Theme 2-1

自己/他者

[ 原書 第2部 テーマ編 2-1 ]

加筆語彙 12 / Key Point 2 / 図版 9

Macro — 論の流れ

「自分らしさ」が問い直されるまで

自己/他者論の流れ近代以前から近代的個人の誕生を経て、自分らしさの追求と苦悩、自己の問い直し、他者による自己の成立、複数の自己へと至る六段階を示した図。 近代以前の人々 社会が生き方を決定する 近代的個人の誕生 自由な生き方が可能になる 「自分らしさ」の追求と苦悩 多様であるがゆえに、自分を見失いやすい 属性や役割からは、自己は説明しきれない 「自己」の問い直し 「自分らしさ」などというものはない 自分の主体性も他者の影響を受けている 「自己」は「他者」によってつくられる 他者がいるからこそ自己を意識する 「自己」は一つではなく、複数である
近代以前から複数の自己へ ── 六つの段階

この主題は一本の流れでできている。近代以前、生き方は社会が決めていた。近代になって自由が与えられ、そこで初めて「自分らしさ」という問いが生まれた。しかし属性を並べても〈私〉には届かず、主体性にも他者の影響が入り込んでいる。そこで自己は他者との関係の産物だとされ、さらにその自己は一つではなく複数だ、というところまで進む。各段階が前の段階を否定して次へ進むので、途中の主張を最終的な結論だと読むと設問を落とす。

原書の本文

三つの段階

「自分らしさ」はどこにある?

身分制社会を生きた近代以前の人々は、「自分らしさ」について悩む必要はなかった。身分制社会では生まれた時から生き方の道筋は決まっており、現代の我々のように、将来の自分について考える余地などなかったのだ。

人々に、自己の利益を自由に追求する生き方が許されるようになるのは、近代に入ってからのことである。しかし、生きる選択肢が複数あることは、同時に迷いの原因にもなる。とくにライフスタイルの多様化が進んだ現代社会では、多くの人が「自分らしい生き方」を求めながらも、多様な選択肢を前に逡巡している。

だが、そもそも「自分らしさ」とは一体何だろうか。

自己紹介をして、「自分らしさ」を説明するのは案外難しい。たとえば、○○高校の三年生、△△家の長男といった属性や、××会社の部長という肩書きを並べても、〈私〉を説明し尽くしたことにはならないだろう。

さらに、自分の主体性や主観といっても、そこには親の考えや、社会・時代の影響などが入り込んでいるはずだ。とすれば、ますます自分らしさや自己の固有性というものに対する疑いが増してくる。

このように、「自分らしさ」や「自己の固有性」を問い直すことが、「自己」や「私」を論じる評論文の基本スタンスとなっている。

自己は関係の織物である属性や役割の集積として自己を捉える見方と、他者との関係の織物として捉える見方を対比した図。 説明しきれない見方 高校三年生長男 部長主体性・主観 〈私〉 足しても届かない 関係の織物という見方 縦糸も横糸も、他者との関係である 「自分は一人の他者なのだ」── ランボー
属性の集積では、〈私〉に届かない

自己は他者によってつくられる

では、自己とはどのようにとらえることができるのか。ここでキーワードになるのが「他者」の存在だ。

「他者」とは、自己にとって鏡のようなものである。たとえば、歩いていて誰かにぶつかる。その時、他者にぶつかったことで、ぶつかった自分がいることがわかる。また、他者と話をしていて、今まで気づかなかった自分の性格がわかる。このように、他者がいて初めて自己がわかると言うことができるのだ。

『旧約聖書』の中で、アダムとイブが「知恵の実」を食べて知恵をつけた。すると、互いに裸であることを恥ずかしいと思って、イチジクの葉で体を隠したという。この場合の「知恵」とは、自己と他者との関係についての意識のことだ。自己という意識が生まれ、同時に「他者」の存在を知る。「恥ずかしい」というのは、他者がいなければもち得ない感情なのだ。人間は、他者の目に自己が映るのを見て、自己の存在を知り、自我をもつ。逆に言えば、他者がいなければ自己もないのである。

このように考えると、「自己」とは、さまざまな他者との関係の織物なのだという見方もできるだろう。ランボーという詩人は「自分は一人の他者なのだ」とも言っている。

他者は鏡である他者にぶつかったり話したりすることで、初めて自己が分かるという関係を示した図。 自己 他者 ぶつかる・話す 自己が映って返ってくる ぶつかって初めて、ぶつかった自分がいることが分かる。 話していて初めて、気づかなかった自分の性格が分かる。 他者がいなければ、自己もない
他者は鏡である

「真の自己」から「複数の自己」へ

さらに、他者によってつくられる自己といっても、それは複数の自分を統括するような「真の自己」ではない、という議論があることも知っておこう。

我々は、学校の中の自分、友達といる時の自分、家族の中の自分というように、場面に応じてさまざまな自分を使い分けているが、ついついそれらを一元管理する「真の自己」というものを想定しがちだ。しかし、そのような「真の自己」もまた、「自分らしさ」と同じように、近現代的な思考の産物にほかならない。

複数の他者と出会う我々は、その都度、複数の自分を生きているのである。

複数の他者と複数の自己四人の他者それぞれに応じて、四つの異なる自分が現れることを示した図。 他者A他者B 他者C他者D 自分a自分b 自分c自分d 「真の自己」 複数を統括する一つの自分 これもまた、近現代的な 思考の産物にほかならない。 その都度、複数の自分を生きている 使い分けているのではない。もともと複数なのである。
複数の他者と、複数の自己
Key Point

二つの要点

Key Point 1 ── 自己の他者性

「他者」を自分の意のままにならない者だととらえると、自分自身の内にもまた「他者性」が宿っている。

たとえば、私たちは、自分の身体は自分のものだと思っている。しかし、身体は、本当に自分のものだと言えるだろうか。内臓は自分で意識的に動かすことはできないし、病気にもかかる。スポーツをしている時に、体が勝手に動き出すこともあれば、思い通りに体を動かせないこともある。このように、身体は他者性をもっていると言うことができる。

では、心はどうか。無意識という言葉があるように、自分でもよくわからない、コントロールできない心の動きが生じることは、経験したことがあるだろう。勉強しなければならないとわかっていながら遊んでしまう。このように、心もまた他者性をもっているのだ。

自己の内なる他者性他者を意のままにならない者と規定すると、自分の身体と心にも他者性が見つかることを示した図。 他者 = 自分の意のままにならない者 この規定を取ると 自己 身体 内臓は動かせない 病気にかかる 無意識が働く 分かっていて遊ぶ どちらも意のままにならない 「自分のもの」だと思っていたものが、自分に属しきっていない。 他者性は、外にあるとは限らない
他者性は、外にあるとは限らない
Key Point 2 ── 再帰的自己

封建社会では、自分の役割や位置は共同体や親によって生まれつき決められていたため、「自分探し」などは必要なかった。ところが、近代になり、個人は、昔の自分を反省しながら、自分のあり方を絶えず更新していかなければならなくなった。

こうしたことについて、イギリスの社会学者アンソニー・ギデンズ(一九三八年〜)は、「自己は再帰的なプロジェクトであり、個人はその責任を負う」と述べている。「再帰」というのは、自己の行為の結果が、ブーメランのように自己に戻ってくることだ。このような考えのもとでは、自己決定・自己責任を強いられ、息苦しくて「自分探し」のようなワクワク感がなくなってしまうかもしれない。

ちなみに、「再帰的近代化〈=自己の行為についての反省によって、現在・未来のあり方が影響を受けること〉」という言葉も生まれている。

再帰的自己封建社会では位置が生まれつき決まっていたのに対し、近代では自分のあり方を絶えず更新し続けなければならなくなったことを示した図。 封建社会 共同体・親 自分の位置 生まれつき決まっている ── 自分探しは要らない 近代 自己 結果が返る 反省する 昔の自分を反省しながら、自分のあり方を絶えず更新する しかも、その責任は自分が負う 「自分探し」はワクワクした冒険ではなく、終わらない作業になる
再帰 ── 結果が自分へ返ってくる
Terms — 本サイトによる加筆

この主題を読むための十二語

原書のキーワード番号は付されていない層である。概念語九つと、本文・入試文に現れる読解語彙三つを補う。

01概念

他者たしゃ

たしゃ[1]頭高型

語構成
ほかもの・ひと
使用の境界

自分の意のままにならない存在。単に「自分以外の人」ではなく、思い通りにならないという性質を含む。

用法

評論文の「他者」は「他人」とは別語として読む。要点は〈自分の意のままにならない〉という規定にあり、この定義を取ると、自分の身体や心も他者になりうる(自己の他者性)。また他者は自己を映す鏡でもあり、ぶつかって初めて自分がいることが分かる。したがって他者は自己の外側にある障害ではなく、自己を成り立たせている条件である。この転換が主題全体の骨格になる。

用例
  • 人間は〈なんじ〉に接して〈われ〉となる。マルティン・ブーバー『我と汝』(1923)/訳は本教材
    この主題全体を一行に畳んだ命題である。仕掛けは語順にある。普通なら「われ」が先にいて、そのあとで「なんじ」に出会う。ブーバーはそれを逆にした — 「なんじ」に触れることで、はじめて「われ」が立ち上がる。だから他者は自己の外にある障害物ではない自己が成り立つための条件である。もうひとつ見ておきたいのは、ブーバーが〈われ─それ〉という別の関係も立てていることだ。相手を用途で見た瞬間、相手は「それ」になる。同じ人物が、こちらの構え次第で「なんじ」にも「それ」にもなる — 他者とは、相手の属性ではなく関係の名前だということが、ここから分かる。
  • 人間は「世の中」であるとともにその世の中における「人」である。だからそれは単なる「人」ではないとともにまた単なる「社会」でもない。和辻哲郎『人間の学としての倫理学』(1934)
    「人間」という日本語の二字を割って、そこに議論を建てた一節である。「人」と「間」— この語はもともと個体だけを指していない。和辻の主張は、個人が先にあって集まって社会になるのでも、社会が先にあって個人を作るのでもないということだ。両方が同時に、たがいを条件として成り立つ。この見方を取ると、他者は自己の反対物ではなくなる。1-6 の 123 で見たように、近代は個人を単位として切り出した。その切り出しが見えなくしたものを、和辻は日本語の語構成から拾い上げようとしている。
  • 他者とは、自分の意のままにならない者のことである。この規定を取れば、自分の身体も心も他者になりうる。 定義から先へ進む型である。「自分以外の人」と定義するとそこで話が終わる。「意のままにならない者」と定義すると、定義が自分の内側にも及ぶ。02 の他者性は、この一歩から生まれる。
  • ×電車で他者に足を踏まれた。 日常の場面なら「他人」「知らない人」である。評論語の他者は自己の成立に関わるものとして重く使う語で、単に自分でない人を指す語ではない「他人」に置き換えて意味が変わらないなら、その文に他者は要らない — これが見分けの目安になる。
派生形
  • 他者性たしゃせい[0]02 で立てる語。「性」を付けると人から離れて性質だけになるので、自分の内側にも見いだせるようになる。接尾辞ひとつで射程が変わる例。
  • 他者化たしゃか[0]操作を言う語。ある集団を「我々ではないもの」として括り出すこと。1-4 の 75 の自文化中心主義が実際に手を動かす場面がこれにあたる。他者との出会いとは向きが逆で、ほぼ批判の文脈で使う。
  • 他性たせい[1]より硬い形。哲学の訳語として使われ、他者性よりも抽象の度が高い。人に限らず物や出来事の「こちらに還元されなさ」を指せるのが利点である。
コロケーション
  • 他者との出会い出来事として書く語「他者がいる」ではなく「出会う」と書かれるのには理由がある。そこにいるだけでは他者にならないからだ。こちらの予期が破られ、思い通りにならなかった瞬間にはじめて他者として現れる。だからこの語は状態ではなく出来事の語彙で書かれる。
  • 他者の視線自己を作る目見られることで、自分が「見られうるもの」だと知る。この結びつきが重いのは、視線がこちらの内側まで届くからだ。見られていると気づいた途端、姿勢が変わり、声が変わる。2-2 の 03 の像は、この視線が身体に及んだ形である。
  • 他者を理解するできなさを含む語この言い方が評論文で出てくるときは、たいてい「できない」と続く。理解できてしまえば、相手はもう意のままにならない者ではなくなるからだ。理解の失敗が他者を他者として保つというこの逆説を掴めるかどうかで、この語の読みの深さが決まる。
  • 他者の他者位置を入れ替える語自分もまた、誰かにとっての他者であるという気づき。この一手が入ると、他者を「向こう側」に固定する構えが崩れる。1-7 の 154 で見たマジョリティーの無自覚とも重なる — 自分を見られる側に置き直せるかどうかが、この主題の試金石になる。
硬・学術

論文・評論でのみ使う。会話では不自然。

類語と差
  • 他人自分以外の人日常語で、しばしば「関係のない人」の含みをもつ。他者は関係があることを前提とし、そのうえで意のままにならないものを指す。
  • 相手向かい合う人場面ごとの位置。他者は存在の性質を言う語で、哲学的な重みをもつ。
  • 異質なもの性質が違うもの違いの記述。他者は違いに加えて、こちらの理解を超えているという含みをもつ。
  • 自己自分対語。ただし対立するのではなく、他者があって初めて自己が成り立つという関係にある。

ENthe Other
ZH他者(他者, tāzhě)

日中のズレ

中国語の 他者(tāzhě)は哲学の訳語としては通じるが、日常語ではほとんど使わない。

日常で「他人」を言うときは 别人(biérén) を用いる。日本語の「他人/他者」の使い分けに対応する語の対はない。

02概念

他者性たしゃせい

たしゃせい[0]平板型

語構成
他者意のままにならない存在そのような性質
使用の境界

意のままにならないという性質。人だけでなく、自分の身体や心についても言える。

用法

この主題で最も重要な派生語である。他者を〈意のままにならない者〉と規定した瞬間に、自分の内側にも他者性が見つかる。内臓は意識で動かせず、身体は病気にかかり、心は無意識に動く。つまり「自分のもの」だと思っていたものが、実は自分に属しきっていない。ここから自己は一枚岩ではなくなり、「真の自己」という想定が崩れる。読解では、この語が出たら自己の内側の話に転じる合図だと読む。

用例
  • 不気味なものとは、かつて親しかったもの、古くから馴染んできたものにほかならない。ジークムント・フロイト『不気味なもの』(1919)/訳は本教材
    他者性が外からではなく内から来ることを示した一節である。ドイツ語の unheimlich(不気味な)はheimlich(親しい・家庭的な)の否定形だが、フロイトはこの二語が実は同じところへ行き着くことを見つけた。恐ろしいのはまったく未知のものではない。知っていたはずのものが見知らぬ顔をした瞬間である。鏡に映った自分の顔を長く見つめていると他人に見えてくる、あの感覚だ。他者性は距離の関数ではない — 近ければ薄まるのではなく、いちばん近いところで最も濃く現れることがある。「自己の他者性」というこの主題の要が、ここに掴まれている。
  • まれびとの原義は、神を斎ふことであった。……村びとにとって、海のあなたから来る者は、畏るべきものであり、同時に祝福をもたらすものであった。折口信夫『古代研究』国文学篇(1929)
    他者性が恐れと祝福の両方をまとうことを示した一節である。折口の「まれびと」は外から来る者だ。注目したいのは、畏れと祝福が同じ一つの性質から出ていることである。こちらの秩序に属していないからこそ怖く、属していないからこそ新しいものをもたらせる。もし歓迎して仲間に入れてしまえば、畏れも消えるが、もたらす力も消える。08 の同化が何を失う操作なのかが、ここから逆算できる。1-4 の 84 の神話・タブーとも同じ地層でつながっている。
  • 自分の身体は、自分のものでありながら思い通りにならない。ここに他者性が現れる。 この主題でいちばん使う型である。眠ろうとして眠れない、止めようとして震えが止まらない — 命令の届かない場所が自分の内側にある。2-2 の身体論は、この一点から始まる。
  • ×彼の考え方は独特で、他者性がある。 「個性的だ」「独自だ」の言い換えとして使っている。評論語の他者性はこちらの理解や意のままにならないという性質を指し、珍しさや個性の度合いではない。珍しいだけならやがて理解でき、他者性は消える理解しても残るものがこの語の指す先である。
派生形
  • 異質性いしつせい[0]似て非なる語。異質性は性質が違うことで、比べれば記述できる。他者性は比べても汲みつくせないという含みを持つ。記述できるかどうかが分かれ目になる。
  • 疎外そがい[0]関係が切れる側の語。本来つながっていたものから引き離されること。他者性がもともと届かないことを言うのに対し、疎外は届いていたものが届かなくなったことを言う。元の状態を想定するかどうかで使い分ける。
  • 異化いか[0]技法としての語。見慣れたものをわざと見慣れないものとして差し出す手つき。他者性を意図的に作る操作であり、芸術と批評の基本の道具である。2-3 の 06 のデフォルメと同じ系統に属する。
コロケーション
  • 自己の他者性この主題の核自分のなかに、自分の言うことを聞かない部分があること。この結びつきが要になるのは、自己と他者の境界を内側へ折り返すからだ。身体、無意識、癖、そして自分でも説明できない選択。1-5 の 117 の無意識は、この他者性に心理学が与えた名である。
  • 他者性を消す批判される操作相手を理解可能な枠に収めてしまうこと。「あの人はああいう人だ」と言い切った瞬間に、相手はこちらの予期の中へ入る。親切に見えても、相手がこちらを裏切る余地を奪っている理解は、関係の達成であると同時に関係の終わりでもある
  • 他者性を引き受ける態度を言う語分からなさを解消せずに抱えたまま関係を続けること。この言い方が要るのは、分からないなら関わらないという選択がつねに開かれているからだ。引き受けるとは、分かった気にならずにそれでも隣にいることである。倫理の議論はここから始まる。
  • 他者性の縮減近代を批判する語制度や技術によって予測できない部分が削られていくこと。評価も、推薦も、マッチングも、意のままにならなさを減らす装置である。1-7 の 142 の消費社会と143 の情報社会が同じ方向へ働いていることが、この語で一息に言える。
硬・学術

論文・評論でのみ使う。会話では不自然。

類語と差
  • 異質性性質が異なること違いの度合い。他者性は制御できなさに重心がある。
  • 外部性外にあるという性質位置の話。他者性は内側にも宿りうる点が違う。
  • 受動性働きかけられる側であることこの主題では隣接する。他者性が受動性を生む。
  • 疎外自作物が逆に人を支配する☑21。自分のものが自分に逆らうという構造は共通する。

ENotherness / alterity
ZH他者性(他者性, tāzhěxìng)

03概念

自己じこ

じこ[1]頭高型

語構成
みずからおのれ
使用の境界

自分を自分として捉えたときの、その自分。単なる「私」ではなく、対象として立てられた自分を指す。

用法

評論文で「自己」が出たら、それは問い直される対象として置かれていると考えてよい。「自分らしさ」「自己の固有性」といった言い方が近代の産物であり、属性や肩書きを並べても説明し尽くせない、という論の流れが定型である。そのうえで、自己は他者との関係の織物であり、しかも一つではなく複数である、と展開する。日常語の「自己中心的」「自己満足」は別の層なので混同しない。

用例
  • 人は、その人を認め、その人の像を心に抱いている仲間の数だけの社会的自我をもつ。……人は、それらの集団のそれぞれに異なった顔を見せる。ウィリアム・ジェイムズ『心理学原理』第十章(1890)/訳は本教材
    「本当の自分は一つ」という前提を、心理学の側から崩した一節である。注意したいのは、ジェイムズがこれを不誠実だとは言っていないことだ。職場の顔と家の顔が違うのは使い分けているのではなく、そこに別の自我が成り立っている。そして数は「仲間の数だけ」自我の数は関係の数で決まるのである。ここから重い帰結が出る。関係が減れば、自己も減る。1-7 の 141 で見た大衆社会が孤立した個人を作るとき、失われているのは仲間だけではない。
  • 私は、いままで例のなかった、そしてこれからも真似する者のいないであろう仕事に取りかかる。……私は一人の人間を、ありのままの姿で人々に示したい。その人間とは、私である。ジャン=ジャック・ルソー『告白』第一巻(1782)/訳は本教材
    近代的な自己が自分について語りはじめた瞬間である。注目したいのは、「例がない」と自分で宣言していることだ。告白そのものはアウグスティヌス以来あったが、それは神に向かって語られた。ルソーは人々に向かって語る。聞き手が神から読者へ移ったのである。これは 1-6 の 120 で見た世俗化の文学における姿でもある。さらに皮肉なのは、「ありのまま」を示すために書物という形式が要ることだ。自己は語られることではじめて取り出せる — 07 の再帰は、この構造を扱う語である。
  • 自己は、属性の集まりでも役割の総和でもなく、他者との関係のなかでそのつど成り立つ。 この主題の結論にあたる型である。05 の属性をいくら並べてもその人にならない。職業も出身も年齢も他の誰かと共有できるからだ。共有できないものは関係の側にしかない
  • ×自己が強い人だから、意見を曲げない。 この文の「自己」は「我」「自我」の日常語である。評論語の 03 は他者との対で立てられる概念語で、強い弱いで測る性格ではない。性格を言いたいなら「我が強い」「頑固だ」概念語を性格の説明に流用すると、文の格が一段落ちる
派生形
  • 自己性じこせい[0]その人がその人であることを指す。04 の固有性に近いが、固有性が他と違うことを言うのに対し、自己性は自分に返ってくることを言う比較の語か再帰の語かが差である。
  • 自我じが[1]1-5 の 98 で立てた語。自己が関係のなかで成り立つ全体を指すのに対し、自我は意識の中心・働きの主を指す。心理学の語彙か関係論の語彙かでどちらが選ばれるかが決まる。
  • 自己疎外じこそがい[4]自分が自分から離れること。自分の作ったものや演じている役が自分の外に立って自分を縛る状態。1-6 の 137 で見た労働の疎外が自己の側から言い直された形である。
コロケーション
  • 自己形成過程として見る語自己が与えられたものではなく作られていくものだという捉え方。この語が要るのは、「本当の自分を探す」という語り口が前提を取り違えているからだ。探すならどこかにすでにあることになる。作るなら、まだ無い。1-5 の 115 の実存が「実存は本質に先立つ」と言うのは、この順序の主張である。
  • 自己を語る成立の条件自分について話すという行為。注意したいのは、語るには聞き手が要ることだ。誰にも向けずに自分を語ることはできない。自己は、他者に向けて語られるときにだけ形をとる — だから 01 の他者は自己の前提になる。
  • 自己同一性時間を通す語昨日の自分と今日の自分が同じであること。この結びつきが問題になるのは、身体も考えも記憶も入れ替わっていくからだ。それでも同じだと言えるのは何によるのか — 物質でも記憶でもなく、「同じ人として扱われ続けること」だと考えると、ここでも他者が要る。
  • 自己の解体近代批判の語一貫した自己という像が成り立たなくなること。1-7 の 158 のポストモダンがこの語を使うのは、大きな物語が消えると一貫した自己も支えを失うからだ。ただし解体は喪失とは限らない — 複数の自己を同時に生きられる自由とも読める。

書き言葉・会話の両方で使える。

類語と差
  • 自我自分を自分と意識する働き☑98。自我は働き、自己は対象として立てられた自分。
  • アイデンティティ自分が自分であり続ける感覚☑99。時間を貫く連続性を含む。自己はいまの捉え方。
  • 話し手自身文法的な語。自己は概念として立てられた語。
  • 主体意志をもって働きかける側☑106。行為の起点。自己は認識され語られる側にも立つ。

ENthe self
ZH自我(自我・自己, zìwǒ)

04概念

固有性こゆうせい

こゆうせい[0]平板型

語構成
かたい・もとよりもつそのような性質
使用の境界

そのものだけがもち、他では置き換えられない性質。珍しさや個性とは違う。

用法

この主題では疑われる側に置かれる。属性や肩書きを並べても〈私〉を説明し尽くせず、主体性や主観にも親や社会や時代の影響が入り込んでいる。ならば固有性など残るのか──という問いの立て方になる。したがって「自己の固有性」という語が出たら、直後にそれを崩す議論が来ると予測できる。文化論の文脈では、☑76 文化相対主義を支える語として肯定的に使われることもあり、評価の向きは文脈で決まる。

用例
  • 自然のうちには、たがいに完全に同じであって内的な差異を見いだしえないような二つの存在は、決してありえない。ゴットフリート・ライプニッツ『モナドロジー』第九節(1714)/訳は本教材
    固有性を、感情ではなく原理として言い切った一節である。ライプニッツはこれを不可識別者同一の原理と呼んだ — 見分けがつかないなら、それは二つではなく一つである。裏返せば、二つある以上、必ずどこかが違う。この主張の強さは、固有性を努力して獲得するものにしないところにある。個性的であろうとしなくても、存在している時点ですでに固有だ。「自分らしさ」を探したり作ったりしなければならないものと考える近代の苦しみに対して、三百年前の一行が静かな反論になっている。
  • 名前が何だというの。私たちが薔薇と呼んでいるあの花は、別のどんな名で呼んでも同じように甘く香るでしょう。ウィリアム・シェイクスピア『ロミオとジュリエット』第二幕(1595頃)/訳は本教材
    固有性と05 の属性の関係を劇の一場面が言い当てている。ジュリエットが言いたいのは「モンタギューという家名はあなたの一部ではない」ということだ。家名は取り替えられる属性であり、その人そのものではない。ここまでは正しい。ところがこの劇は、その取り替えられるはずの名前によって二人が死ぬ物語である。属性は本質ではないが、本質でないものが人を殺す。固有性を論じる文章が属性を切り捨てて終われない理由が、ここにある。1-3 の記号論の目で読めば、名は物に付いた札ではなく、物を位置づける装置だという主張にも読める。
  • 固有性は、他と違う点を数え上げても取り出せない。違いの一覧は、そのまま別の一覧と比べられてしまうからだ。 比較の外に出る必要を言う型である。「背が高い」「絵がうまい」はすべて程度の話で、上には上がいる。固有性が比較で測れないものを指すなら、関係のなかにしか見つからない
  • ×この店の固有性は、値段の安さにある。 安さは比べられるから「特徴」「強み」である。固有性は他と比べて優れている点ではなく、それでしかありえない在り方を指す。他店が同じ値段にしたら消えてしまうものなら、それは固有性ではない。取り替え可能かどうかで見分ける。
派生形
  • 固有こゆう[0]「もとから備わっている」の意。「固有の文化」「固有名詞」のように使う。「特有」との差に注意したい。特有は他と比べて目立つこと、固有はそれ自身にもともと属していること。比較を含むかどうかが分かれ目。
  • 固有名詞こゆうめいし[5]文法の語。一つのものだけを指す名詞。評論文では「固有名詞で語る」のように、一般論に逃げないという意味で使われることがある。抽象語の反対語として働く便利な言い方である。
  • 本来性ほんらいせい[0]実存の側の語。固有性が他と違うことを言うのに対し、本来性は自分本来の在り方に立っていることを言う。比較の軸か真正さの軸かで使い分ける。
コロケーション
  • 掛け替えのなさ和語で言い直した形同じ意味をやわらかい和語で言うと、この語になる。「掛け替え」とは取り替えの利く代わりのこと。それが無いという言い方だから、否定形でしか言えない固有性は積極的に描写できず、「代わりがない」という欠如の形でしか指せない — この語形自体がそのことを示している。
  • 固有名一つを指す言葉普通名詞が類を指すのに対し、固有名はただ一つを指す。この結びつきが哲学で重いのは、固有名には意味の記述が付いていないからだ。「机」は説明できるが、「太郎」は説明ではなく指示である。言葉のなかで固有性がどう扱われているかの見本になっている。
  • 固有性の喪失近代を語る定型取り替え可能な部品として扱われること。1-6 の 140 の均質化と1-7 の 141 の大衆社会が、この語で合流する。注意したいのは、取り替え可能であることが公平さの条件でもある点だ。誰が窓口に座っても同じ扱いを受けるのは、近代の達成でもある。
  • 固有の時間共有できない領域その人だけが生きている時間の質。1-6 の 140 で見た均質な時計の時間に対して、濃さの違う時間を言うための語である。待っている一時間と夢中の一時間は同じではない。固有性が最後まで残る場所として、時間はよく持ち出される。

書き言葉。会話では不自然。

類語と差
  • 独自性他にはない自分だけのもの近いが、比較のうえでの目立ちに重心がある。固有性は置き換え不可能性を言う。
  • 個性その人らしい性質日常語で、しばしば長所として語られる。固有性は価値評価を含まない。
  • 特殊適用の範囲が限られる☑2。範囲の話。固有性は所有の話。
  • 本質そのものをそのものたらしめる性質☑96。より強い。固有性は他と区別できることを言うにとどまる。

ENspecificity / uniqueness
ZH固有性(固有性, gùyǒuxìng)

05概念

属性ぞくせい

ぞくせい[0]平板型

語構成
つく・そなわるそのような性質
使用の境界

そのものに備わっている性質や区分。年齢・所属・職業のように、外から与えられた枠を指すことが多い。

用法

もとは哲学の語で、実体に備わる性質を指した。現代では統計・マーケティングの語としても広く使われ、年齢・性別・職業・居住地といった区分を意味する。この主題では、属性を並べても〈私〉を説明し尽くせない、という形で否定的に扱われる。ここが読解の要点で、属性は外から当てはめられた枠であって、内側から出てきたものではない。☑154 マジョリティー/☑155 マイノリティーの議論とも接続する。

用例
  • 実体とは、それ自身のうちに在り、それ自身によって考えられるものである。……属性とは、知性が実体についてその本質を構成すると知覚するものである。バールーフ・デ・スピノザ『エチカ』第一部・定義(1677)/訳は本教材
    属性という語の、いちばん厳密な定義である。要は「知性が……と知覚する」という一句にある。属性は実体にくっついている札ではなく、こちらの見方が取り出した切り口だ。この定式を取ると、属性は見る側の数だけありうることになる。履歴書に並ぶ項目 — 年齢、性別、学歴、住所 — はその人に元から書き込まれていたものではない制度がそう切り取ることに決めたものである。誰が切り口を決めたのかを問えるようになる点で、この定義は現代の議論にそのまま効く。
  • 「私は誰であるか」を問うことのできる者は幸いである。……人は自分の名刺の肩書を並べても、自分にはならない。三木清『人生論ノート』「個性について」(1941)
    属性の集積が人にならないことを、身近な物で示した一節である。名刺という具体物が効いている — 肩書は取り替えれば済む。会社が変われば書き換わり、それでも同じ人がそこにいる。つまり肩書はその人に必要でも十分でもない。三木がこれを書いたのは治安維持法下の日本で、人が属性で仕分けられていく時代だった。(三木自身、一九四五年に獄死している。)属性で人を扱うことの危うさを、この文章は身をもって知っていた。
  • 年齢・性別・職業といった属性をいくら足しても、その人にはならない。 この主題の基本の型である。足りないのではなく種類が違う。属性はすべて他者と共有できるから、足し合わせても一人を特定できない。04 の固有性が属性の外にあると言われる理由がこれだ。
  • ×彼の誠実さという属性に惹かれた。 やや硬すぎる。人柄を言うなら「人となり」「気質」である。評論語の属性は分類のために外から与えられる項目という含みが強く、内側から立ち上がる性格には使いにくい。なお「属性で人を見る」のように批判的に使うのがこの語の主な出番である。
派生形
  • 属するぞくする[3]動詞形。「〜に属する」でその範囲の内側にあることを言う。属性の「属」はこの字で、もともと「くっついて離れない」の意。定義の側から見ると語源と用法がずれているのが面白いところだ。
  • 属性値ぞくせいち[0]情報処理の語。属性ごとに割り当てられた値。人がデータとして扱われるときに現れる語で、1-7 の 144 の監視社会と直結する。語が学術から実務へ降りると、批判の対象そのものになる
  • 本質ほんしつ[0]1-5 の 95 で立てた語。属性があってもなくてもその物であるのに対し、本質は失えばその物でなくなる偶有性(あってもなくてもよい性質)と本質の区別はアリストテレス以来の道具で、05 を読む下敷きになる。
コロケーション
  • 属性で語る批判の合図人を項目の組み合わせとして扱うこと。この言い方が出たらほぼ批判の文脈である。ただし押さえておきたいのは、属性で語らなければ差別も統計も見えないことだ。属性を消せば公平になるわけではない — 1-7 の 150 の多様性がぶつかるのもこの点である。
  • 属性の束人を分解する言い方人を属性の集まりとしてのみ捉える見方。「束」という語が的確なのは、束ねている紐がどこにあるか分からないからだ。まとめている当のものが見えない — それが 03 の自己をめぐる問いそのものになる。
  • 固有性と属性対にして使う語この二語は対で置いてはじめて働く。属性は共有できる、固有性は共有できない。属性は比べられる、固有性は比べられない評論文がこの対を出したら、「人を何で測るか」という問いに入った合図である。
  • 属性を剥ぎ取る思考実験の語肩書も出身も財産もすべて取り去ったあとに何が残るかを問う操作。哲学がよく使う手だが、注意も要る — 剥ぎ取れると考えること自体が一つの立場だからだ。身体も、育った土地も、本当に剥がせるのか。2-2 の身体論は、この問いに否と答える。

書き言葉。会話では不自然。

類語と差
  • 肩書き役職を示す呼び名社会的な位置。属性はより広く、年齢や出身も含む。
  • 役割果たすべき務め働きの話。属性は状態や区分の話。
  • 特性そのものに固有の性質内側から出てくるもの。属性は外から当てはめられる枠に近い。
  • カテゴリー分類の枠分類そのもの。属性はその枠に当てはまっている状態。

ENattribute
ZH属性(属性, shǔxìng)

06概念

主体性しゅたいせい

しゅたいせい[0]平板型

語構成
主体働きかける側そのような性質
使用の境界

自らの意志で判断し行動する性質。この主題では、それ自体が疑いの対象として扱われる。

用法

日常語でも評論語でも肯定的な価値語として使われる。ところがこの主題では、その主体性にも親の考えや社会・時代の影響が入り込んでいると指摘される。つまり「自分で決めた」と思っているものが、実は外から来ている。この疑いが自己の固有性への疑いに接続し、さらに☑151 構造主義(私の思考も時代の構造に規定されている)へつながる。読解では、主体性が称揚されているのか、その成り立ちが暴かれているのかを見分ける。

用例
  • 我々の力の及ぶものと、及ばないものとがある。……我々の力の及ぶものは、判断・意欲・欲求・忌避、要するに我々自身の働きである。エピクテトス『提要』第一章(2世紀初頭)/訳は本教材
    主体性の範囲を、最初に正確に線引きした一節である。奴隷の身分から出た哲学者の言葉であることが重い — ほとんど何も自由にならない立場から、それでも自分の側に残るものを数え上げている。注目したいのは、行為が一覧に入っていないことだ。身体は縛られうるし、結果は他人が決める。残るのは「どう受け取るか」だけである。これを敗北主義と読むか、奪われようのない最後の一線と読むかで、主体性という語の重みが変わる。なお「忌避」がここに数え上げられていることも見ておきたい — 11 の語は、この一覧に由来する。
  • 僕の前に道はない僕の後ろに道は出来る高村光太郎『道程』(1914)
    主体性を、二行で言い切った詩である。仕掛けは時制にある。前は「ない」(現在)、後ろは「出来る」(完了しつつある現在)。歩いたあとにしか道は存在しない。つまり主体性とは「あらかじめ選択肢を見渡して選ぶこと」ではない。見渡せる道があるなら、その道は誰かがすでに作ったものだからだ。1-5 の 115 の実存が言う「実存は本質に先立つ」と同じことを、この詩は情景で言っている。ただし全篇を読むと、この詩は「父よ」と呼びかけて終わる主体性の宣言が、支えを求める声で閉じられているところに、この詩の正直さがある。
  • 主体性とは、何にも影響されずに選ぶことではなく、影響を引き受けたうえでなお選び直すことである。 この主題での定義の置き方である。影響ゼロの選択はそもそも存在しない。育ちも言葉も時代もすべて外から来ている。だから主体性を純粋さで定義すると誰も持てなくなる引き受けの側に定義を移すのが要点だ。
  • ×彼は主体性があるので、人の言うことを聞かない。 語の向きが逆になっている。人の言うことを聞かないのは「独断的」「頑固」である。主体性は自分で引き受けて決めることで、他人の言葉を拒むことではない。むしろ聞いたうえでなお自分で決めるほうが主体性の名にふさわしい。
派生形
  • 主体しゅたい[0]1-5 の 106 で立てた語。行為し認識する側。「主体的」は態度を言う形容動詞で、日常語では「積極的な」の言い換えに流れやすい。評論語では客体との対で読む。
  • 能動のうどう[0]09 の受動の対。主体性と近いが、能動は働きかけの向きを言うだけで、引き受けの含みが無い。勢いよく動いていても主体性が無いことはありうる。
  • 自律じりつ[0]1-7 の 159 で立てた語。自分で立てた規則に従うこと。主体性が選ぶ働きを言うのに対し、自律は従う先が自分の内側にあることを言う。選ぶだけなら気まぐれでもできる — この差は小さくない。
コロケーション
  • 主体性の回復失われた前提「回復」と言うからにはかつて持っていたことになる。この前提は疑う値打ちがある — 近代以前の人に主体性はあったのか。1-6 の 122 で見たとおり、身分制の下では生き方はほぼ決まっていた主体性は取り戻すものではなく、近代が新しく要求しはじめたものだと読むほうが筋が通る。
  • 主体的に選ぶ言い方が要求する条件この言い回しが使われる場面ほど、選択肢があらかじめ用意されていることが多い。進路も、商品も、並べたのは他人である。並べる側に回らないかぎり、主体性は選ぶ範囲の内側にとどまる。評論文がこの語を疑うときは、たいていここを突いている。
  • 主体性の神話批判の側の語個人が自由に決めているという像を作られた物語と見る言い方。1-7 の 151 の構造主義がここへ突き刺さる — 選んでいるつもりの選択も配置の効果だという指摘だ。ただし全面的に認めると責任も消える。1-7 の 160 の自己責任と正反対の方向から同じ場所へ来る
  • 主体と主体性別の語として扱う主体(1-5 の 106)が行為の起点という位置を指すのに対し、主体性はその位置に実質があることを指す。位置は制度が与えるが、実質は与えられない。「一人一票」は主体の位置を配るが、主体性まで配りはしない — 1-6 の 127 の民主主義の難所がここにある。

書き言葉・会話の両方で使える。

類語と差
  • 主体意志をもって働きかける側☑106。主体は位置、主体性はその性質。
  • 自律自分の考えを基準に判断する☑36。規範の出どころを言う。主体性は意志の所在を言う。
  • 自発性促されずに動く性質きっかけの話。主体性は判断の根拠が自分にあること。
  • 能動性自ら働きかける性質動きの向き。主体性は判断まで含む。

ENagency / subjectivity
ZH主体性(主体性, zhǔtǐxìng)

07概念

再帰さいき

さいき[1]頭高型

語構成
ふたたびかえる
使用の境界

自分の行いの結果が自分へ返ってくること。単に繰り返すことではない。

用法

ギデンズの「自己は再帰的なプロジェクトである」という規定で押さえる。近代以前は共同体と親が自分の位置を決めたが、近代の個人は昔の自分を反省しながら自分のあり方を絶えず更新し続けなければならない。しかもその責任は自分が負う。だから「自分探し」はワクワクした冒険ではなく、終わらない作業になる。ここで☑159 自己決定・☑160 自己責任と正面から接続し、息苦しさの説明になる。「再帰的近代化」は、この反省が社会全体に及んだ状態を指す。

用例
  • 人々は、高い山、海の巨大な波、広く流れる川、大洋のめぐり、星々の運行に驚嘆する。そして、自分自身のことは素通りしてしまう。アウレリウス・アウグスティヌス『告白』第十巻(397頃)/訳は本教材
    再帰という働きがなぜ難しいのかを、一気に見せる一節である。仕掛けは列挙の長さにある。山、波、川、大洋、星 — 遠いものから順に大きくなっていく。そして最後にいちばん近いものが来て、そこだけ素通りされる。距離と関心が反比例していることが文の形そのもので示されている。なぜ素通りするのか — 見る目そのものを見ることはできないからだ。1-5 の 89 で見た離見の見が技術として語られたのに対し、ここではそもそもやろうとすらしないという手前の段階が突かれている。
  • 汝自身を知れ。デルポイのアポロン神殿の箴言 ─ プラトン『プロタゴラス』の引用による(前4世紀)/訳は本教材
    再帰の命令形である。三語しかないのに難所が二つある。第一に、知る主体と知られる対象が同じだ。普通の認識では見る者は見られるものの外にいるが、ここでは外へ出られない。第二に、これが神殿に刻まれていたことである。神託を聞きに来た者が、入口でこの一行に迎えられる。神に未来を尋ねる前に自分を見よ、という配置だ。ソクラテスがこの箴言を「知らないことを知る」と読み替えたのは(1-1 の 為政篇と同じ構え)、自分について完全に知ることはできないと見抜いていたからだろう。再帰は達成ではなく、終わらない運動である
  • 自分を語ろうとするとき、語る自分と語られる自分に分かれる。これが再帰の構造である。 この語の中身を一文で示す型である。分かれた瞬間に語る側はまた語られないまま残る追いつけないのだ。03 の自己が一つに定まらないのは、この構造による。
  • ×昨日のことを再帰した。 「回想する」「思い返す」である。再帰は働きが自分自身へ返ってくるという構造を指す語で、過去を思い出す行為ではない。なお数学・情報の「再帰的定義」も同じ構造 — 定義のなかに定義される当のものが現れる
派生形
  • 再帰的さいきてき[0]形容動詞形。「再帰的な問い」で問いが問う当人に返ってくることを言う。「再起」と混ぜない — そちらは立ち直ることで別語である。
  • 内省ないせい[0]心の内側を見ること。再帰が構造を言うのに対し、内省は行為を言う。「内省する」とは言えるが「再帰する」とは言わないのは、この差による。
  • メタ[1]一段上から見るという接頭辞。「メタ認知」は自分の考え方を考えること。再帰とほぼ同じ事態を、上下の比喩で言い直した形で、現代の文章ではこちらが優勢である。
コロケーション
  • 再帰的自己この主題の術語自分を観察し、評価し、作り変える自己。この語が現代的なのは、近代以前にはここまで要求されなかったからだ。生き方が決まっていれば自分を設計し直す必要がない選べるようになったことが、そのまま絶えず選び直させる圧力になる — 1-6 の 119 で見た近代化の心理面での帰結である。
  • 再帰的近代社会の側へ広げた語近代が自分自身を問題として扱いはじめた段階。科学が科学の副作用を扱い、制度が制度の失敗を扱う。1-7 の 147 のリスクが人間の決定から生まれると言われるのは、この折り返しが起きたからだ。外に敵がいなくなり、自分の産物が問題になる
  • 自己言及同じ構造の別名文や体系が自分自身について語ること。「この文は偽である」が真とも偽とも決まらないように、自己言及はしばしば決定不能を生む。1-7 の 158 で見たニーチェの「事実はない、解釈だけがある」も同じ罠にかかっている再帰は深さを生むと同時に足場を崩す
  • 反省日本語での近い語「反」も「省」も振り返って見る意で、本来は再帰と同じ構造を指す。ところが日常語では「悪かったと認める」の意に寄ってしまった。構造の語が道徳の語に変わったため、評論文では「省察」「再帰」を選ぶことが多い。
硬・学術

論文・評論でのみ使う。会話では不自然。

類語と差
  • 反省自分をかえりみる内面の働き。再帰は結果が返るという構造を言う。
  • 循環めぐって元に戻る一般的な繰り返し。再帰は主体自身に返る点が違う。
  • 自己言及自分自身について語る論理の構造。☑18 パラドックスと接続する。再帰は行為の結果についての語。
  • フィードバック結果を入力に戻す工学・システムの語。☑145 システムと接続する。

ENreflexive
ZH反身・自反(再帰的, fǎnshēn / zìfǎn)

08概念

同化どうか

どうか[0]平板型

語構成
おなじそうなる
使用の境界

異なるものを自分と同じ性質に変えて取り込むこと。取り込む側と取り込まれる側の向きに注意を要する。

用法

入試文の急所がここにある。「他者の同化」と「他者への同化」は、助詞一つで向きが逆になる。前者は〈他者を自分の側に取り込む〉、後者は〈自分が他者の側に変えられる〉である。食べることは他者を取り込んで自己を維持する行為であると同時に、取り込んだものによって自己が変えられる行為でもある。助詞の「の」と「へ」を読み分けられるかどうかが設問そのものになっている。社会論では「同化政策」が少数者の文化を消す政策を指し、批判語になる。

用例
  • 国語を奪はれた民族は、牢獄の鍵を奪はれたのと同じである。アルフォンス・ドーデ『最後の授業』(1873)の主旨による/訳は本教材
    同化という政策の中身を一行で示した言い方である。普仏戦争でアルザスがドイツ領となり、フランス語の授業が最後になる日を描いた短編の主旨で、鍵の比喩が効いている — 牢獄に入れられていても、鍵さえあればいつか出られる言葉はその鍵にあたるという主張だ。ただしこの作品には読み返しの余地もある。アルザスの住民の多くはもともとドイツ語系の方言を話しており、フランス語もまた学校を通じて与えられた国語だった。奪う側と奪われる側は、同じ操作を順に行っている — 1-6 の 125 の国民国家が国語を作った話と重ねて読みたい。
  • 大なる哲学者も路傍の乞食も共に自己の存在の意義を知らずして死ぬ。……人は自己に固有なるものを有すると同時に、一般なるものを有す。西田幾多郎『善の研究』第四編(1911)
    同化の反対側 — 個が全体に溶けることの意味を扱った一節である。西田が言うのは、人は固有であると同時に一般でもあるということだ。この二重性を認めると、同化の評価が単純に否定にならない。言葉を学ぶことも、作法を身につけることも、すべて一般なるものへの同化である。同化なしに人は社会に入れない。問題になるのは同化が強いられるとき、そして固有なるものの側が消されるときだ。同化そのものではなく、その非対称を撃つのが評論文の作法である。
  • 少数者を同化させる政策は、多数派の側をまったく変えないまま進む。 非対称を書く型である。「溶け合う」と言えば双方が変わりそうだが、実際に変わるのは一方だけだ。誰が誰に合わせるのかを書けば、力関係がそのまま出る。1-7 の 155 のマイノリティーと直結する。
  • ×新しい部署にもすっかり同化できた。 「馴染む」「溶け込む」である。評論語の同化は集団の側が別の集団を自分の型へ吸収する操作を指し、本人が慣れることではない。なお生物学・心理学の「同化作用」は外のものを取り込んで自分の一部にすることで、比喩の出どころにあたる。
派生形
  • 同一化どういつか[0]心理学の語。他者を自分と重ね、その人のようになろうとする働き。同化が集団の操作を指すのに対し、同一化は個人の心の働きを指す。主語が集団か個人かで使い分ける。
  • 異化いか[0]同化の対。生物学では取り込んだものを分解する働き、文学では見慣れたものを見慣れないものにする技法。分野をまたぐと意味が変わるので、どちらの文脈かを先に決める。
  • 順応じゅんのう[0]環境に合わせること。同化が集団の性質そのものを変えられるのに対し、順応はふるまいを合わせるだけで中身は変わらない。可逆かどうかが実際上の差になる。
コロケーション
  • 同化政策国家が主語になる語国家が少数の集団を多数派の言語・習慣へ揃えさせる政策。この語が要るのは、個々の役人に悪意があったかどうかを問わずに済ませられるからだ。善意で行われた同化ほど徹底する — 「彼らのために」という理由が付くからである。
  • 同化と排除一対で働く語正反対に見えて、同じ論理の表と裏である。どちらも「違いをそのまま置いておかない」という点で一致している。溶かすか、出すか。1-7 の 150 の多様性が難しいのは、この二つ以外の第三の道を設計しなければならないからだ。
  • 自発的な同化強制でない形誰にも命じられずに、自分から多数派へ合わせていくこと。この語が重いのは、不利益を避けるための合理的な選択として起きるからだ。訛りを直し、名を変え、出自を言わない。誰も強制していないのに結果は同じになる — 1-7 の 144 の自発的な服従と同じ形をしている。
  • 他者への同化向きを逆にした語相手を取り込むのではなく、こちらが相手に合わせて変わること。この向きが評論文で注目されるのは、他者性を消さない唯一の同化だからだ。ただし限界もある — 合わせようとする側がすでに強者なら、それは寛容という名の余裕にもなりうる。

書き言葉・会話の両方で使える。

類語と差
  • 異化見慣れたものを見慣れないものにする対語。文学理論の語。同化が取り込み、異化が引き離す。
  • 吸収中に取り入れる物理的・一般的。同化は性質まで変えることを含む。
  • 消化分解して取り入れる生理の語。同化はその結果として自分の一部になることを言う。
  • 統合まとめて一つにする違いを残したままでもよい。同化は違いを消す。

ENassimilation
ZH同化(同化, tónghuà)

09概念

受動じゅどう

じゅどう[0]平板型

語構成
うけるうごく
使用の境界

自分から働きかけるのではなく、働きかけられる側にあること。消極的であることとは違う。

用法

要点は、受動が怠惰や消極性ではなく、存在の条件だという捉え方にある。入試文は吉野弘の詩を引いて、生まれることが I was born という受身形でしか言えないことを示す。人は生まれさせられるのであって、自分の意志で生まれるのではない。この根本的な受動性が、身体の他者性や食べることの構造とつながる。☑34 情念(パトス)の語源も受動性であり、西洋思想では受動が繰り返し主題になる。

用例
  • 私は突然、どのような資質が人を成し遂げさせるのかを悟った。……それは消極的能力、すなわち、不確かさや神秘や疑いのなかにとどまることのできる力である。事実や理由をいらだたしく求めることなしに。ジョン・キーツ 書簡(1817)/訳は本教材
    受動を、欠如ではなく能力として言い直した一節である。「消極的能力(negative capability)」という造語がその宣言だ。能力は普通、何かを為すことを指す。キーツは為さずにいられることを能力に数えた。注目したいのは「いらだたしく」という一語である。答えを出そうとする焦りが能力の不足として名指されている。早く結論に着けば不確かさは消えるが、見えていたはずのものも一緒に消える。1-7 の 147 のリスクや01 の他者のように決着のつかないものを扱う文章は、この能力を読者にも要求している。
  • 善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。唯円『歎異抄』第三条(13世紀後半)
    受動という構えを、日本語で最も鋭く言い切った一句である。常識なら「悪人でさえ救われる、まして善人は」となるはずだ。それをひっくり返している。理由はこうだ — 自分の力で善を積めると思っている者は、まだ自分の力を頼りにしている。他力を本当に頼るのは、自力が尽きたと知った者のほうだ。ここで受動は怠惰ではない自分の力の限界を見きわめた末の構えである。06 の主体性と正反対に見えて、どちらも「自分に何ができるか」を正確に測ることから始まる — エピクテトスの一覧と並べて読むと、その近さが見える。
  • 生まれる場所も時代も身体も選べない。この受動から人は始まる。 この主題の前提を置く型である。主体性の議論はこの受動を出発点にしないと空回りする。選べたことにすると、選べなかった条件まで本人の責任になる — 1-7 の 160 の自己責任が陥る穴がこれだ。
  • ×会議では受動だったので、発言しなかった。 態度を言うなら「受け身」「消極的」である。評論語の受動は能動との対で存在の在り方を言う語で、やる気の有無ではない「受動的」なら態度にも使えるが、その場合も否定の色が付くことに注意したい。
派生形
  • 受動的じゅどうてき[0]態度にも使える形。ただしほぼ否定の色が付く。評論文で肯定的に受動を語りたいときは、「受動性」「受け取る力」のように「的」を避けるのが安全である。
  • 受容じゅよう[0]受け入れる側の語。受動が選べないことを言うのに対し、受容は受け入れることを選んでいる選択の余地があるかどうかが差で、「文化の受容」のように能動の含みを持つ。
  • 被るこうむる[3]和語の動詞。「損害を被る」「影響を被る」。望まないものを受けるという含みが強く、受動のなかでも不利益の側を指す。読解ではこの一語で書き手の評価が分かる
コロケーション
  • 存在の受動性この主題の術語生まれること自体が自分の選択ではないという事実。この結びつきが哲学で重いのは、あらゆる主体性がこの受動の上に建っているからだ。土台は選べない。選べるのはその上に何を建てるかだけである。1-5 の 115 の実存が「投げ出されている」と言うのはこの事態を指す。
  • 受動から能動へ転換を書く型受けたものを引き受け直して自分の側から出すという運動。評論文がこの型を好むのは、どちらか一方では論が痩せるからだ。受動だけなら諦め、能動だけなら空威張り。受けたことを認めたうえでなお動くという二段構えが、06 の主体性の定義になる。
  • 受動態文法から借りた見方「〜される」という言い方は行為者を隠せる。「決定された」と書けば誰が決めたかを言わずに済む。1-7 の 145 のシステムがこの語法と結びつくのは、主語のない出来事を書くためだ。受動態が多い文章は、責任の所在をぼかしている疑いがある
  • 受苦受動の極にある語避けられない苦しみを受けるほかないという状態。ラテン語 passio は受動とも受難とも情熱とも訳せる一語だった。受けることと燃えることが同じ語だったという事実は、受動を無気力の同義語にしないための手がかりになる。

書き言葉・会話の両方で使える。

類語と差
  • 能動自ら働きかける対語。向きの違い。
  • 消極的進んで行おうとしない態度の話で、否定的な評価を含む。受動は位置の記述で中立。
  • 他律外からの命令に従う☑37。規範の出どころが外にある。受動は働きかけの向き。
  • 被投性気づいたときには投げ込まれているハイデガーの語。生まれることの受動性を存在論的に言い直したもの。

ENpassivity
ZH被动(受動, bèidòng)

10読解

逡巡しゅんじゅん

しゅんじゅん[0]平板型

語構成
しりごみするめぐる

「逡」も「巡」も行きつ戻りつする動きを表す。読み書きともに問われる。

使用の境界

決めかねてためらうこと。迷ったまま足踏みしている状態を指し、単に考えている段階とは違う。

用法

読み書きの両方で問われる語である。「逡」も「巡」も行きつ戻りつする動きを表し、字の意味がそのまま語義になっている。評論文では、選択肢が増えたことが決断を難しくしたという文脈で使われることが多い。「逡巡する」の形で動詞化する。硬い文章語なので会話では使わない。同じ場面で「躊躇」も使えるが、逡巡のほうが〈足踏み〉の含みが強い。

用例
  • 生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ。……こうして、物を思う心が我々を臆病者にしてしまう。……決意の生まれながらの色が思案の青白さに病み衰えてしまうのだ。ウィリアム・シェイクスピア『ハムレット』第三幕(1600頃)/訳は本教材
    逡巡そのものを主題にした独白である。注目したいのは色の比喩だ。決意には生まれつきの血の色があり、思案がそれを青白くする。考えることが行為から血を抜くというこの見立ては、逡巡を知性の副作用として捉えている。愚かだから迷うのではない。見えすぎるから動けないのだ。この一句が四百年引かれ続けるのは、迷いを弱さではなく知の代償として描いたからである。評論文でこの語が出たら、迷っている人物の知的な水準にも目を向けたい
  • 嗚呼、何等の悪因ぞ。この恩を報いんと思ふ心と、我が名を惜しむ心と、一つならず二つならず、胸のうちに戦ひぬ。森鷗外『舞姫』(1890)
    逡巡が起きる仕組みを解剖してみせた一節である。要は「一つならず二つならず」だ。迷いは二つの選択肢のあいだに起きるのではない。数えきれない筋が同時に立っているから決まらないのである。そして「戦ひぬ」 — 主語は「心」であって「私」ではない。迷っているのは私ではなく、私のなかの複数の心だ。03 の自己が一つに定まらないというこの主題の主張が、明治の小説のなかですでに文体になっている。豊太郎はこのあと決断しないまま事態に運ばれていく — 逡巡の果てにあるのは選択ではなく09 の受動である
  • 筆者は結論を急がず、逡巡の過程そのものを書き記している。 評論文でこの語が出る典型の場面である。逡巡を書くのは、答えより答えに至る道のほうが重いと考えるときだ。09 で見たキーツの消極的能力が、文章の作法として現れた形。
  • ×注文を逡巡して、結局カレーにした。 語が重すぎる。軽い迷いなら「迷って」「決めかねて」。逡巡はためらって足踏みするという重い漢語で、進退が関わる場面に使う。「逡」も「巡」もあとずさる・めぐる意で、前へ出られない身体の動きを字が写している。
派生形
  • 躊躇ちゅうちょ[1]ほぼ同義の漢語。差は時間の長さにある。躊躇は一瞬でも使えるが、逡巡はある程度続く。「躊躇なく」は自然だが「逡巡なく」はやや据わりが悪い
  • 逡巡うためらう[3]和語の訓。「逡巡う」と書いてためらうと読ませる例がある。同じ字で漢語と和語の二つの顔を持つ。文章の硬さに合わせて選び分けられる。
  • 遅疑ちぎ[1]さらに硬い語。「遅疑逡巡」と四字で連ねることが多い。「疑」の字が入るぶん、判断そのものへの不信が加わる。現代の文章ではほぼ引用の中でしか見ない。
コロケーション
  • 逡巡する動詞としての形サ変動詞で使うのが普通。この語の質感は時間が経っていることにある。一瞬の迷いには使わない。足踏みが続いている状態を指すので、そのあいだに事態が動いてしまうという含みが自然に付く。
  • しばしの逡巡長さを限る言い方「しばし」を添えると短く切れる。この組み合わせが多いのは、逡巡は本来終わらないものだからだ。終わったことを示すために長さの限定が要る語の性質が共起する語を呼んでいる例。
  • 逡巡を見せない否定で使う形迷わないことを逡巡の不在として書く言い方。この形が効くのは、普通なら迷う場面だという前提を同時に伝えられるからだ。「即断した」と書けば性格の話になるが、「逡巡を見せなかった」と書けば状況の重さも一緒に立つ
  • 逡巡と決断対で使う語評論文・小説でよく組む対。注意したいのは、決断は逡巡を消さないことだ。決めたあとも捨てた側の筋は残り続ける迷いを断ち切るのではなく、抱えたまま進むという書かれ方をするとき、この対はいちばん深くなる。

書き言葉。会話では不自然。

類語と差
  • 躊躇ためらうほぼ同義。躊躇のほうが日常でも使われる。逡巡はより硬く、文章語。
  • 迷うどちらか決められない日常語。逡巡は行動に移れずにいる様子まで含む。
  • ためらう行動を起こしかねる訓読み。逡巡はその漢語形にあたる。
  • 熟慮よく考える肯定的。逡巡は動けないことに重心があり、否定的に響く。

ENhesitation
ZH踌躇(躊躇, chóuchú)

11読解

忌避きひ

きひ[1]頭高型

語構成
いむ・さけるさける

「忌」も「避」も〈さける〉を表す。同義の字を重ねた熟語である。

使用の境界

嫌って避けること。単に選ばないのではなく、避けるべきものとして遠ざける点を含む。

用法

二字がともに「さける」を表す同義の重ね語である。法律用語としては裁判官を排除する手続きを指すが、評論文では〈嫌って避ける〉という一般的な意味で使う。入試文では、宗教的な戒律に従って特定の食材を忌避する例が挙げられ、それが肉体レベルで他者化されることへの恐怖と結びつけられている。☑87 禁忌と近いが、禁忌が社会の定めであるのに対し、忌避は避ける行為そのものを指す。

用例
  • 人間の心には互に矛盾した二つの感情がある。もちろん、誰でも他人の不幸に同情しない者はない。ところがその人がその不幸を、どうにかして切りぬける事が出来ると、今度はこっちで何となく物足りないような心もちがする。芥川龍之介『鼻』(1916)
    忌避の底にある心の動きを、短編一本で解剖した一節である。芥川はこれを「傍観者の利己主義」と呼んだ。注目したいのは、同情が先に置かれていることだ。冷たいから避けるのではない。同情していた相手が不幸を脱すると物足りなくなるという、もっと厄介な構造が指されている。誰かを不幸な位置に置いておきたいというこの欲望が、忌避の対象を作り続ける。1-7 の 155 のマイノリティーが解消されずに再生産される仕組みを、この一段落は心理の側から説明している。
  • 隠せ。隠しおおせるものならば、この生涯を隠しおおせ。……それが父の遺言であった。島崎藤村『破戒』(1906)の主旨による
    忌避される側から見た忌避を書いた作品の芯である。被差別部落に生まれた主人公が出自を隠して教師になり、最後に告白するまでを描く。注目したいのは、遺言が「隠せ」だったことだ。父もまた隠して生きたのであり、忌避は世代を越えて受け渡される。そして隠すという行為が忌避の正しさを毎日認めることになる — 隠す価値のあるものだと自分でも認めてしまう。08 で見た自発的な同化が、ここでは沈黙という形をとっている。
  • 危険が科学的に否定されたあとも、忌避は容易には消えない。 この語の使いどころである。忌避は判断ではなく感情だから、情報を足しても直接には動かない。1-4 の 84 のタブーと同じ層にあり、合理の言葉が届かないことこそがこの語の指す事態である。
  • ×人混みを忌避して早朝に出かけた。 単なる好き嫌いには使わない。避けるだけなら「避けて」「嫌って」で足りる。忌避は「忌む」=穢れたものとして遠ざけるという強い語で、けがれ・不吉さの含みを持つ。その含みが要らない場面では使わないのが原則である。
派生形
  • 忌むいむ[2]和語の動詞穢れとして避ける・慎む。「忌み言葉」「忌明け」のように喪と神事の語彙に広く残っている。宗教的な由来を知っておくと、この語の重さが分かる。
  • 忌憚きたん[0]「忌憚のない」の形でほぼ固定して使う。遠慮することの意で、忌避より軽い。同じ「忌」の字でも穢れの含みが抜けているところに、語の摩耗が見える。
  • 回避かいひ[0]中立な語不都合を避けるという実務的な意味で、感情の色が無い。「リスク回避」は自然だが「リスク忌避」は不自然である。穢れの含みの有無が共起語を決めている。
コロケーション
  • 忌避される存在受け身で書く語この語がほとんど受け身で使われるのは、誰が避けているのかが特定できないからだ。一人ひとりに聞けば「私は偏見を持っていない」と答える。それでも避けられている。1-7 の 151 の構造的な差別という語が必要になるのは、まさにこの場面である。
  • 忌避感感情として名指す語理屈にならない嫌悪を一語にしたもの。この語が便利なのは、正当化を求めずに事実として置ける点にある。ただし危うさもある — 感情として認めた瞬間、「仕方ないもの」として扱われかねない記述と容認は違うことを文章のどこかで示す必要がある。
  • 忌避と畏怖同じ根から出る語避けることと畏れ敬うことは同じ根を持つ。「忌」の字はもともと神事で慎むことを指した。触れてはならないものは、穢れているものでも聖なるものでもありうる。1-4 の 84 のタブーが両方を一語で指すのと同じ構造である。
  • 忌避を乗り越える難所を含む言い方この言い方にはひとつ罠がある乗り越えるべきものは誰の側にあるのか。避けられる側が努力する話になれば、負担の押しつけになる。主語を避ける側に置けているかで、その文章の立場が分かる。

書き言葉。会話では不自然。

類語と差
  • 回避うまくよけて通る結果として避ける。忌避は嫌うという感情を含む。
  • 禁忌慣習として禁じられている☑87。社会が定めたもの。忌避は個人の行為。
  • 敬遠敬いながら遠ざける距離を置く理由が敬意にある点が違う。
  • 排除外へ出す対象を場から出す。忌避は自分が近づかない。

ENavoidance / aversion
ZH忌避(忌避, jìbì)

12読解

契機けいき

けいき[1]頭高型

語構成
ちぎる・きざむはずみ・おり

哲学ではドイツ語 Moment の訳語。〈不可欠な構成要素〉の意になる。

使用の境界

きっかけ。哲学では、全体を成り立たせている不可欠な要素という意味でも使う。

用法

二つの層がある。①日常・実務のきっかけ(「〜を契機に」)。②哲学の不可欠な構成要素(ドイツ語 Moment の訳語)。入試文の「身体ないし生命という契機」は②に近く、〈この問題を成り立たせている不可欠の要素〉という意味である。①で読むと通じないので、文脈で判定する。「〜を契機として」は硬い接続表現で、報道・論文でよく使われる。読みが問われることもある。

用例
  • 精神の生とは、死を怖れて荒廃を免れている生ではなく、死に耐え、死のなかで自己を維持する生である。……精神は、否定的なものを見つめ、そこに留まることによって力を得る。ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル『精神現象学』序文(1807)/訳は本教材
    契機という語の哲学での使われ方がここに集まっている。ヘーゲルの Moment は「瞬間」ではなく「全体を成り立たせている一要素」だ。否定は邪魔者ではなく、全体に組み込まれた一つの契機である。だから避けるのではなく通り抜ける。「死のなかで自己を維持する」という難しい言い方が指すのは、否定されたまま消えるのでなく、否定を含んだ形で次の段へ行くことである。1-5 の 113 の弁証法が正・反・合と整理されるとき、「反」にあたるのがこの契機だ。日本語の「きっかけ」からは遠く見えるが、どちらも「それが無ければ次が来ない」という一点で通じている。
  • 激水の疾くして石を漂はすに至る者は、勢なり。……其の勢は険に、其の節は短し。『孫子』兵勢篇
    契機を時間の側から言い当てた一節である。流れの速い水が石まで動かす — それは水が強いからではなく勢いが載っているからだ。そして「節は短し」。その勢いが効く一点の間合いは極めて短い。契機という語が「きっかけ」と訳されるときに効いてくるのがこの面である — 同じ出来事でも、来る時が違えば何も起こさない契機とは出来事の性質ではなく、出来事と受け取る側の状態との合致だ。評論文で「〜を契機として」と書かれたら、なぜその時だったのかまで問うと読みが深くなる。
  • 敗戦を契機として、この語は意味を大きく変えた。 いちばん多い使い方である。「〜を契機として」は転換点を示す定型だ。注意したいのは、契機は原因ではないこと。敗戦が意味を変えたのではなく、変わる用意ができていたものが敗戦で表に出たと読むほうが正確なことが多い。
  • ×大きな契機があって会社を辞めた。 通じるが、「きっかけ」で足りる。契機は硬い漢語なので、日常の出来事に使うと文が上ずる。また哲学の文脈では「全体を構成する一要素」の意になり、きっかけとは別語である。どちらの意味かは、「〜を契機として」の形かどうかでおおむね見分けられる。
派生形
  • ちぎり[0]もとの字義。「契」は刻んで約束する意で、「契約」の契と同じ。機(はずみ・からくり)と合わさって結び目としての瞬間を指すようになった。字を割ると語の像が立つ。
  • 動機どうき[0]混同しやすい語。動機は行為する側の内にある理由で、契機は外から来たきっかけ「動機」は本人に帰属し、「契機」は出来事に帰属する — 責任を論じる文章ではこの差が効く。
  • モメント[1]原語のままの形。ヘーゲルの Moment を「契機」と訳さずそのまま使うことがある。「瞬間」という日常の意味との混同を避けたいときに選ばれる。訳語と原語の使い分けは、1-6 の 133 でも見た問題である。
コロケーション
  • 〜を契機として最も多い形転換点を示す定型句。この形が便利なのは、因果を断定しないで済むからだ。「〜が原因で」と書けば証明の責任が生じるが、「〜を契機として」なら時期の一致を示すだけで通る。便利さはそのまま曖昧さでもあるので、読むときは本当に因果があるのかを確かめたい。
  • 重要な契機評価を添える形「重要な」を付けると数ある契機の一つだという含みが立つ。これは書き手にとって安全な言い方だ — 唯一の原因だとは言っていない歴史を論じる文章がこの形を好むのは、単一原因の説明がほぼ必ず反証されることを知っているからである。
  • 内的契機外との対で使う語外から来た出来事ではなく、そのものの内側にすでに含まれていた要素。ヘーゲル由来のこの用法では、変化は外の衝撃で起きるのではなく、内に畳まれていたものが開くことになる。1-6 の 119 で見た内発/外発の対とそのまま重なる。
  • 契機を捉える時間の語として使う形『孫子』の「節は短し」がそのまま生きる言い方。同じ手が、早すぎても遅すぎても効かない。この言い方が評論文より実務や戦略の文章に多いのは、行為する側の語彙だからだ。読解では誰が捉える側にいるのかを見ると、文章の立ち位置が分かる。

書き言葉。会話では不自然。

類語と差
  • きっかけ物事の始まる糸口訓読み。日常語。契機は文章語で、より重い。
  • 要因結果に関わる要素原因の一部。契機は変化の起点という時間的な位置を言う。
  • 端緒物事の始まりの糸口始まりに重心がある。契機は変化を引き起こす力を含む。
  • モメント不可欠な構成要素哲学の訳語としての契機はこちら。弁証法(☑113)で使われる。

ENmoment / occasion
ZH契机(契機・きっかけ, qìjī)

格による分布硬・学術、硬、中の三段階に本節の語を振り分けた図。 硬・学術 3 他者 他者性 再帰 5 固有性 属性 逡巡 忌避 契機 4 自己 主体性 同化 受動 語は意味ではなく格で選ぶ
格による分布
入試にチャレンジ

他者の同化と、他者への同化

他者の同化と、他者への同化他者を取り込んで自己を維持することと、取り込むことで自己が他者化されることという、同じ行為の二つの向きを示した図。 食べる・呼吸する 他者「の」同化 自己 他者 他者を取り込んで自己を維持する 他者「へ」の同化 自己 他者 自己が絶えず他者化される 同時に 自己を保つための行為が、そのまま自己を変える行為でもある。 助詞の「の」と「へ」で、向きが逆になる ── ここが設問である
助詞の「の」と「へ」で、向きが逆になる
本文

言うまでもなく、人間は一個の身体として、あるいは生命体として存在している。アイデンティティを他者性との関係で捉えるとき、この身体という次元を無視することはできないだろう。あたりまえの話だが、ぼくらは自己の外部から酸素や水分、栄養などを絶えず摂取しなければ生きられない存在である。身体ないし生命としての「私」を維持するために、いつも外部から「他者」を取り込まなければならない、という逆説。だが、そのように他者を取り込むということは、同時に自己が絶えず他者化されることでもある。毒ガスや毒物という致命的な「他者」を摂取して、文字どおり身体が破壊されてしまうのは、そのような他者化の極端な例である(宗教的に厳格な人々がその戒律に則ってある種の食材を忌避する際にも、自らがまさしく肉体レベルで「他者化」されることへの恐怖があるにちがいない)。ぼくらはひとつの身体的存在として、そのような他者の同化および他者への同化という一見奇妙な事態を、日々生きているのだ。あるいは、ぼくらはそういう身体的存在として、自らの内部を未知の不確定な「外部」へとつねにすでに開いてしまっているのである。

さらに、身体ないし生命という契機が「アイデンティティ/他者性」という問題にとって重要だと思えるのは、それがぼくらの存在につきまとう、ある「受動性」を特徴的に示していると思えるからである。

詩人・吉野弘の作品に「I was born」というよく知られた印象的な散文詩がある。「英語を習い始めて間もない頃」の「少年」とその「父」の対話を軸にした作品である。ある夏の夕方、少年は父と一緒にどこかの寺の境内を歩いている。すると、むこうから妊婦がゆっくりと歩いてくる。少年は思わずその妊婦の腹に視線をとどめ、そこにうずくまっている胎児のことを想像し、やがてその胎児が生まれてくる不思議さに打たれる。そのとき少年は、生まれるということがまさしく「受け身」である理由をふと了解する。少年は興奮して父に話しかける。

――やっぱり I was born なんだね―― 父は怪訝そうに僕の顔をのぞきこんだ。僕は繰り返した。 ――I was born さ。受身形だよ。正しく言うと人間は生まれさせられるんだ。 自分の意志ではないんだね――

出典 細見和之『アイデンティティ/他者性』 / 出題 九州大学・教育学部・法学部・経済学部

存在の受動性生まれることが能動形では言えず受身形でしか言えないという、存在の受動性を示した図。 I bore myself 自分の意志で生まれる こうは言えない I was born 生まれさせられる 受身形でしか言えない 自分の意志ではない。これが存在につきまとう受動性である。 身体の他者性も、食べることの構造も、同じ受動性の上にある。 文法の形が、そのまま存在の条件を示している
存在の受動性
ヒント

自己がコントロールできない状況に置かれるということ。

傍線部「そのような他者の同化および他者への同化という一見奇妙な事態」とあるが、どういうことか。「他者の同化」と「他者への同化」との違いに留意し、その「奇妙な事態」の意味内容を答えよ。(オリジナル問題)

正解と解説

(例)他者を取り込むことによって、自己は自己として維持されるが、それは同時に、絶えず自己を他者化することでもあるということ。

「他者の同化」とは、他者が「自己に同化する」ことであり、「外部から『他者』を取り込む」ことで、「自己を維持する」こと。

一方、「他者への同化」は「自己が絶えず他者化される」ことだ。

これらの内容を両者の違いがわかるようにまとめればよい。

Output

産出

やるなら ── 次のいずれかを一段落で書く。

  • 相手によって現れ方が変わる自分を二つ挙げ、どちらが本当の自分かを決めずに書く
  • 自分の身体または心が意のままにならなかった場面を一つ挙げ、それを他者性の語で言い直す
Blank

自己が他者によってつくられるのなら、その他者もまた誰かによってつくられている。では、最初の一人はどこにいるのか。