Theme 2-2

身体論

[ 原書 第2部 テーマ編 2-2 ]

加筆語彙 12 / Key Point 2 / 図版 10

Macro — 論の流れ

身体は、なぜ物ではないのか

身体論の流れ二十世紀までの心身二元論から、新しい身体論の三つの視点へと展開する流れを示した図。 〜二十世紀 ── 心身二元論 精神 = 人間である理由 身体 = 精神の器・物体 身体は単なる物ではない 二十世紀〜 ── 新しい身体論 ① 相関関係 身体と精神は 影響し合う ストレス → 頭痛・不眠 ② 像としての身体 全体像は見えない 断片の寄せ集め 像 ≠ 身体そのもの ③ 他者としての身体 他者の視線が 像をつくる 思い通りにならない 最も身近であるはずの身体が、像としてしか把握できない最も遠いものになる。 この逆説が、身体論全体を貫いている
心身二元論から、新しい身体論の三つの視点へ

この主題も一本の流れでできている。二十世紀まで、身体は精神をおさめる器・物質として軽視されてきた。その反省から新しい身体論が現れ、三つの視点が順に出てくる。①身体と精神は相関している。②身体はとしてしか把握できない。③その像は他者の視線によってつくられる。①②③はこの順で深まっていくので、途中の主張だけを取り出すと論全体を見誤る。

結論はひとつの逆説に集約される。最も身近であるはずの身体が、最も遠いものである。

原書の本文

四つの段階

近代は身体軽視の時代だった

近代の長い期間にわたって、身体は、ただの物(物質)としてとらえられてきた。たとえば、身体の病気は機械の故障のようなものであるから、故障の原因である部品を直せばもとどおりに回復する。西欧医学の身体観とは、身体を物質の集合としてみなすことで成立しているのだ。

このような近代的な身体観を準備したのは、哲学者のデカルトだと言われている。デカルトの心身二元論は、世界を正しく理解するには精神(理性)が必要だとする一方、身体は物質と同じようなものとして軽視した。つまり、人間を人間たらしめているのは精神であり、身体は精神をおさめる単なる器でしかないというわけだ。

デカルトの心身二元論と身体軽視精神を人間の本質とし身体を物質と同じ器とみなす二元論が、身体を機械として扱う医学観を準備したことを示した図。 精神(理性) 人間を人間たらしめるもの 身体 精神をおさめる単なる器 身体は物質の集合である 西欧医学の身体観 病気は機械の故障である。 部品を直せばもとどおりに 回復する。 この身体観を準備したのはデカルト 身体を物にしたことが、近代医学の力にも限界にもなった
身体を物にしたことが、近代医学の力にも限界にもなった

身体と精神は関係している

デカルトに始まる身体軽視が反省され、身体のとらえ方に新たな視点が登場したのは、二十世紀に入ってからである。

身体が単なる物質でないことの証拠として、心の不調が続くと身体に影響が出ることが挙げられる。たとえばストレスが強くかかった状態が長く続くと、頭痛や不眠症状が起きたりする。このように、身体と精神とは相関関係にあるのだ。

身体と精神の相関心の不調が身体に現れ、身体の不調が心に及ぶという双方向の関係を示した図。 精神 ストレス・不安 身体 頭痛・不眠 影響する 影響する どちらが主でも従でもない。向きは双方向である。 この双方向性が、精神を上に置く二元論を崩す。 相関には向きがない ── 因果と混同しないこと
向きは双方向である

見ることのできない身体

また、私たちは、物を見るようには自分の身体を見ることができない。

たとえば私たちは、自分の顔や背中を直接見ることができない。学校にいる間だったら、クラスメイトの方が自分の顔を見ていることになる。このように考えると、自分の身体について、私たちが見ることができる部分は、自分が思う以上に乏しいものなのだ。

したがって、自分の身体イメージとは、部分的な情報の寄せ集めでしかない。このことを抽象的に表現すると、「像としての身体」という言い方になるのだが、ここで大事なことは、「像としての身体」は身体そのものではないということだ。

自分にとって最も身近であるはずの身体は、イメージとしてしか把握できない、最も遠いものなのだ。

像としての身体直接見える部分がわずかしかない身体が、断片の寄せ集めとして像に組み立てられることを示した図。 直接見える部分 顔・背中は見えない 思う以上に乏しい 寄せ集め 補われる断片 写真他人の言葉 記憶感覚 像としての身体 「像としての身体」は、身体そのものではない。 最も身近なものが、最も遠いものになる
断片を寄せ集めて、像がつくられる

他者としての身体

さらに自分にとっての身体のイメージには、他者の視線も紛れ込む。これは、「他者が自分を見る視線」が自分の身体イメージに影響を与えるということだ。

たとえば、自分の身体を「肥満」だととらえるイメージは、他者の視線を経由することでつくられていく。だからこそ、大して太っていない女性が、ダイエットに躍起になるという事態も起こるのだ。

ここで言う他者とは、特定の誰かのことではない。私たちの身体は、(衣服はまとっているが)常に不特定多数の人目にさらされている。そこでは、無数の視線が「美醜」「男らしさ」「女らしさ」といった評価を伴って、私たちの身体イメージに影響を与えていく。そのため、「イケメン」という言葉で人が変身をはかるのも、もっぱら他者の視線を意識してのことであり、その成否は他者の評価に依存している。

自分の身体イメージは、自分の思い通りにはならない。それどころか、理想のイメージを追い求めるばかり、自分の身体をよそよそしいものとすら感じてしまう。これを「他者としての身体」とよぶこともできるだろう。

他者の視線が身体イメージをつくる認識できない身体そのものに対して、不特定多数の視線と評価が身体イメージを形づくることを示した図。 身体そのもの 認識は不可能 不特定多数の視線 評価を伴う 美醜 男らしさ・女らしさ 「肥満」という身体イメージ 大して太っていない人がダイエットに躍起になる理由がここにある
他者の視線が身体イメージをつくる
Key Point

二つの要点

Key Point 1 ── 身分け

私たちは、言葉を通じて物を認識したり、世界のあり方を知ったりするが、同時に身体そのもので雰囲気を察知したり、空気を読んだりもする。「こっちの方に行くと危なそうだ」という予感などは、理性による認識というよりも、身体的なセンサーのはたらきに近いだろう。

ある評論家は、前者のように言葉で世界を理解することを「言分け」と言い、後者のような身体による理解のあり方を「身分け」とよんだ。

「分け」とは「分節」の意だが、たとえば、赤ん坊が言葉を覚えることで、物と物の区別を知ることは「言分け」であり、身体によって快と不快とを区別することは「身分け」である。

言分けと身分け言葉による分節と、身体による分節という二つの世界の切り分け方を対比した図。 分節 ── 連続した世界に切れ目を入れる 言分け 言葉で世界を理解する 赤ん坊が物と物を区別する 言語による分節 身分け 身体で世界を理解する 快と不快を区別する 身体による分節 世界の切り分けは、言語の独占ではない
言分けと身分け ── 二つの分節
Key Point 2 ── 身体の外部化

「身体と道具」の関係に注目した身体論を扱った入試問題もある。道具は人間の身体を模してつくられている。たとえば、ナイフは爪や歯の延長であり、ハンマーは拳の延長であり、車輪は足の延長であった。もともと人間の身体にある機能を道具に応用したのである。そして、人が道具を使いこなす時、それは自分の一部となっている。使っている時はまったく意識されないが、道具とは「身体機能の外部化」なのである。

しかし、人が疲れを感じたり病気になったりすると、身体が思うようにならず、自分の身体が他人の物のように感じられてくる。また、「足が棒のようになる」という表現があるが、これはそれまで意識されなかった足が、自分の一部ではなく、棒のように感じられてくる感覚を言ったものである。この場合、「身体そのものの外部化」が行われている。

二つの外部化身体機能が道具へ移る外部化と、身体そのものが自分の外の物のように感じられる外部化を対比した図。 ① 身体機能の外部化 ── 道具が身体になる 爪・歯 ナイフハンマー車輪 使いこなす時、 道具は自分の一部になる。 使っている間は意識されない ② 身体そのものの外部化 ── 身体が物になる 疲れ・病気 「足が棒のようになる」 自分の一部ではなく、 他人の物のように感じられる。 ①は道具が身体になる向き、②は身体が物になる向き ── 逆である
二つの外部化 ── 向きが逆である
Terms — 本サイトによる加筆

この主題を読むための十二語

原書のキーワード番号は付されていない層である。概念語八つと、本文・入試文に現れる読解語彙四つを補う。

01概念

身体しんたい

しんたい[1]頭高型

語構成
み・からだからだ
使用の境界

生きて働いているものとしてのからだ。物体として扱えば「肉体」に近づき、生きられているものとして扱えば身体になる。

用法

評論文の「身体」は、単なる「からだ」ではなく近代批判の語として置かれる。デカルト以来、身体は精神の器・物質として軽視されてきた。二十世紀の身体論はそこを反転させ、身体を世界と接する経路として捉え直す。読解の急所は、日本語の「身」が心とも人間関係とも通じる語であるのに対し、「身体」は西洋語の訳語として物体の側に引かれてきたという二重性にある。入試文はこの点をそのまま論じている。

用例
  • 私は肉体の詩人であり、また魂の詩人である。……もし肉体が人間でないとするなら、魂とは何なのか。ウォルト・ホイットマン『草の葉』「わたし自身の歌」(1855)/訳は本教材
    心身二元論への最も短い反論である。仕掛けは問いの形にある。「肉体も大事だ」と主張するのではない。肉体を人間から外したら、魂の側も定義できなくなると言っている。魂は肉体との対でしか意味を持たないからだ。この構えは 1-5 の 91 の心身二元論を内側から崩す。デカルトは二つに分けたが、分けたあとで一方だけを取り出せるとは言っていない。ホイットマンはその取り出しの不可能を一行の問いで突いた。なお「詩人である」と二度名乗る形も効いている — 並べることでどちらも捨てないと示している
  • 身体は大いなる理性である。……我が兄弟よ、汝が「精神」と呼ぶあの小さな理性もまた、汝の身体の道具にすぎない。フリードリヒ・ニーチェ『ツァラトゥストラはこう言った』「身体の軽蔑者について」(1883)/訳は本教材
    心と身体の上下を正面から引っくり返した一節である。仕掛けは「理性」という語の取り合いにある。理性は本来精神の側の看板だ。ニーチェはその看板を身体の側へ持っていく。身体こそが大いなる理性であり、精神はその道具にすぎない、と。なぜそう言えるのか — 意識に上るのは身体でなされている膨大な調整のごく一部だけだからだ。心臓も消化も免疫も、考えなくても整えられている。1-5 の 91 の心身二元論が精神を上に置いたのに対し、ここでは順位が逆転する。ただし注意したい — 上下を入れ替えただけでは二元論は残る。02 の相関で見るとおり、この主題の要は順位ではなく分けたこと自体にある。
  • 身体は、自分のものでありながら自分の思い通りにはならない。 この主題の出発点である。所有はしているが支配はしていない。心臓は止められず、眠りは命令できない。所有と支配のずれが、07 の所有と 08 の随意でそれぞれ扱われる。
  • ×毎朝走って身体を鍛えている。 通じるが、「体」「からだ」のほうが自然である。評論語の身体は心との対で立てられる概念語で、運動や健康の対象としての肉体を指す語ではない「体」に置き換えて意味が変わらないなら、そこに身体は要らない — 2-1 の 01 で見た他者/他人と同じ見分け方が使える。
派生形
  • 肉体にくたい[0]物質としての側面を強く出す語。「肉体労働」「肉体的な疲労」。身体が心との関係のなかで立てられるのに対し、肉体は精神の反対物として置かれる。二元論の内側の語である。
  • 身体的しんたいてき[0]形容動詞形。「身体的な接触」のように使う。注意したいのは、「肉体的」より中立である点だ。肉体的には性的・労働的な含みが付きやすいが、身体的にはそれが無い。
  • 生身なまみ[0]和語の言い方代替のきかない、傷つく身体を指す。「生身の人間」と言えば抽象化を拒む宣言になる。評論文では制度や数値に対して個別の身体を対置するときに使われる。
コロケーション
  • 身体性性質だけを抜く語身体という実体ではなく、身体をもつことに由来する性質。この語が要るのは、思考にも言葉にも身体の痕跡があると言いたいときだ。「腑に落ちる」「手に負えない」— 抽象的なことを言う語彙が身体から来ている。1-3 のメタファーがここに根を持つ
  • 身体を通した理解知の別の道説明されて分かるのではなく、できるようになって分かること。自転車の乗り方は言葉では伝わらない。この結びつきが評論文で重いのは、近代の知が言語化できるものだけを知として数えてきたからだ。1-6 の 121 の近代合理主義が取りこぼした側が、ここにある。
  • 身体の物象化批判の語身体が部品や資源として扱われること。医療でも労働でも身体は数値に置き換えられる。1-6 の 133 の物神性が自分の身体に及んだ形で、持ち主である当人までが自分の身体を管理対象として見るようになる。
  • 身体感覚測れないものを指す語自分の内側から感じられる身体の状態。この語が便利なのは、外から観察できる身体と区別できるからだ。体温計の数字とだるさは別のものだ。この二つが食い違うとき、どちらを本当とするか — 身体論の問いはここに集まる。

書き言葉・会話の両方で使える。

類語と差
  • 肉体物質としてのからだ精神と対立させて置く語。魂の器という含みが強い。身体は経験する主体としての側面を含む。
  • からだ・我が身訓読み。日本語では「身に沁む」のように心にも通じ、人間関係の位置も表す。物体の意はほとんどない。
  • 物体空間を占める物☑9 対象化の対象。近代はこの側から身体を捉えた。
  • 生身生きているからだ傷つきやすさを含意する。身体は中立で学術的。

ENbody
ZH身体(身体, shēntǐ)

02概念

相関そうかん

そうかん[0]平板型

語構成
あい・たがいにかかわる
使用の境界

二つのものが互いに影響し合う関係。片方が原因で片方が結果という向きは含まない。

用法

最も重要なのは因果との区別である。相関があっても、どちらが原因かは分からない。心の不調が続くと身体に不調が出る、身体の不調が続くと心が沈む──この主題では双方向であることが要点になる。だから「身体と精神は相関関係にある」は、精神が主で身体が従という二元論を崩す言い方になっている。統計の文脈では「相関がある」と「因果がある」を混同することが典型的な誤りとして扱われる。

用例
  • 心のうちの受動は、身体のうちの能動である。……我々が情念と呼ぶものは、身体の働きが心に及ぼした結果にほかならない。ルネ・デカルト『情念論』第一部(1649)/訳は本教材
    二元論を立てた当人が、二つの結びつきに苦しんでいる一節である。心と身体をまったく別の実体として分けたのはデカルトだ。ところが分けた途端、手を動かそうと思うと手が動くという日常の事実が説明できなくなる。別の実体どうしは触れ合えないはずだからだ。この一文の「受動」と「能動」の対は、触れ合えないものを無理に接続しようとする苦しまぎれの工夫である。(デカルトは最終的に脳の松果腺に接点を求めた。)相関という語は、この失敗の跡地に建てられている因果は説明できないが、対応していることは確かだ
  • 悲しいから泣くのではない。泣くから悲しいのである。ウィリアム・ジェイムズ『心理学原理』第二十五章(1890)の主旨による/訳は本教材
    心と身体の順序を入れ替えてみせた命題である。常識では心が先、身体が後だ。ジェイムズは身体の変化が先に起き、それを感じ取ることが感情であると言う。この主張の強さは検証できることにある — 姿勢を変えれば気分が変わり、笑顔を作ると実際に少し楽しくなる。ただし注意したいのは、順序を逆にしただけでは二元論は残っていることだ。先か後かを争っているかぎり、二つあることは前提のままである。01 のメルロ=ポンティが順序ではなく「同じ一つの出来事の二つの面」と言い直したのは、この手前で止まらないためだった。
  • 姿勢を正すと気持ちも改まる。ここに心身の相関が現れている。 この語の日常での現れである。注意したいのは、相関は因果ではないことだ。姿勢が気分を変えたのか、両方を変える第三のものがあるのか、これだけでは決まらない。言えるのは「連動している」までである
  • ×勉強時間と成績には相関があるので、勉強すれば成績が上がる。 相関から因果へ飛んでいる。相関は一方が動くともう一方も動くという関係の記述にすぎない。もともと成績のよい生徒がよく勉強するという逆向きも、家庭環境が両方を決めているという第三の要因もありうる。この飛躍は評論文で最も多く指摘される誤りである。
派生形
  • 相関的そうかんてき[0]二つが対応していることを言う。「相関的な関係」は重言になるので避ける。「相関的に理解する」のように方法の側で使うのがすっきりする。
  • 因果いんが[1]相関より強い主張。一方がもう一方を引き起こす時間の順序と他の要因の排除が示されて初めて言える。「相関がある」で止めるか「因果がある」まで行くかで、証明の負担がまるで違う
  • 連動れんどう[0]やわらかい言い換え仕組みまでは問わずに一緒に動くことだけを言う。相関が統計・学術の語なのに対し、連動は日常でも使える文章の硬さで選び分ける
コロケーション
  • 心身相関定型としての語心と身体がたがいに影響し合うこと。この言い方が医学でも哲学でも使われるのは、因果を決めずに事実だけ書けるからだ。説明を保留したまま前へ進めるというこの便利さが、そのまま説明の先送りにもなりうる。
  • 相関関係因果と分ける語「相関関係は因果関係を意味しない」は統計の基本原則である。この結びつきが評論文で重いのは、数字を出されると因果に見えてしまうからだ。1-7 の 143 の情報社会でデータが増えるほど、相関はいくらでも見つかる見つかりすぎることが新しい問題になっている
  • 相関的に捉える方法を言う語二つを別々に見ず、関係のなかで見るという構え。1-2 の要素論に対する全体論の側の言い方で、身体論はこの構えを心と身体に適用する片方を先に決めてからもう片方を説明するのをやめる、という宣言である。
  • 相関の切断二元論の帰結心と身体を切り離して別々に扱えるとすること。医学がここまで進んだのはこの切断のおかげでもある。身体を機械として扱えば部品を直せる切断は誤りである前にきわめて有効な方法だった — この点を認めないと、二元論批判はただの悪口になる。

書き言葉。会話では不自然。

類語と差
  • 因果原因と結果の結びつき☑51。向きがある。相関は向きを問わない。この差が最重要。
  • 関連つながりがある広い。相関は変動が連動していることを言う。
  • 連動一方が動けば他方も動く機械的な結びつき。相関は統計的な傾向を指すことが多い。
  • 相互作用互いに働きかけ合う作用の実体がある。相関は関係の記述にとどまる。

ENcorrelation
ZH相关(関連する, xiāngguān)

03概念

ぞう

ぞう[1]頭高型

語構成
かたち・すがた
使用の境界

心に思い浮かべられたかたち。もの自体ではなく、それについて作られた表れを指す。

用法

この主題の中核をなす語で、「像としての身体」は身体そのものではないという一点が要点になる。自分の顔も背中も直接は見えず、鏡と他人の言葉と写真から寄せ集めた断片で像を作っている。したがって最も身近なはずの身体が、像としてしか把握できない最も遠いものになる。この逆説がテーマ全体を貫く。「像」単独より「身体像」「自己像」の形で使われることが多い。

用例
  • 人は、たがいにとっての鏡である。……我々は他人の心に映った自分の姿を想像し、その姿についての相手の判断を想像し、そこから誇りや恥といった感情をもつ。チャールズ・ホートン・クーリー『人間性と社会秩序』(1902)/訳は本教材
    自己像がどう作られるかを、三段階に分解してみせた一節である。クーリーはこれを「鏡に映った自己」と呼んだ。注目したいのは、二度「想像し」と繰り返されていることだ。実際に相手が何を思っているかは分からない。我々が反応しているのは想像された判断である。だから自己像は他人の実際の評価ではなく、こちらが読み取ったつもりの評価でできている。誰も何も思っていなくても恥ずかしくなりうるのはこのためだ。2-1 の 01 で見た他者の視線が、相手が見ていなくても働く理由がここにある。
  • 一人の子が、生後六か月から十八か月のあいだに、鏡のなかの像を自分だと認める。そのとき子は、まだ自力で立てないにもかかわらず、一つのまとまった姿を先取りして引き受ける。ジャック・ラカン「鏡像段階」(1936/1949)の主旨による/訳は本教材
    身体の像が身体より先に来るという倒錯を指摘した議論である。要は順序だ。乳児は自分の身体をばらばらにしか感じていない。手も足もまだ思い通りにならない。ところが鏡にはすでに完成した一つの姿が映っている。実感より先に像のほうがまとまっているのだ。この先取りが自己という統一の出発点になるが、同時に自己は最初から外側の像に借りを作っていることにもなる。2-1 の 03 の自己が他者なしに立たないという主張が、ここでは鏡という装置で説明されている。
  • 鏡に映るのはであって、感じられている身体ではない。この二つはしばしば食い違う。 この主題の要点である。内側から感じる身体と外から見える像は別々に作られる。摂食障害も、容姿への執着も、この二つのずれから起きる。11 の美醜は像の側にだけ属する語である。
  • ×駅前に立派なが建った。 彫像のことなら「銅像」「彫像」である。評論語の像は心のなかに結ばれるイメージを指すことが多く、物としての像とは別に読む。なお「像を結ぶ」「自己像」「身体像」のように、複合語の形で出てきたらほぼ概念語だと見当をつけてよい。
派生形
  • イメージ[1]外来語での言い換え。像よりやわらかく、曖昧さを許す。「イメージが湧く」は自然だが「像が湧く」とは言わない像は結ぶもの、イメージは持つものという共起の差がある。
  • 表象ひょうしょう[0]哲学の術語心に思い浮かべられたもので、1-5 の 93 の知覚と対で使われる。像が視覚に寄るのに対し、表象は感覚の種類を問わない射程が広いぶん、手触りは薄い
  • 形象けいしょう[0]形として現れたもの。文芸批評で作品のなかに立ち上がる姿を指して使う。作られたものであるという含みが強く、自然にそこにある像とは区別される。
コロケーション
  • 身体像この主題の術語自分の身体について心の内に持っている像。この語が要るのは、実際の身体と像が一致しないからだ。手足を失った人が失った部分の痛みを感じる(幻肢)のは、像のほうが残っているからである。身体は物であると同時に像でもあることの、最も鮮明な証拠。
  • 自己像像が像を見る自分について描いている像。2-1 の 07 の再帰がここで具体的な形をとる。注意したいのは、自己像を修正する作業もまた自己像のなかで行われることだ。外へ出て確かめられない。だから他者の言葉が要る — クーリーの鏡はここに効いてくる。
  • 像を結ぶ光学から来た言い方レンズが光を集めて一点に像を作るという物理の語彙。この比喩が定着したのは、像が「そこに在る」のではなく「そのつど作られる」ことを言えるからだ。条件が変われば像も変わる — 自己像が場面ごとに違うのも同じ理屈になる。
  • 偶像像が実体を奪う語本来は拝むために作られた像。転じて実体より像のほうが力を持つ事態を指す。1-6 の 133 のフェティシズムと同じ場所を宗教の語彙で言った形である。ベーコンのイドラ(1-2)も同じ語から来ている — 像は認識を助けもすれば妨げもする

書き言葉。会話では不自然。

類語と差
  • 表象心に立ち現れた像☑65。ほぼ同義の学術語。像はより素朴で、視覚的な含みが強い。
  • イメージ思い浮かぶ姿外来語で日常的。像はその漢語形で、文章語。
  • 実像実際のありさま対語として使われる。虚像との対でも用いる。
  • 印象感覚に残った形受けた側の感覚。像は対象について作られた表れ。

ENimage
ZH形象(形象・イメージ, xíngxiàng)

04概念

身分けみわけ

みわけ[0]平板型

語構成
からだ分け分節すること

評論家・市川浩の造語。「分け」は「分節」の意である。

使用の境界

身体によって世界を区切り、感じ分けること。言葉による区切り(言分け)と対になる。

用法

評論家・市川浩の造語で、☑67 分節を身体の側へ拡張した語である。赤ん坊が言葉を覚えて物の区別を知るのが言分け、快と不快を身体で区別するのが身分け。「こっちに行くと危なそうだ」という予感は理性の判断ではなく、身体的なセンサーの働きに近い。要点は、世界の切り分けが言語の独占ではないという主張にある。空気を読む・雰囲気を察するといった日常の営みが、ここで理論の対象になる。

用例
  • 観見二つの事、観の目つよく、見の目よはく、遠き所を近く見、近き所を遠く見る事、兵法の専なり。宮本武蔵『五輪書』水之巻(1645)
    言葉より手前で世界が分けられていることを示した一節である。武蔵は目の働きを「観」と「見」の二つに分けた。「見」は目に映るものをそのまま追う働き、「観」は場全体の気配を掴む働きである。注目したいのは、強くせよと言われるのが「観」のほうだという点だ。はっきり見えているものほど当てにならない。そして「遠き所を近く見、近き所を遠く見る」— 距離の感じ方そのものを作り変えよと言っている。ここで分けられているのは言葉ではなく身体の構えだ。身分けという語が指すのはまさにこの層 — 言葉で分ける(言分け)前に、身体がすでに世界を分けてしまっている。1-3 の分節が言語だけの仕事ではないと言われる根拠がここにある。
  • 習慣は、身体が世界を了解する仕方である。……盲人の杖は、もはや彼が知覚する対象ではなく、彼がそれによって知覚する器官となる。モーリス・メルロ=ポンティ『知覚の現象学』第一部(1945)/訳は本教材
    身分けが拡張しうることを示した一節である。杖は最初手に持った物だ。慣れると杖の先で地面を感じるようになる。感覚の境界が手のひらから杖の先へ移動するのだ。ここから二つ出てくる。第一に、身体の輪郭は皮膚ではない。第二に、身分けは生まれつきではなく習慣で作られる。車の車幅感覚も、楽器も、道具が身体になる例だ。05 の外部化と向きが正反対である — あちらは身体の働きが外へ出ていき、こちらは外の物が身体に入ってくる。
  • 言葉で名を与える前に、身体はすでに世界を分けている。これを身分けという。 この語の定義である。暗い部屋に入ったとき、言葉にする前に身体がすくむ言分けが身分けの上に乗っているという順序がこの主題の主張だ。1-3 の 記号と分節を下から支えている層にあたる。
  • ×荷物を種類ごとに身分けして片づけた。 そういう語は無い。仕分けるなら「仕分け」「区分け」である。身分けは「言分け」と対にして作られた術語で、身体による世界の分節を指す。造語である以上、文中で必ず対の「言分け」と一緒に出すのが読み手への礼儀になる。
派生形
  • 言分けことわけ[0]対になる術語。言語によって世界を切り分けること。1-3 の 分節を和語で言い直した形にあたる。「ことわけ」と読み、「言い訳」とは別語。ルビが必須の語である。
  • 身体化しんたいか[0]知識や技術が身体に染み込むこと。「型が身体化する」。意識しなくてもできる状態がその到達点で、そのぶん説明できなくなるという代償を伴う。
  • 身に付くみにつく[3]日常語での言い方「覚える」との差に注意したい。覚えるのは、身に付くのは身体日本語がもともとこの二つを分けていることが、身分けという造語を受け入れやすくしている。
コロケーション
  • 言分けと身分け対でのみ働く語この二語は片方だけでは意味をなさない。言分けは言語による分節、身分けは身体による分節。要点は順序にある — 身分けが先にあり、言分けがその上に重ねられる。だから言語で説明しきれない領域が必ず残る
  • 身体図式近い概念自分の身体の各部分の位置を意識せずに把握している仕組み。目を閉じても手がどこにあるか分かる。03 の身体像が見られる姿なのに対し、身体図式は動くための地図である。像は意識され、図式は意識されない
  • 暗黙知言葉にならない知語れる以上に知っているという事態を指す語。身分けはこの知の身体的な土台にあたる。1-7 の 152 のアカデミズムが扱いにくいのはこの層だ — 論文にできない知は学問の外に置かれる。職人の技が継承の危機にあるのも同じ理由による。
  • 身分けの習慣化後天性を言う語身分けが訓練で作り変えられること。メルロ=ポンティの杖がその例である。この面を押さえておくと、身体が自然のままの土台だという素朴な見方を避けられる。身体もまた文化に彫られている — 1-4 の 73 の文化がここまで届いている。
硬・学術

論文・評論でのみ使う。会話では不自然。

類語と差
  • 言分け言葉による分節対語。☑67 分節を言葉の側に限定した言い方。
  • 分節連続に切れ目を入れる☑67。上位概念。身分けと言分けはその二つの様式。
  • 直観筋道を経ずに捉える働きの速さ。身分けは身体という経路を指定する。
  • 暗黙知言葉にできない知ポランニー。身分けが蓄積したものと言える。

ENbodily articulation
ZH身体分节(身体による分節, shēntǐ fēnjié)

日中のズレ

身分け・言分けは日本語の造語であり、中国語に定訳がない。

説明するなら 身体的分节/语言的分节 のように分解して言うことになる。

05概念

外部化がいぶか

がいぶか[0]平板型

語構成
外部そとそうなる
使用の境界

内にあったものを外へ移し、独立した形にすること。単に外に出すのではなく、外に置いたまま働かせる点を含む。

用法

二つの層で使われる点が要点になる。①身体機能の外部化──ナイフは爪や歯の、ハンマーは拳の、車輪は足の延長である。道具は身体の機能を外へ移したものだ。②身体そのものの外部化──疲れや病気のとき、身体が自分の一部ではなく他人の物のように感じられる。「足が棒のようになる」がその例。①は道具が身体になる方向、②は身体が物になる方向で、向きが逆である。この対比が Key Point の骨格をなす。

用例
  • この技術は、学ぶ者の魂に忘却を生じさせるだろう。彼らは書かれたものを頼りにして、自分の内から思い出すことをやめ、外にある他人の刻みつけた印によって思い出そうとするからだ。プラトン『パイドロス』(前370頃)/訳は本教材
    外部化の最初の批判である。批判されているのは文字だ。注目したいのは、この批判が文字で書かれていることである。プラトンは文字を疑いながら文字で残した。そしてそのおかげで二千四百年後の我々がこの批判を読める。外部化を論じる議論がつねに抱える自己矛盾が、出発点にすでにある。要点は「内から思い出す」と「外の印によって思い出す」の対だ。同じ「思い出す」でも働きの所在が違う。1-7 の 143 の情報社会で検索が記憶を肩代わりする話は、この一節の反復である。
  • 道具は、人間の器官の延長である。……人間はその作った物のなかへ、自分の力を移し置いてきた。エルンスト・カップ『技術哲学要綱』(1877)/訳は本教材
    外部化を肯定の側から定式化した一節である。ハンマーは拳の延長、レンズは目の延長、車輪は脚の延長。この見方の利点は、技術を人間の外にある異物としないところにある。道具は人間の一部が外へ出たものだ。ところがここから不穏な帰結も出る — 出て行った器官は、本体の側で衰える。計算機が計算を引き受ければ暗算が衰え、記録装置が記憶を引き受ければ記憶が衰える。延長と喪失は同じ一つの出来事の二つの面である。04 のメルロ=ポンティの杖とちょうど逆向きに読める。
  • 記憶を紙に、計算を機械に委ねる。こうした外部化は能力の拡張であると同時に能力の委譲でもある。 両面を一文に収める型である。できることが増えると同時に、できなくなることも増える。どちらか一方だけを書くと技術礼賛か技術嫌悪に落ちる。評論文が求めるのは差引きを書くことだ。
  • ×社内の経理業務を外部化した。 通じるが、経営の語としては「外部委託」「アウトソーシング」である。評論語の外部化は人間の能力や機能が身体の外の物へ移されることを指す概念語で、業務の委託とは層が違う。ただし両者は地続きでもあり、その地続きを論じるのがこの語の使いどころになる。
派生形
  • 外化がいか[0]哲学の術語。ヘーゲルの Entäußerung の訳で、内にあるものが外に形をとって現れること。そのあと疎遠なものになるという含みがあり、1-6 の 137 の疎外と同じ根を持つ。
  • 外部性がいぶせい[0]経済学では別の意味。取引の当事者以外に影響が及ぶこと(外部経済・外部不経済)。同じ「外部」でも分野で意味が変わるので、評論文ではどちらの文脈かを先に確かめる
  • 内面化ないめんか[0]逆向きの語。外にあった規範や視線を自分の内側の基準にすること。1-7 の 144 の監視社会と1-4 の 83 の世間がこの語で結ばれる外部化と内面化は交互に起きると見ると、技術と心の関係が読みやすくなる。
コロケーション
  • 身体の外部化この主題での形身体が担っていた働きが道具や機械へ移ること。この結びつきが要るのは、外部化の対象が記憶や計算だけではないからだ。移動も、力も、感覚さえ外へ出せる。身体でしかできないことが何かを問うことが、身体論の現代的な課題になる。
  • 記憶の外部化最も古い形文字、印刷、写真、記録装置。プラトン以来同じ批判が技術のたびに繰り返されている。押さえておきたいのは、批判が毎回当たっていると同時に外れていることだ。暗誦の力は確かに衰えたが、そのぶん書物を突き合わせる知が生まれた
  • 外部化と内面化往復する対外へ出したものが、今度は内側の基準として取り込まれるという循環。文字を外に出したはずが、文字で考えるようになる。1-7 の 144 で見た自発的な服従もこの形をしている — 外にあった監視が内側の目になる
  • 外部化された自己現代の論点記録・投稿・履歴として身体の外に蓄積された自分。この語が要るのは、その蓄積が本人より詳しく本人を知っているという事態が生じたからだ。2-1 の 03 の自己が関係のなかで作られるなら、データもまたその関係の一部になる。
硬・学術

論文・評論でのみ使う。会話では不自然。

類語と差
  • 内部化外にあったものを内に取り込む対語。道具に慣れると自分の一部になる過程がこれにあたる。
  • 疎外自作物が逆に人を支配する☑21。外部化した結果として起こりうる事態。段階が違う。
  • 客体化働きかけられる側に置き直す☑107。外部化は機能を移すこと、客体化は扱いを変えること。
  • 代替別のもので置き換える入れ替え。外部化は元のものが残ったまま外にも置かれる。

ENexternalisation
ZH外部化(外部化, wàibùhuà)

06概念

媒体ばいたい

ばいたい[0]平板型

語構成
なかだちもの
使用の境界

二つのものを結びつける仲立ちとなるもの。それ自体は目的ではなく、通り道として働く。

用法

入試設問の急所がここにある。身体は「所有という行為の媒体」であるとは、何かを自分のものとして意のままにするとき、掴む・持つという形で身体がその通り道になっている、という意味である。つまり身体は、私が随意に使用しうる一つの器官として働いている。ところが同じ身体を、私は自由にできない。痛みも倦怠も抗えない。媒体として使えるのに、その媒体自体は意のままにならない──この二重性が問われている。

用例
  • 文字を書くための蝋板は、それ自身は何の形も持たない。だからこそ、あらゆる形を受け取ることができる。アリストテレス『魂について』第三巻(前4世紀)の主旨による/訳は本教材
    媒体の条件を一つの比喩で示した議論である。アリストテレスが説明しようとしたのは感覚がなぜ働くかだった。目がもし色を持っていたら、その色がすべての見え方に混ざる何も持たないからこそ何でも映せる。この条件は媒体一般に当てはまる — よい媒体は自分を目立たせない。ところがここに難所がある。本当に何の形も持たない媒体は存在しない。紙には紙の、画面には画面の性質があり、それが伝わる中身を必ず変える。2-3 の 01 の媒介が「媒体は透明ではない」と言い切るのは、この難所を引き受けるためである。
  • 身体は、我々が世界をもつための一般的な媒体である。モーリス・メルロ=ポンティ『知覚の現象学』第一部(1945)/訳は本教材
    身体を媒体として定義し直した一文である。04 で引いた杖の一節と同じ書物の、すぐ近くにある命題で、杖が身体になるという話はこの定義の系にあたる。「一般的な」という限定が要だ。眼鏡は見るための媒体、電話は話すための媒体 — どれも特定の用途に限られている。身体だけがすべてに関わる。そして重要なのは、この媒体は取り替えられないことだ。眼鏡は外せるが、身体は外せない。だから身体という媒体の性質は、そのまま世界の見え方になる。1-5 の 89 で見た離見の見が難しいのはこのためだ — 見るための当のものを外して見ることはできない
  • 身体は、世界と関わるための媒体であり、その媒体を取り替えることはできない。 この主題の中核である。道具は選べる、言葉も選べる。身体だけが与えられたままだ。2-1 の 09 の受動が最も具体的に現れる場所が身体である。
  • ×新聞やテレビなどの媒体は身体の延長である。 間違いではないが、報道機関を指すなら「メディア」と書くほうが誤解が少ない。「媒体」は広告業界では掲載先の意で使われるため、身体論の文脈と混ざりやすい同じ語が分野をまたぐときは、一度定義を置いてから使う
派生形
  • 媒介ばいかい[0]働きの側の語。媒体が間に立つ物を指すのに対し、媒介は間に立ってつなぐ働きを指す。2-3 の 01 で立てる語で、ヘーゲル以来直接と対にして使われる。
  • 媒質ばいしつ[0]物理の語。音や光が伝わるその中身(空気・水)。媒質が変われば速さも屈折も変わるという事実が、媒体は中身を変えるという主張の下敷きになっている。
  • メディア[1]medium の複数形がそのまま定着した形。日本語では単数のように扱う。報道機関を指す用法が強すぎるため、身体や言語をメディアと呼ぶ議論では広義であることを断ってから使うのが安全である。
コロケーション
  • 媒体としての身体この主題の言い方身体を目的ではなく通り道として見る構え。この見方の利点は、身体が「私が持っている物」でも「私そのもの」でもないと言えることにある。持ち物なら手放せ、私そのものなら距離が取れない。媒体という位置づけはその中間を指せる数少ない語である。
  • 媒体の透明性成り立たない理想媒体が自分を感じさせずに中身だけを伝えるという理想。実際にはどの媒体も固有の性質を持ち込む。2-3 の 01 の媒介がこの語を正面から扱う。身体でいえば、疲れているときの世界と元気なときの世界は同じではない
  • 媒体を意識する透明でなくなる瞬間普段は感じない媒体が急に前へ出てくるとき。歯が痛むと身体が世界より手前に立つ。08 の随意が効かなくなった瞬間である。媒体は壊れたときにだけ見える — 道具についても同じことが言える。
  • 複数の媒体重ねて使う語身体・言葉・道具・制度。人はつねにいくつもの媒体を重ねて世界と関わっている。この見方を取ると、どこまでが自分かが決まらなくなる。05 の外部化と04 の身分けが境界を両方向へ動かしているからだ。

書き言葉・会話の両方で使える。

類語と差
  • 媒介仲立ちすること働きのほう。媒体はその働きを担う物や仕組み。
  • 手段目的を果たすための方法目的との関係。媒体は二者を結ぶという構造を指す。
  • 道具働きを助ける物使う側から見た呼び名。媒体は通り道としての位置を言う。
  • メディア情報を伝える媒体外来語。日本語では報道機関を指すことが多い。

ENmedium
ZH媒介物(媒介するもの, méijièwù)

日中のズレ

中国語の 媒体(méitǐ)はマスメディア・報道機関を指すのが通例で、日本語の「媒体」とは重ならない。

「仲立ちとなるもの」の意では 媒介(méijiè) や 媒介物 を用いる。

07概念

所有しょゆう

しょゆう[0]平板型

語構成
ところ・〜するものもつ
使用の境界

自分のものとして意のままにできること。手元に置いているだけでは足りず、処分できることを含む。

用法

入試文が与える定義が精密で、「なにかをじぶんのものとして、意のままにできる」ことを所有と呼ぶ。だから所有は単なる保持ではなく、処分できることを含む。この定義を取ると、身体は所有の媒体でありながら、身体そのものは所有できないことになる。痛みも倦怠も意のままにならないからである。「自分の身体は自分のものだ」という言い方が揺らぐのがこの主題の要点で、☑123 個人・☑160 自己責任の前提にも触れる。

用例
  • たとえ大地とすべての下級の被造物が万人の共有物であるとしても、人は誰でも自分自身の身体に対する所有権をもつ。これについては、本人以外の誰も権利をもたない。ジョン・ロック『統治二論』第二篇第五章(1690)/訳は本教材
    近代の所有権の全体がこの一段から出てくる。手順はこうだ — まず身体が自分のものであると置く。すると身体を使ってなした労働も自分のものになる。その労働を混ぜた対象も自分のものになる身体の所有から土地の所有までが一本の線でつながるのである。この論法の巧みさは、誰も反対しない前提から出発することにある。「私の身体は私のものだ」を否定する人はいない。だが 1-6 の 122 で見たルソーの「囲い」と並べて読むと、同じ操作が正当化にも告発にもなることが分かる。そして現代の生命倫理は、この出発点そのものを問い直している — 身体は本当に「持ち物」なのか
  • 身体髪膚、これを父母に受く。あへて毀傷せざるは、孝の始めなり。『孝経』開宗明義章
    身体の所有を正面から否定する一節である。身体は自分のものではない。父母から受けた預かりものだ。だから傷つけない。ロックの論法と出発点が正反対である。ここから制度の差が一直線に出てくる — 身体が自分のものなら売っても捨ててもよいことになるが、預かりものなら処分の自由は無い。刺青も、臓器提供も、安楽死も、この二つの前提のどちらに立つかで結論が変わる。1-7 の 159 の自己決定が身体に及ぶとき、争われているのは個別の是非ではなくこの出発点である。
  • 身体を所有しているという言い方は、身体を自分から切り離せるものとして扱っている。 語法から前提を取り出す型である。「持つ」と言うためには持つ者と持たれる物が別でなければならない。ところが身体を手放したら持つ者のほうが消える所有という語が身体にはうまく当てはまらないことが、ここから見える。
  • ×彼は広い土地を所有している。 誤りではないが、この主題では出番がない。評論語としての 07 は身体をめぐって「持つ」という関係が成り立つかどうかを問う場面で使う。土地や物の所持を言うだけなら日常語の所有で、1-6 の 122 の私的所有の文脈に属する。
派生形
  • 所持しょじ[1]手元にあることだけを言う。所有が権利を含むのに対し、所持は事実にとどまる。拾った物は所持しているが所有はしていない法の語彙ではこの差が決定的である。
  • 占有せんゆう[0]事実上支配していること。所持より強く、所有より弱い。三語が段階をなしていることを押さえておくと、評論文の法律用語で迷わない。
  • 固有こゆう[0]語源が同じ。英語の property は「所有物」とも「特性」とも訳せる持っているものとその物の性質が同じ語だったという事実は、2-1 の 04 の固有性と05 の属性を結び直す手がかりになる。
コロケーション
  • 身体の所有この主題での形「私の身体」の「の」が何を意味しているかという問い。「私の鞄」の「の」とは違う。鞄は手放しても私は残るが、身体はそうではない。同じ助詞がまったく違う関係を指している — 1-3 で見たとおり、言葉の形が同じでも関係は同じではない
  • 所有と使用分けて考える対持つことと使うことは別である。この区別が要るのは、身体については使用しかできないからだ。1-6 の 122 で見たとおり、近代の所有は売れることを中心に組まれている。売れないものを所有と呼べるのかという問いが、ここから立つ。
  • 所有の媒体この章の要約身体はあらゆる所有を可能にする条件でありながら、それ自体はうまく所有できない。手が無ければ物を持てない。だが手を持っているとはどういうことか。所有の土台が所有の外にあるというこの構造が、06 の媒体という語で言い直される。
  • 自己所有権現代の争点自分の身体・生命・労働について本人が決める権利。この語が強力なのは、奴隷制も強制労働も一撃で否定できるからだ。ところが同じ原理が臓器売買や代理出産の正当化にも使える。解放の原理がそのまま商品化の原理になる — 1-6 の 135 の啓蒙の反転と同じ形である。

書き言葉・会話の両方で使える。

類語と差
  • 占有事実として手元に置いている法律用語。権利の有無を問わない。所有は権利を含む。
  • 保有持ち続けている継続。所有は処分の自由まで含む。
  • 私有個人が持つ☑128 資本主義の要件。所有の一形態。
  • 支配思い通りに動かす力の行使。所有は関係の名で、行使していなくても成り立つ。

ENpossession / ownership
ZH拥有(持っている, yōngyǒu)

日中のズレ

中国語の 所有(suǒyǒu)は「すべての」という連体修飾語として使われるのが最も多い(所有的人=すべての人)。

日本語の「所有する」は 拥有(yōngyǒu)、所有権は 所有权(suǒyǒuquán)となる。

08概念

随意ずいい

ずいい[1]頭高型

語構成
したがうこころ・おもい
使用の境界

自分の意志のままであること。制限がないという意味ではなく、意志が及ぶという意味。

用法

生理学の術語としての用法が土台にある。随意筋は意志で動かせる筋肉、不随意筋は心臓や内臓のように動かせない筋肉を指す。入試文の「随意に使用しうる一器官」はこの含みを背負っており、身体が意志の及ぶ範囲にあることを言う。ところがその同じ身体に、意志の及ばない部分がある。随意と不随意が同じ身体に同居していることが、身体の奇妙な現れ方の正体になる。「随意」単独は硬く、日常では「自由に」に置き換わる。

用例
  • イワン・イリイチの生涯は、きわめて単純で、ありふれたもので、そして最も恐ろしいものであった。……彼はただ、痛みと、その痛みが去らないという事実だけを知っていた。レフ・トルストイ『イワン・イリイチの死』(1886)/訳は本教材
    随意が効かなくなったとき何が起きるかを描いた小説の核である。イワン・イリイチは出世も家庭も思い通りに整えてきた男だ。ところが原因不明の痛みが始まると、その一点だけがどうにもならない。注目したいのは、痛みが生涯全体の意味を問い直させる点である。思い通りになっていた部分は思い通りになるがゆえに問われなかった随意でなくなったものだけが意識に上るのだ。06 で見た媒体は壊れたときにだけ見えるという命題が、ここでは一人の生涯として書かれている。
  • 身体のうちには、意志によって動く部分と、意志とかかわりなく動く部分とがある。……心臓は、我々が眠っているあいだも打ち続ける。ガレノス『身体諸部分の用途について』(2世紀)の主旨による/訳は本教材
    随意という区分の最も古い記述である。古代の医学がすでにこの線を引いていた。注意したいのは、この区分が身体の内側を二つに割ることだ。命令の届く領域と届かない領域。届かない側は自分の身体でありながら自分の管轄外にある。2-1 の 02 で見た自己の他者性が、ここでは解剖学の事実として現れている。さらに面白いのは、境界が動くことだ — 呼吸は普段は不随意だが意識すれば随意になる訓練で境界を動かせることが、04 の身分けの習慣性とつながる。
  • 心臓は随意に動かせない。この不随意の領域こそが、身体が単なる持ち物ではないことの証拠である。 この語の使いどころである。全部が随意なら身体は道具にすぎない。一部が随意でないからこそ身体は他者の顔を持つ。07 の所有とちょうど対をなす語である。
  • ×休みの日は随意に過ごしている。 「自由に」「思いのままに」である。随意は意志のままに動かせるという意で、主に身体の動きについて使う硬い語。「随意筋」「不随意運動」のように医学・生理学の語彙として定着している。なお「随意契約」はまったく別の法律用語で、競争入札によらない契約のこと。
派生形
  • 不随意ふずいい[2]否定形のほうがよく使われる。「不随意運動」「不随意筋」。普通の状態に名は要らず、外れたときだけ名が要るという語彙の非対称がここにも現れている。
  • 随伴ずいはん[0]「随」の字のもう一つの顔つき従う意。「随意」の随は意に従うで、従う先が自分の意志であるところにこの語の要点がある。
  • 恣意しい[1]紛らわしい語。随意が意のままに動かせることなら、恣意は気ままで筋が通らないこと。前者は能力、後者は非難。1-3 の 記号の恣意性はまた別の意味で、必然的な理由が無いことを指す。
コロケーション
  • 随意筋・不随意筋身体を二分する語意志で動かせる筋と、動かせない筋。この医学の区分が身体論で引かれるのは、「私」の輪郭が身体の内側で止まっていることを示すからだ。皮膚の内側にも外部がある — 2-1 の 02 の他者性が最も具体的になる場所である。
  • 随意性を失う病と老いの語できていた動きができなくなること。この言い方が要るのは、失われて初めてそれが能力だったと分かるからだ。歩くことも飲み込むことも、できているあいだは数えられていない身体論が病と老いを中心的な主題にするのはこの理由による。
  • 意志と身体古い難問意志はどうやって身体を動かすのか。02 で見たデカルトの困難がいまも解けていない問いである。神経の仕組みが分かっても、「動かそうと思う」ことがどこで信号に変わるのかは別の問題として残る。説明が進んでも問いが消えない珍しい例。
  • 随意の錯覚現代の論点自分で決めたと感じる感覚が、実際の行為の開始よりあとに来るという実験。この報告が衝撃的なのは、随意という感覚そのものが身体の産物かもしれないからだ。2-1 の 06 の主体性が最も足元から揺さぶられるのがこの論点である。

書き言葉。会話では不自然。

類語と差
  • 任意どれを選んでもよい選択の自由を認める。随意は意志が及ぶかどうかを言う。
  • 自由束縛がない状態。随意は意志との関係を言う。
  • 不随意意志が及ばない対語。内臓や心臓の動きがこれにあたる。
  • 恣意根拠なく決める☑35。否定的。随意は中立で、医学・生理学でも使う。

ENvoluntary
ZH随意(気ままに, suíyì)

日中のズレ

中国語の 随意(suíyì)は「気ままに」「ご自由に」という日常語である(随意吃=好きなだけ食べて)。

医学の「随意筋」は 随意肌(suíyìjī)で、この用法は日本語と重なる。

09読解

対照たいしょう

たいしょう[0]平板型

語構成
むかいあうてらす

同音の「対象」「対称」との書き分けが問われる。比べるのが対照。

使用の境界

二つを並べて違いを浮かび上がらせること。同音の「対象」「対称」とは別語。

用法

対象・対称・対照の書き分けが繰り返し問われる。「たいしょう」と読む三語のうち、比べるのが対照、向けられるのが対象、つり合うのが対称である。入試文の「身体といえば魂や心と対照されることが多いが、ほんとうは物体と対照したほうが」は、何と並べるかで見えるものが変わるという主張であり、この語が論の運びそのものを担っている。「対照的」は形容動詞として日常でも使う。

用例
  • 美しいものは、それだけでは美しくない。影がなければ、光もまた光ではない。……我々の先祖は、暗がりのなかに美を発見した。谷崎潤一郎『陰翳礼讃』(1933)の主旨による
    対照という手つきが何をしているかを示した一節である。谷崎の論の運びは徹頭徹尾この形だ — 西洋の明るさに対して日本の暗がり、金属の光沢に対して漆の沈んだ艶。片方だけでは何も言えない。注目したいのは、対照が優劣の主張になりかけていることである。谷崎は日本の暗がりの側に明らかに肩入れしている。対照は中立に見えて中立ではないどちらを先に置き、どちらを後に置くかで評価が滲み出る。評論文で対照が出てきたら、並べ方そのものを読むとよい。
  • 質、文に勝てば則ち野。文、質に勝てば則ち史。文質彬彬として、然る後に君子なり。『論語』雍也篇
    対照を優劣ではなく釣り合いのために使った一節である。「質」は生地・中身、「文」は飾り・かたち。中身が勝ちすぎれば野暮(野)になり、飾りが勝ちすぎれば役人くさく(史)なる。注目したいのは、どちらか一方を選ばせていないことだ。対照はふつう選択を迫る形で使われる。ここでは逆に、両端を示すことで中間に位置を作っている対照は線を引く道具であると同時に、線の上の目盛りを作る道具でもある。この使い分けができると、評論文の二項対立がいつも二者択一を求めているわけではないことが読めるようになる。
  • 筆者は、西洋の身体観と日本の身体観を対照させることで、どちらの前提も相対化している。 評論文でこの語が出る典型である。対照の目的は優劣を決めることではなく、それぞれが前提を持つと示すことにある。1-4 の 76 の文化相対主義が方法として現れた形だ。
  • ×手元の資料と対照して間違いがないか調べた。 この用法は正しいが、「照合」「突き合わせ」のほうが誤解が少ない。「対照」には①二つを並べて違いを際立たせる、②突き合わせて確かめるの二つの用法があり、評論文で出るのはほぼ①。なお「対象」「対称」とは別語なので、書き分けに注意する
派生形
  • 対比たいひ[0]ほぼ同義。差は対照のほうが差の大きさを強調する点にある。「対比」は並べて比べるだけでも使えるが、「対照」は際立った違いがあるときに使う。
  • 対象たいしょう[0]同音の別語働きかけの向かう先で、1-5 の 107 の客体と重なる。「調査対象」を「調査対照」と書くのは誤り。入試でも問われる書き分けである。
  • 対称たいしょう[0]もう一つの同音語釣り合いが取れていること(左右対称)。対照は違いを、対称は同じさを言う — 意味がほぼ正反対なので、三語まとめて覚えたい。
コロケーション
  • 好対照をなす定型としての形二つがきれいに対をなしていることを言う。この言い方の便利さはそのまま危うさでもある — きれいに対になるということは、対にならない部分を落としているからだ。整いすぎた対照は疑うのが読解の作法になる。
  • 対照的に接続の語として段落をつなぐ副詞としてきわめて頻度が高い。この語が出たら直前と反対のことが来ると構えられる。読解では論の骨格を掴む標識になるので、傍線を引いておくとよい。
  • 明暗の対照視覚から来た語もとは絵画の技法(コントラスト)。明るさは暗さとの差でしか感じられないという知覚の事実が語の根にある。04 の身分けが言うとおり、身体はもともと差でしか世界を捉えていない — 1-7 の 151 の構造主義とここで思わぬ形で出会う。
  • 対照実験科学での用法条件を一つだけ変えて比べる方法。この語法が示すのは、対照が成り立つには「他の条件が同じ」でなければならないことだ。文化や社会を対照させる議論がしばしば粗くなるのは、他の条件を揃えようがないからである。

書き言葉・会話の両方で使える。

類語と差
  • 対象意識や行為が向けられるもの☑9。向けられる先。対照は並べて比べること。
  • 対称左右がつり合っている形の性質。シンメトリー。
  • 比較並べて違いや優劣を見る中立。対照は違いを際立たせることに重心がある。
  • 対比二つを並べて違いを示すほぼ同義。対照のほうが差の大きさを含意しやすい。

ENcontrast
ZH对照(対照, duìzhào)

10読解

倦怠けんたい

けんたい[0]平板型

語構成
あきる・うむおこたる

「倦」も「怠」も〈あきる・おこたる〉を表す。読み書きともに問われる。

使用の境界

心身がだるく、意欲が失われた状態。単なる疲労ではなく、飽きと気だるさが混じった状態を指す。

用法

二字がともに〈あきる・おこたる〉を表す。医学では「全身倦怠感」という定型句で、原因の特定しにくいだるさを指す。入試文の「身体にも〈倦怠〉が訪れる」は、意志では抗えないものの例として挙げられており、痛みと並べられている。日常では「倦怠期」の形で、恋愛関係が飽きの段階に入ったことを言う。読み書きともに問われる語で、「倦」は他に「倦む(うむ)」と訓読みする。

用例
  • 退屈は、あらゆる悪徳の父であり、そして人間を最も深く自分自身へ引き戻すものである。ブレーズ・パスカル『パンセ』断章一三九の主旨による(1670)/訳は本教材
    倦怠がなぜ人間に固有なのかを説明した議論である。パスカルの見立てはこうだ — 人間は部屋にじっとしていられない。だから狩りをし、賭けをし、戦争をする。目的は獲物や勝利ではない。気を紛らすこと(気晴らし)だ。なぜ紛らす必要があるのか — 何もしないでいると、自分の惨めさが見えてしまうから。ここで倦怠は単なる暇ではない気晴らしが尽きて自分と向き合わされる状態である。だからこそ苦しく、だからこそ何かが始まりうる。2-1 の 07 の再帰が望まない形で起きてしまう場面だと読むこともできる。
  • けふもまたこころの鉦をうち鳴らしうち鳴らしつつあくがれて行く若山牧水『別離』(1910)
    倦怠とその裏返しの衝動を同時に写した一首である。「あくがれ」は魂が身体から離れ出ることが原義で、どこかへ行きたいのに行き先がない状態を指す。注目したいのは「けふもまた」である。毎日繰り返されている。一度きりの衝動なら行けばよい。毎日なら行っても解決しないということだ。「うち鳴らし/うち鳴らしつつ」の反復も同じ働きをしている — 音が繰り返されるほど、止まっていることが際立つ。倦怠が無気力ではなく、行き場のない力であることが、この一首で分かる。
  • 豊かさが行きわたった社会に倦怠が広がるのは、欠乏が動機を与えなくなったからである。 現代社会論での使われ方である。1-7 の 142 の消費社会が欲望を作り続けなければならないのは、放っておくと倦怠が来るからだ。パスカルの気晴らしが産業になった状態と読める。
  • ×長時間の作業で倦怠を感じた。 身体の疲れなら「疲労」「だるさ」である。(医学の「倦怠感」は身体のだるさを指すので、そちらは正しい。)評論語の倦怠は飽きて心が動かなくなった状態を指し、作業量とは関係がないむしろ何もしていないときに深まるのがこの語の特徴である。
派生形
  • 倦むうむ[1]和語の動詞飽きて嫌になる。「倦まずたゆまず」の形で否定と結んでよく使う。肯定形より否定形で生きている語である。
  • 厭世えんせい[0]世を厭うこと。倦怠が気分にとどまるのに対し、厭世は世界観にまで固まっている。1-6 の 132 で見たペシミズムの訳語のひとつでもあり、気分から世界観へ固まる道筋がこの二語の間にある。
  • アンニュイ[3]フランス語からの外来語気だるさに美しさの含みが加わる。倦怠が苦しさを伴うのに対し、アンニュイはそれを様式として楽しむ色がある。同じ状態が語によって苦にも趣にもなる例。
コロケーション
  • 倦怠感医学と日常の語身体のだるさを指す。評論語の倦怠が心の状態を言うのに対し、この形は身体の状態を言う。同じ語幹で心と身体に分かれるのは、この主題からすると示唆的だ — 倦怠はもともとどちらとも決めがたい
  • 日常の倦怠対象を限る語繰り返される生活そのものへの飽き。この結びつきが近代文学の主題になったのは、生活が繰り返しになったからだ。1-6 の 137 の産業革命が時計で区切られた同じ一日を作り、1-6 の 140 の均質化がどの日も同じ日にした
  • 倦怠期関係に使う形人と人との関係が新鮮さを失った時期。この用法が示すのは、倦怠が対象の側の問題ではないことだ。相手は変わっていない。2-1 の 02 の他者性が薄れたときに倦怠が来る — 分かってしまったことの代償である。
  • 倦怠と憂鬱近くて違う語倦怠は飽き、憂鬱は沈み。倦怠には刺激を求める落ち着かなさがあるが、憂鬱にはそれが無い。倦怠は動きたがっており、憂鬱は動きたがらない — この差を押さえると、文学の記述が読み分けられる。

書き言葉。会話では不自然。

類語と差
  • 疲労体力を使い果たした状態原因がはっきりしている。倦怠は原因が特定できないことが多い。
  • けだるさ気力の抜けた感じ和語で日常的。倦怠はその漢語形で、文章語。
  • 憂鬱気分が晴れない感情。倦怠は身体感覚を伴う。
  • マンネリ変化がなく飽きた状態状況の話。倦怠は当人の状態。

ENlanguor / fatigue
ZH倦怠(倦怠, juàndài)

11読解

美醜びしゅう

びしゅう[1]頭高型

語構成
うつくしいみにくい

反対の字を重ねて軸を作る型。善悪・大小・長短と同じ造語法である。

使用の境界

美しさと醜さ。二つを一語にまとめ、その軸そのものを指す。どちらか一方を指すのではない。

用法

反対の意味の字を重ねて軸を作る造語法で、善悪・大小・長短・強弱と同じ型である。この主題では、他者の無数の視線が「美醜」「男らしさ」「女らしさ」といった評価を伴って身体イメージに入り込むことが述べられる。つまり美醜は個人の感覚ではなく、社会が共有している尺度として働く。「美醜を問わない」は、その尺度を持ち込まないという宣言になる。「醜」の読みは「シュウ」、訓は「みにくい」。

用例
  • 天下皆美の美たるを知る、斯れ悪なるのみ。皆善の善たるを知る、斯れ不善なるのみ。『老子』第二章
    美醜という対がどこから来るかを言い当てた一節である。美を美として知った瞬間に、醜が生まれる。順序が逆であることに注意したい — 醜いものが先にあって美と区別されるのではない美という基準を立てたその操作が、同時に醜を作り出す。1-3 の分節が言うことと完全に一致する — 線を引けば必ず両側ができる。この主題で重要なのは、身体がこの線引きの最も激しい戦場になることだ。基準は外から来るのに、裁かれるのは取り替えられない身体である。
  • 美しいとは、見る人の心のなかにあるものであって、見られる物のなかにあるのではない。……醜さを見いだす者は堕落しており、美しさを見いだす者には希望がある。オスカー・ワイルド『ドリアン・グレイの肖像』序(1891)/訳は本教材
    美醜を対象から見る側へ移し替えた一節である。前半はよく知られた主張だ — 美は物の性質ではなく見る側の働きである。後半が鋭い。何を見いだすかで見る側が裁かれる醜さを見つけた人は、その醜さについてではなく自分について何かを語っているのだ。この論法を身体に当てはめると強力な反転になる — 外見を裁く視線は、裁かれる側ではなく裁く側を露わにする。なおこの小説自体が肖像画が醜くなっていく物語であり、03 の像が本人の代わりに年を取るという着想で書かれている。
  • 美醜の基準は文化と時代によって変わるのに、基準に晒される身体は取り替えがきかない。 この語の使いどころである。基準の側は相対的だが、身体の側は絶対的だ。この非対称が苦しみを生む。1-4 の 76 の文化相対主義は知識としては効くが、身体の苦しみには直接には届かない
  • ×この絵の美醜を論じるのは難しい。 やや不自然。作品なら「美的価値」「良し悪し」である。美醜は主に人の容貌について使われる語で、裁く視線の存在が含意されている誰かが誰かを見て決めるという場面が無いところでは据わりが悪い。
派生形
  • 醜悪しゅうあく[0]強い非難の語。容貌だけでなく行いや事態にも使う(醜悪な争い)。美醜が判断の軸を指すのに対し、醜悪は判断の結果を言い切っている
  • 美的びてき[0]価値の領域を指す語。真・善・美の三つのうち美に関わること。「美しい」と同義ではない — 「美的判断」は美しいかどうかを問う判断で、結論は醜でもありうる。
  • 容貌ようぼう[0]顔かたち中立に見えて、この語もまた見る側の視点で書かれている。自分の顔を「私の容貌」と呼ぶことは少ない外から見られたものとしての顔を指す語だからだ。
コロケーション
  • 美醜の基準外から来るもの何を美しいとするかの物差し。この語が要るのは、基準が本人のものではないからだ。メディアが作り、市場が売り、本人がそれを内面化する。05 で見た外部化と内面化の循環が、身体の上で最も速く回る領域である。
  • 美醜を超えて逃れようとする言い方この言い方がしばしば空回りするのは、超えると言った時点で基準を認めているからだ。「顔ではなく中身だ」という主張は顔が基準であることを前提にしている。1-7 の 150 で見た寛容と多様性の差がここでも効く — 基準を組み直せているか
  • 美醜の内面化自分で裁く語外の基準を自分の目にしてしまうこと。鏡を見るとき、見ているのは自分ではなく誰かの目である。03 のクーリーの鏡が最も痛い形で働く場面で、誰にも何も言われなくても成立するのが厄介なところだ。
  • 醜さの発見ワイルドの逆転醜さを見つけた側が何を語っているかを問う構え。この視点の切り替えは批評の基本の一手である。対象を論じているつもりの言葉が語り手の位置を露わにしてしまう。1-4 の 75 の自文化中心主義を見抜く手つきと同じものだ。

書き言葉。会話では不自然。

類語と差
  • うつくしいこと一方の極。美醜は軸全体を指す。
  • 外見外から見えるすがた対象の話。美醜はそれを測る尺度。
  • 容姿顔かたちと姿対象の話。美醜と結びつけて論じられる。
  • 価値判断よしあしを決めること上位概念。美醜はその一つの軸。

ENbeauty and ugliness
ZH美丑(美醜, měichǒu)

12読解

臥すふす

ふす[1]頭高型

語構成
ふせる・よこたわる

読みが問われる。音読みは「ガ」(病臥・臥床)。

使用の境界

からだを横たえること。とくに病気で寝込んでいることを指す。単に眠ることではない。

用法

「病の床に臥す」という定型句でほぼ固定している。入試文の「病の床に臥しているとき」は、身体が透明でなくなる場面として挙げられている。正常に機能している身体は意識されず素通りされるが、疲れや病のときに不透明なものとして浮上してくる──その転換点を示す語である。読みが問われる語で、「が」と音読みする熟語(病臥・臥床)も押さえておく。「伏す」との書き分けは辞書でも揺れがある。

用例
  • 病牀六尺、これが我世界である。しかもこの六尺の病牀が余には広過ぎるのである。正岡子規『病牀六尺』(1902)
    臥すという状態が世界の大きさを変えてしまうことを示した一節である。仕掛けは後半の転回にある。六尺(約一・八メートル)は普通に考えれば狭い。ところが子規は「広過ぎる」と書く。身動きが取れないのだから、その六尺すら持て余すのだ。ここで分かるのは、空間の広さは身体が動ける範囲で決まるということである。04 の身分けが言うとおり、世界は身体の側から測られている。臥した身体には別の尺度の世界が開ける — この随筆が庭の草花の記述に異様な密度を持つのは、嘆きではなく尺度が変わった結果である。
  • 秋の夜のながきを君に臥し伏せば思ひの外に明けにけるかな『古今和歌集』巻十四・恋歌四(905)
    「臥す」が和歌のなかでどう働くかを見せる一首である。この語は眠るとも休むとも違う身を横たえてそのままでいることを指す。だから能動の色が薄い — 眠るのではなく、臥している。2-1 の 09 の受動が身体の姿勢として現れた形だと言ってよい。古語では「起きる」と「臥す」が一日の対をなしており、立つ・座る・臥すという三つの姿勢が生活の単位だった。現代語でこの語が病と結びついてしか残らなかったことは、横になることが例外になった近代の生活を映している。
  • 病に臥す日々のなかで、筆者は身体が自分の意のままにならないことを知る。 評論文・随筆での典型の使われ方である。「病に臥す」はほぼ固定した言い方。08 の随意が失われた状態を姿勢の語で言うとこの語になる。
  • ×休日は一日中ベッドに臥していた。 語が古風すぎる。日常なら「寝ていた」「横になっていた」。「臥す」は文語・雅語で、現代の散文では「病に臥す」「床に臥す」という慣用の形でしかほぼ生きていない。怠けて寝ている場面には使わない
派生形
  • 臥せるふせる[3]現代語に近い形。「床に臥せる」。「伏せる」とも書くが、「伏」は顔を下に向ける、「臥」は身を横たえると字義が分かれる。病臥の意なら「臥」。
  • 臥床がしょう[0]漢語形医療・介護の語彙として定着している(臥床時間・長期臥床)。和語の情緒が抜けて状態の記述だけになる — 01 で見た身体の物象化が語彙の水準でも起きている。
  • 横臥おうが[1]横向きに臥すこと。医学・法医学の語。仰臥(あおむけ)・伏臥(うつぶせ)と三つで一組をなす。姿勢を細かく分ける語彙が医学にだけ発達していることも、この主題の視点で見ると面白い。
コロケーション
  • 病に臥すほぼ固定した形この語が現代まで残ったほとんど唯一の道筋。「病気で寝る」と言えば済むのにこの形が使われるのは、文語の格が事態の重さを示すからだ。語彙の古さがそのまま事の重大さの合図になる — 日本語の文体が持つ道具である。
  • 床に臥す場所を添える形「床(とこ)」は寝床。「病床」「床につく」と同じ字である。場所を書き添えることで状態が長く続いていることが伝わる。一晩なら床に臥すとは言わない — 時間の長さが語に含まれている
  • 臥薪嘗胆故事成語のなかの語薪の上に臥し、胆を嘗める。復讐を忘れないためにあえて苦しい姿勢を取るという故事である。ここでの「臥す」は受動ではなく意志的だ。同じ語が文脈で正反対の色を持つという好例になっている。
  • 起き臥し対で使う和語起きることと臥すこと、つまり日々の暮らし。「起き臥しをともにする」。この語形が示すのは、臥すことがかつては生活の半分を占める基本の姿勢だったことだ。語の残り方から生活の形が読める

書き言葉。会話では不自然。

類語と差
  • 寝る眠る・横になる日常語。臥すは文章語で、病臥の含みが強い。
  • 横たわるからだを水平にする中立。臥すは病や衰えを含意することが多い。
  • 寝込む病気で床につく日常語で意味は近い。臥すはより硬い。
  • 伏すうつぶせになる・従う同音で意味も近い。「床に伏す」とも書く。

ENto lie down (ill)
ZH卧(横たわる, wò)

格による分布硬・学術、硬、中の三段階に本節の語を振り分けた図。 硬・学術 2 身分け 外部化 6 相関 随意 倦怠 美醜 臥す 4 身体 媒体 所有 対照 語は意味ではなく格で選ぶ
格による分布
入試にチャレンジ

所有の媒体でありながら、自由にならないもの

身体の透明と不透明正常に機能している身体が意識から消え、疲れや病のときに不透明なものとして浮上する対比を示した図。 正常に機能しているとき 透明 脚・口唇・眼・肺・胃 存在がいわば消えている 行為を支えながら 視野からは消える 意識すれば逆にもつれる 疲れ・病のとき 不透明 腫れぼったい厚みをもつ 経験のなかに浮上してくる 行為を押しとどめようと 前に立ちはだかる よそよそしい異物として迫る 同じ身体が、二つの現れ方をする ── これが身体の奇妙さである
身体の透明と不透明 ── 同じ身体の二つの現れ方
本文

わたしたちにとって身体とはどういう存在なのか。この問題は長く哲学者を悩ませてきた問題でもある。身体といえば魂や心と対照されることが多いが、ほんとうは物体と対照したほうが、身体というものの固有なあり方は見えやすい。

実際、日本語の「身」ということばを取り上げても、「身」にはほとんど「こころ」と置き換え可能なばあいすらあるのに対して(たとえば「身に沁む」「身を入れる」「身を焦がす」「白身の魚」などのように)肉の意味はあっても、物体という意味はほとんどない。(ついでに言えば、「身の上」「身内の者」「身勝手」「身分」「立身出世」などというように、日本語の「身」は人間関係という社会的な地平で思い浮かべられることが多い。)

身体(からだ)は、ひとつの物体であることはまちがいないが、それにしては他の物質とはあまりにも異質な現われ方をする。

たとえば、身体はそれが正常に機能しているばあいには、ほとんど現われない。歩くとき、脚の存在はほとんど意識されることはなく、脚の動きを意識すれば逆に脚がもつれてしまう。話すときの口唇や舌の動き、見るときの眼についても、同じことが言える。呼吸するときの肺、食べるときの胃や膵臓となれば、これらはほとんど存在しないにひとしい。つまり、わたしたちにとって身体は、ふつうは素通りされる透明なものであって、その存在はいわば消えている。

が、その同じ身体が、たとえばわたしが疲れきっているとき、あるいは病の床に臥しているときには、にわかに、不透明なものとして、あるいは腫れぼったい厚みをもったものとして、わたしたちの日々の経験のなかに浮上してくる。そしてわたしの経験に一定のバイアスをかけてくる。

あるいは、わたしの経験をこれまでとは別の色で染め上げる。ときには、わたしと世界とのあいだにまるで壁のように立ちはだかる。わたしがなじんでいたこの身体は、よそよそしい異物として迫ってきさえするのである。

あるときは、わたしたちの行為を支えながらわたしたちの視野からは消え、あるときは、わたしたちがなそうとしている行為を押しとどめようとわたしたちの前に立ちはだかる、こうした身体の奇妙な現われ方は、さらに別の局面でも見いだされる。

それはたとえば、わたしたちがなにかをじぶんのものとして「所有する」という局面だ。なにかを所有するというのは、なにかをじぶんのものとして、意のままにできるということである。そのとき身体は、ものを捕る、掴む、持つというかたちで、所有という行為の媒体として働いている。

つまり身体は、わたしが随意に使用しうる一「器官」である。が、その身体をわたしは自由にすることができない。痛みが身体のそこかしこを突然襲うこと、あるいは身体にも〈倦怠〉が訪れることに、だれも抗うことはできない。

出典 鷲田清一『身体、この遠きもの』 / 出題 名古屋大学

所有の媒体としての身体身体が所有という行為の通り道として働く一方、その身体自体は意のままにならないという二重性を示した図。 わたし 身体 媒体・随意に使える器官 もの 捕る・掴む・持つ 所有 = じぶんのものとして、意のままにできること ところが 身体 痛み 倦怠 だれも抗うことはできない 媒体として使えるのに、その媒体自体は自由にならない
所有の媒体としての身体
ヒント

身体は、なにかを所有する場面では自由に使えるが、常に自由にすることはできないということ。

傍線部はどういうことを言っているのか、説明せよ。(設問・改)

正解と解説

(例)身体は、なにかあるものを意のままにするために用いられるということ。

「所有という行為」とは、「じぶんのものとして、意のままにできる」ということ。「媒体」をうまく説明したい。

Output

産出

やるなら ── 次のいずれかを一段落で書く。

  • 身体が「透明」だった場面と「不透明」になった場面を一つずつ挙げ、その転換点を書く
  • 自分が使いこなしている道具を一つ挙げ、それが身体のどの機能の外部化かを書く
Blank

身体が所有の媒体でありながら所有できないのなら、「自分の身体」という言い方は、何を指していることになるのか。