Macro — 五十語の地図
評論語は概念を、小説語は心の動きを名づける
四つの層 ── 形容詞・慣用句・漢語・副詞
第1部・第2部の語が概念を名づけるものだったのに対し、この五十語は心の動きを名づける。だから覚え方も変わる。定義を暗記するのではなく、誰の、どんな心が、どう動いたかという場面ごと押さえるほうが速い。原書が各語に作品の一節を添えているのはそのためである。
読解上の急所は二つある。一つは誤用で、「気の置けない」「棹さす」「姑息」のように、広まっている意味が本来と正反対の語がある。もう一つは語源で、字と成り立ちをたどれば意味は導ける。この二つを先に図にしておく。
誤用が問われる六語
語源が意味を決める五語
Movements
主な文芸思潮
近代日本文学の思潮
浪漫主義
感情を自由に表現することを重視し、自我の解放や個性を求めたもので、明治三十年代に最盛を迎えた。
〈作家〉 北村透谷・与謝野鉄幹・森鴎外(初期)など。
自然主義
明治三十年代半ばに現れ、現実を美化せずにありのままに描くことを目指した文学傾向。主人公を通して作者自身の内面を告白する「私小説」へとつながった。
〈作家〉 島崎藤村(『破戒』以降)・田山花袋など。
耽美派・白樺派
明治末〜大正初期にかけて登場した、自然主義に反する思潮。美的な世界を徹底的に追求した耽美派と、自己や個性を積極的に肯定した白樺派が二大グループである。
〈耽美派の作家〉 谷崎潤一郎・永井荷風など。
〈白樺派の作家〉 武者小路実篤・志賀直哉・有島武郎など。
新現実主義(新思潮派)
耽美派・白樺派が見過ごした〈現実〉を再度とらえ直そうとした大正時代の文学傾向で、新思潮派が中心グループ。
〈作家〉 芥川龍之介・菊池寛など。
プロレタリア文学
大正〜昭和初期にかけての社会状況の悪化を背景に発生し、貧しい労働者の姿を描くことで社会の革命を目指した。
〈作家〉 小林多喜二・徳永直・葉山嘉樹など。
新感覚派・新興芸術派・新心理主義
プロレタリア文学に対立。新しい表現技法を取り入れて、政治思想を抜きにして文学そのものの革新に取り組んだ。
〈新感覚派の作家〉 横光利一・川端康成など。
〈新興芸術派の作家〉 井伏鱒二など。
〈新心理主義の作家〉 堀辰雄・伊藤整など。
Section 01
感情の形容詞
心情語の二軸配置
161★★★
しおらしい
しおらしい[4]しおらしい中高型
定義
① 控えめで従順な様子。
② 上品で優美な様子。
『現代文キーワード読解』第3部 ☑161
原書の解説
「萎れる」からできた語というものなど、語源にはいくつかの説がある。
使用の境界控えめで従順な様子。おとなしいだけでは足りず、いじらしさや可憐さを伴う。
用法見る側の好意的な視線を含む語である。だから自分について「私はしおらしい」とは言いにくい。小説では、若い女性や小さなものの佇まいを描くのに使われ、堀辰雄の作例のように石仏にも用いられる。人以外にも及ぶ点が特徴である。現代語では「普段は強気な人が急にしおらしくなる」という落差を面白がる用法が多く、この場合はやや揶揄が混じる。語源には「萎れる」からとする説などがある。
用例
-
うつくしきもの、瓜にかきたるちごの顔。雀の子の、ねず鳴きするに躍り来る。……頭は尼そぎなるちごの、目に髪のおほへるを、かきはやらで、うちかたぶきて物など見たるも、うつくし。清少納言『枕草子』「うつくしきもの」の段(1000頃)
しおらしいという語がどこから発しているかを見せてくれる一段である。(1-1 で同じ書の第一段を引いた。)「うつくし」は現代語の美しいではなく小さいものをいとおしむ気持ちを言う。注目したいのは、髪をかき上げもせずに首をかしげて見ているという描写だ。本人は何もしていない。整えようとも、見せようともしていない。その無防備さを見る側が愛でている。しおらしいが自称に向かないのはこのためである — この語は見られている側ではなく見ている側に属している。
-
牡丹散つて打かさなりぬ二三片与謝蕪村(1784没)
しおらしさが衰えの側にもあることを示す一句である。牡丹は豪奢な花だ。その花びらが散って、二、三片ばかり重なっている。数を「二三片」と数えられるほど少なく言うところにこの句の全部がある。盛りのときには数えようもなかったものが、いま数えられる。語源に「萎れる」を当てる説があるのは、この語が力を失ったものへ向く視線を含むからだろう。控えめさと衰えは、見る側からは同じ姿に見える。
- 普段は言い返す人が、その日はしおらしく黙っていた。
現代語で最も多い使い方である。要点は落差だ。もともと控えめな人にはこの語を使わない。強気な人が一時的に控えめになったときに出る。だからやや揶揄が混じる — 元に戻ることを見越しているからだ。
- ×私はしおらしい性格です。
自称できない語である。この語は見る側の好意的な視線を含んでいるので、自分に向けるとその視線を自分で用意したことになる。「控えめ」「おとなしい」なら自称できる。評価語か記述語かという見分けが、ここでも効く。
作品での用例
作品冒頭の一節。筆者は、かつて奈良の古寺を訪れたことを回想する。
その萱屋根の古い寺の、木ぶかい墓地へゆく小径のかたわらに、一体の小さな苔蒸した石仏が、笹むらのなかに何かしおらしい姿で、ちらちらと木洩れ日に光って見えている。
出典 堀辰雄『大和路・信濃路』
派生形
- しおらしげ[0]「げ」は外から見た様子を表す接尾辞。「〜げ」が付くと推量の色が入る — そう見えるが本当かは分からない。もともと見る側の語であるこの語にさらに一枚距離が加わる。
- しおらしさ[0]名詞形。「しおらしさが漂う」のようにその場に広がるものとして扱える。形容詞は対象に貼りつくが、名詞形は対象から離れる。
- 萎れる[0]語源とされる語。草木が水を失って垂れるのが原義で、転じて元気をなくす。語源が正しいとすれば、しおらしさはもともと喪失の姿だったことになる — 蕪村の牡丹が照らしているのはこの層である。
コロケーション
- しおらしい姿人以外にも及ぶ形原書が引く堀辰雄の一節では石仏に使われている。この語が人以外に及ぶのは、「控えめで従順」という性格の記述ではなく、見えている佇まいの記述だからだ。意志を持たないものにも佇まいはある。性格の語なら人にしか使えないが、佇まいの語は何にでも使える。
- しおらしくうつむく動作と結ぶ形うつむく・黙る・小さくなる — 共起する動詞はすべて身を引く方向である。前へ出る動詞とは結ばない。この偏りが示すのは、しおらしさが積極的にふるまって得られるものではないことだ。何かをやめたときに現れる。
- 急にしおらしくなる落差を言う形現代語で最も頻度が高い。「急に」が付くことがこの語の現代的な用法の証である。古典では持続する佇まいだったものが、現代では一時的な変化になった。語が状態から出来事へ移っている — 共起語の変化から語義の移りが読める。
- しおらしいことを言う言葉に及ぶ形発言に使うと皮肉の色が濃くなる。姿はごまかせないが言葉はごまかせると感じられているからだ。同じ語でも、姿に使えば好意、言葉に使えば疑いになる。共起する名詞が評価の向きを決めている。
格中書き言葉・会話の両方で使える。
類語と差
- いじらしい健気で心を打たれる相手を憐れむ気持ちが強い。しおらしいは態度の慎ましさを見ている。
- 慎ましいでしゃばらない態度そのもの。しおらしいは、そこに愛らしさを感じ取る側の視線が入る。
- 従順素直に従う従うことに重心。しおらしいは佇まいの印象を言う。
- 健気弱い者が懸命に努める☑184。努力の側。しおらしいは静けさの側。
ENdemure / modest
ZH娴静(しとやかだ, xiánjìng)
162★★★
いぶかしい
いぶかしい[4]いぶかしい中高型
定義
① 実情が不明で、気になる。
② 疑わしく、不審に思う。
『現代文キーワード読解』第3部 ☑162
原書の解説
「物事がはっきりせず明らかにしたい」という気持ちを表す。動詞「訝る(=不審に思う)」からできた語とも言われる。
使用の境界実情がはっきりせず、気になること。相手を疑う場合と、事情を知りたい場合の両方を含む。
用法要点は、疑いよりも「明らかにしたい」気持ちが語の芯にあることである。だから相手を非難する響きが薄く、立原道造の作例のように、恋しい相手の仕草に対しても使える。動詞形は「訝る(いぶかる)」で、こちらのほうが現代では使用頻度が高い。「いぶかしげに」という副詞形も小説によく出る。漢字は「訝しい」だが、ひらがな書きが一般的である。
用例
-
世に語り伝ふる事、まことはあいなきにや、多くは皆虚言なり。……人はみな、ありのままには言はず、いささかづつ飾りて語るものなり。吉田兼好『徒然草』第七十三段(1330頃)
いぶかしさがなぜ必要かを説いた一段である。(1-1 ほかで同じ書の別の段を引いた。)兼好は嘘をつく人が悪いとは言っていない。「いささかづつ飾りて語る」 — 誰もが少しずつ盛るのだ。だから特定の誰かを疑うのではなく、伝わってくる話一般に構えを取ることになる。これが「いぶかしい」の位置だ — 相手を悪人と決めてはいない。ただ、そのまま受け取らない。1-7 の 153 のジャーナリズムが確かめるという手続きを要求するのは、この構えの制度化にほかならない。
-
私はかつて真として受け入れてきたすべてを一度は疑わねばならない。……ほんのわずかでも疑いうるものはすべて、偽として退けることにしよう。ルネ・デカルト『省察』第一省察(1641)/訳は本教材
いぶかしさを徹底したらどうなるかを示した一節である。(1-2 と 1-5 でこの著者の別の書を引いた。)注目したいのは「一度は」という限定だ。デカルトは疑い続けることを目的にしていない。疑いきったあとに残るものを見つけるために疑う。ここにいぶかしいと疑い深いの差がある — 前者は確かめるための一時の構え、後者は確かめようとしない態度だ。疑いは目的か手段かで評価が正反対になる。
- 説明を聞いてもいぶかしい思いが残った。
最も自然な形である。「思い」「気持ち」「面持ち」と結ぶ。いぶかしいのは対象ではなくこちらの心だからだ。「いぶかしい話」も言えるが、その場合も訝しく思わせる話という意味になる。
- ×彼の説明はいぶかしく間違っていた。
語の役割が違う。いぶかしいはまだ判断がついていない状態を言う。間違いだと分かった時点でいぶかしさは消える。「不審な点があった」「疑わしかった」なら自然。未決であることがこの語の条件である。
作品での用例
詩集『萱草に寄す』の冒頭に置かれた一編。複雑な女性心理への思いを綴ったものと考えられる。
――人の心を知ることは……人の心とは…… 私は そのひとが蛾を追う手つきを あれは蛾を捉えようとするのだろうか 何かがいぶかしかった
出典 立原道造『はじめてのものに』
派生形
- いぶかる[3]動詞形。「訝る」と書く。「いぶかしむ」よりやや古風で、文語の格が残る。現代の小説では地の文で見かけることが多い。
- 訝しい[4]漢字表記。「訝」は言+牙で、言葉がすんなり通らないという成り立ちとされる。現代の小説では仮名書きも多いので、読みを問われやすい。
- 怪訝[0]2-3 の 心情の漢語で別に立つ語(187)。いぶかしいの漢語版にあたるが、怪訝はほぼ「怪訝な顔」「怪訝そうに」の形に限られる。和語のほうが使い道が広い。
コロケーション
- いぶかしげに副詞としての形ほとんどこの形で現れる。「いぶかしげに見る」「いぶかしげな顔」。「げ」が付くのは、いぶかしさが外から観察されているからだ。本人が「私はいぶかしい」と言うことは少ない — 心の内が顔に出たところを第三者が書く語である。
- いぶかしむ動詞にした形「いぶかる」とも言う。動詞にすると心の動きが時間を持つ。「いぶかしい」は状態、「いぶかしむ」はその状態に入る出来事。小説では動詞形のほうが使いやすい — 場面が動くからだ。
- いぶかしさが募る量が増える形「募る」と結ぶのは、いぶかしさが時間とともに積み上がるからだ。一度きりの違和感なら消えるが、重なると疑いに変わる。いぶかしい → 疑わしい → 怪しいという段階をこの共起が示している。
- いぶかしいことに文頭に置く形書き手の判断を前置きする言い方。この形が要るのは、読者にも同じ構えを取ってもらいたいからだ。事実を並べる前に「これは訝しい」と宣言する — 読み方の指示として働く接続的な用法である。
格中書き言葉・会話の両方で使える。
類語と差
- 疑わしい本当かどうか怪しい疑いが中心。いぶかしいは〈はっきりさせたい〉という気持ちを含む。
- 怪訝不審に思って腑に落ちない☑187。表情に出た様子を言うことが多い。
- 腑に落ちない納得できない☑175。理屈が通らない感じ。いぶかしいは情報が足りない感じ。
- うさんくさい何かありそうで信用できない☑167。相手を怪しむ。いぶかしいは中立にも使える。
ENdubious / puzzling
ZH疑惑(いぶかしい, yíhuò)
163★
懐かしい
なつかしい[4]なつかしい中高型
定義
① 心引かれ、愛着を抱く。
② 過去のことに心引かれる。
『現代文キーワード読解』第3部 ☑163
原書の解説
「懐かしい」は「なつく」と同じ語源で、親近感を表す語。左の文章では、〈心引かれ、親しくなりたい〉という①の意である。
使用の境界①心引かれ、愛着を抱くこと。②過去のことに心引かれること。現代では②が優勢だが、古くは①が本義。
用法現代語では②「昔を思い出して心引かれる」がほぼすべてを占めるが、小説では①「心引かれ、親しくなりたい」で使われることがある。森鴎外の作例がまさにこれで、初対面の相手に対して「懐かしい人柄」と言う。過去の記憶は関係していない。「なつく」と同じ語源だと知っておくと、①の用法が理解しやすい。入試では①が問われる。
用例
-
京に入り立ちてうれし。家に至りて門に入るに、月明かければ、いとよくありさま見ゆ。聞きしよりもまして、いふかひなくぞこぼれ破れたる。紀貫之『土佐日記』(935頃)
懐かしさが喪失と一組であることを見せる一節である。(1-3 で同じ書の冒頭を引いた。)五年ぶりに帰った家は荒れ果てている。注目したいのは「うれし」から始まることだ。喜んで帰ってきて、そこで壊れた家を見る。この落差が懐かしさの構造そのものである — 変わっていないはずのものが変わっていると気づいたときに、はじめて過去が過去として立ち上がる。懐かしさは戻れたときではなく、戻れないと分かったときに来る。
-
一口飲んだ紅茶に浸した一切れの菓子が口蓋に触れた瞬間、私は身震いした。……この快さはどこから来たのか。私にはそれが分からなかった。マルセル・プルースト『失われた時を求めて』第一篇(1913)/訳は本教材
懐かしさが意志によって呼び出せないことを示した一節である。要は「分からなかった」だ。思い出そうとして思い出したのではない。菓子の味が先に来て、あとから記憶が追いついてくる。この順序が重要で、懐かしさは身体の側から始まる。2-2 の身体論で見たとおり、身体は意識より多くを覚えている。だから懐かしさは不意打ちの形でしか来ない — 懐かしもうとして懐かしむことはできない。
- 古語のなつかしは、過去を思うことではなく、心が引かれて離れがたいことを言った。
古語と現代語で意味がずれる代表格である。「なつく」と同根で、親しみを感じてそばにいたいという現在の気持ちを指した。時間の語ではなく距離の語だったのだ。入試ではこの差がそのまま問われる。
- ×初めて訪れた土地なのに、とても懐かしかった。
誤りではないが、説明が要る。この言い方が成り立つのは古語の「心が引かれる」という層が残っているからで、現代語としてはやや詩的な用法になる。評論文・小説では「懐かしさに似た」のように断りを入れるほうが文が締まる。
作品での用例
高利貸しの愛人であるお玉は、日中、よく窓の外を眺めて暮らしていた。ある時、通りかかった医学部生の岡田に恋心を抱く。
お玉のためには岡田も只窓の外を通る学生の一人に過ぎない。しかも際立って立派な紅顔の美少年であったが、それならばといって、己惚らしい、気障な態度がないのにお玉は気が附いて、何とはなしに懐かしい人柄だと思い初めた。
出典 森鴎外『雁』
派生形
- 懐かしむ[4]他動詞。対象を取るのが特徴で、「故郷を懐かしむ」。形容詞のままでは対象を「が」でしか取れないが、動詞にすると「を」で取れる — 心の向きがはっきりする。
- 懐く[2]同根の語。慣れ親しんでそばに寄る。古語の「なつかし」が時間ではなく距離の語だったことが、この語との近さから見える。語源をたどると古語の意味が出てくる例。
- 郷愁[0]ノスタルジアの訳語。故郷という場所に限定されるのが「懐かしい」との差。もとは医学用語(ホームシック)で、病名だった語が情緒の語になったという経歴を持つ。
コロケーション
- 懐かしむ動詞にした形意志的な行為になる。「懐かしい」は不意に来るが、「懐かしむ」は自分から向かう。プルーストの一節が示すのは前者で、後者はすでに手に入れた過去を味わうことだ。不意打ちか手続きかの差である。
- 懐かしい顔人に使う形久しぶりに会った人を指す。この言い方が相手に向かって使えるのは、相手が変わっていないことへの喜びを含むからだ。「老けたね」とは正反対の挨拶である。同じ再会をどちらの語で言うかで関係が決まる。
- 懐かしさに浸る受け身に近い形「浸る」という動詞が示すのは、こちらが動かず包まれるという関係だ。快いが、前へ進まない。評論文でこの語が批判的に使われるのは、懐旧が現在の課題から目をそらす道具になりうるからである。
- 懐旧漢語での言い換え硬く、距離がある。「懐旧の情」の形で使う。和語の「懐かしい」が個人の内から出るのに対し、漢語の「懐旧」は外から名づけている。語彙の層を上げると感情から距離が取れる — 評論文が漢語を選ぶ理由の一つである。
格中書き言葉・会話の両方で使える。
類語と差
- 恋しい離れているものを慕う対象がそばにない。懐かしいは目の前の相手にも使える(①)。
- 親しみやすい近づきやすい相手の性質。懐かしいは感じる側の心の動き。
- 慕わしい心が引き寄せられる古風。①の意に近い。
- 郷愁故郷を思う気持ち名詞。②の系列で、場所に限られやすい。
ENdear / nostalgic
ZH怀念(懐かしむ, huáiniàn)
164★
しかつめらしい
しかつめらしい[5]しかつめらしい中高型
定義
① もっともらしい。
② まじめぶった様子だ。
『現代文キーワード読解』第3部 ☑164
原書の解説
もとは「しかつべらしい」で、音が変化してできた語。「鹿爪らしい」と字をあてる。
使用の境界堅苦しく、もっともらしい様子。真面目であることではなく、真面目ぶって見えることを指す。
用法ほぼ常に揶揄が混じる語である。書き手は、その堅苦しさをおかしがっている。だから褒め言葉としては使えない。「しかつめらしい顔」「しかつめらしく」の形が多く、表情や口ぶりについて言う。漢字では「鹿爪らしい」と当てるが、これは当て字で、語源とは関係がない。現代の会話ではほとんど使われず、小説と評論に残る語である。
用例
-
文三はしかつめらしい顔をして、……役所の帰りに本を小脇に抱えて歩いてゐる。その様子がまた可笑しい。二葉亭四迷『浮雲』(1887)の主旨による
しかつめらしさがなぜ滑稽になるかを示した描写である。『浮雲』は日本の近代小説の出発点とされる。主人公の内海文三は真面目で、理屈っぽく、要領が悪い。ここが要点で、しかつめらしさは不真面目な人には出せない。本気で真面目にしているから滑稽なのだ。この語は中身の空虚さを責めているのではない — 形と場面が釣り合っていないことを笑っている。だから同じ顔つきでも、場面が変われば厳粛になる。
-
あの男は天を仰いで祈るふりをし、床に接吻し、……そうして人の財産を数えている。モリエール『タルチュフ』(1664)の主旨による/訳は本教材
しかつめらしさが偽善に近づく地点を示した戯曲である。タルチュフは敬虔なふりをする男だ。大げさな身振りほど疑わしいというこの直感は、国を問わず共有されている。ただし押さえておきたい — しかつめらしいと偽善は同じではない。偽善は中身が違うことを言うが、しかつめらしさは形が過剰であることを言う。中身が本当でもしかつめらしくはなりうる — 『浮雲』の文三がまさにそれだ。この差を押さえておかないと、この語はただの非難になる。
- しかつめらしい顔で当たり前のことを述べた。
最も多い使い方である。顔つき・口調・書きぶりと結ぶ。要点は中身との落差だ。大したことを言っていないのに重々しいからこの語が出る。中身が重ければ「厳粛」「重々しい」になる。
- ×葬儀の場でしかつめらしく振る舞った。
場面が合っていない。葬儀で真面目にしているのは当然なので、落差が生じない。「神妙に」「殊勝に」である。この語は不釣り合いを笑う語だから、釣り合っている場面では働かない。
作品での用例
何度も食事の代金を店に払わずに帰る老人がいた。彼は今夜も店に来て、注文をして言い訳を述べる。
老人は娘のいる窓や店の者に向って、始めのうちはしきりに世間の不況、自分の職業の彫金の需要されないことなどを鹿爪らしく述べ、従って勘定も払えなかった言訳を、喋々と述べる。
出典 岡本かの子『家霊』
派生形
- しかつめらしさ[0]名詞形。「〜が抜けない」「〜を装う」と結ぶ。形容詞はその場の様子を言うが、名詞形は持続する性質を言えるようになる。
- もっともらしい[5]近い語。「尤も」+「らしい」で、理屈が通っているように見える。しかつめらしいが態度に向くのに対し、もっともらしいは内容に向く。形か中身かで使い分ける。
- 鹿爪らしい[6]当て字。「鹿爪」に意味は無く、音を借りただけとされる。語源は「然(しか)」+「つめ(詰め)」など諸説あり定まらない。当て字が定着すると語源が見えなくなる例である。
コロケーション
- しかつめらしい顔最も多い形顔つきに集中する。それは表情が最も作りやすく、最も見破られやすいからだ。声も姿勢も作れるが、顔は見る側の目に最初に入る。作為が一番早く露れる場所にこの語が集まる。
- しかつめらしく言う発言に使う形内容ではなく言い方を評している。この形が示すのは、同じ内容でも言い方で受け取られ方が変わることだ。2-4 の 10 の言説が扱う枠の効果が、一人の口調の水準で起きている。
- しかつめらしい理屈中身に及ぶ形もっともらしいが実は薄いという含みになる。この用法では形の過剰から中身の空虚へ評価が滑る。厳密には別のことだが、語はしばしばこの滑りを起こす — 読解ではどちらを言っているかを押さえたい。
- しかつめらしさを崩す緩める側の語真面目な場がふとゆるむ瞬間。この言い方が好意的に響くのは、崩せるということが余裕の証だからだ。崩せない人はしかつめらしいままになる — この語が最終的に指しているのは硬さそのものである。
格硬書き言葉。会話では不自然。
類語と差
- 生真面目真剣で融通がきかない中身が本当に真面目。しかつめらしいは外見の話で、揶揄が混じる。
- もったいぶるわざと重々しく振る舞うわざとらしさが明確。しかつめらしいは当人が自覚していない場合も含む。
- 厳めしいいかにも威厳がある威圧感。しかつめらしいは滑稽さを伴う。
- 神妙おとなしく殊勝である態度が改まっている。批判の含みがない。
ENsolemn / pompous
ZH一本正经(まじめくさった, yīběn zhèngjīng)
165★★
片腹痛い
かたはらいたい[5]かたはらいたい中高型
語構成
古語「傍らいたし」の「傍ら」が「片腹」と誤用されてできた語。
定義
相手の反応をそばで見聞きし、苦々しく感じる。
『現代文キーワード読解』第3部 ☑165
原書の解説
古語の「傍らいたし(=きまりが悪い・みっともない)」の「傍ら」が、「片腹」と誤用されてできた語。
使用の境界そばで見聞きして、苦々しく感じること。滑稽さと不快さが同居する。
用法語源が要点になる。古語の「傍らいたし」(=そばで見ていてきまりが悪い・みっともない)の「傍ら」が「片腹」と誤って書かれ、定着した語である。だから本来は「腹が痛い」とは無関係で、「おかしくて腹がよじれる」という現代的な理解は語源から外れる。志賀直哉の作例では、自分の言葉が過大に評価されるのを聞いて気まずくなる場面で使われており、嘲りよりも居心地の悪さが中心にある。
用例
-
仁和寺にある法師、年よるまで石清水を拝まざりければ、心憂く覚えて、ある時思ひ立ちて、ただ一人徒歩よりまうでけり。……少しのことにも、先達はあらまほしき事なり。吉田兼好『徒然草』第五十二段(1330頃)
片腹痛さがどこから生じるかを示す一段である。(1-1 ほかで同じ書の別の段を引いた。)法師は山のふもとの社を本社だと思い込んで拝んで帰る。本当の石清水は山の上にある。注目したいのは、法師が真剣だったことだ。長年の願いを果たしたつもりで満足して帰る。片腹痛さはこの「つもり」から生まれる — 本人が得意げであればあるほど見ている側は笑いをこらえることになる。失敗そのものではなく、失敗に気づいていない自信がこの語の的である。
-
十兵衛は己が腕を恃みて、人の言ふことを聞かず。……されど、その恃むところ、まことに恃むに足るや。幸田露伴『五重塔』(1892)の主旨による
片腹痛いと紙一重のところに本物があることを示す作品である。主人公ののっそり十兵衛は腕一本を頼りに塔の造営を奪い取ろうとする。周囲から見れば身の程知らずだ。ところが彼は本当に建ててしまう。ここで分かるのは、片腹痛いという評価が見る側の見積もりに依存していることだ。実力が伴えば同じ自信が気概になる。この語を使うとき、評価しているのは相手ではなく自分の判断である — 2-3 の 12 の固執と同じ危うさがここにもある。
- 初心者に指図されるとは片腹痛い。
相手の身の程を測る形である。「〜とは片腹痛い」という構文で固定して使うことが多い。上から見下ろす語なので、使えば自分の位置も同時に示すことになる。
- ×転んで打ったところが片腹痛い。
身体の痛みには使わない。「脇腹が痛い」である。もとは「傍ら痛し」(そばで見ていて見苦しい)で、「かたはら」が「片腹」に転じたとされる。語源を知ると誤用が防げる典型例である。
作品での用例
実母を亡くした少年の「私」は、祖母から、新しい母親候補の女性の写真を見せられ、感想を求められる。
「おまえはどう思う?」と言った。不意でなんといっていいかわからなかった。ただ、「心さえいい方なら」と答えた。 この答えは祖母をすっかり感心させた。十三の私からこの答えを聴こうとは思わなかったように祖母は祖父にそれを話していた。聞いていて片腹痛かった。
出典 志賀直哉『母の死と新しい母』
派生形
- 傍ら痛し[0]古語のもとの形。そばで見ていて気の毒だ・見苦しい。もとは同情の色もあったのが、現代語では嘲りに寄った。語の温度が下がった例である。
- 片腹痛さ[0]名詞形。用例は多くない。この語が形容詞のまま使われるのは、その場の反応だからで、持続する性質として名詞化する必要が薄い。
- 痛し痒し[1]紛らわしい語。どちらにしても具合が悪いというまったく別の意味。「痛」の字が共通するだけで、片腹痛いとは無関係である。
コロケーション
- 〜とは片腹痛いほぼ固定した構文「〜とは」で受けるのが定型。この構文が示すのは、片腹痛さが状態ではなく特定の言動への反応だということだ。誰かが何かを言った、その言い分に対して出る。反応の語なので、対象が要る。
- 片腹痛いかぎり強めた形「かぎり」を添えるとさらに硬くなる。この語はもともと文語の格を引きずっているので、現代の会話ではやや芝居がかる。時代小説や皮肉の文脈で生きる語である。
- 笑止漢語での言い換えほぼ同義。「笑止千万」の形で使う。片腹痛いが身体の比喩なのに対し、笑止は笑いを直接名指す。和語のほうが身体に近く、漢語のほうが判定に近い。
- 身の程知らず対象を言う語片腹痛さの原因を名指した語。この二語がしばしば一緒に現れるのは、片腹痛いが見る側の感じ、身の程知らずが見られる側の状態だからだ。同じ事態の両側を別々の語が受け持っている。
格硬書き言葉。会話では不自然。
類語と差
- 笑止おかしくてばかばかしい嘲りが前面に出る。片腹痛いは気まずさも含む。
- 噴飯物ばかばかしくて笑ってしまう嘲笑が強い。片腹痛いはもっと静かな苦さ。
- 居たたまれないその場にいられない自分の側の苦しさ。片腹痛いは相手への評価を含む。
- 見苦しい見ていて不快である不快さのみ。片腹痛いは滑稽さも伴う。
ENlaughable / absurd
ZH可笑(おかしい, kěxiào)
166★★★
あさましい
あさましい[4]あさましい中高型
定義
① 見苦しい。
② 品性・態度が卑しい。
『現代文キーワード読解』第3部 ☑166
原書の解説
もとは、よくも悪くも驚きあきれることを表したが、現代では、非難の意味を込めた意で使われる。
使用の境界見苦しく、卑しいこと。道徳的に劣っていることへの強い非難を含む。
用法古語では〈驚きあきれる〉が本義で、よい方向にも悪い方向にも使えた。現代語では悪い方向に固定し、強い非難を表す。したがって軽い気持ちでは使えない。「浅ましい」と書くが、これは当て字であり、「浅い」との意味的なつながりは後から付けられたものである。確認テストの用例「自分の責任を他人に押しつけて知らん顔」がこの語の典型的な対象で、卑怯さと厚かましさを同時に責める。
用例
-
築地のつら、道のほとりに、飢ゑ死ぬる者のたぐひ、数も知らず。取り捨つるわざも知らねば、くさき香世界に満ち満ちて、変りゆくかたちありさま、目も当てられぬ事多かり。鴨長明『方丈記』養和の飢饉(1212)
あさましいという語が本来どこまでを指したかを見せる一節である。(1-1 ほかで同じ書の別の箇所を引いた。)古語の「あさまし」は善悪ではなく「あきれるほど意外だ」という意だった。よいことにも使えた。この一節が示すのはその意外さの極みである — 目も当てられない。注意したいのは、長明が死者を責めていないことだ。事態そのものがあさましい。現代語で「浅ましい」が人の心根を責める語になったのは、意外さが道徳の判断へ滑り込んだ結果である。
-
老婆は、死人の髪を抜くことを悪いとは思わない。この女もまた、生きるために蛇を干魚と偽って売っていた。……ならば自分のすることも大目に見てくれるだろう。芥川龍之介『羅生門』(1915)の主旨による
あさましさが生きるためのものであるときどう扱うかを問う場面である。(1-4 ほかでこの著者の別の作を引いた。)老婆の論理は筋が通っている。飢えて死ぬよりましだ、と。そして下人はその論理を受け取って、老婆の着物を剥ぎ取る。あさましさは伝染するのだ。ここで効いているのは、誰も悪人として書かれていないことである。状況が人をあさましくするというこの見方は、この語をただの非難から引き離す。
- 金に目がくらんだあさましい振る舞い。
現代語の中心的な用法である。欲得のために品位を失うことを言う。「浅い」という字を当てるのは後からの解釈で、もとの「あさまし」とは別語源とされる。字面が意味を作り変えた例である。
- ×満開の桜のあまりの美しさに、あさましく思われた。
古語ならば正しいが、現代語としては通じない。古語の「あさまし」はよいことにも悪いことにも使える「あきれるほど意外だ」だった。現代語は悪い方向に固定している。古文の設問ではこの差がそのまま問われる。
作品での用例
経済的にあまり豊かではない一家。一家総出で、廃品の中から自転車を拾おうとする。
一家五人が明かりの下に集合してみると、五人のうち三人までは大なり小なりいかがわしい拾得物をたずさえてきていることが判った。あさましいゴミあさりに加わらなかったと言えるのは、かろうじて三歳の子供だけだった。
出典 阿部昭『自転車』
派生形
- あさましさ[0]名詞形。「人間のあさましさ」のように、個人ではなく人間一般に向けて使うと批評の語になる。誰かを責める語から、条件を見る語へ移せる。
- あさむ[2]古語の動詞。あきれる・驚く。ここから「あさまし」が派生したとされる。驚きが語幹にあることを知ると、古語の用法の広さが腑に落ちる。
- 浅はか[2]別語。考えが足りないことを言い、欲得の含みは無い。あさましいが品位の問題なのに対し、浅はかは判断の問題。「浅」の字に引かれて混同しやすい。
コロケーション
- あさましい姿外から見た形ふるまい・姿・欲と結ぶ。心そのものには使いにくいのが特徴で、「あさましい心」より「あさましい振る舞い」が自然である。見えるところに出て初めてこの語が使える — 外から見た語であることが共起に現れている。
- あさましくも副詞にした形「〜も」を伴って文語調になる。語り手の嘆きを前置きする働きをする。出来事を述べる前に評価を置くというこの形は、古典の語りから受け継がれたものである。
- あさましさに堕する過程を言う形「堕する」が示すのは、もとはそうでなかったという前提である。生まれつきあさましい人はいない。『羅生門』の下人が数刻のうちに変わるように、状況が押し下げる。
- 浅ましい当て字での表記「浅」の字を当てることで心が浅いという解釈が定着した。語源とは別とされるが、いまではこの字が意味を支えている。1-3 で見たとおり、表記もまた意味を作る。
格中書き言葉・会話の両方で使える。
類語と差
- いやしい品位が低い身分や態度。あさましいは行いの醜さに重心がある。
- さもしい心根が卑しく欲深い欲の卑しさに限る。あさましいはより広い。
- 見苦しい見ていて不快外見の話にも使える。あさましいは心のありようを指す。
- 浅ましい─同語の漢字表記。「浅い」との関連は当て字による後付け。
ENdespicable / shameful
ZH卑鄙(卑劣だ, bēibǐ)
コラム ── 夏目漱石
夏目漱石は国民的作家と言われる。その作品はどれもいまだに多くの日本人に読まれ、精神の栄養になっているが、その魅力の一つは文体にあると考えられる。江戸っ子らしい、くだけていてしかも明快な、話し言葉に近い言い方や、和漢洋にわたる深い教養からおのずとにじみ出てくる格調の高さなどが、その独特の文体の魅力を形づくっている。
昔、徳川夢声という朗読の名手がラジオ番組で『草枕』を読んだそうだが、当時の人々は耳で聞いても、漱石の小説の内容を理解できたわけだ。現代とは隔世の感がある。
漱石は自然主義一色で文学が塗り込められようとしていた時代に、それに理解を示しながらもなお独自な位置を占め、森鴎外とともに文学を一段高いところから照らし出すような存在だった。その〈高さ〉を保証したものの一つは、漱石の抱いた問題意識の大きさ、深さであっただろう。
コラム ── 森鴎外
森鴎外は漱石に比肩する明治文学の巨匠だが、それだけではない。当時の日本の超エリートとしてドイツに留学し、コッホなどの著名な医学者から指導を受け、陸軍軍医総監にまで上り詰めた人物としても知られている。ドイツ留学中の経験は『舞姫』という浪漫主義作品に結実するが、その舞台を日本に移したのが『雁』だという指摘もされている。たしかに『舞姫』のエリスも『雁』のお玉も、封建社会に埋没し、薄幸な人生を送る女性である一方、『舞姫』の豊太郎と『雁』の岡田には、最終的には傍観者的な態度をとる知識人エリートという類似性が見られる。なお、鴎外は晩年、歴史小説や史伝を発表した。
ちなみに、現実の鴎外はなかなかの愛妻家で、陸軍師団のあった広島に出張した際の、夫人に宛てた配慮に満ちた手紙や歌が残されている。「自分は信用されているほど君子ではないから、外では何をしているかわからない」と夫人を煙に巻いた漱石とは対照的だ。
167★★★
うさんくさい
うさんくさい[5]うさんくさい中高型
定義
態度や様子が、どことなく疑わしいさま。
『現代文キーワード読解』第3部 ☑167
使用の境界なんとなく怪しく、信用できないこと。根拠のない直感的な疑いである点が要点。
用法要点は根拠がない直感だという点にある。具体的な証拠は挙げられないが、なんとなく信用できない――この曖昧さがそのまま語義である。だから「うさんくさいと思った」と書けば、書き手の主観であることが明示される。「胡散(うさん)」は当て字で、語源には諸説ある。会話でもよく使われ、小説では人物の第一印象を描くのに便利な語である。
用例
-
人有り、鈇(ふ)を亡(うしな)ふ者あり。其の鄰(となり)の子を意(うたが)ふ。其の行歩を視れば鈇を窃(ぬす)めるなり。顔色も鈇を窃めるなり。言語も鈇を窃めるなり。動作態度、為すところ一つとして鈇を窃めざるは無きなり。俄(にはか)にして其の谷を抇(ほ)りて其の鈇を得たり。他日、復た其の鄰の子を見るに、動作態度、鈇を窃めるに似たる無し。『列子』説符篇「亡鈇(ぼうふ)の疑い」(書き下しは本教材)
うさんくささがどこに宿るのかを実験のように示した一段である。斧をなくした男が隣の子を疑う。すると歩き方も顔色も口ぶりも、すべてが盗人らしく見えてくる。ところが谷から斧が出てきたその翌日、同じ子の同じ動作が、どこも盗人らしくない。変わったのは子ではなく男のほうだ。ここにこの語の急所がある — うさんくささは対象が持っている性質ではなく、見る側に起きている状態である。だから「うさんくさいと思った」と書けば、書き手の側の情報になる。
-
疑いは、思いのなかの蝙蝠のようなものだ。それはつねに薄明のうちを飛ぶ。フランシス・ベーコン『随筆集』「疑いについて」(1625/訳は本教材)
うさんくささがどの明るさで生じるかを言い当てている。蝙蝠が飛ぶのは昼でも夜でもない時間である。真っ暗なら疑いようがない — 何も見えないのだから判断そのものが立たない。明るければ確かめられる — 確かめれば疑いは事実に変わる。うさんくさいは、その中間の明るさにだけ生きる語だ。見えているのに見きわめられない。だから証拠が出た瞬間にこの語は死ぬ。
- 肩書きばかり並んだ名刺を出されて、うさんくさく思った。
根拠と呼べるものが何もないのに判断だけが動いている。材料は肩書きの数という形式的な事実ひとつきりで、そこから不正の証拠は一歩も出てこない。この材料と判断のあいだの跳躍が、そのままこの語の意味である。
- ×領収書の偽造が確認されたのでうさんくさい。
確認された時点でこの語は使えない。疑いが事実に変わったのだから、言うべきは「不正だ」であって疑わしさではない。この語が占めているのは検証の前の区間だけで、証拠はその区間を終わらせてしまう。
作品での用例
女子高生である裕生は、自分のことを周囲に「僕」と言っている。
母や男友達は気味が悪いからやめてくれと言う。そんなときは裕生も面倒がって、だって男の子になりたいんだもんと言いきってやり過ごした。たしかにかつてはとても男の子になりたかった。少年という言葉には爽やかさがあるけれど、少女という言葉には得体の知れないうさんくささがある。
出典 松村栄子『僕はかぐや姫』
派生形
- うさんくささ[0]「さ」で名詞になると、感じから量へ移る。「うさんくさい」はあるかないかだが、「うさんくささ」は漂う・増す・消えないと結んで程度を持つ。原書が引く松村栄子の一節が「少女という言葉には得体の知れないうさんくささがある」と名詞形を選んだのは、個々の少女ではなく語そのものにまとわる気配を言いたかったからである。
- 胡散[0]当て字で、語源には諸説ある。重要なのは単独ではほとんど使われない点だ。「胡散な男」とは言わず、ほぼ「くさい」と一体で用いる。「くさい」が意味の主役で、この接尾辞は「〜のようだが確かでない」を一手に担っている(面倒くさい・照れくさい・嘘くさい)。
- 胡乱[0]同じ「胡」を持つ漢語で、意味も近いが文体が違う。「胡乱な目つき」は書き言葉・時代がかった調子を帯び、会話ではまず出ない。和語のうさんくさいが生活の語であるのに対し、胡乱は文章の語である。同じ内容をどの文体で言うかという選択がここにある。
コロケーション
- うさんくさい男人につく形初対面の人物に最もよくつく。理由は単純で、初対面とは情報が足りない状態だからだ。情報の不足がこの語の成立条件である以上、付き合いの長い相手には使いにくい。長く知っていてなお疑うなら、それは直感ではなく蓄積であり、別の語の仕事になる。
- うさんくさそうに様態の形「そうだ」がつくことに注意したい。推量の「そうだ」は外から見た様子につく接尾辞である。うさんくささが対象の性質なら「そうだ」は要らない — 性質は推量しないからだ。この語が推量の形とこれほど馴染むこと自体が、語義が見る側にあることの文法的な証拠になっている。
- うさんくさい話事につく形「話」という名詞がよく選ばれるのは、話が伝聞の形だからである。見たものは疑いにくく、聞いたものは疑いやすい。「うまい話」「もうかる話」と結びやすいのも同じ理由で、まだ起きていない出来事は検証しようがない。検証できない情報の形がこの語を呼ぶ。
- うさんくささが漂う気配の動詞「漂う」は発生源を特定しない動詞である。匂い・気配・雰囲気といった出どころの言えないものにしかつかない。根拠が挙げられないというこの語の性格と、動詞の性格が正確に噛み合っている。逆に「うさんくささが証明された」とは言えない — 証明できるものはもううさんくささではない。
格中書き言葉・会話の両方で使える。
類語と差
- いかがわしい道義的に問題がありそう不健全さを含む。うさんくさいは信用の話。
- 怪しい不審である広い。うさんくさいは〈におい〉のような直感に重心。
- いぶかしいはっきりせず気になる☑162。明らかにしたい気持ち。うさんくさいは近づきたくない気持ち。
- 眉唾信じがたい名詞。話の内容に限る。うさんくさいは人にも使える。
ENsuspicious / shady
ZH可疑(怪しい, kěyí)
168★★
うとましい
うとましい[4]うとましい中高型
定義
いやで遠ざけたい気持ちだ。
『現代文キーワード読解』第3部 ☑168
原書の解説
「疎む(=いやがり遠ざける)」の形容詞形。左の文章では、自分の誤解を思い出したくないという「私」の感情が描かれる。
使用の境界いやで遠ざけたいと感じること。憎むほどではないが、そばに置きたくないという感覚を指す。
用法「疎(うと)い」と同語源で、距離を取りたいという方向が語の芯にある。だから憎悪とは違い、静かで持続的な拒否感になる。確認テストの用例のように、いつもは便利な携帯電話が今日はうとましい、という形で状況によって反転する点も特徴である。自分自身に対しても使え、「自分がうとましい」は自己嫌悪を表す。小説では人間関係の微妙な冷え方を描くのに用いられる。
用例
-
ある寒い冬の日、一群のヤマアラシが、たがいの体温で凍えを防ごうと身を寄せ合った。だがたちまち、たがいの棘が痛みだす。離れれば、ふたたび寒さが襲う。こうして近づいては離れ、離れては近づくことを繰り返したすえ、彼らは、たがいをいちばんよく耐えうるほどよい隔たりを見いだした。ショーペンハウアー『余録と補遺』第二巻(1851/訳は本教材)
うとましさが憎悪ではないことをこれほど明快に示す文章はない。ヤマアラシたちはたがいを憎んでいない — それどころか同じ寒さを共有し、たがいを必要としている。それでもそばに置くと痛い。この必要と痛みが同時に成り立つ状態が、うとましいという語の場所である。だから解決は排除ではなく距離になる。この語が静かで持続的なのは、相手を消す方向へ向かっていないからだ。
-
汚れつちまつた悲しみに/今日も小雪の降りかかる/汚れつちまつた悲しみに/今日も風さへ吹きすぎる中原中也『山羊の歌』「汚れつちまつた悲しみに」(1934/中也 1937 没)
「自分がうとましい」の構造がここに書かれている。悲しみは本来わたしのものであるはずだ。ところがこの詩で悲しみは雪が降りかかり風が吹きすぎる、外にある物のように扱われる。自分の感情を眺める位置に立つ — これが自己嫌悪の形式である。憎むのではなく持て余す。「汚れつちまつた」という完了の言い方も効いている。もう元に戻せないから、残る手立ては距離を取ることだけになる。
- 毎朝の挨拶が、いつからかうとましくなっていた。
「いつからか」が要である。うとましさには始まりの一点がない。出来事があって生じるのではなく、気づいたときにはすでにそうなっている。だから理由を問われても答えられない — 答えられないことが欠陥ではなく語義である。
- ×裏切られて、あの男がうとましい。
出来事への反応なら「憎い」である。裏切りという一点の原因があり、感情がそこから発しているのなら、それは敵意だ。うとましいは原因に還元できない、じわじわとした拒否感を受け持つ語で、強い出来事のあとにはかえって置きにくい。
作品での用例
「私」は、ナタリアという人物の生前の様子を回想し、最後の別れを悔やむ。
ローマにさえ来れば、またいつでも会える、と軽い気持で別れをつげ、またあの白い大理石の階段を小走りに駆けおりたのだったが、そのことが、十一月の雨の道で、突然、うとましかった。
出典 須賀敦子『ふるえる手』
派生形
- うとむ[2]形容詞の元になった動詞。重要なのは他動詞である点で、「彼を疎む」と対象を取る。つまり動詞のほうには意志がある。形容詞になると意志が抜けて感じ方だけが残る — 「うとましい」はそう感じてしまうのであってそうしようとしているのではない。この意志の脱落が「〜しい」という接尾辞の仕事である。
- うとい[2]同語源で、距離という芯を共有する。ただし向きが違う。「機械に疎い」は知識の距離で、そこに嫌悪はない。「うとましい」は感情の距離である。同じ「遠さ」が、知に向けば無知、情に向けば拒否になる — 一つの語根が二つの領域へ枝分かれした好例。
- 疎遠[0]同じ「疎」を持つ漢語だが、感情が抜けている。「疎遠になる」は関係の状態を外から記述する語で、どちらが嫌ったかを言わない。和語は心の内側、漢語は関係の外形 — この分業は第1部でくり返し見た和語と漢語の役割分担そのものである。
コロケーション
- うとましく思う心の動詞と結ぶ動詞が「思う」であることに意味がある。憎しみは行動になる — 憎んで殴る、憎んで訴える、と外へ出る。ところがうとましさは思うにとどまる。離れたいという願いであって働きかけの意志ではないから、行為の動詞と結びようがない。この語が人間関係の冷え方を描くのに向くのは、何も起こらないまま進行するからだ。
- 自分がうとましい自分に向く形この語がもつ最も苦しい形である。うとましさの処方は距離を取ることだが、相手が自分なら距離が取れない。逃げ場のない拒否感だけが残る。「憎い」を自分に向けると自罰になり、刑を執行すればいちおう片がつく。うとましいにはその出口すらない。
- うとましい存在名づける形「存在」という極端に抽象的な名詞と結ぶ。「うとましい行為」とはあまり言わない。この偏りが示すのは、非難されているのが何をしたかではなく、そこに居ること自体だという事実である。行為なら改められるが、存在は改めようがない — この語の救いのなさはそこにある。
- うとましさが募る蓄積の動詞「募る」は少しずつ増えていく動詞である。瞬間の感情とは結ばない — 「驚きが募る」とは言わない。うとましさがこの動詞を選ぶのは、それが時間をかけて積もる型の感情だからだ。一回の出来事では成立せず、反復が要る。
格中書き言葉・会話の両方で使える。
類語と差
- 憎らしい憎み、腹立たしい積極的な敵意。うとましいは離れたい気持ち。
- わずらわしい面倒でうるさい手間の話。うとましいは存在そのものへの拒否感。
- 疎遠つきあいが遠のく関係の状態。うとましいは感情。
- よそよそしい親しみがない相手の態度。うとましいは自分の感じ方。
ENirksome / repellent
ZH厌烦(うとましい, yànfán)
169★★
さしでがましい
さしでがましい[5]さしでがましい中高型
定義
他人のことに必要以上に関わると感じさせるさま。
『現代文キーワード読解』第3部 ☑169
原書の解説
古語の「差し出づ(=出しゃばる)」からできた語と言われている。
使用の境界分をこえて口や手を出す様子。実際にでしゃばっている場合と、そう思われることを恐れる場合の両方で使う。
用法実際の用法で最も多いのは前置きとしての謙遜である。「さしでがましいようですが」と断ってから意見を述べる。この場合、話し手は自分の発言が越境だと認めたうえで、それでも言うという構えを取る。確認テストの用例もこの形である。したがってこの語は、人間関係の境界線を意識していることの表明になる。他人を非難する用法もあるが、頻度は前置きのほうが高い。
用例
-
子曰く、其の位に在らざれば、其の政(まつりごと)を謀(はか)らず。『論語』泰伯篇(書き下しは本教材)
この語が何を前提にしているかを一行で示している。「位」とは担当の範囲である。孔子が言っているのは能力の話ではない — 正しい意見であっても、位置が違えば口を出すべきではないという境界の話だ。さしでがましいという語も同じ構えに立つ。言った内容が間違っているとは一言も言っていない。言う資格の位置にいるかどうかだけを問題にする。だから正論ほどさしでがましくなりうる。
-
人は、忠告ほど気前よく与えるものはない。ラ・ロシュフコー『箴言集』第一一〇(1665/訳は本教材)
さしでがましさがどこから湧くかを突いている。忠告には元手がかからない。金も労力も要らず、言うだけで善意の側に立てる。だから人はいくらでも出す。悪意から生まれるのではなく、安さから生まれる — ここがこの語の厄介なところだ。「さしでがましいようですが」という前置きは、この安さを自分で値付けし直す行為である。ただでは出しませんと断ってから出す。
- さしでがましいようですが、日付をもう一度ご確認ください。
実際に最も多い型である。構造を見ると奇妙なことが起きている — 越境だと自分から認めたうえで、それでも越える。つまりこの前置きは謙遜の形をした許可の要求であり、境界を意識していることの表明によって境界を越える権利を一時的に買っている。
- ×さしでがましくご指導いただき、ありがとうございました。
相手の行為には使えない。この語は他人への非難か自分の謙遜のどちらかで、感謝の枠には入らない。敬語の形をしていても、語彙そのものがマイナスの評価を運んでいるので打ち消せない — 評価語は文型で中和できないという典型例である。
作品での用例
「私」が、修道院にいる叔母に就職の報告をすると、叔母から祝いの手紙が届いたが、そこには格言が書かれていた。
「貧しくとも正しく働け。悩むとも、聖霊とともにそれが如何に正しき悩みなるかを知れよ。絶望はいびつなる悩みであることを知れ。」 私は叔母のこの平凡な文章を嘲笑したのではなく、寧ろ彼女のさしでがましさによって力づけられ慰められるのを知ったのである。
出典 井伏鱒二『たま虫を見る』
派生形
- さしでがましさ[0]名詞化すると評価が反転しうる。原書が引く井伏鱒二の一節では、「私」は叔母のさしでがましさによって力づけられ慰められると書く。形容詞のままなら非難だが、名詞にして「〜によって」の原因の位置に置くと、越境そのものが好意の証として読み直される。品詞の変換が価値の変換を可能にしている。
- さしでる[0]元の動詞。「出る」は自動詞で、自分の側の運動を言う。ここが大事で、さしでがましさは相手を引き込む力ではなく、自分がはみ出す動きである。境界線は動かない。動くのは自分だけ — だから責任がすべてこちら側に来る。
- 出しゃばる[3]ほぼ同義だが前置きに使えない。「出しゃばるようですが」とは言わない。理由は語の格にある — 俗語的で非難の色が強すぎるので、謙遜の型に乗らない。同じ内容の語でも、格が低いほうは自分に向けにくい。謙遜にはある程度の文体の高さが要るのである。
コロケーション
- さしでがましいようですが前置きの型「よう」がこの型のすべてである。断定すれば「さしでがましいですが」となり、自分の越境を事実として認めてしまう。「ようだ」を挟むと推量になり、「そう見えるかもしれませんが」に後退する。わずか二音で責任の量が変わる — 日本語のモダリティが対人関係を調節している現場だ。
- さしでがましい真似非難の形「真似」という名詞が選ばれることに注目したい。「真似」は行為を一段低く見る語で、本物でないという含みを持つ。つまりこの結びつきは助言の中身を評価していない — 助言者を演じたこと自体を責めている。内容ではなく位置を撃つというこの語の性格が、名詞の選択に出ている。
- さしでがましいとは存じますが改まった形敬語が重なるほどこの語は生きる。理由は明快で、敬語とは距離の表示であり、この語は距離の侵犯についての語だからだ。侵犯を告げるのに距離の言葉を使う — この矛盾した組み合わせがちょうど礼儀として働く。書簡・議事・弔辞といった格の高い場ほど出現率が上がる。
- さしでがましく口を出す動作と結ぶ共起するのは「口を出す」「手を出す」「顔を出す」 — すべて「出す」である。語源の「差し出づ」がそのまま生きていて、引く方向の動詞とは結ばない。「さしでがましく黙る」とは言えない。語源の空間感覚が共起の範囲を決めている例である。
格中書き言葉・会話の両方で使える。
類語と差
- 出しゃばり前に出たがる人柄の記述。さしでがましいは個々の行為について言う。
- おこがましい身の程知らずである身分不相応の含みが強い。さしでがましいは領分を越える話。
- 余計な不要である不要さのみ。さしでがましいは越境の含みを持つ。
- 僭越立場を越えて出過ぎる漢語で改まった場に使う。「僭越ながら」は挨拶の定型。
ENmeddlesome / presumptuous
ZH多管闲事(おせっかいだ, duōguǎn xiánshì)
170★★
やるせない
やるせない[4]やるせない中高型
語構成
「思いを遣(や)る瀬(せ)がない」という成り立ち。感情の行き場がないことを言う。
定義
思いを晴らすことができず、つらい。
『現代文キーワード読解』第3部 ☑170
原書の解説
「遣る瀬ない」と書く。「遣る」は〈自らの思いを晴らす〉の意なので、「やるせない」は〈思いを晴らす場所がない〉となる。
使用の境界思いを晴らす方法がなく、切ないこと。悲しみに加えて、どうにもできないという行き詰まりを含む。
用法語構成が意味をそのまま示す。「遣る瀬」=思いを遣る(送り出す)瀬(場所)がないという成り立ちである。だから感情が無いのではなく、あふれる感情の行き場がないのが要点になる。恋愛小説で多用され、確認テストの用例も「思いを寄せている人が手の届かないところにいる」場面である。現代の会話でも生きている語で、「やるせない」という形容詞形のほか「やるせなさ」の名詞形もよく使われる。
用例
-
月やあらぬ春や昔の春ならぬわが身ひとつはもとの身にして在原業平/『伊勢物語』第四段(10世紀)
やるせなさの構文そのものである。去年と同じ月、同じ春。それなのにあの人だけがいない。注目すべきはこの歌が終わっていないことだ。「もとの身にして」の「して」は接続の形で、続きを求めたまま切れている。結論が出ないのではなく、出す場所がない。「遣る瀬(=思いを送り出す場所)がない」とはまさにこの文の終わらなさである。感情が過剰なのではなく、出口がない。
-
東海の小島の磯の白砂に/われ泣きぬれて/蟹とたはむる石川啄木『一握の砂』(1910)
行き場のない感情が何をするかを見せてくれる。泣いている。そして泣きながら蟹と戯れている。この二つはどちらも悲しみを解決しない。泣いても消えず、遊んでも紛れない。出口がないとき、感情は意味のない動作へ流れ込む — やるせなさが「酒をあおる」「歩きまわる」といった無目的な行為とよく結ぶのはこのためだ。行為が解決ではなく排水になっている。
- 言えなかった言葉が胸に残って、やるせない。
語構成のとおりである。言葉はすでに生まれている — 足りないのは感情ではなく宛先だ。やるせないを「悲しい」と取り違えないために、この形を基準にしておくとよい。
- ×計画が失敗してやるせない。
失敗には原因も対処もある。手を打てる出来事なら、感情には「次はこうする」という出口が残っている — それは「悔しい」である。やるせないが要求するのはどうにもならないという条件で、対処可能な事態には置けない。
作品での用例
「私」は、クラスで仲間はずれにされている哲夫と親しくなろうとする。
彼は、終始、無言で、私の家の方向と彼の家の方向の別れ目になる曲り角に来ても、知らん顔でした。 「さよなら、哲夫くん、明日ね!」 私の声だけが響き渡りました。私は、少し、やるせない思いに浸りながら、彼の後ろ姿を見守っていました。
出典 山田詠美『海の方の子』
派生形
- やるせなさ[0]名詞形が形容詞と同じくらいよく使われる珍しい語。「やるせなさに酒をあおる」のように原因の位置に置けるので、感情を行動の動機として扱えるようになる。形容詞のままでは状態の記述にとどまるが、名詞にすると物語が動き出す — 小説でこの形が多いのはそのためである。
- 遣る瀬単独ではまず使わない。「遣る瀬がある」とは言えない。否定と一体になってはじめて意味を持つ語で、「やむを得ない」の「やむ」、「とんでもない」の「とん」と同じ型に属する。否定形だけが生き残ったという事実自体が、この感情が日本語でどれほど繰り返し言われてきたかを示している。
- せんかたない[5]同じ型の兄弟語。「詮方(=方法)」+「無い」で、やるせないと構造が並行している。ただし「詮方無い」は諦めへ向かう — 方法がないと認めて手を引く。やるせないは諦めない。手を引けないまま出口を探し続けるからつらいのであって、この差がそのまま二語の距離である。
コロケーション
- やるせない思い名詞と結ぶ「思い」が最もよく選ばれるのは偶然ではない。「思い」は誰かに向かう名詞である — 思いを寄せる、思いを伝える、思いを遂げる。もともと宛先を持つ語だからこそ、宛先を失ったときの落差が大きい。「やるせない怒り」が言いにくいのは、怒りが宛先を自分で作ってしまうからだ。
- やるせなさが募る蓄積の動詞出口がないものは溜まる。流れ出る先があれば「晴れる」「収まる」と結ぶはずだが、この語は増える方向の動詞を選ぶ。「募る」「込み上げる」「胸にたまる」 — いずれも行き場のなさが前提である。共起する動詞の向きが語義の向きを写している。
- やるせなさを持て余す処理の失敗「持て余す」は扱いきれないことを言う動詞で、捨てられないものにしかつかない。要らないものなら捨てればすむ。捨てられず、かといって置き場もない — この宙づりがやるせなさの実質である。「遣る瀬」がないとは置き場がないということだと、この結びつきが教えてくれる。
- やるせなくなる変化の形自動詞的な「なる」でしか言えない。「やるせなくする」とは言わない — 誰かがそうさせたのではないからだ。加害者のいない感情である点が「悔しい」「腹立たしい」と決定的に違う。責める相手がいないので、感情は外へ出ずに内側に留まる。
格中書き言葉・会話の両方で使える。
類語と差
- 切ない胸がしめつけられる感情の強さ。やるせないは出口がないことに重心がある。
- もどかしい思うようにならず苛立つ苛立ちが前面。やるせないは静かな諦めを含む。
- 虚しい手ごたえがなく空虚である空白感。やるせないは満ちた思いの行き場がない状態。
- 憂鬱気が晴れない持続する気分。やるせないは特定の思いに結びつく。
ENdisconsolate / wretched
ZH无奈(どうしようもない, wúnài)
171★★
おぼつかない
おぼつかない[5]おぼつかない中高型
定義
① はっきりしない。
② 心もとない。頼りない。
『現代文キーワード読解』第3部 ☑171
原書の解説
「覚束ない」と書く。「おぼ」は「朧(=ぼうっとしてはっきりしない)」の「おぼ」と同じ語源とされている。
使用の境界①はっきりせず不確かなこと。②不安で心もとないこと。同じ形で二つの層を持つ。
用法三つの対象に使い分ける。①記憶(記憶がおぼつかない)②動作(おぼつかない足取り)③見込み(成功はおぼつかない)。共通するのは確かさが足りないことで、程度が弱く不安定な状態を表す。古語では〈はっきりしないので気がかりだ〉が本義で、②の不安の層はそこに由来する。漢字では「覚束ない」と当てるが、これも当て字である。
用例
-
照りもせず曇りもはてぬ春の夜の朧月夜にしくものぞなき大江千里/『新古今和歌集』春上(原歌は『大江千里集』、9世紀末)
「おぼ」の出どころを見せてくれる一首である。「おぼつかない」の「おぼ」は「朧(おぼろ)」と同語源とされる。この歌が言うのは「照りもせず曇りもはてぬ」 — どちらにも決まらないという状態だ。注目したいのは、この決まらなさを歌が欠如として扱っていないことである。「しくものぞなき」(これに及ぶものはない)と最上級で称える。同じ不確かさが、景に向けば美になり、心に向けば不安になる — おぼつかないの二つの層はここで一つにつながっている。
-
僕の将来に対する唯(ただ)ぼんやりした不安である。芥川龍之介『或旧友へ送る手記』(1927)
②の層がどういうものかを示す。芥川が自らの死の理由として書いたこの一行の要は「ぼんやりした」である。不安にはふつう対象がある — 試験が、病が、金が、と名指せる。ところがここでは対象が輪郭を持たない。輪郭が定まらないこと(①)が、そのまま心もとなさ(②)になる。二つの意味が一語に同居しているのは偶然ではなく、見きわめられないものは身構えようがないという人間の作りに由来している。
- おぼつかない手つきで箸を持つ子を、祖母がじっと見ていた。
動作の層。ここで面白いねじれが起きている — 当の子どもは不安を感じていない。心もとなく思っているのは見ている祖母のほうだ。動作に使うとき、この語は観察者の感情を対象へ移して述べている。
- ×おぼつかない情報をもとに記事を書いた。
情報の中身の不確かさには使わない。それは「あやふやな」「不確かな」である。おぼつかないが向かうのは記憶・動作・見込み、つまり誰かが確かにやり遂げられるかという遂行の確からしさで、命題の真偽ではない。
作品での用例
谷間にある池の周囲が、ダム建設で埋め立てられることになる。
一羽の小鳥が池の水面をかすめて、おぼつかなげに飛びまわっていた。池はこの小鳥の住居を犯した化物なのであろう。小鳥は水面にうつる自分の姿に向って細く鋭い悲鳴をあげ、幾度となくはげしい羽ばたきをした。
出典 井伏鱒二『朽助のいる谷間』
派生形
- おぼつかなさ[0]名詞化すると三つの層がいったん融ける。「足取りのおぼつかなさ」は動作の不安定さとそれを見る心もとなさを一語で抱える。形容詞は文の中で層を選ばされるが、名詞は選ばずにすむ — 多義語を多義のまま運べるのが名詞形の利点である。
- おぼつかなげ[0]「げ」+「な」で形容動詞になる。「〜ない」で終わる形容詞に「げ」がつくのは珍しく(さりげない→×さりげなげ)、この語が「ない」を否定として意識されなくなるほど一語化していることの証拠になる。語源が透明でなくなると、語は自由に接尾辞を取れる。
- 朧[0]同語源とされる語。「朧月」「朧げ」と広がる。面白いのは評価が正反対である点だ — 「朧」は春の景として愛でられ、「おぼつかない」は不安として嫌われる。同じ不明瞭さでも、眺めるなら美しく、当てにするなら困る。語の評価は対象ではなく対象との関わり方で決まるという見本である。
コロケーション
- 記憶がおぼつかない記憶の層記憶は自分のものなのに自分で確かめられない — この奇妙な所有がこの結びつきを生む。「記憶が正しい/間違っている」とは他人の証言と突き合わせてはじめて言える。それができないあいだは確かさの度合いしか言いようがない。検証の外にある自分の内容にこの語が向くのはそのためだ。
- おぼつかない足取り動作の層「足取り」「手つき」「口ぶり」 — 結ぶのは体の動きを外から名づけた名詞ばかりである。「おぼつかない意志」とは言わない。見えるものにしかつかないのは、この層が観察の語だからだ。幼児・老人・酔った人・病んだ人 — 体の制御が完成していないか失われつつある人に集中する。
- 成功はおぼつかない見込みの層「は」で取り立てることに意味がある。「成功がおぼつかない」より「成功は」のほうが自然なのは、いったん成功という望みを立て、そのうえで否定しているからだ。対比の「は」が、期待と現実の落差を一文字で作っている。見込みの語はつねに期待の存在を前提にする。
- おぼつかなげに様態の形「げ」は外から見た様子を表す。だからこの形は動作の層でしか生きない — 「記憶がおぼつかなげだ」とは言えない。原書が引く井伏鱒二の一節で小鳥が「おぼつかなげに」飛ぶのは、小鳥の内心を語り手が知らないという正直さの表明でもある。「げ」は観察者の謙虚さの印だ。
格中書き言葉・会話の両方で使える。
類語と差
- あやふやはっきりしない内容の曖昧さ。おぼつかないは実現や記憶の確からしさ。
- 心もとない頼りなく不安である②に近い。おぼつかないは①の意も強く持つ。
- 危うい失敗しそうである結果の見込み。おぼつかないは状態の不確かさ。
- うろ覚えはっきり覚えていない☑204。記憶に限る。おぼつかないは動作や見込みにも使える。
ENuncertain / unsteady
ZH模糊(はっきりしない, móhu)
172★★
間が悪い
まがわるい慣用句
語構成
間あいだ・タイミング+悪わるい
慣用句。「間」はタイミングとその場の空気の両方を指す。
定義
① きまりが悪い。
② 運が悪い。折が悪い。
『現代文キーワード読解』第3部 ☑172
原書の解説
「間」は、〈空間・時間・機会〉など多くの意をもつ。また、「間がいい(=運がいい)」という表現もある。
使用の境界①きまりが悪いこと。②折が悪く、都合が悪いこと。二つの意味を文脈で読み分ける。
用法「間」はタイミングとその場の空気の両方を指す語で、そこから二つの意味が出る。①は自分の側の気まずさ、②は状況の側の不都合である。確認テストの用例「人前で漢字の読みの間違いを指摘されると、間が悪い思いをする」は①。「間が悪いことに雨が降ってきた」は②。日本語の「間」は音楽・演劇・会話のリズムを指す重要語でもあり、「間がいい」「間を取る」「間が持たない」など派生が多い。
用例
-
見所(けんじょ)の批判に、「せぬ所が面白き」といふことあり。これは、為手(して)の秘する所の安心(あんじん)なり。世阿弥『花鏡』「万能を一心に綰(つな)ぐ事」(1424/表記は本教材で整えた)
日本語の「間」が何であるかを定義した文章である。観客が面白がるのは舞っている所ではなく「せぬ所」だと世阿弥は言う。ただしそれは休んでいる時間ではない。演者は内で心を切らさずにつないでいる — だから面白い。つまり「間」は空白ではなく、張りつめて保たれている時間だ。ここまで来ると「間が悪い」が何を言っているかが分かる — その保持に失敗した状態である。何もしていない時間の質が悪いのだ。
-
はしたなきもの。異人(ことひと)を呼ぶに、我ぞとてさし出でたる。物などとらするをりは、いとどなり。清少納言『枕草子』「はしたなきもの」の段(1000頃)
①きまりが悪いの最も古い記述の一つ。161 で同じ書の「うつくしきもの」を引いたが、清少納言の「ものづくし」は感情語彙の原型の目録でもある。ここで起きているのはこうだ — 他の人を呼んだのに、自分だと思って出て行ってしまった。注意したいのは、誰も自分を責めていないことである。悪いことは何も起きていない。ただ半拍ずれただけで居場所がなくなる。「間が悪い」が「悪い」と言いながら道徳の語ではないのはこのためだ。
- 謝ろうとした瞬間に相手が笑いだして、間が悪かった。
①の典型。誰も悪くない。謝ろうとした側にも笑った側にも落ち度はない。起きているのはずれだけである。責任の所在を問わないまま気まずさだけを取り出せる — これがこの語の使い勝手のよさだ。
- ×遅刻したうえに嘘をついたので間が悪い。
落ち度があるならこの語ではない。自分に非がある気まずさは「後ろめたい」「面目ない」である。間が悪いが引き受けるのは拍子のずれであって責任ではない。「悪い」という評価語を含みながら道徳的評価を含まないという珍しい語だと押さえておきたい。
作品での用例
父がアメリカにいる「彼」は、小学校一年生の時、祖父からアメリカに行くかどうか聞かれる。
「大学校を出たらお前もアメリカへ行くのかね。」 「行くさ。」 「若しお父さんが帰って来てしまったら?」 「それでも行くよ。」 そんな気はしなかったが、間が悪かったので彼はそう云った。
出典 牧野信一『地球儀』
派生形
- 間がいい対義の形が存在するのが重要である。ただし「間がいい」は②の意味しか持たない — 「運がいい・折がいい」だけで、①に対応する「きまりがいい」はない。気まずさには反対語がないのだ。否定的な感情語のほうが目が細かいという一般的傾向が、ここにも出ている。
- 間合い[0]「間」を距離として取り出した語。剣術・武道の用語から日常語になった。「間合いを詰める」「間合いを外す」と操作の対象になる点が「間が悪い」と対照的で、こちらは技術の語である。同じ「間」が、制御できる側から見れば間合い、制御に失敗した側から見れば間の悪さになる。
- 間延び[0]「間」が長すぎる状態。「間が悪い」がずれを言うのに対し、これは過剰を言う。「間延びした話」は内容が悪いのではなく張りが失われている — ふたたび世阿弥の「せぬ所」を心でつなぐという条件が効いている。間は長さの問題ではなく緊張の問題である。
コロケーション
- 間が悪いことに副詞句の型②の代表形。文頭に置いて出来事の側の不運を告げる。重要なのはこの形では話し手の心情を言っていない点だ。「あいにく」「折悪しく」と交換でき、①の気まずさは消える。同じ語が、文中の位置を変えるだけで心情の語から状況の語へ移る — 統語が意味を選ぶ好例である。
- 間が悪そうに様態の形①専用。共起する動作は頭をかく・笑ってごまかす・目をそらす・鼻の頭を触ると、いずれも意味のない手持ちぶさたの動きである。なぜか。間が悪いとは「何をすべきか決まらない時間」だからだ。空いた時間を埋めるためだけの動作が出る。世阿弥の言う「せぬ所」を保てなかった姿がそのままここにある。
- 間が悪い思いをする経験の形「思いをする」は自分では選べない経験を受け取る型である(つらい思い・恥ずかしい思い)。「間が悪くする」とは言えない。ずれは起こすものではなく起きるもので、当事者はつねに受け身だ。文型がこの語の無責任さを保証している。
- 間が持たない「間」の一族「間がいい」「間を取る」「間合い」「間延び」「間抜け」 — 「間」の一族はどれも時間の長さと空気の張りを同時に言う。日本語の「間」は空間と時間を分けないのである(「間」は部屋でもあり拍でもある)。この未分化こそが芸能語彙の土台で、「間が悪い」はその巨大な語族の末端につながっている。
格中書き言葉・会話の両方で使える。
類語と差
- きまりが悪い恥ずかしく落ち着かない①と同義。より日常的。
- ばつが悪い気まずい①と同義。会話で最も多い。
- 折悪しくちょうど都合の悪い時に②の副詞形。硬い言い方。
- 運が悪いめぐりあわせが悪い結果の話。間が悪いはタイミングの話。
ENawkward / ill-timed
ZH尴尬(気まずい, gāngà)
コラム ── 島崎藤村
島崎藤村は雑誌『文学界』に参加し、詩集『若菜集』を発表したが、その後は小説に転じた。『家』という作品は、『破戒』『春』に続く長編小説第三作で、明治四十三・四十四年に、新聞・雑誌に連載されたものである。当時は自然主義文学が評論を中心に全盛期を迎えていたが、それに引きずられるようにして、藤村や田山花袋などの小説にも見るべきものが出てきた頃であった。
『家』は、二つの旧家にスポットライトをあて、すべてのことを家の中に視点を置いて眺める形で書かれている。この点で、家父長制下にある家の現実を深くえぐりとった作品だ。また、二つの旧家のモデルになったのは、信州浅間の島崎家と、長姉園子が嫁いだ木曽福島の高瀬家。藤村の血縁者である両家の人々の多くはこの小説に実際に登場し、三吉という登場人物は藤村自身がモデルである。
ちなみに、自然主義文学の代表作として、藤村の『家』を挙げる評論家もいる。
コラム ── 谷崎潤一郎
谷崎潤一郎は、島崎藤村などの自然主義文学と対立する立場である、耽美派作家として出発した。しかし、二つの文学潮流を並べて比較すると、意外な類似性も見つかる。たとえば、藤村の『破戒』が当時の封建社会の下での部落問題に対する反抗意識を萌芽的に内在させ、その後のプロレタリア文学の布石となったように、谷崎の『刺青』『痴人の愛』などの作品におけるエロスや官能への傾斜は、その後の日本的なモダニズムを用意したのである。
また、随筆『陰翳礼讃』においては、過度な明るさを忌避する日本的な美のありようを追求するうちに、今日の節電効果、省エネ対策などエコロジー的な発想を喚起させるとも言えよう。
さらに晩年の傑作『細雪』は、古典的な美への傾斜を見せた退廃的な作品として、軍部によって発禁処分とされた。プロレタリア文学とは異なるが、消極的ながらも、結果的にはもう一つの抵抗文学たり得たのである。
確認テスト24
問 1次の空欄に当てはまる語を、あとの①〜⑥からそれぞれ一つずつ選べ(同じものは二度使ってはならない)。なお、空欄には活用させて入るものもある。
- ア 思いを寄せている人が手の届かないところにいる時は、何とも[ ]ものだ。
- イ 読書中の小説で、主人公の性格が自分と似ていることに気づき、[ ]気がした。
- ウ いつもはひょうきんな彼が、皆の前で話をする時は急に[ ]顔になるのが、何ともおかしい。
- エ その程度の勉強量で「猛勉強」などと言うなんて、[ ]にもほどがある。他の人は君の二倍は勉強しているよ。
- オ 通学途中で気になっていた、名前も知らない彼女に思い切って声をかけたら、あからさまに[ ]顔をされてしまった。
- カ 今日は一人でいたいのに、しきりに携帯電話にメッセージが届く。こんな時、いつもは便利な携帯電話が[ ]てたまらない。
- ①懐かしい
- ②しかつめらしい
- ③いぶかしい
- ④片腹痛い
- ⑤うとましい
- ⑥やるせない
正解と解説
ア=⑥ / イ=① / ウ=② / エ=④ / オ=③ / カ=⑤
イ:「懐かしい」には〈心引かれる〉という意味もある。
オ:「いぶかしい」の動詞形は「いぶかる(訝る)」で、〈疑わしく思う・不審に思う〉の意。
問 2次の空欄に当てはまる語を、あとの①〜⑥からそれぞれ一つずつ選べ(同じものは二度使ってはならない)。なお、空欄には活用させて入るものもある。
- ア 人前で漢字の読みの間違いを指摘されると、[ ]思いをすることになるので、自信がない時は辞書で調べよう。
- イ 「ラクして痩せられる」や「簡単に成績が上がる」などの広告を見たら、まず[ ]と思わなければならない。
- ウ 自分の責任を他人に押しつけて知らん顔をしているなんて、[ ]ことだ。
- エ 皆の前で発表した時のことは、とても緊張していて記憶が[ ]。
- オ いつもは男勝りな彼女が、好意を寄せている彼の前では急に[ ]なる。
- カ 君たち二人の問題に[ ]ことを言うようだが、一人の友人の忠告として聞いてほしい。
- ①しおらしい
- ②あさましい
- ③うさんくさい
- ④さしでがましい
- ⑤おぼつかない
- ⑥間が悪い
正解と解説
ア=⑥ / イ=③ / ウ=② / エ=⑤ / オ=① / カ=④
ア:この文では〈①きまりが悪い〉の意。
エ:この文では、〈①はっきりしない〉の意味。
自称できるかどうかが、語の所属を教える