Chapter 1-4

文化ぶんか・宗教しゅうきょう

[ 原げん書しょ 第だい1部いちぶ 第だい4章よんしょう 文化ぶんか・宗教しゅうきょう ]

語ご数すう 15 / 節せつ 9 / 1節いっせつ 約やく10〜15分ぶん

原げん書しょの導入どうにゅう

そもそも文化ぶんかとは何なにか

物ものの見方みかたは「文化ぶんか」に規定きていされている

「文化ぶんか」というものを考かんがえるにあたって、まず、我々われわれは文化ぶんかによって物ものの見方みかたを規定きていされている、ということを押おさえよう。我々われわれは物事ものごとをあるがままに見みているつもりでも、実際じっさいには文化ぶんかという色いろ眼鏡めがね(フィルター)を通とおして見みている。したがって、自分じぶんがどのような文化ぶんかのもとで育そだってきたかを知しることで、自分じぶんの物ものの見方みかたを自覚じかくし、また、世界せかいの異ことなる文化ぶんかを学まなぶことで、多様たような物ものの見方みかたを身みにつけることができるのである。

なお、文化ぶんかのあり方かたに大おおきな影響えいきょうを与あたえるものとしては、地理的ちりてき・時代じだい的てき条件じょうけんや民族みんぞく的てき条件じょうけんとともに、宗教しゅうきょうも見逃みのがすことはできない。キリスト教きょう文化ぶんか・儒教じゅきょう文化ぶんかなどというように、宗教しゅうきょうと文化ぶんかとを結合けつごうして言いう場合ばあいもある。文化ぶんかを宗教しゅうきょうの側がわからとらえることも重要じゅうようなのである。

「文化ぶんか」と「文明ぶんめい」

文化ぶんかについて論ろんじた文章ぶんしょうは具体例ぐたいれいも多おおく、これまでの人生じんせいで経験けいけん的てきに感かんじている内容ないようも含ふくまれるため、得意とくいだと思おもっている人ひともいるかもしれない。

ところが、「そもそも文化ぶんかとは何なにか」と聞きかれたらとまどうのではないか。たとえば「文化ぶんか」と「文明ぶんめい」とはどう違ちがうのか、という問といに答こたえられる人ひとは少すくないだろう。

明治めいじ期きの日本にほんは近代きんだい化かを目指めざして、西洋せいよう文明ぶんめいを取とり込こんだ。この場合ばあいに西洋せいよう「文化ぶんか」とは言いわず西洋せいよう「文明ぶんめい」と言いうことが多おおいのは、「文明ぶんめい」という言葉ことばが、世界せかいに普遍的ふへんてきな影響力えいきょうりょくをもつ特別とくべつな文化ぶんかを意味いみするからだ。西洋せいようの民たみ主しゅ主義しゅぎや近代きんだい科学かがく・教育きょういく制度せいどが世界せかいの多おおくの国くにに受うけ入いれられる力ちからをもっていたために、文明ぶんめいとよばれるのである。

一方いっぽう、「文化ぶんか」という表現ひょうげんはその時代じだいや集団しゅうだんに特有とくゆうなものを指さす時ときに使つかわれる。たとえば日本にほんの文化ぶんかは外国がいこくに対たいして普遍的ふへんてきな影響力えいきょうりょくを及およぼさなかった。そのため、日本にほん文明ぶんめいという言いい方かたは普通ふつう用もちいられない。

つまり、「文明ぶんめい」は、その国くにだけでなく同時どうじ代だいの他国たこくにも大おおきな影響力えいきょうりょくをもっているが、「文化ぶんか」は、特定とくていの地域ちいきや集団しゅうだん内ないで影響えいきょうをもったもののことを指さす。

ヨーロッパと日本にほん

日本にほん文化ぶんかの特徴とくちょうについて、入試にゅうしでこれまでよく出題しゅつだいされた日本にほん文化ぶんか論ろんをまとめておく。

第一だいいちは、西洋せいようの社会しゃかいが自分じぶんたちの権利けんりを守まもるために個人こじんが集あつまって作つくったもの(市民しみん社会しゃかい)であるのに対たいして、日本にほんの場合ばあいは、個人こじんよりも身内みうちなどの集団しゅうだんの方ほうを重要じゅうよう視しする社会しゃかい(世間せけん)だとするものである。ここから、西洋せいよう=「罪つみの文化ぶんか」、日本にほん=「恥はじの文化ぶんか」という対比たいひも可能かのうとなる。

第だい二には、西洋せいようでは物事ものごとを理り知的ちてきにとらえてきたのに対たいし、日本にほんでは感かん性せい的てきにとらえてきたとするものである。たとえば、川かわの流ながれを見みて、流ながれの速はやさを知しろうとするのが西洋せいよう的てきな考かんがえ方かただが、日本人にほんじんは川かわの流ながれを人生じんせいの流ながれとして受うけ止とめ、感情移入かんじょういにゅうしてきた。

このように、日本にほんでは繊細せんさいな感かん受じゅ性せいは育そだったが、科学的かがくてき精神せいしんは育そだたなかったとされる。あるいは、庭園ていえんを比較ひかくしてみても、西洋せいようには人為的じんいてき・人工的じんこうてきな工夫くふうがほどこされた幾何学きかがく的てきなデザインの庭園ていえんが多おおいのに対たいして、日本にほんの庭園ていえんは曲まがった松まつの樹木じゅもくにも美びを認みとめる。日本にほんの文化ぶんかは自然しぜんの景色けしきを手て本ほんとし、あるがままの自然しぜんを尊重そんちょうしようとするものなのだ。

こういったところからも、西洋せいようと日本にほんとの違ちがいがわかるだろう。

ヨーロッパ中心ちゅうしん主義しゅぎから文化ぶんか相対そうたい主義しゅぎへ

さらに、それぞれの「文化ぶんか」の多様性たようせいを認みとめようという趣旨しゅしの文章ぶんしょうも多おおく出題しゅつだいされる。「文化ぶんか」の多様性たようせいを認みとめる立場たちばを「文化ぶんか相対そうたい主義しゅぎ」と言いう。

二十にじゅう世紀せいきに生うまれた文化ぶんか人類学じんるいがくは、アフリカや南米なんべいなど、それまで西洋せいようの進すすんだ文明ぶんめいに対たいして「未開みかい」とされてきた世界せかいに足あしを踏ふみ込こみ、西洋せいよう以外いがいの地域ちいきの中なかに、それぞれ固有こゆうの文化ぶんかが存在そんざいしていることを明あきらかにした。これによって、それまで西洋せいようを中心ちゅうしんとしていた文化ぶんかの見方みかたを「相対そうたい主義しゅぎ的てき」にとらえるようになってきたのだ。

また、西洋せいようを、進歩しんぽ的てきで合理的ごうりてきなイメージとしてとらえ、それとは反対はんたいに、東洋とうようを神秘的しんぴてきで発展はってん途上とじょうで、非合理ひごうり的てきなイメージとしてとらえようとしてきた西洋人せいようじんの世界観せかいかんが、「オリエンタリズム」というキーワードによって批判ひはんされている。

さらに、一ひとつの国くにをとってみても、一ひとつの国くにの中なかに多様たような文化ぶんかの存在そんざいを認みとめようとする「多た文化ぶんか主義しゅぎ」ということが重視じゅうしされるようになった。それまでは、一ひとつの国家こっかは一ひとつの民族みんぞくによってつくられるという考かんがえがあったため、一ひとつの国家こっかに多数たすうの文化ぶんかが存在そんざいしていることは認みとめられてこなかった。それが変化へんかしてきたのである。

普遍的ふへんてきで画一的かくいつてきな西洋せいよう文明ぶんめいだけをモノサシとすることを反省はんせいし、それぞれが特殊とくしゅで個別こべつ的てきなものである文化ぶんかの多様性たようせいを見直みなおす動うごきへと移行いこうしている。

Macro — 文化ぶんか・宗教しゅうきょうの地図ちず

尺度しゃくどを誰だれが持もっているか

文化・宗教の全体地図文化とは何か、ヨーロッパと日本の対比、ヨーロッパ中心主義から文化相対主義への転換という三つの論点を示した図。 POINT 1 ── 文化とは何か 物の見方を規定する 地域・集団に固有 宗教の影響が大きい ⟷ 文明 POINT 2 ── ヨーロッパと日本 社会 ⟷ 世間 罪の文化 ⟷ 恥の文化 対比そのものが一つの見方である POINT 3 ── ヨーロッパ中心主義 ヨーロッパが進歩のモノサシ → 未開社会への蔑視 反省 文化相対主義 文化に優劣はなく、多様性を認める この章の争点は、尺度を誰が持っているかにある ただし優劣を捨てると、普遍的な人権も主張できなくなる
文化ぶんかとは何なにか/ヨーロッパと日本にほん/中心ちゅうしん主義しゅぎから相対そうたい主義しゅぎへ

この章しょうの出発点しゅっぱつてんは、我々われわれは文化ぶんかによって物ものの見方みかたを規定きていされているという一点いってんにある。文化ぶんかは所有物しょゆうぶつではなく、世界せかいを見みるための色いろ眼鏡めがねである。そこから二ふたつの論点ろんてんが出でる。一ひとつは、ヨーロッパを進歩しんぽの尺度しゃくどとしてきた見方みかたへの反省はんせい。もう一ひとつは、日本にほんを「社会しゃかい」ではなく「世間せけん」で説明せつめいしようとする議論ぎろんである。どちらも尺度しゃくどがどこに置おかれているかを問とう点てんで同おなじ形かたちをしている。

文化と文明固有にとどまる文化と、普遍化への意志と装置を備えて他文化を統一した文明の違いを示した図。 文化 集団や地域に固有 生活様式・言語・思想・芸術 ① 普遍化への意志 ② 制度と機構 ③ 他文化を統一 文明 普遍・物質的な影響力 民主主義・近代科学・教育制度 ②の中身 軍隊・警察統治制度教育制度 価値を布教し教化する装置 文明は文化より上等なのではない。攻撃的な姿勢をもった文化である。
文化ぶんかと文明ぶんめい ── 上下じょうげではなく志向しこうの違ちがい

文明ぶんめいは文化ぶんかより進すすんだ段階だんかいではない。普遍ふへん化かへの意志いしを持もち、それを実行じっこうする制度せいどと機構きこうを備そなえ、実際じっさいに他ほかの文化ぶんかを自分じぶんの価値かちのもとに統一とういつした文化ぶんかが文明ぶんめいと呼よばれる。つまり文明ぶんめいとは、攻撃的こうげきてきな姿勢しせいを持もった文化ぶんかである。この読よみ替かえが、そのままヨーロッパ中心ちゅうしん主義しゅぎ批判ひはんにつながる。

Index — 16 sections

節せつ

  1. 01文化ぶんか/文明ぶんめい
  2. 02自じ文化ぶんか(自じ民族みんぞく)中心ちゅうしん主義しゅぎ
  3. 03文化ぶんか相対そうたい主義しゅぎ/文化ぶんか人類学じんるいがく
  4. 04制度せいど
  5. 05世間せけん
  6. 06神話しんわ
  7. 07アニミズム
  8. 08ドグマ/規範きはん
  9. 09オリエンタリズム/エスニシティ/クレオール/禁忌きんき(タブー)
Section 01

文化ぶんか/文明ぶんめい

73

文化ぶんか

ぶんか[1]頭高あたまだか型がた

語ご構成こうせい
文ぶんあや・かざり・ことば+化かなる・かえる
定義ていぎ

人間にんげんの精神せいしん活動かつどうによって生うみ出だされたもの。普遍的ふへんてきな文明ぶんめいに対たいして、「時代じだいや地域ちいきに固有こゆう」というニュアンスで用もちいられる。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑73
使用しようの境界きょうかい

人間にんげんの精神せいしん活動かつどうが生うみ出だしたもの。時代じだいや地域ちいきに固有こゆうである点てんが要点ようてんで、優劣ゆうれつを測はかる尺度しゃくどではない。

用法ようほう

評ひょう論文ろんぶんの中核ちゅうかくは「我々われわれは文化ぶんかによって物ものの見方みかたを規定きていされている」という主張しゅちょうである。文化ぶんかは所有物しょゆうぶつではなく、世界せかいを見みるための色いろ眼鏡めがねだという捉とらえ方ほう。したがって「文化ぶんかを持もつ/持もたない」という言いい方かたは成なり立たたず、どの集団しゅうだんにも文化ぶんかがある。この前提ぜんていが☑76 文化ぶんか相対そうたい主義しゅぎを支ささえる。日常にちじょう語ごの「文化ぶんか的てきな生活せいかつ」(=便利べんりで快適かいてき)は物質ぶっしつ面めんを指さすので、評ひょう論ろんの用法ようほうとは逆向ぎゃくむきになりやすい。読解どっかいでは、優劣ゆうれつを含意がんいしているかどうかを見みる。

用例ようれい
  • 文化ぶんかまたは文明ぶんめいとは、その広ひろい民族誌みんぞくし的てきな意味いみにおいて、知識ちしき・信仰しんこう・芸術げいじゅつ・道徳どうとく・法ほう・慣習かんしゅう、その他ほか、社会しゃかいの成員せいいんとしての人間にんげんが獲得かくとくしたあらゆる能力のうりょくと習慣しゅうかんを含ふくむ、複合ふくごう的てきな全体ぜんたいである。エドワード・タイラー『原始げんし文化ぶんか』(1871)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    文化ぶんかという語ごの、いまも使つかわれている定義ていぎである。注目ちゅうもくしたいのは、芸術げいじゅつと並ならんで慣習かんしゅうが数かぞえ上あげられていることだ。それまで文化ぶんかといえば教養きょうよう、つまり個人こじんが身みにつけた高尚こうしょうなものを指さしていた。タイラーはそれを、社会しゃかいの成員せいいんなら誰だれでも身みにつけているものへ広ひろげた。この一手いってで決定的けっていてきな帰結きけつが出でる — 文化ぶんかを持もたない集団しゅうだんは存在そんざいしない。「あの民族みんぞくには文化ぶんかがない」という言いい方かたが成なり立たたなくなるのだ。76 の文化ぶんか相対そうたい主義しゅぎは、この定義ていぎの上うえにしか建たたない。ただしタイラー自身じしんは文化ぶんかを進化しんかの段階だんかいとして並ならべており、この定義ていぎを書かいた当人とうにんがまだ 75 の自じ文化ぶんか中心ちゅうしん主義しゅぎの内側うちがわにいた。道具どうぐが作つくられた瞬間しゅんかんに、作つくった者ものを追おい越こすことがある。
  • この書しょの目的もくてきは、人間にんげん存在そんざいの構造こうぞう契機けいきとしての風土ふうど性せいを明あきらかにすることにある。和辻わつじ哲郎てつろう『風土ふうど』序じょ言げん(1935)
    「構造こうぞう契機けいき」— つまり風土ふうどは人間にんげんの外そとにある環境かんきょうではなく、人間にんげんがそもそも成なり立たつための一部いちぶだという主張しゅちょうである。暑あつい土地とちの人ひとが暑あつさに耐たえているのではない。暑あつさのなかで、そういう感かんじ方ほうをする人ひととして成なり立たっている。ここが原げん書しょのいう〈我々われわれは文化ぶんかによって物ものの見方みかたを規定きていされている〉と重かさなる。文化ぶんかは持もち物ものではなく、世界せかいを見みるための眼めそのものだ。眼めだから、外はずして比くらべることができない。この「外はずせなさ」こそが、75 の自じ文化ぶんか中心ちゅうしん主義しゅぎが自覚じかくされにくい理由りゆうでもある。なお和辻わつじの議論ぎろんは、のちに風土ふうどから国民こくみん性せいを導みちびきすぎたと批判ひはんもされた — 文化ぶんかで人ひとを説明せつめいすることの危あやうさが、この書しょ自体じたいに残のこっている。
  • 我々われわれは文化ぶんかを持もっているのではなく、文化ぶんかによって物ものの見方みかたを規定きていされている。 評ひょう論文ろんぶんの中核ちゅうかくをなす主張しゅちょうである。所有物しょゆうぶつではなく色いろ眼鏡めがねだという捉とらえ方ほう。したがって「文化ぶんかを持もつ/持もたない」という言いい方かたは成なり立たたず、どの集団しゅうだんにも文化ぶんかがある。この前提ぜんていが 76 の文化ぶんか相対そうたい主義しゅぎを支ささえている。持もち物ものなら多おおい少すくないが言いえるが、眼めには多おおい少すくないが無ない。
  • △都市としには劇場げきじょうも美術館びじゅつかんもあり、文化ぶんか的てきな生活せいかつが送おくれる。 通つうじるが、これは日常にちじょう語ごの用法ようほうで、便利べんりさや快適かいてきさ、あるいは高尚こうしょうさを指さしている。評ひょう論文ろんぶんの文化ぶんかは優劣ゆうれつを測はかる尺度しゃくどではない。日常にちじょう語ごと評ひょう論語ろんごで向むきが逆ぎゃくになりやすいので、読解どっかいでは優劣ゆうれつを含意がんいしているかどうかをまず見みる。含意がんいしていれば、その文章ぶんしょうは 75 の側がわの言説げんせつかもしれない。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

反はん 74 文明ぶんめい

派生はせい形けい
  • 文化的ぶんかてき[0]二ふたつの用法ようほうが同居どうきょする。評ひょう論文ろんぶんでは「文化ぶんかに属ぞくする」の意い(文化ぶんか的てき差異さい)、日常にちじょう語ごでは「便利べんりで高尚こうしょうな」の意い(文化ぶんか的てきな生活せいかつ)。後者こうしゃには優劣ゆうれつの含ふくみがあるので、どちらで使つかわれているかを見分みわける。
  • 文化圏ぶんかけん[3]「圏けん」が範囲はんいを区切くぎる。内ないと外そとを分わける前提ぜんていが入はいり込こむため、境界きょうかいに生いきる人々ひとびとが見みえなくなる。85 のエスニシティ、86 のクレオールはその死角しかくから出でてきた語ごである。
  • 異文化いぶんか[2]「異い」は自分じぶんの側がわを基準きじゅんにした言いい方かた。この語ご自体じたいが視点してんを含ふくんでいる。中立ちゅうりつに見みえて中立ちゅうりつではない語ごの代表だいひょう例れいで、この語ごを無む自覚じかくに使つかえるかどうかが、そのまま自じ文化ぶんか中心ちゅうしん主義しゅぎの温度おんど計けいになる。
コロケーション
  • 異い文化ぶんか外そとから見みえる形かたち自分じぶんのものでない文化ぶんか。注意ちゅういしたいのは、「異い文化ぶんか」という語ごが使つかえるのは自じ文化ぶんかの側がわからだけだということだ。誰だれにとっても異い文化ぶんかであるような文化ぶんかは無ない。この語ごを使つかった時点じてんで、話者わしゃはすでにどこかに立たっている — その立たち位置いちを自覚じかくできるかどうかが、75 と 76 を分わける。
  • 文化圏ぶんかけん線せんを引ひく単位たんい共通きょうつうの文化ぶんかを持もつとみなされる地理的ちりてきな広ひろがり。便利べんりな語ごだが、線せんを引ひいた瞬間しゅんかんに、線せんをまたぐものが見みえなくなる。86 のクレオールが問題もんだいにするのは、まさにこの取とりこぼしである。圏けんという語ごは、内ないと外そとがはっきり分わかれていることを前提ぜんていにしている。
  • 文化ぶんかを相対そうたい化かする見方みかたの操作そうさ自分じぶんの文化ぶんかを数かずある文化ぶんかの一ひとつとして置おき直なおすこと。1-1 の 26 で見みた相対そうたい化かが、ここでは文化ぶんかに向むけられる。難むずかしいのは、相対そうたい化かする目めもまた文化ぶんかに規定きていされていることだ。完全かんぜんに外そとへ出でることはできない。それでも位置いちをずらすことはできる — 77 の文化ぶんか人類学じんるいがくが引ひき受うけたのはその作業さぎょうである。
  • 文化ぶんかの固有こゆう性せい普遍ふへんとの対たい時代じだいや地域ちいきに固有こゆうであること。これが 74 の文明ぶんめいとの分わかれ目めになる。固有こゆうであることは劣おとっていることではない。ところが「固有こゆう=地方ちほう的てき=遅おくれている」という読よみ替かえが起おきやすく、その読よみ替かえこそがヨーロッパ中心ちゅうしん主義しゅぎの中身なかみだった。1-1 の 1 と 2 で見みた普遍ふへんと特殊とくしゅの関係かんけいが、ここでは政治せいじの問題もんだいとして現あらわれる。
格かく中なか

書かき言葉ことば・会話かいわの両方りょうほうで使つかえる。

類るい語ごと差さ
  • 文明ぶんめい普遍ふへん化かする力ちからをもった文化ぶんか広ひろがりの有無うむで分わかれる。文化ぶんかは固有こゆう、文明ぶんめいは普遍ふへんを志向しこうする。同おなじものの段階だんかい差さではなく、性質せいしつの違ちがい。
  • 伝統でんとう受うけ継つがれてきたもの時間じかんの縦軸たてじく。文化ぶんかは同時どうじ代だいの広ひろがりも含ふくむ。
  • 習俗しゅうぞく土地とちに根ねづいた慣ならわし民みん俗ぞく学がくの語ご。生活せいかつの細部さいぶを指さし、思想しそうや芸術げいじゅつは含ふくまない。
  • 教養きょうよう身みにつけた知識ちしきや品ひん位い個人こじんに属ぞくする。日本語にほんごの「文化ぶんか」は集団しゅうだんに属ぞくする。

ENculture
ZH文化(文化, wénhuà)

74

文明ぶんめい

ぶんめい[0]平板へいばん型がた

語ご構成こうせい
文ぶんあや・かざり・ことば+明みんあきらか
定義ていぎ

技術ぎじゅつや物質ぶっしつ面めんで普遍的ふへんてきな影響力えいきょうりょくをもつ文化ぶんかのこと。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑74
使用しようの境界きょうかい

普遍ふへん化かへの意志いしと、それを実行じっこうする装置そうちをあわせ持もった文化ぶんか。技術的ぎじゅつてき・物質的ぶっしつてきな影響力えいきょうりょくを伴ともなう。

用法ようほう

原げん書しょの入試にゅうし文ぶんが示しめす定義ていぎが精密せいみつである。文明ぶんめいとは、①普遍ふへん化かへの意志いしを持もち、②それを実行じっこうする制度せいどや機構きこう(軍ぐん隊たい・警察けいさつ・教育きょういく制度せいど)を備そなえ、③実際じっさいに他ほかの文化ぶんかを自分じぶんの価値かちのもとに統一とういつした文化ぶんかを指さす。この三さん条件じょうけんがそろって初はじめて文明ぶんめいになる。したがって文明ぶんめいは文化ぶんかより上等じょうとうなのではなく、攻撃的こうげきてきな姿勢しせいを持もった文化ぶんかである。この読よみ替かえが、そのままヨーロッパ中心ちゅうしん主義しゅぎ批判ひはんにつながる。「文明ぶんめいの衝突しょうとつ」はハンチントンの語ごで、冷戦れいせん後ごの対立たいりつを文明ぶんめいの単位たんいで捉とらえる議論ぎろん。

用例ようれい
  • 文明ぶんめいとは、人ひとの身みを安楽あんらくにして心こころを高尚こうしょうにするを云いふなり。衣食いしょくを饒ゆたかにして人品じんぴんを貴とうとくするを云いふなり。福沢ふくざわ諭吉ゆきち『文明ぶんめい論ろん之の概がい略りゃく』巻かん之の一いち(1875)
    身体しんたいを楽らくにし、心こころを高たかくする — 物質ぶっしつと精神せいしんの両面りょうめんをそろえて文明ぶんめいと呼よぶ定義ていぎである。注目ちゅうもくしたいのは、福沢ふくざわがこの直後ちょくごに文明ぶんめいには終点しゅうてんが無ないと書かいていることだ。文明ぶんめいは状態じょうたいではなく進すすんでいく運動うんどうであり、だからこそ「今いまの西洋せいようは最上さいじょうの文明ぶんめい国こく」という当時とうじの常識じょうしきに対たいして、それも通過つうか点てんにすぎないと釘くぎを刺させた。ただしこの定義ていぎには、誰だれが「高尚こうしょう」を決きめるのかという問といが入はいっていない。安楽あんらくと高尚こうしょうの中身なかみを測はかる尺度しゃくどが西洋せいようの側がわにあるかぎり、この定義ていぎはそのまま75 の自じ文化ぶんか中心ちゅうしん主義しゅぎに接続せつぞくしてしまう。
  • 所謂いわゆる帝国ていこく主義しゅぎなるものは、愛国心あいこくしんを経へとし、所謂いわゆる軍ぐん国こく主義しゅぎを緯いとして、以もって織おり成なせる政策せいさくにあらずや。幸こう徳とく秋水しゅうすい『廿にじゅう世紀せいき之の怪物かいぶつ帝国ていこく主義しゅぎ』(1901)
    文明ぶんめいの名なで行おこなわれていたことを、織物おりものの縦たて糸いとと横よこ糸いとに喩たとえて解剖かいぼうした一節いっせつである。愛国心あいこくしんという感情かんじょうが縦たて糸いと、軍事ぐんじという装置そうちが横よこ糸いと。この二本にほんがそろってはじめて一いち枚まいの布ぬのになる。原げん書しょのいう文明ぶんめいの三さん条件じょうけんと、これは正確せいかくに重かさなる — 普遍ふへん化かへの意志いし(愛国心あいこくしん)、それを実行じっこうする制度せいどと機構きこう(軍ぐん隊たい)、そして実際じっさいの統一とういつ(植民地しょくみんち)。幸こう徳とくがこれを一いち九きゅう〇一いち年ねんに書かいたことが重おもい。当時とうじ、帝国ていこく主義しゅぎは文明ぶんめいの証あかしとされていた。同おなじ事態じたいを、文明ぶんめいと呼よぶか帝国ていこく主義しゅぎと呼よぶかで、評価ひょうかが丸まるごと反転はんてんする — 語ごの選択せんたくがそのまま立場たちばの表明ひょうめいになる場面ばめんである。
  • 文明ぶんめいとは、普遍ふへん化かへの意志いしと、それを実行じっこうする装置そうちをあわせ持もった文化ぶんかである。 原げん書しょの入試にゅうし文ぶんが示しめす定義ていぎで、この一文いちぶんがこの章しょうの要かなめになる。①普遍ふへん化かへの意志いしを持もち、②実行じっこうする制度せいどや機構きこう(軍ぐん隊たい・警察けいさつ・教育きょういく制度せいど)を備そなえ、③実際じっさいに他ほかの文化ぶんかを自分じぶんの価値かちのもとに統一とういつした — この三さん条件じょうけんがそろって文明ぶんめいになる。したがって文明ぶんめいは文化ぶんかより上等じょうとうなのではなく、攻撃的こうげきてきな姿勢しせいを持もった文化ぶんかである。この読よみ替かえが、そのままヨーロッパ中心ちゅうしん主義しゅぎ批判ひはんにつながる。
  • ×古代こだいマヤは高度こうどな文明ぶんめいだったが、周囲しゅういは文化ぶんかしか持もたなかった。 文化ぶんかを持もたない集団しゅうだんは無ない。73 の定義ていぎから出でる帰結きけつである。また、文明ぶんめいと文化ぶんかは段階だんかいの差さではなく性質せいしつの差さだ。「文化ぶんかしか持もたない」という言いい方かたは、文明ぶんめいを上位じょういに置おく序列じょれつを前提ぜんていにしている — その序列じょれつこそが原げん書しょの批判ひはんしている当とうのものである。「文明ぶんめいの段階だんかいに達たっしていない」という言いい方かたも同おなじ。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

反はん 73 文化ぶんか

派生はせい形けい
  • 文明的ぶんめいてき[0]ほぼ肯定的こうていてきな評価ひょうか語ごとして使つかわれるが、その肯定こうていが何なにを基準きじゅんにしているかは示しめされない。「文明ぶんめい的てきな解決かいけつ」と言いえば暴力ぼうりょくによらないという意味いみになるが、暴力ぼうりょくを制度せいどに置おき換かえただけの場合ばあいもある。
  • 文明化ぶんめいか[0]「化か」が過程かていを指さす。他動詞たどうし的てきに使つかわれることが多おおく、そこに支配しはいの構図こうずが入はいり込こむ。評ひょう論文ろんぶんでこの語ごを見みたら、誰だれが誰だれを、という主語しゅごと目的語もくてきごを必かならず確たしかめる。
  • 文明論ぶんめいろん[0]文明ぶんめいを単位たんいとして歴史れきしや社会しゃかいを論ろんじる立場たちば。福沢ふくざわ『文明ぶんめい論ろん之の概がい略りゃく』が日本にほんでの出発点しゅっぱつてんである。大おおきな単位たんいで語かたれる強つよみと、内部ないぶの差異さいが消きえる弱じゃくみを同時どうじに持もっている。
コロケーション
  • 文明ぶんめいの衝突しょうとつ単位たんいの置おき換かえ冷戦れいせん後ごの対立たいりつを、国家こっかでもイデオロギーでもなく文明ぶんめいという単位たんいで捉とらえる議論ぎろん。ハンチントンの語ごである。注意ちゅういしたいのは、この枠組わくぐみが文明ぶんめいを内部ないぶで均質きんしつなかたまりとして扱あつかう点てんだ。85 のエスニシティ、86 のクレオールが示しめすとおり、実際じっさいの集団しゅうだんはそこまで割わり切きれない。単位たんいの取とり方かたそのものが論点ろんてんになる。
  • 文明ぶんめい化か押おしつけの過程かてい「化か」が付ついて過程かていを指さす。誰だれかが誰だれかを文明ぶんめい化かするという他動詞たどうしの構文こうぶんをとりやすい。ここに非対称ひたいしょうが現あらわれている — 文明ぶんめい化かされる側がわが文明ぶんめい化かする側がわになることはない。「文明ぶんめい化かの使命しめい」という言いい方かたが植民地しょくみんち支配しはいの正当化せいとうかに使つかわれたのは、この非対称ひたいしょうを自然しぜんなものに見みせられたからである。
  • 文明ぶんめいと文化ぶんか志向しこうの違ちがい文化ぶんかは固有こゆう、文明ぶんめいは普遍ふへんを志向しこうする。同おなじものの段階だんかい差さではなく、性質せいしつの違ちがいである。この区別くべつをドイツ語ご圏けんの議論ぎろんから借かりてきた点てんも押おさえておきたい — 文明ぶんめい(ツィヴィリザツィオン)をフランス的てきな表層ひょうそう、文化ぶんか(クルトゥーア)をドイツ的てきな深層しんそうとする対比たいひが背景はいけいにある。区別くべつそのものが、ある文化ぶんかの産物さんぶつだった。
  • 物質ぶっしつ文明ぶんめい片面かためんの名指なざし技術ぎじゅつと物質ぶっしつの面めんだけを指さす言いい方かた。「精神せいしん文化ぶんか」と対たいにして使つかわれることが多おおく、そこには物質ぶっしつの豊ゆたかさが精神せいしんの貧まずしさを招まねく、という価値かち判断はんだんが畳たたみ込こまれている。1-2 の 41 で見みたテクノロジー批判ひはんと同おなじ場所ばしょにあるが、この対たいもまたどちらの文化ぶんかが精神せいしん的てきかを競きそう争あらそいに転てんじやすい。
格かく中なか

書かき言葉ことば・会話かいわの両方りょうほうで使つかえる。

類るい語ごと差さ
  • 文化ぶんか時代じだいや地域ちいきに固有こゆうのもの普遍ふへん化かを志向しこうしない。文明ぶんめいはそれを志向しこうし、他ほかの文化ぶんかを統一とういつしようとする。
  • 近代きんだい化か制度せいどと技術ぎじゅつを西洋せいよう型がたに変かえる過程かていの名な。文明ぶんめいはその結果けっかとして立たち現あらわれた状態じょうたい。
  • 進歩しんぽよい方向ほうこうへ進すすむ価値かち判断はんだんを含ふくむ。文明ぶんめいは状態じょうたいの記述きじゅつだが、しばしば進歩しんぽと同一どういつ視しされてきた。
  • 帝国ていこく他ほかを支配しはいする政治せいじ体からだ政治せいじの形かたち。文明ぶんめいは文化ぶんか的てき価値かちによる統治とうちという側面そくめんを含ふくむ。

ENcivilisation
ZH文明(文明, wénmíng)

解説かいせつ ── 文化ぶんか・文明ぶんめい

文化ぶんかには、地域ちいき固有こゆうの生活せいかつ様式ようしきや行動こうどうパターン、言語げんご・精神せいしん性せい・思想しそう・芸術げいじゅつなどあらゆるものが包含ほうがんされるが、文明ぶんめいは技術的ぎじゅつてき・物質的ぶっしつてきな発展はってんに対たいして用もちいられる。

また、ある時代じだいに他ほかの文化ぶんかに対たいしても強つよい影響力えいきょうりょくをもつような人類じんるい的てきな規模きぼの文化ぶんかを、文明ぶんめいと呼よぶ論ろん者しゃもいる。近代きんだいに生うまれた西洋せいよう文明ぶんめいを「文化ぶんか」と言いわず、「文明ぶんめい」と表現ひょうげんするのは、西洋せいようの政治せいじ制度せいどや経済けいざい制度せいど・教育きょういく制度せいどが世界せかい全般ぜんぱんに普及ふきゅうし、技術的ぎじゅつてき・物質的ぶっしつてきな面めんにおいて影響えいきょうを与あたえたからである。

たとえば ── 文化ぶんか・文明ぶんめい

文明ぶんめいとよばれるものは限かぎられている。エジプト文明ぶんめい・イスラム文明ぶんめい・西洋せいよう文明ぶんめいなど、世界史せかいしにおいて非常ひじょうに大おおきな影響力えいきょうりょくをもっていたものだけを文明ぶんめいとよぶ。

対立たいりつの軸じく

文化ぶんか/文明ぶんめい の軸じく = 普遍ふへん化かを志向しこうするか

文化ぶんか時代じだいや地域ちいきに固有こゆう。他ほかを統一とういつしようとしない。
普遍ふへん化かを志向しこうするか
文明ぶんめい普遍ふへん化かへの意志いしと装置そうちをもち、他文化たぶんかを統一とういつする。
文化と文明固有にとどまる文化と、普遍化への意志と装置を備えて他文化を統一した文明の違いを示した図。 文化 集団や地域に固有 生活様式・言語・思想・芸術 ① 普遍化への意志 ② 制度と機構 ③ 他文化を統一 文明 普遍・物質的な影響力 民主主義・近代科学・教育制度 ②の中身 軍隊・警察統治制度教育制度 価値を布教し教化する装置 文明は文化より上等なのではない。攻撃的な姿勢をもった文化である。
文化ぶんかが文明ぶんめいになるための三みっつの条件じょうけん
入試にゅうし文ぶん

ある一ひとつの「文化ぶんか」は「普遍ふへん化かへの意志いし」を持もって、他ほかの諸しょ文化ぶんかへの攻撃的こうげきてきな姿勢しせいを示しめしたときに、「文明ぶんめい」となり得うるのではないか。そして、そのことは、ヨーロッパの十八じゅうはち世紀せいきに「文明ぶんめい」という概念がいねんが造つくられたときに、暗々裏あんあんりにその概念がいねんのなかに込こめられた潜在的せんざいてきな前提ぜんていではなかったか。
もちろん、実じつは「普遍ふへん化か」への意志いしだけがあっても「文化ぶんか」は「文明ぶんめい」にはなれない。その意志いしを実行じっこうに移うつすだけの、社会的しゃかいてきな制度せいどや機構きこう(そのなかには軍ぐん隊たいや警察けいさつのような、権力けんりょくの施行しこうを円滑えんかつにするための統治とうち制度せいども、あるいは自みずからの文化ぶんか的てき価値かちを布教ふきょうし教化きょうかするための教育きょういく制度せいども、重要じゅうような一ひとつの要素ようそとして含ふくまれる)を備そなえていることが必要ひつようである。
言いい換かえれば、「文明ぶんめい」とは、一ひとつの「文化ぶんか」が、そうした普遍ふへん化かへの意志いしを持もち、その意志いしを実行じっこうに移うつすだけの装置そうちを備そなえ、そして事実じじつ、多おおくの異ことなった文化ぶんかを、自分じぶんの文化ぶんか的てきな価値かちのなかで統一とういつする形かたちで支配しはいし統治とうちしたときに、その状態じょうたいに対たいして付ふされる術語じゅつごではないか。

出典しゅってん 村上むらかみ陽一郎よういちろう「文明ぶんめいのなかの科学かがく」 / 出題しゅつだい 立教大学りっきょうだいがく・経済学部けいざいがくぶ

読解どっかいのポイント
ある一つの「文化」
↓
- 普遍化への意志
- 社会的な制度や機構
↓
「文明」
要約ようやく

文明ぶんめいとは、ある一ひとつの文化ぶんかが普遍ふへん化かしようとして、そのための社会的しゃかいてきな制度せいどや機構きこうを備そなえ、多おおくの異ことなった文化ぶんかを自分じぶんの文化ぶんか的てきな価値かちのなかで統一とういつした状態じょうたいのことである。

語ご法ほうの観察かんさつ

「〜ではないか」という問といかけの形かたちで定義ていぎを提示ていじする。断定だんていを避さけながら、三さん段だん構かまえで条件じょうけんを積つみ上あげていく。

Section 02

自じ文化ぶんか(自じ民族みんぞく)中心ちゅうしん主義しゅぎ

75

自文化(自民族)中心主義じぶんかちゅうしんしゅぎ

じぶんかちゅうしんしゅぎ[0]平板へいばん型がた

語ご構成こうせい
自じみずから+中心ちゅうしんまんなか+主義しゅぎ立場たちば・考かんがえ方かた
定義ていぎ

自分じぶんたちの所属しょぞくする文化ぶんか(民族みんぞく)の基準きじゅんによって、他ほかの文化ぶんかを判断はんだんすること。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑75
原げん書しょの解説かいせつ

自じ文化ぶんかの価値かち観かんや規範きはんを絶対ぜったい視しし、他ほかの文化ぶんかにも押おしつけてしまうことを自じ文化ぶんか(自じ民族みんぞく)中心ちゅうしん主義しゅぎと言いう。海外かいがいに進出しんしゅつした企業きぎょうが、自国じこくでのルールをそのまま適用てきようすることで、現地げんちの労働者ろうどうしゃとの間あいだに軋轢あつれきが生しょうじることがあるが、これは今日きょうの産業さんぎょう社会しゃかいで見みられる自じ文化ぶんか中心ちゅうしん主義しゅぎの例れいだ。

自分じぶんの所属しょぞくしている民族みんぞく集団しゅうだんや文化ぶんかに愛あい着ちゃくをもつのは自然しぜんな感情かんじょうだが、それがエスカレートするとナショナリズムが過か激化げきかし、異い文化ぶんかを拒絶きょぜつ排斥はいせきする態度たいどに傾かたむいてしまう。国際こくさい社会しゃかいでも、自じ文化ぶんか(自じ民族みんぞく)を肯定こうていするために人種じんしゅ差別さべつや外国がいこくへの侵略しんりゃく、テロなどの暴力ぼうりょくによって異い文化ぶんかを壊滅かいめつしようと過激かげきな行動こうどうに走はしってしまう例れいは少すくなくない。

ちなみに、自じ民族みんぞく中心ちゅうしん主義しゅぎは英語えいごの `ethnocentrism` の訳語やくごで、`ethno`(=人種じんしゅ、民族みんぞく)と `centrism`(=中心ちゅうしん主義しゅぎ)が結合けつごうしてできた語ごである。

たとえば

二十にじゅう世紀せいきのナチスによるユダヤ人ひと虐殺ぎゃくさつ、ユーゴスラビア解体かいたい後ごのセルビアやクロアチアの〈民族みんぞく浄化じょうか〉による諸しょ民族みんぞく紛争ふんそうは、自じ民族みんぞく中心ちゅうしん主義しゅぎが露骨ろこつに表あらわれた例れいである。

使用しようの境界きょうかい

自分じぶんの属ぞくする文化ぶんかを基準きじゅんにして他ほかの文化ぶんかを測はかり、劣おとったものとみなす態度たいど。比較ひかくすること自体じたいではない。

用法ようほう

「エスノセントリズム」とも言いう。誰だれもが自分じぶんの文化ぶんかを当あたり前まえだと感かんじているので、この態度たいどは自覚じかくされにくいという点てんが要点ようてんである。だから批判ひはんは、悪意あくいを責せめるのではなく無む自覚じかくを問とうものになる。ヨーロッパ中心ちゅうしん主義しゅぎがその代表だいひょうで、ヨーロッパを進歩しんぽの到達点とうたつてんとみなし、そこから遠とおい社会しゃかいを「未開みかい」と呼よんで蔑視べっしした。この見方みかたが植民地しょくみんち支配しはいを正当化せいとうかした。読解どっかいでは、誰だれが誰だれを測はかっているかという尺度しゃくどの所在しょざいを見みる。

用例ようれい
  • 各人かくじんは、自分じぶんの慣習かんしゅうにないものを野蛮やばんと呼よぶ。……我々われわれは、自分じぶんが住すんでいる国くにの考かんがえ方かたと習慣しゅうかんの実例じつれいと観念かんねんのほかに、真理しんりと理性りせいの基準きじゅんを持もっていないように思おもわれる。ミシェル・ド・モンテーニュ『エセー』「食人しょくじん種しゅについて」(1580)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    四百年よんひゃくねん以上いじょう前まえに、この概念がいねんの中身なかみがすでに言いい当あてられている。モンテーニュはブラジルの食人しょくじんの風習ふうしゅうを伝つたえ聞きき、それを野蛮やばんと呼よぶヨーロッパ人じんが同どう時代じだいの宗教しゅうきょう戦争せんそうで生いきた人間にんげんを拷問ごうもんにかけていることを並ならべた。注目ちゅうもくしたいのは「持もっていないように思おもわれる」という書かきぶりである。断定だんていしていない。自分じぶんもその内側うちがわにいると分わかっているから、外そとから断だんじる位置いちに立たてないのだ。この慎重しんちょうさが、76 の文化ぶんか相対そうたい主義しゅぎとこの語ごの関係かんけいを先取さきどりしている。自じ文化ぶんか中心ちゅうしん主義しゅぎを批判ひはんする声こえもまた、どこかの文化ぶんかから発はっせられている。
  • 我わが族ぞく類るいに非ひざれば、其その心こころ必かならず異ことなり。『春秋しゅんじゅう左氏さし伝でん』成せい公こう四よん年ねん
    我々われわれと同おなじ族ぞくでないなら、その心こころは必かならず違ちがう — 魯ろが晋しんと結むすぶべきか楚そと結むすぶべきかを論ろんじた場面ばめんの言葉ことばである。自じ文化ぶんか中心ちゅうしん主義しゅぎの骨格こっかくが、これ以上いじょうないほど短みじかく言いい切きられている。注目ちゅうもくしたいのは、ここに優劣ゆうれつが書かかれていないことだ。劣おとっているとは言いっていない。「必かならず異ことなる」と言いっているだけである。それでも十分じゅうぶんに働はたらく。異ことなると決きめた瞬間しゅんかん、相手あいてを理解りかいする必要ひつようが消きえるからだ。原げん書しょが「愛あい着ちゃくがエスカレートすると異い文化ぶんかを拒絶きょぜつ排斥はいせきする態度たいどに傾かたむく」と書かくとき、その最初さいしょの一歩いっぽがここにある。排斥はいせきは蔑視べっしから始はじまるとはかぎらない。線せんを引ひくところから始はじまる。
  • 海外かいがいに進出しんしゅつした企業きぎょうが自国じこくのルールをそのまま適用てきようし、現地げんちの労働者ろうどうしゃとの軋轢あつれきを生うむ。これも自じ文化ぶんか中心ちゅうしん主義しゅぎである。 原げん書しょが挙あげる現代げんだいの例れいである。ここに悪意あくいは無ない点てんが要点ようてんだ。本国ほんごくでは正ただしく機能きのうしていたルールを、そのまま持もっていっただけである。誰だれもが自分じぶんの文化ぶんかを当あたり前まえだと感かんじているので、この態度たいどは自覚じかくされにくい。だから批判ひはんは、悪意あくいを責せめるのではなく無む自覚じかくを問とうものになる。
  • △自国じこくの文化ぶんかに愛あい着ちゃくを持もつのは自じ文化ぶんか中心ちゅうしん主義しゅぎだ。 愛あい着ちゃくそのものは「愛国心あいこくしん」「郷土愛きょうどあい」にとどまる。自じ文化ぶんか中心ちゅうしん主義しゅぎは、自じ文化ぶんかを尺度しゃくどにして他ほかを測はかり、劣位れついに置おくときに成立せいりつする。「比くらべているか、測はかっているか」を問とえばよい — 比くらべるだけなら比較ひかく、一方いっぽうを物差ものさしにしたら中心ちゅうしん主義しゅぎである。ただし原げん書しょが注意ちゅういするとおり、愛あい着ちゃくはしばしばそこへ滑すべっていく。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

反はん 76 文化ぶんか相対そうたい主義しゅぎ

派生はせい形けい
  • 自民族中心主義じみんぞくちゅうしんしゅぎ[0]同おなじ語ごの別べつの訳やく。「文化ぶんか」と訳やくすか「民族みんぞく」と訳やくすかで射程しゃていが変かわる。民族みんぞくと訳やくせば血ちや出自しゅつじの話はなしに寄より、文化ぶんかと訳やくせば見方みかたの話はなしに寄よる。原語げんご ethnocentrism はその両方りょうほうを含ふくむ。
  • エスノセントリズム原語げんごの音訳おんやく。訳語やくごが二ふたつに割われてしまうため、その割われ目めを避さけたいときに使つかわれる。訳語やくごがあるのに原語げんごが残のこる場面ばめんには、たいていこういう事情じじょうがある。
  • 文化相対主義ぶんかそうたいしゅぎ[0]対たい語ご。この語ごへの反省はんせいから生うまれた。二十にじゅう世紀せいきに入はいってようやく提唱ていしょうされたということは、それ以前いぜんの学問がくもんがこの語ごの内側うちがわにあったということでもある。
コロケーション
  • ヨーロッパ中心ちゅうしん主義しゅぎ代表的だいひょうてきな形かたちヨーロッパを進歩しんぽの到達点とうたつてんとみなし、そこから遠とおい社会しゃかいを「未開みかい」と呼よんで蔑視べっしした見方みかた。世界史せかいしの記述きじゅつそのものを規定きていしてきた点てんがこの形かたちの重おもさである。地図ちずの中心ちゅうしん、時代じだい区分くぶん、「発見はっけん」という語ご — いずれも誰だれの位置いちから見みた言いい方かたかを含ふくんだまま使つかわれてきた。84 のオリエンタリズムは、この学問がくもんと芸術げいじゅつへの浸透しんとう形けいにあたる。
  • 未開みかいと文明ぶんめい並ならべた瞬間しゅんかんの序列じょれつ二に語ごを並ならべると、時間じかんの順序じゅんじょが入はいり込こむ。未開みかいはまだ文明ぶんめいに至いたっていない、つまり過去かこの段階だんかいだという含ふくみが生しょうじる。同時どうじ代だいに生いきている人々ひとびとを「我々われわれの過去かこ」として扱あつかうこの構図こうずが、植民地しょくみんち支配しはいを「導みちびいてやること」に見みせかける装置そうちになった。
  • 無む自覚じかくである批判ひはんの的まとこの語ごの批判ひはんは、悪意あくいではなく無む自覚じかくに向むく。悪意あくいなら本人ほんにんが知しっているが、無む自覚じかくは本人ほんにんが知しらない。だから「そんなつもりはない」という弁明べんめいが反論はんろんにならない。1-1 の 14 の自明じめい性せい、1-2 の 48 のパラダイムと同おなじ構造こうぞうである。
  • エスノセントリズム原語げんごの形かたちethno(民族みんぞく)+ centrism(中心ちゅうしん主義しゅぎ)。語ご構成こうせいを見みると、中心ちゅうしんという比喩ひゆが効きいていることが分わかる。中心ちゅうしんがあれば周縁しゅうえんがある。この語ごは、世界せかいを同心円どうしんえんとして思おもい描えがいてしまう癖くせそのものを名指なざしている — 自分じぶんがたまたま立たっている場所ばしょを原げん点てんとして座標ざひょうを引ひいてしまう癖くせである。
格かく硬かた・学術がくじゅつ

論文ろんぶん・評ひょう論ろんでのみ使つかう。会話かいわでは不自然ふしぜん。

類るい語ごと差さ
  • 文化ぶんか相対そうたい主義しゅぎ文化ぶんかに優劣ゆうれつをつけない正面しょうめんの対立たいりつ立場たちば。この章しょうの主軸しゅじくとなる対たい。
  • ヨーロッパ中心ちゅうしん主義しゅぎヨーロッパを進歩しんぽの尺度しゃくどとする自じ文化ぶんか中心ちゅうしん主義しゅぎの具体ぐたい形けい。世界史せかいしの記述きじゅつを規定きていしてきた。
  • 排はい外がい主義しゅぎ他者たしゃを排除はいじょしようとする行動こうどうの側がわ。自じ文化ぶんか中心ちゅうしん主義しゅぎは物ものの見方みかたの側がわで、排除はいじょを伴ともなわない場合ばあいもある。
  • 愛国心あいこくしん自国じこくを大切たいせつに思おもう気持きもち感情かんじょう。他ほかを劣位れついに置おく判断はんだんを必かならずしも含ふくまない。

ENethnocentrism
ZH民族中心主义(自民族中心主義, mínzú zhōngxīn zhǔyì)

尺度の所在自文化を尺度に置く自文化中心主義と、尺度を外して並べる文化相対主義の違いを示した図。 自文化中心主義 自文化 遅れている 進歩のモノサシ 文化相対主義 尺度がない。優劣が言えない。 ただし尺度を完全に捨てると、どの文化の慣行も批判できなくなる。 ここで普遍的な人権と、文化の固有性が衝突する
尺度しゃくどを誰だれが持もっているか
入試にゅうし文ぶん

今日きょう、「文化ぶんかの多様性たようせい」への脅威きょういは二ふたつの方向ほうこうから来くる。一ひとつはタリバーンの古代こだい大仏だいぶつ破壊はかいのような宗教的しゅうきょうてき過激かげき主義しゅぎによる脅威きょういである。これには世界せかい各地かくちにみられる異い文化ぶんか拒否きょひと他者たしゃ排斥はいせきを声高こわだかに主張しゅちょうする自じ文化ぶんか・自じ民族みんぞく中心ちゅうしん主義しゅぎや全体ぜんたい主義しゅぎ的てきイデオロギーの激はげしい動うごきなどが含ふくまれる。こうした文化ぶんかと人間にんげんの破壊はかいは、それが地球ちきゅうのどこで行おこなわれようと、真しんのグローバルな問題もんだいとして受うけとめる必要ひつようがある。仏像ぶつぞう破壊はかいは日本にほんの近代きんだい史しとも無縁むえんではない。中国ちゅうごくの文化ぶんか大だい革命かくめいのような例れいもある。
いま一ひとつの脅威きょういは、グローバリゼーションのかけ声こえの下したに急速きゅうそくに世界せかいを席巻せっけんしつつある「ファストフード化か」の波なみである。これは単たんに食品しょくひんのことだけでなく、文化ぶんかの簡易かんい化か・単純化たんじゅんかと画一化かくいつかのことを指さす。

出典しゅってん 青木保あおきたもつの文章ぶんしょう / 出題しゅつだい 和洋女子大学わようじょしだいがく・人文学じんぶんがく部ぶ

読解どっかいのポイント
「文化の多様性」への脅威
- 宗教的過激主義
- 自文化・自民族中心主義
- 全体主義的イデオロギー
- 「ファストフード化」の波
要約ようやく

現在げんざい、「文化ぶんかの多様性たようせい」は、宗教的しゅうきょうてき過激かげき主義しゅぎと「ファストフード化か」の波なみという二ふたつの脅威きょういにさらされている。

語ご法ほうの観察かんさつ

自分じぶんたちの当あたり前まえを例れいに挙あげてから一般化いっぱんかする。読者どくしゃ自身じしんをその構図こうずの内側うちがわに置おく書かき方かたになっている。

Section 03

文化ぶんか相対そうたい主義しゅぎ/文化ぶんか人類学じんるいがく

76

文化相対主義ぶんかそうたいしゅぎ

ぶんかそうたいしゅぎ[0]平板へいばん型がた

語ご構成こうせい
文化ぶんか精神せいしん活動かつどうの産物さんぶつ+相対そうたい比較ひかくで成なり立たつ+主義しゅぎ立場たちば
定義ていぎ

文化ぶんかには絶対的ぜったいてきな価値かち基準きじゅんは存在そんざいしないとして、文化ぶんかの多様性たようせいを認みとめ、異い文化ぶんかを尊重そんちょうする立場たちば。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑76
原げん書しょの解説かいせつ

従来じゅうらいの学問がくもんには、自じ文化ぶんか中心ちゅうしん主義しゅぎ的てきな考かんがえ方かたがあったが、二十にじゅう世紀せいきに入はいるとそれが反省はんせいされて文化ぶんか相対そうたい主義しゅぎが提唱ていしょうされるようになった。

たとえば

病気びょうきの原因げんいんが、研究者けんきゅうしゃの育そだった文化ぶんかでは〈ウイルス〉で、研究けんきゅう対象たいしょうの文化ぶんかでは〈悪魔あくまの呪のろい〉だったとしよう。この時とき研究者けんきゅうしゃは、自分じぶんの理屈りくつに合あわないからといって、対象たいしょうの文化ぶんかを単純たんじゅんに非合理ひごうりで間違まちがったものだと決きめつけずに、対象たいしょうの文化ぶんかの考かんがえ方かたをそのまま認みとめて研究けんきゅうしていく。これが文化ぶんか相対そうたい主義しゅぎの立場たちばである。

使用しようの境界きょうかい

文化ぶんかに優劣ゆうれつはなく、それぞれ固有こゆうの価値かちを持もつとする立場たちば。すべてを容認ようにんするという意味いみではない。

用法ようほう

☑26 相対そうたいの考かんがえ方かたを文化ぶんかに適用てきようした立場たちばである。評ひょう論文ろんぶんでは肯定的こうていてきに紹介しょうかいされることが多おおいが、批判ひはんも定型ていけい化かしている。優劣ゆうれつをつけないという原則げんそくを徹底てっていすると、女性じょせい器き切除せつじょや名誉めいよ殺人さつじんのような慣行かんこうも「その文化ぶんかの価値かち」として容認ようにんせざるをえなくなる、という難点なんてんである。ここで☑1 普遍ふへんが呼よび戻もどされ、普遍的ふへんてきな人権じんけんと文化ぶんかの固有こゆう性せいが衝突しょうとつする。読解どっかいでは、この立場たちばが紹介しょうかいされているだけか、批判ひはんの対象たいしょうになっているかを見分みわける。

用例ようれい
  • ダレイオスはギリシア人じんに問とうた。「いくら金かねをもらえば、亡なくなった父ちちの遺体いたいを食たべるか」。彼かれらは、どれほど積つまれても嫌いやだと答こたえた。次つぎに、父ちちの遺体いたいを食たべる慣ならわしを持もつカラティアイ人ひとに問とうた。「いくら払はらえば、亡なき父ちちを火ひで焼やくか」。彼かれらは叫さけび声こえをあげ、そのような不敬ふけいなことを言いうなと言いった。……慣習かんしゅうこそ万物ばんぶつの王おうである。ヘロドトス『歴史れきし』第だい三さん巻かん(前五世紀ぜんごせいき)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    文化ぶんか相対そうたい主義しゅぎの原型げんけいがここにある。ダレイオスがしたのは議論ぎろんではない。二ふたつの集団しゅうだんに同おなじ問といを向むけて、同おなじ反応はんのうが返かえってくることを見みせたのである。どちらも相手あいてのやり方かたを「ありえない」と感かんじている。この対称性たいしょうせいが要点ようてんだ。一方いっぽうが正ただしく他方たほうが間違まちがっているのではなく、両方りょうほうが同おなじ強つよさで自分じぶんの慣習かんしゅうを絶対ぜったいだと感かんじている。そのうえでヘロドトスはピンダロスの句くを引ひいて締しめる — 慣習かんしゅうこそ王おうである。王おうは、その国くにの内側うちがわでのみ王おうである。境さかいを越こえれば効力こうりょくを失うしなう。75 の項こうで見みた「各人かくじんは自分じぶんの慣習かんしゅうにないものを野蛮やばんと呼よぶ」が、ここでは実験じっけんの形かたちで示しめされている。
  • すべての人間にんげんは、生うまれながらにして自由じゆうであり、かつ、尊厳そんげんと権利けんりについて平等びょうどうである。世界せかい人権じんけん宣言せんげん 第一だいいち条じょう(1948)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    こちらは文化ぶんかを越こえて通用つうようする基準きじゅんを立たてた文ぶんである。「すべての」「生うまれながらにして」— 1-1 の 1 で見みた普遍ふへんの言いい方かたそのものだ。例外れいがいを一ひとつも認みとめない。ここで文化ぶんか相対そうたい主義しゅぎとの衝突しょうとつが起おきる。文化ぶんかに優劣ゆうれつをつけないという原則げんそくを徹底てっていすると、人権じんけんを侵おかす慣行かんこうも「その文化ぶんかの価値かち」として容認ようにんせざるをえなくなる。女性じょせい器き切除せつじょ、名誉めいよ殺人さつじん、児童じどう婚こん。注意ちゅういしたいのは、この衝突しょうとつに簡単かんたんな決着けっちゃくが無ないことだ。普遍ふへんの側がわに立たてば、「普遍ふへん」を定義ていぎしたのは誰だれかという問といが返かえってくる。相対そうたいの側がわに立たてば、被害ひがいを受うけている当人とうにんの声こえが「その文化ぶんか」の名なで消けされる。評ひょう論文ろんぶんがこの語ごを扱あつかうときの緊張きんちょうは、ほぼこの一点いってんに集あつまっている。
  • 文化ぶんか相対そうたい主義しゅぎは、すべてを容認ようにんするという意味いみではない。 もっとも誤解ごかいされやすい点てんである。この立場たちばが退しりぞけたのは唯一ゆいいつの尺度しゃくどで優劣ゆうれつを測はかることであって、判断はんだんそのものではない。1-1 の 26 で見みたとおり、相対そうたい化かは無効むこう化かではない。尺度しゃくどを一ひとつに決きめないまま、それでも何なにかを言いえるかどうか — そこがこの立場たちばの正念場しょうねんばになる。
  • ×どの文化ぶんかにも固有こゆうの価値かちがあるのだから、外部がいぶから何なにを言いっても文化ぶんか相対そうたい主義しゅぎに反はんする。 この形かたちの主張しゅちょうは、「その文化ぶんか」の中なかで誰だれが声こえを持もっているかを問とわない。慣行かんこうに苦くるしんでいる当人とうにんも、その文化ぶんかの一員いちいんである。文化ぶんかを一枚岩いちまいいわとして扱あつかった瞬間しゅんかん、内側うちがわの異議いぎが消きえる。85 のエスニシティ、86 のクレオールがこの一枚岩いちまいいわの見方みかたを崩くずそうとしているのは、そのためでもある。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

反はん 75 自じ文化ぶんか(自じ民族みんぞく)中心ちゅうしん主義しゅぎ / 関せき 26 相対そうたい

派生はせい形けい
  • 文化相対的ぶんかそうたいてき[0]形容けいようの形かたち。「文化ぶんか相対的そうたいてきに見みれば」で、唯一ゆいいつの尺度しゃくどを外はずした見方みかたを指さす。「主義しゅぎ」を外はずすと立場たちばの表明ひょうめいが弱じゃくまり、一時的いちじてきに位置いちをずらす操作そうさの名なになる。
  • 多文化主義たぶんかしゅぎ[0]認識にんしきの態度たいどではなく政策せいさく。共存きょうぞんを制度せいどとして支ささえる。同化どうかを求もとめないという点てんで、75 の自じ文化ぶんか中心ちゅうしん主義しゅぎの制度せいど的てきな反対はんたい物ぶつにあたる。
  • 相対主義そうたいしゅぎ[0]より広ひろい立場たちばで、文化ぶんか相対そうたい主義しゅぎはその文化ぶんかへの適用てきようである。1-1 の 26 で見みたとおり、相対そうたい主義しゅぎは自己じこ言及げんきゅうの難点なんてんを抱かかえている。文化ぶんかに限定げんていすると、その難点なんてんはいくらか和わらぐ。
コロケーション
  • 文化ぶんかに優劣ゆうれつはない原則げんそくの言いい方かたこの立場たちばの中心ちゅうしん的てきな主張しゅちょう。優劣ゆうれつという尺度しゃくどそのものを退しりぞけているのであって、「どれも同おなじくらい良よい」と言いっているのではない。ここを取とり違ちがえると、すべてを肯定こうていする立場たちばに見みえてしまう。尺度しゃくどを一ひとつに決きめないことと、何なにも判断はんだんしないことは別べつである。
  • 文化ぶんか相対そうたい主義しゅぎの限界げんかい批判ひはんの定型ていけい評ひょう論文ろんぶんでこの語ごが出でたら、批判ひはんが続つづくかどうかを見みる。限界げんかいとして挙あげられるのはほぼ一点いってん — 人権じんけんとの衝突しょうとつである。1-1 の 1 の普遍ふへんがここで呼よび戻もどされ、章しょうをまたいで一ひとつの争点そうてんになる。紹介しょうかいされているだけか、批判ひはんの対象たいしょうになっているかの見分みわけが読解どっかいの要かなめになる。
  • 多た文化ぶんか主義しゅぎ制度せいどとしての形かたち複数ふくすうの文化ぶんかの共存きょうぞんを政策せいさくとして制度せいど化かする立場たちば。文化ぶんか相対そうたい主義しゅぎが認識にんしきの態度たいどであるのに対たいし、こちらは実際じっさいの制度設計せいどせっけいである。認識にんしきから制度せいどへ移うつると、費用ひようと配分はいぶんの問題もんだいが生しょうじる — 教育きょういくを何語なにごで行おこなうか、どの祝日しゅくじつを公こう休きゅうとするか。態度たいどは無料むりょうだが、制度せいどは有料ゆうりょうである。
  • 普遍ふへん主義しゅぎとの対立たいりつ章しょうをまたぐ争点そうてんどの文化ぶんかにも共通きょうつうする価値かちがあるとする立場たちばとの衝突しょうとつ。人権じんけんをめぐる議論ぎろんでこの対たいが争点そうてんになる。面白おもしろいのは、どちらの立場たちばも相手あいてを「西洋せいようの産物さんぶつだ」と批判ひはんできることだ。普遍的ふへんてき人権じんけんは西洋せいようの発明はつめいだと言いえるし、文化ぶんか相対そうたい主義しゅぎもまた西洋せいようの人類学じんるいがくから出でてきた。この循環じゅんかんから出でる道みちは、まだ誰だれも示しめしていない。
格かく硬かた・学術がくじゅつ

論文ろんぶん・評ひょう論ろんでのみ使つかう。会話かいわでは不自然ふしぜん。

類るい語ごと差さ
  • 自じ文化ぶんか中心ちゅうしん主義しゅぎ自じ文化ぶんかを尺度しゃくどにする正面しょうめんの対立たいりつ立場たちば。文化ぶんか相対そうたい主義しゅぎはこれへの反省はんせいから生うまれた。
  • 多た文化ぶんか主義しゅぎ複数ふくすうの文化ぶんかの共存きょうぞんを制度せいど化かする政策せいさくの側がわ。文化ぶんか相対そうたい主義しゅぎは認識にんしきの態度たいど。
  • 相対そうたい主義しゅぎ唯一ゆいいつの基準きじゅんを認みとめないより広ひろい立場たちば。文化ぶんか相対そうたい主義しゅぎはその文化ぶんかへの適用てきよう。
  • 普遍ふへん主義しゅぎどの文化ぶんかにも共通きょうつうする価値かちがあるとする対立たいりつ立場たちば。人権じんけんをめぐる議論ぎろんでこの対たいが争点そうてんになる。

ENcultural relativism
ZH文化相对主义(文化相対主義, wénhuà xiāngduì zhǔyì)

77

文化人類学ぶんかじんるいがく

ぶんかじんるいがく[0]平板へいばん型がた

語ご構成こうせい
文化ぶんか精神せいしん活動かつどうの産物さんぶつ+人類学じんるいがく人間にんげんを研究けんきゅうする学がく
定義ていぎ

さまざまな文化ぶんかを対象たいしょうにして、各かく文化ぶんかの特徴とくちょうや、文化ぶんか一般いっぱんに共通きょうつうする特徴とくちょうを研究けんきゅうする学問がくもん。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑77
原げん書しょの解説かいせつ

文化ぶんか人類学じんるいがくでは、基本的きほんてきに文化ぶんかの差異さいや多様性たようせいを認みとめながら、現存げんそんする文化ぶんかの機能きのうや構造こうぞうを、フィールドワーク(=実際じっさいに現地げんちで行おこなう調査ちょうさ)などの実証的じっしょうてきな方法ほうほうを用もちいて研究けんきゅうする。

たとえば

アフリカのある地域ちいきを調査ちょうさして、その文化ぶんかの家族かぞく制度せいどを分析ぶんせきするなどといった研究けんきゅうが典型的てんけいてき。

使用しようの境界きょうかい

諸しょ文化ぶんかを比較ひかくして人間にんげんを理解りかいしようとする学問がくもん。優劣ゆうれつを測はからずに内側うちがわから記述きじゅつする点てんが方法ほうほうの核かくになる。

用法ようほう

評ひょう論文ろんぶんでは学問がくもん名めいとしてよりも、視点してんの名前なまえとして現あらわれる。「文化ぶんか人類学じんるいがく的てきに見みれば」は、自分じぶんたちの当あたり前まえを一度いちど外はずして、内側うちがわの論理ろんりから理解りかいしようとする構かまえを指さす。この視点してんが☑76 文化ぶんか相対そうたい主義しゅぎを支ささえる方法ほうほうになっている。もう一ひとつの含意がんいが自じ文化ぶんかへの跳はね返かえりで、他文化たぶんかを研究けんきゅうすることで自じ文化ぶんかの特殊とくしゅ性せいが見みえてくる。日本にほん論ろん・日本人にほんじん論ろんの多おおくはこの構図こうずを借かりている。

用例ようれい
  • 民族誌みんぞくし家かの最終的さいしゅうてきな目標もくひょうは、要ようするに、原げん住民じゅうみんの視点してん、彼かれと生せいとの関係かんけいを把握はあくし、彼かれの世界せかいについての彼かれのヴィジョンを理解りかいすることである。ブロニスワフ・マリノフスキー『西にし太平洋たいへいようの遠洋えんよう航海こうかい者しゃ』序じょ(1922)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    フィールドワークという方法ほうほうを確立かくりつした宣言せんげんである。それまでの人類学じんるいがくは、旅行者りょこうしゃや宣教師せんきょうしの報告ほうこくを本国ほんごくの書しょ斎さいで読よんで組くみ立たてられていた。マリノフスキーは二に年間ねんかん、島しまに住すんだ。注目ちゅうもくしたいのは目標もくひょうの書かき方かたである。「彼かれの世界せかいについての彼かれのヴィジョン」 — 対象たいしょうの説明せつめいではなく、対象たいしょうが世界せかいをどう見みているかを見みる。これは 1-1 の 9 で見みた対象たいしょう化かとは逆向ぎゃくむきの操作そうさだ。切きり離はなして観察かんさつの台だいに載のせるのではなく、相手あいての眼めの位置いちまで行いこうとする。完全かんぜんには行いけない。それでも行いこうとする構かまえが、76 の文化ぶんか相対そうたい主義しゅぎを思想しそうから方法ほうほうへ変かえた。
  • 武士道ぶしどうは、日本にほんの象徴しょうちょうである桜花おうかにまさるとも劣おとらぬ、日本にほんの土壌どじょうに固有こゆうの花はなである。新渡戸にとべ稲造いなぞう『武士道ぶしどう』第一だいいち章しょう(1899・英文えいぶん)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    日本人にほんじんが、英語えいごで、外国人がいこくじんに向むけて自国じこくの道徳どうとくを説明せつめいした書物しょもつの書かき出だしである。ここで起おきているのが、原げん書しょのいう自じ文化ぶんかへの跳はね返かえりだ。外そとの言葉ことばで説明せつめいしようとした瞬間しゅんかん、それまで自明じめいだったものが説明せつめいを要ようするものに変かわる。新渡戸にとべは「日本にほんには宗教しゅうきょう教育きょういくが無ない、ではどうやって道徳どうとくを教おしえるのか」とベルギー人ひとに問とわれて答こたえに窮きゅうし、この本ほんを書かいたと述のべている。問とわれるまで、自分じぶんがどこに立たっているかは見みえない。ただし危あやうさもある — 説明せつめいのために整ととのえられた「武士道ぶしどう」は、説明せつめいされる前まえのものと同おなじではない。65 の表象ひょうしょうがここでも働はたらいていて、描えがくことが対象たいしょうを作つくりはじめる。
  • 文化ぶんか人類学じんるいがく的てきに見みれば、その慣行かんこうは内側うちがわの論理ろんりから理解りかいできる。 この語ごは評ひょう論文ろんぶんでは学問がくもん名めいとしてよりも視点してんの名前なまえとして現あらわれる。自分じぶんたちの当あたり前まえを一度いちど外はずして、内側うちがわの論理ろんりから理解りかいしようとする構かまえを指さす。この視点してんが 76 の文化ぶんか相対そうたい主義しゅぎを支ささえる方法ほうほうになっている。思想しそうとして掲かかげるだけなら誰だれでもできるが、住すみ込こんで記述きじゅつするのは方法ほうほうである。
  • △自国じこくの年中ねんじゅう行事ぎょうじを調しらべたので、文化ぶんか人類学じんるいがくの研究けんきゅうをした。 自国じこくの民間みんかん伝承でんしょうを対象たいしょうにするなら「民みん俗ぞく学がく」である。文化ぶんか人類学じんるいがくは他文化たぶんかを扱あつかう伝統でんとうから始はじまった。ただし現在げんざいは自じ文化ぶんかも対象たいしょうにするので、境目さかいめは薄うすれつつある。むしろ大切たいせつなのは方法ほうほうのほうで、内側うちがわの論理ろんりから記述きじゅつする構かまえを取とっているかどうかがこの語ごを名乗なのれるかどうかを決きめる。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

関せき 76 文化ぶんか相対そうたい主義しゅぎ

派生はせい形けい
  • 文化人類学的ぶんかじんるいがくてき[0]評ひょう論文ろんぶんでの実際じっさいの主役しゅやく。学問がくもんそのものではなく、その視点してんを借かりることを示しめす。「〜的てきに見みれば」の形かたちで、当あたり前まえを一度いちど外はずす合図あいずとして働はたらく。
  • 民族誌みんぞくしフィールドワークの成果せいかとして書かかれる記述きじゅつ。エスノグラフィー。書かく行為こういそのものが問題もんだいになるのがこの分野ぶんやの特徴とくちょうで、誰だれが誰だれについて書かく権利けんりを持もつのかという問といが84 へつながる。
  • 民俗学みんぞくがく[3]対象たいしょうが自国じこくである点てんで分わかれる。日本にほんでは柳田やなぎだ国男くにおが確立かくりつした。同音どうおんの「民族みんぞく学がく」とは別べつで、こちらはヨーロッパでの文化ぶんか人類学じんるいがくの呼よび名なにあたる。一いち字じ違ちがいで対象たいしょうが自じか他ほかかに分わかれるので、書かき取とりでも問とわれる。
コロケーション
  • フィールドワーク住すみ込こんで見みる現地げんちに住すみ、その言語げんごを学まなび、生活せいかつを共ともにして調しらべる方法ほうほう。時間じかんをかけることが方法ほうほうの中身なかみである。短期たんきの観察かんさつでは、見みえたものを自分じぶんの枠わくで解釈かいしゃくしてしまう。長ながく居いると、自分じぶんの枠わくが壊こわれる時間じかんが確保かくほされる。方法ほうほうとしての滞在期間たいざいきかんは、そのまま自じ文化ぶんかを外はずす作業さぎょうの時間じかんでもある。
  • 自じ文化ぶんかへの跳はね返かえり他ほかを見みて自じを知しる他文化たぶんかを研究けんきゅうすることで、自じ文化ぶんかの特殊とくしゅ性せいが見みえてくる。比くらべる相手あいてができてはじめて、自分じぶんの輪郭りんかくが現あらわれる — 1-3 の 68 で見みた差異さいの構造こうぞうがここでも働はたらいている。日本にほん論ろん・日本人にほんじん論ろんの多おおくはこの構図こうずを借かりているが、借かりるだけで比較ひかくを経へていないものも多おおい。
  • 参与さんよ観察かんさつ中なかにいながら見みる参加さんかしつつ観察かんさつするという矛盾むじゅんを抱かかえた方法ほうほうの名な。完全かんぜんに参加さんかすれば見みる位置いちを失うしない、完全かんぜんに観察かんさつすれば内側うちがわの論理ろんりに届とどかない。この二ふたつの間あいだで揺ゆれ続つづけることが方法ほうほうになっている点てんで、1-3 の 71 で見みた両義性りょうぎせいを職業しょくぎょうとして引ひき受うけた形かたちだと言いえる。
  • 未開みかい社会しゃかいの研究けんきゅう出発点しゅっぱつてんの負債ふさいこの学問がくもんは植民地しょくみんち支配しはいと同おなじ時期じきに同おなじ場所ばしょで育そだった。調査ちょうさができたのは、そこへ入いれる力ちからを本国ほんごくが持もっていたからでもある。76 を支ささえる方法ほうほうが、75 の産物さんぶつの上うえに建たっていた — この負債ふさいの自覚じかくが、84 のオリエンタリズム批判ひはん以降いこうのこの学問がくもんの主題しゅだいになっている。
格かく硬かた・学術がくじゅつ

論文ろんぶん・評ひょう論ろんでのみ使つかう。会話かいわでは不自然ふしぜん。

類るい語ごと差さ
  • 民族みんぞく学がく諸しょ民族みんぞくの文化ぶんかを記述きじゅつするヨーロッパでの呼よび名な。文化ぶんか人類学じんるいがくはアメリカ系けいの呼称こしょうで、内容ないようはほぼ重かさなる。
  • 民みん俗ぞく学がく自国じこくの民間みんかん伝承でんしょうを研究けんきゅうする対象たいしょうが自国じこく。文化ぶんか人類学じんるいがくは他文化たぶんかを扱あつかう伝統でんとうから始はじまった。
  • 社会学しゃかいがく近代きんだい社会しゃかいの構造こうぞうを研究けんきゅうする対象たいしょうが近代きんだい社会しゃかい。文化ぶんか人類学じんるいがくは非ひ西洋せいよう社会しゃかいの研究けんきゅうから出発しゅっぱつした。
  • フィールドワーク現地げんちに住すみ込こんで調しらべる方法ほうほうの名な。文化ぶんか人類学じんるいがくの中心ちゅうしん的てきな手続てつづき。

ENcultural anthropology
ZH文化人类学(文化人類学, wénhuà rénlèixué)

ヨーロッパと日本の対比個人主義と集団主義など、ヨーロッパと日本を七つの軸で対比した図。 ヨーロッパ 日本 個人主義集団主義 個の論理場の論理 契約義理・人情 市民社会世間 罪の文化恥の文化 理知的感性的 人工自然 この表は説明であると同時に、一つの見方でもある
ヨーロッパと日本にほん ── 対比たいひという見方みかた
入試にゅうし文ぶん

「文化ぶんか人類学じんるいがく」による、これまでの、非ひ西洋せいよう社会しゃかいの豊富ほうふな研究けんきゅうの知見ちけんによれば、一見いっけんしたところ「非ひ合理的ごうりてき」あるいは「非ひ論理的ろんりてき」にしか見みえない「未開みかい社会しゃかい」の行為こういや慣習かんしゅうが、広ひろい社会的しゃかいてき・自然しぜん環境かんきょう的てきな背景はいけいのなかでは、きわめて高たかい「合理性ごうりせい」をもっていたりする。
つまり、そのような広ひろい背景はいけいのなかで、行為こういや慣習かんしゅうといった「現象げんしょう」を理解りかいしなければならない、ということがわかってきた。そのような視点してんを「文化ぶんか相対そうたい主義しゅぎ」(cultural relativism)的てきな見みかた、と呼よんでいる。
*エスノセントリックな見みかたを自戒じかいして、文化ぶんか相対そうたい主義しゅぎ的てきな見みかたで異い文化ぶんかを見みよう、というのがまず基本的きほんてきな姿勢しせいとして考かんがえられてきた。
\*エスノセントリック――自じ文化ぶんか中心ちゅうしん主義しゅぎ的てき。

出典しゅってん 住原則也すみはらのりやの文章ぶんしょう / 出題しゅつだい 甲南大学こうなんだいがく・文学ぶんがく部ぶ・経営けいえい学部がくぶ

読解どっかいのポイント
文化相対主義的な見かた
「未開社会」の行為や慣習
← 広い社会的・自然環境的な背景
→ きわめて高い合理性
要約ようやく

文化ぶんか人類学じんるいがくによって、未開みかい社会しゃかいの行為こういや慣習かんしゅうに合理性ごうりせいが発見はっけんされ、文化ぶんか相対そうたい主義しゅぎ的てきな見みかたで異い文化ぶんかを理解りかいしなければならない、ということがわかってきた。

語ご法ほうの観察かんさつ

他文化たぶんかの記述きじゅつを通つうじて自じ文化ぶんかを照てらし返かえす構成こうせい。他者たしゃについて語かたりながら、実じつは自分じぶんについて語かたっている。

Section 04

制度せいど

78

制度せいど

せいど[1]頭高あたまだか型がた

語ご構成こうせい
制せいさだめる・おさえる+度どのり・きまり
定義ていぎ

社会的しゃかいてき・文化ぶんか的てきに定さだめられている、仕組しくみや決きまり。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑78
原げん書しょの解説かいせつ

制度せいどと言いうと、議会ぎかい制度せいど・選挙せんきょ制度せいどなど、法律ほうりつによって定さだめられている仕組しくみをすぐに思おもい浮うかべる人ひともいるだろう。しかし評ひょう論文ろんぶんで登場とうじょうする「制度せいど」は、〈人間にんげんが暗黙あんもくのうちに従したがっているもの〉という意味いみで用もちいられることが多おおい。

右みぎの例れい文ぶんでも、複雑ふくざつな視覚しかく像ぞうから「山水さんすい」だけを採とり上あげる感覚かんかくを「文化ぶんかの制度せいど」としているが、これも明文化めいぶんかされた決きまりやルールではなく、暗黙あんもくのうちに人々ひとびとが自然しぜんに対たいしてとっている態度たいどのことを指さしている。

〈暗黙あんもくのうちに従したがっている〉ということは、〈根拠こんきょもなく縛しばられている〉という考かんがえにもつながりやすい。したがって評ひょう論文ろんぶんでは、制度せいどという語ごは、否定的ひていてきな意味いみ合あいで用もちいられやすいということも覚おぼえておこう。

たとえば

「恋愛れんあい」という概念がいねんは、〈恋愛れんあいして一人前いちにんまえ〉という主張しゅちょうや〈恋愛れんあい結婚けっこんこそが理想りそうの結婚けっこん〉という思おもい込こみを伴ともなう。この時とき、恋愛れんあいは制度せいどとして機能きのうしていることになる。

使用しようの境界きょうかい

社会的しゃかいてきに定さだめられ、共有きょうゆうされているしくみ。法ほうとして明文化めいぶんかされたものに限かぎらず、慣習かんしゅうも含ふくむ。

用法ようほう

評ひょう論文ろんぶんでは「自然しぜんに見みえているものが実じつは制度せいどである」という指摘してきの形かたちで使つかわれることが最もっとも多おおい。家族かぞく・結婚けっこん・言語げんご・貨幣かへい・国民こくみん──どれも人ひとがつくったものなのに、自然しぜん物ぶつのように感かんじられている。この転換てんかんが☑19 虚構きょこうと接続せつぞくし、「制度せいどの虚構きょこう性せい」という言いい方かたになる。また☑50 科学かがくの制度せいど化かのように、個人こじんの営いとなみが組織化そしきかされる過程かていを指さす動詞どうし形けいも重要じゅうよう。「制度せいど疲労ひろう」は、しくみが現実げんじつに合あわなくなった状態じょうたいを言いう定型ていけい句く。

用例ようれい
  • 人間にんげんは自由じゆうなものとして生うまれた。しかもいたるところで鎖くさりにつながれている。……この変化へんかはどのようにして起おこったのか。私わたしは知しらない。何なにがそれを正当せいとうなものにしうるのか。この問といになら、私わたしは答こたえられると思おもう。ジャン=ジャック・ルソー『社会しゃかい契約けいやく論ろん』第一だいいち編へん第一だいいち章しょう(1762)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    有名ゆうめいなのは前半ぜんはんの二に行ぎょうだが、この一節いっせつの値打ねうちは後半こうはんにある。ルソーは「どうしてこうなったか」を問とわない。知しらない、と言いい切きる。問とうのは「何なにがそれを正当せいとうにするのか」だけだ。ここに制度せいどという語ごの扱あつかい方ほうが示しめされている。制度せいどは、起源きげんをたどることでは片へんづかない。家族かぞくも結婚けっこんも貨幣かへいも国家こっかも、誰だれが最初さいしょに作つくったかは分わからない。それでもいま従したがっている以上いじょう、正当性せいとうせいを問とうことはできる。原げん書しょが「暗黙あんもくのうちに従したがっている」ことを「根拠こんきょもなく縛しばられている」と読よみ替かえやすいと注意ちゅういするのは、この二ふたつの問といが混まざるからである。起源きげんが無ないことは、正当性せいとうせいが無ないことではない。
  • 斉せいの景けい公こう、政せいを孔子こうしに問といふ。孔子こうし対たいへて曰いわくく、君きみ君きみたり、臣しん臣しんたり、父ちち父ちちたり、子子ししたり。『論語ろんご』顔淵がんえん篇へん
    君きみは君きみらしく、臣しんは臣しんらしく、父ちちは父ちちらしく、子こは子こらしく。これが政治せいじだと孔子こうしは答こたえた。一見いっけんすると当あたり前まえを言いっているだけに見みえる。だが「君きみは君きみである」と言いわずに「君きみは君きみらしくある」と言いっているところが要点ようてんだ。君きみであることは事実じじつだが、君きみらしくあることは果はたすべき役割やくわりである。つまりここで語かたられているのは血ち筋すじでも力ちからでもなく、それぞれの位置いちに結むすびついた振ふる舞まいの型かた — 制度せいどである。注意ちゅういしたいのは、この型かたが自然しぜんの秩序ちつじょのように語かたられていることだ。父ちちが父ちちらしくあるのは当あたり前まえに聞きこえる。制度せいどがもっともよく働はたらくのは、制度せいどと気きづかれていないときである。
  • 家族かぞくも結婚けっこんも言語げんごも貨幣かへいも、自然しぜんに見みえているが制度せいどである。 評ひょう論文ろんぶんでもっとも多おおい型かたである。「自然しぜんに見みえているものが実じつは制度せいどだ」という指摘してき。人ひとがつくったものなのに、自然しぜん物ぶつのように感かんじられている。この転換てんかんが 1-3 の 19 の虚構きょこうと接続せつぞくし、「制度せいどの虚構きょこう性せい」という言いい方かたになる。注意ちゅういしたいのは、虚構きょこうだからといって力ちからが無ないわけではないことだ。共有きょうゆうされている虚構きょこうは、現実げんじつとして働はたらく。
  • ×選挙せんきょの仕組しくみだけが制度せいどであり、慣習かんしゅうは制度せいどではない。 評ひょう論文ろんぶんの「制度せいど」は明文化めいぶんかされたものに限かぎらない。原げん書しょが挙あげる「山水さんすいだけを採とり上あげる感覚かんかく」も文化ぶんかの制度せいどである。暗黙あんもくのうちに従したがっているものまで含ふくむことが要点ようてんで、ここが日常にちじょう語ごとの最大さいだいの差さになる。議会ぎかい制度せいど・選挙せんきょ制度せいどだけを思おもい浮うかべていると、文章ぶんしょうが何なにを批判ひはんしているのかが読よめなくなる。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

関せき 19 虚構きょこう/50 科学かがくの制度せいど化か/83 規範きはん

派生はせい形けい
  • 制度的せいどてき[0]形容けいようの形かたち。「制度せいど的てきな暴力ぼうりょく」「制度せいど的てき差別さべつ」のように、個人こじんの悪意あくいではなく仕組しくみに由来ゆらいすることを示しめす。1-1 の 21 の疎そ外がいと同おなじで、責任せきにんを個人こじんから配置はいちへ移うつす働はたらきをする。
  • 制度化せいどか[0]「化か」が過程かていを指さす。科学かがくの制度せいど化か、福祉ふくしの制度せいど化か、差別さべつの制度せいど化かと、対象たいしょうを選えらばず使つかえる。良よし悪あしは語ごではなく対象たいしょうが決きめる。
  • 社会制度しゃかいせいど[3]法ほうや政治せいじに限かぎらず、社会しゃかいに共有きょうゆうされた仕組しくみ全般ぜんぱん。家族かぞくも言語げんごも貨幣かへいも含ふくむ広こうさがあり、この広こうさが評ひょう論文ろんぶんでの使つかいどころになる。
コロケーション
  • 制度せいど化か個人こじんから組織そしきへ個人こじんの営いとなみが組織的そしきてきな仕組しくみに組くみ込こまれる過程かてい。1-2 の 50 で見みた科学かがくの制度せいど化かがその例れいである。「化か」が過程かていを指さすので、いつ、何なんによってを問とえる。制度せいど化かされた途端とたんに、その営いとなみは自分じぶんの目的もくてきだけでは動うごかせなくなる — 支ささえる側がわの要請ようせいが入はいり込こむからだ。
  • 制度せいどの虚構きょこう性せい作つくられたものだと示しめす自然しぜんに見みえているものがある時代じだいの人間にんげんが線せんを引ひいてこしらえたものだと指摘してきする言いい方かた。1-3 の 19 の虚構きょこうと直結ちょっけつする。注意ちゅういしたいのは、この指摘してきが制度せいどの廃止はいしを意味いみしないことだ。作つくられたものだと分わかれば、作つくり直なおせる。批判ひはんの目的もくてきは解体かいたいではなく、変かえられるものとして扱あつかえるようにすることである。
  • 制度せいど疲労ひろう合あわなくなった状態じょうたいしくみが現実げんじつに合あわなくなった状態じょうたいを言いう定型ていけい句く。疲労ひろうという比喩ひゆが効きいている — 壊こわれたのでも間違まちがっていたのでもなく、長ながく使つかわれた結果けっかとしてゆるんだ、という含ふくみになる。誰だれの責任せきにんでもないように聞きこえるぶん、この語ごは改革かいかくを語かたりやすくする。1-1 の 5 で見みた「秩序ちつじょが乱みだれる」と同おなじ、主語しゅごを消けす言いい方かたの一種いっしゅである。
  • 制度せいどと規範きはん仕組しくみか基準きじゅんか規範きはんは基準きじゅんそのもの、制度せいどはそれを支ささえる仕組しくみと担にない手て。「老人ろうじんを敬うやまえ」は規範きはん、敬老けいろうの日ひと年金ねんきんと介護保険かいごほけんは制度せいどである。規範きはんだけでは人ひとは動うごかず、制度せいどだけでは意味いみが失うしなわれる — 83 と対たいにして読よむと、社会しゃかいが何なにで成なり立たっているかの見取みとり図ずが立たつ。
格かく中なか

書かき言葉ことば・会話かいわの両方りょうほうで使つかえる。

類るい語ごと差さ
  • 規範きはんこうあるべきという基準きじゅん当為とういを示しめすだけ。制度せいどは運用うんようの仕組しくみと担にない手てを伴ともなう。
  • 慣習かんしゅう繰くり返かえされてきたやり方かた明文化めいぶんかされない。制度せいどは慣習かんしゅうを含ふくみうるが、より組織的そしきてき。
  • 法ほう国家こっかが定さだめた強制きょうせい的てきな規則きそく制度せいどの一いち形態けいたい。制度せいどはより広ひろく、家族かぞくや言語げんごも含ふくむ。
  • システム要素ようそが組くみ合あわさった仕組しくみ機械的きかいてき・機能的きのうてきな語ご。制度せいどは社会的しゃかいてきな合意ごういを前提ぜんていとする。

ENinstitution
ZH制度(制度, zhìdù)

自然に見えるものが制度である自然物のように感じられている家族・言語・貨幣・国民が、実は人がつくった制度であることを示した図。 自然に見えている 家族言語貨幣国民 問い直す 人がつくった制度である 虚構性を暴く つくり直せる 自然物なら変えられないが、制度なら変えられる
自然しぜんに見みえるものが、実じつは制度せいどである
入試にゅうし文ぶん

たとえば東ひがしアジア一帯いったいで広ひろく風景ふうけいと同義どうぎに使つかわれる「山水さんすい」を例れいにとろう。風景ふうけいは山やまや水みずだけで構成こうせいされるわけではない。森もりも野のも畑はたけも見みえるだろう。家いえもあるし道みちもある。複雑ふくざつな視覚しかく像ぞうのなかから、なぜ山やまと水みずだけが採とられるのだろう。この二に要素ようそだけが他ほかを排はいして抜ぬきんでる必然性ひつぜんせいはあるのだろうか。
眼前がんぜんの視覚しかく世界せかいの混沌こんとんからこの二ふたつを採とり上あげ双対そうつい的てきに分節ぶんせつするのは、永えいい文化ぶんか史しのなかで定さだめられた一ひとつの恣意的しいてきな制度せいどではないだろうか。私わたしたちはこのような文化ぶんかの眼鏡めがねをかけて風景ふうけいを眺ながめている。つまり山水さんすいとは特定とくていの文化圏ぶんかけんで定さだめられた文化ぶんかの制度せいどであって自然しぜん現象げんしょうを指さすのではない。
山水さんすいという風景ふうけい制度せいどは山やま↔水みずという双対そうつい構図こうずを成なすことにあらためて注意ちゅういしたい。東ひがしアジア以外いがいの文化圏ぶんかけんの人々ひとびととて視覚しかく現象げんしょう(見分みわけ)として山やまや水みずが見みえないはずはない。しかし、風景ふうけいの印象いんしょう全体ぜんたいが山やまと水みずの双対そうつい感覚かんかくにより代表だいひょうされることはない。

出典しゅってん 中村なかむら良夫よしお『風景ふうけい学がく・実践じっせん篇へん』 / 出題しゅつだい 上智大学じょうちだいがく・文学ぶんがく部ぶ

読解どっかいのポイント
複雑な視覚像のなかから、山と水だけを採ること
= 恣意的な制度
= 文化の眼鏡をかけて風景を眺めている
→ 山水は文化的な制度
要約ようやく

東ひがしアジア文化圏ぶんかけんの人々ひとびとが、複雑ふくざつな視覚しかく像ぞうのなかから山水さんすいだけを採とり上あげるのは、文化ぶんか的てきな制度せいどである。

語ご法ほうの観察かんさつ

「〜にすぎない」という限定げんてい表現ひょうげんが、自然しぜんに見みえていたものを人為じんいへ引ひき下おろす働はたらきをしている。

Section 05

世間せけん

79

世間せけん⚠

せけん[1]頭高あたまだか型がた

語ご構成こうせい
世よよ・時代じだい+間あいだあいだ
定義ていぎ

個人こじんよりも集団しゅうだんを優先ゆうせんさせる、日本にほんに特有とくゆうな人間にんげん関係かんけいのあり方かた。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑79
原げん書しょの解説かいせつ

日本にほんの特徴的とくちょうてきな人間にんげん関係かんけいを指さす世間せけんという言葉ことばは、欧米おうべいの「個人こじん―社会しゃかい」と対比たいひされて論ろんじられることが多おおい。

「世間せけん論ろん」を精せい力りょく的てきに研究けんきゅうしている歴史れきし学者がくしゃの阿部あべ謹也きんやによれば、世間せけんは、日本人にほんじんが属ぞくする人間にんげん関係かんけいそのものであり、自分じぶんたちの暗黙あんもくの掟おきてを破やぶる者ものに対たいして、陰口かげぐちを言いう・交こう際さいを絶たつ・無視むしするなど、容赦ようしゃのない制裁せいさいを加くわえるという。

地域ちいき・学校がっこう・会社かいしゃで起おこる村八分むらはちぶ的てきなイジメ、凶悪きょうあく犯罪者はんざいしゃの家族かぞくへの度どを過すぎた非難ひなん、インターネット上うえでの匿名とくめい性せいを盾たてにとった個人こじん攻撃こうげきなどはみな、世間せけんが加くわえる制裁せいさいの典型的てんけいてきな例れいだ。ゆえに、世間せけんの中なかで生いきる日本人にほんじんは、世間せけんから仲間なかまはずれにされることを極きょく度どに恐おそれる。

世間せけんの一員いちいんとして自分じぶんがどう振ふる舞まうべきかを優先ゆうせんする日本人にほんじんは、発言はつげんをする際さいにも、世間せけんを意識いしきした建前たてまえによって本音ほんねを隠かくしてしまう。このように日本にほんの世間せけんは、個人こじんに対たいして抑圧よくあつ的てきに働はたらき、見みえない権力けんりょくとして作用さようする。

たとえば

日本人にほんじんが会議かいぎを行おこなう場合ばあい、個人こじんの意見いけん(本音ほんね)よりも先さきに、会社かいしゃという世間せけんのバランスを崩くずさないことが優先ゆうせんされる。そのため、儀礼的ぎれいてき・形式的けいしきてきに、建前たてまえが述のべられることが多おおい。

使用しようの境界きょうかい

自分じぶんが関かかわる人々ひとびとの圏けん。顔かおの見みえる範囲はんいに限かぎられ、そこに属ぞくさない他人たにんは含ふくまない。

用法ようほう

日本にほん論ろんの中心ちゅうしん語ごである。要点ようてんは「社会しゃかい」との対比たいひにあり、社会しゃかいが誰だれにでも同おなじ規則きそくの及およぶ抽象的ちゅうしょうてきな広ひろがりであるのに対たいし、世間せけんは顔かおの見みえる範囲はんいにしか及およばない。だから世間せけんの外そとの他人たにんには配慮はいりょが働はたらかず、「旅たびの恥はじはかき捨すて」という言いい方かたが成なり立たつ。「世間体せけんてい」「世間せけん並なみ」は、その圏けん内ないでの評価ひょうかを気きにする言葉ことば。ルース・ベネディクトの「恥はじの文化ぶんか/罪つみの文化ぶんか」の対たいと結むすびつけて論ろんじられることが多おおい。

用例ようれい
  • 真しんの恥はじの文化ぶんかは、外面的がいめんてきな強制力きょうせいりょくに基もとづいて善行ぜんこうを行ぎょうなう。真しんの罪つみの文化ぶんかは、内面ないめん的てきな罪つみの自覚じかくに基もとづいて善行ぜんこうを行ぎょうなう。ルース・ベネディクト『菊きくと刀かたな』第だい十章じっしょう(1946)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    日本にほん論ろんの枠組わくぐみを決きめた対たいである。注意ちゅういしたいのは、ベネディクトが「恥はじの文化ぶんかは劣おとっている」とは書かいていないことだ。善行ぜんこうを行ぎょうなうという結果けっかは同おなじで、違ちがうのはそれを支ささえる力ちからがどこにあるかである。外そとにあるか、内ないにあるか。ここが世間せけんという語ごの中心ちゅうしんに触ふれている。世間せけんは外そとにある目めでありながら、内面化ないめんかされて自分じぶんの判断はんだんになっている。見みられていないところでも世間体せけんていを気きにするなら、その目めはもう外そとにはない。1-1 の 36・37 で見みた自律じりつと他律たりつの境目さかいめが、ここで曖昧あいまいになる。なお『菊きくと刀かたな』自体じたいは来日らいにちせずに書かかれており、84 のオリエンタリズムの例れいとしてもしばしば俎上そじょうに載のる。
  • 天道てんとう言げんはずして国土こくどに恵めぐみ深ふかし。人ひとは実じつあって偽いつわり多たし。井原いはら西鶴さいかく『日本にほん永代えいたい蔵ぞう』巻かん一いち・冒頭ぼうとう(1688)
    天てんは何なにも言いわないのに恵めぐみは深ふかく、人ひとは誠実せいじつさを持もちながら偽いつわりも多おおい、という。「実じつあって偽いつわり多たし」の一句いっくが的確てきかくである。偽いつわり「だけ」ではない。誠実せいじつさと偽いつわりが同おなじ人ひとのなかに同居どうきょしていると言いっている。ここに世間せけんという場ばの性格せいかくが現あらわれる。世間せけんで生いきる者ものは嘘うそつきなのではない。世間せけんの一員いちいんとして自分じぶんがどう振ふる舞まうべきかを優先ゆうせんするために、本音ほんねが建前たてまえの下したに隠かくれるのだ。西鶴さいかくが描えがいた町人ちょうにんたちは、まさにその建前たてまえと本音ほんねを器用きように使つかい分わけながら金かねを稼かせいでいく。世間せけんを非難ひなんする語彙ごいではなく、世間せけんを生いき抜ぬく技術ぎじゅつとして書かかれている点てんが、この作品さくひんの面白おもしろさである。
  • 社会しゃかいが誰だれにでも同おなじ規則きそくの及およぶ広ひろがりであるのに対たいし、世間せけんは顔かおの見みえる範囲はんいにしか及およばない。 読解どっかいの中心ちゅうしんになる対比たいひである。及およぶ範囲はんいが違ちがう。だから世間せけんの外そとの他人たにんには配慮はいりょが働はたらかず、「旅たびの恥はじはかき捨すて」という言いい方かたが成なり立たつ。同おなじ人ひとが、世間せけんの内ないでは細こまやかに、外そとでは無関心むかんしんになる — これは人格じんかくの矛盾むじゅんではなく、圏けんの構造こうぞうから出でてくる帰結きけつである。
  • △法ほうの下したの平等びょうどうは、日本にほんの世間せけんの基本きほん原則げんそくである。 誰だれにでも同おなじ規則きそくが及およぶという考かんがえは「社会しゃかい」の側がわに属ぞくする。世間せけんは関係かんけいのある範囲はんいにしか及およばない圏けんで、普遍的ふへんてきな原則げんそくとはなじまない。「知しらない人ひとにも同おなじように及およぶか」を問とえばよい — 及およぶなら社会しゃかい、及およばないなら世間せけんである。この二に語ごを混まぜると、日本にほん論ろんの議論ぎろんがまるごと読よめなくなる。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

関せき 73 文化ぶんか

派生はせい形けい
  • 世間体せけんてい[0]外そとから見みた自分じぶんのかたち。「体裁ていさい」の「体からだ」と同おなじで、中身なかみではなく見みえ方かたを指さす。中身なかみがどうであれ世間体せけんていが保たもたれればよい、という構かまえを可能かのうにする語ごでもある。
  • 世間並みせけんなみ[0]圏けん内ないの平均へいきんに合あわせること。上うえでも下したでもないことが安全あんぜんである、という価値かち観かんがこの一語いちごに畳たたみ込こまれている。突出とっしゅつも脱落だつらくも等ひとしく危あやういという感覚かんかくは、世間せけんという圏けんの性質せいしつから出でてくる。
  • 世間知らずせけんしらず[4]批判ひはん語ごである点てんに注目ちゅうもくしたい。世間せけんの掟おきてを知しらないことが欠陥けっかんとして扱あつかわれる。「社会しゃかいを知しらない」とはあまり言いわない — 知しるべきものとして立たっているのは、規則きそくの体系たいけいではなく人間にんげん関係かんけいの側がわだからである。
コロケーション
  • 世間体せけんてい圏けん内ないでの評価ひょうか世間せけんから見みた自分じぶんの見みえ方かた。「体からだ」は外そとから見みえるかたちである。注目ちゅうもくしたいのは、世間体せけんていを気きにする相手あいては特定とくていの誰だれかではないことだ。顔かおの見みえる範囲はんいでありながら、名前なまえは挙あげられない。この輪郭りんかくのなさが、世間せけんを反論はんろんできない相手あいてにしている — 誰だれが言いっているのかが分わからなければ、誰だれに反論はんろんすればいいのかも分わからない。
  • 世間せけんの制裁せいさい見みえない権力けんりょく陰口かげぐち、交こう際さいの停止ていし、無視むし。法ほうにも規則きそくにもよらない罰ばつである。原げん書しょが挙あげるとおり、村八分むらはちぶ的てきないじめ、犯罪者はんざいしゃの家族かぞくへの非難ひなん、ネット上うえの個人こじん攻撃こうげきがその現代げんだいの形かたちにあたる。1-1 の 11 で見みた権力けんりょくの定義ていぎ — 納得なっとくや承認しょうにんを必要ひつようとしない力ちから — がここでは制度せいどの外側そとがわで働はたらいている。
  • 世間せけんから外はずれる最大さいだいの恐おそれ世間せけんの中なかで生いきる者ものにとって、仲間なかまはずれにされることが最もっとも重おもい罰ばつになる。1-1 の 21 で見みた疎そ外がいの①の意味いみが、ここでは社会しゃかい構造こうぞうとして現あらわれる。注意ちゅういしたいのは、外はずれた先さきに「社会しゃかい」が用意よういされていないことだ。世間せけんの外そとは、別べつの圏けんではなく無風むふう地帯ちたいである。だからこそ恐おそれが強つよく働はたらく。
  • 世間せけんと社会しゃかい訳語やくごがずれた場所ばしょsociety の訳語やくごとして「社会しゃかい」が作つくられたとき、日本にほんにはすでに世間せけんがあった。新あたらしい語ごは入はいってきたが、語ごが指さすはずの実体じったいは入はいってこなかった。この空白くうはくが日本にほん論ろんの主題しゅだいになり続つづけている。1-3 の 62 で見みた記号きごうの恣意性しいせいが、ここでは翻訳ほんやくの問題もんだいとして現あらわれる — 語ごを輸入ゆにゅうしても、切きり出だす範囲はんいまでは輸入ゆにゅうできない。
格かく中なか

書かき言葉ことば・会話かいわの両方りょうほうで使つかえる。

類るい語ごと差さ
  • 社会しゃかい個人こじんが契約けいやくで結むすぶ広ひろがり西洋せいよう語ご society の訳やく。誰だれにでも同おなじ規則きそくが及およぶ。世間せけんは関係かんけいのある範囲はんいにしか及およばない。
  • 世よの中なか人ひとの暮くらす場ば一般いっぱん中立ちゅうりつで広ひろい。世間せけんは評価ひょうかのまなざしを含ふくむ。
  • 共同体きょうどうたい生活せいかつを共ともにする集団しゅうだん実体じったいとしての集あつまり。世間せけんは輪郭りんかくの定さだまらない圏けん。
  • 人ひと目め他人たにんからの視線しせん視線しせんそのもの。世間せけんはその視線しせんが働はたらく場ば全体ぜんたいを指さす。

ENseken / one's social world
ZH世间(世の中, shìjiān)

日中にっちゅうのズレ

中国語ちゅうごくごの 世间(shìjiān)は「この世よ・世よの中なか」の意いで、仏教ぶっきょう語ごの色いろ合あいも残のこる。

日本語にほんごの「世間せけん」がもつ顔かおの見みえる範囲はんいという含ふくみは中国語ちゅうごくごにはなく、社会学しゃかいがくの議論ぎろんでは日本語にほんごのまま用もちいられることが多おおい。

社会と世間誰にでも規則が及ぶ社会と、顔の見える範囲にしか及ばない世間の広がりの違いを示した図。 社会 誰にでも同じ規則が及ぶ 顔を知らない相手も含まれる 世間 顔の見える範囲にしか及ばない 外側の他人には配慮が働かない 「旅の恥はかき捨て」が成り立つ理由がここにある
社会しゃかいと世間せけん ── 及およぶ範囲はんいが違ちがう
入試にゅうし文ぶん

我わが国くににおいては個人こじんは長ながい間あいだ西欧せいおう的てきな個人こじんである前まえに自分じぶんが属ぞくする人間にんげん関係かんけいである「世間せけん」の一員いちいんであった。したがって何なにらかの会合かいごうにおいて発言はつげんする際さいには個人こじんとしての自分じぶんの意見いけんを述のべる前まえにまず自分じぶんが属ぞくする「世間せけん」の利害りがいに反はんしないことを確認かくにんしなければならない。
まず「世間せけん」人ひととして発言はつげんしなければならなかったのである。自分自身じぶんじしんの意見いけんは本音ほんねとして「世間せけん」の陰かげに隠かくれていた。「世間せけん」を代表だいひょうする発言はつげんはこうして個人こじんにとっては建前たてまえとなり、本音ほんねと区別くべつされたのである。
こうして「世間せけん」と個人こじんの関係かんけいの中なかで我わが国くににおける建前たてまえと本音ほんねの区別くべつが生うまれたのである。

出典しゅってん 阿部あべ謹也きんや『「教養きょうよう」とは何なにか』 / 出題しゅつだい 国士舘大学こくしかんだいがく・政せい経学けいがく部ぶなど

読解どっかいのポイント
西欧
個人として発言
↕︎
日本
「世間」人として発言
↓
本音と建前の区別
要約ようやく

西欧せいおうでは個人こじんは個人こじんとして発言はつげんするが、日本にほんでは世間せけんの一員いちいんとして本音ほんねと建前たてまえを区別くべつしなければならない。

語ご法ほうの観察かんさつ

日本語にほんごの語ごをそのまま概念がいねんとして立たてる。訳語やくごを当あてないこと自体じたいが、対応たいおうする概念がいねんがないという主張しゅちょうになっている。

Section 06

神話しんわ

80

神話しんわ

しんわ[0]平板へいばん型がた

語ご構成こうせい
神かみかみ+話はなしはなし
定義ていぎ

① 神かみにまつわる物語ものがたり。 ② 1が転てんじて、根拠こんきょもないのに絶対的ぜったいてきなものと信しんじられている事柄ことがら。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑80
原げん書しょの解説かいせつ

神話しんわとは、神かみにまつわる話はなしを中心ちゅうしんにして、万物ばんぶつの起源きげんや自然しぜん現象げんしょうを説明せつめいした物語ものがたりのことであり、固有こゆうの地域ちいき・民族みんぞくはそれぞれに固有こゆうの神話しんわをもっている。したがって、一見いっけんデタラメに見みえる神話しんわにも、特定とくていの地域ちいきに住すむ古代人こだいじんの物ものの見方みかたや考かんがえ方かたが反映はんえいされていると考かんがえることもできる。

神々かみがみの行動こうどうを説明せつめい原理げんりとする神話しんわ的てきな世界観せかいかんは、科学かがくの発展はってんによって徐々じょじょに退しりぞけられていく。たとえば、神話しんわ的てき世界観せかいかんでは森羅万象しんらばんしょうは神々かみがみの作品さくひんだが、ギリシア時代じだいの哲学者てつがくしゃは万物ばんぶつの説明せつめい原理げんりを水みずや火ひなどの物質ぶっしつに求もとめた。これは、人類じんるいが神話しんわ的てきな世界せかいから抜ぬけ出だし、合理的ごうりてきな世界観せかいかんへと一歩いっぽ近ちかづいたことを意味いみしている。

なお、評ひょう論文ろんぶんでは、「根拠こんきょもないのに信しんじられている虚構きょこう」という文脈ぶんみゃくで「神話しんわ」が使つかわれることも多おおい(「安全あんぜん神話しんわ」「土地とち神話しんわ」など)。このような文脈ぶんみゃくで出でてくる神話しんわは、否定的ひていてきな評価ひょうかを示しめす語ごとして用もちいられる。

たとえば

学歴がくれきがあれば将来しょうらい安泰あんたいに暮くらせると信しんじることを、「学歴がくれき神話しんわ」と言いう。本来ほんらい、学歴がくれきと実力じつりょくとが常つねに一致いっちするとは限かぎらないのに、「学歴がくれきがあれば実力じつりょくもあるから、会社かいしゃでも出世しゅっせできる」と信しんじられてきた。しかし、近年きんねんは実力じつりょく本ほん位いの競争きょうそう社会しゃかいになり、このような学歴がくれき神話しんわも崩壊ほうかいし始はじめている。

使用しようの境界きょうかい

集団しゅうだんの由来ゆらいや秩序ちつじょを説明せつめいする物語ものがたり。転てんじて、根拠こんきょが問とわれないまま信しんじられている前提ぜんていを指さす。

用法ようほう

二ふたつの層そうがある。①宗教学しゅうきょうがく・人類学じんるいがくの始はじまりを語かたる物語ものがたり(天地てんち創造そうぞう、建国けんこく神話しんわ)。②評ひょう論文ろんぶんで頻出ひんしゅつする根拠こんきょが問とわれないまま信しんじられている前提ぜんてい(安全あんぜん神話しんわ、成長せいちょう神話しんわ、右みぎ肩かた上あがりの神話しんわ)。②では必かならず批判的ひはんてきで、「神話しんわが崩くずれた」「神話しんわを解体かいたいする」という形かたちで現あらわれる。②の用法ようほうは、①が持もっていた〈疑うたがわれないまま共有きょうゆうされる〉という性質せいしつを借かりている。バルトが日常にちじょうの記号きごう作用さようを「現代げんだいの神話しんわ」と呼よんだのがこの用法ようほうの源泉げんせんにある。

用例ようれい
  • 天地てんち初はじめて発はつけし時とき、高天原たかまがはらに成なりませる神かみの名なは、天之御中主神あめのみなかぬしのかみ。次つぎに高御産巣日神たかみむすひのかみ。次つぎに神産巣日神かみむすひのかみ。この三さん柱はしらの神かみは、みな独神ひとりがみ成なりまして、身みを隠かくしたまひき。『古事記こじき』上巻じょうかん・冒頭ぼうとう(712)
    ①の意味いみでの神話しんわ、すなわち万物ばんぶつの起源きげんを説明せつめいする物語ものがたりの書かき出だしである。注目ちゅうもくしたいのは、最初さいしょの三さん柱はしらが「身みを隠かくしたまひき」で退場たいじょうすることだ。世界せかいを始はじめた神かみが、始はじめた直後ちょくごにいなくなる。ここに神話しんわの作つくり方かたが見みえる — 起源きげんには、それ以上いじょうさかのぼれない一点いってんが要いる。姿すがたを持もたない神かみは、問とわれようがない。「その神かみはどこから来きたのか」と聞きき返かえす相手あいてがいないからだ。どんな説明せつめいも、どこかで問といを止とめなければ完成かんせいしない。②の意味いみでの神話しんわ — 根拠こんきょが問とわれないまま信しんじられている前提ぜんてい — がこの構造こうぞうをそっくり借かりていることが、ここから分わかる。
  • 子こ、怪力かいりき乱神らんしんを語かたらず。『論語ろんご』述而じゅつじ篇へん
    孔子こうしは、怪かい異い・暴力ぼうりょく・乱倫らんりん・鬼神おにがみについて語かたらなかった、という。たった七字しちじだが、神話しんわ的てきな世界観せかいかんから一歩いっぽを踏ふみ出だす身振みぶりがここにある。注目ちゅうもくしたいのは、孔子こうしが「神かみはいない」とは言いっていないことだ。否定ひていしていない。語かたらないだけである。これは 1-2 の 45 で見みたニュートンの「われ仮説かせつをつくらず」と同おなじ構かまえだ。確たしかめようのないことについては黙だまる。原げん書しょが「ギリシアの哲学者てつがくしゃは万物ばんぶつの説明せつめい原理げんりを水みずや火ひなどの物質ぶっしつに求もとめた」と書かき、それを合理的ごうりてきな世界観せかいかんへの一歩いっぽと評ひょうするのと、この一句いっくは同おなじ場所ばしょに立たっている。神話しんわを捨すてたのではなく、説明せつめいの道具どうぐから外はずしたのである。
  • 安全あんぜん神話しんわが崩くずれた、成長せいちょう神話しんわを解体かいたいする — いずれも②の用法ようほうである。 根拠こんきょが問とわれないまま信しんじられている前提ぜんていを指さす。この用法ようほうでは必かならず批判的ひはんてきで、「神話しんわが崩くずれた」「神話しんわを解体かいたいする」という形かたちで現あらわれる。要点ようてんは、②が①の持もっていた〈疑うたがわれないまま共有きょうゆうされる〉という性質せいしつを借かりていることだ。安全あんぜん神話しんわは物語ものがたりではないが、問とわれないという一点いってんで神話しんわと同おなじ働はたらきをしている。
  • ×根拠こんきょのない噂うわさが広ひろまったので、それは神話しんわである。 噂うわさは「デマ」「流りゅう言げん」である。神話しんわは集団しゅうだんに共有きょうゆうされ、疑うたがわれないまま前提ぜんていとして働はたらいているものを指さす。「疑うたがわれているか」を問とえばよい — 疑うたがわれていれば噂うわさ、疑うたがうという発想はっそうすら起おきなければ神話しんわである。1-1 の 14 の自明じめい性せいと、ほとんど同おなじ場所ばしょにある。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

関せき 19 虚構きょこう

派生はせい形けい
  • 神話的しんわてき[0]二ふたつの用法ようほうをまたぐ。「神話しんわ的てき世界観せかいかん」なら①、「神話しんわ的てきな思おもい込こみ」なら②。文脈ぶんみゃくで決きまるが、②のほうが批判ひはんの色いろが濃こい。
  • 神話化しんわか[0]「化か」が過程かていを指さす。ある人物じんぶつや出来事できごとが、検証けんしょうを受うけつけない存在そんざいへ移うつること。死しんだ人物じんぶつが神話しんわ化かされやすいのは、本人ほんにんが反論はんろんできないからである。
  • 建国神話けんこくしんわ[3]集団しゅうだんの起源きげんを語かたる物語ものがたり。事実じじつかどうかではなく、共有きょうゆうされているかどうかが働はたらきを決きめる。1-3 の 19 で見みた虚構きょこうと同おなじで、共有きょうゆうされた時点じてんで現実げんじつとして作用さようしはじめる。
コロケーション
  • 安全あんぜん神話しんわ②の代表だいひょう事故じこが起おこるまで、誰だれも検証けんしょうしようと思おもわなかった前提ぜんてい。この語ごが強つよいのは、信しんじていた側がわの無む自覚じかくまで名指なざすからだ。「安全あんぜんだと嘘うそをつかれた」なら騙だまされた側がわは被害者ひがいしゃだが、「安全あんぜん神話しんわがあった」と言いえば信しんじていたこと自体じたいが問とわれる。責任せきにんの配分はいぶんがこの一語いちごで変かわる。
  • 神話しんわを解体かいたいする批判ひはんの身振みぶり前提ぜんていを引ひきずり出だして検証けんしょうにかけること。1-3 の 19 で見みた「虚構きょこう性せいを暴あばく」と同おなじ構かまえである。注意ちゅういしたいのは、解体かいたいしたあとに何なにを置おくかが書かかれているかどうかだ。書かかれていない批判ひはんは、神話しんわを壊こわしただけで別べつの神話しんわを招まねき入いれることがある。
  • 建国けんこく神話しんわ①の政治的せいじてきな形かたち集団しゅうだんの由来ゆらいを語かたる物語ものがたり。ここでは①と②が重かさなる。物語ものがたりであると同時どうじに、疑うたがわれないまま共有きょうゆうされる前提ぜんていでもあるからだ。集団しゅうだんの輪郭りんかくは、共有きょうゆうされた起源きげんの物語ものがたりによって引ひかれる — 85 のエスニシティ、国民こくみん国家こっかの成なり立たちと直接ちょくせつつながる場所ばしょである。
  • 現代げんだいの神話しんわ記号きごう論ろんからの用法ようほう日常にちじょうの広告こうこくや商品しょうひんが、それと気きづかれないままある価値かち観かんを自然しぜんなものとして流通りゅうつうさせる働はたらきを指さす。バルトの用法ようほうである。1-3 の 62・63 で見みた記号きごうとコードが、ここで社会しゃかい批判ひはんの道具どうぐになる。神話しんわは、もはや物語ものがたりの形かたちをとらなくても成立せいりつするということでもある。
格かく中なか

書かき言葉ことば・会話かいわの両方りょうほうで使つかえる。

類るい語ごと差さ
  • 伝でん説せつ土地とちや人物じんぶつにまつわる言いい伝つたえ起源きげんを説明せつめいしない。神話しんわは世界せかいや集団しゅうだんの始はじまりを語かたる。
  • 昔話むかしばなし語かたり継つがれた作つくり話ばなし娯楽ごらく・教訓きょうくん。神話しんわは真実しんじつとして受うけ取とられてきた点てんが違ちがう。
  • イデオロギー行動こうどうを根底こんていで制限せいげんする信念しんねん政治的せいじてき。神話しんわは物語ものがたりの形かたちをとる点てんが違ちがうが、機能きのうは重かさなる。
  • 虚構きょこう事実じじつに基もとづかない組くみ立たて☑19。神話しんわは共有きょうゆうされ、真実しんじつとして機能きのうしている虚構きょこうだと言いえる。

ENmyth
ZH神话(神話, shénhuà)

神話の二つの層始まりを語る物語としての神話と、根拠が問われないまま信じられている前提としての神話を並べた図。 ① 始まりを語る物語 天地創造・建国神話 集団の由来を語り、秩序を正当化する ② 疑われない前提 安全神話・成長神話 根拠が問われないまま信じられている 共通するのは、疑われないまま共有されるという性質 評論文で「神話が崩れた」「神話を解体する」と出たら、②の用法である。 共有された虚構が、真実として働いている状態
神話しんわの二ふたつの層そう
入試にゅうし文ぶん

ヨーロッパ中世ちゅうせいの文学ぶんがくやルネッサンスの文学ぶんがくを、自然科学しぜんかがく的てきな真実しんじつ点検てんけんの眼めでみたら、いかにも荒唐無稽こうとうむけいであろう。しかし、特とくに民衆みんしゅうの生活せいかつとの深ふかい交まじわりの中なかに息いきづいていたそれらの文学ぶんがくでは、民衆みんしゅうの観念かんねんの世界せかいでの解放かいほうという願ねがいに沿そって、現実げんじつは解体かいたいされ、再構成さいこうせいされている。
ヨーロッパ文学ぶんがくもまた、神話しんわや伝承でんしょうの中なかにその重要じゅうような源みなもとを発はっしているが、神話しんわや伝承でんしょうとは、まさしく、現実げんじつに発はっしながら、現実げんじつを超こえる想像そうぞう空間くうかんとして、そこに、人々ひとびとの喜よろこびや悲かなしみを封ふうじ込こめる遊あそびの場ばに他ほかならなかったのではないか。
*カイヨワもいうように、遊あそびとは、現実げんじつと一線いっせんを画がした虚きょの空間くうかん、それも円環えんかんの中なかでの、生命せいめいの充足じゅうそくだとすれば、厳きびしい社会しゃかい秩序ちつじょの中なかにおいてこそ、逆ぎゃくに、遊あそびが明確めいかくに自己じこを輪郭りんかくづけることが可能かのうになったのかもしれない。強固きょうこな外そと枠わくによってためられているからこそ、より純粋じゅんすいに想像力そうぞうりょくによる遊あそびの空間くうかんは、燦然さんぜんと輝かがやき、活かつき活かつきとした想像力そうぞうりょくが羽はばたき、壮麗そうれいな夢想むそうを結晶けっしょうさせることが可能かのうになったのではあるまいか。
\*カイヨワ――フランスの社会学しゃかいがく者しゃ。

出典しゅってん 清水孝純しみずたかずみ『西洋せいよう文学ぶんがくへの招待しょうたい』 / 出題しゅつだい 大阪経済大学おおさかけいざいだいがく・経済学部けいざいがくぶ

読解どっかいのポイント
神話や伝承
= 現実に発しながら、現実を超える想像空間としての遊びの場
↓
ヨーロッパ中世の文学・ルネッサンスの文学
= 民衆の観念の世界での解放という願いに沿って、現実は解体され、再構成されている
要約ようやく

厳きびしい社会しゃかい秩序ちつじょの中なかでこそ、活かつき活かつきとした想像力そうぞうりょくを羽はばたかせる遊あそびが可能かのうになる。その意味いみで、ヨーロッパの文学ぶんがくの起源きげんとなっている神話しんわや伝承でんしょうとは、現実げんじつに発はっしながら現実げんじつを超こえる想像そうぞう空間くうかんとして、人々ひとびとの喜よろこびや悲かなしみを封ふうじ込こめる遊あそびの場ばであったのではないか。

語ご法ほうの観察かんさつ

古代こだいの事例じれいと現代げんだいの事例じれいを並置へいちする。時代じだいを隔へだてた二ふたつを同おなじ語ごで呼よぶことで、構造こうぞうの同一性どういつせいを示しめしている。

Section 07

アニミズム

81

アニミズム

アニミズム[3]中高なかだか型がた

定義ていぎ

自然しぜんのあらゆるものに宗教的しゅうきょうてきな力ちからのはたらきを認みとめ、崇拝すうはいすること。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑81
原げん書しょの解説かいせつ

アニミズムは目めに見みえない霊魂れいこんの力ちからを信しんじ、自然しぜん現象げんしょうをそのはたらきによって説明せつめいしようとする考かんがえ方かたのことである。キリスト教きょうやユダヤ教きょうなどのように、唯一ゆいいつ絶対ぜったいの神かみを信仰しんこうの対象たいしょうとするのではなく、自然しぜん全体ぜんたいに対たいして深ふかい信仰心しんこうしんをもっていることが特徴とくちょうである。

日本にほんにおいても、神かみは自然しぜんや動植物どうしょくぶつ・家いえ・カマドなど、森羅万象しんらばんしょうに宿やどると信しんじられたため、自然しぜんを深ふかく尊重そんちょうする精神せいしんが長ながい間あいだ受うけ継つがれてきた。しかし、現代げんだいの合理主義ごうりしゅぎによって、アニミズム思想しそうは非合理ひごうりなものとして退しりぞけられていく。それに並行へいこうして、自然しぜんは畏敬いけいの念ねんを払はらうものではなく、人間にんげんの道具どうぐとしてみなされるようになっていった。

コラム

宗教しゅうきょうの発生はっせいは、地域ちいきの風土ふうどと密接みっせつに結むすびついている。

たとえば、〈八百万やおよろずの神かみ〉というように、古来こらいの日本人にほんじんがあらゆる自然しぜんの事物じぶつに対たいして神かみの存在そんざいを認みとめていたのは、日本にほんの豊ゆたかな自然しぜんや温おん和わな気候きこうが大おおきく影響えいきょうしていると指摘してきする論ろん者しゃもいる。

反対はんたいに、イスラム教きょうは砂漠さばくという荒野こうやで生うまれた宗教しゅうきょうだ。荒野こうやで暮くらす人々ひとびとにとっては、自然しぜんは恩恵おんけいよりも災さいいをもたらすものとして受うけ止とめられた。そうした厳きびしい風土ふうどの地域ちいきで民族みんぞくが生いき残のこるためには、唯一ゆいいつ絶対ぜったいの神かみによる厳きびしい戒律かいりつが必要ひつようとされたのである。

使用しようの境界きょうかい

自然しぜん物ぶつや自然しぜん現象げんしょうにも霊魂れいこんが宿やどるとする信仰しんこう。無む生物せいぶつにまで及およぶ点てんが要点ようてん。

用法ようほう

評ひょう論文ろんぶんでは、近代的きんだいてき自然しぜん観かんへの対抗たいこうとして持もち出だされる。機械論きかいろんが自然しぜんを物質ぶっしつと見みたのに対たいし、アニミズムは石いしにも木きにも霊れいを認みとめる。「山やまに入はいるときは山やまの神かみに断ことわる」「道具どうぐに魂たましいが宿やどる」といった感覚かんかくがその名残なごりとされ、日本にほん文化ぶんか論ろんでは自然しぜんとの共生きょうせいを説とく文脈ぶんみゃくで肯定的こうていてきに評価ひょうかされることが多おおい。ただし、近代きんだい以前いぜんの劣おとった信仰しんこうとみなす見方みかた(進化しんか主義しゅぎ的てきな宗教しゅうきょう観かん)も歴史的れきしてきにはあり、これ自体じたいが☑75 自じ文化ぶんか中心ちゅうしん主義しゅぎの産物さんぶつだと批判ひはんされる。

用例ようれい
  • 迦微かびとは、古典こてんに見みえたる天地てんちの諸しょの神かみたちを始はじめて、其そのを祀まつれる社しゃに坐ます御霊みたまをも申さるし、又人またひとはさらにも云いず、鳥獣ちょうじゅう木き草くさのたぐひ海山うみやまなど、其その余よ何なんにまれ、尋常じんじょうならずすぐれたる徳とくのありて、可畏かしこき物ものを迦微かびとは云いなり。本居もとおり宣長のりなが『古事記こじき伝でん』三之巻さんのまき(1790)
    日本語にほんごの「神かみ」の定義ていぎとして、いまも引ひかれ続つづけている一節いっせつである。鳥とりも獣けものも木きも草くさも、海うみも山やまも神かみになりうる。注目ちゅうもくしたいのは条件じょうけんの書かき方かただ。善よいものとも、大おおきいものとも書かいていない。「尋常じんじょうならずすぐれたる徳とくのありて、可畏かしこき物もの」 — 並外なみはずれていて、畏いれを起おこさせるもの。だから恐おそろしいものも神かみになる。ここが一神教いっしんきょうの神かみとはっきり違ちがう。唯一ゆいいつ絶対ぜったいの神かみを立たてるかわりに、畏いれの起おきるところに神かみを認みとめる。数かずは限かぎられず、優劣ゆうれつも定さだまらない。原げん書しょのいう〈自然しぜん全体ぜんたいに対たいする深ふかい信仰心しんこうしん〉が、この定義ていぎの広こうさから出でてくる。
  • 私わたしは、霊れい的てき存在そんざいへの信仰しんこうという最小限さいしょうげんの定義ていぎを、アニミズムと呼よぶことを提案ていあんする。……アニミズムは、宗教しゅうきょうの哲学てつがくの基礎きそをなしている。エドワード・タイラー『原始げんし文化ぶんか』(1871)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    73 で文化ぶんかの定義ていぎを引ひいたのと同おなじ書物しょもつである。一冊いっさつが、この章しょうの二ふたつの語ごに名なを与あたえた。注目ちゅうもくしたいのは「最小限さいしょうげんの」という限定げんていだ。タイラーはこれを、あらゆる宗教しゅうきょうに共通きょうつうする最もっとも単純たんじゅんな形かたちとして置おいた。つまりアニミズムは宗教しゅうきょうの一種いっしゅ類るいではなく、宗教しゅうきょうの出発点しゅっぱつてんだという位置いちづけである。ここに、この語ごがのちに批判ひはんされる理由りゆうも入はいっている。出発点しゅっぱつてんだということは、そこから進すすむべき先さきがあるということだ。進化しんかの階段かいだんの一番いちばん下したに置おかれたアニミズムは、近代きんだい以前いぜんの劣おとった信仰しんこうとみなされていく。75 の自じ文化ぶんか中心ちゅうしん主義しゅぎの産物さんぶつだという批判ひはんは、この階段かいだんそのものに向むけられている。
  • 山やまに入はいるときは山やまの神かみに断ことわる、道具どうぐに魂たましいが宿やどる — こうした感覚かんかくがアニミズムの名残なごりとされる。 評ひょう論文ろんぶんでは近代的きんだいてき自然しぜん観かんへの対抗たいこうとして持もち出だされる。1-2 の 42 の機械論きかいろんが自然しぜんを物質ぶっしつと見みたのに対たいし、アニミズムは石いしにも木きにも霊れいを認みとめる。日本にほん文化ぶんか論ろんでは、自然しぜんとの共生きょうせいを説とく文脈ぶんみゃくで肯定的こうていてきに評価ひょうかされることが多おおい。ただしその評価ひょうかもまた、西洋せいようとの対比たいひという枠わくの中なかで行おこなわれている点てんに注意ちゅういしたい。
  • ×主人公しゅじんこうは猫ねこを人間にんげんのように描えがいた。これはアニミズムである。 人ひとでないものを人ひとのように扱あつかう表現ひょうげんの技法ぎほうは「擬人化ぎじんか」である。アニミズムは実際じっさいにそう信しんじている点てんが違ちがう。「技法ぎほうか、信仰しんこうか」を問とえば分わかれる。書かき手てが効果こうかのためにそうしているなら擬人化ぎじんか、その社会しゃかいが本当ほんとうに霊れいの働はたらきを認みとめているならアニミズムである。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

反はん 42 機械論きかいろん

コロケーション
  • 自然しぜんとの共生きょうせい肯定的こうていてきな評価ひょうか日本にほん文化ぶんか論ろんでこの語ごが持もち出だされるときの定型ていけい。近代きんだいが失うしなったものとして語かたられる。注意ちゅういしたいのは、この評価ひょうかもまた西洋せいようとの対比たいひの中なかで行おこなわれていることだ。西洋せいようを機械論きかいろん、日本にほんをアニミズムと配置はいちする構図こうずは、84 のオリエンタリズムが批判ひはんした「東洋とうようは自然しぜんと調和ちょうわ的てき」という像ぞうと同おなじ形かたちをしている。褒ほめ言葉ことばであっても、像ぞうは像ぞうである。
  • 八百万やおよろずの神かみ数かずを限かぎらない数かぞえ切きれないほど多おおくの神かみ。「八百万やおよろず」は具体的ぐたいてきな数かずではなく数かぞえ切きれなさの表現ひょうげんである。数かずを限かぎらないということは、序列じょれつも限かぎらないということでもある。一神教いっしんきょうが唯一ゆいいつ性せいから絶対ぜったい性せいを導みちびくのに対たいし、この構かまえは絶対ぜったいを立たてない。1-1 の 25・26 で見みた絶対ぜったいと相対そうたいの対たいが、ここでは信仰しんこうの形かたちとして現あらわれている。
  • 霊魂れいこんの遍在へんざい定義ていぎの中身なかみあらゆるものに霊れいが宿やどるという考かんがえ。無む生物せいぶつにまで及およぶ点てんが要点ようてんである。「多神教たしんきょう」は神かみの数かずの話はなし、「汎神論はんしんろん」は世界せかいそのものが神かみだとする哲学てつがくの立場たちば、アニミズムは個々ここの物ものに霊れいを認みとめる信仰しんこうの形かたち。数かず・全体ぜんたい・個々ここという三みっつの軸じくで仕分しわけると混同こんどうしない。
  • 近代きんだいがアニミズムを退しりぞけた章しょうをつなぐ線せん合理主義ごうりしゅぎが非合理ひごうりなものとして排除はいじょした。それに並行へいこうして、自然しぜんは畏敬いけいの対象たいしょうから人間にんげんの道具どうぐになった。1-1 の 13 の非合理ひごうり、1-2 の 42 の機械論きかいろん的てき自然しぜん観かんと一本いっぽんの線せんでつながる。信仰しんこうの変化へんかと自然しぜん観かんの変化へんかが同おなじ一ひとつの出来事できごとだったという見方みかたが、この章しょうの骨ほねのひとつになっている。
格かく硬かた

書かき言葉ことば。会話かいわでは不自然ふしぜん。

類るい語ごと差さ
  • 汎神論はんしんろん世界せかいそのものが神かみであるとする哲学てつがくの立場たちば。アニミズムは信仰しんこうの形態けいたいで、個々ここの物ものに霊れいを認みとめる。
  • 多神教たしんきょう複数ふくすうの神かみを認みとめる神かみの数かずの話はなし。アニミズムは霊魂れいこんの遍在へんざいを言いう。
  • 擬人化ぎじんか人ひとでないものを人ひとのように扱あつかう表現ひょうげんの技法ぎほう。アニミズムは実際じっさいにそう信しんじている点てんが違ちがう。
  • 機械論きかいろん自然しぜんを部品ぶひんの集あつまりとみなす☑42。正面しょうめんから対立たいりつする自然しぜん観かん。近代きんだいがアニミズムを退しりぞけた。

ENanimism
ZH泛灵论(アニミズム, fànlínglùn)

入試にゅうし文ぶん

アニミズムの思想しそうを、日本人にほんじんは心こころのどこかに、今いまも失うしなわないでいる。自然しぜんのなかのその霊れい的てきなものを、自分じぶんの作つくり出だした作品さくひんにも宿やどすことが、日本にほんの芸術げいじゅつ家かたちの願ねがいとなる。形かたちを作つくり出だすということは、あらゆる芸術げいじゅつ家かたちの願ねがいであるが、日本にほんの芸術げいじゅつ家かたちはその先さきを考かんがえる。造型ぞうけいは第一だいいちの目標もくひょうでなく、その先さきに生命せいめいを究極きゅうきょくの目標もくひょうとして考かんがえている。
芭蕉ばしょうは「ものの見みえたる光ひかり、いまだ心こころに消きえざる中なかに言げんひとむべし」と言いう。目標もくひょうは「かたち」でなく、「ひかり」であり、「いのち」である。
目標もくひょうの果はてに「かたち」でなく、「いのち」を置おいているからこそ、日本にほん(あるいは東洋とうよう)では、西洋せいようでは考かんがえられないようなものが、芸術げいじゅつの仲間なかま入はいりをする。茶ちゃの湯ゆとか、生花せいかとか、陶とう器きとか、庭にわとか、書しょとか。このような芸術げいじゅつの目標もくひょうを「かたち」に置おいたら、それらは堕落だらくする。つねに「かたち」の果はてに「いのち」を思おもい描えがくことが肝要かんようである。
一瞬いっしゅんの生命せいめいの高揚こうようが遂とげられれば、あとの「かたち」を止とめなくても足あしれりとする覚悟かくごが、日本にほんの芸術げいじゅつ家かにはあった。

出典しゅってん 山本やまもと健吉けんきち「いのち」と「かたち」 / 出題しゅつだい 中央ちゅうおう大学だいがく・経済学部けいざいがくぶ

読解どっかいのポイント
日本の芸術家にとってのアニミズムの思想
自然のなかの霊的なものを、作品にも宿すこと
= 生命を究極の目標と考える
→ つねに「かたち」の果てに「いのち」を思い描くこと
要約ようやく

日本にほんの芸術げいじゅつ家かたちが、造型ぞうけい=「かたち」ではなく生命せいめい=「いのち」を目標もくひょうとするところに、アニミズムの思想しそうが日本人にほんじんの心こころに今いまも失うしなわれていないことを見みることができる。

語ご法ほうの観察かんさつ

「〜という感覚かんかく」「〜という思おもい」と主観しゅかんの語ごを重かさねる。論証ろんしょうではなく、感覚かんかくの記述きじゅつとして提示ていじする型かた。

アニミズム・多神教・汎神論・一神教を、聖なるものの在りかで並べた図個々の物に霊が宿るアニミズム、複数の神を立てる多神教、世界そのものを神とする汎神論、唯一の神を立てる一神教を、聖なるものがどこに、いくつあるかで対比する。 聖なるものは、どこに、いくつあるかアニミズム個々の物に宿る数は限らない多神教数えられる神が複数名と役割を持つ汎神論世界そのもの全体が神である個々には分かれない一神教唯一で、世界の外にある比べる相手を持たない数・全体・個々 ── 三つの軸で仕分けると混同しない近代の機械論は、この図の全部を退けた
聖せいなるものの在ありかと数かず
Section 08

ドグマ/規範きはん

82

ドグマ

ドグマ[1]頭高あたまだか型がた

定義ていぎ

① 宗教しゅうきょう上じょうの教義きょうぎ・教理きょうり。 ② 十分じゅうぶんな根拠こんきょをもたない独断どくだん的てきな説せつ。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑82
原げん書しょの解説かいせつ

本来ほんらいドグマとは、キリスト教きょうにおいて、神かみから示しめされた真理しんりとして権威けんいのあるものを意味いみした。ところが近代きんだいに入はいると、そうした教義きょうぎは、神かみの教おしえを絶対ぜったい化かし、批判ひはんや検討けんとうを受うけ入いれないものと受うけ止とめられるようになった。

現在げんざいでは、偏見へんけんにとらわれ、柔軟性じゅうなんせいを欠かく独断どくだんという批判的ひはんてきなニュアンスで用もちいられる場合ばあいが多おおい。また、一ひとつの教おしえや信念しんねんだけを正ただしいものと考かんがえ、他ほかの主張しゅちょうを排除はいじょする態度たいどをドグマティック(教きょう条じょう主義しゅぎ的てき)と言いう。

コラム

アダムとイブが禁断きんだんの木きの実じつを食たべて以来いらい、人間にんげんは原罪げんざいを負おっている、とするのはキリスト教きょうの教義きょうぎ(ドグマ)の一ひとつだが、中世ちゅうせいの神学しんがくではこうした教義きょうぎについて、学問的がくもんてきにも正当化せいとうかしようと試こころみられた。しかし、近代きんだい哲学てつがくは、このような神学しんがくの考かんがえをドグマティズム(教義きょうぎに固執こしつする態度たいど)だとして批判ひはんした。

また、近代きんだいの世俗化せぞくかの流ながれに抵抗ていこうし、聖書せいしょの言葉ことばに誤あやまりはないとして、進化論しんかろんなどの科学的かがくてき認識にんしきを認みとめようとしない「キリスト教きょう原理げんり主義しゅぎ」が生うまれた。イスラム教きょうでも、イスラム教きょうの教義きょうぎの原げん点てんに戻もどろうとする「イスラム原理げんり主義しゅぎ」の動うごきが活発化かっぱつかしている。

現在げんざい、世界せかいで起おこっている紛争ふんそうには、こうした宗教的しゅうきょうてき要素ようそが関係かんけいしていることも多おおい。解決かいけつのためには、それぞれの宗教しゅうきょう・教義きょうぎについて正ただしく理解りかいすることが大切たいせつである。

使用しようの境界きょうかい

疑うたがうことを許ゆるさない教義きょうぎ。内容ないようの当否とうひではなく、疑うたがえないという構かまえを指さす。

用法ようほう

「独断どくだん」と訳やくされる。要点ようてんは検証けんしょうを受うけつけないという点てんにあり、内容ないようが正ただしいか誤あやまっているかは関係かんけいがない。だから科学的かがくてきな主張しゅちょうでもドグマになりうる。「ドグマティック(独断どくだん的てき)」は、根拠こんきょを示しめさずに断定だんていする態度たいどへの批判ひはん語ご。☑47 科学かがく主義しゅぎが「宗教しゅうきょうと変かわらない」と評ひょうされるのは、まさにこの構かまえを共有きょうゆうするからである。評ひょう論文ろんぶんでは、思想しそうが硬直こうちょくして他ほかを排除はいじょする過程かていを述のべる箇所かしょに現あらわれる。

用例ようれい
  • 人間にんげんの知性ちせいは、いったんある意見いけんを受うけ入いれると、他ほかのすべてをそれに引ひき寄よせて支持しじさせる。反対はんたいの事例じれいがどれほど多おおく、どれほど重おもくとも、それらを無視むしするか、軽かろんじるか、区別くべつを設もうけて退しりぞけるのである。フランシス・ベーコン『ノヴム・オルガヌム』第一だいいち巻かん・イドラ論ろん(1620)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    ドグマがどう作つくられるかを、内側うちがわから描えがいた一節いっせつである。注目ちゅうもくしたいのは、ベーコンが悪意あくいを想定そうていしていないことだ。嘘うそをついているのでも、都合つごうの悪わるい事実じじつを隠かくしているのでもない。知性ちせいがそう働はたらくと言いっている。いったん受うけ入いれた意見いけんは、合あう事例じれいを引ひき寄よせ、合あわない事例じれいを遠とおざける。だから当人とうにんには、証拠しょうこがどんどん増ふえていくように見みえる。ここがドグマの厄介やっかいさである。内容ないようが正ただしいか誤あやまっているかは関係かんけいがない。検証けんしょうを受うけつけないという構かまえのほうが問題もんだいなので、正ただしい主張しゅちょうでもドグマになりうる。1-2 の 47 で科学かがく主義しゅぎが「宗教しゅうきょうと変かわらない」と評ひょうされるのは、この構かまえを共有きょうゆうするからだ。
  • 子こ、四よんを絶たつ。意いなく、必ひつなく、固かたなく、我われなし。『論語ろんご』子罕しかん篇へん
    孔子こうしは四よっつを断ことわった、という。勝手かってな憶測おくそく(意い)、無理むり押おし(必ひつ)、固執こしつ(固かた)、我われを張はること(我われ)。このうち三さん番目ばんめの「固かた」がドグマにあたる。注目ちゅうもくしたいのは、四よっつが一続ひとつづきになっていることだ。憶測おくそくから始はじまり、それを無理むりに押おし通とおし、固かたまって、最後さいごに自分じぶんと一体いったいになる。ドグマは信念しんねんの性質せいしつではなく、信念しんねんが辿たどる道みちすじの終点しゅうてんだと言いっている。そして終点しゅうてんまで来くると、それを疑うたがうことが自分じぶんを疑うたがうことになる — だから疑うたがえなくなる。1-3 の 69 で見みた同一化どういつかが、ここでは信念しんねんに対たいして起おきている。
  • 検証けんしょうを受うけつけないという点てんで、科学的かがくてきな主張しゅちょうもドグマになりうる。 この語ごの要点ようてんである。内容ないようが科学的かがくてきかどうかは関係かんけいがない。疑うたがうことを許ゆるさない構かまえを取とった時点じてんで、主張しゅちょうはドグマになる。1-2 の 46 で見みた反証はんしょう可能性かのうせいがここで効きいてくる — 誤あやまりを示しめす道みちが閉とじられているかどうかが判定はんていの基準きじゅんになる。
  • △彼かれは誰だれにも相談そうだんせず一人ひとりで決きめた。ドグマ的てきだ。 一人ひとりで決きめてしまう手続てつづきの問題もんだいは「独断どくだん」である。ドグマは共有きょうゆうされ、疑うたがうことが許ゆるされていない点てんが違ちがう。訳語やくごが「独断どくだん」であるために混まざりやすいが、独断どくだんは一人ひとり、ドグマは集団しゅうだんの話はなしだ。「ドグマティック」なら態度たいどへの批判ひはんとして通とおる。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

関せき 20 イデオロギー

派生はせい形けい
  • 独断どくだん[0]訳語やくごだが、日本語にほんごでは「一人ひとりで決きめる」の意いが強つよいため、ドグマの「共有きょうゆうされている」という側面そくめんが落おちる。訳語やくごがずれた例れいとして押おさえておきたい。
  • ドグマティック形容詞けいようし形けい。一ひとつの教おしえだけを正ただしいとし、他ほかを排除はいじょする態度たいどを指さす。「教きょう条じょう主義しゅぎ的てき」という訳語やくごもあり、こちらのほうが政治せいじの文脈ぶんみゃくで使つかわれる。
  • 教条主義きょうじょうしゅぎ「主義しゅぎ」が付ついて立場たちばの名なになる。原理げんりを現実げんじつに当あてはめるとき、現実げんじつのほうを切きり捨すてるやり方かたを批判ひはんする語ご。1-2 の 43 の要素ようそ還元かんげん主義しゅぎ、47 の科学かがく主義しゅぎと同おなじで、方法ほうほうや信念しんねんが唯一ゆいいつの道みちへ格かく上あげされたときに生しょうじる。
コロケーション
  • ドグマティック態度たいどへの批判ひはん根拠こんきょを示しめさずに断定だんていする態度たいどを咎とがめる語ご。「教きょう条じょう主義しゅぎ的てき」とも訳やくす。注意ちゅういしたいのは、この批判ひはんが内容ないように触ふれずに済すむことだ。相手あいての主張しゅちょうが正ただしくても「ドグマティックだ」とは言いえる。それゆえ便利べんりであり、それゆえ乱用らんようされやすい。
  • 教義きょうぎと独断どくだん同おなじ語ごの二ふたつの顔かお本来ほんらいはキリスト教きょうで、神かみから示しめされた真理しんりとして権威けんいのあるものを指さした。近代きんだいに入はいり、批判ひはんや検討けんとうを受うけ入いれないものと受うけ止とめられて批判ひはん語ごに転てんじた。語ごの意味いみが変かわったのではなく、同おなじ性質せいしつに対たいする評価ひょうかが変かわったのである。疑うたがえないことは、かつては保証ほしょうであり、いまでは欠陥けっかんになった。
  • ドグマに陥おちいる出口でぐちの喪失そうしつ「陥おちいる」が示しめすとおり、抜ぬけ出だせない状態じょうたいとして語かたられる。1-1 の 15 で見みた「懐疑かいぎに陥おちいる」と正反対せいはんたいの場所ばしょにありながら、どちらも出口でぐちが無ない点てんで同おなじである。疑うたがいきることも、疑うたがわないことも、固かたまれば行いき止どまりになる。
  • ドグマとイデオロギー固定こていか規定きていかドグマは内容ないようの固定こていに重心じゅうしん、イデオロギーは集団しゅうだんの行動こうどうを規定きていする働はたらきに重心じゅうしん。1-1 の 20 と対たいにして読よみたい。ドグマは「これは疑うたがえない」と言いい、イデオロギーは「これは当あたり前まえだ」と言いいさえしない。宣言せんげんするか、しないかの差さで、後者こうしゃのほうが見みつけにくい。
格かく硬かた

書かき言葉ことば。会話かいわでは不自然ふしぜん。

類るい語ごと差さ
  • 教義きょうぎ宗教しゅうきょうが定さだめた教おしえ中立ちゅうりつの語ご。ドグマは疑うたがいを封ふうじるという批判的ひはんてきな含ふくみを持もつ。
  • イデオロギー行動こうどうを根底こんていで制限せいげんする信念しんねん☑20。集団しゅうだんの行動こうどうを規定きていする働はたらきに重心じゅうしん。ドグマは内容ないようの固定こていに重心じゅうしん。
  • 独断どくだん一人ひとりで決きめてしまうこと訳語やくご。手続てつづきの問題もんだいを指さす。ドグマは共有きょうゆうされている点てんが違ちがう。
  • 信条しんじょう個人こじんが信しんじて守まもる原則げんそく内面ないめん。ドグマは外そとから与あたえられ、疑うたがうことが許ゆるされない。

ENdogma
ZH教条(教条, jiàotiáo)

83

規範きはん

きはん[0]平板へいばん型がた

語ご構成こうせい
規きのり・コンパス+範はんかた・てほん
定義ていぎ

行動こうどうや判断はんだんの基準きじゅんとなる、手て本ほんやルール。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑83
原げん書しょの解説かいせつ

人間にんげんが社会しゃかい生活せいかつを営えいむ時とき、何なにらかのマナーや規則きそくが必要ひつようになり、「老人ろうじんを敬うやまいなさい」といった命令めいれいや、「道みちにゴミを捨すててはいけない」といった禁止きんしの形式けいしきをとる。

これらを規範きはんと言いい、地域ちいき独特どくとくのしきたりや習俗しゅうぞく、宗教的しゅうきょうてきなタブー(禁忌きんき)、あるいは道徳どうとく・倫理りんりが含ふくまれる。さらに、それらが公的こうてきに制度せいど化かされると、〈法律ほうりつ〉となって社会しゃかいに定着ていちゃくする場合ばあいもある。

たとえば

結婚けっこんについて。お見み合あいや婚約こんやくの仕方しかたには伝統的でんとうてきなしきたりがあり、晴はれの結婚けっこん式しきにも、神前しんぜん・仏前ぶつぜん・キリスト教きょう式しきによってさまざまに異ことなる約束事やくそくごとがある。さらに結婚けっこんをする際さいには、「婚姻届書こんいんとどけしょの提出ていしゅつ」という法律ほうりつがある。

これらの一ひとつ一ひとつが結婚けっこんに関かんする規範きはんであり、これらを総合そうごうすると〈婚姻こんいん制度せいど〉となる。

使用しようの境界きょうかい

こうすべきだという行動こうどうの基準きじゅん。従したがうかどうかは別べつで、基準きじゅんとして共有きょうゆうされていることが要件ようけん。

用法ようほう

要点ようてんは「そうである」と「そうすべきである」の区別くべつにある。事実じじつの記述きじゅつに対たいして、規範きはんは当為とういを示しめす。評ひょう論文ろんぶんでは「規範きはんが内面化ないめんかされる」という言いい方かたが重要じゅうようで、外そとから与あたえられた基準きじゅんがいつのまにか自分じぶんの判断はんだんになっている状態じょうたいを指さす。これが☑37 他律たりつと☑36 自律じりつの境目さかいめを曖昧あいまいにする。また規範きはんは文化ぶんかごとに異ことなるため、☑76 文化ぶんか相対そうたい主義しゅぎの議論ぎろんに直結ちょっけつする。「規範きはん的てき」は、あるべき姿すがたを論ろんじる立場たちばを指さす学がく術語じゅつごで、批判ひはん語ごではない。

用例ようれい
  • これまで出会であってきたどの道徳どうとくの体系たいけいにおいても、著者ちょしゃはしばらく通常つうじょうの推論すいろんを進すすめたのち、突然とつぜん、「である」「でない」という通常つうじょうの結むすびつきのかわりに、「べきである」「べきでない」でつながれた命題めいだいに出会であうことに気きづいて驚おどろいた。……この新あたらしい関係かんけいが、まったく異ことなるものからどのように演繹えんえきされうるのか、理由りゆうが示しめされるべきである。デイヴィッド・ヒューム『人間にんげん本性ほんしょう論ろん』第だい三さん巻かん(1739)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    事実じじつと当為とういの断絶だんぜつを最初さいしょに指摘してきした一節いっせつである。「人ひとはこうしている」からは、「人ひとはこうすべきだ」は出でてこない。文ぶんの途中とちゅうで「である」が「べきである」にすり替かわっていることに、ヒュームは驚おどろいてみせた。驚おどろいてみせた、というところが大事だいじだ。当あたり前まえに通とおり過すぎていた継つぎ目めを、立たち止どまって見みた。1-1 の 14・15 で見みた自明じめい性せいへの驚おどろきから懐疑かいぎが始はじまるというあの構図こうずが、ここで実演じつえんされている。そして規範きはんという語ごは、この「べきである」の側がわにだけ属ぞくする。記述きじゅつではなく、要請ようせいである。
  • 七なな十じゅうにして心こころの欲よくする所しょに従じゅうへども、矩のりを踰こえず。『論語ろんご』為い政せい篇へん
    七なな十じゅうになって、思おもうままに動うごいてなお枠わくを出でなくなったという。「矩のり」は大工だいくの使つかう直角ちょっかく定規じょうぎで、転てんじて規範きはんを指さす。注目ちゅうもくしたいのは、孔子こうしが「矩のりを守まもれるようになった」とは言いっていないことだ。守まもるには、守まもろうとする意志いしが要いる。つまり規範きはんがまだ外そとにある。「欲よくする所しょに従じゅうへども踰こえず」は、規範きはんが欲望よくぼうと一致いっちしてしまった状態じょうたいである。これが評ひょう論文ろんぶんでいう規範きはんの内面化ないめんかにほかならない。そして、ここで難むずかしい問といが立たつ — この孔子こうしは自律じりつしているのか、他律たりつしているのか。外そとから与あたえられた基準きじゅんがいつのまにか自分じぶんの判断はんだんになっているとき、1-1 の 36 と 37 の境目さかいめは消きえてしまう。
  • 「老人ろうじんを敬うやまいなさい」という命令めいれいや「ゴミを捨すててはいけない」という禁止きんしが、規範きはんの形かたちをとる。 原げん書しょの説明せつめいどおり、規範きはんは命令めいれいと禁止きんしという二ふたつの形かたちで現あらわれる。地域ちいきのしきたり、宗教的しゅうきょうてきなタブー、道徳どうとくや倫理りんりを含ふくみ、公的こうてきに制度せいど化かされれば法律ほうりつになる。要点ようてんは「そうである」と「そうすべきである」の区別くべつで、規範きはんは必かならず後者こうしゃの側がわに立たつ。事実じじつの記述きじゅつにどれだけ説得力せっとくりょくがあっても、そこから当為とういは出でてこない。
  • ×統計とうけいによれば九きゅう割わりがそうしているので、それが規範きはんである。 多数たすうがそうしているという事実じじつから、そうすべきだという基準きじゅんは出でてこない。ヒュームの指摘してきした継つぎ目めがここにある。九きゅう割わりの行動こうどうは「慣習かんしゅう」であって、規範きはんと呼よべるのはそれが「そうすべきだ」として共有きょうゆうされているときだけだ。「従じゅうわない者ものが責せめられるか」を問とうと分わかりやすい。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

関せき 78 制度せいど/63 コード

派生はせい形けい
  • 規範的きはんてき[0]「記述きじゅつ的てき」と対たいになる学術がくじゅつ語ご。あるべき姿すがたを論ろんじる立場たちばを指さし、批判ひはんの含ふくみは無ない。「規範きはん的てき経済学けいざいがく」「規範きはん的てき倫理学りんりがく」のように、分野ぶんや名めいの一部いちぶにもなる。
  • 規範性きはんせい[0]性質せいしつとして取とり出だす形かたち。「そうすべきだ」と人ひとに迫せまる力ちからを指さす。「この主張しゅちょうは規範きはん性せいを帯おびている」と言いえば、記述きじゅつのふりをして要請ようせいしている、という指摘してきになる。
  • 社会規範しゃかいきはん[3]共有きょうゆうされていることを明示めいじする形かたち。個人こじんの道徳どうとくと区別くべつするために使つかう。76 の文化ぶんか相対そうたい主義しゅぎが問題もんだいにするのは、この社会しゃかい規範きはんが文化ぶんかごとに異ことなるという事実じじつである。
コロケーション
  • 規範きはんが内面化ないめんかされる境目さかいめが消きえる場所ばしょ外そとから与あたえられた基準きじゅんが、いつのまにか自分じぶんの判断はんだんになっている状態じょうたい。この語ごがこの章しょうで最もっとも重おもいのは、1-1 の 36 自律じりつと 37 他律たりつの境目さかいめを曖昧あいまいにしてしまうからである。自分じぶんで決きめているつもりで、与あたえられた基準きじゅんをなぞっているのかもしれない。内面化ないめんかが完了かんりょうすると、内面化ないめんかされたことすら分わからなくなる。
  • 規範きはん的てき学術がくじゅつ語ごとしての形かたち批判ひはん語ごではない点てんに注意ちゅういしたい。あるべき姿すがたを論ろんじる立場たちばを指さす学術がくじゅつ語ごで、事実じじつを記述きじゅつする「記述きじゅつ的てき」と対たいになる。「規範きはん的てきな議論ぎろん」は「押おしつけがましい議論ぎろん」ではなく「どうあるべきかを論ろんじる議論ぎろん」である。日常にちじょう語ごの語ご感かんに引ひきずられると、肯定こうていを否定ひていに読よんでしまう。
  • 社会しゃかい規範きはん共有きょうゆうされていること個人こじんの信条しんじょうではなく、社会しゃかいに共有きょうゆうされている基準きじゅん。共有きょうゆうされていることが要件ようけんなので、一人ひとりだけの規範きはんは成なり立たたない。1-3 の 63 のコードと似にているが、コードが意味いみの翻訳ほんやく規則きそくであるのに対たいし、こちらは行動こうどうの基準きじゅんである。当為とういを含ふくむかどうかで分わかれる。
  • 規範きはんと事実じじつ越こえられない継つぎ目め「である」と「べきである」。ヒューム以来いらい、この二ふたつは論理的ろんりてきには橋渡はしわたしできないとされてきた。それでも人ひとは毎日まいにちこの橋はしを渡わたっている — 「みんなそうしている」から「そうすべきだ」へ、「自然しぜんだ」から「正ただしい」へ。評ひょう論文ろんぶんがある主張しゅちょうを撃うつとき、この継つぎ目めを突つくことがきわめて多おおい。
格かく硬かた

書かき言葉ことば。会話かいわでは不自然ふしぜん。

類るい語ごと差さ
  • 制度せいど運用うんようの仕組しくみを伴ともなうしくみ☑78。規範きはんは基準きじゅんそのもの、制度せいどはそれを支ささえる組織そしき。
  • 法ほう国家こっかが定さだめた強制きょうせい的てきな規則きそく違反いはんに制裁せいさいが伴ともなう。規範きはんは道徳どうとくや慣習かんしゅうも含ふくみ、制裁せいさいは必かならずしも伴ともなわない。
  • 道徳どうとく善悪ぜんあくについての内面ないめんの基準きじゅん内面ないめんに属ぞくする。規範きはんは社会しゃかいに共有きょうゆうされている点てんが違ちがう。
  • 価値かち望のぞましさの基準きじゅん何なにがよいかを示しめす。規範きはんは何なにをすべきかを示しめす。

ENnorm
ZH规范(規範, guīfàn)

禁忌と秩序秩序に収まらないものを禁忌として外に置くことで、秩序の輪郭が保たれることを示した図。 秩序 分類が成り立つ範囲 分類に収まらないもの 秩序を乱すもの 聖なるもの 禁忌 外に置くことで、内側の輪郭が保たれる 何が禁じられているかを見れば、その社会の秩序が見える
禁忌きんきが秩序ちつじょの輪郭りんかくをつくる
事実の記述と当為の要請のあいだに橋がかからないことを示した図「である」の側にどれだけ事実を積んでも「べきである」の側へは論理的に渡れない、というヒュームの指摘を、断ち切られた橋として示す。 「である」から「べきである」は出てこないISOUGHT事実九割がそうしている昔からそうだった自然にそうなる当為そうすべきであるしてはならないそれが正しい論理的な橋はかからないそれでも人は毎日この橋を渡っている ──「みんなそうしている」から「そうすべきだ」へ、「自然だ」から「正しい」へ評論文が主張を撃つとき、突かれるのはたいていこの継ぎ目である規範はつねに右側にある。左側にあるのは慣習にすぎない
事実じじつと当為とういのあいだ
Section 09

オリエンタリズム/エスニシティ/クレオール/禁忌きんき(タブー)

84

オリエンタリズム

オリエンタリズム[5]中高なかだか型がた

定義ていぎ

西洋人せいようじんが歪ゆがんだイメージで東洋とうようを見みること。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑84
原げん書しょの解説かいせつ

西洋人せいようじんが東洋とうように対たいして抱いだいている後進こうしん性せい・官かん能のう性せい・受動性じゅどうせい・神秘しんぴ性せいといった異い国こく情緒じょうちょ的てきなイメージのこと。この東洋とうように対たいするイメージは東洋とうようの現実げんじつとかけ離はなれており、「西洋人せいようじんの自分じぶん勝手かってな東洋とうよう像ぞうにすぎない」とも言いえる。

現代げんだいではオリエンタリズムは、西洋せいよう文明ぶんめいが東洋とうように対たいして優位ゆういであることを主張しゅちょうし、現実げんじつの植民地しょくみんち支配しはいを正当化せいとうかするために生うみ出だされた偏見へんけんだと批判ひはんされている。

使用しようの境界きょうかい

西洋せいようが東洋とうようについて作つくり上あげた歪ゆがんだイメージ。東洋とうよう趣味しゅみそのものではなく、支配しはいと結むすびついた表象ひょうしょうを指さす。

用法ようほう

サイードの語ごである。要点ようてんは、東洋とうようへの好意的こういてきなイメージも含ふくめて批判ひはんの対象たいしょうになる点てんにある。神秘的しんぴてき・官かん能のう的てき・受動じゅどう的てきという描えがき方ほうは褒ほめ言葉ことばのようでいて、東洋とうようを主体性しゅたいせいのないものとして固定こていする。そしてこの像ぞうが現実げんじつの植民地しょくみんち支配しはいを正当化せいとうかした。したがって批判ひはんの焦点しょうてんは誰だれが誰だれを描えがく権利けんりを持もっていたかにある。☑65 表象ひょうしょうの第だい二にの層そう(描えがき方ほうが対象たいしょうを作つくる)が、ここで最もっとも明確めいかくな形かたちをとる。

用例ようれい
  • アジアの民たみは、常つねに隷従れいじゅうのもとにあった。かの地ちの風土ふうどにおいては、自由じゆうの精神せいしんが育そだつことはついになかったのである。シャルル・ド・モンテスキュー『法ほうの精神せいしん』第だい十七じゅうなな編へん(1748)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    批判ひはんされる当とうの言説げんせつを、その代表的だいひょうてきな形かたちで読よんでおく。モンテスキューは三さん権けん分立ぶんりつを説といた啓蒙けいもうの代表だいひょう者しゃであり、この一節いっせつも差別さべつを煽あおるために書かかれたのではない。風土ふうどから政治せいじの形かたちを説明せつめいしようとした学問的がくもんてきな試こころみの一部いちぶである。そこが重要じゅうようだ。オリエンタリズムは悪意あくいの産物さんぶつではなく、学問がくもんと芸術げいじゅつに組くみ込こまれた形かたちで流通りゅうつうした。そして「常つねに」「ついに」という語ごに注目ちゅうもくしたい。例外れいがいを認みとめない書かき方かたである。1-1 の 1 で見みた普遍ふへんの言いい方かたが、ここでは他者たしゃを固定こていするために使つかわれている。変かわりうるものとして描えがかれなければ、相手あいては歴史れきしを持もたない存在そんざいになる。歴史れきしを持もたない相手あいては、導みちびいてやるほかない — この一歩いっぽが植民地しょくみんち支配しはいを正当化せいとうかした。
  • アジアは一ひとつである。岡倉おかくら天心てんしん『東洋とうようの理想りそう』冒頭ぼうとう(1903・英文えいぶん)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    西洋せいようが作つくった東洋とうよう像ぞうに対たいする、東洋とうようの側がわからの応答おうとうとして書かかれた一句いっくである。ヒマラヤが二ふたつの文明ぶんめいを分わけているが、それは分断ぶんだんではなく強調きょうちょうにすぎない、と天心てんしんは続つづける。ここに難むずかしさがある。この一句いっくもまた、アジアを一ひとつの本質ほんしつにまとめている。インドも中国ちゅうごくも日本にほんも、内側うちがわには無数むすうの差異さいがあるはずだ。それを「一ひとつ」と言いい切きった瞬間しゅんかん、やっていることはモンテスキューと同おなじ形かたちになってしまう。サイードがオリエンタリズム批判ひはんで示しめしたのは、この落おとし穴あなだった — 描えがかれ方ほうに反論はんろんするとき、たいてい別べつの描えがかれ方ほうを持もち出だすことになる。84 の項こうがむずかしいのは、批判ひはんの側がわにも同おなじ構図こうずが回まわってくるからである。
  • 神秘的しんぴてき・官かん能のう的てき・受動じゅどう的てきという描えがき方ほうは、好意的こういてきに見みえてオリエンタリズムの一部いちぶである。 この語ごの要点ようてんである。東洋とうようへの好意的こういてきなイメージも含ふくめて批判ひはんの対象たいしょうになる。褒ほめ言葉ことばのようでいて、東洋とうようを主体性しゅたいせいのないものとして固定こていする。神秘的しんぴてきなものは説明せつめいされず、受動じゅどう的てきなものは自分じぶんから動うごかない。批判ひはんの焦点しょうてんは、誰だれが誰だれを描えがく権利けんりを持もっていたかにある — 1-3 の 65 の表象ひょうしょうの第だい二にの層そうが、ここで最もっとも明確めいかくな形かたちをとる。
  • △彼かれは東洋とうよう趣味しゅみの家具かぐを集あつめている。オリエンタリズムだ。 異い国こく情緒じょうちょへの憧あこがれは「エキゾティシズム」である。オリエンタリズムは、その像ぞうが支配しはいの正当化せいとうかと結むすびついている点てんが違ちがう。「その像ぞうが誰だれかを扱あつかいやすくしているか」を問とえばよい。趣味しゅみにとどまるなら前者ぜんしゃ、相手あいてをどう扱あつかってよいかを決きめるところまで届とどいていれば後者こうしゃである。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

関せき 65 表象ひょうしょう/75 自じ文化ぶんか(自じ民族みんぞく)中心ちゅうしん主義しゅぎ

コロケーション
  • 東洋とうようを描えがく権利けんり批判ひはんの焦点しょうてん誰だれが誰だれについて語かたれるのかという問とい。オリエンタリズム批判ひはんの中心ちゅうしんはここにある。描えがかれる側がわは描えがき方ほうを選えらべず、反論はんろんしようにも、反論はんろんの場ばが描えがく側がわの言葉ことばで成なり立たっている。1-2 の 48 で見みた通約つうやく不可能ふかのう性せいが、ここでは政治せいじの非対称ひたいしょうとして現あらわれる。
  • オリエンタリズムと表象ひょうしょう同おなじ構造こうぞう1-3 の 65 で見みた②の層そう — 描えがき方ほうが対象たいしょうを作つくり出だす — がもっとも明確めいかくな形かたちをとる場面ばめんである。繰くり返かえされた像ぞうは、やがて相手あいての実像じつぞうとして通用つうようしはじめる。そして描えがかれた側がわがその像ぞうに合あわせて振ふる舞まいはじめることすらある。像ぞうは写うつすだけでなく、作つくる。
  • 自己じこオリエンタリズム内側うちがわからの反復はんぷく描えがかれた側がわが、自分じぶんでその像ぞうを引ひき受うけて売うり出だすこと。「神秘しんぴの国くに」「和わの心こころ」といった自国じこく紹介しょうかいの語彙ごいがその例れいになる。抵抗ていこうの形かたちをとりながら、像ぞうそのものは強化きょうかされている。天心てんしんの一句いっくが抱かかえていた難むずかしさが、ここでは商業しょうぎょうの場ばに現あらわれる。
  • ステレオタイプより広ひろい語ご型かたにはまった見方みかた一般いっぱんを指さす。オリエンタリズムは、そのうち西洋せいようと東洋とうようという特定とくていの非対称ひたいしょうを指さす。違ちがいは、力ちからの差さが組くみ込こまれているかどうかだ。ステレオタイプは相互そうごに持もちうるが、オリエンタリズムは一方向いちほうこうにしか働はたらかない。
格かく硬かた・学術がくじゅつ

論文ろんぶん・評ひょう論ろんでのみ使つかう。会話かいわでは不自然ふしぜん。

類るい語ごと差さ
  • エキゾティシズム異い国こく情緒じょうちょへの憧あこがれ感覚かんかくの話はなし。オリエンタリズムは支配しはいの正当化せいとうかと結むすびつく点てんが違ちがう。
  • ステレオタイプ型かたにはまった見方みかた一般的いっぱんてきな現象げんしょう。オリエンタリズムは西洋せいようと東洋とうようという特定とくていの非対称ひたいしょうを指さす。
  • 表象ひょうしょうどう描えがかれてきたか☑65。オリエンタリズムは表象ひょうしょう研究けんきゅうの代表的だいひょうてきな主題しゅだい。
  • 自じ文化ぶんか中心ちゅうしん主義しゅぎ自じ文化ぶんかを尺度しゃくどにする☑75。オリエンタリズムはその西洋せいよう版はんであり、学問がくもんと芸術げいじゅつに組くみ込こまれた形かたち。

ENorientalism
ZH东方主义(東方主義, dōngfāng zhǔyì)

85

エスニシティ

エスニシティ[3]中高なかだか型がた

定義ていぎ

出自しゅつじ・慣習かんしゅう・言語げんごなどを共有きょうゆうする集団しゅうだんに属ぞくする人ひとがもつ、その集団しゅうだんへの帰属きぞく意識いしき。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑85
原げん書しょの解説かいせつ

エスニシティは、「民族みんぞく(ネーション)」という言葉ことばではとらえきれない内容ないようを含ふくんだ語ごである。ネーションという語ごは民族みんぞくと国民こくみんとを同一どういつ視しする考かんがえを前提ぜんていとしているが、現在げんざいの国民こくみん国家こっかにはさまざまな移民いみん集団しゅうだんが共存きょうぞんし、彼かれらは固有こゆうの言語げんごや文化ぶんか・伝統でんとうをもっている。

国民こくみん国家こっかのもとで、独自どくじの文化ぶんか的てきな仲間なかま意識いしきをもつこうしたグループを、「エスニシティ・グループ」とよび、彼かれらが共有きょうゆうする意識いしきをエスニシティと言いう。

使用しようの境界きょうかい

出自しゅつじ・慣習かんしゅう・言語げんごを共有きょうゆうする集団しゅうだんへの帰属きぞく意識いしき。国家こっかの枠わくとは重かさならない点てんが要点ようてん。

用法ようほう

ネーションでは捉とらえきれないものを言いうために作つくられた語ごである。国民こくみん国家こっかは民族みんぞくと国民こくみんを一致いっちさせる建前たてまえを持もつが、現実げんじつの国家こっかには移民いみん集団しゅうだんが共存きょうぞんし、固有こゆうの言語げんごと文化ぶんかを保たもっている。彼かれらの帰属きぞく意識いしきがエスニシティ。したがってこの語ごは、国民こくみん国家こっかという枠組わくぐみの限界げんかいを示しめす位置いちにある。多た文化ぶんか主義しゅぎ・移民いみん問題もんだいを扱あつかう文章ぶんしょうで頻出ひんしゅつする。「民族みんぞく」と訳やくすと国家こっかとの関係かんけいが見みえなくなるので、原語げんごのまま使つかわれることが多おおい。

用例ようれい
  • 国民こくみんの存在そんざいとは、日々ひびの人民じんみん投票とうひょうである。……人種じんしゅでも、言語げんごでも、宗教しゅうきょうでも、利害りがいの共同きょうどうでも、地理ちりでもない。エルネスト・ルナン『国民こくみんとは何なにか』(1882)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    国民こくみん(ネーション)は血ちでも言語げんごでもないと言いい切きった一節いっせつである。毎日まいにちくり返かえされる意思いしの確認かくにんだ、という。この定義ていぎは、国民こくみん国家こっかという枠組わくぐみをもっとも寛容かんような形かたちで語かたったものだと言いってよい。生うまれによらないなら、誰だれでも加かわれる。ところが現実げんじつの国民こくみん国家こっかは、民族みんぞくと国民こくみんを一致いっちさせる建前たてまえを捨すてなかった。ここに、この語ごが生うまれる余地よちができる。ネーションでは捉とらえきれないもの — 国家こっかの中なかに暮くらしながら、固有こゆうの言語げんごと慣習かんしゅうと出自しゅつじを共有きょうゆうしている人々ひとびとの帰属きぞく意識いしき。それがエスニシティである。ルナンの定義ていぎが正ただしければ、この語ごは必要ひつようなかった。
  • その昔むかしこの広ひろい北海道ほっかいどうは、私わたしたちの先祖せんぞの自由じゆうの天地てんちでありました。……然さしそれはもう、遠とおい遠とおい昔むかしになってしまいました。知里ちり幸恵ゆきえ『アイヌ神謡しんよう集しゅう』序じょ(1923)
    十九じゅうきゅう歳さいで世よを去さった少女しょうじょが、アイヌ語ごの神謡しんようをローマ字じで書かき取とり、日本語にほんごに訳やくした本ほんの序文じょぶんである。国民こくみん国家こっかの枠わくに、入はいりきらなかった人々ひとびとの言葉ことばがここにある。注目ちゅうもくしたいのは、この文章ぶんしょうが日本語にほんごで書かかれていることだ。失うしなわれつつある言語げんごを残のこすために、奪うばった側がわの言語げんごを使つかうほかなかった。エスニシティという語ごが「集団しゅうだんそのもの」ではなく「帰属きぞく意識いしき」を指さすのは、まさにこういう場面ばめんのためである。土地とちも言語げんごも制度せいども失うしなわれていくなかで、最後さいごまで残のこり、そして残のこそうとされるのが意識いしきのほうだ。この序文じょぶん自体じたいが、その意識いしきの記録きろくになっている。
  • 国民こくみん国家こっかのもとで固有こゆうの文化ぶんかを保たもつ集団しゅうだんの帰属きぞく意識いしきを、エスニシティと呼よぶ。 ネーションでは捉とらえきれないものを言いうために作つくられた語ごである。国民こくみん国家こっかは民族みんぞくと国民こくみんを一致いっちさせる建前たてまえを持もつが、現実げんじつの国家こっかには移民いみん集団しゅうだんが共存きょうぞんしている。したがってこの語ごは、国民こくみん国家こっかという枠組わくぐみの限界げんかいを示しめす位置いちにある。多た文化ぶんか主義しゅぎ・移民いみん問題もんだいを扱あつかう文章ぶんしょうで頻出ひんしゅつする。
  • ×日本にほんには単一たんいつのエスニシティしかない。 アイヌ、琉球りゅうきゅう、在日ざいにち、各地かくちの被ひ差別さべつ部落ぶらく、そして新あたらしい移民いみん — 単一たんいつだという前提ぜんていそのものが、国民こくみん国家こっかの建前たてまえである。この語ごは、まさにその建前たてまえを疑うたがうために用意よういされた。「単一たんいつである」という主張しゅちょうが出でてきたら、その主張しゅちょうが何なにを見みえなくしているかを問とう — それがこの語ごの使つかいどころである。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

関せき 69 同一どういつ

コロケーション
  • エスニック・グループ集団しゅうだんの側がわ出自しゅつじ・慣習かんしゅう・言語げんごを共有きょうゆうする集団しゅうだんそのもの。エスニシティはその集団しゅうだんに属ぞくする意識いしきを指さすので、両者りょうしゃは集団しゅうだんと意識いしきで分わかれる。注意ちゅういしたいのは、集団しゅうだんの輪郭りんかくは意識いしきの側がわから引ひかれることだ。誰だれが仲間なかまかを決きめているのは血ちでも地図ちずでもなく、自分じぶんたちをそう思おもう気持きもちのほうである。
  • ネーションとエスニシティ枠わくと、はみ出だすものネーションは民族みんぞくと国民こくみんを同一どういつ視しする前提ぜんていを含ふくむ。エスニシティはその前提ぜんていの外そとにある。だから「民族みんぞく」と訳やくしてしまうと、国家こっかとの関係かんけいが見みえなくなる。原語げんごのまま使つかわれることが多おおいのはそのためで、1-3 の 58 で見みた「訳語やくごからはみ出だす部分ぶぶんに用ようがある」場合ばあいにあたる。
  • エスニシティの政治せいじ化か意識いしきが力ちからになるとき帰属きぞく意識いしきが政治的せいじてきな要求ようきゅうの形かたちをとること。自じ治ち、言語げんご教育きょういく、代表だいひょうの確保かくほ。意識いしきは目めに見みえないが、制度せいどは目めに見みえる。そして制度せいどを求もとめた瞬間しゅんかん、「誰だれがその集団しゅうだんに属ぞくするのか」を線引せんびきする必要ひつようが生しょうじる — ここで 86 のクレオールと衝突しょうとつが起おきる。
  • 多た文化ぶんか主義しゅぎとの関係かんけい受うけ皿ざらと中身なかみ多た文化ぶんか主義しゅぎが制度せいどの側がわ、エスニシティが中身なかみの側がわである。制度せいどは複数ふくすうの文化ぶんかの共存きょうぞんを保証ほしょうするが、保証ほしょうするためにそれぞれの文化ぶんかを数かぞえ、輪郭りんかくを定さだめねばならない。数かぞえられた瞬間しゅんかんに、数かぞえられなかったものが生うまれる — この取とりこぼしがこの語ごの周まわりにつねに残のこっている。
格かく硬かた・学術がくじゅつ

論文ろんぶん・評ひょう論ろんでのみ使つかう。会話かいわでは不自然ふしぜん。

類るい語ごと差さ
  • 民族みんぞく出自しゅつじと文化ぶんかを共有きょうゆうする集団しゅうだん集団しゅうだんそのもの。エスニシティはその集団しゅうだんに属ぞくする意識いしき。
  • ネーション国民こくみんであり民族みんぞくでもある単位たんい民族みんぞくと国民こくみんを同一どういつ視しする前提ぜんていを含ふくむ。エスニシティはその前提ぜんていの外そとにある。
  • 人種じんしゅ身体的しんたいてき特徴とくちょうによる区分くぶん生物学せいぶつがく的てきな装よそおいを持もつ分類ぶんるい。エスニシティは文化ぶんか的てきな帰属きぞく。
  • アイデンティティ自分じぶんが自分じぶんであることの意識いしき☑69。エスニシティは集団しゅうだんに根ねざしたアイデンティティの一いち形態けいたい。

ENethnicity
ZH族群性(エスニシティ, zúqúnxìng)

86

クレオール

クレオール[3]中高なかだか型がた

定義ていぎ

本国ほんごくではなく、新大陸しんたいりくや植民地しょくみんちで生うまれ育そだった人々ひとびと。または彼かれら独特どくとくの言語げんごや習慣しゅうかん。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑86
原げん書しょの解説かいせつ

クレオールとは、もとは植民地しょくみんち生うまれのスペイン人じんを指さすスペイン語ご「クリオーリョ」がフランス語ごに借用しゃくようされたものである。

西にしインド諸島しょとうや中南米ちゅうなんべいなどの植民地しょくみんちでは、移住いじゅうしてきた西洋人せいようじんや黒人こくじん奴隷どれいの子孫しそん、原げん住民じゅうみんとその子孫しそんなどが独特どくとくの混合こんごう文化ぶんかを形成けいせいしてきた。従来じゅうらいの民族みんぞくや国家こっかという枠組わくぐみではとらえきれないそのあり方かたは、今日きょうのグローバル化かを背景はいけいにして注目ちゅうもくを浴あびている。

使用しようの境界きょうかい

植民地しょくみんちで生うまれ育そだった人々ひとびとと、その混合こんごう文化ぶんか。二ふたつの文化ぶんかが混まざって新あたらしく生しょうじたものを指さす。

用法ようほう

もとは植民地しょくみんち生うまれのスペイン人じんを指さす語ごだった。現在げんざいの評ひょう論文ろんぶんでは、民族みんぞくや国家こっかという枠組わくぐみでは捉とらえきれないあり方かたの名なとして使つかわれる。西にしインド諸島しょとうや中南米ちゅうなんべいで、移住いじゅうしてきた西洋人せいようじん・黒人こくじん奴隷どれいの子孫しそん・原げん住民じゅうみんが混まざって独特どくとくの文化ぶんかを形成けいせいした。この経験けいけんがグローバル化かの先取さきどりとして注目ちゅうもくされている。要点ようてんは、混まざることを欠落けつらくや不純ふじゅんと見みず、新あたらしいものが生うまれる場ばと見みる評価ひょうかの転換てんかんにある。「クレオール化か」は文化ぶんか一般いっぱんの混淆こんこうを指さす動詞どうし形けい。

用例ようれい
  • 夫おっとれ和わは実じつに物ものを生しょうじ、同どうは継つがず。他ほかを以もって他ほかを平たいらかにするを之のれ和わと謂いふ、故こに能のうく豊長ほうちょうして物もの之のに帰かえす。若わかし同どうを以もって同どうを裨たすくれば、尽じんくれば乃すなわち棄すつ。『国語こくご』鄭てい語ご・史し伯はくの言げん(前まえ八はち世紀せいきの対話たいわを記しるす)
    和わは実際じっさいに物ものを生うみ、同どうは続つづかないという。異ことなるものを異ことなるもので調ちょうえるのが「和わ」で、だから豊ゆたかに育そだってものが集あつまってくる。同おなじものに同おなじものを足たしていけば、足たせるものが尽つきた時点じてんで捨すてられる。クレオールという語ごが指さしているのは、この「和わ」のほうである。西洋人せいようじんと黒人こくじん奴隷どれいの子孫しそんと原げん住民じゅうみんが西にしインド諸島しょとうや中南米ちゅうなんべいで出会であい、どれでもない新あたらしい文化ぶんかが生しょうじた。注目ちゅうもくしたいのは、史し伯はくがこれを衰退すいたいではなく生成せいせいとして語かたっていることだ。純粋じゅんすいなものが混まざって濁にごったのではない。混まざったからこそ生うまれた。原げん書しょのいう〈混まざることを欠落けつらくや不純ふじゅんと見みず、新あたらしいものが生うまれる場ばと見みる評価ひょうかの転換てんかん〉が、ここに二千にせん数百すうひゃく年前ねんまえの形かたちで置おかれている。
  • 茶ちゃは薬用やくようとして始はじまり、のちに飲料いんりょうとなった。岡倉おかくら天心てんしん『茶ちゃの本ほん』第一だいいち章しょう(1906・英文えいぶん)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    一見いっけんなんでもない一行いちぎょうだが、この後あとに続つづくのは移動いどうと変容へんようの歴史れきしである。中国ちゅうごくで薬くすりになり、飲のみ物ものになり、日本にほんへ渡わたって茶ちゃの湯ゆになり、やがて西洋せいようへ運はこばれて紅茶こうちゃになった。どの段階だんかいの茶ちゃも「本物ほんもの」ではなく、どの段階だんかいの茶ちゃも本物ほんものである。クレオールという語ごが捉とらえようとしているのは、この種しゅの道みちすじだ。天心てんしん自身じしん、日本人にほんじんでありながら英語えいごで書かき、ボストンで暮くらし、西洋せいように向むけて東洋とうようを語かたった。84 の項こうで見みたとおり、その位置いちは危あやういものでもあった。だが同時どうじに、その危あやうい位置いちからしか書かけない本ほんがあった。混まざった場所ばしょに立たつ者ものだけが見みえる眺ながめがある — この語ごが現代げんだいに注目ちゅうもくされる理由りゆうもそこにある。
  • 民族みんぞくや国家こっかという枠組わくぐみでは捉とらえきれないあり方かたの名なとして、クレオールが使つかわれる。 もとは植民地しょくみんち生うまれのスペイン人じんを指さす語ごだった。それが現在げんざいでは、混まざって新あたらしく生しょうじた文化ぶんかと言語げんごの名なになっている。要点ようてんは評価ひょうかの転換てんかんにある — 欠落けつらくや不純ふじゅんと見みるのをやめ、新あたらしいものが生うまれる場ばと見みる。グローバル化かの先取さきどりとして注目ちゅうもくされるのは、この転換てんかんのためである。
  • ×両親りょうしんの出身しゅっしん国こくが違ちがうので、彼かれはクレオールだ。 身体的しんたいてきな混まじり合あいは「混血こんけつ」である。クレオールは文化ぶんかと言語げんごの話はなしで、しかも植民地しょくみんちという歴史的れきしてき条件じょうけんを背負せおっている。一般的いっぱんてきな異質いしつの結合けつごうを言いいたいなら「ハイブリッド」で足たりる。語ごが背負せおっている歴史れきしを外はずして使つかうと、それ自体じたいが一種いっしゅの無む自覚じかくになる。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

関せき 85 エスニシティ

コロケーション
  • クレオール化か混淆こんこうの過程かてい「化か」が付ついて文化ぶんか一般いっぱんの混淆こんこうを指さす動詞どうし形けいになる。もとの語ごが背負せおっていた植民地しょくみんちという条件じょうけんを外はずして、より広ひろく使つかえるようにした形かたちである。便利べんりだが、条件じょうけんを外はずすとこの語ごの批判的ひはんてきな鋭するどさも薄うすれる。何なにと何なにが、どういう力ちから関係かんけいのもとで混まざったのか — そこを書かかない「クレオール化か」は、ただの「混まざり合あい」と変かわらない。
  • ピジンとクレオール一世いっせい代だいの差さピジンは接触せっしょくの場ばで生しょうじた簡易かんい言語げんごで、母語ぼご話者わしゃを持もたない。その言語げんごで育そだつ子こどもが現あらわれた段階だんかいでクレオールになる。この一世いっせい代だいの差さが決定的けっていてきだ。母語ぼごになった瞬間しゅんかん、間まに合あわせの道具どうぐが世界せかいを分節ぶんせつする枠わくに変かわる。1-3 の 67 で見みた分節ぶんせつが、ここでは一世いっせい代だいのうちに起おきる。
  • 混淆こんこうと純粋じゅんすい評価ひょうかの転換てんかん純粋じゅんすいを上うえに、混淆こんこうを下したに置おく序列じょれつが長ながく働はたらいてきた。純血じゅんけつ、正統せいとう、本ほん場ば。クレオールという語ごは、その序列じょれつを裏返うらがえす。注意ちゅういしたいのは、裏返うらがえしただけでは序列じょれつは残のこることだ。「混まざっているほうが豊ゆたかだ」も一ひとつの尺度しゃくどである。76 の文化ぶんか相対そうたい主義しゅぎが尺度しゃくどそのものを問題もんだいにしたのと同おなじ地点ちてんまで来こられるかどうかが、この語ごの使つかい手てに問とわれる。
  • 中心ちゅうしんと周縁しゅうえん生成せいせいの場所ばしょ新あたらしいものは中心ちゅうしんではなく境目さかいめで生うまれる、という見方みかた。クレオール文化ぶんかが本国ほんごくではなく植民地しょくみんちで生しょうじたのは偶然ぐうぜんではない。中心ちゅうしんは自分じぶんを保ほとうとし、境目さかいめには保たもつべきものが無ない。85 のエスニシティ、73 の文化圏ぶんかけんで見みた「線せんをまたぐものが見みえなくなる」問題もんだいが、ここでは可能性かのうせいの側がわから語かたられている。
格かく硬かた・学術がくじゅつ

論文ろんぶん・評ひょう論ろんでのみ使つかう。会話かいわでは不自然ふしぜん。

類るい語ごと差さ
  • 混血こんけつ異ことなる集団しゅうだんの血ちが混まじる身体しんたいの話はなし。クレオールは文化ぶんかと言語げんごの話はなし。
  • ハイブリッド異質いしつなものの結合けつごう一般的いっぱんてきな語ご。クレオールは植民地しょくみんちという歴史的れきしてき条件じょうけんを背負せおう。
  • ピジン接触せっしょくの場ばで生しょうじた簡易かんい言語げんご母語ぼご話者わしゃを持もたない段階だんかい。クレオールはそれが母語ぼごになった段階だんかい。
  • 多た文化ぶんか主義しゅぎ複数ふくすうの文化ぶんかの共存きょうぞんを認みとめる並存へいそんを前提ぜんていとする。クレオールは混まざって新あたらしいものが生うまれる点てんが違ちがう。

ENcreole
ZH克里奥尔(クレオール, kèlǐ'ào'ěr)

87

禁忌(タブー)きんき

きんき[1]頭高あたまだか型がた

語ご構成こうせい
禁きんとどめる・いましめる+忌きいむ・さける
定義ていぎ

忌きまわしいものとして、慣習かんしゅう的てきに禁止きんししたり避さけたりすること。

『現代げんだい文ぶんキーワード読解どっかい』1-1 ☑87
原げん書しょの解説かいせつ

普段ふだん、我々われわれは、文化ぶんかや社会しゃかいの秩序ちつじょや規則きそくを守まもって生活せいかつしている。しかし、その秩序ちつじょを壊こわすようなモノや出来事できごとに遭遇そうぐうする場合ばあいもある。その時ときに、その対象たいしょうを禁忌きんきに設定せっていし、禁止きんししたり避さけたりすることによって、既存きそんの秩序ちつじょを守まもろうとする。

逆ぎゃくに言いえば、禁忌きんきの存在そんざいは我々われわれに秩序ちつじょを再さい認識にんしきさせる機能きのうをもっている。

使用しようの境界きょうかい

慣習かんしゅうとして禁きんじられ、避さけられているもの。法ほうで定さだめられた禁止きんしとは違ちがい、理由りゆうが説明せつめいされないことが多おおい。

用法ようほう

要点ようてんは、禁忌きんきが秩序ちつじょを守まもる装置そうちだという機能的きのうてきな捉とらえ方ほうにある。既存きそんの分類ぶんるいに収おさまらないもの、秩序ちつじょを乱みだすものに遭遇そうぐうしたとき、それを禁忌きんきに設定せっていして遠とおざけることで秩序ちつじょが保たもたれる。逆ぎゃくに言いえば、禁忌きんきの存在そんざいは秩序ちつじょの輪郭りんかくを照てらし出だす。何なにが禁きんじられているかを見みれば、その社会しゃかいが何なにを秩序ちつじょとしているかが分わかる。日常にちじょう語ごの「タブー」は「触ふれてはいけない話題わだい」の意いで軽かるく使つかわれるが、評ひょう論文ろんぶんではこの構造的こうぞうてきな意味いみで読よむ。

用例ようれい
  • 積極的せっきょくてきな呪術じゅじゅつ、すなわち妖術ようじゅつは「これをせよ、しかせばかくなるべし」と言いう。消しょう極きょく的てきな呪術じゅじゅつ、すなわちタブーは「これをするな、しからずんばかくなるべし」と言いう。ジェイムズ・フレイザー『金枝きんし篇へん』(1890)/訳やくは本ほん教材きょうざい
    タブーを「消しょう極きょく的てきな呪術じゅじゅつ」として捉とらえ直なおした一節いっせつである。呪術じゅじゅつが「こうすればこうなる」と言いい、タブーが「こうするな、さもなくばこうなる」と言いう。注目ちゅうもくしたいのは、両者りょうしゃが同おなじ因果いんがの構造こうぞうを共有きょうゆうしていることだ。ただ向むきが逆ぎゃくなだけである。ここから、原げん書しょのいう機能的きのうてきな捉とらえ方ほうへ道みちが通つうじる。禁忌きんきは、何なにが起おこるかを予告よこくすることで秩序ちつじょを保たもっている。そして 1-1 の 51 で見みたとおり、その因果いんがは検証けんしょうされない。禁きんを破やぶった者ものが実際じっさいにどうなるかは、ほとんどの場合ばあいたしかめられない — たしかめられないからこそ、禁きんは禁きんとして保たもたれる。
  • 「吾われをな視したまひそ」と、かく白しろして、その殿でんの内ないに還かえり入はいりましし間あいだ、いと久きゅうしくて待まちかねたまひき。『古事記こじき』上巻じょうかん・黄泉国よみのくに(712)
    イザナミが「私わたしを見みないでください」と言いい残のこして御殿ごてんの中なかへ戻もどる。イザナギは待まちかねて火ひを灯あかりし、見みてしまう。見みるなの禁きん — 日本にほんの神話しんわにくり返かえし現あらわれる型かたである。注目ちゅうもくしたいのは、禁きんじられた理由りゆうがついに語かたられないことだ。なぜ見みてはいけないのかは説明せつめいされず、ただ「な視したまひそ」とだけ言いわれる。これが禁忌きんきの性格せいかくである — 法ほうの禁止きんしには理由りゆうと主体しゅたいがあるが、禁忌きんきには理由りゆうが語かたられない。そして破やぶられた瞬間しゅんかんに、生せいと死しのあいだに境さかいが引ひかれ、二人ふたりは永遠えいえんに分わかれる。禁きんが破やぶられたことによって、はじめて秩序ちつじょの輪郭りんかくが現あらわれた — 原げん書しょのいう「禁忌きんきの存在そんざいは我々われわれに秩序ちつじょを再さい認識にんしきさせる」とは、このことである。
  • 何なにが禁きんじられているかを見みれば、その社会しゃかいが何なにを秩序ちつじょとしているかが分わかる。禁忌きんきは秩序ちつじょの輪郭りんかくを照てらし出だす。 機能的きのうてきな捉とらえ方ほうである。既存きそんの分類ぶんるいに収おさまらないもの、秩序ちつじょを乱みだすものに遭遇そうぐうしたとき、それを禁忌きんきに設定せっていして遠とおざけることで秩序ちつじょが保たもたれる。逆ぎゃくに言いえば、禁忌きんきのありかを辿たどればその社会しゃかいの分類ぶんるいが読よめる。1-3 の 67 で見みた分節ぶんせつと、ここでつながる — 切きれ目めのありかは、禁きんじられているものが教おしえてくれる。
  • △その話題わだいは禁忌きんきなので、法律ほうりつで禁止きんしされている。 法ほうで定さだめられた禁止きんしには理由りゆうと主体しゅたいがある。禁忌きんきは慣習かんしゅうとして成立せいりつし、理由りゆうが語かたられない点てんが違ちがう。「法律ほうりつで禁止きんしされている」なら「禁止きんし」で足たりる。「なぜかと聞きかれて答こたえられるか」を問とえばよい — 答こたえられれば禁止きんし、答こたえようがなければ禁忌きんきである。
原げん書しょの反はん意い語ご・関連かんれん語ご

関せき 5 秩序ちつじょ/83 規範きはん

派生はせい形けい
  • 禁忌的きんきてき[0]使用しよう頻度ひんどは低ひくい。「禁忌きんきに触ふれる」「タブー視しする」という動詞どうしの形かたちで使つかわれるのが圧倒的あっとうてきで、この語ごが状態じょうたいではなく関かかわり方ほうを指さす語ごであることを示しめしている。
  • タブー視タブーし[0]「視し」がそう見みなすという主体しゅたいの働はたらきを加くわえる。1-1 の 14 の「自明じめい視し」と同おなじ作つくりで、誰だれがそう扱あつかっているのかを文ぶんに戻もどすことができる。批判ひはんの文章ぶんしょうで選えらばれる形かたちである。
  • 穢れけがれ[0]禁忌きんきの対象たいしょうを指さす日本にほんの観念かんねん。触ふれると移うつるとされる点てんが特徴とくちょうで、死し・血ち・出産しゅっさんなどに結むすびつけられてきた。禁忌きんきが行動こうどうの側がわ、穢けがれが対象たいしょうの側がわを指さす。この観念かんねんが差別さべつの制度せいどと結むすびついてきた歴史れきしは、78 の制度せいど、83 の規範きはんと合あわせて考かんがえるべき問題もんだいである。
コロケーション
  • 禁忌きんきに触ふれる境さかいを越こえる「触ふれる」という動詞どうしが選えらばれるのが面白おもしろい。破やぶる、犯おかすではなく、触ふれる。禁忌きんきの対象たいしょうは近ちかづくだけで危あやういものとして想像そうぞうされている。ここが「規則きそくを破やぶる」との違ちがいで、規則きそくは距離きょりを問題もんだいにしないが、禁忌きんきは距離きょりを問題もんだいにする。聖せいなるものが同おなじ扱あつかいを受うけるのも同おなじ理由りゆうによる。
  • タブー視しする日常にちじょう語ごの形かたち触ふれてはいけない話題わだいとして扱あつかうこと。日常にちじょう語ごではこの軽かるい意味いみが優勢ゆうせいである。評ひょう論文ろんぶんの禁忌きんきが秩序ちつじょを保たもつ装置そうちという構造的こうぞうてきな意味いみで読よまれるのに対たいし、こちらは単たんに「口くちに出だしにくい」程度ていどを指さす。層そうが違ちがうので、どちらで使つかわれているかを見分みわける。
  • 聖せいなるものと禁忌きんき表裏ひょうりの関係かんけい日常にちじょうから隔へだてられているという点てんで、聖せいと禁忌きんきは同おなじ構造こうぞうを持もつ。神域しんいきも、穢けがれた場所ばしょも、ともに近ちかづいてはならない。この一致いっちは偶然ぐうぜんではない — 秩序ちつじょの外そとにあるものは、上うえでも下したでも同おなじように危あやうい。1-1 の 6 で見みた混沌こんとんが、ここでは社会しゃかいの内側うちがわに現あらわれている。
  • 禁忌きんきと規範きはん根拠こんきょが語かたられるか規範きはんは「こうすべきだ」を示しめし、禁忌きんきは「してはならない」に特化とっかする。さらに大おおきな違ちがいは、禁忌きんきには根拠こんきょが問とわれないことだ。規範きはんなら「なぜ老人ろうじんを敬うやまうのか」と問とえるが、禁忌きんきには問とう場所ばしょが無ない。問とえないことが、この装置そうちの強度きょうどを支ささえている — 82 のドグマと、ここで構造こうぞうが重かさなる。
格かく中なか

書かき言葉ことば・会話かいわの両方りょうほうで使つかえる。

類るい語ごと差さ
  • 禁止きんししてはならないと定さだめる理由りゆうと主体しゅたいがある。禁忌きんきは慣習かんしゅうとして成立せいりつし、理由りゆうが語かたられない。
  • 穢けがれ触ふれると汚よごれるとされるもの宗教的しゅうきょうてき・呪術じゅじゅつ的てきな観念かんねん。禁忌きんきはそれを避さける行動こうどうの側がわ。
  • 聖せいなるもの日常にちじょうから隔へだてられたもの禁忌きんきと表裏ひょうりをなす。近ちかづいてはならない点てんで同おなじ構造こうぞうをもつ。
  • 規範きはんこうすべきという基準きじゅん☑83。禁忌きんきは「してはならない」の側がわに特化とっかし、しかも根拠こんきょが問とわれない。

ENtaboo
ZH禁忌(禁忌, jìnjì)

オリエンタリズムの非対称描く側と描かれる側の非対称と、好意的なイメージも固定化として働くことを示した図。 西洋 描く側 ── 主体 まなざし 東洋 描かれる側 ── 客体 神秘性官能性 受動性後進性 褒め言葉に見えるものも含めて、 東洋を主体性のないものとして 固定する働きをもつ。 問われているのは、誰が誰を描く権利をもっていたかである
描えがく側がわと描えがかれる側がわ
国民国家とエスニシティ、クレオール国民国家の内部に複数のエスニシティが共存し、その混淆からクレオールが生じることを示した図。 国民国家(ネーション) 民族と国民を同一視する建前 集団 A 集団 B 集団 C エスニシティ クレオール 混ざって新しく生じたもの どちらにも分類できない 民族や国家という枠組みでは、もう捉えきれない
国民こくみん国家こっかに収おさまらないもの
Meta — 俯瞰ふかん

十五じゅうご語ごを上うえから見みる

この章しょうの語ごは、文化ぶんかを外そとから測はかる側がわと、内ないから記述きじゅつする側がわに分わかれる。対立たいりつの軸じくと、語ごの格かくを一いち枚まいずつ図ずにしておく。

本章の対立の軸一覧本章に現れる対立語のペアと、それを分ける軸を並べた一覧図。 PAIR AXIS 文化 文明 普遍化を志向するか 評論文は対立で動く ── 軸が分かれば片方から他方が読める
本章ほんしょうに現あらわれる対立たいりつと、それを分わける軸じく
格による40語の分布硬・学術、硬、中の三段階に本章の40語を振り分けた図。 硬・学術 6 自文化 文化相対主義 文化人類学 オリエンタリズム エスニシティ クレオール 硬 3 アニミズム ドグマ 規範 中 6 文化 文明 制度 世間 神話 禁忌 語は意味ではなく格で選ぶ
格かくによる四十よんじゅう語ごの分布ぶんぷ

硬かた・学術がくじゅつに属ぞくする語ごは、会話かいわで使つかうと不自然ふしぜんに響ひびく。中なかに属ぞくする語ごは両方りょうほうで使つかえる。この区別くべつは意味いみの理解りかいとは別べつの層そうにあり、書かく段階だんかいで効きいてくる。

Output

産出さんしゅつ

やるなら ── 自分じぶんの関心かんしん領域りょういきから一ひとつ選えらび、次つぎのいずれかを一段落いちだんらくで書かく。

  • 自分じぶんが当あたり前まえだと思おもっている慣行かんこうを一ひとつ挙あげ、それが制度せいどであることを示しめす
  • 自分じぶんの関心かんしん領域りょういきで「禁忌きんき」になっている問といを一ひとつ挙あげ、それが守まもっている秩序ちつじょは何なにかを書かく
Blank

文化ぶんかに優劣ゆうれつはないと言いうとき、その判断はんだん自体じたいは、どの文化ぶんかの内側うちがわから下くだされているのか。