原げん 書しょ の本文ほんぶん
三みっ つの段階だんかい
「自分じぶん らしさ」はどこにある?
身分制みぶんせい 社会しゃかい を生い きた近代きんだい 以前いぜん の人々ひとびと は、「自分じぶん らしさ」について悩なや む必要ひつよう はなかった。身分制みぶんせい 社会しゃかい では生う まれた時とき から生い き方かた の道筋みちすじ は決き まっており、現代げんだい の我々われわれ のように、将来しょうらい の自分じぶん について考かんが える余地よち などなかったのだ。
人々ひとびと に、自己じこ の利益りえき を自由じゆう に追求ついきゅう する生い き方かた が許ゆる されるようになるのは、近代きんだい に入はい ってからのことである。しかし、生い きる選択肢せんたくし が複数ふくすう あることは、同時どうじ に迷まよ いの原因げんいん にもなる。とくにライフスタイルの多様たよう 化か が進すす んだ現代げんだい 社会しゃかい では、多おお くの人ひと が「自分じぶん らしい生い き方かた 」を求もと めながらも、多様たよう な選択肢せんたくし を前まえ に逡巡しゅんじゅん している。
だが、そもそも「自分じぶん らしさ」とは一体いったい 何なに だろうか。
自己じこ 紹介しょうかい をして、「自分じぶん らしさ」を説明せつめい するのは案あん 外がい 難むずか しい。たとえば、○○高こう 校こう の三さん 年生ねんせい 、△△家いえ の長男ちょうなん といった属性ぞくせい や、××会社かいしゃ の部ぶ 長ちょう という肩書かたがき きを並なら べても、〈私わたし 〉 を説明せつめい し尽つ くしたことにはならないだろう。
さらに、自分じぶん の主体性しゅたいせい や主観しゅかん といっても、そこには親おや の考かんが えや、社会しゃかい ・時代じだい の影響えいきょう などが入はい り込こ んでいるはずだ。とすれば、ますます自分じぶん らしさや自己じこ の固有こゆう 性せい というものに対たい する疑うたが いが増ま してくる。
このように、「自分じぶん らしさ」や「自己じこ の固有こゆう 性せい 」を問と い直なお すことが、「自己じこ 」や「私わたし 」を論ろん じる評ひょう 論文ろんぶん の基本きほん スタンスとなっている。
自己は関係の織物である 属性や役割の集積として自己を捉える見方と、他者との関係の織物として捉える見方を対比した図。
説明しきれない見方
高校三年生 長男
部長 主体性・主観
〈私〉
足しても届かない
関係の織物という見方
縦糸も横糸も、他者との関係である
「自分は一人の他者なのだ」── ランボー
属性ぞくせい の集積しゅうせき では、〈私わたし 〉に届とど かない
自己じこ は他者たしゃ によってつくられる
では、自己じこ とはどのようにとらえることができるのか。ここでキーワードになるのが「他者たしゃ 」の存在そんざい だ。
「他者たしゃ 」とは、自己じこ にとって鏡かがみ のようなものである。たとえば、歩ある いていて誰だれ かにぶつかる。その時とき 、他者たしゃ にぶつかったことで、ぶつかった自分じぶん がいることがわかる。また、他者たしゃ と話はなし をしていて、今いま まで気き づかなかった自分じぶん の性格せいかく がわかる。このように、他者たしゃ がいて初はじ めて自己じこ がわかると言い うことができるのだ。
『旧約きゅうやく 聖書せいしょ 』の中なか で、アダムとイブが「知恵ちえ の実じつ 」を食た べて知恵ちえ をつけた。すると、互たが いに裸はだか であることを恥はじ ずかしいと思おも って、イチジクの葉は で体からだ を隠かく したという。この場合ばあい の「知恵ちえ 」とは、自己じこ と他者たしゃ との関係かんけい についての意識いしき のことだ。自己じこ という意識いしき が生う まれ、同時どうじ に「他者たしゃ 」の存在そんざい を知し る。「恥はじ ずかしい」というのは、他者たしゃ がいなければもち得とく ない感情かんじょう なのだ。人間にんげん は、他者たしゃ の目め に自己じこ が映うつ るのを見み て、自己じこ の存在そんざい を知し り、自我じが をもつ。逆ぎゃく に言い えば、他者たしゃ がいなければ自己じこ もないのである。
このように考かんが えると、「自己じこ 」とは、さまざまな他者たしゃ との関係かんけい の織物おりもの なのだという見方みかた もできるだろう。ランボーという詩人しじん は「自分じぶん は一人ひとり の他者たしゃ なのだ」とも言い っている。
他者は鏡である 他者にぶつかったり話したりすることで、初めて自己が分かるという関係を示した図。
自己
他者
ぶつかる・話す
自己が映って返ってくる
ぶつかって初めて、ぶつかった自分がいることが分かる。
話していて初めて、気づかなかった自分の性格が分かる。
他者がいなければ、自己もない
他者たしゃ は鏡かがみ である
「真しん の自己じこ 」から「複数ふくすう の自己じこ 」へ
さらに、他者たしゃ によってつくられる自己じこ といっても、それは複数ふくすう の自分じぶん を統括とうかつ するような「真しん の自己じこ 」ではない、という議論ぎろん があることも知し っておこう。
我々われわれ は、学校がっこう の中なか の自分じぶん 、友達ともだち といる時とき の自分じぶん 、家族かぞく の中なか の自分じぶん というように、場面ばめん に応おう じてさまざまな自分じぶん を使つか い分わ けているが、ついついそれらを一元管理いちげんかんり する「真しん の自己じこ 」というものを想定そうてい しがちだ。しかし、そのような「真しん の自己じこ 」もまた、「自分じぶん らしさ」と同おな じように、近現代きんげんだい 的てき な思考しこう の産物さんぶつ にほかならない。
複数ふくすう の他者たしゃ と出会であ う我々われわれ は、その都度つど 、複数ふくすう の自分じぶん を生い きているのである。
複数の他者と複数の自己 四人の他者それぞれに応じて、四つの異なる自分が現れることを示した図。
他者A 他者B
他者C 他者D
自分a 自分b
自分c 自分d
「真の自己」
複数を統括する一つの自分
これもまた、近現代的な
思考の産物にほかならない。
その都度、複数の自分を生きている
使い分けているのではない。もともと複数なのである。
複数ふくすう の他者たしゃ と、複数ふくすう の自己じこ
Key Point
二ふた つの要点ようてん
Key Point 1 ── 自己じこ の他者たしゃ 性せい
「他者たしゃ 」を自分じぶん の意い のままにならない者もの だととらえると、自分自身じぶんじしん の内ない にもまた「他者たしゃ 性せい 」が宿やど っている。
たとえば、私わたし たちは、自分じぶん の身体しんたい は自分じぶん のものだと思おも っている。しかし、身体しんたい は、本当ほんとう に自分じぶん のものだと言い えるだろうか。内臓ないぞう は自分じぶん で意識的いしきてき に動うご かすことはできないし、病気びょうき にもかかる。スポーツをしている時とき に、体からだ が勝手かって に動うご き出だ すこともあれば、思おも い通とお りに体からだ を動うご かせないこともある。このように、身体しんたい は他者たしゃ 性せい をもっていると言い うことができる。
では、心こころ はどうか。無意識むいしき という言葉ことば があるように、自分じぶん でもよくわからない、コントロールできない心こころ の動うご きが生しょう じることは、経験けいけん したことがあるだろう。勉強べんきょう しなければならないとわかっていながら遊あそ んでしまう。このように、心こころ もまた他者たしゃ 性せい をもっているのだ。
自己の内なる他者性 他者を意のままにならない者と規定すると、自分の身体と心にも他者性が見つかることを示した図。
他者 = 自分の意のままにならない者
この規定を取ると
自己
身体
内臓は動かせない
病気にかかる
心
無意識が働く
分かっていて遊ぶ
どちらも意のままにならない
「自分のもの」だと思っていたものが、自分に属しきっていない。
他者性は、外にあるとは限らない
他者たしゃ 性せい は、外そと にあるとは限かぎ らない
Key Point 2 ── 再帰さいき 的てき 自己じこ
封建ほうけん 社会しゃかい では、自分じぶん の役割やくわり や位置いち は共同体きょうどうたい や親おや によって生う まれつき決き められていたため、「自分じぶん 探さが し」などは必要ひつよう なかった。ところが、近代きんだい になり、個人こじん は、昔むかし の自分じぶん を反省はんせい しながら、自分じぶん のあり方かた を絶た えず更新こうしん していかなければならなくなった。
こうしたことについて、イギリスの社会しゃかい 学者がくしゃ アンソニー・ギデンズ(一いち 九きゅう 三さん 八はち 年ねん 〜)は、「自己じこ は再帰さいき 的てき なプロジェクトであり、個人こじん はその責任せきにん を負お う」と述の べている。「再帰さいき 」というのは、自己じこ の行為こうい の結果けっか が、ブーメランのように自己じこ に戻もど ってくることだ。このような考かんが えのもとでは、自己じこ 決定けってい ・自己じこ 責任せきにん を強し いられ、息苦いきぐる しくて「自分じぶん 探さが し」のようなワクワク感かん がなくなってしまうかもしれない。
ちなみに、「再帰さいき 的てき 近代きんだい 化か 〈=自己じこ の行為こうい についての反省はんせい によって、現在げんざい ・未来みらい のあり方かた が影響えいきょう を受う けること〉 」という言葉ことば も生う まれている。
再帰的自己 封建社会では位置が生まれつき決まっていたのに対し、近代では自分のあり方を絶えず更新し続けなければならなくなったことを示した図。
封建社会
共同体・親
自分の位置
生まれつき決まっている ── 自分探しは要らない
近代
自己
結果が返る
反省する
昔の自分を反省しながら、自分のあり方を絶えず更新する
しかも、その責任は自分が負う
「自分探し」はワクワクした冒険ではなく、終わらない作業になる
再帰さいき ── 結果けっか が自分じぶん へ返かえ ってくる
Terms — 本ほん サイトによる加筆かひつ
この主題しゅだい を読よ むための十二じゅうに 語ご
原げん 書しょ のキーワード番号ばんごう は付ふ されていない層そう である。概念がいねん 語ご 九ここの つと、本文ほんぶん ・入試にゅうし 文ぶん に現あらわ れる読解どっかい 語彙ごい 三みっ つを補おぎな う。
01 概念がいねん
他者たしゃ ⚠
たしゃ [1] た しゃ 頭高あたまだか 型がた
使用しよう の境界きょうかい 自分じぶん の意い のままにならない存在そんざい 。単たん に「自分じぶん 以外いがい の人ひと 」ではなく、思おも い通とお りにならないという性質せいしつ を含ふく む。
用法ようほう 評ひょう 論文ろんぶん の「他者たしゃ 」は「他人たにん 」とは別語べつご として読よ む 。要点ようてん は〈自分じぶん の意い のままにならない〉という規定きてい にあり、この定義ていぎ を取と ると、自分じぶん の身体しんたい や心こころ も他者たしゃ になりうる(自己じこ の他者たしゃ 性せい )。また他者たしゃ は自己じこ を映うつ す鏡かがみ でもあり、ぶつかって初はじ めて自分じぶん がいることが分わ かる。したがって他者たしゃ は自己じこ の外側そとがわ にある障害しょうがい ではなく、自己じこ を成な り立た たせている条件じょうけん である。この転換てんかん が主題しゅだい 全体ぜんたい の骨格こっかく になる。
用例ようれい
人間にんげん は〈なんじ〉に接せっ して〈われ〉となる。マルティン・ブーバー『我われ と汝なんじ 』(1923)/訳やく は本ほん 教材きょうざい
この主題しゅだい 全体ぜんたい を一行いちぎょう に畳たた んだ命題めいだい である。仕掛しか けは語順ごじゅん にある。普通ふつう なら「われ」が先さき にいて、そのあとで「なんじ」に出会であ う。ブーバーはそれを逆ぎゃく にした — 「なんじ」に触ふ れることで、はじめて「われ」が立た ち上あ がる 。だから他者たしゃ は自己じこ の外そと にある障害しょうがい 物ぶつ ではない 。自己じこ が成な り立た つための条件じょうけん である。もうひとつ見み ておきたいのは、ブーバーが〈われ─それ〉という別べつ の関係かんけい も立た てていることだ。相手あいて を用途ようと で見み た瞬間しゅんかん 、相手あいて は「それ」になる 。同おな じ人物じんぶつ が、こちらの構かま え次第しだい で「なんじ」にも「それ」にもなる — 他者たしゃ とは、相手あいて の属性ぞくせい ではなく関係かんけい の名前なまえ だということが、ここから分わ かる。
人間にんげん は「世よ の中なか 」であるとともにその世よ の中なか における「人ひと 」である。だからそれは単たん なる「人ひと 」ではないとともにまた単たん なる「社会しゃかい 」でもない。和辻わつじ 哲郎てつろう 『人間にんげん の学がく としての倫理学りんりがく 』(1934)
「人間にんげん 」という日本語にほんご の二字にじ を割わ って、そこに議論ぎろん を建だ てた 一節いっせつ である。「人ひと 」と「間あいだ 」— この語ご はもともと個体こたい だけを指さ していない 。和辻わつじ の主張しゅちょう は、個人こじん が先さき にあって集あつ まって社会しゃかい になるのでも、社会しゃかい が先さき にあって個人こじん を作つく るのでもない ということだ。両方りょうほう が同時どうじ に、たがいを条件じょうけん として成な り立た つ 。この見方みかた を取と ると、他者たしゃ は自己じこ の反対はんたい 物ぶつ ではなくなる 。1-6 の 123 で見み たように、近代きんだい は個人こじん を単位たんい として切き り出だ した。その切き り出だ しが見み えなくしたもの を、和辻わつじ は日本語にほんご の語ご 構成こうせい から拾ひろ い上あ げようとしている。
他者たしゃ とは、自分じぶん の意い のままにならない者もの のことである。この規定きてい を取と れば、自分じぶん の身体しんたい も心こころ も他者たしゃ になりうる。
定義ていぎ から先さき へ進すす む型かた である。「自分じぶん 以外いがい の人ひと 」と定義ていぎ するとそこで話はなし が終お わる 。「意い のままにならない者もの 」と定義ていぎ すると、定義ていぎ が自分じぶん の内側うちがわ にも及およ ぶ 。02 の他者たしゃ 性せい は、この一歩いっぽ から生う まれる。
×電車でんしゃ で他者たしゃ に足あし を踏ふ まれた。
日常にちじょう の場面ばめん なら「他人たにん 」「知し らない人ひと 」 である。評ひょう 論語ろんご の他者たしゃ は自己じこ の成立せいりつ に関かか わるものとして重おも く使つか う語ご で、単たん に自分じぶん でない人ひと を指さ す語ご ではない 。「他人たにん 」に置お き換か えて意味いみ が変か わらないなら、その文ぶん に他者たしゃ は要い らない — これが見分みわ けの目安めやす になる。
派生はせい 形けい
他者性たしゃせい [0] 02 で立た てる語ご 。「性せい 」を付つ けると人ひと から離はな れて性質せいしつ だけになる ので、自分じぶん の内側うちがわ にも見み いだせるようになる 。接尾せつび 辞じ ひとつで射程しゃてい が変か わる例れい 。
他者化たしゃか [0] 操作そうさ を言い う語ご 。ある集団しゅうだん を「我々われわれ ではないもの」として括くく り出だ すこと 。1-4 の 75 の自じ 文化ぶんか 中心ちゅうしん 主義しゅぎ が実際じっさい に手て を動うご かす場面ばめん がこれにあたる。他者たしゃ との出会であ いとは向む きが逆ぎゃく で、ほぼ批判ひはん の文脈ぶんみゃく で使つか う。
他性たせい [1] より硬かた い形かたち 。哲学てつがく の訳語やくご として使つか われ、他者たしゃ 性せい よりも抽象ちゅうしょう の度ど が高たか い 。人ひと に限かぎ らず物もの や出来事できごと の「こちらに還元かんげん されなさ」 を指ゆび せるのが利り 点てん である。
コロケーション
他者たしゃ との出会であ い出来事できごと として書か く語ご 「他者たしゃ がいる」ではなく「出会であ う」 と書か かれるのには理由りゆう がある。そこにいるだけでは他者たしゃ にならない からだ。こちらの予期よき が破やぶ られ、思おも い通とお りにならなかった瞬間しゅんかん にはじめて他者たしゃ として現あらわ れる 。だからこの語ご は状態じょうたい ではなく出来事できごと の語彙ごい で書か かれる。
他者たしゃ の視線しせん 自己じこ を作つく る目め 見み られることで、自分じぶん が「見み られうるもの」だと知し る 。この結むす びつきが重おも いのは、視線しせん がこちらの内側うちがわ まで届とど く からだ。見み られていると気き づいた途端とたん 、姿勢しせい が変か わり、声こえ が変か わる 。2-2 の 03 の像ぞう は、この視線しせん が身体しんたい に及およ んだ形かたち である。
他者たしゃ を理解りかい するできなさを含ふく む語ご この言い い方かた が評ひょう 論文ろんぶん で出で てくるときは、たいてい「できない」と続つづ く 。理解りかい できてしまえば、相手あいて はもう意い のままにならない者もの ではなくなる からだ。理解りかい の失敗しっぱい が他者たしゃ を他者たしゃ として保たも つ というこの逆説ぎゃくせつ を掴つか めるかどうかで、この語ご の読よ みの深ふか さが決き まる。
他者たしゃ の他者たしゃ 位置いち を入い れ替か える語ご 自分じぶん もまた、誰だれ かにとっての他者たしゃ である という気き づき。この一手いって が入はい ると、他者たしゃ を「向む こう側がわ 」に固定こてい する構かま えが崩くず れる 。1-7 の 154 で見み たマジョリティーの無む 自覚じかく とも重かさ なる — 自分じぶん を見み られる側がわ に置お き直なお せるかどうか が、この主題しゅだい の試金石しきんせき になる。
格かく 硬かた ・学術がくじゅつ 論文ろんぶん ・評ひょう 論ろん でのみ使つか う。会話かいわ では不自然ふしぜん 。
類るい 語ご と差さ
他人たにん 自分じぶん 以外いがい の人ひと 日常にちじょう 語ご で、しばしば「関係かんけい のない人ひと 」の含ふく みをもつ。他者たしゃ は関係かんけい があることを前提ぜんてい とし、そのうえで意い のままにならないものを指さ す。
相手あいて 向む かい合あ う人ひと 場面ばめん ごとの位置いち 。他者たしゃ は存在そんざい の性質せいしつ を言い う語ご で、哲学的てつがくてき な重おも みをもつ。
異質いしつ なもの性質せいしつ が違ちが うもの違ちが いの記述きじゅつ 。他者たしゃ は違ちが いに加くわ えて、こちらの理解りかい を超こ えているという含ふく みをもつ。
自己じこ 自分じぶん 対たい 語ご 。ただし対立たいりつ するのではなく、他者たしゃ があって初はじ めて自己じこ が成な り立た つという関係かんけい にある。
EN the OtherZH 他者(他者, tāzhě)
日中にっちゅう のズレ
中国語ちゅうごくご の 他者たしゃ (tāzhě)は哲学てつがく の訳語やくご としては通つう じるが、日常にちじょう 語ご ではほとんど使つか わない。
日常にちじょう で「他人たにん 」を言い うときは 别人(biérén) を用もち いる。日本語にほんご の「他人たにん /他者たしゃ 」の使つか い分わ けに対応たいおう する語ご の対たい はない。
02 概念がいねん
他者性たしゃせい
たしゃせい [0] た しゃ せ い 平板へいばん 型がた
語ご 構成こうせい
他者たしゃ 意い のままにならない存在そんざい + 性せい そのような性質せいしつ
使用しよう の境界きょうかい 意い のままにならないという性質せいしつ 。人ひと だけでなく、自分じぶん の身体しんたい や心こころ についても言い える。
用法ようほう この主題しゅだい で最もっと も重要じゅうよう な派生語はせいご である。他者たしゃ を〈意い のままにならない者もの 〉と規定きてい した瞬間しゅんかん に、自分じぶん の内側うちがわ にも他者たしゃ 性せい が見み つかる 。内臓ないぞう は意識いしき で動うご かせず、身体しんたい は病気びょうき にかかり、心こころ は無意識むいしき に動うご く。つまり「自分じぶん のもの」だと思おも っていたものが、実じつ は自分じぶん に属ぞく しきっていない。ここから自己じこ は一枚岩いちまいいわ ではなくなり、「真しん の自己じこ 」という想定そうてい が崩くず れる。読解どっかい では、この語ご が出で たら自己じこ の内側うちがわ の話はなし に転てん じる合図あいず だと読よ む。
用例ようれい
不気味ぶきみ なものとは、かつて親した しかったもの、古ふる くから馴染なじ んできたものにほかならない。ジークムント・フロイト『不気味ぶきみ なもの』(1919)/訳やく は本ほん 教材きょうざい
他者たしゃ 性せい が外そと からではなく内ない から来く ることを示しめ した一節いっせつ である。ドイツ語ご の unheimlich(不気味ぶきみ な)はheimlich(親した しい・家庭かてい 的てき な)の否定ひてい 形けい だが、フロイトはこの二に 語ご が実じつ は同おな じところへ行い き着つ く ことを見み つけた。恐おそ ろしいのはまったく未知みち のもの ではない。知し っていたはずのものが見知みし らぬ顔かお をした瞬間しゅんかん である。鏡かがみ に映うつ った自分じぶん の顔かお を長なが く見み つめていると他人たにん に見み えてくる、あの感覚かんかく だ。他者たしゃ 性せい は距離きょり の関数かんすう ではない — 近ちか ければ薄うす まるのではなく、いちばん近ちか いところで最もっと も濃こ く現あらわ れることがある 。「自己じこ の他者たしゃ 性せい 」というこの主題しゅだい の要かなめ が、ここに掴つか まれている。
まれびとの原げん 義ぎ は、神かみ を斎いわ ふことであった。……村むら びとにとって、海うみ のあなたから来く る者もの は、畏おそ るべきものであり、同時どうじ に祝福しゅくふく をもたらすものであった。折口おりぐち 信夫しのぶ 『古代こだい 研究けんきゅう 』国文こくぶん 学がく 篇へん (1929)
他者たしゃ 性せい が恐おそ れと祝福しゅくふく の両方りょうほう をまとうことを示しめ した一節いっせつ である。折口おりぐち の「まれびと」は外そと から来く る者もの だ。注目ちゅうもく したいのは、畏い れと祝福しゅくふく が同おな じ一ひと つの性質せいしつ から出で ている ことである。こちらの秩序ちつじょ に属ぞく していないからこそ怖こわ く、属ぞく していないからこそ新あたら しいものをもたらせる 。もし歓迎かんげい して仲間なかま に入い れてしまえば、畏い れも消き えるが、もたらす力ちから も消き える 。08 の同化どうか が何なに を失うしな う操作そうさ なのか が、ここから逆算ぎゃくさん できる。1-4 の 84 の神話しんわ ・タブーとも同おな じ地層ちそう でつながっている。
自分じぶん の身体しんたい は、自分じぶん のものでありながら思おも い通とお りにならない。ここに他者たしゃ 性せい が現あらわ れる。
この主題しゅだい でいちばん使つか う型かた である。眠ねむ ろうとして眠ねむ れない、止と めようとして震ふる えが止と まらない — 命令めいれい の届とど かない場所ばしょ が自分じぶん の内側うちがわ にある 。2-2 の身体しんたい 論ろん は、この一点いってん から始はじ まる。
×彼かれ の考かんが え方かた は独特どくとく で、他者たしゃ 性せい がある。
「個性こせい 的てき だ」「独自どくじ だ」の言い い換か えとして使つか っている 。評ひょう 論語ろんご の他者たしゃ 性せい はこちらの理解りかい や意い のままにならないという性質せいしつ を指さ し、珍めずら しさや個性こせい の度合どあ いではない 。珍めずら しいだけならやがて理解りかい でき、他者たしゃ 性せい は消き える 。理解りかい しても残のこ るもの がこの語ご の指さ す先さき である。
派生はせい 形けい
異質性いしつせい [0] 似に て非ひ なる語ご 。異質いしつ 性せい は性質せいしつ が違ちが う ことで、比くら べれば記述きじゅつ できる 。他者たしゃ 性せい は比くら べても汲く みつくせない という含ふく みを持も つ。記述きじゅつ できるかどうか が分わ かれ目め になる。
疎外そがい [0] 関係かんけい が切き れる側がわ の語ご 。本来ほんらい つながっていたものから引ひ き離り される こと。他者たしゃ 性せい がもともと届とど かない ことを言い うのに対たい し、疎そ 外がい は届とど いていたものが届とど かなくなった ことを言い う。元もと の状態じょうたい を想定そうてい するかどうか で使つか い分わ ける。
異化いか [0] 技法ぎほう としての語ご 。見み 慣な れたものをわざと見み 慣な れないものとして差さ し出だ す 手て つき。他者たしゃ 性せい を意図的いとてき に作つく る操作そうさ であり、芸術げいじゅつ と批評ひひょう の基本きほん の道具どうぐ である。2-3 の 06 のデフォルメと同おな じ系統けいとう に属ぞく する。
コロケーション
自己じこ の他者たしゃ 性せい この主題しゅだい の核かく 自分じぶん のなかに、自分じぶん の言い うことを聞き かない部分ぶぶん がある こと。この結むす びつきが要よう になるのは、自己じこ と他者たしゃ の境界きょうかい を内側うちがわ へ折おり り返かえ す からだ。身体しんたい 、無意識むいしき 、癖くせ 、そして自分じぶん でも説明せつめい できない選択せんたく 。1-5 の 117 の無意識むいしき は、この他者たしゃ 性せい に心理学しんりがく が与あた えた名な である。
他者たしゃ 性せい を消け す批判ひはん される操作そうさ 相手あいて を理解りかい 可能かのう な枠わく に収おさ めてしまう こと。「あの人ひと はああいう人ひと だ」と言い い切き った瞬間しゅんかん に、相手あいて はこちらの予期よき の中なか へ入はい る 。親切しんせつ に見み えても、相手あいて がこちらを裏切うらぎ る余地よち を奪うば っている 。理解りかい は、関係かんけい の達成たっせい であると同時どうじ に関係かんけい の終お わりでもある 。
他者たしゃ 性せい を引ひ き受う ける態度たいど を言い う語ご 分わ からなさを解消かいしょう せずに抱かか えたまま関係かんけい を続つづ ける こと。この言い い方かた が要い るのは、分わ からないなら関かか わらない という選択せんたく がつねに開ひら かれているからだ。引ひ き受う けるとは、分わ かった気き にならずにそれでも隣となり にいること である。倫理りんり の議論ぎろん はここから始はじ まる。
他者たしゃ 性せい の縮減しゅくげん 近代きんだい を批判ひはん する語ご 制度せいど や技術ぎじゅつ によって予測よそく できない部分ぶぶん が削けず られていく こと。評価ひょうか も、推薦すいせん も、マッチングも、意い のままにならなさを減へ らす装置そうち である。1-7 の 142 の消費しょうひ 社会しゃかい と143 の情報じょうほう 社会しゃかい が同おな じ方向ほうこう へ働はたら いている ことが、この語ご で一息ひといき に言い える。
格かく 硬かた ・学術がくじゅつ 論文ろんぶん ・評ひょう 論ろん でのみ使つか う。会話かいわ では不自然ふしぜん 。
類るい 語ご と差さ
異質いしつ 性せい 性質せいしつ が異こと なること違ちが いの度合どあ い。他者たしゃ 性せい は制御せいぎょ できなさに重心じゅうしん がある。
外部がいぶ 性せい 外そと にあるという性質せいしつ 位置いち の話はなし 。他者たしゃ 性せい は内側うちがわ にも宿やど りうる点てん が違ちが う。
受動性じゅどうせい 働はたら きかけられる側がわ であることこの主題しゅだい では隣接りんせつ する。他者たしゃ 性せい が受動性じゅどうせい を生う む。
疎そ 外がい 自作じさく 物ぶつ が逆ぎゃく に人ひと を支配しはい する☑21。自分じぶん のものが自分じぶん に逆さか らうという構造こうぞう は共通きょうつう する。
EN otherness / alterityZH 他者性(他者性, tāzhěxìng)
03 概念がいねん
自己じこ
じこ [1] じ こ 頭高あたまだか 型がた
使用しよう の境界きょうかい 自分じぶん を自分じぶん として捉とら えたときの、その自分じぶん 。単たん なる「私わたし 」ではなく、対象たいしょう として立た てられた自分じぶん を指さ す。
用法ようほう 評ひょう 論文ろんぶん で「自己じこ 」が出で たら、それは問と い直なお される対象たいしょう として置お かれていると考かんが えてよい。「自分じぶん らしさ」「自己じこ の固有こゆう 性せい 」といった言い い方かた が近代きんだい の産物さんぶつ であり、属性ぞくせい や肩書かたがき きを並なら べても説明せつめい し尽つ くせない、という論ろん の流なが れが定型ていけい である。そのうえで、自己じこ は他者たしゃ との関係かんけい の織物おりもの であり、しかも一ひと つではなく複数ふくすう である、と展開てんかい する。日常にちじょう 語ご の「自己じこ 中心ちゅうしん 的てき 」「自己じこ 満足まんぞく 」は別べつ の層そう なので混同こんどう しない。
用例ようれい
人ひと は、その人ひと を認みと め、その人ひと の像ぞう を心こころ に抱いだ いている仲間なかま の数かず だけの社会的しゃかいてき 自我じが をもつ。……人ひと は、それらの集団しゅうだん のそれぞれに異こと なった顔かお を見み せる。ウィリアム・ジェイムズ『心理学しんりがく 原理げんり 』第だい 十章じっしょう (1890)/訳やく は本ほん 教材きょうざい
「本当ほんとう の自分じぶん は一ひと つ」という前提ぜんてい を、心理学しんりがく の側がわ から崩くず した 一節いっせつ である。注意ちゅうい したいのは、ジェイムズがこれを不誠実ふせいじつ だとは言い っていない ことだ。職場しょくば の顔かお と家いえ の顔かお が違ちが うのは使つか い分わ けているのではなく、そこに別べつ の自我じが が成な り立た っている 。そして数かず は「仲間なかま の数かず だけ」 — 自我じが の数かず は関係かんけい の数かず で決き まる のである。ここから重おも い帰結きけつ が出で る。関係かんけい が減へ れば、自己じこ も減へ る 。1-7 の 141 で見み た大衆たいしゅう 社会しゃかい が孤立こりつ した個人こじん を作つく る とき、失うしな われているのは仲間なかま だけではない。
私わたし は、いままで例れい のなかった、そしてこれからも真似まね する者もの のいないであろう仕事しごと に取と りかかる。……私わたし は一人ひとり の人間にんげん を、ありのままの姿すがた で人々ひとびと に示しめ したい。その人間にんげん とは、私わたし である。ジャン=ジャック・ルソー『告白こくはく 』第一だいいち 巻かん (1782)/訳やく は本ほん 教材きょうざい
近代的きんだいてき な自己じこ が自分じぶん について語かた りはじめた瞬間しゅんかん である。注目ちゅうもく したいのは、「例れい がない」と自分じぶん で宣言せんげん している ことだ。告白こくはく そのものはアウグスティヌス以来いらい あったが、それは神かみ に向む かって語かた られた 。ルソーは人々ひとびと に向む かって語かた る。聞き き手て が神かみ から読者どくしゃ へ移うつ った のである。これは 1-6 の 120 で見み た世俗化せぞくか の文学ぶんがく における姿すがた でもある。さらに皮肉ひにく なのは、「ありのまま」を示しめ すために書物しょもつ という形式けいしき が要い る ことだ。自己じこ は語かた られることではじめて取と り出だ せる — 07 の再帰さいき は、この構造こうぞう を扱あつか う語ご である。
自己じこ は、属性ぞくせい の集あつ まりでも役割やくわり の総和そうわ でもなく、他者たしゃ との関係かんけい のなかでそのつど成な り立た つ。
この主題しゅだい の結論けつろん にあたる型かた である。05 の属性ぞくせい をいくら並なら べてもその人ひと にならない 。職業しょくぎょう も出身しゅっしん も年齢ねんれい も他ほか の誰だれ かと共有きょうゆう できる からだ。共有きょうゆう できないものは関係かんけい の側がわ にしかない 。
×自己じこ が強つよ い人ひと だから、意見いけん を曲ま げない。
この文ぶん の「自己じこ 」は「我われ 」「自我じが 」の日常にちじょう 語ご である。評ひょう 論語ろんご の 03 は他者たしゃ との対たい で立た てられる概念がいねん 語ご で、強つよ い弱よわ いで測はか る性格せいかく ではない 。性格せいかく を言い いたいなら「我わ が強つよ い」「頑固がんこ だ」 。概念がいねん 語ご を性格せいかく の説明せつめい に流用りゅうよう すると、文ぶん の格かく が一段落いちだんお ちる 。
派生はせい 形けい
自己性じこせい [0] その人ひと がその人ひと であること を指さ す。04 の固有こゆう 性せい に近ちか いが、固有こゆう 性せい が他ほか と違ちが うことを言い うのに対たい し、自己じこ 性せい は自分じぶん に返かえ ってくることを言い う 。比較ひかく の語ご か再帰さいき の語ご か が差さ である。
自我じが [1] 1-5 の 98 で立た てた語ご 。自己じこ が関係かんけい のなかで成な り立た つ全体ぜんたい を指さ すのに対たい し、自我じが は意識いしき の中心ちゅうしん ・働はたら きの主しゅ を指さ す。心理学しんりがく の語彙ごい か関係かんけい 論ろん の語彙ごい か でどちらが選えら ばれるかが決き まる。
自己疎外じこそがい [4] 自分じぶん が自分じぶん から離はな れる こと。自分じぶん の作つく ったものや演えん じている役やく が自分じぶん の外そと に立た って自分じぶん を縛しば る状態じょうたい 。1-6 の 137 で見み た労働ろうどう の疎そ 外がい が自己じこ の側がわ から言い い直なお された形かたち である。
コロケーション
自己じこ 形成けいせい 過程かてい として見み る語ご 自己じこ が与あた えられたものではなく作つく られていくもの だという捉とら え方ほう 。この語ご が要い るのは、「本当ほんとう の自分じぶん を探さが す」という語かた り口くち が前提ぜんてい を取と り違ちが えている からだ。探さが すならどこかにすでにある ことになる。作つく るなら、まだ無な い 。1-5 の 115 の実存じつぞん が「実存じつぞん は本質ほんしつ に先立さきだ つ」と言い うのは、この順序じゅんじょ の主張しゅちょう である。
自己じこ を語かた る成立せいりつ の条件じょうけん 自分じぶん について話はな すという行為こうい 。注意ちゅうい したいのは、語かた るには聞き き手て が要い る ことだ。誰だれ にも向む けずに自分じぶん を語かた ることはできない。自己じこ は、他者たしゃ に向む けて語かた られるときにだけ形かたち をとる — だから 01 の他者たしゃ は自己じこ の前提ぜんてい になる。
自己じこ 同一性どういつせい 時間じかん を通とお す語ご 昨日きのう の自分じぶん と今日きょう の自分じぶん が同おな じであること 。この結むす びつきが問題もんだい になるのは、身体しんたい も考かんが えも記憶きおく も入い れ替か わっていく からだ。それでも同おな じだと言い えるのは何なん によるのか — 物質ぶっしつ でも記憶きおく でもなく、「同おな じ人ひと として扱あつか われ続つづ けること」 だと考かんが えると、ここでも他者たしゃ が要い る。
自己じこ の解体かいたい 近代きんだい 批判ひはん の語ご 一貫いっかん した自己じこ という像ぞう が成な り立た たなくなること 。1-7 の 158 のポストモダンがこの語ご を使つか うのは、大おお きな物語ものがたり が消き えると一貫いっかん した自己じこ も支ささ えを失うしな う からだ。ただし解体かいたい は喪失そうしつ とは限かぎ らない — 複数ふくすう の自己じこ を同時どうじ に生い きられる自由じゆう とも読よ める。
格かく 中なか 書か き言葉ことば ・会話かいわ の両方りょうほう で使つか える。
類るい 語ご と差さ
自我じが 自分じぶん を自分じぶん と意識いしき する働はたら き☑98。自我じが は働はたら き、自己じこ は対象たいしょう として立た てられた自分じぶん 。
アイデンティティ 自分じぶん が自分じぶん であり続つづ ける感覚かんかく ☑99。時間じかん を貫つらぬ く連続れんぞく 性せい を含ふく む。自己じこ はいまの捉とら え方ほう 。
私わたし 話はな し手て 自身じしん 文法ぶんぽう 的てき な語ご 。自己じこ は概念がいねん として立た てられた語ご 。
主体しゅたい 意志いし をもって働はたら きかける側がわ ☑106。行為こうい の起点きてん 。自己じこ は認識にんしき され語かた られる側がわ にも立た つ。
EN the selfZH 自我(自我・自己, zìwǒ)
04 概念がいねん
固有性こゆうせい
こゆうせい [0] こ ゆ う せ い 平板へいばん 型がた
語ご 構成こうせい
固かた かたい・もとより + 有ゆう もつ + 性せい そのような性質せいしつ
使用しよう の境界きょうかい そのものだけがもち、他ほか では置お き換か えられない性質せいしつ 。珍めずら しさや個性こせい とは違ちが う。
用法ようほう この主題しゅだい では疑うたが われる側がわ に置お かれる。属性ぞくせい や肩書かたがき きを並なら べても〈私わたし 〉を説明せつめい し尽つ くせず、主体性しゅたいせい や主観しゅかん にも親おや や社会しゃかい や時代じだい の影響えいきょう が入はい り込こ んでいる。ならば固有こゆう 性せい など残のこ るのか──という問と いの立た て方ほう になる。したがって「自己じこ の固有こゆう 性せい 」という語ご が出で たら、直後ちょくご にそれを崩くず す議論ぎろん が来く ると予測よそく できる。文化ぶんか 論ろん の文脈ぶんみゃく では、☑76 文化ぶんか 相対そうたい 主義しゅぎ を支ささ える語ご として肯定的こうていてき に使つか われることもあり、評価ひょうか の向む きは文脈ぶんみゃく で決き まる。
用例ようれい
自然しぜん のうちには、たがいに完全かんぜん に同おな じであって内的ないてき な差異さい を見み いだしえないような二ふた つの存在そんざい は、決けっ してありえない。ゴットフリート・ライプニッツ『モナドロジー』第だい 九きゅう 節せつ (1714)/訳やく は本ほん 教材きょうざい
固有こゆう 性せい を、感情かんじょう ではなく原理げんり として言い い切き った一節いっせつ である。ライプニッツはこれを不可ふか 識別しきべつ 者しゃ 同一どういつ の原理げんり と呼よ んだ — 見分みわ けがつかないなら、それは二ふた つではなく一ひと つである 。裏返うらがえ せば、二ふた つある以上いじょう 、必かなら ずどこかが違ちが う 。この主張しゅちょう の強つよ さは、固有こゆう 性せい を努力どりょく して獲得かくとく するものにしない ところにある。個性こせい 的てき であろうとしなくても、存在そんざい している時点じてん ですでに固有こゆう だ。「自分じぶん らしさ」を探さが したり作つく ったりしなければならないものと考かんが える近代きんだい の苦くる しみに対たい して、三百年さんびゃくねん 前まえ の一行いちぎょう が静しず かな反論はんろん になっている。
名前なまえ が何なに だというの。私わたし たちが薔薇ばら と呼よ んでいるあの花はな は、別べつ のどんな名な で呼よ んでも同おな じように甘あま く香か るでしょう。ウィリアム・シェイクスピア『ロミオとジュリエット』第だい 二に 幕まく (1595頃ころ )/訳やく は本ほん 教材きょうざい
固有こゆう 性せい と05 の属性ぞくせい の関係かんけい を劇げき の一場面ひとばめん が言い い当あ てている 。ジュリエットが言い いたいのは「モンタギューという家名かめい はあなたの一部いちぶ ではない」 ということだ。家名かめい は取と り替か えられる属性ぞくせい であり、その人ひと そのものではない 。ここまでは正ただ しい。ところがこの劇げき は、その取と り替か えられるはずの名前なまえ によって二人ふたり が死し ぬ 物語ものがたり である。属性ぞくせい は本質ほんしつ ではないが、本質ほんしつ でないものが人ひと を殺ころ す 。固有こゆう 性せい を論ろん じる文章ぶんしょう が属性ぞくせい を切き り捨す てて終おわり われない理由りゆう が、ここにある。1-3 の記号きごう 論ろん の目め で読よ めば、名な は物もの に付つ いた札ふだ ではなく、物もの を位置いち づける装置そうち だという主張しゅちょう にも読よ める。
固有こゆう 性せい は、他ほか と違ちが う点てん を数かぞ え上あ げても取と り出だ せない。違ちが いの一覧いちらん は、そのまま別べつ の一覧いちらん と比くら べられてしまうからだ。
比較ひかく の外そと に出で る必要ひつよう を言い う型かた である。「背せ が高たか い」「絵え がうまい」はすべて程度ていど の話はなし で、上うえ には上うえ がいる 。固有こゆう 性せい が比較ひかく で測はか れないもの を指さ すなら、関係かんけい のなかにしか見み つからない 。
×この店みせ の固有こゆう 性せい は、値段ねだん の安やす さにある。
安やす さは比くら べられる から「特徴とくちょう 」「強つよ み」 である。固有こゆう 性せい は他ほか と比くら べて優すぐ れている点てん ではなく、それでしかありえない在あ り方ほう を指さ す。他店たてん が同おな じ値段ねだん にしたら消き えてしまうもの なら、それは固有こゆう 性せい ではない。取と り替か え可能かのう かどうか で見分みわ ける。
派生はせい 形けい
固有こゆう [0] 「もとから備そなえ わっている」 の意い 。「固有こゆう の文化ぶんか 」「固有名こゆうめい 詞し 」のように使つか う。「特有とくゆう 」との差さ に注意ちゅうい したい。特有とくゆう は他ほか と比くら べて目立めだ つこと、固有こゆう はそれ自身じしん にもともと属ぞく している こと。比較ひかく を含ふく むかどうか が分わ かれ目め 。
固有名詞こゆうめいし [5] 文法ぶんぽう の語ご 。一ひと つのものだけを指さ す名詞めいし 。評ひょう 論文ろんぶん では「固有名こゆうめい 詞し で語かた る」 のように、一般いっぱん 論ろん に逃に げない という意味いみ で使つか われることがある。抽象ちゅうしょう 語ご の反対語はんたいご として働はたら く便利べんり な言い い方かた である。
本来性ほんらいせい [0] 実存じつぞん の側がわ の語ご 。固有こゆう 性せい が他ほか と違ちが うこと を言い うのに対たい し、本来ほんらい 性せい は自分じぶん 本来ほんらい の在あ り方ほう に立た っていること を言い う。比較ひかく の軸じく か真正しんせい さの軸じく か で使つか い分わ ける。
コロケーション
掛か け替か えのなさ和わ 語ご で言い い直なお した形かたち 同おな じ意味いみ をやわらかい和わ 語ご で言い う と、この語ご になる。「掛か け替か え」とは取と り替か えの利き く代か わり のこと。それが無な い という言い い方かた だから、否定ひてい 形けい でしか言い えない 。固有こゆう 性せい は積極的せっきょくてき に描写びょうしゃ できず、「代か わりがない」という欠如けつじょ の形かたち でしか指ゆび せない — この語形ごけい 自体じたい がそのことを示しめ している。
固有名こゆうめい 一ひと つを指さ す言葉ことば 普通ふつう 名詞めいし が類るい を指さ す のに対たい し、固有名こゆうめい はただ一ひと つを指さ す 。この結むす びつきが哲学てつがく で重おも いのは、固有名こゆうめい には意味いみ の記述きじゅつ が付つ いていない からだ。「机つくえ 」は説明せつめい できるが、「太郎たろう 」は説明せつめい ではなく指示しじ である。言葉ことば のなかで固有こゆう 性せい がどう扱あつか われているか の見本みほん になっている。
固有こゆう 性せい の喪失そうしつ 近代きんだい を語かた る定型ていけい 取と り替か え可能かのう な部品ぶひん として扱あつか われること。1-6 の 140 の均質化きんしつか と1-7 の 141 の大衆たいしゅう 社会しゃかい が、この語ご で合流ごうりゅう する 。注意ちゅうい したいのは、取と り替か え可能かのう であることが公平こうへい さの条件じょうけん でもある点てん だ。誰だれ が窓口まどぐち に座すわ っても同おな じ扱あつか いを受う けるのは、近代きんだい の達成たっせい でもある。
固有こゆう の時間じかん 共有きょうゆう できない領域りょういき その人ひと だけが生い きている時間じかん の質しつ 。1-6 の 140 で見み た均質きんしつ な時計とけい の時間じかん に対たい して、濃こ さの違ちが う時間じかん を言い うための語ご である。待ま っている一時間いちじかん と夢中むちゅう の一時間いちじかん は同おな じではない。固有こゆう 性せい が最後さいご まで残のこ る場所ばしょ として、時間じかん はよく持も ち出だ される。
格かく 硬かた 書か き言葉ことば 。会話かいわ では不自然ふしぜん 。
類るい 語ご と差さ
独自どくじ 性せい 他ほか にはない自分じぶん だけのもの近ちか いが、比較ひかく のうえでの目立めだ ちに重心じゅうしん がある。固有こゆう 性せい は置お き換か え不可能ふかのう 性せい を言い う。
個性こせい その人ひと らしい性質せいしつ 日常にちじょう 語ご で、しばしば長所ちょうしょ として語かた られる。固有こゆう 性せい は価値かち 評価ひょうか を含ふく まない。
特殊とくしゅ 適用てきよう の範囲はんい が限かぎ られる☑2。範囲はんい の話はなし 。固有こゆう 性せい は所有しょゆう の話はなし 。
本質ほんしつ そのものをそのものたらしめる性質せいしつ ☑96。より強つよ い。固有こゆう 性せい は他ほか と区別くべつ できることを言い うにとどまる。
EN specificity / uniquenessZH 固有性(固有性, gùyǒuxìng)
05 概念がいねん
属性ぞくせい
ぞくせい [0] ぞ く せ い 平板へいばん 型がた
語ご 構成こうせい
属ぞく つく・そなわる + 性せい そのような性質せいしつ
使用しよう の境界きょうかい そのものに備そなえ わっている性質せいしつ や区分くぶん 。年齢ねんれい ・所属しょぞく ・職業しょくぎょう のように、外そと から与あた えられた枠わく を指さ すことが多おお い。
用法ようほう もとは哲学てつがく の語ご で、実体じったい に備そなえ わる性質せいしつ を指さ した。現代げんだい では統計とうけい ・マーケティングの語ご としても広ひろ く使つか われ、年齢ねんれい ・性別せいべつ ・職業しょくぎょう ・居住きょじゅう 地ち といった区分くぶん を意味いみ する。この主題しゅだい では、属性ぞくせい を並なら べても〈私わたし 〉を説明せつめい し尽つ くせない、という形かたち で否定的ひていてき に扱あつか われる。ここが読解どっかい の要点ようてん で、属性ぞくせい は外そと から当あ てはめられた枠わく であって、内側うちがわ から出で てきたものではない。☑154 マジョリティー/☑155 マイノリティーの議論ぎろん とも接続せつぞく する。
用例ようれい
実体じったい とは、それ自身じしん のうちに在あ り、それ自身じしん によって考かんが えられるものである。……属性ぞくせい とは、知性ちせい が実体じったい についてその本質ほんしつ を構成こうせい すると知覚ちかく するものである。バールーフ・デ・スピノザ『エチカ』第一だいいち 部ぶ ・定義ていぎ (1677)/訳やく は本ほん 教材きょうざい
属性ぞくせい という語ご の、いちばん厳密げんみつ な定義ていぎ である。要よう は「知性ちせい が……と知覚ちかく する」 という一句いっく にある。属性ぞくせい は実体じったい にくっついている札ふだ ではなく、こちらの見方みかた が取と り出だ した切き り口くち だ。この定式ていしき を取と ると、属性ぞくせい は見み る側がわ の数かず だけありうる ことになる。履歴書りれきしょ に並なら ぶ項目こうもく — 年齢ねんれい 、性別せいべつ 、学歴がくれき 、住所じゅうしょ — はその人ひと に元もと から書か き込こ まれていたものではない 。制度せいど がそう切き り取と ることに決き めたもの である。誰だれ が切き り口くち を決き めたのか を問と えるようになる点てん で、この定義ていぎ は現代げんだい の議論ぎろん にそのまま効き く。
「私わたし は誰だれ であるか」を問と うことのできる者もの は幸こう いである。……人ひと は自分じぶん の名刺めいし の肩書かたがき を並なら べても、自分じぶん にはならない。三木みき 清しん 『人生じんせい 論ろん ノート』「個性こせい について」(1941)
属性ぞくせい の集積しゅうせき が人ひと にならないことを、身近みじか な物もの で示しめ した一節いっせつ である。名刺めいし という具体ぐたい 物ぶつ が効き いている — 肩書かたがき は取と り替か えれば済す む 。会社かいしゃ が変か われば書か き換かえ わり、それでも同おな じ人ひと がそこにいる 。つまり肩書かたがき はその人ひと に必要ひつよう でも十分じゅうぶん でもない 。三木みき がこれを書か いたのは治安ちあん 維持いじ 法ほう 下した の日本にほん で、人ひと が属性ぞくせい で仕分しわ けられていく時代じだい だった。(三木みき 自身じしん 、一いち 九きゅう 四よん 五ご 年ねん に獄ごく 死し している。)属性ぞくせい で人ひと を扱あつか うことの危あや うさ を、この文章ぶんしょう は身み をもって知し っていた。
年齢ねんれい ・性別せいべつ ・職業しょくぎょう といった属性ぞくせい をいくら足た しても、その人ひと にはならない。
この主題しゅだい の基本きほん の型かた である。足た りないのではなく種類しゅるい が違ちが う 。属性ぞくせい はすべて他者たしゃ と共有きょうゆう できる から、足た し合あ わせても一人ひとり を特定とくてい できない 。04 の固有こゆう 性せい が属性ぞくせい の外そと にある と言い われる理由りゆう がこれだ。
×彼かれ の誠実せいじつ さという属性ぞくせい に惹ひ かれた。
やや硬かた すぎる 。人ひと 柄がら を言い うなら「人ひと となり」「気質きしつ 」 である。評ひょう 論語ろんご の属性ぞくせい は分類ぶんるい のために外そと から与あた えられる項目こうもく という含ふく みが強つよ く、内側うちがわ から立た ち上あ がる性格せいかく には使つか いにくい 。なお「属性ぞくせい で人ひと を見み る」のように批判的ひはんてき に使つか う のがこの語ご の主おも な出で 番ばん である。
派生はせい 形けい
属するぞくする [3] 動詞どうし 形けい 。「〜に属ぞく する」でその範囲はんい の内側うちがわ にある ことを言い う。属性ぞくせい の「属ぞく 」はこの字じ で、もともと「くっついて離はな れない」 の意い 。定義ていぎ の側がわ から見み ると語源ごげん と用法ようほう がずれている のが面白おもしろ いところだ。
属性値ぞくせいち [0] 情報処理じょうほうしょり の語ご 。属性ぞくせい ごとに割わ り当あ てられた値あたい 。人ひと がデータとして扱あつか われるとき に現あらわ れる語ご で、1-7 の 144 の監視かんし 社会しゃかい と直結ちょっけつ する。語ご が学術がくじゅつ から実務じつむ へ降お りると、批判ひはん の対象たいしょう そのものになる 。
本質ほんしつ [0] 1-5 の 95 で立た てた語ご 。属性ぞくせい があってもなくてもその物もの である のに対たい し、本質ほんしつ は失うしな えばその物もの でなくなる 。偶ぐう 有ゆう 性せい (あってもなくてもよい性質せいしつ )と本質ほんしつ の区別くべつ はアリストテレス以来いらい の道具どうぐ で、05 を読よ む下敷したじ きになる。
コロケーション
属性ぞくせい で語かた る批判ひはん の合図あいず 人ひと を項目こうもく の組く み合あ わせとして扱あつか う こと。この言い い方かた が出で たらほぼ批判ひはん の文脈ぶんみゃく である。ただし押お さえておきたいのは、属性ぞくせい で語かた らなければ差別さべつ も統計とうけい も見み えない ことだ。属性ぞくせい を消け せば公平こうへい になるわけではない — 1-7 の 150 の多様性たようせい がぶつかるのもこの点てん である。
属性ぞくせい の束たば 人ひと を分解ぶんかい する言い い方かた 人ひと を属性ぞくせい の集あつ まりとしてのみ捉とら える見方みかた 。「束たば 」という語ご が的確てきかく なのは、束たば ねている紐ひも がどこにあるか分わ からない からだ。まとめている当とう のものが見み えない — それが 03 の自己じこ をめぐる問と いそのものになる。
固有こゆう 性せい と属性ぞくせい 対たい にして使つか う語ご この二に 語ご は対たい で置お いてはじめて働はたら く 。属性ぞくせい は共有きょうゆう できる 、固有こゆう 性せい は共有きょうゆう できない 。属性ぞくせい は比くら べられる 、固有こゆう 性せい は比くら べられない 。評ひょう 論文ろんぶん がこの対たい を出だ したら、「人ひと を何なに で測はか るか」という問と いに入はい った合図あいず である。
属性ぞくせい を剥は ぎ取と る思考しこう 実験じっけん の語ご 肩書かたがき も出身しゅっしん も財産ざいさん もすべて取と り去さ ったあとに何なに が残のこ るか を問と う操作そうさ 。哲学てつがく がよく使つか う手て だが、注意ちゅうい も要い る — 剥は ぎ取と れると考かんが えること自体じたい が一ひと つの立場たちば だからだ。身体しんたい も、育そだ った土地とち も、本当ほんとう に剥は がせるのか 。2-2 の身体しんたい 論ろん は、この問と いに否いな と答こた える。
格かく 硬かた 書か き言葉ことば 。会話かいわ では不自然ふしぜん 。
類るい 語ご と差さ
肩書かたがき き役やく 職しょく を示しめ す呼よ び名な 社会的しゃかいてき な位置いち 。属性ぞくせい はより広ひろ く、年齢ねんれい や出身しゅっしん も含ふく む。
役割やくわり 果は たすべき務つと め働はたら きの話はなし 。属性ぞくせい は状態じょうたい や区分くぶん の話はなし 。
特とく 性せい そのものに固有こゆう の性質せいしつ 内側うちがわ から出で てくるもの。属性ぞくせい は外そと から当あ てはめられる枠わく に近ちか い。
カテゴリー 分類ぶんるい の枠わく 分類ぶんるい そのもの。属性ぞくせい はその枠わく に当あ てはまっている状態じょうたい 。
EN attributeZH 属性(属性, shǔxìng)
06 概念がいねん
主体性しゅたいせい
しゅたいせい [0] しゅ た い せ い 平板へいばん 型がた
語ご 構成こうせい
主体しゅたい 働はたら きかける側がわ + 性せい そのような性質せいしつ
使用しよう の境界きょうかい 自みずか らの意志いし で判断はんだん し行動こうどう する性質せいしつ 。この主題しゅだい では、それ自体じたい が疑うたが いの対象たいしょう として扱あつか われる。
用法ようほう 日常にちじょう 語ご でも評ひょう 論語ろんご でも肯定的こうていてき な価値かち 語ご として使つか われる。ところがこの主題しゅだい では、その主体性しゅたいせい にも親おや の考かんが えや社会しゃかい ・時代じだい の影響えいきょう が入はい り込こ んでいる と指摘してき される。つまり「自分じぶん で決き めた」と思おも っているものが、実じつ は外そと から来き ている。この疑うたが いが自己じこ の固有こゆう 性せい への疑うたが いに接続せつぞく し、さらに☑151 構造こうぞう 主義しゅぎ (私わたし の思考しこう も時代じだい の構造こうぞう に規定きてい されている)へつながる。読解どっかい では、主体性しゅたいせい が称揚しょうよう されているのか、その成な り立た ちが暴ぼう かれているのかを見分みわ ける。
用例ようれい
我々われわれ の力ちから の及およ ぶものと、及およ ばないものとがある。……我々われわれ の力ちから の及およ ぶものは、判断はんだん ・意欲いよく ・欲求よっきゅう ・忌避きひ 、要よう するに我々われわれ 自身じしん の働はたら きである。エピクテトス『提要ていよう 』第一だいいち 章しょう (2世紀にせいき 初頭しょとう )/訳やく は本ほん 教材きょうざい
主体性しゅたいせい の範囲はんい を、最初さいしょ に正確せいかく に線引せんび きした一節いっせつ である。奴隷どれい の身分みぶん から出で た哲学者てつがくしゃ の言葉ことば であることが重おも い — ほとんど何なに も自由じゆう にならない立場たちば から 、それでも自分じぶん の側がわ に残のこ るものを数かぞ え上あ げている。注目ちゅうもく したいのは、行為こうい が一覧いちらん に入はい っていない ことだ。身体しんたい は縛しば られうるし、結果けっか は他人たにん が決き める。残のこ るのは「どう受う け取と るか」だけ である。これを敗北はいぼく 主義しゅぎ と読よ むか、奪うば われようのない最後さいご の一線いっせん と読よ むかで、主体性しゅたいせい という語ご の重おも みが変か わる。なお「忌避きひ 」がここに数かぞ え上あ げられていることも見み ておきたい — 11 の語ご は、この一覧いちらん に由来ゆらい する。
僕ぼく の前まえ に道みち はない僕ぼく の後うし ろに道みち は出来でき る高こう 村むら 光太郎こうたろう 『道程どうてい 』(1914)
主体性しゅたいせい を、二に 行ぎょう で言い い切き った詩し である。仕掛しか けは時制じせい にある。前まえ は「ない」(現在げんざい )、後うし ろは「出来でき る」(完了かんりょう しつつある現在げんざい )。歩ある いたあとにしか道みち は存在そんざい しない 。つまり主体性しゅたいせい とは「あらかじめ選択肢せんたくし を見渡みわた して選えら ぶこと」ではない 。見み 渡わた せる道みち があるなら、その道みち は誰だれ かがすでに作つく ったもの だからだ。1-5 の 115 の実存じつぞん が言い う「実存じつぞん は本質ほんしつ に先立さきだ つ」 と同おな じことを、この詩し は情じょう 景けい で言い っている。ただし全ぜん 篇へん を読よ むと、この詩し は「父ちち よ」と呼よ びかけて終お わる 。主体性しゅたいせい の宣言せんげん が、支ささ えを求もと める声こえ で閉と じられている ところに、この詩し の正直しょうじき さがある。
主体性しゅたいせい とは、何なん にも影響えいきょう されずに選えら ぶことではなく、影響えいきょう を引ひ き受う けたうえでなお選えら び直なお すことである。
この主題しゅだい での定義ていぎ の置お き方ほう である。影響えいきょう ゼロの選択せんたく はそもそも存在そんざい しない 。育そだ ちも言葉ことば も時代じだい もすべて外そと から来き ている 。だから主体性しゅたいせい を純粋じゅんすい さで定義ていぎ すると誰だれ も持も てなくなる 。引ひ き受う けの側がわ に定義ていぎ を移うつ す のが要点ようてん だ。
×彼かれ は主体性しゅたいせい があるので、人ひと の言い うことを聞き かない。
語ご の向む きが逆ぎゃく になっている 。人ひと の言い うことを聞き かないのは「独断どくだん 的てき 」「頑固がんこ 」 である。主体性しゅたいせい は自分じぶん で引ひ き受う けて決き めること で、他人たにん の言葉ことば を拒こば むことではない 。むしろ聞き いたうえでなお自分じぶん で決き める ほうが主体性しゅたいせい の名な にふさわしい。
派生はせい 形けい
主体しゅたい [0] 1-5 の 106 で立た てた語ご 。行為こうい し認識にんしき する側がわ 。「主体しゅたい 的てき 」は態度たいど を言い う形容けいよう 動詞どうし で、日常にちじょう 語ご では「積極的せっきょくてき な」の言い い換か え に流なが れやすい。評ひょう 論語ろんご では客体きゃくたい との対たい で読よ む。
能動のうどう [0] 09 の受動じゅどう の対たい 。主体性しゅたいせい と近ちか いが、能のう 動どう は働はたら きかけの向む きを言い うだけ で、引ひ き受う けの含ふく みが無な い 。勢いきおい いよく動うご いていても主体性しゅたいせい が無な いことはありうる。
自律じりつ [0] 1-7 の 159 で立た てた語ご 。自分じぶん で立た てた規則きそく に従したが うこと。主体性しゅたいせい が選えら ぶ働はたら き を言い うのに対たい し、自律じりつ は従したが う先さき が自分じぶん の内側うちがわ にあること を言い う。選えら ぶだけなら気き まぐれでもできる — この差さ は小ちい さくない。
コロケーション
主体性しゅたいせい の回復かいふく 失うしな われた前提ぜんてい 「回復かいふく 」と言い うからにはかつて持も っていた ことになる。この前提ぜんてい は疑うたが う値打ねう ちがある — 近代きんだい 以前いぜん の人ひと に主体性しゅたいせい はあったのか 。1-6 の 122 で見み たとおり、身分制みぶんせい の下もと では生い き方かた はほぼ決き まっていた 。主体性しゅたいせい は取と り戻もど すものではなく、近代きんだい が新あたら しく要求ようきゅう しはじめたもの だと読よ むほうが筋すじ が通とお る。
主体しゅたい 的てき に選えら ぶ言い い方かた が要求ようきゅう する条件じょうけん この言い い回まわ しが使つか われる場面ばめん ほど、選択肢せんたくし があらかじめ用意ようい されている ことが多おお い。進路しんろ も、商品しょうひん も、並なら べたのは他人たにん である。並なら べる側がわ に回かい らないかぎり、主体性しゅたいせい は選えら ぶ範囲はんい の内側うちがわ にとどまる 。評ひょう 論文ろんぶん がこの語ご を疑うたが うときは、たいていここを突つ いている。
主体性しゅたいせい の神話しんわ 批判ひはん の側がわ の語ご 個人こじん が自由じゆう に決き めているという像ぞう を作つく られた物語ものがたり と見み る言い い方かた 。1-7 の 151 の構造こうぞう 主義しゅぎ がここへ突つ き刺さ さる — 選えら んでいるつもりの選択せんたく も配置はいち の効果こうか だという指摘してき だ。ただし全面的ぜんめんてき に認みと めると責任せきにん も消き える 。1-7 の 160 の自己じこ 責任せきにん と正反対せいはんたい の方向ほうこう から同おな じ場所ばしょ へ来く る 。
主体しゅたい と主体性しゅたいせい 別べつ の語ご として扱あつか う主体しゅたい (1-5 の 106)が行為こうい の起点きてん という位置いち を指さ すのに対たい し、主体性しゅたいせい はその位置いち に実質じっしつ があること を指さ す。位置いち は制度せいど が与あた えるが、実質じっしつ は与あた えられない 。「一人ひとり 一いち 票ひょう 」は主体しゅたい の位置いち を配くば るが、主体性しゅたいせい まで配くば りはしない — 1-6 の 127 の民たみ 主しゅ 主義しゅぎ の難所なんしょ がここにある。
格かく 中なか 書か き言葉ことば ・会話かいわ の両方りょうほう で使つか える。
類るい 語ご と差さ
主体しゅたい 意志いし をもって働はたら きかける側がわ ☑106。主体しゅたい は位置いち 、主体性しゅたいせい はその性質せいしつ 。
自律じりつ 自分じぶん の考かんが えを基準きじゅん に判断はんだん する☑36。規範きはん の出で どころを言い う。主体性しゅたいせい は意志いし の所在しょざい を言い う。
自じ 発はつ 性せい 促うなが されずに動うご く性質せいしつ きっかけの話はなし 。主体性しゅたいせい は判断はんだん の根拠こんきょ が自分じぶん にあること。
能のう 動どう 性せい 自みずか ら働はたら きかける性質せいしつ 動うご きの向む き。主体性しゅたいせい は判断はんだん まで含ふく む。
EN agency / subjectivityZH 主体性(主体性, zhǔtǐxìng)
07 概念がいねん
再帰さいき
さいき [1] さ い き 頭高あたまだか 型がた
使用しよう の境界きょうかい 自分じぶん の行おこな いの結果けっか が自分じぶん へ返かえ ってくること。単たん に繰く り返かえ すことではない。
用法ようほう ギデンズの「自己じこ は再帰さいき 的てき なプロジェクトである」 という規定きてい で押お さえる。近代きんだい 以前いぜん は共同体きょうどうたい と親おや が自分じぶん の位置いち を決き めたが、近代きんだい の個人こじん は昔むかし の自分じぶん を反省はんせい しながら自分じぶん のあり方かた を絶た えず更新こうしん し続つづ けなければならない 。しかもその責任せきにん は自分じぶん が負お う。だから「自分じぶん 探さが し」はワクワクした冒険ぼうけん ではなく、終お わらない作業さぎょう になる。ここで☑159 自己じこ 決定けってい ・☑160 自己じこ 責任せきにん と正面しょうめん から接続せつぞく し、息苦いきぐる しさの説明せつめい になる。「再帰さいき 的てき 近代きんだい 化か 」は、この反省はんせい が社会しゃかい 全体ぜんたい に及およ んだ状態じょうたい を指さ す。
用例ようれい
人々ひとびと は、高たか い山やま 、海うみ の巨大きょだい な波なみ 、広ひろ く流なが れる川かわ 、大洋たいよう のめぐり、星々ほしぼし の運行うんこう に驚嘆きょうたん する。そして、自分自身じぶんじしん のことは素通すどお りしてしまう。アウレリウス・アウグスティヌス『告白こくはく 』第十巻だいじっかん (397頃ころ )/訳やく は本ほん 教材きょうざい
再帰さいき という働はたら きがなぜ難むずか しいのかを、一気いっき に見み せる一節いっせつ である。仕掛しか けは列挙れっきょ の長なが さ にある。山やま 、波なみ 、川かわ 、大洋たいよう 、星ほし — 遠とお いものから順じゅん に大おお きくなっていく 。そして最後さいご にいちばん近ちか いもの が来き て、そこだけ素通すどお りされる 。距離きょり と関心かんしん が反比例はんぴれい している ことが文ぶん の形かたち そのもので示しめ されている。なぜ素通すどお りするのか — 見み る目め そのものを見み ることはできない からだ。1-5 の 89 で見み た離り 見み の見み が技術ぎじゅつ として語かた られたのに対たい し、ここではそもそもやろうとすらしない という手前てまえ の段階だんかい が突つ かれている。
汝なんじ 自身じしん を知し れ。デルポイのアポロン神殿しんでん の箴言しんげん ─ プラトン『プロタゴラス』の引用いんよう による(前4世紀ぜんよんせいき )/訳やく は本ほん 教材きょうざい
再帰さいき の命令形めいれいけい である。三さん 語ご しかないのに難所なんしょ が二ふた つある。第一だいいち に、知し る主体しゅたい と知し られる対象たいしょう が同おな じ だ。普通ふつう の認識にんしき では見み る者もの は見み られるものの外そと にいる が、ここでは外そと へ出で られない。第だい 二に に、これが神殿しんでん に刻きざ まれていた ことである。神託しんたく を聞き きに来き た者もの が、入口いりぐち でこの一行いちぎょう に迎むか えられる 。神かみ に未来みらい を尋たず ねる前まえ に自分じぶん を見み よ、という配置はいち だ。ソクラテスがこの箴言しんげん を「知し らないことを知し る」 と読よ み替か えたのは(1-1 の 為い 政せい 篇へん と同おな じ構かま え)、自分じぶん について完全かんぜん に知し ることはできない と見抜みぬ いていたからだろう。再帰さいき は達成たっせい ではなく、終お わらない運動うんどう である 。
自分じぶん を語かた ろうとするとき、語かた る自分じぶん と語かた られる自分じぶん に分わ かれる。これが再帰さいき の構造こうぞう である。
この語ご の中身なかみ を一文いちぶん で示しめ す型かた である。分わ かれた瞬間しゅんかん に語かた る側がわ はまた語かた られないまま残のこ る 。追お いつけない のだ。03 の自己じこ が一ひと つに定さだ まらない のは、この構造こうぞう による。
×昨日きのう のことを再帰さいき した。
「回想かいそう する」「思おも い返かえ す」 である。再帰さいき は働はたら きが自分自身じぶんじしん へ返かえ ってくる という構造こうぞう を指さ す語ご で、過去かこ を思おも い出だ す行為こうい ではない 。なお数学すうがく ・情報じょうほう の「再帰さいき 的てき 定義ていぎ 」 も同おな じ構造こうぞう — 定義ていぎ のなかに定義ていぎ される当とう のものが現あらわ れる 。
派生はせい 形けい
再帰的さいきてき [0] 形容けいよう 動詞どうし 形けい 。「再帰さいき 的てき な問と い」で問と いが問と う当人とうにん に返かえ ってくる ことを言い う。「再さい 起き 」と混ま ぜない — そちらは立た ち直ちょく ること で別語べつご である。
内省ないせい [0] 心こころ の内側うちがわ を見み る こと。再帰さいき が構造こうぞう を言い うのに対たい し、内省ないせい は行為こうい を言い う。「内省ないせい する」とは言い えるが「再帰さいき する」とは言い わない のは、この差さ による。
メタ [1] 一段いちだん 上じょう から見み る という接頭辞せっとうじ 。「メタ認知にんち 」は自分じぶん の考かんが え方かた を考かんが える こと。再帰さいき とほぼ同おな じ事態じたい を、上下じょうげ の比喩ひゆ で言い い直なお した形かたち で、現代げんだい の文章ぶんしょう ではこちらが優勢ゆうせい である。
コロケーション
再帰さいき 的てき 自己じこ この主題しゅだい の術語じゅつご 自分じぶん を観察かんさつ し、評価ひょうか し、作つく り変か える自己じこ 。この語ご が現代的げんだいてき なのは、近代きんだい 以前いぜん にはここまで要求ようきゅう されなかった からだ。生い き方かた が決き まっていれば自分じぶん を設計せっけい し直なお す必要ひつよう がない 。選えら べるようになったことが、そのまま絶た えず選えら び直なお させる圧力あつりょく になる — 1-6 の 119 で見み た近代きんだい 化か の心理しんり 面めん での帰結きけつ である。
再帰さいき 的てき 近代きんだい 社会しゃかい の側がわ へ広ひろ げた語ご 近代きんだい が自分自身じぶんじしん を問題もんだい として扱あつか いはじめた段階だんかい 。科学かがく が科学かがく の副作用ふくさよう を扱あつか い、制度せいど が制度せいど の失敗しっぱい を扱あつか う。1-7 の 147 のリスクが人間にんげん の決定けってい から生う まれる と言い われるのは、この折お り返かえ しが起お きたからだ。外そと に敵てき がいなくなり、自分じぶん の産物さんぶつ が問題もんだい になる 。
自己じこ 言及げんきゅう 同おな じ構造こうぞう の別名べつめい 文ぶん や体系たいけい が自分自身じぶんじしん について語かた る こと。「この文ぶん は偽にせ である」が真しん とも偽にせ とも決き まらないように、自己じこ 言及げんきゅう はしばしば決定けってい 不能ふのう を生う む 。1-7 の 158 で見み たニーチェの「事実じじつ はない、解釈かいしゃく だけがある」も同おな じ罠わな にかかっている 。再帰さいき は深ふか さを生う むと同時どうじ に足場あしば を崩くず す 。
反省はんせい 日本語にほんご での近ちか い語ご 「反はん 」も「省しょう 」も振ふ り返かえ って見み る意い で、本来ほんらい は再帰さいき と同おな じ構造こうぞう を指さ す。ところが日常にちじょう 語ご では「悪わる かったと認みと める」 の意い に寄よ ってしまった。構造こうぞう の語ご が道徳どうとく の語ご に変か わった ため、評ひょう 論文ろんぶん では「省察せいさつ 」「再帰さいき 」 を選えら ぶことが多おお い。
格かく 硬かた ・学術がくじゅつ 論文ろんぶん ・評ひょう 論ろん でのみ使つか う。会話かいわ では不自然ふしぜん 。
類るい 語ご と差さ
反省はんせい 自分じぶん をかえりみる内面ないめん の働はたら き。再帰さいき は結果けっか が返かえ るという構造こうぞう を言い う。
循環じゅんかん めぐって元もと に戻もど る 一般的いっぱんてき な繰く り返かえ し。再帰さいき は主体しゅたい 自身じしん に返かえ る点てん が違ちが う。
自己じこ 言及げんきゅう 自分自身じぶんじしん について語かた る論理ろんり の構造こうぞう 。☑18 パラドックスと接続せつぞく する。再帰さいき は行為こうい の結果けっか についての語ご 。
フィードバック 結果けっか を入力にゅうりょく に戻もど す工学こうがく ・システムの語ご 。☑145 システムと接続せつぞく する。
EN reflexiveZH 反身・自反(再帰的, fǎnshēn / zìfǎn)
08 概念がいねん
同化どうか
どうか [0] ど う か 平板へいばん 型がた
使用しよう の境界きょうかい 異こと なるものを自分じぶん と同おな じ性質せいしつ に変か えて取と り込こ むこと。取と り込こ む側がわ と取と り込こ まれる側がわ の向む きに注意ちゅうい を要よう する。
用法ようほう 入試にゅうし 文ぶん の急所きゅうしょ がここにある。「他者たしゃ の同化どうか 」と「他者たしゃ への同化どうか 」 は、助詞じょし 一ひと つで向む きが逆ぎゃく になる。前者ぜんしゃ は〈他者たしゃ を自分じぶん の側がわ に取と り込こ む〉、後者こうしゃ は〈自分じぶん が他者たしゃ の側がわ に変か えられる〉である。食た べることは他者たしゃ を取と り込こ んで自己じこ を維持いじ する行為こうい であると同時どうじ に、取と り込こ んだものによって自己じこ が変か えられる行為こうい でもある。助詞じょし の「の」と「へ」を読よ み分わ けられるかどうか が設問せつもん そのものになっている。社会しゃかい 論ろん では「同化どうか 政策せいさく 」が少数しょうすう 者しゃ の文化ぶんか を消け す政策せいさく を指さ し、批判ひはん 語ご になる。
用例ようれい
国語こくご を奪うば はれた民族みんぞく は、牢獄ろうごく の鍵かぎ を奪うば はれたのと同おな じである。アルフォンス・ドーデ『最後さいご の授業じゅぎょう 』(1873)の主旨しゅし による/訳やく は本ほん 教材きょうざい
同化どうか という政策せいさく の中身なかみ を一行いちぎょう で示しめ した言い い方かた である。普仏ふふつ 戦争せんそう でアルザスがドイツ領りょう となり、フランス語ご の授業じゅぎょう が最後さいご になる日ひ を描えが いた短編たんぺん の主旨しゅし で、鍵かぎ の比喩ひゆ が効き いている — 牢獄ろうごく に入い れられていても、鍵かぎ さえあればいつか出で られる 。言葉ことば はその鍵かぎ にあたる という主張しゅちょう だ。ただしこの作品さくひん には読よ み返かえ しの余地よち もある。アルザスの住民じゅうみん の多おお くはもともとドイツ語ご 系けい の方言ほうげん を話はな しており、フランス語ご もまた学校がっこう を通つう じて与あた えられた国語こくご だった。奪うば う側がわ と奪うば われる側がわ は、同おな じ操作そうさ を順じゅん に行おこな っている — 1-6 の 125 の国民こくみん 国家こっか が国語こくご を作つく った話はなし と重かさ ねて読よ みたい。
大だい なる哲学者てつがくしゃ も路傍ろぼう の乞食こじき も共とも に自己じこ の存在そんざい の意義いぎ を知し らずして死し ぬ。……人ひと は自己じこ に固有こゆう なるものを有ゆう すると同時どうじ に、一般いっぱん なるものを有ゆう す。西田にしだ 幾多郎きたろう 『善ぜん の研究けんきゅう 』第だい 四よん 編へん (1911)
同化どうか の反対はんたい 側がわ — 個こ が全体ぜんたい に溶と けることの意味いみ を扱あつか った一節いっせつ である。西田にしだ が言い うのは、人ひと は固有こゆう であると同時どうじ に一般いっぱん でもある ということだ。この二に 重じゅう 性せい を認みと めると、同化どうか の評価ひょうか が単純たんじゅん に否定ひてい にならない 。言葉ことば を学まな ぶことも、作法さほう を身み につけることも、すべて一般いっぱん なるものへの同化どうか である。同化どうか なしに人ひと は社会しゃかい に入い れない 。問題もんだい になるのは同化どうか が強し いられるとき、そして固有こゆう なるものの側がわ が消け されるとき だ。同化どうか そのものではなく、その非対称ひたいしょう を撃う つ のが評ひょう 論文ろんぶん の作法さほう である。
少数しょうすう 者しゃ を同化どうか させる政策せいさく は、多数派たすうは の側がわ をまったく変か えないまま進すす む。
非対称ひたいしょう を書か く型かた である。「溶と け合あ う」と言い えば双方そうほう が変か わりそうだが、実際じっさい に変か わるのは一方いっぽう だけ だ。誰だれ が誰だれ に合あ わせるのかを書か けば、力ちから 関係かんけい がそのまま出で る 。1-7 の 155 のマイノリティーと直結ちょっけつ する。
×新あたら しい部署ぶしょ にもすっかり同化どうか できた。
「馴染なじ む」「溶と け込こ む」 である。評ひょう 論語ろんご の同化どうか は集団しゅうだん の側がわ が別べつ の集団しゅうだん を自分じぶん の型かた へ吸収きゅうしゅう する操作そうさ を指さ し、本人ほんにん が慣な れることではない 。なお生物学せいぶつがく ・心理学しんりがく の「同化どうか 作用さよう 」 は外そと のものを取と り込こ んで自分じぶん の一部いちぶ にすることで、比喩ひゆ の出で どころ にあたる。
派生はせい 形けい
同一化どういつか [0] 心理学しんりがく の語ご 。他者たしゃ を自分じぶん と重かさ ね、その人ひと のようになろうとする 働はたら き。同化どうか が集団しゅうだん の操作そうさ を指さ すのに対たい し、同一化どういつか は個人こじん の心こころ の働はたら き を指さ す。主語しゅご が集団しゅうだん か個人こじん か で使つか い分わ ける。
異化いか [0] 同化どうか の対たい 。生物学せいぶつがく では取と り込こ んだものを分解ぶんかい する働はたら き、文学ぶんがく では見み 慣な れたものを見み 慣な れないものにする技法ぎほう 。分野ぶんや をまたぐと意味いみ が変か わる ので、どちらの文脈ぶんみゃく かを先さき に決き める。
順応じゅんのう [0] 環境かんきょう に合あ わせる こと。同化どうか が集団しゅうだん の性質せいしつ そのものを変か えられる のに対たい し、順応じゅんのう はふるまいを合あ わせるだけ で中身なかみ は変か わらない。可逆かぎゃく かどうか が実際じっさい 上じょう の差さ になる。
コロケーション
同化どうか 政策せいさく 国家こっか が主語しゅご になる語ご 国家こっか が少数しょうすう の集団しゅうだん を多数派たすうは の言語げんご ・習慣しゅうかん へ揃そろ えさせる政策せいさく 。この語ご が要い るのは、個々ここ の役人やくにん に悪意あくい があったかどうかを問と わずに済す ませられる からだ。善意ぜんい で行おこな われた同化どうか ほど徹底てってい する — 「彼かれ らのために」という理由りゆう が付つ くからである。
同化どうか と排除はいじょ 一いち 対たい で働はたら く語ご 正反対せいはんたい に見み えて、同おな じ論理ろんり の表ひょう と裏うら である。どちらも「違ちが いをそのまま置お いておかない」 という点てん で一致いっち している。溶と かすか、出だ すか 。1-7 の 150 の多様性たようせい が難むずか しいのは、この二ふた つ以外いがい の第だい 三さん の道みち を設計せっけい しなければならない からだ。
自発的じはつてき な同化どうか 強制きょうせい でない形かたち 誰だれ にも命めい じられずに、自分じぶん から多数派たすうは へ合あ わせていくこと。この語ご が重おも いのは、不利益ふりえき を避さ けるための合理的ごうりてき な選択せんたく として起お きるからだ。訛なま りを直なお し、名な を変か え、出自しゅつじ を言い わない。誰だれ も強制きょうせい していないのに結果けっか は同おな じになる — 1-7 の 144 の自発的じはつてき な服従ふくじゅう と同おな じ形かたち をしている。
他者たしゃ への同化どうか 向む きを逆ぎゃく にした語ご 相手あいて を取と り込こ むのではなく、こちらが相手あいて に合あ わせて変か わる こと。この向む きが評ひょう 論文ろんぶん で注目ちゅうもく されるのは、他者たしゃ 性せい を消け さない唯一ゆいいつ の同化どうか だからだ。ただし限界げんかい もある — 合あ わせようとする側がわ がすでに強きょう 者しゃ なら、それは寛容かんよう という名な の余裕よゆう にもなりうる。
格かく 中なか 書か き言葉ことば ・会話かいわ の両方りょうほう で使つか える。
類るい 語ご と差さ
異化いか 見み 慣な れたものを見み 慣な れないものにする対たい 語ご 。文学ぶんがく 理論りろん の語ご 。同化どうか が取と り込こ み、異化いか が引ひ き離はな す。
吸収きゅうしゅう 中なか に取と り入い れる物理的ぶつりてき ・一般的いっぱんてき 。同化どうか は性質せいしつ まで変か えることを含ふく む。
消化しょうか 分解ぶんかい して取と り入い れる生せい 理り の語ご 。同化どうか はその結果けっか として自分じぶん の一部いちぶ になることを言い う。
統合とうごう まとめて一ひと つにする 違ちが いを残のこ したままでもよい。同化どうか は違ちが いを消け す。
EN assimilationZH 同化(同化, tónghuà)
09 概念がいねん
受動じゅどう
じゅどう [0] じゅ ど う 平板へいばん 型がた
使用しよう の境界きょうかい 自分じぶん から働はたら きかけるのではなく、働はたら きかけられる側がわ にあること。消しょう 極きょく 的てき であることとは違ちが う。
用法ようほう 要点ようてん は、受動じゅどう が怠惰たいだ や消しょう 極きょく 性せい ではなく、存在そんざい の条件じょうけん だという捉とら え方ほう にある。入試にゅうし 文ぶん は吉野よしの 弘ひろし の詩し を引ひ いて、生う まれることが I was born という受身うけみ 形けい でしか言い えないことを示しめ す。人ひと は生う まれさせられるのであって、自分じぶん の意志いし で生う まれるのではない。この根本的こんぽんてき な受動性じゅどうせい が、身体しんたい の他者たしゃ 性せい や食た べることの構造こうぞう とつながる。☑34 情念じょうねん (パトス)の語源ごげん も受動性じゅどうせい であり、西洋せいよう 思想しそう では受動じゅどう が繰く り返かえ し主題しゅだい になる。
用例ようれい
私わたし は突然とつぜん 、どのような資質ししつ が人ひと を成な し遂と げさせるのかを悟さと った。……それは消しょう 極きょく 的てき 能力のうりょく 、すなわち、不確ふたし かさや神秘しんぴ や疑うたが いのなかにとどまることのできる力ちから である。事実じじつ や理由りゆう をいらだたしく求もと めることなしに。ジョン・キーツ 書簡しょかん (1817)/訳やく は本ほん 教材きょうざい
受動じゅどう を、欠如けつじょ ではなく能力のうりょく として言い い直なお した一節いっせつ である。「消しょう 極きょく 的てき 能力のうりょく (negative capability)」という造語ぞうご がその宣言せんげん だ。能力のうりょく は普通ふつう 、何なに かを為い すこと を指さ す。キーツは為い さずにいられること を能力のうりょく に数かぞ えた。注目ちゅうもく したいのは「いらだたしく」 という一語いちご である。答こた えを出だ そうとする焦あせ りが能力のうりょく の不足ふそく として名指なざ されている 。早はや く結論けつろん に着つ けば不確ふたし かさは消き えるが、見み えていたはずのものも一緒いっしょ に消き える 。1-7 の 147 のリスクや01 の他者たしゃ のように決着けっちゃく のつかないものを扱あつか う文章ぶんしょう は、この能力のうりょく を読者どくしゃ にも要求ようきゅう している。
善人ぜんにん なほもて往生おうじょう をとぐ、いはんや悪人あくにん をや。唯円ゆいえん 『歎異抄たんにしょう 』第だい 三さん 条じょう (13世紀じゅうさんせいき 後半こうはん )
受動じゅどう という構かま えを、日本語にほんご で最もっと も鋭するど く言い い切き った一句いっく である。常識じょうしき なら「悪人あくにん でさえ救すく われる、まして善人ぜんにん は」となるはずだ。それをひっくり返かえ している 。理由りゆう はこうだ — 自分じぶん の力ちから で善ぜん を積せき めると思おも っている者もの は、まだ自分じぶん の力ちから を頼たよ りにしている 。他力たりき を本当ほんとう に頼たよ るのは、自力じりき が尽つ きたと知し った者もの のほうだ。ここで受動じゅどう は怠惰たいだ ではない 。自分じぶん の力ちから の限界げんかい を見み きわめた末すえ の構かま え である。06 の主体性しゅたいせい と正反対せいはんたい に見み えて、どちらも「自分じぶん に何なに ができるか」を正確せいかく に測はか ることから始はじ まる — エピクテトスの一覧いちらん と並なら べて読よ むと、その近ちか さが見み える。
生う まれる場所ばしょ も時代じだい も身体しんたい も選えら べない。この受動じゅどう から人ひと は始はじ まる。
この主題しゅだい の前提ぜんてい を置お く型かた である。主体性しゅたいせい の議論ぎろん はこの受動じゅどう を出発点しゅっぱつてん にしないと空そら 回まわ りする 。選えら べたことにすると、選えら べなかった条件じょうけん まで本人ほんにん の責任せきにん になる — 1-7 の 160 の自己じこ 責任せきにん が陥おちい る穴あな がこれだ。
×会議かいぎ では受動じゅどう だったので、発言はつげん しなかった。
態度たいど を言い うなら「受う け身み 」「消しょう 極きょく 的てき 」 である。評ひょう 論語ろんご の受動じゅどう は能のう 動どう との対たい で存在そんざい の在あ り方ほう を言い う語ご で、やる気き の有無うむ ではない 。「受動じゅどう 的てき 」なら態度たいど にも使つか える が、その場合ばあい も否定ひてい の色いろ が付つ く ことに注意ちゅうい したい。
派生はせい 形けい
受動的じゅどうてき [0] 態度たいど にも使つか える形かたち 。ただしほぼ否定ひてい の色いろ が付つ く。評ひょう 論文ろんぶん で肯定的こうていてき に受動じゅどう を語かた りたいとき は、「受動性じゅどうせい 」「受う け取と る力ちから 」のように「的てき 」を避さ ける のが安全あんぜん である。
受容じゅよう [0] 受う け入い れる側がわ の語ご 。受動じゅどう が選えら べない ことを言い うのに対たい し、受容じゅよう は受う け入い れることを選えら んでいる 。選択せんたく の余地よち があるかどうか が差さ で、「文化ぶんか の受容じゅよう 」のように能のう 動どう の含ふく み を持も つ。
被るこうむる [3] 和わ 語ご の動詞どうし 。「損害そんがい を被こうむ る」「影響えいきょう を被こうむ る」。望のぞ まないものを受う ける という含ふく みが強つよ く、受動じゅどう のなかでも不利益ふりえき の側がわ を指さ す。読解どっかい ではこの一語いちご で書か き手て の評価ひょうか が分わ かる 。
コロケーション
存在そんざい の受動性じゅどうせい この主題しゅだい の術語じゅつご 生う まれること自体じたい が自分じぶん の選択せんたく ではない という事実じじつ 。この結むす びつきが哲学てつがく で重おも いのは、あらゆる主体性しゅたいせい がこの受動じゅどう の上うえ に建た っている からだ。土台どだい は選えら べない。選えら べるのはその上うえ に何なに を建だ てるかだけ である。1-5 の 115 の実存じつぞん が「投な げ出だ されている」と言い うのはこの事態じたい を指さ す。
受動じゅどう から能のう 動どう へ転換てんかん を書か く型かた 受う けたものを引ひ き受う け直なお して自分じぶん の側がわ から出だ す という運動うんどう 。評ひょう 論文ろんぶん がこの型かた を好この むのは、どちらか一方いっぽう では論ろん が痩や せる からだ。受動じゅどう だけなら諦あきら め、能のう 動どう だけなら空そら 威い 張ば り。受う けたことを認みと めたうえでなお動うご く という二に 段だん 構かま えが、06 の主体性しゅたいせい の定義ていぎ になる。
受動態じゅどうたい 文法ぶんぽう から借か りた見方みかた 「〜される」という言い い方かた は行為こうい 者しゃ を隠かく せる 。「決定けってい された」と書か けば誰だれ が決き めたかを言い わずに済す む 。1-7 の 145 のシステムがこの語ご 法ほう と結むす びつくのは、主語しゅご のない出来事できごと を書か くため だ。受動態じゅどうたい が多おお い文章ぶんしょう は、責任せきにん の所在しょざい をぼかしている疑うたが いがある 。
受苦じゅく 受動じゅどう の極きょく にある語ご 避さ けられない苦くる しみを受う けるほかない という状態じょうたい 。ラテン語ご passio は受動じゅどう とも受じゅ 難なん とも情熱じょうねつ とも訳やく せる一語いちご だった。受う けることと燃も えることが同おな じ語ご だった という事実じじつ は、受動じゅどう を無む 気力きりょく の同義語どうぎご にしない ための手て がかりになる。
格かく 中なか 書か き言葉ことば ・会話かいわ の両方りょうほう で使つか える。
類るい 語ご と差さ
能のう 動どう 自みずか ら働はたら きかける対たい 語ご 。向む きの違ちが い。
消しょう 極きょく 的てき 進すす んで行ぎょう おうとしない態度たいど の話はなし で、否定的ひていてき な評価ひょうか を含ふく む。受動じゅどう は位置いち の記述きじゅつ で中立ちゅうりつ 。
他律たりつ 外そと からの命令めいれい に従したが う☑37。規範きはん の出で どころが外そと にある。受動じゅどう は働はたら きかけの向む き。
被ひ 投なげ 性せい 気き づいたときには投な げ込こ まれているハイデガーの語ご 。生う まれることの受動性じゅどうせい を存在論そんざいろん 的てき に言い い直なお したもの。
EN passivityZH 被动(受動, bèidòng)
10 読解どっかい
逡巡しゅんじゅん
しゅんじゅん [0] しゅ ん じゅ ん 平板へいばん 型がた
語ご 構成こうせい
逡しゅん しりごみする + 巡じゅん めぐる
「逡しゅん 」も「巡じゅん 」も行い きつ戻もど りつする動うご きを表あらわ す。読よ み書か きともに問と われる。
使用しよう の境界きょうかい 決き めかねてためらうこと。迷まよ ったまま足踏あしぶ みしている状態じょうたい を指さ し、単たん に考かんが えている段階だんかい とは違ちが う。
用法ようほう 読よ み書か きの両方りょうほう で問と われる語ご である。「逡しゅん 」も「巡じゅん 」も行い きつ戻もど りつする動うご きを表あらわ し、字じ の意味いみ がそのまま語ご 義ぎ になっている。評ひょう 論文ろんぶん では、選択肢せんたくし が増ふ えたことが決断けつだん を難むずか しくしたという文脈ぶんみゃく で使つか われることが多おお い。「逡巡しゅんじゅん する」の形かたち で動詞どうし 化か する。硬かた い文章ぶんしょう 語ご なので会話かいわ では使つか わない。同おな じ場面ばめん で「躊躇ちゅうちょ 」も使つか えるが、逡巡しゅんじゅん のほうが〈足踏あしぶ み〉の含ふく みが強つよ い。
用例ようれい
生い きるべきか、死し ぬべきか、それが問題もんだい だ。……こうして、物もの を思おも う心こころ が我々われわれ を臆病者おくびょうもの にしてしまう。……決意けつい の生う まれながらの色いろ が思案しあん の青白あおじろ さに病やまい み衰おとろ えてしまうのだ。ウィリアム・シェイクスピア『ハムレット』第だい 三さん 幕まく (1600頃ころ )/訳やく は本ほん 教材きょうざい
逡巡しゅんじゅん そのものを主題しゅだい にした独白どくはく である。注目ちゅうもく したいのは色いろ の比喩ひゆ だ。決意けつい には生う まれつきの血ち の色いろ があり、思案しあん がそれを青白あおじろ く する。考かんが えることが行為こうい から血ち を抜ぬ く というこの見立みた ては、逡巡しゅんじゅん を知性ちせい の副作用ふくさよう として捉とら えている 。愚おろ かだから迷まよ うのではない。見み えすぎるから動うご けない のだ。この一句いっく が四百年よんひゃくねん 引ひ かれ続つづ けるのは、迷まよ いを弱よわ さではなく知ち の代償だいしょう として描えが いた からである。評ひょう 論文ろんぶん でこの語ご が出で たら、迷まよ っている人物じんぶつ の知的ちてき な水準すいじゅん にも目め を向む けたい 。
嗚呼ああ 、何なに 等とう の悪因あくいん ぞ。この恩おん を報むく いんと思おも ふ心こころ と、我わ が名な を惜お しむ心こころ と、一ひと つならず二ふた つならず、胸むね のうちに戦せん ひぬ。森鷗外『舞姫まいひめ 』(1890)
逡巡しゅんじゅん が起お きる仕組しく みを解剖かいぼう してみせた一節いっせつ である。要よう は「一ひと つならず二ふた つならず」 だ。迷まよ いは二ふた つの選択肢せんたくし のあいだ に起お きるのではない。数かぞ えきれない筋すじ が同時どうじ に立た っている から決き まらないのである。そして「戦せん ひぬ」 — 主語しゅご は「心こころ 」であって「私わたし 」ではない。迷まよ っているのは私わたし ではなく、私わたし のなかの複数ふくすう の心こころ だ。03 の自己じこ が一ひと つに定さだ まらない というこの主題しゅだい の主張しゅちょう が、明治めいじ の小説しょうせつ のなかですでに文体ぶんたい になっている。豊太郎とよたろう はこのあと決断けつだん しないまま事態じたい に運はこ ばれていく — 逡巡しゅんじゅん の果は てにあるのは選択せんたく ではなく09 の受動じゅどう である 。
筆者ひっしゃ は結論けつろん を急いそ がず、逡巡しゅんじゅん の過程かてい そのものを書か き記しる している。
評ひょう 論文ろんぶん でこの語ご が出で る典型てんけい の場面ばめん である。逡巡しゅんじゅん を書か く のは、答こた えより答こた えに至いた る道みち のほうが重おも いと考かんが えるとき だ。09 で見み たキーツの消しょう 極きょく 的てき 能力のうりょく が、文章ぶんしょう の作法さほう として現あらわ れた形かたち 。
×注文ちゅうもん を逡巡しゅんじゅん して、結局けっきょく カレーにした。
語ご が重じゅう すぎる 。軽かる い迷まよ いなら「迷まよ って」「決き めかねて」 。逡巡しゅんじゅん はためらって足踏あしぶ みする という重おも い漢語かんご で、進しん 退たい が関かか わる場面ばめん に使つか う。「逡しゅん 」も「巡じゅん 」もあとずさる・めぐる 意い で、前まえ へ出で られない身体しんたい の動うご き を字じ が写うつ している。
派生はせい 形けい
躊躇ちゅうちょ [1] ほぼ同義どうぎ の漢語かんご 。差さ は時間じかん の長なが さ にある。躊躇ちゅうちょ は一瞬いっしゅん でも使つか える が、逡巡しゅんじゅん はある程度ていど 続つづ く 。「躊躇ちゅうちょ なく」は自然しぜん だが「逡巡しゅんじゅん なく」はやや据すえ わりが悪わる い 。
逡巡うためらう [3] 和わ 語ご の訓くん 。「逡巡しゅんじゅん う」と書か いてためらう と読よ ませる例れい がある。同おな じ字じ で漢語かんご と和わ 語ご の二ふた つの顔かお を持も つ。文章ぶんしょう の硬かた さに合あ わせて選えら び分わ けられる。
遅疑ちぎ [1] さらに硬かた い語ご 。「遅疑ちぎ 逡巡しゅんじゅん 」と四字よじ で連つら ねる ことが多おお い。「疑ぎ 」の字じ が入はい るぶん、判断はんだん そのものへの不信ふしん が加くわ わる。現代げんだい の文章ぶんしょう ではほぼ引用いんよう の中なか でしか見み ない。
コロケーション
逡巡しゅんじゅん する動詞どうし としての形かたち サ変動へんどう 詞し で使つか うのが普通ふつう 。この語ご の質しつ 感かん は時間じかん が経た っていること にある。一瞬いっしゅん の迷まよ いには使つか わない。足踏あしぶ みが続つづ いている状態じょうたい を指さ すので、そのあいだに事態じたい が動うご いてしまう という含ふく みが自然しぜん に付つ く。
しばしの逡巡しゅんじゅん 長なが さを限かぎ る言い い方かた 「しばし」を添そ えると短みじか く切き れる 。この組く み合あ わせが多おお いのは、逡巡しゅんじゅん は本来ほんらい 終お わらないもの だからだ。終お わったことを示しめ すために長なが さの限定げんてい が要い る 。語ご の性質せいしつ が共起きょうき する語ご を呼よ んでいる例れい 。
逡巡しゅんじゅん を見み せない否定ひてい で使つか う形かたち 迷まよ わないことを逡巡しゅんじゅん の不在ふざい として書か く言い い方かた 。この形かたち が効き くのは、普通ふつう なら迷まよ う場面ばめん だ という前提ぜんてい を同時どうじ に伝つた えられるからだ。「即断そくだん した」と書か けば性格せいかく の話はなし になるが、「逡巡しゅんじゅん を見み せなかった」と書か けば状況じょうきょう の重おも さも一緒いっしょ に立た つ 。
逡巡しゅんじゅん と決断けつだん 対たい で使つか う語ご 評ひょう 論文ろんぶん ・小説しょうせつ でよく組く む対たい 。注意ちゅうい したいのは、決断けつだん は逡巡しゅんじゅん を消け さない ことだ。決き めたあとも捨す てた側がわ の筋すじ は残のこ り続つづ ける 。迷まよ いを断た ち切き るのではなく、抱かか えたまま進すす む という書か かれ方ほう をするとき、この対たい はいちばん深ふか くなる。
格かく 硬かた 書か き言葉ことば 。会話かいわ では不自然ふしぜん 。
類るい 語ご と差さ
躊躇ちゅうちょ ためらう ほぼ同義どうぎ 。躊躇ちゅうちょ のほうが日常にちじょう でも使つか われる。逡巡しゅんじゅん はより硬かた く、文章ぶんしょう 語ご 。
迷まよ うどちらか決き められない 日常にちじょう 語ご 。逡巡しゅんじゅん は行動こうどう に移うつ れずにいる様子ようす まで含ふく む。
ためらう 行動こうどう を起お こしかねる訓読くんどく み。逡巡しゅんじゅん はその漢語かんご 形けい にあたる。
熟慮じゅくりょ よく考かんが える 肯定的こうていてき 。逡巡しゅんじゅん は動うご けないことに重心じゅうしん があり、否定的ひていてき に響ひび く。
EN hesitationZH 踌躇(躊躇, chóuchú)
11 読解どっかい
忌避きひ
きひ [1] き ひ 頭高あたまだか 型がた
語ご 構成こうせい
忌き いむ・さける + 避ひ さける
「忌き 」も「避ひ 」も〈さける〉を表あらわ す。同義どうぎ の字じ を重かさ ねた熟語じゅくご である。
使用しよう の境界きょうかい 嫌きら って避さ けること。単たん に選えら ばないのではなく、避さ けるべきものとして遠とお ざける点てん を含ふく む。
用法ようほう 二字にじ がともに「さける」 を表あらわ す同義どうぎ の重かさ ね語ご である。法律ほうりつ 用語ようご としては裁判さいばん 官かん を排除はいじょ する手続てつづ きを指さ すが、評ひょう 論文ろんぶん では〈嫌きら って避さ ける〉という一般的いっぱんてき な意味いみ で使つか う。入試にゅうし 文ぶん では、宗教的しゅうきょうてき な戒律かいりつ に従したが って特定とくてい の食材しょくざい を忌避きひ する例れい が挙あ げられ、それが肉体にくたい レベルで他者たしゃ 化か されることへの恐怖きょうふ と結むす びつけられている。☑87 禁忌きんき と近ちか いが、禁忌きんき が社会しゃかい の定さだ めであるのに対たい し、忌避きひ は避さ ける行為こうい そのものを指さ す。
用例ようれい
人間にんげん の心こころ には互たがい に矛盾むじゅん した二ふた つの感情かんじょう がある。もちろん、誰だれ でも他人たにん の不幸ふこう に同情どうじょう しない者もの はない。ところがその人ひと がその不幸ふこう を、どうにかして切き りぬける事こと が出来でき ると、今度こんど はこっちで何なに となく物もの 足た りないような心こころ もちがする。芥川あくたがわ 龍之介りゅうのすけ 『鼻はな 』(1916)
忌避きひ の底そこ にある心こころ の動うご きを、短編たんぺん 一本いっぽん で解剖かいぼう した一節いっせつ である。芥川あくたがわ はこれを「傍観者ぼうかんしゃ の利己りこ 主義しゅぎ 」 と呼よ んだ。注目ちゅうもく したいのは、同情どうじょう が先さき に置お かれている ことだ。冷つめ たいから避さ けるのではない。同情どうじょう していた相手あいて が不幸ふこう を脱だつ すると物もの 足た りなくなる という、もっと厄介やっかい な構造こうぞう が指さ されている。誰だれ かを不幸ふこう な位置いち に置お いておきたい というこの欲望よくぼう が、忌避きひ の対象たいしょう を作つく り続つづ ける。1-7 の 155 のマイノリティーが解消かいしょう されずに再生産さいせいさん される仕組しく みを、この一段落いちだんらく は心理しんり の側がわ から説明せつめい している。
隠かく せ。隠かく しおおせるものならば、この生涯しょうがい を隠かく しおおせ。……それが父ちち の遺言ゆいごん であった。島崎しまざき 藤村とうそん 『破戒はかい 』(1906)の主旨しゅし による
忌避きひ される側がわ から見み た忌避きひ を書か いた作品さくひん の芯しん である。被ひ 差別さべつ 部落ぶらく に生う まれた主人公しゅじんこう が出自しゅつじ を隠かく して教師きょうし になり、最後さいご に告白こくはく する までを描えが く。注目ちゅうもく したいのは、遺言ゆいごん が「隠かく せ」だった ことだ。父ちち もまた隠かく して生い きた のであり、忌避きひ は世代せだい を越こ えて受う け渡わた される 。そして隠かく すという行為こうい が忌避きひ の正ただ しさを毎日まいにち 認みと めることになる — 隠かく す価値かち のあるものだと自分じぶん でも認みと めてしまう。08 で見み た自発的じはつてき な同化どうか が、ここでは沈黙ちんもく という形かたち をとっている。
危険きけん が科学的かがくてき に否定ひてい されたあとも、忌避きひ は容易ようい には消き えない。
この語ご の使つか いどころ である。忌避きひ は判断はんだん ではなく感情かんじょう だから、情報じょうほう を足た しても直接ちょくせつ には動うご かない 。1-4 の 84 のタブーと同おな じ層そう にあり、合理ごうり の言葉ことば が届とど かない ことこそがこの語ご の指さ す事態じたい である。
×人混ひとご みを忌避きひ して早朝そうちょう に出で かけた。
単たん なる好す き嫌きら いには使つか わない 。避さ けるだけなら「避さ けて」「嫌きら って」 で足た りる。忌避きひ は「忌き む」=穢けが れたものとして遠とお ざける という強つよ い語ご で、けがれ・不吉ふきつ さの含ふく み を持も つ。その含ふく みが要い らない場面ばめん では使つか わない のが原則げんそく である。
派生はせい 形けい
忌むいむ [2] 和わ 語ご の動詞どうし 。穢けが れとして避さ ける・慎つつし む 。「忌き み言葉ことば 」「忌明きあ け」のように喪も と神事しんじ の語彙ごい に広ひろ く残のこ っている。宗教的しゅうきょうてき な由来ゆらい を知し っておくと、この語ご の重おも さが分わ かる。
忌憚きたん [0] 「忌憚きたん のない」の形かたち でほぼ固定こてい して使つか う。遠慮えんりょ すること の意い で、忌避きひ より軽かる い 。同おな じ「忌き 」の字じ でも穢けが れの含ふく みが抜ぬ けている ところに、語ご の摩耗まもう が見み える。
回避かいひ [0] 中立ちゅうりつ な語ご 。不ふ 都合つごう を避さ ける という実務じつむ 的てき な意味いみ で、感情かんじょう の色いろ が無な い 。「リスク回避かいひ 」は自然しぜん だが「リスク忌避きひ 」は不自然ふしぜん である。穢けが れの含ふく みの有無うむ が共起きょうき 語ご を決き めている。
コロケーション
忌避きひ される存在そんざい 受う け身み で書か く語ご この語ご がほとんど受う け身み で使つか われる のは、誰だれ が避さ けているのかが特定とくてい できない からだ。一人ひとり ひとりに聞き けば「私わたし は偏見へんけん を持も っていない」 と答こた える。それでも避さ けられている。1-7 の 151 の構造的こうぞうてき な差別さべつ という語ご が必要ひつよう になるのは、まさにこの場面ばめん である。
忌避きひ 感かん 感情かんじょう として名指なざ す語ご 理屈りくつ にならない嫌悪けんお を一語いちご にしたもの。この語ご が便利べんり なのは、正当化せいとうか を求もと めずに事実じじつ として置お ける点てん にある。ただし危あや うさもある — 感情かんじょう として認みと めた瞬間しゅんかん 、「仕方しかた ないもの」として扱あつか われかねない 。記述きじゅつ と容認ようにん は違ちが う ことを文章ぶんしょう のどこかで示しめ す必要ひつよう がある。
忌避きひ と畏怖いふ 同おな じ根ね から出で る語ご 避さ けることと畏い れ敬うやま うこと は同おな じ根ね を持も つ。「忌き 」の字じ はもともと神事しんじ で慎つつし むこと を指さ した。触ふ れてはならないものは、穢けが れているものでも聖せい なるものでもありうる 。1-4 の 84 のタブーが両方りょうほう を一語いちご で指さ す のと同おな じ構造こうぞう である。
忌避きひ を乗の り越こ える難所なんしょ を含ふく む言い い方かた この言い い方かた にはひとつ罠わな がある — 乗の り越こ えるべきものは誰だれ の側がわ にあるのか 。避さ けられる側がわ が努力どりょく する話はなし になれば、負担ふたん の押お しつけ になる。主語しゅご を避さ ける側がわ に置お けているか で、その文章ぶんしょう の立場たちば が分わ かる。
格かく 硬かた 書か き言葉ことば 。会話かいわ では不自然ふしぜん 。
類るい 語ご と差さ
回避かいひ うまくよけて通とお る 結果けっか として避さ ける。忌避きひ は嫌いや うという感情かんじょう を含ふく む。
禁忌きんき 慣習かんしゅう として禁きん じられている☑87。社会しゃかい が定さだ めたもの。忌避きひ は個人こじん の行為こうい 。
敬遠けいえん 敬うやま いながら遠とお ざける距離きょり を置お く理由りゆう が敬意けいい にある点てん が違ちが う。
排除はいじょ 外そと へ出だ す対象たいしょう を場ば から出だ す。忌避きひ は自分じぶん が近ちか づかない。
EN avoidance / aversionZH 忌避(忌避, jìbì)
12 読解どっかい
契機けいき
けいき [1] け い き 頭高あたまだか 型がた
語ご 構成こうせい
契 ちぎる・きざむ + 機き はずみ・おり
哲学てつがく ではドイツ語ご Moment の訳語やくご 。〈不可欠ふかけつ な構成要素こうせいようそ 〉の意い になる。
使用しよう の境界きょうかい きっかけ。哲学てつがく では、全体ぜんたい を成な り立た たせている不可欠ふかけつ な要素ようそ という意味いみ でも使つか う。
用法ようほう 二ふた つの層そう がある。①日常にちじょう ・実務じつむ のきっかけ (「〜を契機けいき に」)。②哲学てつがく の不可欠ふかけつ な構成要素こうせいようそ (ドイツ語ご Moment の訳語やくご )。入試にゅうし 文ぶん の「身体しんたい ないし生命せいめい という契機けいき 」は②に近ちか く、〈この問題もんだい を成な り立た たせている不可欠ふかけつ の要素ようそ 〉という意味いみ である。①で読よ むと通つう じないので、文脈ぶんみゃく で判定はんてい する。「〜を契機けいき として」は硬かた い接続せつぞく 表現ひょうげん で、報道ほうどう ・論文ろんぶん でよく使つか われる。読よ みが問と われることもある。
用例ようれい
精神せいしん の生せい とは、死し を怖こわ れて荒廃こうはい を免めん れている生せい ではなく、死し に耐た え、死し のなかで自己じこ を維持いじ する生せい である。……精神せいしん は、否定的ひていてき なものを見み つめ、そこに留と まることによって力ちから を得え る。ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル『精神せいしん 現象学げんしょうがく 』序文じょぶん (1807)/訳やく は本ほん 教材きょうざい
契機けいき という語ご の哲学てつがく での使つか われ方ほう がここに集あつ まっている。ヘーゲルの Moment は「瞬間しゅんかん 」ではなく「全体ぜんたい を成な り立た たせている一いち 要素ようそ 」 だ。否定ひてい は邪魔者じゃまもの ではなく、全体ぜんたい に組く み込こ まれた一ひと つの契機けいき である。だから避さ けるのではなく通とお り抜ぬ ける 。「死し のなかで自己じこ を維持いじ する」という難むずか しい言い い方かた が指さ すのは、否定ひてい されたまま消き えるのでなく、否定ひてい を含ふく んだ形かたち で次つぎ の段だん へ行い く ことである。1-5 の 113 の弁べん 証しょう 法ほう が正せい ・反はん ・合ごう と整理せいり されるとき、「反はん 」にあたるのがこの契機けいき だ。日本語にほんご の「きっかけ」からは遠とお く見み えるが、どちらも「それが無な ければ次つぎ が来こ ない」 という一点いってん で通つう じている。
激水げきすい の疾しつ くして石いし を漂ただよ はすに至いた る者もの は、勢いきおい なり。……其そ の勢いきおい は険けん に、其そ の節せつ は短たん し。『孫子そんし 』兵勢へいせい 篇へん
契機けいき を時間じかん の側がわ から言い い当あ てた一節いっせつ である。流なが れの速はや い水みず が石いし まで動うご かす — それは水みず が強つよ いからではなく勢いきおい いが載の っているから だ。そして「節せつ は短たん し」。その勢いきおい いが効き く一点いってん の間合まあ いは極きわ めて短みじか い 。契機けいき という語ご が「きっかけ」と訳やく されるとき に効き いてくるのがこの面めん である — 同おな じ出来事できごと でも、来く る時とき が違ちが えば何なに も起お こさない 。契機けいき とは出来事できごと の性質せいしつ ではなく、出来事できごと と受う け取と る側がわ の状態じょうたい との合致がっち だ。評ひょう 論文ろんぶん で「〜を契機けいき として」と書か かれたら、なぜその時とき だったのか まで問と うと読よ みが深ふか くなる。
敗戦はいせん を契機けいき として、この語ご は意味いみ を大おお きく変か えた。
いちばん多おお い使つか い方かた である。「〜を契機けいき として」は転換点てんかんてん を示しめ す定型ていけい だ。注意ちゅうい したいのは、契機けいき は原因げんいん ではない こと。敗戦はいせん が意味いみ を変か えたのではなく、変か わる用意ようい ができていたものが敗戦はいせん で表ひょう に出で た と読よ むほうが正確せいかく なことが多おお い。
×大おお きな契機けいき があって会社かいしゃ を辞や めた。
通つう じるが、「きっかけ」で足た りる 。契機けいき は硬かた い漢語かんご なので、日常にちじょう の出来事できごと に使つか うと文ぶん が上うえ ずる 。また哲学てつがく の文脈ぶんみゃく では「全体ぜんたい を構成こうせい する一いち 要素ようそ 」 の意い になり、きっかけとは別語べつご である。どちらの意味いみ かは、「〜を契機けいき として」の形かたち かどうか でおおむね見分みわ けられる。
派生はせい 形けい
契ちぎり [0] もとの字義じぎ 。「契」は刻きざ んで約束やくそく する意い で、「契約けいやく 」の契と同おな じ。機き (はずみ・からくり) と合あ わさって結むす び目め としての瞬間しゅんかん を指さ すようになった。字じ を割わ ると語ご の像ぞう が立た つ。
動機どうき [0] 混同こんどう しやすい語ご 。動機どうき は行為こうい する側がわ の内ない にある理由りゆう で、契機けいき は外そと から来き たきっかけ 。「動機どうき 」は本人ほんにん に帰属きぞく し、「契機けいき 」は出来事できごと に帰属きぞく する — 責任せきにん を論ろん じる文章ぶんしょう ではこの差さ が効き く。
モメント [1] 原語げんご のままの形かたち 。ヘーゲルの Moment を「契機けいき 」と訳やく さずそのまま使つか う ことがある。「瞬間しゅんかん 」という日常にちじょう の意味いみ との混同こんどう を避さ けたい ときに選えら ばれる。訳語やくご と原語げんご の使つか い分わ けは、1-6 の 133 でも見み た問題もんだい である。
コロケーション
〜を契機けいき として最もっと も多おお い形かたち 転換点てんかんてん を示しめ す定型ていけい 句く 。この形かたち が便利べんり なのは、因果いんが を断定だんてい しないで済す む からだ。「〜が原因げんいん で」と書か けば証明しょうめい の責任せきにん が生しょう じるが、「〜を契機けいき として」なら時期じき の一致いっち を示しめ すだけ で通とお る。便利べんり さはそのまま曖昧あいまい さでもある ので、読よ むときは本当ほんとう に因果いんが があるのか を確たし かめたい。
重要じゅうよう な契機けいき 評価ひょうか を添そ える形かたち 「重要じゅうよう な」を付つ けると数かず ある契機けいき の一ひと つ だという含ふく みが立た つ。これは書か き手て にとって安全あんぜん な言い い方かた だ — 唯一ゆいいつ の原因げんいん だとは言い っていない 。歴史れきし を論ろん じる文章ぶんしょう がこの形かたち を好この む のは、単一たんいつ 原因げんいん の説明せつめい がほぼ必かなら ず反証はんしょう される ことを知し っているからである。
内的ないてき 契機けいき 外そと との対たい で使つか う語ご 外そと から来き た出来事できごと ではなく、そのものの内側うちがわ にすでに含ふく まれていた要素ようそ 。ヘーゲル由来ゆらい のこの用法ようほう では、変化へんか は外そと の衝撃しょうげき で起お きるのではなく、内ない に畳たた まれていたものが開ひら くこと になる。1-6 の 119 で見み た内ない 発はつ /外発がいはつ の対たい とそのまま重かさ なる。
契機けいき を捉とら える時間じかん の語ご として使つか う形かたち 『孫子そんし 』の「節せつ は短たん し」がそのまま生い きる言い い方かた 。同おな じ手て が、早はや すぎても遅おそ すぎても効き かない 。この言い い方かた が評ひょう 論文ろんぶん より実務じつむ や戦略せんりゃく の文章ぶんしょう に多おお い のは、行為こうい する側がわ の語彙ごい だからだ。読解どっかい では誰だれ が捉とら える側がわ にいるのか を見み ると、文章ぶんしょう の立た ち位置いち が分わ かる。
格かく 硬かた 書か き言葉ことば 。会話かいわ では不自然ふしぜん 。
類るい 語ご と差さ
きっかけ 物事ものごと の始はじ まる糸口いとぐち 訓読くんどく み。日常にちじょう 語ご 。契機けいき は文章ぶんしょう 語ご で、より重おも い。
要因よういん 結果けっか に関かか わる要素ようそ 原因げんいん の一部いちぶ 。契機けいき は変化へんか の起点きてん という時間的じかんてき な位置いち を言い う。
端緒たんしょ 物事ものごと の始はじ まりの糸口いとぐち 始はじ まりに重心じゅうしん がある。契機けいき は変化へんか を引ひ き起お こす力ちから を含ふく む。
モメント 不可欠ふかけつ な構成要素こうせいようそ 哲学てつがく の訳語やくご としての契機けいき はこちら。弁べん 証しょう 法ほう (☑113)で使つか われる。
EN moment / occasionZH 契机(契機・きっかけ, qìjī)
格による分布 硬・学術、硬、中の三段階に本節の語を振り分けた図。
硬・学術
3
他者
他者性
再帰
硬
5
固有性
属性
逡巡
忌避
契機
中
4
自己
主体性
同化
受動
語は意味ではなく格で選ぶ
格かく による分布ぶんぷ
入試にゅうし にチャレンジ
他者たしゃ の同化どうか と、他者たしゃ への同化どうか
他者の同化と、他者への同化 他者を取り込んで自己を維持することと、取り込むことで自己が他者化されることという、同じ行為の二つの向きを示した図。
食べる・呼吸する
他者「の」同化
自己
他者
他者を取り込んで自己を維持する
他者「へ」の同化
自己
他者
自己が絶えず他者化される
同時に
自己を保つための行為が、そのまま自己を変える行為でもある。
助詞の「の」と「へ」で、向きが逆になる ── ここが設問である
助詞じょし の「の」と「へ」で、向む きが逆ぎゃく になる
本文ほんぶん
言い うまでもなく、人間にんげん は一いち 個こ の身体しんたい として、あるいは生命体せいめいたい として存在そんざい している。アイデンティティを他者たしゃ 性せい との関係かんけい で捉とら えるとき、この身体しんたい という次元じげん を無視むし することはできないだろう。あたりまえの話はなし だが、ぼくらは自己じこ の外部がいぶ から酸素さんそ や水分すいぶん 、栄養えいよう などを絶た えず摂取せっしゅ しなければ生い きられない存在そんざい である。身体しんたい ないし生命せいめい としての「私わたし 」を維持いじ するために、いつも外部がいぶ から「他者たしゃ 」を取と り込こ まなければならない、という逆説ぎゃくせつ 。だが、そのように他者たしゃ を取と り込こ むということは、同時どうじ に自己じこ が絶た えず他者たしゃ 化か されることでもある。毒どく ガスや毒物どくぶつ という致命的ちめいてき な「他者たしゃ 」を摂取せっしゅ して、文字もじ どおり身体しんたい が破壊はかい されてしまうのは、そのような他者たしゃ 化か の極端きょくたん な例れい である(宗教的しゅうきょうてき に厳格げんかく な人々ひとびと がその戒律かいりつ に則そく ってある種しゅ の食材しょくざい を忌避きひ する際さい にも、自みずか らがまさしく肉体にくたい レベルで「他者たしゃ 化か 」されることへの恐怖きょうふ があるにちがいない)。ぼくらはひとつの身体的しんたいてき 存在そんざい として、そのような他者たしゃ の同化どうか および他者たしゃ への同化どうか という一見いっけん 奇妙きみょう な事態じたい を、日々ひび 生い きているのだ。あるいは、ぼくらはそういう身体的しんたいてき 存在そんざい として、自みずか らの内部ないぶ を未知みち の不ふ 確定かくてい な「外部がいぶ 」へとつねにすでに開ひら いてしまっているのである。
さらに、身体しんたい ないし生命せいめい という契機けいき が「アイデンティティ/他者たしゃ 性せい 」という問題もんだい にとって重要じゅうよう だと思おも えるのは、それがぼくらの存在そんざい につきまとう、ある「受動性じゅどうせい 」を特徴的とくちょうてき に示しめ していると思おも えるからである。
詩人しじん ・吉野よしの 弘ひろし の作品さくひん に「I was born」というよく知し られた印象いんしょう 的てき な散文さんぶん 詩し がある。「英語えいご を習なら い始はじ めて間あいだ もない頃ころ 」の「少年しょうねん 」とその「父ちち 」の対話たいわ を軸じく にした作品さくひん である。ある夏なつ の夕方ゆうがた 、少年しょうねん は父ちち と一緒いっしょ にどこかの寺じ の境内けいだい を歩ある いている。すると、むこうから妊婦にんぷ がゆっくりと歩ある いてくる。少年しょうねん は思おも わずその妊婦にんぷ の腹はら に視線しせん をとどめ、そこにうずくまっている胎児たいじ のことを想像そうぞう し、やがてその胎児たいじ が生う まれてくる不思議ふしぎ さに打う たれる。そのとき少年しょうねん は、生う まれるということがまさしく「受う け身み 」である理由りゆう をふと了りょう 解かい する。少年しょうねん は興奮こうふん して父ちち に話はな しかける。
――やっぱり I was born なんだね―― 父ちち は怪訝けげん そうに僕ぼく の顔かお をのぞきこんだ。僕ぼく は繰く り返かえ した。 ――I was born さ。受身うけみ 形けい だよ。正ただ しく言い うと人間にんげん は生う まれさせられるんだ。 自分じぶん の意志いし ではないんだね――
出典しゅってん 細見ほそみ 和之かずゆき 『アイデンティティ/他者たしゃ 性せい 』 / 出題しゅつだい 九きゅう 州しゅう 大学だいがく ・教育学きょういくがく 部ぶ ・法学部ほうがくぶ ・経済学部けいざいがくぶ
存在の受動性 生まれることが能動形では言えず受身形でしか言えないという、存在の受動性を示した図。
I bore myself
自分の意志で生まれる
こうは言えない
I was born
生まれさせられる
受身形でしか言えない
自分の意志ではない。これが存在につきまとう受動性である。
身体の他者性も、食べることの構造も、同じ受動性の上にある。
文法の形が、そのまま存在の条件を示している
存在そんざい の受動性じゅどうせい
ヒント 自己じこ がコントロールできない状況じょうきょう に置お かれるということ。
問とい 傍線ぼうせん 部ぶ 「そのような他者たしゃ の同化どうか および他者たしゃ への同化どうか という一見いっけん 奇妙きみょう な事態じたい 」とあるが、どういうことか。「他者たしゃ の同化どうか 」と「他者たしゃ への同化どうか 」との違ちが いに留意りゅうい し、その「奇妙きみょう な事態じたい 」の意味いみ 内容ないよう を答こた えよ。(オリジナル問題もんだい )
正解せいかい と解説かいせつ
(例れい )他者たしゃ を取と り込こ むことによって、自己じこ は自己じこ として維持いじ されるが、それは同時どうじ に、絶た えず自己じこ を他者たしゃ 化か することでもあるということ。
「他者たしゃ の同化どうか 」とは、他者たしゃ が「自己じこ に同化どうか する」ことであり、「外部がいぶ から『他者たしゃ 』を取と り込こ む」ことで、「自己じこ を維持いじ する」こと。
一方いっぽう 、「他者たしゃ への同化どうか 」は「自己じこ が絶た えず他者たしゃ 化か される」ことだ。
これらの内容ないよう を両者りょうしゃ の違ちが いがわかるようにまとめればよい。