『チ。』第2話の研究ノート [ 今から、地球を動かす ]
第2話は「少年が知に目覚める感動の回」ではなく、賭けたあとに何が起こるかを見せる回である。制度は人を焼けるが、記述を焼き切ることはできない ── 誰かが火中に手を入れるかぎり。
第1話は、一つの問いで終わっていた。その目を、誰から渡され、誰に渡すのか——。
第2話は、その答えの重さを教える回である。渡されるものは、目だけではなかった。火も、渡される。
この回には、火が二度出てくる。一度目の火は人を焼いた。二度目の火は書物を焼くはずだった。一度目の火を、少年は止められなかった。二度目の火に、少年は手を入れた。
人類の知の歴史とは、つまるところ、この二つの火の間で起きてきたことである。制度は人を焼ける。だが記述は、誰かが火中に手を入れるかぎり、灰にならない。
そしてこの回の終わり、やけどの痕も新しい手で、少年は宣言する。自分は清廉でも聡明でもない、横柄で傲慢で軽率で無力だ——「そして今から 地球を動かす」。
地球は、四十五億年前から動いている。動いていなかったのは、人間の記述のほうだった。だからこの宣言は、天文学の命題ではない。一人の人間が、世界の書き換えに自分の生を差し出すという、署名である。
この研究ノートは、その署名の筆跡を読むための、十章の試みである。

口絵 ── 自然という書物。第二の聖書を、火に先んじて掲げる者
読み方 ── 第1話ノートと同じ作法で
本文の主張にはA作品世界・B歴史イメージ・C史実・D現代評価 の層の札と、定説有力説議論あり俗説の確度の札が付く。難度は基礎発展大学院の三段で、下の帯からいつでも絞れる。
第3章だけは組み方が違う。七つの節がそれぞれ、第2話の一行から始まる。引用は金の縦罫を添えて裸で置き、その直後から地の文で解剖に入る ── 言葉と分析のあいだに、落差を残すためである。
このノートは第2話終了時点までしか扱わない。第3話以降には触れず、置き残された謎は謎のまま保存する。
読み方の例 ── C史実「プトレマイオス体系と太陽中心体系は、幾何学的に相互変換できる」定説 ── 文頭の札がどの層の話かを、文末の札がどれくらい確かかを示す。
語学の手引き ── 本文の学術語と固有名には種類ごとの下線を引いた。天文の語は金、哲学・思想の語は青、宗教・制度の語は緋、人物・学派・地名は藤、書物は青緑。頁で最初に現れた場所には(中文/English)を添え、巻末の附に一覧表を置いた。人物と書物の名は何度も出るため、印は初出だけに留めてある。
その世界に立つ ── 火と法の見取り図
第2話には、現代の目には不可解な場面が続く。教会が人を焼く。善良な男が拷問(拷问/torture)室に通う。誰も「良心(良心/conscience)の自由」を主張しない。これらは怪奇ではなく、一つの首尾一貫した制度の風景である ── 魂の管轄権という発想を軸に置けば、すべての歯車が噛み合って見えてくる。
鍵は「教会は血を流さない」という原則にある。教会が裁くのは魂であり、判決のついた体は世俗(世俗/the secular)権力へ引き渡される(relaxatio)。火刑(火刑/burning at the stake)台を組むのは国家の腕である。この分業を知らないと、フベルト(胡贝尔特/Hubert)の裁きの手続きも、ノヴァク(诺瓦克/Nowak)という在俗の執行者がなぜ存在するのかも、読み損なう。
| 現代のあたりまえ | 十五世紀のあたりまえ | その背景 |
|---|---|---|
| 良心の自由は基本的人権 | 魂は教会の管轄。誤った信仰は、本人の救済(救赎/salvation)のためにも正すべきもの | 審問(inquisitio)は建前の上では処罰ではなく「治療」── この論理が制度全体を貫く |
| 拷問は絶対的な禁止事項 | 手続き化された取り調べの一部 | 12世紀のローマ法復興以降、「自白は証拠の女王」。拷問は無制限ではなく、規則と記録のある官僚的手続きだった ── それが恐ろしさを減らすわけではない |
| 処刑は非公開 | 処刑は公共の儀式 | 見せしめは制度の機能の一部。第1話でラファウ(拉法乌/Rafal)が平然と見物し、ノヴァクがあくびをするあの広場は、日常の風景である |
| 教会と国家は分離している | 二本の剣が分業する ── 霊の剣は魂を、俗の剣は体を | 「教会は血を流さない」。だから異端(异端/heresy)の宣告は教会が行い、火刑の執行は世俗権力が行う。この引き渡し(relaxatio)の構造が、責任の所在を霧に変える |
| 本は消せない ── 複製が無限にある | 写本(抄本/manuscript)は焼けば、本当に消えうる | 印刷術(印刷术/printing)の普及前夜。現存しない古代文献は数知れない。フベルトの絶望と、手紙の重さは、この「本当に消える」世界の話である |
| 遺体の扱いは死後に関わらない | 復活(复活/resurrection)は身体ごと ── と、多くの人が文字通りに信じた | 正統教義(教义/doctrine)は遺体の状態と復活を切り離す(第6章)。だが民衆の恐怖はそこまで精密ではない。ノヴァクの脅しは、教義ではなく恐怖の水位を突いている |
この足場に立つと、第2話の誰一人として「制度の外」にいないことが見えてくる。フベルトの偽装も、ノヴァクの職務も、処刑の見物人も、みな同じ機構の部品である。そのなかで、機構の設計図にない行動をとった者だけが ── 火中に手を入れた。
この節と巻末の「開かれた問い」は、本編が語らずに済ませた前提を外側から補うための一節である。記述は第2話終了時点で明らかになっている範囲に限り、確度の考え方は本文と同じ作法に従う。
第1章 第2話で何が起きたか
結論:第2話は三つの死で構成されている。天動説(地心说/geocentrism)的世界像の死(坂の上)、フベルトの死(火刑)、そして「賢く生きるラファウ」の死(宣言)。題名の「動かす」は他動詞である——地球が動くのではない。僕が、動かす。
A作品世界確定事項(字幕データにより裏付け):
- 三つの反論:ラファウは地動説(日心说/heliocentrism)を「普通に間違ってる」と断じ、理由を三つ挙げる——①矛盾が多い(地球が動くならなぜジャンプして同じ場所に着地するのか)②神が人の住む星を特別にしたという教義に反し、危険すぎる③そんな直感に命を預けるのは愚かだ。フベルトは①②を「正論」と認めた上で、③にのみ反対する。
- 観測の継続:ラファウは「美しいと思わない」「明日はもう来ない」と告げるが、フベルトは動じず観測を頼み続け、ラファウは通い続ける。
- 坂の啓示(自転〔自转/rotation〕):一人での帰路、足を滑らせて転び、一瞬「山がひっくり返った」と錯覚する。動いたのは自分だと気づいた直後、その「当たり前」を延長する——観測者が動くなら、静止した対象も動いて見える。「自転…してるかも」。
- 机上の変換(公転〔公转/revolution〕):ラファウはプトレマイオス(托勒密/Ptolemy)体系を数学的に組み替える——外惑星(行星/planet)は周転円(本轮/epicycle)の半径を太陽の公転半径に一致させ、内惑星は周転円の中心を太陽に一致させる。すると誘導円(従円〔均轮/deferent〕)は太陽の軌道と重なり、地球がそれらを率いて太陽を回る配置が現れる。バラバラだった惑星は連鎖し、宇宙は一つの秩序に統合される。ラファウは抵抗しながら陥落する——この説を「美しいと思ってしまう!」。そして小さく認める。合ってる、かも。
- フベルトの動機:神を否定したいのかと問うラファウに、フベルトは逆だと答える——神を信じるからやるのだ、と。この世は醜くあの世は美しいという通念を彼は認めない。神が創ったこの世界こそ何よりも美しく、それを知るのに妄信も金も地位も要らない。知性だけを携えて、自分の小さな頭蓋の中で神の偉業を理解してみせる。「私は聖書(圣经/the Bible)ではなく 自然を読むのだ」。
- 恐怖の告白:怖くないのかと問われ、フベルトは即答する。怖い、と。「だが 怖くない人生など その本質を欠く」。
- 別離と摘発:フベルトは一人で観測を続ける方法を見つけたと告げ、ラファウに「天文をやれ 自分のために」と提案して去る。直後、異端審問(异端审判/the Inquisition)官ノヴァクがラファウの本棚から観測ノートを発見する。フベルトが現れ、子供の部屋に隠した自分のものだと偽り、罪を引き受け、ペンダントをラファウに渡して連行される。やり残したことは、と叫ぶラファウに——「たった今やったよ」。
- 火刑と遺言:フベルトは焼かれて死ぬ。ラファウはペンダントのオリオンの帯(中央のアルニラムだけ黒い)と、観測地の岩山の配置の一致から、隠し場所を突き止める。手紙と、フベルトの全研究と、報酬の金。手紙の依頼は——すべて燃やしてほしい。「地動説は恐らく証明できない」、不確定要素が多すぎる、神の領域なのだろう、不完全な説は消えるべきだ。だが自分は未練がましく燃やす勇気を持てなかった。君の理屈は私の直感よりずっと強い。あなたなら燃やせる。
- 焼却と反転:ラファウの理屈は依頼を承認し、書物を火にくべる。だが次の瞬間、彼は燃える書物に手を突っ込む——「僕の直感は 地動説を信じたい!」。
- 宣言:学校の送別の場で、神学(神学/theology)ではなく「僕は天文を学びます」と告げる。内心の独白——この世はバカばかりで、気づけばその先頭に自分が立っていた。本当の自分は清廉でも聡明でもなく、横柄で傲慢で軽率で無力で——「そして今から 地球を動かす」。
- ノヴァクの肖像:泣く子供を助け、4歳の娘からの手紙を持ち歩き、我が子への愛を生きる理由と呼ぶ男が、そのまま拷問室へ入っていく。世界や人類を守る気はない、ただ家族と友人の日々の信仰と生活を守るためなら何でもする、と語る。彼は出家していない在俗の審問官(审判官/inquisitor)で、元傭兵。司教(主教/bishop)に腕を買われた特例任用であることが同僚の会話で示される。
- 嘘:ポトツキ(波托茨基/Potocki)は天文宣言の撤回まで入学許可書に署名しないと迫る。ラファウは即座に宣言する——天文は二度としません。内心——「普通にウソをついた」。言葉では何とでも言える、嘘ほど便利なものはない。神学で入学し後で天文へ編入すればよい。証明には30〜40年かかるだろうが、地道に確実に進める。最後に一つの謎が置かれる——天文を毛嫌いする義父の家に、なぜこれほど天文資料があるのか。
第2話には三つの死がある。世界像の死、師の死、そして「賢く生きる少年」の死。三つ目だけが、自死である。
起きたことを並べ終えて、気づくことがある。この回で最も多く登場する道具は、望遠鏡でもアストロラーベでもない。火と、手紙と、嘘である。つまり第2話が差し出しているのは天文学の問題ではなく——賭けたあとの人間に何が起こるか、という問いの束である。
第2章 この話で提示された問い
結論:第1話が「知に賭けるか」を問うたとすれば、第2話は「賭けたあと、何が起こるか」を問う。少なくとも12問。
- 不正解に、意味はあるか。
- 直感と理屈が対立するとき、命を張る場面ではどちらに従うべきか。
- 「美しいと思ってしまう」ことは、認識か、それとも誘惑か。
- 神を信じることと自然を読むことは、なぜ両立しうるのか。両立しうるなら、なぜ彼は焼かれたのか。
- 恐怖のない人生は、本当に「本質を欠く」のか。
- 知識を燃やすことは、許されるか。誰に、その権利があるか。
- 自分の死後にしか読まれない手紙を書くとは、どういう行為か。
- 善良な家庭人が拷問を行うとき、悪はどこに宿っているのか。
- 愛する者を守ることと、真理を守ること——倫理はどちらに味方するか。
- 嘘は、知を守る正当な武器になりうるか。
- 「30〜40年」という見積もりの誤りは、何を教えるか(実際には証明まで約300〜400年かかった)。
- 「地球を動かす」——世界を変えるとは、世界の記述を変えることなのか。
第1話は「賭けるか」と訊いた。第2話は「賭けたあとに何が起こるか」を見せる。
十二の問いは、抽象論として立てられたのではない。どの問いも、誰かの短い一言から立ち上がっている。だから次章では、その言葉たちを一つずつ手に取り、光にかざす。台詞を飾りとしてではなく、圧縮された論題として読むために。
第3章 名場面の解剖(名言の分析的読解)
結論:第2話の台詞は装飾ではなく、それぞれが科学哲学(科学哲学/philosophy of science)・神学・倫理学(伦理学/ethics)の一命題を圧縮した論題である。以下、七つの短句を解剖する。
3-1
不正解は無意味を意味しない
A作品世界ラファウの③(直感に命を預けるのは愚か)へのフベルトの応答。
C史実D現代評価この一行は、20世紀科学哲学の中心的洞察を先取りした形になっている。ポパー(波普尔/Karl Popper)において科学は反証(证伪/falsification)——つまり「間違うこと」——によって前進する。誤りうる大胆な推測こそが知識の源泉であり、不正解は排除されるべきノイズではなく、探究の燃料である定説(科学哲学の標準見解として)。天文学(天文学/astronomy)史そのものが証言する:プトレマイオスの「不正解」は1400年間の観測データを蓄積させ、その精度がなければコペルニクス(哥白尼/Copernicus)もケプラー(开普勒/Kepler)も仕事ができなかった(第1話ノート第5章)。誤った理論が、正しい理論の母胎になる。
D現代評価さらに深い含意:ラカトシュ(拉卡托斯/Imre Lakatos)の研究プログラム(研究纲领/research programme)論では、理論の価値は現時点の真偽ではなく「前進的か退行的か」で測られる。フベルトの言葉は、真理値(true/false)と価値(meaningful/meaningless)を分離する——この分離こそ、リスクを伴う探究を合理的たらしめる論理である。
不正解が無意味でないなら、次に問われるのは——正解は、どこから来るのか。
3-2 坂の啓示
観測者が動くなら 静止した対象も動いて見える
A作品世界転倒の一瞬、「山がひっくり返った」という錯覚から、ラファウは相対運動の原理を身体で掴む。
C史実これは第1話ノート第13章でC史実として整理した史実——ビュリダン(布里丹/Jean Buridan)の船の例、オレーム(奥雷姆/Nicole Oresme)の運動の相対性(相对性/relativity)——が、第2話でLayer Aへ「着地」した瞬間である。作品はこの原理を、書物ではなく転倒という身体経験から取り出させた。ここに考証以上の思想的正確さがある:オレーム自身、船上の経験を思考の素材にした定説。相対性は抽象論である前に、乗り物に乗る身体の知恵だった。
D現代評価物理学的注記:この推論が完全な力学的正当化を得るのはガリレイ(伽利略/Galilei)の相対性原理(1632年『天文対話』〔关于两大世界体系的对话/Dialogue Concerning the Two Chief World Systems〕)とニュートン(牛顿/Newton)力学を待つ。ラファウのジャンプ問題(反論①)への完全な回答——地上の物体は地球と運動を共有している——も同じ系譜にある定説。つまり第2話は、反論①を提示した同じ人物に、その解答の萌芽を掴ませるという対称構造を持つ。
坂の上で身体が掴んだ原理を、机の上で数学が受け取る。
3-3 プトレマイオスの組み替え
合ってる… かも
A作品世界ラファウの机上の変換:外惑星の周転円半径を太陽の公転半径へ、内惑星の周転円中心を太陽へ。従円は太陽軌道と重なり、惑星は連鎖する。
C史実この描写は、本作の科学史考証の白眉である。 プトレマイオス体系と太陽中心体系が幾何学(几何学/geometry)的変換で相互に移行可能であることは、天文学史の確立された事実である定説。プトレマイオス体系では、内惑星の周転円の中心は常に太陽方向に拘束され、外惑星の周転円上の運動は太陽の年周運動と同期している——つまり「太陽の軌道」が全惑星のモデルに影のように埋め込まれていた。この隠れた太陽を表に出す変換を実行すると、コペルニクス配置が現れる。Swerdlowはコペルニクスがレギオモンタヌス(雷格蒙塔努斯/Regiomontanus)の離心円(偏心圆/eccentric)モデル研究を経由してこの種の変換に到達したと論じた有力説。
D現代評価そしてこの変換の帰結が、作中で正確に描かれる——「バラバラだった惑星は連鎖して動」く。地球中心体系では各惑星の周転円は互いに無関係な装置だが、太陽中心配置では全惑星が一つの系に統合され、軌道半径の順序と周期が一意に定まる。コペルニクス自身が『天球回転論』(天体运行论/On the Revolutions of the Heavenly Spheres)で最大の長所として挙げたのは、まさにこの体系的統一性だった定説。
D現代評価認識論(认识论/epistemology)的な要点:観測データは一つも増えていない。変わったのは配置の記述だけである。それでも「美しさ」が劇的に変わる——決定不全性(第1話ノート第11章)の状況下で、統一性という認識的価値が選択を駆動する実例が、ここで体験として描かれる。「この説を美しいと思ってしまう!」というラファウの叫びの「しまう」に注目せよ。美は、意志に反して襲来する。判断ではなく、被る出来事として。
美に襲われた少年は、美の出どころを問う。神を否定したいのか、と。
3-4 二冊の書物
私は聖書ではなく 自然を読むのだ
A作品世界神を否定したいのかというラファウの問いへの、フベルトの「逆だ」という応答の帰結。
C史実この台詞は、キリスト教(基督教/Christianity)思想の正統的水脈「二書説(two books doctrine)」そのものである定説。神は二冊の書物を書いた——聖書(liber scripturae)と自然という書物(liber naturae)。自然を読むことは第二の聖書を読むことであり、敬虔の一形式でありうる。この考えはアウグスティヌス(奥古斯丁/Augustine of Hippo)に遡り、中世を貫き、のちにガリレオ(伽利略/Galileo)が『クリスティーナ大公妃への手紙』(1615)で自己弁護の中軸に据える定説。
D現代評価したがってフベルトの神学は、内容としては異端どころか伝統の中心にある(第1話ノート第12章の判定を第2話が台詞レベルで裏書きした形である)。彼を焼いたのは教義の逸脱ではなく、読む順序の主権——どちらの書物を優位に置くか、誰がそれを決めるか——をめぐる制度との衝突である。「妄信も金銭も地位もいらない。知性だけ携えて」という彼の言葉は、知の無階級性の宣言であり、知を階層の中で管理する体制(第1話ノート第6章)への、静かで完全な造反である。
自然を読む人生は、燃やされうる人生である。怖くないのか、と少年は問う。
3-5
怖くない人生など その本質を欠く
A作品世界怖いか、という問いへの即答「怖い」に続く一行。
C史実D現代評価アリストテレス(亚里士多德/Aristotle)倫理学における勇気(andreia)は、恐怖の不在ではない。恐怖を感じるべきものを感じ、それでもなお善のために踏みとどまる中庸(中庸/the mean)である。恐怖を感じない者は勇敢ではなく無謀に分類される定説。フベルトの定式はこの古典的区別を一行に圧縮し、さらに一歩進める——恐怖は勇気の障害ではなく、人生に本質を与える構成要素だと。賭け金のない賭けが賭けでないように、失いうるものを持たない生は、その重さを持たない。
D現代評価第1話ノート第14章の好奇心(好奇心/curiosity)論と接続する:好奇心は危険の認知と独立に点火する。フベルトはその共存——震えながら知りたがる状態——を病ではなく、生の完全性として引き受けている。
怖い、と即答した男は、最後の手紙で、もっと怖いことを頼む。
3-6 手紙
地動説は恐らく証明できない
A作品世界死後に読まれる手紙でフベルトは、生涯を捧げた説の焼却を依頼する。理由は認識論的謙虚さの極点である:自分は誰より地動説に接近したからこそ、それが恐らく証明できないと悟っている。不完全な説は消えるべきだ。だが自分には燃やす勇気がなく、より優れた者の理屈に委ねる、と。
D現代評価この判断は、当時の認識状況の評価として正確である。第1話ノート第9章の通り、15世紀には視差(视差/parallax)も力学も望遠鏡もない。地動説の直接的観測証拠は光行差(ブラッドリー〔布拉德雷/James Bradley〕、1729年)と年周視差(ベッセル〔贝塞尔/Friedrich Bessel〕、1838年)、自転の直接実証はフーコーの振り子(1851年)を待つ定説。フベルトの絶望は非合理ではなく、証拠状況の冷静な計算である。
D現代評価だがここに手紙の逆説がある。「燃やしてほしい」という依頼は、燃やされるべき書物を保存し、隠し、地図まで残すことによってしか伝達できない。焼却の依頼が、継承の完全な装置(ペンダント=鍵、星図=地図、報酬=資金)として実装されている。フベルトの理屈は焼却を命じ、フベルトの行動は継承を準備した——彼自身の中で既に、直感が理屈に勝っていたのである。ラファウが火中から書物を掴み出す行為は、手紙の表面上の依頼への違反であると同時に、手紙という装置の設計意図の完全な履行である、と読める。この読解は議論あり——テクストは両義性を保存しており、断定すべきではない。
燃やせと書かれた書物は、燃やされなかった。その手の持ち主が、口を開く。
3-7
そして今から 地球を動かす
A作品世界送別の場での天文宣言に続く内心の独白の結語。自分は清廉でも聡明でもなく、横柄で傲慢で軽率で無力だ、という自己認識の直後に置かれる。
D現代評価文法に注目する。「地球が動く」(自動詞・地動説の命題)ではなく「地球を動かす」(他動詞・行為の宣言)。地球は45億年前から動いている——動いていないのは、人間の記述のほうだった。ならば「地球を動かす」とは、物理的事実の変更ではなく、世界の公式の記述を書き換えるという言語行為の宣言である。オースティン(奥斯汀/J. L. Austin)の言う遂行的発言(performative)——記述ではなく、発話そのものが行為であるような言葉——として、この一行は読める(時代錯誤の比較であることを明記する)。
D現代評価そして重要なのは、この英雄的宣言が「横柄で傲慢で軽率で無力」という自己批判と同一呼吸で語られることだ。作品は宣言を美化していない。第17章(反対解釈)で再訪する。
この回の台詞は、名言である前に、命題である。美しさは、圧縮率の高さのことだ。
七つの言葉を解剖して分かるのは、この回の台詞がどれも、科学哲学か神学か倫理学の水脈に根を張っていることだ。では、その根はどこまで史実の地層に届いているのか。作品が正確になぞった場所と、意図して曲げた場所を、ここで測量する。
第4章 作中×史実 照合表(第2話 新規分)
結論:第2話は理論内容の考証が際立って正確で、制度描写に意図的変形を残す——第1話と同じ配分である。
| 作中表現A作品世界 | 史実C史実 | 妥当性 | 補足 |
|---|---|---|---|
| ジャンプ論法(動く地球でなぜ同じ場所に着地) | 地球運動への標準的反論(塔・矢の議論)として古代から実在。ビュリダン/オレームが運動の共有で応答、ガリレイが完成 | 高 | 反論の選定が史実に忠実定説 |
| 神が人の星を特別にしたという反論 | 目的論(目的论/teleology)的な人間中心主義は実在の論点。ただし中世宇宙論(宇宙论/cosmology)では中心=最下層(月下界〔月下界/the sublunary world〕は劣位)という逆の含意もあった | 中 | 「中心=特別扱い」は部分的に近代の読み込み議論あり |
| プトレマイオス→太陽中心への幾何学的変換 | 両体系の数学的変換可能性は確立された史実。レギオモンタヌス経由説(Swerdlow) | 高 | 本作の考証の白眉定説/有力説 |
| 惑星の連鎖・体系的統一が変換の帰結として現れる | コペルニクス自身が最大の長所とした点 | 高 | 定説 |
| 「聖書ではなく自然を読む」 | 二書説はアウグスティヌス以来の正統的伝統 | 高 | ただし「どちらを優位に置くか」の主権が争点になった点も史実 |
| 再犯異端者の火刑・かくまった協力者も重罪 | relapsusの世俗権力引き渡しと極刑、庇護者(fautores)の処罰はいずれも中世異端審問法の実際 | 高 | 第1話ノート第10章と整合定説 |
| 在俗・元傭兵の異端審問官 | 審問官職は原則としてドミニコ会(多明我会/the Dominicans)/フランシスコ会(方济各会/the Franciscans)等の聖職者。ただし審問所は逮捕・執行を担う世俗の協力者・familiares(在俗職員)を広く使った | 低〜中 | 「審問官」職としては変形、「在俗の実行者」の実在を圧縮した造形と読める |
| 地動説研究の摘発・火刑 | 15世紀に地動説を理由とする処刑の史実はない(第1話ノート第10章) | 低(意図的虚構) | 作品の中核的仮構の継続 |
| 証明に「30〜40年」という見積もり | 実際は『天球回転論』(1543)から光行差(1729)まで約190年、視差(1838)まで約300年 | — | 誤りではなく「若い合理主義の過小評価」の描写として機能(第16章参照) |
理論の考証は精密に、制度の描写は大胆に——作品は、曲げてよい場所を知っている。
測量の結果は明快である——理論の考証は驚くほど正確で、制度の描写に意図的な変形が残る。第1話と同じ配分だ。そして考証の正確さが最も輝くのは、あの机上の変換である。データは一つも増えていないのに、宇宙が組み変わった。この出来事を、科学哲学はどう名指すのか。
第5章 科学哲学の深化——発見の文脈と正当化の文脈
結論:第2話は「直感 vs 理屈」を対立のまま終わらせない。科学哲学の古典的区別を使えば、両者は別の工程の主役である——発見は直感が、正当化は理屈が担う。
- ライヘンバッハ(赖欣巴哈/Hans Reichenbach)以来、科学哲学は発見の文脈(context of discovery——仮説がどう思いつかれるか)と正当化の文脈(context of justification——仮説がどう検証されるか)を区別してきた定説(概念として)。論理が支配するのは後者だけであり、前者——坂で転ぶ、錯覚する、美に襲われる——に方法論はない。
- この区別で第2話を読み直すと、構図が反転する。フベルトの手紙は「私の直感より君の理屈が強い」と言うが、実際に起きたことは逆の分業である:ラファウの理屈は反論を三つ構築し(正当化の文脈での仕事)、ラファウの直感は坂の上と机上で仮説を掴んだ(発見の文脈での仕事)。火中に手を入れる行為は、理屈の敗北ではなく、発見の工程を打ち切らないという決断である。証明は30年でも300年でも待てるが、火は待ってくれない。
- 大学院 ただし、この区別自体が20世紀後半に批判を受けたことも付記する(発見にも合理的パターンがあるとするハンソン〔汉森/Norwood Russell Hanson〕、区別の政治性を問う科学論)議論あり。第2話の面白さは、まさに区別が揺らぐ地点——「美しいと思ってしまう」という、発見でも正当化でもある経験——を描いている点にある。
証明は三百年でも待てる。だが、火は待ってくれない。
発見は直感が担い、正当化は理屈が担う——工程の分業として読めば、火中の手は理屈の敗北ではなかった。だが、この回の哲学的な深部は、実は少年の側にはない。娘の手紙を胸に拷問室へ入っていく、あの男の側にある。
第6章 倫理学——審問官の家族愛と、嘘の認識論
結論:第2話の倫理的な深部はフベルトではなくノヴァクにある。悪の凡庸さ(平庸之恶/banality of evil)ではない——善の局所性の問題である。
- A作品世界ノヴァクは怪物として描かれない。泣く子を助け、娘の手紙を持ち歩き、「我が子への愛が 私の生きる理由です」と語る。彼の行動原理は明快である——世界や人類ではなく、家族と友人の日々の信仰と生活を守る。そのためなら何でもする。
- D現代評価これは第1話ノート第6章の合理性四分類でいう社会的合理性の純粋形である。ノヴァクの倫理は嘘ではない。半径数メートルの他者への実質的な善意——それが、半径の外の他者への拷問と、同じ人格の中で矛盾なく同居する。倫理学はこれを「善の局所性」の問題として知っている:ケアの倫理が持つ本来的な偏り(近い者を優先する)は、制度に接続されたとき、遠い者への暴力の燃料になりうる。アーレント(阿伦特/Hannah Arendt)の「悪の凡庸さ」との比較は可能だが、慎重を要する——アイヒマン(艾希曼/Adolf Eichmann)の記述(思考の欠如)とノヴァクの造形(明確な価値順位に基づく選択)は同型ではない。時代錯誤と概念のずれを明記した上での対照に留める。
- A作品世界D現代評価構造的に見れば、ノヴァクはラファウの初期設定の完成形である。「社会の中で損をしない選択」を徹底し、守るべき小さな圏を持ち、その外側を切り捨てる。第1話でラファウが歩むはずだった道の、四十代の姿。二人が物語の対極に配置されるのは、二人が同じ問いへの別解だからである。
- 嘘について:ラファウの「天文は二度としません」という偽誓(伪誓/perjury)。C史実迫害(迫害/persecution)下で信仰や思想を偽装する実践は、宗教改革期に「ニコデモ主義(尼哥底母主义/Nicodemism)」と名付けられ激しく論じられた(用語は16世紀、概念の適用は時代を跨ぐことを明記)定説(用語史として)。天文学史でも、オシアンダー(奥西安德/Andreas Osiander)の序文(地動説を計算仮説と偽装)は一種の制度的ニコデモ主義として機能した(第1話ノート第11章)。D現代評価嘘の倫理学的評価は割れる——カント(康德/Kant)的には無条件に否定され、帰結主義(后果主义/consequentialism)的には知の保存として正当化されうる。作品は「普通にウソをついた」という乾いた独白で、どちらの旗も揚げない。嘘の便利さを語るラファウの声には、便利さの代償の予感だけが影として差している。
半径数メートルの善意が、半径の外では暴力になる。悪はどこにも宿っていないのに、拷問室の火は燃えている。
善良な家庭人の手が拷問を行い、賢い少年の口が嘘をつく。第2話の倫理は、悪人を探しても見つからない場所で起きている。だからこそ、読む側の目が滑りやすい。滑りやすい場所に、印をつけておく。
第7章 私が見落としやすい視点(第2話 新規12項目)
結論:第1話ノート第16章の16項目に、以下を追加する。
- 「不正解」の生産性を、結果論で正当化しないこと。フベルトの説が「後で正しいと分かるから」意味を持つのではない。意味は、正誤の判明以前の探究それ自体に宿る——それがこの台詞の主張である。
- 坂の啓示を「ひらめき」と要約しない。あれは転倒→錯覚→錯覚の分析→原理の抽出という、身体から論理への四段の変換である。
- 変換シーンの「データ不変」。ラファウは一つも新しい観測をしていない。革命は記述の側で起きた。
- 「美しいと思ってしまう」の受動性。美的判断は選択ではなく襲来として描かれている。
- フベルトの正統性。二書説は伝統の中心であり、彼の焼殺は「教義の誤り」ではなく「読む主権の簒奪」への処罰である。
- 手紙の両義性を一義化しない。焼却依頼か継承装置か——テクストは決定を保留している。
- ノヴァクを怪物化しない。彼の善意は本物であり、だからこそ問題は深い。
- ノヴァク=ラファウの鏡像関係。対極の二人は同じ問い(賢く生きるとは)への別解である。
- 「30〜40年」の過小評価は無知ではなく、若い合理主義の特徴(実行可能な計画に世界を縮める傾向)の描写である。実際の史実は約300年を要した。
- ポトツキの家の天文資料という置き残された謎。第2話終了時点では答えを持たない——持たないまま保存する(境界の規律)。
- 報酬の同封。フベルトは依頼に対価を付けた。知の継承を美談ではなく契約の形式で残した細部を見落とさない。
- アルニラムの黒。星図が地図になり、装身具が鍵になる——知識が物質に宿って生き延びるという、第1話ノート第16章14項(記録という主役)の第2話における展開。
革命の夜、観測データは一つも増えていなかった。組み変わったのは、記述だけだった。
十二の死角に印をつけてもなお、最大の死角が残っている。「これは少年が知に目覚める感動の回だ」という、読み自体の中にある死角が。最後の点検として、その読みへの反論を五つ、育てておく。
第8章 反対解釈(第2話 新規5つ)
結論:「少年が知に目覚める感動の回」という標準的読解に対し、以下が成立する。
- フベルト加害者論の深化:彼は身代わりで少年を守ったが、その直前まで少年を死刑リスクのある観測に使役し、死後は手紙で人生を方向づけた。守ることと縛ることが同じ手で行われている。
- 手紙=試験装置論:「燃やしてほしい」は本心ではなく、燃やせない者だけが継承者たりうるという選別試験である、という読み。この読みではフベルトの謙虚さは演出となる(議論ありとして第3-6節の両義性と併存させる)。
- ラファウ堕落論:第2話のラファウは真理に目覚めたのではなく、「攻略済みのゲーム(処世)」より難度の高いゲームに乗り換えただけである、という読み。「この世はバカばっかりだ」という傲慢な独白は、この読みを支持する。
- ノヴァク正当化不能論への反論:本ノート第6章はノヴァクを「善の局所性」で分析したが、これは拷問の正当化に転用されうる危険な枠組みである。分析と免責を混同してはならない、という自己批判を反対解釈として立てておく。
- 「美」への懐疑の続行:第1話ノート第17章5の再訪。ラファウが陥落したのは統一性という美である。だが統一性は真理の保証ではない(美しく統一された誤謬は科学史に多い)。第2話を「美による正しい説得」と読むことは、結果を知る者の後知恵である。
「感動の回」と呼んだ瞬間に、見えなくなるものがある。感動は、分析の終点ではなく、対象である。
五つの反対解釈は、どれも完全には退けられない。退けられないまま並べておく——第1話ノートで確認した作法を、ここでも守る。その上で、二つのノートを重ねてみる。第1話で史実として装填したものが、第2話でどこに着地したかを。
第9章 第1話ノートとの接続(差分マップ)
結論:第2話は、第1話ノートでC史実(史実)として準備した装置を、次々とA作品世界(作品世界)へ着地させる回である。
| 第1話ノートの章 | 第2話での着地 |
|---|---|
| 第13章 認識論(運動の相対性) | 坂の啓示として身体化 |
| 第11章 決定不全性 | 「データ不変・記述変更」の変換シーンとして劇化 |
| 第12章 自然神学(自然神学/natural theology) | 「聖書ではなく自然を読む」として台詞化 |
| 第6章 合理性の四分類 | ノヴァク(社会的)/ラファウ(道具的→認識的への転回)として人物化 |
| 第14章 好奇心と危険の独立 | 「怖い。だが——」として告白化 |
| 第16章14 記録という主役 | ペンダント・星図・手紙・書物として物質化 |
| 第9章 証明不可能な時代 | 手紙の「恐らく証明できない」として自覚化 |
この対応表自体が、本プロジェクトの方法(史実で装填し、作品で発火させる)の検証結果である。
第1話で装填し、第2話で発火する——この作品は伏線ではなく、地層で書かれている。
対応表が示すのは、この作品が伏線ではなく地層で書かれているということだ。ビュリダンの船は坂の転倒に、二書説は一つの台詞に、四つの合理性は二人の人間に着地した。では、この地層の一番深いところには、何が埋まっているのか。結論は、火の話に戻る。
第10章 結論——火と手紙
結論:第2話の中心は、火が二度出てくることである。一度目はフベルトを焼き、二度目は書物を焼きかける。人を焼く火は止められず、書物を焼く火から知は取り出された。制度は人を殺せるが、記述を殺し切ることはできない——ただし、誰かが火中に手を入れるならば。
フベルトは三つのものを残した。反例(不正解は無意味を意味しない)、方法(自然を読む)、そして装置(ペンダントと手紙)。三つ目が最も重い。彼は自分の説が証明できないことを悟り、消えるべきだとまで書き、それでも消せなかった。その矛盾ごと、彼は次の走者に手渡した。第1話ノート第20章で「答えを見ずに死ぬ者たちのリレー」と呼んだ構造が、ここで一人目の死とともに実装された。
そしてラファウは、やけどと引き換えに書物を取り出し、嘘で身分を偽装し、30年の計画を立てる。彼の言う通り、見積もりは甘い。証明は300年先であり、彼の生には届かない。だが第2話の題名は「地球が動く」ではなく「地球を動かす」である。届かないことと、動かせないことは、別のことだ。
怖くない人生は、その本質を欠く——ならば、この夜から始まるラファウの人生は、本質だけでできていることになる。
制度は人を殺せる。だが記述を殺し切ることはできない。誰かが、火中に手を入れるかぎり。
最後に、手紙のことを考える。
フベルトは、読む相手の顔を知らないまま手紙を書いた。宛名は「この手紙を読んでいるあなた」——つまり、未来そのものである。彼は自分の説が証明できないことを悟り、消えるべきだとまで書き、それでも消せず、鍵と地図と資金を添えて、矛盾ごと未来に託した。
考えてみれば、科学の歴史に登場する書物はすべて、この手紙と同じ形式をしている。『アルマゲスト』も、マラーガの写本も、やがて書かれる『天球回転論』も——書き手は読み手の顔を知らない。数十年後か、数百年後か、どこの国の誰が開くのかも知らない。それでも書く。最も信用のおける者に届くことだけを信じて。知の継承とは、返事を読めない手紙を書き続けることの、別の名である。
ラファウは、その手紙に、やけどで返事をした。
そして嘘をついた。天文は二度としません、と。この嘘を、私たちは軽蔑できない。証明までに三百年かかる仕事を始める者には、まず生き延びる技術が要る。真理のために嘘をつくという捻れ——それは堕落の始まりかもしれず、知恵の始まりかもしれず、おそらくその両方である。第2話は、どちらとも言わずに幕を引く。
一つだけ確かなことがある。あの夜、火中から取り出された書物は、いま、十二歳の嘘つきの手の中にある。人類の知の系譜とは、思い返せば、いつもこんなふうに——燃え残りと、やけどと、方便の嘘とで、かろうじて繋がれてきたのだった。清廉でも聡明でもない手から、次の手へ。
「そして今から 地球を動かす」——署名は、済んでいる。
動くのは地球ではない。動くのは、これを読んでいるあなたも含めた、人間の側である。
開かれた問い ── 答えのない問答集
第2話は「賭けたあと」の話だった。この節の問いは、賭けの是非を裁くためのものではない ── 裁けないことを、精密に確認するためのものである。中世からの声と現代からの声を併記する。併記のまま持ち帰ってほしい。
問一 信仰と理性は、二つの真理か
中世からの声13世紀、アリストテレス哲学の奔流に対し、「哲学の結論と信仰の真理は別々に成り立つ」という読み(いわゆる二重真理〔双重真理/double truth〕)が現れ、1277年の禁令で断罪された。真理は一つでなければならない ── それが正統の立場だった。
現代からの声フベルトの解決は禁令側でも二重真理側でもない ── 自然を読むことが神を読むことだ、という一元化である。現代の「科学と宗教は別の管轄」(非重複教導権説)とも、対立させる新無神論とも違う、第三の道。
真理が一つなら、観測と教義が衝突したとき、どちらかが折れねばならない。二つなら、心が二つに割れる。どちらの重さを選ぶか ── 第2話の全員が、この選択の別解である。
問二 死後に読まれる言葉は、誰のものか
中世からの声中世の遺言は魂の救済の道具であり、教会が管理した。死者の言葉は生者を拘束する ── 遺言執行は神聖な義務だった。フベルトの手紙への「違反」は、この感覚の中では戦慄すべき行為である。
現代からの声贈与論の目で見れば、手紙と報酬と鍵は「返礼を強いる贈り物」である ── 受け取った瞬間、ラファウは負債を負った。燃やしても継いでも、フベルトの設計の内側にいる。
死者の意志と、生者の自由 ── どちらが優先するのか。そもそもあの手紙の「本当の意志」を、誰が確定できるのか(第3-6節の両義性)。
問三 嘘は、知を守れるか
中世からの声偽装の信仰には長い世界史がある ── 強制改宗下のユダヤ教(犹太教/Judaism)徒、禁教下の隠れキリシタン。偽装は弱さではなく、存続の技術だった。だが数世代続いた偽装の底で、守られていたものは元の信仰と同じものだったか。
現代からの声ラファウの「天文は二度としません」は知を守る嘘である。だが嘘は使用者を変形させる ── 便利さの代償の予感が、独白に影として差している(第6章)。
真理のために嘘をつく者は、どこまで真理の側にいられるのか。この捻れに、答えを出した哲学はまだない。
問四 火は、何を焼けるか
中世からの声書物の焼失は歴史の常数である ── アレクサンドリア(亚历山大城/Alexandria)の図書館、始皇帝の焚書(焚书/book burning)。だが中国の古典は焚書の後、老学者の記憶から口誦で復元された。書は焼けても、暗誦は焼けない。
現代からの声写本文化の脆さと強さは裏表である ── 一冊しかない本は本当に消える。しかし写しがどこに眠っているかは、焼く側にも分からない。検閲(审查/censorship)の網は、原理的に完成しない。
第10章の命題 ── 制度は人を殺せるが、記述は殺し切れない ── は希望である。だが第3話の反対解釈が言うとおり、実際に永久に失われた知も多い。希望と事実の間に、この問いは立っている。
問五 善意は、免罪符か
中世からの声ノヴァクの倫理は本物の善意である ── 家族への愛、日常の防衛。儒家は「郷原は徳の賊なり」と言った ── 共同体(共同体/community)の誰からも善い人と呼ばれる者こそ、徳を損なうことがある。
現代からの声「地獄への道は善意で舗装されている」── 出典の怪しいこの格言が生き延びるのは、経験がそれを裏書きし続けるからだ。意図の善さと帰結の悪さは、同じ人の中で平然と同居する。
第6章の「善の局所性」を、私たちは安全な場所から診断している。だが自分の善意の半径を、自分で測れた人が、かつていただろうか。
問六 誰が「異端」を決めるのか
中世からの声ギリシア語のハイレシス(hairesis)は、もともと「選ぶこと」を意味する ── 学派の選択という中立の語が、やがて「選んではならないものを選んだ罪」の名になった。自分で選ぶこと自体が、罪の名になったのである。
現代からの声正統(オルソドクシア)は「正しい意見」── だが何が正しいかを決めたのは、多くの場合、論争の勝者である。歴史学はこれを「勝者の正典化」として知っている。敗者の教えは焼かれ、悪魔化され、そして時折、数世紀後に再評価される。
では現代に異端はないのか ── 学界の、世論の、共同体の「選んではならない選択」は。名前が変わっただけではないのか。
六つの問いに、このノートは答えを持たない。持たないことが、欠落ではなく作法である ── 検証できることは本文で検証し、検証できないものは、問いの形のまま読者に手渡す。
人物帖 ── 第2話までの四人

ラファウ拉法乌 / Rafal
声 ── 坂本真綾
身分12歳。神童の仮面の下で、地動説の検証にのめり込んでいく。
気質「普通に間違ってる」と三つの反論を立てる理屈の人。だが坂で転び、机上で組み替え、「美しいと思ってしまう!」と陥落する。
思想合理=美の等式が崩れ、直感が理屈に勝つ瞬間を知る。「僕の直感は 地動説を信じたい!」
この話燃える書物に手を入れ、やけどと引き換えに継承を選ぶ。送別の場で天文を宣言し、内心で誓う ──「そして今から 地球を動かす」。

フベルト胡贝尔特 / Hubert
声 ── 速水奨
身分元学者。ポトツキ家の別宅に住み、ラファウと観測を続けていた。
気質怖いか、と問われて即答する ──「怖い。だが 怖くない人生など その本質を欠く」。
思想神を否定するのではなく、神を信じるから自然を読む。「私は聖書ではなく 自然を読むのだ」。
この話少年をかばって罪を引き受け、火刑に死す。ペンダントと手紙と全研究と報酬を遺し、「たった今やったよ」の一言で、やり残しを終わらせた。

ポトツキ波托茨基 / Potocki
声 ── 巻島康一
身分ラファウの義父。学堂の教師。
気質善意の人。義子の「改心」を心から喜ぶ ── 疑いを知らぬまま。
思想天文を毛嫌いしている ── はずなのに。
この話この話の終わり、一つの謎が置かれる。天文嫌いの義父の家に、なぜこれほど天文資料があるのか。答えはまだ、誰も知らない。

ノヴァク诺瓦克 / Nowak
声 ── 津田健次郎
身分異端審問官。出家していない在俗の身で、元傭兵。司教に腕を買われた特例任用。
気質道端で泣く子を助け、4歳の娘の手紙をいつも持ち歩く。「我が子への愛が 私の生きる理由です」。
思想世界や人類を守る気はない。「家族 友人の日々の信仰や生活を守るためなら 何だってする」。
この話善良な家庭人の手で、ラファウの観測ノートを見つけ、フベルトを連行する。悪はどこにも宿っていないのに、機構は回る。
肖像は提供素材のペン画(背景は透過処理)。記載は第2話終了時点までの情報に限る。名の表記は 日本語/中国語(通用表記)/英語(Seven Seas 版 Orb)。声はテレビアニメ版(マッドハウス、2024–25)の配役。
出典
このノートが立っている土台を、種類ごとに開いておく。どの文献がどの章を支えているかまで記すのは、読者が検算できるようにするためである。
作品資料
- 『チ。 ―地球の運動について―』第2話(原作・魚豊/アニメーション制作・マッドハウス、2024)── 第3章の名言ブロック7枚の引用と時刻は本編より(字幕書き起こしに拠る)
- テレビアニメ版のキャスト発表 ── 人物帖の「声」の欄
- 第1話ノート「動いているのは、どちらか」── 第9章の差分マップが参照する既刊
- 提供素材 ── 扉の星景写真・『チ。』題字・口絵の油彩・人物帖のペン画
一次文献 ── 本文が名を挙げるもの
- レギオモンタヌス『アルマゲスト梗概』/コペルニクス『天球回転論』(1543)── 第3-3節・第4章。幾何学的変換の史実性と、体系的統一性を自ら最大の長所と述べた箇所。オシアンダーの序文は第6章のニコデモ主義の項
- ビュリダン/オレーム ── 第3-2節。船の例と運動の相対性 ── 「坂の啓示」が着地する史実側の系譜
- ガリレイ『天文対話』(1632)── 第3-2節。ジャンプ問題(反論①)への力学的な完全解答
- ガリレオ『クリスティーナ大公妃への手紙』(1615)── 第3-4節。二書説を自己弁護の中軸に据えた実例
- アウグスティヌス ── 第3-4節。「自然という書物」の水脈の源流
- アリストテレス『ニコマコス倫理学』── 第3-5節。勇気は恐怖の不在ではなく中庸である、という定式
- ニュートン『プリンキピア』(1687)── 第3-2節。運動の共有の力学的正当化の到達点
研究文献 ── 確度の札の根拠
- Swerdlow ── 第3-3節。コペルニクスがレギオモンタヌス経由で変換に到達したとする有力説
- ポパー/ラカトシュ ── 第3-1節。「不正解は無意味を意味しない」の科学哲学的裏書き(反証・研究プログラム論)
- ライヘンバッハ/ハンソン ── 第5章。発見の文脈と正当化の文脈の区別と、その区別への批判
- アーレント『エルサレムのアイヒマン』── 第6章。「悪の凡庸さ」との慎重な対照(同型ではないことも同章に明記)
- ニコデモ主義の用語史 ── 第6章。迫害下の信仰偽装をめぐる16世紀の論争
- ブラッドリー(光行差 1729)/ベッセル(年周視差 1838)/フーコー(振り子 1851)── 第3-6節・第9章・年表。証明が実際に要した三百年の目盛り
語彙 ── 中文・English 対照
この頁の本文に現れた学術語と固有名の対照表。本文では、語の種類を下線の色で示し(天文・哲学・思想・宗教・制度・人物・学派・地名・書物)、頁の中で最初に現れた場所に(中文/English)を添えてある。人物と書物は、名が何度も出るため、印を初出だけに留めた。
| 種類 | 日本語 | 中文 | English |
|---|---|---|---|
| 天文・数理 | 天動説 | 地心说 | geocentrism |
| 地動説 | 日心说 | heliocentrism | |
| 自転 | 自转 | rotation | |
| 公転 | 公转 | revolution | |
| 惑星 | 行星 | planet | |
| 周転円 | 本轮 | epicycle | |
| 誘導円 | 均轮 | deferent | |
| 従円 | 均轮 | deferent | |
| 天文学 | 天文学 | astronomy | |
| 幾何学 | 几何学 | geometry | |
| 離心円 | 偏心圆 | eccentric | |
| 視差 | 视差 | parallax | |
| 光行差 | 光行差 | aberration of light | |
| 年周視差 | 周年视差 | annual parallax | |
| フーコーの振り子 | 傅科摆 | Foucault pendulum | |
| 宇宙論 | 宇宙论 | cosmology | |
| 月下界 | 月下界 | the sublunary world | |
| 哲学・思想 | 科学哲学 | 科学哲学 | philosophy of science |
| 倫理学 | 伦理学 | ethics | |
| 反証 | 证伪 | falsification | |
| 研究プログラム | 研究纲领 | research programme | |
| 相対性 | 相对性 | relativity | |
| 認識論 | 认识论 | epistemology | |
| 決定不全性 | 证据不充分决定 | underdetermination | |
| 中庸 | 中庸 | the mean | |
| 好奇心 | 好奇心 | curiosity | |
| 遂行的発言 | 施行话语 | performative utterance | |
| 目的論 | 目的论 | teleology | |
| 発見の文脈 | 发现的语境 | context of discovery | |
| 正当化の文脈 | 辩护的语境 | context of justification | |
| 悪の凡庸さ | 平庸之恶 | banality of evil | |
| 帰結主義 | 后果主义 | consequentialism | |
| 二重真理 | 双重真理 | double truth | |
| 共同体 | 共同体 | community | |
| 宗教・制度 | 拷問 | 拷问 | torture |
| 良心 | 良心 | conscience | |
| 世俗 | 世俗 | the secular | |
| 火刑 | 火刑 | burning at the stake | |
| 救済 | 救赎 | salvation | |
| 異端 | 异端 | heresy | |
| 写本 | 抄本 | manuscript | |
| 印刷術 | 印刷术 | printing | |
| 復活 | 复活 | resurrection | |
| 教義 | 教义 | doctrine | |
| 聖書 | 圣经 | the Bible | |
| 異端審問 | 异端审判 | the Inquisition | |
| 神学 | 神学 | theology | |
| 審問官 | 审判官 | inquisitor | |
| 司教 | 主教 | bishop | |
| キリスト教 | 基督教 | Christianity | |
| 二書説 | 双书说 | doctrine of the two books | |
| 偽誓 | 伪誓 | perjury | |
| 迫害 | 迫害 | persecution | |
| ニコデモ主義 | 尼哥底母主义 | Nicodemism | |
| 自然神学 | 自然神学 | natural theology | |
| ユダヤ教 | 犹太教 | Judaism | |
| 焚書 | 焚书 | book burning | |
| 検閲 | 审查 | censorship | |
| 人物・学派・地名 | フベルト | 胡贝尔特 | Hubert |
| ノヴァク | 诺瓦克 | Nowak | |
| ラファウ | 拉法乌 | Rafal | |
| プトレマイオス | 托勒密 | Ptolemy | |
| ポトツキ | 波托茨基 | Potocki | |
| ポパー | 波普尔 | Karl Popper | |
| コペルニクス | 哥白尼 | Copernicus | |
| ケプラー | 开普勒 | Kepler | |
| ラカトシュ | 拉卡托斯 | Imre Lakatos | |
| ビュリダン | 布里丹 | Jean Buridan | |
| オレーム | 奥雷姆 | Nicole Oresme | |
| ガリレイ | 伽利略 | Galilei | |
| ニュートン | 牛顿 | Newton | |
| レギオモンタヌス | 雷格蒙塔努斯 | Regiomontanus | |
| アウグスティヌス | 奥古斯丁 | Augustine of Hippo | |
| ガリレオ | 伽利略 | Galileo | |
| アリストテレス | 亚里士多德 | Aristotle | |
| ブラッドリー | 布拉德雷 | James Bradley | |
| ベッセル | 贝塞尔 | Friedrich Bessel | |
| オースティン | 奥斯汀 | J. L. Austin | |
| ドミニコ会 | 多明我会 | the Dominicans | |
| フランシスコ会 | 方济各会 | the Franciscans | |
| ライヘンバッハ | 赖欣巴哈 | Hans Reichenbach | |
| ハンソン | 汉森 | Norwood Russell Hanson | |
| アーレント | 阿伦特 | Hannah Arendt | |
| アイヒマン | 艾希曼 | Adolf Eichmann | |
| オシアンダー | 奥西安德 | Andreas Osiander | |
| カント | 康德 | Kant | |
| アレクサンドリア | 亚历山大城 | Alexandria | |
| 書物 | 『天文対話』 | 关于两大世界体系的对话 | Dialogue Concerning the Two Chief World Systems |
| 『天球回転論』 | 天体运行论 | On the Revolutions of the Heavenly Spheres | |
| 『クリスティーナ大公妃への手紙』 | 致克里斯蒂娜大公夫人的信 | Letter to the Grand Duchess Christina |