Theme 2-2

身体しんたい論ろん

[ 原げん書しょ 第だい2部ぶ テーマ編へん 2-2 ]

加筆かひつ語彙ごい 12 / Key Point 2 / 図版ずはん 10

Macro — 論ろんの流ながれ

身体しんたいは、なぜ物ものではないのか

身体論の流れ二十世紀までの心身二元論から、新しい身体論の三つの視点へと展開する流れを示した図。 〜二十世紀 ── 心身二元論 精神 = 人間である理由 + 身体 = 精神の器・物体 − 身体は単なる物ではない 二十世紀〜 ── 新しい身体論 ① 相関関係 身体と精神は 影響し合う ストレス → 頭痛・不眠 ② 像としての身体 全体像は見えない 断片の寄せ集め 像 ≠ 身体そのもの ③ 他者としての身体 他者の視線が 像をつくる 思い通りにならない 最も身近であるはずの身体が、像としてしか把握できない最も遠いものになる。 この逆説が、身体論全体を貫いている
心身しんしん二元にげん論ろんから、新あたらしい身体しんたい論ろんの三みっつの視点してんへ

この主題しゅだいも一本いっぽんの流ながれでできている。二十にじゅう世紀せいきまで、身体しんたいは精神せいしんをおさめる器うつわ・物質ぶっしつとして軽視けいしされてきた。その反省はんせいから新あたらしい身体しんたい論ろんが現あらわれ、三みっつの視点してんが順じゅんに出でてくる。①身体しんたいと精神せいしんは相関そうかんしている。②身体しんたいは像ぞうとしてしか把握はあくできない。③その像ぞうは他者たしゃの視線しせんによってつくられる。①②③はこの順じゅんで深ふかまっていくので、途中とちゅうの主張しゅちょうだけを取とり出だすと論ろん全体ぜんたいを見み誤あやまる。

結論けつろんはひとつの逆説ぎゃくせつに集約しゅうやくされる。最もっとも身近みじかであるはずの身体しんたいが、最もっとも遠とおいものである。

原げん書しょの本文ほんぶん

四よっつの段階だんかい

近代きんだいは身体しんたい軽視けいしの時代じだいだった

近代きんだいの長ながい期間きかんにわたって、身体しんたいは、ただの物もの(物質ぶっしつ)としてとらえられてきた。たとえば、身体しんたいの病気びょうきは機械きかいの故障こしょうのようなものであるから、故障こしょうの原因げんいんである部品ぶひんを直なおせばもとどおりに回復かいふくする。西欧せいおう医学いがくの身体しんたい観かんとは、身体しんたいを物質ぶっしつの集合しゅうごうとしてみなすことで成立せいりつしているのだ。

このような近代的きんだいてきな身体しんたい観かんを準備じゅんびしたのは、哲学者てつがくしゃのデカルトだと言いわれている。デカルトの心身しんしん二元にげん論ろんは、世界せかいを正ただしく理解りかいするには精神せいしん(理性りせい)が必要ひつようだとする一方いっぽう、身体しんたいは物質ぶっしつと同おなじようなものとして軽視けいしした。つまり、人間にんげんを人間にんげんたらしめているのは精神せいしんであり、身体しんたいは精神せいしんをおさめる単たんなる器うつわでしかないというわけだ。

デカルトの心身二元論と身体軽視精神を人間の本質とし身体を物質と同じ器とみなす二元論が、身体を機械として扱う医学観を準備したことを示した図。 精神(理性) 人間を人間たらしめるもの 身体 精神をおさめる単なる器 身体は物質の集合である 西欧医学の身体観 病気は機械の故障である。 部品を直せばもとどおりに 回復する。 この身体観を準備したのはデカルト 身体を物にしたことが、近代医学の力にも限界にもなった
身体しんたいを物ものにしたことが、近代きんだい医学いがくの力ちからにも限界げんかいにもなった

身体しんたいと精神せいしんは関係かんけいしている

デカルトに始はじまる身体しんたい軽視けいしが反省はんせいされ、身体しんたいのとらえ方ほうに新あらたな視点してんが登場とうじょうしたのは、二十にじゅう世紀せいきに入はいってからである。

身体しんたいが単たんなる物質ぶっしつでないことの証拠しょうことして、心こころの不調ふちょうが続つづくと身体しんたいに影響えいきょうが出でることが挙あげられる。たとえばストレスが強つよくかかった状態じょうたいが長ながく続つづくと、頭痛ずつうや不眠ふみん症状しょうじょうが起おきたりする。このように、身体しんたいと精神せいしんとは相関そうかん関係かんけいにあるのだ。

身体と精神の相関心の不調が身体に現れ、身体の不調が心に及ぶという双方向の関係を示した図。 精神 ストレス・不安 身体 頭痛・不眠 影響する 影響する どちらが主でも従でもない。向きは双方向である。 この双方向性が、精神を上に置く二元論を崩す。 相関には向きがない ── 因果と混同しないこと
向むきは双方向そうほうこうである

見みることのできない身体しんたい

また、私わたしたちは、物ものを見みるようには自分じぶんの身体しんたいを見みることができない。

たとえば私わたしたちは、自分じぶんの顔かおや背中せなかを直接ちょくせつ見みることができない。学校がっこうにいる間あいだだったら、クラスメイトの方ほうが自分じぶんの顔かおを見みていることになる。このように考かんがえると、自分じぶんの身体しんたいについて、私わたしたちが見みることができる部分ぶぶんは、自分じぶんが思おもう以上いじょうに乏とぼしいものなのだ。

したがって、自分じぶんの身体しんたいイメージとは、部分的ぶぶんてきな情報じょうほうの寄よせ集あつめでしかない。このことを抽象的ちゅうしょうてきに表現ひょうげんすると、「像ぞうとしての身体しんたい」という言いい方かたになるのだが、ここで大事だいじなことは、「像ぞうとしての身体しんたい」は身体しんたいそのものではないということだ。

自分じぶんにとって最もっとも身近みじかであるはずの身体しんたいは、イメージとしてしか把握はあくできない、最もっとも遠とおいものなのだ。

像としての身体直接見える部分がわずかしかない身体が、断片の寄せ集めとして像に組み立てられることを示した図。 直接見える部分 手 脚 顔・背中は見えない 思う以上に乏しい 寄せ集め 補われる断片 鏡写真他人の言葉 記憶感覚 像としての身体 「像としての身体」は、身体そのものではない。 最も身近なものが、最も遠いものになる
断片だんぺんを寄よせ集あつめて、像ぞうがつくられる

他者たしゃとしての身体しんたい

さらに自分じぶんにとっての身体しんたいのイメージには、他者たしゃの視線しせんも紛まぎれ込こむ。これは、「他者たしゃが自分じぶんを見みる視線しせん」が自分じぶんの身体しんたいイメージに影響えいきょうを与あたえるということだ。

たとえば、自分じぶんの身体しんたいを「肥満ひまん」だととらえるイメージは、他者たしゃの視線しせんを経由けいゆすることでつくられていく。だからこそ、大だいして太ふとっていない女性じょせいが、ダイエットに躍起やっきになるという事態じたいも起おこるのだ。

ここで言いう他者たしゃとは、特定とくていの誰だれかのことではない。私わたしたちの身体しんたいは、(衣服いふくはまとっているが)常つねに不ふ特定とくてい多数たすうの人ひと目めにさらされている。そこでは、無数むすうの視線しせんが「美醜びしゅう」「男おとこらしさ」「女おんならしさ」といった評価ひょうかを伴ともなって、私わたしたちの身体しんたいイメージに影響えいきょうを与あたえていく。そのため、「イケメン」という言葉ことばで人ひとが変身へんしんをはかるのも、もっぱら他者たしゃの視線しせんを意識いしきしてのことであり、その成否せいひは他者たしゃの評価ひょうかに依存いぞんしている。

自分じぶんの身体しんたいイメージは、自分じぶんの思おもい通とおりにはならない。それどころか、理想りそうのイメージを追おい求もとめるばかり、自分じぶんの身体しんたいをよそよそしいものとすら感かんじてしまう。これを「他者たしゃとしての身体しんたい」とよぶこともできるだろう。

他者の視線が身体イメージをつくる認識できない身体そのものに対して、不特定多数の視線と評価が身体イメージを形づくることを示した図。 身体そのもの 認識は不可能 不特定多数の視線 評価を伴う 美醜 男らしさ・女らしさ 「肥満」という身体イメージ 大して太っていない人がダイエットに躍起になる理由がここにある
他者たしゃの視線しせんが身体しんたいイメージをつくる
Key Point

二ふたつの要点ようてん

Key Point 1 ── 身分みぶんけ

私わたしたちは、言葉ことばを通つうじて物ものを認識にんしきしたり、世界せかいのあり方かたを知しったりするが、同時どうじに身体しんたいそのもので雰囲気ふんいきを察知さっちしたり、空気くうきを読よんだりもする。「こっちの方ほうに行いくと危きなそうだ」という予感よかんなどは、理性りせいによる認識にんしきというよりも、身体的しんたいてきなセンサーのはたらきに近ちかいだろう。

ある評ひょう論ろん家かは、前者ぜんしゃのように言葉ことばで世界せかいを理解りかいすることを「言げん分わけ」と言いい、後者こうしゃのような身体しんたいによる理解りかいのあり方かたを「身分みぶんけ」とよんだ。

「分わけ」とは「分節ぶんせつ」の意いだが、たとえば、赤あかん坊ぼうが言葉ことばを覚おぼえることで、物ものと物ものの区別くべつを知しることは「言げん分わけ」であり、身体しんたいによって快かいと不快ふかいとを区別くべつすることは「身分みぶんけ」である。

言分けと身分け言葉による分節と、身体による分節という二つの世界の切り分け方を対比した図。 分節 ── 連続した世界に切れ目を入れる 言分け 言葉で世界を理解する 赤ん坊が物と物を区別する 言語による分節 身分け 身体で世界を理解する 快と不快を区別する 身体による分節 世界の切り分けは、言語の独占ではない
言げん分わけと身分みぶんけ ── 二ふたつの分節ぶんせつ
Key Point 2 ── 身体しんたいの外部がいぶ化か

「身体しんたいと道具どうぐ」の関係かんけいに注目ちゅうもくした身体しんたい論ろんを扱あつかった入試にゅうし問題もんだいもある。道具どうぐは人間にんげんの身体しんたいを模もしてつくられている。たとえば、ナイフは爪つめや歯はの延長えんちょうであり、ハンマーは拳こぶしの延長えんちょうであり、車輪しゃりんは足あしの延長えんちょうであった。もともと人間にんげんの身体しんたいにある機能きのうを道具どうぐに応用おうようしたのである。そして、人ひとが道具どうぐを使つかいこなす時とき、それは自分じぶんの一部いちぶとなっている。使つかっている時ときはまったく意識いしきされないが、道具どうぐとは「身体しんたい機能きのうの外部がいぶ化か」なのである。

しかし、人ひとが疲つかれを感かんじたり病気びょうきになったりすると、身体しんたいが思おもうようにならず、自分じぶんの身体しんたいが他人たにんの物もののように感かんじられてくる。また、「足あしが棒ぼうのようになる」という表現ひょうげんがあるが、これはそれまで意識いしきされなかった足あしが、自分じぶんの一部いちぶではなく、棒ぼうのように感かんじられてくる感覚かんかくを言いったものである。この場合ばあい、「身体しんたいそのものの外部がいぶ化か」が行おこなわれている。

二つの外部化身体機能が道具へ移る外部化と、身体そのものが自分の外の物のように感じられる外部化を対比した図。 ① 身体機能の外部化 ── 道具が身体になる 爪・歯拳足 ナイフハンマー車輪 使いこなす時、 道具は自分の一部になる。 使っている間は意識されない ② 身体そのものの外部化 ── 身体が物になる 疲れ・病気 「足が棒のようになる」 自分の一部ではなく、 他人の物のように感じられる。 ①は道具が身体になる向き、②は身体が物になる向き ── 逆である
二ふたつの外部がいぶ化か ── 向むきが逆ぎゃくである
Terms — 本ほんサイトによる加筆かひつ

この主題しゅだいを読よむための十二じゅうに語ご

原げん書しょのキーワード番号ばんごうは付ふされていない層そうである。概念がいねん語ご八やっつと、本文ほんぶん・入試にゅうし文ぶんに現あらわれる読解どっかい語彙ごい四よっつを補おぎなう。

01概念がいねん

身体しんたい

しんたい[1]頭高あたまだか型がた

語ご構成こうせい
身みみ・からだ+体からだからだ
使用しようの境界きょうかい

生いきて働はたらいているものとしてのからだ。物体ぶったいとして扱あつかえば「肉体にくたい」に近ちかづき、生いきられているものとして扱あつかえば身体しんたいになる。

用法ようほう

評ひょう論文ろんぶんの「身体しんたい」は、単たんなる「からだ」ではなく近代きんだい批判ひはんの語ごとして置おかれる。デカルト以来いらい、身体しんたいは精神せいしんの器うつわ・物質ぶっしつとして軽視けいしされてきた。二十にじゅう世紀せいきの身体しんたい論ろんはそこを反転はんてんさせ、身体しんたいを世界せかいと接せっする経路けいろとして捉とらえ直なおす。読解どっかいの急所きゅうしょは、日本語にほんごの「身み」が心こころとも人間にんげん関係かんけいとも通つうじる語ごであるのに対たいし、「身体しんたい」は西洋せいよう語ごの訳語やくごとして物体ぶったいの側がわに引ひかれてきたという二に重じゅう性せいにある。入試にゅうし文ぶんはこの点てんをそのまま論ろんじている。

用例ようれい
  • 私わたしは肉体にくたいの詩人しじんであり、また魂たましいの詩人しじんである。……もし肉体にくたいが人間にんげんでないとするなら、魂たましいとは何なになのか。ウォルト・ホイットマン『草くさの葉は』「わたし自身じしんの歌うた」(1855)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    心身しんしん二元にげん論ろんへの最もっとも短みじかい反論はんろんである。仕掛しかけは問といの形かたちにある。「肉体にくたいも大事だいじだ」と主張しゅちょうするのではない。肉体にくたいを人間にんげんから外はずしたら、魂たましいの側がわも定義ていぎできなくなると言いっている。魂たましいは肉体にくたいとの対たいでしか意味いみを持もたないからだ。この構かまえは 1-5 の 91 の心身しんしん二元にげん論ろんを内側うちがわから崩くずす。デカルトは二ふたつに分わけたが、分わけたあとで一方いっぽうだけを取とり出だせるとは言いっていない。ホイットマンはその取とり出だしの不可能ふかのうを一行いちぎょうの問といで突ついた。なお「詩人しじんである」と二に度ど名乗なのる形かたちも効きいている — 並ならべることでどちらも捨すてないと示しめしている。
  • 身体しんたいは大おおいなる理性りせいである。……我わが兄弟きょうだいよ、汝なんじが「精神せいしん」と呼よぶあの小ちいさな理性りせいもまた、汝なんじの身体しんたいの道具どうぐにすぎない。フリードリヒ・ニーチェ『ツァラトゥストラはこう言いった』「身体しんたいの軽蔑けいべつ者しゃについて」(1883)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    心こころと身体しんたいの上下じょうげを正面しょうめんから引ひきっくり返かえした一節いっせつである。仕掛しかけは「理性りせい」という語ごの取とり合あいにある。理性りせいは本来ほんらい精神せいしんの側がわの看板かんばんだ。ニーチェはその看板かんばんを身体しんたいの側がわへ持もっていく。身体しんたいこそが大おおいなる理性りせいであり、精神せいしんはその道具どうぐにすぎない、と。なぜそう言いえるのか — 意識いしきに上のぼるのは身体しんたいでなされている膨大ぼうだいな調整ちょうせいのごく一部いちぶだけだからだ。心臓しんぞうも消化しょうかも免疫めんえきも、考かんがえなくても整ととのえられている。1-5 の 91 の心身しんしん二元にげん論ろんが精神せいしんを上うえに置おいたのに対たいし、ここでは順位じゅんいが逆転ぎゃくてんする。ただし注意ちゅういしたい — 上下じょうげを入いれ替かえただけでは二元にげん論ろんは残のこる。02 の相関そうかんで見みるとおり、この主題しゅだいの要かなめは順位じゅんいではなく分わけたこと自体じたいにある。
  • 身体しんたいは、自分じぶんのものでありながら自分じぶんの思おもい通とおりにはならない。 この主題しゅだいの出発点しゅっぱつてんである。所有しょゆうはしているが支配しはいはしていない。心臓しんぞうは止とめられず、眠ねむりは命令めいれいできない。所有しょゆうと支配しはいのずれが、07 の所有しょゆうと 08 の随ずい意いでそれぞれ扱あつかわれる。
  • ×毎まい朝あさ走はしって身体しんたいを鍛きたえている。 通つうじるが、「体からだ」「からだ」のほうが自然しぜんである。評ひょう論語ろんごの身体しんたいは心こころとの対たいで立たてられる概念がいねん語ごで、運動うんどうや健康けんこうの対象たいしょうとしての肉体にくたいを指さす語ごではない。「体からだ」に置おき換かえて意味いみが変かわらないなら、そこに身体しんたいは要いらない — 2-1 の 01 で見みた他者たしゃ/他人たにんと同おなじ見分みわけ方ほうが使つかえる。
派生はせい形けい
  • 肉体にくたい[0]物質ぶっしつとしての側面そくめんを強つよく出だす語ご。「肉体にくたい労働ろうどう」「肉体にくたい的てきな疲労ひろう」。身体しんたいが心こころとの関係かんけいのなかで立たてられるのに対たいし、肉体にくたいは精神せいしんの反対はんたい物ぶつとして置おかれる。二元にげん論ろんの内側うちがわの語ごである。
  • 身体的しんたいてき[0]形容けいよう動詞どうし形けい。「身体的しんたいてきな接触せっしょく」のように使つかう。注意ちゅういしたいのは、「肉体にくたい的てき」より中立ちゅうりつである点てんだ。肉体にくたい的てきには性せい的てき・労働ろうどう的てきな含ふくみが付つきやすいが、身体的しんたいてきにはそれが無ない。
  • 生身なまみ[0]和わ語ごの言いい方かた。代替だいたいのきかない、傷きずつく身体しんたいを指さす。「生身なまみの人間にんげん」と言いえば抽象ちゅうしょう化かを拒こばむ宣言せんげんになる。評ひょう論文ろんぶんでは制度せいどや数値すうちに対たいして個別こべつの身体しんたいを対置たいちするときに使つかわれる。
コロケーション
  • 身体しんたい性せい性質せいしつだけを抜ぬく語ご身体しんたいという実体じったいではなく、身体しんたいをもつことに由来ゆらいする性質せいしつ。この語ごが要いるのは、思考しこうにも言葉ことばにも身体しんたいの痕跡こんせきがあると言いいたいときだ。「腑ふに落おちる」「手てに負おえない」— 抽象的ちゅうしょうてきなことを言いう語彙ごいが身体しんたいから来きている。1-3 のメタファーがここに根ねを持もつ。
  • 身体しんたいを通とおした理解りかい知ちの別べつの道みち説明せつめいされて分わかるのではなく、できるようになって分わかること。自転車じてんしゃの乗のり方ほうは言葉ことばでは伝つたわらない。この結むすびつきが評ひょう論文ろんぶんで重おもいのは、近代きんだいの知ちが言語化げんごかできるものだけを知ちとして数かぞえてきたからだ。1-6 の 121 の近代きんだい合理主義ごうりしゅぎが取とりこぼした側がわが、ここにある。
  • 身体しんたいの物象ぶっしょう化か批判ひはんの語ご身体しんたいが部品ぶひんや資源しげんとして扱あつかわれること。医療いりょうでも労働ろうどうでも身体しんたいは数値すうちに置おき換かえられる。1-6 の 133 の物神ぶっしん性せいが自分じぶんの身体しんたいに及およんだ形かたちで、持もち主ぬしである当人とうにんまでが自分じぶんの身体しんたいを管理かんり対象たいしょうとして見みるようになる。
  • 身体しんたい感覚かんかく測はかれないものを指さす語ご自分じぶんの内側うちがわから感かんじられる身体しんたいの状態じょうたい。この語ごが便利べんりなのは、外そとから観察かんさつできる身体しんたいと区別くべつできるからだ。体温たいおん計けいの数字すうじとだるさは別べつのものだ。この二ふたつが食くい違ちがうとき、どちらを本当ほんとうとするか — 身体しんたい論ろんの問といはここに集あつまる。
格かく中なか

書かき言葉ことば・会話かいわの両方りょうほうで使つかえる。

類るい語ごと差さ
  • 肉体にくたい物質ぶっしつとしてのからだ精神せいしんと対立たいりつさせて置おく語ご。魂たましいの器うつわという含ふくみが強つよい。身体しんたいは経験けいけんする主体しゅたいとしての側面そくめんを含ふくむ。
  • 身みからだ・我わが身み訓読くんどくみ。日本語にほんごでは「身みに沁しむ」のように心こころにも通つうじ、人間にんげん関係かんけいの位置いちも表あらわす。物体ぶったいの意いはほとんどない。
  • 物体ぶったい空間くうかんを占しめる物もの☑9 対象たいしょう化かの対象たいしょう。近代きんだいはこの側がわから身体しんたいを捉とらえた。
  • 生身なまみ生いきているからだ傷きずつきやすさを含意がんいする。身体しんたいは中立ちゅうりつで学術的がくじゅつてき。

ENbody
ZH身体(身体, shēntǐ)

02概念がいねん

相関そうかん

そうかん[0]平板へいばん型がた

語ご構成こうせい
相そうあい・たがいに+関せきかかわる
使用しようの境界きょうかい

二ふたつのものが互たがいに影響えいきょうし合あう関係かんけい。片方かたほうが原因げんいんで片方かたほうが結果けっかという向むきは含ふくまない。

用法ようほう

最もっとも重要じゅうようなのは因果いんがとの区別くべつである。相関そうかんがあっても、どちらが原因げんいんかは分わからない。心こころの不調ふちょうが続つづくと身体しんたいに不調ふちょうが出でる、身体しんたいの不調ふちょうが続つづくと心こころが沈しずむ──この主題しゅだいでは双方向そうほうこうであることが要点ようてんになる。だから「身体しんたいと精神せいしんは相関そうかん関係かんけいにある」は、精神せいしんが主しゅで身体しんたいが従じゅうという二元にげん論ろんを崩くずす言いい方かたになっている。統計とうけいの文脈ぶんみゃくでは「相関そうかんがある」と「因果いんががある」を混同こんどうすることが典型的てんけいてきな誤あやまりとして扱あつかわれる。

用例ようれい
  • 心こころのうちの受動じゅどうは、身体しんたいのうちの能のう動どうである。……我々われわれが情念じょうねんと呼よぶものは、身体しんたいの働はたらきが心こころに及およぼした結果けっかにほかならない。ルネ・デカルト『情念じょうねん論ろん』第一だいいち部ぶ(1649)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    二元にげん論ろんを立たてた当人とうにんが、二ふたつの結むすびつきに苦くるしんでいる一節いっせつである。心こころと身体しんたいをまったく別べつの実体じったいとして分わけたのはデカルトだ。ところが分わけた途端とたん、手てを動うごかそうと思おもうと手てが動うごくという日常にちじょうの事実じじつが説明せつめいできなくなる。別べつの実体じったいどうしは触ふれ合ごうえないはずだからだ。この一文いちぶんの「受動じゅどう」と「能のう動どう」の対たいは、触ふれ合ごうえないものを無理むりに接続せつぞくしようとする苦くるしまぎれの工夫くふうである。(デカルトは最終的さいしゅうてきに脳のうの松果腺しょうかせんに接点せってんを求もとめた。)相関そうかんという語ごは、この失敗しっぱいの跡あと地ちに建たてられている — 因果いんがは説明せつめいできないが、対応たいおうしていることは確たしかだ。
  • 悲かなしいから泣なくのではない。泣なくから悲かなしいのである。ウィリアム・ジェイムズ『心理学しんりがく原理げんり』第だい二十にじゅう五ご章しょう(1890)の主旨しゅしによる/訳やくは本ほん教材きょうざい
    心こころと身体しんたいの順序じゅんじょを入いれ替かえてみせた命題めいだいである。常識じょうしきでは心こころが先さき、身体しんたいが後あとだ。ジェイムズは身体しんたいの変化へんかが先さきに起おき、それを感かんじ取とることが感情かんじょうであると言いう。この主張しゅちょうの強つよさは検証けんしょうできることにある — 姿勢しせいを変かえれば気分きぶんが変かわり、笑顔えがおを作つくると実際じっさいに少すこし楽らくしくなる。ただし注意ちゅういしたいのは、順序じゅんじょを逆ぎゃくにしただけでは二元にげん論ろんは残のこっていることだ。先さきか後あとかを争あらそっているかぎり、二ふたつあることは前提ぜんていのままである。01 のメルロ=ポンティが順序じゅんじょではなく「同おなじ一ひとつの出来事できごとの二ふたつの面めん」と言いい直なおしたのは、この手前てまえで止とまらないためだった。
  • 姿勢しせいを正ただすと気持きもちも改かいまる。ここに心身しんしんの相関そうかんが現あらわれている。 この語ごの日常にちじょうでの現あらわれである。注意ちゅういしたいのは、相関そうかんは因果いんがではないことだ。姿勢しせいが気分きぶんを変かえたのか、両方りょうほうを変かえる第だい三さんのものがあるのか、これだけでは決きまらない。言いえるのは「連動れんどうしている」までである。
  • ×勉強べんきょう時間じかんと成績せいせきには相関そうかんがあるので、勉強べんきょうすれば成績せいせきが上あがる。 相関そうかんから因果いんがへ飛とんでいる。相関そうかんは一方いっぽうが動うごくともう一方いっぽうも動うごくという関係かんけいの記述きじゅつにすぎない。もともと成績せいせきのよい生せい徒とがよく勉強べんきょうするという逆向ぎゃくむきも、家庭かてい環境かんきょうが両方りょうほうを決きめているという第だい三さんの要因よういんもありうる。この飛躍ひやくは評ひょう論文ろんぶんで最もっとも多おおく指摘してきされる誤あやまりである。
派生はせい形けい
  • 相関的そうかんてき[0]二ふたつが対応たいおうしていることを言いう。「相関そうかん的てきな関係かんけい」は重じゅう言げんになるので避さける。「相関そうかん的てきに理解りかいする」のように方法ほうほうの側がわで使つかうのがすっきりする。
  • 因果いんが[1]相関そうかんより強つよい主張しゅちょう。一方いっぽうがもう一方いっぽうを引ひき起おこす。時間じかんの順序じゅんじょと他ほかの要因よういんの排除はいじょが示しめされて初はじめて言いえる。「相関そうかんがある」で止とめるか「因果いんががある」まで行いくかで、証明しょうめいの負担ふたんがまるで違ちがう。
  • 連動れんどう[0]やわらかい言いい換かえ。仕組しくみまでは問とわずに一緒いっしょに動うごくことだけを言いう。相関そうかんが統計とうけい・学術がくじゅつの語ごなのに対たいし、連動れんどうは日常にちじょうでも使つかえる。文章ぶんしょうの硬かたさで選えらび分わける。
コロケーション
  • 心身しんしん相関そうかん定型ていけいとしての語ご心こころと身体しんたいがたがいに影響えいきょうし合あうこと。この言いい方かたが医学いがくでも哲学てつがくでも使つかわれるのは、因果いんがを決きめずに事実じじつだけ書かけるからだ。説明せつめいを保留ほりゅうしたまま前まえへ進すすめるというこの便利べんりさが、そのまま説明せつめいの先送さきおくりにもなりうる。
  • 相関そうかん関係かんけい因果いんがと分わける語ご「相関そうかん関係かんけいは因果いんが関係かんけいを意味いみしない」は統計とうけいの基本きほん原則げんそくである。この結むすびつきが評ひょう論文ろんぶんで重おもいのは、数字すうじを出だされると因果いんがに見みえてしまうからだ。1-7 の 143 の情報じょうほう社会しゃかいでデータが増ふえるほど、相関そうかんはいくらでも見みつかる — 見みつかりすぎることが新あたらしい問題もんだいになっている。
  • 相関そうかん的てきに捉とらえる方法ほうほうを言いう語ご二ふたつを別々べつべつに見みず、関係かんけいのなかで見みるという構かまえ。1-2 の要素ようそ論ろんに対たいする全体ぜんたい論ろんの側がわの言いい方かたで、身体しんたい論ろんはこの構かまえを心こころと身体しんたいに適用てきようする。片方かたほうを先さきに決きめてからもう片方かたほうを説明せつめいするのをやめる、という宣言せんげんである。
  • 相関そうかんの切断せつだん二元にげん論ろんの帰結きけつ心こころと身体しんたいを切きり離はなして別々べつべつに扱あつかえるとすること。医学いがくがここまで進すすんだのはこの切断せつだんのおかげでもある。身体しんたいを機械きかいとして扱あつかえば部品ぶひんを直なおせる。切断せつだんは誤あやまりである前まえにきわめて有効ゆうこうな方法ほうほうだった — この点てんを認みとめないと、二元にげん論ろん批判ひはんはただの悪口わるぐちになる。
格かく硬かた

書かき言葉ことば。会話かいわでは不自然ふしぜん。

類るい語ごと差さ
  • 因果いんが原因げんいんと結果けっかの結むすびつき☑51。向むきがある。相関そうかんは向むきを問とわない。この差さが最重要さいじゅうよう。
  • 関連かんれんつながりがある広ひろい。相関そうかんは変動へんどうが連動れんどうしていることを言いう。
  • 連動れんどう一方いっぽうが動うごけば他方たほうも動うごく機械的きかいてきな結むすびつき。相関そうかんは統計的とうけいてきな傾向けいこうを指さすことが多おおい。
  • 相互作用そうごさよう互たがいに働はたらきかけ合あう作用さようの実体じったいがある。相関そうかんは関係かんけいの記述きじゅつにとどまる。

ENcorrelation
ZH相关(関連する, xiāngguān)

03概念がいねん

像ぞう

ぞう[1]頭高あたまだか型がた

語ご構成こうせい
像ぞうかたち・すがた
使用しようの境界きょうかい

心こころに思おもい浮うかべられたかたち。もの自体じたいではなく、それについて作つくられた表あらわれを指さす。

用法ようほう

この主題しゅだいの中核ちゅうかくをなす語ごで、「像ぞうとしての身体しんたい」は身体しんたいそのものではないという一点いってんが要点ようてんになる。自分じぶんの顔かおも背中せなかも直接ちょくせつは見みえず、鏡かがみと他人たにんの言葉ことばと写真しゃしんから寄よせ集あつめた断片だんぺんで像ぞうを作つくっている。したがって最もっとも身近みじかなはずの身体しんたいが、像ぞうとしてしか把握はあくできない最もっとも遠とおいものになる。この逆説ぎゃくせつがテーマ全体ぜんたいを貫つらぬく。「像ぞう」単独たんどくより「身体しんたい像ぞう」「自己じこ像ぞう」の形かたちで使つかわれることが多おおい。

用例ようれい
  • 人ひとは、たがいにとっての鏡かがみである。……我々われわれは他人たにんの心こころに映うつった自分じぶんの姿すがたを想像そうぞうし、その姿すがたについての相手あいての判断はんだんを想像そうぞうし、そこから誇ほこりや恥はじといった感情かんじょうをもつ。チャールズ・ホートン・クーリー『人間にんげん性せいと社会しゃかい秩序ちつじょ』(1902)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    自己じこ像ぞうがどう作つくられるかを、三さん段階だんかいに分解ぶんかいしてみせた一節いっせつである。クーリーはこれを「鏡かがみに映うつった自己じこ」と呼よんだ。注目ちゅうもくしたいのは、二に度ど「想像そうぞうし」と繰くり返かえされていることだ。実際じっさいに相手あいてが何なにを思おもっているかは分わからない。我々われわれが反応はんのうしているのは想像そうぞうされた判断はんだんである。だから自己じこ像ぞうは他人たにんの実際じっさいの評価ひょうかではなく、こちらが読よみ取とったつもりの評価ひょうかでできている。誰だれも何なにも思おもっていなくても恥はじずかしくなりうるのはこのためだ。2-1 の 01 で見みた他者たしゃの視線しせんが、相手あいてが見みていなくても働はたらく理由りゆうがここにある。
  • 一人ひとりの子こが、生せい後ご六ろくか月げつから十八じゅうはちか月げつのあいだに、鏡かがみのなかの像ぞうを自分じぶんだと認みとめる。そのとき子こは、まだ自力じりきで立たてないにもかかわらず、一ひとつのまとまった姿すがたを先取さきどりして引ひき受うける。ジャック・ラカン「鏡像きょうぞう段階だんかい」(1936/1949)の主旨しゅしによる/訳やくは本ほん教材きょうざい
    身体しんたいの像ぞうが身体しんたいより先さきに来くるという倒錯とうさくを指摘してきした議論ぎろんである。要ようは順序じゅんじょだ。乳児にゅうじは自分じぶんの身体しんたいをばらばらにしか感かんじていない。手ても足あしもまだ思おもい通とおりにならない。ところが鏡かがみにはすでに完成かんせいした一ひとつの姿すがたが映うつっている。実感じっかんより先さきに像ぞうのほうがまとまっているのだ。この先取さきどりが自己じこという統一とういつの出発点しゅっぱつてんになるが、同時どうじに自己じこは最初さいしょから外側そとがわの像ぞうに借かりを作つくっていることにもなる。2-1 の 03 の自己じこが他者たしゃなしに立たたないという主張しゅちょうが、ここでは鏡かがみという装置そうちで説明せつめいされている。
  • 鏡かがみに映うつるのは像ぞうであって、感かんじられている身体しんたいではない。この二ふたつはしばしば食くい違ちがう。 この主題しゅだいの要点ようてんである。内側うちがわから感かんじる身体しんたいと外そとから見みえる像ぞうは別々べつべつに作つくられる。摂食せっしょく障害しょうがいも、容姿ようしへの執着しゅうちゃくも、この二ふたつのずれから起おきる。11 の美醜びしゅうは像ぞうの側がわにだけ属ぞくする語ごである。
  • ×駅前えきまえに立派りっぱな像ぞうが建たった。 彫像ちょうぞうのことなら「銅どう像ぞう」「彫像ちょうぞう」である。評ひょう論語ろんごの像ぞうは心こころのなかに結むすばれるイメージを指さすことが多おおく、物ものとしての像ぞうとは別べつに読よむ。なお「像ぞうを結むすぶ」「自己じこ像ぞう」「身体しんたい像ぞう」のように、複合ふくごう語ごの形かたちで出でてきたらほぼ概念がいねん語ごだと見当けんとうをつけてよい。
派生はせい形けい
  • イメージ[1]外来語がいらいごでの言いい換かえ。像ぞうよりやわらかく、曖昧あいまいさを許ゆるす。「イメージが湧わく」は自然しぜんだが「像ぞうが湧わく」とは言いわない。像ぞうは結むすぶもの、イメージは持もつものという共起きょうきの差さがある。
  • 表象ひょうしょう[0]哲学てつがくの術語じゅつご。心こころに思おもい浮うかべられたもので、1-5 の 93 の知覚ちかくと対たいで使つかわれる。像ぞうが視覚しかくに寄よるのに対たいし、表象ひょうしょうは感覚かんかくの種類しゅるいを問とわない。射程しゃていが広ひろいぶん、手触てざわりは薄うすい。
  • 形象けいしょう[0]形かたちとして現あらわれたもの。文ぶん芸げい批評ひひょうで作品さくひんのなかに立たち上あがる姿すがたを指さして使つかう。作つくられたものであるという含ふくみが強つよく、自然しぜんにそこにある像ぞうとは区別くべつされる。
コロケーション
  • 身体しんたい像ぞうこの主題しゅだいの術語じゅつご自分じぶんの身体しんたいについて心こころの内ないに持もっている像ぞう。この語ごが要いるのは、実際じっさいの身体しんたいと像ぞうが一致いっちしないからだ。手足てあしを失うしなった人ひとが失うしなった部分ぶぶんの痛いたみを感かんじる(幻肢げんし)のは、像ぞうのほうが残のこっているからである。身体しんたいは物ものであると同時どうじに像ぞうでもあることの、最もっとも鮮明せんめいな証拠しょうこ。
  • 自己じこ像ぞう像ぞうが像ぞうを見みる自分じぶんについて描えがいている像ぞう。2-1 の 07 の再帰さいきがここで具体的ぐたいてきな形かたちをとる。注意ちゅういしたいのは、自己じこ像ぞうを修正しゅうせいする作業さぎょうもまた自己じこ像ぞうのなかで行おこなわれることだ。外そとへ出でて確たしかめられない。だから他者たしゃの言葉ことばが要いる — クーリーの鏡かがみはここに効きいてくる。
  • 像ぞうを結むすぶ光学こうがくから来きた言いい方かたレンズが光ひかりを集あつめて一点いってんに像ぞうを作つくるという物理ぶつりの語彙ごい。この比喩ひゆが定着ていちゃくしたのは、像ぞうが「そこに在ある」のではなく「そのつど作つくられる」ことを言いえるからだ。条件じょうけんが変かわれば像ぞうも変かわる — 自己じこ像ぞうが場面ばめんごとに違ちがうのも同おなじ理屈りくつになる。
  • 偶像ぐうぞう像ぞうが実体じったいを奪うばう語ご本来ほんらいは拝おがむために作つくられた像ぞう。転てんじて実体じったいより像ぞうのほうが力ちからを持もつ事態じたいを指さす。1-6 の 133 のフェティシズムと同おなじ場所ばしょを宗教しゅうきょうの語彙ごいで言いった形かたちである。ベーコンのイドラ(1-2)も同おなじ語ごから来きている — 像ぞうは認識にんしきを助たすけもすれば妨さまたげもする。
格かく硬かた

書かき言葉ことば。会話かいわでは不自然ふしぜん。

類るい語ごと差さ
  • 表象ひょうしょう心こころに立たち現あらわれた像ぞう☑65。ほぼ同義どうぎの学術がくじゅつ語ご。像ぞうはより素朴そぼくで、視覚的しかくてきな含ふくみが強つよい。
  • イメージ思おもい浮うかぶ姿すがた外来語がいらいごで日常的にちじょうてき。像ぞうはその漢かん語形ごけいで、文章ぶんしょう語ご。
  • 実像じつぞう実際じっさいのありさま対たい語ごとして使つかわれる。虚きょ像ぞうとの対たいでも用もちいる。
  • 印象いんしょう感覚かんかくに残のこった形かたち受うけた側がわの感覚かんかく。像ぞうは対象たいしょうについて作つくられた表あらわれ。

ENimage
ZH形象(形象・イメージ, xíngxiàng)

04概念がいねん

身分けみわけ⚠

みわけ[0]平板へいばん型がた

語ご構成こうせい
身みからだ+分わけ分節ぶんせつすること

評ひょう論ろん家か・市川いちかわ浩ひろしの造語ぞうご。「分わけ」は「分節ぶんせつ」の意いである。

使用しようの境界きょうかい

身体しんたいによって世界せかいを区切くぎり、感かんじ分わけること。言葉ことばによる区切くぎり(言げん分わけ)と対たいになる。

用法ようほう

評ひょう論ろん家か・市川いちかわ浩ひろしの造語ぞうごで、☑67 分節ぶんせつを身体しんたいの側がわへ拡張かくちょうした語ごである。赤あかん坊ぼうが言葉ことばを覚おぼえて物ものの区別くべつを知しるのが言げん分わけ、快かいと不快ふかいを身体しんたいで区別くべつするのが身分みぶんけ。「こっちに行いくと危きなそうだ」という予感よかんは理性りせいの判断はんだんではなく、身体的しんたいてきなセンサーの働はたらきに近ちかい。要点ようてんは、世界せかいの切きり分わけが言語げんごの独占どくせんではないという主張しゅちょうにある。空気くうきを読よむ・雰囲気ふんいきを察さっするといった日常にちじょうの営いとなみが、ここで理論りろんの対象たいしょうになる。

用例ようれい
  • 観かん見み二ふたつの事こと、観かんの目めつよく、見みの目めよはく、遠とおき所しょを近ちかく見み、近ちかき所しょを遠とおく見みる事こと、兵法ひょうほうの専せんなり。宮本武蔵みやもとむさし『五輪ごりん書しょ』水みず之の巻かん(1645)
    言葉ことばより手前てまえで世界せかいが分わけられていることを示しめした一節いっせつである。武蔵むさしは目めの働はたらきを「観かん」と「見み」の二ふたつに分わけた。「見み」は目めに映うつるものをそのまま追おう働はたらき、「観かん」は場ば全体ぜんたいの気配けはいを掴つかむ働はたらきである。注目ちゅうもくしたいのは、強つよくせよと言いわれるのが「観かん」のほうだという点てんだ。はっきり見みえているものほど当あてにならない。そして「遠とおき所しょを近ちかく見み、近ちかき所しょを遠とおく見みる」— 距離きょりの感かんじ方ほうそのものを作つくり変かえよと言いっている。ここで分わけられているのは言葉ことばではなく身体しんたいの構かまえだ。身分みぶんけという語ごが指さすのはまさにこの層そう — 言葉ことばで分わける(言げん分わけ)前まえに、身体しんたいがすでに世界せかいを分わけてしまっている。1-3 の分節ぶんせつが言語げんごだけの仕事しごとではないと言いわれる根拠こんきょがここにある。
  • 習慣しゅうかんは、身体しんたいが世界せかいを了りょう解かいする仕方しかたである。……盲人もうじんの杖つえは、もはや彼かれが知覚ちかくする対象たいしょうではなく、彼かれがそれによって知覚ちかくする器官きかんとなる。モーリス・メルロ=ポンティ『知覚ちかくの現象学げんしょうがく』第一だいいち部ぶ(1945)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    身分みぶんけが拡張かくちょうしうることを示しめした一節いっせつである。杖つえは最初さいしょ手てに持もった物ものだ。慣なれると杖つえの先さきで地面じめんを感かんじるようになる。感覚かんかくの境界きょうかいが手てのひらから杖つえの先さきへ移動いどうするのだ。ここから二ふたつ出でてくる。第一だいいちに、身体しんたいの輪郭りんかくは皮膚ひふではない。第だい二にに、身分みぶんけは生うまれつきではなく習慣しゅうかんで作つくられる。車くるまの車幅しゃふく感覚かんかくも、楽器がっきも、道具どうぐが身体しんたいになる例れいだ。05 の外部がいぶ化かと向むきが正反対せいはんたいである — あちらは身体しんたいの働はたらきが外そとへ出でていき、こちらは外そとの物ものが身体しんたいに入はいってくる。
  • 言葉ことばで名なを与あたえる前まえに、身体しんたいはすでに世界せかいを分わけている。これを身分みぶんけという。 この語ごの定義ていぎである。暗くらい部屋へやに入はいったとき、言葉ことばにする前まえに身体しんたいがすくむ。言げん分わけが身分みぶんけの上うえに乗のっているという順序じゅんじょがこの主題しゅだいの主張しゅちょうだ。1-3 の 記号きごうと分節ぶんせつを下したから支ささえている層そうにあたる。
  • ×荷物にもつを種類しゅるいごとに身分みぶんけして片かたづけた。 そういう語ごは無ない。仕分しわけるなら「仕分しわけ」「区分くぶんけ」である。身分みぶんけは「言げん分わけ」と対たいにして作つくられた術語じゅつごで、身体しんたいによる世界せかいの分節ぶんせつを指さす。造語ぞうごである以上いじょう、文中ぶんちゅうで必かならず対たいの「言げん分わけ」と一緒いっしょに出だすのが読よみ手てへの礼儀れいぎになる。
派生はせい形けい
  • 言分けことわけ[0]対たいになる術語じゅつご。言語げんごによって世界せかいを切きり分わけること。1-3 の 分節ぶんせつを和わ語ごで言いい直なおした形かたちにあたる。「ことわけ」と読よみ、「言いい訳やく」とは別語べつご。ルビが必須ひっすの語ごである。
  • 身体化しんたいか[0]知識ちしきや技術ぎじゅつが身体しんたいに染しみ込こむこと。「型かたが身体しんたい化かする」。意識いしきしなくてもできる状態じょうたいがその到達点とうたつてんで、そのぶん説明せつめいできなくなるという代償だいしょうを伴ともなう。
  • 身に付くみにつく[3]日常にちじょう語ごでの言いい方かた。「覚おぼえる」との差さに注意ちゅういしたい。覚おぼえるのは頭あたま、身みに付つくのは身体しんたい。日本語にほんごがもともとこの二ふたつを分わけていることが、身分みぶんけという造語ぞうごを受うけ入いれやすくしている。
コロケーション
  • 言げん分わけと身分みぶんけ対たいでのみ働はたらく語ごこの二に語ごは片方かたほうだけでは意味いみをなさない。言げん分わけは言語げんごによる分節ぶんせつ、身分みぶんけは身体しんたいによる分節ぶんせつ。要点ようてんは順序じゅんじょにある — 身分みぶんけが先さきにあり、言げん分わけがその上うえに重かさねられる。だから言語げんごで説明せつめいしきれない領域りょういきが必かならず残のこる。
  • 身体しんたい図式ずしき近ちかい概念がいねん自分じぶんの身体しんたいの各部かくぶ分ぶんの位置いちを意識いしきせずに把握はあくしている仕組しくみ。目めを閉とじても手てがどこにあるか分わかる。03 の身体しんたい像ぞうが見みられる姿すがたなのに対たいし、身体しんたい図式ずしきは動うごくための地図ちずである。像ぞうは意識いしきされ、図式ずしきは意識いしきされない。
  • 暗黙あんもく知ち言葉ことばにならない知ち語かたれる以上いじょうに知しっているという事態じたいを指さす語ご。身分みぶんけはこの知ちの身体的しんたいてきな土台どだいにあたる。1-7 の 152 のアカデミズムが扱あつかいにくいのはこの層そうだ — 論文ろんぶんにできない知ちは学問がくもんの外そとに置おかれる。職人しょくにんの技わざが継承けいしょうの危機ききにあるのも同おなじ理由りゆうによる。
  • 身分みぶんけの習慣しゅうかん化か後天こうてん性せいを言いう語ご身分みぶんけが訓練くんれんで作つくり変かえられること。メルロ=ポンティの杖つえがその例れいである。この面めんを押おさえておくと、身体しんたいが自然しぜんのままの土台どだいだという素朴そぼくな見方みかたを避さけられる。身体しんたいもまた文化ぶんかに彫ほられている — 1-4 の 73 の文化ぶんかがここまで届とどいている。
格かく硬かた・学術がくじゅつ

論文ろんぶん・評ひょう論ろんでのみ使つかう。会話かいわでは不自然ふしぜん。

類るい語ごと差さ
  • 言げん分わけ言葉ことばによる分節ぶんせつ対たい語ご。☑67 分節ぶんせつを言葉ことばの側がわに限定げんていした言いい方かた。
  • 分節ぶんせつ連続れんぞくに切きれ目めを入いれる☑67。上位じょうい概念がいねん。身分みぶんけと言げん分わけはその二ふたつの様式ようしき。
  • 直観ちょっかん筋道すじみちを経へずに捉とらえる働はたらきの速はやさ。身分みぶんけは身体しんたいという経路けいろを指定していする。
  • 暗黙あんもく知ち言葉ことばにできない知ちポランニー。身分みぶんけが蓄積ちくせきしたものと言いえる。

ENbodily articulation
ZH身体分节(身体による分節, shēntǐ fēnjié)

日中にっちゅうのズレ

身分みぶんけ・言げん分わけは日本語にほんごの造語ぞうごであり、中国語ちゅうごくごに定訳ていやくがない。

説明せつめいするなら 身体的分节/语言的分节 のように分解ぶんかいして言いうことになる。

05概念がいねん

外部化がいぶか

がいぶか[0]平板へいばん型がた

語ご構成こうせい
外部がいぶそと+化かそうなる
使用しようの境界きょうかい

内ないにあったものを外そとへ移うつし、独立どくりつした形かたちにすること。単たんに外そとに出だすのではなく、外そとに置おいたまま働はたらかせる点てんを含ふくむ。

用法ようほう

二ふたつの層そうで使つかわれる点てんが要点ようてんになる。①身体しんたい機能きのうの外部がいぶ化か──ナイフは爪つめや歯はの、ハンマーは拳こぶしの、車輪しゃりんは足あしの延長えんちょうである。道具どうぐは身体しんたいの機能きのうを外そとへ移うつしたものだ。②身体しんたいそのものの外部がいぶ化か──疲つかれや病気びょうきのとき、身体しんたいが自分じぶんの一部いちぶではなく他人たにんの物もののように感かんじられる。「足あしが棒ぼうのようになる」がその例れい。①は道具どうぐが身体しんたいになる方向ほうこう、②は身体しんたいが物ものになる方向ほうこうで、向むきが逆ぎゃくである。この対比たいひが Key Point の骨格こっかくをなす。

用例ようれい
  • この技術ぎじゅつは、学まなぶ者ものの魂たましいに忘却ぼうきゃくを生しょうじさせるだろう。彼かれらは書かかれたものを頼たよりにして、自分じぶんの内ないから思おもい出だすことをやめ、外そとにある他人たにんの刻きざみつけた印しるしによって思おもい出だそうとするからだ。プラトン『パイドロス』(前まえ370頃ころ)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    外部がいぶ化かの最初さいしょの批判ひはんである。批判ひはんされているのは文字もじだ。注目ちゅうもくしたいのは、この批判ひはんが文字もじで書かかれていることである。プラトンは文字もじを疑うたがいながら文字もじで残のこした。そしてそのおかげで二千にせん四百年よんひゃくねん後ごの我々われわれがこの批判ひはんを読よめる。外部がいぶ化かを論ろんじる議論ぎろんがつねに抱かかえる自己じこ矛盾むじゅんが、出発点しゅっぱつてんにすでにある。要点ようてんは「内ないから思おもい出だす」と「外そとの印しるしによって思おもい出だす」の対たいだ。同おなじ「思おもい出だす」でも働はたらきの所在しょざいが違ちがう。1-7 の 143 の情報じょうほう社会しゃかいで検索けんさくが記憶きおくを肩かた代かわりする話はなしは、この一節いっせつの反復はんぷくである。
  • 道具どうぐは、人間にんげんの器官きかんの延長えんちょうである。……人間にんげんはその作つくった物もののなかへ、自分じぶんの力ちからを移うつし置おいてきた。エルンスト・カップ『技術ぎじゅつ哲学てつがく要綱ようこう』(1877)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    外部がいぶ化かを肯定こうていの側がわから定式化ていしきかした一節いっせつである。ハンマーは拳こぶしの延長えんちょう、レンズは目めの延長えんちょう、車輪しゃりんは脚あしの延長えんちょう。この見方みかたの利り点てんは、技術ぎじゅつを人間にんげんの外そとにある異物いぶつとしないところにある。道具どうぐは人間にんげんの一部いちぶが外そとへ出でたものだ。ところがここから不穏ふおんな帰結きけつも出でる — 出でて行おこなった器官きかんは、本体ほんたいの側がわで衰おとろえる。計算機けいさんきが計算けいさんを引ひき受うければ暗算あんざんが衰おとろえ、記録きろく装置そうちが記憶きおくを引ひき受うければ記憶きおくが衰おとろえる。延長えんちょうと喪失そうしつは同おなじ一ひとつの出来事できごとの二ふたつの面めんである。04 のメルロ=ポンティの杖つえとちょうど逆向ぎゃくむきに読よめる。
  • 記憶きおくを紙かみに、計算けいさんを機械きかいに委ゆだねる。こうした外部がいぶ化かは能力のうりょくの拡張かくちょうであると同時どうじに能力のうりょくの委譲いじょうでもある。 両面りょうめんを一文いちぶんに収おさめる型かたである。できることが増ふえると同時どうじに、できなくなることも増ふえる。どちらか一方いっぽうだけを書かくと技術ぎじゅつ礼賛らいさんか技術ぎじゅつ嫌悪けんおに落おちる。評ひょう論文ろんぶんが求もとめるのは差さ引ひきを書かくことだ。
  • ×社内しゃないの経理けいり業務ぎょうむを外部がいぶ化かした。 通つうじるが、経営けいえいの語ごとしては「外部委託がいぶいたく」「アウトソーシング」である。評ひょう論語ろんごの外部がいぶ化かは人間にんげんの能力のうりょくや機能きのうが身体しんたいの外そとの物ものへ移うつされることを指さす概念がいねん語ごで、業務ぎょうむの委託いたくとは層そうが違ちがう。ただし両者りょうしゃは地続じつづきでもあり、その地続じつづきを論ろんじるのがこの語ごの使つかいどころになる。
派生はせい形けい
  • 外化がいか[0]哲学てつがくの術語じゅつご。ヘーゲルの Entäußerung の訳やくで、内ないにあるものが外そとに形かたちをとって現あらわれること。そのあと疎遠そえんなものになるという含ふくみがあり、1-6 の 137 の疎そ外がいと同おなじ根ねを持もつ。
  • 外部性がいぶせい[0]経済学けいざいがくでは別べつの意味いみ。取引とりひきの当事者とうじしゃ以外いがいに影響えいきょうが及およぶこと(外部がいぶ経済けいざい・外部がいぶ不ふ経済けいざい)。同おなじ「外部がいぶ」でも分野ぶんやで意味いみが変かわるので、評ひょう論文ろんぶんではどちらの文脈ぶんみゃくかを先さきに確たしかめる。
  • 内面化ないめんか[0]逆向ぎゃくむきの語ご。外そとにあった規範きはんや視線しせんを自分じぶんの内側うちがわの基準きじゅんにすること。1-7 の 144 の監視かんし社会しゃかいと1-4 の 83 の世間せけんがこの語ごで結むすばれる。外部がいぶ化かと内面化ないめんかは交互こうごに起おきると見みると、技術ぎじゅつと心こころの関係かんけいが読よみやすくなる。
コロケーション
  • 身体しんたいの外部がいぶ化かこの主題しゅだいでの形かたち身体しんたいが担になっていた働はたらきが道具どうぐや機械きかいへ移うつること。この結むすびつきが要いるのは、外部がいぶ化かの対象たいしょうが記憶きおくや計算けいさんだけではないからだ。移動いどうも、力ちからも、感覚かんかくさえ外そとへ出だせる。身体しんたいでしかできないことが何なにかを問とうことが、身体しんたい論ろんの現代的げんだいてきな課題かだいになる。
  • 記憶きおくの外部がいぶ化か最もっとも古ふるい形かたち文字もじ、印刷いんさつ、写真しゃしん、記録きろく装置そうち。プラトン以来いらい同おなじ批判ひはんが技術ぎじゅつのたびに繰くり返かえされている。押おさえておきたいのは、批判ひはんが毎回まいかい当あたっていると同時どうじに外はずれていることだ。暗誦あんしょうの力ちからは確たしかに衰おとろえたが、そのぶん書物しょもつを突つき合あわせる知ちが生うまれた。
  • 外部がいぶ化かと内面化ないめんか往復おうふくする対たい外そとへ出だしたものが、今度こんどは内側うちがわの基準きじゅんとして取とり込こまれるという循環じゅんかん。文字もじを外そとに出だしたはずが、文字もじで考かんがえるようになる。1-7 の 144 で見みた自発的じはつてきな服従ふくじゅうもこの形かたちをしている — 外そとにあった監視かんしが内側うちがわの目めになる。
  • 外部がいぶ化かされた自己じこ現代げんだいの論点ろんてん記録きろく・投稿とうこう・履歴りれきとして身体しんたいの外そとに蓄積ちくせきされた自分じぶん。この語ごが要いるのは、その蓄積ちくせきが本人ほんにんより詳くわしく本人ほんにんを知しっているという事態じたいが生しょうじたからだ。2-1 の 03 の自己じこが関係かんけいのなかで作つくられるなら、データもまたその関係かんけいの一部いちぶになる。
格かく硬かた・学術がくじゅつ

論文ろんぶん・評ひょう論ろんでのみ使つかう。会話かいわでは不自然ふしぜん。

類るい語ごと差さ
  • 内部ないぶ化か外そとにあったものを内ないに取とり込こむ対たい語ご。道具どうぐに慣なれると自分じぶんの一部いちぶになる過程かていがこれにあたる。
  • 疎そ外がい自作じさく物ぶつが逆ぎゃくに人ひとを支配しはいする☑21。外部がいぶ化かした結果けっかとして起おこりうる事態じたい。段階だんかいが違ちがう。
  • 客体きゃくたい化か働はたらきかけられる側がわに置おき直なおす☑107。外部がいぶ化かは機能きのうを移うつすこと、客体きゃくたい化かは扱あつかいを変かえること。
  • 代替だいたい別べつのもので置おき換かえる入いれ替かえ。外部がいぶ化かは元もとのものが残のこったまま外そとにも置おかれる。

ENexternalisation
ZH外部化(外部化, wàibùhuà)

06概念がいねん

媒体ばいたい⚠

ばいたい[0]平板へいばん型がた

語ご構成こうせい
媒ばいなかだち+体からだもの
使用しようの境界きょうかい

二ふたつのものを結むすびつける仲立なかだちとなるもの。それ自体じたいは目的もくてきではなく、通とおり道みちとして働はたらく。

用法ようほう

入試にゅうし設問せつもんの急所きゅうしょがここにある。身体しんたいは「所有しょゆうという行為こういの媒体ばいたい」であるとは、何なにかを自分じぶんのものとして意いのままにするとき、掴つかむ・持もつという形かたちで身体しんたいがその通とおり道みちになっている、という意味いみである。つまり身体しんたいは、私わたしが随ずい意いに使用しようしうる一ひとつの器官きかんとして働はたらいている。ところが同おなじ身体しんたいを、私わたしは自由じゆうにできない。痛いたみも倦けん怠たいも抗こうえない。媒体ばいたいとして使つかえるのに、その媒体ばいたい自体じたいは意いのままにならない──この二に重じゅう性せいが問とわれている。

用例ようれい
  • 文字もじを書かくための蝋板ろうばんは、それ自身じしんは何なにの形かたちも持もたない。だからこそ、あらゆる形かたちを受うけ取とることができる。アリストテレス『魂たましいについて』第だい三さん巻かん(前4世紀ぜんよんせいき)の主旨しゅしによる/訳やくは本ほん教材きょうざい
    媒体ばいたいの条件じょうけんを一ひとつの比喩ひゆで示しめした議論ぎろんである。アリストテレスが説明せつめいしようとしたのは感覚かんかくがなぜ働はたらくかだった。目めがもし色いろを持もっていたら、その色いろがすべての見みえ方かたに混まざる。何なにも持もたないからこそ何なにでも映うつせる。この条件じょうけんは媒体ばいたい一般いっぱんに当あてはまる — よい媒体ばいたいは自分じぶんを目立めだたせない。ところがここに難所なんしょがある。本当ほんとうに何なにの形かたちも持もたない媒体ばいたいは存在そんざいしない。紙かみには紙かみの、画面がめんには画面がめんの性質せいしつがあり、それが伝つたわる中身なかみを必かならず変かえる。2-3 の 01 の媒介ばいかいが「媒体ばいたいは透明とうめいではない」と言いい切きるのは、この難所なんしょを引ひき受うけるためである。
  • 身体しんたいは、我々われわれが世界せかいをもつための一般的いっぱんてきな媒体ばいたいである。モーリス・メルロ=ポンティ『知覚ちかくの現象学げんしょうがく』第一だいいち部ぶ(1945)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    身体しんたいを媒体ばいたいとして定義ていぎし直なおした一文いちぶんである。04 で引ひいた杖つえの一節いっせつと同おなじ書物しょもつの、すぐ近ちかくにある命題めいだいで、杖つえが身体しんたいになるという話はなしはこの定義ていぎの系けいにあたる。「一般的いっぱんてきな」という限定げんていが要ようだ。眼鏡めがねは見みるための媒体ばいたい、電話でんわは話はなすための媒体ばいたい — どれも特定とくていの用途ようとに限かぎられている。身体しんたいだけがすべてに関かかわる。そして重要じゅうようなのは、この媒体ばいたいは取とり替かえられないことだ。眼鏡めがねは外はずせるが、身体しんたいは外はずせない。だから身体しんたいという媒体ばいたいの性質せいしつは、そのまま世界せかいの見みえ方かたになる。1-5 の 89 で見みた離り見みの見みが難むずかしいのはこのためだ — 見みるための当とうのものを外はずして見みることはできない。
  • 身体しんたいは、世界せかいと関かかわるための媒体ばいたいであり、その媒体ばいたいを取とり替かえることはできない。 この主題しゅだいの中核ちゅうかくである。道具どうぐは選えらべる、言葉ことばも選えらべる。身体しんたいだけが与あたえられたままだ。2-1 の 09 の受動じゅどうが最もっとも具体的ぐたいてきに現あらわれる場所ばしょが身体しんたいである。
  • ×新聞しんぶんやテレビなどの媒体ばいたいは身体しんたいの延長えんちょうである。 間違まちがいではないが、報道ほうどう機関きかんを指さすなら「メディア」と書かくほうが誤解ごかいが少すくない。「媒体ばいたい」は広告業こうこくぎょう界かいでは掲載けいさい先さきの意いで使つかわれるため、身体しんたい論ろんの文脈ぶんみゃくと混まざりやすい。同おなじ語ごが分野ぶんやをまたぐときは、一度いちど定義ていぎを置おいてから使つかう。
派生はせい形けい
  • 媒介ばいかい[0]働はたらきの側がわの語ご。媒体ばいたいが間あいだに立たつ物ものを指さすのに対たいし、媒介ばいかいは間あいだに立たってつなぐ働はたらきを指さす。2-3 の 01 で立たてる語ごで、ヘーゲル以来いらい直接ちょくせつと対たいにして使つかわれる。
  • 媒質ばいしつ[0]物理ぶつりの語ご。音おとや光ひかりが伝つたわるその中身なかみ(空気くうき・水みず)。媒ばい質しつが変かわれば速はやさも屈折くっせつも変かわるという事実じじつが、媒体ばいたいは中身なかみを変かえるという主張しゅちょうの下敷したじきになっている。
  • メディア[1]medium の複数ふくすう形けいがそのまま定着ていちゃくした形かたち。日本語にほんごでは単たん数すうのように扱あつかう。報道ほうどう機関きかんを指さす用法ようほうが強きょうすぎるため、身体しんたいや言語げんごをメディアと呼よぶ議論ぎろんでは広こう義ぎであることを断ことわってから使つかうのが安全あんぜんである。
コロケーション
  • 媒体ばいたいとしての身体しんたいこの主題しゅだいの言いい方かた身体しんたいを目的もくてきではなく通とおり道みちとして見みる構かまえ。この見方みかたの利り点てんは、身体しんたいが「私わたしが持もっている物もの」でも「私わたしそのもの」でもないと言いえることにある。持もち物ものなら手放てばなせ、私わたしそのものなら距離きょりが取とれない。媒体ばいたいという位置いちづけはその中間ちゅうかんを指ゆびせる数少かずすくない語ごである。
  • 媒体ばいたいの透明性とうめいせい成なり立たたない理想りそう媒体ばいたいが自分じぶんを感かんじさせずに中身なかみだけを伝つたえるという理想りそう。実際じっさいにはどの媒体ばいたいも固有こゆうの性質せいしつを持もち込こむ。2-3 の 01 の媒介ばいかいがこの語ごを正面しょうめんから扱あつかう。身体しんたいでいえば、疲つかれているときの世界せかいと元気げんきなときの世界せかいは同おなじではない。
  • 媒体ばいたいを意識いしきする透明とうめいでなくなる瞬間しゅんかん普段ふだんは感かんじない媒体ばいたいが急きゅうに前まえへ出でてくるとき。歯はが痛いたむと身体しんたいが世界せかいより手前てまえに立たつ。08 の随ずい意いが効きかなくなった瞬間しゅんかんである。媒体ばいたいは壊こわれたときにだけ見みえる — 道具どうぐについても同おなじことが言いえる。
  • 複数ふくすうの媒体ばいたい重かさねて使つかう語ご身体しんたい・言葉ことば・道具どうぐ・制度せいど。人ひとはつねにいくつもの媒体ばいたいを重かさねて世界せかいと関かかわっている。この見方みかたを取とると、どこまでが自分じぶんかが決きまらなくなる。05 の外部がいぶ化かと04 の身分みぶんけが境界きょうかいを両方向りょうほうこうへ動うごかしているからだ。
格かく中なか

書かき言葉ことば・会話かいわの両方りょうほうで使つかえる。

類るい語ごと差さ
  • 媒介ばいかい仲立なかだちすること働はたらきのほう。媒体ばいたいはその働はたらきを担になう物ものや仕組しくみ。
  • 手段しゅだん目的もくてきを果はたすための方法ほうほう目的もくてきとの関係かんけい。媒体ばいたいは二者にしゃを結むすぶという構造こうぞうを指さす。
  • 道具どうぐ働はたらきを助たすける物もの使つかう側がわから見みた呼よび名な。媒体ばいたいは通とおり道みちとしての位置いちを言いう。
  • メディア情報じょうほうを伝つたえる媒体ばいたい外来語がいらいご。日本語にほんごでは報道ほうどう機関きかんを指さすことが多おおい。

ENmedium
ZH媒介物(媒介するもの, méijièwù)

日中にっちゅうのズレ

中国語ちゅうごくごの 媒体ばいたい(méitǐ)はマスメディア・報道ほうどう機関きかんを指さすのが通例つうれいで、日本語にほんごの「媒体ばいたい」とは重かさならない。

「仲立なかだちとなるもの」の意いでは 媒介ばいかい(méijiè) や 媒介ばいかい物ぶつ を用もちいる。

07概念がいねん

所有しょゆう⚠

しょゆう[0]平板へいばん型がた

語ご構成こうせい
所しょところ・〜するもの+有ゆうもつ
使用しようの境界きょうかい

自分じぶんのものとして意いのままにできること。手元てもとに置おいているだけでは足たりず、処分しょぶんできることを含ふくむ。

用法ようほう

入試にゅうし文ぶんが与あたえる定義ていぎが精密せいみつで、「なにかをじぶんのものとして、意いのままにできる」ことを所有しょゆうと呼よぶ。だから所有しょゆうは単たんなる保持ほじではなく、処分しょぶんできることを含ふくむ。この定義ていぎを取とると、身体しんたいは所有しょゆうの媒体ばいたいでありながら、身体しんたいそのものは所有しょゆうできないことになる。痛いたみも倦けん怠たいも意いのままにならないからである。「自分じぶんの身体しんたいは自分じぶんのものだ」という言いい方かたが揺ゆらぐのがこの主題しゅだいの要点ようてんで、☑123 個人こじん・☑160 自己じこ責任せきにんの前提ぜんていにも触ふれる。

用例ようれい
  • たとえ大地だいちとすべての下級かきゅうの被ひ造物ぞうぶつが万人ばんにんの共有きょうゆう物ぶつであるとしても、人ひとは誰だれでも自分自身じぶんじしんの身体しんたいに対たいする所有権しょゆうけんをもつ。これについては、本人ほんにん以外いがいの誰だれも権利けんりをもたない。ジョン・ロック『統治とうち二に論ろん』第だい二に篇へん第だい五ご章しょう(1690)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    近代きんだいの所有権しょゆうけんの全体ぜんたいがこの一段いちだんから出でてくる。手順てじゅんはこうだ — まず身体しんたいが自分じぶんのものであると置おく。すると身体しんたいを使つかってなした労働ろうどうも自分じぶんのものになる。その労働ろうどうを混まぜた対象たいしょうも自分じぶんのものになる。身体しんたいの所有しょゆうから土地とちの所有しょゆうまでが一本いっぽんの線せんでつながるのである。この論法ろんぽうの巧たくみさは、誰だれも反対はんたいしない前提ぜんていから出発しゅっぱつすることにある。「私わたしの身体しんたいは私わたしのものだ」を否定ひていする人ひとはいない。だが 1-6 の 122 で見みたルソーの「囲かこい」と並ならべて読よむと、同おなじ操作そうさが正当化せいとうかにも告発こくはつにもなることが分わかる。そして現代げんだいの生命せいめい倫理りんりは、この出発点しゅっぱつてんそのものを問とい直なおしている — 身体しんたいは本当ほんとうに「持もち物もの」なのか。
  • 身体しんたい髪膚はっぷ、これを父母ふぼに受じゅく。あへて毀傷きしょうせざるは、孝こうの始はじめなり。『孝経こうきょう』開宗かいそう明みん義章よしあき
    身体しんたいの所有しょゆうを正面しょうめんから否定ひていする一節いっせつである。身体しんたいは自分じぶんのものではない。父母ふぼから受うけた預あずかりものだ。だから傷きずつけない。ロックの論法ろんぽうと出発点しゅっぱつてんが正反対せいはんたいである。ここから制度せいどの差さが一直線いっちょくせんに出でてくる — 身体しんたいが自分じぶんのものなら売うっても捨すててもよいことになるが、預あずかりものなら処分しょぶんの自由じゆうは無ない。刺青いれずみも、臓器ぞうき提供ていきょうも、安楽死あんらくしも、この二ふたつの前提ぜんていのどちらに立たつかで結論けつろんが変かわる。1-7 の 159 の自己じこ決定けっていが身体しんたいに及およぶとき、争あらそわれているのは個別こべつの是非ぜひではなくこの出発点しゅっぱつてんである。
  • 身体しんたいを所有しょゆうしているという言いい方かたは、身体しんたいを自分じぶんから切きり離はなせるものとして扱あつかっている。 語ご法ほうから前提ぜんていを取とり出だす型かたである。「持もつ」と言いうためには持もつ者ものと持もたれる物ものが別べつでなければならない。ところが身体しんたいを手放てばなしたら持もつ者もののほうが消きえる。所有しょゆうという語ごが身体しんたいにはうまく当あてはまらないことが、ここから見みえる。
  • ×彼かれは広ひろい土地とちを所有しょゆうしている。 誤あやまりではないが、この主題しゅだいでは出で番ばんがない。評ひょう論語ろんごとしての 07 は身体しんたいをめぐって「持もつ」という関係かんけいが成なり立たつかどうかを問とう場面ばめんで使つかう。土地とちや物ものの所持しょじを言いうだけなら日常にちじょう語ごの所有しょゆうで、1-6 の 122 の私的してき所有しょゆうの文脈ぶんみゃくに属ぞくする。
派生はせい形けい
  • 所持しょじ[1]手元てもとにあることだけを言いう。所有しょゆうが権利けんりを含ふくむのに対たいし、所持しょじは事実じじつにとどまる。拾ひろった物ものは所持しょじしているが所有しょゆうはしていない — 法ほうの語彙ごいではこの差さが決定的けっていてきである。
  • 占有せんゆう[0]事実上じじつじょう支配しはいしていること。所持しょじより強つよく、所有しょゆうより弱よわい。三さん語ごが段階だんかいをなしていることを押おさえておくと、評ひょう論文ろんぶんの法律ほうりつ用語ようごで迷まよわない。
  • 固有こゆう[0]語源ごげんが同おなじ。英語えいごの property は「所有物しょゆうぶつ」とも「特とく性せい」とも訳やくせる。持もっているものとその物ものの性質せいしつが同おなじ語ごだったという事実じじつは、2-1 の 04 の固有こゆう性せいと05 の属性ぞくせいを結むすび直なおす手てがかりになる。
コロケーション
  • 身体しんたいの所有しょゆうこの主題しゅだいでの形かたち「私わたしの身体しんたい」の「の」が何なにを意味いみしているかという問とい。「私わたしの鞄かばん」の「の」とは違ちがう。鞄かばんは手放てばなしても私わたしは残のこるが、身体しんたいはそうではない。同おなじ助詞じょしがまったく違ちがう関係かんけいを指さしている — 1-3 で見みたとおり、言葉ことばの形かたちが同おなじでも関係かんけいは同おなじではない。
  • 所有しょゆうと使用しよう分わけて考かんがえる対たい持もつことと使つかうことは別べつである。この区別くべつが要いるのは、身体しんたいについては使用しようしかできないからだ。1-6 の 122 で見みたとおり、近代きんだいの所有しょゆうは売うれることを中心ちゅうしんに組くまれている。売うれないものを所有しょゆうと呼よべるのかという問といが、ここから立たつ。
  • 所有しょゆうの媒体ばいたいこの章しょうの要約ようやく身体しんたいはあらゆる所有しょゆうを可能かのうにする条件じょうけんでありながら、それ自体じたいはうまく所有しょゆうできない。手てが無なければ物ものを持もてない。だが手てを持もっているとはどういうことか。所有しょゆうの土台どだいが所有しょゆうの外そとにあるというこの構造こうぞうが、06 の媒体ばいたいという語ごで言いい直なおされる。
  • 自己じこ所有権しょゆうけん現代げんだいの争点そうてん自分じぶんの身体しんたい・生命せいめい・労働ろうどうについて本人ほんにんが決きめる権利けんり。この語ごが強力きょうりょくなのは、奴隷制どれいせいも強制きょうせい労働ろうどうも一撃いちげきで否定ひていできるからだ。ところが同おなじ原理げんりが臓器ぞうき売買ばいばいや代理だいり出産しゅっさんの正当化せいとうかにも使つかえる。解放かいほうの原理げんりがそのまま商品しょうひん化かの原理げんりになる — 1-6 の 135 の啓蒙けいもうの反転はんてんと同おなじ形かたちである。
格かく中なか

書かき言葉ことば・会話かいわの両方りょうほうで使つかえる。

類るい語ごと差さ
  • 占有せんゆう事実じじつとして手元てもとに置おいている法律ほうりつ用語ようご。権利けんりの有無うむを問とわない。所有しょゆうは権利けんりを含ふくむ。
  • 保ほ有ゆう持もち続つづけている継続けいぞく。所有しょゆうは処分しょぶんの自由じゆうまで含ふくむ。
  • 私有しゆう個人こじんが持もつ☑128 資本しほん主義しゅぎの要件ようけん。所有しょゆうの一いち形態けいたい。
  • 支配しはい思おもい通とおりに動うごかす力ちからの行使こうし。所有しょゆうは関係かんけいの名なで、行使こうししていなくても成なり立たつ。

ENpossession / ownership
ZH拥有(持っている, yōngyǒu)

日中にっちゅうのズレ

中国語ちゅうごくごの 所有しょゆう(suǒyǒu)は「すべての」という連体れんたい修飾語しゅうしょくごとして使つかわれるのが最もっとも多おおい(所有しょゆう的てき人ひと=すべての人ひと)。

日本語にほんごの「所有しょゆうする」は 拥有(yōngyǒu)、所有権しょゆうけんは 所有权(suǒyǒuquán)となる。

08概念がいねん

随意ずいい⚠

ずいい[1]頭高あたまだか型がた

語ご構成こうせい
随ずいしたがう+意いこころ・おもい
使用しようの境界きょうかい

自分じぶんの意志いしのままであること。制限せいげんがないという意味いみではなく、意志いしが及およぶという意味いみ。

用法ようほう

生理学せいりがくの術語じゅつごとしての用法ようほうが土台どだいにある。随意筋ずいいきんは意志いしで動うごかせる筋肉きんにく、不随意筋ふずいいきんは心臓しんぞうや内臓ないぞうのように動うごかせない筋肉きんにくを指さす。入試にゅうし文ぶんの「随ずい意いに使用しようしうる一いち器官きかん」はこの含ふくみを背負せおっており、身体しんたいが意志いしの及およぶ範囲はんいにあることを言いう。ところがその同おなじ身体しんたいに、意志いしの及およばない部分ぶぶんがある。随ずい意いと不ふ随ずい意いが同おなじ身体しんたいに同居どうきょしていることが、身体しんたいの奇妙きみょうな現あらわれ方ほうの正体しょうたいになる。「随ずい意い」単独たんどくは硬かたく、日常にちじょうでは「自由じゆうに」に置おき換かわる。

用例ようれい
  • イワン・イリイチの生涯しょうがいは、きわめて単純たんじゅんで、ありふれたもので、そして最もっとも恐おそろしいものであった。……彼かれはただ、痛いたみと、その痛いたみが去さっらないという事実じじつだけを知しっていた。レフ・トルストイ『イワン・イリイチの死し』(1886)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    随ずい意いが効きかなくなったとき何なにが起おきるかを描えがいた小説しょうせつの核かくである。イワン・イリイチは出世しゅっせも家庭かていも思おもい通とおりに整ととのえてきた男おとこだ。ところが原因げんいん不明ふめいの痛いたみが始はじまると、その一点いってんだけがどうにもならない。注目ちゅうもくしたいのは、痛いたみが生涯しょうがい全体ぜんたいの意味いみを問とい直なおさせる点てんである。思おもい通とおりになっていた部分ぶぶんは思おもい通とおりになるがゆえに問とわれなかった。随ずい意いでなくなったものだけが意識いしきに上のぼるのだ。06 で見みた媒体ばいたいは壊こわれたときにだけ見みえるという命題めいだいが、ここでは一人ひとりの生涯しょうがいとして書かかれている。
  • 身体しんたいのうちには、意志いしによって動うごく部分ぶぶんと、意志いしとかかわりなく動うごく部分ぶぶんとがある。……心臓しんぞうは、我々われわれが眠ねむっているあいだも打うち続つづける。ガレノス『身体しんたい諸しょ部分ぶぶんの用途ようとについて』(2世紀にせいき)の主旨しゅしによる/訳やくは本ほん教材きょうざい
    随ずい意いという区分くぶんの最もっとも古ふるい記述きじゅつである。古代こだいの医学いがくがすでにこの線せんを引ひいていた。注意ちゅういしたいのは、この区分くぶんが身体しんたいの内側うちがわを二ふたつに割わることだ。命令めいれいの届とどく領域りょういきと届とどかない領域りょういき。届とどかない側がわは自分じぶんの身体しんたいでありながら自分じぶんの管轄外かんかつがいにある。2-1 の 02 で見みた自己じこの他者たしゃ性せいが、ここでは解剖学かいぼうがくの事実じじつとして現あらわれている。さらに面白おもしろいのは、境界きょうかいが動うごくことだ — 呼吸こきゅうは普段ふだんは不ふ随ずい意いだが意識いしきすれば随ずい意いになる。訓練くんれんで境界きょうかいを動うごかせることが、04 の身分みぶんけの習慣しゅうかん性せいとつながる。
  • 心臓しんぞうは随ずい意いに動うごかせない。この不ふ随ずい意いの領域りょういきこそが、身体しんたいが単たんなる持もち物ものではないことの証拠しょうこである。 この語ごの使つかいどころである。全部ぜんぶが随ずい意いなら身体しんたいは道具どうぐにすぎない。一部いちぶが随ずい意いでないからこそ身体しんたいは他者たしゃの顔かおを持もつ。07 の所有しょゆうとちょうど対たいをなす語ごである。
  • ×休きゅうみの日ひは随ずい意いに過すごしている。 「自由じゆうに」「思おもいのままに」である。随ずい意いは意志いしのままに動うごかせるという意いで、主おもに身体しんたいの動うごきについて使つかう硬かたい語ご。「随意筋ずいいきん」「不ふ随ずい意い運動うんどう」のように医学いがく・生理学せいりがくの語彙ごいとして定着ていちゃくしている。なお「随ずい意い契約けいやく」はまったく別べつの法律ほうりつ用語ようごで、競争きょうそう入札にゅうさつによらない契約けいやくのこと。
派生はせい形けい
  • 不随意ふずいい[2]否定ひてい形けいのほうがよく使つかわれる。「不ふ随ずい意い運動うんどう」「不随意筋ふずいいきん」。普通ふつうの状態じょうたいに名なは要いらず、外はずれたときだけ名なが要いるという語彙ごいの非対称ひたいしょうがここにも現あらわれている。
  • 随伴ずいはん[0]「随ずい」の字じのもう一ひとつの顔かお。つき従したがう意い。「随ずい意い」の随ずいは意いに従したがうで、従したがう先さきが自分じぶんの意志いしであるところにこの語ごの要点ようてんがある。
  • 恣意しい[1]紛まぎらわしい語ご。随ずい意いが意いのままに動うごかせることなら、恣意しいは気きままで筋すじが通とおらないこと。前者ぜんしゃは能力のうりょく、後者こうしゃは非難ひなん。1-3 の 記号きごうの恣意性しいせいはまた別べつの意味いみで、必然的ひつぜんてきな理由りゆうが無ないことを指さす。
コロケーション
  • 随意筋ずいいきん・不随意筋ふずいいきん身体しんたいを二に分ぶんする語ご意志いしで動うごかせる筋すじと、動うごかせない筋すじ。この医学いがくの区分くぶんが身体しんたい論ろんで引ひかれるのは、「私わたし」の輪郭りんかくが身体しんたいの内側うちがわで止とまっていることを示しめすからだ。皮膚ひふの内側うちがわにも外部がいぶがある — 2-1 の 02 の他者たしゃ性せいが最もっとも具体的ぐたいてきになる場所ばしょである。
  • 随ずい意い性せいを失うしなう病やまいと老おいの語ごできていた動うごきができなくなること。この言いい方かたが要いるのは、失うしなわれて初はじめてそれが能力のうりょくだったと分わかるからだ。歩あるくことも飲のみ込こむことも、できているあいだは数かぞえられていない。身体しんたい論ろんが病やまいと老おいを中心ちゅうしん的てきな主題しゅだいにするのはこの理由りゆうによる。
  • 意志いしと身体しんたい古ふるい難問なんもん意志いしはどうやって身体しんたいを動うごかすのか。02 で見みたデカルトの困難こんなんがいまも解とけていない問といである。神経しんけいの仕組しくみが分わかっても、「動うごかそうと思おもう」ことがどこで信号しんごうに変かわるのかは別べつの問題もんだいとして残のこる。説明せつめいが進すすんでも問といが消きえない珍めずらしい例れい。
  • 随ずい意いの錯覚さっかく現代げんだいの論点ろんてん自分じぶんで決きめたと感かんじる感覚かんかくが、実際じっさいの行為こういの開始かいしよりあとに来くるという実験じっけん。この報告ほうこくが衝撃的しょうげきてきなのは、随ずい意いという感覚かんかくそのものが身体しんたいの産物さんぶつかもしれないからだ。2-1 の 06 の主体性しゅたいせいが最もっとも足元あしもとから揺ゆさぶられるのがこの論点ろんてんである。
格かく硬かた

書かき言葉ことば。会話かいわでは不自然ふしぜん。

類るい語ごと差さ
  • 任意にんいどれを選えらんでもよい選択せんたくの自由じゆうを認みとめる。随ずい意いは意志いしが及およぶかどうかを言いう。
  • 自由じゆう束縛そくばくがない状態じょうたい。随ずい意いは意志いしとの関係かんけいを言いう。
  • 不ふ随ずい意い意志いしが及およばない対たい語ご。内臓ないぞうや心臓しんぞうの動うごきがこれにあたる。
  • 恣意しい根拠こんきょなく決きめる☑35。否定的ひていてき。随ずい意いは中立ちゅうりつで、医学いがく・生理学せいりがくでも使つかう。

ENvoluntary
ZH随意(気ままに, suíyì)

日中にっちゅうのズレ

中国語ちゅうごくごの 随ずい意い(suíyì)は「気きままに」「ご自由じゆうに」という日常にちじょう語ごである(随意吃=好すきなだけ食たべて)。

医学いがくの「随意筋ずいいきん」は 随ずい意い肌はだ(suíyìjī)で、この用法ようほうは日本語にほんごと重かさなる。

09読解どっかい

対照たいしょう

たいしょう[0]平板へいばん型がた

語ご構成こうせい
対たいむかいあう+照しょうてらす

同音どうおんの「対象たいしょう」「対称たいしょう」との書かき分わけが問とわれる。比くらべるのが対照たいしょう。

使用しようの境界きょうかい

二ふたつを並ならべて違ちがいを浮うかび上うえがらせること。同音どうおんの「対象たいしょう」「対称たいしょう」とは別語べつご。

用法ようほう

対象たいしょう・対称たいしょう・対照たいしょうの書かき分わけが繰くり返かえし問とわれる。「たいしょう」と読よむ三さん語ごのうち、比くらべるのが対照たいしょう、向むけられるのが対象たいしょう、つり合あうのが対称たいしょうである。入試にゅうし文ぶんの「身体しんたいといえば魂たましいや心こころと対照たいしょうされることが多おおいが、ほんとうは物体ぶったいと対照たいしょうしたほうが」は、何なにと並ならべるかで見みえるものが変かわるという主張しゅちょうであり、この語ごが論ろんの運はこびそのものを担になっている。「対照的たいしょうてき」は形容けいよう動詞どうしとして日常にちじょうでも使つかう。

用例ようれい
  • 美うつくしいものは、それだけでは美うつくしくない。影かげがなければ、光ひかりもまた光ひかりではない。……我々われわれの先祖せんぞは、暗くらがりのなかに美びを発見はっけんした。谷崎たにざき潤一郎じゅんいちろう『陰翳いんえい礼讃らいさん』(1933)の主旨しゅしによる
    対照たいしょうという手てつきが何なにをしているかを示しめした一節いっせつである。谷崎たにざきの論ろんの運はこびは徹頭徹尾てっとうてつびこの形かたちだ — 西洋せいようの明あかるさに対たいして日本にほんの暗くらがり、金属きんぞくの光沢こうたくに対たいして漆うるしの沈しずんだ艶つや。片方かたほうだけでは何なにも言いえない。注目ちゅうもくしたいのは、対照たいしょうが優劣ゆうれつの主張しゅちょうになりかけていることである。谷崎たにざきは日本にほんの暗くらがりの側がわに明あきらかに肩入かたいれしている。対照たいしょうは中立ちゅうりつに見みえて中立ちゅうりつではない — どちらを先さきに置おき、どちらを後あとに置おくかで評価ひょうかが滲にじみ出でる。評ひょう論文ろんぶんで対照たいしょうが出でてきたら、並ならべ方ほうそのものを読よむとよい。
  • 質しつ、文ぶんに勝かてば則そくち野の。文ぶん、質しつに勝かてば則そくち史し。文ぶん質しつ彬あきら彬あきらとして、然さる後あとに君子くんしなり。『論語ろんご』雍よう也なり篇へん
    対照たいしょうを優劣ゆうれつではなく釣つり合あいのために使つかった一節いっせつである。「質しつ」は生地きじ・中身なかみ、「文ぶん」は飾かざり・かたち。中身なかみが勝かちすぎれば野暮やぼ(野の)になり、飾かざりが勝かちすぎれば役人やくにんくさく(史し)なる。注目ちゅうもくしたいのは、どちらか一方いっぽうを選えらばせていないことだ。対照たいしょうはふつう選択せんたくを迫せまる形かたちで使つかわれる。ここでは逆ぎゃくに、両端りょうたんを示しめすことで中間ちゅうかんに位置いちを作つくっている。対照たいしょうは線せんを引ひく道具どうぐであると同時どうじに、線せんの上うえの目盛めもりを作つくる道具どうぐでもある。この使つかい分わけができると、評ひょう論文ろんぶんの二に項こう対立たいりつがいつも二者にしゃ択一たくいつを求もとめているわけではないことが読よめるようになる。
  • 筆者ひっしゃは、西洋せいようの身体しんたい観かんと日本にほんの身体しんたい観かんを対照たいしょうさせることで、どちらの前提ぜんていも相対そうたい化かしている。 評ひょう論文ろんぶんでこの語ごが出でる典型てんけいである。対照たいしょうの目的もくてきは優劣ゆうれつを決きめることではなく、それぞれが前提ぜんていを持もつと示しめすことにある。1-4 の 76 の文化ぶんか相対そうたい主義しゅぎが方法ほうほうとして現あらわれた形かたちだ。
  • ×手元てもとの資料しりょうと対照たいしょうして間違まちがいがないか調しらべた。 この用法ようほうは正ただしいが、「照合しょうごう」「突つき合あわせ」のほうが誤解ごかいが少すくない。「対照たいしょう」には①二ふたつを並ならべて違ちがいを際立きわだたせる、②突つき合あわせて確たしかめるの二ふたつの用法ようほうがあり、評ひょう論文ろんぶんで出でるのはほぼ①。なお「対象たいしょう」「対称たいしょう」とは別語べつごなので、書かき分わけに注意ちゅういする。
派生はせい形けい
  • 対比たいひ[0]ほぼ同義どうぎ。差さは対照たいしょうのほうが差さの大おおきさを強調きょうちょうする点てんにある。「対比たいひ」は並ならべて比くらべるだけでも使つかえるが、「対照たいしょう」は際立きわだった違ちがいがあるときに使つかう。
  • 対象たいしょう[0]同音どうおんの別語べつご。働はたらきかけの向むかう先さきで、1-5 の 107 の客体きゃくたいと重かさなる。「調査対象ちょうさたいしょう」を「調査ちょうさ対照たいしょう」と書かくのは誤あやまり。入試にゅうしでも問とわれる書かき分わけである。
  • 対称たいしょう[0]もう一ひとつの同音どうおん語ご。釣つり合あいが取とれていること(左右さゆう対称たいしょう)。対照たいしょうは違ちがいを、対称たいしょうは同おなじさを言いう — 意味いみがほぼ正反対せいはんたいなので、三さん語ごまとめて覚おぼえたい。
コロケーション
  • 好対照こうたいしょうをなす定型ていけいとしての形かたち二ふたつがきれいに対たいをなしていることを言いう。この言いい方かたの便利べんりさはそのまま危あやうさでもある — きれいに対たいになるということは、対たいにならない部分ぶぶんを落おとしているからだ。整ととのいすぎた対照たいしょうは疑うたがうのが読解どっかいの作法さほうになる。
  • 対照的たいしょうてきに接続せつぞくの語ごとして段落だんらくをつなぐ副詞ふくしとしてきわめて頻度ひんどが高たかい。この語ごが出でたら直前ちょくぜんと反対はんたいのことが来くると構かまえられる。読解どっかいでは論ろんの骨格こっかくを掴つかむ標識ひょうしきになるので、傍線ぼうせんを引ひいておくとよい。
  • 明暗めいあんの対照たいしょう視覚しかくから来きた語ごもとは絵画かいがの技法ぎほう(コントラスト)。明あかるさは暗くらさとの差さでしか感かんじられないという知覚ちかくの事実じじつが語ごの根ねにある。04 の身分みぶんけが言いうとおり、身体しんたいはもともと差さでしか世界せかいを捉とらえていない — 1-7 の 151 の構造こうぞう主義しゅぎとここで思おもわぬ形かたちで出会であう。
  • 対照たいしょう実験じっけん科学かがくでの用法ようほう条件じょうけんを一ひとつだけ変かえて比くらべる方法ほうほう。この語ご法ほうが示しめすのは、対照たいしょうが成なり立たつには「他ほかの条件じょうけんが同おなじ」でなければならないことだ。文化ぶんかや社会しゃかいを対照たいしょうさせる議論ぎろんがしばしば粗あらくなるのは、他ほかの条件じょうけんを揃そろえようがないからである。
格かく中なか

書かき言葉ことば・会話かいわの両方りょうほうで使つかえる。

類るい語ごと差さ
  • 対象たいしょう意識いしきや行為こういが向むけられるもの☑9。向むけられる先さき。対照たいしょうは並ならべて比くらべること。
  • 対称たいしょう左右さゆうがつり合あっている形かたちの性質せいしつ。シンメトリー。
  • 比較ひかく並ならべて違ちがいや優劣ゆうれつを見みる中立ちゅうりつ。対照たいしょうは違ちがいを際立きわだたせることに重心じゅうしんがある。
  • 対比たいひ二ふたつを並ならべて違ちがいを示しめすほぼ同義どうぎ。対照たいしょうのほうが差さの大おおきさを含意がんいしやすい。

ENcontrast
ZH对照(対照, duìzhào)

10読解どっかい

倦怠けんたい

けんたい[0]平板へいばん型がた

語ご構成こうせい
倦けんあきる・うむ+怠たいおこたる

「倦けん」も「怠たい」も〈あきる・おこたる〉を表あらわす。読よみ書かきともに問とわれる。

使用しようの境界きょうかい

心身しんしんがだるく、意欲いよくが失うしなわれた状態じょうたい。単たんなる疲労ひろうではなく、飽あきと気きだるさが混まじった状態じょうたいを指さす。

用法ようほう

二字にじがともに〈あきる・おこたる〉を表あらわす。医学いがくでは「全身ぜんしん倦けん怠たい感かん」という定型ていけい句くで、原因げんいんの特定とくていしにくいだるさを指さす。入試にゅうし文ぶんの「身体しんたいにも〈倦けん怠たい〉が訪おとずれる」は、意志いしでは抗こうえないものの例れいとして挙あげられており、痛いたみと並ならべられている。日常にちじょうでは「倦けん怠たい期き」の形かたちで、恋愛れんあい関係かんけいが飽あきの段階だんかいに入はいったことを言いう。読よみ書かきともに問とわれる語ごで、「倦けん」は他ほかに「倦あぐむ(うむ)」と訓読くんどくみする。

用例ようれい
  • 退屈たいくつは、あらゆる悪徳あくとくの父ちちであり、そして人間にんげんを最もっとも深ふかく自分自身じぶんじしんへ引ひき戻もどすものである。ブレーズ・パスカル『パンセ』断章だんしょう一いち三さん九きゅうの主旨しゅしによる(1670)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    倦けん怠たいがなぜ人間にんげんに固有こゆうなのかを説明せつめいした議論ぎろんである。パスカルの見立みたてはこうだ — 人間にんげんは部屋へやにじっとしていられない。だから狩かりをし、賭かけをし、戦争せんそうをする。目的もくてきは獲物えものや勝利しょうりではない。気きを紛まぎらすこと(気き晴はれらし)だ。なぜ紛まぎらす必要ひつようがあるのか — 何なにもしないでいると、自分じぶんの惨みじめさが見みえてしまうから。ここで倦けん怠たいは単たんなる暇ひまではない。気き晴はれらしが尽つきて自分じぶんと向むき合あわされる状態じょうたいである。だからこそ苦くるしく、だからこそ何なにかが始はじまりうる。2-1 の 07 の再帰さいきが望のぞまない形かたちで起おきてしまう場面ばめんだと読よむこともできる。
  • けふもまたこころの鉦かねをうち鳴ならしうち鳴ならしつつあくがれて行いく若わか山やま牧水ぼくすい『別離べつり』(1910)
    倦けん怠たいとその裏返うらがえしの衝動しょうどうを同時どうじに写うつした一いち首くびである。「あくがれ」は魂たましいが身体しんたいから離はなれ出でることが原げん義ぎで、どこかへ行いきたいのに行いき先さきがない状態じょうたいを指さす。注目ちゅうもくしたいのは「けふもまた」である。毎日まいにち繰くり返かえされている。一度いちどきりの衝動しょうどうなら行いけばよい。毎日まいにちなら行おこなっても解決かいけつしないということだ。「うち鳴ならし/うち鳴ならしつつ」の反復はんぷくも同おなじ働はたらきをしている — 音おとが繰くり返かえされるほど、止とまっていることが際さい立たつ。倦けん怠たいが無む気力きりょくではなく、行ゆき場ばのない力ちからであることが、この一いち首くびで分わかる。
  • 豊ゆたかさが行いきわたった社会しゃかいに倦けん怠たいが広ひろがるのは、欠乏けつぼうが動機どうきを与あたえなくなったからである。 現代げんだい社会しゃかい論ろんでの使つかわれ方ほうである。1-7 の 142 の消費しょうひ社会しゃかいが欲望よくぼうを作つくり続つづけなければならないのは、放ほうっておくと倦けん怠たいが来くるからだ。パスカルの気き晴はれらしが産業さんぎょうになった状態じょうたいと読よめる。
  • ×長時間ちょうじかんの作業さぎょうで倦けん怠たいを感かんじた。 身体しんたいの疲つかれなら「疲労ひろう」「だるさ」である。(医学いがくの「倦けん怠たい感かん」は身体しんたいのだるさを指さすので、そちらは正ただしい。)評ひょう論語ろんごの倦けん怠たいは飽あきて心こころが動うごかなくなった状態じょうたいを指さし、作業さぎょう量りょうとは関係かんけいがない。むしろ何なにもしていないときに深ふかまるのがこの語ごの特徴とくちょうである。
派生はせい形けい
  • 倦むうむ[1]和わ語ごの動詞どうし。飽あきて嫌いやになる。「倦あぐまずたゆまず」の形かたちで否定ひていと結むすんでよく使つかう。肯定こうてい形けいより否定ひてい形けいで生いきている語ごである。
  • 厭世えんせい[0]世よを厭いとうこと。倦けん怠たいが気分きぶんにとどまるのに対たいし、厭世えんせいは世界観せかいかんにまで固かたまっている。1-6 の 132 で見みたペシミズムの訳語やくごのひとつでもあり、気分きぶんから世界観せかいかんへ固かたまる道筋みちすじがこの二に語ごの間あいだにある。
  • アンニュイ[3]フランス語ごからの外来語がいらいご。気きだるさに美うつくしさの含ふくみが加くわわる。倦けん怠たいが苦くるしさを伴ともなうのに対たいし、アンニュイはそれを様式ようしきとして楽らくしむ色いろがある。同おなじ状態じょうたいが語ごによって苦にがにも趣おもむきにもなる例れい。
コロケーション
  • 倦けん怠たい感かん医学いがくと日常にちじょうの語ご身体しんたいのだるさを指さす。評ひょう論語ろんごの倦けん怠たいが心こころの状態じょうたいを言いうのに対たいし、この形かたちは身体しんたいの状態じょうたいを言いう。同おなじ語幹ごかんで心こころと身体しんたいに分わかれるのは、この主題しゅだいからすると示唆しさ的てきだ — 倦けん怠たいはもともとどちらとも決きめがたい。
  • 日常にちじょうの倦けん怠たい対象たいしょうを限かぎる語ご繰くり返かえされる生活せいかつそのものへの飽あき。この結むすびつきが近代きんだい文学ぶんがくの主題しゅだいになったのは、生活せいかつが繰くり返かえしになったからだ。1-6 の 137 の産業さんぎょう革命かくめいが時計とけいで区切くぎられた同おなじ一日いちにちを作つくり、1-6 の 140 の均質化きんしつかがどの日ひも同おなじ日ひにした。
  • 倦けん怠たい期き関係かんけいに使つかう形かたち人ひとと人ひととの関係かんけいが新鮮しんせんさを失うしなった時期じき。この用法ようほうが示しめすのは、倦けん怠たいが対象たいしょうの側がわの問題もんだいではないことだ。相手あいては変かわっていない。2-1 の 02 の他者たしゃ性せいが薄うすれたときに倦けん怠たいが来くる — 分わかってしまったことの代償だいしょうである。
  • 倦けん怠たいと憂鬱ゆううつ近ちかくて違ちがう語ご倦けん怠たいは飽あき、憂鬱ゆううつは沈しずみ。倦けん怠たいには刺激しげきを求もとめる落おち着つかなさがあるが、憂鬱ゆううつにはそれが無ない。倦けん怠たいは動うごきたがっており、憂鬱ゆううつは動うごきたがらない — この差さを押おさえると、文学ぶんがくの記述きじゅつが読よみ分わけられる。
格かく硬かた

書かき言葉ことば。会話かいわでは不自然ふしぜん。

類るい語ごと差さ
  • 疲労ひろう体力たいりょくを使つかい果はたした状態じょうたい原因げんいんがはっきりしている。倦けん怠たいは原因げんいんが特定とくていできないことが多おおい。
  • けだるさ気力きりょくの抜ぬけた感かんじ和わ語ごで日常的にちじょうてき。倦けん怠たいはその漢かん語形ごけいで、文章ぶんしょう語ご。
  • 憂鬱ゆううつ気分きぶんが晴はれない感情かんじょう。倦けん怠たいは身体しんたい感覚かんかくを伴ともなう。
  • マンネリ変化へんかがなく飽あきた状態じょうたい状況じょうきょうの話はなし。倦けん怠たいは当人とうにんの状態じょうたい。

ENlanguor / fatigue
ZH倦怠(倦怠, juàndài)

11読解どっかい

美醜びしゅう

びしゅう[1]頭高あたまだか型がた

語ご構成こうせい
美びうつくしい+醜しゅうみにくい

反対はんたいの字じを重かさねて軸じくを作つくる型かた。善悪ぜんあく・大小だいしょう・長短ちょうたんと同おなじ造語ぞうご法ほうである。

使用しようの境界きょうかい

美うつくしさと醜みにくさ。二ふたつを一語いちごにまとめ、その軸じくそのものを指さす。どちらか一方いっぽうを指さすのではない。

用法ようほう

反対はんたいの意味いみの字じを重かさねて軸じくを作つくる造語ぞうご法ほうで、善悪ぜんあく・大小だいしょう・長短ちょうたん・強弱きょうじゃくと同おなじ型かたである。この主題しゅだいでは、他者たしゃの無数むすうの視線しせんが「美醜びしゅう」「男おとこらしさ」「女おんならしさ」といった評価ひょうかを伴ともなって身体しんたいイメージに入はいり込こむことが述のべられる。つまり美醜びしゅうは個人こじんの感覚かんかくではなく、社会しゃかいが共有きょうゆうしている尺度しゃくどとして働はたらく。「美醜びしゅうを問とわない」は、その尺度しゃくどを持もち込こまないという宣言せんげんになる。「醜しゅう」の読よみは「シュウ」、訓くんは「みにくい」。

用例ようれい
  • 天下てんか皆みな美びの美びたるを知しる、斯ここれ悪あくなるのみ。皆みな善ぜんの善ぜんたるを知しる、斯ここれ不ふ善ぜんなるのみ。『老子ろうし』第だい二に章しょう
    美醜びしゅうという対たいがどこから来くるかを言いい当あてた一節いっせつである。美びを美びとして知しった瞬間しゅんかんに、醜しゅうが生うまれる。順序じゅんじょが逆ぎゃくであることに注意ちゅういしたい — 醜みにくいものが先さきにあって美びと区別くべつされるのではない。美びという基準きじゅんを立たてたその操作そうさが、同時どうじに醜しゅうを作つくり出だす。1-3 の分節ぶんせつが言いうことと完全かんぜんに一致いっちする — 線せんを引ひけば必かならず両側りょうがわができる。この主題しゅだいで重要じゅうようなのは、身体しんたいがこの線引せんびきの最もっとも激はげしい戦場せんじょうになることだ。基準きじゅんは外そとから来くるのに、裁さばかれるのは取とり替かえられない身体しんたいである。
  • 美うつくしいとは、見みる人ひとの心こころのなかにあるものであって、見みられる物もののなかにあるのではない。……醜みにくさを見みいだす者ものは堕落だらくしており、美うつくしさを見みいだす者ものには希望きぼうがある。オスカー・ワイルド『ドリアン・グレイの肖像しょうぞう』序じょ(1891)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    美醜びしゅうを対象たいしょうから見みる側がわへ移うつし替かえた一節いっせつである。前半ぜんはんはよく知しられた主張しゅちょうだ — 美びは物ものの性質せいしつではなく見みる側がわの働はたらきである。後半こうはんが鋭するどい。何なにを見みいだすかで見みる側がわが裁さばかれる。醜みにくさを見みつけた人ひとは、その醜みにくさについてではなく自分じぶんについて何なにかを語かたっているのだ。この論法ろんぽうを身体しんたいに当あてはめると強力きょうりょくな反転はんてんになる — 外見がいけんを裁さばく視線しせんは、裁さばかれる側がわではなく裁さばく側がわを露あらわにする。なおこの小説しょうせつ自体じたいが肖像しょうぞう画がが醜みにくくなっていく物語ものがたりであり、03 の像ぞうが本人ほんにんの代かわりに年としを取とるという着想ちゃくそうで書かかれている。
  • 美醜びしゅうの基準きじゅんは文化ぶんかと時代じだいによって変かわるのに、基準きじゅんに晒さらされる身体しんたいは取とり替かえがきかない。 この語ごの使つかいどころである。基準きじゅんの側がわは相対的そうたいてきだが、身体しんたいの側がわは絶対的ぜったいてきだ。この非対称ひたいしょうが苦くるしみを生うむ。1-4 の 76 の文化ぶんか相対そうたい主義しゅぎは知識ちしきとしては効きくが、身体しんたいの苦くるしみには直接ちょくせつには届とどかない。
  • ×この絵えの美醜びしゅうを論ろんじるのは難むずかしい。 やや不自然ふしぜん。作品さくひんなら「美的びてき価値かち」「良よし悪あし」である。美醜びしゅうは主おもに人ひとの容貌ようぼうについて使つかわれる語ごで、裁さばく視線しせんの存在そんざいが含意がんいされている。誰だれかが誰だれかを見みて決きめるという場面ばめんが無ないところでは据すえわりが悪わるい。
派生はせい形けい
  • 醜悪しゅうあく[0]強つよい非難ひなんの語ご。容貌ようぼうだけでなく行おこないや事態じたいにも使つかう(醜しゅう悪あくな争あらそい)。美醜びしゅうが判断はんだんの軸じくを指さすのに対たいし、醜しゅう悪あくは判断はんだんの結果けっかを言いい切きっている。
  • 美的びてき[0]価値かちの領域りょういきを指さす語ご。真しん・善ぜん・美びの三みっつのうち美びに関かかわること。「美うつくしい」と同義どうぎではない — 「美的びてき判断はんだん」は美うつくしいかどうかを問とう判断はんだんで、結論けつろんは醜しゅうでもありうる。
  • 容貌ようぼう[0]顔かおかたち。中立ちゅうりつに見みえて、この語ごもまた見みる側がわの視点してんで書かかれている。自分じぶんの顔かおを「私わたしの容貌ようぼう」と呼よぶことは少すくない — 外そとから見みられたものとしての顔かおを指さす語ごだからだ。
コロケーション
  • 美醜びしゅうの基準きじゅん外そとから来くるもの何なにを美うつくしいとするかの物差ものさし。この語ごが要いるのは、基準きじゅんが本人ほんにんのものではないからだ。メディアが作つくり、市場しじょうが売うり、本人ほんにんがそれを内面化ないめんかする。05 で見みた外部がいぶ化かと内面化ないめんかの循環じゅんかんが、身体しんたいの上うえで最もっとも速はやく回まわる領域りょういきである。
  • 美醜びしゅうを超こえて逃のがれようとする言いい方かたこの言いい方かたがしばしば空そら回まわりするのは、超こえると言いった時点じてんで基準きじゅんを認みとめているからだ。「顔かおではなく中身なかみだ」という主張しゅちょうは顔かおが基準きじゅんであることを前提ぜんていにしている。1-7 の 150 で見みた寛容かんようと多様性たようせいの差さがここでも効きく — 基準きじゅんを組くみ直なおせているか。
  • 美醜びしゅうの内面化ないめんか自分じぶんで裁さばく語ご外そとの基準きじゅんを自分じぶんの目めにしてしまうこと。鏡かがみを見みるとき、見みているのは自分じぶんではなく誰だれかの目めである。03 のクーリーの鏡かがみが最もっとも痛いたい形かたちで働はたらく場面ばめんで、誰だれにも何なにも言いわれなくても成立せいりつするのが厄介やっかいなところだ。
  • 醜みにくさの発見はっけんワイルドの逆転ぎゃくてん醜みにくさを見みつけた側がわが何なにを語かたっているかを問とう構かまえ。この視点してんの切きり替かえは批評ひひょうの基本きほんの一手いってである。対象たいしょうを論ろんじているつもりの言葉ことばが語かたり手ての位置いちを露あらわにしてしまう。1-4 の 75 の自じ文化ぶんか中心ちゅうしん主義しゅぎを見抜みぬく手てつきと同おなじものだ。
格かく硬かた

書かき言葉ことば。会話かいわでは不自然ふしぜん。

類るい語ごと差さ
  • 美びうつくしいこと一方いっぽうの極きょく。美醜びしゅうは軸じく全体ぜんたいを指さす。
  • 外見がいけん外そとから見みえるすがた対象たいしょうの話はなし。美醜びしゅうはそれを測はかる尺度しゃくど。
  • 容姿ようし顔かおかたちと姿すがた対象たいしょうの話はなし。美醜びしゅうと結むすびつけて論ろんじられる。
  • 価値かち判断はんだんよしあしを決きめること上位じょうい概念がいねん。美醜びしゅうはその一ひとつの軸じく。

ENbeauty and ugliness
ZH美丑(美醜, měichǒu)

12読解どっかい

臥すふす

ふす[1]頭高あたまだか型がた

語ご構成こうせい
臥がふせる・よこたわる

読よみが問とわれる。音読おんよみは「ガ」(病臥びょうが・臥床がしょう)。

使用しようの境界きょうかい

からだを横よこたえること。とくに病気びょうきで寝込ねこんでいることを指さす。単たんに眠ねむることではない。

用法ようほう

「病やまいの床ゆかに臥がす」という定型ていけい句くでほぼ固定こていしている。入試にゅうし文ぶんの「病やまいの床ゆかに臥がしているとき」は、身体しんたいが透明とうめいでなくなる場面ばめんとして挙あげられている。正常せいじょうに機能きのうしている身体しんたいは意識いしきされず素通すどおりされるが、疲つかれや病やまいのときに不透明ふとうめいなものとして浮上ふじょうしてくる──その転換点てんかんてんを示しめす語ごである。読よみが問とわれる語ごで、「が」と音読おんよみする熟語じゅくご(病臥びょうが・臥床がしょう)も押おさえておく。「伏ぶせす」との書かき分わけは辞書じしょでも揺ゆれがある。

用例ようれい
  • 病牀びょうしょう六ろく尺さし、これが我われ世界せかいである。しかもこの六ろく尺さしの病牀びょうしょうが余よには広こう過すぎるのである。正岡まさおか子規しき『病牀びょうしょう六ろく尺さし』(1902)
    臥がすという状態じょうたいが世界せかいの大おおきさを変かえてしまうことを示しめした一節いっせつである。仕掛しかけは後半こうはんの転回てんかいにある。六ろく尺さし(約やく一いち・八はちメートル)は普通ふつうに考かんがえれば狭せまい。ところが子規しきは「広こう過すぎる」と書かく。身み動うごきが取とれないのだから、その六ろく尺さしすら持もて余あますのだ。ここで分わかるのは、空間くうかんの広こうさは身体しんたいが動うごける範囲はんいで決きまるということである。04 の身分みぶんけが言いうとおり、世界せかいは身体しんたいの側がわから測はかられている。臥がした身体しんたいには別べつの尺度しゃくどの世界せかいが開あける — この随筆ずいひつが庭にわの草花くさばなの記述きじゅつに異様いような密度みつどを持もつのは、嘆なげきではなく尺度しゃくどが変かわった結果けっかである。
  • 秋あきの夜よるのながきを君きみに臥がし伏ふせば思おもひの外そとに明あけにけるかな『古今和歌集こきんわかしゅう』巻かん十四じゅうよん・恋歌れんか四よん(905)
    「臥がす」が和歌わかのなかでどう働はたらくかを見みせる一いち首くびである。この語ごは眠ねむるとも休やすむとも違ちがう。身みを横よこたえてそのままでいることを指さす。だから能のう動どうの色いろが薄うすい — 眠ねむるのではなく、臥がしている。2-1 の 09 の受動じゅどうが身体しんたいの姿勢しせいとして現あらわれた形かたちだと言いってよい。古こ語ごでは「起おきる」と「臥がす」が一日いちにちの対たいをなしており、立たつ・座すわる・臥がすという三みっつの姿勢しせいが生活せいかつの単位たんいだった。現代語げんだいごでこの語ごが病やまいと結むすびついてしか残のこらなかったことは、横よこになることが例外れいがいになった近代きんだいの生活せいかつを映うつしている。
  • 病やまいに臥がす日々ひびのなかで、筆者ひっしゃは身体しんたいが自分じぶんの意いのままにならないことを知しる。 評ひょう論文ろんぶん・随筆ずいひつでの典型てんけいの使つかわれ方ほうである。「病やまいに臥がす」はほぼ固定こていした言いい方かた。08 の随ずい意いが失うしなわれた状態じょうたいを姿勢しせいの語ごで言いうとこの語ごになる。
  • ×休日きゅうじつは一日いちにち中ちゅうベッドに臥がしていた。 語ごが古風こふうすぎる。日常にちじょうなら「寝ねていた」「横よこになっていた」。「臥がす」は文語ぶんご・雅語がごで、現代げんだいの散文さんぶんでは「病やまいに臥がす」「床ゆかに臥がす」という慣用かんようの形かたちでしかほぼ生いきていない。怠たいけて寝ねている場面ばめんには使つかわない。
派生はせい形けい
  • 臥せるふせる[3]現代語げんだいごに近ちかい形かたち。「床ゆかに臥がせる」。「伏ふせる」とも書かくが、「伏ぶせ」は顔かおを下したに向むける、「臥が」は身みを横よこたえると字義じぎが分わかれる。病臥びょうがの意いなら「臥が」。
  • 臥床がしょう[0]漢語かんご形けい。医療いりょう・介護かいごの語彙ごいとして定着ていちゃくしている(臥床がしょう時間じかん・長期ちょうき臥床がしょう)。和わ語ごの情緒じょうちょが抜ぬけて状態じょうたいの記述きじゅつだけになる — 01 で見みた身体しんたいの物象ぶっしょう化かが語彙ごいの水準すいじゅんでも起おきている。
  • 横臥おうが[1]横よこ向むきに臥がすこと。医学いがく・法ほう医学いがくの語ご。仰臥あおむけ(あおむけ)・伏臥うつぶせ(うつぶせ)と三みっつで一組ひとくみをなす。姿勢しせいを細こまかく分わける語彙ごいが医学いがくにだけ発達はったつしていることも、この主題しゅだいの視点してんで見みると面白おもしろい。
コロケーション
  • 病やまいに臥がすほぼ固定こていした形かたちこの語ごが現代げんだいまで残のこったほとんど唯一ゆいいつの道筋みちすじ。「病気びょうきで寝ねる」と言いえば済すむのにこの形かたちが使つかわれるのは、文語ぶんごの格かくが事態じたいの重おもさを示しめすからだ。語彙ごいの古こさがそのまま事ことの重大じゅうだいさの合図あいずになる — 日本語にほんごの文体ぶんたいが持もつ道具どうぐである。
  • 床ゆかに臥がす場所ばしょを添そえる形かたち「床とこ(とこ)」は寝床ねどこ。「病床びょうしょう」「床ゆかにつく」と同おなじ字じである。場所ばしょを書かき添そえることで状態じょうたいが長ながく続つづいていることが伝つたわる。一いち晩ばんなら床ゆかに臥がすとは言いわない — 時間じかんの長ながさが語ごに含ふくまれている。
  • 臥薪がしん嘗胆しょうたん故事こじ成せい語ごのなかの語ご薪たきぎの上うえに臥がし、胆たんを嘗なめる。復讐ふくしゅうを忘わすれないためにあえて苦くるしい姿勢しせいを取とるという故事こじである。ここでの「臥がす」は受動じゅどうではなく意志いし的てきだ。同おなじ語ごが文脈ぶんみゃくで正反対せいはんたいの色いろを持もつという好例こうれいになっている。
  • 起おき臥がし対たいで使つかう和わ語ご起おきることと臥がすこと、つまり日々ひびの暮くらし。「起おき臥がしをともにする」。この語形ごけいが示しめすのは、臥がすことがかつては生活せいかつの半分はんぶんを占しめる基本きほんの姿勢しせいだったことだ。語ごの残のこり方ほうから生活せいかつの形かたちが読よめる。
格かく硬かた

書かき言葉ことば。会話かいわでは不自然ふしぜん。

類るい語ごと差さ
  • 寝ねる眠ねむる・横よこになる日常にちじょう語ご。臥がすは文章ぶんしょう語ごで、病臥びょうがの含ふくみが強つよい。
  • 横よこたわるからだを水平すいへいにする中立ちゅうりつ。臥がすは病やまいや衰おとろえを含意がんいすることが多おおい。
  • 寝込ねこむ病気びょうきで床ゆかにつく日常にちじょう語ごで意味いみは近ちかい。臥がすはより硬かたい。
  • 伏ぶせすうつぶせになる・従したがう同音どうおんで意味いみも近ちかい。「床ゆかに伏ぶせす」とも書かく。

ENto lie down (ill)
ZH卧(横たわる, wò)

格による分布硬・学術、硬、中の三段階に本節の語を振り分けた図。 硬・学術 2 身分け 外部化 硬 6 相関 像 随意 倦怠 美醜 臥す 中 4 身体 媒体 所有 対照 語は意味ではなく格で選ぶ
格かくによる分布ぶんぷ
入試にゅうしにチャレンジ

所有しょゆうの媒体ばいたいでありながら、自由じゆうにならないもの

身体の透明と不透明正常に機能している身体が意識から消え、疲れや病のときに不透明なものとして浮上する対比を示した図。 正常に機能しているとき 透明 脚・口唇・眼・肺・胃 存在がいわば消えている 行為を支えながら 視野からは消える 意識すれば逆にもつれる 疲れ・病のとき 不透明 腫れぼったい厚みをもつ 経験のなかに浮上してくる 行為を押しとどめようと 前に立ちはだかる よそよそしい異物として迫る 同じ身体が、二つの現れ方をする ── これが身体の奇妙さである
身体しんたいの透明とうめいと不透明ふとうめい ── 同おなじ身体しんたいの二ふたつの現あらわれ方ほう
本文ほんぶん

わたしたちにとって身体しんたいとはどういう存在そんざいなのか。この問題もんだいは長ながく哲学者てつがくしゃを悩なやませてきた問題もんだいでもある。身体しんたいといえば魂たましいや心こころと対照たいしょうされることが多おおいが、ほんとうは物体ぶったいと対照たいしょうしたほうが、身体しんたいというものの固有こゆうなあり方かたは見みえやすい。

実際じっさい、日本語にほんごの「身み」ということばを取とり上あげても、「身み」にはほとんど「こころ」と置おき換かえ可能かのうなばあいすらあるのに対たいして(たとえば「身みに沁しむ」「身みを入いれる」「身みを焦こがす」「白しろ身みの魚さかな」などのように)肉にくの意味いみはあっても、物体ぶったいという意味いみはほとんどない。(ついでに言いえば、「身みの上うえ」「身内みうちの者もの」「身勝手みがって」「身分みぶん」「立身出世りっしんしゅっせ」などというように、日本語にほんごの「身み」は人間にんげん関係かんけいという社会的しゃかいてきな地平ちへいで思おもい浮うかべられることが多おおい。)

身体からだ(からだ)は、ひとつの物体ぶったいであることはまちがいないが、それにしては他ほかの物質ぶっしつとはあまりにも異質いしつな現げんわれ方ほうをする。

たとえば、身体しんたいはそれが正常せいじょうに機能きのうしているばあいには、ほとんど現げんわれない。歩あるくとき、脚あしの存在そんざいはほとんど意識いしきされることはなく、脚あしの動うごきを意識いしきすれば逆ぎゃくに脚あしがもつれてしまう。話はなすときの口唇こうしんや舌したの動うごき、見みるときの眼めについても、同おなじことが言いえる。呼吸こきゅうするときの肺はい、食たべるときの胃いや膵臓すいぞうとなれば、これらはほとんど存在そんざいしないにひとしい。つまり、わたしたちにとって身体しんたいは、ふつうは素通すどおりされる透明とうめいなものであって、その存在そんざいはいわば消きえている。

が、その同おなじ身体しんたいが、たとえばわたしが疲つかれきっているとき、あるいは病やまいの床ゆかに臥がしているときには、にわかに、不透明ふとうめいなものとして、あるいは腫はれぼったい厚あつみをもったものとして、わたしたちの日々ひびの経験けいけんのなかに浮上ふじょうしてくる。そしてわたしの経験けいけんに一定いっていのバイアスをかけてくる。

あるいは、わたしの経験けいけんをこれまでとは別べつの色いろで染そめめ上あげる。ときには、わたしと世界せかいとのあいだにまるで壁かべのように立たちはだかる。わたしがなじんでいたこの身体しんたいは、よそよそしい異物いぶつとして迫せまってきさえするのである。

あるときは、わたしたちの行為こういを支ささえながらわたしたちの視野しやからは消きえ、あるときは、わたしたちがなそうとしている行為こういを押おしとどめようとわたしたちの前まえに立たちはだかる、こうした身体しんたいの奇妙きみょうな現げんわれ方ほうは、さらに別べつの局面きょくめんでも見みいだされる。

それはたとえば、わたしたちがなにかをじぶんのものとして「所有しょゆうする」という局面きょくめんだ。なにかを所有しょゆうするというのは、なにかをじぶんのものとして、意いのままにできるということである。そのとき身体しんたいは、ものを捕とる、掴つかむ、持もつというかたちで、所有しょゆうという行為こういの媒体ばいたいとして働はたらいている。

つまり身体しんたいは、わたしが随ずい意いに使用しようしうる一いち「器官きかん」である。が、その身体しんたいをわたしは自由じゆうにすることができない。痛いたみが身体しんたいのそこかしこを突然とつぜん襲おそうこと、あるいは身体しんたいにも〈倦けん怠たい〉が訪おとずれることに、だれも抗こううことはできない。

出典しゅってん 鷲田わしだ清一せいいち『身体しんたい、この遠とおきもの』 / 出題しゅつだい 名古屋なごや大学だいがく

所有の媒体としての身体身体が所有という行為の通り道として働く一方、その身体自体は意のままにならないという二重性を示した図。 わたし 身体 媒体・随意に使える器官 もの 捕る・掴む・持つ 所有 = じぶんのものとして、意のままにできること ところが 身体 痛み 倦怠 だれも抗うことはできない 媒体として使えるのに、その媒体自体は自由にならない
所有しょゆうの媒体ばいたいとしての身体しんたい
ヒント

身体しんたいは、なにかを所有しょゆうする場面ばめんでは自由じゆうに使つかえるが、常つねに自由じゆうにすることはできないということ。

問とい

傍線ぼうせん部ぶはどういうことを言いっているのか、説明せつめいせよ。(設問せつもん・改かい)

正解せいかいと解説かいせつ

(例れい)身体しんたいは、なにかあるものを意いのままにするために用もちいられるということ。

「所有しょゆうという行為こうい」とは、「じぶんのものとして、意いのままにできる」ということ。「媒体ばいたい」をうまく説明せつめいしたい。

Output

産出さんしゅつ

やるなら ── 次つぎのいずれかを一段落いちだんらくで書かく。

  • 身体しんたいが「透明とうめい」だった場面ばめんと「不透明ふとうめい」になった場面ばめんを一ひとつずつ挙あげ、その転換点てんかんてんを書かく
  • 自分じぶんが使つかいこなしている道具どうぐを一ひとつ挙あげ、それが身体しんたいのどの機能きのうの外部がいぶ化かかを書かく
Blank

身体しんたいが所有しょゆうの媒体ばいたいでありながら所有しょゆうできないのなら、「自分じぶんの身体しんたい」という言いい方かたは、何なにを指さしていることになるのか。