じゅうぶんな説明せつめいを受うけたうえでの同意どうい。この語ごが示しめすのは、同意どういだけでは足たりないことだ。説明せつめいが同意どういの前提ぜんていとして制度せいど化かされている。159 の抽象的ちゅうしょうてきな原則げんそくが手続てつづきの形かたちをとった好例こうれいで、理念りねんは手続てつづきにならないと働はたらかないことを教おしえてくれる。
  • パターナリズム対立たいりつする語ご本人ほんにんのためを思おもって本人ほんにんの意思いしに反はんして介入かいにゅうすること。「父権ふけん主義しゅぎ」と訳やくす。この語ごが難むずかしいのは、全面的ぜんめんてきには否定ひていできない点てんだ。子こどもや判断はんだん能力のうりょくを欠かく場面ばめんでは介入かいにゅうが必要ひつようになる。どこに線せんを引ひくかという問といだけが残のこり、これに一般いっぱん解かいは無ない。
  • 自己じこ決定権けっていけん権利けんりとして立たてる語ご「権けん」を付つけると他者たしゃに対たいして主張しゅちょうできるものになる。重要じゅうようなのは、権利けんりは対応たいおうする義務ぎむを生うむことだ。自己じこ決定権けっていけんを認みとめるとは、他者たしゃが「そんな選択せんたくはやめろ」と言いえなくなるということである。認みとめることの不快ふかいさまで含ふくめて引ひき受うけるのが、この語ごの重おもみだ。
  • 自己じこ決定けっていの条件じょうけん前提ぜんていを問とう語ご誰だれでも同おなじように決きめられるわけではないという指摘してき。貧困ひんこん、依存いぞん、暴力ぼうりょくのもとでの選択せんたくは形式けいしきとしては自由じゆうでも実質じっしつとしては強制きょうせいでありうる。自己じこ決定けっていを無条件むじょうけんに称揚しょうようすると、追おい詰つめられた選択せんたくまで本人ほんにんの意思いしとして扱あつかわれてしまう — 160 へは、この一歩いっぽでつながる。
格かく中なか

書かき言葉ことば・会話かいわの両方りょうほうで使つかえる。

類るい語ごと差さ
  • 自律じりつ自分じぶんの考かんがえに従したがって判断はんだんする☑36。自律じりつは規範きはんの出でどころ、自己じこ決定けっていは個別こべつの選択せんたく。
  • 自由じゆう束縛そくばくがないこと状態じょうたい。自己じこ決定けっていは決きめる行為こういそのもの。
  • インフォームド・コンセント説明せつめいを受うけた上うえでの同意どうい医療いりょうの場面ばめん。自己じこ決定けっていを成なり立たたせる手続てつづき。
  • 自己じこ責任せきにん結果けっかを自分じぶんで引ひき受うけること☑160。表裏ひょうりの関係かんけいにあるが、結むすびつけ方ほうが争点そうてんになる。

ENself-determination
ZH自我决定(自己決定, zìwǒ juédìng)

160★

自己責任じこせきにん⚠

じこせきにん[0]平板へいばん型がた

語ご構成こうせい
自己じこみずから+責任せきにん負おうべきつとめ
定義ていぎ

自分じぶんの言げん動どうの結果けっかについて、他人たにんや社会しゃかいではなく、自分自身じぶんじしんが責任せきにんを負おうこと。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑160
使用しようの境界きょうかい

自分じぶんの選択せんたくの結果けっかを自分じぶんで引ひき受うけること。転てんじて、社会しゃかいの側がわの責任せきにんを個人こじんに転嫁てんかする論法ろんぽうを指さす。

用法ようほう

評ひょう論文ろんぶんではほぼ批判的ひはんてきに扱あつかわれる。批判ひはんの型かたは決きまっていて、①自己じこ決定けってい(☑159)の条件じょうけんが整ととのっていないのに責任せきにんだけを負おわせる、②本来ほんらいは社会しゃかいが担になうべきリスク(☑147)を個人こじんに転嫁てんかする、というものである。貧困ひんこん・失しつ業ぎょう・災さい害がいの被害ひがいに対たいして使つかわれると、構造的こうぞうてきな原因げんいんが見みえなくなる。日本にほんでは二〇にれい〇四よん年ねん以降いこうこの語ごが急速きゅうそくに広こうまり、社会的しゃかいてきな文脈ぶんみゃくをもつ語ごになった。中国語ちゅうごくごに対応たいおうする定型ていけい句くはない。

用例ようれい
  • この教説きょうせつによって、各人かくじんは前代未聞ぜんだいみもんの内面ないめん的てき孤独こどくの感情かんじょうのうちを歩あゆまねばならなかった。……誰だれも彼かれを助たすけることはできなかった。説教せっきょう者しゃも、秘蹟ひせきも、教会きょうかいも、神かみさえも。マックス・ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理りんりと資本しほん主義しゅぎの精神せいしん』(1905)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    自己じこ責任せきにんという感覚かんかくの起源きげんを宗教しゅうきょうのなかに見出みいだした一節いっせつである。ウェーバーが論ろんじているのは予定よてい説せつ — 誰だれが救すくわれるかはあらかじめ決きまっており、何なにをしても変かえられないという教おしえだ。この教おしえのもとではとりなしてくれる相手あいてがいない。注目ちゅうもくしたいのは、この孤独こどくが怠惰たいだではなく猛烈もうれつな勤勉きんべんを生うんだことである。救すくいを確たしかめる術じゅつがないなら、成功せいこうをその印しるしとして読よむほかない。成功せいこうは救すくいの証拠しょうこ、失敗しっぱいは選えらばれていないことの証拠しょうこ — この構図こうずが世俗化せぞくかして残のこったものが、現代げんだいの自己じこ責任せきにん論ろんの骨格こっかくである。神かみを抜ぬいても構図こうずは残のこった。
  • 君子くんしは諸しょを己おのれに求もとめ、小人しょうじんは諸しょを人ひとに求きゅうむ。『論語ろんご』衛霊公えいれいこう篇へん
    自己じこ責任せきにんと似にて非ひなるものを見分みわけるために引ひいておきたい句くである。一見いっけんすると「人ひとのせいにするな」という自己じこ責任せきにん論ろんそのものに見みえる。だが決定的けっていてきな違ちがいがある — これは自分じぶんに向むけた言葉ことばであって、他人たにんに向むけた言葉ことばではない。孔子こうしは「小人しょうじんは人ひとのせいにする」と観察かんさつを述のべているだけで、「だから助たすけるな」とは言いっていない。現代げんだいの自己じこ責任せきにん論ろんが倫理りんりとして危あやういのは、この一人称いちにんしょうの教おしえを二人称ににんしょう・三人称さんにんしょうで使つかうからだ。自分じぶんに求もとめるのは徳とくだが、他人たにんに求もとめれば見捨みすてる口実こうじつになる。同おなじ内容ないようの命題めいだいが、主語しゅごを変かえるだけで徳とくから冷酷れいこくへ反転はんてんする — 160 を読よむときの最もっとも重要じゅうような着眼点ちゃくがんてんである。
  • 自己じこ責任せきにんという語ごが力ちからを持もつのは、社会しゃかいの側がわが引ひき受うけていた不確ふたしかさを、個人こじんの選択せんたくの失敗しっぱいとして書かき換かえられるからである。 語ごの機能きのうを書かくのがこの語ごの扱あつかい方ほうである。正ただしいか間違まちがっているかではなく、何なにができるようになるかを見みる。147 で見みたリスクの個人こじん化かが、言葉ことばの上うえで完成かんせいした形かたちがこの語ごである。
  • ×災さい害がいで家いえを失うしなったのは危険きけんな土地とちに住すんだ自己じこ責任せきにんだ。 語ごの適用範囲てきようはんいを踏ふみ越こえている。自己じこ責任せきにんが意味いみを持もつのは159 の自己じこ決定けっていが実質的じっしつてきに成立せいりつしていた場合ばあいに限かぎられる。住すむ土地とちを収入しゅうにゅうと職しょくと家族かぞくの事情じじょうのなかで選えらばされたのなら、それは選択せんたくではない。自己じこ責任せきにんを問とうにはまず自己じこ決定けっていの条件じょうけんが整ととのっていたことを示しめさねばならない — この順序じゅんじょを飛とばした議論ぎろんが最もっとも多おおい誤ご用ようである。
派生はせい形けい
  • 責任せきにん[0]三みっつの層そうがある。①因果いんが的てき責任せきにん(引ひき起おこした)、②道義的どうぎてき責任せきにん(非難ひなんされうる)、③役割やくわり責任せきにん(担当たんとうしている)。自己じこ責任せきにん論ろんはしばしば①を示しめさずに②を課かす。どの層そうの話はなしかを分わけて読よむだけで、議論ぎろんの粗あらさが見みえる。
  • 自己責任じこせきにん[3]もとは金融きんゆう・投資とうしの用語ようご。説明せつめいを受うけたうえで自分じぶんの判断はんだんで投資とうしした以上いじょう、損失そんしつは自分じぶんで負おうという限定げんていされた文脈ぶんみゃくで使つかわれていた。その限定げんていが外はずれて人生じんせい全般ぜんぱんに広ひろげられたところに、この語ごの問題もんだいがある。
  • 自業自得じごうじとく[4]仏教ぶっきょう語ご。自分じぶんの行おこない(業ぎょう)の報むくいを自分じぶんが受うけること。もとは善悪ぜんあくどちらにも使つかえたが、現代げんだいではほぼ非難ひなんの語ごになった。自己じこ責任せきにんが制度せいどの言葉ことばであるのに対たいし、こちらは突つき放はなすための言葉ことばである。
コロケーション
  • 自己じこ責任せきにん論ろん主張しゅちょうとして名指なざす語ご「論ろん」を付つけることで一ひとつの立場たちばとして対象たいしょう化かする語ご法ほう。この一いち字じがあると、批判ひはんの的まとにできるようになる。「自己じこ責任せきにんだ」と言いわれれば議論ぎろんは終おわるが、「それは自己じこ責任せきにん論ろんだ」と言いい返かえせば議論ぎろんは続つづく。語ごに「論ろん」を足たして相手あいての主張しゅちょうを一ひとつの立場たちばに格下かくさげするのは、評ひょう論文ろんぶんの重要じゅうような技術ぎじゅつである。
  • 結果けっか責任せきにん射程しゃていを限かぎる語ご結果けっかに対たいしてのみ責任せきにんを負おうこと。自己じこ責任せきにんと混まぜられやすいが、誰だれがその結果けっかを引ひき起おこしたかを問とう点てんで違ちがう。自分じぶんが引ひき起おこしていない結果けっかまで引ひき受うけさせるのが自己じこ責任せきにん論ろんの飛躍ひやくであり、この語ごを並ならべるとその飛躍ひやくが見みえやすくなる。
  • 社会的しゃかいてき排除はいじょ反対はんたい側がわから見みる語ご個人こじんの努力どりょくではどうにもならない仕方しかたで参加さんかの機会きかいから締しめ出だされること。この語ごが要いるのは、自己じこ責任せきにん論ろんが見みえなくする側がわを名指なざすためだ。同おなじ事態じたいを、本人ほんにんの落おち度どと読よむか締しめ出だしと読よむかで、処方箋しょほうせんが正反対せいはんたいになる。
  • 自助じじょ・共助きょうじょ・公助こうじょ順序じゅんじょが争点そうてんになる語ご助たすけの三みっつの層そうを並ならべた言いい方かた。並ならべる順序じゅんじょに主張しゅちょうが入はいっていることに注意ちゅういしたい。自助じじょを先さきに置おけば公助こうじょは最後さいごの手段しゅだんになり、公助こうじょを先さきに置おけば権利けんりとして先さきに立たつ。三さん語ごの内容ないようは同おなじでも、並ならべ方ほうが政策せいさくになる — 1-3 で見みた語ごの配置はいちが意味いみを作つくるという原理げんりの、最もっとも実際的じっさいてきな例れいである。
格かく中なか

書かき言葉ことば・会話かいわの両方りょうほうで使つかえる。

類るい語ごと差さ
  • 自己じこ決定けってい自分じぶんで決きめること☑159。表裏ひょうりの関係かんけい。決きめていないものに責任せきにんは生しょうじないはずである。
  • 責任せきにん負おうべきつとめ一般いっぱん語ご。自己じこ責任せきにんは個人こじんに限定げんていする点てんに重心じゅうしんがある。
  • リスク計算けいさんされた損失そんしつの可能性かのうせい☑147。リスクの負担ふたんを個人こじんに移うつす論法ろんぽうとして働はたらく。
  • 新しん自由じゆう主義しゅぎ市場しじょうに委ゆだね国家こっかの役割やくわりを縮ちぢめる立場たちば自己じこ責任せきにん論ろんを支ささえる思想しそう的てき背景はいけい。

ENself-responsibility
ZH自己负责(自分で責任を負う, zìjǐ fùzé)

日中にっちゅうのズレ

中国語ちゅうごくごには日本語にほんごの「自己じこ責任せきにん」に相当そうとうする定型ていけい句くがない。文脈ぶんみゃくに応おうじて 自己负责・个人责任 などと訳やくす。

日本語にほんごの「自己じこ責任せきにん」は二〇にれい〇四よん年ねん以降いこうに社会的しゃかいてきな批判ひはん語ごとして定着ていちゃくした、比較的ひかくてき新あたらしい用法ようほうである。

解説かいせつ ── 自己じこ決定けってい・自己じこ責任せきにん

自己じこ決定けっていの権利けんりは、〈個人こじんは他者たしゃに迷惑めいわくをかけない限かぎり、何なにをしても自由じゆうである〉というリベラリズムの考かんがえ方かたによる。

たとえば今日きょう、私わたしたちは進学しんがくや就職しゅうしょくを自分じぶんで選えらぶのは当然とうぜんだと考かんがえている。親おやの職業しょくぎょうを子こどもが継つぐのが当然とうぜんとされていた時代じだいもあった。

それと同様どうように医療いりょう現場げんばでも、患者かんじゃの健康けんこう・生命せいめいを決定けっていできるのは患者かんじゃ自身じしんであり、治療ちりょう法ほうから尊厳死そんげんし・安楽死あんらくしの選択せんたくまで、患者かんじゃの自己じこ決定けっていは正当化せいとうかされるべきだ、という考かんがえ方かたが主流しゅりゅうになっている。

さらに、自分じぶんの選えらんだことなのだから、自分じぶんで責任せきにんを取とるのが当然とうぜんだという自己じこ決定けっていに連動れんどうした自己じこ責任せきにん論ろんも多おおく出だされている。

ただし、時代じだいや国籍こくせき・性別せいべつ、生うまれ育そだった環境かんきょうなど、本人ほんにんの意思いしではどうにもならない要素ようそがからみ合あっている場合ばあいには、純粋じゅんすいな「自己じこ決定けってい」に拠よる「自己じこ責任せきにん」とは言いえないだろう。

また、「自己じこ決定けってい・自己じこ責任せきにん」のどちらにせよ、〈自己じこ〉について考かんがえなければならない。

患者かんじゃの周まわりには家族かぞくや医師いしがいるように、私わたしたちの世界せかいは人間にんげん関係かんけいで成なり立たっている。そうした関係かんけい性せいに気きづかず、「自分じぶんの決定けってい」と自分じぶんの責任せきにん範囲はんいを決きめ込こむことには異論いろんが出だされている。

対立たいりつの軸じく

自己じこ決定けってい/自己じこ責任せきにん の軸じく = 決きめることか、引ひき受うけることか

自己じこ決定けってい自分じぶんに関かかわることを自分じぶんで決きめること。
決きめることか、引ひき受うけることか
自己じこ責任せきにん自分じぶんの選択せんたくの結果けっかを自分じぶんで引ひき受うけること。
自己決定と自己責任自己決定が成り立つための条件と、それが欠けたまま責任だけを負わせる論法を示した図。 自己決定が成り立つ条件 十分な情報複数の選択肢断れる立場 自己決定 自己責任 条件が欠けたまま 条件を跳ばして責任だけを負わせる 決めていないものに、責任は生じないはずである。 ☑147 リスクの負担が、個人へ転嫁される
条件じょうけんが欠かけたまま、責任せきにんだけを負おわせる
Meta — 俯瞰ふかん

二十にじゅう語ごを上うえから見みる

この章しょうの語ごは、近代きんだいの帰結きけつを名指なざす側がわと、それを問とい直なおす側がわに分わかれている。対立たいりつの軸じくと、語ごの格かくを一いち枚まいずつ図ずにしておく。

本章の対立の軸一覧本章に現れる対立語のペアと、それを分ける軸を並べた一覧図。 PAIR AXIS マジョリティー マイノリティー 標準を決める側か、外れる側か 自己決定 自己責任 決めることか、引き受けることか 評論文は対立で動く ── 軸が分かれば片方から他方が読める
本章ほんしょうに現あらわれる対立たいりつと、それを分わける軸じく
格による40語の分布硬・学術、硬、中の三段階に本章の40語を振り分けた図。 硬・学術 2 構造主義 ポストモダン 硬 2 装置 アカデミズム 中 16 大衆社会 消費社会 情報 監視社会 システム リスク グローバル化 エコロジー 多様性 ジャーナリズム マジョリティー マイノリティー フェミニズム ジェンダー 自己決定 自己責任 語は意味ではなく格で選ぶ
格かくによる四十よんじゅう語ごの分布ぶんぷ

硬かた・学術がくじゅつに属ぞくする語ごは、会話かいわで使つかうと不自然ふしぜんに響ひびく。中なかに属ぞくする語ごは両方りょうほうで使つかえる。この区別くべつは意味いみの理解りかいとは別べつの層そうにあり、書かく段階だんかいで効きいてくる。

Output

産出さんしゅつ

やるなら ── 自分じぶんの関心かんしん領域りょういきから一ひとつ選えらび、次つぎのいずれかを一段落いちだんらくで書かく。

  • 自分じぶんが最近さいきん買かったものを一ひとつ挙あげ、それが必要ひつようのための消費しょうひか、差異さいのための消費しょうひかを書かく
  • 自分じぶんがマジョリティーの側がわに立たっている場面ばめんを一ひとつ挙あげ、そこで何なにが「普通ふつう」とされているかを書かく
Blank

多様性たようせいを認みとめるということが、多様性たようせいを認みとめない立場たちばをも認みとめることだとすれば、その原則げんそくはどこで止とまるのか。