原書の導入
新しい言語観
新しい言語観
言語をテーマとする入試現代文は、大きく二つのタイプに分けることができる。表現としての言語を主題としているものと、記号としての言語を主題としているものという二つである。
表現としての言語については、レトリックの役割を再評価する内容の文章が目立っている。レトリックの主たる役割は、古代ギリシア以来、弁論における説得力を高めたり、文章を装飾したりすることだとされてきた。しかし近年、既存の言葉では名づけることのできない現実をあるがままに表現するという、レトリックの創造的な機能に着目した研究が進み、そうした事情が現代文にも反映されている。
レトリックと並んで出題されやすいのが、言語の多義性や解釈の多様性を肯定的に評価する文章だ。こうした文章では、テクスト(=表現されているもの)の意味や評価はコンテクスト(=文脈)に依存するということを前提とした内容のものが多い。レトリックにせよ、言語の多義性にせよ、どちらにも言えることは、言語と事物とは一対一の対応関係にはないということであるが、こうした新しい言語観をもたらしたのが「記号としての言語」という考え方である。
記号という概念
記号作用とは、「あるもの」が、それ以外の何かを意味することを言う。
たとえば〈イヌ〉という言葉は、声に出した時にはただの音声である。だが、この音声は、四本足のイヌという動物を指している。このように考えると、言語とは、「ある内容」を指し示している記号だと言えよう。
また、記号は言葉に限ったものではない。信号機もそれ自体はただの物体だが、〈赤信号〉は「止まれ」を、〈青信号〉は「進め」を意味する記号だと考えられる。
さらに、〈白いハト〉が「平和」を表すような場合は、記号であると同時に象徴でもある。このように見ると、言語だけでなくさまざまなものを、意味をもった記号とみなすことができる。
モノが先か、コトバが先か
「記号としての言語」という考え方に基づいて、もう少し具体的に言語の役割を考えてみよう。
日本では、虹は「赤橙黄緑青藍紫」の七色に分けられる。しかし、外国では六色や五色に分けるところが多い。もちろん、虹の色そのものが国によって異なっているわけではない。ところが、見る人の属している文化によって、虹の色の数が異なってくるのである。ここで鍵を握っているのが「言葉」だ。
日本では「藍色」と「青色」が言葉によって区別できるが、ある国ではその区別がなく、「藍色」を指す言葉がないとする。すると、虹は六色に見えるのである。つまり、虹は最初から七色で、それに七つの名前をつけているのではない。色の名前を知っているからこそ、虹が七色に見えるのだ。通常、我々は、物が先にあって、それに名前をつけていると考えている。しかし、名前があるからこそ、はじめて物が認識できるようになる、とも言える。我々の認識は、言葉によって成り立っているのである。
言語の恣意性
次に、「水」という言葉について考えてみる。あの無色透明な液体を、なぜ「みず」とよぶのか。答えは「たまたまそう名づけられたから」である。
あの液体を「みず」とよばなければいけない理由がないことは、まったく同じものを英語では「water」と別の言葉でよぶことが示している。モノとコトバとの間には必然的な結びつきがないことを、言語の恣意性と言う。
恣意的であるのは、モノとコトバとの関係だけではない。虹の例で見たように、分節も恣意的であると言える。
言葉を通して文化を見る―言語学の広がり
「分節」や「言語の恣意性」などから何がわかるのか。
ここまで確認してきたように、我々の認識は言葉によって成立しており、言葉が異なれば世界の見え方が変わってくる。ある言語の単語や文法構造などを分析することによって、その文化の構造や価値体系がわかるのだ。
例を挙げよう。日本語では普通、「兄」と「弟」とを区別して使うことが多い。これに対して、英語ではだいたい「brother」とひとくくりにする。これは、日本では儒教などの影響によって、年長者に敬意を表す文化をもっていることと関係している。家族の呼び方に限らず、あらゆる言葉から、その文化の特徴を読み取ることができるのである。
Section 01
メタファー/レトリック(修辞)
57
メタファー
メタファー[1]メタファー頭高型
語構成
漢語形は「隠喩」「暗喩」。対する「シミリ」は「直喩」「明喩」。
定義
形式上はたとえの形をとらない比喩。「……のようだ」と言わないたとえのこと。
『現代文キーワード読解』1-1 ☑57
原書の解説
「彼は『歩く辞書』だ」のように、「……のようだ」と言わずにたとえる比喩をメタファーと言う。また、「彼は歩く辞書のようだ」のように、「……のようだ」とたとえるのはシミリ(直喩・明喩)と言う。メタファーはレトリックの一つである。
メタファーは、文章を美しく表現するためにも使われるが、メタファーの役割はそれだけではない。メタファーには、既存の言葉ではうまく表現できない事柄を、たとえによって表現できるようにするという創造的な役割もある。
使用の境界「のようだ」を使わない比喩。使えばシミリ(直喩)になる。形式で分かれるので判定は迷わない。
用法評論文で問われるのは装飾ではなく創造的な役割のほうである。既存の語では言い表せない現実に、別の領域の語を持ち込んで名を与える働きを指す。山の下部を着物の「裾」と呼び、机の支えを「脚」と呼ぶ。この転用が定着すると、その語が新しい意味を獲得する。したがってメタファーは言語を豊かにする装置であって、飾りではない。「隠喩」「暗喩」が漢語形。日常語では「たとえ」でよいが、評論文では技法名として使う。
用例
-
隠喩に巧みであることだけは、他人から学ぶことができない。それは天賦のしるしである。よい隠喩をつくるとは、似ているものを見てとることだからである。アリストテレス『詩学』第二十二章(前四世紀)/訳は本教材
注目したいのは「他人から学べない」という一句である。倒置も反復も対句も、規則として教えられる。隠喩だけが教えられない。なぜなら、隠喩をつくるとはまだ誰も並べたことのない二つを並べることだからだ。既にある似かたをなぞるなら、それは教えられる。アリストテレスが言っているのは、似ていると気づく前は、似ていなかったということである。「彼は歩く辞書だ」と誰かが言うまで、人と辞書は似ていなかった。原書のいう創造的な役割とは、この「気づいた瞬間に似かたが生まれる」働きを指している。メタファーが飾りではないのは、そのためである。
-
汚れつちまつた悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れつちまつた悲しみに
今日も風さへ吹きすぎる中原中也『山羊の歌』(1934)
「汚れる」は本来、布や手や水に使う語である。悲しみは汚れない。それでもこの一行を読んだ瞬間、読者は「汚れた悲しみ」がどういうものかを知ってしまう。長く抱えすぎて、純粋な痛みではなくなった悲しみ — それを言い当てる語は、日本語に無い。無いから、別の領域から借りてきた。ここに原書のいう〈既存の言葉ではうまく表現できない事柄をたとえによって表現できるようにする〉働きがある。さらに「小雪」「風」が降りかかり吹きすぎるのは、汚れという語が呼び寄せた物の世界である。一つの隠喩が立つと、その周りに同じ領域の語が集まってくる。この連鎖こそが、隠喩の作る力である。
- 山のメタファーとしての「裾」、机の「脚」。いずれも定着して、もはやたとえと意識されない。
死んだ隠喩と呼ばれる現象である。着物の裾も動物の脚も、かつては借りてこられた語だった。使われ続けるうちに、その語の意味そのものになる。つまりメタファーは飾りではなく、言語が語彙を増やしていく仕組みそのものだ。辞書に載っている多義語の多くは、死んだ隠喩の墓場である。
- ×彼は歩く辞書のようだ、というのがメタファーである。
「のようだ」を使っているので、これはシミリ(直喩・明喩)。メタファーは「彼は歩く辞書だ」と言い切る。形式だけの違いに見えるが、断定の強さが変わる。「ようだ」は、たとえであることを断ってから渡す。言い切りは断らない。断らないぶん、読者は一瞬それを事実として受け取る — その一瞬に隠喩の力がある。
コロケーション
- 死んだ隠喩定着の果て使われすぎて、たとえだと意識されなくなった隠喩を指す。「時間が流れる」「議論の土台」「心が折れる」。皮肉なのは、成功した隠喩ほど死ぬことだ。広く受け入れられれば、それは比喩ではなくただの言い方になる。評論文がこの語を持ち出すときは、死んだはずの隠喩を掘り起こして、思考の癖を露わにするためである。
- 概念メタファー思考の下地「議論は戦争だ」という下地があるから、「主張を攻撃する」「立場を守る」「反論を撃退する」が自然に出てくる。個々の表現ではなく、その背後にある一つのたとえを指す。ここが重要で、隠喩は言い方ではなく考え方の側にある。議論を戦争ではなく踊りと見る言語があれば、そこでの議論は別のものになる。
- メタファーとシミリ形式の一線「のようだ」があるかないか。判定は迷わないぶん、違いの中身が見過ごされやすい。シミリは「これはたとえです」と断ってから渡す。メタファーは断らない。断らないことで、読者に一瞬それを事実として引き受けさせる。断定の強さの差は、この一瞬の差から来ている。
- メタファーと換喩似ているか、近いかメタファーは類似で置き換える。換喩(メトニミー)は隣接で置き換える。「赤ペンを入れる」で添削を指すのは、ペンと添削が似ているからではなく、いつも一緒にあるからだ。「永田町」で政界を指すのも同じ。「似ているか、近いか」を問えば二つは分かれる。
格中書き言葉・会話の両方で使える。
類語と差
- シミリ「のようだ」を使う比喩直喩・明喩。「彼は歩く辞書のようだ」。メタファーは「彼は歩く辞書だ」。形式だけの違いに見えて、断定の強さが変わる。
- 象徴抽象を具体で示し続ける一対一で置き換えるのではなく、意味が汲み尽くせない。メタファーは置き換えが効く。
- アレゴリー物語全体で別の意味を語る長さが違う。メタファーは語や句の単位、アレゴリーは作品の単位。
- 換喩近さで置き換える「赤ペンを入れる」で添削を指すような、隣接関係による置換。メタファーは類似関係による置換。
ENmetaphor
ZH隐喻(隠喩, yǐnyù)
58
レトリック(修辞)
しゅうじ[1]しゅうじ頭高型
語構成
修おさめる・ととのえる+辞ことば
定義
文章を飾るための表現(技法)のこと。
『現代文キーワード読解』1-1 ☑58
原書の解説
文章を美しくしたり、わかりやすくしたりするための表現技法をレトリックと言う。レトリックには、比喩や倒置、擬人法などがある。また、レトリックは、そのままレトリックを研究する学問の名前でもあり、修辞学と訳す。
修辞学の起源は、相手を説得するための弁論術であったため、修辞学は、言葉を巧みに飾って相手を強引に説得するテクニックとしてしばしば誤解されてきた。しかし、レトリックは、有限の言葉で無限の事柄を表現する可能性をもっている。我々の認識や思考を広げる役割を果たしているのだ。
使用の境界言葉を効果的に用いる技法の総称。比喩・倒置・擬人法などを含む。装飾に限らない。
用法日常語の「レトリック」は批判語で、「レトリックにすぎない」は中身のない言葉の飾りという意味になる。評論文はこの通念を退けるところから始まることが多い。近年の研究が着目したのは、既存の言葉で名づけられない現実をあるがままに表現するという創造・発見の機能である。有限の言葉で無限の事柄を表現し、認識と思考の幅を広げる。読解では、この語が肯定的に使われているか否定的に使われているかを最初に判定する。「修辞」「修辞学」が訳語。
用例
-
言葉は偉大な支配者である。きわめて小さく、まったく目に見えない体をもちながら、神のごとき業を成し遂げる。恐れを鎮め、悲しみを取り除き、喜びをもたらし、憐れみを深めることができるのだ。ゴルギアス『ヘレネ頌』(前五世紀)/訳は本教材
弁論術の祖のひとりが、言葉の力を正面から讃えた一節である。注目したいのは、ゴルギアスがこの文章をトロイアのヘレネを弁護するために書いていることだ。国を滅ぼした女を無罪だと論じてみせる — これ以上ないほど不利な題目を選んだうえで、言葉だけで人の判断を動かせることを実演した。だから修辞学は最初から「巧みに飾って強引に説得する技術」という誤解を背負ってきた。しかし読み返すと、ここで数え上げられているのは説得ではなく恐れ・悲しみ・喜び・憐れみである。言葉が動かすのは論理より先に心のほうだ、という発見のほうが、この一節の中身である。
-
力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女のなかをも和らげ、猛き武士の心をも慰むるは歌なり。紀貫之『古今和歌集』仮名序(905)
ゴルギアスの一節と、驚くほどよく似ている。力を使わずに天地を動かす — 物理の力ではないものが働くという同じ発見が、千年と大陸を隔てて別々に書かれた。注目したいのは「猛き武士の心をも慰むる」である。武士は力で従わせられる相手ではない。力で勝てない相手を、言葉なら動かせる。ここに、レトリックが説得の技術としてだけでなく認識と思考を広げる働きとして捉えられる入口がある。原書が「有限の言葉で無限の事柄を表現する可能性」と書くとき、前提になっているのはこの一節が示す言葉の届く範囲の広さである。
- レトリックは装飾ではなく、既存の言葉で名づけられない現実を表現する装置である。
評論文の議論はほぼこの一文へ向かう。読解の第一歩は、この語が肯定的に使われているか否定的に使われているかの判定である。日常語の「レトリックにすぎない」は批判だが、評論文はその通念を退けるところから始まることが多い。否定で読み進めると、文章の主張が丸ごと裏返る。
- △彼の弁明はレトリックにすぎず、中身がなかった。
通じるが、これは日常語としての用法である。中身の無い言葉の飾り、という意味で使っている。本来のレトリックは比喩・倒置・擬人法などを含む技法の総称で、中身の有無とは関係がない。厳密に言えば「詭弁」「言い逃れ」が当たる。評論文でこの語に出会ったら、日常語の語感をいったん外す必要がある。
派生形
- 修辞学[3]学問としての名。技法の目録であると同時に、言葉が人に働きかける仕組みの研究でもある。中世ヨーロッパでは文法・論理学と並ぶ基礎学科だった。
- 修辞的[0]形容の形。「修辞的な問い」のように技法を指す使い方と、「修辞的にすぎる」のように飾りが勝っていることを咎める使い方が同居する。評価の向きは文脈で決まる。
- レトリカル英語形容詞をそのまま借りた形。批評やデザインの文章で使われるが、評論文の記述語としては定着していない。訳語を持っている語をあえて原語の形で使うとき、そこには訳語の手垢を避けたいという意図があることが多い。
コロケーション
- レトリックにすぎない通念の言い方中身がなく飾りだけだという批判。日常ではこの形が圧倒的に多い。評論文はここから始めて、通念を退ける方向へ進むことが多い。この語が出てきたら、すぐ後ろに「しかし」が来るかを見ておくと論の向きが読める。
- 修辞学学問としての名レトリックはそのまま学問の名でもある。起源は相手を説得するための弁論術で、古代ギリシアの法廷と民会で育った。誰でも発言できる場があったからこそ生まれた学問である点は覚えておきたい。力で決まる社会に、説得の技術は要らない。
- レトリックの創造機能近年の焦点既存の言葉で名づけられない現実をあるがままに表現する働き。装飾でも説得でもない、第三の役割である。有限の語彙で無限の事柄を言い表せるのは、語の組み合わせ方に自由があるからだ。57 の隠喩は、その自由をもっとも大胆に使う技法にあたる。
- 修辞疑問答えを求めない問い「誰がそんなことを望むだろうか」— 答えを求めていない。問いの形をとりながら断定している。なぜ断定せずに問うのかといえば、読者に自分で答えを出させたほうが強いからだ。押しつけられた結論より、自分でたどりついた結論のほうが動かない。1-1 の 32 で見た反語と同じ仕掛けである。
格中書き言葉・会話の両方で使える。
類語と差
- 比喩たとえる技法レトリックの一種。レトリックはより広い上位概念で、倒置や反復も含む。
- 弁論術説得のための話術修辞学の起源。相手を動かすことが目的で、表現の美しさは手段だった。
- 文体書きぶりの全体作品全体の質。レトリックは個々の技法。
- 詭弁筋の通らない論法中身を欠いた言いくるめ。レトリックを否定的に使うときの言い換えだが、本義ではない。
ENrhetoric
ZH修辞(修辞, xiūcí)
比喩の四類型 ── 単位と、言い切れるかどうか
入試文
「名状しがたいもの」が目の前に現れたとき、どう表現したらよいのか。言い表すべき言葉がないとき、どう対処するのか。たとえば美しい山の姿を前にして、その下の方をなんと表現したらよいかと言葉に詰まる。そのとき人はたとえばメタファーに頼ることになる。着物の裾になぞらえて「山裾」と呼ぶ。
あるいは机の「脚」。机の「脚」を表す固有の言葉がなかったとする。そこで本来は人間や動物のそれに使われる「脚」をメタファー的な意味の拡張によって物に転用することになる。この種の表現法は目立たないけれども、しばしば日常生活で必要になる。いろいろな工夫がなされ、その一部は国語に取り込まれる。この種の言葉の工夫を伝統的レトリックでは「濫喩」と呼ぶが、濫喩は言語表現の彫琢というレトリックの本来の狙いをはみ出して、もっと基本的な言語的要請に応えていると言えようか。これはある語が新しい意味(従来の言い方では「比喩的な意味」)を獲得するプロセスでもある。
出典 野内良三『レトリックと認識』 / 出題 駒澤大学・経済学部
読解のポイント- 山「裾」 =着物の裾をメタファーとして転用
- 机の「脚」 =人間や動物の脚をメタファーとして転用
- 「裾」「脚」が新しい意味を獲得
- ※濫喩=代わりの言葉を用いるレトリックのこと
要約メタファーは、既存の言葉ではうまく表現できないことを表現可能にする。そして、そのメタファーが日常生活に取り込まれると、その語の新しい意味として定着する。
語法の観察「〜たとする」という仮定を挟んで、語がなかった場合を想像させる。ここから転用の必然性を導いている。
Section 09
差異/同一/一義(的)/両義(的)/多義(的・性)
68
差異
さい[1]さい頭高型
定義
ある物事について、他と比較した時に見られる違い。
『現代文キーワード読解』1-1 ☑68
原書の解説
近代の言語観では、言葉はそれ自体で意味をもっていると考えられていた。しかし現代では、言語は他の言葉との差異によって意味をもつという考えが主流になっている。
なお、言語から離れるが、商品の価値も、商品のもつ情報の差異によってもたらされるという考え方もできる。
たとえば
「兄」という語は、「弟」という語との差異によって、はじめて意味をもつ。
使用の境界他と比較したときに見られる違い。比較の相手を前提とする点が要点で、単独では成り立たない。
用法現代言語論の中核をなす。近代の言語観では語がそれ自体で意味を持つとされたが、現代では語は他の語との差異によって意味を持つとされる。「兄」は「弟」との差があって初めて意味を持ち、単独では成り立たない。この考えは言語を超えて広がり、商品の価値も他商品との情報の差異によって生まれるという議論(差異化)に接続する。広告論・消費社会論で頻出するので、言語の話に限定せずに読む。
用例
-
言語のうちには、積極的な項をもたない差異しかない。……言語体系とは、音の差異と結びついた観念の差異の系列である。フェルディナン・ド・ソシュール『一般言語学講義』(1916)/訳は本教材
「積極的な項をもたない」— それ自体で中身を持つ語は一つも無いという宣言である。「兄」に意味があるのではない。「弟」「姉」「妹」との差があるだけだ。英語の brother は「兄」とも「弟」とも違う切り出し方をしていて、それは brother という語が別の差異の網の中にいるからである。ここで近代の言語観が反転している。近代は、語がそれ自体で意味を持ち、その語を組み合わせて文を作ると考えた。ソシュールは、意味は関係の網からしか出てこないと言う。網の一部を取り出して眺めても、そこには何も無い。67 の分節がなぜ言語ごとに違うのかも、ここから説明がつく — 網の目の入れ方が違えば、切り出される中身も違う。
-
天下皆美の美たるを知る、斯れ悪のみ。皆善の善たるを知る、斯れ不善のみ。故に有無相生じ、難易相成り、長短相形はし、高下相傾く。『老子』第二章
美を美と知るのは、醜があるからにすぎない。善を善と知るのは、不善があるからにすぎない。有と無は互いに生み合い、難と易は互いに成り立たせ、長と短は互いを形づくる。ソシュールの二千数百年前に、同じ構造が別の言い方で述べられている。注目したいのは「相(あい)」の一字が四度くり返されることだ。一方が他方を生むのではなく、互いに、である。長いものが先にあって短いものが後から測られるのではない。長短という差が立った瞬間に、長いものと短いものが同時に生まれる。差異が意味をつくるとは、この同時性のことである。
- 商品の価値も、他の商品との情報の差異によってもたらされる。
言語論を超えて広がる用法である。同じ機能の品でも、他と何が違うかによって値がつく。広告が延々と差異を語り続けるのは、価値が差異の側にあるからだ。「差異化」という語が広告論・消費社会論で頻出するので、この語を言語の話に限定せずに読む。
- ×彼の差異は生まれつき備わったものだ。
内側に備わったものとして語るなら「個性」である。差異は関係の中でしか出てこない。比べる相手がいなければ、差異は存在しない。「一人だけになっても残るか」を問えばよい — 残るなら個性、消えるなら差異である。この語の理論的な含みは、まさにこの「単独では成り立たない」点にある。
派生形
- 差異化[0]「化」が操作を指す。差異を作り出すことで、広告・商品戦略・自己表現について使われる。自然にある違いではなく、意図して作られた違いを名指す。
- 差異的[0]使用頻度は低い。「差異の」で足りることが多く、あえて使うのは「差異にもとづく」という性格を強調したいときである。
- 微差[1]ごくわずかな違い。差異が意味を生むなら、どんなに小さくても差は差である。この語が使われる場面 — 商品、意匠、作法 — は、いずれも差異化が極まった領域である。
コロケーション
- 差異によって意味をもつ現代言語論の核語はそれ自体では意味を持たないという主張。近代の言語観との対比で必ず現れる。読解上の効き目が大きいのは、この主張を採ると、意味が語の外側にあることになるからだ。59 のテクスト、60 のコンテクストがこの土台の上に建っている。
- 差異化消費社会の語他と違うことを意図的に作り出す操作。「化」が付いて、差異が自然にあるものではなく作られるものになる。皮肉なのは、差異化が徹底されるほど、差異化されていること自体は共通になることだ。誰もが他と違おうとする社会では、違おうとすることが最も広く共有された振る舞いになる。
- 差異の体系網としての言語個々の差異ではなく、差異が織りなす全体を指す。一つの語の意味を変えると、隣り合う語の意味も動く。「兄」の範囲を変えれば「弟」の範囲も変わる。この連動があるから、言語は個人が勝手に変えられない。63 のコードが共有を条件とするのと、根は同じである。
- 差異と同一同じ構造の対反対語でありながら、どちらも比較を前提としている。これが 68・69 の急所である。違うと言うにも同じと言うにも、まず二つを並べなければならない。並べるという操作が先にあって、その結果として差異とも同一とも呼ばれる。対立しているように見えて、実は同型である。
格硬書き言葉。会話では不自然。
類語と差
- 違い異なっていること日常語。差異は〈意味を生む違い〉という理論的な含みを持つ。
- 区別見分けて分ける認識する側の働き。差異は関係そのものの性質。
- 個性そのものらしさ内側に備わったものとして語る。差異は関係の中でしか出てこない。
- 同一区別できないこと対語。どちらも比較を前提とする点では同じ構造をもつ。
ENdifference
ZH差异(差異, chāyì)
69
同一
どういつ[0]どういつ平板型
定義
二つ以上の物事の性質が同じで、区別ができないこと。
『現代文キーワード読解』1-1 ☑69
原書の解説
〈明けの明星も宵の明星も同じ金星だ〉という時、〈明けの明星〉と〈宵の明星〉は、土星などの他の星との比較で、同一の性質をもつものとみなされている。
また、〈今日の私は、昨日の私と変わりのない私だ〉という時には、昨日と今日とを比較した上で、変化しない同一の〈私〉の性質が言われている。
このように、差異と同じく、同一も何かとの比較を前提としている概念だと考えられる。なお、自己の人格についての同一性(自己同一性)は、アイデンティティとよばれている。
使用の境界二つ以上のものが同じ性質を持ち、区別できないこと。差異と同じく比較を前提とする。
用法要点は、同一もまた比較を前提とする概念だという点にある。明けの明星と宵の明星が「同一だ」と言えるのは、他の星と比べたうえでのことである。昨日の私と今日の私が同じだと言えるのも、昨日と今日を比べているからである。したがって差異と同一は反対語でありながら、構造は同じ。この指摘が読解の急所になる。自己についての同一性はアイデンティティと呼ばれ、近代論・現代社会論に接続する。
用例
-
月やあらぬ春や昔の春ならぬ
わが身ひとつはもとの身にして『伊勢物語』第四段(10世紀)
月も春も、去年と同じではないのか。私だけが元のままなのに — と詠む。恋しい人の去った家に、翌年また来て詠まれた歌である。ここで問われているのは同一性そのものだ。月は物理的には同じ月である。春もまた同じ季節が巡ってきている。それでも「あらぬ」と感じられる。何をもって「同じ」と言うのかが、この一首で揺さぶられている。そして「わが身ひとつはもとの身にして」— 自分だけは変わっていないと言いながら、去年と同じ気持ちでいないからこそこの歌が詠まれている。同一を主張する文が、その主張を裏切っている。この捻れが、この歌を千年読ませてきた。
-
「明けの明星は宵の明星である」という文は、真の認識を含んでいる。しかし「明けの明星は明けの明星である」という文は、何も新しいことを教えない。ゴットロープ・フレーゲ『意義と意味について』(1892)/訳は本教材
原書が挙げる例そのものが、近代論理学の出発点にある問いだった。同じ金星を指す二つの名を等号で結んだだけなのに、なぜ一方は発見で、他方は空虚なのか。フレーゲの答えは、名が指すもの(意味)と、名がそれを指す道すじ(意義)を分けることだった。指すものは同じでも、道すじが違う。朝の空で見つけるか、夕の空で見つけるかは、同じ星への別の近づき方である。ここから分かるのは、「同一だ」と言えるのは二つの異なる道すじを並べたときだということだ。道すじが一つなら、同一性は語れない。原書が「同一もまた比較を前提とする」と書くのは、この構造を指している。
- 昨日の私と今日の私が同じだと言えるのは、昨日と今日を比べているからである。同一も比較を前提とする。
読解の急所である。差異と同一は反対語でありながら、構造は同じ。どちらも二つを並べる操作から出てくる。この指摘ができるかどうかが、この節の設問を分ける。自己についての同一性はアイデンティティと呼ばれ、近代論・現代社会論へ接続する。
- ×二つの品はまったく同一なので、比べる必要がない。
比べなければ、同一だとも言えない。同一という判断そのものが比較の産物である。「同じだ」は、比較を終えたあとにしか出てこない結論だ。比較を不要にする語ではなく、比較の結果を言う語である — ここを取り違えると、68 との対称性が見えなくなる。
原書の反意語・関連語反 68 差異 / 関 アイデンティティ
派生形
- 同一性[0]性質として取り出す形。「同一性を保つ」「同一性が揺らぐ」と時間の中での持続を論じられるようになる。アイデンティティの訳語としても使われる。
- 同一化[0]「化」が操作を指す。別のものを自分と重ねる働きで、心理学・社会論の術語。重ねた対象への批判が自分への攻撃に感じられる、という現象を説明できる。
- 自己同一性[0]アイデンティティの訳語。語を長くして射程を限定する作りで、1-1 の 21「人間疎外」と同じ手つきである。近代論・現代社会論の中心概念のひとつ。
コロケーション
- 自己同一性アイデンティティ自分が自分であり続けること。時間を隔てた二つの自分を並べて、同じだと判断している。つまりこれも比較の産物である。注目したいのは、この比較には終わりが無いことだ。生きているかぎり新しい「今日の私」が現れ、そのつど照合が要る。アイデンティティが「確立する」ものではなく「揺らぐ」ものとして語られるのは、そのためである。
- 同一化一つに重ねる「化」が付いて操作になる。別のものを自分と重ねる働きで、心理学では他者への同一化、社会論では集団への同一化を指す。重要なのは、同一化した瞬間に差異が見えなくなることだ。国家と自分を同一化すれば、国家への批判は自分への攻撃に感じられる。1-1 の 20 のイデオロギーがここで働く。
- 同一性の危機照合の失敗昨日の自分と今日の自分を同じだと言えなくなった状態。興味深いのは、この危機は比較をやめれば消えることだ。照合しなければ、ずれも見つからない。それでも人が照合をやめないのは、同一性が語りの前提だからである — 「私は」で始まる文は、「私」が続いていることを勝手に前提にしている。
- 同一律論理の基本法則「A は A である」。何も言っていないように見えて、あらゆる推論の土台になっている。フレーゲが問題にしたのはまさにここで、「A は A である」が空虚なのに「A は B である」が発見を含むという落差から、意義と意味の区別が生まれた。当たり前を問い直すことが新しい学問を生む — 1-1 の 14 と 15 が言っていたとおりである。
格硬書き言葉。会話では不自然。
類語と差
- 同じ違いがない日常語。同一は〈何との比較において同じか〉を含意する。
- 等価価値が等しい交換の話。同一は性質の話。
- アイデンティティ自己の同一性自分が自分であり続けること。同一性の一用法。
- 差異比較して見られる違い対語。両者は反対でありながら、比較を前提とする点では同型。
ENidentity
ZH同一(同一, tóngyī)
70
一義(的)
いちぎ[1]いちぎ頭高型
定義
① 意味や解釈が一つしかないこと。 ② 最も大切なこと。根本。
『現代文キーワード読解』1-1 ☑70
使用の境界①意味や解釈が一つしかないこと。②最も大切なこと、根本。二つの用法が同居する。
用法二つの用法があり、混同すると設問を落とす。①意味が一つしかない(一義的な解釈)。②第一に、根本的に(一義的には政府の責任だ)。②は行政・報道でよく使われ、こちらのほうが日常では頻度が高い。評論文では①が中心で、言語の多義性を論じる文脈で対比項として置かれる。「一義的に決まる」は、解釈の余地がないという意味。「義」は〈意味〉であることを押さえておくと、一義・両義・多義が一列に並ぶ。
用例
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名定まりて実弁じ、道行はれて志通ず。……此れ乱を治むるの端なり。『荀子』正名篇
名が定まれば実(じつ)が区別され、道が行われて意志が通じる。これが乱を治める端緒であるという。一義であることが、ここでは統治の条件として語られている。同じ語を各人が別の意味で使えば、議論も約束も裁判も成り立たない。注目したいのは、荀子が同じ篇で「名に固より宜しき無し」— 名が対象にふさわしい理由はもともと無い、とも書いていることである。根拠は無い。それでも定めなければ通じない。この二つを並べて言えるところに荀子の強さがあり、一義性が「真理だから一つ」ではなく「一つに決めたから通じる」ものであることが分かる。
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論争が起きたなら、二人の哲学者のあいだに計算者どうしのような議論があればよい。ペンを手に取り、机に向かって「さあ、計算しよう」と言えば足りるのだ。ゴットフリート・ライプニッツ『普遍学の端緒』(17世紀後半)/訳は本教材
曖昧さのまったく無い言語を作れば、哲学の論争は計算で決着する — そういう構想である。これは一義性を極限まで押し進めた夢だと言ってよい。注目したいのは、この夢が完全には実現しなかったが、半分は実現したことだ。数学の記号、プログラミング言語、法律の定義規定 — いずれも一義であろうとする言語である。そして残り半分が実現しなかったのは、人が何かを言おうとするたびに、既にある語では足りないからだった。57 の隠喩が言語を広げていく働きは、この夢と正面から対立している。
- 契約書の文言は、一義的に決まるように書かれなければならない。
①の用法である。解釈の余地が無いことを求めている。注意したいのは、これが言語の自然な状態ではないことだ。ふつうの言葉は多義であり、一義にするには定義を積み重ねるという手間をかけなければならない。法律文書が読みにくいのは、その手間の跡である。
- ×この事故の責任は一義的に一つの意味しか持たない。
「一義的には政府の責任だ」という言い方は②の用法(第一に、根本的に)で、意味の数の話ではない。この文は①と②を混ぜてしまっている。行政・報道では②の頻度が高く、評論文では①が中心である。「意味が一つ」か「第一に」かを文脈で決めてから読む。
派生形
- 一義的[0]二つの用法が同居するためもっとも取り違えられやすい形。①意味が一つ、②第一に。文の主語が「解釈」なら①、「責任」なら②と見当をつけると外しにくい。
- 一義性[0]性質として取り出す形。ほぼ①の意味に限られるので、②との混同が起きない。術語として使うならこちらが安全である。
- 一意数学・情報の語で、ただ一つに定まること。「一意に決まる」「一意性」。日本語の日常文では使わないが、一義性を厳密に言い直した形として覚えておくと、理系の文章で足が止まらない。
コロケーション
- 一義的に決まる解釈の余地なし読み方が一つしかないという状態。契約・法令・仕様書が目指すところである。面白いのは、これが自然な言語の状態ではないことだ。一義性は達成するものであって、出発点ではない。定義を重ね、用語を限定し、例外を書き尽くしてようやく近づく。
- 一義的には②の系列「第一に」「根本的には」の意。行政・報道でよく使われ、日常ではこちらが優勢である。「一義的には自治体の責任だが」と言うとき、後ろに「しかし」が控えていることが多い。第一の責任を認めつつ、二次的な責任を他へ配分する言い方になる。
- 第一義②の名詞形もっとも重要な意味。「義」が〈意味〉であることを押さえておくと、①と②が同じ字から出ていることが分かる。意味が一つしかない(①)と第一の意味(②)は、「一」の読み方が違うだけである。数として読むか順位として読むか、それだけの差だ。
- 一義・両義・多義義の数で並べる「義」が意味だと分かれば、三語は一列に並ぶ — 一つ、二つ、多く。ただし 71 の両義だけは数ではなく質の条件を負っている。対照的な二つ、という条件である。一義と多義は数の軸、両義はそこに質の軸が交わる。この一枚の図を持っておくと取り違えない。
格硬書き言葉。会話では不自然。
類語と差
- 多義多くの意味を持つ対語。解釈の幅の有無で分かれる。
- 明確はっきりしている分かりやすさの話。一義は解釈の数の話。
- 一意ただ一つに定まる数学・情報の語。日本語の日常文では使わない。
- 第一義最も重要な意味②の系列。「第一義的には」の形で使う。
ENunivocal
ZH单义(一義, dānyì)
71
両義(的)
りょうぎ[1]りょうぎ頭高型
定義
正反対となる二つの意味をもち、どちらの意味にも取れること。
『現代文キーワード読解』1-1 ☑71
使用の境界正反対の二つの意味を同時に持ち、どちらにも取れること。単に意味が二つあるだけでは両義ではない。
用法最も誤りやすい語である。「二つの意味」ではなく「対照的な二つの意味」が要件になる。原書が挙げる例は身体で、自分の意のままになる主体的な側面と、単なる物体という客観的な側面を同時に持つ。この二つは正反対だから両義的と言える。評論文では、近代が切り捨ててきた〈どちらとも決まらないもの〉を救い上げる文脈で使われることが多く、肯定的な評価を伴う。「曖昧」と訳すと誤りになるので、必ず〈対照的な二つ〉と押さえる。
用例
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私の身体は、見るものであると同時に見られるものである。……それは物のあいだにありながら、物を見る。モーリス・メルロ=ポンティ『知覚の現象学』(1945)/訳は本教材
原書が両義の例として挙げる身体を、正面から論じた一節である。手で机に触れるとき、手は触れるものであり、同時に触れられている。この二つは正反対の位置だ。見るものは主体、見られるものは客体。身体はその両方を同時に引き受けている。注意したいのは、これが二つの側面を持つという話ではないことだ。側面が二つあるだけなら、視点を変えて眺めればよい。身体の場合、見ている当のものが見られている。同時に、同じ資格で。この同時性が両義の条件で、単に意味が二つあるだけの多義とはここで分かれる。
-
己の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。中島敦『山月記』(1942)
李徴が虎になった理由を語る場面である。「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」と彼はその少し前に言っている。語そのものが交差していることに注目したい。自尊心は本来、堂々としたものだ。それが臆病である。羞恥心は本来、身を縮めるものだ。それが尊大である。正反対の二つが、一つの心のなかで同時に働いている。どちらか一方に決めれば、この人物は理解できなくなる。自信が無いから引きこもったのでも、自信があるから人を避けたのでもない。両方が同時に本当だった。評論文が両義を〈近代が切り捨ててきた、どちらとも決まらないもの〉を救い上げる文脈で使い、しばしば肯定的な評価を伴うのは、この種の真実が一義的な言葉では取り逃がされるからである。
- 身体は自分の意のままになる主体でありながら、同時に一個の物体でもある。これが両義性である。
原書の例をそのまま文にしたもの。「二つの意味」ではなく「対照的な二つの意味」が要件である。主体と物体は正反対だから両義的と言える。ここを落とすと 72 の多義との区別がつかなくなるので、この語はこの一文ごと覚えるのが早い。
- ×この語には辞書に五つの意味があるので両義的だ。
意味が多いだけなら「多義」である。両義は対照的な二つという条件が付く。また「曖昧」と訳すのも誤りで、曖昧が欠点として言われるのに対し、両義はその構造自体が対象の性質だと述べている。どちらとも決まらないのではなく、両方が同時に成り立っている。
派生形
- 両義的[0]もっとも多い形。対照的な二つの意味を同時に持つことを言う。評論文では肯定的な評価を伴うことが多く、「曖昧な」とは正反対の位置にある。
- 両義性[0]性質として取り出す形。対象そのものの構造を指すので、「両義性を持つ」とは言えても「両義性を解消する」とは言いにくい。この言いにくさが、曖昧との差をよく示している。
- アンビバレント心理学由来の外来語で、相反する感情を同時に抱く状態。両義が対象の側、アンビバレントが心の側という置き場所の違いで使い分ける。
コロケーション
- 両義性構造としての名性質として取り出す形。「身体の両義性」「近代の両義性」のように、対象そのものが持つ構造を指す。注意したいのは、これが欠点の指摘ではないことだ。曖昧さなら解消すべきだが、両義性は解消できない — 解消しようとすれば、対象の半分が消える。
- 両義的な存在決めきれないもの評論文で肯定的に使われる形である。近代が切り捨ててきた「どちらとも決まらないもの」を救い上げる文脈で現れる。1-2 の 42・43 で見た「分ける」思考が取り逃がしてきたものが、ここに集まっている。分ければ消えるものがあるという主張は、この章と前章をつなぐ糸でもある。
- アンビバレンス心理の側の語相反する感情を同時に抱くこと。愛しながら憎む、憧れながら恐れる。両義との違いはどこにあるかで、アンビバレンスは心の側、両義は対象や概念の側にある。『山月記』の李徴はアンビバレントであり、そのことを語る「尊大な羞恥心」という言葉のほうが両義的である。
- 両義と曖昧訳し分けの線曖昧は欠点、両義は性質。曖昧な文は書き直せば直る。両義的な対象は、書き直しても両義的なままだ。「直せるかどうか」を問えば分かれる。英語ではどちらも ambiguous になりうるので、翻訳文を読むときはとくに注意したい。
格硬・学術論文・評論でのみ使う。会話では不自然。
類語と差
- 多義多くの意味を持つ数の話。両義は〈対照的な二つ〉という条件が付く。
- 曖昧はっきりしない欠点として言う。両義はその構造自体が対象の性質だと述べる。
- アンビバレント相反する感情を同時に抱く心理の語。両義は対象や概念についても言う。
- ディレンマ二つとも選べない選択の場面。両義は意味の構造。
ENambivalent
ZH两义(両義, liǎngyì)
72
多義(的・性)
たぎ[1]たぎ頭高型
定義
多くの意味をもっていること。または、いくつもの意味に解釈できること。
『現代文キーワード読解』1-1 ☑72
使用の境界多くの意味を持ち、いくつもの解釈が成り立つこと。対照的である必要はない点が両義と違う。
用法評論文では肯定的に扱われる。言語が多義であるからこそ、テクストは複数の読みに開かれ、コンテクストによって意味が変わる。この主張が「作者の意図が唯一の正解ではない」という読解観を支える。日常では多義性は不便さとして扱われるが、評論文でそう読むと逆になる。両義との差が設問になりやすく、多義は数だけ、両義は対照的な二つという線で分ける。「一義」との対で置かれることが多い。
用例
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花の色はうつりにけりないたづらに
わが身世にふるながめせしまに小野小町(『古今和歌集』春下・『百人一首』9番)
一首のなかに掛詞が二つ埋め込まれている。「ふる」は降ると経る、「ながめ」は長雨と眺め。どちらか一方を選ぶのではない。二つが同時に読まれる。長雨が降りつづくあいだに花の色が褪せた、という景色の歌であり、同時に、もの思いに沈んで日を過ごすうちに自分の容色が衰えた、という嘆きの歌でもある。景色と嘆きが、同じ語を通って一つに重なっている。これが多義の力である。一義の言語なら、二首に分けて書くほかない。分けて書けば、「花と私が同じことを経験している」という感じ方そのものが消える。
-
閑さや岩にしみ入る蟬の声松尾芭蕉『おくのほそ道』立石寺(1702)
この一句をめぐっては、蟬の種類だけで論争が起きた。斎藤茂吉はアブラゼミだとし、小宮豊隆はニイニイゼミだと反論した。茂吉はのちに現地で確かめて自説を撤回している。それだけではない。「しみ入る」の主語は何かも定まらない。蟬の声が岩にしみ入るのか、閑さが岩にしみ入るのか。声が岩に吸われて閑さになるのか。ここが重要である — どれか一つに決めた瞬間、この句は痩せる。決まらないことが欠陥ではなく、決まらないまま成立していることがこの句の中身なのだ。評論文が多義を肯定的に扱うのは、この事情を言っている。
- 言語が多義であるからこそ、テクストは複数の読みに開かれる。
この章の議論がここに集まる。59 のテクスト、60 のコンテクストを支えているのがこの一文である。語の意味が一つに定まらないから、置かれた文脈しだいで別の読みが立つ。「作者の意図が唯一の正解ではない」という読解観は、多義性の上にしか建たない。日常では多義性は不便さだが、評論文でそう読むと主張が裏返る。
- ×この規約は多義的でよくできている。
規約や契約が目指すのは一義性である。多義であっては、守るべきことが人によって変わってしまう。多義が肯定されるのは、解釈の豊かさが値打ちになる場所 — 文学・思想・批評に限られる。同じ性質が、場所によって長所にも欠陥にもなる。評価は語ではなく場が決めている。
派生形
- 多義的[0]形容の形。「多義的な表現」は、評論文では豊かさの評価、実務文では欠陥の指摘になる。評価の向きは場が決める。
- 多義性[0]性質として取り出す形。「多義性に開かれる」「多義性を排する」と両方向に使える。この語がこの章の結論を担っていて、67 の分節から始まった議論がここへ着地する。
- 曖昧[0]対にして注意したい語。曖昧は否定的な評価、多義は評論文では肯定的。同じ「意味が一つに決まらない」状態を正反対の向きから名指している。どちらの語を選ぶかが、すでに書き手の立場の表明になっている。
コロケーション
- 多義性開かれの条件複数の意味に解釈できるという性質。評論文では肯定的に扱われる。テクストが複数の読みに開かれ、コンテクストによって意味が変わるのは、この性質があるからだ。日常語の感覚(多義=不便)で読むと主張が逆になるので、この語に出会ったら評価の向きをまず確かめたい。
- 多義と両義数か、質か多義は数だけ、両義は対照的な二つ。両義には条件が付いているぶん、成立する場面が狭い。設問になりやすいのはこの差で、「二つの意味が正反対か」を問えば決まる。正反対でなければ、二つでも多義である。
- 掛詞多義を作る技法一つの語に二つの意味を意図的に重ねる和歌の技法。多義が言語の性質であるのに対し、こちらはその性質を利用した工夫である。限られた字数のなかに二重の内容を収めるという要請から生まれた — 58 のレトリックがいう〈有限の言葉で無限の事柄を表現する〉が、ここでは三十一文字という極端な有限のもとで実演されている。
- 多義性を排する専門語の作られ方法律・医学・工学の用語は、意識的に多義性を削って作られる。定義を与え、使用範囲を限り、日常語との重なりを断つ。専門語が硬く感じられるのは、この削りの跡である。70 のライプニッツの夢は、この方向を言語の全体に及ぼそうとしたものだった。
格硬書き言葉。会話では不自然。
類語と差
- 一義意味が一つしかない対語。解釈の幅の有無で分かれる。
- 両義対照的な二つの意味を持つ条件が厳しい。多義は数だけを言う。
- 曖昧はっきりしない否定的な評価。多義は評論文では肯定的に扱われる。
- 含蓄言外に意味を含む味わいの話。多義は解釈が複数成り立つという構造。
ENpolysemy / multivocal
ZH多义(多義, duōyì)
解説 ── 一義・両義・多義
「義」は〈意味〉のこと。したがって、一義とは一つの意味しかないことであり、多義とはさまざまな意味をもち得ることを言う。ちなみに「一義的」には、〈第一には〉という意もあることを覚えておこう。
注意が必要なのは両義だ。両義は、単なる「二つの意味」ではなく、「対照的な二つの意味」がある場合に用いられる。たとえば我々の身体は、自分の意のままになる主体的な側面と、単なる物体という客観的な側面とがあるという点で、両義的な存在である。
対立の軸
差異/同一 の軸 = 比較の結果が違いか同じか
差異他と比べたときに見られる違い。
比較の結果が違いか同じか
同一二つ以上の性質が同じで区別できないこと。
一義(的)/多義(的・性) の軸 = 意味の数
一義(的)意味や解釈が一つしかない。
意味の数
多義(的・性)多くの意味をもち、複数の解釈が成り立つ。
差異が意味をつくり、同一もまた比較を前提とする
一義・両義・多義 ── 数と質