Theme 2-3

メディア・芸術げいじゅつ論ろん

[ 原げん書しょ 第だい2部ぶ テーマ編へん 2-3 ]

加筆かひつ語彙ごい 12 / Key Point 2 / 図版ずはん 10

Macro — 論ろんの流ながれ

メディアが変かわれば、芸術げいじゅつも変かわる

メディアと芸術の二つの歴史音声から電子メディアへ至るメディアの歴史と、宗教的な芸術から複製芸術・大衆化へ至る芸術の歴史を並べた図。 メディアの歴史 芸術の歴史 音声メディア 文字メディア 印刷技術の発達・書籍の普及 活字文化 視聴覚メディア 写真・映画・ラジオ・テレビ マス・メディア 電子メディア インターネット・携帯電話 ソーシャルメディア・電子ブック 宗教的な芸術 神話・絵画・舞踊・建築・彫刻 宗教性を失う 近代芸術 リアリズム・ロマン主義・超現実主義 複製芸術 芸術の大衆化・商品化 サブカルチャーの台頭 漫画・アニメなど 二つの歴史は独立していない。メディアの変化が、芸術の在り方を変えてきた。 複製技術が、芸術から唯一性を奪った
メディアの歴史れきしと芸術げいじゅつの歴史れきし ── 二に列れつに並ならべる

この主題しゅだいは二本にほんの歴史れきしを並ならべて読よむ。左ひだりのメディアは音声おんせいから文字もじ、視し聴覚ちょうかく、マス、電子でんしへと進すすみ、右みぎの芸術げいじゅつは宗教的しゅうきょうてきなものから近代きんだい芸術げいじゅつ、複製ふくせい芸術げいじゅつ、大衆たいしゅう化かへと進すすむ。二に列れつは独立どくりつしていない。メディアの変化へんかが、芸術げいじゅつの在あり方ほうを変かえてきたという因果いんがが、この主題しゅだいの骨格こっかくである。

とくに決定的けっていてきなのが複製ふくせい技術ぎじゅつで、これが芸術げいじゅつから唯一ゆいいつ性せいを奪うばった。そして入試にゅうし文ぶんが示しめすように、その議論ぎろんは芸術げいじゅつから「私わたし」へ読よみ替かえられる。何なにもかもが複製ふくせいされ代替だいたい可能かのうになる社会しゃかいで、掛かけ替かえのない自分じぶんをどう支ささえるか──ここまで来きて主題しゅだいが完成かんせいする。

原げん書しょの本文ほんぶん

四よっつの段階だんかい

メディアと芸術げいじゅつの始はじまり

メディアとは、〈触媒しょくばい・仲立なかだち〉という意味いみである。メディアを、人々ひとびとがコミュニケーションを図ずるための便利べんりなツールだと考かんがえると、まず人々ひとびとの話はなす「言葉ことば」がメディアということになるだろう。

言葉ことばを記号きごう化かした「文字もじ」という便利べんりなメディアができると、手紙てがみなどの形式けいしきを用もちいることにより、これまでその場ば限かぎりのものでしかなかったコミュニケーションが、身近みじかにいない人ひととの間あいだでも可能かのうになった。さらに子こや孫まごへの記録きろくとして、世代せだいを超こえて継承けいしょうされるようにもなる。たとえば『古事記こじき』は、それまで口くちで伝つたえられていた神話しんわを文字もじに変換へんかんして残のこした日本にほん最古さいこの歴史れきし書しょだ。

芸術げいじゅつも、神かみや人間にんげんとのコミュニケーションのための手段しゅだんという性格せいかくをもっている。たとえばラスコーなどの洞窟どうくつ壁画へきがでは、獲物えものとなる動物どうぶつの絵えがクロマニョン人ひとによって描えがかれているが、それは神かみや動物どうぶつへの祈いのり・交こう信しんという宗教的しゅうきょうてきな意味いみ合あいも含ふくまれていたのだろう。

絵画かいがと写真しゃしんとの比較ひかく

報道ほうどう写真しゃしん・テレビのニュース・インターネット画像がぞうなど、日常にちじょうには、大量たいりょうの写真しゃしんや映像えいぞうがあふれている。だが、写真しゃしんは十九じゅうきゅう世紀せいきに発明はつめいされたため、写真しゃしんや映像えいぞうは現代的げんだいてきな情報じょうほうであり、絵画かいがとは根本的こんぽんてきに異ことなる性質せいしつを有ゆうする。

絵画かいがと写真しゃしんの比較ひかくをしてみよう。(近代きんだい)絵画かいがとは、一人ひとりの画家がかの眼めにとらえられた現実げんじつが、キャンバスに表現ひょうげんされたものだ。しかし、画家がかの眼めは、目めの前まえにあるすべてのモノを見みているわけではない。人間にんげんの視覚しかくは、主体しゅたいの興味きょうみや関心かんしんによって見みるモノを選択せんたくするからだ。絵画かいがは、描えがく主体しゅたいの手てによって現実げんじつがデフォルメ(変形へんけい)されていると言いえるだろう。そのような意味いみでは、絵画かいがを始はじめとする芸術げいじゅつは一種いっしゅのフィクション(虚構きょこう)で、リアリズム・ロマン主義しゅぎ・超ちょう現実げんじつ主義しゅぎという区分くぶんも、デフォルメの程度ていどに基もとづくと考かんがえることもできる。

一方いっぽうで写真しゃしんは、「意味いみ」を一切いっさい剥はぎ取とって、カメラの前まえにあるモノすべて、我々われわれの意識いしきしないモノまでも写うつしてしまう。加くわえてカメラのレンズは、絵画かいがよりも、はるかに客観的きゃっかんてきに現実げんじつを再現さいげんすることに成功せいこうしたのである。

絵画と写真の違い主体の関心によって選び取られる絵画と、意識しないものまで写す写真の違いを示した図。 絵画 目の前のすべて 選択 興味・関心 デフォルメされた現実 一種のフィクション 描く主体の手が入る 写真 レンズ 意味を一切剥ぎ取る 意識しないものまで写る 選ぶのが絵画、選ばないのが写真 ── ここに客観性の差が生じる
選えらぶのが絵画かいが、選えらばないのが写真しゃしん
デフォルメの程度による様式の区分リアリズムからロマン主義、超現実主義へと、現実の変形の度合いが増していく軸を示した図。 デフォルメの程度 小さい 大きい リアリズム 見えるままに近く ロマン主義 感情と想像力を通す 超現実主義 現実の枠を外す 別々の様式ではなく、一本の軸の上の位置として捉え直せる
様式ようしきの区分くぶんを、一本いっぽんの軸じくに置おき直なおす

マス・メディアと現代げんだい社会しゃかい・現代げんだい芸術げいじゅつ

近年きんねんの入試にゅうしでは、「メディアの過去かこ・現在げんざい・未来みらいの比較ひかく」というテーマが扱あつかわれる。テレビに代表だいひょうされる映像えいぞうメディアを、本ほん・雑誌ざっし・新聞しんぶんなどの活字かつじメディアと比くらべて批判ひはんするというものが多おおい。

身近みじかな批判ひはんとしては、若者わかものの活字かつじ離はなれによって、「言語的げんごてきな自己じこ表現ひょうげん力りょくや論理的ろんりてきな思考しこう能力のうりょくが低下ていかした」というものだ。また、マス・メディアとしての映像えいぞう文化ぶんかは、活字かつじに比くらべて、一度いちどに大量たいりょうの情報じょうほうをわかりやすいイメージとして我々われわれに与あたえるため、論理的ろんりてき思考しこうが培つちかわれなくなっているという指摘してきもされている。

さらに、マス・メディアの発達はったつは、芸術げいじゅつの大衆たいしゅう化かを促うながし、漫画まんがやアニメといったサブカルチャーの台頭たいとうを推すいし進すすめた。

活字メディアと映像メディア活字と映像を、情報量・受け取り方・育つ能力の三点で比較した図。 活字メディア 映像メディア 少しずつ順に一度に大量に 読み解く手間がいるわかりやすいイメージ 論理的な思考直観的な把握 よくある批判 活字離れによって、言語的な自己表現力や論理的な思考能力が低下した。 この対比表そのものが、活字の側から描かれている
活字かつじメディアと映像えいぞうメディア

電子でんしメディアの行方ゆくえ

現在げんざいでは、映像えいぞうも活字かつじも合あわせて、メディアそのものを問とい直なおす考かんがえも出だされている。電子でんしメディアの登場とうじょうは、情報じょうほうの発信はっしんと受信じゅしんのあり方かたを根底こんていから変かえてしまった。

情報じょうほうの発信はっしん側がわは、これまではマス・メディアや知識人ちしきじんに独占どくせんされていたが、インターネットの普及ふきゅうにより、個人こじんが容易よういに発信はっしん主体しゅたいになり得うるようになったのである。

また、電子でんしメディアは、活字かつじも映像えいぞうも自じ在ざいにミックスする。新あらたなメディアの出現しゅつげんによって、我々われわれのリアリティーは、活字かつじと映像えいぞうの時代じだいから大おおきく変かわりつつあり、いまやインターネットは、利用者りようしゃの単たんなる道具どうぐというよりも利用者りようしゃの居場所いばしょ・活動かつどう空間くうかんになっているのだ。

さらに、携帯電話けいたいでんわやスマートフォンの普及ふきゅう、ツイッターやフェイスブックなどのソーシャルネットワーク(SNS)の隆盛りゅうせいは、人々ひとびとに他者たしゃとのつながりを強制きょうせいし、相互そうご監視かんしシステムを厳きびしくするという危惧きぐがあるが、新あたらしい公共こうきょう性せいを自じ主しゅ的てきに築きずき上あげる可能性かのうせいも指摘してきされている。

発信と受信の構造が変わるマス・メディアが発信を独占していた一方向の構造から、個人が発信主体になりうる双方向の構造への変化を示した図。 マス・メディアの時代 発信側 知識人・報道機関 受信するだけ 一方向・独占 電子メディアの時代 誰もが発信主体になりうる 相互監視が厳しくなるという危惧 新しい公共性を築く可能性 評価は一方に決まっていない
発信はっしんと受信じゅしんの構造こうぞうが変かわる
Key Point

二ふたつの要点ようてん

Key Point 1 ── 複製ふくせい芸術げいじゅつ

複製ふくせいとは〈コピー〉と同おなじ意味いみで、複製ふくせい芸術げいじゅつとは〈写真しゃしんや映画えいがなどの「コピー可能かのうな芸術げいじゅつ」〉を指さす。エレクトロニクスを中心ちゅうしんとしたテクノロジーの発達はったつが、複製ふくせい技術ぎじゅつの発達はったつを促うながした。

過去かこの芸術げいじゅつは、特定とくていの芸術げいじゅつ家かがつくった、世界せかいに一ひとつしかないオリジナルな(独創どくそう的てきな)作品さくひんであり、「いま、ここにしか存在そんざいしないという唯一ゆいいつ性せい(オリジナリティー)」があった。だが、複製ふくせい芸術げいじゅつはそうしたオリジナリティーを奪うばってしまう。誰だれもがいくらでもつくることが可能かのうだから、芸術げいじゅつの権威けんいを失墜しっついさせてしまうのである。

また、オリジナルな作品さくひんから伝つたわる芸術げいじゅつ家かの精神せいしんやそれがつくられた時代じだいの精神せいしんを感かんじさせるものをアウラ(AURA=オーラ)と言いうが、いくらでもコピーが可能かのうとなった複製ふくせい芸術げいじゅつは、アウラを失うしなうことになる。

アウラの喪失唯一のオリジナルに宿るアウラが、複製可能になることで失われる過程を示した図。 オリジナル 作品 アウラ いま、ここにしかない 芸術家と時代の精神 複製技術 複製複製複製 複製複製複製 誰もがいくらでもつくれる アウラは失われる 失われるのは価値ではなく、「いま、ここ」という一回性である
アウラの喪失そうしつ
Key Point 2 ── 電子でんしブックをどう評価ひょうかするか

最近さいきんは、電子でんしブックの将来しょうらいについても多おおく論ろんじられる。グーテンベルグ(一いち三さん九きゅう八はち頃ころ〜一いち四よん六ろく八はち年ねん)の活版かっぱん印刷いんさつ術じゅつが聖書せいしょの普及ふきゅうをもたらし、宗教しゅうきょう革命かくめいを促うながしたように、電子でんしブックの登場とうじょうも人々ひとびとの生活せいかつや文化ぶんかに大おおきな影響えいきょうを及およぼし、紙かみの本ほんは消きえるかもしれない。

だが、電子でんしブックの未来みらいについては、電子でんしメディアに対たいする意見いけんと同様どうように賛否さんぴ両論りょうろんがある。電子でんしブックはインターネットから配信はいしんされる情報じょうほうでしかなく、書物しょもつのもつ厚あつみや重おもさがない。読よみ終おえた時ときの手て応こたえもないから、「一冊いっさつの本ほんとの出会であい」という体験たいけんが得とくられなくなる。

その一方いっぽう、電子でんしブックの普及ふきゅうで、書物しょもつの価値かちが見み直なおされるということも考かんがえられる。たとえば、書物しょもつの装そう丁ていやレイアウトに一種いっしゅの芸術げいじゅつ的てき価値かちを見み出だすことがある。また、電子でんしブックで内容ないようを一通ひととおり読よんで気きに入はいったなら、自分じぶんの趣向しゅこうで自分じぶんだけの書物しょもつをつくり保存ほぞんするといったような試こころみも可能かのうになるのかもしれない。

電子ブックの賛否電子ブックが書物の体験を失わせるという見方と、逆に書物の価値を見直させるという見方を並べた図。 電子ブックの登場 失われるという見方 厚みも重さもない 読み終えた手応えがない 「一冊の本との出会い」が消える 見直されるという見方 装丁とレイアウトの価値 自分だけの書物をつくる 書物が芸術として再発見される 活版印刷が宗教革命を促したように、変化は文化の側にも及ぶ
電子でんしブックの賛否さんぴ
Terms — 本ほんサイトによる加筆かひつ

この主題しゅだいを読よむための十二じゅうに語ご

原げん書しょのキーワード番号ばんごうは付ふされていない層そうである。概念がいねん語ご八やっつと、本文ほんぶん・入試にゅうし文ぶんに現あらわれる読解どっかい語彙ごい四よっつを補おぎなう。

01概念がいねん

媒介ばいかい

ばいかい[0]平板へいばん型がた

語ご構成こうせい
媒ばいなかだち+介すけあいだにたつ
使用しようの境界きょうかい

二ふたつのものの間あいだに立たって結むすびつけること。結むすびつけるだけでなく、通とおる過程かていで何なにかが変かわることを含ふくむ。

用法ようほう

メディアの語源ごげんは〈触媒しょくばい・仲立なかだち〉である。この主題しゅだいで重要じゅうようなのは、媒介ばいかいが単たんなる通とおり道みちではないという点てんにある。言葉ことばを通つうせばその場ば限かぎりだったやりとりが世代せだいを超こえ、写真しゃしんを通つうせば意識いしきしていないものまで写うつる。つまり何なにを媒介ばいかいにするかで、伝つたわるものが変かわる。「メディアはメッセージである」(マクルーハン)はこの含ふくみを一文いちぶんにしたものである。「〜に媒介ばいかいされる」という受身うけみ形けいが評ひょう論文ろんぶんの定型ていけいで、直接ちょくせつに見みえているものが実じつは何なにかを経由けいゆしている、という指摘してきに使つかわれる。

用例ようれい
  • 真しんなるものは全体ぜんたいである。……直接的ちょくせつてきなものはまだ真しんではない。媒介ばいかいを経へて自分じぶんへ還かんってきたものだけが真しんである。ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル『精神せいしん現象学げんしょうがく』序文じょぶん(1807)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    媒介ばいかいという語ごの哲学てつがくでの位置いちを示しめす一節いっせつである。(1-5 の 113 と 2-1 の 12 で同おなじ序文じょぶんの別べつの箇所かしょを引ひいた。否定ひていを通とおり抜ぬけるというあの運動うんどうの、通とおり道みちにあたるのが媒介ばいかいだ。)要点ようてんは「直接的ちょくせつてきなものはまだ真しんではない」である。常識じょうしきでは逆ぎゃくだろう — 間あいだに何なにも挟はさまないほうが正ただしく伝つたわるはずだ。ヘーゲルはそれを否定ひていする。何なにも挟はさまないものは、まだ何なにも言いえていない。「これ」と指さすだけでは何なにも規定きていできず、言葉ことばという媒介ばいかいを通とおしてはじめて内容ないようを持もつ。メディア論ろんがこの語ごを借かりるのは、媒介ばいかいは失うしなわれた直接ちょくせつ性せいの代用だいよう品ひんではないと言いいたいからである。
  • 書物しょもつは、死しんだ人ひとの言葉ことばを生いきている人ひとに伝つたえる。……我々われわれは、会あうことのない人ひとと書物しょもつを通とおして語かたり合あう。フランチェスコ・ペトラルカ 書簡しょかん(14世紀じゅうよんせいき)の主旨しゅしによる/訳やくは本ほん教材きょうざい
    媒介ばいかいがもたらすものを、損失そんしつではなく獲得かくとくの側がわから言いった一節いっせつである。2-2 の 05 で見みたプラトンは文字もじが記憶きおくを殺ころすと書かいた。ペトラルカは同おなじ文字もじについて時間じかんを越こえさせると言いう。注目ちゅうもくしたいのは、両方りょうほうとも正ただしいことだ。文字もじはその場ばの生いきた声こえを失うしなわせ、同時どうじに千せん年後ねんごの読者どくしゃを獲得かくとくさせる。媒介ばいかいはつねに何なにかを落おとし、何なにかを可能かのうにする — この差さ引ひきを個別こべつに測はかるのがメディア論ろんの仕事しごとである。「失うしなわれた」だけを書かく議論ぎろんも、「便利べんりになった」だけを書かく議論ぎろんも、片側かたがわしか見みていない。
  • あらゆる経験けいけんは何なにかに媒介ばいかいされている。直接ちょくせつそのものに触ふれているという感覚かんかくこそが、媒介ばいかいがうまく働はたらいている証拠しょうこである。 この主題しゅだいの中核ちゅうかくである。媒介ばいかいが透明とうめいに見みえるときほど、媒介ばいかいは強つよく働はたらいている。眼鏡めがねが見みえなくなったとき眼鏡めがねは最もっともよく働はたらいており、その見みえなさが批評ひひょうを難むずかしくする。2-2 の 06 の媒体ばいたいと同おなじ構造こうぞうを、働はたらきの側がわから言いった形かたちだ。
  • ×友人ゆうじんが二人ふたりの間あいだを媒介ばいかいしてくれた。 人ひとが間あいだに立たつなら「仲介ちゅうかい」「仲立なかだち」である。評ひょう論語ろんごの媒介ばいかいは認識にんしきや経験けいけんが何なにかを経由けいゆして成なり立たつという構造こうぞうを指さす語ごで、人ひとの仲立なかだちには使つかいにくい。なお化学かがくの「媒介ばいかいする」(触媒しょくばい・病原体びょうげんたいの媒介ばいかい)はまた別べつの定着ていちゃくした用法ようほうである。
派生はせい形けい
  • 媒体ばいたい[0]2-2 の 06 で立たてた語ご。媒介ばいかいが働はたらきを指さすのに対たいし、媒体ばいたいは間あいだに立たつ物ものを指さす。働はたらきと物ものを書かき分わけられると、メディア論ろんの文章ぶんしょうがずいぶん読よみやすくなる。
  • 媒介項ばいかいこう[0]論理学ろんりがくの語ご。三さん段だん論法ろんぽうで二ふたつの前提ぜんていをつなぐ語ご。「人間にんげんは死しぬ/ソクラテスは人間にんげんだ」の「人間にんげん」がそれ。結論けつろんには現あらわれずに消きえるのが媒介ばいかい項こうの性質せいしつで、媒介ばいかいの透明性とうめいせいの論理学ろんりがく版はんである。
  • 無媒介むばいかい[2]否定ひてい形けい。「無む媒介ばいかいに結むすびつける」は途中とちゅうを飛とばして短絡たんらくしているという批判ひはんになる。ヘーゲル以来いらいの語ご法ほうで、評ひょう論文ろんぶんでは論ろんの飛躍ひやくを指摘してきする語ごとして働はたらく。
コロケーション
  • 直接ちょくせつ性せいと媒介ばいかい対たいでのみ働はたらく語ごこの二に語ごは片方かたほうだけでは意味いみをなさない。重要じゅうようなのは、「直接ちょくせつ」と感かんじられるものがすでに媒介ばいかいされているという主張しゅちょうである。生せいの声こえも、空気くうきと耳みみと言語げんごを経由けいゆしている。媒介ばいかいゼロの経験けいけんは存在そんざいしない — だから問といは「媒介ばいかいがあるか」ではなく「どんな媒介ばいかいか」になる。
  • 媒介ばいかいの透明性とうめいせい見みえないことの効果こうかよく働はたらく媒介ばいかいほど存在そんざいを感かんじさせない。この性質せいしつが批評ひひょうで問題もんだいになるのは、見みえないものは疑うたがえないからだ。写真しゃしんは「そのまま写うつしっている」と感かんじられるぶん、絵えより強つよく事実じじつとして通とおる。透明とうめいさは中立ちゅうりつさではない。
  • 媒介ばいかいの不在ふざいという幻想げんそう批評ひひょうの一手いって「ありのまま」「生せいの」「素その」— これらの語ごが出でてきたら、そこに媒介ばいかいが隠かくれていると見当けんとうをつける。1-5 の 90 の客観きゃっかんが同おなじ罠わなを抱かかえていたのとまったく同おなじ構造こうぞうである。透明とうめいを名乗なのる位置いちほど疑うたがうのが読解どっかいの基本きほんになる。
  • 媒介ばいかいするもの技術ぎじゅつを指さす形かたち言語げんご・文字もじ・印刷いんさつ・写真しゃしん・電波でんぱ・回かい線せん。この一覧いちらんを並ならべると歴史れきしが見みえる。媒介ばいかいの技術ぎじゅつが変かわるたびに、何なにが伝つたえられ何なにが落おちるかが変かわる。02 の複製ふくせいと 05 の大衆たいしゅう化かは、この一覧いちらんのある一段いちだんで起おきたことを扱あつかっている。
格かく硬かた

書かき言葉ことば。会話かいわでは不自然ふしぜん。

類るい語ごと差さ
  • 仲介ちゅうかい当事者とうじしゃの間あいだを取とりもつ人ひとが行おこなう行為こうい。媒介ばいかいは物ものや仕組しくみが果はたす働はたらきも含ふくむ。
  • 手段しゅだん目的もくてきを果はたすための方法ほうほう目的もくてきとの関係かんけい。媒介ばいかいは二者にしゃを結むすぶという構造こうぞうを指さす。
  • メディア情報じょうほうを伝つたえるもの外来語がいらいご。日本語にほんごでは報道ほうどう機関きかんを指さすことが多おおい。媒介ばいかいはより一般的いっぱんてきな働はたらきの名な。
  • 直接ちょくせつ間あいだに何なにも挟はさまない対たい概念がいねん。「無む媒介ばいかいに」と言いえば、間あいだに何なにも入はいらないことを強調きょうちょうできる。

ENmediation
ZH媒介(媒介, méijiè)

02概念がいねん

複製ふくせい

ふくせい[0]平板へいばん型がた

語ご構成こうせい
複ふくかさねる+製せいつくる
使用しようの境界きょうかい

同おなじものを何個なんこでもつくること。真似まねて似にせる模倣もほうとは違ちがい、元もとと区別くべつできないものができる点てんを含ふくむ。

用法ようほう

ベンヤミンの「複製ふくせい技術ぎじゅつ時代じだいの芸術げいじゅつ作品さくひん」が背景はいけいにある。要点ようてんは、複製ふくせいそのものではなく複製ふくせいによって何なにが失うしなわれるかにある。過去かこの芸術げいじゅつは世界せかいに一ひとつしかない唯一ゆいいつの作品さくひんであり、そこにアウラが宿やどっていた。誰だれでもいくらでもつくれるようになれば、その権威けんいは失墜しっついする。ただし失うしなわれるのは価値かちではなく「いま、ここ」という一回いっかい性せいである点てんを押おさえる。デジタル技術ぎじゅつの進展しんてんで、現代げんだい美び術じゅつではオリジナルと複製ふくせいの区別くべつ自体じたいが意味いみを失うしないつつある。

用例ようれい
  • 最もっとも完全かんぜんな複製ふくせいにおいてすら、一ひとつのものが欠かけている。すなわち、芸術げいじゅつ作品さくひんの「いま・ここ」、それが存在そんざいする場所ばしょにおける一回いっかいかぎりの現存げんそん在ざいである。ヴァルター・ベンヤミン『複製ふくせい技術ぎじゅつ時代じだいの芸術げいじゅつ作品さくひん』(1936)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    複製ふくせいが何なにを写うつしせないかを正確せいかくに言いい当あてた一節いっせつである。(1-7 の 146 で同おなじ論文ろんぶんの別べつの箇所かしょを引ひいた。あちらは伝統でんとうからの引ひき離はなしを、ここでは欠かけるものの中身なかみを扱あつかっている。)要ようは「いま・ここ」だ。色いろも形かたちも筆致ひっちもすべて写うつしせる。写うつしせないのはそれがそこにずっとあったという事実じじつだけである。これは物ものの性質せいしつではなく歴史れきしだ。複製ふくせいは物ものを写うつすことはできるが歴史れきしを写うつすことはできない。04 の唯一ゆいいつ性せいが見みた目めの問題もんだいではないと言いわれる根拠こんきょがここにある。
  • 技術ぎじゅつは、芸術げいじゅつ作品さくひんを儀ぎ礼れいへの寄き生せいから解とき放はなつ。……そのとき芸術げいじゅつの機能きのうは一変いっぺんする。儀ぎ礼れいにもとづくかわりに、別べつの実践じっせん ── 政治せいじ ── にもとづくようになる。ヴァルター・ベンヤミン『複製ふくせい技術ぎじゅつ時代じだいの芸術げいじゅつ作品さくひん』(1936)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    複製ふくせいの帰結きけつを嘆なげきではなく変化へんかとして書かいた一節いっせつである。(上うえの引用いんようと同おなじ論文ろんぶんの続つづきにあたる。)注目ちゅうもくしたいのは「寄き生せい」という語ごだ。芸術げいじゅつが神殿しんでんや教会きょうかいにあったことを、ベンヤミンは由緒ゆいしょではなく依存いぞんとして書かく。複製ふくせいはその依存いぞんを切きる。ここまでは解放かいほうの物語ものがたりだ。ところが続つづきが厳きびしい — 寄き生せい先さきが儀ぎ礼れいから政治せいじへ移うつるだけである。自立じりつするのではない。実際じっさいこの論文ろんぶんはファシズムが政治せいじを美化びかすることへの警告けいこくで閉とじられる。1-6 の 138 の全体ぜんたい主義しゅぎが複製ふくせい技術ぎじゅつなしには成立せいりつしなかったことを押おさえておきたい。
  • 複製ふくせいが可能かのうになると、作品さくひんはどこへでも行いき、そのかわりどこにも属ぞくさなくなる。 差さ引ひきを一文いちぶんに収おさめる型かたである。到達とうたつ範囲はんいと場所ばしょへの帰属きぞくは交換こうかん関係かんけいにある。05 の大衆たいしゅう化かが前半ぜんはんだけを取とり上あげた語ごだとすれば、03 のアウラは後半こうはんを扱あつかう語ごである。
  • ×この資料しりょうを三さん部ぶ複製ふくせいしてください。 「コピー」「複写ふくしゃ」である。評ひょう論語ろんごの複製ふくせいは原作げんさくと同おなじものが無数むすうに作つくれるようになったこと、およびその帰結きけつを指さす。事務じむ作業さぎょうの名なではない。なお「複製ふくせい技術ぎじゅつ」の形かたちならほぼ確実かくじつにベンヤミンの議論ぎろんを背負せおっていると見みてよい。
派生はせい形けい
  • 複写ふくしゃ[0]写うつし取とる作業さぎょうを指さす実務じつむ語ご。複製ふくせいが同等どうとうの物ものを作つくるのに対たいし、複写ふくしゃは写うつしを取とるだけ。写うつしは原本げんぽんより格かくが下したという前提ぜんていが残のこっている点てんで、複製ふくせいとは含ふくみが違ちがう。
  • 模倣もほう[0]似にせて作つくること。複製ふくせいが機械きかいによる同一どういつ物ぶつの産出さんしゅつなのに対たいし、模倣もほうは人ひとの手てによる別物べつものの産出さんしゅつである。模倣もほうには差さが残のこり、複製ふくせいには残のこらない — この差さが芸術げいじゅつ論ろんの分わかれ目めになる。
  • レプリカ[1]複製ふくせい品ひん。本物ほんものの代かわりとして公認こうにんされているという含ふくみがある。偽物にせもの(フェイク)とは違ちがい複製ふくせいであることを隠かくさない。隠かくすか名乗なのるかで、同おなじ物ものの身分みぶんが変かわる。
コロケーション
  • 複製ふくせい技術ぎじゅつ術語じゅつごとしての形かたち写真しゃしん・映画えいが・録音ろくおん・印刷いんさつ。「技術ぎじゅつ」を付つけると個々ここの複製ふくせい行為こういではなく時代じだいの条件じょうけんを指さすようになる。この語ごが示しめすのは、複製ふくせいが例外れいがいではなく標準ひょうじゅんになったという事態じたいの反転はんてんである。いまや原本げんぽんのほうが例外れいがいだ。
  • オリジナルとコピー上下じょうげがある対たいこの対たいには最初さいしょから価値かちの順位じゅんいが入はいっている。ところが複製ふくせい技術ぎじゅつが進すすむと順位じゅんいの根拠こんきょが薄うすれる。写真しゃしんのネガとプリントのどちらが原本げんぽんか。デジタルの画像がぞうにそもそも原本げんぽんはあるのか。対たいそのものが成なり立たたなくなるところまで来きている。
  • 複製ふくせいの氾濫はんらん量りょうが質しつを変かえる語ご同おなじ像ぞうがあまりに多おおく出で回まわること。この結むすびつきが批判的ひはんてきなのは、見飽みあきたものは見みえなくなるからだ。名画めいがも、名所めいしょも、複製ふくせいで先さきに知しっていると実物じつぶつの前まえで何なにも起おきない。複製ふくせいが原本げんぽんの経験けいけんを先さき回まわりして食くうという現代げんだいの逆説ぎゃくせつである。
  • 複製ふくせいされえないもの残余ざんよを問とう語ご複製ふくせい技術ぎじゅつがここまで進すすんでなお写うつしせないものは何なにか。ベンヤミンの答こたえは「いま・ここ」だった。現代げんだいならその場ばに居合いあわせた身体しんたいの経験けいけんと答こたえることもできる。2-2 の身体しんたい論ろんがここで芸術げいじゅつ論ろんと合流ごうりゅうする — 複製ふくせいできないのは身体しんたいのほうだ。
格かく中なか

書かき言葉ことば・会話かいわの両方りょうほうで使つかえる。

類るい語ごと差さ
  • 模倣もほう真似まねてつくる似にせるだけ。元もととの差さが残のこる。複製ふくせいは差さが残のこらない。
  • 再現さいげんもう一度いちど同おなじ状態じょうたいにする一回いっかい性せいを保たもったまま繰くり返かえす。複製ふくせいは同時どうじに複数ふくすう存在そんざいさせる。
  • コピー写うつしをとる外来語がいらいごで日常的にちじょうてき。複製ふくせいはその漢語かんご形けいで、学術がくじゅつ文ぶんに使つかう。
  • 代替だいたい別べつのもので置おき換かえる置おき換かえの可否かひ。複製ふくせいは同おなじものを増ふやすこと。

ENreproduction
ZH复制(複製, fùzhì)

03概念がいねん

アウラ

アウラ[1]頭高あたまだか型がた

使用しようの境界きょうかい

オリジナルな作品さくひんだけが放はなつ、近ちかづきがたい雰囲気ふんいき。作品さくひんの美うつくしさや完成度かんせいどのことではない。

用法ようほう

ベンヤミンの用語ようごで、「いま、ここにしかない」という一回いっかい性せいから立たちのぼるものを指さす。オリジナルな作品さくひんからは、それをつくった芸術げいじゅつ家かの精神せいしんと、つくられた時代じだいの精神せいしんが伝つたわってくる。複製ふくせいにはそれがない。要点ようてんは、アウラは作品さくひんの質しつではなく在あり方ほうに宿やどるという点てんである。だから精せい巧こうな複製ふくせいでも、どれほど美うつくしくてもアウラは持もたない。日常にちじょう語ごの「オーラがある」は人ひとについて言いう用法ようほうで、学術がくじゅつ語ごのアウラとは対象たいしょうが違ちがう。

用例ようれい
  • アウラとは何なにか。空間くうかんと時間じかんの奇妙きみょうな織物おりものであり、どれほど近ちかくにあっても感かんじられる遠とおさの一回いっかいかぎりの現あらわれである。ヴァルター・ベンヤミン『写真しゃしん小しょう史し』(1931)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    アウラの定義ていぎとして最もっともよく引ひかれる一文いちぶんである。要ようは「近ちかくにあっても遠とおい」という矛盾むじゅんした言いい方かただ。距離きょりの話はなしではない。手てを伸のばせば触ふれる位置いちにあるのに、どうしてもこちらのものにならないという感かんじである。2-1 の 02 の他者たしゃ性せいと同おなじ構造こうぞうだと気きづいておきたい — 意いのままにならないことが価値かちになっている。複製ふくせいがアウラを壊こわすのは、複製ふくせいがいつでもどこでも手てに入はいるからだ。手てに入はいるものに遠とおさは宿やどらない。なお「織物おりもの」という比喩ひゆも効きいている — アウラは物ものに付ついているのではなく、物ものと場所ばしょと時間じかんが編あみ合あわさって生しょうじる。
  • 茶室ちゃしつは、一ひとつの床ゆかの間あいだに一ひとつの掛物かけもの、一いち輪わの花はなのほかは何なにも置おかない。……色彩しきさいの重複ちょうふくを避さけ、同おなじ意匠いしょうを二に度どは用もちいない。岡倉おかくら天心てんしん『茶ちゃの本ほん』第だい四よん章しょう(1906)の主旨しゅしによる
    アウラを生しょうじさせる装置そうちとして茶室ちゃしつを読よむと、この一節いっせつが効きいてくる。茶室ちゃしつの作法さほうは徹底てっていして重複ちょうふくを排はいする。なぜか — 二ふたつあれば比くらべられ、比くらべられれば取とり替かえ可能かのうになるからだ。一ひとつしか置おかないことでその一ひとつが掛かけ替かえのないものになる。注目ちゅうもくしたいのは、これが自然しぜんに生しょうじるアウラではなく、設計せっけいされた一回いっかい性せいだという点てんである。「一いち期き一会いちえ」も同おなじで、会かいは繰くり返かえせるのに、繰くり返かえせないものとして扱あつかう作法さほうだ。アウラは作つくれる — この事実じじつは、現代げんだいの限定げんてい販売はんばいや一回いっかい性せいの演出えんしゅつを読よむ鍵かぎになる。
  • 複製ふくせい技術ぎじゅつはアウラを消けしたのではなく、別べつの場所ばしょへ移うつした。 単純たんじゅんな喪失そうしつの物語ものがたりを避さける型かたである。絵画かいがからアウラが抜ぬけた一方いっぽうで、ライブ、初版しょはん、直筆じきひつ、「本人ほんにんが使つかっていた」物ものに価値かちが集あつまった。複製ふくせいが容易よういになるほど、複製ふくせいできないものの値あたいが上あがる — 2-5 の経済けいざい論ろんとここでつながる。
  • ×あの俳優はいゆうには独特どくとくのアウラがある。 「オーラ」との混同こんどうである。日本語にほんごの「オーラ」は人ひとが放はなつ雰囲気ふんいきを指さす日常にちじょう語ごで、同おなじ語源ごげんだが別べつの語ごとして扱あつかうのが安全あんぜん。評ひょう論語ろんごのアウラは複製ふくせいと対たいにして一回いっかい性せいを論ろんじる術語じゅつごで、ベンヤミンの議論ぎろんを背負せおっている。複製ふくせいの話はなしが出でてこないなら、それはオーラである。
派生はせい形けい
  • オーラ[1]同おなじ語源ごげんの日常にちじょう語ご。人ひとの雰囲気ふんいきを指さす。ベンヤミンの術語じゅつごとは書かき分わけるのが原則げんそくで、評ひょう論文ろんぶんでは「アウラ」と表記ひょうきして術語じゅつごであることを示しめす。表記ひょうきが定義ていぎを担になう珍めずらしい例れい。
  • 一回性いっかいせい[0]アウラの中身なかみにあたる語ご。二に度どと同おなじことは起おきないという性質せいしつ。04 の唯一ゆいいつ性せいが数かずの一ひとつを言いうのに対たいし、一回いっかい性せいは時間じかんの一度いちどを言いう。空間くうかんの語ごか時間じかんの語ごかが差さである。
  • 聖性せいせい[0]アウラの前身ぜんしん。ベンヤミンによればアウラは礼拝れいはい価値かちの名残なごりである。1-6 の 120 の世俗化せぞくかが進すすんだあとに宗教しゅうきょうから抜ぬけきらずに残のこった気配けはいがアウラだ、と読よむとこの二ふたつの主題しゅだいがつながる。
コロケーション
  • アウラの喪失そうしつ定型ていけいとしての語ご複製ふくせいによって一回いっかい性せいが失うしなわれること。この言いい方かたがほぼつねに喪失そうしつとして語かたられるのは注意ちゅういが要いる — ベンヤミン自身じしんはそれを解放かいほうとも見みていた。語ごが出典しゅってんから離はなれて懐古かいこの道具どうぐになるという例れいで、1-7 の 145 のスミスの「見みえざる手て」と同おなじ経路けいろをたどっている。
  • アウラをまとう生しょうじる側がわの言いい方かた物ものや場所ばしょが近ちかづきがたい気配けはいを帯おびること。「まとう」という和わ語ごが的確てきかくなのは、本体ほんたいではなく外側そとがわにあるものだと示しめせるからだ。脱だつがせることも、着きせることもできる — 天心てんしんの茶室ちゃしつは着きせる側がわの技術ぎじゅつである。
  • 複製ふくせいとアウラ対たいで働はたらく語ごこの二に語ごは片方かたほうが増ふえればもう片方かたほうが減へるという関係かんけいで語かたられる。ただし現代げんだいではその関係かんけい自体じたいが崩くずれているとも言いえる — 複製ふくせいが広ひろまったからこそ原本げんぽんを見みに行いく人ひとが増ふえた。反比例はんぴれいではなく相互そうごに増幅ぞうふくしているという読よみ方かたも成なり立たつ。
  • 人工的じんこうてきなアウラ批判ひはんの語ご限定げんてい・一点いってん物ぶつ・体験たいけん型がた。意図的いとてきに一回いっかい性せいを作つくり出だす手法しゅほう。この語ごが批判的ひはんてきに使つかわれるのは、本来ほんらいは生しょうじるものだったアウラが商品しょうひんの付加ふか価値かちになったからだ。1-7 の 142 の消費しょうひ社会しゃかいが差異さいを売うるという構造こうぞうの、芸術げいじゅつにおける現あらわれである。
格かく硬かた・学術がくじゅつ

論文ろんぶん・評ひょう論ろんでのみ使つかう。会話かいわでは不自然ふしぜん。

類るい語ごと差さ
  • オーラ人ひとが放はなつ独特どくとくの雰囲気ふんいき同どう語ごの日常的にちじょうてきな形かたち。人ひとについて使つかう。アウラは作品さくひんについて使つかう学術がくじゅつ語ご。
  • 唯一ゆいいつ性せいただ一ひとつしかないという性質せいしつアウラが宿やどる条件じょうけん。アウラはそこから立たちのぼる雰囲気ふんいき。
  • 権威けんい価値かちを認みとめて自発的じはつてきに従じゅうわせる力ちから☑10。アウラが失うしなわれれば芸術げいじゅつの権威けんいも失墜しっついする。
  • 崇高すうこう近ちかづきがたく厳おごそかなもの美学びがくの概念がいねん。感かんじる側がわの経験けいけんを言いう。アウラは作品さくひんの側がわに宿やどるとされる。

ENaura
ZH灵光(アウラ, língguāng)

04概念がいねん

唯一性ゆいいつせい

ゆいいつせい[0]平板へいばん型がた

語ご構成こうせい
唯ただただ・それだけ+一いちひとつ+性せいそのような性質せいしつ
使用しようの境界きょうかい

ただ一ひとつしかなく、他ほかのもので置おき換かえられないという性質せいしつ。珍めずらしさや優秀ゆうしゅうさのことではない。

用法ようほう

「いま、ここにしか存在そんざいしない」という言いい方かたで説明せつめいされる。要点ようてんは、唯一ゆいいつ性せいが価値かちの高たかさではなく在あり方ほうを指さすことにある。だから凡庸ぼんような作品さくひんにも唯一ゆいいつ性せいはある。この主題しゅだいの急所きゅうしょは、唯一ゆいいつ性せいが芸術げいじゅつ作品さくひんから人間にんげんへ読よみ替かえられるところにある。複製ふくせいできない掛かけ替かえのない「私わたし」という観念かんねんが、芸術げいじゅつの唯一ゆいいつ性せいへの執着しゅうちゃくを支ささえている。入試にゅうし文ぶんはこの読よみ替かえを正面しょうめんから論ろんじている。

用例ようれい
  • その旅人たびびとは、二に度どと同おなじ川かわに足あしを踏ふみ入いれることはできない。……同おなじ川かわであって、同おなじ川かわではないからだ。ヘラクレイトス 断片だんぺん(前5世紀ぜんごせいき)の主旨しゅしによる/訳やくは本ほん教材きょうざい
    唯一ゆいいつ性せいを物ものではなく時間じかんの側がわから言いった一節いっせつである。(1-2 で同おなじ思想家しそうかの別べつの断片だんぺんを引ひいた。)川かわは同おなじ名なで呼よばれ続つづける。ところが水みずは一瞬いっしゅんごとに入いれ替かわっている。何なにをもって「同おなじ」と言いうのか。この問といを立たてると、唯一ゆいいつ性せいの在ありかが動うごく。物ものとしての川かわに唯一ゆいいつ性せいがあるのではない。その一回いっかいの足あしの踏ふみ入いれ方ほうにあるのだ。ベンヤミンの「いま・ここ」も同おなじ場所ばしょを指さしている。唯一ゆいいつ性せいは物ものに貼はられた札ふだではなく、出会であいの側がわにある — だから複製ふくせいできないし、原本げんぽんを持もっていても保証ほしょうされない。
  • 一いち期きに一度いちどの会かい。かへすがへす念ねん頃ころに、たとへ幾度いくどおなじ主しゅ客きゃく交こう会かいするとも、今日きょうの会かいに再ふたたびかへらざる事ことを思おもへば、実じつに我われ一世いっせい一度いちどの会かいなり。井伊いい直弼なおすけ『茶湯ちゃのゆ一会いちえ集しゅう』(1858頃ころ)
    「一いち期き一会いちえ」という語ごの原典げんてんにあたる一節いっせつである。要ようは「たとへ幾度いくどおなじ主しゅ客きゃく交こう会かいするとも」だ。同おなじ顔かおぶれで何度なんどでも会あえることを認みとめたうえで、それでも今日きょうの会かいには戻もどれないと言いう。ここで唯一ゆいいつ性せいは希少きしょうさではない。一度いちどきりしか会あえない相手あいてなら大切たいせつにするのは当あたり前まえで、何度なんどでも会あえるのに一度いちどきりだと思おもい定さだめるところにこの語ごの要点ようてんがある。唯一ゆいいつ性せいは事実じじつではなく態度たいどだと言いい切きっているのだ。03 のアウラが作つくれるという話はなしとここでつながる。
  • 唯一ゆいいつ性せいは見みた目めの違ちがいにあるのではない。同おなじ物ものが二ふたつあっても、それぞれの来歴らいれきは一ひとつしかない。 この語ごの使つかいどころである。工場こうじょうから出でた同型どうけいの椅子いすも、使つかわれた時間じかんだけは共有きょうゆうできない。2-1 の 04 の固有こゆう性せいと同おなじ場所ばしょを指さしているが、あちらは人ひと、こちらは物ものと作品さくひんに向むけられている。
  • ×この製品せいひんの唯一ゆいいつ性せいは省しょうエネ性せい能のうにあります。 「独自どくじ性せい」「他ほかにない特とく長ちょう」である。唯一ゆいいつ性せいは数かずとして一ひとつしかないことを指さす語ごで、優すぐれた点てんの名なではない。他社たしゃが同おなじ性せい能のうを出だしたら消きえるものなら、それは唯一ゆいいつ性せいではない — 2-1 の 04 で見みた取とり替かえ可能かのうかどうかの判定はんていがそのまま使つかえる。
派生はせい形けい
  • 唯一ゆいいつ[0]「ゆいつ」とも読よむが、「ゆいいつ」が本ほん則そく。「唯ただ」はただ〜のみ。1-4 の 一神教いっしんきょうの「唯一ゆいいつの神かみ」も同おなじ語ごで、比くらべる相手あいてを持もたないという含ふくみまで共通きょうつうする。
  • 固有性こゆうせい[0]2-1 の 04 の語ご。唯一ゆいいつ性せいが数かずの一ひとつを言いうのに対たいし、固有こゆう性せいはそれ自身じしんに備そなえわっている性質せいしつを言いう。唯一ゆいいつ性せいは数かぞえて分わかるが、固有こゆう性せいは数かぞえても分わからない。
  • 真正性しんせいせい[0]本物ほんものであること。文化ぶんか財ざいや観光かんこうの議論ぎろんで使つかわれる語ご。唯一ゆいいつ性せいが「一ひとつしかない」を言いうのに対たいし、真正性しんせいせいは「偽物にせものでない」を言いう。復元ふくげんされた建物たてものは唯一ゆいいつだが真正しんせいではない — この差さが文化ぶんか財ざい論ろんの争点そうてんになる。
コロケーション
  • 掛かけ替かえのなさ和わ語ごでの言いい直なおし代かわりが利きかないこと。2-1 の 04 で見みたとおり、否定ひてい形けいでしか言いえないのがこの概念がいねんの特徴とくちょうである。芸術げいじゅつ論ろんでこの語ごが要いるのは、作品さくひんの価値かちを性質せいしつの一覧いちらんで説明せつめいしきれないからだ。説明せつめいできてしまえば再現さいげんできる。
  • 唯一ゆいいつ性せいの担保たんぽどう保証ほしょうするか何なんによってこれが本物ほんものだと示しめすかという問とい。署名しょめい、鑑定書かんていしょ、来歴らいれき、そして近年きんねんは技術ぎじゅつによる記録きろく。注目ちゅうもくしたいのは、担保たんぽはつねに作品さくひんの外側そとがわにあることだ。作品さくひん自身じしんは自分じぶんが本物ほんものだと言いえない。
  • 唯一ゆいいつ性せいの崩壊ほうかい複製ふくせいの帰結きけつデジタルの複製ふくせいは劣化れっかしない。写うつしと原本げんぽんの区別くべつが原理げんり的てきにつかなくなる。ここで唯一ゆいいつ性せいは物ものからデータの記録きろくへ移うつらざるをえない。唯一ゆいいつ性せいが物ものの性質せいしつから台帳だいちょうの記述きじゅつへ変かわったというこの移動いどうが、現代げんだいの論点ろんてんである。
  • 唯一ゆいいつ無む二に強調きょうちょうの四字よじ語ご唯一ゆいいつを二に度ど言いっている。この重かさね方ほうが生うまれたのは、「唯一ゆいいつ」だけでは弱よわく感かんじられるからだ。日常にちじょう語ごとして摩耗まもうし、広告文こうこくぶんで多た用ようされるようになった。唯一ゆいいつ性せいを売うり文句もんくにする言いい方かたがありふれているという皮肉ひにくが、この語形ごけいに出でている。
格かく硬かた

書かき言葉ことば。会話かいわでは不自然ふしぜん。

類るい語ごと差さ
  • 一回いっかい性せい一度いちどきりであるという性質せいしつ時間じかんの側がわ。唯一ゆいいつ性せいは数かずの側がわ。両者りょうしゃは表裏ひょうりをなす。
  • 固有こゆう性せいそのものだけがもつ性質せいしつ置おき換かえ不可能ふかのうという点てんは共通きょうつうする。唯一ゆいいつ性せいは数かずが一ひとつであることに重心じゅうしんがある。
  • オリジナリティー独創どくそう性せいつくり手ての側がわの性質せいしつ。唯一ゆいいつ性せいは存在そんざいの在あり方ほう。
  • 希少性きしょうせい数かずが少すくないこと経済けいざいの語ご。量りょうの話はなし。唯一ゆいいつ性せいは代替だいたい不可能ふかのう性せいの話はなし。

ENuniqueness
ZH唯一性(唯一性, wéiyīxìng)

05概念がいねん

大衆化たいしゅうか

たいしゅうか[0]平板へいばん型がた

語ご構成こうせい
大衆たいしゅう匿名とくめいの多数たすう+化かそうなる
使用しようの境界きょうかい

限かぎられた人ひとのものだったものが、広ひろく行いき渡わたること。質しつが下さがることを必かならずしも意味いみしない。

用法ようほう

評ひょう論文ろんぶんでは評価ひょうかが二ふたつに割われる語ごである。①限かぎられた特権とっけん層そうのものだった芸術げいじゅつが誰だれにでも届とどくようになった、という肯定こうてい。②数かずが売うれるものだけが残のこり、質しつが下さがった、という否定ひてい。この主題しゅだいではマス・メディアの発達はったつが芸術げいじゅつの大衆たいしゅう化かを促うながし、漫画まんがやアニメといったサブカルチャーの台頭たいとうを推すいし進すすめた、と述のべられる。読解どっかいでは、書かき手てがどちらの評価ひょうかに立たっているかをまず見みる。「通つう俗ぞく化か」と書かけば否定ひていが確定かくていするので、語ごの選えらび方かた自体じたいが立場たちばを示しめす。

用例ようれい
  • 私わたしは、少数しょうすう者しゃのための芸術げいじゅつも、少数しょうすう者しゃのための教育きょういくも、少数しょうすう者しゃのための自由じゆうも望のぞまない。……もし芸術げいじゅつが万人ばんにんのものでないなら、それが何なんになろう。ウィリアム・モリス「民衆みんしゅうの芸術げいじゅつ」(1879)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    大衆たいしゅう化かを要求ようきゅうの側がわから述のべた一節いっせつである。注目ちゅうもくしたいのは三みっつ並ならべた列挙れっきょだ。芸術げいじゅつ・教育きょういく・自由じゆう — いずれも近代きんだいが万人ばんにんに開ひらくと約束やくそくしたものである。モリスはそれを芸術げいじゅつにも同おなじく適用てきようせよと言いっている。芸術げいじゅつだけが例外れいがいである理由りゆうはない、と。この主張しゅちょうはいま読よむと当あたり前まえに聞きこえるが、当時とうじは芸術げいじゅつが特権とっけん階級かいきゅうのものだった。そしてモリス自身じしんは手て仕事しごとにこだわったため、その製品せいひんは高価こうかで、結局けっきょくは富裕ふゆう層そうしか買かえなかった。大衆たいしゅう化かの理念りねんと手段しゅだんの齟齬そごが、この運動うんどうの出発点しゅっぱつてんにすでにある。
  • 民藝みんげいの美びは尋常じんじょうの美びである。……銘めいなきものの美びであり、安価あんかなるものの美びであり、多量たりょうに作つくられたものの美びである。柳宗悦やなぎむねよし『工藝こうげいの道みち』(1928)の主旨しゅしによる
    大衆たいしゅう化かを価値かちの低下ていかと見みない立場たちばである。柳やなぎが並ならべた三みっつの条件じょうけんはいずれも従来じゅうらいなら減点げんてんの理由りゆうだった — 作者さくしゃ名めいが無ない、安やすい、たくさんある。それをそのまま美びの条件じょうけんとして置おき直なおす。注目ちゅうもくしたいのは「多量たりょうに作つくられた」である。02 の複製ふくせいがアウラを壊こわすとされたのに対たいし、柳やなぎは数かずの多おおさが別種べっしゅの美びを生うむと言いう。同おなじものを何千なんぜんと作つくるうちに、作つくり手ての個性こせいが抜ぬけて手てが澄すんでいくからだ。大衆たいしゅう化かは希き釈しゃくでも堕落だらくでもなく、別べつの質しつへの移行いこうでありうる — この見方みかたは1-7 の 141 の大衆たいしゅう社会しゃかい論ろんへの対抗たいこう軸じくとしても読よめる。
  • 大衆たいしゅう化かは開ひらかれることであると同時どうじに、平均へいきんへ引ひき寄よせられることでもある。 両面りょうめんを並ならべる型かたである。1-7 の 141 の派生はせい形けいで見みたとおり、「大衆たいしゅう化か」はほぼつねに両義りょうぎ的てきだ。誰だれでも触ふれられるようになったことと、多おおくの人ひとに届とどく形かたちへ整ととのえられたことは同おなじ出来事できごとの二に面めんである。
  • ×この趣味しゅみも最近さいきんずいぶん大衆たいしゅう化かして、つまらない。 語ごは正ただしいが、判断はんだんが語ごに紛まぎれている。「つまらない」という評価ひょうかは大衆たいしゅう化かそのものからは出でてこない。評ひょう論文ろんぶんでは何なにが失うしなわれ何なにが得とくられたかを書かき分わける。「大衆たいしゅう化かした」と書かいただけで批判ひはんしたつもりになるのが、この語ごの最もっともよくある誤ご用ようである。
派生はせい形けい
  • 大衆たいしゅう[0]1-7 の 141 で立たてた語ご。数かずとして扱あつかわれる側がわの人々ひとびと。「化か」を付つけると人ひとではなく過程かていを指さすようになる。語ごの中心ちゅうしんが人ひとから出来事できごとへ移うつる。
  • 民衆みんしゅう[0]肯定こうていの色いろを持もつ語ご。大衆たいしゅうが受うけ身みで動うごかされる含ふくみを持もつのに対たいし、民衆みんしゅうは担にない手てとして描えがかれる。同おなじ人々ひとびとをどちらの語ごで呼よぶかで、書かき手ての立場たちばが出でる。
  • 通俗つうぞく[0]俗ぞくに通つうじる。もとは分わかりやすいという中立ちゅうりつの意いだったが、現代げんだいではほぼ否定的ひていてき。「通つう俗ぞく小説しょうせつ」「通俗的つうぞくてきな理解りかい」。分わかりやすさが減点げんてんになるという価値かち観かんが語ごに固かたまっている。
コロケーション
  • 芸術げいじゅつの大衆たいしゅう化かこの主題しゅだいでの形かたち限かぎられた者もののものだった芸術げいじゅつが多数たすうに開ひらかれること。複製ふくせい技術ぎじゅつがその条件じょうけんになった。押おさえておきたいのは、開ひらいたのは芸術げいじゅつ家かではなく技術ぎじゅつだということである。誰だれも理念りねんとして開ひらいたわけではない — 1-6 の 140 で見みた意図いとなき変化へんかと同おなじ形かたちだ。
  • 大衆たいしゅう化かと通つう俗ぞく化か書かき分わけたい対たい大衆たいしゅう化かは受うけ手てが増ふえること、通つう俗ぞく化かは中身なかみが薄うすまること。同時どうじに起おきやすいが同おなじではない。この二に語ごを混まぜると議論ぎろんが「昔むかしはよかった」に落おちる。評ひょう論文ろんぶんを読よむときはどちらを言いっているかを確たしかめたい。
  • 大衆たいしゅう化かの担にない手て誰だれが広ひろげたか出版社しゅっぱんしゃ、放送ほうそう局きょく、そしていまは個々ここの投稿とうこう者しゃ。この語ごが要いるのは、広ひろげる仕事しごとにつねに誰だれかが利益りえきを得とくているからだ。大衆たいしゅう化かは善意ぜんいの運動うんどうである前まえに事業じぎょうである — 1-7 の 153 のジャーナリズムの商業しょうぎょう化かと同おなじ層そうにある。
  • 大衆たいしゅう化かへの抵抗ていこう保たもつ側がわの動うごき専門性せんもんせい・格かく式しき・入場にゅうじょう料りょう。間口まぐちを狭せまく保たもつ装置そうち。これを単たんなる特権とっけんの保持ほじと読よむのは早はやい — 間口まぐちを狭せまくすることでしか守まもれない質しつもある。1-7 の 152 の象牙ぞうげの塔とうと同おなじ両義性りょうぎせいがここにも働はたらいている。
格かく中なか

書かき言葉ことば・会話かいわの両方りょうほうで使つかえる。

類るい語ごと差さ
  • 通つう俗ぞく化か分わかりやすく俗ぞくっぽくなる質しつの低下ていかを含意がんいする。大衆たいしゅう化かは広ひろがりの話はなしで、中立ちゅうりつに使つかえる。
  • 普及ふきゅう広ひろく行いき渡わたる数かずの話はなし。大衆たいしゅう化かは担にない手てが変かわることまで含ふくむ。
  • 民みん主しゅ化か権力けんりょくが広ひろく開ひらかれる政治せいじの語ご。同おなじ構図こうずをもつ。
  • 商品しょうひん化か売うり買かいの対象たいしょうになる市場しじょうの話はなし。芸術げいじゅつの大衆たいしゅう化かはしばしば商品しょうひん化かと同時どうじに進すすむ。

ENpopularisation
ZH大众化(大衆化, dàzhònghuà)

06概念がいねん

デフォルメ

デフォルメ[3]中高なかだか型がた

使用しようの境界きょうかい

対象たいしょうの形かたちを意図的いとてきに変かえて表現ひょうげんすること。失敗しっぱいして歪ゆがむことではなく、表現ひょうげんのために選えらび取とった変形へんけいを指さす。

用法ようほう

要点ようてんは、絵画かいがが現実げんじつそのものではないことを示しめす語ごとして使つかわれる点てんにある。画家がかの眼めは目めの前まえのすべてを見みているのではなく、興味きょうみと関心かんしんによって選えらび取とっている。したがって絵画かいがは描えがく主体しゅたいの手てによって現実げんじつが変形へんけいされたものであり、一種いっしゅのフィクションである。この主題しゅだいは、リアリズム・ロマン主義しゅぎ・超ちょう現実げんじつ主義しゅぎという区分くぶん自体じたいをデフォルメの程度ていどの差さとして捉とらえ直なおす。写真しゃしんとの対比たいひを成なり立たたせているのがこの語ごである。

用例ようれい
  • 芸術げいじゅつは自然しぜんを模倣もほうするのではない。……芸術げいじゅつは、見みる人ひとに自然しぜんを新あたらしく見みさせるのである。オスカー・ワイルド『嘘うその衰退すいたい』(1889)の主旨しゅしによる/訳やくは本ほん教材きょうざい
    デフォルメを技法ぎほうではなく芸術げいじゅつの定義ていぎとして扱あつかった議論ぎろんである。ワイルドの主張しゅちょうは極端きょくたんだ — 自然しぜんが芸術げいじゅつを模倣もほうする。ロンドンの霧きりは印象いんしょう派はが描えがくまで誰だれにも見みえていなかった、と。誇張こちょうだが、指さしているものは正確せいかくである。見みえ方かたは与あたえられているのではなく教おしえられる。2-2 の 04 の身分みぶんけが言いうとおり、身体しんたいはすでに世界せかいを分わけているが、その分わけ方ほうは作品さくひんによって書かき換かえられる。デフォルメとはこの書かき換かえの技術ぎじゅつだ。歪ゆがめているのではなく、別べつの分わけ方ほうを提案ていあんしている。
  • 緑色みどりいろの太陽たいようがあっても、僕ぼくはそれを非ひなりと言げんはない。……僕ぼくは芸術げいじゅつ界かいに絶対ぜったいの自由じゆうを求もとめてゐる。高こう村むら光太郎こうたろう『緑色みどりいろの太陽たいよう』(1910)
    デフォルメの許容きょようを日本にほんの近代きんだい美び術じゅつで最初さいしょに宣言せんげんした一文いちぶんである。「緑色みどりいろの太陽たいよう」という例れいの選えらび方かたが巧こうい。太陽たいようは赤あかいか黄色きいろいか — 誰だれもが知しっている。その誰だれもが知しっていることを裏切うらぎるところに例れいを置おいた。注目ちゅうもくしたいのは「非ひなりと言げんはない」という二に重じゅう否定ひていである。「正ただしい」とは言いっていない。「間違まちがいだと断だんじない」と言いっているだけだ。この慎重しんちょうさが重要じゅうようで、デフォルメを何なにでもありにしないための線せんがここに引ひかれている。作者さくしゃの見みえ方かたに真実しんじつ性せいがあるかどうかはなお問とわれる — 自由じゆうは免責めんせきではない。
  • デフォルメは対象たいしょうを歪ゆがめることで、写実しゃじつでは見みえなくなるものを見みえるようにする。 この語ごの定義ていぎである。注意ちゅういしたいのは、写実しゃじつもまた一ひとつの様式ようしきだということだ。遠近法えんきんほうは片目かためで静止せいしして見みた世界せかいを約束事やくそくごととして描えがいている。写実しゃじつとデフォルメの対たいは、正確せいかくさと歪ゆがみの対たいではなく、二ふたつの様式ようしきの対たいである。
  • ×写真しゃしんをデフォルメして顔かおを小ちいさく加工かこうした。 「加工かこう」「補正ほせい」である。デフォルメは表現ひょうげん上じょうの意図いとをもって形かたちを変かえることで、見栄みばえをよくする作業さぎょうとは目的もくてきが違ちがう。デフォルメは見みえなかったものを見みせるために歪ゆがめ、加工かこうは見みせたくないものを隠かくすために歪ゆがめる — 向むきが正反対せいはんたいである。
派生はせい形けい
  • デフォルメする[5]サ変動へんどう詞しとして使つかう。フランス語ご déformer(形かたちを崩くずす)から。原語げんごには否定的ひていてきな色いろがあるが、日本語にほんごでは技法ぎほうの名なとして中立ちゅうりつ化かしている。外来語がいらいごが評価ひょうかを落おとして定着ていちゃくした例れい。
  • 誇張こちょう[0]日本語にほんごでの近ちかい語ご。大おおきく言いう方向ほうこうに限かぎられるのに対たいし、デフォルメは省略しょうりゃく・単純化たんじゅんかも含ふくむ。射程しゃていはデフォルメのほうが広ひろい。なお「誇張こちょう」にはやや否定的ひていてきな含ふくみが残のこる。
  • 抽象ちゅうしょう[0]1-1 の 3 で立たてた語ご。デフォルメを極限きょくげんまで進すすめた先さきにあたる。共通きょうつうの性質せいしつだけを取とり出だすという操作そうさが、絵画かいがでは形かたちの消去しょうきょとして現あらわれる。同おなじ操作そうさが思考しこうと絵画かいがで別べつの名なを持もっている。
コロケーション
  • リアリズムとデフォルメ様式ようしきの対たいこの対たいを正確せいかくさの度合どあいとして読よむと間違まちがえる。どちらも様式ようしきであり、どちらも約束事やくそくごとに従したがっている。写実しゃじつが自然しぜんに見みえるのはその約束事やくそくごとに見み慣なれているからにすぎない。1-3 の 記号きごうの恣意性しいせいが絵画かいがにも及およぶという見取みとり図ずである。
  • デフォルメの度合どあい連続れんぞくとして見みる語ご写実しゃじつから抽象ちゅうしょうまでを一本いっぽんの線せんの上うえに置おく見方みかた。この見方みかたの利り点てんは、対立たいりつではなく程度ていどの差さとして扱あつかえることにある。肖像しょうぞう画がもすでにわずかにデフォルメされている。ゼロの地点ちてんが存在そんざいしないことが、この線せんを引ひくと見みえてくる。
  • 象徴しょうちょうとデフォルメ意味いみを担になわせる形かたちを変かえることで意味いみを運はこぶ手法しゅほう。仏像ぶつぞうの手ての形かたちも、漫画まんがの汗あせの粒つぶも、見みた目めの再現さいげんではなく記号きごうとして働はたらく。1-3 の記号きごう論ろんが絵えの内部ないぶで働はたらいている場面ばめんで、読よみ方かたを知しらないと読よめないという性質せいしつまで共通きょうつうする。
  • デフォルメされた身体しんたいこの主題しゅだいでの焦点しょうてん絵画かいが・彫刻ちょうこく・漫画まんがにおける身体しんたいの変形へんけい。2-2 の 03 の像ぞうとここで直接ちょくせつつながる。押おさえておきたいのは、デフォルメされた身体しんたい像ぞうが現実げんじつの身体しんたい観かんに跳はね返かえることだ。描えがかれ方ほうが見みえ方かたを作つくり、見みえ方かたが2-2 の 11 の美醜びしゅうの基準きじゅんを作つくる。
格かく中なか

書かき言葉ことば・会話かいわの両方りょうほうで使つかえる。

類るい語ごと差さ
  • 変形へんけい形かたちが変かわる訳語やくご。中立ちゅうりつで、意図いとの有無うむを問とわない。デフォルメは意図的いとてきな操作そうさ。
  • 誇張こちょう実際じっさいより大だいげさに言いう・描えがく一方向いちほうこうへ強つよめる。デフォルメは省略しょうりゃくや単純化たんじゅんかも含ふくむ。
  • 抽象ちゅうしょう共通きょうつうする性質せいしつを抜ぬき出だす☑4。捨すてる操作そうさ。デフォルメは形かたちを変かえる操作そうさ。
  • 様式ようしき化か一定いっていの型かたに整ととのえる型かたに合あわせる。デフォルメは型かたがなくても行おこなえる。

ENdeformation
ZH变形(変形, biànxíng)

07概念がいねん

公共性こうきょうせい

こうきょうせい[0]平板へいばん型がた

語ご構成こうせい
公こうおおやけ+共ともともに+性せいそのような性質せいしつ
使用しようの境界きょうかい

誰だれにでも開ひらかれ、共通きょうつうの関心かんしんについて論ろんじ合ごうえる場ばの性質せいしつ。行政ぎょうせいが担になうものとは限かぎらない。

用法ようほう

ハーバーマスの公共こうきょう圏けんの議論ぎろんが背景はいけいにある。要点ようてんは、公共こうきょう性せいが行政ぎょうせいが上うえから与あたえるものではなく、人々ひとびとが論ろんじ合あうことで成なり立たつという点てんにある。だからメディアの話はなしと直結ちょっけつする。かつては新聞しんぶん・雑誌ざっしがその場ばを担にない、いまはSNSがその可能性かのうせいをもつ。この主題しゅだいは、SNSが相互そうご監視かんしを厳きびしくするという危惧きぐと、新あたらしい公共こうきょう性せいを自じ主しゅ的てきに築きずき上あげる可能性かのうせいの両方りょうほうを挙あげており、評価ひょうかを一方いっぽうに決きめていない。読解どっかいでは、この両論りょうろん併記へいきの型かたを押おさえる。

用例ようれい
  • 我々われわれは、政治せいじに関かかわらない者ものを無用むようの人ひとと呼よぶ。……我々われわれは、事ことを決けっするにあたってまず議論ぎろんする。議論ぎろんを行動こうどうの妨さまたげとは考かんがえないからである。ペリクレスの葬送そうそう演説えんぜつ ─ トゥキュディデス『戦せん史し』第だい二に巻かん(前5世紀ぜんごせいき)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    公共こうきょう性せいを「議論ぎろんする場ば」として定義ていぎした最もっとも古ふるい言葉ことばである。(1-6 の 127 で同おなじ演説えんぜつの別べつの箇所かしょを引ひいた。あちらは参加さんかの義務ぎむ、ここでは議論ぎろんの位置いちを扱あつかう。)要ようは後半こうはんだ。議論ぎろんは行動こうどうを遅おくらせるのではなく、行動こうどうの一部いちぶであると言いい切きっている。この主張しゅちょうが要いるのは、議論ぎろんを無駄むだと見みる立場たちばがつねにあるからだ。決断けつだんの速はやさを尊とうとぶ人ひとは議論ぎろんを弱よわさの証拠しょうこにする。公共こうきょう性せいという語ごが守まもろうとしているのは、この「まず議論ぎろんする」という手続てつづきそのものである。メディア論ろんでこの語ごが出でるのは、議論ぎろんの場ばを技術ぎじゅつが作つくりもすれば壊こわしもするからだ。
  • 新聞しんぶん紙しは、世論よろんの器械きかいなり。……人ひとの説せつを載のせて世よに示しめし、世よの議論ぎろんを起おこさしむるものなり。福沢ふくざわ諭吉ゆきち『民間みんかん雑誌ざっし』第一だいいち編へん(1874)の主旨しゅしによる
    公共こうきょう性せいをメディアが担になうという発想はっそうの日本にほんでの起点きてんにあたる。「器械きかい」という語ごの選えらび方かたが面白おもしろい。新聞しんぶんそのものが世論よろんなのではない。世論よろんを生しょうじさせる装置そうちだ、と。この位置いちづけを取とると二ふたつのことが出でてくる。第一だいいちに、新聞しんぶんは自分じぶんの意見いけんを押おし出だすものではない。第だい二にに、議論ぎろんが起おきなければ装置そうちとして失敗しっぱいしている。1-7 の 153 のジャーナリズムが知しらせるだけでは足たりないと言いわれる理由りゆうがここにある。現代げんだいの情報じょうほう環境かんきょうでは反応はんのうの数かずはかつてなく増ふえたのに、議論ぎろんが成立せいりつしにくい — 器械きかいが動うごいているのに出力しゅつりょくが出でないという事態じたいが起おきている。
  • 公共こうきょう性せいとは「みんなのもの」という状態じょうたいではなく、誰だれでも入はいって議論ぎろんに加かわれるという開ひらかれ方ほうのことである。 定義ていぎの置おき方ほうである。所有しょゆうの話はなしにすると公共こうきょう=国くにや自治体じちたいのものになってしまう。参加さんかの話はなしにすると別べつの議論ぎろんになる — 1-6 の 122 で見みたとおり、市民しみん社会しゃかいが自分じぶんでは作つくれないものがこれである。
  • ×この施設しせつは公共こうきょう性せいが高たかいので無料むりょうである。 通つうじるが、「公共こうきょう施設しせつだから」「公費こうひで運営うんえいされているから」である。評ひょう論語ろんごの公共こうきょう性せいは私的してきな利害りがいを超こえて共有きょうゆうされる事柄ことがら、およびそれを論ろんじる場ばを指さす。公こう営えいかどうかとは別べつで、民間みんかんの場ばに公共こうきょう性せいが生しょうじることも、公こう営えいの場ばに公共こうきょう性せいが無ないこともある。
派生はせい形けい
  • 公共こうきょう[0]「公こう」と「共とも」。おおやけであり、かつ共ともにするという二ふたつの契機けいきが字じに入はいっている。日本語にほんごの「公こう」に「お上うえ」の含ふくみが強つよいため、官かんのものと取とり違ちがえられやすい。
  • 公おおやけ[0]和わ語ご。語源ごげんは「大宅おおやけ(おおやけ)」=大おおきな家いえ、すなわち朝廷ちょうていとされている。語源ごげんからして権力けんりょくの側がわを指さしていたことが、日本語にほんごで公共こうきょう性せいを論ろんじるときの語ご感かんのねじれを生うんでいる。
  • 公論こうろん[0]開ひらかれた議論ぎろん。1-6 の 125 で見みた五ご箇条かじょうの御誓文ごせいもんの「万まん機き公こう論ろんに決けっすべし」がこの語ごである。近代きんだい日本にほんの出発点しゅっぱつてんにこの語ごが置おかれていたことは、公共こうきょう性せいの議論ぎろんで何度なんども参照さんしょうされる。
コロケーション
  • 公共こうきょう圏けん場ばとしての語ご私的してきな人々ひとびとが集あつまって公共こうきょうの事柄ことがらを論ろんじる場ば。十八じゅうはち世紀せいきのコーヒーハウスやサロンが原型げんけいとされる。この語ごが要いるのは、国家こっかでも家庭かていでもない第だい三さんの場ばを名指なざすためだ。国家こっかに対たいしては自律じりつし、家庭かていに対たいしては開ひらかれている — 2-4 の 06 の親密しんみつ圏けんと一いち対たいをなす。
  • 公共こうきょう性せいの解体かいたい現代げんだいの診断しんだん議論ぎろんの場ばが細分さいぶん化かして共通きょうつうの土俵どひょうを失うしなうこと。1-7 の 158 で見みた大おおきな物語ものがたりの終焉しゅうえんがメディアの側がわに現あらわれた形かたちである。注意ちゅういしたいのは、誰だれも排除はいじょしていないのに起おきていることだ。好すきなものだけを見みられるようになった結果けっかにすぎない。
  • 公共こうきょう性せいを装そうう批判ひはんの一手いって私的してきな利害りがいをみんなのためだと言いい換かえること。この操作そうさが有効ゆうこうなのは、公共こうきょう性せいという語ごに反論はんろんしにくいからだ。1-6 の 122 で見みたフランス人権じんけん宣言せんげんの「共同きょうどうの利益りえき」という空欄くうらんが、ここでも同おなじ働はたらきをしている。
  • 公共こうきょう性せいと公開こうかい性せい重かさなりつつ違ちがう語ご公開こうかいしさえすれば公共こうきょう的てきになるわけではない。誰だれでも見みられるが誰だれも議論ぎろんしていない情報じょうほうは公開こうかいされているだけだ。公開こうかいは条件じょうけんであって中身なかみではない — 1-7 の 143 の情報じょうほう社会しゃかいがこの差さを毎日まいにち突つきつけている。
格かく硬かた・学術がくじゅつ

論文ろんぶん・評ひょう論ろんでのみ使つかう。会話かいわでは不自然ふしぜん。

類るい語ごと差さ
  • 公こうおおやけ国くにや行政ぎょうせいの側がわを指さすことが多おおい。公共こうきょう性せいは市民しみんが担になう側面そくめんを含ふくむ。
  • 共同きょうどう性せい生活せいかつや価値かちを共有きょうゆうする性質せいしつ閉とじた集団しゅうだんの内側うちがわ。公共こうきょう性せいは開ひらかれていることを要件ようけんとする。
  • 世間せけん顔かおの見みえる範囲はんいの圏けん☑79。閉とじている。公共こうきょう性せいは見知みしらぬ他者たしゃにも開ひらかれている。
  • 私的してき個人こじんに属ぞくする対たい概念がいねん。公共こうきょう性せいは私的してきな関心かんしんを超こえて共有きょうゆうされる問題もんだいを扱あつかう。

ENpublicness / public sphere
ZH公共性(公共性, gōnggòngxìng)

08概念がいねん

代替だいたい

だいたい[0]平板へいばん型がた

語ご構成こうせい
代だいかわる+替かえかえる

読よみは「だいたい」。「だいがえ」は慣用かんよう読よみ。

使用しようの境界きょうかい

別べつのもので置おき換かえること。同おなじ働はたらきをするものがあれば代替だいたい可能かのうになる。

用法ようほう

読よみ方かたが問とわれる語ごで、「だいたい」が本来ほんらいの読よみである(「だいがえ」は業ぎょう界かい的てきな慣用かんよう読よみ)。この主題しゅだいでは「代替だいたい可能かのう/代替だいたい不可能ふかのう」という対たいで使つかわれ、市場しじょうでは大抵たいていのものが交換こうかん可能かのうであるのに対たいし、芸術げいじゅつ作品さくひんと「私わたし」だけは代替だいたい不可能ふかのうなものとして立たてられる、という構図こうずをつくる。入試にゅうし文ぶんの核心かくしんはここにあり、代替だいたい可能性かのうせいが高たかまる社会しゃかいでこそ、代替だいたい不可能ふかのうなものへの執着しゅうちゃくが強つよまる、と論ろんじられる。

用例ようれい
  • 流通りゅうつうのうちにある貨幣かへいは、いかなる商品しょうひんとも置おき換かえられる。……そこでは、あらゆる質しつの違ちがいが量りょうの違ちがいに解消かいしょうされてしまう。ゲオルク・ジンメル『貨幣かへいの哲学てつがく』(1900)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    代替だいたい可能性かのうせいがどこまで広ひろがるかを示しめした一節いっせつである。貨幣かへいは究極きゅうきょくの代替物だいたいぶつだ。何なにとでも取とり替かえられる。そのためにそれ自体じたいは何なにの質しつも持もたない必要ひつようがある。2-2 の 06 で見みたアリストテレスの蝋板ろうばんと同おなじ条件じょうけんである。ここから重おもい帰結きけつが出でる — 代替だいたい可能かのうなものどうしは比較ひかくでき、比較ひかくできれば順位じゅんいがつく。質しつの違ちがいが量りょうの違ちがいに変かわるとは、「別べつのもの」が「多おおいか少すくないか」に化かけるということだ。2-5 の 04 の尺度しゃくどと 05 の序列じょれつがここから始はじまる。そして代替だいたいできないものだけが04 の唯一ゆいいつ性せいを持もつ。
  • すべては流転るてんする。……人ひとは、同おなじ川かわに二に度ど入はいることはできない。そして、同おなじ人ひとが二に度どそこに立たつこともできない。ヘラクレイトス 断片だんぺん(前5世紀ぜんごせいき)の主旨しゅしによる/訳やくは本ほん教材きょうざい
    代替だいたいという語ごの成なり立たたなさを突つく一節いっせつである。(04 で同おなじ思想家しそうかの川かわの断片だんぺんに触ふれた。あちらは川かわの側がわ、ここでは立たつ人ひとの側がわを見みている。)代替だいたいが成なり立たつには「同おなじもの」が二ふたつ以上いじょうある必要ひつようがある。ヘラクレイトスはその前提ぜんていを疑うたがう。厳密げんみつに見みれば何なにひとつ同おなじではない。では代替だいたいとは何なにか — 違ちがいを無視むししてよいと決きめることである。代替だいたいは発見はっけんではなく取とり決きめだ。だから何なにを無視むしするかを決きめた者ものが力ちからを持もつ。2-1 の 05 の属性ぞくせいで見みたとおり、切きり口くちを決きめる権限けんげんこそが問題もんだいになる。
  • 複製ふくせいが容易よういになるほど、代替だいたいできないものの値あたいが上あがる。 この主題しゅだいの要約ようやくになる型かたである。写真しゃしんがいくらでも撮とれるから原版げんぱんに値あたいがつき、録音ろくおんがいくらでも聴きけるから生演奏なまえんそうに人ひとが集あつまる。豊富ほうふさが希少きしょうさを作つくるというこの反転はんてんが、現代げんだいの文化ぶんか産業さんぎょうの骨格こっかくになっている。
  • ×急きゅうな欠席けっせきで代替だいたいの講師こうしを立たてた。 「代理だいり」「代講だいこう」である。代替だいたいは物ものや機能きのうが別べつのもので置おき換かえられることを言いい、人ひとが役やくを務つとめる場合ばあいは「代理だいり」を使つかう。なお「だいたい」と読よむのが本ほん則そくで、「だいがえ」は同音どうおん衝突しょうとつを避さけるための慣用かんよう読よみ(代替案だいたいあん)。評ひょう論文ろんぶんでは「だいたい」。
派生はせい形けい
  • 代替するだいたいする[0]サ変動へんどう詞し。「AがBを代替だいたいする」という他動詞たどうしの形かたちで使つかう。「代替だいたいされる」なら受うけ身み。どちらが取とり替かえられる側がわかで力ちから関係かんけいが出でるので、態たいに注意ちゅういして読よみたい。
  • 代用だいよう[0]本来ほんらいのものが手てに入はいらないときの間まに合あわせ。格かくが下しただという含ふくみが強つよい(代用だいよう食しょく・代用だいよう品ひん)。代替だいたいが対等たいとうな置おき換かえを含ふくみうるのに対たいし、代用だいようはつねに次善じぜんである。
  • 互換ごかん[0]双方向そうほうこうの代替だいたい。「互換性ごかんせいがある」。技術ぎじゅつ・規格きかくの語彙ごいで、あらかじめ取とり替かえられるように設計せっけいされているという含ふくみを持もつ。代替だいたいが結果けっか、互換ごかんが設計せっけいである。
コロケーション
  • 代替だいたい可能性かのうせい中核ちゅうかくの語ご取とり替かえが利きくかどうか。この語ごが近代きんだいを語かたるのに要いるのは、近代きんだい化かが代替だいたい可能性かのうせいを広ひろげる過程かていだったからだ。規格化きかくか、標準化ひょうじゅんか、貨幣かへい化か — すべて取とり替かえを可能かのうにする作業さぎょうである。1-6 の 140 の均質化きんしつかを、物ものと人ひとの側がわから言いい直なおした語ごと見みてよい。
  • 代替だいたい不可能ふかのう否定ひてい形けいが要ようになる語ご2-1 の 04 の固有こゆう性せいと同おなじく、否定ひてい形けいでしか言いえない。「これでなければならない」という感覚かんかくを積極的せっきょくてきに説明せつめいしようとすると必かならず失敗しっぱいする — 理由りゆうを挙あげた瞬間しゅんかん、同おなじ理由りゆうを満みたす別べつの物ものが代かわりになりうるからだ。
  • 代替だいたい財ざい経済学けいざいがくでの形かたち互たがいに置おき換かえられる財ざい(バターとマーガリン)。この語ご法ほうが示しめすのは、代替だいたい性せいが程度ていどの問題もんだいだということである。完全かんぜんな代替だいたいも完全かんぜんな非ひ代替だいたいも現実げんじつには少すくない。どのくらい代かわりになるかを問とうほうが、議論ぎろんは精密せいみつになる。
  • 代替だいたいエネルギー別べつの用法ようほう「代かわりの手段しゅだん」という実務じつむの用法ようほう。この場合ばあいの代替だいたいは価値かちの問題もんだいではなく機能きのうの問題もんだいである。同おなじ働はたらきをすればよい。芸術げいじゅつ論ろんでの代替だいたいが働はたらきが同おなじでも代かわりにならないことを扱あつかうのと、ちょうど裏返うらがえしになっている。
格かく中なか

書かき言葉ことば・会話かいわの両方りょうほうで使つかえる。

類るい語ごと差さ
  • 複製ふくせい同おなじものを何個なんこもつくる同一どういつのものを増ふやす。代替だいたいは別べつのもので置おき換かえる。
  • 交換こうかん互たがいに取とりかえる双方向そうほうこうの動うごき。代替だいたいは一方いっぽうを他方たほうで置おき換かえること。
  • 代用だいよう間まに合あわせに使つかう一時的いちじてきで、劣おとる含ふくみがある。代替だいたいは対等たいとうな置おき換かえも指さす。
  • 唯一ゆいいつ性せい置おき換かえられないという性質せいしつ対たい概念がいねん。代替だいたい可能性かのうせいの否定ひていが唯一ゆいいつ性せいになる。

ENsubstitution
ZH代替(代替, dàitì)

09読解どっかい

通底つうてい⚠

つうてい[0]平板へいばん型がた

語ご構成こうせい
通つうとおる+底そこそこ

「底そこでつながる」。表面ひょうめんの一致いっちではない。

使用しようの境界きょうかい

表面ひょうめんは別べつに見みえる事柄ことがらが、底そこの部分ぶぶんでつながっていること。単たんに似にていることではない。

用法ようほう

評ひょう論文ろんぶんで頻出ひんしゅつする動詞どうしで、「AとBは通底つうていしている」の形かたちで使つかう。要点ようてんは、表面上ひょうめんじょうは無関係むかんけいに見みえる二ふたつが、深ふかいところで同おなじ構造こうぞうをもつと指摘してきする働はたらきにある。入試にゅうし文ぶんでは、国宝こくほうを崇あがめる心性しんせいと自己じこ愛あいが通底つうていしている、と述のべられる。この語ごが出でたら直後ちょくごに「何なにが共通きょうつうするのか」が書かかれるので、読解どっかいの手てがかりになる。書かき手てが論ろんを一段いちだん深ふかめる合図あいずでもある。硬かたい文章ぶんしょう語ごで、会話かいわでは使つかわない。

用例ようれい
  • 一ひとつを挙あげて三みっつを以もって反はんらざれば、則そくち復ふくせざるなり。『論語ろんご』述而じゅつじ篇へん
    通底つうていを見みつける力ちからが学まなびの条件じょうけんだと言いっている一句いっくである。(1-1 で同おなじ篇へんの別べつの箇所かしょを引ひいた。)孔子こうしは、四角しかく形けいの一隅いちぐうを示しめして残のこる三隅みすみを返かえしてこない者ものには二に度どは教おしえないと言いう。厳きびしく聞きこえるが、要求ようきゅうされているのは暗記あんきではなく通底つうていの発見はっけんだ。一ひとつの例れいからその底そこを流ながれている原理げんりを掴つかめば、残のこりは自分じぶんで出だせる。掴つかめなければ四隅よすみとも教おしえなければならず、しかも五ご隅すみ目めには応用おうようが利きかない。評ひょう論文ろんぶんの読解どっかいも同おなじ構造こうぞうをしている — 異ことなる話題わだいのあいだに同おなじ底そこを見みつけることが、この語ごが指さす作業さぎょうである。
  • 見みえるものと見みえないもの、鳴なる音おとと鳴ならぬ音おととが同おなじ一ひとつの調しらべのなかにある。……秘ひすれば花はななり、秘ひせずば花はななるべからず。世阿弥ぜあみ『風姿ふうし花伝かでん』第だい七なな・別紙べっし口伝くでん(1418頃ころ)の主旨しゅしによる
    表ひょうに出でているものの下したに出でていないものが流ながれているという構図こうずを示しめした一節いっせつである。(1-1 で同おなじ書しょの別べつの箇所かしょを引ひいた。)「秘ひすれば花はな」は隠かくせば価値かちが上あがるという処世しょせいの教おしえとして引ひかれがちだが、本ほん義ぎは違ちがう。観客かんきゃくが「まだ何なにかある」と感かんじている状態じょうたいを保たもてということだ。見みせてしまえば底そこが見みえてそこで終おわる。ここで通底つうていしているのは技ぎではなく観客かんきゃくの予期よきである。底そこを流ながれるものは見みえないからこそ全体ぜんたいをつないでいる — 01 の媒介ばいかいの透明性とうめいせいと同おなじ事態じたいが、芸げい能のうの側がわから言いわれている。
  • 一見いっけん無関係むかんけいな二ふたつの主張しゅちょうに、同おなじ前提ぜんていが通底つうていしている。 評ひょう論文ろんぶんでこの語ごが出でる典型てんけいである。要ようは「一見いっけん無関係むかんけい」という前置まえおきだ。似にているものに共通点きょうつうてんを見みつけても通底つうていとは言いわない。違ちがって見みえるものの下したに同おなじものを見みつけたときにこの語ごが働はたらく。
  • ×地下ちかには配管はいかんが通底つうていしている。 物理的ぶつりてきな貫通かんつうには使つかわない。「通とおっている」「貫つらぬいている」である。通底つうていは複数ふくすうの事柄ことがらの底そこに同おなじものが流ながれているという比喩ひゆの語ごで、ほぼ抽象的ちゅうしょうてきな事柄ことがらにしか用もちいない。「〜に通底つうていする」という形かたちで使つかうのが基本きほんである。
派生はせい形けい
  • 通底するつうていする[0]サ変動へんどう詞しでのみ使つかう。名詞めいし「通底つうてい」単独たんどくはほぼ見みない。動うごきとしてしか存在そんざいしない語ごで、「通底つうていが見みられる」のような言いい方かたは据すえわりが悪わるい。
  • 通奏低音つうそうていおん[5]音楽おんがくから来きた比喩ひゆ。バロック音楽おんがくで曲きょくを通とおして鳴なり続つづける低てい音おん。通底つうていとほぼ同おなじことを音おとの比喩ひゆで言いう。「通奏つうそう低てい音おんのように」と直喩ちょくゆの形かたちで使つかうことが多おおく、評ひょう論文ろんぶんの常套句じょうとうくである。
  • 伏流ふくりゅう[0]地下ちかを流ながれる水みず。いったん見みえなくなり、別べつの場所ばしょでまた現あらわれるという含ふくみがある点てんが通底つうていと違ちがう。途切とぎれて見みえるものの連続れんぞくを主張しゅちょうするときにこの語ごを選えらぶ。
コロケーション
  • 〜に通底つうていする基本きほんの形かたち助詞じょしは「に」を取とる。「両者りょうしゃに通底つうていする思想しそう」。この形かたちが示しめすのは、通底つうていするものは主語しゅごの側がわにあることだ。底そこのほうが主役しゅやくとして立たつという構文こうぶんが、この語ごの主張しゅちょうそのものを文法ぶんぽうで表あらわしている。
  • 通底つうていする思想しそう最もっとも多おおい組くみ合あわせ個々ここの主張しゅちょうではなくその手前てまえにある構かまえ。この結むすびつきが多おおいのは、思想しそうは直接ちょくせつには述のべられないからだ。述のべられていれば底そこではなく表ひょうにある。書かかれていないものを読よむという読解どっかいの要かなめが、この語ごに集あつまっている。
  • 底流ていりゅう近ちかい比喩ひゆ同おなじ水みずの比喩ひゆを使つかう語ご。底流ていりゅうが流ながれの方向ほうこうを含意がんいするのに対たいし、通底つうていは広ひろがりの共通きょうつう性せいを言いう。時間じかんの語ごか空間くうかんの語ごかという差さで、「時代じだいの底流ていりゅう」「両者りょうしゃに通底つうていする」と共起きょうきする語ごが分わかれる。
  • 通底つうていしないもの差さを見みる語ご通底つうていを探さがす作業さぎょうには危あやうさもある — 何なんにでも共通点きょうつうてんは見みつけられるからだ。「どちらも人間にんげんについて論ろんじている」では何なにも言いえていない。通底つうていを主張しゅちょうするときは、通底つうていしない部分ぶぶんも同時どうじに示しめすのが議論ぎろんの作法さほうになる。
格かく硬かた・学術がくじゅつ

論文ろんぶん・評ひょう論ろんでのみ使つかう。会話かいわでは不自然ふしぜん。

類るい語ごと差さ
  • 共通きょうつうする同おなじ点てんをもつ表面ひょうめんでの一致いっちでもよい。通底つうていは底そこでつながっていることを言いう。
  • 符合ふごうするぴたりと合あう一致いっちの度合どあい。通底つうていは構造こうぞうのつながり。
  • 根ねざすおおもとにある一方いっぽうが他方たほうの土台どだいになる。通底つうていは対等たいとうにつながっている。
  • 並行へいこうする並ならんで進すすむ接点せってんがない。通底つうていは見みえないところで接せっしている。

ENto share a common ground
ZH相通(相通じる, xiāngtōng)

日中にっちゅうのズレ

中国語ちゅうごくごに 通底つうてい という語ごはない。相そう通つう(xiāngtōng)や 有共通之处 のように言いい換かえる。

日本語にほんごの「通底つうていする」は深層しんそうでのつながりを含意がんいする評ひょう論文ろんぶん特有とくゆうの語ごである。

10読解どっかい

担保たんぽ⚠

たんぽ[1]頭高あたまだか型がた

語ご構成こうせい
担たんになう+保ほたもつ
使用しようの境界きょうかい

確たしかなものとして保証ほしょうすること。もとは金融きんゆうの語ごで、評ひょう論文ろんぶんでは比喩ひゆとして使つかう。

用法ようほう

もとは借金しゃっきんの裏うらづけに差さし出だす財産ざいさんを指さす金融きんゆう用語ようごである。近年きんねん、行政ぎょうせい・報道ほうどう・学術がくじゅつで「〜を担保たんぽする」という動詞どうし用法ようほうが広ひろがり、〈確たしかなものとして保証ほしょうする〉の意いで使つかわれる。入試にゅうし文ぶんの「自みずからの存在そんざいの大切たいせつさを担保たんぽしようとする」がその用法ようほうで、国宝こくほうの掛かけ替かえのなさを確認かくにんすることが、自分じぶんの掛かけ替かえのなさの裏うらづけになる、という構図こうずである。設問せつもんの解答かいとう語ごとしてそのまま使つかえるので、意味いみを正確せいかくに押おさえておく必要ひつようがある。

用例ようれい
  • 国民こくみんは、すべての基本的きほんてき人権じんけんの享有きょうゆうを妨さまたげられない。この憲法けんぽうが国民こくみんに保障ほしょうする基本的きほんてき人権じんけんは、侵おかすことのできない永久えいきゅうの権利けんりとして、現在げんざい及および将来しょうらいの国民こくみんに与よへられる。日本にほん国こく憲法けんぽう 第だい十一じゅういち条じょう(1946)
    担保たんぽという語ごの実際じっさいの働はたらきがよく見みえる条文じょうぶんである。(1-4 で同おなじ憲法けんぽうの別べつの条文じょうぶんを引ひいた。)注目ちゅうもくしたいのは「与よへられる」という受うけ身みだ。誰だれが与あたえるのかは書かかれていない。基本的きほんてき人権じんけんは憲法けんぽうが作つくったものではないことになっているからだ。では憲法けんぽうは何なにをしているのか — 担保たんぽしているのである。生うみ出だすのではなく、保証ほしょうする。ここに担保たんぽという語ごの要点ようてんがある。担保たんぽする側がわは担保たんぽされる中身なかみを作つくれない。だからこそ担保たんぽが外はずれれば中身なかみも守まもられなくなるという緊張きんちょうが残のこり続つづける。
  • 約束やくそくしたのちにこれを違いへば、信しんは立たたず。……人ひとにして信しんなくんば、その可かなるを知しらざるなり。『論語ろんご』為い政せい篇へん
    担保たんぽが制度せいど以前いぜんに何なんによって成なり立たつかを言いった一句いっくである。(1-1 で同おなじ篇へんの別べつの箇所かしょを引ひいた。)孔子こうしは信しんが無なければ人ひととして成なり立たちようがないと言いう。車くるまに轅ながえ(ながえ)と軛くびき(くびき)をつなぐ部品ぶひんが無なければどうやって進すすむのか、と続つづく比喩ひゆも鋭するどい。信しんは車輪しゃりんでも荷にでもなく、それらをつなぐ小ちいさな部品ぶひんだ。それ自体じたいは何なにも運はこばないが、それが無なければ何なにも運はこべない。現代げんだいの担保たんぽ — 契約書けいやくしょ、署名しょめい、鑑定かんてい、記録きろく — はすべてこの部品ぶひんを制度せいどで代用だいようする試こころみである。04 の唯一ゆいいつ性せいの担保たんぽという論点ろんてんも、ここへ帰かえってくる。
  • 作品さくひんの唯一ゆいいつ性せいは何なんによって担保たんぽされるのか。署名しょめいか、来歴らいれきか、それとも制度せいどか。 この主題しゅだいでの使つかわれ方ほうである。担保たんぽという語ごが問とうのは「本当ほんとうか」ではなく「何なにが保証ほしょうしているか」だ。問といを真偽しんぎから仕組しくみへ移うつす — これが評ひょう論文ろんぶんでこの語ごが選えらばれる理由りゆうである。
  • ×この案あんは多おおくの人ひとに担保たんぽされている。 「支持しじされている」である。担保たんぽはあとで確たしかめられる仕組しくみをあらかじめ置おいておくことで、賛同さんどうの多おおさではない。なお金融きんゆうの「担保たんぽに入いれる」が原げん義ぎで、返かえせなかったときに差さし出だすものを指さした。不履行ふりこうを前提ぜんていにした語ごである点てんを押おさえておくと、評ひょう論語ろんごとしての含ふくみが見みえる。
派生はせい形けい
  • 保証ほしょう[0]大丈夫だいじょうぶだと請うけ合あうこと。人ひとが引ひき受うけるという含ふくみが強つよい(保証人ほしょうにん)。担保たんぽが物ものや仕組しくみで裏うらづけるのに対たいし、保証ほしょうは言葉ことばと責任せきにんで裏うらづける。
  • 保障ほしょう[0]侵おかされないように守まもること。「社会しゃかい保障ほしょう」「安全あんぜん保障ほしょう」。三みっつの「ほしょう」のなかで最もっとも大おおきな仕組しくみを指さすのがこれ。担保たんぽ・保証ほしょう・保障ほしょうは入試にゅうしでも問とわれる書かき分わけである。
  • 抵当ていとう[0]担保たんぽの一種いっしゅ。物ものを引ひき渡わたさずに担保たんぽにする形かたち(抵当権ていとうけん)。担保たんぽのほうが上位じょういの語ごで、抵当ていとう・質しつ・保証人ほしょうにんなどをまとめて担保たんぽと呼よぶ。語ごの階層かいそうを知しっておくと法律ほうりつ用語ようごで迷まよわない。
コロケーション
  • 〜を担保たんぽする基本きほんの形かたち目的語もくてきごには抽象的ちゅうしょうてきな価値かちが来くる — 公平性こうへいせい、透明性とうめいせい、質しつ、安全あんぜん。この共起きょうきが示しめすのは、担保たんぽされるのはつねに「そのままでは確たしかめられないもの」だということだ。見みれば分わかるものに担保たんぽは要いらない。
  • 制度せいど的てき担保たんぽ仕組しくみで保証ほしょうする個人こじんの善意ぜんいではなく手続てつづきによって保証ほしょうすること。この語ごが要いるのは、善意ぜんいは続つづかないからだ。1-6 の 127 の民たみ主しゅ主義しゅぎが任期にんきと選挙せんきょという仕組しくみを必要ひつようとするのと同おなじ理屈りくつで、人ひとを信しんじないことが制度せいどの出発点しゅっぱつてんになる。
  • 担保たんぽを失うしなう崩くずれる側がわの語ご保証ほしょうの仕組しくみが効きかなくなること。注意ちゅういしたいのは、中身なかみが変かわらなくても起おきることだ。作品さくひんも権利けんりも同おなじままなのに、それを保証ほしょうしていた制度せいどへの信頼しんらいが崩くずれれば価値かちが揺ゆらぐ。2-5 の 06 の貨幣かへいの信用しんようと同おなじ構造こうぞうである。
  • 担保たんぽと保障ほしょう書かき分わけたい対たい担保たんぽは不履行ふりこうに備そなえる、保障ほしょうはそうなるようにする。「安全あんぜん保障ほしょう」は前者ぜんしゃではない — 安全あんぜんを実現じつげんし続つづけるという意味いみだ。備そなえか実現じつげんかで使つかい分わける。なお「保証ほしょう」は請うけ合あうでまた別語べつごである。
格かく中なか

書かき言葉ことば・会話かいわの両方りょうほうで使つかえる。

類るい語ごと差さ
  • 保証ほしょう確たしかだと請うけ合あう一般いっぱん語ご。担保たんぽはもとの意味いみに〈裏うらづけとなる物ものを差さし出だす〉という含ふくみがある。
  • 裏うらづけ根拠こんきょとなるもの証拠しょうこの側がわ。担保たんぽは保証ほしょうする行為こうい。
  • 確保かくほ手てに入いれて保たもつ量りょうや場所ばしょについて使つかう。担保たんぽは確たしかさについて使つかう。
  • 抵当ていとう借金しゃっきんの裏うらづけに差さし出だす財産ざいさん金融きんゆう用語ようご。担保たんぽの原げん義ぎに近ちかい。

ENto guarantee / collateral
ZH担保(保証・担保, dānbǎo)

日中にっちゅうのズレ

中国語ちゅうごくごの 担保たんぽ(dānbǎo)は金融きんゆう・法律ほうりつの「保証ほしょうする」に限かぎられる。

日本語にほんごの「公正こうせいさを担保たんぽする」のような抽象的ちゅうしょうてきな比喩ひゆ用法ようほうは中国語ちゅうごくごにはなく、保证(bǎozhèng)を用もちいる。

11読解どっかい

心性しんせい

しんせい[0]平板へいばん型がた

語ご構成こうせい
心こころこころ+性せいそのようす
使用しようの境界きょうかい

ある人ひとや集団しゅうだんに共通きょうつうする、ものの感かんじ方ほうと考かんがえ方かたの型かた。一時的いちじてきな気分きぶんではなく、持続じぞくする構かまえを指さす。

用法ようほう

歴史学れきしがくの「心性史しんせいし(マンタリテ史し)」に由来ゆらいする学術がくじゅつ語ごで、ある時代じだいの人々ひとびとに共有きょうゆうされた感かんじ方ほうの型かたを指さす。制度せいどや出来事できごとではなく、人々ひとびとが何なにを当あたり前まえだと感かんじていたかを扱あつかう。入試にゅうし文ぶんの「国宝こくほうを盲もう目的もくてきにあがめる心性しんせい」は、個人こじんの趣味しゅみではなく現代人げんだいじんに広ひろく共有きょうゆうされた構かまえを指さしており、だからこそ分析ぶんせきの対象たいしょうになる。日常にちじょう語ごの「心情しんじょう」と混同こんどうしないこと。心情しんじょうは一時的いちじてき、心性しんせいは持続的じぞくてきである。

用例ようれい
  • 中世ちゅうせいの人ひとは、すべてを極端きょくたんに感かんじた。……病やまいも健康けんこうも、幸こうも不幸ふこうも、現代げんだいの我々われわれには想像そうぞうしがたいほどの落差らくさをもっていた。ヨハン・ホイジンガ『中世ちゅうせいの秋あき』(1919)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    心性しんせいという対象たいしょうを歴史学れきしがくが発見はっけんした一節いっせつである。(1-6 の 134 で同おなじ書しょの冒頭ぼうとうを引ひいた。あちらは輪郭りんかくの明瞭めいりょうさ、ここでは感情かんじょうの振ふれ幅はばを扱あつかっている。)注目ちゅうもくしたいのは、これが事件じけんでも制度せいどでもないことだ。感かんじ方ほうそのものが歴史れきしの対象たいしょうになる。この一手いってで歴史学れきしがくの範囲はんいが広ひろがった。王おうの名なや戦せんの年としではなく、人ひとが何なにを怖こわれ何なんに泣ないたかを書かけるようになったからだ。ただし難所なんしょもある — 心性しんせいは直接ちょくせつには残のこらない。日記にっきも、説教せっきょうも、絵えも、すべて表現ひょうげんであって感かんじ方ほうそのものではない。残のこされたものから残のこされなかったものを推おし量はかるという危あやうさを、この分野ぶんやはつねに抱かかえている。
  • 世人せじんは、ただ利りを求きゅうむるを知しりて、義ぎを知しらず。……上下じょうげこぞりて利りを争そうはば、国くには危あやふし。『孟子もうし』梁りょう恵王けいおう上じょう
    心性しんせいの変化へんかを当事者とうじしゃが嘆なげいた記録きろくとして読よめる一節いっせつである。(1-1 で同おなじ書しょの別べつの篇へんを引ひいた。)孟子もうしが梁りょうの恵王けいおうに「利り」を口くちにするなと説とく場面ばめんだ。注目ちゅうもくしたいのは、これが道徳どうとくの説教せっきょうではなく時代じだい診断しんだんとして書かかれていることである。個々人ここじんが悪わるくなったのではない。上うえから下したまで同おなじ物差ものさしを使つかうようになったという構造こうぞうの指摘してきだ。2-5 の 04 の尺度しゃくどが一ひとつに揃そろうとどうなるか — 二千にせん三百年さんびゃくねん前まえに同おなじことが言いわれている。心性しんせいは個人こじんの性格せいかくではなく、時代じだいが配くばる枠わくである。
  • 同おなじ出来事できごとでも、受うけ取とり方ほうは時代じだいの心性しんせいによって大おおきく変かわる。 この語ごの使つかいどころである。注意ちゅういしたいのは、心性しんせいは個人こじんの性格せいかくではないことだ。その時代じだいの人ひとが共有きょうゆうしていた感かんじ方ほうの枠わくを指さす。1-4 の 73 の文化ぶんかと同おなじ層そうにあり、本人ほんにんには見みえないという性質せいしつまで共通きょうつうする。
  • ×彼かれは穏おだやかな心性しんせいの持もち主ぬしだ。 個人こじんの性質せいしつなら「性格せいかく」「気質きしつ」「人ひと柄がら」である。心性しんせいは集団しゅうだんが共有きょうゆうする感かんじ方ほう・考かんがえ方かたの型かたを指さす歴史学れきしがく・社会学しゃかいがくの語ごで、一人ひとりについて言いう語ごではない。「時代じだいの心性しんせい」「民衆みんしゅうの心性しんせい」のように、集団しゅうだんを示しめす語ごと組くんで現あらわれるのが普通ふつうである。
派生はせい形けい
  • 心情しんじょう[0]個人こじんの気持きもち。心性しんせいが集団しゅうだんの枠わくを指さすのに対たいし、こちらは一人ひとりの内面ないめん。一いち字じ違ちがいで層そうがまるで違ちがうので、評ひょう論文ろんぶんでは取とり違ちがえないように読よむ。
  • メンタリティ[4]原語げんごのままの形かたち。フランス語ご mentalité の訳やくが「心性しんせい」で、もとは同おなじ語ご。カタカナだと個人こじんにも使つかえるようになるのが面白おもしろいところで、訳語やくごのほうが射程しゃていが狭せまく保たもたれている。
  • 精神性せいしんせい[0]紛まぎらわしい語ご。物質ぶっしつに対たいする精神せいしんの側面そくめんを指さし、しばしば価値かちの高たかさを含意がんいする(精神せいしん性せいの高たかい作品さくひん)。心性しんせいは価値かち中立ちゅうりつで、高たかい低ひくいを言いわない。
コロケーション
  • 時代じだいの心性しんせい最もっとも多おおい形かたちある時代じだいの人々ひとびとが共有きょうゆうする感かんじ方ほう。この結むすびつきが要いるのは、心性しんせいが単独たんどくでは誰だれのものか分わからないからだ。必かならず「誰だれの」を添そえる。時代じだい、民衆みんしゅう、都市とし、農村のうそん — 修飾語しゅうしょくごがこの語ごの輪郭りんかくを作つくっている。
  • 心性史しんせいし分野ぶんやの名な制度せいどや事件じけんではなく感かんじ方ほうの歴史れきしを扱あつかう分野ぶんや。この分野ぶんやが生うまれたのは、政治せいじ史しだけでは人ひとの生せいが見みえないと分わかったからだ。1-7 の 152 のアカデミズムが対象たいしょうを広ひろげていく過程かていの一いち例れいとしても読よめる。
  • 心性しんせいの変容へんよう変化へんかを書かく語ご感かんじ方ほうが時間じかんをかけて変かわること。「変化へんか」ではなく「変容へんよう」が選えらばれるのは、いつ変かわったか特定とくていできないからだ。気きづいたら別べつのものになっている — 1-6 の 140 の均質化きんしつかと同おなじ、誰だれも意図いとしていない変化へんかである。
  • 心性しんせいに根ねざす深ふかさを言いう形かたち制度せいどや理屈りくつより深ふかいところにあるという主張しゅちょう。この言いい方かたには注意ちゅういが要いる — 「心性しんせいに根ねざす」と言いえば説明せつめいが終おわると思おもわれかねない。心性しんせいそのものも作つくられたものである以上いじょう、そこで止とめずに何なにが作つくったかまで問とうのが筋すじである。
格かく硬かた・学術がくじゅつ

論文ろんぶん・評ひょう論ろんでのみ使つかう。会話かいわでは不自然ふしぜん。

類るい語ごと差さ
  • 心情しんじょうそのときの気持きもち一時的いちじてきな感情かんじょう。心性しんせいは持続じぞくする型かた。
  • 気質きしつ生うまれつきの性質せいしつ個人こじんに属ぞくし、変かわりにくい。心性しんせいは集団しゅうだんにも時代じだいにも使つかえる。
  • メンタリティーものの感かんじ方ほうの傾向けいこう外来語がいらいご。ほぼ同義どうぎ。心性しんせいはその訳語やくごとして学術がくじゅつ文ぶんで使つかう。
  • エートス持続的じぞくてきな内面ないめん性せい・習慣しゅうかん☑34 の対たい語ご。倫理的りんりてきな含ふくみが強つよい。心性しんせいは感かんじ方ほう全般ぜんぱん。

ENmentality
ZH心性(心性, xīnxìng)

12読解どっかい

固執こしつ⚠

こしつ[0]平板へいばん型がた

語ご構成こうせい
固かたかたい+執しつとらわれる・とる

読よみは「こしつ」。「こしゅう」は慣用かんよう読よみ。

使用しようの境界きょうかい

一ひとつの考かんがえややり方かたにとらわれ、変かえようとしないこと。強つよい意志いしで貫つらぬくこととは違ちがう。

用法ようほう

読よみが問とわれる語ごで、「こしつ」が標準ひょうじゅん、「こしゅう」は慣用かんよう読よみである。要点ようてんは常つねに否定的ひていてきだという点てんにあり、同おなじ内容ないようを肯定的こうていてきに言いえば「堅持けんじ」「信念しんねんを貫つらぬく」になる。したがってこの語ごが使つかわれている時点じてんで、書かき手てはその態度たいどを批判ひはんしている。入試にゅうし文ぶんの「並ならぶもののない神話しんわ的てき存在そんざいに固執こしつする心情しんじょう」も、その執着しゅうちゃくの理由りゆうを分析ぶんせきする構かまえで書かかれている。近年きんねん「こだわる」が肯定こうてい語ごとして広ひろまったため、固執こしつとの差さが開ひらいた。

用例ようれい
  • 一いち芸げいに達たつすれば、諸しょ芸げいに通つうず。……ただし、一ひとつの型かたに留とまりて出ででざるは、花はなを失しつふ道みちなり。世阿弥ぜあみ『花鏡かきょう』(1424)の主旨しゅしによる
    固執こしつがなぜ危あやういのかを技ぎ芸げいの側がわから言いった一節いっせつである。(1-5 で同おなじ書しょの別べつの箇所かしょを引ひいた。)世阿弥ぜあみの言いう「花はな」は観客かんきゃくにとっての新鮮しんせんさだ。同おなじ型かたを極きわめても、観客かんきゃくがそれに慣なれれば花はなは消きえる。注目ちゅうもくしたいのは、技ぎが落おちるとは言いっていないことである。技ぎは上あがり続つづけるのに花はなは失うしなわれる。ここに固執こしつの恐おそろしさがある — 本人ほんにんの側がわには何なにの問題もんだいも起おきない。関係かんけいの側がわでだけ価値かちが失うしなわれる。2-2 の 10 の倦けん怠たいが受うけ手ての側がわから同おなじ事態じたいを言いった語ごだとすれば、固執こしつは作つくり手ての側がわから見みた同おなじ事態じたいである。
  • 愚者ぐしゃは、自分じぶんが賢かしこいと思おもい込こんでいる。賢者けんじゃは、自分じぶんが愚おろかであることを知しっている。ウィリアム・シェイクスピア『お気きに召めしすまま』第だい五ご幕まく(1599頃ころ)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    固執こしつの自己じこ言及げんきゅう的てきな性質せいしつを突ついた一句いっくである。(1-1 で『論語ろんご』為い政せい篇へんの「知しらざるを知しらずと為いす」を引ひいた。洋ようの東西とうざいで同おなじことが言いわれている。)要点ようてんは、固執こしつしている当人とうにんには固執こしつが見みえないことだ。見みえていればそれはもう固執こしつではなく選択せんたくである。だから「私わたしは固執こしつしていない」という確信かくしんほど当あてにならない。ここから実際的じっさいてきな帰結きけつが出でる — 固執こしつは内省ないせいでは見みつからず、他者たしゃの反応はんのうでしか検出けんしゅつできない。2-1 の 01 の他者たしゃが自己じこにとって不可欠ふかけつであるという主張しゅちょうの、最もっとも実用的じつようてきな現あらわれがこれだ。
  • 筆者ひっしゃは写実しゃじつという様式ようしきに固執こしつせず、対象たいしょうに応おうじて描えがき方ほうを変かえた。 否定ひてい形けいで使つかうのが自然しぜんな語ごである。「固執こしつする」はほぼ批判ひはんだが、「固執こしつしない」は柔軟じゅうなんさの称賛しょうさんになる。肯定こうてい形けいと否定ひてい形けいで評価ひょうかが反転はんてんするため、文中ぶんちゅうの形かたちをよく見みたい。
  • ×自分じぶんの信念しんねんに固執こしつして最後さいごまで貫つらぬいた。 ほめる文脈ぶんみゃくでは使つかわない。貫つらぬいたことを評価ひょうかするなら「堅持けんじ」「貫徹かんてつ」である。固執こしつには周囲しゅういが見みえていない、状況じょうきょうが変かわっても改あらためないという否定ひていの含ふくみが必かならず付つく。なお読よみは「こしつ」が本ほん則そく、「こしゅう」は古ふるい読よみ。評ひょう論文ろんぶんでは「こしつ」。
派生はせい形けい
  • 執着しゅうちゃく[0]仏教ぶっきょう語ご。離はなれられない心こころを指さし、苦にがの原因げんいんとされる。固執こしつが判断はんだんや方法ほうほうに向むくのに対たいし、執着しゅうちゃくは物ものや人ひとにも向むく。対象たいしょうの範囲はんいが広ひろい。
  • 偏執へんしゅう[0]より病的びょうてきな語ご。「偏執狂へんしつきょう」の形かたちで使つかわれる。「へんしつ」とも読よむ。固執こしつが誰だれにでも起おきうるのに対たいし、偏執へんしつは常軌じょうきを逸いっしているという含ふくみを持もつ。強つよさの段階だんかいが語ごで分わかれている。
  • 拘泥こうでい[0]細こまかいことにこだわる。「拘泥こうでいしない」の形かたちで否定ひていと結むすんで使つかうことが多おおい。固執こしつが大おおきな方針ほうしんにも使つかえるのに対たいし、拘泥こうでいは些事さじに限かぎられる。対象たいしょうの大おおきさで使つかい分わける。
コロケーション
  • 〜に固執こしつする基本きほんの形かたち助詞じょしは「に」。目的語もくてきごには本来ほんらいは手段しゅだんであるはずのものが来くることが多おおい — 形式けいしき、手続てつづき、様式ようしき、前例ぜんれい。目的もくてきに固執こしつするとはあまり言いわない。手段しゅだんが目的もくてき化かしたときにこの語ごが出でる — 1-7 の 145 のシステムの自己じこ目的もくてき化かと同おなじ事態じたいを人ひとの側がわから言いった形かたちである。
  • 形式けいしきへの固執こしつ最もっとも多おおい組くみ合あわせ中身なかみよりやり方かたを優先ゆうせんすること。この結むすびつきが批判ひはんになるのは、形式けいしきそのものは悪わるくないからだ。形式けいしきは公平こうへいさを担保たんぽする装置そうちでもある。何なにのための形式けいしきかを見み失うしなったときだけ固執こしつになる — 10 の担保たんぽと一いち対たいで読よみたい。
  • 固執こしつと一貫性いっかんせい紙一重かみひとえの対たい外そとから見みると区別くべつがつかない。差さは状況じょうきょうが変かわったときに変かえられるかにある。一貫性いっかんせいは原理げんりを保たもつことで、固執こしつは形かたちを保たもつこと。原理げんりを保たもつために形かたちを変かえることはしばしば必要ひつようになる。
  • 固執こしつを解とく外そとからしかできない12 で見みたとおり、本人ほんにんには固執こしつが見みえない。だから解とくきっかけはつねに外そとから来くる。批評ひひょうも、失敗しっぱいも、他者たしゃの視線しせんも、すべてこの働はたらきをしうる。2-1 の 12 の契機けいきという語ごが指さしていたのは、まさにこの外そとからの一撃いちげきである。
格かく中なか

書かき言葉ことば・会話かいわの両方りょうほうで使つかえる。

類るい語ごと差さ
  • 執着しゅうちゃく離はなれられずにとらわれる対象たいしょうへの思おもいの強つよさ。固執こしつは変かえないという態度たいど。
  • こだわる細部さいぶまで妥協だきょうしない近年きんねんは肯定的こうていてきにも使つかう。固執こしつは否定的ひていてきに固定こていしている。
  • 堅持けんじ方針ほうしんをしっかり保たもつ肯定こうてい語ご。同おなじ状態じょうたいを別べつの評価ひょうかで言いい直なおしたもの。
  • 頑固がんこ考かんがえを改あらためない性質せいしつ性格せいかくの記述きじゅつ。固執こしつは個々ここの場面ばめんでの態度たいど。

ENobstinacy / to cling to
ZH固执(頑固だ, gùzhí)

日中にっちゅうのズレ

中国語ちゅうごくごの 固执(gùzhí)は「頑固がんこだ」という形容詞けいようしで、人ひとの性質せいしつを言いう(他很固执)。

日本語にほんごの「〜に固執こしつする」という動詞どうし用法ようほうは中国語ちゅうごくごにはなく、坚持(jiānchí)や 执着于 を用もちいる。

格による分布硬・学術、硬、中の三段階に本節の語を振り分けた図。 硬・学術 4 アウラ 公共性 通底 心性 硬 2 媒介 唯一性 中 6 複製 大衆化 デフォルメ 代替 担保 固執 語は意味ではなく格で選ぶ
格かくによる分布ぶんぷ
入試にゅうしにチャレンジ

掛かけ替かえのなさを、どこで担保たんぽするか

掛け替えのなさの担保複製と交換が広がる社会で、芸術作品の掛け替えのなさを確認することが、自分自身の掛け替えのなさの裏づけになる構造を示した図。 大抵のものは複製可能・交換可能である 「私」の掛け替えのなさが揺らぐ 交換不可能な「傑作」という神話をつくる 国宝・オリジナルな傑作 担保 国宝の掛け替えのなさを確認することで、自らの存在の大切さを担保する。 崇めているのは作品ではなく、自分の掛け替えのなさである
掛かけ替かえのなさの担保たんぽ ── 芸術げいじゅつから「私わたし」へ
本文ほんぶん

この世よの中なかの大抵たいていのものは複製ふくせい可能かのうであり、交換こうかん可能かのうである。しかし、それでは掛かけ替かえのないはずのこの「私わたし」が揺ゆらいでしまうからこそ、私わたしたちは、市場しじょうにおいて交換こうかん可能かのうな商品しょうひんの上うえに、交換こうかん不可能ふかのうな、掛かけ替かえのない芸術げいじゅつ上じょうの傑作けっさくという神話しんわ世界せかいをつくろうとする。市場しじょうに支配しはいされる現代げんだい社会しゃかいにおいて、並ならぶもののない神話しんわ的てき存在そんざいに固執こしつする心情しんじょうは、自みずからの掛かけ替かえのなさを追認ついにんしてもらいたいという私的してきな動機どうきと通底つうていしている。さすがに国宝こくほうの壺つぼにまでなれば、掛かけ替かえがないものと認識にんしきされるだろう。国宝こくほうを盲目もうもく的てきにあがめる心性しんせいの中なかには、自己じこ愛あいが隠かくれている。博物館はくぶつかんの中なかで「国宝こくほう」の札ふだを見みて賞賛しょうさんの笑えみを浮うかべる鑑賞かんしょう者しゃを、単たんに権威けんい主義しゅぎとかスノッブの呼称こしょうで片かたづけてはいけない。私わたしたちは、国宝こくほうの壺つぼの掛かけ替かえのなさを確認かくにんすることで、自みずからの存在そんざいの大切たいせつさを担保たんぽしようとするのである。

一いち九きゅう三さん六ろく年ねんに発表はっぴょうされたヴァルター・ベンヤミンの論文ろんぶん「複製ふくせい技術ぎじゅつ時代じだいの芸術げいじゅつ作品さくひん」が今日きょうでも影響力えいきょうりょくを持もち続つづけているという事実じじつの背景はいけいには、単たんに芸術げいじゅつ作品さくひんの本質ほんしつに人々ひとびとが関心かんしんを持もち続つづけているというだけではなく、何なにもかもが複製ふくせいされ、代替だいたい可能かのうなものにかえられていく現代げんだい社会しゃかいにおいて、「私わたし」の掛かけ替かえのなさを救すくいたいという人々ひとびとの無意識むいしきのうちの動機どうきづけがあるのかもしれない。

最高さいこうの完成度かんせいどをもつ複製ふくせいの場合ばあいでも、そこには〈ひとつ〉だけ脱だつけ落おちているものがある。芸術げいじゅつ作品さくひんは、それが存在そんざいする場所ばしょに、一回いっかい限かぎり存在そんざいするものなのだけれども、この特とく性せいが、いま、ここに在あるという特とく性せいが、複製ふくせいには欠かけているのだ。

ベンヤミン『複製ふくせい技術ぎじゅつ時代じだいの芸術げいじゅつ作品さくひん』

私わたしたちは、上うえの文章ぶんしょうの「芸術げいじゅつ作品さくひん」を、「私わたし」と読よみ替かえてみることもできる。「私わたし」が「いま、ここに在ある」という特とく性せいが、複製ふくせいには欠かけている。ベンヤミンの文章ぶんしょうが私わたしたちを安心あんしんさせるとすれば、その背後はいごには、複製ふくせい技術ぎじゅつの発達はったつに伴ともなって脅おびやかされる私わたしたち一人ひとり一人ひとりの掛かけ替かえのなさがあるのである。

デジタル情報じょうほう技術ぎじゅつが進展しんてんすることによって、ベンヤミンが問題もんだいにした複製ふくせい技術ぎじゅつの影響力えいきょうりょくは、ますます強きょうまっているように思おもわれる。実際じっさい、現代げんだい美び術じゅつにおいては、それまであった「オリジナル」と「複製ふくせい」という区別くべつ自体じたいがすでに意味いみを持もたなくなってきている。

もっとも、現代げんだい美び術じゅつのコアの部分ぶぶんをのぞいた一般いっぱん社会しゃかいでは、古典的こてんてきな意味いみでの「オリジナルな傑作けっさく」という神話しんわは、一定いっていの力ちからを持もち続つづけている。さらに、複製ふくせいすることのできない、掛かけ替かえのない「私わたし」という神話しんわは、私わたしたちの世界観せかいかんの中なかにしっかりと根ね付ついているように思おもわれる。

出典しゅってん 茂木健一郎もぎけんいちろう『脳のうのなかの文学ぶんがく』 / 出題しゅつだい 愛あい知ち教育きょういく大学だいがく

アウラの喪失唯一のオリジナルに宿るアウラが、複製可能になることで失われる過程を示した図。 オリジナル 作品 アウラ いま、ここにしかない 芸術家と時代の精神 複製技術 複製複製複製 複製複製複製 誰もがいくらでもつくれる アウラは失われる 失われるのは価値ではなく、「いま、ここ」という一回性である
アウラの喪失そうしつ(再掲さいけい)── 脱だつけ落おちる〈ひとつ〉
ヒント

複製ふくせい・交換こうかん可能かのうな芸術げいじゅつ作品さくひんに、掛かけ替かえのない芸術げいじゅつ上じょうの傑作けっさくという神話しんわ世界せかいをつくろうとする理由りゆう。

問とい

傍線ぼうせん部ぶのように考かんがえられるのはなぜか。句読点くとうてんを含ふくめて五十ごじゅう字じ以内いないで答こたえよ。(オリジナル問題もんだい)

正解せいかいと解説かいせつ

(例れい)芸術げいじゅつ作品さくひんの掛かけ替かえのなさを確認かくにんすることで、人々ひとびとは自みずからの掛かけ替かえのなさを担保たんぽ(保証ほしょう)しようとするから。

「オリジナルな傑作けっさく」とは「交換こうかん不可能ふかのうな、掛かけ替かえのない芸術げいじゅつ上じょうの傑作けっさく」を指さす。なぜそのような神話しんわ世界せかいをつくろうとするのかというと、自みずからの掛かけ替かえのなさを救すくいたいという意識いしきなどがあるためである。

Output

産出さんしゅつ

やるなら ── 次つぎのいずれかを一段落いちだんらくで書かく。

  • 自分じぶんにとって代替だいたい不可能ふかのうなものを一ひとつ挙あげ、なぜ代替だいたいできないのかを書かく
  • 同おなじ内容ないようを活字かつじと映像えいぞうで受うけ取とった経験けいけんを一ひとつ挙あげ、何なにが違ちがったかを書かく
Blank

複製ふくせいできないことが掛かけ替かえのなさの根拠こんきょなのだとすれば、完全かんぜんに複製ふくせいできる存在そんざいは、掛かけ替かえがないと言いえなくなるのか。