Theme 2-3

メディア・芸術論

[ 原書 第2部 テーマ編 2-3 ]

加筆語彙 12 / Key Point 2 / 図版 10

Macro — 論の流れ

メディアが変われば、芸術も変わる

メディアと芸術の二つの歴史音声から電子メディアへ至るメディアの歴史と、宗教的な芸術から複製芸術・大衆化へ至る芸術の歴史を並べた図。 メディアの歴史 芸術の歴史 音声メディア 文字メディア 印刷技術の発達・書籍の普及 活字文化 視聴覚メディア 写真・映画・ラジオ・テレビ マス・メディア 電子メディア インターネット・携帯電話 ソーシャルメディア・電子ブック 宗教的な芸術 神話・絵画・舞踊・建築・彫刻 宗教性を失う 近代芸術 リアリズム・ロマン主義・超現実主義 複製芸術 芸術の大衆化・商品化 サブカルチャーの台頭 漫画・アニメなど 二つの歴史は独立していない。メディアの変化が、芸術の在り方を変えてきた。 複製技術が、芸術から唯一性を奪った
メディアの歴史と芸術の歴史 ── 二列に並べる

この主題は二本の歴史を並べて読む。左のメディアは音声から文字、視聴覚、マス、電子へと進み、右の芸術は宗教的なものから近代芸術、複製芸術、大衆化へと進む。二列は独立していない。メディアの変化が、芸術の在り方を変えてきたという因果が、この主題の骨格である。

とくに決定的なのが複製技術で、これが芸術から唯一性を奪った。そして入試文が示すように、その議論は芸術から「私」へ読み替えられる。何もかもが複製され代替可能になる社会で、掛け替えのない自分をどう支えるか──ここまで来て主題が完成する。

原書の本文

四つの段階

メディアと芸術の始まり

メディアとは、〈触媒・仲立ち〉という意味である。メディアを、人々がコミュニケーションを図るための便利なツールだと考えると、まず人々の話す「言葉」がメディアということになるだろう。

言葉を記号化した「文字」という便利なメディアができると、手紙などの形式を用いることにより、これまでその場限りのものでしかなかったコミュニケーションが、身近にいない人との間でも可能になった。さらに子や孫への記録として、世代を超えて継承されるようにもなる。たとえば『古事記』は、それまで口で伝えられていた神話を文字に変換して残した日本最古の歴史書だ。

芸術も、神や人間とのコミュニケーションのための手段という性格をもっている。たとえばラスコーなどの洞窟壁画では、獲物となる動物の絵がクロマニョン人によって描かれているが、それは神や動物への祈り・交信という宗教的な意味合いも含まれていたのだろう。

絵画と写真との比較

報道写真・テレビのニュース・インターネット画像など、日常には、大量の写真や映像があふれている。だが、写真は十九世紀に発明されたため、写真や映像は現代的な情報であり、絵画とは根本的に異なる性質を有する。

絵画と写真の比較をしてみよう。(近代)絵画とは、一人の画家の眼にとらえられた現実が、キャンバスに表現されたものだ。しかし、画家の眼は、目の前にあるすべてのモノを見ているわけではない。人間の視覚は、主体の興味や関心によって見るモノを選択するからだ。絵画は、描く主体の手によって現実がデフォルメ(変形)されていると言えるだろう。そのような意味では、絵画を始めとする芸術は一種のフィクション(虚構)で、リアリズム・ロマン主義・超現実主義という区分も、デフォルメの程度に基づくと考えることもできる。

一方で写真は、「意味」を一切剥ぎ取って、カメラの前にあるモノすべて、我々の意識しないモノまでも写してしまう。加えてカメラのレンズは、絵画よりも、はるかに客観的に現実を再現することに成功したのである。

絵画と写真の違い主体の関心によって選び取られる絵画と、意識しないものまで写す写真の違いを示した図。 絵画 目の前のすべて 選択 興味・関心 デフォルメされた現実 一種のフィクション 描く主体の手が入る 写真 レンズ 意味を一切剥ぎ取る 意識しないものまで写る 選ぶのが絵画、選ばないのが写真 ── ここに客観性の差が生じる
選ぶのが絵画、選ばないのが写真
デフォルメの程度による様式の区分リアリズムからロマン主義、超現実主義へと、現実の変形の度合いが増していく軸を示した図。 デフォルメの程度 小さい 大きい リアリズム 見えるままに近く ロマン主義 感情と想像力を通す 超現実主義 現実の枠を外す 別々の様式ではなく、一本の軸の上の位置として捉え直せる
様式の区分を、一本の軸に置き直す

マス・メディアと現代社会・現代芸術

近年の入試では、「メディアの過去・現在・未来の比較」というテーマが扱われる。テレビに代表される映像メディアを、本・雑誌・新聞などの活字メディアと比べて批判するというものが多い。

身近な批判としては、若者の活字離れによって、「言語的な自己表現力や論理的な思考能力が低下した」というものだ。また、マス・メディアとしての映像文化は、活字に比べて、一度に大量の情報をわかりやすいイメージとして我々に与えるため、論理的思考が培われなくなっているという指摘もされている。

さらに、マス・メディアの発達は、芸術の大衆化を促し、漫画やアニメといったサブカルチャーの台頭を推し進めた。

活字メディアと映像メディア活字と映像を、情報量・受け取り方・育つ能力の三点で比較した図。 活字メディア 映像メディア 少しずつ順に一度に大量に 読み解く手間がいるわかりやすいイメージ 論理的な思考直観的な把握 よくある批判 活字離れによって、言語的な自己表現力や論理的な思考能力が低下した。 この対比表そのものが、活字の側から描かれている
活字メディアと映像メディア

電子メディアの行方

現在では、映像も活字も合わせて、メディアそのものを問い直す考えも出されている。電子メディアの登場は、情報の発信と受信のあり方を根底から変えてしまった。

情報の発信側は、これまではマス・メディアや知識人に独占されていたが、インターネットの普及により、個人が容易に発信主体になり得るようになったのである。

また、電子メディアは、活字も映像も自在にミックスする。新たなメディアの出現によって、我々のリアリティーは、活字と映像の時代から大きく変わりつつあり、いまやインターネットは、利用者の単なる道具というよりも利用者の居場所・活動空間になっているのだ。

さらに、携帯電話やスマートフォンの普及、ツイッターやフェイスブックなどのソーシャルネットワーク(SNS)の隆盛は、人々に他者とのつながりを強制し、相互監視システムを厳しくするという危惧があるが、新しい公共性を自主的に築き上げる可能性も指摘されている。

発信と受信の構造が変わるマス・メディアが発信を独占していた一方向の構造から、個人が発信主体になりうる双方向の構造への変化を示した図。 マス・メディアの時代 発信側 知識人・報道機関 受信するだけ 一方向・独占 電子メディアの時代 誰もが発信主体になりうる 相互監視が厳しくなるという危惧 新しい公共性を築く可能性 評価は一方に決まっていない
発信と受信の構造が変わる
Key Point

二つの要点

Key Point 1 ── 複製芸術

複製とは〈コピー〉と同じ意味で、複製芸術とは〈写真や映画などの「コピー可能な芸術」〉を指す。エレクトロニクスを中心としたテクノロジーの発達が、複製技術の発達を促した。

過去の芸術は、特定の芸術家がつくった、世界に一つしかないオリジナルな(独創的な)作品であり、「いま、ここにしか存在しないという唯一性(オリジナリティー)」があった。だが、複製芸術はそうしたオリジナリティーを奪ってしまう。誰もがいくらでもつくることが可能だから、芸術の権威を失墜させてしまうのである。

また、オリジナルな作品から伝わる芸術家の精神やそれがつくられた時代の精神を感じさせるものをアウラ(AURA=オーラ)と言うが、いくらでもコピーが可能となった複製芸術は、アウラを失うことになる。

アウラの喪失唯一のオリジナルに宿るアウラが、複製可能になることで失われる過程を示した図。 オリジナル 作品 アウラ いま、ここにしかない 芸術家と時代の精神 複製技術 複製複製複製 複製複製複製 誰もがいくらでもつくれる アウラは失われる 失われるのは価値ではなく、「いま、ここ」という一回性である
アウラの喪失
Key Point 2 ── 電子ブックをどう評価するか

最近は、電子ブックの将来についても多く論じられる。グーテンベルグ(一三九八頃〜一四六八年)の活版印刷術が聖書の普及をもたらし、宗教革命を促したように、電子ブックの登場も人々の生活や文化に大きな影響を及ぼし、紙の本は消えるかもしれない。

だが、電子ブックの未来については、電子メディアに対する意見と同様に賛否両論がある。電子ブックはインターネットから配信される情報でしかなく、書物のもつ厚みや重さがない。読み終えた時の手応えもないから、「一冊の本との出会い」という体験が得られなくなる。

その一方、電子ブックの普及で、書物の価値が見直されるということも考えられる。たとえば、書物の装丁やレイアウトに一種の芸術的価値を見出すことがある。また、電子ブックで内容を一通り読んで気に入ったなら、自分の趣向で自分だけの書物をつくり保存するといったような試みも可能になるのかもしれない。

電子ブックの賛否電子ブックが書物の体験を失わせるという見方と、逆に書物の価値を見直させるという見方を並べた図。 電子ブックの登場 失われるという見方 厚みも重さもない 読み終えた手応えがない 「一冊の本との出会い」が消える 見直されるという見方 装丁とレイアウトの価値 自分だけの書物をつくる 書物が芸術として再発見される 活版印刷が宗教革命を促したように、変化は文化の側にも及ぶ
電子ブックの賛否
Terms — 本サイトによる加筆

この主題を読むための十二語

原書のキーワード番号は付されていない層である。概念語八つと、本文・入試文に現れる読解語彙四つを補う。

01概念

媒介ばいかい

ばいかい[0]平板型

語構成
なかだちあいだにたつ
使用の境界

二つのものの間に立って結びつけること。結びつけるだけでなく、通る過程で何かが変わることを含む。

用法

メディアの語源は〈触媒・仲立ち〉である。この主題で重要なのは、媒介が単なる通り道ではないという点にある。言葉を通せばその場限りだったやりとりが世代を超え、写真を通せば意識していないものまで写る。つまり何を媒介にするかで、伝わるものが変わる。「メディアはメッセージである」(マクルーハン)はこの含みを一文にしたものである。「〜に媒介される」という受身形が評論文の定型で、直接に見えているものが実は何かを経由している、という指摘に使われる。

用例
  • 真なるものは全体である。……直接的なものはまだ真ではない。媒介を経て自分へ還ってきたものだけが真である。ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル『精神現象学』序文(1807)/訳は本教材
    媒介という語の哲学での位置を示す一節である。(1-5 の 113 と 2-1 の 12 で同じ序文の別の箇所を引いた。否定を通り抜けるというあの運動の、通り道にあたるのが媒介だ。)要点は「直接的なものはまだ真ではない」である。常識では逆だろう — 間に何も挟まないほうが正しく伝わるはずだ。ヘーゲルはそれを否定する。何も挟まないものは、まだ何も言えていない。「これ」と指すだけでは何も規定できず、言葉という媒介を通してはじめて内容を持つ。メディア論がこの語を借りるのは、媒介は失われた直接性の代用品ではないと言いたいからである。
  • 書物は、死んだ人の言葉を生きている人に伝える。……我々は、会うことのない人と書物を通して語り合う。フランチェスコ・ペトラルカ 書簡(14世紀)の主旨による/訳は本教材
    媒介がもたらすものを、損失ではなく獲得の側から言った一節である。2-2 の 05 で見たプラトンは文字が記憶を殺すと書いた。ペトラルカは同じ文字について時間を越えさせると言う。注目したいのは、両方とも正しいことだ。文字はその場の生きた声を失わせ、同時に千年後の読者を獲得させる媒介はつねに何かを落とし、何かを可能にする — この差引きを個別に測るのがメディア論の仕事である。「失われた」だけを書く議論も、「便利になった」だけを書く議論も、片側しか見ていない
  • あらゆる経験は何かに媒介されている。直接そのものに触れているという感覚こそが、媒介がうまく働いている証拠である。 この主題の中核である。媒介が透明に見えるときほど、媒介は強く働いている。眼鏡が見えなくなったとき眼鏡は最もよく働いており、その見えなさが批評を難しくする。2-2 の 06 の媒体と同じ構造を、働きの側から言った形だ。
  • ×友人が二人の間を媒介してくれた。 人が間に立つなら「仲介」「仲立ち」である。評論語の媒介は認識や経験が何かを経由して成り立つという構造を指す語で、人の仲立ちには使いにくい。なお化学の「媒介する」(触媒・病原体の媒介)はまた別の定着した用法である。
派生形
  • 媒体ばいたい[0]2-2 の 06 で立てた語。媒介が働きを指すのに対し、媒体は間に立つ物を指す。働きと物を書き分けられると、メディア論の文章がずいぶん読みやすくなる。
  • 媒介項ばいかいこう[0]論理学の語。三段論法で二つの前提をつなぐ語。「人間は死ぬ/ソクラテスは人間だ」の「人間」がそれ。結論には現れずに消えるのが媒介項の性質で、媒介の透明性の論理学版である。
  • 無媒介むばいかい[2]否定形。「無媒介に結びつける」は途中を飛ばして短絡しているという批判になる。ヘーゲル以来の語法で、評論文では論の飛躍を指摘する語として働く。
コロケーション
  • 直接性と媒介対でのみ働く語この二語は片方だけでは意味をなさない。重要なのは、「直接」と感じられるものがすでに媒介されているという主張である。生の声も、空気と耳と言語を経由している。媒介ゼロの経験は存在しない — だから問いは「媒介があるか」ではなく「どんな媒介か」になる。
  • 媒介の透明性見えないことの効果よく働く媒介ほど存在を感じさせない。この性質が批評で問題になるのは、見えないものは疑えないからだ。写真は「そのまま写っている」と感じられるぶん、絵より強く事実として通る透明さは中立さではない
  • 媒介の不在という幻想批評の一手「ありのまま」「生の」「素の」— これらの語が出てきたら、そこに媒介が隠れていると見当をつける。1-5 の 90 の客観が同じ罠を抱えていたのとまったく同じ構造である。透明を名乗る位置ほど疑うのが読解の基本になる。
  • 媒介するもの技術を指す形言語・文字・印刷・写真・電波・回線。この一覧を並べると歴史が見える媒介の技術が変わるたびに、何が伝えられ何が落ちるかが変わる。02 の複製と 05 の大衆化は、この一覧のある一段で起きたことを扱っている。

書き言葉。会話では不自然。

類語と差
  • 仲介当事者の間を取りもつ人が行う行為。媒介は物や仕組みが果たす働きも含む。
  • 手段目的を果たすための方法目的との関係。媒介は二者を結ぶという構造を指す。
  • メディア情報を伝えるもの外来語。日本語では報道機関を指すことが多い。媒介はより一般的な働きの名。
  • 直接間に何も挟まない対概念。「無媒介に」と言えば、間に何も入らないことを強調できる。

ENmediation
ZH媒介(媒介, méijiè)

02概念

複製ふくせい

ふくせい[0]平板型

語構成
かさねるつくる
使用の境界

同じものを何個でもつくること。真似て似せる模倣とは違い、元と区別できないものができる点を含む。

用法

ベンヤミンの「複製技術時代の芸術作品」が背景にある。要点は、複製そのものではなく複製によって何が失われるかにある。過去の芸術は世界に一つしかない唯一の作品であり、そこにアウラが宿っていた。誰でもいくらでもつくれるようになれば、その権威は失墜する。ただし失われるのは価値ではなく「いま、ここ」という一回性である点を押さえる。デジタル技術の進展で、現代美術ではオリジナルと複製の区別自体が意味を失いつつある。

用例
  • 最も完全な複製においてすら、一つのものが欠けている。すなわち、芸術作品の「いま・ここ」、それが存在する場所における一回かぎりの現存在である。ヴァルター・ベンヤミン『複製技術時代の芸術作品』(1936)/訳は本教材
    複製が何を写せないかを正確に言い当てた一節である。(1-7 の 146 で同じ論文の別の箇所を引いた。あちらは伝統からの引き離しを、ここでは欠けるものの中身を扱っている。)要は「いま・ここ」だ。色も形も筆致もすべて写せる。写せないのはそれがそこにずっとあったという事実だけである。これは物の性質ではなく歴史だ。複製は物を写すことはできるが歴史を写すことはできない。04 の唯一性が見た目の問題ではないと言われる根拠がここにある。
  • 技術は、芸術作品を儀礼への寄生から解き放つ。……そのとき芸術の機能は一変する。儀礼にもとづくかわりに、別の実践 ── 政治 ── にもとづくようになる。ヴァルター・ベンヤミン『複製技術時代の芸術作品』(1936)/訳は本教材
    複製の帰結を嘆きではなく変化として書いた一節である。(上の引用と同じ論文の続きにあたる。)注目したいのは「寄生」という語だ。芸術が神殿や教会にあったことを、ベンヤミンは由緒ではなく依存として書く。複製はその依存を切る。ここまでは解放の物語だ。ところが続きが厳しい — 寄生先が儀礼から政治へ移るだけである。自立するのではない。実際この論文はファシズムが政治を美化することへの警告で閉じられる。1-6 の 138 の全体主義が複製技術なしには成立しなかったことを押さえておきたい。
  • 複製が可能になると、作品はどこへでも行き、そのかわりどこにも属さなくなる。 差引きを一文に収める型である。到達範囲と場所への帰属は交換関係にある。05 の大衆化が前半だけを取り上げた語だとすれば、03 のアウラは後半を扱う語である。
  • ×この資料を三部複製してください。 「コピー」「複写」である。評論語の複製は原作と同じものが無数に作れるようになったこと、およびその帰結を指す。事務作業の名ではない。なお「複製技術」の形ならほぼ確実にベンヤミンの議論を背負っていると見てよい。
派生形
  • 複写ふくしゃ[0]写し取る作業を指す実務語。複製が同等の物を作るのに対し、複写は写しを取るだけ。写しは原本より格が下という前提が残っている点で、複製とは含みが違う。
  • 模倣もほう[0]似せて作ること。複製が機械による同一物の産出なのに対し、模倣は人の手による別物の産出である。模倣には差が残り、複製には残らない — この差が芸術論の分かれ目になる。
  • レプリカ[1]複製品本物の代わりとして公認されているという含みがある。偽物(フェイク)とは違い複製であることを隠さない隠すか名乗るかで、同じ物の身分が変わる。
コロケーション
  • 複製技術術語としての形写真・映画・録音・印刷。「技術」を付けると個々の複製行為ではなく時代の条件を指すようになる。この語が示すのは、複製が例外ではなく標準になったという事態の反転である。いまや原本のほうが例外だ。
  • オリジナルとコピー上下がある対この対には最初から価値の順位が入っている。ところが複製技術が進むと順位の根拠が薄れる。写真のネガとプリントのどちらが原本か。デジタルの画像にそもそも原本はあるのか対そのものが成り立たなくなるところまで来ている。
  • 複製の氾濫量が質を変える語同じ像があまりに多く出回ること。この結びつきが批判的なのは、見飽きたものは見えなくなるからだ。名画も、名所も、複製で先に知っていると実物の前で何も起きない複製が原本の経験を先回りして食うという現代の逆説である。
  • 複製されえないもの残余を問う語複製技術がここまで進んでなお写せないものは何か。ベンヤミンの答えは「いま・ここ」だった。現代ならその場に居合わせた身体の経験と答えることもできる。2-2 の身体論がここで芸術論と合流する複製できないのは身体のほうだ

書き言葉・会話の両方で使える。

類語と差
  • 模倣真似てつくる似せるだけ。元との差が残る。複製は差が残らない。
  • 再現もう一度同じ状態にする一回性を保ったまま繰り返す。複製は同時に複数存在させる。
  • コピー写しをとる外来語で日常的。複製はその漢語形で、学術文に使う。
  • 代替別のもので置き換える置き換えの可否。複製は同じものを増やすこと。

ENreproduction
ZH复制(複製, fùzhì)

03概念

アウラ

アウラ[1]頭高型

使用の境界

オリジナルな作品だけが放つ、近づきがたい雰囲気。作品の美しさや完成度のことではない。

用法

ベンヤミンの用語で、「いま、ここにしかない」という一回性から立ちのぼるものを指す。オリジナルな作品からは、それをつくった芸術家の精神と、つくられた時代の精神が伝わってくる。複製にはそれがない。要点は、アウラは作品の質ではなく在り方に宿るという点である。だから精巧な複製でも、どれほど美しくてもアウラは持たない。日常語の「オーラがある」は人について言う用法で、学術語のアウラとは対象が違う。

用例
  • アウラとは何か。空間と時間の奇妙な織物であり、どれほど近くにあっても感じられる遠さの一回かぎりの現れである。ヴァルター・ベンヤミン『写真小史』(1931)/訳は本教材
    アウラの定義として最もよく引かれる一文である。要は「近くにあっても遠い」という矛盾した言い方だ。距離の話ではない。手を伸ばせば触れる位置にあるのに、どうしてもこちらのものにならないという感じである。2-1 の 02 の他者性と同じ構造だと気づいておきたい — 意のままにならないことが価値になっている。複製がアウラを壊すのは、複製がいつでもどこでも手に入るからだ。手に入るものに遠さは宿らない。なお「織物」という比喩も効いている — アウラは物に付いているのではなく、物と場所と時間が編み合わさって生じる
  • 茶室は、一つの床の間に一つの掛物、一輪の花のほかは何も置かない。……色彩の重複を避け、同じ意匠を二度は用いない。岡倉天心『茶の本』第四章(1906)の主旨による
    アウラを生じさせる装置として茶室を読むと、この一節が効いてくる。茶室の作法は徹底して重複を排する。なぜか — 二つあれば比べられ、比べられれば取り替え可能になるからだ。一つしか置かないことでその一つが掛け替えのないものになる。注目したいのは、これが自然に生じるアウラではなく、設計された一回性だという点である。「一期一会」も同じで、会は繰り返せるのに、繰り返せないものとして扱う作法だ。アウラは作れる — この事実は、現代の限定販売や一回性の演出を読む鍵になる。
  • 複製技術はアウラを消したのではなく、別の場所へ移した。 単純な喪失の物語を避ける型である。絵画からアウラが抜けた一方で、ライブ、初版、直筆、「本人が使っていた」物に価値が集まった。複製が容易になるほど、複製できないものの値が上がる — 2-5 の経済論とここでつながる。
  • ×あの俳優には独特のアウラがある。 「オーラ」との混同である。日本語の「オーラ」は人が放つ雰囲気を指す日常語で、同じ語源だが別の語として扱うのが安全。評論語のアウラは複製と対にして一回性を論じる術語で、ベンヤミンの議論を背負っている複製の話が出てこないなら、それはオーラである
派生形
  • オーラ[1]同じ語源の日常語。人の雰囲気を指す。ベンヤミンの術語とは書き分けるのが原則で、評論文では「アウラ」と表記して術語であることを示す。表記が定義を担う珍しい例。
  • 一回性いっかいせい[0]アウラの中身にあたる語二度と同じことは起きないという性質。04 の唯一性が数の一つを言うのに対し、一回性は時間の一度を言う。空間の語か時間の語かが差である。
  • 聖性せいせい[0]アウラの前身。ベンヤミンによればアウラは礼拝価値の名残である。1-6 の 120 の世俗化が進んだあとに宗教から抜けきらずに残った気配がアウラだ、と読むとこの二つの主題がつながる。
コロケーション
  • アウラの喪失定型としての語複製によって一回性が失われること。この言い方がほぼつねに喪失として語られるのは注意が要る — ベンヤミン自身はそれを解放とも見ていた語が出典から離れて懐古の道具になるという例で、1-7 の 145 のスミスの「見えざる手」と同じ経路をたどっている。
  • アウラをまとう生じる側の言い方物や場所が近づきがたい気配を帯びること。「まとう」という和語が的確なのは、本体ではなく外側にあるものだと示せるからだ。脱がせることも、着せることもできる — 天心の茶室は着せる側の技術である。
  • 複製とアウラ対で働く語この二語は片方が増えればもう片方が減るという関係で語られる。ただし現代ではその関係自体が崩れているとも言える — 複製が広まったからこそ原本を見に行く人が増えた反比例ではなく相互に増幅しているという読み方も成り立つ。
  • 人工的なアウラ批判の語限定・一点物・体験型。意図的に一回性を作り出す手法。この語が批判的に使われるのは、本来は生じるものだったアウラが商品の付加価値になったからだ。1-7 の 142 の消費社会が差異を売るという構造の、芸術における現れである。
硬・学術

論文・評論でのみ使う。会話では不自然。

類語と差
  • オーラ人が放つ独特の雰囲気同語の日常的な形。人について使う。アウラは作品について使う学術語。
  • 唯一性ただ一つしかないという性質アウラが宿る条件。アウラはそこから立ちのぼる雰囲気。
  • 権威価値を認めて自発的に従わせる力☑10。アウラが失われれば芸術の権威も失墜する。
  • 崇高近づきがたく厳かなもの美学の概念。感じる側の経験を言う。アウラは作品の側に宿るとされる。

ENaura
ZH灵光(アウラ, língguāng)

04概念

唯一性ゆいいつせい

ゆいいつせい[0]平板型

語構成
ただ・それだけひとつそのような性質
使用の境界

ただ一つしかなく、他のもので置き換えられないという性質。珍しさや優秀さのことではない。

用法

「いま、ここにしか存在しない」という言い方で説明される。要点は、唯一性が価値の高さではなく在り方を指すことにある。だから凡庸な作品にも唯一性はある。この主題の急所は、唯一性が芸術作品から人間へ読み替えられるところにある。複製できない掛け替えのない「私」という観念が、芸術の唯一性への執着を支えている。入試文はこの読み替えを正面から論じている。

用例
  • その旅人は、二度と同じ川に足を踏み入れることはできない。……同じ川であって、同じ川ではないからだ。ヘラクレイトス 断片(前5世紀)の主旨による/訳は本教材
    唯一性を物ではなく時間の側から言った一節である。(1-2 で同じ思想家の別の断片を引いた。)川は同じ名で呼ばれ続ける。ところが水は一瞬ごとに入れ替わっている何をもって「同じ」と言うのか。この問いを立てると、唯一性の在りかが動く。物としての川に唯一性があるのではないその一回の足の踏み入れ方にあるのだ。ベンヤミンの「いま・ここ」も同じ場所を指している。唯一性は物に貼られた札ではなく、出会いの側にある — だから複製できないし、原本を持っていても保証されない
  • 一期に一度の会。かへすがへす念頃に、たとへ幾度おなじ主客交会するとも、今日の会に再びかへらざる事を思へば、実に我一世一度の会なり。井伊直弼『茶湯一会集』(1858頃)
    「一期一会」という語の原典にあたる一節である。要は「たとへ幾度おなじ主客交会するとも」だ。同じ顔ぶれで何度でも会えることを認めたうえで、それでも今日の会には戻れないと言う。ここで唯一性は希少さではない。一度きりしか会えない相手なら大切にするのは当たり前で、何度でも会えるのに一度きりだと思い定めるところにこの語の要点がある。唯一性は事実ではなく態度だと言い切っているのだ。03 のアウラが作れるという話とここでつながる。
  • 唯一性は見た目の違いにあるのではない。同じ物が二つあっても、それぞれの来歴は一つしかない。 この語の使いどころである。工場から出た同型の椅子も、使われた時間だけは共有できない。2-1 の 04 の固有性と同じ場所を指しているが、あちらは人、こちらは物と作品に向けられている。
  • ×この製品の唯一性は省エネ性能にあります。 「独自性」「他にない特長」である。唯一性は数として一つしかないことを指す語で、優れた点の名ではない他社が同じ性能を出したら消えるものなら、それは唯一性ではない — 2-1 の 04 で見た取り替え可能かどうかの判定がそのまま使える。
派生形
  • 唯一ゆいいつ[0]「ゆいつ」とも読むが、「ゆいいつ」が本則。「唯」はただ〜のみ1-4 の 一神教の「唯一の神」も同じ語で、比べる相手を持たないという含みまで共通する。
  • 固有性こゆうせい[0]2-1 の 04 の語。唯一性が数の一つを言うのに対し、固有性はそれ自身に備わっている性質を言う。唯一性は数えて分かるが、固有性は数えても分からない
  • 真正性しんせいせい[0]本物であること。文化財や観光の議論で使われる語。唯一性が「一つしかない」を言うのに対し、真正性は「偽物でない」を言う復元された建物は唯一だが真正ではない — この差が文化財論の争点になる。
コロケーション
  • 掛け替えのなさ和語での言い直し代わりが利かないこと。2-1 の 04 で見たとおり、否定形でしか言えないのがこの概念の特徴である。芸術論でこの語が要るのは、作品の価値を性質の一覧で説明しきれないからだ。説明できてしまえば再現できる
  • 唯一性の担保どう保証するか何によってこれが本物だと示すかという問い。署名、鑑定書、来歴、そして近年は技術による記録。注目したいのは、担保はつねに作品の外側にあることだ。作品自身は自分が本物だと言えない
  • 唯一性の崩壊複製の帰結デジタルの複製は劣化しない。写しと原本の区別が原理的につかなくなる。ここで唯一性は物からデータの記録へ移らざるをえない。唯一性が物の性質から台帳の記述へ変わったというこの移動が、現代の論点である。
  • 唯一無二強調の四字語唯一を二度言っている。この重ね方が生まれたのは、「唯一」だけでは弱く感じられるからだ。日常語として摩耗し、広告文で多用されるようになった。唯一性を売り文句にする言い方がありふれているという皮肉が、この語形に出ている。

書き言葉。会話では不自然。

類語と差
  • 一回性一度きりであるという性質時間の側。唯一性は数の側。両者は表裏をなす。
  • 固有性そのものだけがもつ性質置き換え不可能という点は共通する。唯一性は数が一つであることに重心がある。
  • オリジナリティー独創性つくり手の側の性質。唯一性は存在の在り方。
  • 希少性数が少ないこと経済の語。量の話。唯一性は代替不可能性の話。

ENuniqueness
ZH唯一性(唯一性, wéiyīxìng)

05概念

大衆化たいしゅうか

たいしゅうか[0]平板型

語構成
大衆匿名の多数そうなる
使用の境界

限られた人のものだったものが、広く行き渡ること。質が下がることを必ずしも意味しない。

用法

評論文では評価が二つに割れる語である。①限られた特権層のものだった芸術が誰にでも届くようになった、という肯定。②数が売れるものだけが残り、質が下がった、という否定。この主題ではマス・メディアの発達が芸術の大衆化を促し、漫画やアニメといったサブカルチャーの台頭を推し進めた、と述べられる。読解では、書き手がどちらの評価に立っているかをまず見る。「通俗化」と書けば否定が確定するので、語の選び方自体が立場を示す。

用例
  • 私は、少数者のための芸術も、少数者のための教育も、少数者のための自由も望まない。……もし芸術が万人のものでないなら、それが何になろう。ウィリアム・モリス「民衆の芸術」(1879)/訳は本教材
    大衆化を要求の側から述べた一節である。注目したいのは三つ並べた列挙だ。芸術・教育・自由 — いずれも近代が万人に開くと約束したものである。モリスはそれを芸術にも同じく適用せよと言っている。芸術だけが例外である理由はない、と。この主張はいま読むと当たり前に聞こえるが、当時は芸術が特権階級のものだった。そしてモリス自身は手仕事にこだわったため、その製品は高価で、結局は富裕層しか買えなかった大衆化の理念と手段の齟齬が、この運動の出発点にすでにある。
  • 民藝の美は尋常の美である。……銘なきものの美であり、安価なるものの美であり、多量に作られたものの美である。柳宗悦『工藝の道』(1928)の主旨による
    大衆化を価値の低下と見ない立場である。柳が並べた三つの条件はいずれも従来なら減点の理由だった — 作者名が無い、安い、たくさんある。それをそのまま美の条件として置き直す。注目したいのは「多量に作られた」である。02 の複製がアウラを壊すとされたのに対し、柳は数の多さが別種の美を生むと言う。同じものを何千と作るうちに、作り手の個性が抜けて手が澄んでいくからだ。大衆化は希釈でも堕落でもなく、別の質への移行でありうる — この見方は1-7 の 141 の大衆社会論への対抗軸としても読める。
  • 大衆化は開かれることであると同時に、平均へ引き寄せられることでもある。 両面を並べる型である。1-7 の 141 の派生形で見たとおり、「大衆化」はほぼつねに両義的だ。誰でも触れられるようになったことと、多くの人に届く形へ整えられたことは同じ出来事の二面である。
  • ×この趣味も最近ずいぶん大衆化して、つまらない。 語は正しいが、判断が語に紛れている。「つまらない」という評価は大衆化そのものからは出てこない。評論文では何が失われ何が得られたかを書き分ける「大衆化した」と書いただけで批判したつもりになるのが、この語の最もよくある誤用である。
派生形
  • 大衆たいしゅう[0]1-7 の 141 で立てた語数として扱われる側の人々。「化」を付けると人ではなく過程を指すようになる。語の中心が人から出来事へ移る
  • 民衆みんしゅう[0]肯定の色を持つ語。大衆が受け身で動かされる含みを持つのに対し、民衆は担い手として描かれる。同じ人々をどちらの語で呼ぶかで、書き手の立場が出る
  • 通俗つうぞく[0]俗に通じる。もとは分かりやすいという中立の意だったが、現代ではほぼ否定的。「通俗小説」「通俗的な理解」。分かりやすさが減点になるという価値観が語に固まっている。
コロケーション
  • 芸術の大衆化この主題での形限られた者のものだった芸術が多数に開かれること。複製技術がその条件になった。押さえておきたいのは、開いたのは芸術家ではなく技術だということである。誰も理念として開いたわけではない — 1-6 の 140 で見た意図なき変化と同じ形だ。
  • 大衆化と通俗化書き分けたい対大衆化は受け手が増えること、通俗化は中身が薄まること。同時に起きやすいが同じではないこの二語を混ぜると議論が「昔はよかった」に落ちる。評論文を読むときはどちらを言っているかを確かめたい。
  • 大衆化の担い手誰が広げたか出版社、放送局、そしていまは個々の投稿者。この語が要るのは、広げる仕事につねに誰かが利益を得ているからだ。大衆化は善意の運動である前に事業である — 1-7 の 153 のジャーナリズムの商業化と同じ層にある。
  • 大衆化への抵抗保つ側の動き専門性・格式・入場料。間口を狭く保つ装置。これを単なる特権の保持と読むのは早い — 間口を狭くすることでしか守れない質もある。1-7 の 152 の象牙の塔と同じ両義性がここにも働いている。

書き言葉・会話の両方で使える。

類語と差
  • 通俗化分かりやすく俗っぽくなる質の低下を含意する。大衆化は広がりの話で、中立に使える。
  • 普及広く行き渡る数の話。大衆化は担い手が変わることまで含む。
  • 民主化権力が広く開かれる政治の語。同じ構図をもつ。
  • 商品化売り買いの対象になる市場の話。芸術の大衆化はしばしば商品化と同時に進む。

ENpopularisation
ZH大众化(大衆化, dàzhònghuà)

06概念

デフォルメ

デフォルメ[3]中高型

使用の境界

対象の形を意図的に変えて表現すること。失敗して歪むことではなく、表現のために選び取った変形を指す。

用法

要点は、絵画が現実そのものではないことを示す語として使われる点にある。画家の眼は目の前のすべてを見ているのではなく、興味と関心によって選び取っている。したがって絵画は描く主体の手によって現実が変形されたものであり、一種のフィクションである。この主題は、リアリズム・ロマン主義・超現実主義という区分自体をデフォルメの程度の差として捉え直す。写真との対比を成り立たせているのがこの語である。

用例
  • 芸術は自然を模倣するのではない。……芸術は、見る人に自然を新しく見させるのである。オスカー・ワイルド『嘘の衰退』(1889)の主旨による/訳は本教材
    デフォルメを技法ではなく芸術の定義として扱った議論である。ワイルドの主張は極端だ — 自然が芸術を模倣する。ロンドンの霧は印象派が描くまで誰にも見えていなかった、と。誇張だが、指しているものは正確である。見え方は与えられているのではなく教えられる。2-2 の 04 の身分けが言うとおり、身体はすでに世界を分けているが、その分け方は作品によって書き換えられる。デフォルメとはこの書き換えの技術だ。歪めているのではなく、別の分け方を提案している
  • 緑色の太陽があっても、僕はそれを非なりと言はない。……僕は芸術界に絶対の自由を求めてゐる。高村光太郎『緑色の太陽』(1910)
    デフォルメの許容を日本の近代美術で最初に宣言した一文である。「緑色の太陽」という例の選び方が巧い。太陽は赤いか黄色いか — 誰もが知っている。その誰もが知っていることを裏切るところに例を置いた。注目したいのは「非なりと言はない」という二重否定である。「正しい」とは言っていない「間違いだと断じない」と言っているだけだ。この慎重さが重要で、デフォルメを何でもありにしないための線がここに引かれている。作者の見え方に真実性があるかどうかはなお問われる — 自由は免責ではない
  • デフォルメは対象を歪めることで、写実では見えなくなるものを見えるようにする。 この語の定義である。注意したいのは、写実もまた一つの様式だということだ。遠近法は片目で静止して見た世界を約束事として描いている。写実とデフォルメの対は、正確さと歪みの対ではなく、二つの様式の対である
  • ×写真をデフォルメして顔を小さく加工した。 「加工」「補正」である。デフォルメは表現上の意図をもって形を変えることで、見栄えをよくする作業とは目的が違うデフォルメは見えなかったものを見せるために歪め、加工は見せたくないものを隠すために歪める — 向きが正反対である。
派生形
  • デフォルメする[5]サ変動詞として使う。フランス語 déformer(形を崩す)から。原語には否定的な色があるが、日本語では技法の名として中立化している。外来語が評価を落として定着した例。
  • 誇張こちょう[0]日本語での近い語大きく言う方向に限られるのに対し、デフォルメは省略・単純化も含む射程はデフォルメのほうが広い。なお「誇張」にはやや否定的な含みが残る。
  • 抽象ちゅうしょう[0]1-1 の 3 で立てた語デフォルメを極限まで進めた先にあたる。共通の性質だけを取り出すという操作が、絵画では形の消去として現れる同じ操作が思考と絵画で別の名を持っている
コロケーション
  • リアリズムとデフォルメ様式の対この対を正確さの度合いとして読むと間違える。どちらも様式であり、どちらも約束事に従っている。写実が自然に見えるのはその約束事に見慣れているからにすぎない。1-3 の 記号の恣意性が絵画にも及ぶという見取り図である。
  • デフォルメの度合い連続として見る語写実から抽象までを一本の線の上に置く見方。この見方の利点は、対立ではなく程度の差として扱えることにある。肖像画もすでにわずかにデフォルメされているゼロの地点が存在しないことが、この線を引くと見えてくる。
  • 象徴とデフォルメ意味を担わせる形を変えることで意味を運ぶ手法。仏像の手の形も、漫画の汗の粒も、見た目の再現ではなく記号として働く。1-3 の記号論が絵の内部で働いている場面で、読み方を知らないと読めないという性質まで共通する。
  • デフォルメされた身体この主題での焦点絵画・彫刻・漫画における身体の変形。2-2 の 03 の像とここで直接つながる。押さえておきたいのは、デフォルメされた身体像が現実の身体観に跳ね返ることだ。描かれ方が見え方を作り、見え方が2-2 の 11 の美醜の基準を作る

書き言葉・会話の両方で使える。

類語と差
  • 変形形が変わる訳語。中立で、意図の有無を問わない。デフォルメは意図的な操作。
  • 誇張実際より大げさに言う・描く一方向へ強める。デフォルメは省略や単純化も含む。
  • 抽象共通する性質を抜き出す☑4。捨てる操作。デフォルメは形を変える操作。
  • 様式化一定の型に整える型に合わせる。デフォルメは型がなくても行える。

ENdeformation
ZH变形(変形, biànxíng)

07概念

公共性こうきょうせい

こうきょうせい[0]平板型

語構成
おおやけともにそのような性質
使用の境界

誰にでも開かれ、共通の関心について論じ合える場の性質。行政が担うものとは限らない。

用法

ハーバーマスの公共圏の議論が背景にある。要点は、公共性が行政が上から与えるものではなく、人々が論じ合うことで成り立つという点にある。だからメディアの話と直結する。かつては新聞・雑誌がその場を担い、いまはSNSがその可能性をもつ。この主題は、SNSが相互監視を厳しくするという危惧と、新しい公共性を自主的に築き上げる可能性の両方を挙げており、評価を一方に決めていない。読解では、この両論併記の型を押さえる。

用例
  • 我々は、政治に関わらない者を無用の人と呼ぶ。……我々は、事を決するにあたってまず議論する。議論を行動の妨げとは考えないからである。ペリクレスの葬送演説 ─ トゥキュディデス『戦史』第二巻(前5世紀)/訳は本教材
    公共性を「議論する場」として定義した最も古い言葉である。(1-6 の 127 で同じ演説の別の箇所を引いた。あちらは参加の義務、ここでは議論の位置を扱う。)要は後半だ。議論は行動を遅らせるのではなく、行動の一部であると言い切っている。この主張が要るのは、議論を無駄と見る立場がつねにあるからだ。決断の速さを尊ぶ人は議論を弱さの証拠にする。公共性という語が守ろうとしているのは、この「まず議論する」という手続きそのものである。メディア論でこの語が出るのは、議論の場を技術が作りもすれば壊しもするからだ。
  • 新聞紙は、世論の器械なり。……人の説を載せて世に示し、世の議論を起こさしむるものなり。福沢諭吉『民間雑誌』第一編(1874)の主旨による
    公共性をメディアが担うという発想の日本での起点にあたる。「器械」という語の選び方が面白い。新聞そのものが世論なのではない世論を生じさせる装置だ、と。この位置づけを取ると二つのことが出てくる。第一に、新聞は自分の意見を押し出すものではない。第二に、議論が起きなければ装置として失敗している。1-7 の 153 のジャーナリズムが知らせるだけでは足りないと言われる理由がここにある。現代の情報環境では反応の数はかつてなく増えたのに、議論が成立しにくい器械が動いているのに出力が出ないという事態が起きている。
  • 公共性とは「みんなのもの」という状態ではなく、誰でも入って議論に加われるという開かれ方のことである。 定義の置き方である。所有の話にすると公共=国や自治体のものになってしまう。参加の話にすると別の議論になる — 1-6 の 122 で見たとおり、市民社会が自分では作れないものがこれである。
  • ×この施設は公共性が高いので無料である。 通じるが、「公共施設だから」「公費で運営されているから」である。評論語の公共性は私的な利害を超えて共有される事柄、およびそれを論じる場を指す。公営かどうかとは別で、民間の場に公共性が生じることも、公営の場に公共性が無いこともある
派生形
  • 公共こうきょう[0]「公」と「共」おおやけであり、かつ共にするという二つの契機が字に入っている。日本語の「公」に「お上」の含みが強いため、官のものと取り違えられやすい
  • おおやけ[0]和語。語源は「大宅(おおやけ)」=大きな家、すなわち朝廷とされている。語源からして権力の側を指していたことが、日本語で公共性を論じるときの語感のねじれを生んでいる。
  • 公論こうろん[0]開かれた議論。1-6 の 125 で見た五箇条の御誓文の「万機公論に決すべし」がこの語である。近代日本の出発点にこの語が置かれていたことは、公共性の議論で何度も参照される。
コロケーション
  • 公共圏場としての語私的な人々が集まって公共の事柄を論じる場。十八世紀のコーヒーハウスやサロンが原型とされる。この語が要るのは、国家でも家庭でもない第三の場を名指すためだ。国家に対しては自律し、家庭に対しては開かれている — 2-4 の 06 の親密圏と一対をなす。
  • 公共性の解体現代の診断議論の場が細分化して共通の土俵を失うこと。1-7 の 158 で見た大きな物語の終焉がメディアの側に現れた形である。注意したいのは、誰も排除していないのに起きていることだ。好きなものだけを見られるようになった結果にすぎない。
  • 公共性を装う批判の一手私的な利害をみんなのためだと言い換えること。この操作が有効なのは、公共性という語に反論しにくいからだ。1-6 の 122 で見たフランス人権宣言の「共同の利益」という空欄が、ここでも同じ働きをしている。
  • 公共性と公開性重なりつつ違う語公開しさえすれば公共的になるわけではない。誰でも見られるが誰も議論していない情報は公開されているだけだ。公開は条件であって中身ではない — 1-7 の 143 の情報社会がこの差を毎日突きつけている。
硬・学術

論文・評論でのみ使う。会話では不自然。

類語と差
  • おおやけ国や行政の側を指すことが多い。公共性は市民が担う側面を含む。
  • 共同性生活や価値を共有する性質閉じた集団の内側。公共性は開かれていることを要件とする。
  • 世間顔の見える範囲の圏☑79。閉じている。公共性は見知らぬ他者にも開かれている。
  • 私的個人に属する対概念。公共性は私的な関心を超えて共有される問題を扱う。

ENpublicness / public sphere
ZH公共性(公共性, gōnggòngxìng)

08概念

代替だいたい

だいたい[0]平板型

語構成
かわるかえる

読みは「だいたい」。「だいがえ」は慣用読み。

使用の境界

別のもので置き換えること。同じ働きをするものがあれば代替可能になる。

用法

読み方が問われる語で、「だいたい」が本来の読みである(「だいがえ」は業界的な慣用読み)。この主題では「代替可能/代替不可能」という対で使われ、市場では大抵のものが交換可能であるのに対し、芸術作品と「私」だけは代替不可能なものとして立てられる、という構図をつくる。入試文の核心はここにあり、代替可能性が高まる社会でこそ、代替不可能なものへの執着が強まる、と論じられる。

用例
  • 流通のうちにある貨幣は、いかなる商品とも置き換えられる。……そこでは、あらゆる質の違いが量の違いに解消されてしまう。ゲオルク・ジンメル『貨幣の哲学』(1900)/訳は本教材
    代替可能性がどこまで広がるかを示した一節である。貨幣は究極の代替物だ。何とでも取り替えられる。そのためにそれ自体は何の質も持たない必要がある。2-2 の 06 で見たアリストテレスの蝋板と同じ条件である。ここから重い帰結が出る — 代替可能なものどうしは比較でき、比較できれば順位がつく質の違いが量の違いに変わるとは、「別のもの」が「多いか少ないか」に化けるということだ。2-5 の 04 の尺度と 05 の序列がここから始まる。そして代替できないものだけが04 の唯一性を持つ
  • すべては流転する。……人は、同じ川に二度入ることはできない。そして、同じ人が二度そこに立つこともできない。ヘラクレイトス 断片(前5世紀)の主旨による/訳は本教材
    代替という語の成り立たなさを突く一節である。(04 で同じ思想家の川の断片に触れた。あちらは川の側、ここでは立つ人の側を見ている。)代替が成り立つには「同じもの」が二つ以上ある必要がある。ヘラクレイトスはその前提を疑う。厳密に見れば何ひとつ同じではない。では代替とは何か — 違いを無視してよいと決めることである。代替は発見ではなく取り決めだ。だから何を無視するかを決めた者が力を持つ。2-1 の 05 の属性で見たとおり、切り口を決める権限こそが問題になる。
  • 複製が容易になるほど、代替できないものの値が上がる。 この主題の要約になる型である。写真がいくらでも撮れるから原版に値がつき、録音がいくらでも聴けるから生演奏に人が集まる豊富さが希少さを作るというこの反転が、現代の文化産業の骨格になっている。
  • ×急な欠席で代替の講師を立てた。 「代理」「代講」である。代替は物や機能が別のもので置き換えられることを言い、人が役を務める場合は「代理」を使う。なお「だいたい」と読むのが本則で、「だいがえ」は同音衝突を避けるための慣用読み(代替案)。評論文では「だいたい」
派生形
  • 代替するだいたいする[0]サ変動詞「AがBを代替する」という他動詞の形で使う。「代替される」なら受け身。どちらが取り替えられる側かで力関係が出るので、態に注意して読みたい。
  • 代用だいよう[0]本来のものが手に入らないときの間に合わせ。格が下だという含みが強い(代用食・代用品)。代替が対等な置き換えを含みうるのに対し、代用はつねに次善である。
  • 互換ごかん[0]双方向の代替。「互換性がある」。技術・規格の語彙で、あらかじめ取り替えられるように設計されているという含みを持つ。代替が結果、互換が設計である。
コロケーション
  • 代替可能性中核の語取り替えが利くかどうか。この語が近代を語るのに要るのは、近代化が代替可能性を広げる過程だったからだ。規格化、標準化、貨幣化 — すべて取り替えを可能にする作業である。1-6 の 140 の均質化を、物と人の側から言い直した語と見てよい。
  • 代替不可能否定形が要になる語2-1 の 04 の固有性と同じく、否定形でしか言えない。「これでなければならない」という感覚を積極的に説明しようとすると必ず失敗する — 理由を挙げた瞬間、同じ理由を満たす別の物が代わりになりうるからだ。
  • 代替財経済学での形互いに置き換えられる財(バターとマーガリン)。この語法が示すのは、代替性が程度の問題だということである。完全な代替も完全な非代替も現実には少ないどのくらい代わりになるかを問うほうが、議論は精密になる。
  • 代替エネルギー別の用法「代わりの手段」という実務の用法。この場合の代替は価値の問題ではなく機能の問題である。同じ働きをすればよい。芸術論での代替が働きが同じでも代わりにならないことを扱うのと、ちょうど裏返しになっている。

書き言葉・会話の両方で使える。

類語と差
  • 複製同じものを何個もつくる同一のものを増やす。代替は別のもので置き換える。
  • 交換互いに取りかえる双方向の動き。代替は一方を他方で置き換えること。
  • 代用間に合わせに使う一時的で、劣る含みがある。代替は対等な置き換えも指す。
  • 唯一性置き換えられないという性質対概念。代替可能性の否定が唯一性になる。

ENsubstitution
ZH代替(代替, dàitì)

09読解

通底つうてい

つうてい[0]平板型

語構成
とおるそこ

「底でつながる」。表面の一致ではない。

使用の境界

表面は別に見える事柄が、底の部分でつながっていること。単に似ていることではない。

用法

評論文で頻出する動詞で、「AとBは通底している」の形で使う。要点は、表面上は無関係に見える二つが、深いところで同じ構造をもつと指摘する働きにある。入試文では、国宝を崇める心性と自己愛が通底している、と述べられる。この語が出たら直後に「何が共通するのか」が書かれるので、読解の手がかりになる。書き手が論を一段深める合図でもある。硬い文章語で、会話では使わない。

用例
  • 一つを挙げて三つを以て反らざれば、則ち復せざるなり。『論語』述而篇
    通底を見つける力が学びの条件だと言っている一句である。(1-1 で同じ篇の別の箇所を引いた。)孔子は、四角形の一隅を示して残る三隅を返してこない者には二度は教えないと言う。厳しく聞こえるが、要求されているのは暗記ではなく通底の発見だ。一つの例からその底を流れている原理を掴めば、残りは自分で出せる。掴めなければ四隅とも教えなければならず、しかも五隅目には応用が利かない。評論文の読解も同じ構造をしている — 異なる話題のあいだに同じ底を見つけることが、この語が指す作業である。
  • 見えるものと見えないもの、鳴る音と鳴らぬ音とが同じ一つの調べのなかにある。……秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず。世阿弥『風姿花伝』第七・別紙口伝(1418頃)の主旨による
    表に出ているものの下に出ていないものが流れているという構図を示した一節である。(1-1 で同じ書の別の箇所を引いた。)「秘すれば花」は隠せば価値が上がるという処世の教えとして引かれがちだが、本義は違う。観客が「まだ何かある」と感じている状態を保てということだ。見せてしまえば底が見えてそこで終わる。ここで通底しているのは技ではなく観客の予期である。底を流れるものは見えないからこそ全体をつないでいる — 01 の媒介の透明性と同じ事態が、芸能の側から言われている。
  • 一見無関係な二つの主張に、同じ前提が通底している。 評論文でこの語が出る典型である。要は「一見無関係」という前置きだ。似ているものに共通点を見つけても通底とは言わない違って見えるものの下に同じものを見つけたときにこの語が働く。
  • ×地下には配管が通底している。 物理的な貫通には使わない。「通っている」「貫いている」である。通底は複数の事柄の底に同じものが流れているという比喩の語で、ほぼ抽象的な事柄にしか用いない「〜に通底する」という形で使うのが基本である。
派生形
  • 通底するつうていする[0]サ変動詞でのみ使う名詞「通底」単独はほぼ見ない動きとしてしか存在しない語で、「通底が見られる」のような言い方は据わりが悪い。
  • 通奏低音つうそうていおん[5]音楽から来た比喩。バロック音楽で曲を通して鳴り続ける低音通底とほぼ同じことを音の比喩で言う「通奏低音のように」と直喩の形で使うことが多く、評論文の常套句である。
  • 伏流ふくりゅう[0]地下を流れる水いったん見えなくなり、別の場所でまた現れるという含みがある点が通底と違う。途切れて見えるものの連続を主張するときにこの語を選ぶ。
コロケーション
  • 〜に通底する基本の形助詞は「に」を取る。「両者に通底する思想」。この形が示すのは、通底するものは主語の側にあることだ。底のほうが主役として立つという構文が、この語の主張そのものを文法で表している。
  • 通底する思想最も多い組み合わせ個々の主張ではなくその手前にある構え。この結びつきが多いのは、思想は直接には述べられないからだ。述べられていれば底ではなく表にある書かれていないものを読むという読解の要が、この語に集まっている。
  • 底流近い比喩同じ水の比喩を使う語。底流が流れの方向を含意するのに対し、通底は広がりの共通性を言う。時間の語か空間の語かという差で、「時代の底流」「両者に通底する」と共起する語が分かれる。
  • 通底しないもの差を見る語通底を探す作業には危うさもある何にでも共通点は見つけられるからだ。「どちらも人間について論じている」では何も言えていない。通底を主張するときは、通底しない部分も同時に示すのが議論の作法になる。
硬・学術

論文・評論でのみ使う。会話では不自然。

類語と差
  • 共通する同じ点をもつ表面での一致でもよい。通底は底でつながっていることを言う。
  • 符合するぴたりと合う一致の度合い。通底は構造のつながり。
  • 根ざすおおもとにある一方が他方の土台になる。通底は対等につながっている。
  • 並行する並んで進む接点がない。通底は見えないところで接している。

ENto share a common ground
ZH相通(相通じる, xiāngtōng)

日中のズレ

中国語に 通底 という語はない。相通(xiāngtōng)や 有共通之处 のように言い換える。

日本語の「通底する」は深層でのつながりを含意する評論文特有の語である。

10読解

担保たんぽ

たんぽ[1]頭高型

語構成
になうたもつ
使用の境界

確かなものとして保証すること。もとは金融の語で、評論文では比喩として使う。

用法

もとは借金の裏づけに差し出す財産を指す金融用語である。近年、行政・報道・学術で「〜を担保する」という動詞用法が広がり、〈確かなものとして保証する〉の意で使われる。入試文の「自らの存在の大切さを担保しようとする」がその用法で、国宝の掛け替えのなさを確認することが、自分の掛け替えのなさの裏づけになる、という構図である。設問の解答語としてそのまま使えるので、意味を正確に押さえておく必要がある。

用例
  • 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。日本国憲法 第十一条(1946)
    担保という語の実際の働きがよく見える条文である。(1-4 で同じ憲法の別の条文を引いた。)注目したいのは「与へられる」という受け身だ。誰が与えるのかは書かれていない。基本的人権は憲法が作ったものではないことになっているからだ。では憲法は何をしているのか — 担保しているのである。生み出すのではなく、保証する。ここに担保という語の要点がある。担保する側は担保される中身を作れない。だからこそ担保が外れれば中身も守られなくなるという緊張が残り続ける。
  • 約束したのちにこれを違へば、信は立たず。……人にして信なくんば、その可なるを知らざるなり。『論語』為政篇
    担保が制度以前に何によって成り立つかを言った一句である。(1-1 で同じ篇の別の箇所を引いた。)孔子は信が無ければ人として成り立ちようがないと言う。車に轅(ながえ)と軛(くびき)をつなぐ部品が無ければどうやって進むのか、と続く比喩も鋭い。信は車輪でも荷でもなく、それらをつなぐ小さな部品だ。それ自体は何も運ばないが、それが無ければ何も運べない。現代の担保 — 契約書、署名、鑑定、記録 — はすべてこの部品を制度で代用する試みである。04 の唯一性の担保という論点も、ここへ帰ってくる
  • 作品の唯一性は何によって担保されるのか。署名か、来歴か、それとも制度か。 この主題での使われ方である。担保という語が問うのは「本当か」ではなく「何が保証しているか」だ。問いを真偽から仕組みへ移す — これが評論文でこの語が選ばれる理由である。
  • ×この案は多くの人に担保されている。 「支持されている」である。担保はあとで確かめられる仕組みをあらかじめ置いておくことで、賛同の多さではない。なお金融の「担保に入れる」が原義で、返せなかったときに差し出すものを指した。不履行を前提にした語である点を押さえておくと、評論語としての含みが見える。
派生形
  • 保証ほしょう[0]大丈夫だと請け合うこと。人が引き受けるという含みが強い(保証人)。担保が物や仕組みで裏づけるのに対し、保証は言葉と責任で裏づける。
  • 保障ほしょう[0]侵されないように守ること。「社会保障」「安全保障」。三つの「ほしょう」のなかで最も大きな仕組みを指すのがこれ。担保・保証・保障は入試でも問われる書き分けである。
  • 抵当ていとう[0]担保の一種物を引き渡さずに担保にする形(抵当権)。担保のほうが上位の語で、抵当・質・保証人などをまとめて担保と呼ぶ。語の階層を知っておくと法律用語で迷わない。
コロケーション
  • 〜を担保する基本の形目的語には抽象的な価値が来る — 公平性、透明性、質、安全。この共起が示すのは、担保されるのはつねに「そのままでは確かめられないもの」だということだ。見れば分かるものに担保は要らない
  • 制度的担保仕組みで保証する個人の善意ではなく手続きによって保証すること。この語が要るのは、善意は続かないからだ。1-6 の 127 の民主主義が任期と選挙という仕組みを必要とするのと同じ理屈で、人を信じないことが制度の出発点になる。
  • 担保を失う崩れる側の語保証の仕組みが効かなくなること。注意したいのは、中身が変わらなくても起きることだ。作品も権利も同じままなのに、それを保証していた制度への信頼が崩れれば価値が揺らぐ。2-5 の 06 の貨幣の信用と同じ構造である。
  • 担保と保障書き分けたい対担保は不履行に備える、保障はそうなるようにする。「安全保障」は前者ではない — 安全を実現し続けるという意味だ。備えか実現かで使い分ける。なお「保証」は請け合うでまた別語である。

書き言葉・会話の両方で使える。

類語と差
  • 保証確かだと請け合う一般語。担保はもとの意味に〈裏づけとなる物を差し出す〉という含みがある。
  • 裏づけ根拠となるもの証拠の側。担保は保証する行為。
  • 確保手に入れて保つ量や場所について使う。担保は確かさについて使う。
  • 抵当借金の裏づけに差し出す財産金融用語。担保の原義に近い。

ENto guarantee / collateral
ZH担保(保証・担保, dānbǎo)

日中のズレ

中国語の 担保(dānbǎo)は金融・法律の「保証する」に限られる。

日本語の「公正さを担保する」のような抽象的な比喩用法は中国語にはなく、保证(bǎozhèng)を用いる。

11読解

心性しんせい

しんせい[0]平板型

語構成
こころそのようす
使用の境界

ある人や集団に共通する、ものの感じ方と考え方の型。一時的な気分ではなく、持続する構えを指す。

用法

歴史学の「心性史(マンタリテ史)」に由来する学術語で、ある時代の人々に共有された感じ方の型を指す。制度や出来事ではなく、人々が何を当たり前だと感じていたかを扱う。入試文の「国宝を盲目的にあがめる心性」は、個人の趣味ではなく現代人に広く共有された構えを指しており、だからこそ分析の対象になる。日常語の「心情」と混同しないこと。心情は一時的、心性は持続的である。

用例
  • 中世の人は、すべてを極端に感じた。……病も健康も、幸も不幸も、現代の我々には想像しがたいほどの落差をもっていた。ヨハン・ホイジンガ『中世の秋』(1919)/訳は本教材
    心性という対象を歴史学が発見した一節である。(1-6 の 134 で同じ書の冒頭を引いた。あちらは輪郭の明瞭さ、ここでは感情の振れ幅を扱っている。)注目したいのは、これが事件でも制度でもないことだ。感じ方そのものが歴史の対象になる。この一手で歴史学の範囲が広がった。王の名や戦の年ではなく、人が何を怖れ何に泣いたかを書けるようになったからだ。ただし難所もある — 心性は直接には残らない。日記も、説教も、絵も、すべて表現であって感じ方そのものではない残されたものから残されなかったものを推し量るという危うさを、この分野はつねに抱えている。
  • 世人は、ただ利を求むるを知りて、義を知らず。……上下こぞりて利を争はば、国は危ふし。『孟子』梁恵王上
    心性の変化を当事者が嘆いた記録として読める一節である。(1-1 で同じ書の別の篇を引いた。)孟子が梁の恵王に「利」を口にするなと説く場面だ。注目したいのは、これが道徳の説教ではなく時代診断として書かれていることである。個々人が悪くなったのではない上から下まで同じ物差しを使うようになったという構造の指摘だ。2-5 の 04 の尺度が一つに揃うとどうなるか — 二千三百年前に同じことが言われている心性は個人の性格ではなく、時代が配る枠である。
  • 同じ出来事でも、受け取り方は時代の心性によって大きく変わる。 この語の使いどころである。注意したいのは、心性は個人の性格ではないことだ。その時代の人が共有していた感じ方の枠を指す。1-4 の 73 の文化と同じ層にあり、本人には見えないという性質まで共通する。
  • ×彼は穏やかな心性の持ち主だ。 個人の性質なら「性格」「気質」「人柄」である。心性は集団が共有する感じ方・考え方の型を指す歴史学・社会学の語で、一人について言う語ではない「時代の心性」「民衆の心性」のように、集団を示す語と組んで現れるのが普通である。
派生形
  • 心情しんじょう[0]個人の気持ち。心性が集団の枠を指すのに対し、こちらは一人の内面一字違いで層がまるで違うので、評論文では取り違えないように読む
  • メンタリティ[4]原語のままの形。フランス語 mentalité の訳が「心性」で、もとは同じ語カタカナだと個人にも使えるようになるのが面白いところで、訳語のほうが射程が狭く保たれている
  • 精神性せいしんせい[0]紛らわしい語物質に対する精神の側面を指し、しばしば価値の高さを含意する(精神性の高い作品)。心性は価値中立で、高い低いを言わない
コロケーション
  • 時代の心性最も多い形ある時代の人々が共有する感じ方。この結びつきが要るのは、心性が単独では誰のものか分からないからだ。必ず「誰の」を添える。時代、民衆、都市、農村 — 修飾語がこの語の輪郭を作っている
  • 心性史分野の名制度や事件ではなく感じ方の歴史を扱う分野。この分野が生まれたのは、政治史だけでは人の生が見えないと分かったからだ。1-7 の 152 のアカデミズムが対象を広げていく過程の一例としても読める。
  • 心性の変容変化を書く語感じ方が時間をかけて変わること。「変化」ではなく「変容」が選ばれるのは、いつ変わったか特定できないからだ。気づいたら別のものになっている — 1-6 の 140 の均質化と同じ、誰も意図していない変化である。
  • 心性に根ざす深さを言う形制度や理屈より深いところにあるという主張。この言い方には注意が要る — 「心性に根ざす」と言えば説明が終わると思われかねない。心性そのものも作られたものである以上、そこで止めずに何が作ったかまで問うのが筋である。
硬・学術

論文・評論でのみ使う。会話では不自然。

類語と差
  • 心情そのときの気持ち一時的な感情。心性は持続する型。
  • 気質生まれつきの性質個人に属し、変わりにくい。心性は集団にも時代にも使える。
  • メンタリティーものの感じ方の傾向外来語。ほぼ同義。心性はその訳語として学術文で使う。
  • エートス持続的な内面性・習慣☑34 の対語。倫理的な含みが強い。心性は感じ方全般。

ENmentality
ZH心性(心性, xīnxìng)

12読解

固執こしつ

こしつ[0]平板型

語構成
かたいとらわれる・とる

読みは「こしつ」。「こしゅう」は慣用読み。

使用の境界

一つの考えややり方にとらわれ、変えようとしないこと。強い意志で貫くこととは違う。

用法

読みが問われる語で、「こしつ」が標準、「こしゅう」は慣用読みである。要点は常に否定的だという点にあり、同じ内容を肯定的に言えば「堅持」「信念を貫く」になる。したがってこの語が使われている時点で、書き手はその態度を批判している。入試文の「並ぶもののない神話的存在に固執する心情」も、その執着の理由を分析する構えで書かれている。近年「こだわる」が肯定語として広まったため、固執との差が開いた。

用例
  • 一芸に達すれば、諸芸に通ず。……ただし、一つの型に留まりて出でざるは、花を失ふ道なり。世阿弥『花鏡』(1424)の主旨による
    固執がなぜ危ういのかを技芸の側から言った一節である。(1-5 で同じ書の別の箇所を引いた。)世阿弥の言う「花」は観客にとっての新鮮さだ。同じ型を極めても、観客がそれに慣れれば花は消える。注目したいのは、技が落ちるとは言っていないことである。技は上がり続けるのに花は失われる。ここに固執の恐ろしさがある — 本人の側には何の問題も起きない関係の側でだけ価値が失われる。2-2 の 10 の倦怠が受け手の側から同じ事態を言った語だとすれば、固執は作り手の側から見た同じ事態である。
  • 愚者は、自分が賢いと思い込んでいる。賢者は、自分が愚かであることを知っている。ウィリアム・シェイクスピア『お気に召すまま』第五幕(1599頃)/訳は本教材
    固執の自己言及的な性質を突いた一句である。(1-1 で『論語』為政篇の「知らざるを知らずと為す」を引いた。洋の東西で同じことが言われている。)要点は、固執している当人には固執が見えないことだ。見えていればそれはもう固執ではなく選択である。だから「私は固執していない」という確信ほど当てにならない。ここから実際的な帰結が出る — 固執は内省では見つからず、他者の反応でしか検出できない。2-1 の 01 の他者が自己にとって不可欠であるという主張の、最も実用的な現れがこれだ。
  • 筆者は写実という様式に固執せず、対象に応じて描き方を変えた。 否定形で使うのが自然な語である。「固執する」はほぼ批判だが、「固執しない」は柔軟さの称賛になる。肯定形と否定形で評価が反転するため、文中の形をよく見たい。
  • ×自分の信念に固執して最後まで貫いた。 ほめる文脈では使わない。貫いたことを評価するなら「堅持」「貫徹」である。固執には周囲が見えていない、状況が変わっても改めないという否定の含みが必ず付く。なお読みは「こしつ」が本則、「こしゅう」は古い読み。評論文では「こしつ」。
派生形
  • 執着しゅうちゃく[0]仏教語離れられない心を指し、苦の原因とされる。固執が判断や方法に向くのに対し、執着は物や人にも向く。対象の範囲が広い
  • 偏執へんしゅう[0]より病的な語。「偏執狂」の形で使われる。「へんしつ」とも読む。固執が誰にでも起きうるのに対し、偏執は常軌を逸しているという含みを持つ。強さの段階が語で分かれている
  • 拘泥こうでい[0]細かいことにこだわる。「拘泥しない」の形で否定と結んで使うことが多い。固執が大きな方針にも使えるのに対し、拘泥は些事に限られる。対象の大きさで使い分ける。
コロケーション
  • 〜に固執する基本の形助詞は「に」。目的語には本来は手段であるはずのものが来ることが多い — 形式、手続き、様式、前例。目的に固執するとはあまり言わない手段が目的化したときにこの語が出る — 1-7 の 145 のシステムの自己目的化と同じ事態を人の側から言った形である。
  • 形式への固執最も多い組み合わせ中身よりやり方を優先すること。この結びつきが批判になるのは、形式そのものは悪くないからだ。形式は公平さを担保する装置でもある。何のための形式かを見失ったときだけ固執になる — 10 の担保と一対で読みたい。
  • 固執と一貫性紙一重の対外から見ると区別がつかない。差は状況が変わったときに変えられるかにある。一貫性は原理を保つことで、固執は形を保つこと。原理を保つために形を変えることはしばしば必要になる。
  • 固執を解く外からしかできない12 で見たとおり、本人には固執が見えない。だから解くきっかけはつねに外から来る。批評も、失敗も、他者の視線も、すべてこの働きをしうる2-1 の 12 の契機という語が指していたのは、まさにこの外からの一撃である。

書き言葉・会話の両方で使える。

類語と差
  • 執着離れられずにとらわれる対象への思いの強さ。固執は変えないという態度。
  • こだわる細部まで妥協しない近年は肯定的にも使う。固執は否定的に固定している。
  • 堅持方針をしっかり保つ肯定語。同じ状態を別の評価で言い直したもの。
  • 頑固考えを改めない性質性格の記述。固執は個々の場面での態度。

ENobstinacy / to cling to
ZH固执(頑固だ, gùzhí)

日中のズレ

中国語の 固执(gùzhí)は「頑固だ」という形容詞で、人の性質を言う(他很固执)。

日本語の「〜に固執する」という動詞用法は中国語にはなく、坚持(jiānchí)や 执着于 を用いる。

格による分布硬・学術、硬、中の三段階に本節の語を振り分けた図。 硬・学術 4 アウラ 公共性 通底 心性 2 媒介 唯一性 6 複製 大衆化 デフォルメ 代替 担保 固執 語は意味ではなく格で選ぶ
格による分布
入試にチャレンジ

掛け替えのなさを、どこで担保するか

掛け替えのなさの担保複製と交換が広がる社会で、芸術作品の掛け替えのなさを確認することが、自分自身の掛け替えのなさの裏づけになる構造を示した図。 大抵のものは複製可能・交換可能である 「私」の掛け替えのなさが揺らぐ 交換不可能な「傑作」という神話をつくる 国宝・オリジナルな傑作 担保 国宝の掛け替えのなさを確認することで、自らの存在の大切さを担保する。 崇めているのは作品ではなく、自分の掛け替えのなさである
掛け替えのなさの担保 ── 芸術から「私」へ
本文

この世の中の大抵のものは複製可能であり、交換可能である。しかし、それでは掛け替えのないはずのこの「私」が揺らいでしまうからこそ、私たちは、市場において交換可能な商品の上に、交換不可能な、掛け替えのない芸術上の傑作という神話世界をつくろうとする。市場に支配される現代社会において、並ぶもののない神話的存在に固執する心情は、自らの掛け替えのなさを追認してもらいたいという私的な動機と通底している。さすがに国宝の壺にまでなれば、掛け替えがないものと認識されるだろう。国宝を盲目的にあがめる心性の中には、自己愛が隠れている。博物館の中で「国宝」の札を見て賞賛の笑みを浮かべる鑑賞者を、単に権威主義とかスノッブの呼称で片づけてはいけない。私たちは、国宝の壺の掛け替えのなさを確認することで、自らの存在の大切さを担保しようとするのである。

一九三六年に発表されたヴァルター・ベンヤミンの論文「複製技術時代の芸術作品」が今日でも影響力を持ち続けているという事実の背景には、単に芸術作品の本質に人々が関心を持ち続けているというだけではなく、何もかもが複製され、代替可能なものにかえられていく現代社会において、「私」の掛け替えのなさを救いたいという人々の無意識のうちの動機づけがあるのかもしれない。

最高の完成度をもつ複製の場合でも、そこには〈ひとつ〉だけ脱け落ちているものがある。芸術作品は、それが存在する場所に、一回限り存在するものなのだけれども、この特性が、いま、ここに在るという特性が、複製には欠けているのだ。

ベンヤミン『複製技術時代の芸術作品』

私たちは、上の文章の「芸術作品」を、「私」と読み替えてみることもできる。「私」が「いま、ここに在る」という特性が、複製には欠けている。ベンヤミンの文章が私たちを安心させるとすれば、その背後には、複製技術の発達に伴って脅かされる私たち一人一人の掛け替えのなさがあるのである。

デジタル情報技術が進展することによって、ベンヤミンが問題にした複製技術の影響力は、ますます強まっているように思われる。実際、現代美術においては、それまであった「オリジナル」と「複製」という区別自体がすでに意味を持たなくなってきている。

もっとも、現代美術のコアの部分をのぞいた一般社会では、古典的な意味での「オリジナルな傑作」という神話は、一定の力を持ち続けている。さらに、複製することのできない、掛け替えのない「私」という神話は、私たちの世界観の中にしっかりと根付いているように思われる。

出典 茂木健一郎『脳のなかの文学』 / 出題 愛知教育大学

アウラの喪失唯一のオリジナルに宿るアウラが、複製可能になることで失われる過程を示した図。 オリジナル 作品 アウラ いま、ここにしかない 芸術家と時代の精神 複製技術 複製複製複製 複製複製複製 誰もがいくらでもつくれる アウラは失われる 失われるのは価値ではなく、「いま、ここ」という一回性である
アウラの喪失(再掲)── 脱け落ちる〈ひとつ〉
ヒント

複製・交換可能な芸術作品に、掛け替えのない芸術上の傑作という神話世界をつくろうとする理由。

傍線部のように考えられるのはなぜか。句読点を含めて五十字以内で答えよ。(オリジナル問題)

正解と解説

(例)芸術作品の掛け替えのなさを確認することで、人々は自らの掛け替えのなさを担保(保証)しようとするから。

「オリジナルな傑作」とは「交換不可能な、掛け替えのない芸術上の傑作」を指す。なぜそのような神話世界をつくろうとするのかというと、自らの掛け替えのなさを救いたいという意識などがあるためである。

Output

産出

やるなら ── 次のいずれかを一段落で書く。

  • 自分にとって代替不可能なものを一つ挙げ、なぜ代替できないのかを書く
  • 同じ内容を活字と映像で受け取った経験を一つ挙げ、何が違ったかを書く
Blank

複製できないことが掛け替えのなさの根拠なのだとすれば、完全に複製できる存在は、掛け替えがないと言えなくなるのか。