Macro — 五十語の地図
評論語は概念を、小説語は心の動きを名づける
四つの層 ── 形容詞・慣用句・漢語・副詞
第1部・第2部の語が概念を名づけるものだったのに対し、この五十語は心の動きを名づける。だから覚え方も変わる。定義を暗記するのではなく、誰の、どんな心が、どう動いたかという場面ごと押さえるほうが速い。原書が各語に作品の一節を添えているのはそのためである。
読解上の急所は二つある。一つは誤用で、「気の置けない」「棹さす」「姑息」のように、広まっている意味が本来と正反対の語がある。もう一つは語源で、字と成り立ちをたどれば意味は導ける。この二つを先に図にしておく。
誤用が問われる六語
語源が意味を決める五語
Section 01
感情の形容詞
心情語の二軸配置
161★★★
しおらしい
しおらしい[4]しおらしい中高型
定義
① 控えめで従順な様子。
② 上品で優美な様子。
『現代文キーワード読解』第3部 ☑161
原書の解説
「萎れる」からできた語というものなど、語源にはいくつかの説がある。
使用の境界控えめで従順な様子。おとなしいだけでは足りず、いじらしさや可憐さを伴う。
用法見る側の好意的な視線を含む語である。だから自分について「私はしおらしい」とは言いにくい。小説では、若い女性や小さなものの佇まいを描くのに使われ、堀辰雄の作例のように石仏にも用いられる。人以外にも及ぶ点が特徴である。現代語では「普段は強気な人が急にしおらしくなる」という落差を面白がる用法が多く、この場合はやや揶揄が混じる。語源には「萎れる」からとする説などがある。
用例
-
うつくしきもの、瓜にかきたるちごの顔。雀の子の、ねず鳴きするに躍り来る。……頭は尼そぎなるちごの、目に髪のおほへるを、かきはやらで、うちかたぶきて物など見たるも、うつくし。清少納言『枕草子』「うつくしきもの」の段(1000頃)
しおらしいという語がどこから発しているかを見せてくれる一段である。(1-1 で同じ書の第一段を引いた。)「うつくし」は現代語の美しいではなく小さいものをいとおしむ気持ちを言う。注目したいのは、髪をかき上げもせずに首をかしげて見ているという描写だ。本人は何もしていない。整えようとも、見せようともしていない。その無防備さを見る側が愛でている。しおらしいが自称に向かないのはこのためである — この語は見られている側ではなく見ている側に属している。
-
牡丹散つて打かさなりぬ二三片与謝蕪村(1784没)
しおらしさが衰えの側にもあることを示す一句である。牡丹は豪奢な花だ。その花びらが散って、二、三片ばかり重なっている。数を「二三片」と数えられるほど少なく言うところにこの句の全部がある。盛りのときには数えようもなかったものが、いま数えられる。語源に「萎れる」を当てる説があるのは、この語が力を失ったものへ向く視線を含むからだろう。控えめさと衰えは、見る側からは同じ姿に見える。
- 普段は言い返す人が、その日はしおらしく黙っていた。
現代語で最も多い使い方である。要点は落差だ。もともと控えめな人にはこの語を使わない。強気な人が一時的に控えめになったときに出る。だからやや揶揄が混じる — 元に戻ることを見越しているからだ。
- ×私はしおらしい性格です。
自称できない語である。この語は見る側の好意的な視線を含んでいるので、自分に向けるとその視線を自分で用意したことになる。「控えめ」「おとなしい」なら自称できる。評価語か記述語かという見分けが、ここでも効く。
作品での用例
作品冒頭の一節。筆者は、かつて奈良の古寺を訪れたことを回想する。
その萱屋根の古い寺の、木ぶかい墓地へゆく小径のかたわらに、一体の小さな苔蒸した石仏が、笹むらのなかに何かしおらしい姿で、ちらちらと木洩れ日に光って見えている。
出典 堀辰雄『大和路・信濃路』
派生形
- しおらしげ[0]「げ」は外から見た様子を表す接尾辞。「〜げ」が付くと推量の色が入る — そう見えるが本当かは分からない。もともと見る側の語であるこの語にさらに一枚距離が加わる。
- しおらしさ[0]名詞形。「しおらしさが漂う」のようにその場に広がるものとして扱える。形容詞は対象に貼りつくが、名詞形は対象から離れる。
- 萎れる[0]語源とされる語。草木が水を失って垂れるのが原義で、転じて元気をなくす。語源が正しいとすれば、しおらしさはもともと喪失の姿だったことになる — 蕪村の牡丹が照らしているのはこの層である。
コロケーション
- しおらしい姿人以外にも及ぶ形原書が引く堀辰雄の一節では石仏に使われている。この語が人以外に及ぶのは、「控えめで従順」という性格の記述ではなく、見えている佇まいの記述だからだ。意志を持たないものにも佇まいはある。性格の語なら人にしか使えないが、佇まいの語は何にでも使える。
- しおらしくうつむく動作と結ぶ形うつむく・黙る・小さくなる — 共起する動詞はすべて身を引く方向である。前へ出る動詞とは結ばない。この偏りが示すのは、しおらしさが積極的にふるまって得られるものではないことだ。何かをやめたときに現れる。
- 急にしおらしくなる落差を言う形現代語で最も頻度が高い。「急に」が付くことがこの語の現代的な用法の証である。古典では持続する佇まいだったものが、現代では一時的な変化になった。語が状態から出来事へ移っている — 共起語の変化から語義の移りが読める。
- しおらしいことを言う言葉に及ぶ形発言に使うと皮肉の色が濃くなる。姿はごまかせないが言葉はごまかせると感じられているからだ。同じ語でも、姿に使えば好意、言葉に使えば疑いになる。共起する名詞が評価の向きを決めている。
類語と差
- いじらしい健気で心を打たれる相手を憐れむ気持ちが強い。しおらしいは態度の慎ましさを見ている。
- 慎ましいでしゃばらない態度そのもの。しおらしいは、そこに愛らしさを感じ取る側の視線が入る。
- 従順素直に従う従うことに重心。しおらしいは佇まいの印象を言う。
- 健気弱い者が懸命に努める☑184。努力の側。しおらしいは静けさの側。
ENdemure / modest
ZH娴静(しとやかだ, xiánjìng)
162★★★
いぶかしい
いぶかしい[4]いぶかしい中高型
定義
① 実情が不明で、気になる。
② 疑わしく、不審に思う。
『現代文キーワード読解』第3部 ☑162
原書の解説
「物事がはっきりせず明らかにしたい」という気持ちを表す。動詞「訝る(=不審に思う)」からできた語とも言われる。
使用の境界実情がはっきりせず、気になること。相手を疑う場合と、事情を知りたい場合の両方を含む。
用法要点は、疑いよりも「明らかにしたい」気持ちが語の芯にあることである。だから相手を非難する響きが薄く、立原道造の作例のように、恋しい相手の仕草に対しても使える。動詞形は「訝る(いぶかる)」で、こちらのほうが現代では使用頻度が高い。「いぶかしげに」という副詞形も小説によく出る。漢字は「訝しい」だが、ひらがな書きが一般的である。
用例
-
世に語り伝ふる事、まことはあいなきにや、多くは皆虚言なり。……人はみな、ありのままには言はず、いささかづつ飾りて語るものなり。吉田兼好『徒然草』第七十三段(1330頃)
いぶかしさがなぜ必要かを説いた一段である。(1-1 ほかで同じ書の別の段を引いた。)兼好は嘘をつく人が悪いとは言っていない。「いささかづつ飾りて語る」 — 誰もが少しずつ盛るのだ。だから特定の誰かを疑うのではなく、伝わってくる話一般に構えを取ることになる。これが「いぶかしい」の位置だ — 相手を悪人と決めてはいない。ただ、そのまま受け取らない。1-7 の 153 のジャーナリズムが確かめるという手続きを要求するのは、この構えの制度化にほかならない。
-
私はかつて真として受け入れてきたすべてを一度は疑わねばならない。……ほんのわずかでも疑いうるものはすべて、偽として退けることにしよう。ルネ・デカルト『省察』第一省察(1641)/訳は本教材
いぶかしさを徹底したらどうなるかを示した一節である。(1-2 と 1-5 でこの著者の別の書を引いた。)注目したいのは「一度は」という限定だ。デカルトは疑い続けることを目的にしていない。疑いきったあとに残るものを見つけるために疑う。ここにいぶかしいと疑い深いの差がある — 前者は確かめるための一時の構え、後者は確かめようとしない態度だ。疑いは目的か手段かで評価が正反対になる。
- 説明を聞いてもいぶかしい思いが残った。
最も自然な形である。「思い」「気持ち」「面持ち」と結ぶ。いぶかしいのは対象ではなくこちらの心だからだ。「いぶかしい話」も言えるが、その場合も訝しく思わせる話という意味になる。
- ×彼の説明はいぶかしく間違っていた。
語の役割が違う。いぶかしいはまだ判断がついていない状態を言う。間違いだと分かった時点でいぶかしさは消える。「不審な点があった」「疑わしかった」なら自然。未決であることがこの語の条件である。
作品での用例
詩集『萱草に寄す』の冒頭に置かれた一編。複雑な女性心理への思いを綴ったものと考えられる。
――人の心を知ることは……人の心とは…… 私は そのひとが蛾を追う手つきを あれは蛾を捉えようとするのだろうか 何かがいぶかしかった
出典 立原道造『はじめてのものに』
派生形
- いぶかる[3]動詞形。「訝る」と書く。「いぶかしむ」よりやや古風で、文語の格が残る。現代の小説では地の文で見かけることが多い。
- 訝しい[4]漢字表記。「訝」は言+牙で、言葉がすんなり通らないという成り立ちとされる。現代の小説では仮名書きも多いので、読みを問われやすい。
- 怪訝[0]2-3 の 心情の漢語で別に立つ語(187)。いぶかしいの漢語版にあたるが、怪訝はほぼ「怪訝な顔」「怪訝そうに」の形に限られる。和語のほうが使い道が広い。
コロケーション
- いぶかしげに副詞としての形ほとんどこの形で現れる。「いぶかしげに見る」「いぶかしげな顔」。「げ」が付くのは、いぶかしさが外から観察されているからだ。本人が「私はいぶかしい」と言うことは少ない — 心の内が顔に出たところを第三者が書く語である。
- いぶかしむ動詞にした形「いぶかる」とも言う。動詞にすると心の動きが時間を持つ。「いぶかしい」は状態、「いぶかしむ」はその状態に入る出来事。小説では動詞形のほうが使いやすい — 場面が動くからだ。
- いぶかしさが募る量が増える形「募る」と結ぶのは、いぶかしさが時間とともに積み上がるからだ。一度きりの違和感なら消えるが、重なると疑いに変わる。いぶかしい → 疑わしい → 怪しいという段階をこの共起が示している。
- いぶかしいことに文頭に置く形書き手の判断を前置きする言い方。この形が要るのは、読者にも同じ構えを取ってもらいたいからだ。事実を並べる前に「これは訝しい」と宣言する — 読み方の指示として働く接続的な用法である。
類語と差
- 疑わしい本当かどうか怪しい疑いが中心。いぶかしいは〈はっきりさせたい〉という気持ちを含む。
- 怪訝不審に思って腑に落ちない☑187。表情に出た様子を言うことが多い。
- 腑に落ちない納得できない☑175。理屈が通らない感じ。いぶかしいは情報が足りない感じ。
- うさんくさい何かありそうで信用できない☑167。相手を怪しむ。いぶかしいは中立にも使える。
ENdubious / puzzling
ZH疑惑(いぶかしい, yíhuò)
163★
懐かしい
なつかしい[4]なつかしい中高型
定義
① 心引かれ、愛着を抱く。
② 過去のことに心引かれる。
『現代文キーワード読解』第3部 ☑163
原書の解説
「懐かしい」は「なつく」と同じ語源で、親近感を表す語。左の文章では、〈心引かれ、親しくなりたい〉という①の意である。
使用の境界①心引かれ、愛着を抱くこと。②過去のことに心引かれること。現代では②が優勢だが、古くは①が本義。
用法現代語では②「昔を思い出して心引かれる」がほぼすべてを占めるが、小説では①「心引かれ、親しくなりたい」で使われることがある。森鴎外の作例がまさにこれで、初対面の相手に対して「懐かしい人柄」と言う。過去の記憶は関係していない。「なつく」と同じ語源だと知っておくと、①の用法が理解しやすい。入試では①が問われる。
用例
-
京に入り立ちてうれし。家に至りて門に入るに、月明かければ、いとよくありさま見ゆ。聞きしよりもまして、いふかひなくぞこぼれ破れたる。紀貫之『土佐日記』(935頃)
懐かしさが喪失と一組であることを見せる一節である。(1-3 で同じ書の冒頭を引いた。)五年ぶりに帰った家は荒れ果てている。注目したいのは「うれし」から始まることだ。喜んで帰ってきて、そこで壊れた家を見る。この落差が懐かしさの構造そのものである — 変わっていないはずのものが変わっていると気づいたときに、はじめて過去が過去として立ち上がる。懐かしさは戻れたときではなく、戻れないと分かったときに来る。
-
一口飲んだ紅茶に浸した一切れの菓子が口蓋に触れた瞬間、私は身震いした。……この快さはどこから来たのか。私にはそれが分からなかった。マルセル・プルースト『失われた時を求めて』第一篇(1913)/訳は本教材
懐かしさが意志によって呼び出せないことを示した一節である。要は「分からなかった」だ。思い出そうとして思い出したのではない。菓子の味が先に来て、あとから記憶が追いついてくる。この順序が重要で、懐かしさは身体の側から始まる。2-2 の身体論で見たとおり、身体は意識より多くを覚えている。だから懐かしさは不意打ちの形でしか来ない — 懐かしもうとして懐かしむことはできない。
- 古語のなつかしは、過去を思うことではなく、心が引かれて離れがたいことを言った。
古語と現代語で意味がずれる代表格である。「なつく」と同根で、親しみを感じてそばにいたいという現在の気持ちを指した。時間の語ではなく距離の語だったのだ。入試ではこの差がそのまま問われる。
- ×初めて訪れた土地なのに、とても懐かしかった。
誤りではないが、説明が要る。この言い方が成り立つのは古語の「心が引かれる」という層が残っているからで、現代語としてはやや詩的な用法になる。評論文・小説では「懐かしさに似た」のように断りを入れるほうが文が締まる。
作品での用例
高利貸しの愛人であるお玉は、日中、よく窓の外を眺めて暮らしていた。ある時、通りかかった医学部生の岡田に恋心を抱く。
お玉のためには岡田も只窓の外を通る学生の一人に過ぎない。しかも際立って立派な紅顔の美少年であったが、それならばといって、己惚らしい、気障な態度がないのにお玉は気が附いて、何とはなしに懐かしい人柄だと思い初めた。
出典 森鴎外『雁』
派生形
- 懐かしむ[4]他動詞。対象を取るのが特徴で、「故郷を懐かしむ」。形容詞のままでは対象を「が」でしか取れないが、動詞にすると「を」で取れる — 心の向きがはっきりする。
- 懐く[2]同根の語。慣れ親しんでそばに寄る。古語の「なつかし」が時間ではなく距離の語だったことが、この語との近さから見える。語源をたどると古語の意味が出てくる例。
- 郷愁[0]ノスタルジアの訳語。故郷という場所に限定されるのが「懐かしい」との差。もとは医学用語(ホームシック)で、病名だった語が情緒の語になったという経歴を持つ。
コロケーション
- 懐かしむ動詞にした形意志的な行為になる。「懐かしい」は不意に来るが、「懐かしむ」は自分から向かう。プルーストの一節が示すのは前者で、後者はすでに手に入れた過去を味わうことだ。不意打ちか手続きかの差である。
- 懐かしい顔人に使う形久しぶりに会った人を指す。この言い方が相手に向かって使えるのは、相手が変わっていないことへの喜びを含むからだ。「老けたね」とは正反対の挨拶である。同じ再会をどちらの語で言うかで関係が決まる。
- 懐かしさに浸る受け身に近い形「浸る」という動詞が示すのは、こちらが動かず包まれるという関係だ。快いが、前へ進まない。評論文でこの語が批判的に使われるのは、懐旧が現在の課題から目をそらす道具になりうるからである。
- 懐旧漢語での言い換え硬く、距離がある。「懐旧の情」の形で使う。和語の「懐かしい」が個人の内から出るのに対し、漢語の「懐旧」は外から名づけている。語彙の層を上げると感情から距離が取れる — 評論文が漢語を選ぶ理由の一つである。
類語と差
- 恋しい離れているものを慕う対象がそばにない。懐かしいは目の前の相手にも使える(①)。
- 親しみやすい近づきやすい相手の性質。懐かしいは感じる側の心の動き。
- 慕わしい心が引き寄せられる古風。①の意に近い。
- 郷愁故郷を思う気持ち名詞。②の系列で、場所に限られやすい。
ENdear / nostalgic
ZH怀念(懐かしむ, huáiniàn)
164★
しかつめらしい
しかつめらしい[5]しかつめらしい中高型
定義
① もっともらしい。
② まじめぶった様子だ。
『現代文キーワード読解』第3部 ☑164
原書の解説
もとは「しかつべらしい」で、音が変化してできた語。「鹿爪らしい」と字をあてる。
使用の境界堅苦しく、もっともらしい様子。真面目であることではなく、真面目ぶって見えることを指す。
用法ほぼ常に揶揄が混じる語である。書き手は、その堅苦しさをおかしがっている。だから褒め言葉としては使えない。「しかつめらしい顔」「しかつめらしく」の形が多く、表情や口ぶりについて言う。漢字では「鹿爪らしい」と当てるが、これは当て字で、語源とは関係がない。現代の会話ではほとんど使われず、小説と評論に残る語である。
用例
-
文三はしかつめらしい顔をして、……役所の帰りに本を小脇に抱えて歩いてゐる。その様子がまた可笑しい。二葉亭四迷『浮雲』(1887)の主旨による
しかつめらしさがなぜ滑稽になるかを示した描写である。『浮雲』は日本の近代小説の出発点とされる。主人公の内海文三は真面目で、理屈っぽく、要領が悪い。ここが要点で、しかつめらしさは不真面目な人には出せない。本気で真面目にしているから滑稽なのだ。この語は中身の空虚さを責めているのではない — 形と場面が釣り合っていないことを笑っている。だから同じ顔つきでも、場面が変われば厳粛になる。
-
あの男は天を仰いで祈るふりをし、床に接吻し、……そうして人の財産を数えている。モリエール『タルチュフ』(1664)の主旨による/訳は本教材
しかつめらしさが偽善に近づく地点を示した戯曲である。タルチュフは敬虔なふりをする男だ。大げさな身振りほど疑わしいというこの直感は、国を問わず共有されている。ただし押さえておきたい — しかつめらしいと偽善は同じではない。偽善は中身が違うことを言うが、しかつめらしさは形が過剰であることを言う。中身が本当でもしかつめらしくはなりうる — 『浮雲』の文三がまさにそれだ。この差を押さえておかないと、この語はただの非難になる。
- しかつめらしい顔で当たり前のことを述べた。
最も多い使い方である。顔つき・口調・書きぶりと結ぶ。要点は中身との落差だ。大したことを言っていないのに重々しいからこの語が出る。中身が重ければ「厳粛」「重々しい」になる。
- ×葬儀の場でしかつめらしく振る舞った。
場面が合っていない。葬儀で真面目にしているのは当然なので、落差が生じない。「神妙に」「殊勝に」である。この語は不釣り合いを笑う語だから、釣り合っている場面では働かない。
作品での用例
何度も食事の代金を店に払わずに帰る老人がいた。彼は今夜も店に来て、注文をして言い訳を述べる。
老人は娘のいる窓や店の者に向って、始めのうちはしきりに世間の不況、自分の職業の彫金の需要されないことなどを鹿爪らしく述べ、従って勘定も払えなかった言訳を、喋々と述べる。
出典 岡本かの子『家霊』
派生形
- しかつめらしさ[0]名詞形。「〜が抜けない」「〜を装う」と結ぶ。形容詞はその場の様子を言うが、名詞形は持続する性質を言えるようになる。
- もっともらしい[5]近い語。「尤も」+「らしい」で、理屈が通っているように見える。しかつめらしいが態度に向くのに対し、もっともらしいは内容に向く。形か中身かで使い分ける。
- 鹿爪らしい[6]当て字。「鹿爪」に意味は無く、音を借りただけとされる。語源は「然(しか)」+「つめ(詰め)」など諸説あり定まらない。当て字が定着すると語源が見えなくなる例である。
コロケーション
- しかつめらしい顔最も多い形顔つきに集中する。それは表情が最も作りやすく、最も見破られやすいからだ。声も姿勢も作れるが、顔は見る側の目に最初に入る。作為が一番早く露れる場所にこの語が集まる。
- しかつめらしく言う発言に使う形内容ではなく言い方を評している。この形が示すのは、同じ内容でも言い方で受け取られ方が変わることだ。2-4 の 10 の言説が扱う枠の効果が、一人の口調の水準で起きている。
- しかつめらしい理屈中身に及ぶ形もっともらしいが実は薄いという含みになる。この用法では形の過剰から中身の空虚へ評価が滑る。厳密には別のことだが、語はしばしばこの滑りを起こす — 読解ではどちらを言っているかを押さえたい。
- しかつめらしさを崩す緩める側の語真面目な場がふとゆるむ瞬間。この言い方が好意的に響くのは、崩せるということが余裕の証だからだ。崩せない人はしかつめらしいままになる — この語が最終的に指しているのは硬さそのものである。
類語と差
- 生真面目真剣で融通がきかない中身が本当に真面目。しかつめらしいは外見の話で、揶揄が混じる。
- もったいぶるわざと重々しく振る舞うわざとらしさが明確。しかつめらしいは当人が自覚していない場合も含む。
- 厳めしいいかにも威厳がある威圧感。しかつめらしいは滑稽さを伴う。
- 神妙おとなしく殊勝である態度が改まっている。批判の含みがない。
ENsolemn / pompous
ZH一本正经(まじめくさった, yīběn zhèngjīng)
165★★
片腹痛い
かたはらいたい[5]かたはらいたい中高型
語構成
古語「傍らいたし」の「傍ら」が「片腹」と誤用されてできた語。
定義
相手の反応をそばで見聞きし、苦々しく感じる。
『現代文キーワード読解』第3部 ☑165
原書の解説
古語の「傍らいたし(=きまりが悪い・みっともない)」の「傍ら」が、「片腹」と誤用されてできた語。
使用の境界そばで見聞きして、苦々しく感じること。滑稽さと不快さが同居する。
用法語源が要点になる。古語の「傍らいたし」(=そばで見ていてきまりが悪い・みっともない)の「傍ら」が「片腹」と誤って書かれ、定着した語である。だから本来は「腹が痛い」とは無関係で、「おかしくて腹がよじれる」という現代的な理解は語源から外れる。志賀直哉の作例では、自分の言葉が過大に評価されるのを聞いて気まずくなる場面で使われており、嘲りよりも居心地の悪さが中心にある。
用例
-
仁和寺にある法師、年よるまで石清水を拝まざりければ、心憂く覚えて、ある時思ひ立ちて、ただ一人徒歩よりまうでけり。……少しのことにも、先達はあらまほしき事なり。吉田兼好『徒然草』第五十二段(1330頃)
片腹痛さがどこから生じるかを示す一段である。(1-1 ほかで同じ書の別の段を引いた。)法師は山のふもとの社を本社だと思い込んで拝んで帰る。本当の石清水は山の上にある。注目したいのは、法師が真剣だったことだ。長年の願いを果たしたつもりで満足して帰る。片腹痛さはこの「つもり」から生まれる — 本人が得意げであればあるほど見ている側は笑いをこらえることになる。失敗そのものではなく、失敗に気づいていない自信がこの語の的である。
-
十兵衛は己が腕を恃みて、人の言ふことを聞かず。……されど、その恃むところ、まことに恃むに足るや。幸田露伴『五重塔』(1892)の主旨による
片腹痛いと紙一重のところに本物があることを示す作品である。主人公ののっそり十兵衛は腕一本を頼りに塔の造営を奪い取ろうとする。周囲から見れば身の程知らずだ。ところが彼は本当に建ててしまう。ここで分かるのは、片腹痛いという評価が見る側の見積もりに依存していることだ。実力が伴えば同じ自信が気概になる。この語を使うとき、評価しているのは相手ではなく自分の判断である — 2-3 の 12 の固執と同じ危うさがここにもある。
- 初心者に指図されるとは片腹痛い。
相手の身の程を測る形である。「〜とは片腹痛い」という構文で固定して使うことが多い。上から見下ろす語なので、使えば自分の位置も同時に示すことになる。
- ×転んで打ったところが片腹痛い。
身体の痛みには使わない。「脇腹が痛い」である。もとは「傍ら痛し」(そばで見ていて見苦しい)で、「かたはら」が「片腹」に転じたとされる。語源を知ると誤用が防げる典型例である。
作品での用例
実母を亡くした少年の「私」は、祖母から、新しい母親候補の女性の写真を見せられ、感想を求められる。
「おまえはどう思う?」と言った。不意でなんといっていいかわからなかった。ただ、「心さえいい方なら」と答えた。 この答えは祖母をすっかり感心させた。十三の私からこの答えを聴こうとは思わなかったように祖母は祖父にそれを話していた。聞いていて片腹痛かった。
出典 志賀直哉『母の死と新しい母』
派生形
- 傍ら痛し[0]古語のもとの形。そばで見ていて気の毒だ・見苦しい。もとは同情の色もあったのが、現代語では嘲りに寄った。語の温度が下がった例である。
- 片腹痛さ[0]名詞形。用例は多くない。この語が形容詞のまま使われるのは、その場の反応だからで、持続する性質として名詞化する必要が薄い。
- 痛し痒し[1]紛らわしい語。どちらにしても具合が悪いというまったく別の意味。「痛」の字が共通するだけで、片腹痛いとは無関係である。
コロケーション
- 〜とは片腹痛いほぼ固定した構文「〜とは」で受けるのが定型。この構文が示すのは、片腹痛さが状態ではなく特定の言動への反応だということだ。誰かが何かを言った、その言い分に対して出る。反応の語なので、対象が要る。
- 片腹痛いかぎり強めた形「かぎり」を添えるとさらに硬くなる。この語はもともと文語の格を引きずっているので、現代の会話ではやや芝居がかる。時代小説や皮肉の文脈で生きる語である。
- 笑止漢語での言い換えほぼ同義。「笑止千万」の形で使う。片腹痛いが身体の比喩なのに対し、笑止は笑いを直接名指す。和語のほうが身体に近く、漢語のほうが判定に近い。
- 身の程知らず対象を言う語片腹痛さの原因を名指した語。この二語がしばしば一緒に現れるのは、片腹痛いが見る側の感じ、身の程知らずが見られる側の状態だからだ。同じ事態の両側を別々の語が受け持っている。
類語と差
- 笑止おかしくてばかばかしい嘲りが前面に出る。片腹痛いは気まずさも含む。
- 噴飯物ばかばかしくて笑ってしまう嘲笑が強い。片腹痛いはもっと静かな苦さ。
- 居たたまれないその場にいられない自分の側の苦しさ。片腹痛いは相手への評価を含む。
- 見苦しい見ていて不快である不快さのみ。片腹痛いは滑稽さも伴う。
ENlaughable / absurd
ZH可笑(おかしい, kěxiào)
166★★★
あさましい
あさましい[4]あさましい中高型
定義
① 見苦しい。
② 品性・態度が卑しい。
『現代文キーワード読解』第3部 ☑166
原書の解説
もとは、よくも悪くも驚きあきれることを表したが、現代では、非難の意味を込めた意で使われる。
使用の境界見苦しく、卑しいこと。道徳的に劣っていることへの強い非難を含む。
用法古語では〈驚きあきれる〉が本義で、よい方向にも悪い方向にも使えた。現代語では悪い方向に固定し、強い非難を表す。したがって軽い気持ちでは使えない。「浅ましい」と書くが、これは当て字であり、「浅い」との意味的なつながりは後から付けられたものである。確認テストの用例「自分の責任を他人に押しつけて知らん顔」がこの語の典型的な対象で、卑怯さと厚かましさを同時に責める。
用例
-
築地のつら、道のほとりに、飢ゑ死ぬる者のたぐひ、数も知らず。取り捨つるわざも知らねば、くさき香世界に満ち満ちて、変りゆくかたちありさま、目も当てられぬ事多かり。鴨長明『方丈記』養和の飢饉(1212)
あさましいという語が本来どこまでを指したかを見せる一節である。(1-1 ほかで同じ書の別の箇所を引いた。)古語の「あさまし」は善悪ではなく「あきれるほど意外だ」という意だった。よいことにも使えた。この一節が示すのはその意外さの極みである — 目も当てられない。注意したいのは、長明が死者を責めていないことだ。事態そのものがあさましい。現代語で「浅ましい」が人の心根を責める語になったのは、意外さが道徳の判断へ滑り込んだ結果である。
-
老婆は、死人の髪を抜くことを悪いとは思わない。この女もまた、生きるために蛇を干魚と偽って売っていた。……ならば自分のすることも大目に見てくれるだろう。芥川龍之介『羅生門』(1915)の主旨による
あさましさが生きるためのものであるときどう扱うかを問う場面である。(1-4 ほかでこの著者の別の作を引いた。)老婆の論理は筋が通っている。飢えて死ぬよりましだ、と。そして下人はその論理を受け取って、老婆の着物を剥ぎ取る。あさましさは伝染するのだ。ここで効いているのは、誰も悪人として書かれていないことである。状況が人をあさましくするというこの見方は、この語をただの非難から引き離す。
- 金に目がくらんだあさましい振る舞い。
現代語の中心的な用法である。欲得のために品位を失うことを言う。「浅い」という字を当てるのは後からの解釈で、もとの「あさまし」とは別語源とされる。字面が意味を作り変えた例である。
- ×満開の桜のあまりの美しさに、あさましく思われた。
古語ならば正しいが、現代語としては通じない。古語の「あさまし」はよいことにも悪いことにも使える「あきれるほど意外だ」だった。現代語は悪い方向に固定している。古文の設問ではこの差がそのまま問われる。
作品での用例
経済的にあまり豊かではない一家。一家総出で、廃品の中から自転車を拾おうとする。
一家五人が明かりの下に集合してみると、五人のうち三人までは大なり小なりいかがわしい拾得物をたずさえてきていることが判った。あさましいゴミあさりに加わらなかったと言えるのは、かろうじて三歳の子供だけだった。
出典 阿部昭『自転車』
派生形
- あさましさ[0]名詞形。「人間のあさましさ」のように、個人ではなく人間一般に向けて使うと批評の語になる。誰かを責める語から、条件を見る語へ移せる。
- あさむ[2]古語の動詞。あきれる・驚く。ここから「あさまし」が派生したとされる。驚きが語幹にあることを知ると、古語の用法の広さが腑に落ちる。
- 浅はか[2]別語。考えが足りないことを言い、欲得の含みは無い。あさましいが品位の問題なのに対し、浅はかは判断の問題。「浅」の字に引かれて混同しやすい。
コロケーション
- あさましい姿外から見た形ふるまい・姿・欲と結ぶ。心そのものには使いにくいのが特徴で、「あさましい心」より「あさましい振る舞い」が自然である。見えるところに出て初めてこの語が使える — 外から見た語であることが共起に現れている。
- あさましくも副詞にした形「〜も」を伴って文語調になる。語り手の嘆きを前置きする働きをする。出来事を述べる前に評価を置くというこの形は、古典の語りから受け継がれたものである。
- あさましさに堕する過程を言う形「堕する」が示すのは、もとはそうでなかったという前提である。生まれつきあさましい人はいない。『羅生門』の下人が数刻のうちに変わるように、状況が押し下げる。
- 浅ましい当て字での表記「浅」の字を当てることで心が浅いという解釈が定着した。語源とは別とされるが、いまではこの字が意味を支えている。1-3 で見たとおり、表記もまた意味を作る。
類語と差
- いやしい品位が低い身分や態度。あさましいは行いの醜さに重心がある。
- さもしい心根が卑しく欲深い欲の卑しさに限る。あさましいはより広い。
- 見苦しい見ていて不快外見の話にも使える。あさましいは心のありようを指す。
- 浅ましい─同語の漢字表記。「浅い」との関連は当て字による後付け。
ENdespicable / shameful
ZH卑鄙(卑劣だ, bēibǐ)
コラム ── 夏目漱石
夏目漱石は国民的作家と言われる。その作品はどれもいまだに多くの日本人に読まれ、精神の栄養になっているが、その魅力の一つは文体にあると考えられる。江戸っ子らしい、くだけていてしかも明快な、話し言葉に近い言い方や、和漢洋にわたる深い教養からおのずとにじみ出てくる格調の高さなどが、その独特の文体の魅力を形づくっている。
昔、徳川夢声という朗読の名手がラジオ番組で『草枕』を読んだそうだが、当時の人々は耳で聞いても、漱石の小説の内容を理解できたわけだ。現代とは隔世の感がある。
漱石は自然主義一色で文学が塗り込められようとしていた時代に、それに理解を示しながらもなお独自な位置を占め、森鴎外とともに文学を一段高いところから照らし出すような存在だった。その〈高さ〉を保証したものの一つは、漱石の抱いた問題意識の大きさ、深さであっただろう。
コラム ── 森鴎外
森鴎外は漱石に比肩する明治文学の巨匠だが、それだけではない。当時の日本の超エリートとしてドイツに留学し、コッホなどの著名な医学者から指導を受け、陸軍軍医総監にまで上り詰めた人物としても知られている。ドイツ留学中の経験は『舞姫』という浪漫主義作品に結実するが、その舞台を日本に移したのが『雁』だという指摘もされている。たしかに『舞姫』のエリスも『雁』のお玉も、封建社会に埋没し、薄幸な人生を送る女性である一方、『舞姫』の豊太郎と『雁』の岡田には、最終的には傍観者的な態度をとる知識人エリートという類似性が見られる。なお、鴎外は晩年、歴史小説や史伝を発表した。
ちなみに、現実の鴎外はなかなかの愛妻家で、陸軍師団のあった広島に出張した際の、夫人に宛てた配慮に満ちた手紙や歌が残されている。「自分は信用されているほど君子ではないから、外では何をしているかわからない」と夫人を煙に巻いた漱石とは対照的だ。
167★★★
うさんくさい
うさんくさい[5]うさんくさい中高型
定義
態度や様子が、どことなく疑わしいさま。
『現代文キーワード読解』第3部 ☑167
使用の境界なんとなく怪しく、信用できないこと。根拠のない直感的な疑いである点が要点。
用法要点は根拠がない直感だという点にある。具体的な証拠は挙げられないが、なんとなく信用できない――この曖昧さがそのまま語義である。だから「うさんくさいと思った」と書けば、書き手の主観であることが明示される。「胡散(うさん)」は当て字で、語源には諸説ある。会話でもよく使われ、小説では人物の第一印象を描くのに便利な語である。
用例
-
人有り、鈇(ふ)を亡(うしな)ふ者あり。其の鄰(となり)の子を意(うたが)ふ。其の行歩を視れば鈇を窃(ぬす)めるなり。顔色も鈇を窃めるなり。言語も鈇を窃めるなり。動作態度、為すところ一つとして鈇を窃めざるは無きなり。俄(にはか)にして其の谷を抇(ほ)りて其の鈇を得たり。他日、復た其の鄰の子を見るに、動作態度、鈇を窃めるに似たる無し。『列子』説符篇「亡鈇(ぼうふ)の疑い」(書き下しは本教材)
うさんくささがどこに宿るのかを実験のように示した一段である。斧をなくした男が隣の子を疑う。すると歩き方も顔色も口ぶりも、すべてが盗人らしく見えてくる。ところが谷から斧が出てきたその翌日、同じ子の同じ動作が、どこも盗人らしくない。変わったのは子ではなく男のほうだ。ここにこの語の急所がある — うさんくささは対象が持っている性質ではなく、見る側に起きている状態である。だから「うさんくさいと思った」と書けば、書き手の側の情報になる。
-
疑いは、思いのなかの蝙蝠のようなものだ。それはつねに薄明のうちを飛ぶ。フランシス・ベーコン『随筆集』「疑いについて」(1625/訳は本教材)
うさんくささがどの明るさで生じるかを言い当てている。蝙蝠が飛ぶのは昼でも夜でもない時間である。真っ暗なら疑いようがない — 何も見えないのだから判断そのものが立たない。明るければ確かめられる — 確かめれば疑いは事実に変わる。うさんくさいは、その中間の明るさにだけ生きる語だ。見えているのに見きわめられない。だから証拠が出た瞬間にこの語は死ぬ。
- 肩書きばかり並んだ名刺を出されて、うさんくさく思った。
根拠と呼べるものが何もないのに判断だけが動いている。材料は肩書きの数という形式的な事実ひとつきりで、そこから不正の証拠は一歩も出てこない。この材料と判断のあいだの跳躍が、そのままこの語の意味である。
- ×領収書の偽造が確認されたのでうさんくさい。
確認された時点でこの語は使えない。疑いが事実に変わったのだから、言うべきは「不正だ」であって疑わしさではない。この語が占めているのは検証の前の区間だけで、証拠はその区間を終わらせてしまう。
作品での用例
女子高生である裕生は、自分のことを周囲に「僕」と言っている。
母や男友達は気味が悪いからやめてくれと言う。そんなときは裕生も面倒がって、だって男の子になりたいんだもんと言いきってやり過ごした。たしかにかつてはとても男の子になりたかった。少年という言葉には爽やかさがあるけれど、少女という言葉には得体の知れないうさんくささがある。
出典 松村栄子『僕はかぐや姫』
派生形
- うさんくささ[0]「さ」で名詞になると、感じから量へ移る。「うさんくさい」はあるかないかだが、「うさんくささ」は漂う・増す・消えないと結んで程度を持つ。原書が引く松村栄子の一節が「少女という言葉には得体の知れないうさんくささがある」と名詞形を選んだのは、個々の少女ではなく語そのものにまとわる気配を言いたかったからである。
- 胡散[0]当て字で、語源には諸説ある。重要なのは単独ではほとんど使われない点だ。「胡散な男」とは言わず、ほぼ「くさい」と一体で用いる。「くさい」が意味の主役で、この接尾辞は「〜のようだが確かでない」を一手に担っている(面倒くさい・照れくさい・嘘くさい)。
- 胡乱[0]同じ「胡」を持つ漢語で、意味も近いが文体が違う。「胡乱な目つき」は書き言葉・時代がかった調子を帯び、会話ではまず出ない。和語のうさんくさいが生活の語であるのに対し、胡乱は文章の語である。同じ内容をどの文体で言うかという選択がここにある。
コロケーション
- うさんくさい男人につく形初対面の人物に最もよくつく。理由は単純で、初対面とは情報が足りない状態だからだ。情報の不足がこの語の成立条件である以上、付き合いの長い相手には使いにくい。長く知っていてなお疑うなら、それは直感ではなく蓄積であり、別の語の仕事になる。
- うさんくさそうに様態の形「そうだ」がつくことに注意したい。推量の「そうだ」は外から見た様子につく接尾辞である。うさんくささが対象の性質なら「そうだ」は要らない — 性質は推量しないからだ。この語が推量の形とこれほど馴染むこと自体が、語義が見る側にあることの文法的な証拠になっている。
- うさんくさい話事につく形「話」という名詞がよく選ばれるのは、話が伝聞の形だからである。見たものは疑いにくく、聞いたものは疑いやすい。「うまい話」「もうかる話」と結びやすいのも同じ理由で、まだ起きていない出来事は検証しようがない。検証できない情報の形がこの語を呼ぶ。
- うさんくささが漂う気配の動詞「漂う」は発生源を特定しない動詞である。匂い・気配・雰囲気といった出どころの言えないものにしかつかない。根拠が挙げられないというこの語の性格と、動詞の性格が正確に噛み合っている。逆に「うさんくささが証明された」とは言えない — 証明できるものはもううさんくささではない。
類語と差
- いかがわしい道義的に問題がありそう不健全さを含む。うさんくさいは信用の話。
- 怪しい不審である広い。うさんくさいは〈におい〉のような直感に重心。
- いぶかしいはっきりせず気になる☑162。明らかにしたい気持ち。うさんくさいは近づきたくない気持ち。
- 眉唾信じがたい名詞。話の内容に限る。うさんくさいは人にも使える。
ENsuspicious / shady
ZH可疑(怪しい, kěyí)
168★★
うとましい
うとましい[4]うとましい中高型
定義
いやで遠ざけたい気持ちだ。
『現代文キーワード読解』第3部 ☑168
原書の解説
「疎む(=いやがり遠ざける)」の形容詞形。左の文章では、自分の誤解を思い出したくないという「私」の感情が描かれる。
使用の境界いやで遠ざけたいと感じること。憎むほどではないが、そばに置きたくないという感覚を指す。
用法「疎(うと)い」と同語源で、距離を取りたいという方向が語の芯にある。だから憎悪とは違い、静かで持続的な拒否感になる。確認テストの用例のように、いつもは便利な携帯電話が今日はうとましい、という形で状況によって反転する点も特徴である。自分自身に対しても使え、「自分がうとましい」は自己嫌悪を表す。小説では人間関係の微妙な冷え方を描くのに用いられる。
用例
-
ある寒い冬の日、一群のヤマアラシが、たがいの体温で凍えを防ごうと身を寄せ合った。だがたちまち、たがいの棘が痛みだす。離れれば、ふたたび寒さが襲う。こうして近づいては離れ、離れては近づくことを繰り返したすえ、彼らは、たがいをいちばんよく耐えうるほどよい隔たりを見いだした。ショーペンハウアー『余録と補遺』第二巻(1851/訳は本教材)
うとましさが憎悪ではないことをこれほど明快に示す文章はない。ヤマアラシたちはたがいを憎んでいない — それどころか同じ寒さを共有し、たがいを必要としている。それでもそばに置くと痛い。この必要と痛みが同時に成り立つ状態が、うとましいという語の場所である。だから解決は排除ではなく距離になる。この語が静かで持続的なのは、相手を消す方向へ向かっていないからだ。
-
汚れつちまつた悲しみに/今日も小雪の降りかかる/汚れつちまつた悲しみに/今日も風さへ吹きすぎる中原中也『山羊の歌』「汚れつちまつた悲しみに」(1934/中也 1937 没)
「自分がうとましい」の構造がここに書かれている。悲しみは本来わたしのものであるはずだ。ところがこの詩で悲しみは雪が降りかかり風が吹きすぎる、外にある物のように扱われる。自分の感情を眺める位置に立つ — これが自己嫌悪の形式である。憎むのではなく持て余す。「汚れつちまつた」という完了の言い方も効いている。もう元に戻せないから、残る手立ては距離を取ることだけになる。
- 毎朝の挨拶が、いつからかうとましくなっていた。
「いつからか」が要である。うとましさには始まりの一点がない。出来事があって生じるのではなく、気づいたときにはすでにそうなっている。だから理由を問われても答えられない — 答えられないことが欠陥ではなく語義である。
- ×裏切られて、あの男がうとましい。
出来事への反応なら「憎い」である。裏切りという一点の原因があり、感情がそこから発しているのなら、それは敵意だ。うとましいは原因に還元できない、じわじわとした拒否感を受け持つ語で、強い出来事のあとにはかえって置きにくい。
作品での用例
「私」は、ナタリアという人物の生前の様子を回想し、最後の別れを悔やむ。
ローマにさえ来れば、またいつでも会える、と軽い気持で別れをつげ、またあの白い大理石の階段を小走りに駆けおりたのだったが、そのことが、十一月の雨の道で、突然、うとましかった。
出典 須賀敦子『ふるえる手』
派生形
- うとむ[2]形容詞の元になった動詞。重要なのは他動詞である点で、「彼を疎む」と対象を取る。つまり動詞のほうには意志がある。形容詞になると意志が抜けて感じ方だけが残る — 「うとましい」はそう感じてしまうのであってそうしようとしているのではない。この意志の脱落が「〜しい」という接尾辞の仕事である。
- うとい[2]同語源で、距離という芯を共有する。ただし向きが違う。「機械に疎い」は知識の距離で、そこに嫌悪はない。「うとましい」は感情の距離である。同じ「遠さ」が、知に向けば無知、情に向けば拒否になる — 一つの語根が二つの領域へ枝分かれした好例。
- 疎遠[0]同じ「疎」を持つ漢語だが、感情が抜けている。「疎遠になる」は関係の状態を外から記述する語で、どちらが嫌ったかを言わない。和語は心の内側、漢語は関係の外形 — この分業は第1部でくり返し見た和語と漢語の役割分担そのものである。
コロケーション
- うとましく思う心の動詞と結ぶ動詞が「思う」であることに意味がある。憎しみは行動になる — 憎んで殴る、憎んで訴える、と外へ出る。ところがうとましさは思うにとどまる。離れたいという願いであって働きかけの意志ではないから、行為の動詞と結びようがない。この語が人間関係の冷え方を描くのに向くのは、何も起こらないまま進行するからだ。
- 自分がうとましい自分に向く形この語がもつ最も苦しい形である。うとましさの処方は距離を取ることだが、相手が自分なら距離が取れない。逃げ場のない拒否感だけが残る。「憎い」を自分に向けると自罰になり、刑を執行すればいちおう片がつく。うとましいにはその出口すらない。
- うとましい存在名づける形「存在」という極端に抽象的な名詞と結ぶ。「うとましい行為」とはあまり言わない。この偏りが示すのは、非難されているのが何をしたかではなく、そこに居ること自体だという事実である。行為なら改められるが、存在は改めようがない — この語の救いのなさはそこにある。
- うとましさが募る蓄積の動詞「募る」は少しずつ増えていく動詞である。瞬間の感情とは結ばない — 「驚きが募る」とは言わない。うとましさがこの動詞を選ぶのは、それが時間をかけて積もる型の感情だからだ。一回の出来事では成立せず、反復が要る。
類語と差
- 憎らしい憎み、腹立たしい積極的な敵意。うとましいは離れたい気持ち。
- わずらわしい面倒でうるさい手間の話。うとましいは存在そのものへの拒否感。
- 疎遠つきあいが遠のく関係の状態。うとましいは感情。
- よそよそしい親しみがない相手の態度。うとましいは自分の感じ方。
ENirksome / repellent
ZH厌烦(うとましい, yànfán)
169★★
さしでがましい
さしでがましい[5]さしでがましい中高型
定義
他人のことに必要以上に関わると感じさせるさま。
『現代文キーワード読解』第3部 ☑169
原書の解説
古語の「差し出づ(=出しゃばる)」からできた語と言われている。
使用の境界分をこえて口や手を出す様子。実際にでしゃばっている場合と、そう思われることを恐れる場合の両方で使う。
用法実際の用法で最も多いのは前置きとしての謙遜である。「さしでがましいようですが」と断ってから意見を述べる。この場合、話し手は自分の発言が越境だと認めたうえで、それでも言うという構えを取る。確認テストの用例もこの形である。したがってこの語は、人間関係の境界線を意識していることの表明になる。他人を非難する用法もあるが、頻度は前置きのほうが高い。
用例
-
子曰く、其の位に在らざれば、其の政(まつりごと)を謀(はか)らず。『論語』泰伯篇(書き下しは本教材)
この語が何を前提にしているかを一行で示している。「位」とは担当の範囲である。孔子が言っているのは能力の話ではない — 正しい意見であっても、位置が違えば口を出すべきではないという境界の話だ。さしでがましいという語も同じ構えに立つ。言った内容が間違っているとは一言も言っていない。言う資格の位置にいるかどうかだけを問題にする。だから正論ほどさしでがましくなりうる。
-
人は、忠告ほど気前よく与えるものはない。ラ・ロシュフコー『箴言集』第一一〇(1665/訳は本教材)
さしでがましさがどこから湧くかを突いている。忠告には元手がかからない。金も労力も要らず、言うだけで善意の側に立てる。だから人はいくらでも出す。悪意から生まれるのではなく、安さから生まれる — ここがこの語の厄介なところだ。「さしでがましいようですが」という前置きは、この安さを自分で値付けし直す行為である。ただでは出しませんと断ってから出す。
- さしでがましいようですが、日付をもう一度ご確認ください。
実際に最も多い型である。構造を見ると奇妙なことが起きている — 越境だと自分から認めたうえで、それでも越える。つまりこの前置きは謙遜の形をした許可の要求であり、境界を意識していることの表明によって境界を越える権利を一時的に買っている。
- ×さしでがましくご指導いただき、ありがとうございました。
相手の行為には使えない。この語は他人への非難か自分の謙遜のどちらかで、感謝の枠には入らない。敬語の形をしていても、語彙そのものがマイナスの評価を運んでいるので打ち消せない — 評価語は文型で中和できないという典型例である。
作品での用例
「私」が、修道院にいる叔母に就職の報告をすると、叔母から祝いの手紙が届いたが、そこには格言が書かれていた。
「貧しくとも正しく働け。悩むとも、聖霊とともにそれが如何に正しき悩みなるかを知れよ。絶望はいびつなる悩みであることを知れ。」 私は叔母のこの平凡な文章を嘲笑したのではなく、寧ろ彼女のさしでがましさによって力づけられ慰められるのを知ったのである。
出典 井伏鱒二『たま虫を見る』
派生形
- さしでがましさ[0]名詞化すると評価が反転しうる。原書が引く井伏鱒二の一節では、「私」は叔母のさしでがましさによって力づけられ慰められると書く。形容詞のままなら非難だが、名詞にして「〜によって」の原因の位置に置くと、越境そのものが好意の証として読み直される。品詞の変換が価値の変換を可能にしている。
- さしでる[0]元の動詞。「出る」は自動詞で、自分の側の運動を言う。ここが大事で、さしでがましさは相手を引き込む力ではなく、自分がはみ出す動きである。境界線は動かない。動くのは自分だけ — だから責任がすべてこちら側に来る。
- 出しゃばる[3]ほぼ同義だが前置きに使えない。「出しゃばるようですが」とは言わない。理由は語の格にある — 俗語的で非難の色が強すぎるので、謙遜の型に乗らない。同じ内容の語でも、格が低いほうは自分に向けにくい。謙遜にはある程度の文体の高さが要るのである。
コロケーション
- さしでがましいようですが前置きの型「よう」がこの型のすべてである。断定すれば「さしでがましいですが」となり、自分の越境を事実として認めてしまう。「ようだ」を挟むと推量になり、「そう見えるかもしれませんが」に後退する。わずか二音で責任の量が変わる — 日本語のモダリティが対人関係を調節している現場だ。
- さしでがましい真似非難の形「真似」という名詞が選ばれることに注目したい。「真似」は行為を一段低く見る語で、本物でないという含みを持つ。つまりこの結びつきは助言の中身を評価していない — 助言者を演じたこと自体を責めている。内容ではなく位置を撃つというこの語の性格が、名詞の選択に出ている。
- さしでがましいとは存じますが改まった形敬語が重なるほどこの語は生きる。理由は明快で、敬語とは距離の表示であり、この語は距離の侵犯についての語だからだ。侵犯を告げるのに距離の言葉を使う — この矛盾した組み合わせがちょうど礼儀として働く。書簡・議事・弔辞といった格の高い場ほど出現率が上がる。
- さしでがましく口を出す動作と結ぶ共起するのは「口を出す」「手を出す」「顔を出す」 — すべて「出す」である。語源の「差し出づ」がそのまま生きていて、引く方向の動詞とは結ばない。「さしでがましく黙る」とは言えない。語源の空間感覚が共起の範囲を決めている例である。
類語と差
- 出しゃばり前に出たがる人柄の記述。さしでがましいは個々の行為について言う。
- おこがましい身の程知らずである身分不相応の含みが強い。さしでがましいは領分を越える話。
- 余計な不要である不要さのみ。さしでがましいは越境の含みを持つ。
- 僭越立場を越えて出過ぎる漢語で改まった場に使う。「僭越ながら」は挨拶の定型。
ENmeddlesome / presumptuous
ZH多管闲事(おせっかいだ, duōguǎn xiánshì)
170★★
やるせない
やるせない[4]やるせない中高型
語構成
「思いを遣(や)る瀬(せ)がない」という成り立ち。感情の行き場がないことを言う。
定義
思いを晴らすことができず、つらい。
『現代文キーワード読解』第3部 ☑170
原書の解説
「遣る瀬ない」と書く。「遣る」は〈自らの思いを晴らす〉の意なので、「やるせない」は〈思いを晴らす場所がない〉となる。
使用の境界思いを晴らす方法がなく、切ないこと。悲しみに加えて、どうにもできないという行き詰まりを含む。
用法語構成が意味をそのまま示す。「遣る瀬」=思いを遣る(送り出す)瀬(場所)がないという成り立ちである。だから感情が無いのではなく、あふれる感情の行き場がないのが要点になる。恋愛小説で多用され、確認テストの用例も「思いを寄せている人が手の届かないところにいる」場面である。現代の会話でも生きている語で、「やるせない」という形容詞形のほか「やるせなさ」の名詞形もよく使われる。
用例
-
月やあらぬ春や昔の春ならぬわが身ひとつはもとの身にして在原業平/『伊勢物語』第四段(10世紀)
やるせなさの構文そのものである。去年と同じ月、同じ春。それなのにあの人だけがいない。注目すべきはこの歌が終わっていないことだ。「もとの身にして」の「して」は接続の形で、続きを求めたまま切れている。結論が出ないのではなく、出す場所がない。「遣る瀬(=思いを送り出す場所)がない」とはまさにこの文の終わらなさである。感情が過剰なのではなく、出口がない。
-
東海の小島の磯の白砂に/われ泣きぬれて/蟹とたはむる石川啄木『一握の砂』(1910)
行き場のない感情が何をするかを見せてくれる。泣いている。そして泣きながら蟹と戯れている。この二つはどちらも悲しみを解決しない。泣いても消えず、遊んでも紛れない。出口がないとき、感情は意味のない動作へ流れ込む — やるせなさが「酒をあおる」「歩きまわる」といった無目的な行為とよく結ぶのはこのためだ。行為が解決ではなく排水になっている。
- 言えなかった言葉が胸に残って、やるせない。
語構成のとおりである。言葉はすでに生まれている — 足りないのは感情ではなく宛先だ。やるせないを「悲しい」と取り違えないために、この形を基準にしておくとよい。
- ×計画が失敗してやるせない。
失敗には原因も対処もある。手を打てる出来事なら、感情には「次はこうする」という出口が残っている — それは「悔しい」である。やるせないが要求するのはどうにもならないという条件で、対処可能な事態には置けない。
作品での用例
「私」は、クラスで仲間はずれにされている哲夫と親しくなろうとする。
彼は、終始、無言で、私の家の方向と彼の家の方向の別れ目になる曲り角に来ても、知らん顔でした。 「さよなら、哲夫くん、明日ね!」 私の声だけが響き渡りました。私は、少し、やるせない思いに浸りながら、彼の後ろ姿を見守っていました。
出典 山田詠美『海の方の子』
派生形
- やるせなさ[0]名詞形が形容詞と同じくらいよく使われる珍しい語。「やるせなさに酒をあおる」のように原因の位置に置けるので、感情を行動の動機として扱えるようになる。形容詞のままでは状態の記述にとどまるが、名詞にすると物語が動き出す — 小説でこの形が多いのはそのためである。
- 遣る瀬単独ではまず使わない。「遣る瀬がある」とは言えない。否定と一体になってはじめて意味を持つ語で、「やむを得ない」の「やむ」、「とんでもない」の「とん」と同じ型に属する。否定形だけが生き残ったという事実自体が、この感情が日本語でどれほど繰り返し言われてきたかを示している。
- せんかたない[5]同じ型の兄弟語。「詮方(=方法)」+「無い」で、やるせないと構造が並行している。ただし「詮方無い」は諦めへ向かう — 方法がないと認めて手を引く。やるせないは諦めない。手を引けないまま出口を探し続けるからつらいのであって、この差がそのまま二語の距離である。
コロケーション
- やるせない思い名詞と結ぶ「思い」が最もよく選ばれるのは偶然ではない。「思い」は誰かに向かう名詞である — 思いを寄せる、思いを伝える、思いを遂げる。もともと宛先を持つ語だからこそ、宛先を失ったときの落差が大きい。「やるせない怒り」が言いにくいのは、怒りが宛先を自分で作ってしまうからだ。
- やるせなさが募る蓄積の動詞出口がないものは溜まる。流れ出る先があれば「晴れる」「収まる」と結ぶはずだが、この語は増える方向の動詞を選ぶ。「募る」「込み上げる」「胸にたまる」 — いずれも行き場のなさが前提である。共起する動詞の向きが語義の向きを写している。
- やるせなさを持て余す処理の失敗「持て余す」は扱いきれないことを言う動詞で、捨てられないものにしかつかない。要らないものなら捨てればすむ。捨てられず、かといって置き場もない — この宙づりがやるせなさの実質である。「遣る瀬」がないとは置き場がないということだと、この結びつきが教えてくれる。
- やるせなくなる変化の形自動詞的な「なる」でしか言えない。「やるせなくする」とは言わない — 誰かがそうさせたのではないからだ。加害者のいない感情である点が「悔しい」「腹立たしい」と決定的に違う。責める相手がいないので、感情は外へ出ずに内側に留まる。
類語と差
- 切ない胸がしめつけられる感情の強さ。やるせないは出口がないことに重心がある。
- もどかしい思うようにならず苛立つ苛立ちが前面。やるせないは静かな諦めを含む。
- 虚しい手ごたえがなく空虚である空白感。やるせないは満ちた思いの行き場がない状態。
- 憂鬱気が晴れない持続する気分。やるせないは特定の思いに結びつく。
ENdisconsolate / wretched
ZH无奈(どうしようもない, wúnài)
171★★
おぼつかない
おぼつかない[5]おぼつかない中高型
定義
① はっきりしない。
② 心もとない。頼りない。
『現代文キーワード読解』第3部 ☑171
原書の解説
「覚束ない」と書く。「おぼ」は「朧(=ぼうっとしてはっきりしない)」の「おぼ」と同じ語源とされている。
使用の境界①はっきりせず不確かなこと。②不安で心もとないこと。同じ形で二つの層を持つ。
用法三つの対象に使い分ける。①記憶(記憶がおぼつかない)②動作(おぼつかない足取り)③見込み(成功はおぼつかない)。共通するのは確かさが足りないことで、程度が弱く不安定な状態を表す。古語では〈はっきりしないので気がかりだ〉が本義で、②の不安の層はそこに由来する。漢字では「覚束ない」と当てるが、これも当て字である。
用例
-
照りもせず曇りもはてぬ春の夜の朧月夜にしくものぞなき大江千里/『新古今和歌集』春上(原歌は『大江千里集』、9世紀末)
「おぼ」の出どころを見せてくれる一首である。「おぼつかない」の「おぼ」は「朧(おぼろ)」と同語源とされる。この歌が言うのは「照りもせず曇りもはてぬ」 — どちらにも決まらないという状態だ。注目したいのは、この決まらなさを歌が欠如として扱っていないことである。「しくものぞなき」(これに及ぶものはない)と最上級で称える。同じ不確かさが、景に向けば美になり、心に向けば不安になる — おぼつかないの二つの層はここで一つにつながっている。
-
僕の将来に対する唯(ただ)ぼんやりした不安である。芥川龍之介『或旧友へ送る手記』(1927)
②の層がどういうものかを示す。芥川が自らの死の理由として書いたこの一行の要は「ぼんやりした」である。不安にはふつう対象がある — 試験が、病が、金が、と名指せる。ところがここでは対象が輪郭を持たない。輪郭が定まらないこと(①)が、そのまま心もとなさ(②)になる。二つの意味が一語に同居しているのは偶然ではなく、見きわめられないものは身構えようがないという人間の作りに由来している。
- おぼつかない手つきで箸を持つ子を、祖母がじっと見ていた。
動作の層。ここで面白いねじれが起きている — 当の子どもは不安を感じていない。心もとなく思っているのは見ている祖母のほうだ。動作に使うとき、この語は観察者の感情を対象へ移して述べている。
- ×おぼつかない情報をもとに記事を書いた。
情報の中身の不確かさには使わない。それは「あやふやな」「不確かな」である。おぼつかないが向かうのは記憶・動作・見込み、つまり誰かが確かにやり遂げられるかという遂行の確からしさで、命題の真偽ではない。
作品での用例
谷間にある池の周囲が、ダム建設で埋め立てられることになる。
一羽の小鳥が池の水面をかすめて、おぼつかなげに飛びまわっていた。池はこの小鳥の住居を犯した化物なのであろう。小鳥は水面にうつる自分の姿に向って細く鋭い悲鳴をあげ、幾度となくはげしい羽ばたきをした。
出典 井伏鱒二『朽助のいる谷間』
派生形
- おぼつかなさ[0]名詞化すると三つの層がいったん融ける。「足取りのおぼつかなさ」は動作の不安定さとそれを見る心もとなさを一語で抱える。形容詞は文の中で層を選ばされるが、名詞は選ばずにすむ — 多義語を多義のまま運べるのが名詞形の利点である。
- おぼつかなげ[0]「げ」+「な」で形容動詞になる。「〜ない」で終わる形容詞に「げ」がつくのは珍しく(さりげない→×さりげなげ)、この語が「ない」を否定として意識されなくなるほど一語化していることの証拠になる。語源が透明でなくなると、語は自由に接尾辞を取れる。
- 朧[0]同語源とされる語。「朧月」「朧げ」と広がる。面白いのは評価が正反対である点だ — 「朧」は春の景として愛でられ、「おぼつかない」は不安として嫌われる。同じ不明瞭さでも、眺めるなら美しく、当てにするなら困る。語の評価は対象ではなく対象との関わり方で決まるという見本である。
コロケーション
- 記憶がおぼつかない記憶の層記憶は自分のものなのに自分で確かめられない — この奇妙な所有がこの結びつきを生む。「記憶が正しい/間違っている」とは他人の証言と突き合わせてはじめて言える。それができないあいだは確かさの度合いしか言いようがない。検証の外にある自分の内容にこの語が向くのはそのためだ。
- おぼつかない足取り動作の層「足取り」「手つき」「口ぶり」 — 結ぶのは体の動きを外から名づけた名詞ばかりである。「おぼつかない意志」とは言わない。見えるものにしかつかないのは、この層が観察の語だからだ。幼児・老人・酔った人・病んだ人 — 体の制御が完成していないか失われつつある人に集中する。
- 成功はおぼつかない見込みの層「は」で取り立てることに意味がある。「成功がおぼつかない」より「成功は」のほうが自然なのは、いったん成功という望みを立て、そのうえで否定しているからだ。対比の「は」が、期待と現実の落差を一文字で作っている。見込みの語はつねに期待の存在を前提にする。
- おぼつかなげに様態の形「げ」は外から見た様子を表す。だからこの形は動作の層でしか生きない — 「記憶がおぼつかなげだ」とは言えない。原書が引く井伏鱒二の一節で小鳥が「おぼつかなげに」飛ぶのは、小鳥の内心を語り手が知らないという正直さの表明でもある。「げ」は観察者の謙虚さの印だ。
類語と差
- あやふやはっきりしない内容の曖昧さ。おぼつかないは実現や記憶の確からしさ。
- 心もとない頼りなく不安である②に近い。おぼつかないは①の意も強く持つ。
- 危うい失敗しそうである結果の見込み。おぼつかないは状態の不確かさ。
- うろ覚えはっきり覚えていない☑204。記憶に限る。おぼつかないは動作や見込みにも使える。
ENuncertain / unsteady
ZH模糊(はっきりしない, móhu)
172★★
間が悪い
まがわるい慣用句
語構成
間あいだ・タイミング+悪わるい
慣用句。「間」はタイミングとその場の空気の両方を指す。
定義
① きまりが悪い。
② 運が悪い。折が悪い。
『現代文キーワード読解』第3部 ☑172
原書の解説
「間」は、〈空間・時間・機会〉など多くの意をもつ。また、「間がいい(=運がいい)」という表現もある。
使用の境界①きまりが悪いこと。②折が悪く、都合が悪いこと。二つの意味を文脈で読み分ける。
用法「間」はタイミングとその場の空気の両方を指す語で、そこから二つの意味が出る。①は自分の側の気まずさ、②は状況の側の不都合である。確認テストの用例「人前で漢字の読みの間違いを指摘されると、間が悪い思いをする」は①。「間が悪いことに雨が降ってきた」は②。日本語の「間」は音楽・演劇・会話のリズムを指す重要語でもあり、「間がいい」「間を取る」「間が持たない」など派生が多い。
用例
-
見所(けんじょ)の批判に、「せぬ所が面白き」といふことあり。これは、為手(して)の秘する所の安心(あんじん)なり。世阿弥『花鏡』「万能を一心に綰(つな)ぐ事」(1424/表記は本教材で整えた)
日本語の「間」が何であるかを定義した文章である。観客が面白がるのは舞っている所ではなく「せぬ所」だと世阿弥は言う。ただしそれは休んでいる時間ではない。演者は内で心を切らさずにつないでいる — だから面白い。つまり「間」は空白ではなく、張りつめて保たれている時間だ。ここまで来ると「間が悪い」が何を言っているかが分かる — その保持に失敗した状態である。何もしていない時間の質が悪いのだ。
-
はしたなきもの。異人(ことひと)を呼ぶに、我ぞとてさし出でたる。物などとらするをりは、いとどなり。清少納言『枕草子』「はしたなきもの」の段(1000頃)
①きまりが悪いの最も古い記述の一つ。161 で同じ書の「うつくしきもの」を引いたが、清少納言の「ものづくし」は感情語彙の原型の目録でもある。ここで起きているのはこうだ — 他の人を呼んだのに、自分だと思って出て行ってしまった。注意したいのは、誰も自分を責めていないことである。悪いことは何も起きていない。ただ半拍ずれただけで居場所がなくなる。「間が悪い」が「悪い」と言いながら道徳の語ではないのはこのためだ。
- 謝ろうとした瞬間に相手が笑いだして、間が悪かった。
①の典型。誰も悪くない。謝ろうとした側にも笑った側にも落ち度はない。起きているのはずれだけである。責任の所在を問わないまま気まずさだけを取り出せる — これがこの語の使い勝手のよさだ。
- ×遅刻したうえに嘘をついたので間が悪い。
落ち度があるならこの語ではない。自分に非がある気まずさは「後ろめたい」「面目ない」である。間が悪いが引き受けるのは拍子のずれであって責任ではない。「悪い」という評価語を含みながら道徳的評価を含まないという珍しい語だと押さえておきたい。
作品での用例
父がアメリカにいる「彼」は、小学校一年生の時、祖父からアメリカに行くかどうか聞かれる。
「大学校を出たらお前もアメリカへ行くのかね。」 「行くさ。」 「若しお父さんが帰って来てしまったら?」 「それでも行くよ。」 そんな気はしなかったが、間が悪かったので彼はそう云った。
出典 牧野信一『地球儀』
派生形
- 間がいい対義の形が存在するのが重要である。ただし「間がいい」は②の意味しか持たない — 「運がいい・折がいい」だけで、①に対応する「きまりがいい」はない。気まずさには反対語がないのだ。否定的な感情語のほうが目が細かいという一般的傾向が、ここにも出ている。
- 間合い[0]「間」を距離として取り出した語。剣術・武道の用語から日常語になった。「間合いを詰める」「間合いを外す」と操作の対象になる点が「間が悪い」と対照的で、こちらは技術の語である。同じ「間」が、制御できる側から見れば間合い、制御に失敗した側から見れば間の悪さになる。
- 間延び[0]「間」が長すぎる状態。「間が悪い」がずれを言うのに対し、これは過剰を言う。「間延びした話」は内容が悪いのではなく張りが失われている — ふたたび世阿弥の「せぬ所」を心でつなぐという条件が効いている。間は長さの問題ではなく緊張の問題である。
コロケーション
- 間が悪いことに副詞句の型②の代表形。文頭に置いて出来事の側の不運を告げる。重要なのはこの形では話し手の心情を言っていない点だ。「あいにく」「折悪しく」と交換でき、①の気まずさは消える。同じ語が、文中の位置を変えるだけで心情の語から状況の語へ移る — 統語が意味を選ぶ好例である。
- 間が悪そうに様態の形①専用。共起する動作は頭をかく・笑ってごまかす・目をそらす・鼻の頭を触ると、いずれも意味のない手持ちぶさたの動きである。なぜか。間が悪いとは「何をすべきか決まらない時間」だからだ。空いた時間を埋めるためだけの動作が出る。世阿弥の言う「せぬ所」を保てなかった姿がそのままここにある。
- 間が悪い思いをする経験の形「思いをする」は自分では選べない経験を受け取る型である(つらい思い・恥ずかしい思い)。「間が悪くする」とは言えない。ずれは起こすものではなく起きるもので、当事者はつねに受け身だ。文型がこの語の無責任さを保証している。
- 間が持たない「間」の一族「間がいい」「間を取る」「間合い」「間延び」「間抜け」 — 「間」の一族はどれも時間の長さと空気の張りを同時に言う。日本語の「間」は空間と時間を分けないのである(「間」は部屋でもあり拍でもある)。この未分化こそが芸能語彙の土台で、「間が悪い」はその巨大な語族の末端につながっている。
類語と差
- きまりが悪い恥ずかしく落ち着かない①と同義。より日常的。
- ばつが悪い気まずい①と同義。会話で最も多い。
- 折悪しくちょうど都合の悪い時に②の副詞形。硬い言い方。
- 運が悪いめぐりあわせが悪い結果の話。間が悪いはタイミングの話。
ENawkward / ill-timed
ZH尴尬(気まずい, gāngà)
コラム ── 島崎藤村
島崎藤村は雑誌『文学界』に参加し、詩集『若菜集』を発表したが、その後は小説に転じた。『家』という作品は、『破戒』『春』に続く長編小説第三作で、明治四十三・四十四年に、新聞・雑誌に連載されたものである。当時は自然主義文学が評論を中心に全盛期を迎えていたが、それに引きずられるようにして、藤村や田山花袋などの小説にも見るべきものが出てきた頃であった。
『家』は、二つの旧家にスポットライトをあて、すべてのことを家の中に視点を置いて眺める形で書かれている。この点で、家父長制下にある家の現実を深くえぐりとった作品だ。また、二つの旧家のモデルになったのは、信州浅間の島崎家と、長姉園子が嫁いだ木曽福島の高瀬家。藤村の血縁者である両家の人々の多くはこの小説に実際に登場し、三吉という登場人物は藤村自身がモデルである。
ちなみに、自然主義文学の代表作として、藤村の『家』を挙げる評論家もいる。
コラム ── 谷崎潤一郎
谷崎潤一郎は、島崎藤村などの自然主義文学と対立する立場である、耽美派作家として出発した。しかし、二つの文学潮流を並べて比較すると、意外な類似性も見つかる。たとえば、藤村の『破戒』が当時の封建社会の下での部落問題に対する反抗意識を萌芽的に内在させ、その後のプロレタリア文学の布石となったように、谷崎の『刺青』『痴人の愛』などの作品におけるエロスや官能への傾斜は、その後の日本的なモダニズムを用意したのである。
また、随筆『陰翳礼讃』においては、過度な明るさを忌避する日本的な美のありようを追求するうちに、今日の節電効果、省エネ対策などエコロジー的な発想を喚起させるとも言えよう。
さらに晩年の傑作『細雪』は、古典的な美への傾斜を見せた退廃的な作品として、軍部によって発禁処分とされた。プロレタリア文学とは異なるが、消極的ながらも、結果的にはもう一つの抵抗文学たり得たのである。
確認テスト24
問 1次の空欄に当てはまる語を、あとの①〜⑥からそれぞれ一つずつ選べ(同じものは二度使ってはならない)。なお、空欄には活用させて入るものもある。
- ア 思いを寄せている人が手の届かないところにいる時は、何とも[ ]ものだ。
- イ 読書中の小説で、主人公の性格が自分と似ていることに気づき、[ ]気がした。
- ウ いつもはひょうきんな彼が、皆の前で話をする時は急に[ ]顔になるのが、何ともおかしい。
- エ その程度の勉強量で「猛勉強」などと言うなんて、[ ]にもほどがある。他の人は君の二倍は勉強しているよ。
- オ 通学途中で気になっていた、名前も知らない彼女に思い切って声をかけたら、あからさまに[ ]顔をされてしまった。
- カ 今日は一人でいたいのに、しきりに携帯電話にメッセージが届く。こんな時、いつもは便利な携帯電話が[ ]てたまらない。
- ①懐かしい
- ②しかつめらしい
- ③いぶかしい
- ④片腹痛い
- ⑤うとましい
- ⑥やるせない
正解と解説
ア=⑥ / イ=① / ウ=② / エ=④ / オ=③ / カ=⑤
イ:「懐かしい」には〈心引かれる〉という意味もある。
オ:「いぶかしい」の動詞形は「いぶかる(訝る)」で、〈疑わしく思う・不審に思う〉の意。
問 2次の空欄に当てはまる語を、あとの①〜⑥からそれぞれ一つずつ選べ(同じものは二度使ってはならない)。なお、空欄には活用させて入るものもある。
- ア 人前で漢字の読みの間違いを指摘されると、[ ]思いをすることになるので、自信がない時は辞書で調べよう。
- イ 「ラクして痩せられる」や「簡単に成績が上がる」などの広告を見たら、まず[ ]と思わなければならない。
- ウ 自分の責任を他人に押しつけて知らん顔をしているなんて、[ ]ことだ。
- エ 皆の前で発表した時のことは、とても緊張していて記憶が[ ]。
- オ いつもは男勝りな彼女が、好意を寄せている彼の前では急に[ ]なる。
- カ 君たち二人の問題に[ ]ことを言うようだが、一人の友人の忠告として聞いてほしい。
- ①しおらしい
- ②あさましい
- ③うさんくさい
- ④さしでがましい
- ⑤おぼつかない
- ⑥間が悪い
正解と解説
ア=⑥ / イ=③ / ウ=② / エ=⑤ / オ=① / カ=④
ア:この文では〈①きまりが悪い〉の意。
エ:この文では、〈①はっきりしない〉の意味。
自称できるかどうかが、語の所属を教える
Section 02
慣用句と動詞
173★★★
水を差す
みずをさす慣用句
定義
余計な口出しをして、邪魔をする。
『現代文キーワード読解』第3部 ☑173
原書の解説
〈物事がうまくいっていることを妨げる〉の意だが、とくに、〈仲がよい者同士の邪魔をする〉という意を表す。
使用の境界うまくいっているものを、横から邪魔してだいなしにすること。悪意の有無は問わない。
用法熱いものに水を注いで温度を下げる、という比喩がそのまま語義になっている。だから対象は盛り上がっているものに限られ、もともと停滞しているものには使えない。悪意がなくても成り立つ点が要点で、良かれと思って言った一言が水を差すこともある。「二人の仲に水を差す」のように人間関係にも使う。同じ「水」でも「水に流す」「水を向ける」は別の慣用句なので混同しない。
用例
-
ここに茶わんが一つあります。中には熱い湯がいっぱいはいっている。ただそれだけではなんの変哲もないようですが、よく気をつけて見ていると、だんだんにいろいろの微細な現象が起こって来る。寺田寅彦『茶わんの湯』(1922)
この慣用句の物理的な下地を見せてくれる随筆の書き出しである。寺田はこのあと、湯の表面に立つ湯気、茶わんの縁から起きる対流を順に描いていく。大事なのは熱い湯が「なんの変哲もない」ものではないという観察だ。熱があるかぎり中では動きが続いている。そこへ水を差せば温度が下がり、その動きが止まる。この語が「盛り上がっているもの」にしか使えないのは、比喩の元が熱の運動だからである。冷めているものに水を差しても何も起こらない。
-
久しく隔たりて逢ひたる人の、我が方にありつること、数々に残りなく語り続くるこそ、あいなけれ。吉田兼好『徒然草』第五十六段(1330頃)
水を差す側は悪意を持っていないという要点を裏から照らす。久しぶりに会った人が自分の身の上を残らず語り続ける。これを兼好は「あいなし」(=興ざめだ)と書く。語っている本人は嬉しくて話しているだけで、誰の邪魔もしていないつもりである。それでも場の熱は下がる。水を差すという語が悪意の有無を問わないのは、この語が動機ではなく結果を名づけているからだ。「差すようで悪いが」という前置きが成り立つのも、差す気がなくても差さってしまうと皆が知っているからである。
- せっかく盛り上がっているところに水を差すようだが、終電の時刻を確かめておきたい。
前置きとしての典型。構造は「さしでがましいようですが」(169)と同じで、これから自分がすることを先に名指しておく。違いは侵す対象だ — さしでがましいは相手の領分を、水を差すは場の熱を侵す。
- ×停滞した議論に水を差す。
比喩が成り立たない。冷めているものはこれ以上冷めない。慣用句の誤用はたいていこの型で、意味だけを覚えて元の場面を手放したときに起きる。「邪魔をする」とだけ覚えていると、何にでも差せるように見えてしまう。
作品での用例
「アメリカさん」と呼ばれた叔父の散歩コースについて、人々の間でさまざまに推測がされていたが、「私」にも自分なりの考えがあった。
私はこうした自分の考えをよほど一座に披露しようかと思ったが、すんでのところで思い留まった。味もそっけもない見方であったし、一座の、やはり同郷人の暖かさがどこかに感じられるアメリカさん観に徒らに水をさすようなものであったからである。
出典 井上靖『道』
派生形
- 水を差される受け身形。慣用句が受け身になれるのは、動詞として十分に生きている証拠である(「油を売られる」とは言えない)。受け身・使役・可能のどこまで活用できるかが、慣用句の固まり具合を測るものさしになる。
- 水入らず[0]「水」を外部の混じり物とみる点で同じ発想に立つ。「親子水入らず」はよそ者が入っていない状態を言う。油と水が混じらないことから来たとされ、ここでも水は「本来そこにないよそのもの」という役を与えられている。
- 冷や水を浴びせる同じ比喩体系の強い版。「差す」は少量、「浴びせる」は全量で、温度差も勢いも桁が違う。したがって悪意の有無を問わない「水を差す」と違い、こちらはほぼ意図的である。動詞の選択だけで故意か過失かが切り替わる。
コロケーション
- 二人の仲に水を差す人間関係の型原書がとくにこの用法を挙げるのには理由がある。仲のよさは「熱」の比喩で語られる語だからだ — 熱をあげる、熱が冷める、熱々。恋愛が温度で測られる以上、それを壊す動作も温度の言葉になる。比喩は単独では立たず、体系として働いている。
- 水を差すようで悪いが前置きの型「ようで」が効いている。断定すれば自分の行為を妨害と認めることになるが、「ようだ」を挟むと「そう見えるかもしれない」に後退する。169 の「さしでがましいようですが」とまったく同じ文法の仕掛けで、日本語は越境の前に推量を一枚挟むことを好む。
- 水を差された気分受け身の形受け身にすると主語が場から人へ移る。「場に水を差す」は出来事の記述だが、「水を差された気分」は個人の感情の記述になる。そして受け身では誰が差したかを言わなくてよい — 加害者を名指さずに被害だけを述べられるので、非難を和らげる働きを持つ。
- 水に流す・水を向ける紛らわしい親族「水」の慣用句は三つとも別の比喩である。「水に流す」は川の流れ(過去を押し流す)、「水を向ける」は巫女が死者を呼ぶために水を手向けたことから(話を誘い出す)、「水を差す」は湯の温度。同じ字を見て同じ族だと思うと間違える — 慣用句は字ではなく場面で分類する。
類語と差
- 邪魔する進行をさまたげる一般語。水を差すは〈盛り上がりを冷ます〉という含みを持つ。
- 腰を折る話の途中でさえぎる話に限る。水を差すは関係や雰囲気にも使う。
- 冷や水を浴びせる勢いを一気に止めるより強い。水を差すはさりげない妨害。
- 興ざめ気分がしらける結果の状態。水を差すはその原因となる行為。
ENto throw cold water on
ZH泼冷水(冷や水を浴びせる, pō lěngshuǐ)
174★★
才走る
さいばしる[4]さいばしる中高型
定義
才能に富む。また、才知が働きすぎる。
『現代文キーワード読解』第3部 ☑174
原書の解説
「才気走る」も同意。「走る」には、〈過度だ〉という否定的なニュアンスも含まれている。
使用の境界才知がすぐれ、それが表に出すぎていること。褒めきらず、批判の含みを持つ。
用法要点は褒めきらないことにある。才能があること自体は認めているが、それが表に出過ぎて鼻につく、という評価が入る。だから称賛の文脈では使えない。「走る」は度を越して先へ行くという意味で、「筆が走る」「感情に走る」と同じ用法である。小説では、少年や若者の人物描写に用いられ、その人物の未熟さを示す伏線になることが多い。
用例
-
企(つまだ)つ者は立たず、跨(また)ぐ者は行かず。自ら見る者は明らかならず、自ら是(ぜ)とする者は彰(あら)はれず、自ら伐(ほこ)る者は功なく、自ら矜(ほこ)る者は長(ひさ)しからず。『老子』第二十四章(書き下しは本教材)
「走る」という字がなぜ否定を帯びるかを説く。冒頭の二句はつま先立ちする者は長く立てず、大股で歩く者は遠くへ行けないという意味である。注意したいのは能力を否定していない点だ。つま先立ちすれば実際に高くなるし、大股なら実際に速い。問題はそれが続かないことにある。才走るという語が才を認めながら褒めきらないのはこれと同じ構えで、いま出ている速さを認めたうえで、その先を危ぶんでいる。この語が少年の描写に多いのも、先がまだ長いからである。
-
己(おれ)の珠に非ざることを惧(おそ)れるが故に、敢(あへ)て刻苦して磨(みが)かうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々(ろくろく)として瓦に伍することも出来なかった。中島敦『山月記』(1942/中島 1942 没)
才走った者の内側を書いた一節である。外から見れば李徴は才気にあふれ、人を人とも思わぬ男だった。ところが本人の告白では、その高慢は自信ではなく恐れだったという。磨けば珠でないと分かってしまうから磨かない。ここに才走るという語の観察の鋭さがある — 才が表へ出過ぎているとき、それは中身が充ちているからではなく、中身を確かめずに済ませているからであることが多い。この語の「鼻につく」という感覚は、その空洞を読み手が嗅ぎ当てているのだ。
- 才走った受け答えをする子だと、担任は褒めもけなしもしない顔で言った。
この語の使われ方を正確に写した文。褒めもけなしもしない — この宙づりが語義そのものである。才能の存在は認めているので悪口ではないが、「出過ぎ」の判定が入っているので称賛でもない。
- ×受賞の挨拶で恩師は彼を才走った若者だと讃えた。
称賛の文脈には置けない。「走る」が「度を越す」を運んでいるので、讃えるという動詞と衝突する。「才気あふれる」「英邁な」なら純粋な称賛になる。語の中に評価が埋め込まれているとき、文脈では打ち消せない。
作品での用例
「私」は、教授から入学試験の英語の成績を褒められて、嬉しくなった。
私はこの時、英語は自分が出来る方らしい、と思うことによって、私よりも大人びて見える同級生や都会育ちの才走った同級生に感じていた劣等意識から救われた。
出典 伊藤整『若い詩人の肖像』
派生形
- 才気走る[5]ほぼ同義だが、「才気」という漢語を挟むぶん文章語寄りになる。「才」一字より「才気」のほうが働きの鋭さを前に出すので、批判の色もやや濃い。同じ意味でも語を長くすると文体が上がるという一般則がここでも働く。
- 小才[0]「小」がついて批判が前面に出る。「小才が利く」は目先の器用さはあるが大きな仕事はできないという意味で、才走るにまだ残っていた敬意が消えている。接頭辞ひとつで評価の目盛りが一段下がる。
- 才走らない否定形がほとんど使われないことに注意したい。「才走らない少年」とは言わない。この語が目に付いたものだけを名指す語だからで、目に付かない状態には名前がない。否定形の不在が、その語の成立条件を教えてくれる。
コロケーション
- 才走った少年年齢と結ぶ年少者に集中するのは偶然ではない。この語は「まだ結果が出ていない」ことを前提にしている。実績のある大人に使うと侮辱に近くなる — 成し遂げたものを見ずに見かけだけで評したことになるからだ。小説でこの語が伏線になりやすいのは、語自体が「この先どうなるか」を含んでいるためである。
- どこか才走ったところ部分化の型「どこか」「〜たところ」というぼかしの枠とよく結ぶ。これは人格の全体を断じたくないという話し手の躊躇である。批判を一点に押し込めておくことで、相手を否定しきらずに済ませる。語の含む半端さが、構文の半端さを呼んでいる。
- 才走って見える見え方の動詞「見える」「思われる」と結びやすい。才走るは内面の記述ではなく印象の記述だからだ。本人が才を誇示しているとは限らない — 受け手が出過ぎだと感じているだけの場合がある。167 うさんくさいと同じ構造で、評価の所在が見る側にある。
- 筆が走る・感情に走る「走る」の一族「走る」は和語のなかで「度を越して先へ行く」を一手に担う動詞である。筆が走る(書き過ぎる)、感情に走る(理を欠く)、極端に走る、悪事に走る。共通するのは速さそのものは悪くないが、制御が追いついていないという判断だ。才走るはこの語族の一員として読むと腑に落ちる。
類語と差
- 聡明かしこく道理に明るい純粋な称賛。才走るは出過ぎている含みがある。
- 小賢しいこざかしく生意気だ明確な非難。才走るはそこまで強くない。
- 才気煥発才知がきらめいている称賛。才走るは同じ性質を批判的に見た言い方。
- 如才ない気がきいて抜かりがない対人的な気配り。才走るは知力の鋭さ。
ENprecocious / too clever
ZH精明外露(才気が表に出る, jīngmíng wàilù)
175★★★
腑に落ちない
ふにおちない慣用句
語構成
腑はらわた・心の底+落おちる
「腑」は、はらわた。理解が身体の底まで降りてこないという比喩である。
定義
納得がいかない。
『現代文キーワード読解』第3部 ☑175
原書の解説
「腑」は腹のことで、〈心〉の意を表す。左の文章では、「はは」の死に対する戸惑いが表現される。
使用の境界説明されても納得できないこと。理解できないのではなく、理解したうえで納得しきれない状態を指す。
用法「腑」ははらわたで、転じて心の底を指す。理解が頭で止まり、身体の底まで降りてこない――この比喩が語義になっている。したがって「わからない」とは違う。説明は理解できたが、それでも引っかかる、という状態である。肯定形の「腑に落ちる」も使えるが、否定形のほうが圧倒的に多い。「府に落ちない」は誤りで、「腑」が正しい。
用例
-
では、時間とは何か。誰も私に問わないなら、私は知っている。問う人に説明しようとすると、私は知らない。アウグスティヌス『告白』第十一巻(397頃/訳は本教材)
この語のちょうど裏側を言い当てた一節である。ここで起きているのは腑には落ちているが言葉にできないという状態だ。「腑に落ちない」はその反対で、言葉としては完全に理解できたのに、底まで降りてこない。二つを並べると、理解と納得が別々の器官に属していることが見えてくる。頭で分かることと腹で分かることは独立に起こりうる — この慣用句が「腑」=はらわたという身体の語を選んだのは、その独立を知っていたからである。
-
余は今まで禅宗のいはゆる悟りといふ事を誤解して居た。悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた。正岡子規『病牀六尺』(1902)
腑に落ちる瞬間の記録として読める。注目すべきは子規が新しい情報を得ていないことだ。「死ぬる事」も「生きて居る事」も前から知っている言葉である。変わったのは並べ方だけだ。つまり腑に落ちるとは知識の追加ではなく、すでにある知識の置き直しである。この語が否定形で使われることのほうが圧倒的に多いのは、材料は足りているのに配置が決まらないという状態が人の常態だからだろう。脊椎カリエスで寝たきりの子規がこれを書いたことも効いている — 腑に落ちるのは身体の側で起きる出来事だ。
- 説明はすべて筋が通っていた。それでも、どこか腑に落ちない。
正しい使い方の見本である。「筋が通っていた」と認めたうえで「それでも」と続く — この逆接がこの語の住む場所だ。理解を否定していないところが「わからない」と決定的に違う。
- ×専門用語が多くて腑に落ちない。
それは「理解できない」である。腑に落ちないは理解の失敗ではなく納得の失敗で、理解が成立していることが前提になる。前提が崩れているので、この語は置けない。
作品での用例
「私」は育ての母(「はは」)の死に遭遇した。
どうしてははの方がさきへ死んだんだろう、なぜ私があとへのこったんだろう。昔っからきつい人で、なんでも私のかなう段じゃなかったものを、なんのわけでこんなに脆く折れてしまったんだか、なんとなく信じがたく腑に落ちかねた。
出典 幸田文『髪』
派生形
- 腑[1]はらわた。漢方の「五臓六腑」の「腑」で、中空の器官(胃・腸・膀胱など)を指す。中身を受け入れる空洞だという点が効いていて、そこへ落ちて収まるという比喩が成り立つ。臓(=詰まった器官)ではこの比喩は作れない。
- 腑抜け[0]腑が抜けた状態、つまり芯がなくなること。「腑に落ちる」が腑を受け皿とみるのに対し、こちらは腑を意志の座とみる。同じ器官が、納得の器にも気概の座にもなる — 身体語は一つの部位に複数の心の働きを割り当てる。
- 合点がいかないほぼ同義の別系統。「合点」は連歌でよい句に点を付けたことに由来し、評価と承認の語である。腑に落ちないが身体の比喩であるのに対し、合点がいかないは採点の比喩だ。同じ「納得しない」を、一方は腹で、一方は帳簿で言っている。
コロケーション
- どうにも腑に落ちない副詞と結ぶ「どうにも」「どこか」「いまひとつ」とよく結ぶ。いずれも理由を特定できないことを示す副詞である。理由が言えるなら反論すればよい — 言えないから腑という身体の語に頼ることになる。共起する副詞が、この語の言語化しにくさを証言している。
- 腑に落ちた肯定形使えるが頻度は低い。これは語の非対称を示す。納得できている状態は意識に上らないので報告されず、できていない状態だけが言葉になる。感覚の語はたいてい不調の側に語彙が偏る(172 の「間がいい」に①の意味がないのと同じ現象)。
- 腑に落ちない点名詞化の型「点」「ところ」と結んで対象を区切る。全体は納得したがこの一点だけがという限定である。議事や報告など公的な文脈でこの形が好まれるのは、相手の説明全体を否定せずに疑義を出せるからだ。身体の比喩が礼儀として働いている。
- 府に落ちない典型的な誤記「府」は役所・くらであって身体ではない。この誤記が絶えないのは、「腑」という字を日常でほとんど見ないからである(他に「臓腑」「五臓六腑」「腑抜け」ぐらい)。字が生活から退くと、慣用句は音だけになり、比喩が見えなくなる。
類語と差
- 納得できない受け入れられない一般語。腑に落ちないは身体感覚を伴う言い方。
- 釈然としないわだかまりが残るほぼ同義。より硬い。
- 合点がいかない筋が通らない理屈の側。腑に落ちないは感覚の側。
- いぶかしいはっきりせず気になる☑162。情報が足りない。腑に落ちないは情報はあるが納得できない。
ENnot convinced
ZH无法信服(納得できない, wúfǎ xìnfú)
176★★★
身も蓋もない
みもふたもない慣用句
語構成
身うつわの本体+蓋ふた
「身」は容器の本体、「蓋」はふた。「元も子もない」とは別語。
定義
率直に表現しすぎてしまい、含みや味わいがないこと。
『現代文キーワード読解』第3部 ☑176
原書の解説
「身」は容器の「蓋」に対して、物を入れる本体部分のこと。本体も蓋もないと、何もかもがあらわになることからできた語。
使用の境界露骨すぎて味わいや含みがないこと。内容が正しいかどうかは問わない。
用法「身」は容器の本体、「蓋」はそのふたで、両方ないなら中身がむき出しになる――この比喩である。要点は、言っていることは正しい場合が多いという点にある。だからこそ話が続かなくなる。「努力しても才能には勝てない、と言っては身も蓋もない」のように、正論であるがゆえに味気ない発言を評する。字面の似た「元も子もない」(元金も利子も失う=すべて台無し)とは別語なので、混同しない。
用例
-
人生は一箱のマッチに似ている。重大に扱うのは莫迦莫迦しい。重大に扱わなければ危険である。芥川龍之介『侏儒の言葉』(1927)
身も蓋もない言い方の見本であり、同時にその言い方がなぜ芸になりうるかも示している。人生をマッチ箱に喩えた瞬間、荘重な語りは一切不可能になる。これが身も蓋もないということだ。しかし芥川はそこで止めず、二つの否定を並べて逃げ場をなくす。身も蓋もなさは、相手の話を終わらせる代わりに、そこから先へ進めなくする。正しさと会話の続行可能性は別のものだとこの語は教えている。
-
真実は、めったに純粋ではなく、決して単純ではない。オスカー・ワイルド『真面目が肝心』(1895/訳は本教材)
身も蓋もない発言がなぜ不十分なのかを言う。身も蓋もない言い方の特徴は正しいことだった。「結局は金の問題だ」「才能には勝てない」 — どれも事実として反論しにくい。ワイルドが突くのはそこである。単純にできるということは、何かを捨てたということだ。捨てたぶんだけ話が速く終わる。蓋は中身を隠すためだけにあるのではなく、中身の形を保つためにもある — この慣用句が容器の比喩を選んだことの正確さがここで効いてくる。
- 身も蓋もない言い方をすれば、結局は締切に間に合うかどうかだ。
前置きとしての型。自分でそう断ってから言うことで、味気なさを承知のうえだと示す。169・173 と同じ「自分の越境を先に名指す」構えで、日本語の前置きはたいていこの形をとる。
- ×大事な書類を無くして身も蓋もない。
「元も子もない」との取り違え。元も子もないは元金も利子も失うことで損失を言い、身も蓋もないは露骨さを言う。字面が似ているだけで、比喩の出どころがまったく違う — 一方は金勘定、他方は容器である。
作品での用例
吹奏楽部員は、地区大会で他の学校の優秀な演奏を聴いて危機感をもつ。地区大会のあと、母親が克久に声をかける。
「やっぱり、強い学校は高い楽器をたくさん持っているのね」 それを言っては、身も蓋もない。言ってはならない真実というものは世の中にはある。それに高価な楽器があれば演奏できるというものでもない。
出典 中沢けい『楽隊のうさぎ』
派生形
- 身[0]容器の本体。「身」が身体を意味しないことに注意する。重箱の身、刀の身(=鞘に対する刀身)と同じ用法で、覆いに対する中身の側を指す。この一字を身体だと読んだ瞬間、慣用句全体が意味不明になる。
- 身から出た錆同じ「身」でもこちらは刀身。刀の身から出た錆だから自分の行いが招いた災いを言う。一つの語が慣用句ごとに違う物を指している — 慣用句を語ごとに分解して覚えると間違えるのはこのためだ。
- 蓋を開ける同じ容器の比喩の別の使い方。こちらは結果が明らかになることを言い、評価を含まない。「蓋がない」は味気なさ、「蓋を開ける」は判明。同じ道具から別々の意味が育つところに、慣用句の生き物めいたふるまいが見える。
コロケーション
- そう言っては身も蓋もない応答の型相手の発言を受けて返す形が最も多い。ここで注意したいのはこれが反論ではないことだ。内容が間違っているとは言っていない。言い方によって会話が死んだと告げているだけである。内容への評価と発話への評価を切り離せるのがこの語の働きだ。
- 身も蓋もない言い方発話の名づけ結ぶ名詞は「言い方」「言い草」「物言い」に集中する。「身も蓋もない考え」とはあまり言わない。心の中でどう思っていてもかまわない — 口に出してはじめて蓋が取れるからである。この語は思考ではなく発話を裁いている。
- 身も蓋もない話だが譲歩の型「だが」で受けて先へ進む形。面白いのは、この前置きを置くと会話が死ななくなることだ。蓋を取ったことを自分で申告すれば、聞き手はそれを一つの見方として受け取れる。メタ発話が会話を救っている。
- 元も子もない紛らわしい隣人「元」は元金、「子」は利子。すべてを失うことを言い、露骨さとは何の関係もない。入試ではこの二語の取り違えが狙われる。「身」と「元」、「蓋」と「子」という音とリズムの似かよりだけで混線するので、それぞれの比喩の出どころを押さえておくのが唯一の対策になる。
類語と差
- 露骨あらわで隠すところがない表現の直接さ。身も蓋もないは、その結果として話が終わってしまうことを含む。
- 直截まわりくどくない肯定的にも使える。身も蓋もないは否定的。
- にべもないそっけない冷たさ。身も蓋もないは正しすぎて味気ないこと。
- 元も子もないすべてを失う結果の話。字面が似るが意味は別。混同しやすい。
ENblunt / leaving nothing unsaid
ZH直言不讳(露骨に言う, zhíyán bùhuì)
177★★★
のっぴきならない
のっぴきならない慣用句
語構成
「退(の)き引きがならない」がつづまった語。
定義
避けることも退くこともできない。どうにもならない。
『現代文キーワード読解』第3部 ☑177
原書の解説
「のっぴき」は「退き引き」のことで、〈避けて退くこと〉を表す。また、類似表現に「進退窮まる」がある。
使用の境界避けることも退くこともできず、どうにもならないこと。深刻さの度合いが高い。
用法「退(の)き引き」がならない、つまり退くことも引くこともできない、が語源である。音がつづまって「のっぴき」になった。実際の用法では「のっぴきならない事情」という結びつきが圧倒的で、詳細を語らずに深刻さだけを伝える言い方として使われる。だから婉曲表現としての機能も持つ。ひらがな書きが標準で、漢字を当てることはまずない。
用例
-
信(しん)乃ち軍を出だし、背水(はいすい)の陣を張る。……諸将、之を賀(が)して因(よ)りて信に問ひて曰く、「兵法に『山陵を右背にし、水沢を前左にす』と曰ふ。今、将軍は臣等をして反(かへ)つて水を背にして陣せしめ……此れ何の術ぞや」と。信曰く、「此れ兵法に在り。……之を死地に陥(おとしい)れて而(しか)る後に生く」と。『史記』淮陰侯列伝「背水の陣」(書き下しは本教材)
のっぴきならない状態が何を生むかを示す。韓信はわざと川を背にして陣を敷いた。退けないと分かった兵は死力を尽くし、勝つ。つまりこの語が指すのは単なる困窮ではなく、選択肢がゼロになった構造である。「退き引きがならない」という語源のとおり、退くことも引くこともできない — この語が深刻さの度合いにおいて突出しているのは、程度ではなく構造を言っているからだ。
-
血のなかへこれほど深く踏み込んでしまった以上、もう渡らぬとしても、引き返すのは渡りきるのと同じだけ厄介なことだ。シェイクスピア『マクベス』第三幕第四場(1606/訳は本教材)
のっぴきならなさの内側から書かれた台詞である。マクベスは引き返す道が前へ進む道と同じだけ遠いことに気づく。ここで見ておきたいのはこの状況を作ったのが本人だということだ。のっぴきならない事情という言い方が詳細を語らずに深刻さだけを伝える婉曲表現として働くのは、そこに自分の落ち度が含まれているかどうかを言わずに済ませられるからでもある。語らないことがこの語の機能なのだ。
- のっぴきならない事情で欠席いたします。
圧倒的に多い型。「事情」という中身のない名詞と結ぶことで、深刻だと伝えながら何も明かさないという離れ業が成り立つ。相手もそれ以上は訊けない — 訊けば無神経になるように設計されている。
- ×のっぴきならない用事があって返信が遅れました。
程度が釣り合わない。この語は退路が断たれていることを言うので、返信の遅れ程度の結果しか生まないなら大げさになる。「立て込んでいて」「所用で」で足りる。婉曲表現は重すぎると嘘に近づく。
作品での用例
少年の兄弟が親の使いで酒屋に行き、酒屋の女主人と会う。
女主人が奥へ去り、しばらくしてもどると、二人のまえにおいてあった桃をとりあげて皮をむきはじめた。女主人はなにかいうのだろうかと顔をみつめても少年たちには黙っている。 奥で、なにかのっぴきならないことがおこったのかもしれない、と弟は想像した。
出典 野呂邦暢『白桃』
派生形
- のっぴき「のきひき」の音がつづまった形。単独では使わない。「ならない」と一体で、170 の「遣る瀬」と同じ型に属する。否定と結んだ形だけが生き残るのは、その状態が言葉にされる必要のあった状態だったということだ。
- ひらがな書き表記そのものがこの語の性格である。漢字をまず当てない — 「退っ引きならない」と書くこともできるがほぼ見ない。音がつづまって語源が見えなくなった語はかなで書かれるようになる。表記は語源意識の温度計だ。
- 抜き差しならない同じ型の兄弟語。「抜く」も「差す」もできない、つまり刀が鞘の途中で固まった状態から来たとされる。のっぴきならないが足の比喩であるのに対し、こちらは手の比喩。どちらも「二方向の動作が同時に封じられる」という同じ論理で作られている。
コロケーション
- のっぴきならない事情婉曲の型この語の用例の大半をこれが占める。注目すべきは「事情」が内容ゼロの名詞である点だ。深刻さの度合いだけを伝えて中身を伝えない — この情報量の非対称が礼儀として機能している。言わないことを相手に納得させる語彙が日本語にはいくつもあり、これはその代表格である。
- のっぴきならない立場位置の名詞「立場」「状況」「羽目」と結ぶ。いずれも人がどこかに置かれていることを言う名詞で、語源の「退き引き」という空間の比喩と噛み合っている。「のっぴきならない気持ち」とは言わない — この語は心の状態ではなく身の置きどころを言う語だからだ。
- のっぴきならなくなる変化の形「なる」で言うほかない。自分でそうしたとは言わない形が選ばれる。マクベスのように実際には自分で招いた場合でも、文法の上では出来事の側が主語になる。170 やるせないと同じで、責任の所在をぼかす自動詞の形である。
- 進退窮まる同義の漢語「進むも退くもできなくなる」で意味の構造が完全に一致する。違うのは文体と用途だ。進退窮まるは客観描写に向き、のっぴきならないは当事者の弁明に向く。和語は言い訳に使えるが漢語は使いにくい — 漢語は距離を作り、距離は共感を呼びにくいからである。
類語と差
- 抜き差しならない身動きがとれないほぼ同義。より硬い。
- 切羽詰まる追い詰められて余裕がない時間の切迫。のっぴきならないは選択肢のなさ。
- 已むを得ない仕方がない諦めの受容。のっぴきならないは事態の深刻さ。
- 窮する行き詰まる状態。のっぴきならないは形容詞的に事情を修飾する。
ENunavoidable / inescapable
ZH无法回避(避けられない, wúfǎ huíbì)
178★★★
気が(気の)置けない
きがおけない慣用句
語構成
誤用が非常に多い。「油断ならない」は正反対の意味である。
定義
遠慮する必要がなく、心から打ち解けることができる。
『現代文キーワード読解』第3部 ☑178
原書の解説
「気が許せない・油断できない」という意味に間違えやすいので注意が必要。
使用の境界遠慮する必要がなく、心から打ち解けられること。「油断ならない」という意味ではない。
用法日本語で最も誤用の多い慣用句の一つである。「気を置く」は〈遠慮する・気を遣う〉の意なので、その否定は〈遠慮がいらない〉となり、肯定的な評価になる。ところが「油断できない」という正反対の意味で理解する人が多く、文化庁の調査でも誤用が過半を占める年がある。入試でも狙われる。「気が置けない」「気の置けない」は同義で、後者のほうが「気の置けない友人」の形でよく使われる。
用例
-
君子の交はりは淡きこと水の若(ごと)く、小人の交はりは甘きこと醴(れい)の若し。君子は淡くして以て親しみ、小人は甘くして以て絶(た)ゆ。『荘子』山木篇(書き下しは本教材)
気の置けない関係の質を言い当てている。「醴」は甘酒だ。濃くて甘い交わりは初めは心地よいが長続きしない。水のように淡い交わりこそ親しみが続く。ここで大事なのは「淡い」が「冷たい」ではないことである。気を遣わないのは関心がないからではなく、遣う必要がないところまで来ているからだ。誤用がこれほど多いのは、「気を置かない」という無防備が現代語では危険の合図に聞こえてしまうからだろう — この一節は無防備が信頼の形であることを思い出させる。
-
なぜ彼を愛したのかと言うよう強いられるなら、こう答えるほかない — 「彼が彼であり、私が私であったから」と。モンテーニュ『エセー』第一巻「友情について」(1580/訳は本教材)
気の置けなさに理由がないことを言う。モンテーニュは亡友ラ・ボエシとの交わりを説明しようとして説明を放棄する。理由を挙げられる関係は、その理由が消えれば終わる — だから挙げられないことが深さの証になる。この語が「友人」「間柄」といった関係そのものの名詞としか結ばず、「気の置けない上司」が言いにくいのも同じ理屈だ。役割で説明のつく関係には、まだ気を置く場所が残っている。
- 気の置けない友人と三時間ほど黙って本を読んでいた。
この語の本質を示す作例である。沈黙が気まずくならない — これが気を置かないということだ。172 の「間が持たない」のちょうど反対で、間を埋めなくてよい関係を言う。
- ×あの人は気が置けないから、契約書はよく読んだほうがいい。
日本語で最も多い誤用。「気を置く」が〈遠慮する・気を遣う〉である以上、その否定は〈遠慮がいらない〉という肯定的な評価にしかならない。「油断ならない」は正反対である。文化庁の調査で誤用が過半を占める年もある。
作品での用例
高木という人物が、叔母や母たちのいる別荘に遊びに来る。
高木の去った後、母と叔母は少時彼の噂をした。初対面の人だけに母の印象は殊に深かった様に見えた。気の置けない、至って行き届いた人らしいと云って賞めていた。叔母は又母の批評を一々実例に照して確かめる風に見えた。
出典 夏目漱石『彼岸過迄』
派生形
- 気を置くすべての出発点。〈遠慮する・気を遣う〉で、「置く」は距離を取るという含みを持つ(「一目置く」「距離を置く」)。相手との間に「気」を一枚挟むという空間のイメージだ。この一句を覚えておけば誤用はしない。
- 気の置ける文法的には作れるが実際には使われない形。言えるはずなのに言わないという空白がここにある。遠慮の要る関係はあまりに普通なので、わざわざ名づける必要がないのだろう — 言葉は例外にだけ名を与える。
- 心置きなく[4]まったく同じ発想の生き残り。「心を置かない」=遠慮しないで、「心置きなくお過ごしください」は今も日常で使われる。こちらは誤用されないのが面白い — 副詞として一語化し、否定の形が意識されなくなったぶん、かえって安全に伝わっている。
コロケーション
- 気の置けない友人最も安定した形「気の」のほうが「気が」より多いのには文法的な理由がある。連体修飾(〜な友人)の中では主語の助詞が「が」から「の」へ交替できるのが日本語の規則で(「背の高い人」「目の大きい子」)、この語はほぼつねに名詞を修飾して使われるので「の」の形が定着した。用法の偏りが形の偏りを生んだ例である。
- 気の置けない間柄関係の名詞「間柄」「仲」「付き合い」と結ぶ。いずれも二人のあいだに成り立つものを指す名詞で、一方の性格を言う語ではないことがここから分かる。気の置けなさは人に属さず関係に属する — だから「気の置けない人」より「気の置けない間柄」のほうが正確な言い方になる。
- 気が置ける使われない肯定形肯定形はほぼ死んでいる。「気が置ける相手」とは言わない。これは誤用が広がった一因でもある — 肯定形が生きていれば「気を置く=遠慮する」が日々確認されるのに、否定形だけが残ったために元の意味が見えなくなった。語の一部だけが生き残ると誤解が始まる。
- 気が置けない/油断ならない取り違えの構図正反対の語を同義だと思うという極端な誤用が起きるのはなぜか。「〜ない」という否定形が警戒の言い方に見えること、そして「気が許せない」という実在の表現と音が近いことが効いている。「許す」は否定で警戒、「置く」は否定で親密 — この一語の違いを押さえるほかない。
類語と差
- 気安い遠慮がいらないほぼ同義でより日常的。
- 心置きない心配やわだかまりがない同じ構造の語。「心置きなく話す」。
- 親しい関係が近い距離の話。気が置けないは遠慮の不要さ。
- 油断ならない警戒を要する正反対の意味。誤用が非常に多い相手。
ENrelaxed / needing no reserve
ZH无需拘束(気兼ねがいらない, wúxū jūshù)
コラム ── 志賀直哉
志賀直哉は「小説の神様」と言われた作家である。無駄な飾りを削ぎ落とした簡潔な文章のすがすがしさは、多くの人の指摘するところだが、徹底した推敲が作品の魅力を見えないところで支えていた。たとえば、敗戦直後に書かれた『灰色の月』は、そこに描かれた出来事の起こった月日まで明示しているため、事実をそのまま書いた随筆だと多くの人に思われてきたが、実はいく通りかの草稿があり、そこから念入りに構成された小説だった。『出来事』『正義派』『清兵衛と瓢箪』などの短編も、構成的な意志によって貫かれた作品である。
志賀直哉は武者小路実篤と並んで、白樺派の実質上の中心部分を形づくった作家と言うことができる。そして日本近代小説のそれ以降のあり方に決定的な影響を与えた。だからこそ、たとえば太宰治などは志賀に激しく噛みついたのであった。確かに、日本の近代小説の枠組みをやや小さくしたという批判もされているのである。
コラム ── 芥川龍之介
夏目漱石・森鴎外という巨匠の影響を強く受けて華々しく文学的出発を遂げた芥川だが、人生のあり方から小説のあり方まで、絶えず迷いと不安を抱いていた作家でもある。たとえば本作『戯作三昧』で描かれた滝沢馬琴の創作の苦悩は、同時に芥川自身の苦悩とも重なるものだっただろう。そして、プロレタリア文学の台頭によって、彼の芸術至上主義が脅かされた時、彼は自殺を選ぶことになった。
生前のこうした芥川の迷いや不安は、志賀直哉の『沓掛にて』という芥川との交遊を回想した小品の中で垣間見ることができる。少し年上で三年ほど創作を休止していた志賀のもとを芥川が訪れ、文学上の行き詰まりの悩みを打ち明ける。二、三年、創作を中断しても差し支えないほど潤沢な資産をもち、調和した作品を描いた志賀。一方、つねに生活のやりくりに追われ、精神的な脆弱さを拭いきれなかった芥川。同時代の作家でありながら、その境遇には大きな違いがあったと言える。
179★★
高が知れる
たかがしれる慣用句
定義
程度が大したものではないとわかる。
『現代文キーワード読解』第3部 ☑179
原書の解説
「高」は、「売上高」のように数量や程度を示す。「高をくくる」は、〈大したことはないと安易に考える〉の意。
使用の境界程度が分かってしまうほどたいしたことがないこと。相手を低く見る評価を含む。
用法「高」は量や程度を表す語で、「石高」「売上高」と同じ用法である。だから「高が知れる」は〈どのくらいかが分かってしまう〉、つまりたいした量ではない、という意味になる。ほぼ常に相手を低く見る評価を伴うため、面と向かっては使いにくい。関連する「高をくくる」は見積もる側の態度を指し、こちらは油断の意味で使われる。二語を混同しないこと。
用例
-
陳渉、少(わか)き時、嘗(かつ)て人と傭耕(ようこう)す。……「苟(いやしく)も富貴とならば、相ひ忘るる無からん」と。傭者笑ひて応へて曰く、「若(なんぢ)は傭耕せらるるを為すのみ。何ぞ富貴とならんや」と。陳渉、太息して曰く、「嗟乎(ああ)、燕雀(えんじゃく)安(いづ)くんぞ鴻鵠(こうこく)の志を知らんや」と。『史記』陳渉世家(書き下しは本教材)
「高が知れる」と言われた側からの反論である。雇われ農民の仲間たちは陳渉の言葉を笑った — お前の身の程は見えている、と。これがまさに高が知れるという判断だ。注意したいのは彼らが間違った推論をしていないことである。いま見えている材料からは、その結論しか出ない。にもかかわらず陳渉はのちに秦に反旗を翻す。つまりこの語の危うさは「量を測り終えた」と見なすところにある。測れるのは現在の量だけで、志は量ではない。
-
填然(てんぜん)として之を鼓し、兵刃(へいじん)既に接す。甲を棄て兵を曳(ひ)きて走る。或いは百歩にして後に止まり、或いは五十歩にして後に止まる。五十歩を以て百歩を笑はば、則ち何如(いかん)。曰く、不可なり。直(た)だ百歩ならざるのみ、是れも亦た走るなり。『孟子』梁恵王上(書き下しは本教材)
「高」が量の語であることを示す。五十歩逃げた者と百歩逃げた者。数の上では倍の差があるのに、孟子は「これも走るなり」と切って捨てる。量の差が質の差にならない領域があるということだ。「高が知れる」も同じことをしている — 数えられる範囲に収まってしまえば、その中でどれだけ多くても同じ。「高」は石高・売上高の「高」であり、数えるという行為が済んだ時点で評価は終わっている。だからこの語は侮蔑を含まざるをえない。
- あれだけ騒いだが、損害は高が知れていた。
物に向けた穏当な使い方。人に向けると侮蔑になるが、金額・被害・分量など実際に数えられるものに向けるかぎり語構成どおりの中立な判断として働く。
- ×新人の実力は高をくくっていた。
二語の混同。「高が知れる」は結果(分かってしまった)、「高をくくる」は態度(大したことはないと安易に見積もる)である。くくるのは見積もる側の心で、知れるのは対象の量 — 主語がそもそも違う。
作品での用例
アメリカの荒野を馬で走る大会に出場した「私」は、馬に乗りながら、軍人だった父親のことを思い出す。
野戦に出たといっても父は後方の安全な指揮班に属しており、一般の召集兵や侵略された側の住民たちの舐めた困苦からみれば、無論父の苦労は比較にもならぬ高が知れたものに過ぎなかったはずだ。
出典 安岡章太郎『走れトマホーク』
派生形
- たかが[1]副詞化した形。「たかが知れている」と重ねて使うこともあるほど一語化が進み、「高」という名詞の自覚はほぼ失われている。語源が見えなくなるとかな書きになるという傾向がここでも働く(177 ののっぴきならないと同じ)。
- 高をくくる別語として押さえる。「高が知れる」との違いは時間の位置にある — くくるのは事前、知れるのは事後。事前にくくって外したときに「痛い目を見る」という筋書きが生まれる。
- 高が知れた連体形にすると侮蔑が固定する。「高が知れた腕前」はすでに判定の済んだラベルとして相手に貼りつく。述語ならその場の判断で済むが、連体修飾は属性になる — 文法の位置が傷の深さを変える。
コロケーション
- 高が知れているテイル形が標準「高が知れる」より「知れている」のほうが圧倒的に多い。テイル形は結果の残存を表すので、すでに見積もりが終わっていることを示す。この語は判断の過程ではなく判断の完了を言う語なのだと、アスペクトが教えてくれる。
- たかが〜副詞化した形「たかが子供の遊びだ」の「たかが」はこの「高」から出ている。副詞になると判断の過程が完全に消え、軽んじる気分だけが残る。「たかが」と言った瞬間に議論は終わる — 176 の身も蓋もなさに近い働きをする。
- 高をくくる態度の側の語「くくる」は束ねて一つにまとめること。まだ分かっていないものを「この程度だろう」と束ねてしまうのがこの語で、だから油断の意味になる。「知れる」は対象が自ら知られる自動詞、「くくる」は主体が勝手に束ねる他動詞 — 自他の別がそのまま意味の別である。
- 石高・売上高・残高「高」の一族「高」は和語の接尾辞として量を作る。石高(米の量)、売上高(金額)、残高(残り)、生産高。すべて数字で表せるものばかりだ。「高が知れる」を「程度が低い」と訳して済ませるとこの語族が見えなくなる — 低いのではなく数え終わるのである。
類語と差
- たかがせいぜい副詞形。「たかが百円」のように使う。
- 高をくくるたいしたことはないと見くびる見積もる側の態度。高が知れるは対象の程度。
- 底が浅い中身が乏しい中身の話。高が知れるは量や程度の話。
- 取るに足りない問題にする価値がない切り捨て。高が知れるは程度を測ったうえでの評価。
ENto be of little account
ZH不足挂齿(取るに足りない, bùzú guàchǐ)
180★★
はばかる
はばかる[2]はばかる中高型
定義
① 気がねする。遠慮する。
② いばる。幅をきかせる。
『現代文キーワード読解』第3部 ☑180
原書の解説
もとは、〈差し障りがあってうまく進まないこと〉を言う。この場面では、「げん」の「母」に対する遠慮がちな姿勢を示す。
使用の境界①気がねして控えること。②いばって幅をきかせること。正反対に見える二つの意味を持つ。
用法①と②が正反対に見えるのは、原義が〈差し障りがあってうまく進まない〉だからである。そこから、自分が差し障りを感じて控えるのが①、他人にとって差し障りになるほど幅をきかせるのが②になる。「憎まれっ子世にはばかる」は②の用法で、この諺があるために②を先に覚える人が多いが、小説で出るのは①のほうが多い。幸田文の作例も①である。
用例
-
人知れぬわが通ひ路の関守はよひよひごとにうちも寝ななむ在原業平/『伊勢物語』第五段(10世紀)
①気がねするの典型的な情景である。男は築地(ついじ)の崩れから通っていたが、見張りが立てられて通えなくなった。「関守」は本当の番人ではなく、人目そのものだ。ここで見ておきたいのは禁じているのが誰でもないことである。命令されたわけではない。差し障りがあると自分で感じて控える — これが「はばかる」の①だ。原義の〈差し障りがあってうまく進まない〉という言い方が、主体を立てていないことに注意したい。誰が障りを作ったかを言わないから、②へも転じられるのである。
-
力なき正義は無力であり、正義なき力は圧制である。……それゆえ、正義と力とを合わせねばならない。そのためには、正しいものが強くあるか、強いものが正しくあるかしなければならない。パスカル『パンセ』断章二九八(1670/訳は本教材)
②いばる・幅をきかせるの側を照らす。「憎まれっ子世にはばかる」という諺が言っているのは力が正しさと無関係に働きうるという観察である。パスカルはそれを正義なき力=圧制と名づけた。ここで①と②が一つの語に同居する理由が見えてくる — どちらも「障り」を中心に置いているのだ。障りを感じる側に立てば遠慮になり、障りを作る側に立てば横行になる。一語が正反対に見える二義を持つとき、たいてい視点が入れ替わっている。
- 母の手前をはばかって、弟は好物の皿へ手を伸ばさなかった。
①の用法。「〜の手前」「人目を」「世間を」と結ぶのが定型である。禁止する主体を名指さず、場の視線だけを置く — 小説でこの語が選ばれるのは、関係の圧力を人物に帰さずに書けるからだ。
- ×先輩をはばかって、会議を仕切った。
①と②の混線。「〜をはばかる」は①控えるの形なので、仕切るという前へ出る動作とは結べない。②の「幅をきかせる」を言いたいなら「世にはばかる」のように場所を目的語に取る形になる。取る格助詞が意味を分けている。
作品での用例
碧郎と弟章次郎は、育ての母(「母」)とはあまり仲が良くない。
母はずっと憂鬱にあまりいい顔はしていなかった。一ツにはリョーマチの悪化もあったが、碧郎への態度の執りかたについて父と意見の合わないことも、憂鬱の大きな原因らしく察せられた。だから、ときに碧郎が屈託なくはしゃいで大笑いしたりすると、げんは母を憚ってびっくりとする。
出典 幸田文『おとうと』
派生形
- 憚り[0]名詞形。「はばかりながら」のほか、便所を「はばかり」と呼ぶ用法が古くからある。人目を避ける場所だからその名になった。婉曲が固定して物の名になった例で、言い換えの化石として面白い。
- 憚る字の成り立ちも見ておきたい。「忄(りっしんべん)」+「單」で、心がためらうことを表す。字は①の側にしか対応していない — ②の「幅をきかせる」は和語の「はばかる」が独自に育てた意味で、漢字を当てたことで見えにくくなった。
- はばかりさま「ご苦労さま」に近い挨拶として使われた語。相手に差し障りをかけたことを詫びる形から出ている。今はほぼ死語だが、この語がかつて日常の対人儀礼の中心にあったことを示している。
コロケーション
- 人目をはばかる①の中心最も安定した結びつき。「人目」「世間」「外聞」「人の手前」 — いずれも実体のない視線である。具体的な個人を目的語に取りにくいのがこの語の特徴で、「父をはばかる」より「父の手前をはばかる」のほうが落ち着く。控えさせているのは人ではなく場の空気だという認識が、共起に現れている。
- はばかりながら前置きの化石「恐れながら」に近い謙譲の前置き。「はばかりながら申し上げます」は差し障りを承知で言うという構えで、169 の「さしでがましいようですが」と同じ型である。越境する前に越境を申告する — 日本語の前置きの基本形がここにも出ている。
- 憎まれっ子世にはばかる②の定型②の用例はほとんどこの諺に集中している。注目したいのは「世に」という場所の格だ。①が「〜を」で対象を取るのに対し、②は「〜に」で広がる場所を取る。「幅をきかせる」という訳語の「幅」が効いていて、これは空間を占める動詞なのである。
- はばかりなく否定形の副詞「はばかりなく言う」は遠慮せずにの意。ここで面白いのは否定形が肯定的にも否定的にも傾くことだ — 率直とも無遠慮とも読める。178 の「気が置けない」が誤解されたのと同じ地帯で、遠慮の欠如は信頼にも無礼にもなりうる。
類語と差
- 遠慮する控えめにする①と同義。日常語。
- 気兼ねする相手を思って控える①に近い。相手への配慮が明確。
- 幅をきかせる威勢よく振る舞う②と同義。
- 差し障る支障が生じるもとの意味に近い。「はばかる」の原義はここにある。
ENto refrain / to hold sway
ZH顾忌(気がねする, gùjì)
181★★★
棹さす
さおさす慣用句
語構成
棹さお+差さす
誤用が非常に多い。「流れに逆らう」は正反対の意味である。
定義
時勢・流行に合わせて物事を進める。
『現代文キーワード読解』第3部 ☑181
原書の解説
〈流れに逆らう・勢いを止める〉という反対の意味に誤用しやすいので注意。
使用の境界流れに乗って勢いを増すこと。流れに逆らうという意味ではない。
用法誤用率が非常に高い慣用句である。棹(さお)は舟を進めるための道具で、川の流れに棹を差せばいっそう速く進む。ところが「流れに逆らう」という正反対の意味で理解する人が多く、文化庁の調査では誤用が六割を超える年がある。夏目漱石『草枕』の「情に棹させば流される」が有名で、ここでも〈情の流れに乗ってしまえば押し流される〉の意である。☑173 水を差すと対で押さえるとよい。
用例
-
ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし。鴨長明『方丈記』冒頭(1212)
「流れ」という語が日本語でどういう位置にあるかを定めた一節である。流れは止められない。止めようとする者は愚かであり、賢者はそれを前提として生きる — これが『方丈記』の構えだ。ここまで押さえると「棹さす」の誤用がなぜ起きるかが見えてくる。棹という道具は川底を突くので、抵抗の身ぶりに見える。しかし実際の船頭は流れの向きへ棹を押して速度を足す。道具の形から想像した意味と、道具の使い方から来た意味がずれている — 誤用はたいていこのずれから生まれる。
-
同じ川に二度入ることはできない。われわれは同じ川に入り、また入らない。われわれはあり、またあらぬ。ヘラクレイトス 断片(前五世紀/訳は本教材)
『方丈記』と同じ観察が八百年前のギリシアにもあったことを示す。川は同じ名で呼ばれ続けるが中身は入れ替わっている。この「名は同じ、実は別」という構図が重要で、「時流に棹さす」の「時流」もまさにこれである。時代の流れは実体ではなく運動だから、乗る以外に関わりようがない。逆らうという選択肢はそもそもこの比喩の中にない — 棹は川底に届くが、川を止める道具ではない。
- 円安に棹さして、輸出企業が最高益を出した。
正しい使い方。すでに起きている流れがあり、それに乗って速度を足す。流れを作ったのは自分ではないところが要点で、この語は手柄を半分状況に返している。
- ×時代の風潮に棹さして、一人異を唱えた。
誤用率が六割を超える年もあるというその誤用である。棹を川底に突き立てて踏ん張るという絵が浮かぶために起きるが、船頭は止まるためではなく進むために棹を使う。逆らうなら「流れに逆らう」「抗する」でよい。
作品での用例
主人公の画工は山路を登りながら感慨にふける。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。
出典 夏目漱石『草枕』
派生形
- 棹[1]舟を進める道具。櫓(ろ)や櫂(かい)が水を掻くのに対し、棹は川底を突いて押す。つまり浅い川でしか使えない。底に届くというこの具体性が比喩の土台で、道具を知らないと慣用句が読めなくなる典型例である。
- 棹さす表記の揺れにも注意したい。「棹さす」「棹差す」「さおさす」が併存する。道具が生活から消えると表記が揺れ、表記が揺れると語源意識がさらに薄れる — 誤用の進行と表記の崩れは並行する。
- 棹をさす助詞を入れた形も使われる。助詞が入るほど字義に近づき、入らないほど慣用句として固まる。「棹をさす」は実際に舟を操る場面でも使えるが、「時流に棹さす」はもはや舟を思わせない。
コロケーション
- 時流に棹さす最も多い形「時流」「時勢」「風潮」「勢い」と結ぶ。いずれもすでに動いているもので、止まっているものには棹をさせない。173 の水を差すが「熱いもの」を要求するのと同じで、比喩の道具は対象の状態まで指定する。慣用句は意味だけでなく使える場面の条件を運んでいる。
- 情に棹させば流される『草枕』の一句漱石のこの一句が誤解の一因にもなっている。「流される」という結果が否定的なので、「棹さす」も否定的な行為だと読まれやすい。しかし文の構造は「情の流れに乗ってしまえば押し流される」で、乗ることと流されることは因果でつながっている。棹さす自体は中立である。
- 流れに棹さす誤用の温床この形が最も誤読される。「流れに」という「に」が対象とも方向とも読めることが効いている — 「壁に手をつく」の「に」だと取れば抵抗に見え、「風に乗る」の「に」だと取れば順行に見える。助詞の多義が慣用句の誤用を支えている。
- 水を差す/棹さす対で覚える同じ「差す」でも正反対の働きをする。水を差すは勢いを殺し、棹さすは勢いを足す。共通するのはどちらも「すでに動いているもの」に対して働きかけることだ。差すという動詞は「細いものを入れる」という身ぶりで、入れた先の結果までは決めていない。
類語と差
- 便乗するうまく機会に乗る打算的な含み。棹さすは中立にも使える。
- 追い風になる勢いを助ける状況の側。棹さすは行為の側。
- 時流に乗る時代の傾向に合わせるほぼ同義の言い換え。
- 水を差す盛り上がりを冷ます☑173。正反対の意味。対で覚える。
ENto go with the current
ZH顺水推舟(流れに乗る, shùnshuǐ tuīzhōu)
182★★★
眉をひそめる
まゆをひそめる慣用句
定義
心配・不快な気持ちを表情に出す。
『現代文キーワード読解』第3部 ☑182
原書の解説
「ひそめる」は〈しわを寄せる〉こと。また、「眉を寄せる」「顔をしかめる」も同じ意味を表す語。
使用の境界不快や心配のために眉を寄せること。表情の描写であると同時に、不快感の表明でもある。
用法「顰(ひそ)める」は寄せてしわを作るという意味で、「顰蹙(ひんしゅく)」と同じ字である。要点は、この動作が声に出さない不快の表明だという点にある。だから小説では、登場人物が言葉にできない反発を示す場面に置かれる。心配や苦痛によっても眉はひそめられるので、文脈でどちらかを判断する。「眉をしかめる」は混用が定着しつつあるが、本来は「ひそめる」が正しいとされる。
用例
-
西施(せいし)、心を病みて其の里に矉(ひそ)む。其の里の醜人、之を見て美とし、帰りて亦た心を捧げて其の里に矉む。其の里の富人、之を見て堅く門を閉ぢて出でず、貧人、之を見て妻子を挈(たづさ)へて之を去りて走る。彼は矉むの美なるを知りて、矉むの美なる所以(ゆゑん)を知らざるなり。『荘子』天運篇「西施の顰(ひそ)み」(書き下しは本教材)
「ひそめる」という語の出どころである。絶世の美女・西施は胸を病み、苦しさに眉を寄せて歩いた。その姿が美しかったので村の醜女が真似をしたところ、人々は門を閉ざして逃げた。荘子の結論は「美しい理由を知らなかった」である。この話が教えるのは眉をひそめる動作が本来意図されたものではないことだ。西施は苦しかったから寄せたのであって見せるために寄せたのではない。だからこそこの動作は言葉より正直な合図として読まれる — 小説でこの語が効くのはそのためである。
-
眉根を寄せる筋肉は、思案の行き詰まりに出会ったときにも、不快なものに出会ったときにも、同じように収縮する。ダーウィン『人及び動物の表情について』第八章(1872/の主旨による)
心配と不快という二つの読みがなぜ一つの動作に同居するかを説明してくれる。ダーウィンの観察は思考の困難と身体の苦痛が同じ筋肉を動かすというものだった。語義の多義はときに身体の構造に由来する。だから「その話に眉をひそめた」も「痛みに眉をひそめる」も同じ語で言える。どちらの意味かは文脈が決めるが、そもそも分かれていないものを文脈が分けているのだと知っておくと、読解で無理に一方に決めつけずに済む。
- 母は何も言わず、ただ眉をひそめた。それで話は終わりだった。
この動作の本質は沈黙である。言葉にすれば反論されうるが、表情は反論の相手にならない。声に出さない不快の表明が言葉より強く働くのはこのためだ。
- ×名演奏に客席は眉をひそめた。
感嘆には使えない。この動作は不快・心配・苦痛のいずれかに限られ、プラスの強い感情には向かない。「息を呑む」「目を見張る」がその位置に入る。表情の慣用句は感情の種類ごとに厳密に割り当てられている。
作品での用例
緊急入院した「彼」は、旧友が意識不明の状態で入院していることを旧友の妻(三緒子)から知らされる。
まさか、こんなところで、寝台の上に肥満した四肢を投げ出して仰臥したまま泥人形のように微動だにしない旧友と再会することになるとは思わなかったのだ。 「あんたさんも運の悪いこってしたなあ」 細君は眉をひそめて気の毒そうに彼を見た。
出典 三浦哲郎『まばたき』
派生形
- 顰蹙[0]同じ「顰」の字を持つ漢語。「顰」は眉を寄せる、「蹙」は額にしわを寄せるで、二字とも同じ動作を言っている。「顰蹙を買う」はその表情を相手にさせてしまうこと。買うという動詞が選ばれているのは、自分の行いの代価として受け取るという含みからである。
- 顰みに倣う『荘子』のこの話から出た成語。むやみに人真似をすることを言うが、現代では「他人に倣って何かをする」の謙譲表現として使われる(「顰みに倣って私も一言申し上げます」)。元は愚かさの譬えだったものが、自分に向けることで謙遜に転じた。
- 眉根[1]眉の内側の付け根。「眉根を寄せる」は「眉をひそめる」より解剖学的に正確で、実際に動くのはこの部分である。文学では「眉根」のほうが古風で和歌的な響きを持ち(「眉根掻き」は『万葉集』に見える恋の兆し)、同じ動作でも語の選択で時代の匂いが変わる。
コロケーション
- 思わず眉をひそめる無意識の副詞「思わず」「つい」とよく結ぶ。意図しないで出てしまったという注釈が付くわけだ。これは西施の話と同じ論理である — 作った表情は効かない。不随意であることが信憑性の源であり、だから副詞がその不随意性をわざわざ保証する。
- 眉をひそめる向きもあるぼかしの型「向き」「筋」といった不特定の名詞と結ぶと、誰が不快に思ったかを言わずに批判を報告できる。新聞や評論でこの形が多いのはそのためだ。表情という個人的な動作が、匿名の世論を表す装置に転用されている。
- 眉をひそめさせる使役の形使役にすると主語が出来事に移る。「その発言は多くの人の眉をひそめさせた」 — ここでは発言が主語で、不快の責任が対象の側に置かれる。能動なら感じた人の主観、使役なら起こした側の落ち度 — 態の選択が責任の配分を変える。
- 眉をひそめる/眉をしかめる混用の現状本来は「ひそめる」が正しいとされる。「しかめる」は顔全体にしわを寄せる動詞で(顔をしかめる)、眉という部分とは本来結ばない。ただし混用は相当に定着している。入試では「ひそめる」を選ぶのが安全である。
類語と差
- 顔をしかめる不快で顔をゆがめるより大きな表情。眉をひそめるは抑制されている。
- 眉をしかめる─混用されるが、本来は「ひそめる」が正しいとされる。
- 顰蹙を買う人から嫌われる結果。眉をひそめるは反応そのもの。
- 難色を示す賛成しかねる態度を見せる意思表示。眉をひそめるは感情の表出。
ENto frown
ZH皱眉(眉をひそめる, zhòuméi)
183★★★
聞こえよがし
聞こえよがし慣用句
語構成
聞きく+〜よがしわざと見せつける
「〜よがし」は〈わざと〜させる〉の接尾語。「これ見よがし」と同じ型。
定義
悪口や皮肉を、相手にわざと聞こえるように言うこと。
『現代文キーワード読解』第3部 ☑183
原書の解説
動詞「聞こえる」の命令形に接尾語「がし(=…と言わんばかりに)」がついた語。他に「これ見よがし」などもある。
使用の境界相手にわざと聞こえるように言うこと。直接言わずに聞かせる点が要点。
用法「〜よがし」は〈わざと〜させる〉を表す接尾語で、「これ見よがし」と同じ型である。要点は、形式上は相手に向けていない点にある。独り言のように、あるいは別の人に話すように言いながら、実際は当人に聞かせている。この間接性が、直接言うよりも陰湿な印象を与える。小説では人間関係の緊張を描くのに使われる。「聞こえよがしに」という副詞形が標準的な使い方である。
用例
-
イアーゴー「はてな。あれは気に入らぬ。」オセロー「何と言った。」イアーゴー「いえ、何でも。何でもありませぬ、将軍。」シェイクスピア『オセロー』第三幕第三場(1604/訳は本教材)
聞こえよがしの構造を舞台の上で解剖してみせた場面である。イアーゴーは独り言のように呟く。形式上はオセローに向けていない。だから問い返されると「何でもない」と引っ込められる。ところが引っ込めることで疑いはかえって濃くなる。ここにこの語の恐ろしさがある — 間接性は弱さではなく武器だ。直接言えば反論できるが、言っていないことには反論できない。「形式上は相手に向けていない」という一点が、相手から応答の手段を奪っている。
-
世間とは、いったい、何の事でしょう。人間の複数でしょうか。どこに、その世間というものの実体があるのでしょう。……そのうちに自分にも、世間というものの実体がぼんやりわかって来ました。世間というのは、君じゃないか。太宰治『人間失格』(1948/抄)
宛先の偽装という点でこの語と同じ仕掛けを扱っている。「世間がゆるさない」と言うとき、話し手は自分を主語の位置から外している。ゆるさないのは自分ではなく世間だ、と。ところが主人公は見抜く — 世間というのは、君じゃないか。聞こえよがしもまったく同じで、「独り言だ」「別の人に話していた」と言い張れる形を取りながら、実際の発話者はそこにいる。責任の所在をずらす技術として、二つは兄弟である。
- 隣の席で、誰にともなく「今どき手書きとはね」と聞こえよがしに言うのが聞こえた。
典型的な形。「誰にともなく」が効いている — 宛先の不在が明示されるほど、本当の宛先ははっきりする。この逆説が陰湿さの正体である。
- ×司会者は聞こえよがしに注意事項を読み上げた。
公然と全員に向けた発話には使えない。この語は「向けていないふりをする」ことを条件にしているので、初めから向けている発話には成り立たない。また内容が悪口・皮肉でない点でも外れる。
作品での用例
川口は、工藤の鉛の研ぎ方に文句をつけ、もう一度研いでくるように工藤に命じる。
「はい、分かりました」 ふだんは向こうっ気のつよい工藤が素直に返事をして、すぐに工場の隅へ戻っていった。さっそく砥石を準備しはじめている。 川口は聞こえよがしに舌打ちをしてから削り台に向かった。
出典 内海隆一郎『大づち小づち』
派生形
- がし〈…と言わんばかりに〉を表す古い接尾語。命令形に付くのが条件で(聞こえよ+がし、見よ+がし)、「わざとそうさせようとする」という意志を含む。現代語には新語を作る力が残っていない — 「読めよがし」とは言わない。接尾語の生死を見るのによい例である。
- これ見よがし[0]同じ型で方向が逆。聞こえよがしは声、これ見よがしは物や動作を使う。そしてこれ見よがしは誇示、聞こえよがしは攻撃である。感覚のチャンネルが違うと同じ構文でも働きが変わる — 見せるのは自分を大きくし、聞かせるのは相手を小さくする。
- 当てこすり[0]内容の側から名づけた語。「聞こえよがし」が言い方を指すのに対し、こちらは遠回しに相手を当ててこするという内容と手つきを指す。二語はしばしば同じ場面を別の角度から記述している — 聞こえよがしに当てこすりを言う、と重ねて使える。
コロケーション
- 聞こえよがしに言う副詞形が標準ほぼつねに「〜に」の副詞形で現れる。名詞として単独で使うことは少ない。これはこの語が言われた内容ではなく言い方を記述する語だからだ。同じ言葉でも、面と向かって言えば批判、背中越しに言えば聞こえよがし — 変わるのは発話の角度だけである。
- 聞こえよがしの嫌味内容の限定結ぶ内容は「嫌味」「悪口」「当てこすり」に限られる。褒め言葉を聞こえよがしに言うことはありえないのかというと、実はありうる — ただしその場合褒めているのは別の誰かで、当人を貶めるためである。いずれにせよ矛先は聞き手に向いている。
- これ見よがし同型の兄弟「〜よがし」は生産性の低い接尾語で、現代語に残るのはほぼこの二語だけである。「聞こえよ」「見よ」という命令形+「がし」という成り立ちで、「がし」は〈…と言わんばかりに〉。命令形を含みながら命令していないというねじれが、そのままこの語の間接性を写している。
- 独り言のように共起する枠「独り言のように」「誰にともなく」「わざと大きな声で」といった説明句とセットで現れることが多い。これは語り手が読者に仕掛けを明かしているということだ。作中人物には見えていない意図が、読者にだけ見える — 小説でこの語が緊張を生むのはこの情報の落差による。
類語と差
- 当てこすり遠回しに皮肉を言う内容が皮肉であること。聞こえよがしは言い方の話。
- これ見よがしわざと見せつける同じ「〜よがし」の型。対象が視覚。
- 嫌味不快にさせる言い方内容。聞こえよがしはその届け方。
- 独り言相手なしにつぶやく形式は同じだが、意図の有無で分かれる。
ENmeant to be overheard
ZH故意说给人听(聞こえよがし, gùyì shuō gěi rén tīng)
184★★★
健気
けなげ[1]けなげ頭高型
定義
気丈な様子。心がけがしっかりしている様子。
『現代文キーワード読解』第3部 ☑184
原書の解説
年少者や弱者が、困難な状況でもしっかりした様子をしている場合によく用いられる。
使用の境界弱い立場の者が、困難に負けず懸命に努めること。強い者の努力には使わない。
用法要点は「弱い立場の者」という前提にある。子供・女性・小さな生き物・病人などが困難に立ち向かう姿に使う語で、力のある大人が努力しても健気とは言わない。したがって見る側の目線が上からになり、称賛でありながら憐れみを含む。この非対称が現代では意識されるようになり、使い方に注意が向けられている。「健」の字を「けな」と読むのは当て字で、語源は「けなり(=異なり)」からとする説がある。
用例
-
痩蛙(やせがへる)まけるな一茶是(これ)にあり小林一茶(1828没)
健気という語が成り立つ視線の位置を一句で示している。蛙が闘っている。一茶は見ている。そして声援を送る。ここに揃っているのは弱い者・懸命さ・それを見守る者という三つの条件で、これがそのまま健気の成立条件である。注意したいのは「一茶是にあり」と名乗りながら、一茶は何もしていないことだ。助けない。見ているだけである。健気という評価につきまとう非対称はここにある — この語を使える者は、その困難の外にいる。
-
そしてよだかの星は燃えつづけました。いつまでもいつまでも燃えつづけました。今でもまだ燃えてゐます。宮沢賢治『よだかの星』(1934/賢治 1933 没)
健気の最も純度の高い形がここにある。よだかは醜いと蔑まれ、名を奪われそうになり、虫を食べて生きる自分に耐えられず、空へ昇って燃え尽きる。誰も見ていない。報われてもいない。それでも燃えつづける。健気さの本体は結果ではなく持続だとこの結びは教える。そして「今でもまだ」という現在形が効いている — 読者がこの語り手の位置に立たされる。健気と呼ぶことは、見届ける役を引き受けることでもある。
- 幼い妹が背伸びして洗い物をしている。止めるのも惜しくて、健気だと思いながら見ていた。
この語の使い方を正確に写した作例。「見ていた」で終わるところが要点である。称賛と憐れみと手を出さないことが同時に成り立つ — この複雑な心の配合を一語で担うのが健気だ。
- ×創業社長が健気に働いて会社を大きくした。
強い立場の者には使えない。この語は「弱い者が」という前提を語義に含んでいるので、権限も資源もある人物に向けると皮肉に聞こえる。「精力的に」「たゆまず」でよい。語には使ってよい相手が書き込まれている。
作品での用例
源氏方の熊谷次郎直実は平家の若武者の首を討とうとするが、敦盛は自分を討ち取るように言う。
熊谷はなさけを知る武士でした。この人一人を助けたとて源氏が負けるものでもあるまいと助けようとしますが、しかし「ただとくとく首をとれ」と若武者は健気に言い放ちます。
出典 田辺聖子『文車日記』
派生形
- 健気さ[0]名詞化すると対象から切り離せる。「その健気さに打たれた」は健気さを独立した価値として扱う言い方で、人物ではなく性質を受け取っている。感動する側の都合で性質だけを抜き取れるという点に、この語の非対称がもう一度現れる。
- 健「健」を「けな」と読むのは当て字である。語源は「けなり(=異なり)」からとする説があり、「人と違って殊勝だ」という意味だったとされる。「殊勝」もまた「ことさら勝れている」で、二語が同じ発想で作られているのが面白い。
- 殊勝[0]意味も構えも近い漢語。「殊勝な心がけ」は健気とほぼ重なるが、やや上から評定する調子が強い。和語の健気には同情が、漢語の殊勝には査定が混じる — 同じ内容を和語で言うか漢語で言うかで、見る側の姿勢まで変わる。
コロケーション
- 健気に働く弱者の努力共起する動詞は「働く」「尽くす」「耐える」「立ち向かう」。いずれも継続と負荷を含む。一度きりの勇敢な行為には使いにくい — それは「勇ましい」である。健気さは日々の積み重ねに宿るので、反復を含む動詞を選ぶ。
- 健気な姿見られる存在「姿」「様子」「けなげさ」と結ぶ。すべて外から見た形である。「健気な決意」とは言わない — 本人の内心はこの語の守備範囲ではない。161 のしおらしいと同じ構造で、評価語は見る側に属する。だから自称できない。
- 健気にも感嘆の副詞「〜にも」という形を取ると意外性への感嘆が加わる(「幼いながら健気にも」)。注目すべきは「〜ながら」とよく組むことだ。譲歩の枠が必要とされるのは、期待されていない者が期待を超えたという判断がこの語に内蔵されているからである。
- 健気/気丈近い語との差気丈は心の強さそのものを言い、立場の上下を問わない。「気丈な社長」は言えるが「健気な社長」は言いにくい。健気には「弱いのに」という譲歩が溶け込んでいるためで、その譲歩こそが憐れみの正体である。現代でこの語の使用に慎重さが求められるのはここに理由がある。
類語と差
- 殊勝感心なほど心がけがよい立場を問わない。健気は弱い者に限る。
- いじらしい健気で心を打たれる見る側の感情。健気は当人の態度。
- けなげ─ひらがな書き。小説ではこちらも多い。
- たくましい力強く困難に耐える強さそのもの。健気は弱さを前提とする。
ENbrave / admirable (of the weak)
ZH坚强(けなげだ, jiānqiáng)
コラム ── 横光利一
横光利一は、「真昼である。特別急行列車は満員のまま全速力で駆けていた。沿線の小駅は石のように黙殺された」で始まる『頭ならびに腹』で、一躍、新感覚派の旗手と目され、川端康成らとともに活躍した作家である。それ以降、横光はプロレタリア文学の隆盛と私小説の残存という二つの潮流に抗い、モダニズム文学の先頭を歩み、その試みは井伏鱒二や梶井基次郎などの新興芸術派、伊藤整や堀辰雄などの新心理主義へと受け継がれていく。未完の大作『旅愁』は、西洋近代的なものと日本的なものとの間で揺れ動く人物の内面を描いた、思想小説ともよぶべきものである。こう見るなら、横光は、関東大震災から太平洋戦争までの人々の不安や苦悩を作品に定着することに情熱を費やした作家と言えるだろう。
なお、初期の横光には、『春は馬車に乗って』『美しい家』など病妻ものの作品があり、妻と夫の愛と苦悩が新感覚派ならではの新鮮な文体で描かれている。
コラム ── 高見順
膨大な資料を駆使し数年がかりでまとめた『昭和文学盛衰史』という大著で自ら明らかにしているように、高見順は、昭和初期にアバンギャルド運動などの影響を受け、またプロレタリア文学運動組織に加わって、横光利一らのモダニズム文学とプロレタリア文学の両方に関わった作家である。さらに転向も経験しつつ、その痛みの中から創作に向かっていった。『故旧忘れ得べき』などがその現れだが、そこで彼は独特の饒舌体を操って自らのやり場のない苦しみを直視していき、独自の小説世界を切り開いた。
『故旧忘れ得べき』に、理髪店で鏡の前の自分と対面する時の奇妙な違和感を描いた一節がある。こうした違和感は戦後の長編『わが胸の底のここには』に受け継がれていく。それは、島崎藤村の「吾胸の底のここには言ひがたき秘密住めり」という詩句を題名にした作品で、元県知事を父にもつ私生児として貧困家庭に育った者の屈折や苦悩が、自虐的に描かれている。
確認テスト25
問 1次の空欄に当てはまる語を、あとの①〜④からそれぞれ一つずつ選べ(同じものは二度使ってはならない)。なお、空欄には活用させて入るものもある。
- ア 携帯電話で大声で会話すると、電車の中では乗客が[ ]ことがある。
- イ 本当はそうは思ってないのに、大勢に合わせて流れに[ ]発言をするなんて、調子のいい人だ。
- ウ 皆で盛り上がっているところに[ ]ようで申し訳ないが、その計画には問題がある。
- エ [ ]ながら申し上げますが、あなたのお考えには少し無理があるように思います。
正解と解説
ア=④ / イ=② / ウ=① / エ=③
イ・ウ:「棹さす」と「水を差す」の意味の違いをしっかり理解しておくこと。
エ:「はばかりながら申し上げます」は、これで一つの表現として覚えておこう。
問 2次の傍線部の意味を答えよ。
- ア SNSを介して何百人もの「友達」がいるという人もいるが、その何百人のうち、本当に気が置けない「友達」は果たして何人だろうか。
- イ 健気に働いて家計を助ける少年の姿をテレビで見て、心を打たれる。
- ウ 彼の説明にはどうも腑に落ちない点があったので、そこを改めて質問する。
- エ 我々の軍は敵軍に四方を包囲され、のっぴきならない状況に追い込まれた。
正解と解説
ア=心から打ち解けることができる / イ=気丈 / ウ=納得ができない / エ=どうにもならない
ア:とくに意味を誤用しやすい語なので注意。
イ:「健気」は〈気丈な様子・心がけがしっかりしている様子〉という意味。
問 3次の空欄に当てはまる語を、あとの①〜④からそれぞれ一つずつ選べ(同じものは二度使ってはならない)。なお、空欄には活用させて入るものもある。
- ア 深い学識があったとしても、[ ]ところを見せない方が、周囲から反感をもたれないだろう。
- イ 彼女に対して「太ったね」なんて、そんな言い方をしては[ ]。「ふっくらしたね」とか、他に言い方があるだろう。
- ウ いくら勉強が大変だとは言っても、単語テストの範囲は[ ]。
- エ 自習室で騒いでいたら、少し離れた席の人に「うるさいな」と[ ]に言われ、自分たちが悪かったと素直に反省した。
- ①才走る
- ②高が知れる
- ③身も蓋もない
- ④聞こえよがし
正解と解説
ア=① / イ=③ / ウ=② / エ=④
ウ:「高が知れている」という言い方もある。
意味だけを覚えると、使える場面の条件が落ちる
Section 03
心情の漢語
同義の字を重ねた熟語
185★★
刹那
せつな[1]せつな頭高型
語構成
刹くぎり・きわめて短い時+那short の音写字
サンスクリット語 kṣaṇa の音写。仏教では時間の最小単位を指す。
定義
ほんの一瞬。
『現代文キーワード読解』第3部 ☑185
原書の解説
もとは仏教語で、時間の最小単位のこと。「刹那的」は、〈目の前の快楽を求めるさま〉の意。
使用の境界きわめて短い時間。「瞬間」より短く、仏教語としての重みを持つ。
用法サンスクリット語 kṣaṇa の音写で、仏教では時間の最小単位を指す。日常語の「瞬間」より短く、また重い。小説では「その刹那」の形で、決定的な一点を指すのに使われる。派生語の「刹那的」「刹那主義」は〈将来を考えずその場の快楽だけを追う〉という批判語で、こちらは評論文にも出る。仏教語であることを知っておくと、「一瞬」との使い分けが理解しやすい。
用例
-
一切の有為(うい)の法は、夢・幻・泡・影の如く、露の如く亦(また)電(いなずま)の如し。応(まさ)に是(かく)の如き観を作(な)すべし。『金剛般若経』四句偈(書き下しは本教材)
「刹那」がもともと住んでいた場所を見せてくれる。有為の法とは条件によって生じたものすべてを指す。それを仏典は夢・幻・泡・影・露・稲妻と六つ重ねる。注目したいのは並べ方だ — 夢や幻は実体のなさを、露や稲妻は時間の短さを言っている。つまり実体がないことと一瞬であることは同じ事柄の二つの言い方だという認識がここにある。刹那が「瞬間」より重いのは、この存在論を背負っているからだ。単に短いのではなく、短さこそが物のありようだと言っている。
-
わたしがその瞬間に向かってこう言ったなら — 「留まれ、お前はいかにも美しい」と。そのときはわたしを鎖につないでくれてよい。ゲーテ『ファウスト』第一部(1808/訳は本教材)
刹那に対する人間の側の欲望を書いている。ファウストが悪魔と結ぶ契約の条件は「一瞬に向かって留まれと言ってしまったら負け」である。ここにこの語の両義性の根がある。刹那は尊い — だからこそ引き止めたくなる。そして引き止めようとした瞬間に堕落が始まる。派生語の「刹那的」「刹那主義」が否定的な色を帯びるのはまさにこの構図によるもので、一瞬を尊ぶことと一瞬にしがみつくことは紙一重だと仏典もゲーテも知っていた。
- 振り向いた刹那、見てはいけないものを見た気がした。
小説での標準的な用法。「その刹那」「〜した刹那」の形で、物語が折れ曲がる一点を指す。「瞬間」でも意味は通るが、刹那を選ぶと文体が一段重くなる — 語の出自が文の格を決める。
- ×会議は刹那で終わった。
日常の短さには使わない。この語が指すのは指を弾く間に六十を数えるほどの時間の最小単位であり、文体としても荘重である。「あっという間」「すぐに」でよい。語の重さと事柄の重さを合わせるのが文章の基本になる。
作品での用例
「私」は、汽車の向かいに座る娘が、踏切で汽車を見送りにきた子供たちに蜜柑を投げ与えたのを見た。
私は思わず息を呑んだ。そうして刹那に一切を了解した。小娘は、恐らくはこれから奉公先へ赴こうとしている小娘は、その懐に蔵していた幾顆の蜜柑を窓から投げて、わざわざ踏切りまで見送りに来た弟たちの労に報いたのである。
出典 芥川龍之介『蜜柑』
派生形
- 刹那的[0]〈将来を考えずその場の快楽を求める〉。時間の語が生き方の語に変わっている。「〜的」はしばしば「それを過度に重んじる」という非難を運ぶ(感傷的・観念的・打算的)。接尾辞が価値判断を持ち込む典型例だ。
- 刹那主義[4]さらに「主義」を重ねると、個人の傾向が思想の名になる。ここまで来ると批判の対象として固定される。「〜的」→「〜主義」という階段は近代日本語が西洋語を受け止めるために作った装置で、仏教語がその装置に乗せられているのが面白い。
- 刹那サンスクリット語クシャナの音写。「刹」も「那」も意味ではなく音を写した字である(旦那・卒塔婆・娑婆と同じ作り方)。字面から意味を取ろうとすると外す — 漢語には意味の合成でできた語と音を借りただけの語が混じっていることを思い出させる一語だ。
コロケーション
- その刹那指示語と結ぶ「その」「〜した」という指示・修飾を必ず伴うのがこの語の特徴である。「刹那が過ぎた」とは言わない。なぜか — 刹那は長さの単位ではなく一点の指定だからだ。時間の量を言う語なら主語になれるが、位置を言う語は何かに結びつけないと立たない。
- 刹那的な快楽否定的な派生「〜的」を付けた瞬間に評価が反転する。刹那そのものは中立かむしろ尊いのに、刹那的は「将来を考えない」という非難になる。これは「〜的」が「それを原理とする」という含みを持つからで、一瞬を尊ぶことと一瞬だけを原理にすることは別である。
- 刹那の光短さの名詞と「光」「きらめき」「表情」などもともと持続しないものとよく結ぶ。逆に「刹那の努力」とは言わない。持続を本質とするものに一瞬をかぶせると矛盾するからだ。共起制限は恣意ではなく、語義どうしの整合から生まれる。
- 刹那/瞬間/一瞬三語の距離瞬間は中立の時間語、一瞬は話し言葉寄りで主観的、刹那は文語的で荘重。三語は長さではほぼ同じものを指すのに、文体の格が違う。同義語の選択とは意味の選択ではなく文体の選択であることが最もはっきり見える三語である。
類語と差
- 瞬間またたく間日常語。刹那は文章語で、宗教的な含みを残す。
- 一瞬ごく短い時間ほぼ同義でより日常的。刹那は時間の最小単位という含みがある。
- 束の間ごく短い間持続がある。刹那は幅を持たない一点。
- 刹那的その場かぎりの派生語。将来を考えない生き方を批判的に言う。
ENinstant / moment
ZH刹那(刹那, chànà)
186★★★
裏腹
うらはら[0]うらはら平板型
定義
① 正反対の関係。
② 隣接していること。
『現代文キーワード読解』第3部 ☑186
原書の解説
〈裏と表・背と腹〉で、正反対な様子を示す①の意。また、〈背中合わせ〉という②の意も押さえておこう。
使用の境界表と裏のように正反対であること。単に違うのではなく、対になっていることを含む。
用法用法はほぼ「〜とは裏腹に」の形に集中する。言葉と本心、態度と気持ちのように、本来一致すべき二つがずれていることを言う。だから無関係な二つには使えない。「裏」と「腹」はどちらも身体の後ろ側と前側で、表裏一体でありながら逆を向いている――この比喩が語義になっている。小説では、登場人物の内心と言動の食い違いを描く場面に置かれる。
用例
-
天下皆美の美たるを知る、斯(こ)れ悪のみ。皆善の善たるを知る、斯れ不善のみ。故に有無相(あ)ひ生じ、難易相ひ成り、長短相ひ形(かたち)づくり、高下相ひ傾(かたむ)き、音声相ひ和し、前後相ひ随(したが)ふ。『老子』第二章(書き下しは本教材)
②「隣接している」という意味がなぜ①「正反対」と同居できるかを説く。老子が並べるのは有と無、難と易、長と短 — いずれも正反対の組である。そして「相ひ生じ」「相ひ成り」と言う。片方だけでは成り立たないのだ。長いという語は短いという語がなければ意味を持たない。正反対であることは、無関係であることの逆である — 最も密接に結びついた二つだけが正反対になれる。「裏」と「腹」が背中合わせでありながら逆を向くのと同じで、この語が「無関係な二つには使えない」のはこの論理による。
-
コーディリア「何も申せません、父上。」リア「何もだと。」コーディリア「何も。」リア「無からは何も生まれぬぞ。もう一度言ってみよ。」シェイクスピア『リア王』第一幕第一場(1606/訳は本教材)
①の最も有名な場面である。姉たちは父への愛を限りない言葉で飾り立てた。末娘だけが何も言えない。この劇の全体は言葉と本心が裏腹であるという一点から展開する — 最も愛している者が最も語れず、愛していない者が最もよく語る。注意したいのはこれが偶然ではないことだ。言葉は本心の裏として働きうるという認識があればこそ、「〜とは裏腹に」という言い方が本心を暴く道具になる。
- 威勢のいい言葉とは裏腹に、指先が小刻みに震えていた。
この語の標準的な運用。要点は二つが同一人物に属していることだ。言葉と身体という本来は一致するはずの組がずれる。ずれが見えるのは一致が期待されているからである。
- ×兄は理系で、弟は裏腹に文系だ。
無関係な二つには使えない。裏腹は「本来一致すべき二つ」にしか成り立たない。兄と弟の進路は一致する義理がないので、ずれてもただの相違である。「対照的に」が正しい。
作品での用例
祖母を亡くした少年。ある日、少年は急に、祖母がいないことに対して空虚さを覚える。
そうした少年の心の動きは、祖母への追慕などというものとは、およそ縁のない、裏はらなものに違いなかった。そこには一種の罪障感と自責の念が、黒々とよどんでいた。
出典 神西清『少年』
派生形
- 裏[2]もとは「心」を意味したという説がある(「うら悲し」「うら寂しい」の「うら」)。外から見えない側という一点で物の裏と心の内は同じものと捉えられていた。「裏腹」が本心のずれを言う語になったのは偶然ではないのかもしれない。
- うらはらに副詞的に使う形。かな書きも多い。「裏」「腹」という身体の字が前に出ると比喩が生々しくなりすぎるためか、抽象的な文脈ではかなで書かれる傾向がある。表記の選択が比喩の見え方を調節している。
- 表裏一体[0]②の意味に対応する漢語。裏腹が「ずれ」を強調するのに対し、表裏一体は「分けられない」ことを強調する。同じ「表と裏」の比喩から、離反の語と一致の語が両方生まれている — 比喩は一つの意味しか生まないわけではない。
コロケーション
- 〜とは裏腹にほぼ唯一の型用法がこの一つの型に集中しているのは珍しい。「とは」という取り立てが要で、先に期待される側を掲げてから裏切るという順序を作る。この順序が逆になると効果が消える — 期待が先に立たなければ裏切りは成立しない。
- 言葉とは裏腹に典型的な組結ばれる組はほぼ決まっている — 言葉と本心、表情と気持ち、態度と内心、予想と結果。すべて外に出るものと内にあるものの組だ。裏腹という語は「内と外は一致するはずだ」という素朴な信頼を前提にしているので、その信頼があるからこそ裏切りが書ける。
- 背中合わせ②の言い換え②の「隣接」の意味は現代では薄れ、「危険と背中合わせ」のような言い方に残る。ここでは反対ではなく密着を言っている。①と②は矛盾ではなく、同じ身体の比喩の二つの読み方である — 背と腹はくっついていて、しかも逆を向いている。
- 裏腹な関係形容動詞の形「裏腹な」と連体で使う形もあるが頻度は低い。これはこの語が性質ではなく関係を言う語だからだ。一つのものが裏腹であることはできず、つねに二つが要る。二項を同時に示せる「〜とは」の形が選ばれるのは必然である。
類語と差
- 正反対まったく逆方向の逆。裏腹は表裏一体という含みを持つ。
- 矛盾両立しない論理の話。裏腹は言動や心情のずれ。
- 表裏表と裏名詞。裏腹は形容動詞的に使う。
- あべこべ逆さま口語。裏腹は文章語。
ENcontrary to / opposite
ZH相反(相反する, xiāngfǎn)
187★★★
怪訝
けげん[1]けげん頭高型
語構成
怪あやしい+訝いぶかる
読みは「けげん」。「訝」は「いぶかる」と同じ字である。
定義
状況がのみこめず、不思議に思うこと。
『現代文キーワード読解』第3部 ☑187
原書の解説
「怪」=「あやしい」、「訝」=「いぶかしい」と、訓読できる。
使用の境界不審に思って納得できない様子。表情に現れた状態を指すことが多い。
用法二字がともに〈あやしむ〉を表す。実際の用法は「怪訝な顔」「怪訝そうに」にほぼ固定しており、表情の描写に使われる。だから小説の地の文で頻出する。吉野弘の詩を引いた入試文でも「父は怪訝そうに僕の顔をのぞきこんだ」という形で現れた。読みが問われる語で、「かいが」ではなく「けげん」と読む。「訝」は「いぶかる」(☑162)と同じ字である。
用例
-
こんな夢を見た。腕組をして枕元に坐っていると、仰向に寝た女が、静かな声でもう死にますと云う。女は長い髪を枕に敷いて、輪郭の柔らかな瓜実顔をその中に横たえている。……それで死ぬのかと思った。夏目漱石『夢十夜』第一夜(1908)
怪訝という語が働く心の位置を示している。女は静かな声でもう死にますと言う。語り手は顔色も声も死にそうには見えないと思う。ここにあるのは状況がのみこめないという状態そのものだ。疑っているのではない — 嘘だと思っているわけではない。与えられた事実と見えている事実が噛み合わないだけである。167 うさんくさいが相手の誠実さを疑うのに対し、怪訝は世界の筋道を疑う。矛先が人ではなく状況に向いているのがこの語の特徴だ。
-
ソクラテスよ、あなたはあの海にいる痺れ鱏(しびれえい)に似ている。触れる者をみな痺れさせるのだ。いまわたしは心も口も痺れて、何を答えたらよいかわからない。プラトン『メノン』(前四世紀/訳は本教材)
怪訝が知性の状態でもあることを示す。メノンは徳とは何かを知っているつもりだった。ソクラテスに問われてそれが崩れる。残ったのは痺れである。注目すべきはこれが無知ではないことだ — 知らないと知った状態、つまりのみこめないことをのみこんだ状態である。「怪訝な顔」が愚かさの表情ではなく思考の表情として読まれるのはこのためだ。小説の地の文でこの語が多用されるのは、登場人物がいま考え始めたことを一語で示せるからである。
- 父は怪訝そうに僕の顔をのぞきこんだ。
この語の用例の大半はこの形である。「怪訝な顔」「怪訝そうに」にほぼ固定していて、表情の描写に特化した漢語と言ってよい。のぞきこむ・見る・首をかしげるといった確かめようとする動作と共起する。
- ×大臣の答弁に野党は怪訝した。
「怪訝する」という動詞形はない。この語は形容動詞としてしか活用せず、「怪訝な」「怪訝に」「怪訝そうに」の三形で尽きる。また不審の表明という行為を言うなら「疑問を呈した」である。怪訝は行為ではなく状態だ。
作品での用例
「私」は同級生のカツノリくんと遊んでいたが、カツノリくんが川に落ちてしまい、小舟を操る船頭(「男」)に助けを求める。
「おっちゃん、助けてェ。あの子が川に落ちたァ」 私は悲痛な声をあげて、真下の川面を指差した。その声で、男は怪訝な面持ちで指差す地点を窺い、やっとそこに浮かんでいる子供の姿を認めた。彼は慌てて舟の向きを変え、巧みに櫓を漕ぎながら、カツノリくんに近づいて行った。
出典 宮本輝『蛍川』
派生形
- 怪「怪」は常識で説明のつかないものを指す字(怪奇・妖怪・奇怪)。「妖しい」が魅惑を含むのに対し、「怪しい」は理解の外にあることを言う。怪訝の「怪」は後者で、だからこの語には色っぽさが一切ない。
- 訝る[3]「訝」の訓読み。和語の「いぶかる」がすでにあって、そこへ漢字を当てたという関係である。怪訝はその字を二つ重ねた漢語で、同義の字を重ねて意味を強めるという漢語の作り方(豊富・堅固・道路)に従っている。
- けげん[1]読みが問われる語。「かいが」ではない。「怪」を「け」と読むのは呉音で、仏教語に多い読み方である(怪我・化生・境内)。同じ字でも呉音か漢音かで語の出自が違う — 読みの不規則は歴史の層である。
コロケーション
- 怪訝な顔表情の名詞と「顔」「表情」「面持ち」「目」と結ぶ。この語はほぼ顔からしか出ない。「怪訝な声」も言えるが頻度は落ちる。これはのみこめないという状態が眉と目に出るからで、182 眉をひそめると隣り合っている。ただし眉をひそめるは不快、怪訝は不可解 — 似た表情が別の心を運ぶ。
- 怪訝そうに推量の接尾辞「そうだ」がつくのは167 うさんくさいと同じで、語り手が相手の内心を断定していないことを示す。見えているのは表情だけで、そこから推し量っている。三人称の小説でこの形が好まれるのは、視点人物の知りうる範囲を守れるからだ。
- 怪訝の念書き言葉の型「念」「思い」と結ぶと文語的になる。「怪訝の念にとらわれる」は翻訳調・明治の文体の香りを持つ。漢語+「の念」という型そのものが近代の書き言葉の産物で(畏敬の念・自責の念)、文体の時代を示す目印になる。
- 怪訝/不審/訝しい三語の差不審は疑いが相手に向く(不審者・不審な点)。訝しいは和語で主観的。怪訝は表情として外に出た状態を指す。つまり三語は同じ心の働きを、向き・文体・可視性の三つの軸で切り分けている。類語の整理は意味の濃淡ではなく軸を見つける作業である。
類語と差
- いぶかしいはっきりせず気になる☑162。心の内。怪訝は表情として現れた様子。
- 不審疑わしい疑いの内容。怪訝は反応としての表情。
- 腑に落ちない納得できない☑175。理屈の話。怪訝は瞬間的な反応。
- いぶかる不審に思う動詞。怪訝は形容動詞で、様子を描く。
ENpuzzled / dubious
ZH诧异(いぶかしむ, chàyì)
188★
居丈高(威丈高)
いたけだか[0]いたけだか平板型
定義
相手を威圧する態度。
『現代文キーワード読解』第3部 ☑188
原書の解説
「丈」は背丈のこと。「居丈高(威丈高)」は、座った時に座高(=居丈)を高くそびやかす意味。
使用の境界相手を見下し、頭ごなしに威圧する様子。単に偉そうなのではなく、力で押さえつける態度を指す。
用法語源が姿勢を示す。座ったまま上体を伸ばして高く構えることで、そこから相手を見下ろす態度を指すようになった。だから「居丈高になる」は、実際に身を乗り出す動作を含意する。表記は「居丈高」「威丈高」の両方が行われ、後者は「威」の字を当てた後世の表記である。小説では権力を持つ人物の描写に使われ、読み手に反感を抱かせる働きを持つ。
用例
-
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。『平家物語』巻第一 冒頭(13世紀)
居丈高な姿を外側から眺めた視線がここにある。「おごれる人」「たけき者」とは身を大きく構える者のことだ。この冒頭が効いているのは、それを非難していない点である。ただ「久しからず」と言う。居丈高という語も同じ構えを持つ — 相手の正しさや力の実在を否定せず、その姿勢だけを写し取る。語源が姿勢であることの意味はここにあって、中身ではなく構えを名指すから、権力の有無に関わらず使えるのである。
-
一匹の蛙が、牛の大きさをうらやんで、皺だらけの皮を思いきり膨らませた。子らに問う。「どうだ、これで足りるか。」「まだです。」さらに力んだ。「ではいまは。」「まだ及びません。」蛙はなおも膨らみ、ついに破裂した。イソップ寓話「蛙と牛」(訳は本教材)
居丈高という姿勢の内側を書いている。要点は蛙が大きくなっていないことだ。膨らんでいるだけである。「座ったまま上体を伸ばして高く構える」というこの語の語源も同じで、実際に背が伸びるわけではない。見かけの高さを作るだけだ。そしてこの寓話が鋭いのは蛙が子に確認を求めるところである — 居丈高な態度は相手の反応を必要とする。誰も怯えなければ、それはただの奇妙な姿勢にすぎない。
- 窓口の男は居丈高に書類を押し返した。
権限の小さい者ほどこの語がよく似合う。本当に力のある者は身を乗り出す必要がないからだ。姿勢を作らねばならないこと自体が、その力の不足を語っている — 小説はこの皮肉を好んで使う。
- ×社長は居丈高な人格者として知られている。
肯定的な文脈には置けない。この語は「威厳がある」とは違う。威厳は相手を押さえつけないが、居丈高は押さえつける。「堂々とした」「威厳のある」なら称賛になる。
作品での用例
息子が神経質で偏食であることに困った母親は、自ら鮨を握り、イカの鮨を息子に与えることにする。
子供は今度握った飯の上に乗った白く長方形の切片を気味悪く覗いた。すると母親は怖くない程度の威丈高になって 「何でもありません、白い玉子焼だと思って喰べればいいんです」 といった。
出典 岡本かの子『鮨』
派生形
- 居丈座ったときの背の高さ、つまり座高。この語が日常から消えたことが、慣用句の意味を不透明にした。畳に座って対面する文化を前提にした語で、椅子の生活ではこの身ぶりが再現できない。
- 居丈高い形容詞の形はない。「居丈高な」という形容動詞だけである。「高い」という和語の形容詞を含みながら形容詞にならないのは、三語が一語に固まってしまった証拠だ。固まり具合は活用の自由度で測れる。
- 頭ごなし[0]意味の近い和語。「頭ごなしに叱る」は相手の言い分を聞かずにという手続きの不当さを言う。居丈高が姿勢、頭ごなしが手順 — 同じ場面を二つの角度から名づけた語で、並べて使うと描写が立体になる。
コロケーション
- 居丈高になる変化の形「なる」で言うのが標準。もともとそうなのではなく、ある場面でそうなるという含みを持つ。語源が姿勢であることの効果で、姿勢は取ったり解いたりできる。性格の語なら「〜だ」で済むのに「なる」を要求するところに、この語の一時性が現れている。
- 居丈高な態度態度の名詞「態度」「物言い」「口調」と結ぶ。すべて外に現れるもので、「居丈高な考え」とは言わない。内心で相手を見下していても、それが姿勢や声に出なければこの語は使えない。この語は心ではなく身体を記述する。
- 居丈高に出る「出る」との結合「出る」という動詞が選ばれるのは示唆的だ。169 さしでがましいの「差し出づ」と同じで、前へ出る動作を含む。日本語は対人関係を空間で捉える — 出る・引く・押す・譲る・距離を置く。この空間の語彙こそが対人語彙の骨格である。
- 居丈高/威丈高二つの表記「居丈」が本来で、「座高」を意味する。「威丈高」は後から当てられた表記で、「威」の字が意味を説明してしまっている。語源が見えなくなると意味の分かる字が当てられる — 表記の変化は語源の忘却の記録である。
類語と差
- 高圧的力で押さえつけるほぼ同義。より現代的で硬い。
- 横柄人を見下して無礼である☑206。態度の無礼さ。居丈高は威圧の強さ。
- 尊大自分を高く見せる自分の側。居丈高は相手を押さえつける側。
- 威圧的おそれさせる効果の側。居丈高は姿勢の描写を含む。
ENoverbearing / domineering
ZH盛气凌人(居丈高だ, shèngqì língrén)
189★★★
理不尽
りふじん[2]りふじん中高型
定義
物事の理屈に合わないこと。
『現代文キーワード読解』第3部 ☑189
原書の解説
「理」は〈物事のことわり〉の意で、「不尽」は〈十分に尽くしていない〉ということ。
使用の境界道理に合わず、筋が通らないこと。話し手の憤りを含み、中立の記述には使えない。
用法「不尽」は〈尽くさない〉、つまり道理を尽くしていないという意味である。要点は、この語が常に話し手の憤りを伴うことにある。だから客観的な記述には使えず、「不合理」に置き換える必要がある。評論文では、☑13 非合理・不合理との三語の区別が設問になる。非合理は理の枠の外、不合理は枠の内での不整合、理不尽は不当さへの怒り、と整理する。
用例
-
なにゆえ悪しき者が生きながらえ、年を重ね、力を増すのか。……わたしは全能者に語りたい、神に向かって論じたいのだ。『旧約聖書』ヨブ記 第二十一章・第十三章(訳は本教材)
理不尽という語が必ず憤りを伴うのはなぜかを教える。ヨブは正しく生きたのにすべてを失った。友人たちは「お前に罪があったのだ」と説く — つまり筋を通そうとする。ヨブはそれを拒み、神に直接論じたいと言う。ここが重要だ — 理不尽を理不尽と呼ぶことは、道理があるべきだと信じていることの表明である。道理を信じない者は憤らない。この語が中立の記述に使えないのは、語そのものが「そうであるべきではない」という主張を含んでいるからだ。
-
庄兵衛はいかに桁を違えて考えて見ても、その間に劃(かく)した一線を見出すことができぬ。……お上(かみ)の事を「オオトリテエ」に従って判断するよりほかはない。森鷗外『高瀬舟』(1916)
理不尽を受け取る側の姿を書いている。喜助は苦しむ弟の求めに応じてその命を絶ち、罪人として島へ送られる。護送役の庄兵衛はどう考えても罪と罪でないものの境が引けない。それでも権威に従うほかないと結ぶ。この「ほかはない」という諦めの手前にあるのが理不尽という感覚だ。納得はしていない。従うだけである。175 腑に落ちないと隣り合うが、腑に落ちないは内向きのつかえ、理不尽は外へ向かう抗議である。
- 遅刻の理由も聞かずに一律で罰を与えるのは理不尽だ。
正しい使い方。「〜のは理不尽だ」と判断を述べる形が基本である。話し手が筋を通せと要求していることが明示されるので、この語を使った時点で中立ではいられない。
- ×この現象は既存の理論では理不尽である。
学術的な記述には使えない。憤りを含む語だからだ。「不合理」なら中立に使える。第1部☑13 で整理した非合理(理の枠の外)/不合理(筋が通らない)/理不尽(筋が通らずかつ許しがたい)の三語の差が、ここで効いてくる。
作品での用例
佐々男は自分の経験から、他人の死に対して何もしないで見過ごすのは罪悪だと「私」に話す。
佐々男のその意見は、私をいらだたせた。なんというか、彼が理不尽にえばっているような気がした。私の経験していない他人の死というものを経験したことによって、えばりくさっている、優位に立って私に何も言わせないようにしている、と思ったのだ。
出典 角田光代『イリの結婚式』
派生形
- 不尽[0]〈尽くしていない〉。「理を尽くしていない」がこの語の成り立ちである。「理がない」ではない点が大切で、道理そのものは存在すると認めたうえで、それが十分に及んでいないと言っている。だから憤りが生じる — 届くはずのものが届いていないのだから。
- 理[3]和語の「ことわり」は「事割り」、つまり物事を分けて筋道をつけることだとされる。漢語の「理」も玉の筋目が原義である。和漢どちらでも「理」は線を引くことで、理不尽とはその線が引かれていない状態である。
- 無理[1]「理がない」のが無理、「理を尽くしていない」のが理不尽。無理は不可能・強引へ広がり、日常語として摩耗した。理不尽は摩耗せず、今も憤りの重さを保っている — 使用頻度が低いことが、かえって語の力を守ることがある。
コロケーション
- 理不尽な要求相手の行為と「要求」「命令」「仕打ち」「暴力」と結ぶ。すべて誰かが誰かにすることである。「理不尽な天候」とは言いにくい — 自然には筋を通す義務がないからだ。この語は責任を負いうる主体を想定している。だからこそヨブは神に論じたいと言ったのである。
- 理不尽さ名詞化の形「さ」で名詞にすると対象から切り離せる。「世の理不尽さ」は特定の加害者を持たない構造を指せるようになる。形容動詞のままでは個別の出来事しか裁けないが、名詞にすると社会全体を主語にできる — 評論文がこの形を好む理由である。
- 理不尽に耐える受け手の動詞「耐える」「さらされる」「押しつけられる」と結ぶ。いずれも受け身の構図だ。この語はほぼつねに被害者の側から発せられる。理不尽を行う側が自分の行為をそう呼ぶことはない — 語の立ち位置が固定されている珍しい例である。
- 不尽手紙の結語との縁「不尽」は書簡の末尾に書く語でもある(「言い尽くせませんが」の意)。同じ二字が、手紙では謙譲、「理不尽」では非難になる。尽くしていないのが自分の言葉なら謙遜、相手の道理なら糾弾 — 同じ字が誰に向くかで正反対の働きをする。
類語と差
- 不合理理に照らして筋が通らない☑13。中立の記述語。理不尽は憤りを含む。
- 非合理理では捉えきれない☑13。枠の外。誤りではない。理不尽は明確に不当。
- 不条理意味づけを拒む状況文学・実存主義の語。理不尽は日常の不当さ。
- 無茶度を越している程度の話。理不尽は筋の通らなさ。
ENunreasonable / unjust
ZH无理(理不尽だ, wúlǐ)
190★★★
屈託
くったく[0]くったく平板型
語構成
屈かがむ・くじける+託かこつける・あずける
定義
① 一つのことにこだわり、心配すること。
② 疲れて飽きること。
『現代文キーワード読解』第3部 ☑190
原書の解説
「屈託のない(=心配事がない)」という使われ方が多い。
使用の境界気にかかることがあって、心が晴れないこと。実際には否定形「屈託ない」で使うことが圧倒的に多い。
用法肯定形より否定形「屈託ない」「屈託のない」のほうが圧倒的に多い、めずらしい語である。「屈託のない笑顔」は〈心に何のわだかまりもない明るい笑顔〉の意で、褒め言葉になる。幸田文の作例では「碧郎が屈託なくはしゃいで大笑いしたりすると」という形で現れる。肯定形の「屈託を抱える」も使えるが硬い。読みが問われることもある。
用例
-
子供らと手毬(てまり)つきつつこの里に遊ぶ春日は暮れずともよし良寛(1831没)
「屈託のない」という状態をそのまま歌にしたような一首である。良寛は寺を持たず托鉢で生きた僧で、心配すべきことはいくらでもあったはずだ。それでも子供と手毬をついている。ここで見ておきたいのは「暮れずともよし」という結びだ。日が暮れなくてよい — つまり先のことを考えていない。屈託のなさとは悩みがないことではなく、いまこの時間に悩みを持ち込んでいないことだとこの歌は教える。「屈」はかがむ、「託」はかこつける — 身をかがめて何かにこだわる姿勢がここにはない。
-
其の人と為(な)りや、憤を発して食を忘れ、楽しみて以て憂ひを忘れ、老いの将(まさ)に至らんとするを知らざるのみ。『論語』述而篇(書き下しは本教材)
屈託のなさが子供だけのものではないことを示す。これは孔子が自分を評した言葉である。憤を発してとは分からないことに突き当たって奮い立つこと。そのときは食事を忘れる。分かれば楽しくて憂いを忘れる。そうしているうちに老いが来ることも忘れている。三つとも「忘れる」だ。屈託とは忘れられないことであり、屈託のなさとは忘れられることである。この語が否定形でこそ生きるのは、忘却という状態には積極的な名前がつけにくいからだろう。
- 屈託のない笑顔で手を振る子を、窓から見ていた。
この語の用例の大半がこの形である。肯定形より否定形が多いという珍しい語で、178 の「気の置けない」と同じ型に属する。あってはじめて普通のものが無いときにだけ言葉になる。
- ×休暇中は仕事のことを忘れて屈託した。
意味が逆である。屈託するは「心配して心が晴れない」ことで、くつろぐこととは正反対だ。「屈託ない」の形でばかり触れていると、「屈託」自体を明るい語だと思い込む — 否定形だけが流通する語に特有の誤解である。
作品での用例
重吉と計吉の兄弟は、上京した母が故郷に帰るのを見送りに駅に行く。
「二人とも、もう帰っていいよ。寒いから」と母が言うけれど、計吉は首を振る。 「寒くはないよ。もうすぐ発車だから、いるよ。どうせおれは今日は暇なんだ」 と計吉は前歯の金の入れ歯を見せて、屈託のなさそうな笑みを浮べ、あわてて手で口を押える。
出典 常盤新平『遠いアメリカ』
派生形
- 屈身を折り曲げる字(屈折・屈伸・退屈)。心がまっすぐ伸びていない状態を表す。「退屈」も同じ字で、気持ちが退いてかがむことから来ている。一つの字が心の姿勢を描く — 漢字はしばしば身体の比喩を経由して心を言う。
- 託他のものによせて言う字。屈託の「託」はこだわりが何かに引っかかって離れないことを表す。「屈」+「託」で「かがんで引っかかる」 — 二字がそろってはじめて心の晴れなさが描ける。漢語を字に分けて読むと語義が立体になる。
- 屈託ない「の」を入れない形も広く使われる。「屈託のない」よりやや口語的で、一語化が進んでいることを示す。178 の「気の置けない」が「の」を取り込んだのとは逆方向の動きで、語が固まる過程には複数の道がある。
コロケーション
- 屈託のない笑顔最も安定した形「笑顔」「表情」「声」「様子」と結ぶ。すべて外に出るものだ。屈託は内心の状態なのに、その否定は外見にしか使われない — このねじれが面白い。内心に何もないことは確かめようがないので、見えている明るさから推し量るほかないのである。
- 屈託なく笑う副詞の形「なく」で副詞にすると動作にかかる。「屈託なく笑う」「屈託なくはしゃぐ」 — 共起するのは感情がそのまま身体に出る動作ばかりだ。「屈託なく考える」とは言わない。屈託のなさは思考ではなく身体の軽さとして現れる。
- 屈託を抱える肯定形の生き残り肯定形が使えないわけではない。「屈託を抱える」「屈託がある」は文章語として生きている。ただしやや古風で、現代語では「わだかまり」「心配事」に置き換えられることが多い。否定形だけが日常語に残り、肯定形は文語の側へ退いた。
- 屈託/頓着似た構えの二語「頓着(とんじゃく)しない」も否定形でよく使う語である。ただし屈託は心配、頓着は関心。屈託がないのは悩んでいない、頓着しないのは気にしていない。前者は明るさ、後者は無関心に傾く — どちらも褒め言葉になりうるが、褒めている中身が違う。
類語と差
- 憂鬱気分が晴れない持続する気分。屈託は特定の心配ごとに結びつく。
- わだかまり心に残るしこり人間関係に多い。屈託はより広い心配。
- 心配気がかりである一般語。屈託は文章語で、内に抱えている含みが強い。
- 邪気悪意「無邪気」と「屈託ない」は近い意味になる。
ENcare / worry
ZH牵挂(気がかり, qiānguà)
コラム ── 堀辰雄
『大和路・信濃路』は、堀辰雄が夫人に宛てた手紙や、夫人とともに木曽から大和へ歩いた体験を軸にした小品の連作である。用例の文章に選んだものは、その中の「樹下」と題する一節で、そこで紹介されている石仏を、彼は古拙(アルカイック)と形容している。この連作には印象に残る描写が多く、それが戦後、改めて起こった古都ブームの火つけ役の先駆をなす理由の一つとなった。とくに汽車の窓から辛夷の花を見るところなど、三好達治の詩集『花筐』を連想させるものがある。
堀辰雄が知られるようになったのは、彼が、東京帝国大学在学中に出した同人雑誌『驢馬』に発表した詩やエッセイによってだが、同人だった中野重治が、プロレタリア文学・民主主義文学の代表的作家として昭和文学史を飾ったのに対して、堀はそれと対照的なモダニズム文学の中にある位置を占めながら、なお超然とした生き方を保った。
コラム ── 立原道造
立原道造は夭折した詩人である。彼は旧制中学では先輩の芥川龍之介以来の秀才と言われ、東京帝国大学建築科を卒業後、建築事務所に勤めたが、二十四歳で逝去した。その間、大学に入った年に、昭和初期の詩壇を飾る詩誌『四季』創刊について、堀辰雄や三好達治らと打ち合わせを行っているので、早くからその詩才を認められていたことがわかる。
第一詩集『萱草に寄す』を出したのは二十三歳の時で、その冒頭には「SONATINE No.1」五編が置かれている。「はじめてのものに」「またある夜に」「晩き日の夕べに」「わかれる昼に」「のちのおもひに」がそれで、題を見ただけでも、恋らしいものが芽生え、やがてそれが何らかの事情で別れるほかないことになり、絶望に似た心情に陥る、というドラマが想像できる。連作はほぼ一年をはさんで作られた。舞台は軽井沢らしい高原だが、相手の女性は一人ではなかったらしい。
191★★
得心
とくしん[0]とくしん平板型
定義
納得、承知すること。
『現代文キーワード読解』第3部 ☑191
原書の解説
「得心がいく」「得心ずく(=互いに承知の上で物事をすること)」という使われ方もする。
使用の境界十分に納得すること。理解にとどまらず、心から受け入れる段階を指す。
用法「心を得る」という語構成で、心の底から受け入れることを指す。だから「一応納得した」とは言えても「一応得心した」とは言いにくい。実際の用法は「得心がいく」「得心のいく」の形が多く、時代小説や落語でよく使われる古風な語である。現代の会話ではほとんど使われないが、小説の地の文には残っている。「とくしん」と読み、「えしん」ではない。
用例
-
仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。道元『正法眼蔵』現成公案(1233頃)
「心を得る」という語構成が何を言っているかを照らす。道元が描くのは学ぶ→忘れる→向こうから証されるという三段である。注目したいのは最後が受け身であることだ — 「万法に証せらるる」、つまり自分が納得するのではなく、事物の側から納得させられる。得心とはまさにこの段階を指す。理解は自分の働きだが、得心は自分の働きをやめたところで起こる。「一応得心した」と言いにくいのは、途中で止められる種類の出来事ではないからである。
-
万物皆我に備はる。身に反(かへ)りみて誠あらば、楽しみ焉(これ)より大なるは莫(な)し。『孟子』尽心上(書き下しは本教材)
得心が感情を伴うことを示す。孟子は身をふりかえって誠があれば、これ以上の楽しみはないと言う。納得には快さがあるのだ。175 腑に落ちないが「引っかかり」という不快で記述されるのと対をなす。ここから得心と納得の違いも見えてくる — 納得は説明を受け入れること、得心は受け入れたことが身の落ち着きになること。時代小説や落語でこの語が生きているのは、手打ち・和解・腹を割るといった身体を伴う合意を描く場面が多いからである。
- 三度説明を聞いて、ようやく得心がいった。
「得心がいく」が最も安定した形。「いく」という移動の動詞が選ばれているのが要点で、納得は一点に到達する出来事として捉えられている。「三度」という回数が効くのも同じ理由 — 距離を踏破した感じが出る。
- ×一応得心しましたが、まだ疑問が残ります。
「一応」と両立しない。得心は心の底からの受け入れなので、部分的・暫定的ではありえない。「一応納得しました」なら成り立つ。程度副詞と結べるかどうかが、語の強度を測る試薬になる。
作品での用例
「私」は妻と二人で郊外の家を探しに出かけ、気に入った家を見つける。
「ここにしよう、ここがいい。」 そこで二人は大家へ行って部屋の様子をきき正した。 私達はもう家そのものはどうでも良かった。ただ自分達の疲れた身体に一時も早く得心を与えるために直ぐその家を借りようという気になった。
出典 横光利一『美しい家』
派生形
- 得心ずく[0]双方の合意を言う。近世の商いや訴訟の語で、「得心ずくの上は異議申さず」という形で証文に書かれた。心の状態を示す語が法的な効力の根拠になっていた — 近代法の「意思表示」の前身と見ることもできる。
- 心得[3]字をひっくり返すと別語になる。「得心」は心を得る(納得する)、「心得」は心に得る(わきまえ・基本の知識)。語順が入れ替わると主客も入れ替わるという、漢語の組み立てがよく分かる一対である。
- 会得[0]同じ「得」を持つ語。会得は技や知識を身につけることで、得心は心が受け入れること。会得には練習が要り、得心には要らない。「得」という字が「自分のものになる」を担い、もう一字が何が自分のものになるかを決めている。
コロケーション
- 得心がいく中心的な型「いく」「ゆく」と結ぶ。同型に「納得がいく」「合点がいく」があり、日本語は納得を「到着」として捉えることが分かる。175 の「腑に落ちる」は落下、こちらは到達 — 同じ心の出来事に二種類の運動の比喩が与えられている。
- 得心のいく説明連体で使う形「得心のいく〜」と名詞を修飾する形も多い。「が」ではなく「の」になるのは178 と同じ連体節の主格交替である。「得心のいく仕事」のように自分の成果にも使えるところが面白く、他人の説明だけでなく自分の出来にも納得は要る。
- 得心ずく合意の型「互いに承知の上で事を行う」こと。「〜ずく」は「それを拠りどころとして」を表す接尾語で(力ずく・納得ずく・腕ずく)、合意の根拠を名指す。力ずくと得心ずくが同じ形を取ることに注意したい — 形は同じで中身が正反対である。
- 得心/納得/承知三語の位置承知は知って受け入れる(手続き)、納得は筋が通ったと認める(論理)、得心は心の底が落ち着く(身体)。手続き→論理→身体と段が深くなる。三語をこの順に並べられると、読解で人物の受け入れの深さを測れるようになる。
類語と差
- 納得理由が分かって受け入れる一般語。得心はより深く、心の底からの承服。
- 承服従うことを受け入れる従う側面。得心は理解と納得の両方。
- 合点筋道が分かる理屈の側。得心は感情も含めた受容。
- 腑に落ちる納得できる☑175 の肯定形。得心とほぼ同義。
ENfull conviction
ZH信服(納得する, xìnfú)
192★★★
髣髴(彷彿)
ほうふつ[0]ほうふつ平板型
語構成
髣似る・ぼんやり+髴似る・ぼんやり
「彷彿」とも書く。二字がともに〈ぼんやり似ている〉を表す。
定義
① よく似ているものを見て、ありありと想像すること。
② ぼんやりとしているさま。
『現代文キーワード読解』第3部 ☑192
原書の解説
「髣」も「髴」も、元来はよく似ている様子を示す語。「髣髴とする」で、〈似ているため、実物が思い浮かぶ〉の意になる。
使用の境界よく似ていて、ありありと思い浮かべさせること。単に似ているだけでは足りず、思い起こさせる働きを含む。
用法実際の用法はほぼ「〜を髣髴とさせる」「〜を髣髴させる」に固定している。要点は、単なる類似ではなく記憶や情景を呼び起こすという働きにある。だから対象は、かつて見たもの・知っているものに限られる。表記は「彷彿」が現在は一般的だが、原書は「髣髴」を主表記としている。どちらも二字がともに〈ぼんやり似ている〉を表す同義の重ね語である。読みが問われる。
用例
-
三代の栄耀(えいよう)一睡の中(うち)にして、大門の跡は一里こなたに有り。……さても義臣すぐつて此城にこもり、功名一時のくさむらとなる。「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と、笠打敷きて、時のうつるまで泪をおとし侍りぬ。 夏草や兵(つはもの)どもが夢の跡松尾芭蕉『おくのほそ道』平泉(1702)
髣髴という語の働きを実演してみせた一段である。目の前にあるのは夏草だけだ。それなのに義経主従の姿がありありと立ち上がる。注目したいのは芭蕉が杜甫を引いていることである。目の前の草を見て千年前の中国の詩を思い出し、その詩を通して五百年前の合戦を見る — 髣髴とはこの二重三重の重ね合わせである。単なる類似では足りないという要点は、ここに尽きている。似ているものがあれば足りるのではなく、見る側に思い浮かべる準備がなければ何も立ち上がらない。
-
国破れて山河在り/城春にして草木深し/時に感じては花にも涙を濺(そそ)ぎ/別れを恨んでは鳥にも心を驚かす杜甫「春望」(757/書き下しは本教材)
芭蕉が引いたその詩である。国は滅びたのに山と川はそのままある。城跡には春が来て草木が深い。ここで起きているのは変わらないものを見ることで変わったものが見えるという逆説だ。山河が無事だからこそ国の喪失が際立つ。髣髴という語が「〜を髣髴とさせる」という使役の形を取るのはこのためである — 目の前のものが主語になり、見る者に別のものを思い浮かべさせる。思い出すのではなく思い出させられるのだ。
- 石段の摩耗の深さが、ここを上り下りした無数の足を髣髴とさせた。
正しい使い方。石段と足は似ていない。それでも結果として残ったものから原因が立ち上がる。この語が要求するのは形の類似ではなく、見る者の中で像が結ばれることである。
- ×兄と弟の顔はよく髣髴としている。
単なる類似には使えない。「似ている」で足りる場面にこの語を使うと重すぎる。髣髴は「Aを見てBを思い浮かべる」という二段の構造を要求する。AとBが同じ場所に並んでいてはいけない。
作品での用例
姉夫婦の家に一夏滞在した「峻」は、義兄の妹で夏休みに帰省している信子と親しくなる。
信子の着物が物干竿にかかったまま雨の中にあった。筒袖の、平常着ていたゆかたで彼の一番眼に慣れた着物だった。その故か、見ていると不思議なくらい信子の身体つきが髣髴とした。
出典 梶井基次郎『城のある町にて』
派生形
- 髣髴とさせる使役の形が事実上の基本形。「髣髴させる」と「と」を落とす形も多い。「と」は擬態語につく助詞で(悠然と・毅然と)、この語がもともと「ぼんやり」を写す語だった名残である。
- 彷彿[0]異表記。新聞・雑誌ではこちらが優勢である。常用漢字表にどちらも入っていないため「ほうふつ」とかなで書かれることも増えた。表記の選択が媒体の性格を映す — 文学は難字を残し、報道は崩す。
- 彷徨[0]「彷」を共有する別語。さまよい歩くことで、髣髴とは意味が離れている。字面が似ているので混同されやすいが、「彷徨」は足の語、「彷彿」は目の語である。同じ部首でも意味の族が違うことを押さえておきたい。
コロケーション
- 〜を髣髴とさせるほぼ唯一の型使役形が標準であることに意味がある。主語は目の前のもので、思い浮かべるのは見る者。つまりこの語は対象と主体のあいだに起きる出来事を記述している。「私は髣髴した」とは言わない — 想起は意志では起こせないからだ。
- 往時を髣髴とさせる対象は不在のもの結ぶのは「往時」「在りし日」「往年の」「かつての」。いまここにないものばかりである。目の前にあるものを髣髴とさせることはできない。不在がこの語の前提で、だから歴史・追悼・紀行の文章に集中する。
- 髣髴たる②の用法「ぼんやりしている」という②の意味は「髣髴たる面影」のような文語的な形に残る。「髣」も「髴」も本来は〈ぼんやり似ている〉で、①の「ありありと」はそこから育った。ぼんやりとありありが一語に同居するのは、輪郭が曖昧でも像は強く結びうるからである。
- 彷彿併用される表記「彷彿」の表記も広く行われる。「彷」はさまよう、「彿」は似るで、意味の重心がやや違うが実用上は同じ語として扱われる。髪の部首を持つ「髣髴」のほうが古いとされ、難しい字を避ける方向で表記が移った。
類語と差
- 彷彿─同語の別表記。現在はこちらが一般的。
- そっくりよく似ている外見の一致。髣髴は記憶を呼び起こす働きを含む。
- 彷彿とさせる思い起こさせる動詞句としての標準形。
- 面影昔の姿の名残名詞。髣髴はその働きを言う。
ENevocative / closely resembling
ZH仿佛(あたかも〜のようだ, fǎngfú)
193★★★
閉口
へいこう[0]へいこう平板型
定義
手に負えなくなり、困ること。
『現代文キーワード読解』第3部 ☑193
原書の解説
「辟易する」と同じ意味の語で、もとは口を閉ざし、沈黙することを示す。
使用の境界手に負えず、困り果てること。物理的に口を閉じることではなく、参ってしまう状態を指す。
用法もとは言い負かされて返す言葉がないことを言い、そこから〈手に負えず困る〉に広がった。現代では後者の意味で使うのがほとんどで、暑さ・長話・悪臭など、避けられない不快に対して用いる。「閉口する」の動詞形が標準。字面から「口を閉じる」と誤解されやすいが、現代語では沈黙の意味はない。読み書きともに問われる語である。
用例
-
にくきもの。急ぐ事ある折に来て長言(ながごと)するまらうど。……ものうらやみし、身の上嘆き、人の上言ひ、つゆ塵の事もゆかしがり、聞かまほしうして、言ひ知らせぬをば怨(ゑん)じそしり、……いとにくし。清少納言『枕草子』「にくきもの」の段(1000頃)
閉口の最も典型的な対象がここに挙がっている。急いでいるときに来て長話をする客だ。この語の要点は避けられないことにある。相手を追い返すわけにはいかない。だから口を閉じる。161 で「うつくしきもの」、172 で「はしたなきもの」を引いたが、清少納言のものづくしは感情語彙の原型の目録である。ここで見ておきたいのは「にくし」が憎悪ではないことだ — 手に負えなくて困るという、まさに閉口の感覚である。千年前から長話は閉口の筆頭だった。
-
語りえぬものについては、沈黙しなければならない。ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』(1921/訳は本教材)
同じ沈黙でも種類が違うことを示すために並べておきたい。ウィトゲンシュタインの沈黙は語る言葉が原理的にないことから来る敬意の沈黙である。閉口の沈黙は違う — 語る言葉はあるが、語っても無駄だと分かったときの断念の沈黙だ。もとの意味の「言い負かされて返す言葉がない」も同じで、言葉が尽きたのではなく効かなくなった。だから現代語の「暑さに閉口する」へ広がれたのである — 暑さに言葉が通じないのは当たり前だが、その当たり前を「言っても仕方がない」と感じるところにこの語は生きている。
- 長雨と湿気には閉口した。
現代語の標準的な用法。対象は暑さ・長話・悪臭・混雑など自分ではどうにもできないものに限られる。抗議しても相手がいないという点が要で、189 理不尽が責任主体を想定するのとちょうど対をなす。
- ×気まずくなって彼は閉口した。
現代語に沈黙の意味はない。字面から「口を閉じる」と読んでしまうのがこの語の最大の落とし穴で、現代では「困り果てる」の意味しか残っていない。「黙り込んだ」が正しい。
作品での用例
「私」はかつて様々な問題を起こして兄の怒りを買っていたが、母の危篤の知らせを聞いて帰郷する。
泣いたらウソだ。涙はウソだ、と心の中で言いながら懐手して部屋をぐるぐる歩きまわっているのだが、いまにも、嗚咽が出そうになるのだ。私は実に閉口した。
出典 太宰治『故郷』
派生形
- 閉口[0]もとは議論の語。言い負かされて返す言葉がないことを言った。そこから「相手が手強くて困る」→「事態が手に負えず困る」と広がった。議論の語が天候の語になるという道筋は、比喩が対象を広げていく典型である。
- 閉口する動詞形が標準で、形容動詞にはならない(「閉口な話」とは言わない)。「〜口」型の漢語には糊口・異口・人口などあるが、動詞化するのはごく少ない。閉口が動詞になれたのは、「閉じる」という動作の字を含むからである。
- 辟易[0]「辟」はさける、「易」はかえる。『史記』項羽本紀の「人馬倶(とも)に驚き、辟易数里」が古い用例で、もとは後ずさりする身体の動きだった。閉口と同じく、身体の動作が心の状態の名になっている。
コロケーション
- 〜に閉口する格助詞は「に」「を」ではなく「に」を取る。「に」は働きかけを受ける相手を示す格で、閉口が受動的な経験であることを表している。「暑さを閉口する」とは言えない — こちらから何かをしたのではなく、一方的に参らされている。
- 長話に閉口する典型的な対象「長話」「猛暑」「人ごみ」「売り込み」など、持続して逃げ場がないものと結ぶ。一瞬の出来事には使わない — 「落雷に閉口した」とは言わない。時間の長さが条件であり、清少納言が挙げたのも「長言」だった。
- 閉口させられる受け身の重ねすでに受動的な語をさらに受け身にする形。「閉口させられた」は相手の責任を前に出すときに使う。「閉口した」なら自分の感想、「閉口させられた」なら相手への非難 — 態を一段重ねるだけで矛先が生まれる。
- 閉口/辟易近い二語辟易はもと「道をよけて場所を変える」で、後ずさりする身ぶりが原義である。閉口は口、辟易は足。どちらも身体の反応で困惑を言うが、辟易にはうんざりして離れたいという拒否が強く、閉口には離れられない諦めが濃い。
類語と差
- 辟易うんざりして避けたくなる逃げたい気持ち。閉口は困り果てて動けない感じ。
- 困惑どうしてよいか分からない判断に迷う。閉口は耐えがたさ。
- 往生するどうにもならず困る口語的。閉口はやや硬い。
- 音を上げる耐えられず弱音を吐く降参の表明。閉口は内心の状態。
ENto be at a loss / fed up
ZH为难(閉口する, wéinán)
194★★
物心
ものごころ[3]ものごころ中高型
語構成
物もの+心こころ
「ぶっしん」と読めば〈物質と精神〉の別語になる。
定義
世の中の物事や道理を理解する心。分別。
『現代文キーワード読解』第3部 ☑194
使用の境界世の中のことや人の心が分かるようになること。ほぼ「物心がつく」の形でのみ使う。
用法「物心がつく」「物心ついたころ」の形にほぼ固定している。四、五歳ごろに世の中のことがおぼろげに分かり始める段階を指し、記憶の起点として語られることが多い。最大の注意点は同じ漢字で「ぶっしん」と読む別語があることで、こちらは「物心両面の支援」のように物質と精神を意味する。読みが変われば意味も変わるので、文脈で判断する。
用例
-
わたしの幼年時代を、わたしは覚えていない。他の子どもたちを見て知ったのだ — わたしもそうだったのだと。……そしていま、そのころのわたしはどこにいるのか。アウグスティヌス『告白』第一巻(397頃/訳は本教材)
物心がつく「前」について書かれた最も古い文章の一つである。アウグスティヌスは自分の乳児期を覚えていないと認め、他の子を見て推測するほかないと言う。ここにこの語の構造が見える — 物心がついたということは自分では確認できない。ついたあとから振り返って「あのあたりから記憶がある」と言うだけである。だからこの語はほぼつねに「物心ついたころ」という回想の形で現れる。記憶の始まりは記憶の中にしかない。
-
わが心躍る、空に虹を見るとき。……そして願わくはわが日々のひとつひとつが自然への敬いによって結ばれんことを。子どもは大人の父である。ワーズワース「わが心は躍る」(1802/訳は本教材)
物心という語が含む不思議な順序を照らす。「子どもは大人の父である」 — つまりいまの自分を作ったのはかつての子どもだということだ。「物心がつく」も同じで、四、五歳のあたりに起きた何かが、その後のすべての記憶の土台になる。本人には何も起きていない。気づいたらすでについていた。この語が「つく」という自動詞を取り、「物心を得る」とは言わないのは、それが努力でも出来事でもなく、いつのまにか備わっているものだからである。
- 物心ついたころには、もうこの町に住んでいた。
ほぼこの形しかないと言ってよい。「物心ついたころ」「物心がつく」の二つで用例のほとんどを占める。記憶の起点を示す定型句として働き、自伝や回想の書き出しに好まれる。
- ×被災地にものごころ両面の支援を行う。
読みが違う。この場合は「ぶっしん」と読み、物質と精神を意味するまったくの別語である。同じ漢字で和語読みと漢語読みが別語になる例で、読解では文脈から読みを決めるほかない。
作品での用例
「僕」は父の臨終に直面し、昔を回想する。
これが自分の父親だと、この眼で見て物心ついたのが、ついこないだのような気がするではないか。ついこないだまで、このおやじは大きな体で僕の前に立ちはだかって幼い僕を振り回し、息子の腕力ではまだその片腕だけにも及ばぬような気がしたではないか。
出典 阿部昭『司令の休暇』
派生形
- 物心[0]同じ字で別語。〈物質と精神〉で、「物心両面」「物心とも」の形で使う。和語読みの「ものごころ」が発達の語、漢語読みの「ぶっしん」が哲学・実務の語。読みの違いが語彙の層の違いを示している。
- 物[2]ここでの「物」は世の中の事柄を指す。「物言い」「物覚え」「物心」の「物」で、具体的な品物ではない。和語の「もの」は対象一般を広く指し、ときに霊的なものまで含む(物の怪)。この幅の広さが「物心」を「世の中が分かる心」にしている。
- 物心づく[5]一語の動詞として扱うこともある。「物心づいてから」という形で文学に見える。助詞「が」を落として一語化するのは日本語の常道で(気づく・色づく・勢いづく)、一語化の進み具合は語の古さの目安になる。
コロケーション
- 物心がつくほぼ唯一の形「つく」という自動詞としか結ばない。「物心を身につける」「物心を得る」とは言わない。努力の対象にならないのである。「気がつく」「分別がつく」「決心がつく」と同じ型で、「つく」は心の働きが自然に備わることを言う動詞である。
- 物心ついたころ回想の枠ほぼつねに過去形で現れる。「いま物心がついた」とは言えない — 渦中では分からないからだ。この語は振り返る位置からしか使えない。時制の制限が語の性格を決めている珍しい例である。
- 物心両面別語の合図「両面」が来たら「ぶっしん」と読む。「物心両面の支援」は物質面と精神面のこと。共起語が読みを決めるということで、日本語の読み分けは字ではなく前後の語が担っている。入試で狙われるのはこの切り替えである。
- 分別がつく隣の表現「分別(ふんべつ)がつく」も同じ型だが、年齢がもっと上を指す。物心は四、五歳、分別は成人前後。日本語は成長の段階を「〜がつく」で刻んできた — 物心がつく→分別がつく→取り返しがつく/つかない。成長は獲得ではなく付着として捉えられている。
類語と差
- 分別善悪を判断する力大人の判断力。物心は幼児期の芽生え。
- 自我自分を自分と意識する働き心理学の語。物心はより素朴で日常的な言い方。
- 物心両面物質と精神の両方同じ字だが「ぶっしん」と読む別語。混同しやすい。
- 聞き分け言われたことが分かる理解の程度。物心は世界の認識全般。
ENdawning awareness
ZH懂事(物心がつく, dǒngshì)
195★★
無造作
むぞうさ[2]むぞうさ中高型
定義
① 物事を簡単に行うこと。
② 技巧を凝らさないこと。
『現代文キーワード読解』第3部 ☑195
原書の解説
「造作」は仏教語で、意識的につくり出すこと。左の文章では、「少年」が簡単に視線を外したことを示す。
使用の境界手間をかけず、無頓着であること。雑という否定的な評価とは限らず、自然さとして肯定的にも使う。
用法「造作」は手間・こしらえのことで、その否定だから〈手をかけない〉となる。要点は評価が文脈で反転することにある。「無造作に投げ出された靴」は雑さを、「無造作な髪型」は気取らない自然さを表す。ファッションの文脈では明確に肯定語である。「無造作に」という副詞形が標準的な使い方で、動作の描写に使う。読みは「むぞうさ」で、「むづくり」ではない。
用例
-
花は野にあるように生けよ。千利休/『南方録』(1690)
無造作が肯定に傾くときの典型がここにある。「野にあるように」とは手をかけないように見せよということだ。ここで見落とせないのは、これが「生けよ」という命令であることである。野の花をそのまま持ってきても「野にあるように」は生まれない。手をかけて、手をかけていないように見せる — 「造作」を尽くして「無造作」に至るという逆説だ。「無造作な髪型」が褒め言葉になるのも同じ理屈で、本当に何もしていない髪はそう呼ばれない。評価が反転するのは文脈のせいだけでなく、この語がもともと二重底だからである。
-
茶道は本質において不完全なものへの崇拝である。それは不可能と知りつつ完全を成し遂げようとする営みのなかにひそやかな意味を見いだそうとする試みだからである。岡倉天心『茶の本』(1906/訳は本教材)
無造作を価値として受け取る構えを説明している。天心が言うのは完全は不可能だということ、そしてだからこそ不完全に意味が宿るということだ。整いすぎたものは閉じている。無造作に置かれたものはまだ動きうる。「無造作に投げ出された靴」が雑さにも生活の生々しさにも読めるのはこのためで、同じ「手をかけない」が、欠如と見れば雑、余白と見れば自然になる。評価を決めるのは対象ではなく見る側の構えである。
- 髪を無造作にまとめただけなのに、その人は整って見えた。
肯定に傾いた例。「〜だけなのに」という逆接が効いている — 手をかけていないのに結果がよいという構図が賞賛を生む。手間と結果の不釣り合いが、この語の快さの正体だ。
- ×手術は無造作に行われた。
正確さが要る場面には置けない。肯定にも否定にも転びうる語だが、どちらに転んでも「手をかけていない」という含意は残る。手をかけることが前提の行為には使えない。
作品での用例
祭りの夜、令嬢は、少年が自分をにらんでいることに気づいた。
令嬢は咄嗟にその眼を睨み返したが、すると、彼女の激しい意気組を嘲けるように、傲岸な眼は無造作に反らされていた。
出典 坂口安吾『傲慢な眼』
派生形
- 造作[0]手間・面倒。「造作もない」はたやすいという意味で、今も使われる。仏教語としては「意識的につくり出すこと」で、無造作はその否定。「作為がない」という仏教的な価値観が語の底に沈んでいる。
- 造作[0]同じ字の別読み。家の内装・建具を指し、「顔の造作」と言えば目鼻立ちのこと。「つくり」という共通の芯から手間(ぞうさ)と造形(ぞうさく)に分かれた — 読みの分化は意味の分化である。
- 無造作さ名詞化すると評価が固定しやすい。「その無造作さが魅力だ」のように肯定の文脈で使われることが多い。否定の意味なら「雑さ」「乱雑さ」を選ぶのが普通で、名詞形が肯定側に寄っていることはこの語の重心がどちらにあるかを示している。
コロケーション
- 無造作に置く動作と結ぶ「置く」「投げ出す」「束ねる」「差し込む」と結ぶ。すべて一動作で終わる動詞である。時間のかかる動詞とは結ばない — 「無造作に育てる」とは言わない。「造作=手間」の否定なのだから、手間のかかりようがある動詞でなければ意味をなさない。
- 無造作な髪型肯定に傾く場装いの文脈ではほぼ肯定である。「気取らない」「自然な」と同義に働く。これは装いが本来「作るもの」だからで、作っていないように見えることが高度な技とみなされる。利休の「野にあるように」と同じ構造が現代の装いにも生きている。
- 無造作に扱う否定に傾く場大切なものを目的語に取ると非難になる。「古文書を無造作に扱う」は明確な批判だ。反転の鍵は対象の価値にある — 価値が高いものほど手間をかけるべきだという前提が働くので、手間の欠如が敬意の欠如に読み替えられる。
- 造作元の語「造作(ぞうさ)」は手間(「造作もない」=手間がかからない)。建築では「ぞうさく」と読み、内装の仕上げを指す。読みで意味が分かれるのは194 と同じ現象で、もとは仏教語で「意識的につくり出すこと」を意味した。作為の否定という芯が、ここから来ている。
類語と差
- 雑丁寧でない否定的な評価が確定する。無造作は肯定的にも使える。
- 無頓着気にかけない関心の欠如。無造作は動作の手軽さ。
- さりげないわざとらしくない自然さを肯定する。無造作の肯定的な側面に近い。
- ぞんざいいいかげんで乱暴だ明確に否定的。無造作は中立に近い。
ENcasual / offhand
ZH随意(無造作だ, suíyì)
196★★
なおざり
なおざり[0]なおざり平板型
語構成
「おざなり」は一応やる、「なおざり」はやらない。混同が非常に多い。
定義
物事に真剣に取り合わず、いい加減に対処すること。おろそか。
『現代文キーワード読解』第3部 ☑196
原書の解説
漢字では「等閑」と標記する。「おざなり(=その場限りの間に合わせ)」との意味の違いに注意しよう。
使用の境界いいかげんに扱い、放っておくこと。手を抜くのではなく、ほとんど手をつけない点が要点。
用法最大の注意点は「おざなり」との区別である。おざなりは一応やる(その場しのぎで形だけ整える)、なおざりはやらない(放っておく)。音が似ているため混同が非常に多く、入試でも狙われる。漢字では「等閑」と当て、「とうかん」とも読むが同じ意味である。「なおざりにする」という動詞形が標準的な使い方で、義務や責任について使うことが多い。
用例
-
ある人、弓射ることを習ふに、諸矢(もろや)をたばさみて的に向かふ。師の云はく、「初心の人、二つの矢を持つ事なかれ。後の矢を頼みて、初めの矢に等閑(なほざり)の心あり。毎度ただ得失なく、この一矢に定むべしと思へ」と云ふ。吉田兼好『徒然草』第九十二段(1330頃)
「なおざり」という語がそのまま現れる一段で、この語の芯を定義していると言ってよい。弟子は二本目があると思っている。だから一本目に身が入らない。重要なのは弟子がさぼっていないことだ — 射てはいる。それでもそこに「なほざりの心」があると師は見抜く。なおざりとは手を抜くことではなく、心を置いていないことである。「おざなり」との差もここではっきりする — おざなりは形だけやる、なおざりは形はあっても心がない、あるいはそもそも手をつけない。
-
われわれは短い時間を持っているのではない。多くの時間を浪費しているのだ。……人生は十分に長く、よく用いる者には最も大きな事を成し遂げるに足りるだけ与えられている。セネカ『人生の短さについて』(西暦49頃/訳は本教材)
なおざりの帰結を言う。セネカが突くのは足りないのは時間ではなく扱い方だという一点である。浪費とは使い切ることではなく、心を置かずに過ごすことだ。兼好の弓の話と重ねると見えてくるのは、なおざりが「あとがある」という前提から生まれるということである。次の矢、明日、来年 — 予備があると思うかぎり心は置かれない。この語が単なる「怠慢」より深いところを突くのは、意志の弱さではなく時間の見積もり違いを名指しているからだ。
- 基礎の練習をなおざりにしたまま、応用ばかり追いかけていた。
正しい使い方。「なおざりにする」が基本形で、放っておくことを言う。「あとでやればいい」という構えが含まれているのが要点で、兼好の「後の矢を頼みて」と正確に重なる。
- ×形だけの謝罪をなおざりに済ませた。
「おざなり」との取り違え。形だけでもやったなら「おざなり」である。なおざりはそもそも手をつけない。おざなりは「お座なり」(その場かぎりの間に合わせ)、なおざりは「等閑」 — 語源が別である。
作品での用例
読書家の「彼」は机の上の洋書を手にする。
彼は坐るなりそれを開いて枝折の挿んである頁を目標に其所から読みにかかった。けれども三四日等閑にしておいた咎が祟って、前後の続き具合が能く解らなかった。
出典 夏目漱石『明暗』
派生形
- 等閑同じ表記で二通りに読む。「なおざり」は和語に当てた訓、「とうかん」は漢語の音。「等閑に付す」「等閑視」は音読みで使う。194 物心、195 造作と同じ現象がここでも起きていて、漢字は和語と漢語の両方を同時に背負う。
- なおざりにかな書きが標準である。「等閑」と書くと「とうかん」と読まれかねないので、実用上かなが選ばれる。表記の選択が誤読の回避として働く例で、177 のっぴきならない、179 たかがと同じく、かな書きは語の成熟の印でもある。
- おざなり[0]別語。語源も意味も違うのに音が似ているために混同される。「おざなりな対応」はやっている、「なおざりな対応」はやっていない。両者を並べて覚えるのが確実で、音の近さが意味の近さを保証しないという教訓でもある。
コロケーション
- なおざりにする基本の形「〜にする」で他動詞化する。目的語は「基礎」「健康」「約束」「本業」など、本来手をかけるべきものに限られる。どうでもいいものをなおざりにすることはできない — この語は「すべきだった」という判断を含んでいるので、使った時点で批判になる。
- なおざりにされる受け身の形受け身にすると対象の側から書ける。「地方の医療がなおざりにされてきた」は誰が放置したかを言わずに放置を告発できる。173 の「水を差された」と同じで、受け身は加害者を隠しながら被害を前に出す。評論文でこの形が多いのはそのためだ。
- おざなり取り違えの相手「お座なり」はお座敷でその場かぎりに応対したことから出たとされる。やることはやる。ただし形だけだ。なおざりはやらない、おざなりはやるが中身がない — 「や」のあるなしで覚えると取り違えにくい。入試で狙われるのはこの一点である。
- 等閑視する漢語の形「等閑(とうかん)視する」は同じ字を音で読んだ形。意味はほぼ同じだが、文体が一段固い。「等閑」は中国語で「なみなみ・いいかげん」を意味し、和語の「なほざり」に当て字として結びついた。一つの漢字表記が和語読みと漢語読みの二語を養っている。
類語と差
- おざなりその場かぎりの間に合わせ一応やる。なおざりはやらない。この差が最重要。
- 等閑なおざり漢字表記。「とうかん」と読めば別語のように見えるが同義。
- 疎かいいかげんにする「おろそか」。ほぼ同義でより日常的。
- 放置そのままにする何もしない。なおざりは扱いの雑さを含む。
ENneglect / leaving undone
ZH敷衍(おざなりにする, fūyǎn)
コラム ── 伊藤整
伊藤整は、昭和初期にジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』を数年かけて共訳するなどして、当時のヨーロッパの最新文学を積極的に移入するとともに、自ら新心理主義を唱えて小説と評論を発表し始めた。そのため、昭和文学の騎手の一人に注目されていた。
しかし、伊藤整の心の奥底に抒情詩人が隠されていたことも間違いなく、それは少年時代から書いていた、良質な青春の感傷を漂わせた抒情詩を大学入学以前にまとめて刊行した詩集『雪明りの路』一巻だけで、十分理解できる。また、その時期の試作は、新しい小説の方法的実験の一成果とみなされる『幽鬼の街』『幽鬼の村』にも反映されている。
『若い詩人の肖像』は、ジョイスの『若き日の芸術家の肖像』を手本にしている。自分が詩人として立つことを決意した少年時代から、『雪明りの路』を出版し、梶井基次郎、北川冬彦など多くの詩人達と交友し始めた二十代前半までの思い出を描いた、自伝的長編である。
コラム ── 梶井基次郎
梶井基次郎は、肺結核のため、わずか三十一歳の若さで夭折したが、特異な感覚を詩情豊かに表現した短編作家である。レモンを爆弾に見立てて、「丸善」の洋書売り場に置いて逃走する名作『檸檬』で知られるように、繊細かつ、いたずら好きの一面もあったようで、自らの喀血をカラスのコップに入れ、ぶどう酒だと言って三好達治に見せたという逸話も残っている。伊藤整も青春時代を梶井とともに過ごした一人で、「桜の樹の下には屍体が埋まっている!」で始まる「桜の樹の下には」は、交流当時、伊藤整らが褒めたので作品に結実したという。彼の作品は、伊藤整の他、三島由紀夫など多くの作家に影響を与えることになった。
三好達治が梶井の代表作だと評価する『城のある町にて』は、彼の作品の中では明るく健康的なイメージがする。「城」とは、転地療養のために赴いた、義兄の住む伊勢の松阪にあったもので、梶井は毎日のように城跡を歩いていたという。現在は、その城址に梶井の文学碑が残されている。
確認テスト26
問 1次の空欄に当てはまる語を、あとの①〜④からそれぞれ一つずつ選べ(同じものは二度使ってはならない)。
- ア 死と[ ]な、危険な仕事に従事する。
- イ 「恥ずかしい」という感情を初めてもつのは、[ ]がつくのと同時かもしれない。
- ウ 店先でうろうろしていたので、店員に[ ]な顔をされてしまった。
- エ 自分の責任ではないのに叱責され、納得できず、[ ]だと感じた。
正解と解説
ア=① / イ=④ / ウ=② / エ=③
ア:ここでは〈背中合わせ〉という意味。
ウ:読み方に注意しよう。
問 2次の傍線部の意味を答えよ。
- ア 彼女がこちらに視線を走らせたような気がしたが、それは刹那の出来事だった。
- イ 景気が上昇したとされても、得心がいかない国民も多いかもしれない。
- ウ 他人の迷惑をかえりみず大声で騒ぐ人たちには、閉口する。
- エ 弱い人間や自分に自信がない人間に限って、居丈高な態度をとるものだ。
正解と解説
ア=ほんの一瞬 / イ=納得のいかない / ウ=手に負えなくなり困る / エ=相手を威圧する
イ:「得心がいく」という表現も覚えておこう。
問 3次の空欄に当てはまる語を、あとの①〜④からそれぞれ一つずつ選べ(同じものは二度使ってはならない)。
- ア 模試を受けることは、その時点での弱点を見つけるという意味もある。したがって、模試の復習を[ ]にしてはいけない。
- イ 特定秘密保護法は、戦前の治安維持法を[ ]とさせるものだという反対の声もあったものの、二〇一四年十二月に施行された。
- ウ 明るく振る舞っているその様子が逆に痛々しく感じられるのは、彼が[ ]を抱えていることを私が知っているからだ。
- エ パリで感じたこと。日本人女性がバシッと髪型を決めるのに対して、フランス人女性のそれは妙に[ ]に見えた。
正解と解説
ア=④ / イ=② / ウ=① / エ=③
イ:この文では〈①ありありと想像すること〉という意味。
ウ:「屈託」の、このような使い方も覚えておこう。
作り方が分かれば、辞書より先に語義が立つ
Section 04
漢語・副詞
197★
艱難
かんなん[0]かんなん平板型
語構成
艱なやむ・くるしむ+難むずかしい
「艱」も「難」も〈苦しみ・難しさ〉を表す。読みが問われる。
定義
困難に遭い、悩み苦しむこと。
『現代文キーワード読解』第3部 ☑197
原書の解説
「艱難」の意味を強めた、「艱難辛苦」という四字熟語もある。
使用の境界困難にあって苦しみ悩むこと。単なる困難ではなく、長く続く苦しみを含む。
用法二字がともに〈苦しみ・難しさ〉を表す。日常語ではなく、「艱難辛苦」という四字熟語、または「艱難汝を玉にす」という諺の形で出会うことが多い。後者は〈苦労が人を立派にする〉という意味で、西洋の諺の訳とされる。「艱」は画数が多く書き取りでも難しいため、読みで問われることが中心になる。小説では、登場人物の来歴を要約する箇所に現れる。
用例
-
天の将(まさ)に大任を是(こ)の人に降さんとするや、必ず先づ其の心志を苦しめ、其の筋骨を労せしめ、其の体膚を餓ゑしめ、其の身を空乏にし、行ひ其の為す所に払乱(ふつらん)せしむ。心を動かし性を忍ばせ、其の能(あた)はざる所を曾益(そうえき)せしむる所以(ゆゑん)なり。『孟子』告子下(書き下しは本教材)
「艱難汝を玉にす」という諺の出どころにあたる一節である。天が大任を与えようとするとき、まず心を苦しめ、身を飢えさせ、やることなすこと狂わせるという。ここで見ておきたいのは苦しみに目的が与えられていることだ。「能はざる所を曾益せしむる」 — できなかったことをできるようにするためだと言う。艱難という語が「単なる困難」より重いのは、この意味づけの伝統を背負っているからである。長く続き、その先に何かがあると信じられている苦しみ — それがこの語の住む場所だ。
-
私の生を殺さないものは、私をより強くする。ニーチェ『偶像の黄昏』箴言と矢(1889/訳は本教材)
同じ思想の近代版であり、同時にその危うさも見せてくれる。孟子は天という与え手を立てていた。ニーチェには与え手がいない。苦しみはただ起こるのであって、強くなるかどうかは結果論である。ここに「艱難汝を玉にす」を他人に向けて言うときの危うさが見える — 苦しんでいる当人が言えば励ましだが、外から言えば苦しみの正当化になりうる。諺は誰が誰に向けて言うかで意味が変わる。
- 十年の艱難の末に、祖父はこの土地に根を下ろした。
正しい使い方。「十年の」という期間の語と結ぶのが要点で、艱難は長さを含む。「〜の末に」という結びもよく合う — 終わったあとから振り返って名づける語だからだ。
- ×初日の設定作業に艱難した。
語の重さが合わない。一日で終わることにこの語は使えないし、そもそも「艱難する」という動詞形はない。「難儀した」「手こずった」でよい。硬い漢語ほど活用の自由が少ない。
作品での用例
旧家の生まれである三吉は実家に戻り、一家の大黒柱のような存在になっていく。
「自分は未だ若い」斯世の中には自分の知らないことが沢山ある。一期思想から、一度破って出た旧い家へ死すべき生命も捨てずに戻って来た。其時から彼は斯世の艱難を進んで嘗めようとした。
出典 島崎藤村『家』
派生形
- 艱「艱」は常用漢字外で、この語と「艱難辛苦」以外ではほぼ見ない字である。字が一語に囲い込まれると、読みも意味もその一語ごと覚えるほかなくなる — 読みが問われるのはそのためだ(「かんなん」であって「かんたん」ではない)。
- 艱難辛苦[1]四字熟語。「艱難」+「辛苦」で、二字熟語を二つ並べるという四字熟語の最も基本的な作り方に従う(悪戦苦闘・暗中模索)。並べても意味は増えないが、四拍のリズムが演説や碑文に向く。
- 難儀[1]日常語に降りてきた同系の語。「難儀する」と動詞になれるのが艱難との大きな違いで、使用頻度の高い語ほど活用が豊かである。関西では今も生きた口語で、同じ漢語が地域によって文語にも口語にもなる。
コロケーション
- 艱難辛苦四字熟語の形実際に出会うのはほぼこの形である。「辛苦」も同義なので、四字すべてが「苦しい」を言っている。同義の字を重ねて強めるのは漢語の常道だが(187 怪訝と同じ作り)、四字まで重ねると意味の追加ではなく文体の荘重さが目的になる。
- 艱難汝を玉にす諺の形「玉にす」は原石を磨いて宝玉にすること。西洋の諺の翻訳とも言われる。注目したいのは「玉」という比喩だ — 磨くのは外側であって、中身が変わるわけではない。もともと玉である者だけが玉になるという含みが残っており、174 才走るの『山月記』が「己の珠に非ざることを惧れる」と書いたのと同じ比喩の系譜に立つ。
- 艱難に耐える受け手の動詞「耐える」「堪える」「乗り越える」と結ぶ。「艱難と闘う」とはあまり言わない。闘う相手は倒せるものだが、艱難は倒す対象ではなく通り過ぎるまで持ちこたえるものだからだ。共起する動詞が、その語の想定する対処法を教えてくれる。
- 艱難/困難/苦難三語の差困難は中立で事柄の側を言い、苦難は苦しみの側を言う。艱難はそこに「長く続く」と「文語的な重さ」が加わる。三語は事態の大きさではなく、書き手の構えの違いを示す — 艱難を選ぶ書き手は、その苦しみを物語として語ろうとしている。
類語と差
- 困難難しくて苦しい一般語。艱難は文章語で、苦しみの深さと長さを含む。
- 辛苦つらく苦しいこと並べて「艱難辛苦」と使う。ほぼ同義。
- 苦難苦しみと難儀近い。艱難のほうが古風で重い。
- 試練力を試す困難乗り越える前提がある。艱難は苦しみそのもの。
ENhardship / tribulation
ZH艰难(困難, jiānnán)
198★★
一瞥
いちべつ[0]いちべつ平板型
定義
ちらっと見ること。
『現代文キーワード読解』第3部 ☑198
原書の解説
「瞥」は〈横目でちらっと見る〉の意。「一瞥を与える」という使い方も覚えておこう。
使用の境界ちらりと一度だけ見ること。関心の薄さや冷淡さを含むことが多い。
用法「瞥」はちらりと見るという字で、この一字に語義が集約されている。要点は、この語がしばしば相手を軽んじる態度を含むことにある。「一瞥をくれる」「一瞥しただけで」という形で、じっくり見るに値しないという評価が示される。ただし単に短く見ることを言う中立の用法もあり、文脈で判断する。「一瞥だにしない」は〈見向きもしない〉という強い無視の表現である。
用例
-
……稲妻が走った。そして夜が来た。ああ、消え去った美しい人よ。そのまなざしが一瞬わたしをよみがえらせたあなたよ。もう永遠のかなたでしかあなたに会えないのか。ボードレール『悪の華』「通りすがりの女に」(1857/訳は本教材)
一瞥が軽んじるためだけのものではないことを示す。雑踏ですれ違った女性と目が合った。それだけである。会話もなければ再会もない。それでもその一瞬が生涯の出来事になる。ここで効いているのは時間の短さと意味の大きさの不釣り合いだ。一瞥という語はその不釣り合いを名指せる — 軽んじる一瞥は「見るに値しない」という判断を、この詩の一瞥は「見尽くせない」という感覚を運ぶ。短さそのものは中立である。
-
子曰く、其の以(な)す所を視、其の由る所を観、其の安んずる所を察すれば、人焉(いづ)くんぞ廋(かく)さんや、人焉くんぞ廋さんや。『論語』為政篇(書き下しは本教材)
見ることに段階があることを説く。孔子は視・観・察と三つの動詞を使い分ける — 行いを視、動機を観、落ち着き先を察する。この三段を踏めば人は隠しようがないという。一瞥はこの最初の段の、さらに手前にある。視ることすら完了していない。だからこの語が軽侮を含むのは当然で、「じっくり見るに値しない」という判断を態度で示していることになる。見る時間の長さが敬意の量に換算される — この対応がある限り、一瞥は失礼でありうる。
- 受付は書類に一瞥をくれただけで、判を押した。
軽侮の含みが出た例。「くれる」という動詞が効いている — 与えてやるという上からの構えを作る。「一瞥を与える」も同じで、視線を施し物のように扱う言い方である。
- ×名画の前で三十分一瞥しつづけた。
持続と両立しない。「一」が入っているとおり、一度きり・一瞬が条件である。「凝視した」「見入った」が正しい。数を含む漢語はその数を守る — 一瞥・一瞬・一顧。
作品での用例
食糧難の戦争直後、「私」たちの乗る汽車に、果物を入れた籠をさげて乗り込む女性がいた。「私」は無関心な態度をつくろった。
内心は、私こそ誰よりも最も、その籠の内容物に関心を持っていたに違いないのですが、けれども私は、我慢してその方向には一瞥もくれなかったのでした。
出典 太宰治『たずねびと』
派生形
- 瞥〈横目でちらりと見る〉。この一字に語義のすべてが入っている。「目」偏を持ち、「一瞥」「瞥見」以外ではほぼ使われない。字が一語に囲い込まれる点で197 の「艱」と同じで、硬い漢語はしばしば専用の字を抱えている。
- 瞥見[0]「ざっと目を通す」。一瞥が態度の語であるのに対し、瞥見は作業の語である(「資料を瞥見したかぎりでは」)。軽侮の含みはなく、むしろ謙遜に使う。同じ字でも、対象が人か文書かで評価が入れ替わる。
- 一瞥する動詞形。「一瞥をくれる/与える/投げる」という名詞+授受動詞の形と併存する。動詞形は中立、名詞形は評価を帯びる — 名詞にすると視線が物として扱え、物はやり取りの対象になるからである。
コロケーション
- 一瞥をくれる軽侮の型「くれる」「与える」と結ぶと上下関係が生じる。視線が恩恵のように扱われるからだ。「一瞥を賜る」とは言わない — 下から上へは流れない。授受の動詞は日本語で最も厳密に上下を刻む装置で、それがこの語に軽侮を与えている。
- 一瞥しただけで判断の速さ「〜だけで分かった」という形で使うと軽侮ではなく眼力の証明になる。「一瞥しただけで贋作と見抜いた」 — 短い時間で正解に達したのだから称賛だ。同じ語が、判断の当否によって侮蔑にも称賛にもなる。
- 一瞥だにしない強い否定「だに」という古い副助詞と結ぶ。「〜さえしない」で、最小限のものすら与えないことを言う。一瞥は「最小の関心」の単位として機能しており、それを否定することで完全な無視を表せる。最小単位の語は否定の足場になる。
- 一顧だにしない隣の表現「一顧」は振り返って見ること。一瞥が横目、一顧が振り返りで、どちらも「わずかな注意」を表す。「一顧だにしない」のほうが慣用として固い。身体の向きの違いが二語を分けているのに、用法はほぼ重なるのが面白い。
類語と差
- 一見ひとめ見る中立。一瞥は冷淡さや軽視を含みやすい。
- 垣間見る隙間からのぞき見る偶然性がある。一瞥は意図して短く見る。
- 目を通すざっと確認する文書に限る。一瞥は人にも使える。
- 流し目横目でちらりと見る色っぽさを含む。一瞥は冷たい。
ENa glance
ZH一瞥(ちらりと見る, yīpiē)
199★★
諧謔
かいぎゃく[0]かいぎゃく平板型
定義
おもしろみのある言葉。ユーモア。
『現代文キーワード読解』第3部 ☑199
原書の解説
「諧謔を弄する」という慣用句で覚えておこう。「弄する」は、〈思うままに操る〉の意。
使用の境界気のきいた冗談。ユーモアの訳語で、上品さと知性を伴う点が要点。
用法「諧」はやわらぐ、「謔」はたわむれるで、和やかな冗談という語構成になっている。したがって害意のない上品な笑いを指し、皮肉や嘲りとは区別される。実際の用法は「諧謔に富む」「諧謔味」という結びつきが多く、文芸批評で作家の文体を評するときに使われる。夏目漱石の文章を評する際にしばしば用いられる語である。読みが問われる。
用例
-
そのとき彼らは野に立つ三、四十基の風車を見つけた。「サンチョ、見よ。あそこに三十を越える無法な巨人がいる。」「巨人などではございません。あれは風車です。腕のように見えるのは帆でございます。」「わかっておらぬな。あれは巨人だ。恐ろしければ離れて祈っておれ。」セルバンテス『ドン・キホーテ』前篇第八章(1605/訳は本教材)
諧謔が嘲りとどこで分かれるかを教えてくれる。この場面は滑稽だが、読者はドン・キホーテを軽蔑しない。理由は語り手が彼を見下していないからだ。風車に突撃する愚かさと、見えたものを信じ抜く誠実さが同じ一つの行為として書かれている。諧謔とはこの「同時に見る」ことである。「諧」はやわらぐ、「謔」はたわむれる — 笑いながら相手を突き放さないという態度が、字の選択にすでに書き込まれている。
-
吾輩は猫である。名前はまだ無い。どこで生れたかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。夏目漱石『吾輩は猫である』(1905)
日本語の諧謔の到達点と言ってよい書き出しである。仕掛けは文体と主語の落差だ — 「吾輩」という尊大な一人称を使うのが名前もない捨て猫である。しかも「とんと見当がつかぬ」と漢文調の語り口を崩さない。言葉の格と中身の格がずれる — これが上品な笑いの作り方である。誰も傷つけていないことに注意したい。諧謔は対象を必要としない笑いでありうる — 皮肉には刺す相手が要るが、諧謔には要らない。
- 弔辞にまで諧謔を忍ばせるのがあの人の流儀だった。
この語の格が出た例。「忍ばせる」という動詞が効いている — 諧謔は前面に押し出さない。気づく人にだけ気づかれるという控えめさが上品さの正体で、笑わせようとした瞬間に諧謔ではなくなる。
- ×新入りをからかう諧謔が飛び交った。
攻撃には使えない。「諧」がやわらぐという字である以上、場を和ませないものは諧謔ではない。「揶揄」「冷やかし」「嘲弄」が正しい。字の意味が使用の範囲を決めている。
作品での用例
読本作者の滝沢馬琴の家を、画家の渡辺崋山が訪れる。
「古人は後生恐るべしと云いましたがな。」 馬琴は崋山が自分の絵のことばかり考えているのを、妬ましいような心もちで眺めながら、何時になくこんな諧謔を弄した。
出典 芥川龍之介『戯作三昧』
派生形
- 諧「言」偏+「皆」で、皆の言葉が調和することを表すとされる。「俳諧」の「諧」もこれで、連歌から生まれた俳諧が「おかしみ」を本領としたのはこの字による。芭蕉の仕事はこの「おかしみ」を深みへ押し進めることだった。
- 謔常用漢字外で、この語以外ではほぼ見ない。「戯(たわむ)れる」と同じ意味だが、「戯」が遊び一般を指すのに対し、「謔」は「言」偏を持ち言葉でのたわむれに限られる。部首が意味の領域を限定している。
- ユーモア[1]諧謔はこの語の訳語として明治期に定着した。原語はもと体液(humour)を意味し、四体液説の均衡が気質を作るという古い医学に由来する。体液の均衡=諧(やわらぐ)と考えると、訳語の選択は偶然にしてはよく出来ている。
コロケーション
- 諧謔に富む最も安定した形「富む」と結ぶのは示唆的だ。富むのは量ではなく豊かさである(機知に富む・示唆に富む)。諧謔は回数で測らない — 一日に何度冗談を言ったかではなく、語り口全体に滲んでいるかで評価される。人格の属性として扱われる語である。
- 諧謔を弄する慣用の形「弄する」は〈思うままに操る〉。技術として扱う言い方で、やや批判的な色を帯びることもある(「弄する」は「策を弄する」とも言う)。「富む」が自然ににじみ出るものとして扱うのに対し、「弄する」は意図して操るものとして扱う — 動詞が評価を運ぶ。
- 諧謔味接尾辞「味」「味」は〈おもむき〉を表す接尾辞(人間味・妙味・真実味)。「諧謔味のある文章」は冗談が書いてあるのではなく、文章全体にその気配があることを言う。数えられないものを扱うための語形で、諧謔が出来事ではなく雰囲気であることを示す。
- 諧謔/皮肉/揶揄三語の距離皮肉は言いたいことの逆を言う(技法)、揶揄は相手をからかう(攻撃)、諧謔は場を和ませる(態度)。三語は笑いの強さではなく矛先の有無で分かれる。諧謔だけが矛先を持たない — だからこそ訳語として「ユーモア」に当てられたのである。
類語と差
- ユーモアおかしみ外来語。諧謔はその訳語で、より文章語的。
- 洒落気のきいた言葉遊び言葉の技巧。諧謔はより広い態度。
- 皮肉遠回しに刺す刺す意図がある。諧謔は害意を含まない。
- 滑稽おかしくてばかばかしい対象の性質。諧謔は作り手の技量。
ENhumour / wit
ZH诙谐(ユーモア, huīxié)
200★★
鷹揚
おうよう[0]おうよう平板型
定義
ゆったりとしている様子。
『現代文キーワード読解』第3部 ☑200
使用の境界ゆったりとして、細かいことにこだわらない様子。度量の大きさを肯定的に評価する語。
用法語源が印象を決める。鷹が大空をゆうゆうと飛ぶ様子から生まれた語で、悠然とした構えを肯定的に評価する。したがって基本的に褒め言葉である。ただし文脈によっては〈細かいことに気づかない〉という含みも出る。森鴎外の作例では、ドイツ人女性が指先を差し伸べる仕草に用いられており、優雅さと同時にわずかな芝居がかりも感じさせる。☑206 横柄と対で押さえるとよい。読みが問われる。
用例
-
北冥(ほくめい)に魚有り、其の名を鯤(こん)と為す。鯤の大なる、其の幾千里なるかを知らず。化して鳥と為る、其の名を鵬(ほう)と為す。……怒(ど)して飛べば、其の翼は垂天の雲の若(ごと)し。……蜩(せみ)と学鳩(がっきゅう)之を笑ひて曰く、「我決起して飛び、楡枋(ゆほう)に搶(あた)る。……奚(なん)ぞ以て九万里にして南せんとするを為さんや」と。『荘子』逍遥遊(書き下しは本教材)
鷹揚という語の構図がそのままここにある。大鵬は九万里を飛ぶ。蝉と小鳩はそれを笑う — そんなに高く飛んでどうするのか、と。注目すべきは大鵬が反論しないことだ。笑われても飛び方を変えない。これが鷹揚さである。細かいことにこだわらないのは寛容だからではなく、尺度が違うからだ。だからこの語は肯定でありながら、いつでも「細かいことに気づかない」という含みへ転びうる — 気づかないのか気にしないのかは、外からは見分けられない。
-
愚かな一貫性は狭い心の妖怪である。……今日考えていることを断固として語れ。そして明日は明日考えることを断固として語れ。たとえそれが今日語ったことのすべてと食い違っていようとも。エマソン『自己信頼』(1841/訳は本教材)
鷹揚さが無責任とどこで分かれるかを考えるために引く。エマソンが否定するのは「愚かな」一貫性であって一貫性そのものではない。小さな辻褄を守るために大きな判断を曲げることを責めている。鷹揚な人物が好かれるのもここで、些事を見逃すのは本筋を見ているからだと受け取られる。逆に本筋も見ていないのに些事を見逃せば「ずぼら」になる。同じふるまいが鷹揚にも怠慢にも見えるのは、見る者がその人の尺度を信じているかどうかによる。
- 祖父は孫が皿を割っても鷹揚に笑うだけだった。
典型的な肯定の使い方。年長者・上位者に使うと収まりがよいのは、とがめる権利を持つ者がとがめないという構図が要るからだ。とがめる立場にない者が見逃しても鷹揚とは言わない。
- ×部下は上司の叱責を鷹揚に受け止めた。
上下が逆である。この語は上から下への寛大さを言う。下位者の受け止め方には使えない — 「素直に」「泰然と」なら成り立つ。評価語には使ってよい方向が刻まれている(184 健気と同じ構造)。
作品での用例
渡邊は知り合いのドイツ人女性とホテルで会食する。
「長く待たせて。」 独逸語である。ぞんざいな詞と不吊合に、傘を左の手に持ち替えて、鷹揚に手袋に包んだ右の手の指尖を差し伸べた。渡邊は、女が給仕の前で芝居をするなと思いながら、丁寧にその指尖をつまんだ。
出典 森鴎外『普請中』
派生形
- 鷹[1]語源の中心。鷹狩りの文化が背景にあり、鷹は猛禽でありながら「品位ある鳥」とされた。強さと優雅さが同居するというこのイメージが鷹揚を褒め言葉にしている — 「鳶揚」でも「烏揚」でも同じ意味にはならない。
- 揚高く上がる字。「揚々」「意気揚々」と同じで、上向きの気分を運ぶ。ただし「意気揚々」が得意げであるのに対し、「鷹揚」には誇示がない。「鷹」が加わることで「高さ」が「自慢」ではなく「余裕」に変わる。
- おうよう[0]読みが問われる語。「ようよう」「たかあげ」ではない。「鷹」を「おう」と読むのは漢音で、訓の「たか」と離れているため間違えやすい。硬い漢語では訓読みの知識がかえって邪魔をすることがある。
コロケーション
- 鷹揚に構える姿勢の動詞「構える」「笑う」「うなずく」「かまえる」と結ぶ。いずれも動きの小さい動作である。「鷹揚に走る」とは言わない。語源の「鷹が悠々と飛ぶ」という像は速さではなく羽ばたきの少なさを見ている — 力を使っていないように見えることが鷹揚さの核である。
- 鷹揚な人物人柄の語「人物」「性格」「気風」と結ぶ。一時的な態度ではなく持続する人柄を言う語である。188 居丈高が「〜になる」を要求したのと正反対で、鷹揚は「〜である」で足りる。作れる姿勢は一時的、作れない姿勢は恒常的 — 文法がその違いを記録している。
- 鷹揚に育つ環境の語へ「鷹揚に育てられた」という言い方もある。ここでは本人ではなく育て方を言っており、細かく干渉しないことを指す。肯定と否定の両方に転びうるのはこの用法で最も顕著で、「おおらか」とも「放任」とも読める。
- 鷹揚/横柄対で押さえる206 横柄と対になる。どちらも上位者のふるまいを言うが、鷹揚は相手を許し、横柄は相手を押さえつける。分かれ目は「相手が楽になるか苦しくなるか」だ。同じ「細かいことを言わない」でも、相手の負担が減れば鷹揚、増えれば横柄になる。
類語と差
- おおらかこせこせしない性格。鷹揚は態度の悠然さ。
- 悠然落ち着いてゆったりしている動じなさ。鷹揚は寛大さを含む。
- 寛大とがめず受け入れる許す側面。鷹揚は構え全体。
- 横柄人を見下して無礼だ☑206。同じ悠然とした態度でも、こちらは否定的。
ENmagnanimous / composed
ZH大方(おおらかだ, dàfāng)
201★★
つまびらか
つまびらか[2]つまびらか中高型
定義
事細かく、くわしい様子。
『現代文キーワード読解』第3部 ☑201
原書の解説
古くは「つまびらか」と書いて、「詳らか・審らか」という漢字をあてた。
使用の境界細かいところまで明らかであること。ほぼ「つまびらかにする」「つまびらかでない」の形で使う。
用法漢字では「詳らか」と書くが、ひらがな書きが一般的である。実際の用法は二つに集中し、「つまびらかにする」(=細部まで明らかにする)と「つまびらかでない」(=詳しいことは分からない)である。後者は報道や学術文で、情報が不足していることを丁寧に述べる言い方として使われる。硬い文章語なので会話には出ない。読み書きともに問われる。
用例
-
師の説とたがふとて、なあらがひそといましめおかるるは、いとあらぬこと也。……よき人の説ならんからに、あまたの中には、ひがこともなどかなからむ。かならずわろきこともまじらではえあらず。本居宣長『玉勝間』「師の説になづまざる事」(1795)
「つまびらかにする」という態度がどこから来るかを示す。宣長は師の説と違っても争うなという戒めはよくないと言う。理由は明快で、どんなすぐれた人の説でも数多いなかには誤りが混じらないはずがないからだ。ここにあるのは権威ではなく細部で決めるという構えである。つまびらかとは「細かいところまで明らかである」こと — 大づかみに正しいでは足りない。この語が学術と報道に集中するのは、そこが細部で真偽が決まる場所だからである。
-
出来事については、たまたま居合わせただけの者から聞いたことをそのまま書くことはせず、私自身が居合わせた事柄も、他人から聞いた事柄も、できるかぎり厳密に一つ一つ吟味して記した。骨の折れる仕事であった。同じ出来事について証言する者たちが、同じことを語らなかったからである。トゥキュディデス『戦史』第一巻(前五世紀/訳は本教材)
「つまびらかでない」という言い方がなぜ必要かを教えてくれる。トゥキュディデスは証言が食い違ったと正直に書く。食い違いを消して一つの物語にすることもできたはずだ。そうせずに吟味の過程を記した。この「分かっているところまでを示し、分かっていないことは分かっていないと言う」という構えが、「詳細はつまびらかでない」という定型句を生む。知らないことを知らないと書くための語彙を持つことは、学問の最低条件である。
- 当時の経緯はつまびらかでない。
報道と学術で最もよく使われる形。「分からない」と言うより正確である — まったく不明なのではなく、細部が確定していないことを示す。語の選択が不確かさの度合いを刻んでいる。
- ×駅までの道をつまびらかに教えてもらった。
文体が合わない。文語的で硬い語なので、日常の場面に置くと滑稽になる。「詳しく」「細かく」でよい。硬い語を使うこと自体が事柄の格を主張してしまうことに注意したい。
作品での用例
「わたくし」は、酒気を帯びた男たちが銀座をさまようようになった理由について考える。
わたくしは此不体裁にして甚だ無遠慮な行動の原因するところをつまびらかにしないのであるが、其実例によって考察すれば、昭和二年初めて三田の書生及三田出身の紳士が野球見物の帰り群をなし隊をつくって銀座通を襲った事を看過するわけには行かない。
出典 永井荷風『濹東綺譚』
派生形
- つまびらかならず文語の形。公文書・碑文・古い報道に残る。「〜ならず」は断定の助動詞「なり」の否定で、現代語の「〜でない」より硬い。同じ内容を文語で書くか口語で書くかが、文書の格式を決めていた時代の名残である。
- つばひらか古形。『万葉集』などに見えるとされ、「つまびらか」はその転じた形と考えられている。語源は未詳だが、「つばら(つばらに=こまごまと)」という古語とのつながりが指摘される。細かさを言う和語が古くからあったということだ。
- 詳細[0]同じ内容の漢語。「詳細はつまびらかでない」という言い方は、実は同じ意味の語を二つ重ねている。それでも不自然に感じないのは、「詳細」が対象を指す名詞、「つまびらか」が状態を言う形容動詞と役割が分かれているからである。
コロケーション
- つまびらかにする明らかにする側他動詞的な用法。「真相をつまびらかにする」のように調査・報告の文脈で使う。「明らかにする」より細部への約束が重い — 明らかにするは結論を示せば足りるが、つまびらかにするは過程まで開いて見せることを含意する。
- つまびらかでない分からない側否定形のほうが頻度が高い。「詳細はつまびらかでない」は報道の定型句である。重要なのはこの形が責任を果たしていることだ — 分からないと書くのは、分かったふりをしないという宣言である。190 屈託、178 気の置けないと同じく、否定形が主役の語だが、こちらは倫理が理由である。
- つまびらかに述べる発話の動詞「述べる」「記す」「調べる」「する」と結ぶ。すべて知の作業である。「つまびらかに感じる」とは言わない — 感覚は細部に分解しても確かさが増えないからだ。この語は検証可能なものにしかかからない。
- 詳らか・審らか二つの表記「詳」はくわしい、「審」はつまびらかに調べる。「審」を当てると調査の含みが強まる(審査・審議・不審)。どちらの字を当てても読みは同じで、実際にはかな書きが最も多い — 表記の選択肢が多い語はかなへ流れる。
類語と差
- 詳細くわしいこと名詞・形容動詞。つまびらかは和語で文章語。
- 詳らか─漢字表記。同語。
- 明らかはっきりしている判明の度合い。つまびらかは細部まで及ぶこと。
- つまびらかにする明らかにする動詞句。公表・解明の場面で使う。
ENin detail / fully known
ZH详尽(詳しい, xiángjìn)
202★★
姑息
こそく[0]こそく平板型
語構成
姑しばらく+息やすむ・いき
「姑」はしばらく、「息」は休む。「卑怯」は本来の意味ではない。
定義
一時の間に合わせにすること。その場しのぎ。
『現代文キーワード読解』第3部 ☑202
原書の解説
現在では〈卑怯〉という意味で多く使われるが、元来は、「姑(=ちょっと)」+「息(=やすむ)」の意。
使用の境界その場しのぎであること。「卑怯」という意味ではない。誤用が非常に多い。
用法誤用率が非常に高い語である。「姑」はしばらく、「息」は休むで、〈しばらく息をつく〉=一時しのぎ、が本来の意味である。ところが「卑怯」「ずるい」の意味で理解する人が七割を超えるという調査があり、入試でも狙われる。「姑息な手段」は本来〈根本的な解決を避けた一時しのぎの手段〉で、ずるさとは無関係だった。ただし誤用の定着も進んでおり、辞書によっては両義を載せる。
用例
-
曾子(そうし)疾(やまひ)に寝(ふ)す。……童子曰く、「華(か)にして睆(かん)たり、大夫の簀(さく)か」と。……曾子曰く、「然り。……君子の人を愛するや徳を以てし、細人(さいじん)の人を愛するや姑息を以てす。吾何をか求めん。吾正を得て斃(たふ)れんのみ」と。『礼記』檀弓上(書き下しは本教材)
「姑息」という語の出典そのものである。死の床の曾子は、身分に合わない立派な敷物を使っていることを指摘され、取り替えさせる。弟子たちは病人を動かすなと止めた。その止め方を曾子は「姑息」と呼ぶ。いま楽にさせることを選んで、正しさを後回しにするからだ。ここに卑怯という意味は一切ない。むしろ弟子たちは優しい。優しさが一時しのぎになることを突いているのがこの語で、「姑(しばらく)」+「息(やすむ)」という語構成がそのまま出典の場面と一致する。
-
多くの語は、いま廃れていてもふたたび生まれるだろう。そしていま尊ばれている語も廃れるだろう。慣用がそう望むならば。言葉の規範も規則も裁定も、その慣用の手にある。ホラティウス『詩論』(前一世紀/訳は本教材)
「姑息=卑怯」という誤用をどう考えるかという問いに答えている。ホラティウスは語の生死を決めるのは慣用だと言い切る。正しさの根拠は語源ではなく使用である、と。この立場を取れば「姑息=卑怯」もやがて正しくなる。それでもいまこの語を学ぶ意味は消えない — 入試という場面では本義が問われるという実務的な理由に加えて、語源を知る者だけが「その場しのぎ」と「卑怯」の違いを意識して書けるという理由がある。変化を認めることと、区別を手放すことは別である。
- 根本の原因に触れないまま数字だけ直すのは姑息な対処だ。
本義に沿った使い方。「その場しのぎ」という意味で、卑怯さは含まない。やっている当人に悪意がなくても成立するのが要点で、『礼記』の弟子たちと同じである。
- ×匿名で悪口を書き込むとは姑息な奴だ。
誤用の典型。ここで言いたいのは「卑怯」である。文化庁の調査でもこの誤用が七割を超える年がある。「姑」の字が「姑(しゅうとめ)」を思わせ、「息」が「息をひそめる」を思わせる — 字面からの連想が誤用を育てたと見られる。
作品での用例
予備校生の「私」は、友人とのつきあいに違和感を抱く。
内輪の冗談をキーワードにして連帯を深めて何がおもしろいのか。自分たちの半径五メートル以内の話題に終始するばかりで、そこに他人を入れようとしない彼らの距離の取り方が姑息に思えた。
出典 山田詠美『微分積分』
派生形
- 姑「しばらく」を表す副詞としての「姑」。「姑(しゅうとめ)」とは別の用法である。「姑(しばら)く之を措(お)く」のように漢文で使われた。この用法を知らないと語構成が読めない — 誤用の根はこの一字にある。
- 息「休む」を表す用法。「休息」「安息」「終息」の「息」で、呼吸の意味ではない。203 息吹の「息」が呼吸であるのと対照的で、同じ字が二つの意味を持つ。「姑」+「息」で「しばらく休む」 — 字義を足すと語義になる典型例である。
- 姑息的[0]医学の術語。英語のpalliative(緩和的)の訳語として使われ、根治的(radical)と対になる。本義の「一時しのぎ」が正確に生きている用法で、日常語が誤用へ流れても術語が本義を保存するという現象がここに見える。
コロケーション
- 姑息な手段最も多い形「手段」「対処」「やり方」「策」と結ぶ。すべて方法を指す名詞である。本義では「方法が一時的だ」という意味になるが、誤用では「方法が卑劣だ」と読まれる。同じ共起語が二つの読みを許してしまうことが、誤用の定着を早めた。
- 姑息な人誤用のみの形人を直接修飾するのは誤用の側だけである。本義は方法の性質を言う語なので、人柄にはかからない。「姑息な人」と書いてあればほぼ確実に「卑怯な人」の意味だと読める — 共起の型が誤用の判別に使える。
- 姑息な延命医療の文脈医学では本義が生きている。「姑息的治療」は原因を取り除かず症状を和らげる治療を指す正式な術語で、非難の意味はない。専門用語は語義の変化から守られる — 使う集団が限られ、定義が文書化されているからである。
- 姑息/卑怯/小手先三語の整理卑怯は道徳の語(正々堂々でない)、姑息は時間の語(一時的である)、小手先は技術の語(本質に届かない)。誤用の実態は「姑息」が「卑怯」の席へ移ろうとしているということだが、本来姑息の隣にいるのは小手先である。
類語と差
- 卑怯ずるく正々堂々としない誤用として広まった意味。本来は別。
- その場しのぎ一時的に間に合わせる本来の意味。言い換えとして最も正確。
- 弥縫策破れを繕う応急の策硬い言い換え。姑息と同じ構造。
- 小手先表面的な工夫技術の浅さ。姑息は時間的な一時性。
ENstopgap / temporary
ZH权宜(一時しのぎ, quányí)
コラム ── 坂口安吾
坂口安吾は石川淳・太宰治・織田作之助などとともに、新戯作派、無頼派とよばれ、戦後文学を導いた一人とされている。戦後間もない昭和二十一年に『堕落論』を発表して、人々に堕落を勧め、堕落することによって真実の救いを見出すべきだとした。さらに、その実践のような形で『白痴』『外套と青空』などの小説を書いて当時の人々に刺激を与えた。その限りで、彼を戦後文学作家の一員とみることに間違いはない。
しかし、彼の文学的出発は昭和六年頃で、『風博士』『黒谷村』などのファルス(笑劇)を発表して、それまでの日本文学の伝統とは異質な小説を世に問うた。さらにその理論的裏づけとして『FARCEに就て』を書き、『日本文化私観』という作品とともに、むしろ戦後になって真価が改めて見出されることになる。そこには今日でも色あせない明確な文明批評がある。また、東日本大震災直後の人々の心境を、彼の戦後直後のそれと対比する試みもされている。
コラム ── 太宰治
太宰治は、非合法運動への関与や女性との心中未遂を経て、自殺を前提に遺書のつもりで書いた『晩年』で本格的な創作活動に入った。
「大人とは、裏切られた青年の姿である」(『津軽』)「生きているのだからね、インチキをやっているに違いないのさ」(『斜陽』)――こうした彼の言葉を見る限り、老成を望む人間でなかったことは確かで、「そこで考え出したのは、道化でした。それは、自分の、人間に対する最後の求愛でした」(『人間失格』)とあるように、独自のユーモアが生み出された。また、薬物中毒に苦しみ、退廃的な作品を書きながらも、「神を求めた人」であったという評価もされる。『トカトントン』とは敗戦直後、同名の作品の中で耳に響く音として描写されたものだが、感受性を研ぎ澄ますなら今日でもその音が聴こえてくるかもしれない。なお太宰は、女性と玉川上水に身を投げて一生を終えた。
203★
息吹
いぶき[1]いぶき頭高型
定義
① 呼吸。息づかい。
② 活動する気配。
『現代文キーワード読解』第3部 ☑203
原書の解説
「息吹く(=息をする・息づく)」という動詞もある。
使用の境界生き生きとした気配。呼吸そのものではなく、生命力の兆しを指す。
用法熟字訓で「いぶき」と読み、「そくすい」ではない。実際の用法は「春の息吹」「時代の息吹」「新しい息吹」という結びつきにほぼ固定しており、いずれもこれから盛んになるものの兆しを肯定的に表す。だから衰退や終わりには使えない。呼吸そのものの意味で使うことは現代ではまれで、比喩として定着している。読みが問われる語である。
用例
-
主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。『旧約聖書』創世記 第二章(訳は本教材)
「息」が生命そのものを指すという感覚の古さを示す。土の塵はただの物質である。そこへ息が入った瞬間に生き物になる。つまり息=生命という等式がここに立てられている。ヘブライ語のルーアハ、ギリシア語のプネウマ、ラテン語のスピリトゥス — いずれも「息」と「霊」を同じ語で言う。日本語の「息吹」も同じ発想に立つ。だからこの語は呼吸の意味ではほとんど使われず、「生命力の兆し」の意味で生きている — 比喩のほうが本義を追い出したのである。
-
僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る/ああ、自然よ/父よ/僕を一人立ちにさせた広大な父よ/僕から目を離さないで守る事をせよ/常に父の気魄を僕に充たせよ高村光太郎『道程』(1914/光太郎 1956 没)
「新しい息吹」という言い方が何を指しているかを見せる。注目したいのは「気魄を僕に充たせよ」という結びだ。外から入ってくる力として生命が捉えられている。創世記の息と同じ構造である。そして「僕の前に道はない」 — まだ何も始まっていない。息吹が「これから盛んになるものの兆し」を指し、衰退や終わりには使えないのはこのためだ。すでに完成したものに息吹はない — この語はつねに未完成の側に立つ。
- 雪の下から緑が覗いて、春の息吹を感じた。
最も標準的な使い方。「春の」「時代の」「新しい」と結ぶ形で用例のほとんどを占める。「感じる」という動詞が選ばれるのも要点で、見えるのではなく気配として受け取るものだ。
- ×往時の息吹はいまや見る影もない。
衰退の文脈には置けない。この語はこれから盛んになるものにしかかからない。「往時の活気」「かつての勢い」なら成り立つ。時間の向きが語に書き込まれている — 息吹はつねに前を向く。
作品での用例
戦後初期、「彼」は「彼女」と恋愛関係にあるが、戦争体験に苦しめられている。
彼は彼女の白い顔の輪郭の中から何か、彼女の心の息吹のようなものが彼の方にふきつけてくるのを感じた。〈俺はこのひとの生存の中にはいることはできはしない。俺は俺の生存の中にしかないのだ。〉
出典 野間宏『顔の中の赤い月』
派生形
- 息吹[1]熟字訓。「そくすい」とは読まない。二字まとめて和語の読みを当てるというこの方式は大人(おとな)・土産(みやげ)・五月雨(さみだれ)と同じで、漢字を和語の衣装として使うという日本語独特の扱い方である。
- 伊吹[1]同音の地名・植物名。伊吹山は『古事記』で倭建命が荒ぶる神に打たれた山として現れる。「息吹」と「伊吹」の関係は未詳だが、山から吹き下ろす風を神の息と見る感覚が働いていた可能性が指摘される。
- 息災[0]同じ「息」を持つが意味が違う。ここでの「息」は「やめる・静める」で、「災いを息(や)める」が原義の仏教語である。202 姑息の「息」と同じ用法で、203 息吹の「息」とは別 — 一字が二つの語族を養っている。
コロケーション
- 春の息吹季節と結ぶ四季のなかで春だけがこの語を取る。「秋の息吹」とは言わない。始まりの季節にしかかからないからで、春は日本語で「兆し」の語彙を独占している(芽吹く・萌える・ほころぶ)。季節の偏りがそのまま語義の証拠になる。
- 時代の息吹抽象への拡張「時代」「新時代」「変革の」と結ぶと歴史の語になる。比喩が二段になっている — 呼吸→生命力→時代の勢い。時代は呼吸しないのにこの言い方が成り立つのは、すでに「息吹=生命の兆し」という段階を経ているからだ。
- 息吹を感じる知覚の動詞「感じる」「伝わる」「宿る」と結ぶ。「見る」「聞く」とは結ばない。五感のどれか一つでは捉えられないものだからで、「気配」の語彙がそろってこの性質を持つ(167 の「うさんくささが漂う」と同じ)。発生源を特定できないものは、特定を求めない動詞と結ぶ。
- 息吹く動詞形「息吹く」は〈息をする・息づく〉。名詞の「息吹」より古いとされる。「芽吹く」と並べると構造が見える — 「吹く」は内から外へ出てくる動きを表す。息吹は外から与えられるものであり、同時に内から出てくるものでもある。
類語と差
- 気配なんとなく感じられる様子中立。息吹は生命力の躍動を含む。
- 兆しこれから起こる前触れ時間の先取り。息吹は今そこにある活気。
- 活気生き生きとした勢い集団や場の状態。息吹はより微細な兆し。
- 鼓動脈打つ動き比喩として近い。息吹は呼吸、鼓動は心臓。
ENbreath / stirrings of life
ZH气息(息吹, qìxī)
204★★
うろ覚え
うろおぼえ[0]うろおぼえ平板型
語構成
うろ空・うつろ+覚おぼえ
「うろ」は空洞のこと。「空覚え(そらおぼえ)」は逆に暗記していること。
定義
ぼんやりとした記憶。
『現代文キーワード読解』第3部 ☑204
使用の境界はっきりせず、あいまいに覚えていること。まったく覚えていないのではない点が要点。
用法「うろ」は空(うろ)・うつろで、木のうろ(空洞)と同じ語である。中身がすかすかの記憶、という比喩になっている。要点は、まったく覚えていないわけではないことで、断片は残っているが確信が持てない状態を指す。「空覚え(そらおぼえ)」は同じ字を書きうるが、こちらは〈暗記していること〉で意味がほぼ逆になる。混同に注意する。
用例
-
われわれの魂のうちに蝋の板があると考えてみよう。……われわれが見たり聞いたり思ったりしたものをこの板に押しあてる。印が残っているあいだは覚えており、印が消えれば忘れる。……蝋が深く清らかな者はよく学びよく覚える。濁って汚れた者、柔らかすぎる者、硬すぎる者は、そうではない。プラトン『テアイテトス』(前四世紀/訳は本教材)
うろ覚えという状態が何であるかを二千年以上前に説明している。要点は記憶が「ある/ない」の二択ではないことだ。印は深くも浅くもなる。薄れかけた印 — それがうろ覚えである。この語の要点が「まったく覚えていないわけではない」ことにあるのは、記憶が連続量だからだ。そして「うろ」は木のうろ(空洞)と同じ語である。プラトンの蝋板と日本語のうろ — どちらも記憶を「物の状態」として捉えている。覚えるとは心に何かが残ることだという直観は、文化を越えて共通する。
-
私の書斎のガラス戸棚の抽匣(ひきだし)にはいっている一つの小箱。……そのなかに小さな銀の匙が一つはいっている。……この銀の匙を見るたびにいつも私は云いしれぬなつかしい気持ちになる。中勘助『銀の匙』(1913/中 1965 没)
うろ覚えがどうやって呼び戻されるかを書いている。この小説の全体は幼時の記憶の再現だが、その入口に置かれるのは説明ではなく一本の匙である。物が記憶の欠けを埋めるのだ。ここにこの語の実用上の要点がある — うろ覚えは無知ではないので、手がかりが一つ与えられれば一気に像を結ぶ。「言われれば思い出す」という状態を正確に名指す語は、日本語ではほぼこれ一つである。
- 道順はうろ覚えだったが、角のポストを見て思い出した。
この語の性格を写した作例。うろ覚えは「思い出せる可能性を残した忘却」である。まったく知らなければポストは手がかりにならない — 薄い印が残っているからこそ外からの刺激が効く。
- ×初めて聞く曲だがうろ覚えだ。
前提が崩れている。一度は覚えたことが条件である。「うろ」は中身がすかすかの空洞であって、そもそも器がなければ空洞にもならない。171 おぼつかないの①とは近いが、あちらは確かさの不足、こちらは記憶の欠けである。
作品での用例
中年の「私」は暗い過去の経験をもっており、生と死についての思いが去来する。
私は昔ギリシャ神話を読んで、うろ覚えに忘却の河というのがあったのを覚えている。三途の河のようなものだろう、死者がそこを渡り、その水を飲み、生きていた頃の記憶をすべて忘れ去ると言われているものだ。
出典 福永武彦『忘却の河』
派生形
- うろ[1]木の空洞。「うつろ」「うつせみ」「うつわ」と同語源とされる。「中が空である」という一点でつながる語族で、「うつろな目」は中身のないまなざしを言う。原書が「うろ」を接頭語と説明するのは別説で、語源には諸説がある。
- うろつく[0]同じ「うろ」を持つとされる語。目的なく歩きまわることで、「中身がない・定まらない」という芯を共有する。「うろたえる」も同族とされ、空洞という一つのイメージから記憶・歩行・動揺の三領域に語が伸びている。
- 生半可[0]近い意味の別語。205 の接頭語「生(なま)」を使う。「生半可な知識」はうろ覚えと重なるが、うろ覚えが記憶の欠けを言うのに対し、生半可は習得の中途半端さを言う。忘れたのか身につけていないのかの違いである。
コロケーション
- うろ覚えだが前置きの型「うろ覚えだが」「うろ覚えで申し訳ないが」という断りの形で最もよく使う。これは情報の信頼度を自分で格付けする行為だ。201 の「つまびらかでない」と同じ働きで、不確かさを明示することが誠実さになる。日本語はこの種の自己格付けの語彙を豊かに持っている。
- うろ覚えの知識名詞を修飾「知識」「記憶」「話」「歌詞」と結ぶ。いずれも言葉でできたものであることに注意したい。「うろ覚えの匂い」とは言わない — 言葉にできるものだけが「部分的に正しい」という状態を取れる。感覚は正誤で測れないのである。
- うろ覚えで話す行為の動詞「話す」「答える」「書く」と結ぶとやや批判的になる。不確かなまま外へ出したことが問題になるからだ。知っている状態としてのうろ覚えは中立だが、それを根拠に行為すると責任が生じる — 同じ状態が、内に留まるか外へ出るかで評価を変える。
- 空覚え紛らわしい隣人「空覚え(そらおぼえ)」は逆である。「空で言える」の「そら」で、暗記していることを指す。ただし「うろ覚え」の意味で使われることもあり、辞書でも両方の語義が載る。「うろ」と「そら」がどちらも「中身がない」を連想させることが混線の原因である。
類語と差
- おぼつかない確かさが足りない☑171。動作や見込みにも使える。うろ覚えは記憶に限る。
- あやふやはっきりしない内容の曖昧さ全般。うろ覚えは記憶の曖昧さ。
- 生半可中途半端である知識の浅さ。うろ覚えは保持の不確かさ。
- 空覚えそらで覚えること同音の別語。こちらは暗記していること。正反対に近い。
ENvague recollection
ZH记不清(うろ覚え, jìbuqīng)
コラム ── 野間宏
椎名麟三・梅崎春生・中村真一郎らとともに、第一次戦後派の作家とされる野間宏は、小説『暗い絵』をもって衝撃的に登場した。例文の『顔の中の赤い月』という少し奇異な感じのする題名の小説は、その翌年に発表された。
『顔の中の赤い月』のテーマは、「俺は俺の生存の中にしかない」とあるように、人間存在の自己中心性から脱却できない苦しみの確認であろう。主人公は、かつてフィリピン戦線で自分の生存を維持するために戦友を見殺しにした経験をもっており、そのため、戦後復員して知り合った女性に惹かれながらも、ついに手を差し伸べることができない。自分の心の中にある斑点のようなものが、決定的な場面で相手の顔の中の赤い月として現れ、それとともにかつての兵隊たちの姿が浮かんできて、相手の生存と自分の生存とがこすれながら離れる、というふうにこの小説は終わっていく。人間を、生理・心理・社会という三つの面から総合的にとらえる全体小説の試みだった。
コラム ── 吉行淳之介
第二次世界大戦終了をもって始まった戦後派の文学を分類する時、よく「第一次戦後派」「第二次戦後派」「第三の新人」という言葉が用いられる。一、二、三というのはいちおう時代順を表しているが、実際には、その文学的出発にはそれほど差はなかった。現に、第三の新人の代表とされる吉行淳之介の小説の発表は、昭和二十一年までさかのぼることができる。しかし、彼らが脚光を浴びるのは昭和二十年代末まで待たなければならなかった。
戦争のような極限状況に対応する時、人間はしばしば観念に頼る。とくに第一次戦後派の作家たちは壮大な観念の営みに全力を傾け、それがまた当時の読者を惹きつける要因にもなっていた。しかし、人々の関心が次第に日常生活に注がれるようになると、日常性の中に潜む非日常的なものを的確な文体でとらえる、吉行や安岡章太郎、遠藤周作たちの作品が光を放ち始めた。実際、彼らは連続して芥川賞を受賞することになる。
205★
生返事
なまへんじ[3]なまへんじ中高型
定義
気のない、いい加減な返事。
『現代文キーワード読解』第3部 ☑205
原書の解説
接頭語「なま」は、①不十分・中途半端な状態、②何となく・少し、の意を表す。「生返事」は①の用法。
使用の境界気のない、いいかげんな返事。返事はしているが心がこもっていない状態を指す。
用法接頭語の「生(なま)」は〈中途半端・不十分〉を表し、「生煮え」「生半可」「生兵法」と同じ用法である。要点は、返事そのものはしている点にある。だから無視とは違い、相手を軽んじていることが返事の質を通して伝わる。小説では、人物の関心の薄さや心の距離を描くのに使われる。「生返事をする」という動詞句が標準的な使い方である。
用例
-
私はしばしばこう言ってきた。人間の不幸はただ一つ、自分の部屋に静かに留まっていられないことから来るのだ、と。パスカル『パンセ』断章一三九「気晴らし」(1670/訳は本教材)
生返事が起きる心の状態を言い当てている。パスカルの観察は人は「いまここ」に留まれないというものだ。心はつねに別のところへ行こうとする。生返事はまさにその証拠で、身体はこの場にあり、口も動いているのに、心だけがいない。注目したいのはこの語が相手への軽視を必ずしも意味しないことである。心がよそにあるだけだ。それでも受け取る側には軽んじられたと映る — 不在は拒否と見分けがつかない。
-
メナルクは階段を降りながら扉を開け、また降りる。……人に会えば挨拶をし、返事を待たずに行ってしまう。……彼があなたに話しかけるのは、あなたに話しているのではなく、彼が思い出したことを声に出しているだけである。ラ・ブリュイエール『人さまざま』「上の空の人」(1688/抄・訳は本教材)
生返事の極北を描いた人物像である。メナルクは失礼な男ではない。挨拶もすれば返事もする。ただそのすべてが相手に向いていない。ここで見えるのは「返事はしている」というこの語の要点だ。無視なら関係はそこで切れる。生返事は関係を切らないまま中身だけを抜くので、相手は怒る足場さえ与えられない。183 聞こえよがしが宛先を偽装するのに対し、生返事は応答を偽装する — どちらも形式だけを残して実質を抜く技法である。
- 画面から目を離さないまま生返事を返す弟に、母はもう何も言わなかった。
この語の典型的な場面。「返事を返す」という形で使われることが多い。母が何も言わなかったのは要点で、生返事は叱る根拠を与えない — 返事はしたのだから。
- ×名前を呼ばれても無視して生返事だった。
無視とは両立しない。「返事そのものはしている」のがこの語の条件で、返事がなければ生返事にもならない。「黙殺した」「聞こえないふりをした」が正しい。接頭語の「生」は「中途半端」であって「皆無」ではない。
作品での用例
AとBは仲良しで、AはBを外出に誘い、Bも喜んで応じていた。
「今度の日曜は、大丈夫だね」 「うん、それがね……」 Bは生返事をした。 「それが、といったって、この前ちゃんと約束したじゃないか」 「うん。あと、一、二、三日たてば、はっきりするんだけど……」
出典 吉行淳之介『子供の領分』
派生形
- 生[1]①中途半端、②何となくの二つの用法を持つ接頭語。生返事は①。②は「生暖かい」「生ぬるい」で、程度がわずかにそうであることを言う。もとは「火を通していない」という調理の語で、加工の不足という一点から両方の用法が育った。
- 生返事[3]アクセントは中高型。「なま」を独立して読まず一語として発音することが、接頭語が完全に溶け込んだ証拠である。「生+返事」と切って読めば説明的、一語で読めば慣用 — 音のまとまりが語の成熟を示す。
- 空返事[3]ほぼ同義の別語。「そら」は204 の「空覚え」と同じで、中身がないことを言う。「生」は足りない、「空」は無い — 厳密には空返事のほうが冷たいが、実際には交換して使われる。使用頻度は生返事が圧倒的である。
コロケーション
- 生返事をする基本の形「する」「返す」と結ぶ。「生返事が出る」とは言わないのが面白い — 本人の行為として扱われる。心がよそにあることは本人の意志ではないのに、文法上は意志的な動作の形を取る。だから責められるのである。
- 生返事ばかり反復の副助詞「ばかり」「ばかりで」と結ぶと非難が確定する。一度なら偶然だが、繰り返されると態度になるからだ。168 うとましいの「募る」と同じで、反復が一回の出来事を人柄の評価へ変える — 副助詞が評価のスイッチになっている。
- 生煮え・生兵法「生」の一族接頭語「生」は〈中途半端〉を担う。生煮え(火が通りきらない)、生半可、生兵法(生兵法は大怪我のもと)、生かじり。すべて「やってはいるが足りない」という一点で揃う。接頭語を一つ覚えると語彙が束で手に入る。
- 気のない返事言い換えの語「気のない」はやわらかい言い換え。生返事が一語の名詞として断定的であるのに対し、「気のない返事」は修飾で済ませるぶん当たりが弱い。一語にまとめるか句で言うかという選択が、非難の強さを調節している。
類語と差
- 空返事うわの空の返事ほぼ同義。「そらへんじ」と読む。
- 上の空心がここにない状態。生返事はその表れとしての返事。
- おざなりその場かぎりの間に合わせ☑196 の対語。生返事はその一例。
- 無視応答しない返事がない。生返事は一応返している。
ENhalf-hearted reply
ZH敷衍的回答(生返事, fūyǎn de huídá)
206★★
横柄
おうへい[0]おうへい平板型
定義
人を見下したり偉そうにしたりする態度。
『現代文キーワード読解』第3部 ☑206
使用の境界人を見下し、いばって無礼であること。態度に現れた無礼さを指す。
用法「横」は道理にそむくという意味を持つ字で、「横暴」「横領」「横死」と同じ用法である。だから横柄は〈道理に外れたふるまい〉が原義になる。要点は、これが外に現れた態度を指す点にあり、内心の傲慢とは区別される。☑200 鷹揚と対で押さえるとよい。どちらも悠然と構える様子だが、鷹揚は寛大さとして肯定され、横柄は無礼として否定される。読みが問われる。
用例
-
誇り高き人(メガロプシュコス)とは、自分が大きなことに値すると考え、実際にそれに値する人のことである。……値しないのに値すると考える者は虚栄の人であり、値するのに値しないと考える者は卑屈の人である。アリストテレス『ニコマコス倫理学』第四巻(前四世紀/訳は本教材)
横柄と威厳を分ける線がここに引かれている。アリストテレスの基準は「自己評価が実際に見合っているか」という一点だ。大きく構えること自体は悪ではない。値しないのに構えるのが悪である。「横」という字が〈道理にそむく〉を意味するのはまさにこれで、横柄とは「そのふるまいに見合う根拠がない」という判定である。200 鷹揚が褒め言葉になるのも同じ理由で、そこには見合う度量があると認められている。ふるまいは同じでも、根拠の有無が語を分ける。
-
礼はその最上の形において、ほとんど愛に近づく。われわれは敬虔な思いをもってこう言うことができよう — 礼は寛容にして慈悲深く、妬まず、誇らず、驕らず、自らの利を求めず、容易に怒らず、人の悪を思わない、と。新渡戸稲造『武士道』第六章「礼」(1900/訳は本教材)
横柄の反対側からこの語を照らす。新渡戸は礼とは形式ではなく他人の感情への思いやりの表現だと説く。ここから見ると横柄が「外に現れた態度」を指すことの意味がはっきりする — 内心でどう思っていても、表に出たふるまいが相手を傷つければ横柄である。逆に内心で軽蔑していても態度が整っていれば横柄とは呼ばれない。この語が裁くのは心ではなく表面だ。表面を裁く語があることは不当ではない — 他人に届くのは表面だけだからである。
- 注文を取りに来た店員の横柄な口調に、連れは黙って席を立った。
典型的な使い方。「口調」「態度」「物腰」と結ぶのが基本で、外に現れたものだけを指す。立場の上下は問わない — 店員でも客でも横柄にはなれるのが200 鷹揚との大きな違いである。
- ×心の中で横柄に見下していた。
内心には使えない。横柄は外に現れた態度を指す語なので、「心の中で」と両立しない。「傲慢に」「尊大に」なら内心にも使える。可視性という軸で類語を分けると、この種の取り違えは起きない。
作品での用例
「私」は小樽の高等商業学校に入り、小林多喜二という上級生と出会う。
向うから、髪を伸ばして七三に分けた小柄な生徒が、青白い細面の顔に、落ちついた、少し横柄な表情を浮べ、廊下の真中を、心持ち爪先を開いて、自分を押し出すように歩いて来た。
出典 伊藤整『若い詩人の肖像』
派生形
- 横[0]〈道理にそむく〉という用法。「縦(たて)」が正しい筋、「横」がそれを断ち切る方向という空間の比喩に立つ。「横やりを入れる」は戦っている二者の横から槍を出すことで、正面から来ない=筋を通さないという同じ論理である。
- 押柄異表記。「押しかかる」という含みを当てたもので、「大柄(おおへい)」と書くこともある。三つの表記が併存するのは語源が確定していないためで、188 居丈高/威丈高と同じ現象がここでも起きている。
- 柄[0]ふるまい・身の程を表す。「柄でもない」「人柄」「家柄」の「柄」で、その人に備わった格を言う。「横柄」は「柄が横に外れている」 — 身の程を外れたふるまいという語構成になる。アリストテレスの定義と正確に一致するのは偶然だが、人が同じことを見ていた証でもあろう。
コロケーション
- 横柄な態度外形の名詞「態度」「口調」「物言い」「振る舞い」と結ぶ。すべて見え聞こえするものである。188 居丈高とほぼ同じ共起を持つが、居丈高が姿勢の語であるのに対し、横柄は道理の語だ。居丈高は身を大きく見せ、横柄は筋を踏み外す。
- 横柄に構える姿勢の動詞「構える」「言い放つ」「ふんぞり返る」と結ぶ。「ふんぞり返る」は身体の語彙で、横柄が結局は身体に現れることを示す。日本語は無礼を「身体の向き」で表す(そっぽを向く・あごで使う・足を組む)。
- 横暴・横領・横死「横」の一族「横」は〈道理にそむく〉を担う。横暴(乱暴に押し通す)、横領(不当に取る)、横死(まっとうでない死に方)、横槍。「縦」は正しい筋道と対になる — 方向の語が倫理の語になっている。
- 横柄/鷹揚対で押さえる200 と対になる。どちらも「細かいことを言わない大きな構え」だが、鷹揚は相手を許し、横柄は相手を押さえる。アリストテレスの基準で言えば、見合う度量があれば鷹揚、なければ横柄。二語を並べると、評価語が対象ではなく関係を測っていることが見える。
類語と差
- 居丈高頭ごなしに威圧する☑188。押さえつける力の強さ。横柄は無礼さ。
- 尊大自分を高く見せる自己認識。横柄は相手への扱い方。
- 鷹揚ゆったりして寛大だ☑200。同じ悠然さでも肯定的。対で押さえる。
- 傲慢おごり高ぶる心の状態。横柄は外に現れた態度。
ENarrogant / insolent
ZH傲慢(横柄だ, àomàn)
コラム ── 内向の世代
「第三の新人」の活躍後、昭和四十年代に入ると「第三の新人」以上に自己の内部や日常の不安を深く描く作家が出てくる。阿部昭や古井由吉、小川国夫などで、彼らは「内向の世代」とよばれる。「内向の世代」とは、ある評論家が〈一九六〇年代における学生運動の退潮や倦怠、嫌悪感のため政治的イデオロギーから距離を置き始めた作家や評論家〉と批判的な意味で使い始めた言葉だ。だが、現実社会から逃避したというよりは、人間内部に対する実存的関心が強かったという方が適切だろう。
もちろん、彼らの作品に戦争の影響がないわけではない。たとえば、阿部昭の父親は軍人で、戦後は生活の術を失って失業者に転落する。その姿を描いたのが『司令の休暇』である。ちなみに「司令」とは部隊の指揮官のことである。また、小川国夫には学徒動員の経験を描いた『動員時代』という作品があり、古井由吉の最近の小説でも戦争体験が描かれている。
コラム ── 新世代〜現在の作家たち
昭和五十年代には、宮本輝・中上健次・村上龍・村上春樹・立松和平など、いわゆる「戦争を知らない団塊世代」が作家として登場し始める。彼らは青春期に安保闘争や大学闘争を体験した全共闘世代でもある。伝統的な作家の影響を感じさせることなく、新鮮な言語感覚や文体で独自の表現の可能性を追求している。
たとえば、〈川の作家〉と言われる宮本輝の川三部作(『螢川』『泥の河』『道頓堀川』)は、川に執着し、幸福を求めて生きる人々の物語である。村上春樹の作品は、英米現代文学の影響を強く受けた思索に富んだ小説であり、村上龍は経済小説と言える分野を開拓している。
その他、田中康夫の『なんとなく、クリスタル』は消費社会の到来を、島田雅彦の『優しいサヨクのための嬉遊曲』はイデオロギー的対立の終焉を告げる画期的な作品であり、重松清の作品群は大衆向けのエンターテインメントの要素を多く含んだものである。
207★
怯懦
きょうだ[1]きょうだ頭高型
定義
気が弱く、臆病なこと。
『現代文キーワード読解』第3部 ☑207
原書の解説
「怯」は〈おびえる〉、「懦」は〈気が弱い〉の意味。「怯懦を恥じる」などと用いる。
使用の境界臆病で意気地がないこと。単に怖がるのではなく、それを恥ずべきものとして責める含みを持つ。
用法二字がともに〈おびえる・弱い〉を表す。日常語ではまったく使われない硬い文章語で、小説と評論に残る。要点は道徳的な非難を含むことにあり、単なる性格の記述ではない。だから「自らの怯懦を恥じる」のように、自分を責める文脈で用いられることが多い。太宰治をはじめとする近代文学の主人公が、自分の弱さを語るときに使う語彙でもある。読みが問われる。
用例
-
ここにため息と嘆きと高い叫びが……この惨めなありさまを保つのは、恥もなく誉れもなく生きた者どもの悲しい魂である。……天は美しさを損なわぬために彼らを追い出し、深い地獄も彼らを受け入れない。……彼らを見て、そして通り過ぎよ。ダンテ『神曲』地獄篇 第三歌(1320/訳は本教材)
怯懦がなぜ道徳的な非難を含むかを示す。ダンテが地獄の入口に置いたのは大罪人ではない。何もしなかった者たちである。天国にも地獄にも入れてもらえない — 選ばなかったことは罪より軽いのではなく、罪の外にある。そして案内役のウェルギリウスは「見て、通り過ぎよ」と言う。論じる価値さえないというこの扱いが、怯懦という語の冷たさと重なる。単に「臆病だ」と記述しているのではない — 恥ずべきものとして名指している。
-
かくすればかくなるものと知りながら已(や)むに已まれぬ大和魂吉田松陰(1859没)
怯懦の正反対を一首で示す。松陰はこうすればこうなると分かっていた。計算ができなかったのではない。それでも已むに已まれず動いた。ここで見えるのは勇気とは恐れがないことではないということだ。結果を知りながら動くことである。とすれば怯懦とは恐れること自体ではなく、恐れを理由にして動かないことになる。「自らの怯懦を恥じる」という言い方が成り立つのもここで、恥じられるのは感情ではなく選択だからである。
- 声を上げなかった自らの怯懦を、彼は生涯恥じ続けた。
この語の最も典型的な使い方。「自らの怯懦を恥じる」という形で現れる。他人には使いにくいのが要点で、非難が強すぎるため、自分に向けたとき最も自然に働く。
- ×高いところが苦手な彼の怯懦。
性格の記述には使えない。高所恐怖は恥ずべきことではないので、道徳的な非難を含むこの語は置けない。怯懦が成り立つのは、「そこで動くべきだった」という規範がある場面だけである。
作品での用例
「私」は、親孝行のために教科書を古本屋で買い、喜びを得たが、新品ではないことに屈辱感を覚え始める。
何故その勇気と喜びとを貫き通そうとしなかったのか。貫き通すことができなかったのか。――この弱さ、この種の怯懦は、思えば、私のいままでの生涯に常に色々な場合と色々な現われに於て、つきまとっていた。
出典 高見順『わが胸の底のここには』
派生形
- 怯「忄」+「劫」。「劫」はおびやかすで、心がおびやかされる形である。「怯む(ひるむ)」と訓読みすると和語になり、こちらには非難がない(「一瞬ひるんだ」)。音読みにすると道徳の語になるという現象はこの章でくり返し見てきた。
- 懦常用漢字外。「懦弱(だじゃく)」ぐらいでしか見ない。「需」は雨に濡れて進めない形ともいい、ぐずぐずして動かないことを表す。「怯」が恐れ、「懦」が不動 — 二字で「恐れて動かない」という語義が完成する。
- 卑怯[2]同じ「怯」を持つが意味が違う。卑怯は「卑しく怯む」で、手段の不正へ重心が移っている。怯懦は動かないこと、卑怯は不正に動くこと — 正反対の行動を同じ字が支えているのは、どちらも正面から向き合わないという一点で通じるからである。
コロケーション
- 怯懦を恥じるほぼ唯一の形「恥じる」と結ぶ形で用例の大半を占める。恥は自分に向かう感情だから、この語も自分に向く。「彼の怯懦を責めた」とも書けるが、書き手の立場が高くなりすぎる — 語の重さが書き手をも拘束する。
- 怯懦な心内面の名詞「心」「精神」と結ぶ。206 横柄が外形を指すのと正反対で、怯懦は内面の語である。「怯懦な態度」とはあまり言わない — 逃げるという行為が外に見えたとしても、責められているのはその奥の弱さだからだ。
- 怯懦に流れる移動の動詞「流れる」「陥る」と結ぶ。どちらも低いほうへ落ちる動詞である。174 才走るの「走る」が前へ行きすぎるのと対をなし、怯懦は下へ落ちる。日本語は徳を高低で、過剰を前後で測る — 比喩の座標が一貫している。
- 怯懦/臆病/卑怯三語の差臆病は性格の記述で非難を含まない。卑怯は手段の不正を責める。怯懦は弱さそのものを恥として責める。臆病は直せなくても許され、怯懦は許されない — 同じ「怖がり」を記述するか断罪するかで語が分かれる。
類語と差
- 臆病こわがりである中立に近い。怯懦は道徳的な非難を含む。
- 卑怯ずるく正々堂々としないずるさ。怯懦は弱さそのもの。
- 弱腰強く出られない態度。怯懦は性根の弱さ。
- 勇気恐れずに立ち向かう力対語。怯懦はその欠如を責める語。
ENcowardice
ZH怯懦(怯懦, qiènuò)
208★★★
果たして
はたして[2]はたして中高型
定義
① 思っていた通り。ついに。
② (仮定・疑問表現を伴い)本当に。いったい。
『現代文キーワード読解』第3部 ☑208
原書の解説
左の文章では、〈思った通り気が引きしまった〉という描写で、①の意味で使われている。
使用の境界①思ったとおりに。②本当に〜だろうか。二つの用法があり、文末で見分ける。
用法二つの用法の見分けが要点になる。①「果たして〜た」は〈予想どおり〉で、肯定文で結ぶ。②「果たして〜だろうか」は〈本当にそうか〉で、疑問文で結び、しばしば反語として働く。評論文で圧倒的に多いのは②で、「果たしてそう言えるだろうか」は〈そうは言えない〉という否定の主張になる。この反語を見落とすと主旨を取り違える。副詞なので、文末まで読んでから判断する。
用例
-
楚人に盾と矛とを鬻(ひさ)ぐ者あり。之を誉めて曰く、「吾が盾の堅きこと、能く陥(とほ)す莫(な)きなり」と。又其の矛を誉めて曰く、「吾が矛の利なること、物に於いて陥さざる無きなり」と。或るひと曰く、「子の矛を以て子の盾を陥さば何如」と。其の人応ふること能はざるなり。『韓非子』難一(書き下しは本教材)
②「果たして〜だろうか」という問いの威力を示す。或る人は相手の主張を否定していない。ただ問うただけである。それで商人は答えられなくなる。反語とはこの型の問いだ — 答えが一つしかないと分かっている問いを立てることで、相手に自分で結論を出させる。「果たして〜だろうか」が評論文の要所に置かれるのも同じ理由で、読者に答えを言わせる。疑問の形を取りながら主張である — この形と機能のずれを見抜けるかどうかが読解の分かれ目になる。
-
項王の軍、垓下(がいか)に壁す。兵少なく食尽く。漢軍及び諸侯の兵、之を囲むこと数重。夜、漢軍の四面皆楚歌するを聞く。項王乃ち大いに驚きて曰く、「漢皆已に楚を得たるか。是れ何ぞ楚人の多きや」と。『史記』項羽本紀「四面楚歌」(書き下しは本教材)
①「果たして〜た」の構図を見せる。項羽は敗北をすでに予感していた。その予感が楚の歌という形で確かめられる。注目したいのは項羽が問いの形で言うことだ — 「漢はすでに楚を得たのか」。答えを求めているのではない。知ってしまったことを口に出しているだけである。ここに①と②が一語でつながる理由が見える — 予想が当たる瞬間と、本当にそうかと問う瞬間は、同じ心の働きの表と裏だ。「果たして」はその両方を担っている。
- 空模様が怪しいと思っていたら、果たして大雨になった。
①の用法。肯定文・過去形で結ぶのが見分けの目印である。「〜と思っていたら」という予想の提示が前に来るのも要点で、予想がなければ「果たして」は働かない。
- ×果たして彼は来なかった。
①と②が混線している。①なら「果たして彼は来た」と肯定で結ぶ。②なら「果たして彼は来るだろうか」と疑問で結ぶ。否定の断定で結ぶとどちらにも着地しない。呼応の副詞は文末を拘束する。
作品での用例
明世は、画塾に通っていた昔を回想しながら、実家近くの「思ひ川」の堤を歩く。
思ひ川の堤に立つと、果たして気の引きしまる気がした。ゆったりとした川の流れも、そこから土手を這い上がる風も、遠い記憶の淵から現われるから、気持ちの若返る気がする。
出典 乙川優三郎『冬の標』
派生形
- 果たせるかな①の文語形。「はたしてそのとおりであったよ」という詠嘆を含む。「かな」は詠嘆の終助詞で、予想が当たったことへの感慨が加わる。史書や評論の文語調に残り、現代でも文章語として使われる。
- 案の定[3]①の口語版。「案」は考え・予想で、「予想のとおり」という語構成。「果たして」よりくだけているぶん、やや否定的な結果に偏る(「案の定失敗した」)。同じ①でも文体と価値の傾きが違う。
- いったい[0]②の口語版。「いったいどうなるのか」は「果たしてどうなるのか」とほぼ同じ働きをする。ただし「いったい」には苛立ちが混じり、「果たして」は冷静である。評論文が「果たして」を選ぶのは感情を排した検証の構えを示すためだ。
コロケーション
- 果たして〜た①予想の的中肯定文・完了で結ぶ。「案の定」「思ったとおり」と交換できる。重要なのは前に予想が書かれていなければならないことで、この副詞は文脈を要求する。単独の文では意味が立たない — 副詞は文を越えて働くことがある。
- 果たして〜だろうか②反語疑問・推量で結ぶ。「本当に」「いったい」と交換できる。評論文ではほぼ反語で、「そうではない」という主張を疑問の形で述べている。設問で「筆者の主張を答えよ」と問われたら、この形の直後を探すのが定石になる。
- 果たしてどうかぼかしの型結論を示さずに疑いだけを置く形。「その主張が正しいかは果たしてどうか」のように使う。②の弱い版で、反語ほど断定的ではない。書き手が疑いを表明しつつ論証の責任を負わないというややずるい形でもある。
- 果たす/果てる動詞との縁「果たす」は成し遂げる、「果てる」は終わる。どちらも「最後まで行き着く」という芯を共有する。副詞の「果たして」も同じで、「行き着いた先を見れば」という意味から①が出た。②の「本当に」はそこからさらに転じたと見られる。
類語と差
- 案の定予想したとおり①と同義。より口語的。
- 本当に真実として②の言い換え。果たしては疑問を強める。
- いったいそもそも②に近い。疑問詞と呼応する。
- 果たせるかな案の定①の古風な形。文語的。
ENindeed / really
ZH果然/究竟(果たして, guǒrán / jiūjìng)
コラム ── 女流文学1 岡本かの子
明治期の樋口一葉以来、女流文学は長く低迷していたが、昭和十年代には岡本かの子や林芙美子の活躍が見られる。岡本かの子は、与謝野晶子に師事した歌人として、また仏教学者としての一面もあったが、一方では、夫婦関係で多くの苦労を経験したことでも知られる。小説に専心したのは晩年の数年間だけだが、芥川龍之介をモデルにした小説を発表して作家的出発を果たしたあとは、多数の作品を残した。食と生命に関したテーマの作品が目立ち、その中でも『家霊』は入試によく出題されている。
多くの人間を巻き込み波乱に富んだかの子の人生は、瀬戸内晴美(寂聴)の『かの子撩乱』にくわしい。なお、かの子の息子は画家の岡本太郎である。
コラム ── 女流文学2 幸田文
昭和三十年代になると、女流作家の活躍が目立つようになる。幸田文の他、有吉佐和子・円地文子・倉橋由美子などである。幸田文と言えば、戦後の混乱期を歯切れのよい江戸っ子言葉で気丈に乗り越えていくイメージが浮かんでくる。
幸田文は父の露伴を看取った様子を文章にまとめたのがきっかけで文壇にデビューした。露伴と育ての母との不仲による苦労や最愛の弟を亡くした悲しみにもめげず、彼女は文学的才能を伸ばしていった。また、露伴に鍛えられた美意識と鋭い感受性が彼女の文章には息づいている。「檜は清楚などいう、じゃらついたものをもたない。逞しい、という騒々しさももたぬ。尊厳としている、というのともちがう、構えた固さなどないからだ。かたくなでもない、のびのびとしている」(『樹容』)と檜の魅力を語る時、それは自身の姿勢とも重なっているように思える。
209★★★
あながち
あながち[0]あながち平板型
語構成
下に打ち消しを伴う呼応の副詞。二重否定で部分的な肯定を表す。
定義
(下に打ち消しの語を伴い)一概に、必ずしも。
『現代文キーワード読解』第3部 ☑209
原書の解説
「強ち」と書く。語源は「あな(=己)」+「勝ち」とも言われ、〈自分の意志を強く通すさま〉を表す。
使用の境界必ずしも。下に打ち消しを伴い、一概には言えないことを表す。
用法必ず下に打ち消しを伴う呼応の副詞である。「あながち〜ない」で〈一概に〜とは言えない〉となり、部分的な肯定を表す。つまり「あながち間違いではない」は〈ある程度は正しい〉という意味になる。この二重否定の構造を読み違えると、主張の向きを取り違える。漢字では「強ち」と書くが、ひらがな書きが標準。硬い文章語で、会話ではあまり使わない。
用例
-
いづれの御時にか、女御・更衣あまたさぶらひたまひける中に、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり。……朝夕の宮仕へにつけても、人の心をのみ動かし、恨みを負ふ積もりにやありけむ、いとあつしくなりゆき、……いよいよあかずあはれなるものに思ほして、人のそしりをもえはばからせたまはず、世のためしにもなりぬべき御もてなしなり。紫式部『源氏物語』桐壺(1008頃)
「あながち」の語源を思い出させる一段である。この語の古い意味は〈自分の意志を強く通すさま〉で、『源氏物語』では「あながちに」の形で強引に・むやみにの意味に使われる。桐壺帝が人のそしりも憚らず更衣を寵愛する姿は、まさにあながちなふるまいだ。ここから現代語への道筋が見える — 「強引に押し通す」→「一方的に決めつける」→(打ち消しを伴って)「一概には言えない」。否定と結んではじめて意味が反転するというこの語の仕組みは、語源を知ると一本の線になる。
-
私は何を知るか。……この考えを私は天秤の図とともに掲げている。……断定を避け、判断を宙に吊るしておくこと。それが私のなしうるすべてである。モンテーニュ『エセー』第二巻「レーモン・スボンの弁護」(1580/訳は本教材)
「あながち〜ない」が果たす仕事を説明してくれる。モンテーニュの「私は何を知るか(ク・セ・ジュ)」は不可知論ではない。断定を一つ保留するという技術である。「あながち間違いではない」も同じ働きをする — 正しいとも言わず、間違いとも言わず、「一概には否定できない」という位置に立つ。二重否定が部分的な肯定になるのはこのためだ。否定を否定しても肯定には戻らない — 戻らずに中間で止まるところに、この語法の価値がある。
- 運がよかっただけだと本人は言うが、あながちそうとも言えまい。
典型的な使い方。「あながち〜ない」で部分的な肯定を作る。「そうではない」と断定してはいないところが要点で、相手の謙遜を全否定せずに評価を滑り込ませるという社交的な働きも持つ。
- ×その説はあながち正しい。
打ち消しがない。「あながち」は必ず下に打ち消しを伴う呼応の副詞である。肯定で結ぶと文が成立しない。「あながち間違いではない」と書けば結果として「ある程度正しい」を意味できる — 遠回りがこの語の本体だ。
作品での用例
「かれ」は東京に出て事業を起こすが、失敗して、再び故郷に帰ってくる。
他郷に出て失敗したのは強ちかれの罪ばかりでない、実に又た他郷の人の薄情さにも由るのである、されば若し斯様な親切な故郷の人々の間に居て、事を企てなば、必ず多少の成功はあるべく、以前のような形なしの失敗は有るまいと。
出典 国木田独歩『河霧』
派生形
- 強ち[0]漢字表記。「強」を当てるのは古義の「強引に」に基づく。現代語の意味とは正反対に見えるため、漢字で書くとかえって誤解を招く — だからかな書きが標準である。語義が転じた語は古い表記を捨てる。
- あながちに古語の形。〈強引に・むやみに・ひたすら〉を意味し、打ち消しを伴わない。『源氏物語』『枕草子』に頻出する。古文では肯定、現代文では否定と呼応 — 同じ語が時代で構文を変えることを知っておくと、古文の読解でも躓かない。
- あな語源説の一つ。「あな(=己)」+「勝ち」で「自分の意志を押し通す」と解する。諸説あり確定していないが、この説を取ると「あながち」が否定と結んで「一方的に決めつけない」になる筋道が通る — 語源は記憶の足場として役に立つ。
コロケーション
- あながち〜ではない基本の呼応「〜ではない」「〜とは言えない」「〜ばかりでもない」と結ぶ。すべて否定である。呼応の副詞は文末を拘束する — けっして・かならずしも・まさか・たとえと同じ一族だ。文頭の一語で文末が決まるというこの仕組みは、読解では文の先が予測できることを意味する。
- あながち間違いではない最も多い形「間違い」「嘘」「否定できない」と結ぶ。否定的な語をさらに否定するという二重構造で、結果として弱い肯定になる。「正しい」と言い切ることを避けたいときに選ばれる語で、日本語の議論が好む「留保つきの同意」を担っている。
- あながち〜とも言えない慎重な形「とも」が入るとさらに慎重になる。「〜とは言えない」より「〜とも言えない」のほうが他の可能性を開いたままにする。助詞一つで断定の度合いが刻まれる — 169 の「ようですが」、173 の「ようで」と同じ、日本語の目盛りの細かさである。
- 必ずしも同型の副詞「必ずしも〜ない」とほぼ同じ働きをする。違いは語源の重さで、「必ずしも」は「必ず」の否定という透明な構成だが、「あながち」は語源が見えない。見えないぶん文語的な響きを持ち、書き言葉に偏る。
類語と差
- 必ずしも例外なくとは限らないほぼ同義。あながちのほうが文章語的。
- 一概にひとくくりに同じ構造で打ち消しを伴う。
- まんざらまったく〜でもない口語的。「まんざらでもない」の形で使う。
- 強ち─漢字表記。ひらがな書きが一般的。
ENnot necessarily
ZH未必(必ずしも〜ない, wèibì)
210★
からくも
からくも[2]からくも中高型
語構成
辛からい・つらい
「辛(から)い」の〈厳しい・あやうい〉の意から生まれた副詞。
定義
かろうじて。やっとのことで。
『現代文キーワード読解』第3部 ☑210
原書の解説
「からい(=辛い)」には、〈厳しい・あやうい〉の意もあり、その意とつながりのある語である。
使用の境界かろうじて。ぎりぎりのところで、やっとのことで達成することを表す。
用法「辛(から)い」には〈厳しい・あやうい〉の意もあり、そこから生まれた副詞である。「辛くも」と書き、同語源の「辛うじて(かろうじて)」とほぼ同義だが、こちらのほうが文章語的で古風な響きを持つ。実際の用法は「からくも〜する」で、勝利・脱出・完成など、ぎりぎりで達成された結果に結びつく。失敗には使えない。報道文でも「からくも逃げ切った」のように用いられる。
用例
-
ここに伊邪那岐命、見畏(みかしこ)みて逃げ還ります時に、……最後(いやはて)にその妹伊邪那美命、身自(みづか)ら追ひ来つ。ここに千引(ちびき)の石をその黄泉比良坂(よもつひらさか)に引き塞(さ)へて、その石を中に置きて、各(おのおの)対(む)き立ちて、事戸(ことど)を度(わた)す時に……『古事記』上巻 黄泉比良坂(712)
「からくも」が呼び出す場面の原型である。伊邪那岐は追われ、逃げ、境の坂で巨石を引いて塞ぐ。間に合った。間に合わなければ終わっていた。この語が要求するのはまさにこの「一歩違えば」という構造だ。「辛(から)い」の〈厳しい・あやうい〉という意味から生まれた副詞で、結果は成功である。しかしその成功は余裕を持たない。この語を使った文は、成功を報告しながら同時に失敗の影を見せている — 一語で二つの未来を同時に書けるのである。
-
大波が彼を岩へ打ちつけようとしたそのとき、女神が心に知恵を授けた。彼は身を躍らせ両手で岩にすがりつき、うめきながらしがみついた。……波が引くとき、その手から皮が剥がれ岩に残った。ホメロス『オデュッセイア』第五歌(前八世紀頃/訳は本教材)
「からくも」の代償を書いている。オデュッセウスは助かった。しかし手の皮は岩に残った。この細部が効いている — からくも助かるとは、無傷ではないということだ。「かろうじて」とほぼ同義だが、「からくも」のほうが文章語で重いのは、「辛い」という語幹が苦痛を運んでいるからである。成功の報告でありながら苦しさを手放さない — だからこの語は勝利の記事にではなく、辛勝の記事に使われる。
- 終電にからくも間に合い、扉が閉まる音を背中で聞いた。
典型的な使い方。成功を述べるのに余裕のなさを同時に伝える。「扉が閉まる音」という細部が効くのはこの語がすでに「ぎりぎり」を宣言しているからで、副詞が描写を準備している。
- ×十点差でからくも勝利した。
余裕があってはならない。この語は「もう少しで失敗するところだった」ことが条件で、差が開いていれば成り立たない。「危なげなく」「危なげのない勝利」が反対語にあたる。副詞は事実と矛盾してはならない。
作品での用例
筆者は、和室がもつ独特の採光の仕方に魅力を見出す。
われ等は何処までも、見るからにおぼつかなげな外光が、黄昏色の壁の面に取り着いて辛くも余命を保っている、あの繊細な明るさを楽しむ。
出典 谷崎潤一郎『陰翳礼讃』
派生形
- 辛い[2]味覚だけの語ではない。〈厳しい・あやうい〉という意味が古くからあり、「辛口の批評」「点が辛い」に残る。「つらい」と訓じれば苦痛になる。一つの字が味覚・厳しさ・苦痛の三領域を結んでいる。
- 辛うじて[0]「からくして」の音変化とされる。意味はほぼ同じだが、音が崩れたぶん日常語に定着した。音の崩れと日常化は並行する — 177 の「のっぴき」も同じ道を通った。言いやすさが語を生き延びさせる。
- 辛勝[0]同じ内容の漢語。「からくも勝つ」を二字に圧縮したもので、見出し語として生まれたと見てよい。対義語は「快勝」「圧勝」「完勝」。和語の副詞が担っていた含みを漢語が一語で引き受ける — 近代日本語がくり返し行ってきた圧縮である。
コロケーション
- からくも逃れる危機からの脱出「逃れる」「免れる」「間に合う」「生き延びる」と結ぶ。すべて「失敗が目前に迫っていた」ことを含む動詞である。「からくも完成した」も言えるが、期限が迫っていた文脈が要る。この副詞は動詞を選ぶのではなく、状況を選ぶ。
- からくも勝利する辛勝の型スポーツ記事の定型。勝ったことを報じながら内容の悪さも伝えるという二重の仕事を一語でこなす。見出しに向くのはこのためで、限られた字数で事実と評価を同時に出せる。副詞は報道の経済に寄与する。
- 辛くも漢字表記「辛くも」と書く。「辛い」の連用形+係助詞「も」という構成で、「も」は詠嘆を添える。「早くも」「遅くも」「よくも」と同じ型で、形容詞から副詞を作る日本語の基本的な手続きである。
- かろうじてほぼ同義の口語「辛(かろ)うじて」も同語源。「からくも」よりくだけている。会話ではほぼ「かろうじて」、文章では「からくも」という住み分けができている。同語源の二語が文体で分業するのは日本語によくある形で(185 の刹那/一瞬と同じ現象)。
類語と差
- かろうじてやっとのことでほぼ同義。同じ「辛」の字を用いる。
- ようやく時間をかけてやっと時間の経過。からくもは余裕のなさ。
- すんでのところでもう少しで危なかった危機の切迫。からくもは達成の側。
- 辛勝やっと勝つ名詞。同じ「辛」を使う。
ENbarely / narrowly
ZH勉强(かろうじて, miǎnqiǎng)
確認テスト27
問 1次の空欄に当てはまる語を、あとの①〜⑦からそれぞれ一つずつ選べ(同じものは二度使ってはならない)。
- ア 高価な品物を売りつけられそうになったが、[ ]して偽物だとわかった。
- イ 人気店には時々[ ]な店員がいるが、あまりよい印象は受けないものだ。
- ウ 「めでたさも中くらいなりおらが春」という小林一茶の句に[ ]を感じる。
- エ 一時しのぎの対応の仕方は、[ ]に思えてならない。
- オ 物質的な豊かさだけではなく、精神的な豊かさが満たされた時こそ、本当に人を[ ]にさせる。
- カ 明治初期に出版された西洋文明を紹介する書物には、文明開化の[ ]がまざまざと感じられる。
- キ 「若い時の苦労は買ってでもせよ」と似た意味の、[ ]汝を玉にす、という慣用句がある。
- ①艱難
- ②一瞥
- ③諧謔
- ④鷹揚
- ⑤姑息
- ⑥息吹
- ⑦横柄
正解と解説
ア=② / イ=⑦ / ウ=③ / エ=⑤ / オ=④ / カ=⑥ / キ=①
ア〜キ:いずれも、読み方を問われやすい語なので、意味だけでなく読み方もしっかりと覚えておくこと。
キ:「艱難を玉にす」とは〈多くの苦労を乗り越えることで、立派な人物になる〉という意味。
問 2次の空欄に当てはまる語を、あとの①〜⑦からそれぞれ一つずつ選べ(同じものは二度使ってはならない)。
- ア 知識を問う問題では、選択肢が示された形式であれば[ ]でも対応できる場合があるが、記述式だとそれでは手も足も出ない。
- イ サッカーの準決勝の試合、後半終盤で2対1の場面。応援しているチームが[ ]逃げ切り、決勝に進出した。
- ウ 入試問題の選択肢には、正解以外に、これも[ ]間違いではないのではないか、というものが含まれることがある。
- エ 真剣に相談事をもちかけたのに、[ ]をされたのでつい怒ってしまった。
- オ さまざまな目撃情報・証拠を地道に集めたおかげで、事件の真相がようやく[ ]になった。
- カ 彼は、自分自身のことを「自分は[ ]な性格だ」と自嘲気味に言っている。
- キ 試験はよくできたので、合格したと確信していた。結果発表を見に行くと、[ ]合格であった。
- ①つまびらか
- ②うろ覚え
- ③生返事
- ④怯懦
- ⑤果たして
- ⑥からくも
- ⑦あながち
正解と解説
ア=② / イ=⑥ / ウ=⑦ / エ=③ / オ=① / カ=④ / キ=⑤
キ:ここは〈思った通り〉という意味。
文頭の一語が、文の終わり方を約束している
Movements
主な文芸思潮
近代日本文学の思潮
浪漫主義
感情を自由に表現することを重視し、自我の解放や個性を求めたもので、明治三十年代に最盛を迎えた。
〈作家〉 北村透谷・与謝野鉄幹・森鴎外(初期)など。
自然主義
明治三十年代半ばに現れ、現実を美化せずにありのままに描くことを目指した文学傾向。主人公を通して作者自身の内面を告白する「私小説」へとつながった。
〈作家〉 島崎藤村(『破戒』以降)・田山花袋など。
耽美派・白樺派
明治末〜大正初期にかけて登場した、自然主義に反する思潮。美的な世界を徹底的に追求した耽美派と、自己や個性を積極的に肯定した白樺派が二大グループである。
〈耽美派の作家〉 谷崎潤一郎・永井荷風など。
〈白樺派の作家〉 武者小路実篤・志賀直哉・有島武郎など。
新現実主義(新思潮派)
耽美派・白樺派が見過ごした〈現実〉を再度とらえ直そうとした大正時代の文学傾向で、新思潮派が中心グループ。
〈作家〉 芥川龍之介・菊池寛など。
プロレタリア文学
大正〜昭和初期にかけての社会状況の悪化を背景に発生し、貧しい労働者の姿を描くことで社会の革命を目指した。
〈作家〉 小林多喜二・徳永直・葉山嘉樹など。
新感覚派・新興芸術派・新心理主義
プロレタリア文学に対立。新しい表現技法を取り入れて、政治思想を抜きにして文学そのものの革新に取り組んだ。
〈新感覚派の作家〉 横光利一・川端康成など。
〈新興芸術派の作家〉 井伏鱒二など。
〈新心理主義の作家〉 堀辰雄・伊藤整など。