原げん 書しょ の本文ほんぶん
四よっ つの段階だんかい
近代きんだい は身体しんたい 軽視けいし の時代じだい だった
近代きんだい の長なが い期間きかん にわたって、身体しんたい は、ただの物もの (物質ぶっしつ )としてとらえられてきた。たとえば、身体しんたい の病気びょうき は機械きかい の故障こしょう のようなものであるから、故障こしょう の原因げんいん である部品ぶひん を直なお せばもとどおりに回復かいふく する。西欧せいおう 医学いがく の身体しんたい 観かん とは、身体しんたい を物質ぶっしつ の集合しゅうごう としてみなすことで成立せいりつ しているのだ。
このような近代的きんだいてき な身体しんたい 観かん を準備じゅんび したのは、哲学者てつがくしゃ のデカルトだと言い われている。デカルトの心身しんしん 二元にげん 論ろん は、世界せかい を正ただ しく理解りかい するには精神せいしん (理性りせい )が必要ひつよう だとする一方いっぽう 、身体しんたい は物質ぶっしつ と同おな じようなものとして軽視けいし した。つまり、人間にんげん を人間にんげん たらしめているのは精神せいしん であり、身体しんたい は精神せいしん をおさめる単たん なる器うつわ でしかないというわけだ。
デカルトの心身二元論と身体軽視 精神を人間の本質とし身体を物質と同じ器とみなす二元論が、身体を機械として扱う医学観を準備したことを示した図。
精神(理性)
人間を人間たらしめるもの
身体
精神をおさめる単なる器
身体は物質の集合である
西欧医学の身体観
病気は機械の故障である。
部品を直せばもとどおりに
回復する。
この身体観を準備したのはデカルト
身体を物にしたことが、近代医学の力にも限界にもなった
身体しんたい を物もの にしたことが、近代きんだい 医学いがく の力ちから にも限界げんかい にもなった
身体しんたい と精神せいしん は関係かんけい している
デカルトに始はじ まる身体しんたい 軽視けいし が反省はんせい され、身体しんたい のとらえ方ほう に新あら たな視点してん が登場とうじょう したのは、二十にじゅう 世紀せいき に入はい ってからである。
身体しんたい が単たん なる物質ぶっしつ でないことの証拠しょうこ として、心こころ の不調ふちょう が続つづ くと身体しんたい に影響えいきょう が出で ることが挙あ げられる。たとえばストレスが強つよ くかかった状態じょうたい が長なが く続つづ くと、頭痛ずつう や不眠ふみん 症状しょうじょう が起お きたりする。このように、身体しんたい と精神せいしん とは相関そうかん 関係かんけい にある のだ。
身体と精神の相関 心の不調が身体に現れ、身体の不調が心に及ぶという双方向の関係を示した図。
精神
ストレス・不安
身体
頭痛・不眠
影響する
影響する
どちらが主でも従でもない。向きは双方向である。
この双方向性が、精神を上に置く二元論を崩す。
相関には向きがない ── 因果と混同しないこと
向む きは双方向そうほうこう である
見み ることのできない身体しんたい
また、私わたし たちは、物もの を見み るようには自分じぶん の身体しんたい を見み ることができない。
たとえば私わたし たちは、自分じぶん の顔かお や背中せなか を直接ちょくせつ 見み ることができない。学校がっこう にいる間あいだ だったら、クラスメイトの方ほう が自分じぶん の顔かお を見み ていることになる。このように考かんが えると、自分じぶん の身体しんたい について、私わたし たちが見み ることができる部分ぶぶん は、自分じぶん が思おも う以上いじょう に乏とぼ しいものなのだ。
したがって、自分じぶん の身体しんたい イメージとは、部分的ぶぶんてき な情報じょうほう の寄よ せ集あつ めでしかない。このことを抽象的ちゅうしょうてき に表現ひょうげん すると、「像ぞう としての身体しんたい 」 という言い い方かた になるのだが、ここで大事だいじ なことは、「像ぞう としての身体しんたい 」は身体しんたい そのものではないということだ。
自分じぶん にとって最もっと も身近みじか であるはずの身体しんたい は、イメージとしてしか把握はあく できない、最もっと も遠とお いものなのだ。
像としての身体 直接見える部分がわずかしかない身体が、断片の寄せ集めとして像に組み立てられることを示した図。
直接見える部分
手
脚
顔・背中は見えない
思う以上に乏しい
寄せ集め
補われる断片
鏡 写真 他人の言葉
記憶 感覚
像としての身体
「像としての身体」は、身体そのものではない。
最も身近なものが、最も遠いものになる
断片だんぺん を寄よ せ集あつ めて、像ぞう がつくられる
他者たしゃ としての身体しんたい
さらに自分じぶん にとっての身体しんたい のイメージには、他者たしゃ の視線しせん も紛まぎ れ込こ む。これは、「他者たしゃ が自分じぶん を見み る視線しせん 」が自分じぶん の身体しんたい イメージに影響えいきょう を与あた える ということだ。
たとえば、自分じぶん の身体しんたい を「肥満ひまん 」だととらえるイメージは、他者たしゃ の視線しせん を経由けいゆ することでつくられていく。だからこそ、大だい して太ふと っていない女性じょせい が、ダイエットに躍起やっき になるという事態じたい も起お こるのだ。
ここで言い う他者たしゃ とは、特定とくてい の誰だれ かのことではない。私わたし たちの身体しんたい は、(衣服いふく はまとっているが)常つね に不ふ 特定とくてい 多数たすう の人ひと 目め にさらされている。そこでは、無数むすう の視線しせん が「美醜びしゅう 」「男おとこ らしさ」「女おんな らしさ」といった評価ひょうか を伴ともな って、私わたし たちの身体しんたい イメージに影響えいきょう を与あた えていく。そのため、「イケメン」という言葉ことば で人ひと が変身へんしん をはかるのも、もっぱら他者たしゃ の視線しせん を意識いしき してのことであり、その成否せいひ は他者たしゃ の評価ひょうか に依存いぞん している。
自分じぶん の身体しんたい イメージは、自分じぶん の思おも い通とお りにはならない。それどころか、理想りそう のイメージを追お い求もと めるばかり、自分じぶん の身体しんたい をよそよそしいものとすら感かん じてしまう。これを「他者たしゃ としての身体しんたい 」 とよぶこともできるだろう。
他者の視線が身体イメージをつくる 認識できない身体そのものに対して、不特定多数の視線と評価が身体イメージを形づくることを示した図。
身体そのもの
認識は不可能
不特定多数の視線
評価を伴う
美醜
男らしさ・女らしさ
「肥満」という身体イメージ
大して太っていない人がダイエットに躍起になる理由がここにある
他者たしゃ の視線しせん が身体しんたい イメージをつくる
Terms — 本ほん サイトによる加筆かひつ
この主題しゅだい を読よ むための十二じゅうに 語ご
原げん 書しょ のキーワード番号ばんごう は付ふ されていない層そう である。概念がいねん 語ご 八やっ つと、本文ほんぶん ・入試にゅうし 文ぶん に現あらわ れる読解どっかい 語彙ごい 四よっ つを補おぎな う。
01 概念がいねん
身体しんたい
しんたい [1] し ん た い 頭高あたまだか 型がた
使用しよう の境界きょうかい 生い きて働はたら いているものとしてのからだ。物体ぶったい として扱あつか えば「肉体にくたい 」に近ちか づき、生い きられているものとして扱あつか えば身体しんたい になる。
用法ようほう 評ひょう 論文ろんぶん の「身体しんたい 」は、単たん なる「からだ」ではなく近代きんだい 批判ひはん の語ご として置お かれる。デカルト以来いらい 、身体しんたい は精神せいしん の器うつわ ・物質ぶっしつ として軽視けいし されてきた。二十にじゅう 世紀せいき の身体しんたい 論ろん はそこを反転はんてん させ、身体しんたい を世界せかい と接せっ する経路けいろ として捉とら え直なお す。読解どっかい の急所きゅうしょ は、日本語にほんご の「身み 」が心こころ とも人間にんげん 関係かんけい とも通つう じる語ご であるのに対たい し、「身体しんたい 」は西洋せいよう 語ご の訳語やくご として物体ぶったい の側がわ に引ひ かれてきたという二に 重じゅう 性せい にある。入試にゅうし 文ぶん はこの点てん をそのまま論ろん じている。
用例ようれい
私わたし は肉体にくたい の詩人しじん であり、また魂たましい の詩人しじん である。……もし肉体にくたい が人間にんげん でないとするなら、魂たましい とは何なに なのか。ウォルト・ホイットマン『草くさ の葉は 』「わたし自身じしん の歌うた 」(1855)/訳やく は本ほん 教材きょうざい
心身しんしん 二元にげん 論ろん への最もっと も短みじか い反論はんろん である。仕掛しか けは問と いの形かたち にある。「肉体にくたい も大事だいじ だ」と主張しゅちょう するのではない。肉体にくたい を人間にんげん から外はず したら、魂たましい の側がわ も定義ていぎ できなくなる と言い っている。魂たましい は肉体にくたい との対たい でしか意味いみ を持も たない からだ。この構かま えは 1-5 の 91 の心身しんしん 二元にげん 論ろん を内側うちがわ から崩くず す 。デカルトは二ふた つに分わ けたが、分わ けたあとで一方いっぽう だけを取と り出だ せるとは言い っていない 。ホイットマンはその取と り出だ しの不可能ふかのう を一行いちぎょう の問と いで突つ いた 。なお「詩人しじん である」と二に 度ど 名乗なの る形かたち も効き いている — 並なら べることでどちらも捨す てないと示しめ している 。
身体しんたい は大おお いなる理性りせい である。……我わ が兄弟きょうだい よ、汝なんじ が「精神せいしん 」と呼よ ぶあの小ちい さな理性りせい もまた、汝なんじ の身体しんたい の道具どうぐ にすぎない。フリードリヒ・ニーチェ『ツァラトゥストラはこう言い った』「身体しんたい の軽蔑けいべつ 者しゃ について」(1883)/訳やく は本ほん 教材きょうざい
心こころ と身体しんたい の上下じょうげ を正面しょうめん から引ひき っくり返かえ した一節いっせつ である。仕掛しか けは「理性りせい 」という語ご の取と り合あ い にある。理性りせい は本来ほんらい 精神せいしん の側がわ の看板かんばん だ。ニーチェはその看板かんばん を身体しんたい の側がわ へ持も っていく 。身体しんたい こそが大おお いなる理性りせい であり、精神せいしん はその道具どうぐ にすぎない 、と。なぜそう言い えるのか — 意識いしき に上のぼ るのは身体しんたい でなされている膨大ぼうだい な調整ちょうせい のごく一部いちぶ だけ だからだ。心臓しんぞう も消化しょうか も免疫めんえき も、考かんが えなくても整ととの えられている 。1-5 の 91 の心身しんしん 二元にげん 論ろん が精神せいしん を上うえ に置お いた のに対たい し、ここでは順位じゅんい が逆転ぎゃくてん する 。ただし注意ちゅうい したい — 上下じょうげ を入い れ替か えただけでは二元にげん 論ろん は残のこ る 。02 の相関そうかん で見み るとおり、この主題しゅだい の要かなめ は順位じゅんい ではなく分わ けたこと自体じたい にある。
身体しんたい は、自分じぶん のものでありながら自分じぶん の思おも い通とお りにはならない。
この主題しゅだい の出発点しゅっぱつてん である。所有しょゆう はしているが支配しはい はしていない 。心臓しんぞう は止と められず、眠ねむ りは命令めいれい できない。所有しょゆう と支配しはい のずれ が、07 の所有しょゆう と 08 の随ずい 意い でそれぞれ扱あつか われる。
×毎まい 朝あさ 走はし って身体しんたい を鍛きた えている。
通つう じるが、「体からだ 」「からだ」 のほうが自然しぜん である。評ひょう 論語ろんご の身体しんたい は心こころ との対たい で立た てられる概念がいねん 語ご で、運動うんどう や健康けんこう の対象たいしょう としての肉体にくたい を指さ す語ご ではない 。「体からだ 」に置お き換か えて意味いみ が変か わらないなら、そこに身体しんたい は要い らない — 2-1 の 01 で見み た他者たしゃ /他人たにん と同おな じ見分みわ け方ほう が使つか える。
派生はせい 形けい
肉体にくたい [0] 物質ぶっしつ としての側面そくめん を強つよ く出だ す語ご 。「肉体にくたい 労働ろうどう 」「肉体にくたい 的てき な疲労ひろう 」。身体しんたい が心こころ との関係かんけい のなかで立た てられるのに対たい し、肉体にくたい は精神せいしん の反対はんたい 物ぶつ として置お かれる。二元にげん 論ろん の内側うちがわ の語ご である。
身体的しんたいてき [0] 形容けいよう 動詞どうし 形けい 。「身体的しんたいてき な接触せっしょく 」のように使つか う。注意ちゅうい したいのは、「肉体にくたい 的てき 」より中立ちゅうりつ である点てん だ。肉体にくたい 的てき には性せい 的てき ・労働ろうどう 的てき な含ふく み が付つ きやすいが、身体的しんたいてき にはそれが無な い。
生身なまみ [0] 和わ 語ご の言い い方かた 。代替だいたい のきかない、傷きず つく身体しんたい を指さ す。「生身なまみ の人間にんげん 」と言い えば抽象ちゅうしょう 化か を拒こば む宣言せんげん になる。評ひょう 論文ろんぶん では制度せいど や数値すうち に対たい して個別こべつ の身体しんたい を対置たいち する ときに使つか われる。
コロケーション
身体しんたい 性せい 性質せいしつ だけを抜ぬ く語ご 身体しんたい という実体じったい ではなく、身体しんたい をもつことに由来ゆらい する性質せいしつ 。この語ご が要い るのは、思考しこう にも言葉ことば にも身体しんたい の痕跡こんせき がある と言い いたいときだ。「腑ふ に落お ちる」「手て に負お えない」— 抽象的ちゅうしょうてき なことを言い う語彙ごい が身体しんたい から来き ている 。1-3 のメタファーがここに根ね を持も つ 。
身体しんたい を通とお した理解りかい 知ち の別べつ の道みち 説明せつめい されて分わ かるのではなく、できるようになって分わ かる こと。自転車じてんしゃ の乗の り方ほう は言葉ことば では伝つた わらない 。この結むす びつきが評ひょう 論文ろんぶん で重おも いのは、近代きんだい の知ち が言語化げんごか できるものだけを知ち として数かぞ えてきた からだ。1-6 の 121 の近代きんだい 合理主義ごうりしゅぎ が取と りこぼした側がわ が、ここにある。
身体しんたい の物象ぶっしょう 化か 批判ひはん の語ご 身体しんたい が部品ぶひん や資源しげん として扱あつか われる こと。医療いりょう でも労働ろうどう でも身体しんたい は数値すうち に置お き換か えられる 。1-6 の 133 の物神ぶっしん 性せい が自分じぶん の身体しんたい に及およ んだ形かたち で、持も ち主ぬし である当人とうにん までが自分じぶん の身体しんたい を管理かんり 対象たいしょう として見み る ようになる。
身体しんたい 感覚かんかく 測はか れないものを指さ す語ご 自分じぶん の内側うちがわ から感かん じられる身体しんたい の状態じょうたい 。この語ご が便利べんり なのは、外そと から観察かんさつ できる身体しんたい と区別くべつ できる からだ。体温たいおん 計けい の数字すうじ とだるさは別べつ のもの だ。この二ふた つが食く い違ちが うとき、どちらを本当ほんとう とするか — 身体しんたい 論ろん の問と いはここに集あつ まる。
格かく 中なか 書か き言葉ことば ・会話かいわ の両方りょうほう で使つか える。
類るい 語ご と差さ
肉体にくたい 物質ぶっしつ としてのからだ精神せいしん と対立たいりつ させて置お く語ご 。魂たましい の器うつわ という含ふく みが強つよ い。身体しんたい は経験けいけん する主体しゅたい としての側面そくめん を含ふく む。
身み からだ・我わ が身み 訓読くんどく み。日本語にほんご では「身み に沁し む」のように心こころ にも通つう じ、人間にんげん 関係かんけい の位置いち も表あらわ す。物体ぶったい の意い はほとんどない。
物体ぶったい 空間くうかん を占し める物もの ☑9 対象たいしょう 化か の対象たいしょう 。近代きんだい はこの側がわ から身体しんたい を捉とら えた。
生身なまみ 生い きているからだ傷きず つきやすさを含意がんい する。身体しんたい は中立ちゅうりつ で学術的がくじゅつてき 。
EN bodyZH 身体(身体, shēntǐ)
02 概念がいねん
相関そうかん
そうかん [0] そ う か ん 平板へいばん 型がた
語ご 構成こうせい
相そう あい・たがいに + 関せき かかわる
使用しよう の境界きょうかい 二ふた つのものが互たが いに影響えいきょう し合あ う関係かんけい 。片方かたほう が原因げんいん で片方かたほう が結果けっか という向む きは含ふく まない。
用法ようほう 最もっと も重要じゅうよう なのは因果いんが との区別くべつ である。相関そうかん があっても、どちらが原因げんいん かは分わ からない。心こころ の不調ふちょう が続つづ くと身体しんたい に不調ふちょう が出で る、身体しんたい の不調ふちょう が続つづ くと心こころ が沈しず む──この主題しゅだい では双方向そうほうこう であることが要点ようてん になる。だから「身体しんたい と精神せいしん は相関そうかん 関係かんけい にある」は、精神せいしん が主しゅ で身体しんたい が従じゅう という二元にげん 論ろん を崩くず す言い い方かた になっている。統計とうけい の文脈ぶんみゃく では「相関そうかん がある」と「因果いんが がある」を混同こんどう することが典型的てんけいてき な誤あやま りとして扱あつか われる。
用例ようれい
心こころ のうちの受動じゅどう は、身体しんたい のうちの能のう 動どう である。……我々われわれ が情念じょうねん と呼よ ぶものは、身体しんたい の働はたら きが心こころ に及およ ぼした結果けっか にほかならない。ルネ・デカルト『情念じょうねん 論ろん 』第一だいいち 部ぶ (1649)/訳やく は本ほん 教材きょうざい
二元にげん 論ろん を立た てた当人とうにん が、二ふた つの結むす びつきに苦くる しんでいる一節いっせつ である。心こころ と身体しんたい をまったく別べつ の実体じったい として分わ けたのはデカルトだ。ところが分わ けた途端とたん 、手て を動うご かそうと思おも うと手て が動うご く という日常にちじょう の事実じじつ が説明せつめい できなくなる。別べつ の実体じったい どうしは触ふ れ合ごう えない はずだからだ。この一文いちぶん の「受動じゅどう 」と「能のう 動どう 」の対たい は、触ふ れ合ごう えないものを無理むり に接続せつぞく しようとする苦くる しまぎれの工夫くふう である。(デカルトは最終的さいしゅうてき に脳のう の松果腺しょうかせん に接点せってん を求もと めた。)相関そうかん という語ご は、この失敗しっぱい の跡あと 地ち に建た てられている — 因果いんが は説明せつめい できないが、対応たいおう していることは確たし かだ 。
悲かな しいから泣な くのではない。泣な くから悲かな しいのである。ウィリアム・ジェイムズ『心理学しんりがく 原理げんり 』第だい 二十にじゅう 五ご 章しょう (1890)の主旨しゅし による/訳やく は本ほん 教材きょうざい
心こころ と身体しんたい の順序じゅんじょ を入い れ替か えてみせた命題めいだい である。常識じょうしき では心こころ が先さき 、身体しんたい が後あと だ。ジェイムズは身体しんたい の変化へんか が先さき に起お き、それを感かん じ取と ることが感情かんじょう である と言い う。この主張しゅちょう の強つよ さは検証けんしょう できる ことにある — 姿勢しせい を変か えれば気分きぶん が変か わり、笑顔えがお を作つく ると実際じっさい に少すこ し楽らく しくなる 。ただし注意ちゅうい したいのは、順序じゅんじょ を逆ぎゃく にしただけでは二元にげん 論ろん は残のこ っている ことだ。先さき か後あと かを争あらそ っているかぎり、二ふた つあることは前提ぜんてい のまま である。01 のメルロ=ポンティが順序じゅんじょ ではなく「同おな じ一ひと つの出来事できごと の二ふた つの面めん 」 と言い い直なお したのは、この手前てまえ で止と まらないためだった。
姿勢しせい を正ただ すと気持きも ちも改かい まる。ここに心身しんしん の相関そうかん が現あらわ れている。
この語ご の日常にちじょう での現あらわ れ である。注意ちゅうい したいのは、相関そうかん は因果いんが ではない ことだ。姿勢しせい が気分きぶん を変か えたのか、両方りょうほう を変か える第だい 三さん のもの があるのか、これだけでは決き まらない。言い えるのは「連動れんどう している」までである 。
×勉強べんきょう 時間じかん と成績せいせき には相関そうかん があるので、勉強べんきょう すれば成績せいせき が上あ がる。
相関そうかん から因果いんが へ飛と んでいる 。相関そうかん は一方いっぽう が動うご くともう一方いっぽう も動うご く という関係かんけい の記述きじゅつ にすぎない。もともと成績せいせき のよい生せい 徒と がよく勉強べんきょう する という逆向ぎゃくむ きも、家庭かてい 環境かんきょう が両方りょうほう を決き めている という第だい 三さん の要因よういん もありうる。この飛躍ひやく は評ひょう 論文ろんぶん で最もっと も多おお く指摘してき される誤あやま り である。
派生はせい 形けい
相関的そうかんてき [0] 二ふた つが対応たいおう している ことを言い う。「相関そうかん 的てき な関係かんけい 」は重じゅう 言げん になるので避さ ける。「相関そうかん 的てき に理解りかい する」のように方法ほうほう の側がわ で使つか う のがすっきりする。
因果いんが [1] 相関そうかん より強つよ い主張しゅちょう 。一方いっぽう がもう一方いっぽう を引ひ き起お こす 。時間じかん の順序じゅんじょ と他ほか の要因よういん の排除はいじょ が示しめ されて初はじ めて言い える。「相関そうかん がある」で止と めるか「因果いんが がある」まで行い くかで、証明しょうめい の負担ふたん がまるで違ちが う 。
連動れんどう [0] やわらかい言い い換か え 。仕組しく みまでは問と わずに一緒いっしょ に動うご くことだけを言い う。相関そうかん が統計とうけい ・学術がくじゅつ の語ご なのに対たい し、連動れんどう は日常にちじょう でも使つか える 。文章ぶんしょう の硬かた さで選えら び分わ ける 。
コロケーション
心身しんしん 相関そうかん 定型ていけい としての語ご 心こころ と身体しんたい がたがいに影響えいきょう し合あ う こと。この言い い方かた が医学いがく でも哲学てつがく でも使つか われるのは、因果いんが を決き めずに事実じじつ だけ書か ける からだ。説明せつめい を保留ほりゅう したまま前まえ へ進すす める というこの便利べんり さが、そのまま説明せつめい の先送さきおく り にもなりうる。
相関そうかん 関係かんけい 因果いんが と分わ ける語ご 「相関そうかん 関係かんけい は因果いんが 関係かんけい を意味いみ しない」 は統計とうけい の基本きほん 原則げんそく である。この結むす びつきが評ひょう 論文ろんぶん で重おも いのは、数字すうじ を出だ されると因果いんが に見み えてしまう からだ。1-7 の 143 の情報じょうほう 社会しゃかい でデータが増ふ えるほど、相関そうかん はいくらでも見み つかる — 見み つかりすぎることが新あたら しい問題もんだい になっている 。
相関そうかん 的てき に捉とら える方法ほうほう を言い う語ご 二ふた つを別々べつべつ に見み ず、関係かんけい のなかで見み る という構かま え。1-2 の要素ようそ 論ろん に対たい する全体ぜんたい 論ろん の側がわ の言い い方かた で、身体しんたい 論ろん はこの構かま えを心こころ と身体しんたい に適用てきよう する 。片方かたほう を先さき に決き めてからもう片方かたほう を説明せつめい する のをやめる、という宣言せんげん である。
相関そうかん の切断せつだん 二元にげん 論ろん の帰結きけつ 心こころ と身体しんたい を切き り離はな して別々べつべつ に扱あつか えるとする こと。医学いがく がここまで進すす んだのはこの切断せつだん のおかげ でもある。身体しんたい を機械きかい として扱あつか えば部品ぶひん を直なお せる 。切断せつだん は誤あやま りである前まえ にきわめて有効ゆうこう な方法ほうほう だった — この点てん を認みと めないと、二元にげん 論ろん 批判ひはん はただの悪口わるぐち になる。
格かく 硬かた 書か き言葉ことば 。会話かいわ では不自然ふしぜん 。
類るい 語ご と差さ
因果いんが 原因げんいん と結果けっか の結むす びつき☑51。向む きがある。相関そうかん は向む きを問と わない。この差さ が最重要さいじゅうよう 。
関連かんれん つながりがある 広ひろ い。相関そうかん は変動へんどう が連動れんどう していることを言い う。
連動れんどう 一方いっぽう が動うご けば他方たほう も動うご く機械的きかいてき な結むす びつき。相関そうかん は統計的とうけいてき な傾向けいこう を指さ すことが多おお い。
相互作用そうごさよう 互たが いに働はたら きかけ合あ う作用さよう の実体じったい がある。相関そうかん は関係かんけい の記述きじゅつ にとどまる。
EN correlationZH 相关(関連する, xiāngguān)
03 概念がいねん
像ぞう
ぞう [1] ぞ う 頭高あたまだか 型がた
使用しよう の境界きょうかい 心こころ に思おも い浮う かべられたかたち。もの自体じたい ではなく、それについて作つく られた表あらわ れを指さ す。
用法ようほう この主題しゅだい の中核ちゅうかく をなす語ご で、「像ぞう としての身体しんたい 」は身体しんたい そのものではない という一点いってん が要点ようてん になる。自分じぶん の顔かお も背中せなか も直接ちょくせつ は見み えず、鏡かがみ と他人たにん の言葉ことば と写真しゃしん から寄よ せ集あつ めた断片だんぺん で像ぞう を作つく っている。したがって最もっと も身近みじか なはずの身体しんたい が、像ぞう としてしか把握はあく できない最もっと も遠とお いもの になる。この逆説ぎゃくせつ がテーマ全体ぜんたい を貫つらぬ く。「像ぞう 」単独たんどく より「身体しんたい 像ぞう 」「自己じこ 像ぞう 」の形かたち で使つか われることが多おお い。
用例ようれい
人ひと は、たがいにとっての鏡かがみ である。……我々われわれ は他人たにん の心こころ に映うつ った自分じぶん の姿すがた を想像そうぞう し、その姿すがた についての相手あいて の判断はんだん を想像そうぞう し、そこから誇ほこ りや恥はじ といった感情かんじょう をもつ。チャールズ・ホートン・クーリー『人間にんげん 性せい と社会しゃかい 秩序ちつじょ 』(1902)/訳やく は本ほん 教材きょうざい
自己じこ 像ぞう がどう作つく られるかを、三さん 段階だんかい に分解ぶんかい してみせた一節いっせつ である。クーリーはこれを「鏡かがみ に映うつ った自己じこ 」 と呼よ んだ。注目ちゅうもく したいのは、二に 度ど 「想像そうぞう し」と繰く り返かえ されている ことだ。実際じっさい に相手あいて が何なに を思おも っているかは分わ からない 。我々われわれ が反応はんのう しているのは想像そうぞう された判断はんだん である。だから自己じこ 像ぞう は他人たにん の実際じっさい の評価ひょうか ではなく、こちらが読よ み取と ったつもりの評価ひょうか でできている。誰だれ も何なに も思おも っていなくても恥はじ ずかしくなりうる のはこのためだ。2-1 の 01 で見み た他者たしゃ の視線しせん が、相手あいて が見み ていなくても働はたら く理由りゆう がここにある。
一人ひとり の子こ が、生せい 後ご 六ろく か月げつ から十八じゅうはち か月げつ のあいだに、鏡かがみ のなかの像ぞう を自分じぶん だと認みと める。そのとき子こ は、まだ自力じりき で立た てないにもかかわらず、一ひと つのまとまった姿すがた を先取さきど りして引ひ き受う ける。ジャック・ラカン「鏡像きょうぞう 段階だんかい 」(1936/1949)の主旨しゅし による/訳やく は本ほん 教材きょうざい
身体しんたい の像ぞう が身体しんたい より先さき に来く る という倒錯とうさく を指摘してき した議論ぎろん である。要よう は順序じゅんじょ だ。乳児にゅうじ は自分じぶん の身体しんたい をばらばらにしか感かん じていない 。手て も足あし もまだ思おも い通とお りにならない。ところが鏡かがみ にはすでに完成かんせい した一ひと つの姿すがた が映うつ っている。実感じっかん より先さき に像ぞう のほうがまとまっている のだ。この先取さきど りが自己じこ という統一とういつ の出発点しゅっぱつてん になるが、同時どうじ に自己じこ は最初さいしょ から外側そとがわ の像ぞう に借か りを作つく っている ことにもなる。2-1 の 03 の自己じこ が他者たしゃ なしに立た たない という主張しゅちょう が、ここでは鏡かがみ という装置そうち で説明せつめい されている。
鏡かがみ に映うつ るのは像ぞう であって、感かん じられている身体しんたい ではない。この二ふた つはしばしば食く い違ちが う。
この主題しゅだい の要点ようてん である。内側うちがわ から感かん じる身体しんたい と外そと から見み える像ぞう は別々べつべつ に作つく られる。摂食せっしょく 障害しょうがい も、容姿ようし への執着しゅうちゃく も、この二ふた つのずれ から起お きる。11 の美醜びしゅう は像ぞう の側がわ にだけ属ぞく する語ご である。
×駅前えきまえ に立派りっぱ な像ぞう が建た った。
彫像ちょうぞう のことなら「銅どう 像ぞう 」「彫像ちょうぞう 」 である。評ひょう 論語ろんご の像ぞう は心こころ のなかに結むす ばれるイメージ を指さ すことが多おお く、物もの としての像ぞう とは別べつ に読よ む 。なお「像ぞう を結むす ぶ」「自己じこ 像ぞう 」「身体しんたい 像ぞう 」のように、複合ふくごう 語ご の形かたち で出で てきたらほぼ概念がいねん 語ご だと見当けんとう をつけてよい。
派生はせい 形けい
イメージ [1] 外来語がいらいご での言い い換か え 。像ぞう よりやわらかく、曖昧あいまい さを許ゆる す 。「イメージが湧わ く」は自然しぜん だが「像ぞう が湧わ く」とは言い わない 。像ぞう は結むす ぶもの、イメージは持も つもの という共起きょうき の差さ がある。
表象ひょうしょう [0] 哲学てつがく の術語じゅつご 。心こころ に思おも い浮う かべられたもの で、1-5 の 93 の知覚ちかく と対たい で使つか われる。像ぞう が視覚しかく に寄よ る のに対たい し、表象ひょうしょう は感覚かんかく の種類しゅるい を問と わない 。射程しゃてい が広ひろ いぶん、手触てざわ りは薄うす い 。
形象けいしょう [0] 形かたち として現あらわ れたもの 。文ぶん 芸げい 批評ひひょう で作品さくひん のなかに立た ち上あ がる姿すがた を指さ して使つか う。作つく られたものである という含ふく みが強つよ く、自然しぜん にそこにある像ぞう とは区別くべつ される。
コロケーション
身体しんたい 像ぞう この主題しゅだい の術語じゅつご 自分じぶん の身体しんたい について心こころ の内ない に持も っている像ぞう 。この語ご が要い るのは、実際じっさい の身体しんたい と像ぞう が一致いっち しない からだ。手足てあし を失うしな った人ひと が失うしな った部分ぶぶん の痛いた みを感かん じる (幻肢げんし )のは、像ぞう のほうが残のこ っている からである。身体しんたい は物もの であると同時どうじ に像ぞう でもある ことの、最もっと も鮮明せんめい な証拠しょうこ 。
自己じこ 像ぞう 像ぞう が像ぞう を見み る自分じぶん について描えが いている像ぞう 。2-1 の 07 の再帰さいき がここで具体的ぐたいてき な形かたち をとる 。注意ちゅうい したいのは、自己じこ 像ぞう を修正しゅうせい する作業さぎょう もまた自己じこ 像ぞう のなかで行おこな われる ことだ。外そと へ出で て確たし かめられない。だから他者たしゃ の言葉ことば が要い る — クーリーの鏡かがみ はここに効き いてくる。
像ぞう を結むす ぶ光学こうがく から来き た言い い方かた レンズが光ひかり を集あつ めて一点いってん に像ぞう を作つく る という物理ぶつり の語彙ごい 。この比喩ひゆ が定着ていちゃく したのは、像ぞう が「そこに在あ る」のではなく「そのつど作つく られる」 ことを言い えるからだ。条件じょうけん が変か われば像ぞう も変か わる — 自己じこ 像ぞう が場面ばめん ごとに違ちが うのも同おな じ理屈りくつ になる。
偶像ぐうぞう 像ぞう が実体じったい を奪うば う語ご 本来ほんらい は拝おが むために作つく られた像ぞう 。転てん じて実体じったい より像ぞう のほうが力ちから を持も つ事態じたい を指さ す。1-6 の 133 のフェティシズムと同おな じ場所ばしょ を宗教しゅうきょう の語彙ごい で言い った形かたち である。ベーコンのイドラ(1-2)も同おな じ語ご から来き ている — 像ぞう は認識にんしき を助たす けもすれば妨さまた げもする 。
格かく 硬かた 書か き言葉ことば 。会話かいわ では不自然ふしぜん 。
類るい 語ご と差さ
表象ひょうしょう 心こころ に立た ち現あらわ れた像ぞう ☑65。ほぼ同義どうぎ の学術がくじゅつ 語ご 。像ぞう はより素朴そぼく で、視覚的しかくてき な含ふく みが強つよ い。
イメージ 思おも い浮う かぶ姿すがた 外来語がいらいご で日常的にちじょうてき 。像ぞう はその漢かん 語形ごけい で、文章ぶんしょう 語ご 。
実像じつぞう 実際じっさい のありさま対たい 語ご として使つか われる。虚きょ 像ぞう との対たい でも用もち いる。
印象いんしょう 感覚かんかく に残のこ った形かたち 受う けた側がわ の感覚かんかく 。像ぞう は対象たいしょう について作つく られた表あらわ れ。
EN imageZH 形象(形象・イメージ, xíngxiàng)
04 概念がいねん
身分けみわけ ⚠
みわけ [0] み わ け 平板へいばん 型がた
語ご 構成こうせい
身み からだ + 分わ け分節ぶんせつ すること
評ひょう 論ろん 家か ・市川いちかわ 浩ひろし の造語ぞうご 。「分わ け」は「分節ぶんせつ 」の意い である。
使用しよう の境界きょうかい 身体しんたい によって世界せかい を区切くぎ り、感かん じ分わ けること。言葉ことば による区切くぎ り(言げん 分わ け)と対たい になる。
用法ようほう 評ひょう 論ろん 家か ・市川いちかわ 浩ひろし の造語ぞうご で、☑67 分節ぶんせつ を身体しんたい の側がわ へ拡張かくちょう した 語ご である。赤あか ん坊ぼう が言葉ことば を覚おぼ えて物もの の区別くべつ を知し るのが言げん 分わ け、快かい と不快ふかい を身体しんたい で区別くべつ するのが身分みぶん け。「こっちに行い くと危き なそうだ」という予感よかん は理性りせい の判断はんだん ではなく、身体的しんたいてき なセンサーの働はたら きに近ちか い。要点ようてん は、世界せかい の切き り分わ けが言語げんご の独占どくせん ではない という主張しゅちょう にある。空気くうき を読よ む・雰囲気ふんいき を察さっ するといった日常にちじょう の営いとな みが、ここで理論りろん の対象たいしょう になる。
用例ようれい
観かん 見み 二ふた つの事こと 、観かん の目め つよく、見み の目め よはく、遠とお き所しょ を近ちか く見み 、近ちか き所しょ を遠とお く見み る事こと 、兵法ひょうほう の専せん なり。宮本武蔵みやもとむさし 『五輪ごりん 書しょ 』水みず 之の 巻かん (1645)
言葉ことば より手前てまえ で世界せかい が分わ けられていることを示しめ した一節いっせつ である。武蔵むさし は目め の働はたら きを「観かん 」と「見み 」の二ふた つ に分わ けた。「見み 」は目め に映うつ るものをそのまま追お う働はたら き、「観かん 」は場ば 全体ぜんたい の気配けはい を掴つか む働はたら きである。注目ちゅうもく したいのは、強つよ くせよと言い われるのが「観かん 」のほう だという点てん だ。はっきり見み えているものほど当あ てにならない 。そして「遠とお き所しょ を近ちか く見み 、近ちか き所しょ を遠とお く見み る」— 距離きょり の感かん じ方ほう そのものを作つく り変か えよ と言い っている。ここで分わ けられているのは言葉ことば ではなく身体しんたい の構かま え だ。身分みぶん けという語ご が指さ すのはまさにこの層そう — 言葉ことば で分わ ける(言げん 分わ け)前まえ に、身体しんたい がすでに世界せかい を分わ けてしまっている 。1-3 の分節ぶんせつ が言語げんご だけの仕事しごと ではない と言い われる根拠こんきょ がここにある。
習慣しゅうかん は、身体しんたい が世界せかい を了りょう 解かい する仕方しかた である。……盲人もうじん の杖つえ は、もはや彼かれ が知覚ちかく する対象たいしょう ではなく、彼かれ がそれによって知覚ちかく する器官きかん となる。モーリス・メルロ=ポンティ『知覚ちかく の現象学げんしょうがく 』第一だいいち 部ぶ (1945)/訳やく は本ほん 教材きょうざい
身分みぶん けが拡張かくちょう しうることを示しめ した一節いっせつ である。杖つえ は最初さいしょ 手て に持も った物もの だ。慣な れると杖つえ の先さき で地面じめん を感かん じる ようになる。感覚かんかく の境界きょうかい が手て のひらから杖つえ の先さき へ移動いどう する のだ。ここから二ふた つ出で てくる。第一だいいち に、身体しんたい の輪郭りんかく は皮膚ひふ ではない 。第だい 二に に、身分みぶん けは生う まれつきではなく習慣しゅうかん で作つく られる 。車くるま の車幅しゃふく 感覚かんかく も、楽器がっき も、道具どうぐ が身体しんたい になる例れい だ。05 の外部がいぶ 化か と向む きが正反対せいはんたい である — あちらは身体しんたい の働はたら きが外そと へ出で ていき、こちらは外そと の物もの が身体しんたい に入はい ってくる。
言葉ことば で名な を与あた える前まえ に、身体しんたい はすでに世界せかい を分わ けている。これを身分みぶん け という。
この語ご の定義ていぎ である。暗くら い部屋へや に入はい ったとき、言葉ことば にする前まえ に身体しんたい がすくむ 。言げん 分わ けが身分みぶん けの上うえ に乗の っている という順序じゅんじょ がこの主題しゅだい の主張しゅちょう だ。1-3 の 記号きごう と分節ぶんせつ を下した から支ささ えている層そう にあたる。
×荷物にもつ を種類しゅるい ごとに身分みぶん け して片かた づけた。
そういう語ご は無な い 。仕分しわ けるなら「仕分しわ け」「区分くぶん け」 である。身分みぶん けは「言げん 分わ け」と対たい にして作つく られた術語じゅつご で、身体しんたい による世界せかい の分節ぶんせつ を指さ す。造語ぞうご である以上いじょう 、文中ぶんちゅう で必かなら ず対たい の「言げん 分わ け」と一緒いっしょ に出だ す のが読よ み手て への礼儀れいぎ になる。
派生はせい 形けい
言分けことわけ [0] 対たい になる術語じゅつご 。言語げんご によって世界せかい を切き り分わ けること。1-3 の 分節ぶんせつ を和わ 語ご で言い い直なお した形かたち にあたる。「ことわけ」と読よ み、「言い い訳やく 」とは別語べつご 。ルビが必須ひっす の語ご である。
身体化しんたいか [0] 知識ちしき や技術ぎじゅつ が身体しんたい に染し み込こ む こと。「型かた が身体しんたい 化か する」。意識いしき しなくてもできる状態じょうたい がその到達点とうたつてん で、そのぶん説明せつめい できなくなる という代償だいしょう を伴ともな う。
身に付くみにつく [3] 日常にちじょう 語ご での言い い方かた 。「覚おぼ える」との差さ に注意ちゅうい したい。覚おぼ えるのは頭あたま 、身み に付つ くのは身体しんたい 。日本語にほんご がもともとこの二ふた つを分わ けている ことが、身分みぶん けという造語ぞうご を受う け入い れやすくしている。
コロケーション
言げん 分わ けと身分みぶん け対たい でのみ働はたら く語ご この二に 語ご は片方かたほう だけでは意味いみ をなさない 。言げん 分わ けは言語げんご による分節ぶんせつ 、身分みぶん けは身体しんたい による分節ぶんせつ 。要点ようてん は順序じゅんじょ にある — 身分みぶん けが先さき にあり、言げん 分わ けがその上うえ に重かさ ねられる 。だから言語げんご で説明せつめい しきれない領域りょういき が必かなら ず残のこ る 。
身体しんたい 図式ずしき 近ちか い概念がいねん 自分じぶん の身体しんたい の各部かくぶ 分ぶん の位置いち を意識いしき せずに把握はあく している仕組しく み。目め を閉と じても手て がどこにあるか分わ かる 。03 の身体しんたい 像ぞう が見み られる姿すがた なのに対たい し、身体しんたい 図式ずしき は動うご くための地図ちず である。像ぞう は意識いしき され、図式ずしき は意識いしき されない 。
暗黙あんもく 知ち 言葉ことば にならない知ち 語かた れる以上いじょう に知し っている という事態じたい を指さ す語ご 。身分みぶん けはこの知ち の身体的しんたいてき な土台どだい にあたる。1-7 の 152 のアカデミズムが扱あつか いにくいのはこの層そう だ — 論文ろんぶん にできない知ち は学問がくもん の外そと に置お かれる 。職人しょくにん の技わざ が継承けいしょう の危機きき にあるのも同おな じ理由りゆう による。
身分みぶん けの習慣しゅうかん 化か 後天こうてん 性せい を言い う語ご 身分みぶん けが訓練くんれん で作つく り変か えられる こと。メルロ=ポンティの杖つえ がその例れい である。この面めん を押お さえておくと、身体しんたい が自然しぜん のままの土台どだい だ という素朴そぼく な見方みかた を避さ けられる。身体しんたい もまた文化ぶんか に彫ほ られている — 1-4 の 73 の文化ぶんか がここまで届とど いている。
格かく 硬かた ・学術がくじゅつ 論文ろんぶん ・評ひょう 論ろん でのみ使つか う。会話かいわ では不自然ふしぜん 。
類るい 語ご と差さ
言げん 分わ け言葉ことば による分節ぶんせつ 対たい 語ご 。☑67 分節ぶんせつ を言葉ことば の側がわ に限定げんてい した言い い方かた 。
分節ぶんせつ 連続れんぞく に切き れ目め を入い れる☑67。上位じょうい 概念がいねん 。身分みぶん けと言げん 分わ けはその二ふた つの様式ようしき 。
直観ちょっかん 筋道すじみち を経へ ずに捉とら える働はたら きの速はや さ。身分みぶん けは身体しんたい という経路けいろ を指定してい する。
暗黙あんもく 知ち 言葉ことば にできない知ち ポランニー。身分みぶん けが蓄積ちくせき したものと言い える。
EN bodily articulationZH 身体分节(身体による分節, shēntǐ fēnjié)
日中にっちゅう のズレ
身分みぶん け・言げん 分わ けは日本語にほんご の造語ぞうご であり、中国語ちゅうごくご に定訳ていやく がない。
説明せつめい するなら 身体的分节/语言的分节 のように分解ぶんかい して言い うことになる。
05 概念がいねん
外部化がいぶか
がいぶか [0] が い ぶ か 平板へいばん 型がた
使用しよう の境界きょうかい 内ない にあったものを外そと へ移うつ し、独立どくりつ した形かたち にすること。単たん に外そと に出だ すのではなく、外そと に置お いたまま働はたら かせる点てん を含ふく む。
用法ようほう 二ふた つの層そう で使つか われる点てん が要点ようてん になる。①身体しんたい 機能きのう の外部がいぶ 化か ──ナイフは爪つめ や歯は の、ハンマーは拳こぶし の、車輪しゃりん は足あし の延長えんちょう である。道具どうぐ は身体しんたい の機能きのう を外そと へ移うつ したものだ。②身体しんたい そのものの外部がいぶ 化か ──疲つか れや病気びょうき のとき、身体しんたい が自分じぶん の一部いちぶ ではなく他人たにん の物もの のように感かん じられる。「足あし が棒ぼう のようになる」がその例れい 。①は道具どうぐ が身体しんたい になる方向ほうこう 、②は身体しんたい が物もの になる方向ほうこう で、向む きが逆ぎゃく である。この対比たいひ が Key Point の骨格こっかく をなす。
用例ようれい
この技術ぎじゅつ は、学まな ぶ者もの の魂たましい に忘却ぼうきゃく を生しょう じさせるだろう。彼かれ らは書か かれたものを頼たよ りにして、自分じぶん の内ない から思おも い出だ すことをやめ、外そと にある他人たにん の刻きざ みつけた印しるし によって思おも い出だ そうとするからだ。プラトン『パイドロス』(前まえ 370頃ころ )/訳やく は本ほん 教材きょうざい
外部がいぶ 化か の最初さいしょ の批判ひはん である。批判ひはん されているのは文字もじ だ。注目ちゅうもく したいのは、この批判ひはん が文字もじ で書か かれている ことである。プラトンは文字もじ を疑うたが いながら文字もじ で残のこ した 。そしてそのおかげで二千にせん 四百年よんひゃくねん 後ご の我々われわれ がこの批判ひはん を読よ める 。外部がいぶ 化か を論ろん じる議論ぎろん がつねに抱かか える自己じこ 矛盾むじゅん が、出発点しゅっぱつてん にすでにある。要点ようてん は「内ない から思おも い出だ す」と「外そと の印しるし によって思おも い出だ す」 の対たい だ。同おな じ「思おも い出だ す」でも働はたら きの所在しょざい が違ちが う 。1-7 の 143 の情報じょうほう 社会しゃかい で検索けんさく が記憶きおく を肩かた 代か わりする話はなし は、この一節いっせつ の反復はんぷく である。
道具どうぐ は、人間にんげん の器官きかん の延長えんちょう である。……人間にんげん はその作つく った物もの のなかへ、自分じぶん の力ちから を移うつ し置お いてきた。エルンスト・カップ『技術ぎじゅつ 哲学てつがく 要綱ようこう 』(1877)/訳やく は本ほん 教材きょうざい
外部がいぶ 化か を肯定こうてい の側がわ から定式化ていしきか した一節いっせつ である。ハンマーは拳こぶし の延長えんちょう 、レンズは目め の延長えんちょう 、車輪しゃりん は脚あし の延長えんちょう 。この見方みかた の利り 点てん は、技術ぎじゅつ を人間にんげん の外そと にある異物いぶつ としない ところにある。道具どうぐ は人間にんげん の一部いちぶ が外そと へ出で たもの だ。ところがここから不穏ふおん な帰結きけつ も出で る — 出で て行おこな った器官きかん は、本体ほんたい の側がわ で衰おとろ える 。計算機けいさんき が計算けいさん を引ひ き受う ければ暗算あんざん が衰おとろ え、記録きろく 装置そうち が記憶きおく を引ひ き受う ければ記憶きおく が衰おとろ える。延長えんちょう と喪失そうしつ は同おな じ一ひと つの出来事できごと の二ふた つの面めん である。04 のメルロ=ポンティの杖つえ とちょうど逆向ぎゃくむ き に読よ める。
記憶きおく を紙かみ に、計算けいさん を機械きかい に委ゆだ ねる。こうした外部がいぶ 化か は能力のうりょく の拡張かくちょう であると同時どうじ に能力のうりょく の委譲いじょう でもある。
両面りょうめん を一文いちぶん に収おさ める型かた である。できることが増ふ えると同時どうじ に、できなくなることも増ふ える 。どちらか一方いっぽう だけを書か くと技術ぎじゅつ 礼賛らいさん か技術ぎじゅつ 嫌悪けんお に落お ちる。評ひょう 論文ろんぶん が求もと めるのは差さ 引ひ きを書か くこと だ。
×社内しゃない の経理けいり 業務ぎょうむ を外部がいぶ 化か した。
通つう じるが、経営けいえい の語ご としては「外部委託がいぶいたく 」「アウトソーシング」 である。評ひょう 論語ろんご の外部がいぶ 化か は人間にんげん の能力のうりょく や機能きのう が身体しんたい の外そと の物もの へ移うつ されること を指さ す概念がいねん 語ご で、業務ぎょうむ の委託いたく とは層そう が違ちが う 。ただし両者りょうしゃ は地続じつづ き でもあり、その地続じつづ きを論ろん じる のがこの語ご の使つか いどころになる。
派生はせい 形けい
外化がいか [0] 哲学てつがく の術語じゅつご 。ヘーゲルの Entäußerung の訳やく で、内ない にあるものが外そと に形かたち をとって現あらわ れる こと。そのあと疎遠そえん なものになる という含ふく みがあり、1-6 の 137 の疎そ 外がい と同おな じ根ね を持も つ。
外部性がいぶせい [0] 経済学けいざいがく では別べつ の意味いみ 。取引とりひき の当事者とうじしゃ 以外いがい に影響えいきょう が及およ ぶこと (外部がいぶ 経済けいざい ・外部がいぶ 不ふ 経済けいざい )。同おな じ「外部がいぶ 」でも分野ぶんや で意味いみ が変か わる ので、評ひょう 論文ろんぶん ではどちらの文脈ぶんみゃく かを先さき に確たし かめる 。
内面化ないめんか [0] 逆向ぎゃくむ きの語ご 。外そと にあった規範きはん や視線しせん を自分じぶん の内側うちがわ の基準きじゅん にする こと。1-7 の 144 の監視かんし 社会しゃかい と1-4 の 83 の世間せけん がこの語ご で結むす ばれる 。外部がいぶ 化か と内面化ないめんか は交互こうご に起お きる と見み ると、技術ぎじゅつ と心こころ の関係かんけい が読よ みやすくなる。
コロケーション
身体しんたい の外部がいぶ 化か この主題しゅだい での形かたち 身体しんたい が担にな っていた働はたら きが道具どうぐ や機械きかい へ移うつ る こと。この結むす びつきが要い るのは、外部がいぶ 化か の対象たいしょう が記憶きおく や計算けいさん だけではない からだ。移動いどう も、力ちから も、感覚かんかく さえ外そと へ出だ せる。身体しんたい でしかできないことが何なに かを問と う ことが、身体しんたい 論ろん の現代的げんだいてき な課題かだい になる。
記憶きおく の外部がいぶ 化か 最もっと も古ふる い形かたち 文字もじ 、印刷いんさつ 、写真しゃしん 、記録きろく 装置そうち 。プラトン以来いらい 同おな じ批判ひはん が技術ぎじゅつ のたびに繰く り返かえ されている 。押お さえておきたいのは、批判ひはん が毎回まいかい 当あ たっていると同時どうじ に外はず れている ことだ。暗誦あんしょう の力ちから は確たし かに衰おとろ えたが、そのぶん書物しょもつ を突つ き合あ わせる知ち が生う まれた 。
外部がいぶ 化か と内面化ないめんか 往復おうふく する対たい 外そと へ出だ したものが、今度こんど は内側うちがわ の基準きじゅん として取と り込こ まれる という循環じゅんかん 。文字もじ を外そと に出だ したはずが、文字もじ で考かんが えるようになる 。1-7 の 144 で見み た自発的じはつてき な服従ふくじゅう もこの形かたち をしている — 外そと にあった監視かんし が内側うちがわ の目め になる 。
外部がいぶ 化か された自己じこ 現代げんだい の論点ろんてん 記録きろく ・投稿とうこう ・履歴りれき として身体しんたい の外そと に蓄積ちくせき された自分じぶん 。この語ご が要い るのは、その蓄積ちくせき が本人ほんにん より詳くわ しく本人ほんにん を知し っている という事態じたい が生しょう じたからだ。2-1 の 03 の自己じこ が関係かんけい のなかで作つく られる なら、データもまたその関係かんけい の一部いちぶ になる。
格かく 硬かた ・学術がくじゅつ 論文ろんぶん ・評ひょう 論ろん でのみ使つか う。会話かいわ では不自然ふしぜん 。
類るい 語ご と差さ
内部ないぶ 化か 外そと にあったものを内ない に取と り込こ む対たい 語ご 。道具どうぐ に慣な れると自分じぶん の一部いちぶ になる過程かてい がこれにあたる。
疎そ 外がい 自作じさく 物ぶつ が逆ぎゃく に人ひと を支配しはい する☑21。外部がいぶ 化か した結果けっか として起お こりうる事態じたい 。段階だんかい が違ちが う。
客体きゃくたい 化か 働はたら きかけられる側がわ に置お き直なお す☑107。外部がいぶ 化か は機能きのう を移うつ すこと、客体きゃくたい 化か は扱あつか いを変か えること。
代替だいたい 別べつ のもので置お き換か える入い れ替か え。外部がいぶ 化か は元もと のものが残のこ ったまま外そと にも置お かれる。
EN externalisationZH 外部化(外部化, wàibùhuà)
06 概念がいねん
媒体ばいたい ⚠
ばいたい [0] ば い た い 平板へいばん 型がた
使用しよう の境界きょうかい 二ふた つのものを結むす びつける仲立なかだ ちとなるもの。それ自体じたい は目的もくてき ではなく、通とお り道みち として働はたら く。
用法ようほう 入試にゅうし 設問せつもん の急所きゅうしょ がここにある。身体しんたい は「所有しょゆう という行為こうい の媒体ばいたい 」である とは、何なに かを自分じぶん のものとして意い のままにするとき、掴つか む・持も つという形かたち で身体しんたい がその通とお り道みち になっている、という意味いみ である。つまり身体しんたい は、私わたし が随ずい 意い に使用しよう しうる一ひと つの器官きかん として働はたら いている。ところが同おな じ身体しんたい を、私わたし は自由じゆう にできない。痛いた みも倦けん 怠たい も抗こう えない。媒体ばいたい として使つか えるのに、その媒体ばいたい 自体じたい は意い のままにならない ──この二に 重じゅう 性せい が問と われている。
用例ようれい
文字もじ を書か くための蝋板ろうばん は、それ自身じしん は何なに の形かたち も持も たない。だからこそ、あらゆる形かたち を受う け取と ることができる。アリストテレス『魂たましい について』第だい 三さん 巻かん (前4世紀ぜんよんせいき )の主旨しゅし による/訳やく は本ほん 教材きょうざい
媒体ばいたい の条件じょうけん を一ひと つの比喩ひゆ で示しめ した議論ぎろん である。アリストテレスが説明せつめい しようとしたのは感覚かんかく がなぜ働はたら くか だった。目め がもし色いろ を持も っていたら、その色いろ がすべての見み え方かた に混ま ざる 。何なに も持も たないからこそ何なに でも映うつ せる 。この条件じょうけん は媒体ばいたい 一般いっぱん に当あ てはまる — よい媒体ばいたい は自分じぶん を目立めだ たせない 。ところがここに難所なんしょ がある。本当ほんとう に何なに の形かたち も持も たない媒体ばいたい は存在そんざい しない 。紙かみ には紙かみ の、画面がめん には画面がめん の性質せいしつ があり、それが伝つた わる中身なかみ を必かなら ず変か える 。2-3 の 01 の媒介ばいかい が「媒体ばいたい は透明とうめい ではない」 と言い い切き るのは、この難所なんしょ を引ひ き受う けるためである。
身体しんたい は、我々われわれ が世界せかい をもつための一般的いっぱんてき な媒体ばいたい である。モーリス・メルロ=ポンティ『知覚ちかく の現象学げんしょうがく 』第一だいいち 部ぶ (1945)/訳やく は本ほん 教材きょうざい
身体しんたい を媒体ばいたい として定義ていぎ し直なお した一文いちぶん である。04 で引ひ いた杖つえ の一節いっせつ と同おな じ書物しょもつ の、すぐ近ちか くにある命題めいだい で、杖つえ が身体しんたい になるという話はなし はこの定義ていぎ の系けい にあたる 。「一般的いっぱんてき な」という限定げんてい が要よう だ。眼鏡めがね は見み るための媒体ばいたい 、電話でんわ は話はな すための媒体ばいたい — どれも特定とくてい の用途ようと に限かぎ られている。身体しんたい だけがすべてに関かか わる 。そして重要じゅうよう なのは、この媒体ばいたい は取と り替か えられない ことだ。眼鏡めがね は外はず せるが、身体しんたい は外はず せない 。だから身体しんたい という媒体ばいたい の性質せいしつ は、そのまま世界せかい の見み え方かた になる 。1-5 の 89 で見み た離り 見み の見み が難むずか しいのはこのためだ — 見み るための当とう のものを外はず して見み ることはできない 。
身体しんたい は、世界せかい と関かか わるための媒体ばいたい であり、その媒体ばいたい を取と り替か えることはできない。
この主題しゅだい の中核ちゅうかく である。道具どうぐ は選えら べる、言葉ことば も選えら べる。身体しんたい だけが与あた えられたまま だ。2-1 の 09 の受動じゅどう が最もっと も具体的ぐたいてき に現あらわ れる場所ばしょ が身体しんたい である。
×新聞しんぶん やテレビなどの媒体ばいたい は身体しんたい の延長えんちょう である。
間違まちが いではないが 、報道ほうどう 機関きかん を指さ すなら「メディア」 と書か くほうが誤解ごかい が少すく ない。「媒体ばいたい 」は広告業こうこくぎょう 界かい では掲載けいさい 先さき の意い で使つか われるため、身体しんたい 論ろん の文脈ぶんみゃく と混ま ざりやすい 。同おな じ語ご が分野ぶんや をまたぐときは、一度いちど 定義ていぎ を置お いてから使つか う 。
派生はせい 形けい
媒介ばいかい [0] 働はたら きの側がわ の語ご 。媒体ばいたい が間あいだ に立た つ物もの を指さ すのに対たい し、媒介ばいかい は間あいだ に立た ってつなぐ働はたら き を指さ す。2-3 の 01 で立た てる語ご で、ヘーゲル以来いらい 直接ちょくせつ と対たい にして使つか われる。
媒質ばいしつ [0] 物理ぶつり の語ご 。音おと や光ひかり が伝つた わるその中身なかみ (空気くうき ・水みず )。媒ばい 質しつ が変か われば速はや さも屈折くっせつ も変か わる という事実じじつ が、媒体ばいたい は中身なかみ を変か える という主張しゅちょう の下敷したじ きになっている。
メディア [1] medium の複数ふくすう 形けい がそのまま定着ていちゃく した形かたち 。日本語にほんご では単たん 数すう のように扱あつか う 。報道ほうどう 機関きかん を指さ す用法ようほう が強きょう すぎるため、身体しんたい や言語げんご をメディアと呼よ ぶ議論ぎろん では広こう 義ぎ であることを断ことわ ってから使つか う のが安全あんぜん である。
コロケーション
媒体ばいたい としての身体しんたい この主題しゅだい の言い い方かた 身体しんたい を目的もくてき ではなく通とお り道みち として見み る構かま え。この見方みかた の利り 点てん は、身体しんたい が「私わたし が持も っている物もの 」でも「私わたし そのもの」でもない と言い えることにある。持も ち物もの なら手放てばな せ、私わたし そのものなら距離きょり が取と れない 。媒体ばいたい という位置いち づけはその中間ちゅうかん を指ゆび せる数少かずすく ない語ご である。
媒体ばいたい の透明性とうめいせい 成な り立た たない理想りそう 媒体ばいたい が自分じぶん を感かん じさせずに中身なかみ だけを伝つた える という理想りそう 。実際じっさい にはどの媒体ばいたい も固有こゆう の性質せいしつ を持も ち込こ む 。2-3 の 01 の媒介ばいかい がこの語ご を正面しょうめん から扱あつか う 。身体しんたい でいえば、疲つか れているときの世界せかい と元気げんき なときの世界せかい は同おな じではない 。
媒体ばいたい を意識いしき する透明とうめい でなくなる瞬間しゅんかん 普段ふだん は感かん じない媒体ばいたい が急きゅう に前まえ へ出で てくる とき。歯は が痛いた むと身体しんたい が世界せかい より手前てまえ に立た つ 。08 の随ずい 意い が効き かなくなった瞬間しゅんかん である。媒体ばいたい は壊こわ れたときにだけ見み える — 道具どうぐ についても同おな じことが言い える。
複数ふくすう の媒体ばいたい 重かさ ねて使つか う語ご 身体しんたい ・言葉ことば ・道具どうぐ ・制度せいど 。人ひと はつねにいくつもの媒体ばいたい を重かさ ねて世界せかい と関かか わっている 。この見方みかた を取と ると、どこまでが自分じぶん かが決き まらなくなる 。05 の外部がいぶ 化か と04 の身分みぶん けが境界きょうかい を両方向りょうほうこう へ動うご かしている からだ。
格かく 中なか 書か き言葉ことば ・会話かいわ の両方りょうほう で使つか える。
類るい 語ご と差さ
媒介ばいかい 仲立なかだ ちすること働はたら きのほう。媒体ばいたい はその働はたら きを担にな う物もの や仕組しく み。
手段しゅだん 目的もくてき を果は たすための方法ほうほう 目的もくてき との関係かんけい 。媒体ばいたい は二者にしゃ を結むす ぶという構造こうぞう を指さ す。
道具どうぐ 働はたら きを助たす ける物もの 使つか う側がわ から見み た呼よ び名な 。媒体ばいたい は通とお り道みち としての位置いち を言い う。
メディア 情報じょうほう を伝つた える媒体ばいたい 外来語がいらいご 。日本語にほんご では報道ほうどう 機関きかん を指さ すことが多おお い。
EN mediumZH 媒介物(媒介するもの, méijièwù)
日中にっちゅう のズレ
中国語ちゅうごくご の 媒体ばいたい (méitǐ)はマスメディア・報道ほうどう 機関きかん を指さ すのが通例つうれい で、日本語にほんご の「媒体ばいたい 」とは重かさ ならない。
「仲立なかだ ちとなるもの」の意い では 媒介ばいかい (méijiè) や 媒介ばいかい 物ぶつ を用もち いる。
07 概念がいねん
所有しょゆう ⚠
しょゆう [0] しょ ゆ う 平板へいばん 型がた
語ご 構成こうせい
所しょ ところ・〜するもの + 有ゆう もつ
使用しよう の境界きょうかい 自分じぶん のものとして意い のままにできること。手元てもと に置お いているだけでは足た りず、処分しょぶん できることを含ふく む。
用法ようほう 入試にゅうし 文ぶん が与あた える定義ていぎ が精密せいみつ で、「なにかをじぶんのものとして、意い のままにできる」 ことを所有しょゆう と呼よ ぶ。だから所有しょゆう は単たん なる保持ほじ ではなく、処分しょぶん できることを含ふく む。この定義ていぎ を取と ると、身体しんたい は所有しょゆう の媒体ばいたい でありながら、身体しんたい そのものは所有しょゆう できないことになる。痛いた みも倦けん 怠たい も意い のままにならないからである。「自分じぶん の身体しんたい は自分じぶん のものだ」という言い い方かた が揺ゆ らぐ のがこの主題しゅだい の要点ようてん で、☑123 個人こじん ・☑160 自己じこ 責任せきにん の前提ぜんてい にも触ふ れる。
用例ようれい
たとえ大地だいち とすべての下級かきゅう の被ひ 造物ぞうぶつ が万人ばんにん の共有きょうゆう 物ぶつ であるとしても、人ひと は誰だれ でも自分自身じぶんじしん の身体しんたい に対たい する所有権しょゆうけん をもつ。これについては、本人ほんにん 以外いがい の誰だれ も権利けんり をもたない。ジョン・ロック『統治とうち 二に 論ろん 』第だい 二に 篇へん 第だい 五ご 章しょう (1690)/訳やく は本ほん 教材きょうざい
近代きんだい の所有権しょゆうけん の全体ぜんたい がこの一段いちだん から出で てくる 。手順てじゅん はこうだ — まず身体しんたい が自分じぶん のものである と置お く。すると身体しんたい を使つか ってなした労働ろうどう も自分じぶん のもの になる。その労働ろうどう を混ま ぜた対象たいしょう も自分じぶん のものになる 。身体しんたい の所有しょゆう から土地とち の所有しょゆう までが一本いっぽん の線せん でつながる のである。この論法ろんぽう の巧たく みさは、誰だれ も反対はんたい しない前提ぜんてい から出発しゅっぱつ する ことにある。「私わたし の身体しんたい は私わたし のものだ」を否定ひてい する人ひと はいない。だが 1-6 の 122 で見み たルソーの「囲かこ い」 と並なら べて読よ むと、同おな じ操作そうさ が正当化せいとうか にも告発こくはつ にもなる ことが分わ かる。そして現代げんだい の生命せいめい 倫理りんり は、この出発点しゅっぱつてん そのもの を問と い直なお している — 身体しんたい は本当ほんとう に「持も ち物もの 」なのか 。
身体しんたい 髪膚はっぷ 、これを父母ふぼ に受じゅ く。あへて毀傷きしょう せざるは、孝こう の始はじ めなり。『孝経こうきょう 』開宗かいそう 明みん 義章よしあき
身体しんたい の所有しょゆう を正面しょうめん から否定ひてい する一節いっせつ である。身体しんたい は自分じぶん のものではない。父母ふぼ から受う けた預あず かりもの だ。だから傷きず つけない。ロックの論法ろんぽう と出発点しゅっぱつてん が正反対せいはんたい である。ここから制度せいど の差さ が一直線いっちょくせん に出で てくる — 身体しんたい が自分じぶん のものなら売う っても捨す ててもよい ことになるが、預あず かりものなら処分しょぶん の自由じゆう は無な い 。刺青いれずみ も、臓器ぞうき 提供ていきょう も、安楽死あんらくし も、この二ふた つの前提ぜんてい のどちらに立た つかで結論けつろん が変か わる 。1-7 の 159 の自己じこ 決定けってい が身体しんたい に及およ ぶとき、争あらそ われているのは個別こべつ の是非ぜひ ではなくこの出発点しゅっぱつてん である。
身体しんたい を所有しょゆう しているという言い い方かた は、身体しんたい を自分じぶん から切き り離はな せるものとして扱あつか っている。
語ご 法ほう から前提ぜんてい を取と り出だ す型かた である。「持も つ」と言い うためには持も つ者もの と持も たれる物もの が別べつ でなければならない 。ところが身体しんたい を手放てばな したら持も つ者もの のほうが消き える 。所有しょゆう という語ご が身体しんたい にはうまく当あ てはまらない ことが、ここから見み える。
×彼かれ は広ひろ い土地とち を所有しょゆう している。
誤あやま りではないが、この主題しゅだい では出で 番ばん がない 。評ひょう 論語ろんご としての 07 は身体しんたい をめぐって「持も つ」という関係かんけい が成な り立た つかどうか を問と う場面ばめん で使つか う。土地とち や物もの の所持しょじ を言い うだけなら日常にちじょう 語ご の所有しょゆう で、1-6 の 122 の私的してき 所有しょゆう の文脈ぶんみゃく に属ぞく する。
派生はせい 形けい
所持しょじ [1] 手元てもと にあること だけを言い う。所有しょゆう が権利けんり を含ふく むのに対たい し、所持しょじ は事実じじつ にとどまる。拾ひろ った物もの は所持しょじ しているが所有しょゆう はしていない — 法ほう の語彙ごい ではこの差さ が決定的けっていてき である。
占有せんゆう [0] 事実上じじつじょう 支配しはい していること 。所持しょじ より強つよ く、所有しょゆう より弱よわ い。三さん 語ご が段階だんかい をなしている ことを押お さえておくと、評ひょう 論文ろんぶん の法律ほうりつ 用語ようご で迷まよ わない。
固有こゆう [0] 語源ごげん が同おな じ 。英語えいご の property は「所有物しょゆうぶつ 」とも「特とく 性せい 」とも訳やく せる 。持も っているものとその物もの の性質せいしつ が同おな じ語ご だった という事実じじつ は、2-1 の 04 の固有こゆう 性せい と05 の属性ぞくせい を結むす び直なお す手て がかりになる。
コロケーション
身体しんたい の所有しょゆう この主題しゅだい での形かたち 「私わたし の身体しんたい 」の「の」が何なに を意味いみ しているか という問と い。「私わたし の鞄かばん 」の「の」とは違ちが う。鞄かばん は手放てばな しても私わたし は残のこ る が、身体しんたい はそうではない。同おな じ助詞じょし がまったく違ちが う関係かんけい を指さ している — 1-3 で見み たとおり、言葉ことば の形かたち が同おな じでも関係かんけい は同おな じではない 。
所有しょゆう と使用しよう 分わ けて考かんが える対たい 持も つことと使つか うことは別べつ である。この区別くべつ が要い るのは、身体しんたい については使用しよう しかできない からだ。1-6 の 122 で見み たとおり、近代きんだい の所有しょゆう は売う れること を中心ちゅうしん に組く まれている。売う れないものを所有しょゆう と呼よ べるのか という問と いが、ここから立た つ。
所有しょゆう の媒体ばいたい この章しょう の要約ようやく 身体しんたい はあらゆる所有しょゆう を可能かのう にする条件じょうけん でありながら、それ自体じたい はうまく所有しょゆう できない 。手て が無な ければ物もの を持も てない。だが手て を持も っている とはどういうことか。所有しょゆう の土台どだい が所有しょゆう の外そと にある というこの構造こうぞう が、06 の媒体ばいたい という語ご で言い い直なお される。
自己じこ 所有権しょゆうけん 現代げんだい の争点そうてん 自分じぶん の身体しんたい ・生命せいめい ・労働ろうどう について本人ほんにん が決き める権利けんり 。この語ご が強力きょうりょく なのは、奴隷制どれいせい も強制きょうせい 労働ろうどう も一撃いちげき で否定ひてい できる からだ。ところが同おな じ原理げんり が臓器ぞうき 売買ばいばい や代理だいり 出産しゅっさん の正当化せいとうか にも使つか える。解放かいほう の原理げんり がそのまま商品しょうひん 化か の原理げんり になる — 1-6 の 135 の啓蒙けいもう の反転はんてん と同おな じ形かたち である。
格かく 中なか 書か き言葉ことば ・会話かいわ の両方りょうほう で使つか える。
類るい 語ご と差さ
占有せんゆう 事実じじつ として手元てもと に置お いている法律ほうりつ 用語ようご 。権利けんり の有無うむ を問と わない。所有しょゆう は権利けんり を含ふく む。
保ほ 有ゆう 持も ち続つづ けている継続けいぞく 。所有しょゆう は処分しょぶん の自由じゆう まで含ふく む。
私有しゆう 個人こじん が持も つ☑128 資本しほん 主義しゅぎ の要件ようけん 。所有しょゆう の一いち 形態けいたい 。
支配しはい 思おも い通とお りに動うご かす力ちから の行使こうし 。所有しょゆう は関係かんけい の名な で、行使こうし していなくても成な り立た つ。
EN possession / ownershipZH 拥有(持っている, yōngyǒu)
日中にっちゅう のズレ
中国語ちゅうごくご の 所有しょゆう (suǒyǒu)は「すべての」 という連体れんたい 修飾語しゅうしょくご として使つか われるのが最もっと も多おお い(所有しょゆう 的てき 人ひと =すべての人ひと )。
日本語にほんご の「所有しょゆう する」は 拥有(yōngyǒu) 、所有権しょゆうけん は 所有权(suǒyǒuquán)となる。
08 概念がいねん
随意ずいい ⚠
ずいい [1] ず い い 頭高あたまだか 型がた
語ご 構成こうせい
随ずい したがう + 意い こころ・おもい
使用しよう の境界きょうかい 自分じぶん の意志いし のままであること。制限せいげん がないという意味いみ ではなく、意志いし が及およ ぶという意味いみ 。
用法ようほう 生理学せいりがく の術語じゅつご としての用法ようほう が土台どだい にある。随意筋ずいいきん は意志いし で動うご かせる筋肉きんにく 、不随意筋ふずいいきん は心臓しんぞう や内臓ないぞう のように動うご かせない筋肉きんにく を指さ す。入試にゅうし 文ぶん の「随ずい 意い に使用しよう しうる一いち 器官きかん 」はこの含ふく みを背負せお っており、身体しんたい が意志いし の及およ ぶ範囲はんい にあることを言い う。ところがその同おな じ身体しんたい に、意志いし の及およ ばない部分ぶぶん がある。随ずい 意い と不ふ 随ずい 意い が同おな じ身体しんたい に同居どうきょ している ことが、身体しんたい の奇妙きみょう な現あらわ れ方ほう の正体しょうたい になる。「随ずい 意い 」単独たんどく は硬かた く、日常にちじょう では「自由じゆう に」に置お き換か わる。
用例ようれい
イワン・イリイチの生涯しょうがい は、きわめて単純たんじゅん で、ありふれたもので、そして最もっと も恐おそ ろしいものであった。……彼かれ はただ、痛いた みと、その痛いた みが去さっ らないという事実じじつ だけを知し っていた。レフ・トルストイ『イワン・イリイチの死し 』(1886)/訳やく は本ほん 教材きょうざい
随ずい 意い が効き かなくなったとき何なに が起お きるかを描えが いた小説しょうせつ の核かく である。イワン・イリイチは出世しゅっせ も家庭かてい も思おも い通とお りに整ととの えてきた男おとこ だ。ところが原因げんいん 不明ふめい の痛いた みが始はじ まると、その一点いってん だけがどうにもならない 。注目ちゅうもく したいのは、痛いた みが生涯しょうがい 全体ぜんたい の意味いみ を問と い直なお させる点てん である。思おも い通とお りになっていた部分ぶぶん は思おも い通とお りになるがゆえに問と われなかった 。随ずい 意い でなくなったものだけが意識いしき に上のぼ る のだ。06 で見み た媒体ばいたい は壊こわ れたときにだけ見み える という命題めいだい が、ここでは一人ひとり の生涯しょうがい として書か かれている。
身体しんたい のうちには、意志いし によって動うご く部分ぶぶん と、意志いし とかかわりなく動うご く部分ぶぶん とがある。……心臓しんぞう は、我々われわれ が眠ねむ っているあいだも打う ち続つづ ける。ガレノス『身体しんたい 諸しょ 部分ぶぶん の用途ようと について』(2世紀にせいき )の主旨しゅし による/訳やく は本ほん 教材きょうざい
随ずい 意い という区分くぶん の最もっと も古ふる い記述きじゅつ である。古代こだい の医学いがく がすでにこの線せん を引ひ いていた。注意ちゅうい したいのは、この区分くぶん が身体しんたい の内側うちがわ を二ふた つに割わ る ことだ。命令めいれい の届とど く領域りょういき と届とど かない領域りょういき 。届とど かない側がわ は自分じぶん の身体しんたい でありながら自分じぶん の管轄外かんかつがい にある。2-1 の 02 で見み た自己じこ の他者たしゃ 性せい が、ここでは解剖学かいぼうがく の事実じじつ として現あらわ れている。さらに面白おもしろ いのは、境界きょうかい が動うご く ことだ — 呼吸こきゅう は普段ふだん は不ふ 随ずい 意い だが意識いしき すれば随ずい 意い になる 。訓練くんれん で境界きょうかい を動うご かせる ことが、04 の身分みぶん けの習慣しゅうかん 性せい とつながる。
心臓しんぞう は随ずい 意い に動うご かせない。この不ふ 随ずい 意い の領域りょういき こそが、身体しんたい が単たん なる持も ち物もの ではないことの証拠しょうこ である。
この語ご の使つか いどころ である。全部ぜんぶ が随ずい 意い なら身体しんたい は道具どうぐ にすぎない 。一部いちぶ が随ずい 意い でないからこそ身体しんたい は他者たしゃ の顔かお を持も つ 。07 の所有しょゆう とちょうど対たい をなす 語ご である。
×休きゅう みの日ひ は随ずい 意い に過す ごしている。
「自由じゆう に」「思おも いのままに」 である。随ずい 意い は意志いし のままに動うご かせる という意い で、主おも に身体しんたい の動うご きについて使つか う硬かた い語ご 。「随意筋ずいいきん 」「不ふ 随ずい 意い 運動うんどう 」のように医学いがく ・生理学せいりがく の語彙ごい として定着ていちゃく している。なお「随ずい 意い 契約けいやく 」はまったく別べつ の法律ほうりつ 用語ようご で、競争きょうそう 入札にゅうさつ によらない契約けいやく のこと。
派生はせい 形けい
不随意ふずいい [2] 否定ひてい 形けい のほうがよく使つか われる 。「不ふ 随ずい 意い 運動うんどう 」「不随意筋ふずいいきん 」。普通ふつう の状態じょうたい に名な は要い らず、外はず れたときだけ名な が要い る という語彙ごい の非対称ひたいしょう がここにも現あらわ れている。
随伴ずいはん [0] 「随ずい 」の字じ のもう一ひと つの顔かお 。つき従したが う 意い 。「随ずい 意い 」の随ずい は意い に従したが う で、従したが う先さき が自分じぶん の意志いし である ところにこの語ご の要点ようてん がある。
恣意しい [1] 紛まぎ らわしい語ご 。随ずい 意い が意い のままに動うご かせる ことなら、恣意しい は気き ままで筋すじ が通とお らない こと。前者ぜんしゃ は能力のうりょく 、後者こうしゃ は非難ひなん 。1-3 の 記号きごう の恣意性しいせい はまた別べつ の意味いみ で、必然的ひつぜんてき な理由りゆう が無な い ことを指さ す。
コロケーション
随意筋ずいいきん ・不随意筋ふずいいきん 身体しんたい を二に 分ぶん する語ご 意志いし で動うご かせる筋すじ と、動うご かせない筋すじ 。この医学いがく の区分くぶん が身体しんたい 論ろん で引ひ かれるのは、「私わたし 」の輪郭りんかく が身体しんたい の内側うちがわ で止と まっている ことを示しめ すからだ。皮膚ひふ の内側うちがわ にも外部がいぶ がある — 2-1 の 02 の他者たしゃ 性せい が最もっと も具体的ぐたいてき になる場所ばしょ である。
随ずい 意い 性せい を失うしな う病やまい と老お いの語ご できていた動うご きができなくなる こと。この言い い方かた が要い るのは、失うしな われて初はじ めてそれが能力のうりょく だったと分わ かる からだ。歩ある くことも飲の み込こ むことも、できているあいだは数かぞ えられていない 。身体しんたい 論ろん が病やまい と老お いを中心ちゅうしん 的てき な主題しゅだい にする のはこの理由りゆう による。
意志いし と身体しんたい 古ふる い難問なんもん 意志いし はどうやって身体しんたい を動うご かすのか。02 で見み たデカルトの困難こんなん がいまも解と けていない 問と いである。神経しんけい の仕組しく みが分わ かっても、「動うご かそうと思おも う」ことがどこで信号しんごう に変か わるのか は別べつ の問題もんだい として残のこ る。説明せつめい が進すす んでも問と いが消き えない珍めずら しい例れい 。
随ずい 意い の錯覚さっかく 現代げんだい の論点ろんてん 自分じぶん で決き めたと感かん じる感覚かんかく が、実際じっさい の行為こうい の開始かいし よりあとに来く る という実験じっけん 。この報告ほうこく が衝撃的しょうげきてき なのは、随ずい 意い という感覚かんかく そのものが身体しんたい の産物さんぶつ かもしれない からだ。2-1 の 06 の主体性しゅたいせい が最もっと も足元あしもと から揺ゆ さぶられる のがこの論点ろんてん である。
格かく 硬かた 書か き言葉ことば 。会話かいわ では不自然ふしぜん 。
類るい 語ご と差さ
任意にんい どれを選えら んでもよい 選択せんたく の自由じゆう を認みと める。随ずい 意い は意志いし が及およ ぶかどうかを言い う。
自由じゆう 束縛そくばく がない状態じょうたい 。随ずい 意い は意志いし との関係かんけい を言い う。
不ふ 随ずい 意い 意志いし が及およ ばない対たい 語ご 。内臓ないぞう や心臓しんぞう の動うご きがこれにあたる。
恣意しい 根拠こんきょ なく決き める☑35。否定的ひていてき 。随ずい 意い は中立ちゅうりつ で、医学いがく ・生理学せいりがく でも使つか う。
EN voluntaryZH 随意(気ままに, suíyì)
日中にっちゅう のズレ
中国語ちゅうごくご の 随ずい 意い (suíyì)は「気き ままに」「ご自由じゆう に」 という日常にちじょう 語ご である(随意吃=好す きなだけ食た べて)。
医学いがく の「随意筋ずいいきん 」は 随ずい 意い 肌はだ (suíyìjī)で、この用法ようほう は日本語にほんご と重かさ なる。
09 読解どっかい
対照たいしょう
たいしょう [0] た い しょ う 平板へいばん 型がた
語ご 構成こうせい
対たい むかいあう + 照しょう てらす
同音どうおん の「対象たいしょう 」「対称たいしょう 」との書か き分わ けが問と われる。比くら べるのが対照たいしょう 。
使用しよう の境界きょうかい 二ふた つを並なら べて違ちが いを浮う かび上うえ がらせること。同音どうおん の「対象たいしょう 」「対称たいしょう 」とは別語べつご 。
用法ようほう 対象たいしょう ・対称たいしょう ・対照たいしょう の書か き分わ けが繰く り返かえ し問と われる。「たいしょう」と読よ む三さん 語ご のうち、比くら べるのが対照たいしょう 、向む けられるのが対象たいしょう 、つり合あ うのが対称たいしょう である。入試にゅうし 文ぶん の「身体しんたい といえば魂たましい や心こころ と対照たいしょう されることが多おお いが、ほんとうは物体ぶったい と対照たいしょう したほうが」は、何なに と並なら べるかで見み えるものが変か わる という主張しゅちょう であり、この語ご が論ろん の運はこ びそのものを担にな っている。「対照的たいしょうてき 」は形容けいよう 動詞どうし として日常にちじょう でも使つか う。
用例ようれい
美うつく しいものは、それだけでは美うつく しくない。影かげ がなければ、光ひかり もまた光ひかり ではない。……我々われわれ の先祖せんぞ は、暗くら がりのなかに美び を発見はっけん した。谷崎たにざき 潤一郎じゅんいちろう 『陰翳いんえい 礼讃らいさん 』(1933)の主旨しゅし による
対照たいしょう という手て つきが何なに をしているかを示しめ した一節いっせつ である。谷崎たにざき の論ろん の運はこ びは徹頭徹尾てっとうてつび この形かたち だ — 西洋せいよう の明あか るさに対たい して日本にほん の暗くら がり、金属きんぞく の光沢こうたく に対たい して漆うるし の沈しず んだ艶つや 。片方かたほう だけでは何なに も言い えない 。注目ちゅうもく したいのは、対照たいしょう が優劣ゆうれつ の主張しゅちょう になりかけている ことである。谷崎たにざき は日本にほん の暗くら がりの側がわ に明あき らかに肩入かたい れしている。対照たいしょう は中立ちゅうりつ に見み えて中立ちゅうりつ ではない — どちらを先さき に置お き、どちらを後あと に置お くかで評価ひょうか が滲にじ み出で る 。評ひょう 論文ろんぶん で対照たいしょう が出で てきたら、並なら べ方ほう そのものを読よ む とよい。
質しつ 、文ぶん に勝か てば則そく ち野の 。文ぶん 、質しつ に勝か てば則そく ち史し 。文ぶん 質しつ 彬あきら 彬あきら として、然さ る後あと に君子くんし なり。『論語ろんご 』雍よう 也なり 篇へん
対照たいしょう を優劣ゆうれつ ではなく釣つ り合あ いのために使つか った一節いっせつ である。「質しつ 」は生地きじ ・中身なかみ 、「文ぶん 」は飾かざ り・かたち 。中身なかみ が勝か ちすぎれば野暮やぼ (野の ) になり、飾かざ りが勝か ちすぎれば役人やくにん くさく(史し ) なる。注目ちゅうもく したいのは、どちらか一方いっぽう を選えら ばせていない ことだ。対照たいしょう はふつう選択せんたく を迫せま る形かたち で使つか われる。ここでは逆ぎゃく に、両端りょうたん を示しめ すことで中間ちゅうかん に位置いち を作つく っている 。対照たいしょう は線せん を引ひ く道具どうぐ であると同時どうじ に、線せん の上うえ の目盛めも りを作つく る道具どうぐ でもある 。この使つか い分わ けができると、評ひょう 論文ろんぶん の二に 項こう 対立たいりつ がいつも二者にしゃ 択一たくいつ を求もと めているわけではない ことが読よ めるようになる。
筆者ひっしゃ は、西洋せいよう の身体しんたい 観かん と日本にほん の身体しんたい 観かん を対照たいしょう させることで、どちらの前提ぜんてい も相対そうたい 化か している。
評ひょう 論文ろんぶん でこの語ご が出で る典型てんけい である。対照たいしょう の目的もくてき は優劣ゆうれつ を決き めることではなく、それぞれが前提ぜんてい を持も つと示しめ すこと にある。1-4 の 76 の文化ぶんか 相対そうたい 主義しゅぎ が方法ほうほう として現あらわ れた形かたち だ。
×手元てもと の資料しりょう と対照たいしょう して間違まちが いがないか調しら べた。
この用法ようほう は正ただ しい が、「照合しょうごう 」「突つ き合あ わせ」 のほうが誤解ごかい が少すく ない。「対照たいしょう 」には①二ふた つを並なら べて違ちが いを際立きわだ たせる、②突つ き合あ わせて確たし かめる の二ふた つの用法ようほう があり、評ひょう 論文ろんぶん で出で るのはほぼ① 。なお「対象たいしょう 」「対称たいしょう 」 とは別語べつご なので、書か き分わ けに注意ちゅうい する 。
派生はせい 形けい
対比たいひ [0] ほぼ同義どうぎ 。差さ は対照たいしょう のほうが差さ の大おお きさを強調きょうちょう する点てん にある。「対比たいひ 」は並なら べて比くら べる だけでも使つか えるが、「対照たいしょう 」は際立きわだ った違ちが いがある ときに使つか う。
対象たいしょう [0] 同音どうおん の別語べつご 。働はたら きかけの向む かう先さき で、1-5 の 107 の客体きゃくたい と重かさ なる。「調査対象ちょうさたいしょう 」を「調査ちょうさ 対照たいしょう 」と書か くのは誤あやま り 。入試にゅうし でも問と われる書か き分わ けである。
対称たいしょう [0] もう一ひと つの同音どうおん 語ご 。釣つ り合あ いが取と れている こと(左右さゆう 対称たいしょう )。対照たいしょう は違ちが いを、対称たいしょう は同おな じさを言い う — 意味いみ がほぼ正反対せいはんたい なので、三さん 語ご まとめて覚おぼ えたい。
コロケーション
好対照こうたいしょう をなす定型ていけい としての形かたち 二ふた つがきれいに対たい をなしている ことを言い う。この言い い方かた の便利べんり さはそのまま危あや うさ でもある — きれいに対たい になるということは、対たい にならない部分ぶぶん を落お としている からだ。整ととの いすぎた対照たいしょう は疑うたが う のが読解どっかい の作法さほう になる。
対照的たいしょうてき に接続せつぞく の語ご として段落だんらく をつなぐ副詞ふくし としてきわめて頻度ひんど が高たか い 。この語ご が出で たら直前ちょくぜん と反対はんたい のことが来く る と構かま えられる。読解どっかい では論ろん の骨格こっかく を掴つか む標識ひょうしき になるので、傍線ぼうせん を引ひ いておくとよい。
明暗めいあん の対照たいしょう 視覚しかく から来き た語ご もとは絵画かいが の技法ぎほう (コントラスト)。明あか るさは暗くら さとの差さ でしか感かん じられない という知覚ちかく の事実じじつ が語ご の根ね にある。04 の身分みぶん けが言い うとおり、身体しんたい はもともと差さ でしか世界せかい を捉とら えていない — 1-7 の 151 の構造こうぞう 主義しゅぎ とここで思おも わぬ形かたち で出会であ う。
対照たいしょう 実験じっけん 科学かがく での用法ようほう 条件じょうけん を一ひと つだけ変か えて比くら べる方法ほうほう 。この語ご 法ほう が示しめ すのは、対照たいしょう が成な り立た つには「他ほか の条件じょうけん が同おな じ」でなければならない ことだ。文化ぶんか や社会しゃかい を対照たいしょう させる議論ぎろん がしばしば粗あら くなる のは、他ほか の条件じょうけん を揃そろ えようがない からである。
格かく 中なか 書か き言葉ことば ・会話かいわ の両方りょうほう で使つか える。
類るい 語ご と差さ
対象たいしょう 意識いしき や行為こうい が向む けられるもの☑9。向む けられる先さき 。対照たいしょう は並なら べて比くら べること。
対称たいしょう 左右さゆう がつり合あ っている形かたち の性質せいしつ 。シンメトリー。
比較ひかく 並なら べて違ちが いや優劣ゆうれつ を見み る中立ちゅうりつ 。対照たいしょう は違ちが いを際立きわだ たせることに重心じゅうしん がある。
対比たいひ 二ふた つを並なら べて違ちが いを示しめ すほぼ同義どうぎ 。対照たいしょう のほうが差さ の大おお きさを含意がんい しやすい。
EN contrastZH 对照(対照, duìzhào)
10 読解どっかい
倦怠けんたい
けんたい [0] け ん た い 平板へいばん 型がた
語ご 構成こうせい
倦けん あきる・うむ + 怠たい おこたる
「倦けん 」も「怠たい 」も〈あきる・おこたる〉を表あらわ す。読よ み書か きともに問と われる。
使用しよう の境界きょうかい 心身しんしん がだるく、意欲いよく が失うしな われた状態じょうたい 。単たん なる疲労ひろう ではなく、飽あ きと気き だるさが混ま じった状態じょうたい を指さ す。
用法ようほう 二字にじ がともに〈あきる・おこたる〉 を表あらわ す。医学いがく では「全身ぜんしん 倦けん 怠たい 感かん 」という定型ていけい 句く で、原因げんいん の特定とくてい しにくいだるさを指さ す。入試にゅうし 文ぶん の「身体しんたい にも〈倦けん 怠たい 〉が訪おとず れる」は、意志いし では抗こう えないもの の例れい として挙あ げられており、痛いた みと並なら べられている。日常にちじょう では「倦けん 怠たい 期き 」の形かたち で、恋愛れんあい 関係かんけい が飽あ きの段階だんかい に入はい ったことを言い う。読よ み書か きともに問と われる語ご で、「倦けん 」は他ほか に「倦あぐ む(うむ)」と訓読くんどく みする。
用例ようれい
退屈たいくつ は、あらゆる悪徳あくとく の父ちち であり、そして人間にんげん を最もっと も深ふか く自分自身じぶんじしん へ引ひ き戻もど すものである。ブレーズ・パスカル『パンセ』断章だんしょう 一いち 三さん 九きゅう の主旨しゅし による(1670)/訳やく は本ほん 教材きょうざい
倦けん 怠たい がなぜ人間にんげん に固有こゆう なのかを説明せつめい した議論ぎろん である。パスカルの見立みた てはこうだ — 人間にんげん は部屋へや にじっとしていられない 。だから狩か りをし、賭か けをし、戦争せんそう をする。目的もくてき は獲物えもの や勝利しょうり ではない。気き を紛まぎ らすこと(気き 晴はれ らし) だ。なぜ紛まぎ らす必要ひつよう があるのか — 何なに もしないでいると、自分じぶん の惨みじ めさが見み えてしまう から。ここで倦けん 怠たい は単たん なる暇ひま ではない 。気き 晴はれ らしが尽つ きて自分じぶん と向む き合あ わされる状態じょうたい である。だからこそ苦くる しく、だからこそ何なに かが始はじ まりうる 。2-1 の 07 の再帰さいき が望のぞ まない形かたち で起お きてしまう場面ばめん だと読よ むこともできる。
けふもまたこころの鉦かね をうち鳴な らしうち鳴な らしつつあくがれて行い く若わか 山やま 牧水ぼくすい 『別離べつり 』(1910)
倦けん 怠たい とその裏返うらがえ しの衝動しょうどう を同時どうじ に写うつ した一いち 首くび である。「あくがれ」は魂たましい が身体しんたい から離はな れ出で ること が原げん 義ぎ で、どこかへ行い きたいのに行い き先さき がない 状態じょうたい を指さ す。注目ちゅうもく したいのは「けふもまた」 である。毎日まいにち 繰く り返かえ されている 。一度いちど きりの衝動しょうどう なら行い けばよい 。毎日まいにち なら行おこな っても解決かいけつ しない ということだ。「うち鳴な らし/うち鳴な らしつつ」の反復はんぷく も同おな じ働はたら きをしている — 音おと が繰く り返かえ されるほど、止と まっていることが際さい 立た つ 。倦けん 怠たい が無む 気力きりょく ではなく、行ゆ き場ば のない力ちから である ことが、この一いち 首くび で分わ かる。
豊ゆた かさが行い きわたった社会しゃかい に倦けん 怠たい が広ひろ がるのは、欠乏けつぼう が動機どうき を与あた えなくなったからである。
現代げんだい 社会しゃかい 論ろん での使つか われ方ほう である。1-7 の 142 の消費しょうひ 社会しゃかい が欲望よくぼう を作つく り続つづ けなければならない のは、放ほう っておくと倦けん 怠たい が来く る からだ。パスカルの気き 晴はれ らしが産業さんぎょう になった状態じょうたい と読よ める。
×長時間ちょうじかん の作業さぎょう で倦けん 怠たい を感かん じた。
身体しんたい の疲つか れなら「疲労ひろう 」「だるさ」 である。(医学いがく の「倦けん 怠たい 感かん 」は身体しんたい のだるさ を指さ すので、そちらは正ただ しい。)評ひょう 論語ろんご の倦けん 怠たい は飽あ きて心こころ が動うご かなくなった状態じょうたい を指さ し、作業さぎょう 量りょう とは関係かんけい がない 。むしろ何なに もしていないときに深ふか まる のがこの語ご の特徴とくちょう である。
派生はせい 形けい
倦むうむ [1] 和わ 語ご の動詞どうし 。飽あ きて嫌いや になる 。「倦あぐ まずたゆまず」の形かたち で否定ひてい と結むす んで よく使つか う。肯定こうてい 形けい より否定ひてい 形けい で生い きている語ご である。
厭世えんせい [0] 世よ を厭いと う こと。倦けん 怠たい が気分きぶん にとどまるのに対たい し、厭世えんせい は世界観せかいかん にまで固かた まっている 。1-6 の 132 で見み たペシミズムの訳語やくご のひとつでもあり、気分きぶん から世界観せかいかん へ固かた まる道筋みちすじ がこの二に 語ご の間あいだ にある。
アンニュイ [3] フランス語ご からの外来語がいらいご 。気き だるさに美うつく しさの含ふく み が加くわ わる。倦けん 怠たい が苦くる しさ を伴ともな うのに対たい し、アンニュイはそれを様式ようしき として楽らく しむ 色いろ がある。同おな じ状態じょうたい が語ご によって苦にが にも趣おもむき にもなる例れい 。
コロケーション
倦けん 怠たい 感かん 医学いがく と日常にちじょう の語ご 身体しんたい のだるさ を指さ す。評ひょう 論語ろんご の倦けん 怠たい が心こころ の状態じょうたい を言い うのに対たい し、この形かたち は身体しんたい の状態じょうたい を言い う。同おな じ語幹ごかん で心こころ と身体しんたい に分わ かれる のは、この主題しゅだい からすると示唆しさ 的てき だ — 倦けん 怠たい はもともとどちらとも決き めがたい 。
日常にちじょう の倦けん 怠たい 対象たいしょう を限かぎ る語ご 繰く り返かえ される生活せいかつ そのものへの飽あ き。この結むす びつきが近代きんだい 文学ぶんがく の主題しゅだい になったのは、生活せいかつ が繰く り返かえ しになった からだ。1-6 の 137 の産業さんぎょう 革命かくめい が時計とけい で区切くぎ られた同おな じ一日いちにち を作つく り、1-6 の 140 の均質化きんしつか がどの日ひ も同おな じ日ひ にした 。
倦けん 怠たい 期き 関係かんけい に使つか う形かたち 人ひと と人ひと との関係かんけい が新鮮しんせん さを失うしな った時期じき 。この用法ようほう が示しめ すのは、倦けん 怠たい が対象たいしょう の側がわ の問題もんだい ではない ことだ。相手あいて は変か わっていない。2-1 の 02 の他者たしゃ 性せい が薄うす れたとき に倦けん 怠たい が来く る — 分わ かってしまったことの代償だいしょう である。
倦けん 怠たい と憂鬱ゆううつ 近ちか くて違ちが う語ご 倦けん 怠たい は飽あ き 、憂鬱ゆううつ は沈しず み 。倦けん 怠たい には刺激しげき を求もと める落お ち着つ かなさ があるが、憂鬱ゆううつ にはそれが無な い。倦けん 怠たい は動うご きたがっており、憂鬱ゆううつ は動うご きたがらない — この差さ を押お さえると、文学ぶんがく の記述きじゅつ が読よ み分わ けられる。
格かく 硬かた 書か き言葉ことば 。会話かいわ では不自然ふしぜん 。
類るい 語ご と差さ
疲労ひろう 体力たいりょく を使つか い果は たした状態じょうたい 原因げんいん がはっきりしている。倦けん 怠たい は原因げんいん が特定とくてい できないことが多おお い。
けだるさ 気力きりょく の抜ぬ けた感かん じ和わ 語ご で日常的にちじょうてき 。倦けん 怠たい はその漢かん 語形ごけい で、文章ぶんしょう 語ご 。
憂鬱ゆううつ 気分きぶん が晴は れない感情かんじょう 。倦けん 怠たい は身体しんたい 感覚かんかく を伴ともな う。
マンネリ 変化へんか がなく飽あ きた状態じょうたい 状況じょうきょう の話はなし 。倦けん 怠たい は当人とうにん の状態じょうたい 。
EN languor / fatigueZH 倦怠(倦怠, juàndài)
11 読解どっかい
美醜びしゅう
びしゅう [1] び しゅ う 頭高あたまだか 型がた
語ご 構成こうせい
美び うつくしい + 醜しゅう みにくい
反対はんたい の字じ を重かさ ねて軸じく を作つく る型かた 。善悪ぜんあく ・大小だいしょう ・長短ちょうたん と同おな じ造語ぞうご 法ほう である。
使用しよう の境界きょうかい 美うつく しさと醜みにく さ。二ふた つを一語いちご にまとめ、その軸じく そのものを指さ す。どちらか一方いっぽう を指さ すのではない。
用法ようほう 反対はんたい の意味いみ の字じ を重かさ ねて軸じく を作つく る造語ぞうご 法ほう で、善悪ぜんあく ・大小だいしょう ・長短ちょうたん ・強弱きょうじゃく と同おな じ型かた である。この主題しゅだい では、他者たしゃ の無数むすう の視線しせん が「美醜びしゅう 」「男おとこ らしさ」「女おんな らしさ」といった評価ひょうか を伴ともな って身体しんたい イメージに入はい り込こ むことが述の べられる。つまり美醜びしゅう は個人こじん の感覚かんかく ではなく、社会しゃかい が共有きょうゆう している尺度しゃくど として働はたら く。「美醜びしゅう を問と わない」は、その尺度しゃくど を持も ち込こ まないという宣言せんげん になる。「醜しゅう 」の読よ みは「シュウ」、訓くん は「みにくい」。
用例ようれい
天下てんか 皆みな 美び の美び たるを知し る、斯ここ れ悪あく なるのみ。皆みな 善ぜん の善ぜん たるを知し る、斯ここ れ不ふ 善ぜん なるのみ。『老子ろうし 』第だい 二に 章しょう
美醜びしゅう という対たい がどこから来く るかを言い い当あ てた一節いっせつ である。美び を美び として知し った瞬間しゅんかん に、醜しゅう が生う まれる 。順序じゅんじょ が逆ぎゃく であることに注意ちゅうい したい — 醜みにく いものが先さき にあって美び と区別くべつ されるのではない 。美び という基準きじゅん を立た てたその操作そうさ が、同時どうじ に醜しゅう を作つく り出だ す 。1-3 の分節ぶんせつ が言い うことと完全かんぜん に一致いっち する — 線せん を引ひ けば必かなら ず両側りょうがわ ができる 。この主題しゅだい で重要じゅうよう なのは、身体しんたい がこの線引せんび きの最もっと も激はげ しい戦場せんじょう になる ことだ。基準きじゅん は外そと から来く るのに、裁さば かれるのは取と り替か えられない身体しんたい である。
美うつく しいとは、見み る人ひと の心こころ のなかにあるものであって、見み られる物もの のなかにあるのではない。……醜みにく さを見み いだす者もの は堕落だらく しており、美うつく しさを見み いだす者もの には希望きぼう がある。オスカー・ワイルド『ドリアン・グレイの肖像しょうぞう 』序じょ (1891)/訳やく は本ほん 教材きょうざい
美醜びしゅう を対象たいしょう から見み る側がわ へ移うつ し替か えた一節いっせつ である。前半ぜんはん はよく知し られた主張しゅちょう だ — 美び は物もの の性質せいしつ ではなく見み る側がわ の働はたら きである。後半こうはん が鋭するど い。何なに を見み いだすかで見み る側がわ が裁さば かれる 。醜みにく さを見み つけた人ひと は、その醜みにく さについてではなく自分じぶん について何なに かを語かた っている のだ。この論法ろんぽう を身体しんたい に当あ てはめると強力きょうりょく な反転はんてん になる — 外見がいけん を裁さば く視線しせん は、裁さば かれる側がわ ではなく裁さば く側がわ を露あら わにする 。なおこの小説しょうせつ 自体じたい が肖像しょうぞう 画が が醜みにく くなっていく物語ものがたり であり、03 の像ぞう が本人ほんにん の代か わりに年とし を取と る という着想ちゃくそう で書か かれている。
美醜びしゅう の基準きじゅん は文化ぶんか と時代じだい によって変か わるのに、基準きじゅん に晒さら される身体しんたい は取と り替か えがきかない。
この語ご の使つか いどころ である。基準きじゅん の側がわ は相対的そうたいてき だが、身体しんたい の側がわ は絶対的ぜったいてき だ。この非対称ひたいしょう が苦くる しみを生う む 。1-4 の 76 の文化ぶんか 相対そうたい 主義しゅぎ は知識ちしき としては効き くが、身体しんたい の苦くる しみには直接ちょくせつ には届とど かない 。
×この絵え の美醜びしゅう を論ろん じるのは難むずか しい。
やや不自然ふしぜん 。作品さくひん なら「美的びてき 価値かち 」「良よ し悪あ し」 である。美醜びしゅう は主おも に人ひと の容貌ようぼう について使つか われる語ご で、裁さば く視線しせん の存在そんざい が含意がんい されている 。誰だれ かが誰だれ かを見み て決き める という場面ばめん が無な いところでは据すえ わりが悪わる い。
派生はせい 形けい
醜悪しゅうあく [0] 強つよ い非難ひなん の語ご 。容貌ようぼう だけでなく行おこな いや事態じたい にも使つか う(醜しゅう 悪あく な争あらそ い)。美醜びしゅう が判断はんだん の軸じく を指さ すのに対たい し、醜しゅう 悪あく は判断はんだん の結果けっか を言い い切き っている 。
美的びてき [0] 価値かち の領域りょういき を指さ す語ご 。真しん ・善ぜん ・美び の三みっ つのうち美び に関かか わる こと。「美うつく しい」と同義どうぎ ではない — 「美的びてき 判断はんだん 」は美うつく しいかどうかを問と う判断はんだん で、結論けつろん は醜しゅう でもありうる。
容貌ようぼう [0] 顔かお かたち 。中立ちゅうりつ に見み えて、この語ご もまた見み る側がわ の視点してん で書か かれている 。自分じぶん の顔かお を「私わたし の容貌ようぼう 」と呼よ ぶことは少すく ない — 外そと から見み られたものとしての顔かお を指さ す語ご だからだ。
コロケーション
美醜びしゅう の基準きじゅん 外そと から来く るもの何なに を美うつく しいとするかの物差ものさ し。この語ご が要い るのは、基準きじゅん が本人ほんにん のものではない からだ。メディアが作つく り、市場しじょう が売う り、本人ほんにん がそれを内面化ないめんか する 。05 で見み た外部がいぶ 化か と内面化ないめんか の循環じゅんかん が、身体しんたい の上うえ で最もっと も速はや く回まわ る領域りょういき である。
美醜びしゅう を超こ えて逃のが れようとする言い い方かた この言い い方かた がしばしば空そら 回まわ りするのは、超こ えると言い った時点じてん で基準きじゅん を認みと めている からだ。「顔かお ではなく中身なかみ だ」という主張しゅちょう は顔かお が基準きじゅん であることを前提ぜんてい にしている 。1-7 の 150 で見み た寛容かんよう と多様性たようせい の差さ がここでも効き く — 基準きじゅん を組く み直なお せているか 。
美醜びしゅう の内面化ないめんか 自分じぶん で裁さば く語ご 外そと の基準きじゅん を自分じぶん の目め にしてしまう こと。鏡かがみ を見み るとき、見み ているのは自分じぶん ではなく誰だれ かの目め である。03 のクーリーの鏡かがみ が最もっと も痛いた い形かたち で働はたら く場面ばめん で、誰だれ にも何なに も言い われなくても成立せいりつ する のが厄介やっかい なところだ。
醜みにく さの発見はっけん ワイルドの逆転ぎゃくてん 醜みにく さを見み つけた側がわ が何なに を語かた っているか を問と う構かま え。この視点してん の切き り替か えは批評ひひょう の基本きほん の一手いって である。対象たいしょう を論ろん じているつもりの言葉ことば が語かた り手て の位置いち を露あら わにしてしまう 。1-4 の 75 の自じ 文化ぶんか 中心ちゅうしん 主義しゅぎ を見抜みぬ く手て つきと同おな じものだ。
格かく 硬かた 書か き言葉ことば 。会話かいわ では不自然ふしぜん 。
類るい 語ご と差さ
美び うつくしいこと 一方いっぽう の極きょく 。美醜びしゅう は軸じく 全体ぜんたい を指さ す。
外見がいけん 外そと から見み えるすがた対象たいしょう の話はなし 。美醜びしゅう はそれを測はか る尺度しゃくど 。
容姿ようし 顔かお かたちと姿すがた 対象たいしょう の話はなし 。美醜びしゅう と結むす びつけて論ろん じられる。
価値かち 判断はんだん よしあしを決き めること 上位じょうい 概念がいねん 。美醜びしゅう はその一ひと つの軸じく 。
EN beauty and uglinessZH 美丑(美醜, měichǒu)
12 読解どっかい
臥すふす
ふす [1] ふ す 頭高あたまだか 型がた
語ご 構成こうせい
臥が ふせる・よこたわる
読よ みが問と われる。音読おんよ みは「ガ」(病臥びょうが ・臥床がしょう )。
使用しよう の境界きょうかい からだを横よこ たえること。とくに病気びょうき で寝込ねこ んでいることを指さ す。単たん に眠ねむ ることではない。
用法ようほう 「病やまい の床ゆか に臥が す」という定型ていけい 句く でほぼ固定こてい している。入試にゅうし 文ぶん の「病やまい の床ゆか に臥が しているとき」は、身体しんたい が透明とうめい でなくなる場面ばめん として挙あ げられている。正常せいじょう に機能きのう している身体しんたい は意識いしき されず素通すどお りされるが、疲つか れや病やまい のときに不透明ふとうめい なものとして浮上ふじょう してくる──その転換点てんかんてん を示しめ す語ご である。読よ みが問と われる語ご で、「が」と音読おんよ みする熟語じゅくご (病臥びょうが ・臥床がしょう )も押お さえておく。「伏ぶせ す」との書か き分わ けは辞書じしょ でも揺ゆ れがある。
用例ようれい
病牀びょうしょう 六ろく 尺さし 、これが我われ 世界せかい である。しかもこの六ろく 尺さし の病牀びょうしょう が余よ には広こう 過す ぎるのである。正岡まさおか 子規しき 『病牀びょうしょう 六ろく 尺さし 』(1902)
臥が すという状態じょうたい が世界せかい の大おお きさを変か えてしまうことを示しめ した一節いっせつ である。仕掛しか けは後半こうはん の転回てんかい にある。六ろく 尺さし (約やく 一いち ・八はち メートル)は普通ふつう に考かんが えれば狭せま い 。ところが子規しき は「広こう 過す ぎる」 と書か く。身み 動うご きが取と れないのだから、その六ろく 尺さし すら持も て余あま す のだ。ここで分わ かるのは、空間くうかん の広こう さは身体しんたい が動うご ける範囲はんい で決き まる ということである。04 の身分みぶん けが言い うとおり、世界せかい は身体しんたい の側がわ から測はか られている 。臥が した身体しんたい には別べつ の尺度しゃくど の世界せかい が開あ ける — この随筆ずいひつ が庭にわ の草花くさばな の記述きじゅつ に異様いよう な密度みつど を持も つ のは、嘆なげ きではなく尺度しゃくど が変か わった結果けっか である。
秋あき の夜よる のながきを君きみ に臥が し伏ふ せば思おも ひの外そと に明あ けにけるかな『古今和歌集こきんわかしゅう 』巻かん 十四じゅうよん ・恋歌れんか 四よん (905)
「臥が す」が和歌わか のなかでどう働はたら くかを見み せる 一いち 首くび である。この語ご は眠ねむ るとも休やす むとも違ちが う 。身み を横よこ たえてそのままでいる ことを指さ す。だから能のう 動どう の色いろ が薄うす い — 眠ねむ るのではなく、臥が している 。2-1 の 09 の受動じゅどう が身体しんたい の姿勢しせい として現あらわ れた形かたち だと言い ってよい。古こ 語ご では「起お きる」と「臥が す」 が一日いちにち の対たい をなしており、立た つ・座すわ る・臥が す という三みっ つの姿勢しせい が生活せいかつ の単位たんい だった。現代語げんだいご でこの語ご が病やまい と結むす びついてしか残のこ らなかった ことは、横よこ になることが例外れいがい になった近代きんだい の生活せいかつ を映うつ している。
病やまい に臥が す日々ひび のなかで、筆者ひっしゃ は身体しんたい が自分じぶん の意い のままにならないことを知し る。
評ひょう 論文ろんぶん ・随筆ずいひつ での典型てんけい の使つか われ方ほう である。「病やまい に臥が す」はほぼ固定こてい した言い い方かた 。08 の随ずい 意い が失うしな われた状態じょうたい を姿勢しせい の語ご で言い う とこの語ご になる。
×休日きゅうじつ は一日いちにち 中ちゅう ベッドに臥が し ていた。
語ご が古風こふう すぎる 。日常にちじょう なら「寝ね ていた」「横よこ になっていた」 。「臥が す」は文語ぶんご ・雅語がご で、現代げんだい の散文さんぶん では「病やまい に臥が す」「床ゆか に臥が す」 という慣用かんよう の形かたち でしかほぼ生い きていない。怠たい けて寝ね ている場面ばめん には使つか わない 。
派生はせい 形けい
臥せるふせる [3] 現代語げんだいご に近ちか い形かたち 。「床ゆか に臥が せる」。「伏ふ せる」とも書か く が、「伏ぶせ 」は顔かお を下した に向む ける、「臥が 」は身み を横よこ たえる と字義じぎ が分わ かれる。病臥びょうが の意い なら「臥が 」。
臥床がしょう [0] 漢語かんご 形けい 。医療いりょう ・介護かいご の語彙ごい として定着ていちゃく している(臥床がしょう 時間じかん ・長期ちょうき 臥床がしょう )。和わ 語ご の情緒じょうちょ が抜ぬ けて状態じょうたい の記述きじゅつ だけになる — 01 で見み た身体しんたい の物象ぶっしょう 化か が語彙ごい の水準すいじゅん でも起お きている。
横臥おうが [1] 横よこ 向む きに臥が すこと 。医学いがく ・法ほう 医学いがく の語ご 。仰臥あおむけ (あおむけ)・伏臥うつぶせ (うつぶせ) と三みっ つで一組ひとくみ をなす。姿勢しせい を細こま かく分わ ける語彙ごい が医学いがく にだけ発達はったつ している ことも、この主題しゅだい の視点してん で見み ると面白おもしろ い。
コロケーション
病やまい に臥が すほぼ固定こてい した形かたち この語ご が現代げんだい まで残のこ ったほとんど唯一ゆいいつ の道筋みちすじ 。「病気びょうき で寝ね る」と言い えば済す むのにこの形かたち が使つか われるのは、文語ぶんご の格かく が事態じたい の重おも さを示しめ す からだ。語彙ごい の古こ さがそのまま事こと の重大じゅうだい さの合図あいず になる — 日本語にほんご の文体ぶんたい が持も つ道具どうぐ である。
床ゆか に臥が す場所ばしょ を添そ える形かたち 「床とこ (とこ)」は寝床ねどこ 。「病床びょうしょう 」「床ゆか につく」と同おな じ字じ である。場所ばしょ を書か き添そ えることで状態じょうたい が長なが く続つづ いている ことが伝つた わる。一いち 晩ばん なら床ゆか に臥が すとは言い わない — 時間じかん の長なが さが語ご に含ふく まれている 。
臥薪がしん 嘗胆しょうたん 故事こじ 成せい 語ご のなかの語ご 薪たきぎ の上うえ に臥が し、胆たん を嘗な める 。復讐ふくしゅう を忘わす れないためにあえて苦くる しい姿勢しせい を取と る という故事こじ である。ここでの「臥が す」は受動じゅどう ではなく意志いし 的てき だ。同おな じ語ご が文脈ぶんみゃく で正反対せいはんたい の色いろ を持も つ という好例こうれい になっている。
起お き臥が し対たい で使つか う和わ 語ご 起お きることと臥が すこと 、つまり日々ひび の暮く らし 。「起お き臥が しをともにする」。この語形ごけい が示しめ すのは、臥が すことがかつては生活せいかつ の半分はんぶん を占し める基本きほん の姿勢しせい だった ことだ。語ご の残のこ り方ほう から生活せいかつ の形かたち が読よ める 。
格かく 硬かた 書か き言葉ことば 。会話かいわ では不自然ふしぜん 。
類るい 語ご と差さ
寝ね る眠ねむ る・横よこ になる日常にちじょう 語ご 。臥が すは文章ぶんしょう 語ご で、病臥びょうが の含ふく みが強つよ い。
横よこ たわるからだを水平すいへい にする 中立ちゅうりつ 。臥が すは病やまい や衰おとろ えを含意がんい することが多おお い。
寝込ねこ む病気びょうき で床ゆか につく日常にちじょう 語ご で意味いみ は近ちか い。臥が すはより硬かた い。
伏ぶせ すうつぶせになる・従したが う 同音どうおん で意味いみ も近ちか い。「床ゆか に伏ぶせ す」とも書か く。
EN to lie down (ill)ZH 卧(横たわる, wò)
格による分布 硬・学術、硬、中の三段階に本節の語を振り分けた図。
硬・学術
2
身分け
外部化
硬
6
相関
像
随意
倦怠
美醜
臥す
中
4
身体
媒体
所有
対照
語は意味ではなく格で選ぶ
格かく による分布ぶんぷ
入試にゅうし にチャレンジ
所有しょゆう の媒体ばいたい でありながら、自由じゆう にならないもの
身体の透明と不透明 正常に機能している身体が意識から消え、疲れや病のときに不透明なものとして浮上する対比を示した図。
正常に機能しているとき
透明
脚・口唇・眼・肺・胃
存在がいわば消えている
行為を支えながら
視野からは消える
意識すれば逆にもつれる
疲れ・病のとき
不透明
腫れぼったい厚みをもつ
経験のなかに浮上してくる
行為を押しとどめようと
前に立ちはだかる
よそよそしい異物として迫る
同じ身体が、二つの現れ方をする ── これが身体の奇妙さである
身体しんたい の透明とうめい と不透明ふとうめい ── 同おな じ身体しんたい の二ふた つの現あらわ れ方ほう
本文ほんぶん
わたしたちにとって身体しんたい とはどういう存在そんざい なのか。この問題もんだい は長なが く哲学者てつがくしゃ を悩なや ませてきた問題もんだい でもある。身体しんたい といえば魂たましい や心こころ と対照たいしょう されることが多おお いが、ほんとうは物体ぶったい と対照たいしょう したほうが、身体しんたい というものの固有こゆう なあり方かた は見み えやすい。
実際じっさい 、日本語にほんご の「身み 」ということばを取と り上あ げても、「身み 」にはほとんど「こころ」と置お き換か え可能かのう なばあいすらあるのに対たい して(たとえば「身み に沁し む」「身み を入い れる」「身み を焦こ がす」「白しろ 身み の魚さかな 」などのように)肉にく の意味いみ はあっても、物体ぶったい という意味いみ はほとんどない。(ついでに言い えば、「身み の上うえ 」「身内みうち の者もの 」「身勝手みがって 」「身分みぶん 」「立身出世りっしんしゅっせ 」などというように、日本語にほんご の「身み 」は人間にんげん 関係かんけい という社会的しゃかいてき な地平ちへい で思おも い浮う かべられることが多おお い。)
身体からだ (からだ)は、ひとつの物体ぶったい であることはまちがいないが、それにしては他ほか の物質ぶっしつ とはあまりにも異質いしつ な現げん われ方ほう をする。
たとえば、身体しんたい はそれが正常せいじょう に機能きのう しているばあいには、ほとんど現げん われない。歩ある くとき、脚あし の存在そんざい はほとんど意識いしき されることはなく、脚あし の動うご きを意識いしき すれば逆ぎゃく に脚あし がもつれてしまう。話はな すときの口唇こうしん や舌した の動うご き、見み るときの眼め についても、同おな じことが言い える。呼吸こきゅう するときの肺はい 、食た べるときの胃い や膵臓すいぞう となれば、これらはほとんど存在そんざい しないにひとしい。つまり、わたしたちにとって身体しんたい は、ふつうは素通すどお りされる透明とうめい なものであって、その存在そんざい はいわば消き えている。
が、その同おな じ身体しんたい が、たとえばわたしが疲つか れきっているとき、あるいは病やまい の床ゆか に臥が しているときには、にわかに、不透明ふとうめい なものとして、あるいは腫は れぼったい厚あつ みをもったものとして、わたしたちの日々ひび の経験けいけん のなかに浮上ふじょう してくる。そしてわたしの経験けいけん に一定いってい のバイアスをかけてくる。
あるいは、わたしの経験けいけん をこれまでとは別べつ の色いろ で染そめ め上あ げる。ときには、わたしと世界せかい とのあいだにまるで壁かべ のように立た ちはだかる。わたしがなじんでいたこの身体しんたい は、よそよそしい異物いぶつ として迫せま ってきさえするのである。
あるときは、わたしたちの行為こうい を支ささ えながらわたしたちの視野しや からは消き え、あるときは、わたしたちがなそうとしている行為こうい を押お しとどめようとわたしたちの前まえ に立た ちはだかる、こうした身体しんたい の奇妙きみょう な現げん われ方ほう は、さらに別べつ の局面きょくめん でも見み いだされる。
それはたとえば、わたしたちがなにかをじぶんのものとして「所有しょゆう する」という局面きょくめん だ。なにかを所有しょゆう するというのは、なにかをじぶんのものとして、意い のままにできるということである。そのとき身体しんたい は、ものを捕と る、掴つか む、持も つというかたちで、所有しょゆう という行為こうい の媒体ばいたい として働はたら いている。
つまり身体しんたい は、わたしが随ずい 意い に使用しよう しうる一いち 「器官きかん 」である。が、その身体しんたい をわたしは自由じゆう にすることができない。痛いた みが身体しんたい のそこかしこを突然とつぜん 襲おそ うこと、あるいは身体しんたい にも〈倦けん 怠たい 〉 が訪おとず れることに、だれも抗こう うことはできない。
出典しゅってん 鷲田わしだ 清一せいいち 『身体しんたい 、この遠とお きもの』 / 出題しゅつだい 名古屋なごや 大学だいがく
所有の媒体としての身体 身体が所有という行為の通り道として働く一方、その身体自体は意のままにならないという二重性を示した図。
わたし
身体
媒体・随意に使える器官
もの
捕る・掴む・持つ
所有 = じぶんのものとして、意のままにできること
ところが
身体
痛み
倦怠
だれも抗うことはできない
媒体として使えるのに、その媒体自体は自由にならない
所有しょゆう の媒体ばいたい としての身体しんたい
ヒント 身体しんたい は、なにかを所有しょゆう する場面ばめん では自由じゆう に使つか えるが、常つね に自由じゆう にすることはできないということ。
問とい 傍線ぼうせん 部ぶ はどういうことを言い っているのか、説明せつめい せよ。(設問せつもん ・改かい )
正解せいかい と解説かいせつ
(例れい )身体しんたい は、なにかあるものを意い のままにするために用もち いられるということ。
「所有しょゆう という行為こうい 」とは、「じぶんのものとして、意い のままにできる」ということ。「媒体ばいたい 」をうまく説明せつめい したい。